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日本の歴史は「模倣の歴史」であった。 ひがみをエネルギーとして、勇猛果敢に外国の栄養を摂取した歴史であった。 遣唐使を思い出せば一目瞭然。 乗った船がかならず中国大陸に着くという保証はなかったから、まさか当時、最高の地位にあった人々を派遣するわけにはいかない。 次代のリーダーたるペき若者たちを、広く政治、経済、文化、宗教のあらゆる分野から抜擢して、中国大陸に送り出した。 運よく彼の地に渡ったとしても、帰りがある。 南シナ海の藻屑と消えた有能な人材が少なくなかった。 人によって説はまちまちだが、当時、中国文化と日本文化との開きは、六百年とも八百年とも千年とも言われる。 いずれにしても、中国が日本にとってケタ違いの先進国であったことに変わりはない。 中国のすべてが、またとない目標になってくれたわけである。 平安朝の後半期には、菅原道真の進言から、日本は遣唐船を廃止して、一種の鎖国時代にはいった。 しかし、中国から学ぶべきものがなくなったという意味ではない。 直接、人材を派遣することをやめただけで、書籍、文物を通じての中国文化輸入は、いっそう盛んになった。 当時、日本の一流文化は、すべて中国文化をマスターし、真似たものであった。 つまり、漢詩や漢文は一流文化だが、平仮名まじりの文章で書かれた『源氏物語』などは、女子ども向けの二流文化と格付けされた。 もちろん、紫式部も文化人とは目されていない。 このような格付けは、以後、えんえんと受け継がれ、徳川幕藩体制の末期まで続くことになる。「五輪書の読み方」 谷沢 永一 ごま書房
2015年06月30日
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知的時間で押さえておきたいことは、脳の働きと時間の関係です。 これは特に何か論文や詩や随筆を書くといった、知的生産に従事する時には絶対わきまえておきたいことです。 例えば、論文を書く時、あれこれ考え、その書き出しの一、二枚に筆が行った時、突然の電話や訪問客で五分くらい中断されると、その前に書いたものに続けるためには、さらに一時間か二時間かかるということがよくあることです。 あるいは気分がこわれて、その仕事は半日中断、あるいは翌日、翌々日に持ち越しになったり、どうしても以前のものにつながらないということもあります。「私の人生観、歴史観」 渡部昇一 PHP
2015年06月29日
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人間とは、独立し、成長した一個人として自己を主張しつつ、生き抜かねばならないもの、という前提がわれわれにはあるからだ。 しかも、人生の成功にせよ不成功にせよ、それは各自の責任であって、生存の最終の日、最後の審判の日には一人一人が神の前に立たされ、過去においてなしてきた善事も悪事もすべてその責任をとらされることになっているのだ。 「独立した人間」という高い理想を全うするためには、当然のことながら子供の時からその訓練をはじめねばならない。 甘やかされたお母さん子などは、高く張られた人生の危険きわまりない綱わたりを一人でやってゆくことはできない。 だからこそ、なるべく早い時期に冷水につき落せ! 母親のスカートからもぎ取るのは早いにこしたことはない! 人生の恐怖をなるべく早いうちに覚えさせよ! のスローガンが響くのである。 こういう教育理念によって作り上げられる人間は、基本的には他人不信だし、自分以外の人間には決して頼らなくなる。 しかし本当の意味で独立心のある成人に全員がなれる、というわけではない。 懲罰や愛情剥奪の恐れを抱きつつ一生を過す人も多いのだ。「心の社会・日本」 ロレンツ・ストウッキ サイマル出版会
2015年06月26日
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私は『ボーフェン-ディグルの十五年間』を何回も読んでいる。 大作ではないが、読むたびに新たな感動をうける。 というのは、この本に書かれているあれもこれもが私に日本軍抑留所を彷彿させるからである。 被抑留者にあたえた食べ物および医療は、日本軍よりオランダのほうがよかったのはほんとうだが、その他のもろもろの点では、両者は驚くほど似通っている。 そして、オランダ領東インド政府抑留所のインドネシア人被抑留者、とくにオランダの教育をうけた者が「オランダ人があのようにひどい行為に出るとはとても信じがたい」と言ったことをサリムが何回か記述していることに、私はやり場のない戸惑いを感じる。 それはわれわれオランダ人自身にも信じがたいことなのである。 「そんなこと、ほんとうのはずがない。われわれがそんなことをするはずがない」とオランダ人が言うのを、サリムはここオランダに住むようになってから再三聞いたと述べていることからも、それはわかるだろう。 だが悲しいかな、われわれオランダ人はそのような愚かしい行為をしたのだった。 ――被抑留者を、鞭で打つ。 水もあたえず熱帯の炎天下に放っておく。 檻に閉じこめる。 機雷や敵の潜水艦だらけの水域を、船底に押しこめて移送する。 ”逃亡しようとした”とかこつけて射殺する等々。 そのうえ、これは日本軍はしなかったことだが、被抑留者の移送の際に、何人かを一組にして鎖でつないだ。 女子被抑留者のスカーシは、つぎのように記している。 「一九二八年四月(逮捕されてはや一年半になる)。 プリオク港(”ジャカルタの港”)でオランダ領東インド政府の蒸気船ルムフィウス号に乗せられる。 八〇〇人の流刑者が乗船、私以外はみな男子だ。 私たちは五人一組に鎖でがっちりとつながれて、食べるときだけ片手を自由にしてもらえる。 横になることは、夜の九時にならないとできない」「西欧の植民地喪失と日本」 ルディ・カウスブルック 草思社
2015年06月25日
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われわれは日本一国のためだけに戦つたのではなかつた。 「大東亜戦争」を戦ふつもりで戦つたのだつた。 だからこそ日支の争ひ、朝鮮の迫害は痛恨の極みであり、思ひ返すに言葉なしといふ悲痛な出来事なのである。 ただ日本がオッチョコチョイにも西洋の真似をして、自国の利益追求のために中国、朝鮮を「侵略」したのであれば、土下座して謝るまでもない。 国際社会といふ弱肉強食の世界では日常茶飯事であることの一つを日本もしたといふだけのことであつて、大方の国々はさういふことで謝り合ふなど夢にも思ひつかないことであらう。 しかしまさにさうではなかつたからこそ、われわれはいまだに「苦い」としか言ひやうのない後悔を抱いて中国を、そして殊に朝鮮を眺めやるのである。「からごころ」 長谷川三千子 中公文庫
2015年06月24日
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フーコーはそれまでの歴史家が決して立てなかった問いを発します。 それは、「これらの出来事はどのように語られてきたか?」ではなく、「これらの出来事はどのように語られずにきたか?」です。 なぜ、ある種の出来事は選択的に抑圧され、黙秘され、隠蔽されるのか。 なぜ、ある出来事は記述され、ある出来事は記述されないのか。 その答えを知るためには、出来事が「生成した」歴史上のその時点――出来事の零度――にまで遡って考察しなければなりません。 考察しつつある当の主体であるフーコー自身の「いま・ここ・私」を「カツコに入れて」、歴史的事象そのものにまっすぐ向き合うという知的禁欲を自らに課さなければなりません。 そのような学術的アプローチをフーコーはニーチェの「系譜学」的思考から継承したのです。「寝ながら学べる構造主義」 内田樹 文春新書
2015年06月23日
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第一に国内の統一である。 第二に、外国の政治や謀略の影響から国民を守ることである。 第三に、世論を正しく指導すること。 第四、とりわけ純真、熱烈で行動力に富む青年や学生に対して、祖国の統一と平和を乱すことに悪用しょうとする思想宣伝から彼らを守ることに意を注がねばならぬ。 第五に、非合法暴力、集団暴力は峻厳に取締まり、処罰せねばならぬ。 第六、しかし政策の根本は為政者・指導者の自己そのものにある。 第七、当局者は勇気と断行力に富まねばならぬ。「新憂樂志」 安岡 正篤 明徳出版
2015年06月22日
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ルーズベルトは、ジキル博士とハイド氏を使い分けることにより、その両方を達成した。 すなわち、平和のための候補者のふりをしつつ、彼と彼の内閣は、アメリカ国民を彼らの意思に反して、戦争にひきずり込むためにすべてのことをしたのであった。 この世の中には人が作った法よりもより大切な、決して曲げられない法が存在する。 それは「真実は勝つ」ということである。 真実に使える僕(しもべ)は、歴史の子宮の中で常に外に出ようと胎動している。 歴史は真実の事実を高く掲げて、暗黒を照らし出さねばならない。「日米・開戦の悲劇」 ハミルトン・フィッシュ PHP
2015年06月19日
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デリ鉄道会社は現地人従業員に対してかなり良心的な事業であったようだし、そのような評判だったことを私も記憶している。 そうではあるが、一見とるに足りないちょっとした記述に、植民地支配者オランダ人の現地人に対する一種独特の態度がうかがわれる。 「デリ鉄道会社は、農園企業が労務者に提供するものより住み心地のよい住まいを、現地人従業員用に建てることに専心してきている」とメイエルは書いている。 この一文を読んだとき、「それではプラウ・ブラヤンのデリ鉄道会社の元現地人従業員宿舎に抑留されたオランダ人女子は、少なくとも住み心地のよさの恩恵に浴したことになるな」と私はすぐさま思ったが、それは早合点というものだ。 真実はつぎにあった-メイエルはつづける-「プラウ・プラヤンの施設が一九四二年の抑留時にオランダ人女子抑留所として使われるとあらかじめわかっていたら、デリ鉄道会社がこれにもっと改善を加えたことは確かだ」 自分たちの不甲斐なさを機知でスマートに表現した、と私はこのメイエルの言葉を理解したいが……それにしても、これは”靴のあたるところ(痛いところ)”を見せつけている言葉である。「西欧の植民地喪失と日本」 ルディ・カウスブルック 草思社
2015年06月18日
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今日、月曜の朝から金曜の夕方まで父親は不在だから、母親が父親的教育の役割を代って受け持ってしまう。 こうして「甘え」ではなく、教育や、時には訓練がとって代る。 子供はいうことをきかないと怒鳴りつけられ、最前まで優しくなでさすってくれていた同じ手で殴られてしまう。 さもなくば、罰として戸外に押しだされ、家族の団欒から孤独へ、もっとひどい時には暗闇へとつき放される。 愛情を体験する代りに孤独と無防備を思い知らされてしまうのだ。 未知のものに恐怖を感じた時、子供は母のもとへ逃げ帰る。 もし母をも恐れなくてはならないとしたら、子供にはもう逃げ場がないのだ。 懲罰と称賛、ムチとあめの組み合せの教育は、キリスト教社会、とくにプロテスタントの道徳に深く根ざしている。 「子供を愛するなら罰せよ」という古い諺を、いまどき口に出していう人はさすがにいないが、それでも多くの親たちの心情の奥深く無意識の底に今なお残っている。 しかしこれは、ちょっと聞きにはひどいようでも、欧米的人生観の精神的関連において考えてみると、それほど間違ってもいないのである。「心の社会・日本」 ロレンツ・ストウッキ サイマル出版会
2015年06月17日
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アイゼンハワー元帥が戦後、コロンビア大学の総長だった時、進学に悩んでいた青年に与えた手紙に、教育を受ける目的は「良き市民」になることであり、それは「一生の仕事」だと書いております。 そして「良き市民」の条件として三つ書いてあります。 「第一には、我々の善き伝統を受け継ぐだけの資質を養い、 第二には、その伝統をより良くし、より富ましめ、より大きくしていく、 そして第三には、それを自分の後継者に引き継いでいこうという精神を持った人だ」とある。 この「良き市民」はそのまま「良き日本人」と言い換えても同時に「良き産業人」としても良いと思うのであります。「職業と人生」 田中良雄 ごま書房
2015年06月16日
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私の好きなお経に大宝蔵如来経があります。 このお経を読むと、人間の子供はみな転輪聖王(てんりんじょうおう)、簡単にいえば輪王だと言います。 つまり、衆生の間を回って人間を救い、悟りに導く。 その輪王を心なきはした女(め)が、「この餓鬼が!」というようにうるさがり、折角の輪王を餓鬼にしてしまう、とお経に慨嘆している。 今日、つくづくと世の父母、親子の日常の姿を見ると、まったくその通りです。 愚かなる父母によって折角、人間として生まれた子供たちが皆、餓鬼にされ、しかも訳のわからぬ教師どもが住む学校なるものに入れられ、こういうともがらによって悉(ことごと)く害(そこ)なわれる。 人間性を剝奪(はくだつ)されてしまう。 学校を出る頃にはまさに満身創痍(そうい)。 そのような状態で世に出るからろくな者にならんのです。「東洋人物学」 安岡正篤 致知出版
2015年06月15日
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あらゆる文物にはそれぞれ固有の「誕生日」があり、誕生に至る固有の「前史」の文脈に位置づけてはじめて、何であるかが分かるということを、私たちはつい忘れがちです。 そして、自分の見ているものは「もともとあったもの」であり、自分が住んでいる社会は、昔からずっと「いまみたい」だったのだろうと勝手に思い込んでいるのです。 フーコーの仕事はこの思い込みを粉砕することをめざしていました。 そのことは彼の代表的な著作の邦訳名、『監獄の誕生』、『狂気の歴史』、『知の考古学』といった題名からも窺い知ることができるでしょう。 「監獄」であれ「狂気」であれ「学術」であれ、私たちはそれらを、時代や地域にかかわりなく、いつでもどこでも基本的には「同一的」なものと信じています。 しかし、人間社会に存在するすべての社会制度は、過去のある時点に、いくつかの歴史的ファクターの複合的な効果として「誕生」したもので、それ以前には存在しなかったのです。 この、ごく当たり前の (しかし忘れられやすい)事実を指摘し、その制度や意味が「生成した」現場まで遡って見ること、それがフーコーの「社会史」 の仕事です。 ある制度が「生成した瞬間の現場」、つまり歴史的な価値判断がまじり込んできて、それを汚す前の「なまの状態」のことを、のちにロラン・バルトは「零度」(degre zero)と術語化しました。 構造主義とは、ひとことで言えば、さまざまな人間的諸制度(言語、文学、神話、親族、無意識など)における「零度の探求」であると言うこともできるでしょう。「寝ながら学べる構造主義」 内田樹 文春新書
2015年06月12日
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J・レイクフックは、スマトラ島東岸の日本軍抑留所生活を記した『黄色い蟻の蔓延』のなかで、一九四四年十一月のある日、シ・レンゴ・レンゴ抑留所の被抑留者に数部の「日本タイムズ」が配られたことを記述して、「日本軍抑留所の所長は何ゆえにわれわれにこの新聞を配ったのだろうか。 というのは、この八月五日と六日付の新聞には、アメリカ兵が自分の妻、婚約者、子供たちに戦死した日本兵の骨や頭蓋骨を玩具として送った、という情報記事が(チューリヒ経由で受信されたとされる)九段も割いて掲載されていたからだ」 私はこのシ・レンゴ・レンゴ抑留所に入っていたので、その新聞が回覧されたときのことはいまでもよく覚えている。その際のわれわれの反応はここに書くまでもなく、「われわれ白色人種はそんなことはしない」と、誰一人この情報を信じる者はいなかったし、日本軍の戦争宣伝は狂気じみた偽りとでっちあげ以外の何物でもないという証拠をこの新聞記事に読みとっただけだった。 戦後だいぶたってからのことだったが、私はこの情報が事実にもとづいていることを発見した - アメリカ兵が自分の婚約者にお土産として送った日本人の頭蓋骨の写真が当時(一九四三年)の「ライフ」誌に掲載されていたのだ。 ドナルド・キーンは『アジアの荒地から』のなかで、アメリカ海軍の中尉が、自分の息子に約束した”日本野郎の耳を一対”わが物にしたいがために、他の者の協力を請うたことを書いている。「西欧の植民地喪失と日本」 ルディ・カウスブルック 草思社
2015年06月11日
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第一次石油ショックの昭和四十八年秋から、第二次石油ショックの昭和五十年にかけての間に、日本歴史の第一期が終わったと解釈している。 以後、私たちは、日本歴史の第二期を最初から生きてきていると言えるのではないかと思う。 なぜ、このような一見、乱暴とも思える区切り方ができるのか。その根拠は、いたって簡単である。 私が言う第一期日本歴史は、日本が外国に追いつき追い越すことを目指した時代であった。 別の表現を使えば、日本が後進国であった時代である。 日本は、模範とすべき、モデルとすべき、到達すべき先進文明をつねに持っていた。 それは単に日本人の視野の中にあったばかりか、全面的に頭の上に大きく覆いかぶさっていた。 日本は、その先進文明の真似をして追いつこうとした。 あるいは、そこから最も有効な栄養素を摂り入れることによって、歴史を前へ前へ進めることができた。 それが日本のエネルギーであり、動力源になった。 ところが、第一次石油ショックから第二次石油ショックの間に、様相が一変した。 ヨーロッパおよぴアメリカが、石油ショックに対して対応を誤った。 おかげで、かつて日本が到達すべき目標として想い措いた先進諸国が、軒並み国家的エネルギーを喪失してしまった。 かつて日本は、ドイツやフランスを羨望の目で眺め続けてきた。 そこまで到達しなければ、一人前の国家とは言えない、というようなコンプレックスを抱いた。 しかし、現在では、そのような卑下した目つきで眺める必要がなくなった。 そんな国は、地球上のどこにも見当たらないのだ。「五輪書の読み方」 谷沢 永一 ごま書房
2015年06月10日
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土居の説によれば、あらゆる子供にとって未知の世界というものは、それを認めるや否や、何か「脅迫的なもの」として映る。 だから母親の身体から離れることに不安を感じるのだ。 子供は保護してくれる母親のふところを懐しみ、あたたかさ、親近さ、保護を追い求める。 そして、これらは臍の緒が切られてしまった後でも母の許へ帰りさえすれば見出せるのだ、ということをよく知っている。 このことはあらゆる文化の、あらゆる人間についていえることだし、高等動物の間でも同じ現象が観察されている。 しかし平均的な欧米の母親に比べると、日本の女性はあたたかく保護する母親としてずっと長期にわたって、しかもずっと無条件に子供に対している。 彼女らは子供に母からの分離と独立を要求することもずっと少ない。 この母のふところに対する熱望と、いつでもそれを望んでよく、また母を全面的に頼ってよい、という確信との組み合せが「甘え」である。「心の社会・日本」 ロレンツ・ストウッキ サイマル出版会
2015年06月09日
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幕末名君の一人・板倉勝尚が大儒の林述斎とやりとりした往復書翰に水雲問答という傑作があるが、その中に勝尚が、国家の禍は上に立つ者の私意私欲と、下の朋党から起る。 その源は国家社会を忘れて私に曳かれるからだ。 何とかしてもつと「公のため」という精神や態度を確立することが肝要である。 これができれば世の中が治まらぬということはないと思うがという書信に対して述斎は、ご尤もである。 ただその「公」ということも、その人間次第で近世とても「公」のないわけではないが、その「公」がみなけちくさくて、大処になると「私」になっでしまう。 つまり人物がけちでは何もかもうまく参らぬ。 大人物が堂々と公義を執って行えば、どんな平和でも達成できるのであるが、せめて何とかはっきり公私の分をつけてやれる程の人材が欲しい。 それでないと公共的などといってみたところで、何のことかわからない。 みな案外私を行いながら、心中は公共のためと心得ている連中ばかりであると、随分穿ったことを応えている。「新憂樂志」 安岡 正篤 明徳出版
2015年06月08日
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私は米内大将が昭和十五年に書いた手紙を讀んで、感銘がふかかつた。 「魔性の歴史といふものは人々の腦裡に幾千となく蜃氣棲を現はし、またその部分部分を切離して、種々様々にこれを配列し、また自らは姿を晦ましておいて、所謂時代政治屋を操り、一寸思案してはこの人形政治家に狂態の踊ををどらせる。 踊らされる者は、こんな踊こそ自分等の目的を達することの出来る見事にして且つ荘重なものであると思込んでしまふ。 斯くして魔性の歴史といふものは人々を歩一歩と思ひもよらぬ險崖に追詰むるのであるが、然し荒れ狂ふ海が平穏にをさまるときのやうに、狂踊の場面から静かに醒めて来ると、どんな者共でも、彼等の狂踊の場面で幻想したことと、現實の場面で展開されたこととは、まるつきり似もしない別物であることに氣がつき、ハテ、コンナ積りではなかつたと、驚異の目を見張るやうになつて来るだらうと思ふ。- 少し書き過ぎの嫌はあるが、まあ言うてみれはこんなものかな、呵々」「昭和の精神史」 竹山道雄 新潮叢書
2015年06月05日
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東インドのオランダ人がぜひ聞かせたい話は、慎みをもってしては、言ったり書いたりできる性格のものではない。 ところが、そういった言葉がここかしこで公然と(慎みもなく)まかり通っているのには驚かされる。 それは、一九八〇年のユツルフツ市におけるオランダ領東インド大記念式典でのN・ベーツ教授の式辞にも聞きとれた。 引用してみよう。「東洋にいたオランダ人は、非西洋の侵略者に相対したという事実をぐっと耐え忍ばなければならなかった」と教授は聴衆を引きこむ。 東インドとは無関係の部外者がこれを聞いたら、不思議に思うにちがいない。 非西洋の侵略者は西洋の侵略者より悪質だとでもいうことなのか。 何ゆえに”非-西洋の”という形容句がつくのだろうか。 それは、”ぐっと耐え忍ばなければならない”ほど憤懣やる方ない特別なことなのか。 ベーツは式辞のなかでこの概念を何度か使っていて、ある箇所では”東洋(東方)の侵略者”という表現をしている。 当時われわれオランダ人は東インドにいたのだから、これも奇妙な呼称と言わなければなるまい。 オランダではドイツ人を”われわれの東方の隣人”と呼んでいるが、東インドの位置からすれば、日本人は北方から来たことになるから、日本人にはこの呼称はあてはまらない。 もちろん、これは地理上の呼称などではない。 オランダ領東インドの人種関係に通じている者には、この言葉の意味するところはすぐにわかるもので、人種関係の文脈のなかで理解しなければならないと判断しよう。 オランダ領東インドにはがっちりと立派に組まれた人種差別があったのだから、人種偏見があったとしても何の不思議もない。 インド・ヨーロッパ混血はインドネシア人およびお互い同士を見下げ、純血のオランダ人は誰をも下に見る。 ”非-西洋の”とは”非-白人の”ということであり、この言葉には肯定的な意味合いはまったくない。 ところが不思議なことに、いまになって誰も彼もが、人種偏見など東インドにはまったくなかったかのように、あるいはわが旧海外植民地の旧住民たちは、オランダ本国の土を踏んだ瞬間に魔法の杖のひと振りで人種偏見を改めたかのように振る舞っている。「西欧の植民地喪失と日本」 ルディ・カウスブルック 草思社
2015年06月04日
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真に民主的な社会というのは、一般大衆が、自分が直接に属する共同体、職場、社会全般のそれぞれにおいて、社会政策の形成に対して意味のある建設的な参加をする機会があるような社会です。 重大な意志決定の大部分において、一般大衆が決定権を奪われているような社会とか、あるいは、社会や国家を支配するエリートグループによってなされた決定を承認する機会のみが一般大衆に認められているような統治形態とかは「民主的」という名に値しません。「言語と知識」 ノーム・チョムスキー 産業図書
2015年06月03日
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教育過程を終えて、官庁、私企業、サービス業などの仕事につくと、日本ではほとんどの場合、定年までその会社家族の一員としてとどまることができる。 これを逆から見ると、彼らは理論的にはもっと出世したり給料が高くなったりする転職のチャンスがあったとしても、もとからいる企業に忠実に留って働き、立身出世もその企業内でのみ心がける、ということになる。 ちょうど親が子を勘当したり、子が親を見捨てたりすることがほとんどないように、雇用者と被雇用者は相互に固い梓で結ばれつつ、会社の栄枯盛衰を共にするのだ。 「忠誠」が中心的な価値基準になっており、これはもしかしたら日本の社会全体についてもいえることかもしれない。 むろん欧米でも以前は、小さな手工業的な職場では家族的性格が支配していたが、日本ではこれが何千と労働者がいる近代的大企業になってもまだ失われていないのである。 日本人に職業を尋ねると、たいていの場合、働いている会社の名前をいう。 これがつまり彼らの「家族名」だ。 ファーストネームに当るもの、つまりそれぞれの人間の果している機能、社長なのか技師なのか運転手なのかは、その後になってからしか語られない。「心の社会・日本」 ロレンツ・ストウッキ サイマル出版会
2015年06月02日
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人間の行動に関する統計的な調査は、単にどのようなケースがあるのかということと、何が現実に存在しているかを語るだけで、評価は全く入っていないと考えられる。 幸いなことに多くの人々は、科学者でさえも平均的なもの、最も一般的なもの、最も頻度が高いものを是認しようとする誘惑、特に我々の文化においては、それは普通の人々にとっては非常に強い誘惑なのであるが、それに耐えられるほどには強くない。 平均的なことを見つけ出した後でも、なお「平均とは望ましいものか」と問わなければならないことは明らかである。「人間性の心理学」 A・H・マズロー 産業能率大学出版部
2015年06月01日
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