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いちご白書の歌詞ではないけれど・・・最近、なにかにつけて、「あれ?」ということが増えている・・・今日も、朝起きると、多少右腕のひじから先がこわばっている。これは昨日ピアノを始めたせいかな、と思って、今日も30分ほどピアノを弾いてみた。すると、なんと右手だけ、やはりひじから下の外側部分がこわばって、多少痛くなってきた・・・あれ?これって、もしかして・・・・という奴。だけで、昨日たった1時間ぐらい、今日は30分ぐらい、こんなんでこうなるの?それほど力が入っているとは思えないのだが、左手はなんともないところを見ると、左手は多少ギターを弾いているので指をよく動かしているからか・・・ギターの場合は、右手は軽く弦をはじくだけ。対してピアノはしっかりと「押す」という動作になる。ここで力を入れているつもりはないのだが、それでもギターの弦をはじくのとは、使う筋肉が違うのだろう。ともあれ、年齢の影響は、単に覚えが悪い、という以外に、こんなところにも出るんだな、と思い知る。さて、こうなると、ピアノを弾く前には準備運動などしないといけないのかな?
2010.12.31
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今日は仕事を自主休業したため、時間が出来たのでかねてから知人に借りていた「魂の学」という2時間ほどのビデオを観た。先日書いた「魂の存在証明」にも通じる内容だが、今回観ながら考えたことは若干異なり、宗教というものの捉え方だった。宗教というと、キリスト教にしろ仏教にしろ、まずその教義を信じるところからスタートする。あるいは、まず興味がある、というだけで加入する人も居るかもしれないが、基本的には、そこで言われる教義ないしは、世界観を受け入れるという前提がある。したがって、必然的に、その宗教に参加している人の集団というのは、あきらかにこの点でバイアスがかかっている。翻って、私たちはよく「科学的に」という言い方をする。これは、ある面で、この「宗教」とは対比されて言われる言い方でもあろう。この場合の「科学的」という言葉の裏には、当然、現象面から見る、という制約はつくにしても、その根本は「論理性」「再現性」そして、なによりも万人への納得性、という面が重要視される、という考え方がある。この「万人への納得性」を得るために、「科学的」であるためには、それに反対する意見を持つ全ての人からの「批判」に対峙しなければならない。こと、ここにおいて、「科学」と先に書いた「宗教」はまったく異なる。「宗教」は「信じる」人たちの集団、「科学」は万人のためならんとすれば必然的に、「批判的」「懐疑的」な人にも無条件で開かれていなければならない。よく、宗教のことを指して、ことに日本人は、「洗脳」という言葉を使う人がいる。つまりある同一の価値観に、あるいは世界観に取り込まれていく、ということであろうが、それはこの「集団」の特性から自然にそうなってくるものだろう。ここに「宗教」の「科学」に対する絶対的な差異が存在するように思える。そして、よく、「どの宗教が真実を語っているか」とか、「どの宗教が真の宗教か」「どの宗教の神が正しいのか」などと、いろいろな宗教を渡り歩いて、自分なりの答えを見つけ出そうとしている人がいる。当然、ある宗教に属して、その「ご利益」とやらに実際にあずかった人は、それを証拠に、あるいは自分への納得性の最大理由として、その宗教に帰依する場合があるが、それがそのままその宗教の真実性を表しているわけでは当然ない。なぜならば、キリスト教でも仏教でも、いわんやイスラム教でも、その宗教を信じているために救われた、と思っている人はいくらでもいるからである。結局、「どの宗教が真実か」という問いそのものが、こういった各宗教の状況と、もっと言えば、先に書いた「同一価値観」を共有する集団であり、かつ「批判を認めない」あるいは「批判」因子を許容しないということをあわせて考えると、意味のないものになる。なぜならば、一人の指導的な立場に居る人間の意向や考え方次第でどんな方向にも、どんな内容にもなりうるし、そのことを検証するための内部システムが存在しないからだ。どんな宗教でも、いくら初めの意図は「人類救済」だったり、「苦の克服」だったりして純粋な意図があったとしても、この「宗教」自体の構造に起因する無批判体質、鵜呑み体質がある限り、ずっと「純粋」でありうるはずもなく、ましてや「組織」になると、その「純粋性」は簡単に崩れてしまいがちだ。だからこそ、私たちは「科学的」でありたいと思うのだろう。それは必ずしも唯物論的な見方を意味しない。少なくとも、あらゆる批判、反対意見、懐疑、そういったものを容認する開放性、包容力にこそ、その理由を求めることができるのではないだろうか。
2010.12.30
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まだ2010年の反省も終わっていないのですが、来年の目標を・・・来年は今年以上にいろいろなことに積極的にチャレンジしてゆく年にしたいと思っています。で、その手始めはピアノ・・・先日の日記で、ギターのコードを探し当てたりしていた流れで、カシオのキーボードをひっぱり出して、作曲の真似事でもしようかな、と思ったのですが、考えてみると家にはピアノがある・・・・じゃ、これを使わない手はないだろう、ということで、カシオのキーボードはリズムマシンにして、今日から練習を始めました。3拍子の曲だったらワルツのリズムで、ズンチャッチャ、ズンチャッチャ、というわけです。今日は初めてなので、「大人のためにピアノ練習曲」とかいう本を持ち出して、最初のページからスタート。まあ、多少音符が読めるんで、すいすいと進みましたが、早くも右手と左手の両方を使って弾くところで急にスローダウン^^;でもなんとか「河は呼んでる」をトライしているところ。弾いていると、後ろの方で、妻が「違うでしょお!」とか叫んでいるが、そんなことは弾いている本人も分かっているんじゃ!だから練習してるんだろ!と言い返す。来年一年で、なんとか このくらい↓にはなりたいが、どうなることか・・・・ Take the "A" Train あ、もちろん先生が弾いている伴奏のパートじゃありませんよ。でも、これって連弾だから、妻の協力が必要だなあ・・・・・説得せにゃ。う~ん、でもピアノ練習そのものより、難しいかも・・・^^;
2010.12.30
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下記に転載するのは、一昨日書いた日記「魂の存在証明」に対して、他のブログでのコメントに対する返事として書いたものです。この方のコメントは、自分は魂の存在を信じるようになった。そのきっかけは、不幸が続いたのである人に観てもらったら、自分さえそのような人が居ることを知らなかった父の亡くなった兄弟の霊の影響だ、と言われたことだったそうです。当然、あとで調べたらそういう人が居たことが事実であったことから、やはり「霊」「魂」というのは存在するんだ、と信じるようになった、とのことでした。で、質問は、これって、私の書いた体験によって「知る」ということになるのか、というものでした。_______________えっと、お問い合わせの件ですが、これは私が言う「体験的」な「知」とはちょっと違います。(笑)これはまだ「信じる」「信じない」の範囲です。私だったら「水子の霊」と「御祓い」がでてきた時点でおいとまします^^;御祓いに金銭が付きまとったら、そこでアウトです。ただだったら、やってもらってもいいですが・・(笑)まじめな話、私が言っている「経験」「体験」はもう少し直接的に「魂」として、あるいは「肉体を超えた存在」としての自分を経験することです。こうは言っても、普通はそれが具体的にどんなことを指すのか見当もつかないでしょうけれど、例を上げれば、1.臨死体験 :これは数万、数十万人の人が経験しています。多くの場合、自分の肉体を外から眺める、肉体的には医者も「死んでいる」と判断されている間も、自分自身は意識を保っている。2.体外離脱 :これは方法論が確立されていて、経験のない人でも自分の身体から意識だけを分離できます。1.と同様に、自分の身体を外部から眺めることもできるし、体外離脱した人間同士でコミュニケーションした後、肉体に戻ってからそのときのことをお互いに確認しあうことで、実際に意識が肉体を離れたことが確認されます。3.退行催眠 :今生の範囲での退行催眠の場合はそうでもないですが、前世まで遡る退行催眠で、もう一つの人生を「思い出す」ことがよくあります。そして、その前世の記憶を、実際に後からそのような人が実際に生きていたことを確認できる場合があります。4.RV:リモートビューイングというものですが、これも方法論は確立されていて、訓練すれば誰でも出来ます。これは上の2の体外離脱に似ていますが、違うのは外から自分の肉体を見る、と言った経験はありませんが、意識だけが異なる時間、異なる空間に移動することが出来ることです。「意識」の世界には普通の「時間」が存在しないようです。で、あとから、例えば、意識が認識した遠方の状況を、その場に居た人に実際と合っていたか確認することにより、それが幻想や想像でないことが確認されます。と言ったことです。これらの経験を実際にした人は普通考える以上に多く居て、そういった人たちは、人がなんと言おうと、魂、あるいは「意識」としての自分、つまり肉体を超えた存在としての自分が居る(在る)ことを知るようになります。これは「信じる」という以上の認識です。_________こういう体験、経験をすれば、ここまでにはなれる、ということをもってしても、まだ「魂」の存在の証明にはならないことはわかっています。言ってみれば、「信じる」度合いが、それを経験した個人においては、かなり深いものになる、というに過ぎないかもしれません。また、これでも「意識」が肉体とは分離できることはわかっても、それが時空を超える「魂」だと、どうして言えるのか、という問いもあるかと思います。残念ながら、それに対する回答は持ちません。なんとなれば、これらの体験はどこまで行っても、「模擬」体験だ、と言えば言えるからです。本当の経験は、それこそ本当の「死」を経験して初めて得られるものですから、それを持ち帰って、現世に生きる人に伝えることはできません。いえ、死者からの通信という形であるにはあっても、それこそ、またその通信を受けた人の個人の問題に帰着してしまうからです。一昨日書いた日記は、その限界を踏まえたうえで、如何に体験的に「知る」ということを、長年の修行やその結果としての悟りなどを経ずに、もっと対象を広げることができないか、というものでした。今時、長年の修行や瞑想を以って、悟りにいたることができる人はそうはいない、という前提のもとに、です。もう一つの前提は、こういった認識に到達する人がごく限られている現状を放置できなくなりつつある、ということです。今の人類のあり方、地球のあり方、そういったものを考えると、分かる人だけが分かる、と、その認識を少数の人に限定してきた今までのあり方が許されなくなりつつあるのではないか、というものです。これに関しては、またいつか日を改めて書きたいと思います。
2010.12.29
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鬼が笑うかもしれないが、今日、とあるオーストラリアのお客さんと2時間近く電話で会議。いろいろと質疑応答が続いたが、この案件、ひょっとすると、2011年でも最大の案件になるかもしれない、という予感。まだ歳も明けていないので、今の時点で「最大」なんてとても言えはしないが、少なくとも今までの案件に比べたら、最大規模になるかもしれない。今年は昨年比、200%以上の販売を達成したので、逆に来年はまたへこむかも知れない、と心配していた矢先。この案件がものになればこれ一件で昨年の年間売り上げぐらいいくかもしれない。まだ始まっても居ない2011年。始まってもいないので「幸先よい」とは言えないかもしれないが、少なくとも来年の新年は、あらたな希望と挑戦目標を持って迎えられそうだ。感謝!!
2010.12.28
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耳コピというのをご存知でしょうか?私もつい最近(と言っても一年ぐらい)前までは知りませんでしたが、YouTubeなどを見ると、ギターの弾き語りをしている人が、「これは耳コピなんで正確ではありません」とか「楽譜をください」と言われて、「いえ、ギターを弾いてはいるけれども、耳コピなんで楽譜はありません」とか書かれているのを見て、ああ、耳でコピーしているんだな、と分かった次第。よくそんなことが出来るなあ、というのが最初の感想で、中には一度その音楽を聴くと全て頭に入ってしまう人が居るくらいだから、個人差が大きいのだろう、自分はとてもそんなことはできないだろうな、と思っていた。しかし、先日から、ちょっとビデオで初めて聞いた曲で、楽譜もなければギターのコードも分からないけれども、なかなか簡単そうで、それでいて結構いい曲だったんで、試しに自分でこの「耳コピ」に挑戦してみた。初めは、ビデオを見て、そのメロディーを頭に入れながら、ギターを弾いて音を拾ってゆく。次にそのメロディーを弾きながら、それに合うコードを探してゆく・・・・。メロディーは結構すんなりと聞き取れたが、その後のコード探し、これがなかなか出来ない。でも、なんとか2、3日してどうにかギター伴奏ができるレベルにはなった。それでも、何度か弾いていると、ここはこのコードの方がいいな、とか、ここにもう一つこのコードを入れたほうがいいな、と言った具合に、それ以降も数日は弾くたびにコードが変わっていって、落ち着いたのは始めてから約一週間後ぐらい。でも、今それを弾いてみても、結構ぴったりとコードが合っているので自分では大満足。よし、これなら、自分でメロディーを作って、それにコードをつけることだって出来そうだ、というので、今日はとうとうほこりをかぶっていた昔のキーボードを持ち出してきた。カシオのキーボードなんでいろいろな音源が選べるし、リズムなども何十種類もあり、テンポも自由に変えられるので、これは作曲用あるいはギター演奏のときのパーカッションにいいな、と思っていじっていたら・・・・・息子がつかつか、と近くに来て、「ギターだけでもうるさいのに、今度は何を始めるのお?」だと。ほっとけ。
2010.12.27
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今日は、午前中からみぞれのような雪が降り始め、夕方からはそれが積もり始め、本当の「ホワイトクリスマス」になってしまった。明日は日曜日。朝教会へ行くのは車なのだが、この雪がどれだけ積もっているかによって、明日は家にとじこもっていないといけないかもしれない。そんな中、魂の存在について。全てのスピリチュアリティー、ほとんどの宗教は、人間を肉体を超えた存在とするか、魂の存在を前提としている。そこで、それを信じるかどうかで二通りの人間が現れる。つまり、魂の存在など信じない人間と、それを信じる人間と。でも、もう少し言えば、魂の存在を信じるのではなく、「体験的に」知っている、という人もいるかもしれない。この「体験的に」ということは、あくまでもその個人の主体的な経験なので、これでもって魂の存在を証明することにはならない。だが、その人間にとっては、自分の疑い得ない経験から、魂の存在を知る、ということになる。これが全ての人に起きれば話は簡単なのだが、それがそうでないから少しややこしい。いくら体験した、と証する人が居ても、あくまで自分が経験しない限り納得しない人間が大部分だろうし、いわんや経験したとしても、それを思い違いや幻想として片付けてしまう人間がいることは否めない。この「魂の存在」を、もし全ての人に「証明」できたら、もしかすると全ての人間の生き方が変わるかもしれない。すでに、「知」ってはいなくとも、「信じる」だけで変わった人は多い。それが、今度は「知っている」という形になると、劇的に変わるのではないだろうか。ではその「証明」は可能か。もし、可能ではないとすると、宗教やスピリチュアリティーはいつまで経っても「信じる」か「信じない」という問題に帰着するだろうけれど、もしこれが「証明」できたら、それは「知っている」か「知らない」か、の問題になる。今の人類、「心」さえよく分かっていないのに、ましてや「魂」をや、かもしれない。でも、もしこの「証明」が可能であれば、人類の未来は圧倒的に明るいものになるという確信がある。なんとかならないだろうか?
2010.12.26
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ある本で、人間は常になんらかの選択をしている、と書いてあった。ところが、現実は、そんな選択をしていることすら意識していないのが普通だ。なにか現象がある。その現象を自分の心が受け取る。その受け取った現象に対して、自分の中になんらかの感情がおきる。そしてその感情と同時に、理性も働いて、その現象に対して今度は自分の方からなんらかの反応を外界に起こす・・・・こういった一連の流れが連綿と続いているのが日常だろう。この一連の流れの中で、起きている現象を受け取る「心」、それを受けて湧き上がる「感情」、そしてそれに対して反応する上での「思考」、最後に、その感情と思考を受けて、言葉なり行動なりを自分の反応として外界に表現する、その過程でいくつもの「選択」がされているのだ。こういった選択を普段は意識していないが、人間、意識的にその言動を選択するためには、この一連の動きの中での自分の選択を見つめなければならない。そうはいっても、一朝一夕に出来るものでもない。たぶん、やろうとしてもすぐに疲れてしまうだろう。そのための訓練として「止観」というのがある。この言葉は、もともとは仏教の用語だろうけれど、そこでは禅と同じで、静かに自分の心の中を見ることを指すようだ。しかし、上に書いたように、全ての自分の言動を意識的に行うための訓練としての「止観」は、それとは少し異なる。この「止観」は、自分がある現象に出会ったときに、その心の動きを、上に書いたように順を追って認識する行為を指す。人と会う。話をする。なにかいやなことを言われる。言われた内容は現象だが、そこから起こる自分の心の反応と、それに対する返事や行動は、自分自身の選択を示しているわけだから、これを順を追って書き出してみる。書き出してみると、自分がなぜそう感じ、どんな考え方をして、最終的にそんな言動を返したのか、が見えてくる。ここで、自分の心の動きをじっと見つめる行為の結果として、自分の選択の傾向を捕まえることができる。これはなんのためか、というと、自分がどんな人間か、ということを自分自身でよりよく認識するために行う。でも、やってみるとなかなか難しい。これも経験かな?
2010.12.24
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前にも書いたが、日本人の留学生が減っている、という記事がまた出ていた。過去最大の減少幅だと言う。一方、日本の大卒などの就職状況はかつてないほど厳しく、大卒でも就職先内定がまだ6割にも達していない、という記事もどこかで読んだ。今の日本の就職というのは、いろいろ改善されてきているとは言え、未だに新卒優遇である。つまり、大学を卒業してから何年か経つと、一段と就職状況は悪化の一途をたどる、ということである。中途採用が増えているようだが、この中途採用にしても、一度どこかへ努めてから転職する、つまり、採用側としては即戦力を求めてのものが多い。新卒でもなく、一度も正規雇用になっていない人間は、その面でもますます不利になる。昨日の日記でも書いたが、日本の学生の、特に高校生レベルの学力は、諸外国と比べても引けをとらない、と思っている。書いたように、例えばアメリカでSATやACTを受けるとすると、内容的には相当な高得点を期待できる高校生はたくさん居る。当然、英語がネックになってくるが、この英語にしても実際に、若いうちに現地で勉強したら、せいぜい一年で相当な実力が付くに違いない。日本では、高校から大学へ進学する段階で、相当数の高校生が浪人する。また、先に書いたように、大学を卒業してから、正式な就職をせず(あるいは出来ず)に、何年も過ごす元学生も増えている。この二つを考えると、もっともっと海外に目を向けてもいいのでは、と思えるのだが、実際はますます「内向き志向」が強まっており、留学生は減少、会社に入ってからも、海外勤務は敬遠する傾向が強まっているという。なぜだろう?就職氷河期だ、とか、いろいろ言われる日本だが、その背景に、学生側のリスク回避、挑戦意欲の減少などがあるように思えてならない。日本は居心地が良すぎるのだ。反対する人はいるとは思うが・・・・・。
2010.12.23
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娘は今11Grade、日本で言うと高校2年生。つまりは、来年は大学を決めなければいけない。日本と違って、大学入試というのがないんで、日本の高校生のように受験勉強というものも特にない。しかし、受験がないからと言って勉強していなければ、やっぱり大学へはいけない。なぜなら、SATとかACTと言った、全国レベルでのテストがあり、その成績と、高校での全部の成績の平均値で合格・不合格が決まるからだ。高校一年のときからの成績も平均されるので、逆に高校2年まで遊んでいて、3年になってから頑張る、というのが出来ない。もしかしたら日本より、その点では厳しいかも・・・。で、そのSATとかACT、これは日本で言えば共通一次テストみたいなものだが、強制ではなく、自由参加なのと、何回もあるので、何回受けてもいい、という点、そして、公立だけではなく、私立もこのテストの点数を合格の基準とするところが多い、という点で異なる。で娘がこのSATの高校2年生版を受けた(プリSATという)。科目は、英語のリーディング、ライティング、そして数学の三科目。娘の出来が悪かったわけではないが、上の息子と比べると数学で大きく差が出ている。で、どんな問題なのか、と思って私も数学だけでも試しにやってみることに・・・・。英語はさすがに高校生の英語だと、語彙力ですでに歯が立たないが、数学だったら出来るだろう、と思ったからだが・・・。全部で38問。制限時間は50分。こんな短くて出来るのか俺・・・・、と思ったが、やってみたら唖然。なにか日本の小学生でも出来そうな問題から、せいぜい中学程度の基礎問題ばかり。娘は、38問中8問ほど間違えている。これでも全受験者中8割以上のところにいるという。問題はすべて難易度が付いていて、娘は見事に、難易度高の問題がほとんど出来ていない。この難易度高の問題は、ちょっと英語がよくわからない問題もあるにはあったが、山勘でやったら娘が間違えた問題も全て30秒足らずで正解が出せた。う~ん、これだったら英語さえネイティブ(現地人並み)だったら日本の高校生の相当部分が満点も難しくない、という感じ。結局、娘の場合、点数とか全国の中での位置づけは悪くはないけれども、なんでこんな簡単な問題が出来ないの?という不安が出てきたわけだ。学校の教科書を見ると、結構日本の高校より難しいことをやっている。なのにこの有様。受験勉強以前の問題で、学校の授業さえきちんとこなせていない、ということだろうか。それとも、物理や他の科目が大変で、数学などに時間をかけられないせいだろうか?これに比べたら、日本の大学の入試に出る数学の問題なんて、超・超・超・難問になってしまう。ここがアメリカで良かったあ・・・・・。日本だったら苦労しただろうなあ・・・・。しかし、日本の高校生は可愛そうな気がしてきた。一所懸命勉強して、あんな難しい試験をかいくぐって大学へ入っても、大学ではろくに勉強しないから、大卒のレベルでは、世界の中を見てもレベルが低くなってしまっている。これは、日本の教育制度の問題かな?
2010.12.23
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なぜかキリスト教の本ばかり何冊か買って読むことになってしまった。ちょっとでも関係のある本で言えば、すでに20冊以上にはなっているだろう。その中には、死海文書やユダの福音書、それに史学的な本や、比較宗教学の本、それに啓示書と言われる啓示を受けて書かれた、とされる本まである。別にクリスチャンでもないし、神学を勉強しよう、というわけでもなく、ただ興味があるから、というに過ぎない。しかし、それもそろそろ終わりかな、と思う。もともとの興味が世界の構造であり、その中における自分の存在そのものの探求だった。その延長で聖書に興味を持ち、成り行きで教会へも足を運んで聖書に関して勉強させてもらった。しかし、その勉強=つまりバイブルスタディーというものの中身は、聖書を絶対とするという前提で、そこに書かれていることを学ぶ、というスタンスである。たとえば、新約聖書には、マルコ、マタイ、ルカ、ヨハネの4福音書があるが、ヨハネの福音書だけ少し毛色が違う。これらは、例えばヨハネの場合、ヨハネの福音書とは言わず、ヨハネによる福音書となるが、実際にヨハネが書いたものかどうかは定かではない。それにしても、この4福音書に限ってみても、その内容には相違が見られ、よく言えばイエスの人となり、あるいは行動、言動を立体的に見せてくれる半面、そこここに矛盾した言い回しも見られる。こういった矛盾や相違点に対しても、上記バイブルスタディーでは、あまり気にしないし、学びとして取り上げるのは、都合のよい部分だけ、あるいはつじつまが合う部分だけ都合のよいように取り上げる、ということになる。それに対して、史学としての聖書研究、あるいは、この正式な聖書ではなくて、その外典や死海文書、トマスの福音書、ユダの福音書などを読んでみると、それこそ、まったく違うイエス像が語られる。そのどれが正しいか、あるいは真実か、などということは、今となってはなんとも言いがたいのだが、それらを「間違い」「異端」とするのが現在のキリスト教の立場であることは確かだろう。もっと言えば、聖書の中心は、これらの福音書もさることながら、その後に出てくるパウロによる各種の手紙、たとえばローマ署などが、今のキリスト教の教義を確立する上でもっとも重視されたもの、と言えるだろう。これらを立体的に読んでみると、いろいろと面白く、ひとつの謎解きのような感覚も生まれてきて、興味が尽きないのだが、先に言ったように、これ自身をこれ以上追及しても、あまり興味を満足させる以外のことは期待できそうにない、という感じがしてきた。そろそろ「聖書」を切り口とした世界の構造探求にも区切りをつけるときが来たような気がする。この間学んだことは多かった。キリスト教という一神教の代表を学んだことにより、なんとなく、なんとなくだが、その描くところの世界観、宗教観というものの一端がわかるようになった気がする。当然、これよりもずっと深く研究している人は無数にいるだろうし、勉強しようとすれば、それこそ無限にその対象はあるのだろうけれど、私自身の目的に照らして、それは必要でもないし、そうしたい、という強い気持ちもない。そろそろ終わりかな・・・・
2010.12.22
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久しぶりにハイブリッド車の燃費について。前回は、とうとう平均燃費が40マイル/ガロン、つまり16km/Lぐらいにまでなった、というところでした。2.4LDOHCの車としては、かなりいい線行っている、と思っていた。ところが、最近、日中でも零度Cに行かない、という寒い日が続いて気がついたのだが、寒いと、この燃費がかなり影響を受ける。今はなんとか35マイル/ガロンを維持するのがやっと、というところ。原因としては、暖機運転の時間が長い、また、エンジンストップがなかなかかからない、というのが大きいようだ。でも、なにかそれだけではなく、どうも電気モーター駆動に移行する割合そのものがかなり少なくなってしまうようだ。ともあれ、夏から秋にかけてはカタログ値以上の好燃費だったのが、今はほぼカタログ値どおりの燃費になってしまった。まあ、それを下回っているわけでもないので、大きな問題ではないけれど・・・また、ハイブリッド車を運転していて、時々、燃費の計算について考える。なぜか、というと、走行中に出るその時点の走行燃費と、実際に走り終わって出てくる平均燃費に、感覚的にはかなり差が出るからだ。で、頭の中で考えても結論が出ないので、ここで頭の体操を兼ねて、やっつけてしまおうと・・・(というほど、難しい問題ではありませんが・・・)この算数の問題は、燃費20km/Lで100kmを走り、次に燃費10km/Lで100km走ったら、平均燃費はいくらになるか?というもの。感覚的には、平均15km/Lになりそうな気がするが、実際は、予想としては、多分15km/Lではなくて、それよりも大分悪いはず、というものだが、さてどのくらい悪いか・・・・まず、最初の100kmで消費するガソリンは100÷20=5Lとなる。次の100kmは同様に、100÷10=10L となる。つまり、合計200kmを走るのに、計15Lのガソリンを使ったことになり、予想通り、平均燃費は15km/Lではなく、200÷15=13.3km/Lとなる。人間、錯覚しやすいので、しばらく30km/Lぐらいで走って、同じぐらい10km/Lで走ったら、平均20km/Lぐらい行っているはず、と思えてしまう。ところが実際は、ガソリンの消費量の平均なので、悪い時の消費量に引っ張られることになり、実際の燃費が15km/Lだったりすると、あれ、変だなあ、と感じてしまう。実は変なのは、その感覚の方なのだが・・・・で、じゃ、逆に平均40マイル/ガロン(M/G)で走ろうとすると、60マイル/ガロン(M/G)の運転と20マイル/ガロン(M/G)の運転をどのぐらいの割合で平均しなければならないだろう?というのが次の問題。(ここで突然、ガロンとマイルになります。つまり、こちらの実際の問題に即して・・・)平均40マイルで、例えば200マイルを走る、と仮定すると、ガソリン消費量は5ガロン、となる。 で、60M/GでXマイル走り、20M/GでYマイル走ったとすると、まずは、X+Y=200マイル でなければならない。次にガソリン消費量は、X/60+Y/20=5ガロン でなければならない。つまりX+3Y=300この二つから、2Y=100となり、Y=50マイルとなる。つまり、60M/Gと20M/Gとで交互に200マイル走るときは、60M/Gで150マイル、20M/Gではたったの50マイルしか走らないとき初めて平均が40M/Gとなる、というわけだ。ということで、感覚的にはもっと燃費がいい運転をしていると思っても、実際はそれよりも大分悪い、というのがこの計算でよく分かる。しかし、俺もヒマだなあ・・・・(笑)
2010.12.21
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このところ、日記をサボっていたら書く内容がまたまた溜まってしまった。一度、そのうち書こうと思って、「覚書」という形でとりあえず日記に項目だけ上げておいたけれど、結局はやはり書かずじまい。やっぱり思い立ったときに書かないと、永久に書かない、ということになりそうだ。で、今回は今日の日記の第三弾。 自分の成長について。人間、成長するに必要なもの、って何だろう?最近、自分の成長を図るために、ある勉強会に参加しているが、どうも今一成長の実感がない。しかし、別に競争しているわけでもないが、他の人の実践報告を見ると、結構な進歩をしている。こういった場合、その原因となるのは、やはり「真剣さ」だ、と思う。そして、その「真剣さ」をもたらしているもの、それは、多くの場合、その状況の深刻さだ。つまり、その人にとって、状況が深刻であればあるほど、取り組みの姿勢は真剣になり、それがあって初めて、その人の成長が生まれる、と言ってもよい。翻って自分のことを考えると、これはもう「勉強のため」ということで実践課題を「作り上げている」から、どうもこの「真剣さ」に欠ける嫌いがある。そうなると、勢い、せっかくやっているのに、それが自分の成長に寄与しない、という結果になる。こうやって見ると、試練こそ人を磨く、というのは本当だなあ、と実感。でも、試練や困難を自分で作り出すことはできないし・・・・ということは、挑戦せよ、ということかな、とも思う。少なくとも現状に満足しているところに進歩はない。可愛い子には旅をさせよ・・・・・。自分に対しても同じことが言えるのかな、っと。
2010.12.21
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先日、ガレージセールで買ったオイルヒーター、買ってから、これってどんなもの?と調べて見た(遅い!って・・・)だいたいオイルヒーターというものをよく知らなかったし、ただ安かったから買っただけで、メーカー名もなにも一つも知らなかった。で、今回買ったものは、デロンギ(DeLonghi) というメーカーのものだったが、買ったときは、韓国製か中国製の安物かな?と思ったものだ。なにせたった$5(約400円)で買ったのだから、そんないいもののはずがない、と思っていたのだ。ところが、調べてみて驚いた。このデロンギというメーカー、日本でもオイルヒーターと言えば、デロンギ、というぐらい有名らしい。(と言っても、ごく限られた範囲だが・・)で、買ったモデルに一番近いものはどれか、とネットで調べてみたら、これ⇒ デロンギ・オイルヒーター型番からすると、これだし、写真を見る限り全く同じもので、仕向け地が日本とアメリカで品番が違うのだろう。しかし、これって、¥55,650もするの!?まあ、定価だろうから、実販売価格はもっと安いんだろうが、しかし・・・高い。これを中古とは言え、壊れるものでもないので、$5で買ったと言うのは、もしかしたらすごい掘り出し物だった?でも、その後、近くの家電ショップに行ってみたら、少し下位のモデルしかなかったが、$60ぐらいで売っていた。日本の価格の10分の1じゃないか・・・なあんだ、と多少がっかりしたが、しかし、そうなると、日本はなんであんなに高いんだ?もしかしたら、販売代理店が暴利を上げている?とにかく、いろいろと見てみると、日本はものが高すぎる、ということが良くある。こちらのブランドで、Coachとか、ティファニーというのがあるが、これは女性だったら知っているかもしれない。このハンドバッグや、あるいはアクセサリー、時計の類にいたるまで、日本ではこちらの2倍から下手をすると3倍ぐらいの値段になっている。日本人はブランド志向だから、逆に、法外な値段を払わされているんでは?と疑いたくなる。これだったら、日本の若い女性が海外へ旅行して、ブランド品を買いあさる理由がよくわかる。つまり、ぜんぜん安いのだから。ましてや、この円高、日本で買うことを考えたら、旅行代金ぐらい軽く浮いてしまうかも・・。で、こちらから日本へのお土産は、こういったアメリカでは安いが、日本では高い、というブランド物が主となる。相手には喜ばれ、こちらの腹はそれほど痛まない、という一石二鳥だ。ということは、この価格差、これはこれで、いいのかな?(笑)
2010.12.21
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今更ながら、キリスト教というのは、主イエスの救済を信じる宗教である、と感じている。そんなの当然だ、と思われるかもしれないが、なぜか私には、イエス・キリストの教えを信じる、というイメージがあって、その「教え」そのものを信じる宗教だ、と思っていた。ところが、当然「教え」を信じることもそうなのだが、イエスの、半神・半人としての存在、つまり神がその一人子をお与えになって、と言われるような言葉に代表されるように、イエスの教えではなく、イエスを「神の子」「神の一人子」として信じる、というのがキリスト教だということに今更ながら気がついている。当然、その言われることは「神」の言葉だから『絶対』だ。教会には、イエス様、ああ、イエス様という雰囲気が満ち溢れていて、中には、イエス様は私の永遠の恋人よ、なんてことをいう人も居る。つまりイエスに心酔しているのである。で、だいたいの場合、そのもっとも大きな要因は、イエスが人間の罪を一身に背負って、十字架上で死んでくれた、ということに帰着する。それほど心酔するならば、そのイエスがどんな人だったのか、ということにもっと興味を持って、いろいろと調べるのか、と思えばそうでもなく、単に「聖書」に書かれていることを繰り返し繰り返し読み、勉強し、「イエスがいかに立派なメシアであったか」ということをこれでもか、というぐらいに自分で自分に納得させるのだ。ただし、その中身はけっして「聖書」、つまり正式に認められている「聖書」の範囲を一歩も出ない。いや、出てはいけない、ということになっている。なぜならば、それ以外は「異端」だからだ。しかし、自分が信じ、心酔する対象がどんなものか、あるいはどんな人か、ということに関して、一方的に、人から与えられたもので、あるいは限定された情報で満足する、ということが、私としてはどうしても考えられない。自分の判断ではなく、他人の判断での「正義」と「異端」をそのまま受け入れることだからだ。自分は自分の判断を尊重したい。しかし、それさえも、人間の思い上がりと言われるんだろうな・・・・(以下、長いので略)
2010.12.21
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今年も終わろうとしていますね。今年も2度日本へ行き、いつになく大量に本を仕入れてきたのですが、はっきり言って読めていません^^;まだ読んでない本が50冊ぐらいありそう・・・・毎日何かしら読んでいるのですが、何を読んでいるか、というと過去に読んだ本をまたぞろ読み返したりしている。好きな本になると、3回も4回も読んでしまう。同じ本を読むと、同じ箇所にまたインスピレーションを感じる場合もあれば、以前には全然感じなかった場所に、すごく意味を見出せたりする。要は、一度読んでも頭にはよく入っていないので、何度読んでも新鮮だ、という非常に得な性格なのかもしれない。しかし、興味がある本はなんど読んでも面白い。こういう本がだんだん増えてきているので、その本たちの間を巡回していたりする。でも、そろそろ買いこんできた本にも手をつけなければ・・・・。ということで先々週と先週は、三田誠広の「ユダの謎・キリストの謎」というのと ヘラン・エラーブという人が書いた「キリスト教暗黒の裏面史」という本を読んだ。別にキリスト教のアラを探しているわけでもないし、キリスト教を非難する目的で読んでいるのでもない。単に、あることを考える時には、それに関する異なる見方をできるだけ踏まえた上で自分の中での理解を育みたい、と思っているだけ。特に科学・疑似科学に関してはこの姿勢は絶対に欠かせない。それをキリスト教にもあてはめているだけだ。残念ながら、この2冊、いろいろと面白いことが多く書かれているが、何回も読もう、という気になる本ではなかった。なので、これで「積読」の山が2冊減った。さて、次は何にしようか・・・
2010.12.16
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毎週、勉強会を開いているお宅へ昨日も伺った。なんの勉強か、というと人間の生き方に関するお勉強。そんなお宅へ、日本から二人の若い人が今来て滞在している。どちらも30歳前後。そして、どちらも、アメリカのこのお宅へ来た目的が似ている。その目的というのは、「自分の本当の願いを見つけたい」というもの。あるいは、本当に自分がやりたいことを見つけたい、という言い方でも良いかもしれない。一人は女性で、数ヶ月いる予定だが、昨日来られた男性はたかだか20日間ぐらいの滞在だそうだ。20日間でなにができるかは疑問だが、本人曰く、来ることが待ち遠しくてたまらなかったし、来れば短い間であるにせよ、なんらかの答えが見つかる、という予感がある、という。少し以前から滞在している女性の方は、すでになにかしらの手ごたえをつかみ始めている様子。これから、この一家と、私と、それにこの二人の訪問者を交えて、この勉強会が続く。毎回、多くの学びがあるが、こういった他の人の、違った考え方、違った感じ方に出会うこと自体も多くのきづきを与えてくれる。人はそれぞれだ。しかし、だいたい、その人の良いところや、逆に悪いところは、本人にはあまり見えていない場合が多い。おそらく私自身もそうなのだろう。他の人からの指摘を受けて、初めて、そうかなあ、という感じがすることもしばしばある。まあ、自分を見つけるのに、自分だけで頑張らなければいけないという理由もない。私は個人的には一人で何かを学んでいくというのが好きなのだが、ある意味、切磋琢磨ではないけれども、グループで学習してゆく、というのもなかなか捨てがたいものだ。
2010.12.15
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今年の夏は、日本もそうだが、ここアトランタも何十年ぶりという暑さだった。エアコンを一昨年に、省エネタイプに変えたのだが、昨年はそれなりに効果があった、と思っていたら、今年は3年前を上回る電気代! あれだけ暑かったら仕方がない、とあきらめ気味。そして、ここへ来ての寒さ。これも、12月にこんなに寒いのはあまり記憶がない。今日も、朝多少暖かかった(と言っても数度C)と思っていたのに、みるみる気温が下がり、昼ごろには零度C、昼過ぎには零下1~2度Cにまで落ち込んでいるし、午前中から雪が舞っている。雪は量が多くはなく積もる様子はないが、それにしても明朝の最低気温は零下5度Cぐらいにまで下がるらしい。冬も、夏の反対の「異常気象」でなければいいのだが・・。
2010.12.13
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子供が大きくなるにしたがい、年々さびしくなる我が家の飾り付けですが、今年も遅ればせながら、やっと屋根裏からおろしてきて、クリスマスツリーをおきました。飾りつけはまだですけれど・・・・こんなのです↓あ、違った! これは、先日の娘のクリスマスコンサートの会場でした^^;うちのはこれ↓まあ、高さは2mぐらいあるけれど、ちょっとさびしい。暖炉の回りも・・・・う~ん、もっとさびしい・・・・・
2010.12.09
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ある本にあった言葉。「自分がどうして、ここでこうして生きているのか、どこから来て、何をしに人間として生を受け、そして死んでから自分がいつ、どこへ行こうとしているのか、こういったことが全て分かった今は、それ以外にどんな大きな問題があるというのだろう?あとは小さな問題ばかりだ。」ここまで言える、というのはすごいことだ。そして、その「事実」を発見してゆく過程をこの人は本にしている。「人間は、肉体を超えた存在である」ということなど、もう当たり前であり、その上で、「では、どういった存在なのか?」ということを追求した著者の歩みだ。批判する人はどうとでも批判するだろうが、しかし、掛け値なしに面白い。
2010.12.08
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今日も、今年の自殺者が3万人を越えそう、という記事が出ていた。 ⇒ 今年も自殺者数3万人突破確実前にも一度書いたことがあるが、こう数字が大きいと、だんだん感覚が麻痺してくる。身近に起こったら、一人でもすごい衝撃なのにもかかわらず、日本全国で3万人、と聞いてもあまりピンと来ないしかし、4千人に一人が自殺している、ということだし、それも、東京、大阪、神奈川の上位3都府県では、もっと比率が高いかもしれない。諸外国に比べての特徴というと、経済苦の自殺が多いことと、若者の自殺も多い、ということだろうか。私見では、宗教がないこと、あるいは信仰心がない、ということも影響しているように思う。宗教だと、自殺したら死後どなる、という脅しみたいな理由がついて、自殺を「悪」とする傾向が強いが、そんな理由よりも、もっと合理的に、この世の中へ生を受けた意味を、もっともっと、生きている人間は考えるべきではないか、と私は思う。今の日本人は忙しすぎる。毎日の日常のなかで、じっくりと「生」や「死」の問題を考えることがあまりにも少ないのではないだろうか。普段考えていないことは、いざ克服できそうもない試練や困難に会うと、生きる意味を考えずに「死」への逃避を、最善の解決手段だと思い込みがちだ。そういった意味からも、難しい意味ではなく、人の生死に関して、普段少しでも考える時間をもち、なぜ人間は生きているのか、という「生」の意味をもう一度考えてみるのも無駄ではないだろうと思う。
2010.12.07
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朝起きて、朝食を食べながらスターバックスのコーヒーを入れる 食後に 濃い目に入れたコーヒーをすすりながら、外へ出て一服。 横では、飼い犬のはるかがまた出てきて、塀の方を気にしつつ、こちらをちらちら見る。 コーヒーを飲み終わり、家の中に入ろうとすると、はるかがすかさず割り込んでくる。 家の中で、しきりに出口の方へ向けて、顔をしゃくる。 仕方がない。 少し寒いけれど、散歩してやるか・・・ あいにく曇り空だが、風もなく、30分も早足で散歩をしているとぽかぽかしてくる 散歩のあと、午前中に、少し仕事をして、あとは下手なギターを弾く。 午後は、車で、日本へ帰国する日本人がやっているムービングセールにいって、掘り出し物をゲット。 帰ってからひとしきりすると、早くも夕方。 娘の希望で、家族そろって、好物の韓国焼肉店に。 上等のカルビと豚肉と、シーフード丼を、久しぶりに腹いっぱい食べる 円高のせいで、どうも日本円に換算するとやけに安く感じる今日この頃 家族で腹いっぱい食べて5000円の夕食。 帰ってきて、ひとしきりPCをいじっている。 う~ん、なんか、すごく贅沢な生活のような・・・・・・
2010.12.05
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少し前から実践している実験。今は、「試練があれば願いがある」というのをやっています。自分の試練や抱えている問題の裏に「もし」願いが本当にあるのだったら、それはなんだろうか、というものです。(実際には、問題の裏には願いがある。だからそれを見つけよ、という課題なのだが、自分の中ではまだ、そこまでの確信がない)その願いを見つけ出すのにいくつかのステップを踏んで行うのですが、それがどうもうまく行かない。というよりも、もし心の底からの願いーこれを魂の願いと言ってもいいが、それがあって、、今こうしてこの問題に遭遇しているんだ、と思えるからには、その裏には「魂の目的」がなければならない。例えば、病気で悩んでいたら、この病気は、自分を、人の痛みを分かる人間にするため、ということかもしれないし、その場合の願いというのは、「人の痛みが分かる人間に成長したい」ということかもしれない。同じ病気でも、一方では、その病気を通して、いつもならありえない出会いを経験する、あるいは、それまでどうしても嫌いだった人がいやでなくなり、その人と普通に接することが出来るようになった、というケースもあるかもしれない。この場合の願いというのは、「人との人間関係を改善したい、もしくは、どんな人とも、その人の良いところを見られるような自分になりたい」というものかもしれない。それが病気という試練の中ではじめて、自分の中で実現される。それ以外にも、もし病気にならなかったら絶対しなかったようなことを、病気になったゆえにしているかもしれない。つまり、健康だったら考えもしなかったようなことを実践する機会をあたえられた、という場合もあるかもしれない。この場合の願いとは、そのしていることを心の底、魂のレベルでは実践したかった、ということになるのだろう。ことほど左様に、同じ「試練」「困難」と言っても、その裏に考えられる願いというのはいくつも考えられる。実際に、自分が今経験している問題を考えると、自分の性格の欠点を直したい、という願いでもあるようであり、一方では、そうではなく、人の気持ちをもっと分かる人間になりたい、と言うことかもしれない。同じように見えて、実は違う。この辺の、試練の裏には願いがある、ということを自分なりに突き詰めて行ったときに、いったい、その願いというのはなんなのか、ということになるといくつもの可能性が出てきてしまう。そして、そのどれとも思えるし、どれも当たっていない気もする。当然、表面的には思い通りにならない現実そして問題が、解決して欲しいと思っているのは確かなのだが、その解決の仕方が、その裏にある願いによって、異なることがありうる。これは、病気になったら、病気が直って欲しいと思うのと同じで、ある意味ごく自然な「願い」だろうけれど、ここで言う魂の願いというのは、その裏にあるものなので、すぐに直ることが、そのまま魂の願いを達成することにならない場合もありうる。この世の中を学習や修行の場、と捉えると、すべての経験は、その材料、ツールにすぎない。そして、その意味では困難や試練は、克服できる範囲で、難しいほど、解決が困難なほど、その学びは大きい、ということにもなる。そうは言っても、実際にその問題や試練の渦中にある人間には、いったいこれから自分が学ぶことはなんなのだろうか、と言うことに関しては非常に曖昧である。その場で明確に分かっているのなら、そういったものを意識することによって、どんな困難や試練も乗り越えられそうに思えるが、そうではないから、人は悩み、落ち込むのではないだろうか。まだ実験は緒に就いたばかり、もう少し探求を進めていこう。
2010.12.02
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こんな記事がありました。 ↓ 「地球外知的生命体」Mixiの記事なので、もしかしたら見られない人がいたらごめんなさい。つい数日前に、カール・セーガン著の「コンタクト」という小説を読み、また映画も観たくなって、一昨日、この映画のBlue Ray Disc版を購入して観たところだった。この「コンタクト」、人類初の異星人との接触がテーマ。まあ、天文物理学者であるカール・セーガンが、彼自身力を入れてきた、地球外知的生命との交信プロジェクト(SEIT)に関連して、「もし」という仮定で異星人との接触が実現したらどうなるのか、ということをかなり現実的に書いている。その中では、当然、「神の存在」と「信仰」というのがもう一つのテーマになっており、小説の中では、かなりの部分がこれに割かれているし、登場人物の発言も、この「宗教」「神」「信仰」に関連する部分が相当部分を占めるので、これが第2のテーマかもしれない。いずれにしても、このタイミングで、NASAから「地球外知的生命」に関するなんらかの発表が12月2日ある、という。どんな内容なのか興味深々だが、いままでの発表のような、紋切り型の発表にだけはなってほしくないなあ、と。
2010.12.01
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