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昨日、一昨日と日記をパス。書くことがなかったからではない。反対。一昨日の土曜日、知人宅を訪問。いろいろと多岐にわたるお話を伺った。日本の伝統工芸、現代の他のアートとの融合、世界を相手にした普及活動、その中での人間の営みと組織の悩み、そして、いつか書いた、突然怒ってしまって、それきり音沙汰が無かった知人との再会。日曜日は、当然、いつものごとく教会へ。そこで考えたこと。ポイントのみ列挙。*キリスト教の独善性と排他性、*三位一体の危険性、*神と人間の断絶、*ヨハネの福音書の冒頭の言葉「はじめにことばがあった」の「言葉」の意味、*神の子」の「子」と「御子」の「子」の違いについて、*インターネット普及と人間・宗教の関係に与える影響、*のちのちまで伝えることの重要性、*教育における、また学習における「良いこと」「悪いこと」両面の必要性、*キリスト教に「反省」があったのか、*考える力の大切さー自力と他力*神の定義と人間の限界について*子供に教えるべきこと、*子供用賛美歌「5つの約束」の危険性たった、二、三時間の聖書勉強会と説教の間に、いろいろなことが頭を駆け巡る。上のメモは後から思い出しながら書いたもので、その時点では、この倍もいろいろと考えを巡らせていたはずだが、もう思い出せない。そして、この全てが重い。重くて、この日記にさらっと書けない。いつか、書く機会があるのだろうか?それとも、時間とともに忘却のかなたへ消えていくのだろうか?考えたことひとつひとつが、すごく貴重なことのように思える。少しでも書き残して、後から反芻してみたいのだが・・・・・。
2010.08.31
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アメリカで暮らしていると、多少後ろめたいことがある。それは、どうしても車の世話にならなければならない、生活が出来ない、ということで、本当は、車などに頼らず、徒歩で自然にやさしく生きられるならそれに越したことはないのだが。そこで、せめてもの努力というか、ほとんど影響ないだろうが、自分で乗る車ぐらい、少しでも環境に優しく、ということでハイブリッド車を買った。すると今度は、せっかくハイブリッド車を買ったんだから、つまりは燃費が良い、というのをポイントに買ったんだから、徹底的に燃費を良くしよう、と買って二日間、どうやったら燃費がよくなるのか、試行錯誤していた。今のところ分かったことは、アイドリングの停止、発進時の電気モーターでの駆動、走行中の電気モーターへの切り替え、こういったことをうまく組み合わせるのがこつだ、ということ。どうも、ガソリンエンジンから電気モーターへ、電気モーターからガソリンエンジンへ、という切り替えや、完全エコノミーモードとノーマルモードとの切り替えに、ある程度ヒステリシスがあるようだ。ヒステリシスというのは、慣性の法則みたいに、これらの切り替えが、いつも同じポイントで起きるのではなく、今の状態をあるポイントを過ぎても維持しよう、という方向で切り替えポイントが多少遅れることを言う。つまり、このヒステリシスを利用して、できるだけ、ガスから電気への切り替えは早く、電気からガスへの切り替えをできるだけ引っ張る、というような乗り方をすれば、カタログ値以上の燃費も出せる、ということだ。だいたいコツがつかめたので、今回ガソリンタンクを満タンにしたので、この満タンのガソリンでどれだけ走れるのか、親父走りで、限界に挑戦してみよう、と思っている。(でも、そんな走り、かなりフラストが溜まる・・・・・^^;)
2010.08.29
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ある本を読んでいたら、「自己本位」という言葉が出ていた。ある大学の英文科を卒業した若者が、自分のやりたいことを見出せず悶々とし、とりあえず、自分には向いていないと思いながらも教師になる。彼はその後も転々と職場を変えたり外国に行ったり本を読んだりしたのだが、そのやりたいことが分からないまま時が過ぎる。彼は「私はこの世に生まれた以上、なにかしなければいけないと言って、何をして良いのか少しも見当がつかない。私はちょうど、霧の中に閉じ込められた孤独の人間のようにたちすくんでしまったのです。そうしてどこからか、一筋の日光が射してこないかしら、という希望よりも、こちらから懐中電灯を使って、たった一筋で好いから先まで明らかに見たいと言う気がしました」と思うのでした。そして、あるとき、彼は悟るのです。「今まで全く他人本位で、根の無い浮き草のように、そこいらをでたらめに漂っていたから駄目であったということにようやく気が付いたのです。私がここに他人本位というのは、自分の酒を人に飲んでもらって、後からその品評を聴いて、それを理が非でもそうだとしてしまう、いわゆる人まねを指すのです。」そして彼はここに「自己本位」という言葉を考えに考え、やがて「その自己本位を立証するために科学的な研究やら哲学的な思索にふけり」出し、そしてその後の自分の進むべき道を見出したのだそうです。これは、夏目漱石が彼の若き日を語った「私の個人主義」という講和録です。しかし、この自己本位に生きることは、他人本位に生きることに比べると、全てが自己責任になることを含めてきわめて厳しい道となる。つまり、自己本位といい、個人主義といい、それは、全ての責任を自分で担う、自分の人生を自分で切り開く権利に付随して、それに伴う自己の責任の徹底的な覚悟が不可欠だ、ということです。信仰や宗教も同じでしょう。人の言ったことを信じていれば楽だし、それを言ったのは「他人」です。それが間違っていても、期待どおりに行かなかったとしても、その「他人」のせいです。しかし、自己本位は違います。人の言ったこと、本に書いてあることを鵜呑みにせず、自分で考え、自分で答えをだし、その答えに対しては自分が全責任を負うことです。誰のせいにもできません。これは、実生活では、会社に勤めるサラリーマンと、会社を自分で興して運営する経営者の違いみたいなものでしょう。自分の人生の「経営者」になりたいものです。
2010.08.28
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昨日車を買ったので、ふと、いったい自分は今までに何台の車を乗ってきたんだろう?と思いました。もちろん、レンタカーや、人の車を借りて、というのは抜きで。日本に居た頃、初めての車は就職してまもなく、販売実習先のおにいさんより、ホンダZを10万円でゆずり受けたのが最初でした。この車は、田んぼに転落して、逆さまになり、あっけなくおしゃか。以降、さまざまな車を乗り継いできました。 それを列挙してみると、1.ホンダZ 360cc 色:ゴールド2.日産 パルサークーペ 1.5L 色:黒/ゴールド3.ホンダ シティーターボ 1.2Lターボ 色:赤4.日産 パルサークーペ 1.6L 色:白そしてアメリカへ。5.ホンダ アコードセダン 2.2L DOHC 色:ベージュ(*)6.シボレー S-10 Blazor 3.4L V6 色:ブルー この車は盗まれて、廃車になりました。で、保険で買ったのが7.クライスラー LeBaron 3L V6 色:白8.三菱 ミラージュ 1.5L I4 色:白9.トヨタ アバロン 3.0L V6 色:茶10・Pontiac Bonneville 3.8L V6 色:黒11.ホンダ CR-V 2.4L I4 4WD 色:シルバー(*)12.トヨタ アバロン 3L V6 色:白13.トヨタ Sienna 3L V6 バン 色:ベージュ14.トヨタ カムリセダン 2.3L 色:グリーン15.レクサス ES300 3L V6 色:Lexusツートン(白・グレー)16・マツダ Mazda6 3L V6 色:黒17.三菱 ランサーGTS 2.4L DOHC 色:黒18.マツダ Mazda6 2.4L DOHC 色:白19.トヨタ カムリ・ハイブリッド 2.4L DOHC 色:グレー(*)なんと、19代目でした!! この(*)印は主として妻用です。つまり、今回のカムリも多分(本人が嫌がらなければ)主として妻が使う、ということになると思います。しかし、これだけ乗りついてきて、やっぱり最後は日本車になっちゃいますね。シボレー、クライスラー、ポンティアック、と乗りましたが、やはりどこかが壊れる。それも、え、こんなところが?というような・・・その点、最近まで乗っていたLexusはさすがです。10万マイル(16万キロ)超の中古車で買いましたが、5年乗って、大きなトラブルなし。さすがです。最後の方に買っているMazdaやらランサーは子供用ですが、やっぱりトヨタ車と比べると、乗り心地が若者向け。つまり固い。その代わり、さすがランサー、マニュアル車で、加速は抜群。運転していて楽しい。まあ、歳も歳だし・・・・ カムリで燃費を見ながらゆっくりと運転しましょう。なんか、さびしいけれど。乗って一番楽しい、息子のランサーGTSそこそこ元気で、装備充実の、娘のMAZDA 6乗り心地、装備、燃費は抜群。だけど、運転の面白さは??なカムリ・ハイブリッド
2010.08.28
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昨日の日記で書いた車、今日再度ディーラーへ行って試乗。結構気に入ってしまったので、思い切って買っちゃいました^^;2.4L DOHC 187馬力。ハイブリッドで、燃費は市街・ハイウェイ平均で14km/Lぐらい。いいところは、市街地走行でも、この値がほとんど変わらないこと。トヨタのディーラーだったので、オプションで、5年間、バンパーTOバンパーで、走行距離制限なしの保証をつけました。これで、ハイブリッド系も含めて、なにかあれば全部直してくれます。走行距離8万キロ、一年落ちの車ですが、まだまだいけそう。走行距離8万キロというのは、こちらではまだまだLOW Milageの部類です。たぶん、かみさんの車になると思います^^;しかし、これで、借金の山の上に、また借金が・・・。さあ、働かなきゃァ。
2010.08.26
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今、真剣に車を探しています。当然、安い、比較的新しい、燃費がいい、かっこいい、という欲張った条件なので、なかなか見つかりません。5月に愛車のLexusを$4000で売ってしまったんで、今度はぜんぜん違う車にしようかな、とか、マニュアル車がいいなあ、とか、いろいろ希望があちこちに飛んでしまう・・・それとも、娘の車を今しばらく乗り続けるか・・・・。これもひとつの選択肢。で、今のところ、これにしようか、と思っていると思っているのがこれ ↓↓↓↓ トヨタのカムリハイブリッド。日本では売っているのだろうか?Wikipediaで調べて見ると、*********************************2006年1月30日に登場。目標月間販売台数は国内では1,000台、北米では30,000台と発表されている。エクステリアデザインは今までのカムリのイメージを覆すスタイリッシュでアグレッシブなものとなる。2005年末をもって生産終了されたウィンダムを統合する役目もあるため、今回のモデルではさらに上質感に磨きをかける。日本仕様はベージュ内装でエアロパーツの設定もないが、北米仕様にはSE、オセアニア仕様にはスポルティーボと呼ばれるスポーティなモデルが存在しており、3本スポークステアリングを装備し、内装色もブラックである。また、横幅がセルシオ並みに拡大され、エンジンは従来と同じ直列4気筒2400ccだが、馬力が159馬力から167馬力となった。北米仕様にはV型6気筒3500cc仕様やハイブリッド仕様も設定されるが、日本で販売される予定はない。*********************************となっているから、このハイブリッドは北米向けだけのようだ。日本のウィンダムを統合、とあるから、私の乗っていたLexus ES300の後継でもある。 基本はカムリで、そこへプリウスのハイブリッドシステムを搭載したモデル。当然、プリウスほど燃費はよくないが、日本で言えば市内、高速ともリッター14.5km走るし、ガソリン満タンで、900kmは走る。2.4LのDOHCエンジン車としては、破格の燃費の良さだ。装備も至れり尽くせりで、皮製シートが無い以外はほとんど付いている。Dual A/C,All Auto,JBL Stereo System,BlueTooth,Alloy Wheel,AUX,・・・上のWikipediaでは5速Autoとなっているが、このモデルはCVT。乗ってみると、さすがにハイブリッドで、始動時、アイドリング時も静かだし、加速もなめらか。欠点と言えば、バッテリーの分だけ車重が重いことと、トランクスペースが多少犠牲になっているぐらいか。ただ、新車だと最低$26000(約220万円)もするので、とてもじゃないが買えない。これでも、日本の新型プリウスが同じくらいなので、安いといえないこともないが。それでも、やっぱり私には高いので、この一年落ちの車(2009年モデル)で、走行距離もそこそこのものを半額ぐらいで買えないか、と探しているが、どうも$15000(約130万円)ぐらいはするようだ。まあ、10万キロも走っている車なら$13000(約110万円)ぐらいであるんだが、ちょっとそこまでは・・・となると、当然一括ではやはり払えない。他のアメリカ人と同じで、ローンにしようかな・・・ガソリン代は普通の車に比べると、年に7~8万円ぐらいは節約できるので、初期投資はちょっとかかるが、3年も乗れば、普通のカムリを買うよりも得になるハズ、と踏んでいる。その節約代が当面、ローン返済に回る、という感じか・。さて、どうしようか・・・・
2010.08.25
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アトランタにある日本人のキリスト教の教会へ通い始めて何年になるだろう。たぶん、3年半ぐらいか。あれ、4年半だったかな?まあ、とにかくクリスチャンでもないのに、皆さん気持ちよく受け入れてくれて、皆言い人ばかりなので私も日本人ネットワークのひとつとしてこれまで通ってきている。もちろん、それだけではなく、日記に何度も書いているように、キリスト教、そして聖書というものから学ぶことは多い。話をするたび、説教を聴くだびに、それぞれのテーマでいろいろ考えさせてくれる。中には、自分だけだったら考えそうもないことを考えさせてくれ、それが、この教会へここまで通ってきた主な理由だ。しかし・・・・・そろそろ限界かもしれない。もともとあった考え方のギャップが日に日に大きくなっていく。また聞く話、する話が、だんだん事前に見えてきて、その範囲を一歩も出ないのだ。つまり、初期のころたくさんあった気づきが、最近はだんだん少なくなってきている。本当に、信仰によって神の恵みがあるのだったら、私はほとんどそんな恵みとは縁がなさそうである。
2010.08.23
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めずらしく本を定価で買ってしまった。こちらにはBookOffのような古本屋がないこともないが規模が小さい。仕方がなく、近くの本屋へ行って、この本↓ を買ってきました。 「A Course In Miracle」 この本のことは大分前から知っていたが、さすがに英語なのでためらっていた。スピリチュアル系の本としては古典に属する本だが、いまだに圧倒的な支持を集めている本で、今日読んでいた別の本でも、ところどころで、この本が引用されていた。そこで、思い切って買ってみよう、ということになったのだが、買ったら$35。この日本のアマゾンで見たら¥2663円。 為替が85円としても、日本で輸入した本を買ったほうが安い、というのは、どう考えても納得できないが、まあ、いいか。ところで、この本、実物を初めて見たのだが、なんと1300ページを超える!!当然、すべて英語なので、これを見たとたん、がくっと読む気が失せてしまったが、せっかく買ったんだから、少しずつでも読んでゆこう。と言っても、いまだに英語の本で最初から最後まで読み通したのは、不動産エージェントの資格を取った時のテキストだけ。これも700ページぐらいあったが、今度はその倍近い・・・・。さてどうなることか。
2010.08.22
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アメリカで何軒か家を賃貸している。その一軒には韓国人がテナントとして入居していた。「入居していた」と書いたのは、本来はまだ入居中のはずが、連絡が取れないので行ってみると、なんと夜逃げ同然で、家をすでに出ていたからだ。家はもぬけのから・・・・契約は11月までの一年間。先月まではきちんと家賃を支払ってくれていたし、人間的にも良い人たち(家族は、夫婦と犬が3匹)だったので、すごくいい関係を築けていたと思っていた。なのに、今月に限って家賃の振込みがない。電話をしても出ない。で、思い余って直接出向いてみたら、なんと!!この韓国人テナントの前もやはり韓国人家族が借りていた。その人も、仕事の関係でフロリダに引っ越すことになり、1年で出たのだが、最後の月の家賃がいまだに納められていない。ときどき連絡があって、まだ忘れたわけではない、出来るだけ早く払う、と言ってくるのだが、もうすでに一年経っている。ここアトランタは、どういうわけか、アメリカにおける韓国人の一大拠点のようになっていて、すでに恐らく12万人ぐらいの韓国人が住んでいるだろう。勢い、借り手を捜すと韓国人にあたることが多い。アメリカ人の下手な人に借りてもらうより、まだ韓国人のほうがましだろう、と思っていたのだが、こう立て続けに問題のあるテナントが続くと、韓国人への見方を変えざるを得ない。韓国というのは昔から儒教の国で、信義礼に篤い国民だと思っていた。ここがアメリカだからだろうか、どうもそうではなくなっているようだ。しかし、毎月10万ほどのローンの支払いはどうなるんだ?11月には不動産税が30万円ほどかかるし・・・う~ん、悩みは尽きない・・・・・
2010.08.19
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いわゆる「霊感」などを総称した言い方で「超常能力」というのがある。つまり「常」ではない能力、ということだ。「常」というのは「普通の人」に置き換えても良いかもしれない。この類には、超能力といわれるものも含まれる。しかし、霊感と言った場合は、超能力という場合より、多少狭い語義になるのかもしれない。その大分は、普通の人では感じることが出来ないことを感じたり、場合によっては「聞く」ことが出来たりすることを指しているようだ。自分の周囲には、そういった人がいないこともないが、あまり極端ではなく、多少「感度」が良い、というぐらいだった。ところが、今回、そういう能力を持つ人を実際に目の当たりにした。他の人の手を取ると、その人の過去、現在の様子がどうもわかるようなのだ。本人しか知らないはずの過去のことがすらすらと出てきたりする。もちろん、人に話したことなどない、という事柄だから、言われる方はびっくりしてしまう。なぜ、そんなことがわかるのだろう?と。仏教の中で、悟りを開いて、ある階梯に至ると、こういった「超常能力」を得る事ができる、という考え方もある。それは確かにあるのだろう。しかし、問題は、そういった「能力」を持つ人が、全部が全部、そういった人間的な修行やらなにやらで後天的に獲得したのではなく、多くが先天的に、つまり生まれた時からその能力をもっている場合が多い、ということだ。私が見た人もその類で、小さな頃からその手の能力があったらしい。ただ、子供の頃、非常に敏感で、ある程度能力があっても、歳とともに衰えて大人になるとなくなってしまう人も多いらしい。こう考えると、この「超常能力」と言われるものも、普通私達が言うところの「才能」みたいなものだと考えたほうがつじつまが合う。音楽や芸術など、特に感性に関する才能にあっては、子供の頃には秀でたものを持っていたものが、環境によっては歳とともにただの人になってしまう、ということは多い。この「霊感」と言われる能力にしても、これをもっているから他の人と違う、あるいは一段、人間として上の段階にある、とは言えまい。音楽が子供の頃から出来る子供が人間として優れているのではない、というのと同じだ。ただ、能力の現れ方が現れ方なので、どうしても「特別」なものと考えてしまいがちだ。一番始末が悪いのは、本人が「自分は特別だ」と舞い上がってしまうことだが、そうでなくとも、周囲の人が、そんな人を担いでしまう場合もある。そのうちに、本人もその気になってくる、というわけだ。そんな人が日本にも居る。人間としての「謙虚さ」も持たない人に、どうして、こんな「能力」一つでもって、「神に近い」人間だ、などと思ってしまうのか理解しがたいが、多くの場合、そこに人間の欲得がからんできたりするから、ますます厄介なものになるのだろう。才能を持つ人は、その才能ゆえに傲慢になってはいけない、これは常識だろう。その才能を与えられたことに感謝し、その持てる才能に対して謙虚である人こそが、その才能を本当の意味で生かせるし、伸ばすこともできるのではないだろうか。
2010.08.18
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全てのことに意味があるのだとしたら、私が子供の時から耳が悪いのもなにかの意味があるのだろうか?そんなことを考えたこともなかったし、ただ、運が悪かったと思って、別にそれにこだわっていたわけでもない。しかし、ふと、「もし意味があるのなら・・・」と考えていたら、「もしかしたら」という考えが頭に浮かんだ。今取り組んでいる、自分の生まれた理由を探る、つまり自分の心の中に入っていく、という活動の一環だが、もしそうだとしたら、そこから導きだされる答えは一つ。「体験から学べ」ということ。今までも、今現在も、どちらかというと、どこかから仕入れた知識しかなく、自分で行動し、経験する、という体験からの知識にはなっていないものが多い。もちろん全てを体験から、ということは無理だし、そうしようとしても限界があるが、それでも、何かの確信を得ようとしたら、体験に勝るものはない。体験せよ、ということは「行動せよ」ということか・・・・しかし、根が怠け者なんで、つい安楽な方向へ流れてしまう・・・もしかしたら、これか?
2010.08.17
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今日は、Mixiで出ていた、ムービングセールでの掘り出し物をゲットしてきました!! 実は食器棚なんですが、私はこれを本棚に利用。ちょうどガラス戸がついていて、棚もあるし、ちょうどいい。日本製だとのことですが、$80で譲ってもらいました^^;とにかく、下の写真を見てもらうとわかるように、私の部屋には本や書類があふれ、足の踏み場もない、というくらいの部屋だったので、かみさんから、プレッシャーかけられまくり・・・本を捨てたら?と言われるが、なかなか愛着のある本たちなので捨てられない。それに輪をかけて、今年は日本に行って合計70冊ぐらい仕入れてきてしまった^^;これらは当然、まだ読んでなくて積読状態。本当に積んであるので、かみさんからやいのやいのと言われる。ということで、今回は、これらをなんとか購入した食器棚に収めようと言う魂胆。これが ↓ 前の状態。(自分で言うのもなんだけれど、ひどい!!) これが ↓ 後の状態。 腰痛のため、途中でストップしています^^;この食器棚を車でピックしてきて、部屋へ搬入。部屋の家具類もついでに移動。全部重たいものばかり・・・・。 歳ですかねえ・・・。
2010.08.14
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よく、これからは心の時代だ、と言われます。確かに、戦後、日本を始め世界中が物質的な繁栄を追い求めてきて、今ではそれが、先進国のみならず、すべての国々に伝播している様相を呈しています。反面、物質的繁栄を一度は達成した先進国の中で特に、この「心の時代」が叫ばれる昨今になりました。いわく、物質的繁栄を追い求めて手に入れたものは生活の豊かさだったかもしれないが、その一方で、失ったものも大きい、という言い方で、その失ったものの代表として、精神的な豊かさ、心の豊かさ、人間性と言ったものが挙げられているわけです。それでもなお、一度経済的に豊かになった国がそういった傾向があったとしても、まだまだ経済的に貧困層が大部分を占めるような国ではそういった先進国の「繁栄の代償」やら「物質的豊かさへの反省」といったものは、単に「先進国だから」「すでに自分達は経済的な豊かさを手に入れたから」言えることで、だからといって我々開発途上国まで、同じような論理を展開するのは身勝手だ、という意識があるようです。でも地球温暖化の回避や二酸化炭素排出量の規制など、全地球的な問題として取り組まなければならなくなっている現在、それを先進国の論理として片付けられてしまうことにはあまりにも深刻な問題です。そしてこれは、先進国 対 開発途上国 という対立軸ではなくとも、日本の中でさえ、富める人と貧しい人の間でも同じような反目があるかもしれません。仏教でよく説かれる「足るを知る」の心は、そのどちらにも必要なんでしょう。なぜならば、その執着が全ての苦を生み出す、という仏陀の論理は今でも確実に通用するものだからです。そんな時、ほとんど世間には知られていませんが、行きがかり上、こんな本を読みました。 「12の菩提心」Amazonにこの本の読者のレビューが載っていました。↓ ****************************素晴らしい《名著》です。, 2009/11 基本的に私は、宗教関係の方々が苦手である。でも、この本の著者である高橋佳子さんは、《宗教》関係というよりも、むしろ《スピリチュアル》関係の方であるということで読んでみた。ところが、実際に読んでみると、これが予想以上に素晴らしい本である。今、自分に何が欠けているかに気付かされ、大変、勉強になりました。***************************** 私自身もあまり期待はしていませんでしたが、行きがかり上読んでみて、なかなか良い本だなあ、という感想です。こんな本がもっともっと読まれると、「心の時代」として、人の心がもっと豊かになってゆくような気がします。
2010.08.13
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今日また円ドルが85円を切ってしまいましたねえ・・・。それだけアメリカの景気に対する見方が厳しいんでしょうけれど。日本だって特にいいことがないのに、世界的に見るとまだまだ「安全・確実」の国に見られてしまうってことで、本来は喜んでいいことなんでしょうけれど。日本ではFXをやられている方は多いようなので、実際これだけ毎日変動すると、損切りラインの設定によっては、痛い目にあっている方もいらっしゃるんじゃないか、と心配です。最近の変動では、上下1円ぐらいで張っていても、楽に突破されたりしますから、おちおちできませんね。と、こんなことを書いている私ですが、FXはやっていません。私にとっては円高は歓迎で、85円だろうが80円だろうが、高いほどいいのですが、心情的には複雑です。円が高いほどいい、という理由は、FXをやられている人が最後の円転を考えなければならないのに対して、私は円からドルへの一方通行、送ったドルは、生活費で消費されてしまって、後には残らないから、円に戻すことを考える必要がないからです。これで、ある日、さあ、日本に帰国しよう、と考えたら、そのときの円が高かったら厳しいですね。まあ、その時でも、アメリカから日本へ持ってゆく資産はほとんどないと思いますが(笑)
2010.08.12
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昔から時折読んでいる本に、「感情は魂の言語である」ということが書いてあった。その当時も、またつい最近まで、その意味がわからなかった。だって、「感情」というのは「理性」に対立するものとして、多くの場合、「感情に溺れてはいけない」とか「感情に流されないように」、「感情を抑えて・・」「感情に走ってはいけない」などなど、否定的な言い回しで使われる。つまり、「理性」が成長した人間の特徴であるのに対して、「感情」はより本能的で、自分でなかなかコントロール出来ないもの、理性で抑えなければいけないもの、という見方をされる場合が多い。感情というのは、喜怒哀楽。でも、上の文脈で使われる感情というのは「怒り」が主だろう。あるいは、「憎しみ」とか「妬み」など、怒り以外にも負の感情を指しているのだろう。他の「喜び」「楽しみ」「悲しみ」(哀しみ)などは、その点、上の文脈にはそぐわず、「怒り」ほど押さえ込む必要はなく、逆に、それを素直に感じることが出来る方が人間らしい。それでも、始めに書いた「感情は魂の言語」というのとは、イメージ的にへだたりがあった。しかし、「言語」というのを「サイン」と読み替えてみる。言語というのは、あくまで人間の意志や考え方を他に伝えるためのシンボルであり、サインに過ぎないからだ。すると、「感情は魂の出すサイン」と言い換えられる。ここに至って、なんとなく、その意味がわかったような気がしてきた。自分が怒ったり、悲しんだり、喜んだり、そういった自分の感情をよくよく見つめてみると、その感情の元になっている「自分の心の状態」がだんだん見えてくる。そしてその「心の状態」というのは、外界の「現象」に対する、自分の反応である。なぜそのような反応をするのか。例えば、なぜ、同じ現象に対して、自分だけが怒ったり、悔しかったり、あるいは逆に喜んだり、悲しかったりするのか・・・そういったことを突き詰めて行くと、自分の心の有り様がだんだん分かってくる。冒頭の言葉、「感情は魂の言語である」というのは、こういったことを指しているのだろう。魂の出すサインを見逃さないためには、この「感情」というものを見つめればいい。なんとなく、今やっていることの本質が見えてきた気がする。
2010.08.10
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ちょっと前に停滞気味だと思っていたら、最近はありがたいことに毎日が気付きの連続。自分でもあまり期待していなかったが、やっている実験が、思った以上にいろいろな気付きをもたらしてくれている。いろいろなものの見方も、少し以前と変わってきたかな?この歳になると、そうそうものの見方や考え方は変わらない、と思っていたけれど。それもあって、楽しく進めている。これから先も、毎回毎回、このような気付きがあると、一年も経てば多くの学びがあるに違いない、と期待している。その中で、自分がどう変わっていくか、自分のことながら多少楽しみでもある。
2010.08.10
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よく「自分が生きている意味」を考える。生きていることに何の意味があるのか。どうせいつかは死ぬのに、と考えるとニヒリズムの世界に落ち込む。どうせいつかは死ぬのに、という考えを超えるには、スピリチュアルの視点は欠かせない。でも、そんな形での「生きている意味」を考えるよりも、もっと単純に「何のために生きているのか」と質問を変えてみると少しは違った見方ができる。「何のために生きているのか」と言うと、生きる目的とか、何をして生きがいを感じるか、といったことに置き換えることが出来る。あるいは、何をしている時、自分が喜びを感じ、幸せを感じるのか、でもいい。そう考えたとき、ふと思いついたのは、「家族の笑顔をみるため」。自分自身、もし一人で暮らしている場合を考えると、今家族を持って生活している自分と比較するとよくわかる。もし一人だったら、こうだろうな、という状態と、今ある状態。その大きな違いは、やはり家族だろう。一人だったら絶対やらないようなことを喜んでやっている自分。そこに苦労があっても、やりがいを感じることができる幸せ。そのやりがいとは、結局のところ「家族の笑顔」ではないだろうか。それをもっと枠を広げると、「人の笑顔」ということになる。そこまでいけたら、これはもう汲めども汲めどもつきせぬ喜びと幸せの源泉になるに違いない。小市民的な幸せの追求が別に悪いわけではない。それでさえ、人間一人の人生の目的にするに不足はない。いや、それだけでも大きな目的といえる。でもその先もある気がする。 世界には、そのために人生をささげた多くの人がいる。
2010.08.08
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7月の頭から、息子が私の会社でアルバイトをしている。息子にとっては初めての本格的なアルバイトである。もともとは、成績の低迷から、返済不要の奨学金の受給資格を失って、親である私の負担が年に60万円ほど増えることから、自分のせいでこうなったのだから、自分で稼げ、と無理やりにアルバイトをさせた、というのが始まりだ。でも、レストランやスーパーマーケットでのアルバイトは、学業にはなんのメリットもないので、紹介したうちの会社の仕事と言うのはソフトウェアのテストである。息子は工学部なので、いまどきはどの分野でもソフトウェアやPCの知識や技能は欠かせない。うちの会社でアルバイトとは言え働くことで、少しでも最先端の技術の一端を垣間見る機会にもなるだろう、という思惑もあった。一応、成果は???だが、一日一日と新しいことを吸収しているようで、当初の目論見がある程度達成されているようだ。しか~し、目的の一つである、授業料の本人負担の目論見の方は、何を考えているのか、ぜんぜん無視して、自分の好きなものにほとんど全ての稼ぎをつぎ込んでいる^^;で、その使い道というのが、大部分はPCである。すでにデスクトップPCとラップトップPCの両方を持っているにもかかわらず、最先端のものが欲しくなったらしい。これは、仕事ですごいPCを使っていることと、アルバイトの一環で、新しいPCを組み立てたことが、息子の興味に火をつけたようで、この仕事をアルバイトに選んだ私の想定外の影響となった。まあ、遊びに使うわけではないので(もっとも、新しいPCはゲーム目的のようだが・・)、完全に無駄遣いとは言えないが、授業料の方はどうすんだよ!!しかし、アルバイトとこの「遊び」を通して、確実に、息子のPCやソフトに関する知識は、すでに私を超えている。喜んでいいことなのだろうが、なんとなく悔しい・・・・・ 一緒にアルバイトをしている友人と組み立て中 一応組みあがった高性能(?)PC。ほんとに動くのか?^^;
2010.08.05
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先ほどのニュースで、またもや虐待死の話が出ていた。それによると、厚生労働省が08年4月~09年3月に把握した子供67人の虐待死を調査したところ、死亡時の実父と実母(計97人)の年齢層は「20~24歳」が21人と最も多く、「25~29歳」が20人、「19歳以下」が6人で、10~20歳代がほぼ半数を占めた、ということだ。で、記事は、若い親に集中する虐待を止める手立てはあるのか、という論調であった。でもちょっと待ってくださいよ。10代とか20代で子供を生み育てる親の、親として、人間としての成熟度はまだまだだ、とは言えるかも知れないけれど、この記事を見て私が愕然としたのは、反対に、半数は30代以上の親による虐待死だ、ということだ。30代以上、つまり人間として、すでに多くの経験を積み、判断力もそれなりにあるはずの「大人」が半数を占める・・・・もしニュースとするなら、「虐待死の親の半数以上は30代以上!」とかなら分かるが・・・つまりは、ことさら10代とか20代の問題ではないのではないか、というのが素直な感想。それは、それぞれの年代に応じて、子供を虐待し、死亡させるにいたる原因は、多少違ったものがあるのだろう。しかし、そんな「原因」以前の問題として、今の大人を含めて、「生命の尊厳」なんてことをどれだけ心から理解しているのか。そういったところにこそ、この問題の根の深さがうかがわれる。こういうところでは、人が死を、自宅ではなく病院で向かえることがほとんどになり、直接人の死の現場に立ち会ったことがない人が増えている、ということも影響しているのだろう。「死」というものが、現実から離れて、小説やドラマや、もしかするとゲームの中にしか存在しない、いや、触れたことがない、という人が、どれだけ「生命の尊厳」などということを深く考えることができるのだろう。いずれにしても、この現象は、簡単に、単に10代、20代の親の未熟さに帰するべきことではないことは確かだろう。
2010.08.04
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今実験を進めている、自分の生きる意味の探求。実は、私一人でやっているわけではなく、仲間が居る。グループで、同じ取り組みをやっている。もちろん、その内容は各人別々だが、やり方は同じステップを踏襲している。また、グループでやっているので、おのおのが自分の直面する課題、困難に対して、どう感じているか、ということを発表し合い、それについて互いにアドバイスをする、という形で進めている。人の話を聞くと、その内容が割りとよく見える。で、これはこうなのではないか、とか、それはもっとこう考えたら、よりその困難の意味が明確になるのではないか、と言った指摘をしあう。ここで、感じることは、それぞれの人が、他の人の話を聞き、それに意見するときはなかなか鋭い見方が出来るのだが、いったんそれが自分自身のこととなると、どうもはっきり見えてこない、ということ。私自身も、他の人のはわりとよく見える。なんらかの指摘をすると、その方はたいてい、そう言われればそうですねえ、ということになる場合が多い。ところが、自分のこととなると、そういった見方ができない。今、目の前にある課題、困難の裏にあるものはなんだろう、ということを考えても、どうも現実的なことしか出てこない。一般的にも同じことが言える。いろいろな場面で人の相談にのることがあるが、そういった場では、第三者の立場で、なにかしらのアドバイスを考えることが出来る。それが本当にアドバイスになっているのかどうかは別として、これはこうなんだろう、ということが割合にはっきりと自分の中では明確になる。ところが、ところが、さて自分のこととなると・・・・・・。どうも思考が空回りしていて、今まで考えていたことを繰り返していたり、どうどう巡りをしていたり、いま一つはっきりしない。自分の心の中に入る、というのは、なにか、手がかりがない崖を登っているようで、手をかけるところがなかなか見えなかったり、見えたと思って手をかけたところが、すぐに剥がれ落ちる突起だったりして、なかなか上に行けない。自分のことが一番分かりにくいなあ、というのが今のところの実感・・・。
2010.08.04
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先日から、自分の生まれてきた意味、というものを考える上で、「もし」生まれる前に自分が計画した人生であるなら、という仮定のもとに、直面する現実から、逆にその「計画」を見出してゆこう、という実験に入っています。ここで、この考え方を平たく言うと 自分が直面する困難や試練には、かならず意味がある。 その意味とは、自分が自分の魂を磨くために用意した意図が隠されているということ したがって、すべての事象・現象の自分にとっての意味を考えることによって、その隠された意図を知ることができる・というものです。今週は、通っている(所属している、ではありません)日本人教会の三日間にわたる合宿があり、私は最終日の今日だけ、朝から行って参加してきました。そこでのテーマは、「十字架の意味」でした。一見、私が今取り組んでいる実験とはなんの関連もないように思っていたのですが、話を聞くうちに、これが全く同じことを言っているのだ、ということがわかりました。先の 試練・困難⇒魂の計画・意図というものの代わりに、この教会での話のテーマは 試練・困難⇒神の意図・人間には計り知れぬ神の愛のあり方という形での話しでした。ここで、上の二つで、 魂の計画・意図 = 神の意図・神の愛のあり方とすると、この二つは全く同じことを言っていることがわかります。つまり、自分の魂も、神の一部である、と考えると、全てが同じになる、ということです。結局、2週間前から取り組んでいるものと、今日の教会合宿でのテーマは、なんと「偶然」にも、同じだったのです。で、課題は、「これは『偶然』か?」ということを考えることになるのでしょう。
2010.08.02
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