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この問題は「最良の者」、「最高の賢者」、「人民」、「多数」といった権威主義的な回答を要求する。 (ちなみに、この問題は「資本家と労働者のいずれが我々の統治者であるべきか」と言った、ばかげた二者択一を示唆するが、それは「知性と感覚のいずれが知識の根源であるか」という問題に類似している。) この政治上の問いは、立て方が間違っており、その引きだす回答はパラドックスに陥る。 こうした問いは、例えば「悪しき統治者、無能な統治者(こうした統治者を立てないようにすべきであるが、にもかかわらず、きわめて容易にそういう結果になってしまう)が社会にあまり損害を与えることが出来ないようにするために、われわれはどのような政治制度を組織し得るか」と言った、まったく別の問いにとって代わられるのでなくてはならない。「推論と反駁」 K・R・ポパー 法政大学出版局
2014年06月30日
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現代人は基本的なことを忘れていると思うのです。 礼儀正しさとか、相手を尊重することとか、お年寄りをどんなふうに敬っていけばいいのかを。 ドイツやイギリスとくらべて、日本文化はまだいくらかいい状況だと思いますが、世界中がインターネットという怪物でつながっているなかで、蔓延する消費者主義に世界全体が乗っ取られるのではなく、われわれみんなの生活向上のためにインターネットがどうあるべきか、その方策が必要だと思うのです。 インターネットが危険なのはそこのところで、ますます商業主義がはびこり、与えられる情報は教育的でなくなっています。 私は常に、単純で自然に理解できる手本に感銘をうけますが、それは部族の生活、部族としての行動、古来の信仰について調査する際によく見受けられます。 彼らにはつりあいの精神というものがあって、そのうえに社会全体が成り立っている。 自然に均衡がとれている状態のうえに、成り立っているんですね。 ほかの者を不利な立場に追いやって、自分だけが有利になるという考え方は、規律をそこなうものなのです。 彼らは、平等に与えたり与えられたりする社会を望み、そういう社会ではみんなが持てるものをわかちあうのです。 こういう考え方は、われわれには異質なものです。 かつては、われわれの人生哲学にも一部そういう考え方がありました。 ギブ・アンド・テイクとか、妥協とか、バランスとか、合意するとか。 彼らは、いまだにそれを自明のこととして実践しており、一方われわれは、最近めったにそういうことはいたしません。「儀礼があるから日本が生きる!」 ライアル・ワトソン たちばな出版
2014年06月27日
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同じ「追放」にしても表現に差が出る。 ドイツ人が、ドイツ人のためにユダヤ人を追放しているのは「下劣、野蛮」と書き、イギリス人が、ユダヤ人のためにパレスチナからアラブ人を追放すると「民主主義」と書いている。 現実の両国の追放の仕方を比べると、イギリスの方がはるかに残酷である。 「でたらめを言うな」と証拠を突きつけると、「見解の相違」とかわす。 確かに見解の相違ということもあろうが、今日、アメリカで放送され、活字になっているものの九九%が、調べればはっきりする事実を無視した内容である。 例えば『サタデー・イヴニング・ポスト』紙は、比較する資料を何一つ出せず、米国商務省の資料には、全く逆で「右肩上がり」としつかり書いてあるのにもかかわらず「日本 満州国でアメリカに対し門戸閉鎖」と臆面もなく書いている。 『ニューヨーク・タイムズ』紙等の有力紙まで、選挙で選ばれた皇帝なり国家主席なりを一人も挙げられないのに、中国の「民主主義」関連記事を盛んに出している。 事実関係を一切無視し、的確な評価につながる本物の情報は全て隠蔽され、戦争を煽るものだけ「ウエルカム」されるのである。 だから、アメリカの砲艦バネ一号を攻撃した日本軍の行動は「明白な日本の挑発行為」と大見出しになった。 中国軍機が沖合のアメリカ汽船「プレジデント・フーバー号」を爆撃したり、上海の国際租界を空襲したりし、アメリカ人が何人か死んでも、単なる「事故」扱いである。 あろうことか、このフーバー号爆撃事件と租界空襲事件も、その一部を「残酷極まりない日本軍」とご丁寧に解説までつけて報じた新聞まである。「アメリカはアジアに介入するな!」 ラルフ・タウンゼント 芙蓉書房出版
2014年06月26日
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歴史を考えると、すぐにぶつかる問題がある。 それは、時間をどうやって認識するか、という問題だ。 空間のほうは、視覚を通してかなりの程度カバーできるから、問題は少ないが、時間のほうは、直接認識することは、人間にはできない。 これは、われわれが日常経験することだけれども、このあいだ、何かがあった、ということは覚えていても、それが二日前のことだったのか、三日前のことだったのか、一週間前のことだったのか、一カ月前のことだったのか、あるいは去年のことだったのか、そういうことになると、きわめて漠然とした記憶しかないのがふつうだ。 これはなぜかというと、時間には目盛りがないという、時間の本質から来ている。 時間というと、何かわかったような気がしても、じつはつかまえどころがないのが時間だ。 どれぐらいの時間が経過したかという、時間の長さを直接測る基準がそもそもない。 人間の感覚には、もともと時間を測る機能はそなわっていない。 だから時間を認識するためには、ただ一つしか方法はない。 それは、空間を一定の速度で運動している物体を見て、その進んだ距離を時間の長さに置き換える方法である。 だいたい 「時間の長さ」という言葉自体が、時間を空間に置き換えた表現だ。「岡田英弘著作集 歴史とは何か1」 岡田英弘 藤原書店
2014年06月25日
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思考は習慣を打破し、過去の体験を無視する能力と定義されるかもしれない。 もう一つの力動的な側面は、人類史上の偉大な業績に示されているように、真の創造的思考の類に含まれるのである。 この思考の特徴は大胆さ、勇敢さ、勇気である。もしこうした言葉がこの文脈にぴったりしないと思うならば、臆病な子どもと勇敢な子どもを対比させて考えてみるとよいであろう。 臆病な子どもは母親にしがみついて離れないにちがいない。 母親は安全、親しさ、保護を意味するからである。 それに対して勇敢な子どもはすすんで冒険を試み、家庭を離れて遠くに行くこともできる。 母親への臆病なしがみつきに対応する思考過程は、同じように習慣に臆病にしがみつくことである。 勇敢な思索家――これは、考える思索家と同じようにはとんど冗長な言い方だが――は、構えを打破でき、過去、習慣、学習、風習、因襲にはとらわれず、また安全で親しんだ場所を離れて冒険をしている時でも不安にさいなまれたりはしないにちがいない。「人間性の心理学」 A・H・マズロー 産業能率大学出版部
2014年06月24日
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南に繁栄する米沢の町があり、北には湯治客の多い温泉場の赤湯があり、まったくエデンの園であるである。 「鋤で耕したというより、鉛筆で描いたように」美しい。 米、綿、とうもろこし、煙草、麻、藍、大豆、茄子(なす)、くるみ、水瓜、きゅうり、柿、杏、ざくろを豊富に栽培している。 実り豊かに微笑する大地であり、アジアのアルカデヤ(桃源郷)である。 自力で栄えるこの豊沃な大地は、すべて、それを耕作している人びとの所有するところのものである。 彼らは、葡萄、いちじく、ざくろの木の下に住み、圧迫のない自由な暮しをしている。 これは圧政に苦しむアジアでは珍しい現象である。 それでもやはり大黒が主神となっており、物質的利益が彼らの唯一の願いの対象となっている。 美しさ、勤勉、安楽さに満ちた魅惑的な地域である。 山に囲まれ、明るく輝く松川(まつか)に濯概されている。 どこを見渡しても豊かで美しい農村である。「日本奥地紀行」 イザベラ・バード 平凡社東洋文庫
2014年06月23日
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そこでは哲学をもたないひとびとが洞窟の中の囚人になぞらえられるのだが、その囚人たちは縛られているため、一つの方向だけしか見ることができないでいる。 彼らの背後には火があり、前には壁がある。 彼らと壁との間には何もなく、彼らの見るもののすべては、自分たちの影と、背後にある対象が火によって壁の上につくつた影である。 不可避的に彼らは、それらの影を実在だと考えるのであり、影をつくつているもとの対象に関しては、ぜんぜん知らないのである。 囚人の中のある男が、ついに洞窟を脱出することに成功して、太陽の光を浴びる。 初めてその男は実在の諸事物を眺め、自分がそれまで影に欺むかれていたことを知る。 もし彼が、後見人たるにふさわしいような哲学者であれば、再び洞窟の中へ入って行って、以前ともに囚人であったひとびとに真理について教え、また洞窟を脱出する案内人となることを、みずからの義務と感じるであろう。 しかし彼は、前の仲間を説得するのに困難を覚えるだろう。 なぜなら彼は、太陽光線の中からやってきたために、洞窟の中では囚人たちに較べて影をぼんやりとしか見ることができず、したがって彼らには、その男が脱出以前よりバカになったように見えるからである。『西洋哲学史』 バートランド・ラッセル みすず書房
2014年06月20日
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死中活有り 苦中楽有り 忙中閑有り 壷中天有り 意中人有り 腹中書有り 壷中有天:世俗生活の中に在って、それに限定されず、独自の世界即ち別天地をいう。 漢書方衛傳・費長房の故事に出づ。 意中有人:意中の人と云うと、恋人の意に慣用するが、ここでは常に心の中に人物を持つ意。 或るは私淑する偉人を、或るは共に隠棲できる伴侶を、又要路に推薦しうる人材を、というように、あらゆる場合の人材の用意。 腹中有書:目にとめたとか、頭の中の滓のような知識ではなく、腹の中に納まってをる哲学の事である。「百朝集」 安岡正篤 全国師友協会
2014年06月19日
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皆さんは多くの儀式をお持ちです。 季節の儀礼として“花見”がありますし、むかしの太陰暦にしたがって特定の日に行う儀式を持つています。 日本の文学や舞踊や美術工芸に、重要な位置を占めている行事もあります。 日本には、またたいへん豊かな通過儀礼もあります。 ひとつの人生の段階から、別の段階へと移行していく際に助けとなる多くの儀礼もあります。 たとえば、赤ちゃんが誕生してから二〇日日、三〇日日、または五〇日日に神社にお参りに行く“宮参り”という行事があるそうですが、これなどはとても大切なものですね。 神道の守り神に新生児を引きあわせる、という重要な役目を持っています。 “元服”という伝統的な成人式がありますね。 これは七世紀から行われているそうですが、十代の半ばに達すると、男の子は大人の服を着るようになるそうです。 現在はもちろん成人する年齢も高くなり、法律的には二〇歳で成人となり、それを祝う日も一月の第二月曜日となっています。 日本ではいまだにお祝いをやり、若者を地元の神社に連れて行くそうですね。 六〇歳の誕生日には“還暦”を祝います。「儀礼があるから日本が生きる!」 ライアル・ワトソン たちばな出版
2014年06月18日
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「報道規制のない国はない」。 これは海外事情研究のイロハである。 規制の動機は国によりさまざまであるが、規制はある。 アメリカも例外ではない。 確かに、法的にはアメリカには表現の自由というものがある。 世界には官憲による検閲が行われて いる国もある。 そのような国では好ましくないニュースはカットされ、都合の良いように捏造(ねつぞう)されている。 アメリカにも似たり寄ったりの陰の力があり、一般読者に気づかれないようにさまざまなカット、捏造が行われているのである。 アメリカを日本、ドイツ、イタリアと戦わせたい連中がいる。 彼らは少数ではあるが結束し、潤沢な資金がある。 理由は後ほど述べるが、新聞の多くが、平和主義を標榜しながら、特定の国の誹謗中傷を繰り返し、国民に嫌悪感を抱かせ「戦争も己む無し」の世論を醸成していることに気づいて欲しい。 世論が形成されれば、後は容易である。 事実を知ればこういうことにはならない。 一九一五年から十七年、偽記事があふれていたが、同じ状況が今日起こつているのである。 詐欺的手口を使いながら「規制はない」と言う新聞がある。 完全に意図的で常習者と言わざるを得ない。「アメリカはアジアに介入するな!」 ラルフ・タウンゼント 芙蓉書房出版
2014年06月17日
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七世紀に唐の侵略の危険に対抗して、自衛のために建国してから、日本はシナ大陸に対しても韓半島に対しても、一度も正式の国交を持たず、一貫して鎖国を堅持してきた。 これは今となってみれば、きわめて賢明な態度だった。 日本の皇室が外国の王家と婚姻を結ぶことがなかったから、海外に日本の領土ができなかった代わり、日本列島内に外国領ができることもなかった。 そのおかげで、建国から千二百年後の十九世紀に日本が開国するまでに、人口の大きな出入りはなく、国境も海で限られた自然の国境だけだったから、国境のかなたに同族が住んでいるという現象もなかった。 だから、生存のために近代化する、つまり当時流行の国民国家に衣替えするのに、ほとんど困難がなかった。 さらに国民のアイデンティティの焦点として、かつて建国に際して発明された天皇がそのまま保存されていて、新しい国民国家の元首としてすぐさま利用できた。 いちばんたいへんだったのは、新しい国語の開発だった。 七世紀から開発が始まったヤマトコトバは、文法というものがもともとない漢文を下敷きにしてつくられたために缺陥(けつかん)が多かったので、ヨーロッパ語に対応する語彙と、論理が表現できる直訳体の文体を新たにつくり出さなければならなかったが、それも明治維新から三十年足らずの日清戦争までにはほぼ形がついた。「岡田英弘著作集 歴史とは何か1」 岡田英弘 藤原書店
2014年06月16日
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この過程の最もよく知られている例は、たぶん合理化であろう。 この過程およびこれと類似している過程は、既にできあがった考えや先だった結論があり、この結論を支持したりその証拠を見つけ出したりすることにかなりの知的活動を供するものとして定義されうる。 (「私はあいつが好きではない。何故だか、その恰好の理由を見つけるつもりである」)。 これは思考のように見える見せかけだけの活動である。 それは最上の意味での思考ではない。 というのは、問題の本質にかかわりなくその結論に到達するからである。 眉をひそめること、白熱した議論、証拠をこじつけることなどはすべて煙幕のようなものである。 結論は思考が始まる前に決定されている。 見せかけさえもないことがしばしばある。 人々は考えているような仕草さえもしないで簡単に信じてしまう。 これは合理化よりも努力を必要としない。「人間性の心理学」 A・H・マズロー 産業能率大学出版部
2014年06月13日
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人間が人間を描くことの困難はほとんど尽きる所がない。 描写といふ文字による方法をとらないにしても、人間が人間を理解するといふだけの事が、あるいは無謀に近いことかも知れない。 最も身近な最も多くの生活を見知つてゐる人間についても、否、よく知つてゐればゐるほど、ますます人間とは理解し尽されないものである。 小説などといふものがどんなにみすぼらしいものか、といふ気がする。 人間と人間との関係はほとんど総べて誤解から成り立つてゐる。 われわれは誤解してゐる人間をそのままに描いて行くことしか出来ない。 理解したと思ふことが即ち誤解したことにほかならない。 われわれは一人の作中人物を理解したと思ふとき、「人間の秘密」を掴んだやうに狂喜する。 実は理解の喜びではなくて、虚偽の個性を創造し得た喜びであるのだ。 かくて小説は、誤解と虚構との上に成立する。「自由と倫理」 石川達三 文芸春秋
2014年06月12日
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コロンブスはなぜ日本に行きたかったのか。 もちろん、黄金を獲得するためである。 なぜ黄金を必要としたのか。 黄金は物を獲得するための手段である。 ヨーロッパ人はその当時、黄金で何を買っていたのか。 東方の物産である。 そのうちもっとも需要されたのは胡椒・香辛料である。 胡椒・香辛料はヨーロッパで何に使われていたのか。 薬である。 教会の管理する薬局で薬をして売られていたのである。 なぜヨーロッパは薬を必要としたのか。 それは十四世紀中葉、わずか数年のうちにヨーロッパ総人口の三分の一をなめ尽くした疫病に対する効果があると信じられていたからである。 その産地が「海洋アジア」にあった。 それを買うための手段が黄金であった。 黄金は命にかえても手に入れねばならなかった。 疫病はなぜ蔓延したのか。 それは東方のモンゴルからもたれされたものである。 大航海時代のきっかけにはモンゴルの影がある。「地球日本史」 西尾幹二 産経新聞社
2014年06月11日
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日本の打倒は、極東問題からの日本の排除を意味しない。 日本が敗北すれば、日本国内における現在の封建的・軍事的組織は崩壊し、恐らく動乱と政治的、社会的混乱の時代がつづくだろう。 もしかしたら共産主義化するかもしれない。 しかし、ソ連邦やドイツの例に見られる通り、力強い国民は(日本もそうであるが)、敗戦や国家の屈辱で従順になってしまったりはしない。 むしろそういう国民は、衝動的な自尊心の念で、破壊的な影響力――“有害なもの”(”nuisance value”)――を周囲に及ぼすだろう。 それは、彼らが帝国全盛時代に行使した力にそれほど見劣りするものではないだろう。 しかし、日本の徹底的敗北は、極東にも世界にも何の恩恵にはならないだろう。 それは単に、一連の新しい緊張を生むだけであり、ロシア帝国の後継者たるソ連が、日本に代わって極東支配のための敵対者として現れることを促すにすぎないだろう。「平和はいかに失われたか J・A・マクマリー 原書房
2014年06月10日
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儀礼や祭式は、現実的なものであり、確固としたものであり、有効なもので、言葉や思想に負けないぐらいの力を持ち、それなりに言語と同等に意義深いものなのです。 人間の言語能力の大部分は、生まれながらの本能的なものだということが、いま認識されつつあります。 遺伝子にすでに組み込まれているのです。 しかし、言語のほかにもうひとつのコミュニケーション・パターンがあること、それが言語と同じくらいに具体的であるという事実を、どうやら私たちは長いあいだ見過ごしてきたようです。 言語ともうひとつのコミュニケーション・パターンに大きな違いがあるとすれば、言語に関しては、それがいかに機能するかという複雑な知識を、われわれが持っているということだけです。 私たちは統語論(シンタクス)を知っているし、意味論(セマンテックス)も知っている。 しかし、祭儀の行為の奥に隠されている形式や構造については、いまだ明確な分析は行われていません。 私が憂慮するのはそこです。 これは重大な見過ごしではないのか? なぜなら、人間を理解するうえで、人間がたがいにうまくつきあい、また環境とうまく折りあっていく方法を探るうえでも、それは言語におとらず重要なものだからです。「儀礼があるから日本が生きる!」 ライアル・ワトソン たちばな出版
2014年06月09日
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中国が新たに反日政策を採つたのには、何ら正当性がないと思われる。 何千人もの中国人実業家が日本で優遇されていた。 当時、日本は「満州」と呼ばれていた満州国を占領していなかった。 一九二二年、日本は第一次大戦でドイツから奪った山東省の鉄道の利権等を中国に自主的に返還した。 これは誠に寛大な措置で、国際的に見ても史上稀なことであつた。 比較的貧しく、海外に資源を求める必要のある日本にとっては、誠に重大な意味を持つ措置であったのである。 日本は山東省を返還するなど善意を示したのであるから、中国側の怒りは鎮まってもよさそうなものであったが、「排外」は止まらなかった。 「排外」は、政治家やヤクザが政治的に利用する「隠れ蓑」なのである。 多大な犠牲を払った日本の善意にもかかわらず、暴力事件にまで発展した反日運動を中国官僚が止めなかつたことで、日本でも中国に対し激しい敵意を持つようになつた。 中国の反日煽動家は日本の資産を「対価を払つて買い上げるのではなく、単に没収せよ」と要求していた。 あのリットン調査団は、日本に好意的ではなかったが、それでも、一九三一年に端を発する満州事変で日本が被り、耐えに耐えた挑発行為を数々紹介している。 それは、アメリカが一八九八年スペインと戦った時、また一九一七年、第一次大戦に参戦してドイツと戦った時、アメリカが被り、耐えた挑発行為より、多かったのである。「アメリカはアジアに介入するな!」 ラルフ・タウンゼント 芙蓉書房出版
2014年06月06日
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日本語独特の概念である「民族」をまっとうに定義すれば、「自前の国家を結成する資格がある一つの国民として、他人から認められたい人々の集団」ということになろう。 国民(ネイション)と認められたいという願望が、すなわちナショナリズムである。 この「民族」という日本語は、二十世紀の初め、日露戦争の前後に出現した。 十八世紀末の北アメリカと西ヨーロッパの二つの革命が、君主制の代用品として国家を生み出し、国家に正統性を与えるために国民が発明され、今度は国民と認められて国家をつくりたい人々が民族を自称する、という順番である。 これはまったく偶然の条件が重なった結果で、世界がこう「発展」する必然性があったわけではない。 だから現代のわれわれが、国家の枠でしか歴史を考えられなくなったのも、十九世紀に国民国家が世界中に広まった結果である。 民主主義だって、最近の起源の国民国家のイデオロギーにすぎず、なにも永久不変の真理ではない。「岡田英弘著作集 歴史とは何か1」 岡田英弘 藤原書店
2014年06月05日
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一般的に、型づけをすることの主な利点の一つは、問題をうまく位置づけ、問題を操作する時に自動的に役立つテクニックをもたらすことである。 このことは型づけをする唯一の理由ではない。 問題を位置づける傾向は深く動機づけられたものである。 たとえば、全く見当がつかない症状に出会った時よりも、手のうちようがないけれども知られている病気に出会った方が気が楽だという医者に見られるごとくである。 もし、同じ問題を以前に何度も扱ったことがあるとしたら、解決に必要な機械装置は十分に油がさされ、使われるばかりとなっているであろう。 もちろん、これは前になされたように事がなされる傾向が強いことを意味する。 そして、習慣的な解決法は便利さと同様に不都合さをもたらす。「人間性の心理学」 A・H・マズロー 産業能率大学出版部
2014年06月04日
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「ジパングは東方、大陸から1500マイルの海にある島である。 住民は色白で慇懃、優雅である。独立国で君主をいただき、どの国からも掣肘(干渉)を受けていない。 莫大な黄金がある。 君主はすべて純金でおおわれた非常に大きな宮殿を持っている。 われわれが家や教会の屋根を鉛板でふくように、この国では宮殿の屋根を全部純金でふいている。 その価値はとても数量で計り得ない。 さらに、たくさんある部屋はこれまた床を指二本の厚みのある純金で敷きつめている。 広間や窓もことごとく金で飾り立てられている。 実際、この宮殿のはかり知れぬ豪華さは、いかに説明しても想像の域を脱したものである。 真珠も美しいバラ色のしかも円くて大きな真珠がたくさんとれる。 この島では人が死に土葬するときは、死んだ人の口の中に真珠をひとつ入れる。 真珠のほかにもいろいろな宝石を豊富に産出する。 まことに豊かな島である。 この莫大は財宝について耳にした大汗すなわち皇帝フビライは、この島を征服しよう思いたった。」(『マルコ・ポーロ東方見聞録』校倉書房より抄録)「地球日本史」 西尾幹二 産経新聞社
2014年06月03日
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「終局的に起こつた太平洋戦争については、日本ははじめからなんらこれを企図していなかったことが明瞭に示されている。その政策を定め準備を整えるにあたって、日本はもとよりかような戦争が、万一にも起こる可能性のあるべきことを無視しえなかったのである。しかしながら、日本がこの終局における衝突をつねに回避しようとしていたことについては、明白な証拠が存在する」(『パル判決書』下三五〇頁) 刑事責任論における行為の同一性の成立条件(存在論)とその認定条件(認識論)が-哲学的にはごく最近D・デヴィッドソンなどによって開発されつつある領域だが-明確に規定されないかぎり、一般の刑事事件でも共同主体の扱いには人権侵害になる危険が充満している。 パルはハーバード大のセーヤー教授の「(共同謀議論は)法による裁判の正反対である」(下四九八頁)という言葉を引用する。 まして侵略戦争というような歴史的事件を刑事責任の対象にし得るほど、国際法の諸概念は成熟していない。 パルは判決書に言う。 「犯罪性の諸原則を国際生活における法の規則のなかに移しうるほどに、国際生活の諸条件が熟しているとは、今日までのところ、諸国は考えていない」(下四九〇頁)。 ここからパルは、検察側の共同謀議の主張を全面的にしりぞけて、全被告に無罪を宣告する。 東京裁判が日本の軍国主義を裁きえた裁判であるとすれば、パル判決は軍国主義に「無罪」の宣告をしたことになるが、そうではない。 「軍国主義」というような歴史的主体を裁き得るほどに、「共同主体」を定義する刑事法の基礎概念は成熟していないというのがパルの真意である。 「日本の為政者、外交官および政治家らは、おそらく間ちがっていたのであろう。またおそらくみずから過ちを犯したのであろう。しかしかれらは共同謀議者ではなかった」(下四六六頁)「進歩の思想・成熟の思想」 加藤尚武 PHP
2014年06月02日
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