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無礼講、茶、そういう裏関係が実に精緻に完成される日本の社会と文化の特色はそこにある。 ヨコの関係が充分強いヨーロッパでは、この裏関係がこんなにまでは到底発達しない。 だが、裏関係の機構だけでは不充分だ。 そこに精神を一本通さねばならぬ。それが人情である。 「思いやり」で代表される日本独特の感情である。 論理によって、言葉によって心が通じるのではない。 察しによって通じるのだ。 なぜそんな察しが可能になるか。 同じ人間だから、「かれも人の子、われも人の子」だからだ。この平等主義によって、主従は忽然として一体となる。 この裏関係がない機能主義は日本ではうまく働かない。 今も昔も同じことである。 無理をいったり、おこったり、無茶な仕事をさすが、仕事以外のことで面倒を見てくれる課長がある。 一方、決して非合理なつかい方はしないが、仕事以外には、かまってくれない合理的な課長。 どちらが上役として好もしいか。そういう問に、インテリとそうでないとを問わず、日本人には絶対といってよいほど、前者をとるのである。 アメリカとは正反対なのだ。「ヨーロッパ・ヒューマニズムの限界」 会田雄二 新潮社
2014年12月26日
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聖トトマス・アクイナス(一二二五?~一二七四年)らが言うように、「最もよき認識は授けられる」という態度は大切なのです。 実際、「よきものは獲得するのではなく、授かるのだ」という落ち着いた人生観で生活している人は、周囲にも幸せを与えているようです。 そして、そういった生き方をしている人は、自ずと感謝する姿勢がごく自然に見受けられます。 生に対する感謝、周囲に対する感謝は、人間として欠くべからざるものですが、そこにはやはり、「授かる」という観点がなければ生まれてこないと思います。 考えてみれば、私たちが持っている最も大切なものは、言うまでもなく生命です。 それは私たちが獲得したものではなく、親からもらったものであり、神からもらったと言ってもいいでしょう。 いずれにせよ、誰かによって、何かによって作られたのです。 つまり、受け身によって私たちの生命は始まったのです。「私の人生観、歴史観」 渡部昇一 PHP
2014年12月25日
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ヨーロッパやアメリカでは、話相手が下手に出たり、謙遜家であったりすると、つい自分をお偉くしてしまう誘惑に勝てない傾向がある。 自分の地位や身分にもったいをつけ、「紳士」や「スター」気取りをしたり、「相応の」尊敬と待遇をあからさまに要求してくる人間を、実際にもまるで重要で特別な人物であるかのようにとってしまいがちだ。 一生独身で過した大叔母さんが、親のかたみといって大切にしまいこんでいた「処世訓」の中には、たしか「謙譲の美徳」という言葉も入っていたはずなのだが……。 だから日本人は、西欧的なやり方が支配している世界では、一番ぶきっちょな自己宣伝家である。 商品を売りさばく術だけはどうやらこなしているとはいえ、人間として国家として自己を「売り出す」ことはまるで下手くそだ。 白己宣伝というのは、本当の自分よりもっと偉大に、もっときらびやかに目立たせる術である。 日本人は深くおじぎをすることによって、本当の自分よりももっと小さく低く見せている。「心の社会・日本」 ロレンツ・ストウッキ サイマル出版会
2014年12月24日
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歴史は人間の興味ある性格や尊敬すべき生活の事實談に充ち充ちてゐる。 さういふものを歴史教育から締出して了つて、何故、相も變らず、年代とか事件の因果とかを中心に歴史を教へてゐるか。 それは、ともかくも歴史は通史の體裁をきちんと整へて教へねばならぬといふ陳腐な偏見が根本にあるからであらうと思はれます。 本當に立派で而も簡略な通史といふものを書くのには、大歴史家の手腕が要るでせうし、ごれを教へるには勿論、これを學ぶにも生半かな努力や才では足りますまい。 従うて世間に行はれてゐるすべての歴史教科書が、通史の粗惡なイミテーションになるのも當然な事だ。 この通史のイミテーションが現代の學生を、事、歴史に關して、暗記力ある獣と化してゐるのであります。「歴史と文學」 小林秀雄 創元社
2014年12月22日
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トリ・ケモノと人間の違いはコトバを使うかどうかにあるのですから、正確には「人間はコトバによっても考える動物である」ということになります。 「も」というのは、人間も確かに夢を見るからです。 トリ・ケモノと違うのは、同じ「夢」とはいいながら、人間は夢の中で本を読んだり友人と話をしたりしています。 天才的な人は夢の中で発明・発見のヒントを掴(つか)んだりすることがいくらでも報告されています。 どうやら、夢の中で考えるのはトリ・ケモノの方が先輩なので、人間はその上にコトバで考えることも出来るというのが本当のところでしょう。 ムシなんかはどうみても「考えている」とは思われません。ただ生きているだけのことで、その生きていることすら意識してはいないでしょう。 それがトリ・ケモノぐらいになると「記憶」を掌(つかさど)る脳が発達して来るから夢を見る。 彼らはコトバでそれを仲間に伝えることは出来ないけれど、自分では少しは意識しているだろうと思われます。 意識しているから人間は彼らを飼いならすことが出来ます。 この状態はコトバを持っている人間がコトバを使わないで考えているとき、つまりボンヤリしているときに似ています。 いろんな過去の記憶が漠然とした形でアタマに浮かんで来ます。 これが妄想といわれるものです。「考えて仕方があること・仕方がないこと」 中山和正 PHP
2014年12月19日
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ヒューマニズムをすべての人間に等しく適用しょうとするひろく暖かい心をヨーロッパ人が発展さして来たことも認めよう。 しかし彼らのヒューマニズムは、極めて簡単に対象をヒューマニズムの適用外に置くことができる構造を持っている。 しかも適用外に置くということは、それらをどのように取扱おうと、殺そうと、どんな殺し方をしようと、なんの社会的反対もうけないですみ得るし、又殺す方の人々にとって良心のいたみは感じないですむということなのだ。 ヨーロッパ人以外の人間は、ヨーロッパ人から、現在人間としての待遇をうけていても、何時向う別の都合によって非人間と格づけられるかも知れない不安を持つ。 異端・異教徒・イデオロギーの相違などがそのときの標識になるかも知れないのである。 しかも「畜生」といわれることは、単なる比喩としてではない。 絶対に妥協のない鞭と屠殺が約束されるということなのである。 あるいはある程度の待遇をしてくれたにせよ、それは、牛の乳の出をよくし、より強く犂をひかし、豚を肥すためでしかない。 そういうことになるのだ。 ちょうど魔法使いにとらえられたヘンゼルとグレーテルの場合のように。「ヨーロッパ・ヒューマニズムの限界」 会田雄二 新潮社
2014年12月18日
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戦後の社会は戦前の思想的結実として生れたものではない。 「事実の強制力で出来たもの」である。 「或る内的感覚」をもっている者には、そういう強制力で出現した社会に生きることは非常に苦しいはずだ。 だが、これを「苦しい」と言ったのは、私の知る限りでは小林秀雄だけである。 再軍備問題への意見を聞かれたときこのことを述べている、「敗戦といふ大事実の力がなければ、あゝいふ憲法は出来上つた筈はない。 又、新しい事実が現れて、これを動揺させないとは誰も保証出来ない。 戦争放棄の宣言は、その中に日本人が置かれた事実の強制で出来たもので、日本の思想の創作ではなかつた。 私は、敗戦の悲しみの中でそれを感じて苦しかつた」と。 恐ろしいことは、そういう内的感覚さえ失って、「これを日本人の反省の表現と認めて共鳴し、戦犯問題にうつゝを抜かしてゐた」ことであった。「小林秀雄の流儀」 山本七平 新潮社
2014年12月17日
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それはたとえば、きわめて日常的に起こりうる次のような事例においてである。 ある日、帰宅すると家が荒らされて、現金はじめ貴重品が盗まれている。そこで、直ちに警察に通報する。 警官がやってくる。 調べが始まる。 事情が聴かれる。 それを取り囲む人々も、警察が早く犯人を捕まどることを期待する。 はとんど大多数の日本人は、こうした一連の出来事が生じることを当然のことと受け止めているであろう。 この点は、国家相対化論者の多くにおいてもそうではなかろうか。 国家とは、まさしく、そうした一連の過程を生じさせる人々の心のなかに実在する。 要するに、国家とは、まず何よりも、ある事態や問題を前にして、人々が当然の如く互いに期待し、さらには承認しているところの、自分も含めた複数の人々の行動の仕組みのひとつである。 こうした行動の仕組みとは、言葉を換えて言えば、まさしく「制度」と称されるものである。 むろん、こうした人々の期待と承認のうえに築かれた行動の仕組み=制度は、社会における家族や会社、学校その他の様々な場において、それぞれの仕方で多様なものが存在している。 日常生活の多くは、こうした制度をもとに営まれている。 制度がなければ、私たちは、次の瞬間、自分の周辺で何が起きるか、その都度予測しながら行勤しなければならない。「国家学のすすめ」 坂本多加雄 ちくま新書
2014年12月16日
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ひとたび生きがいを失った人が、新しい生きがいを精神の世界に見出す場合、心の世界の組替えが多少とも必然的に起こる。 この組替えはごくゆっくりと本人にも気付かれないうちに少しずつ行われて行く場合もあるが、本人も驚くほど、突然に、急激に生じる事もある。 小我を捨てて大我に生きる、他者に従うという生き方は、この体験から自然に出てくる。 こうした生き方が真の自己に最も忠実に生きる道と感じられるのは、心の中の末梢的な感情や欲求の葛藤が、もっと本質的な指導原理のもとに統合され支配されるためである。 小さな自我に固執し精神エネルギーが分散し、消耗していたものが、自己を越えるものに身を投げ出すことによってはじめて建設的に力を使うことが出来るようになる。 これはより高い次元での自力と他力の統合であるといえる。「生きがいについて」 神谷美恵子 みすず書房
2014年12月15日
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私は永年人間の創造性の研究を進めて来ましたが、創造性を阻(はば)む原因はたくさん考えられるだろうけれど、つきつめてみるとその根本にあるのはその人の持つ「固定観念」であると結論せざるを得なくなりました。 固定観念というものもなくてはならないのですが、それは「いつでも即座に切る」ことが出来る状態に置かれていなくてはならないのです。 そういうことが出来るためには、まず第一に莫妄想の訓棟をしておくことだというのです。 莫妄想でなくてもいいのですが、この方法が一番効果的だし、何も創造性などと開き直らなくても、人生のこまごました諸問題、トラブルというようなものを解決して、心豊かな生活をしていくためにも大いに役立つことだと思うのです。「考えて仕方があること・仕方がないこと」 中山和正 PHP
2014年12月12日
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このころには、天皇は二重の性格をもつていた。 その第一は、政黨・財閥・官僚・軍閥の頂點にあつて、機関説によつて運営される、いわばイギリスの王のようなものだつた。天皇がこの性格のものであるあいだは、一部軍人はその意思表示をも「上御一人の眞の恩召しにはあらざるべし」と考えた。(ついには天皇を廃する言説まで行われたとりうことであるが)。 これをかりに天皇の機関説的性格とよぶことにする。 その第二は、御親政によつて民と直結して、平等な民族共同體の首長であるべきであり、困難を克服する、国家の一元的意志の體現者だつた。 一部軍人はこの性格の天皇を奉じた。これは、それから後の對外的危機の度がすすむにつれて、その軍事的な面のみが強調されるようになつた。 そして、かれらは統帥權を手がかりとして自分の立場を強化しようとして、ついにそれに成功した。 これをかりに天皇の統帥權的性格とよぶことにする。 天皇の性格がこのように二重だつたから、その君臨の下に考えられていた體制も別だつた。 一つは舊來の元老・重臣・政黨・財閥.官僚.軍閥のヒェルアルヒ一による「天皇制」であり、これは汚職をしたり軍縮をしたりした。 他は一君萬民の軍國的社會主義的體制であり、これは社會的不正を攻撃したり外地侵略をしたりした。 あるいは、前者を「機関説的天皇制」と名づけ、後者を「統帥權的天皇制」と名づけることもできようか。「昭和の精神史」 竹山道雄 新潮叢書
2014年12月11日
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我々の職業は最初から、あまり自分の意に満たない様なきまり方をしているためでもありましょうか、とかく他人の仕事はみな面白そうに見えて、自分の仕事はなんとなくつまらなく感じられ、そのため、どうしても自分の仕事に自信が持てぬ人が、かなりたくさんある。 もっとも、これは多少のことは誰にでもあることでありまして、自分の仕事でも将来計画している仕事のほうがおもしろく見え、現在やっている仕事はどうしても面白く思えない。そこで、その仕事を捨てて新しい仕事をやる。やってみると、また面白くない。 じつは、こうしたことから転々と自分の職業を変えたがために、優れた才能を持ちながら、何事も成し遂げずに一生を終る人が、世間には少なくないように思う。「職業と人生」 田中良雄 ごま書房
2014年12月10日
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現代に生きて現代を知るといふ事は難かしい。 平穏な時代にあつても難かしい。 まして歴史の流れが、急湍にさしかゝり、非常な速力で方向を變へようとしてゐる時、流れる者流れを知らぬ。 政治の制度や経済の組織、又あらゆる思想の価値の急變、それは却つて将來平和時の歴史家が、省て始めて驚嘆する態のものかも知れませぬ。 さういふ時に、机上忽ち事變の尤もらしい解釋とか理論付けとかゞ出來上るから安心だといふ様な事で一體どうなるか。 自然現象でも、ある新しい現象の観察には、従來の観察の装置では何の役にも立たぬ、全く新しく工夫した装置を使はなければ観察が出來ない、さういふ場合が出て來るのであります。 だが歴史現象に関しては、困難はそれに止まりませぬ。 新しい自然現象の観察に新しい観察装置の工夫は必要だが、大體、自然科学に於いては、従來の知識といふものを土臺として、これを頼りにして新しい知識を、その上に積み上げて行くといふ建前で間違ひはないのだが、歴史ではさうは参らぬ。 従來の知識の上に新しい知識を築かうにも、築けぬ場合が來る、土臺が崩れて了つて役た立たぬ。 立て様とすれば必ず判断を誤る、さういふ場合が屢々起るのであります。 つまり危機といふ人間臭い表現で呼ぶに相應しい時期が來るのである。 僕等はこれを非常時と呼んでをります。 政治家も軍人も漫才も,非常時といふ同じ言葉を使つてゐるわけですが、僕は文學者として文學者らしく非常時といふ言葉を解したい。「歴史と文學」 小林秀雄 創元社
2014年12月09日
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朝顔に 恥じて起きにけり 日の匂ひ 雲魚 朝徹して而る後能く見獨す 荘子 黎明即起、醒めて後霑戀するなかれ 曽國藩 朝に道を聞く、夕に死する可なり 論語 古人は朝聞夕改を貴ぶ 周處傳 There is only the morning in all things 萬事要する処唯朝のみ 朝こそすべて 英国格言 Morgen,morgen,nur nicht heute! Sprechen immer trage Leute. C.F.Weisse 明日は、明日は、まあ今日だけは!といつも怠けものは言ふ。C・F・ワイセ、十八世紀ドイツ作家「百朝集」 安岡正篤 全國師友協会
2014年12月08日
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アンダーソンやホブズボウムの所説について言えば、それらを単に、国家の「フィクション」性を説いたものとして済ませているのは誤りである。 彼らの所説は、国家という存在が、いかに自覚的な営みによって形成されたのかを明らかにしたものとして受け取るべきである。 近代国民国家のように、広大な地域に一つの国家という組織体が存在しうるということ、しかも、その地域の無数の住民に、「同一の国民」であるという意識が生み出されるということは、実際、驚異的な出来事と言えよう。 この出来事の裏を返せば、こうした国家の形成に失敗する地域や人々もおびただしい数で存在するということである。 国家形成の成功と失敗という問題に対したとき、アンダーソンやホブズボウムの指摘は、私たちに重要なことを明らかにしてくれる。 全国的なコミュニケーションのネットワーク形式や、「創られた伝統」が成立する歴史的基盤は、国家成立の重要な必要条件であるということである。「国家学のすすめ」 坂本多加雄 ちくま新書
2014年12月05日
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「見る事と生きる事との丁度中間に、いつも精神を保持する」とは具体的にどのような状態を言うのであろうか。 この態度を小林秀雄は、文学にも美術にも政治にむ歴史にも保持しているが、まず「美」からはじめよう。 「言葉は目の邪魔になるものです。 例へば、諸君が野原を歩いてゐて一輪の美しい花の咲いてゐるのを見たとする。 見ると、それは菫の花だとわかる。 何だ、菫の花か、と諸君はもう花の形も色も見るのを止めるでせう。 諸君は心の中でお喋りをしたのです。 菫の花といふ言葉が諸君の心のうちに這入つて来れば、諸君は、もう眼を閉ぢるのです。 それほど、黙つて物を見るといふ事は難しいことです。 菫の花だと解るといふ事は、花の姿や色の美しい感じを言葉で置き換へて了ふことです。 言葉の邪魔の這入らぬ花の美しい感じを、そのまゝ、持ち続け、花を黙つて見続けてゐれば、花は諸君に、嘗て見た事もなかつた様な美しさを、それこそ限りなく明かすでせう。 画家は皆さういふ風に花を見てゐるのです。何年も何年も同じ花を見てゐるのです」と。 「見る」とは感覚だが、「菫の花を見る」と「歴史を見る」は、一見全く別のことのように思われているが、原則は同じであり、「言葉に惑はされるといふ私達の性向は、殆ど信じられないほど深い」点でも変りはない。 そしてその「惑い」の中にいる限り、人間は、思索をしているという錯覚を得ることはできても、思索をすることは出来なくなってしまう。「小林秀雄の流儀」 山本七平 新潮社
2014年12月04日
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無知がゆえにわれわれは先入観をさまざまに作りあげ、誤ったレッテルを貼ってしまう。 「日本人はアメリカナイズされている」 「日本はアジアのプロイセンだ」 「日本文化は中国文化の亜流に過ぎない」 などの言葉があきることなく繰り返されているのが実情だ。 また、日本人は経済にしか興味を示さない、という人もいれば(「エコノミック・アニマル」)、「日本株式会社」を云々する人びともいる。 戦後三〇年以上経った現在、少しでも理性的な人間なら、ナチスの強制収容所の犯罪をもってドイツの一般国民性と短絡することはもうほとんどないのに、第二次大戦中の日本軍の残虐さはいまだに執拗に語られ、日本の「イメージ」作りに一役買っている。「心の社会・日本」 ロレンツ・ストウッキ サイマル出版会
2014年12月03日
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私たちが望むものは、生きがいのある暮らしです。 生きがいとは自己実現、つまり自らの潜在能力を引き出すことです。 実現されたがっている内なる善きものを成長させることです。 このスタンスに立てば、性悪説は学者の論争の題材ならともかく、私たちがいい生き方をしたいと思うのならば不要なものです。 むしろ、性善説こそがいい人生を約束させると言えるでしょう。 われわれの本性は善きものであるとまず認めて、それを成長させるという姿勢が、生きがいを求める人の根本的な姿勢だと私は思っています。「私の人生観、歴史観」 渡部昇一 PHP
2014年12月02日
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原爆の惨禍は筆舌に尽くしがたいものがあり、人類として初めて体験した悲劇であったことは間違いない。 しかし、問題は、現に紛争や戦争の絶えない各国においては、そうした「人類」としての「平和」の追求というより、自分たち「国民」のさしあたっての「安全」と「利害」という課題の方が常に優先していたということである。 戦後日本の平和主義が理解できなかったのは、世界各国は、自国に対する不当と見なされるような状況を甘受してまで、無条件に平和を望んではいないということであった。 むろん、核戦争の惨害はほとんどの国々が認識していたであろう。 しかし、各国は、そこから、直ちに不戦を絶対の国是に掲げるのではなく、様々な策謀や、あるいは智恵によって、少しでも自国に有利な形での国際状況の展開を望んでいたのである。 確かに、十九世紀から二十世紀前半にかけてのように、公然と戦争や侵略を賛美するような国々はなくなった。 しかし、世界が依然として、各国間の紛争や対立によって彩られる場であるという事実は、少なくとも、各国の政権の当事者においては、当然の前提であったように思われる。「国家学のすすめ」 坂本多加雄 ちくま新書
2014年12月01日
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