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有名な「一炊の夢」、あるいは「邯鄲の夢」という故事がある。科挙に勇んで挑戦しようとする若者が、ふと呼び止められた老人の言葉にしたがって、ちょっと食事を待つ間に寝入ってしまい、自分の未来の姿をその夢に見る。ところが起こされて見ると、その一生の全てが、単にご飯が炊けるだけの短い間のことであった、ということに気付き、人生の儚さ、この場合は、幻のような人生を達観して、そのまま故郷に戻る、という話である。また、別に胡蝶の夢、という話もある。夢に中で蝶になったのか、蝶の夢の中で人間で居るのか、という類の話である。これは現実に、私たちが生きているこの世界、現実、というものがどういうものなのか、ということを改めて考えさせられる話である。夢と現実。人間にその区別がいったいつけられるものだろうか。宗教の世界、あるいはスピリチュアルの世界の一部では、この世の中は幻に過ぎず、この世界を「現象界」という一方で、真の世界、という意味において「あの世」を「実在界」と言ったりする。この現象界、実在界、というのは、言葉こそ多少違っていても、いろいろな宗教、例えば仏教、GLA、生長の家、と言った、主に仏教系の宗教では共通している。つまり、この私たちが「現実」と読んでいる世界は、けっして「実在」ではなく、仮の世界、幻の世界であり、真の世界は「あちら」「あの世」「彼岸」「霊界」あるいは「There」にあるとする。つまり、この考え方は目新しいものではなく、近年のスピリチュアリズムの専売特許でもない。むしろ、大昔からある(あっただろう)シャーマニズムの世界にも共通している考え方かもしれない。しかし、この考え方は危険である。危険というのが語弊があるとしたら、「両刃の剣」と言い換えてもいい。「信じる」ということが要請される「あの世」を真の現実としてしまうと、ともすれば、「ニヒリズム」にはまる危険もあるし、それでは、「この世」の中の存在、あるいは「意味」というものが見えなくなる危険がある。ただ、この考えに立ってこそ見えてくる「この世」の意味、というのも確かにある。一炊の夢。 単に夢にすぎない、と思うか、夢だからこそ、と思うか、その人次第であろう。
2010.06.28
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すでに二度ほど日記に書いている「人類は『宗教』に勝てるか」。やっと「ほぼ」読み終わろうとしている。あと、10数ページだろう。(だったら、早く読み終われ、と言われそうだが、多少、一挙に最後まで行く前に、じっとここまでの余韻を楽しんでもいいではないか、と。)自分としての「感想」はまだまとめられていない。先日も書いたが、著者の、この本を書いた動機が、私にとっては非常に共感できるものだったので読み始めたわけだが、その宗教を見つめる視点にも、私と共通なものを感じて喜んだ、ということもすでに書いた。ほぼ読み終わってみての感想も変わることはなかった、とだけは言える。というよりも、私自身が考えていた「宗教」に対する考えをもっと深く掘り下げ、厚みを加えてくれた感じもある。表題に書いた「無神教」というのはこの筆者の造語だが、その意図するところは、ニーチェの「神は死んだ」とう言葉と同様、神の否定ではない。そうではなくて、「既存」の神と言われるものの定義を今一度捉えなおし、特定の、やれ私の神だ、彼の神だ、という区別を全てなくす、という意味での「無神」である。それは単なる現状の宗教に対する否定で終わるのではなく、その良さや必要性を認めつつ、新しい宗教観、いや、新しい「世界観」を打ちたてようとするもので、そこにおいて、私の考えと共振するのだ。多分、この本はもう一度読み直すことになるだろう。そして、おそらく、その感想というのは、その後で初めて少しまとまってくるかもしれない。それまでは、このぼんやりとした余韻を、そのまま味わっていたいと思う。
2010.06.28
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いつも書くことだが、教会というところは、いつ行っても本当にたくさんの考える材料を与えてくれる。今日のテーマの一つはゲッセマネの祈りと、もう一つは最大の戒めとしての「全身全霊をかけて神を愛し、また自分を愛するごとく隣人をも愛せよ」という言葉。ゲッセマネの祈りは、イエスが神に対し「あながた望むように」してください、と祈って全てを「神の御心のままに」とする態度について。また、隣人を愛せよ、に関しては、イエスを試そうとして議論を挑んだパリサイ人との間のやり取りでイエスがたとえを使って答えた「サマリア人」の話について。それぞれに、考えることはたくさんあり、聞いているそばからいろいろなことが頭を駆け巡るが、聖書に書かれている文章そのもの、というよりは、それは何を意味しているのか、という部分に集中する。ゲッセマネの園で祈っているイエスを待つ人々は、なぜ眠ってしまったのか。いや、眠ってしまった、というのは多分比ゆだろうから、それは一般の人の、あるいは信徒のどんな状態を指して言っているのか。また、サマリア人のたとえに関して言えば、隣人とは何か、との問いかけに答えたものだが、有名な話ではあるにしても「なぜ」イエスはこのような例えで話をしたのか。キリスト教には多くの素晴らしい言葉がある。曰く「神は、よい行いをした人も、そうで無い人も、公平に恵みを与える。」曰く「イエスは、全ての人間の罪をその身に背負って、十字架に掛かられた、そのために人類は、その罪から解放されたのだ」曰く「神はその一人子を十字架に犠牲にしてまで人間を愛してくださっている」 そのとおり、これらは素晴らしい言葉だ。しかし、その後に必ず聞かれる「神は、イエスを信じるもの全ての人に永遠の恵みと平安をお与えになります」どうして、こうなってしまうんだろう?この言葉が、この2000年にわたって人類を戦争へと駆り立ててきたのに。
2010.06.28
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ちょっと前に「時間」について書いたことがある。たまたま「タイムトラベル」の話がニュースになった時に書いたもの。 ⇒ これですその時に、一度「時間」について書いておきたい、と書いたのだが、未だに書いていない。書けない、というのではなく、その前にいろいろと勉強したいと思ったからだ。今「時間」に関する本を2冊読んでいる。一冊は「時間を哲学する」、もう一冊は「時間はどこで生まれるか」前者はどちらかと言うと書名のとおり哲学書、後者は、それに対して哲学とは切り離されてはいないが、どちらかというと自然科学の方から今一度「時間」というものを捉えなおそう、というもの。この本にもあるように、この「時間」というものは、人間にとってはだんだん哲学の対象から科学の対象になってきている。昔は、音、色、温度など、これらも哲学の対象だった時代がある。「音」とは何か、「色」とは何か、「熱さ」(あるいは「暑さ」「温度」)とは何か・・・・・今では、これらが何であるのか、科学的な説明がきちんと出来る。つまり、音は空気やある媒体の振動を、人間の耳で聞いてその振動を鼓膜が捉え、信号を脳に伝えてそれを脳が解釈したもの、色も同様に、ある振動数を持つ光を人間の網膜が捉え(受信し)それを脳に伝えて、脳がそれを認識したもの、温度も同様に人間の感覚をもとに、それを計測する手段として編み出した温度計で測れるものだが、それ自体は原子や分子のランダムな運動エネルギーをやはり感覚器官捉えた上で脳に伝え、それを脳が解釈したものである。つまり、これらは、人間の感覚と、それらの「現象」をどう脳が解釈するか、ということと密接に関係している。もちろん、出発点はそこだとしても、その現象自体は、人間を必要とはしていない。ただ、それを「音」「色」「熱さ」と認識するのは、人間だ、ということ。これらの「現象」が、こう科学的に解明されてくると、それはもはや哲学の対象ではなくなる。では、「時間」はどうだろうか。「時間」はやはり私たちの感覚に基づくものではあるし、それを計測するための時計というものもあるのだが、それ自身、いったい何なのか、ということに関してはまだ分かっていない。だからこそそれが未だに哲学の対象足りうるのだが、その状況に対して、徐々に科学は光を当て始め、時間がなぜ存在するのか、というところまではせまっている。ただ、まだまだその「正体」を完全に把握するところまでは行っていない。上に上げた「色」とか「熱さ」との比較で言えば、「時間」というものが人間の感覚とどういう関係にあるのか、という点についてもはっきりしていない。もし、この「時間」というものが、過去における「色」や「温度」と同じように、科学的な説明ができた暁には、たぶん、人間の考え方そのものに決定的な影響を与えるだろう。その影響というのは、色や温度が科学的に説明されたときにもあっただろう影響をはるかにしのぐ大きなものになるだろう、ということは想像に難くない。たぶん、それは「考え方」の変革に留まらず、「生き方」を変えるほどの影響を持つだろう。
2010.06.27
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今日のニュースで、「人間がPCウィルスに感染!」という見出しのニュースを見て仰天。そんなあ!ありえない!!と思って見てみると、本当なんですねえ、これ。⇒ これです http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100623-00000305-giz-entまあ、確かに有機体としての人間に感染した、というわけではないのですが、現実に体の一部となっている埋め込み機器が、こういったウィルスに感染するということは有り得ることだし、今回の実験でも、それがきわめて深刻な影響を与えることが確認されてしまた・・・う~ん、恐ろしい時代になったものです。医学の進歩の恐ろしさとしては、一番取り上げられるのは遺伝子改造だったり、クローンだったり、ES細胞だったりするのが常だが、こういった人体のサイボーグ化・機械化に伴うリスクは考えてもしませんでした。ここまで来ると、人間の倫理が本当にしっかりしていないと、とんでもないことが現実になる危険がありますね。
2010.06.24
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たとえば山に登る場合でも、なだらかな斜面を登る人もいれば、急峻な崖を登攀する人もいる。人それぞれが、その人の体力と装備と、はたまたその登山の目的に照らして、自分の好きなルートで登る。確かに、頂上へ到達するには一番早い道というものもあるだろうけれど、その道が全ての人にとって最良のルートと断定する理由はない。もしかしたら、苦しくても、できるだけ早く登り詰めることに喜びを感じる人も居るかもしれないが、反対に、登ること自体を楽しんだり、道々景色を眺めることをその第一目的としている人もいるかもしれない。頂上に立ったときに、下から登ってくる人を見ていると、ある人は最短ルートを登ってくるのが見えるかもしれないが、中には、多少後戻りしてしまうような道に入って行っている人も見えるかもしれない。でも、いずれにしても皆頂上を目指して登っているのだから、どれが良くて、どれが悪いか、などはその人の価値判断だろう。それを、こちらから登らなければダメなんだ、という人が中にはいる。山と言うのはこうやって登る「べき」だ。それ以外の登り方は『邪道』だ、と言わんばかりに・・・・特に、グループで登ってきた人の中で、どちらのルートをとった方がいいか、について意見が対立した場合は、特に、そうだ。「皆で一緒に登ろう!」と言って登ってきたのだから、その合意を優先したい人と、合意はしたけれども、やはり自分としてはこちらから登った方がよさそうだ、と思うのに、皆が賛成してくれないから、それならそれで、自分だけそちらの道を行くんだ、という人が後を絶たない。そのうち、望遠鏡を持ってきた人がいて、それで眺めては、初めの予定ルートだと、時間が掛かりすぎる、こちらの道の方が安全で早いはずだ、と言い出す人も出てくる。しかし、それでお互いに喧嘩をして、なんの得があるだろう。皆、山登りを楽しみに来ているんじゃなかったのか。
2010.06.23
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やっと「人間釈迦」第4巻を読了。合わせて、「叡智の海」 アーヴィン・ラズロー「人類は『宗教』に勝てるか」 町田宗風「スピリチュアルワールド見聞記 」植木不等式「マクモニーグルが語るリモート・ヴューイングの世界」 植田睦子「BASHAR(バシャール) 2006 バシャールが語る魂のブループリント 」ダリル・アンカ「キリスト教は邪教です! 現代語訳『アンチクリスト』」 ニーチェ「 生物と無生物のあいだ 」 福岡伸一などを平行して読んでいるので、遅々として進まなかった。ついでに、宮部みゆきの「楽園」まで読みそうになり、ちょっと考え直して手を引っ込めた。さて、人間釈迦。先日、半分読んだところで感想を書いたが、読み終わってみると、この第4巻が一番面白かったような気がする。たぶん、それはこの第4巻に出てくる釈迦(シッダールタ)が一番人間くさく描かれているせいもあるだろうし、また、単なる「悟り」の内容が書かれていた前巻までと違って、反対者や一般人、それに出家希望者、女性など、さまざまな人との対話が中心にあり、その都度、臨機応変に語られる「苦からの解脱」に関する言葉がより具体的になってきているためだろう、と思う。一番初めの所感で書いた「大して新しい内容がない」ということに対して、この4巻目は、徹底して「実践」の大切さを説く。上記にずらずらと挙げた本たち。読んでいるだけでも楽しいし、自分の視野を広げてくれる。しかし、確かに、「実践」という部分は、私にとっては最大の課題だろう、ということは自分でもわかっているつもりである。考えること、行動すること、それで初めて知識から知恵へ、知恵から智慧へ、と醸成されてくるのだろう。この「人間釈迦」という本。世間ではほとんど知られていない。 それは著者が無名の会社経営者、いやそれよりもGLAの創始者として、新興宗教の教祖みたいな見られ方をしているために、逆に色眼鏡で見られているのではないか、と思うが、そういった先入観念を抜きにして読むと、非常にいい本である。仏教に関する本はたくさんあるけれども、この本ほど分かりやすく「四苦八苦」からの解脱の道としての「八正道」を分かりやすく書いている本は他にないのではないか、と思える。この本をきっかけにして、この高橋信次という人の書いた他の本も出来たら読んでみたいと思うようになった。ただ、ほとんど廃刊されているので、古書を見つける必要があるのが難点だが。
2010.06.22
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昨日、奇しくも「父の日」でしたが、父が前に書いた有料介護付老人ホームに入居しました。前日、知り合いの便利屋さんに頼んで机などの身の回りのものを一通り運んでおいてもらい、当日は身一つで引越し。私はアメリカに居るので、引越し直前に父から電話。「介護も看護もしっかりしている施設のようだから、これで俺のことは安心していていいよ。」と。父としては、もうたびたびは自分の家に戻れない、という覚悟があってのことでしょうが(酸素吸入器がないとダメなので、移動用では4~5時間しかもたない。したがって、泊りがけで自宅に戻る、ということが出来ない)、元気な声の裏に、若干の寂しさを感じたのは私の思い過ごしでしょうか。ともあれ、今後どれだけの期間、この施設にいることになるかわかりませんが、施設の人が親身になって、入居者のことをお世話してくることを願っています。もう一つ心配なのは、母の方。引越しをお願いした便利屋さんは私の知り合いなので、引越し前と引越し後に写真までつけて報告してくれました。 その中で、「お母様がさびしそうでしたよ。」というのがあった。肉体的には、父の看護から解放されて楽になるだろうけれど、何十年も連れ添った夫がこういった施設に入ることに、安心と寂しさ、それに、今後への別な不安というものがあるのだと思います。父のほうはある程度安心できるようになりましたが、今度は母の方がやや心配です。まだ82歳とは言え、そろそろ目にも来ているようなので、今後はそちらの方も考えなければならないかもしれません。願わくば、しばらくして落ち着いたら、出来るだけ早くまた日本へ出張を兼ねて顔を出したいと思っています。
2010.06.21
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今日のニュースで、経済的な原因で治療を途中でやめた患者さんがいる医療機関は全体の4割近くに上ることが出ていた。(これ↓)今日のニュースまた、同じ理由で、投薬や治療・手術などを患者のほうから断られたり、変更せざるを得なかったケースがある医療機関も過半数にせまる。日本はまだまだアメリカなどに比べると保険が整備されているし、保険を考えなくとも、医療費そのものが安い。アメリカなどは保険も高いので保険にすら入っていない人も多く、また治療費が高いので、医者にはかからない、いや掛かれないという人も多い。こういった問題を過去、日記に書いたことがあるが(これ )この医療に恵まれている日本でさえ、この状況である。かつて、この状況を皮肉って、「命がお金で買えるなら」というショートショートを書いたことがある。(フリーページ)これは一種のブラックユーモアだが、こんなことが現実にも起きてくるのかな、っと。 「命がお金で買えるなら」
2010.06.18
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昨日から人間釈迦、一気に3巻を終了し、今4巻目の半分ほどのところに居ます。この著者の高橋信次という人は、自分でも若い頃から40歳までしか生きられない、と知っていたようで、奥さまと結婚するときにも、40歳以降は責任持てないが、それでも良いか、と聞いたそうです。その予言(?)どおり、40歳で亡くなりました。で、この人間釈迦4部作のこの4巻目が彼の最後の著作となったようです。いろいろな書評には、シッダールタ(仏陀)が入滅するまで描いて欲しかった、という声もあるのですが、私には、死期を知っていたはずの人だったら、この4部作はこれで彼としては完結したのではないか、と思っている。結局、シャキ族の王子として生まれたシッダールタが、出家し、悟りを得、説法し、法を広め、12年間も離れた父母の元に戻る、というところまでが描かれています。この4巻目の最後が、この帰郷する場面です。まだ読んでいませんが、ここは私も一番興味があるところです。彼は、出家することにより、ある意味、父の期待を裏切り、妻に悲しみ・苦しみを与え、自分の子供にも会わずに、いわば片親の境遇に追いやったわけです。それを「仏法」を極めることと、それを広めることによって、世の中の人々を救う、という大儀で、正統化しているわけですが、本当にそれでいいのか、という点は、日々、家族という社会生活を営む私たちにも大きく関係するところです。大儀のために、小我を捨てる、これは自分個人のことですから、構わないとして、父母の期待を裏切り、妻や子を捨てる、ということ自体は、普通では決して「良いこと」ではないからです。これは仏教の「出家」と「在家」のあり方にも関係してきます。ある意味、出家よりも、この「在家」こそ、本当のあり方である、しかし、だからこそ、在家の方が出家よりも、何倍も困難を伴う、というのが私の考えです。さて、最後はどうなるんでしょう。
2010.06.17
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このブログを読んでいる人はとうにご存知のように、自分は、どういうきっかけかはわからないが、今でも信仰、宗教、スピリチュアリズムなどに関心が強く、その関連の本などをよく読んでいる。しかし、その私も日本出身である。アメリカに限らず、世界的に見たら、日本のような国は珍しい。その国民の大部分がなんら特定の宗教に属していない、という点で。日本は、ともすると無宗教の人が多いような言われ方をするが、でも、その根にあるのは自然崇拝ではないか、と思う。宗教とか信仰とかは、特にxx教や〇〇宗、△△協会、などに入っている必要はさらさらないし、それがスピリチュアルだったらなおさら、そんな形はないに等しい。そして、スピリチュアルな考えがだんだん日本に定着してきている気がするが、その大半を女性が担っている気がしてならない。これは、今までの父権的宗教から、母権的は文化へ移行しようという前兆ではないか、と思っているがどうだろうか?これが世界的な傾向だとしたら、もしかしたら、日本はその変化の最右翼に居るのかもしれない、などと思ったりしている。西暦2012年に何がおこるか、なんていう話題があるが、そんな一時的な変化よりも、今着々と進行している大きな変化がなんであるのか、それがどこへ向かっているのか、もっと言えば私が生きているうちにその概要でもわかるのだろうか。いずれにしても、今後の10年、20年というのは、人類にとっては非常に重要な時期 - それが良い意味でも悪い意味でも -になるような気がしてならない。
2010.06.16
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同時に何冊かの本を読み散らかしているので、なかなか一冊の本が読み終わりません。やっと、この人間釈迦4部作の第3巻に入りました。読んでゆくにしたがって、これはなかなかいい本だな、と思うようになっています。書かれている内容が仏教としてどうなのか、ということについては、私自身が仏教に詳しいわけでもないので、依然としてよくわかりませんが、シッダールタの出家と悟り、そこから続く説法の数々が描かれているわけですが、まず言える事は、彼の思想というものが、単なる知識であってはなにもならない、という方針で貫かれていることでしょうか。前の二つの日記でも書いたように、その内容そのものは、私の描く世界観とそれほどずれているわけでもなく、逆に言えば、目新しいこともあまりないのですが、こういったことを自分ひとりが瞑想を通して「悟る」ということが出来たのだとしたら、それはやはり「すごい」ことだろうと思うわけです。この著者の高橋信次氏にしてからが、仏教を学んだことはない、と言っていますし、それでこの本を書き上げている事実は、氏の言うように、自然と氏の心の中、あるいは頭の中に次々に現れてくることを書きとめただけ、ということを証明しているのか、もしくはそれが嘘であれば、どうしてこれだけの内容が書けたのか、という理由が見当たらない、ということになります。この高橋信次氏の著書はこれが初めてですが、すこし興味が出てきました。こういったインスピレーションというか、瞑想を通しての啓示もそうですし、自分の死期を大分若いうちから知っていて、実際にその歳にこの世を去ったことなどを考え合わせると、そこにやはり何らかの力が働いていたのでしょう。本書に書かれている内容については、一言も二言も感想がありますが、それはしばらく置いておいて、素直に、一つの伝記小説といった形で、全4巻をまずは読んでみようと思います。 人間・釈迦 1 新装改訂版 (心と人間シリーズ) 人間・釈迦 (2) (心と人間シリーズ)
2010.06.15
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昨日書いた、娘のGHPに行ってきました。朝6時50分に出て、今夕方7時50分。13時間です。で、この13時間のうち、かれこれ9時間が車の運転。往復8時間半ほどと、現地で買出しや昼食などで30分ぐらい・・・走行距離約900km(560マイル)・・・疲れました。言うまでもなく、もう若くない・・・それに、慢性の腰痛が・・・・しかし、このGHP、ペアレントミーティングにも参加しましたが、本当にいろいろな方々の努力によって続いているプログラムで、48年間も続いているこういったプログラムは全米でも唯一のものらしいです。過去参加した人によると、生涯忘れることができないほど、印象深い、有意義な一ヶ月半になっているようで、娘もこの6週間、思いっきり、遊びに、勉強に、交友に、この田舎の町にある大学のキャンパスで楽しんできて欲しいものです。宿泊は大学の寮ですが、なかなかいい施設でした。二人一部屋x2が一つのユニットになっており、トイレ、風呂が共用。娘の相部屋の相手は、化学での参加らしく、高校2年生にして大学の課程を履修しているとのこと。全部で690名の、ジョージア州全域から集められた俊英たち。娘もいい友達をたくさん作ってきて欲しいものです。
2010.06.14
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明日は、娘がValdosta State Universityで催されるジョージア州のガバナーズ・オーナーズ・プログラム(GHP)に参加する。このプログラムは、The Governor's Honors Program is a six-week summer instructional program designed to provide intellectually gifted and artistically talented high school students challenging and enriching educational opportunities not usually available during the regular school year. Activities are designed to provide each participant with opportunities to acquire the skills, knowledge and attitudes to become independent, life-long learners.というもの。(笑)まあ、簡単に言えば、州内の高校に在籍する生徒の中から、いろいろな学科や音楽、絵画などの芸術面で、すぐれた2年生、3年生を選抜して、6週間にわたって泊りがけのプログラムに参加させるもの。毎年行われているが、今年、娘がバイオリンでオーディションに参加し、なんの間違いか合格してしまった。当然いろいろな楽器ごとに選抜されるのだが、バイオリンは応募者の数も多く狭き門のひとつ。まさか合格するとは思わなかったが、州で10名の中に運よく入ることができた。普段あまり練習していないのに、よくもまあ、というのが素直な感想だが、せっかく州の費用で、こういった特別プログラムに参加させてもらえるのはなんともありがたい。明日は、Valdostaまで、片道265マイル(425キロ)、車で飛ばしても片道3時間半はかかるだろう。息子が使っていた一人用の冷蔵庫やらランプやら、それに、飲み物やその他もろもろを今車に積み終わった。明日は、朝6時半には出発し、12時のレジストレーションに間に合わせなければならない。その後、2時半からは親に対する説明があるそうなので、それに参加した後、また3時間半のドライブで425キロの道を帰ってこなければならない。う~ん、疲れそう。まあ、いずれにしても、これから6週間は、静かな暮らしになりそうです^^;
2010.06.13
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今日は、自主的に仕事をさぼって「人間・釈迦」という本を読んでいました。まあ、本のことはともかく、午後になって3時ごろ私の家の一軒を借りているテナントさんから電話。いわく、「クーラーを入れたんだけれど、全然きかない!!」で、仕方がなく、いつも利用している業者に電話して直しに来てもらいました。4時から6時の間に来る、との話だったので、すぐにその家に駆けつけ待つこと2時間。すると、7時ぐらいになりそう、とのお電話。7時ちょっと前に業者が来て、いろいろとチェックしたところ、案の定、冷却ガスの漏れによる、ガス不足。直すついでに年間保守契約をしました。しめて$360。午前中には、このサブデビジョン(団地)の自治会費の支払い($267/半年)が有ったので、今日だけでこの賃貸一件に関して合計$620強の出費。う~ん、痛い・・・・・・でも、余りにも業者を待っている時間が長かったんで、その家に居る4匹の犬たちとも仲良くなり、おまけに、時間が遅くなったんで、夕食を一緒に、ということで、今までご馳走になってきました^^;テナントの家に上がりこんで、一緒に夕食をご馳走になる大家なんてそうはいないだろうな、と思いながら、ビールを飲みながら歓談を2時間ほど。テナントさん夫婦とそのご姉妹2人との食事でしたが、初めていろいろな話ができて、ずっと親密な関係を築けました。これも、エアコンの不調があったからこそ、ですね。出費は痛かったけど、テナントさんとの人間関係がぐっとよくなり、これはこれでよかったんではないか、と、今は思います。
2010.06.12
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アメリカは、さすがに自動車の国なので(これは自動車が多い、ということではなく、自動車がないとどこにもいけない、という意味で)、子供も早いところでは15歳から運転免許がとれる。我が家でも、息子が17歳で取り、今後は娘がそれより一年早く16歳で免許取得に挑んだ。今日がその試験日。交通法規のテストは、以前限定免許を取るときに受けているので、今日は実技のみ。この日のために、日夜練習し・・・と言えればいいのだが、昨日と一昨日、一時間ぐらい、縦列駐車やら車庫入れ、バックなどの練習をしただけ。大丈夫かいなあ、と思ってみていたら、出だしから方向指示器を出さず減点されている。しかし、その後は、縦列駐車、車庫入れ、と無難にこなし、路上テストに出て行った。他の人より時間がかかったので心配していたが、とくになんの問題もなかったようで、まずまずの点数で一発合格。と、いうことで、我が家はここで、一家4人がすべて運転免許を持つに至った。今までは、旅行というと、私一人の長距離運転が必至だった。(妻はほとんど運転しない)でもこれからは、だれかの運転で、寝ながら旅行できるのかな?
2010.06.11
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科学と宗教を対比して、その違いなり、親和性なりを書いた本はいくらでもあるでしょう。物質の時代から精神の時代へ、などと言われることもあったり、物質万能主義の行き過ぎが現在の人類の危機的状況を招いた、との反省から、より「見えないもの」に対して意識を向けていくことが必要だ、とか、人間の精神性の向上を図らなければいけない、とか、いろいろ言われています。ただ、一度科学の科学たる所以を認識して、その有用性を確認している現代人に、昔のままの「精神性」とか「宗教性」とかに回帰することを求めるのはおそらく無理だと思います。そういった科学の科学たる部分を捨てずに、いやそれを以って、あらたな精神性とか宗教性を考えていかなければならないんだろうな、と思います。そんな観点で書かれている本の一つが、以前に読んだ 生ける宇宙―科学による万物の一貫性の発見 であったり、今読んでいる 叡知の海・宇宙―物質・生命・意識の統合理論をもとめて などの本であったりします。科学は、古くは哲学の一つであったわけですが、宗教は宗教として、独自に発展し、宗教哲学というものがあるにしても、一般に宗教という場合は、哲学としての宗教ではありません。で、そういった普通の意味で、科学と宗教の、私にとっての一番の違いはなにか、と言うと科学 ⇒ その定義からして、批判と批評、それに評価を幾重にも受けて完成されるもの宗教 ⇒ ともすれば、批判も批評も受け入れず、逆にそれを封じ込めようとする力が働き勝ちであるものという点である。科学的思考と言った場合に、それは再現性とか論理性とかいろいろあるだろうけれど、根本のところでは、誰もが自由にそれを批判しうるし、それに耐えてきたものだけが生き残り、そうでないものは淘汰される、といった科学の科学たるあり方がその思考を支えている。一度、こういった科学的思考になじんだものにとって、無批判になにかを受け入れることは耐え難いことであるし、そうしてはいけないものと教育されてきている。一方での「宗教」というのは、全てがというわけではなくとも、その大部分においては「信じる」ことが、まず有りき、という面がある。そこに「疑い」「批判」といったものが入り込んだときには、正統だとか異端だとか、邪教とか、真の、偽の、とか言った議論になり易い。そこには、科学に見られるような、そういった「自由な批判・批評」を許容する風土は、残念ながら持っていない。この一点が、私が考える「宗教」の最大の問題なのではないか、と本を読みながら思ったしだいです。
2010.06.10
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今日は仕事に出かける前に、車の修理業者が自宅まで来て、車の修理をやってもらった。修理というよりも部品交換なのですが、交換したのはフロントガラス。 一月ごろにちょっとヒビが入ったと思ったら、だんだんとそれが伸びてきて、今ではフロントガラスの半分ぐらいまで達している。この車を売ることになったので、買うことになった人に見せたのだが、このフロントガラスは、買取の前に直して欲しい、ということになり、それを含めて売却交渉が成立。なので、直さなければならないので、早速手配したら、家まで交換に来てくれるという。車のフロントガラスをまるまる交換して、それも自宅まで来て作業してくれる、というので、部品代と手間賃で結構取られるのかな、と戦々恐々としていたら、なんと261ドル(約2万4千円)。意外と安い。まあ、レクサスの純正品だと2倍とか3倍とかするらしいが、普通のアフターマーケットの互換品であれば、このぐらいで済むようだ。しかし、日本で、こんなことをやったら、とてもこんな費用ではできないのではないか、と思う。それに、アメリカの中古車市場。日本のそれとは全然違う。まだ走る車ならそれなりの値段で売れる。逆に言えば、日本の中古車の買取価格はむちゃくちゃに安すぎるんじゃないか、と思う。私の車など、27万キロも走っている1998年型の車ですが、それでも業者でさえ、$2700(約25万円)で引き取ってもらえる。今回は、個人に売るので、中間マージンがないため、約35万円で売れることになった。この楽天ブログでも、日本で車を買い替える人の話が時々載っているが、それを見ると走行6万キロで引き取り価格がウン万円(一桁)だったりする。こちらだったら、まだLow Mileと言ってもよく、買った値段の半分ぐらいで売れるかもしれない。(まあ、年式にもよるけれども)なんで日本の中古車下取りはそんなに安いのかな、だれか知っていたら教えて欲しい。そんなだったら、新車を買うよりも、中古車を買ったほうがはるかに「お買い得」だと思うのだが・・・
2010.06.09
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一昨日書いた「人類は『宗教』に勝てるか、という本の前書きは、「皆さんは、人類の最大の敵はなんだと考えているでしょうか」といった内容で始まる。当然「戦争」だとか、「環境破壊」だとか、いやいやその大元の原因を作っている人間の欲望こそが最大の「敵」だとか、いろいろあるでしょうが、著者はそれを「宗教」だとしてこの本を書き始める。元僧侶なのにキリスト神学を学び、宗教的生活にどっぷりつかりながら、人間にとっての信仰の恩恵をも肯定する著者があえてこのように「宗教は人類最大の敵」とすることに驚きながらも、著者のいわんとすることを追ってゆくとその背景が理解できてくる。はしょってしまえば、この著者の対宗教観というものは、驚くほど私自身のそれに近く、読んでいて、元僧侶にして神学を大学で勉強し、比較宗教学を講じる大学教授で、これほど自分と同じような考え方を持っている人がいることを知って、ある意味うれしく思ったほどである。その端的な例が、たとえば、彼自身の子供たちに信仰あるいは宗教の持つ良い面を学んで欲しいと考え、彼らを教会に通わせていたが、ある日、その教会が「キリスト教以外の宗教は邪教だ」との考えを子供たちに教えていることをしり愕然とする。あるいは、日本の隠れキリシタンを題材に、大学でゼミをしていると、日系の女子学生が泣きながら、彼女の母がいくら話しても仏教を信仰し、毎朝仏壇を拝んでいる、このままでは彼女は地獄に落ちてしまうので、どうしたらよいか、と相談を受ける。根底には、全ての既存の宗教、特に「一神教」は、その成り立ちからして不可避的に「排他性」をもち、独善にはまることを避け得ない、ということをいろいろな例と資料を駆使して説明した上で、実際の「宗教」のそういった影の部分について、とことん突っ込んだ思索を進める。一方では、宗教の持つ、あるいは信仰がもたらす恩恵も、自らの体験を元に読者に訴えることも忘れない。ただ、「現在の」宗教のあり方がそのままであれば、その恩恵をも台無しにして有り余るほどのマイナス要素を持つ、というのが著者の立場であり、それは、私がいつもキリスト教に感じる「排他性」の問題と密接につながり、あえて著者はキリストの愛は常にサタンとか人間の罪と行った影の部分を前提とした二元的な愛である限り、限定的な愛にならざるを得ない、と断ずる。古くは、ユダヤ、イスラム、キリストの各宗教間の確執や、キリスト内部でのカソリックとプロテスタントの軋轢、またプロテスタンティズムの持つ、どうしようもない独善と排他性、たとえばルターの狂信的とも言えるユダヤ憎悪などを例に挙げながら、そのようなものを必然的に持たざるを得ない宗教がなぜに「愛」の宗教たりうるか、と疑問を呈し、同時に現在の世界の状況を、そういった宗教観あるいは宗教に根をもつイデオロギーの相克と見て分析してみせる。その分析のひとつひとつはいろいろと違った見方もあるだろうが、これを一つの見方ということで見てみると、そこにはそれなりの納得性も存在する。対比して、著者は、日本の古事記などに現れる自然崇拝系の考え方や、仏教の中で言われる人間と自然のかかわり方にも言及しながら、特に現在の世界の多数派を締める世界宗教の問題点を指摘しつつ、彼自身の立ち位置を、あるいは考えを書き綴っている。聞いたこともない著者であり、ふとタイトルに惹かれて読んだ本であったけれど、読んで良かったと思える本であった。早速、最近お近づきになったBook Off One Lineで、同著者の他の書籍、特に、この本が書かれた以降の最近の著作を探しにかかっている。
2010.06.07
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通算3回目、日本から帰ってから初めてのGLAの読書会に参加。読書会とは言いながら、今日は今まで読んできた(と言っても私が参加したのは最後の一回だけでしたが、一年かけて読んできたそうです)高橋佳子氏の著書「私が生まれてきた理由」のまとめを兼ねて、氏自身の2005年の講演会のビデオを見て、皆だ話し合うというものでした。内容についてのコメントは、見ていない人にとっては意味がないので割愛するとして、その話し合いを通じて感じたことはおよそ宗教や信仰とは関係ない「環境問題」について、でした。講演の冒頭、氏がさまざまなデータを示し、今人類が置かれている状況を総括したものがありました。その内容はというと、いわゆる地球の環境破壊に関するものがいかに人間の人口増加とエネルギー消費量の増大と関係しているか、というもので、つまりは今いろいろ話題になる地球温暖化や絶滅種の増加を示した上で、人間の「こころ」の変革を訴えるという筋書きです。先日、このブログでも「死にゆく地球」というタイトルでビデオを紹介しましたが、その中の内容とダブルものでした。前のビデオはさすがに宗教色はなく、各国のさまざまな取り組みを紹介し、今なにかしなければ、地球は死に至るということを人類の最大の課題としてとらえたものでした。それに対して、今日のビデオは、その根底にある人間の「欲」「業」というものを見据えて、それをいかに変革してゆくか、というところにポイントがあったと思われます。「思われます」と書いたのは、まだビデオの前半部分しか見ておらず、肝心のこのポイントについてはなんの具体策も提示されていないからです。次回の後半に期待したいところですが、その一方で、現実的な観点で、今自分になにができるのか、を考えさせられた時間でした。
2010.06.06
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いささか刺激的なタイトルですが、これはもちろん今読んでいる本のタイトルです。人類は「宗教」に勝てるか価格:1,124円(税込、送料別)あれ、なにか、今までとはリンク内容が変わりましたね!!とにかく、先般日本で仕入れてきた本の中の一冊ですが、著者は20年、禅宗の僧をした後にアメリカに留学、神学を学び、比較宗教学を学んだなかなか異色の経歴の持ち主です。僧になる前から神社におまいりし、友人とキリスト教の教会へも行っていろいろな体験をし、そして僧を辞したあとも、自身としては「宗教的な」生活をしているにもかかわらず、この本の「宗教を否定する」態度は、なかなか辛らつなものがあります。まだ全部読んだわけではありませんが、あとがきに著者が書いているように、「そんな自分が本書を書いてみたいと思ったのは、日本人が素晴らしい精神文化を持ちながら、その意味を十分に理解せず、宝の持ち腐れとなっていると感じているからです。海外生活が長かったからこそ、私は日本的なるものの中にある普遍性ということについて、しばしば思いをめぐらせるようになった」 著者が、「宗教への思い込みから、自分の生き方をずいぶん窮屈なものにしている人もいるかと思えば、反対に宗教的なものにまったく無関心のため、もう一つ人生に深みを見出せないでいる人もいる。」と考え、「そういう人たちにも、宗教とはいったいなんなのかと、もう一度、考え直してもらう気持ちがあった」という視点で書かれた本書は、幾分私の「宗教」に関するポジションと共通するものを感じている。読後にまた書く価値があれば、その感想などを書きたいと思う。
2010.06.06
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YouTubeでお小遣いが稼げるんでしょうか。今日、YouTubeから「「あなたの動画の収益受け取りにお申し込みください」というメールが来ました!!なんなんだ?と思ってみると、私の投稿した動画のひとつが、12000アクセスを超えているんですね。どこにその基準があるのかわかりませんが、あるアクセス数を超えると、こうやって「広告を貼り付けさせてもらえれば、あなたの収益になります」ということだそうです。知らなかった!! へ~、いったいいくらくれるのか知りませんが、ベターThan ナッシングでしょう。 早速申し込みました。しかし、これって、どういう仕組みでしょうか。そしてどのくらいもらえるんでしょうか?まあ、仕組みそのものは、アクセスが見込める動画に広告主をつけてYouTube自体が広告収入を上げ、投稿者にもその一部を還元して、より魅力的な動画を投稿してもらおう、ということだと思いますが。考えてみれば、あの膨大なVideo・動画をストレージして配信するだけでも相当な設備が必要ですし、YouTubeというもののビジネスモデル(どうやって収益を上げているのか)ということについてはあまり知らないのですが、この広告収入というのもその一部なんでしょう。よく見ると、自分が投稿した動画を見た人の分析が載っていて、私の動画の場合は、圧倒的に20代から30代の男性、それもカナダが1位、アメリカが2位ということで、北米からのアクセスが多いことがわかります。広告するにしても、このような視聴者のカテゴライズが出来ていれば、それだけ広告主に効果的な宣伝の場を提供できる、ということなのでしょう。まったくすごい時代になったものです。
2010.06.05
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昨日の日記で書いたお客様と終日ミーティングでした。結果、一日目はなんとかうまく行き、明日詳細を詰めることに。これを受注すると、少なくとも年内はうちの開発陣にとっても目一杯の開発になりそう。というか、すでに技術者が足りないのは目に見えていて、現在募集中ですが。完全な、新規商品というより新規ビジネスなのでやりがいがあります。さてこれから、このお客様を連れて食事に出かけます。なにせ営業ですので・・・^^;
2010.06.04
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明日は朝からお客様を向かえてのミーティング。いつもなら昼から出社ですが、アシスタントも秘書も、もちろんお茶汲みの女の子など居ないわが社では、朝から自分でコーヒー入れたり、ついでに朝食用にドーナッツなぞを買って、会議室に揃えておきます。こちらの会議って、なぜかこういった軽食を置いておく事が多いんですよね。明日のお客様はフィリピンから。アメリカにも会社があり、どちらの社長も兼任されているようですが、とにかく、もしこの仕事を受注したら、これだけで今年の仕事は終わりにしてもよいくらいの規模なんで、なんとか成功させたいところ。まあ、受注したら受注したで、それからが大変なんでしょうが、やることがはっきりしている仕事の方が、やはり営業のやってもやっても販売に結びつくかどうかわからない仕事よりも自分には向いている気がします。やることがはっきりしていれば、あとはそれを如何にうまくプロジェクトとして立ち上げ、軌道に乗せ、問題を先取りして破綻しないように管理してゆくか、いわゆるプロジェクトマネージメントになりますから、それだったら昔とった杵柄、なんとかなるでしょう。とにかく、明日は正念場。まずは朝早く起きなくては・・・
2010.06.03
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先日、外から見たら日本という国もなかなか捨てたものじゃない、という意味の日記を書いた。反面、外から見ると、ますますがっかりすることも多々ある。日本の政治などはその最たるものかもしれない。新聞記事の大部分がこの政治の記事だったばあい、読むのもいやになることしばしば。たとえば、昨日の新聞記事。「衆院は31日深夜の本会議で、民主党や国民新党などの賛成多数で郵政民営化路線を見直す郵政改革法案を可決した。野党は実質審議1日での採決強行に反発を一段と強めており、内閣不信任決議案や鳩山由紀夫首相の問責決議案の提出に向けた最終調整に入った。連立政権から離脱した社民党は同調する構えをみせている。 衆院が31日、断続的に開いた本会議では、まず自民、公明、共産、みんなの野党4党が提出した東祥三衆院経済産業委員長の解任決議案を与党の反対多数で否決した。続いて家畜伝染病、口蹄疫(こうていえき)対策の初動の遅れなどの責任を追及して野党4党が提出した赤松広隆農相の不信任決議案も否決した」これは、「郵政改革法案を可決」という見出しの記事なんですが、よく読むと内容は、1)郵政民営化を見直す「改革法案」が与党の強行採決により可決された2)野党は、内閣不信任決議案と鳩山首相の問責決議案の提出に向けて最終調整に入った3)野党4党が提出した衆院経済産業委員長の解任決議案と口蹄疫初動遅れを口実とした農相の不信任決議案も、与党の反対多数で否決されたという三つ。これらのどれが、日本という国を、あるいは日本の国民の生活をよくするためになんらかの効果を持つものなんでしょうか?一つでも、なにか「建設的な」内容があるでしょうか。税金で雇われている議員が、与党、野党ともに自分たちの選挙戦のことしか考えていないような、出しても結果は見えている「決議案」などを次々に出し、それを強行採決の繰り返しで可決しただの否決しただのを繰り返しているだけの国会。与党、野党、どちらがどう、ということではなく、この国の政治の質には本当にがっかりさせられます。国民は不幸ですね。せっかく新風を吹き込むことを期待していた民主党が、その実務能力に疑問を呈され、なお野党となった自民を初め、他の政党も単なる政争を繰り返すだけ・・。選挙には積極的に参加して、自分の一票を通して国の政治になんらかの権利を行使したい、と思っていても、それを投じる対象が見つからない。
2010.06.02
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