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人間の絆(基盤編) 人間の絆 高橋佳子著先日、日記に書いた「人間釈迦」を著した高橋信次氏の娘さんである高橋佳子氏の著書。GLA内では、GLAを創設した高橋信次氏と、この現在GLAを統括する高橋佳子氏の間の差異をもって、GLAから分離したり、袂を分かって別のグループを立ち上げている方々もいるようですが、確かに表現方法は変わっていても、両氏の目指すところは共通なのでは、と感じています。「人間釈迦」や他の高橋信次氏の著作が真正面から「神理」とか「法」というものを追求する立場で書かれているのに対し、高橋佳子氏の著書は、それを噛み砕いて、一足飛びにそこへ到達するのではなく、日常の生活の中で、何をどう実践していったら、結果として、高橋信次氏の言われていることに近づけるのか、という観点で書かれているような気がする。恐らく、ごく普通の人にとっては、このような生活の中での実践を具体的に記述している高橋佳子氏の方が理解が得やすいだろうが、一方で、非常に回りくどい方法というか、一部には若干こじつけ気味の部分があるようにも感じる。一部の人にとっては、このささやかな一部分の差異が受け入れられないのか、それとも、そんなものではなく、基本的な差異を感じ取っているためなのか、その辺はよく分からない。いずれにしても、GLAや高橋信次氏の娘、という肩書きを抜きにこの本を読んでみれば、ごく普通の(普通、というと語弊があるかもしれないが)スピリチュアル系の本としてすんなり読める内容ではある。一部には、仏教やキリスト教のいいとこ取りをして、という言われ方をすることもあるが、そのどこがいけないのだろうか。既存の宗教が、その限界を露呈していることとは、その宗教そのものを全否定することではない。逆に、数千年の人間の歴史の中で、いくたの偉人・賢人をもその中に含みこんでいった深さは、やはり大宗教の大宗教たる所以でもあるし、そこに、さまざまな智慧を学ぶことができることは確かだろう。この本は3巻からなっており、まだ一巻目を読み始めたばかりだが、意外と(予想よりは)すんなりとした内容になっていると感じる。先日書いた「実験」とも関連しているので、ここはじっくりと読んでみたい。
2010.07.30
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ふと娘が漏らした一言・・・ 「新しいバイオリンが要るかなあ・・・」正直、ギクッと・・・(笑)先日までの集中キャンプ前までは、今のバイオリンで十分、新しいのは要らない、と言っていたんだが。今のバイオリンでも、買ったとき(もう4年ぐらい前かな?)には、プロにでもならない限り、これで大学までは十分に使える、といわれるものを購入した。( この時の日記 ) したがって、決して安いものではない。バイオリンなどの弦楽器は特に、本当にピンきり。数万円のものもあれば、上はそれこそ何百万円、中には千万のオーダーのものもある。当然、好きでやっているので、親としては出来るだけよいものを使わせたい、という思いはあるが、そこはおのずと限界がある。今のものも、多少弾きづらさはあるようだが、音そのものはまあまあ。でもさすがに1万ドルを超えるようなものと比べると、やはり差が歴然としている。娘が成長した、ということでは喜ばしいことではあるが・・・・困った。困っても、ない袖は振れないし・・・^^;
2010.07.27
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材料の整理 1.環境 ☆ アメリカ在住になっためぐり合わせ ☆ 子供・家族 ☆ 「今」という時代 ☆ 会社 ☆ 出会い ☆ 仕事 ☆ 学校 ☆ 組織 ☆ 趣味 ☆ 友人・知人 ☆ 親 ☆ 兄弟 ☆ ネット 2.生まれ ☆ 性格 ☆ 能力 ☆ 興味 ☆ 好き嫌い ☆ こだわり ☆ 感受性 ☆ 3.学習・経験 ☆ 知識 ☆ 思想 ☆ 信仰 ☆ 価値観 ☆ 考え方 ☆ 先入観 ☆ 後悔 ☆ 高揚感 ☆ 興奮 ☆ 悩み ☆ 絶望 ☆ 失望 ☆ 失敗・挫折 ☆ 成功 ☆ 喜び ☆ 悲しみ ☆ 楽しさ ☆ 怒り ☆ 羨望 ☆ 嫉妬 ☆ 尊敬 ☆ 友情 ☆
2010.07.27
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昨日の日記、よくわかりませーん、というご指摘をいただきました(笑)自分でもわからないものを、自分で理解しようという意図で書いているので、そんなものかな?とも思いますが、ご質問にお答えして、あるいは自分の考えをもう少しはっきりするために、ここで回答を書かせていただきます。まずは、昨日の日記、オーラの泉とか見て、江原啓之の本を一冊でも読んでいる人にはわかると思うんですが、そうでない人にはわかりにくいかもしれません。まあ、難しいことを考えているわけではなく、もやもやとしているものを明確にしようとすると、こんな文章になってしまうんで。。簡単に言うと、質問された方が仰っていた「自分の尻は自分で拭く」そのものです。汚したのも自分なら、それをきれいにするのも自分でやるしかない、っていうことです。ただし、汚したのが「前世」だったりする場合がある、ということだけが「スピリチュアル」の世界の考え方です。選択は、その時々の自由意志です。ただし、与えられる環境・条件は、自分の意思で選んでいるわけではありませんよね。ここで言っている「意図されたもの」「計画されたもの」というのは、そういった自分が置かれる状況や環境のことをさしています。けっして自分の選択が誰かに決められているわけではありません。それはあくまで自分であり、自由意志です。仰られるように「今の」科学では説明できないことはたくさんあります。ただ、人間の存在意義や、人間の意識といった今までではまったく科学の領域に含まれない部分まで、最近は科学の裾野が広がってきています。そのうち相当部分まで、「科学的に」理解することができるようになると思います。ただし、この「科学」、すでに人間の「常識」とはかなりかけ離れた内容になっていて、それ自体を理解することが困難になりつつあります。人間の常識は、いまだにニュートン力学から離れられないし、相対性理論や、ましてや量子力学は、頭で理解しても、感覚が付いていきません。で、実験というのは、そういった理詰めのアプローチではなくて、自分の心の中に、どんどん入っていく、という、より直接的な方法を取ります。この「全ては必然」の考え方で言うと、与えられた環境は計画されたものですから、自分が経験する困難・試練というのは、計画されたもの、つまりはなんらかの意図が隠されているもの、ということができます。で、自分が今直面している困難や試練の中に、この「意図」を見出すために、どんどん、その「現象」に対する自分の心の反応を突き詰めていきます。つきつめて行った先になにがあるのか? それが実験です。この実験は長丁場です。たぶん、今後一年ぐらいかかって、結果がどうなるか、だと思います。
2010.07.27
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日本で有名になったどなたかの言葉に「全ては必然です!」というのがありましたね。(笑)この「全ては必然」という考え方は、当然スピリチュアル的な考えですが、この世の中はすべて偶然の積み重なりだ、とする物質中心主義・近代西欧合理主義的な考え方の対極にあるものです。「必然」というからには、その裏には理由があります。この考え方では、すべての経験、すべての現象は、起こるべくして起こるのですから、そうなる原因が必ずあります。合理主義的な考え方だと、この「原因」というものを、その現象に先立つ「現象」「事実」や環境などの諸条件を指し、そこから演繹的に、それに続いて起こる現象が確定する、という、力学ではニュートン力学のような考え方ですね。つまり、すべての物理的な諸条件が決定されれば、それに続く現象は全て予測・説明できる、とする考え方です。しかし、現代物理学においてさえこの考えは否定されている現在、残る課題は、その不確定性というのが、単なる物理現象としての不確定性か、という点と、もうひとつは、そういった物理的諸条件が生まれる背景に、なんらかの非物理的な理由が存在するか、という点の両方があると思います。話を元に戻して、「全ては必然」という考え方の背景には、この非物理的な理由が確固として存在する、という考えがあり、その非物理的な理由として、人間個人個人の意志、集団意思、思想、もっと言えば、過去生からのカルマや神の計画といったものが出てきます。この言葉が有名になったあのTV番組で、この「全ては必然」と言う言葉が出てきた時は、この後の方の考え方がその背景としてあります。そして、それをもう一歩進めると、この「理由」というのが、あらかじめ「意図された」もの、あるいは「計画された」もの、というところに求められます。意図するのは誰か、あるいは計画するのは誰か、というのは、それは神であったり、自分自身であったりするわけですが、広い意味では同じです。神であり、自分です。そして、意図されたもの、計画されたものである限り、すべての経験、すべての現象には意味があるはずです。ここにいたって、先日の日記でチラッと書いた、自分の「意図」、自分の「計画」といったものが、もしあるのだったら、いったいそれは何か、そして、その裏にある「意味」とは何か、という風になるわけです。もしそんなものがあるのだったら知りたいし、どうしたら知ることができるのか、ということを勉強しながら、それを確認してみたい、その意味で「実験」という形でトライしてみる、ということを先日の日記にも書きました。さて、いよいよ今日からその実験に入って行きます。どういう結果が現れるでしょうか?
2010.07.26
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我が家のお嬢様がご帰還なされました。一ヶ月半にわたっての集中キャンプ。今までこれだけ長期に渡って家を離れたこともなければ両親と離れて一人で暮らしたこともないので、さぞホームシックっぽくなるだろう、と思っていたが、さにあらず。ぜんぜん、そんな気は微塵もなく、終わってしまうのが本当に悲しそうでした。最後にグループごとに記念撮影。あちらこちらで、ハグ(抱き合うこと)しているカップルも居れば、中には長々とキスをしている奴も!!毎年、このGHPでは数組、いや数十組のカップルが誕生するらしいのですが、まあ、うちの娘はどうもその中には入らないらしい・・・^^;しかし、本当に仲良くなった数人とは、今後も付き合いが続きそうです。早速、来週には、あのゴルフのマスターズが開かれるオーガスタから、友人の一人が我が家に尋ねて来ることになっているそうで・・・・・。え、いや、女の子です。それも、ダンスを専攻した、白人の女の子。アジア系ばかりの友人を持つ娘には異例ですが。やはり州内の高校から選りすぐられた子供たちで、娘も非常な刺激を受けたでしょう。数学や科学などの専攻で着ている子は、ほとんどがその高校でTOPの成績らしいし、音楽、ダンス、コーラス、それぞれ、みな州代表のレベルの子供ばかり。今後もそういった交流をぜひ深めていって欲しいものです。 お世話になった州立大学の学生寮
2010.07.25
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明日は、先月から娘が参加していたGHPというキャンプの最終日です。明日の午前中に滞在先のジョージア州立大学の寮を出なければいけないのと、今晩、その最終演奏会があったので、それを見るのをかねて、一日前の今日からValdostaという町に来ています。演奏会は夜7時半から9時半まで、盛大に行われました。GHPの全参加者が観ているので、親の方は横のもう一つの会場で、モニターを見ながらの見学でしたが、会場の熱気が伝わってきました。最後にすべてのグループの紹介が終わったあとは、皆ステージに駆け寄り、互いに抱き合いながら涙、涙で別れを惜しんでいました。明日はいよいよ、本当のお別れです。一ヶ月半という短いキャンプでしたが、同じところに閉じ込められて寝起きを共にし、専攻は別々でも、それぞれが精一杯学び、遊んだこの時間は、娘にとってもすばらしい思い出になったことでしょう。これから家へ帰ってきたら、その反動で、しばらくはボーとしているかもしれません。あとで、この演奏会のビデオ、もしきちんと取れていたらまたYouTubeに載せたいと思います。
2010.07.24
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時間はどこで生まれるか・・・、これは本の題名ですが、この題名は始め比ゆ的なものだと思っていた。ところが、読んでいくと、これが比ゆではなく、そのものずばり、時間が生まれるのはどこか、について書いているので驚く。前にこの本を読み出した時に書いた日記 (これです) にも少し書いたのだが、時間というものの正体を、科学者の著者が、最近の物理学の先端理論に照らして考えていく、という内容の本。時間はどこで生まれるのか (集英社新書)もう一冊の「時間を哲学する」という本と同時に、ぬらりくらりと読んでいたのだが、いったんあきらめることになってしまった。なにをあきらめるのか、というと、読んで理解することをあきらめた。つまり、よくわからない、ということ^^;他の何冊かの本と同時並行で読んでいたので、何日か置きに手に取る形になるのだが、その前に読んだことをきちんと理解し、覚えていないと、次に出てくる内容が全然わからない。これは、こういった読み方では歯が立たないな、と思ったしだい。でも、書いてある内容は刺激に満ちている。私にとっては新しい見方、考え方がてんこ盛で、ますます、この本をきちんと読んでみよう、という気が起こってきている。時間は、マクロの世界にしかなく、ミクロの世界では存在していない、という科学的な説明から、それではなぜ、マクロになると時間が立ち現れるのか、あるいは、この時間というものが、「どこで」生まれるのか、という、この本の題名そのものが論じられる。我々がいるこの時空というものを考えたときに、時間を実時間とすると、空間は「虚数」になる、という、著者によると、物理学者にとっては「常識」だそうだが、私は知らなかった。しかし、この空間が虚数であることを説明するくだりでは、なんとなく納得してしまった。でも、さすがにまだ「常識」が邪魔をしていて、すんなりと納得したわけではなく、どこかでごまかされたような納得の仕方だ。この辺は、再度、初めから通して、そして連続してこの本を読まないことには、理解できそうもない。時間と言うものは、この時空に絶対的に存在するものではなく、このミクロからマクロになる、どこかの時点で生まれてくるものだ、という考え方自体、新鮮なので、なんとかもう少しトライしてみたい。
2010.07.21
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これは、昨日の日記の最後に書いた疑問への、私なりの答えです。と言っても、なぜ・・・なのか、と言った場合、本当は・・・の部分がデータ的に裏付けられていなければ、そのことを議論する意味さへ本当はない。例えば、「なぜ男は・・・なのか?」とか、「人はなぜ〇〇を好むのか」と言う時は、・・・の部分とか〇〇の部分も含めて、この命題が「真」であることが前提である。ところが往々にして、こういう言われ方をする場合には宣伝文句の場合が多く、実は、そんな事実はないのに、こういう言い方をして、いかにも「それが実際に確かめられた事実」だ、という錯覚を起こさせるためにこそ、こういった使われ方をする場合が多い。だから、こういった言い方に出会った場合は、まず「本当にそれが事実か?」という疑いを持ってかからないといけない。まあ、これは余談だが、元に戻って、なぜアメリカに居る日本人にクリスチャンが多いのか?という命題も、宣伝ではないにしても、事実かどうか、私は知らない。しかし、これは私の実感である。少なくとも、私がアメリカで知りあった日本人の中では、日本に居たときよりも、格段にクリスチャンの比率が高いと感じている。部分的には、現在、毎日曜日に日本人教会に通っているから当然そうなる、という部分もあるだろうけれど、そうでなく、教会を通して知り合った人ではなくとも、クリスチャンに出会う確率は、日本に居たときよりも絶対に高い。反面、日本に居たときの私の生活圏が、クリスチャンに接するような機会が全然なかったためかもしれないので、そこは何とも言えないが、先の命題を自分なりに考えると、いくつかの合理的な説明らしきものが出来る気がする。その理由として考えられるのはいくつかある。 それをまず列挙したいと思う。一点、断っておきたいのは、ここで扱う日本人というのは、アメリカに定住、もしくは個人的にアメリカに来ている人のことで、企業の駐在員を含まない。なぜなら、企業の駐在員やその家族は、アメリカに住んでいる理由からして、まったく個人的な背景を持たず、「たまたま」企業の都合でその人が選ばれたに過ぎないから、いってみれば、日本の一部をそのまま切り取ってアメリカに持ってきただけで、文化的な背景、個人的な趣向その他、日本社会そのままだろうからである。1)まずは、アメリカ定住者の場合、女性が多い。それは、アメリカ人と結婚したから、こちらで暮らしている、という日本女性が圧倒的に多いからである。対して、日本人男性で、アメリカ人女性と結婚して、こちらに定住している人は非常に少ない。2)企業の駐在員は圧倒的に男性ばかりであるが、個人でアメリカに留学したり、就職したりする人の数においては、やはり女性が多い。これらの女性が、上の(1)で述べたアメリカ人と結婚する日本人女性の予備軍となっている。対して、非常に少ないながらも、個人的にアメリカに来ている男性もいることは居るのだが、どうもアメリカ人女性と結婚する人は少なく、日本人でない人と結婚する場合でも、アジア系の女性と結婚する比率が高いような気がする。3)上記(1)と(2)で述べた女性の大きな部分が、日本でいわゆるミッション系の学校で学んだ経験がある。特に、古い世代、たとえばすでに50歳を過ぎている女性が教会にもたくさんいるが、ほとんどがこの範疇に属する。そうでない人は、アメリカ人と結婚してから、夫に連れられて教会に通うようになり、入信した、という人がそれに次いでいる。4)アメリカで暮らす、あるいはアメリカでなくとも、外国で暮らしていると、なんらかの「宗教」を持つ、ということはある意味当たり前であり、逆になんの宗教も持たない、という日本人に多い「無宗教」という方が異常である。5)(4)の理由によって、日本から来たときには無宗教であっても、だんだんと宗教というものに関心を持たざるを得なくなり、勢い、身近な人に連れられてキリスト教の教会に足を運ぶようになり、それがきっかけで入信した、という人もいる。6)普通の人にとって、アメリカに来る、ということは、ほとんど知己がないまま来る場合が多いが、クリスチャンは、たとえ初めはそうであっても、そのクリスチャンのネットワークがたくさんあり、そのネットワークの一つを紹介されたり自分で見つけたりして、アメリカでの生活を、日本人クリスチャンを友人として持ちながら生活する、という人が多く、その面でも、定住する確率も高くなるのではないか、と思える。7)最後の理由は、やはり文化的な親和性だろうか。やはり、キリスト教というのはどんな宗派であっても根本は共通であり、それをある程度知っているからこそ、よりアメリカに興味を持ち、またアメリカに来てもいち早く溶け込める、ということがあるのだろう。以上述べてきたのは、単なる推測に過ぎない。でも、少なくとも私の周囲では、という限定すれば、これは私の実感から来ていることなので、あながち全く的外れではないと思う。翻って、日本はどうなのだろう?もし、似たような状況が有り得るのなら、日本の場合も1)女性が多い。2)ある程度、年齢の行った女性で、ミッション系の学校を卒業している人が多い。3)若い人でのクリスチャンというのは、身近に、例えば家族や親戚や親しい友人にクリスチャンが居て、その人との関わりにおいて、いつのまにかクリスチャンになった、という人が多い。というような特徴があるのだろうか?この始めの命題を持ったきっかけは、先日日本から昔アトランタに居た、という牧師さんが見え、日本の教会の現状を聞いたことがきっかけだった。その牧師さんいわく、その教会の信徒の大部分はやはり有る程度の年齢以上の女性が多く、若い人は数えるほどしか居ない、とのことであった。キリスト教というのは「伝道」をクリスチャンの義務と考える人が多く、「善意」で、この「福音」を、まだ聞いたことがなく、したがって「神の恵み」を受ける機会を得られないで居る人に、より多く伝えていくことを心底、自分の「奉仕」の大きな部分として考えている。その「伝道」の主体が上記に述べたような人に頼っているのが日本のキリスト教の現状であるなら、今後の信徒拡大など、全く望めないような気がするがどうだろうか。ただし、私はキリスト教が日本で拡大するとは考えていないし、そうなるべきとも思っていない。逆に、そうなってはいけない、とも考えていないが、多分そうはならないだろう。それは私には自明のことのように思える。そう考える一番大きな理由は、日本人の置かれた状況を考えたときに、日本人が人生や人間そのものに持つ問題意識や課題に対する答えを、キリスト教が提供できていない、あるいは出来ない、ということに尽きる。真理は時代と共に変わるものではないかもしれない。しかし、人生を取り巻く環境、人の知識・経験は時代と共に、特に近年では非常な勢いで変化している。それに対して、キリスト教をはじめ、旧来の宗教は、その変化に対応している、とは到底思えないからである。もちろん、旧知を知る、暖める、ということは変わらずに大切ではあろう。しかし、それにプラスαの部分がどうしても必要になるのだが、その部分で絶望的に進化していない、と思える。では、どう変わったらいいのか、という疑問に対しては、私は明快な回答を持たない。ない、というのではなく、まだ明確な形とはなっていない、という意味で。それを自分の中に醸成してゆくことが、この先の自分としての目標でもあるのだろう。
2010.07.20
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今日、ひまに任せてネット上をぶらぶらしていたら、「開運倶楽部」というページに行き当たった。このページそのものは、なにか御縁起ものとかパワーストーンとか、いかにも怪しげなページなので、内容は全然見ていないが、行き着いたページというのが日本の宗教人口の資料のページだった。これです⇒ 全宗教法人信者数ランキング データの出所はダイヤモンド何月号とか書いてあるので、たぶん月刊誌のダイヤモンドからの転載だろう。(こんなのを転載していいんだろうか?)よく宗教法人の信者数を合計すると日本の人口の2倍を軽く超える、ということが言われる。大きくは、仏教の檀家制度と神道のせいだろうと思われるが、この二つはだいたい信徒(本当の信徒かどうかは当然??だが)がダブっていると思われる。それ以外にも、ほとんど全ての宗教法人で信徒数の水増しが行われているのは想像に難くない。で、この資料を見て驚いた。「幸福の科学」が信徒数1100万人で2位だって!??本当かよ、おい。だったらなんで全員落選なんて結果になるんですかね?(笑)日本人の10人に一人が信者だったら、自分のまわりにもうようよ居るはずだが、私自身は見たことも知人が入会している、という話も聞いたことがない。入っても、皆秘密にしているんだろうか?まあ、日本人は無宗教が多い、というか、神式、仏式、キリスト式、なんでもござれの、言ってみれば節操のなさが日本人の特徴だから、その中に「幸福の科学」がまたひとつ増えても、外観的にはなんにも変わらないかもしれないが・・・しかし、このリスト、見ているといろいろ面白い。よく日本ではキリスト教がねづかない、たった150年の歴史しかないから、とか、いわれるけれど、もともと日本の思想風土にこの一神教が合致していないためだろう、と私は思うが、それでも統計上は人口の1%弱ぐらいは居るらしい。これは地域差が大きいので、ある県では3%と超えるところもあれば、多くの都県では0.5%にも満たない。しかし、ここアメリカで生活していると、やけに日本人のクリスチャンが多い。さて、なぜだと思いますか?
2010.07.19
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昨日、痛い臨時出費があった。それも30ウン万円これは結構きつい・・・・分割払いにしても良かったが、一括で払うと2万円ほど値引きする、というので、思い切って一括払いに・・・・と言ってもクレジットカードで支払ったので、その引き落としは来月の20日。それまでに、なんとかこの金額を貯めなくては。。。この出費、貸し出している家の1軒のエアコン交換費用。一階用と二階用の二つのエアコンがあるが、本来ならより涼しいはずの一階の方が、フル稼働させても29度以下に下がらなくなってしまった。調べてもどこにも悪いところはなく、フレオンガスが漏れているわけでもなく、単純に老朽化による冷房能力の低下だ、という結論になり、仕方がなく、新しいシステムに交換した。2台を一度に交換したら70万円を超えてしまうので、それはとてもできない。特に冷えない一階用の方をとりあえず交換するのにこの出費。家賃が10万円なので、ローン返済も含めると、これを取り返すには8ヶ月以上かかりそう・・・・大家業も楽ではない。
2010.07.15
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スピリチュアル系の本でよく出てくる話として、自分の周囲に現れる現実、現象というものは、すべて自分の心の反映である、というものがある。このブログのTOPページにリンクを置いている「鏡の法則」にしても、カルマ的な考え方を土台としならがらも、自分の考え、行動が回りまわって、自分の直面している問題なり現実なりの「因」となっている、というものである。本当にそうか?もっとスピリチュアル的な話になると、すべての試練・困難は、自分がこの世界に生まれてくる前に「仕組まれた」あるいは「計画された」ものだ、とする。あるいは、これを自分自らが計画し、仕組んだものだ、とする。その背景には、その魂そのものが、自らの成長を期して、次の転生での学ぶべきポイントを定め、そのための環境なり、状況を自ら設定している、という考え方である。本当にそうか?この答えを出すためには、自分が直面する試練や課題、困難や苦悩といったものを掘り下げていって、自分の心の中に、それを生み出す「因」となるものがあるのか、あるいは、その結果として「学び」があるとしたら、その「学び」とは自分自身がなんとしても学びたい、と思っているものなのかどうか、という観点での客観的な観察が欠かせない。かなり困難な取り組みとなるかもしれないが、この辺を、もやもやしたままにしておくのも気分的によくないので、ちょっと時間をかけて実験的に確かめてみよう、ということにした。さて、その結果はどうなるか?自分のことながら、ある意味楽しみではある。一番悪い結果として考えられるのが、そんなものは何にも見出せなかった、という結論になることだが、それにしたって、今より何かが悪くなるわけでもない。やってみるだけの価値はありそうである。
2010.07.14
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先日から何回かにわたって、高橋信次氏のこと、あるいは氏の著書についてここに書いてきた。今回、氏の著書を2冊ほど読んだので若干の感想を書き残しておきたい。その一つは、氏が、自身が工学、科学、医学を学び、自分の超常体験と重ね合わせて、「神理」なるものを述べているのが、氏の著書の内容である。氏の希望としては、世の中の全ての人がこの「神理」を理解し、それを実際の生活に活用してこそ、世の中に平和と調和が訪れる、というものだろう、と思う。ただ、その著書の中で、しばしば「科学」的にも実証されている、とか、「科学」的に考えるとこうである、と言う語りが登場する。確かに氏のバックグラウンドを見ると、そのような切り口で説明すれば、世のいわゆる「科学信仰」一辺倒の人にも理解してもらえる、という希望があったと思われる。しかし、はっきり言って、氏は「科学者」ではない。「科学」の「科学」たる必要十分条件を理解しているとは、その著書を読む限り思えない。「科学的」と私たちが言うとき、それに対する要求事項というのは、まず「疑問」「質問」から発して、実験と論理を駆使してある「仮定」を導き出してその疑問に答え、それをいろいろな条件を変えて、再現できる限りにおいて、その答えや考え方は「科学的」と言えるものになるのだと思う。ところが、その辺の必要十分条件を無視して、ただ氏が学んだ「科学」「工学」「医学」に照らして、こうだ、と言い切る。それは「科学」的思考の持ち主だったら、一番してはいけないことではないだろうか。科学は日進月歩である。昨日の「科学的常識」は今日の常識とはなりえない。したがって、一度、そんな言い方、あるいは考え方を表明すると、その理由づけになっていいる「科学的事実」が覆されたときには、その人の論理そのものが全て崩れ去る。氏の著書を読んでいると、真空管の話、トランジスターの話などから始まって、脳の機能・構造、宇宙の成り立ち、これらの話が、やはり数十年も前の「常識」にとらわれている観がある。これでは、せっかくの内容も、今の時代の知識を持つ読者にはなんの説得力も持ち得ない。宗教家や、哲学者が、最先端の科学知識、あるいは科学的常識をわきまえることは至難の業かもしれない。しかし、今、この科学信仰のきわまっている時代にあって、「真理」あるいは「神理」を、科学的な裏づけの元に説明するとしたら、その辺への配慮は欠かすことができないものだろう。せっかく、内容的にはなかなかいいものを書いているのに、そんなことで、その内容が全否定されるのであれば、もったいない、という以上に、それを継承して、あるいは、科学は仮定だ、との認識を持ちながら、こういった「思想」を表現することが望まれる。
2010.07.13
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今日、ある女性から携帯にメッセージが入っていた。この女性とは昨年ちょっとしたことで知り合ったのだが、彼女が退職に追い込まれてから、家のローンの支払いが滞り、すでにレンダーのほうでフォークロージャーのプロセスに入ってしまった、ということで、すぐに住む家を見つける必要があったので、レントの家などを一緒に探していたのだった。ところが、ある時を境に全く連絡が取れなくなった。電話をしても出ない、メッセージを残しても返事がない。知り合いのところで状況を調べようとしたが、誰も最近の彼女と会っていない、ということで、いったいどうしたのであろう、と心配していた。ところが、今日入っていたメッセージの内容は驚くべき内容だった。なぜ私に連絡をよこさなかったのか、という理由は、私に対して非常に怒っていたから、らしい。なぜ怒っているのか、ということに関しては、家を探すのを手伝ってもらったが、結局はみつからず、最後は自分で探すしかなかった、もし私だけに頼っていたら、今頃は住むところもなく、路上に放り出されていたはずだ、ということらしい。私にとっては???である。実際、数件見て回った家の中で、一軒は借りられそうだった。彼女もここなら、と言っていた。 当然、クレジットが悪いので、申し込んでみてから、家主の方がどうそれに対して条件をつけるのか、あるいは入居そのものを認めるか認めないか、ということがはっきりするわけで、それまでは必ず入れる、という保証はしようがない。そのことは正直に話したことは確かだが、申し込む前から、私に頼んでもらちが明かなかったんで、自分で探した。私はぜんぜん助けてくれなかった、だからすごく怒っている、ということのようだ。どこで、こんなすれ違いになったのかはわからない。しかし、こちらもほとんど職業上の不動産屋という枠を超えて、彼女のために一番良かれと思う家を何件も探し一緒に見て回り、今後のことについても逐一相談していたはずだった。なのに、一方的に連絡を絶たれ、今になってこのメッセージ。全然わけがわからない。これこそ青天の霹靂という奴だ。言える事は、彼女が家を出される、といことでかなり追い詰められていたにもかかわらず、私の方がその気持ちに沿って、全力で動いていなかったように彼女には感じられたんだろう、ということぐらい。しかし、彼女が助けて欲しい、と言ってきて、私は私として出来るだけのことをしているつもりであったのに、この結末。なにか、彼女が可愛そうになってしまった。というのは、今まで、いろいろなところで問題ばかり起こして、今までもいろいろなトラブルに巻き込まれていたらしいし、その大きな部分は人間関係だったようだ。詳しくは何とも言えないが、もしかしたら、彼女は自分自身でこういった状況を生みだしているのではないか、と思えてしまう。私自身は彼女のことを心配して、あちこちにツテを求めて彼女の安否を気遣っていたところに、こうやって、「怒り」の電話。かなり思い込みの激しい性格だったが、こんなことを言われた日には、誰だって、もうどうにでも勝手にしてくれ、俺はあんたのことはもう知らん、と背を向けることは必至だろう。こうやって、一人ひとり、友人をなくしてゆくのだろうか・・・・アメリカで女性が一人で生きてゆくこと自体が難しいという中で、職も追われ、家も追い出され、そして知人も自ら切り捨てる・・・・かわいそうだが、こうなったら、こちらとしても完全に放っておくしかない。これ以上、文句を言われてまで、彼女を助ける義理も恩義もない。いや、文句を言われなくとも、もともとそんなものはなかった。だから、彼女のことは一切、もう関知しない、助けない、ということは簡単だし、そうするしかないかな、とも思う。しかし、そうしてしまったら、どうも後味が悪い。さて、どうしたものか・・・・
2010.07.13
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先日、 この日記 で書いた娘のサマーキャンプというか、夏季集中学習プログラム。すでに1ヶ月経って、今日久しぶりに電話。(向こうからは全然掛かってこない・・)26日には終了なので、あと2週間、もう家が恋しくなっているかと思いきや、とんでもない。「う~ん、帰りたくないよお~」だと。相当楽しいらしい。当初は、大学のキャンパスに閉じ込められていて、キャンパス外へ出るのは親が来たときだけ、届けを出せば出られるのみ。当然、あのコンサートの時、一度いっただけなので、あとは一歩もキャンパスの外へは出られず、先日は若干不満をもらしていた。とことが今日聞いたら、「もう慣れちゃった!」だと。未だに朝5時半起きのジョギングから始まって規則正しい生活をしているらしいし、今日も別のコンサートがあったとか。また毎日なんらかのスポーツをやっていて、今日はコンサート前に3時間も、この暑い中屋外でバレーボールをやっていたらしい。日射病など大丈夫なのかな、と多少心配だが、そんな心配をよそに、本当に充実していて楽しいようだ。ただ一つだけ、食事が最低にまずいらしく、帰ったら思いっきり、外でおいしいものが食べたい、とだけ言っていた。まあ、これは当初から予想されていたことだったんで、それも想定内ではあるが・・・。こうやって、子供は日々成長してゆく。大人だって、成長しなくていい、という理由もない。娘に負けないよう、こちらも日々なんらかの形で成長を続けていきたいものだ。
2010.07.12
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今日のニュースの中でふと目についた「全米学生就職希望先のNo.1」という記事。今現在アメリカに住んでいるが、確かにこちらの学生は日本ほど「寄らば大樹の陰」というか、大企業や公務員などの安定志向よりも、仕事の内容ややりがい、あるいは自立へのステップ、という形での就職希望が多い。なので、いったいどんなところがNo.1なんだろう、と予想も付かずに読んだのだが・・・⇒ このNPO これは全く予想外だった。というか、聞いたこともない。それにNPO。日本では考えられない現象ではないだろうか?学生気質が違う、と先にも書いたが、それだけでは済まないのは明白だろう。この記事にもあるように、こういった組織の立ち上げや運営をサポートする制度や税制の問題もあるし、寄付に対する一般の人の意識、あるいは「ボランティア」に対する一般の人の意識、そして、自分の仕事や将来に対する学生の考え方、いろいろなものの違いが、こういった結果を生んでいるのだろう。ただし、これが、では日本に比べてアメリカの方が優れているのか、という点については慎重に考えなければならない。ますが、現実にこれだけの違いがある。そしてこの違いを生み出した背景はなんなのか、どうしてそのような「必要性」が生じたのか、ということも含めて考えなければならないだろう。しかし、それでもなお、こういった活動に多くの若者が自分の将来をかけて取り組む、という姿勢を示すこと自体は、やはりすごいことだな、と思わざるを得ない。
2010.07.10
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私の家は、なんとなく音楽一家だと思われている。実際、妻はピアノ、息子はピアノとサックス、娘はピアノとバイオリン、私はギターを弾く。この中で私のギターだけは先生について習ったわけでもないので、やはり完全な自己流。当然、レベルもアマチュアの低いレベルを一歩も出ていない。私がギターを演奏すると、家中から非難が出る。ただ、これはギターが下手だから、というわけでもなさそう。というのは、クラシックギターでクラシックの曲を弾いている限りは「何回同じ曲を弾いているの!?」と言われるぐらいだが、問題は、アコギ(アコースティック・ギターを今日日、日本ではこう言うらしい)を引きながら歌を歌っているとき。「止めて~!」とか「うるさ~いい!!」とかならまだしも、妻からは「子供の音楽教育に悪いから、誰もいないときに弾いて!!」とまで・・・・・(泣)まあ、プロ並みのギターの腕前と歌う技術というか、声がよければ別なんだろうけれど、なにせ、歌う曲も古い歌ばかり、ギターも歌も下手、ということで、仕方がないんだろうとは思うが・・・・・が、しか~し、人が気持ちよく演歌を歌っているときに、水を差すようなことを言わなくてもいいんでないかい?とも思う。海外が長いんで、必然的に知っている歌は、1980年代やら、せいぜい1990年代の曲ばかり。新曲はほとんど知らない。中には妻が「あ、それ私が小学生のときに聞いたことがある!」ってなものもある。(がっくり)それほど歳は離れていないんだがなあ・・・・でも、音楽には古い・新しいはない!! あるのは「いい曲」「わるい曲」だけだ!!で、歌っているのは「いい曲」だ!! 文句あるか!!!なんて言ったら、「曲はいい曲なんだけどね~」だと。つまりこちらはOK ⇒ くクラッシックの曲だけなら・・ こちらはNG ⇒ 歌が入ると・・・
2010.07.08
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「時間を哲学する」という本を読んでいて、面白いことが書いてあった。題名からして、この著者はいわゆる「哲学者」なのだが、その彼が、「哲学者がさももっともらしく『本当の』とか『真の』とか言うときは気をつけなければならない」「なにかを言うときに、『本当の』とか『本当は』とか、『真の』とかつけるだけで、さもその後に書くこと、言うことが高尚な内容に聞こえることがあるからである。」というのだ。考えてみると確かにそうだ。例えば、「俺に言わせれば『本当の』幸せってのは・・・・」とか「皆、xxを祈りだと思っているかもしれないが、『本当の祈り』とは云々・・・」「自分でわかったつもりになっている人が多いが、『真の』知識というものは・・・」などと言うと、まず世間一般で言われていることや、常識的に捉えられている解釈とは違って、より深く考えると、あるいは、一段高いレベルから考えてみると、ということで、さも大層な考えを説いているように聞こえる場合が多い。これはなんにでも言える。「本当の」宗教、「本当の」信仰、本当の「真実」、「真の」幸福、「真の」善、などなど、そんなものはないかもしれないのに、あるいは観点が違うだけかもしれないのに、言っている本人はそれが「本当の」とか「真の」とか思っているだけだ。しかし、こういう言い方は、その言っている本人が、本当にその「本当の」とか「真の」というものを知っている、という前提で話すから始末が悪い。聞くほうも聞くほうで、「ほお~、それが『本当の』〇〇というものか、」などと関心してはいけない。下手をすると「これは良いことを聞いた」と、聞きかじりのままに、他の人に向かって、またまた「本当の」〇〇ってのは、こうなんだよ、なんて知ったかぶりをする人が出てくる。人があることを「幸せ」と感じているとしたら、それに向かって、「でも『本当の』幸せってのはそんなもんじゃない。』と言ったって仕方がない。なぜなら、「幸せ」はその人の主観であるからだ。私など、よく本を読むと、非常に斬新な考え方をする人がよく見つかる。それを知っただけで、さも自分が得をしたような、ひとつ偉くなったような気になってしまう。自分も、そんなことを「本当の」何々ってのは・・・、なんて言っていないだろうか。よくよく気をつけなくては・・・・・。
2010.07.07
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先日、高橋信次著の「人間釈迦」を読み終わり、その感想を書いた。なかなか良かったので、ここにあるGLAの拠点(と言っても個人宅ですが)へ行って、氏の著書を6冊ばかり借り受けてきた。最初の本は、「心の発見」。まだ、GLAについてもよく分かっていないが、多分、この高橋信次氏が立ち上げた当初のGLAと、現在のGLAでは、その目的は同じでもアプローチの方法が変わってきているんだろうと思う。行ってみれば、高橋氏はより「宗教的」、こういうと語弊があるかもしれないが、神に向かってまっすぐに人間の本性をみつめて人の道を説く、という感じ。ひるがえって、現在のGLAは、高橋佳子氏の指導のもと、より現実的に、個人の悩みや苦悩をどうやって克服してゆくか、という現実路線に転換しているような感じ。これらも、まだ単なる「感じ」だが、共通しているのは、旧来のいわゆる「宗教」というものに対する批判精神を背景として、現代の心の復権を訴えている、あるいは魂の認識を訴えている、という意味で、宗教というよりも、どちらかというと「スピリチュアル」な傾向がうかがえる。この「心の発見」。まだ読んでいる途中ではあるが、この高橋氏の宗教観、霊魂観があちらこちらに出ていて、氏のGLA創設の背景をしることが出来る。その説くところの「世界観」は、おどろくほど、現在のスピリチュアリティーの世界で言われることと一致している。さて、私にとってのポイントは、これらの本から得ることが、すなわち読書の段階から、行動の段階へ、ということを示唆しているのだろうか。
2010.07.06
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前回から約2ヶ月、この2年間で2回目のゴルフに行ってきました。前回、久しぶりだったので、目標を100を切ることに設定したら99だったんで、今日は急遽、目標を95にして挑んだ。とは言っても、ゴルフ場についてからは何も練習せず、コーヒーを飲んで、友人とおしゃべりしていて、そのまま#1ティーへ。2ヶ月ぶりのティーショットはまっすぐ飛んで、フェアウェイど真ん中。幸先良いスタートを切ったものの、後半にOBと池ポチャで連続4オーバーを記録し、がっくりして前半終了。結果は51。さて、後半は、と勢い込んで、なんと4ホール連続パーでスタート。ここの最後の名物ホールである最終18番ホールに挑戦時、まだ6オーバー。ここさえ乗り越えればと・・・・これがその名物ホール↓ティーショットはまあまあのあたりでまっすぐ飛んだが、行ってみるとまだグリーンが見えない。↓仕方なくコース図の池沿いのフェアウェイに運び、なんとかボギーをセーブ。結果、後半43、トータルで94で、めでたく目標をクリア。調子に乗って、今年の目標をまた5つ上げて、今度は90を切る、としました^^;
2010.07.04
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昨日は、娘が行っているGHP(ガバナーズ・オーナーズ・プログラム)というキャンプへ行ってきました。このGHPは、ジョージア州の州政府が毎年、州内の高校生を対象に、科学、数学、音楽、ダンス、絵画、などあらゆる分野で優れた生徒を選出して、州の負担で夏休み中、6週間の集中学習を行うプログラムです。娘はオーケストラにバイオリンで参加しており、今回、運よくこのGHPのオーディションに合格して、このキャンプに参加。すでに3週間経過し、残りは半分の3週間だけになったところで、今までの成果発表を兼ねて、リサイタル・コンサートを行った。夜7時半から、ということで、仕事を半日で切り上げ、キャンプ場となっているバルドスタという町にあるジョージア州立大学まで行ってきました。昼1時に出て、5時15分に到着。片道約4時間、走行距離約400kmです。一般道を含めて平均時速100kmで走るわけですから、高速道路では、ほぼ120kmから130kmで延々と・・・・当然帰りも同じで、コンサートが9時半に終了してから帰ってきたら、もう夜中の一時半でした^^; 往復8時間、800kmの運転は疲れます・・・それはともかく、コンサート、すごく良かったです。 うち、一つの演奏風景バイオリンは州で10名、ビオラは5名、という感じで、通常のオーケストラとは格段に人数が少ないですが、さすがに全員相当なレベルです。かなりのメンバーが、娘の所属するアトランタ・シンフォニー・オーケストラのユースのメンバーなので、知り合いも多く、娘も非常に楽しそうでした。朝5時半に起き、ジョギングをして、8時から12時まではメジャー科目を受講。ランチをはさんで、午後はサブメジャー(副履修科目)を受講し、4時以降はリクリエーションという日程らしい。なにしろ、大学の寮に缶詰になっていて、大学の構内からは一歩も出られない。面会も制限されていての集中特訓。でもその代わり、テニス、水泳、バレーボール、ダンスなどなど、友達とのさまざまな活動がものすごく楽しいらしい。いやいや、帰ってきたら一段と成長しているでしょう。
2010.07.03
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