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われわれの知識のはるかに重要な根源と言えば、それは――生得の知識を別にすれば――量的かつ質的に、伝統である。 我々の知っている事柄の大部分は、判例を示されたり、言葉で教えられたり、或は批判の仕方や、その批判の受け取り方や、審理に対する敬意の払い方を学んだりすることによって習得したものである。「推論と反駁」 K・R・ポパー 法政大学出版局
2014年03月31日
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アメリカの危険というのは、外国からの攻撃があるということではないのです。 我が国を脅威に陥れるような国はないのです。 危険なのは、私たち、きちんとした善意の人々の中に、宣伝に動かされやすい人がいるということなのです。 アピールの仕方はいつも決まっています。 「デモクラシーを救え」です。 昔は確かに効き目がありました。 二十年以上前は、ロシアのニコライ皇帝は民主主義者だというように使われたものです。 今は中国の独裁者.蒋介石に対して使われています。 デモクラシーなんかどこにもない。 彼は十年前、共産主義者と手を握り、血塗られた戦いに勝って権力を手にしたのです。 中国はもっとも過酷な軍事独裁の国です。「民国」などというのは、まったくのフィクションです。 私が中国にいたとき、反対の意見を言えば、裁判もなしに銃殺されました。 これは悪意で言つているわけではありません。 どんな政治体制だろうがそれは彼らの問題です。 しかし判断を下そうというのなら、明らかな事実は知られておくべきでしょう。「アメリカはアジアに介入するな!」 ラルフ・タウンゼント 芙蓉書房出版
2014年03月28日
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愛は、対象と自分自身の関係に関するものであるかぎり、原則的には分割不可能なものである。 真の愛は豊かさを表すもので配慮、尊敬、責任、知識を含むものである。 それは、誰かに影響されるという意味の「情緒」ではなく、自己の愛する能力に根ざして、積極的に愛する人の成長と幸せのために真剣に努力することである。「人間性の心理学」 A・H・マズロー 産業能率大学出版部
2014年03月27日
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鹿児島は南国特有の風光明娠で温暖な土地柄に恵まれている。 そのような風土で育つせいか、鹿児島の人は人情が厚く、温厚で明るい。普段は穏やかな鹿児島人だが、いったんこれと決めると、ブレない士風がまだ残っている。 一六〇〇年の関ケ原の合戦において、徳川家康の率いる東軍と石田三成の率いる西軍が激突し、東軍が勝った。西軍についた島津義弘軍は、敗色濃厚となり、あわや全滅という危機のなかで、大決断をする。 死中に括を求め、相手の意表をついて、敵陣の中央突破を敢行した。友人が倒れ、親兄弟が倒れてもひるまず、敵の中央を真一文字に突き進んだ。 薩摩まで帰還できたのは八〇名ばかり。薩摩隼人の勇名を天下にとどろかせた天晴れな戦いぶりである。 徳川幕府は島津藩を取り潰さなかった。 いや、本気で闘ったときの薩摩武士の強さを知っていたから、潰せなかったのであろう。 「孤軍奮闘、囲みを破って還る」 - この勇猛ぶりは、近代日本の最大の内戦である西南戦争でも発揮されたのである。『「美の文明」をつくる』 川勝平太 ちくま新書
2014年03月26日
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近代の自然科学の発展は、それを体験した社会すべてに画一的な影響を与えることになった。 その理由は二つある。 第一に科学技術は、それを保有する多くの国々に決定的な軍事的優位性を与えており、国際的な国家システムの内部に相変わらず戦争の危険性がひそんでいるとすれば、自国の独立を重んじる国はどこも防衛のための近代化を否定できないからである。 第二に近代の自然科学は、経済生産の可能性について画一的な展望を開いてくれた。 テクノロジーによって際限のない富の蓄積が可能になり、とどまるところを知らない人間の欲望さえもが満足させられるようになったのだ。 このプロセスは、歴史的な起源や文化的な遺産にかかわりなく、あらゆる人間社会の均質化をますます進めていく保証となる。「歴史の終わり」 上 フランシス・フクヤマ 三笠書房
2014年03月25日
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社会領域の本質的な部分で、それのダイナミックな動向の主要な決定要因の一つは、それについての人間の知織である。 すなわち、人間自身と人間の歴史の知識である。 人間が自分自身の社会や、彼がその一部をなしている、より大きな社会領域について広く意織しはじめたのは、過去二〇〇年以来にすぎないのであり、あるいは、ある意味では、ほとんど今の世代になってからであるにすぎない。 自己認識(Self-Consciousness)へ向かっての社会システムのこの動きは、おそらく、現代の最も目だった現象の一つであり、そしてそれは、個人的な自己認識の発達が数千年も昔に行なったような、非常に基本的な過去との訣別となっているのであろう。「社会科学のインパクト」 K・E・ボールディング ダイヤモンド社
2014年03月24日
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デモクラシーという言葉は、これを中国に適用するとすべてが馬鹿馬鹿しいものとなってしまいます。 公職にあるものは選挙で選ばれていないのです。 いまだかってない。 中国はこの二十六年間混乱しており、軍事独裁国家なのです。 専制国家であり、誰もが知っていることですが、独裁者の蒋介石は選挙で選ばれたことなどないのです。 彼はその前の者がそうしたように、戦争に勝ってその最高権力を手に入れたのです。 ところで、巧妙なプロパガンダの臭いがするのですが、この戦争が始まって以来、ある者たちは蒋介石を「独裁者」と呼ぶのをやめました。 そのプロパガンダによると、中国を民主国にする計画のようです。 民主国に住む私たちを同情させるようにということのようです。「アメリカはアジアに介入するな!」 ラルフ・タウンゼント 芙蓉書房出版
2014年03月20日
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両極性とか、対立性とか、二分性などの考えには、実は不健康な人についてのみそうであり、健康な人においては、これらの二分性は解消され、両極性は消失し、本質的と考えられた多くの対立は相互に合体して統一体を作り上げている。 昔からの問題である情緒と知能、理性と本能、また、認知と動機の対立はそれらが敵対物というよりは協働作用をしている健康な人にあっては、消滅するのが見られた。 健康な人は、対立するものを同じものだといい、同じ結論を示すと考えるので、それらの間の葛藤は消えてしまうのである。 一言でいえば、これらの人々においては、要求と理性は素晴らしい調和状態にあるのである。「人間性の心理学」 A・H・マズロー 産業能率大学出版部
2014年03月19日
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ヘーゲルは、中国やインドの文化にどれほど優れたものが存在しようとも、それは停滞した文化の所産なので、西欧のような自覚的精神によつて発展する文化とは異質だと論じた。 ヘーゲルの東西文化観は、西洋人の東洋観に強い影響を与えただけでなくて、東洋人の東洋観にも影響を与えた。 たとえば日本の近代主義者は、中国はヘーゲルのいうように永遠の停滞から脱却しないだろうが、日本なら西洋型の発展が可能かもしれないと考えていた。 中国は停滞する。日本は離陸する。 この中国観は、中国の侵略を正当化する右翼にも利用された。 中国が離陸するためには、日本の支配下に置かれる必要があるのだと彼等は考えた。 西洋の発展、東洋の停滞という図式を下敷にして、東洋の西洋化すなわち近代化という図式ができた。「進歩の思想・成熟の思想」 加藤尚武 PHP
2014年03月18日
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ヘーゲルによれば、人間は動物と同様、たとえば食べ物や飲み物、隠れ家、そしてとくに自分の肉体の保存という自然なニーズや欲望をもつ。 しかしながら人間は、根本的に動物とは異なっている。 なぜなら人間は、それに加えて、他の人間の欲しがるものを欲しがる、すなわち他人から「認められたい」と願うからである。 とりわけ人は一人の人間として、つまりなんらかの価値や尊厳をもつ存在として認められたいと望む。 この人間としての価値は、何よりもまず、純粋な威信を求める闘争に進んで生命を賭ける姿勢とかかわっている。 もっとも基本的な動物的本能を - なかでも自己保存の本能を克服し、いっそう気高く抽象的な原理や目標を求めていけるのは人間しかいないのだ。「歴史の終わり」 上 フランシス・フクヤマ 三笠書房
2014年03月17日
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米田正太郎や西田幾多郎や河上肇のいる京大に行きたくなり、とりわけ河上肇について勉強した。 オスカー・ワイルドの「社会主義下の人間の魂」を翻訳して、「新思潮]に載せたのは、大正三年のことであったが、すぐ発売禁止の処分を受けた。 これは真の個人主義を目的とし、その為に社会主義と科学の必要性を説いたものだが、一切の権威と権力と刑罰を否定する点で、一脈無政府主義にも通じている。 近衛がどんなつもりでこれを訳したのかは分からないが、何か共鳴するところがあったのであろう。 これは河上博士への私淑とともに、この時代の近衛の思想傾向を知るエピソードである。 皇室と特別の関係にあった最高の貴族の門に生まれながら、社会主義の思想に惹かれたというところに、もと伯爵の有馬頼寧によれば、近衛が「悲劇の主人公」たる運命を担っていたことが示されている。「近衛文麿」 矢部貞治 時事新書
2014年03月14日
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前近代社会においては、 人間を取り巻く社会、習慣、規則などは 人間の力をもってしては動かし難いもののように考えられていた。 動かし難いから黙って従うのが、人間の定めともなってくる。 「在ること(ザイン)」と「なすべきこと(ゾルレン)」 との区別はなく「在ること」がそのまま正しいこととされる。 まして、それを変革するなどもってのほかだ。 近代社会の特徴は 「作為の契機」という考え方を人々が持つことにある。 社会は人間が作ったものだから人間によって動かすことが出来る。 この考え方があって初めて議会政治も立法も、 其の他諸々のデモクラシー政治の用具も可能となるのである。「あなたも息子に殺される」 小室直樹 太陽企画出版
2014年03月13日
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結婚においても、家族関係においても、他の人間関係においても脅威自体が減少したときには脅迫的反応は消えていくものなのである。 例えば教師と生徒の関係を取り上げてみると、それは、状況を意志や権威や威厳などが衝突するものとしてではなく、楽しい協力関係として解釈したり、簡単に、また必ずは脅かされる不自然な威厳の代わりに、簡単には脅かされることのない自然な誠実さを身につけること、それから全知全能であろうとすることをやめること、生徒を脅かす権威主義をもたないこと、生徒が相互に競ったり、あるいは教師と対立すると考えるのをやめること、教授を型にはめて考えないでいわば鉛管工や大工と同じ現実的人間のままであることを断言すること、これらすべてによって、疑いや用心深さ、防衛心、敵対心、不安が見られない教室の雰囲気が作り出されるのである。 同様に、結婚においても、家族間においても、他の人間関係においても、脅威自体が減少したときには強迫的反応は消えていくものなのである。「人間性の心理学」 A・H・マズロー 産業能率大学出版部
2014年03月12日
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岩倉使節団の旅はヨーロッパの歴史を逆進しながら、アメリカでは「夷華変態」を経験し、文明の根本に自主独立の精神を見、その自主独立の内実をイギリスでは富国強兵のもとである所有権と海上貿易と海防に見出した。 ところがフランスに足を伸ばして、富国強兵の「力」のイギリスにまさる「美」を体現している「文明」の存在に気づいたのである。 そしてイタリアに入り、ヴェネチアでは運河をゴンドラに乗って楽しみ、「船頭が棹を打つにまかせれば、身を清明上河の図中におくがごとし、空気清く、日光爽やかに、嵐翠水をこめて、晴波淪紋をしわむ。舟は雲霞杳緲(ようぴよう)のなかをゆく、瓢瓢乎(ひようひようこ)として登仙するがごとし」。 まるで仙境にいる心地がし「相楽しみて帰るを忘る」というのである。 芳賀徹氏は『詩歌の森へ』でこの場面を紹介し、使節一行の心の情景を「ヴェネチアの恍惚」と形容している。 地中海の港町マルセイユを発ち、長い船旅でアジア諸国の貧困を見ながら日本をめざした。 揚子江は広く海のごとくだが、水は黄色の泥がまじっており、川底にある泥の堆積に思いをいたし、中国は不潔だという感想をもつ。 いよいよ二年ぶりの日本である。 アメリカ大陸、ヨーロッパ諸国、ユーラシア大陸の南の諸国、そして中国の景観を見てきた眼で、各地と比較しながら長崎の風景を絶賛しているのである。 その長崎に一泊し唐津から下関を経過し、一行の船が瀬戸内海に入ったのは明治六年九月八日の早朝- 船檣より世界第一の風景を過ぐるをもって、船客を呼び起こせしむ。すなわち芸備の海峡なり。英米の遊客崎陽を発して以来、その絶景を劇賞して、これを図に写して、終日やまず。 右の記述が『実記』の締めくくりである。 「世界第一」の日本の美しい景観に出会ったところで、『実記』の記述は終わっているのだ。 西洋の粋が美であるという認識に達し、恍惚のヴェネチアに酔ってヨーロッパをあとにした使節一行は、その西洋の美にまさる美を、何と日本に発見して旅は終わった。『「美の文明」をつくる』 川勝平太 ちくま新書
2014年03月11日
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二つの理論 一 「掘りおこし」:外来的文化要素が、土着的な文化的蓄積の中から類似の対応物を引き出し、正当化し、規範化していく。 二 「再現可能な過去」:この世の中には、いつなんどきでも取り出せる文化的「在庫」としての「過去」がある。 東南アジアの政治的風土、とくに「小型家産制国家」的状況に西欧起源の外来イデオロギーが導入されると、それはそのまま定着するのではなく、風土のなかから「再現可能な過去」が「掘りおこされ」、意外な制度化を見る、ということである。 これは、まさに、「文化的共鳴」ともいうべき現象以外のなにものでもない。「東南アジア世界の論理」 矢野暢 中公叢書
2014年03月10日
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日本に対する米国の勝利は、極東での障害要素であった日本が排除されて、リベラルな路線での米中間の緊密なる理解と協力に役立つ機会が大いに開けていくと予測する平和主義者や理想主義者がいるかもしれない。 しかしそれは思い違いである。 中国人は、過去も現在も未来も、外国を野蛮な敵と常に見為しており、外国を競り合わせて利を得ようとしてきた。 外国のうちで一番成功している国が尊敬されるが、その次にはたちまち引きずり落とされてしまうという始末である。 最近における中国国内政治の紛争と混乱の歴史に集約されるように、ある特定の指導者と組んで権力を握った連合勢力は、そのリーダーに忠実な少数派とそうでない多数派に分裂する。 多数派は新しい勢力を結成して、指導者が力を持ちすぎる前に彼を失脚させ、他の誰かと入れ替えるのである。「平和はいかに失われたか」 J・A・マクマリー
2014年03月07日
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倫理性というものは、多く、非受容や不満足の付帯現象である。多くの問題は最初から本質的な問題ではない。 ある教会では帽子をかぶらないが別の教会では帽子をかぶること、ワインを飲むこと、ある肉は食べるが別の肉は食べないこと、ある日には食べるが別の日には食べないといった程度のことである。 そうした、取るに足りない本質から外れたことは次第に消滅していくだけではない。 その過程もまた、より重要な段階、例えば両性間の関係、身体構造とその機能に対する態度、死そのものに対する態度にも存在するのである。 私は道徳や倫理、価値としてまかり通っているものが、ただ平均的な人々に広く行き渡っている精神病理の副産物にすぎないということを教えられた。「人間性の心理学」 A・H・マズロー 産業能率大学出版部
2014年03月06日
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三つの知的エチケット 一 人間および人間世界のことを考える時、必ず「文化」を介在させて考えていく。 文化をもたない「人間」は存在せず、すべての「文化」は対等の尊厳をもつ。 二 あらゆることば(ターム)に対して意味論的分析を加える心掛け。 ことばはすべて、文化的背景ないし状況に応じて意味が違う。 三 ほかの国の歴史をみるときに「自律史観」の心掛けを守る。 すべての国家の歴史をその国民の目で、いわば内在的視点でとらえること。「東南アジア世界の論理」 矢野暢 中公叢書
2014年03月04日
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産業革命期以降のつくりだされた伝統は、三つの重複する型に属するものと考えられる。 (a) 集団、つまり本当のないし人工的共同体の社会的結合ないし帰属意識を確立するか象徴化するもの (b) 権威の制度ないし地位、権威の関係を確立するか正当化するもの (c) 社会化、つまり信仰や価値体系や行為の因襲性などを説諭するのを主な目的とするもの (b)と(c)の型の伝統は(英国統治期のインドにおける権威への従属の象徴化がそうであったように)案出されたものに違いないが、他方、(a)の型は普及しており、その他の機能は「国家(ネーション)」のように「共同体」および/ないし、それを表象し、表現し、象徴する諸制度との同一感に内在、あるいは、そこから生まれるものとみなされる、と提案できよう。「創られた伝統」 E・ホブズボウム 紀伊國屋書店
2014年03月04日
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私はスピノザspinoza(1632-1677)といふ人が好きだが、スピノザは不安と懐疑といふものとを區別してをる。 不安は、自己の無力から出る漠然たる感情であるが、懐凝といふものはそんなものではない。 懐疑といふものは誰にもできるものではない。 しつかりとした中核的思想を持たなければ懐疑はできないものである。 むしろ危険は、大切な指導的地位にある人々が當然なすべき懐疑をなさないで漫然たる不安の中に生きることである。 我々は無用な不安の中に生くべきでない。 しつかりした中核的思想を抱いて、價値のある懐疑をしなければいけない。 それによつてのみ問題を解決し、進歩して行くことができる、と近代フランスの名教育者といはれたアランAlain(1868-1951)も説いてゐる。 我々はしつかりとした中核的思想を持つて、いはゆるバックボーンを持つて、正しくこの時局を懐疑し、漠然たる不安であるとか、何にもならない漫談に時を過すべき時ではない。「大和」 安岡正篤 日本通運株式會社
2014年03月03日
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