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しばらく、留守にしていた。東京の英国大使館にビザの申請に行っていたのだが、母乳育児のため、Lisaを置いて行くわけにもいかず、バーバ、Lisaと3人4脚での上京だった。…それがまた、すこぶる大変だった。東京は、全然バリアフリーではない。のぼりのエスカレーターが動いていればいい方で、ひどいところは階段のみでLisaを乗せたバギーと大荷物を必死の形相で担いで行っていた。これが、車椅子とかだったら、不可能に近い。日本も高齢社会を目前にして、バリアフリーを謳う宣伝などもよく見かけるが、実際に町を行く車椅子はほとんど見かけない。逆に、イギリスでは、本当によく車椅子に乗った人を町で見かける。近くのスーパーでもパブでも、そして、驚くべきことに、ディスコでも見かけたことがある。車椅子に乗って楽しそうに踊っている姿が、周りにやけに解け込み、自然に見えたのがすごく印象的だった。さて、ビザ申請に必要な戸籍謄本がないことに出発前日の土曜日に気付き、結局東京には一日遅れで入ったこともあり、ほとんどの友人に会えずにただただ、ビザのためにとんぼ返りしたような感があったが、最後の一日、イギリスでボランティア時代を共に分かち合った、YUKINOちゃん、SATOMIちゃんに会って話をすることができたことは、本当に砂漠の中にオアシスを見つけた思いがした。Lisaは、YUKINOちゃんの旦那、AKIさんに恐ろしいくらいの人見知りをご披露し、最初は面白がっていたAKIさんも最後はマジで顔が引きつっていた。見なければいいのに、怖いもの見たさなのか、何度も何度も振りかえり、その都度、その都度にまた大泣きするのだった。その一部始終を見ていた私は、来週中国のセイの父母を訪問するにあたって一抹の不安を憶えずにはいられなかった…。祖父母であれだけの反応をされたら、ショックだろうなぁ…。まあ、とは言え、これは成長の過程として誰もが通りぬける道だろうし、仕方がないか。でも、お世話になるんだから、ちょっとは気を使ってね、Lisaちん。それから、キャンセルして会えなかった東京にいる愛しの友人たち、本当にごめんなさい。今度は、用意周到に行きたいと思います(いつも言ってるか…)。あ、そう言えば来週月曜出発の中国訪問のお土産買ってないや。航空券も、まだ受け取ってないなぁ。もちろん、パッキングなんて「パ」の字もできてないし……用意周到という言葉は、麗秋の辞書には当分記載されないでしょう。
2004.10.29
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そう。忘れていたのだ。一番、大事な日を。それも、気付いたのは一日経った翌日、セイからの電話でだった。「ハローぼっけ!」えらい挨拶やなー。なにが、ボケよ。「もう、呆れて物が言えへんわ。がっくりもいいとこやわ」え?何がよ。「ハイハイ、“何がよ”やわな。もう、ええわ!」え…、なになに??なんか、あったっけ??はっ。あ…、あ…、も、もしかして… キャー忘れてたー!!!!!ハ、ハ、ハッピバースデー♪ ← Too Late「レイの友人もカードを送ってくれたり、電話くれたりしたのに。レイの愛情ってそんなもんやな。もう、ええわ。SAYONARA!!」東京から帰ってきた日が、“その日”だった。東京に行く前は、帰ってきたら電話せな…と思っていたのに、3日間バリアだらけの東京砂漠から疲れきって帰った私は、さっさとLisaを入浴させた後、自らも布団へともぐり込んだのだった。いや、言い訳はできない。中国人の誕生日は旧暦のため、毎年日にちが変わって面倒くさくてかなわん、とわざわざ無理言って誕生日をセイの生まれた太陽暦の日に決めてもらって、それだったのだ。セイは続けた。「別に僕にとってはどうでもいいことやねん。独りでいたときなんて全然誕生日なんて気にもかけてへんかったし。せやけどな、他の友人がカードや電話で祝ってくれていた中、自分のワイフだけが無言やったのが、さびしかったわ。めっちゃ、Disappointedやわ」まさに、返す言葉がなかった。忙しかったとはいえ、そんな大切な日を忘れて1日過ごしていたなんて。それを傍で見ていた母は、大笑い。「あんたら、ほんまに若いなー。そんなくだらんことでもめてるんかいな。あー、おもしろ。そんで、それからどうしたん?離婚すんの?」…人が本気で悩んでるっちゅーのに。ほっといてかー。しかし、母は相当面白いらしく、翌日の英会話ジOスの予習もそこそこに、私から離れようとしない。そして根掘り葉掘り一部始終を聞き出し、大爆笑をかました後、勉強部屋へと消えて行った。ほんっまに、他人事やと思ってから…。どんな、母親や。それにしても、この大チョンボ。どう、落とし前つけていいのか、検討がつかない。別にセイへの愛情が足りないということではないにしろ(え?誰かつっこんでません??)、何かの形で穴埋めしないと、末代まで語り継がれそうだ。良策検討に頭を悩ませている今日この頃の麗秋である。
2004.10.28
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今回の台風23号は猛威を奮い、平成に入って最悪の死者・行方不明者を出した、とテレビで連日放送している。台風は、そ知らぬ顔をして温帯低気圧へと変わって行ったが、残された人々、特に被災した方々は本当に今大変な思いで復旧作業に従事されているのだろう。かく言う麗秋も今回は人事ではない。 なんと、愛弟のヒロシが、今回の台風で堤防が決壊し市の90%が水没を蒙った豊岡に住んでおり、被災を免れなかったのだ。テレビで無残に水没した市の映像を見たときには、我が目を疑わずにはいられなかった。大部分の家屋の一階部分は浸水し、車もみるからに水面下にある。そして、市全体が停電し、交通は完全麻痺状態だ。こんなことが、自分の身内に起こるなんて…台風当日は、テレビで台風情報を見ていたが、豊岡に影響が出ている、とテレビに出た時もまさかそれほどひどい水害に見舞われているとは思ってもいなかった。情報を見た母が早速ヒロシに連絡を取るが、「大丈夫かー」のメールに、「大丈夫じゃないわ」という返信。メールを出したときには、すでに市の90%の人口が避難指示を出され、近くの公共施設に避難していたのだ。そのときヒロシは、山の上の小学校にいたようだ。ヒロシの無事の知らせにひとまずホッとしたものの、小学校の冷たい講堂で一夜を過ごさなければならないことや、恐らく水没してしまっている車やバイク、家のことなどいろいろと心配事が頭を駆け巡って行った。一夜明けても状況はあまり好転せず、町はまだ水害から開放されていない状態で、ヒロシは避難所にて2日目の夜を迎えた。私は飛んで行って助けてあげたい気持ちでいっぱいだったが、Lisaを連れて、一体自分に何ができるだろう。父母も心配を隠しきれず、携帯で何度も連絡を取り合っていた。金曜になって、ようやく市内に帰ることができたようだが、被害の状況は計り知れない。結局土曜は、父母、そして叔母も一緒にヒロシの手助けに豊岡へ出陣することと相成った。私も本当に行って何かしてあげたい気持ちでいっぱいだが、Lisaを連れて行けば足手まといになることは火を見るより明らかだし、Lisaと共にお留守番をする以外に道はなさそうだ。本当にヒロシを含め、1日も早く被災した人々がもとの生活に戻れるようになることを願わずにはいられない。
2004.10.22
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しばらくぶりに、楽譜なんか買って、ピアノを弾いてみた。当然だが、以前のようには指が動かない。でも、音符を指が追って行くこの感覚、すごく懐かしくて気持ちがいい。そして、音が、和音が、一つ一つ合わさって音楽として奏でられて行く、その過程を楽しんでいる自分がいた。うちにあるピアノは、私と同じくらいの人生(ピアノ生?)を生きている。私がよく弾いていた頃は、毎年調律してもらっていたが、もう10年以上調律していないのだろう。音が半音ずつ以上ずれていて、鍵盤を見ながら弾くと、頭の中にある音と違うため紛らわしくて仕方がない。そのため、鍵盤を見ずに楽譜と指だけで弾いていた(本当は、それができて当然なのだが、なにせ10年以上ぶりにまともに弾くので、かなり難しかった)。母にその話をすると、「(音の違いが分かるのは)「絶対音感」じゃない。もったいないから、今からでも調律の勉強しなさいよー。お金になるよー」と、しつこく何度も言ってくる。あのねー、なんで、またこの後に及んでピアノの調律なんて…(ブツブツ)とはいえ、やっぱりピアノが好きだ。CDやテレビに出ているどんな素晴らしいピアニストの演奏を聞くよりも、自分で弾くのが一番気持ちいい。鍵盤を叩いたと同時に奏でられた音色が体全体を通して感じられるのだから。とはいえ、そのペースで久しぶりに2時間ほど続けて弾いてしまい、最後には肩から腕にかけて、モロ筋肉痛になってしまった(アイタタタ…)。やっぱり、毎日練習しないと、こうなります。今回は滞在が長いので、せめて昔弾けていた曲くらいは弾きたいなー。頑張ろうっと。ところで、もう一つ面白かったのは、昔好きだったショパンの「別れの曲」を弾いていたとき、盛り上がりの部分で指が…、そこへ飛びたがっていた。つながりではなく、飛ばないと行けなかったのだが、「飛ばして-」と指が言っていたのが、面白かった。もちろん、しっかり飛んでキャッチしました(笑)そういうわけで、この滞在中しばらくは、ピアノ三昧となりそうだ。不思議と、Lisaも私がピアノを弾いていると大人しく聴いていてくれるので助かる。音楽教育をしながら子守りもできてしまうので、これはまさに一石二鳥!ちなみに、音がずれていたらLisaの音楽教育にもよくないので、急遽明日調律してもらうことと相成った。そういえば、最近Lisaの話を全然してない事実に気付いた…。(Lisa’s Diaryなのに…)というわけで、明日は、Lisa特集ですー。
2004.10.19
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2年ぶりに、大好きな人にあった。一緒にイギリスの病院で苦楽を共にした、SEIKOさんだ。 SEIKOさんは、物腰が柔らかくとても心の温かい人で、一緒に働いた6ヶ月間、彼女の優しさ、温かさに何度も助けられ、心を洗われる思いがした。 彼女とは、フラットをシェアしていたのだが、彼女の部屋と私の部屋は向かい合っており、ドアを開けているとお互いの部屋がつながっているように思えた。いつも振り向くとドアを通してSEIKOさんの笑顔が見えた6ヶ月間だった。私たちは、いつも一緒だった。買い物をしたり、旅行に行ったり、病院であったことを遅くまで語り明かしたり…、本当に彼女と過ごした6ヶ月は毎日が充実していた。そして、そういう充実した時間は過ぎるのが早い。案の定、SEIKOさんを見送りにヒースローに行ったときには、大変な騒ぎになった。まるで、今生の別れとばかりに二人とも大泣きし、私は帰りの地下鉄の道中1時間ずっと泣きっぱなしだったのだ。 一緒にいたセイは、 「また、会えるんだから、そんなに泣かなくても…」 と、渋い顔をしていた。が、私がそんなにも泣いたのは、SEIKOさんとしばらくの間会えないから、というわけではない。SEIKOさんとのそのかけがえのない日々が二度と戻ってこない、と知っていたからだ。 私は、半年後に結婚を控えていた。彼女は、日本に帰って職場復帰し、イギリスへ戻る予定は皆無だった。 あの、振り向くといつも温かい空気を感じたSEIKOさんと私の空間は、もう二度と戻ってこないのだ、そう思うと悲しくて、寂しくて、次から次へと止めどなく涙がこぼれ落ちて来た。 --------------------------------------- そのSEIKOさんが2年以上ぶりに私に会いに来てくれた。結婚を間近に控えた彼女は、すごく綺麗に、そして華麗に見えた。でも、あの温かく揺るぎない優しさを感じさせるオーラは変わらず、私の大好きな、SEIKOさんそのままだった。 忙しい時期なので、遠くから来たのにその日にとんぼ返りしてしまった、SEIKOさん。温泉につき合ってくれてありがとう。(今回帰国後、お初!) 今度は、新婚旅行にイギリスに来てね。シャンパンを用意して、セイとLisaと3人で待っています。
2004.10.15
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前回の日記に書いた、「重要…」の件に関しては、麗秋母のとんだ勘違いだった。そのメールを受け取ってすぐに英国大使館へその件について、かなり感情的な返信を送ってしまったのだが、そのせいもあってか、速攻返事が返ってきた。 申請する場合には家族単位が原則となっており、例えば父親が労働許可を所持して渡英する状況で、母親は日本に残るが、子のみ家族として父親について渡英する為の申請を希望してもそれはできないいうことになるが、例外として一方の親が死去している場合や離婚している場合が挙げられる訳、だそうです。 …ハイ、ごめんなさい。でも、即答、できるんじゃん。だったら、4日も待たせないでよー(ブツブツ)。 まあ、よくよく考えてみれば、それくらい分かってもいいようなものなのに、この一連のビザ問題に麗秋母、かなり頭に血が上り冷静さを失っていた、と思われます。 その原因の一つが、勤務先の病院の対応。病院からのLisaを連れ帰ることに同意する旨を記したオリジナルのレターが必要、ということで、病院の人事に電話をしたら、とんでもない返事が返ってきた。 「あなたがお子さんを連れ帰ってくる事は、病院の一存では決められません」 私は、一瞬絶句して、聞き返した。 「だって、病院が私を雇用しているんだから、同意してくれて当然じゃない!誰だって、子供と一緒にいる権利はあるわ。そうでなければ、人権侵害でしょ!!!」 電話の向こうからは、冷たく、 「そんな例は今までにないので、私には何とも言えないわ。ホームオフィスにに確認してみるけど。」 という返事。私は、 「Please DO!!」 と言って電話を切ったが、切った後、あまりにも不甲斐なく、涙が出てきた。病院のレターがなければ、私がどうあがいてもLisaを連れ帰ることはできない。でも、どう考えても病院が同意できないというのはおかしい。私に何か個人的な恨みでもない限り、6ヶ月の乳飲み子を連れ帰ることに同意できないわけがない。そして、そのときはまだ「重要…」の件も頭の中でまだ解決しておらず、どどーっと不安が押し寄せてきたのだった。 セイに電話でその件を話したら、必要ならば病院まで行って話を付けるから心配しないようにと言ってくれ、少し気が楽にはなったものの、そのときはまさに前途多難だった。 ----------------------------- 幸いにも2日後再び病院に電話をし別の人に確認をとったところ、快く同意の手紙を書いてくれる、ということになった。…というかそれが当たり前。先にも言ったが、病院が私を雇用しているのだから、私が家族と一緒にいれることを保証するのは当然のこと。全く、いらぬ神経を使って、かなり疲れてしまった…。 そういうわけで、何とかビザの件は解決の糸口が見えてきた。まだLisaのパスポートにハンコを押してもらうまで安心はできないが…。 これでようやく、日本滞在を心おきなく楽しめるようになりそうだ。そういえば、2週間以上日本にいるのに、Lisaの熱やら、ビザ問題やらで、まだ温泉にすら行ってない。 明日は久しぶりに温泉に行こう。
2004.10.14
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一難去ってまた一難である。恐らく、帰国後に英国大使館にLisaのビザを申請しないといけない旨はなんとなく分かっていたが、そんなに多くの資料と時間を費やすことになろうとは、予想だにしていなかった。だいたい、Lisaがあのままイギリスにいれば、ビザなんて必要ないのだ。それなのに、なぜ、日本に帰ってきたというだけで、それほど多くの資料が必要になってくるのか。この5ヶ月の乳幼児を前に何をそんなに騒ぎ立てるのか。1. 申請書VAF12. 証明用写真2枚 (パスポートサイズ) 3. 申請者のパスポート(旧パスポートも) 4. 労働許可証保持者のパスポート及びそのコピー5. 労働許可証のコピー 6. 労働許可証保持者の会社から英国大使館宛、英文オリジナルのレター(労働許可証保持者の赴任期間、給与額、会社が家族同行を了承している旨を述べたもの。雛形等はありません。)7. 戸籍謄本 (家族で1通) 8. 申請手数料(一人) £ 75 (日本円、現金にて)= 15,000円 だいたい、最初からこけた。上記の情報を取得するまでに1週間近くかかったのだ。Lisaの場合、「労働許可証保持者の扶養家族としての子の申請」という長いタイトルが付くのだが、英国大使館のweb siteから情報を入手しようと隅々まで読んだが全く手がかりなし。英国ホームオフィスの英語のサイトも検索するが、必要書類、査証料等が記載されていない。Lisaのような例は珍しいのだろうか…?そういうわけで、大使館宛にメールを送って返事を待ったが、待てど暮らせど返信がこない。仕方がないので電話をすると、信じられない答えが返ってきた。「電話での質問はお受けできないことになっております。メールまたはファックスにて質問をお受けしています」どうしてか、と尋ねてみたが、「そういう決まりになっておりますから…」の一点張りでのれんに腕押し。こっちとしては、分からないことだらけで質問が山ほどあり、メールやファックスでは相手が受け取った、または読んだかという確認さえとれず、一度の返信では納得いく回答が得られない場合もあることを考えれば、急いでいる者にとってはかなり不都合な手段だと言える。電話でなら、聞きたい時にしたい質問を好きなだけでき、納得いく回答が得られるまでラインをつないでおくことができるのに…ブツブツ。怒りを抑えながら、今度はファックスを送信すべくパソコンのキーボードを叩く。もちろん、上記に書いた不都合だという苦情をしっかり前置きし、そして事情説明、質問を記載する。さて、とweb siteに載っていたナンバーにファックスしてみるが…、何度送っても通じない。しまいに、NTTの自動放送が流れだし、違うナンバーにかけて事情を説明しろ、などと言い出す始末。つ、使えない~~!!そして、悪戦苦闘している間に5時を過ぎ、その日も連絡を取ることができなかった。東京に行って質問するには、遠すぎる(新幹線で片道3時間半)。メールでは返信が来ず、電話では質問が受けられず、ファックスでは送信不可とくれば、どうしろというのか。しかし、匙を投げている場合ではない。何とかしなければ、かわいい我が子をイギリスに連れて帰れないことになってしまう。そういうわけで、再び、今度は怒りを倍にして、Eメールを送りつけ、その日は不安を胸に床についた。そして、最初のEメールを送ってからすでに4日経った水曜日、ようやくEメールの返信が来た。案の定、私の苦情に対しては全く触れておらず、機械的な文章のみの回答であった。あぁ、病院に電話して、Lisaを連れ帰る事に同意するオリジナルのレターまで書いてもらわないかんのや。ややこしー…。そう思いながら読んでいたそのとき、ある文章を境に全く前に進めなくなってしまった。重要 労働許可証保持者の扶養家族として子のみが申請できる場合はもう一方の親が死去しているか、労働許可証保持者のみが親権を持っている場合に限られます。意味が分からない。私の事情は十分すぎるほど説明してあったのに、なぜこんな文章が記載されているのだろう。父親もイギリスにいるというのに、何をどうしろというのだろう。これは、もしかするとLisaに申請する権利がない、ということなのだろうか。…いや、そんなバカな。目の前にビザ取得へのいくつもの難題がのし掛かっているのを感じながら、まず自分が何をすべきなのかを冷静に考える必要があった。つづく。
2004.10.13
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Lisaの熱が下がって、発疹が出てきたその日の夜。ふとイギリスから持ちかえった「赤ちゃんの髄膜炎の諸症状」、という紙が目に入った。それには、絵と文字で説明がしてあった。・39度前後の熱発(手足は冷えていることが多い)・嘔吐、下痢、食べ物の拒絶・極度のぐずり、異常な泣き方・抱かれるのを嫌がる・上体の反り返り、後部硬直・ボーっとして無表情・ウトウトしていて目覚めないそれを見たとき、私は一瞬凍り付いてしまった。…そういえば、熱発時にすごく手足が冷たかったっけ…また、反り返り、ボーっとして無表情もあったといえば、あった。…もしかして、髄膜炎だったとか…、いやいや、でも発疹が出てるし…しばらく自問自答した後、やっぱり気になるので、すでに就寝してしまっているLisaのところへ様子を見に行った。触ってみるが、もう熱はない。念のため…と熱を測ってみるが、36度に満たない。何度測ってみても35度ちょっとしかない。赤ちゃんの平熱はそんなに低くない。電気をつけて、やけになって何度も測っていた私は、ふと、Lisaが全然反応しないことに気付いた。こんなに電気を明々とつけているのに…そして、「赤ちゃんの髄膜炎の諸症状」の最後の欄を思い出し、背筋がぞっとした。「Lisa!!」揺り動かしても、全然起きない。顔をたたくと一瞬ふと目を開けるがまたすぐに目を閉じてしまう。頭の中でアラームが鳴っている。何かがおかしい。何かが…違う!時間は、もうすでに夜の11時を過ぎている。行くなら、救急しかない。階下でパソコンを打っている母を呼んで、再確認してもらう。が、やっぱり、揺らしても大声を出しても、Lisaは眠ったまま。なんで、昼間受診せえへんかったんやろ…!後悔しても後の祭。父を起こして、車を出してもらい、近くの救急へ急いで向かう。車の中で立て抱きにしても、Lisaはぐったりしていて反応がない。お父さん、急いで…!!!私は、車の揺れに全く抵抗することなく脱力した状態で揺られているLisaを抱きながら、神に祈るような気持ちで車に揺られていた。ところが…その日、その近くの救急には小児科医がいなかったのだ。なんと、車で1時間近くかかる病院まで行かないといけないらしい。こんなときに限って…いやしかし、そんなこと言ってる場合ではない。行くしかない。一度帰ってもらった父に再度連絡をとり、迎えに来てもらうこととなった。その間もぐったりしていたLisaを抱きながら、半泣き状態で父の迎えを今か今かと待っていた、そのとき…ほぎゃー!ホギャー!!!なんと、突然Lisaが泣き出したのだ。元気な、いつも通りの泣き方だった。意識が戻った!でも…、分からない。さっきのは一体なんだったのだろうか…ただ、眠っていただけなのだろうか…(だとしたら、どんな寝意地の張り方!)私は、半ば混乱していた。Lisaは、何が起こったのかわからない、という顔をしている。しかし、もうボーっとはしておらず、しっかりとALERTな状態だ。父母も、ただちょっと寝ていただけなんちゃうか…と苦笑い。ただ、ちょっと寝ていただけ…っていう反応のなさではなかった気がするが…しかし、熱も下がり、お目めパッチリのLisaを連れて夜中の11時半に1時間近くかかる救急に行く必要があるだろうか…しかも、父は明日も仕事である。究極の選択だった。明日、朝一で近くの医院に行って診てもらおう。でも、もし夜中に何か起こったら、すぐにでもその遠い救急に連れて行こう。そう結論を出して、病院を後にした。その後、Lisaは完全にお目覚め状態となってしまい、大々々大うOこのおまけでリベンジして(私のべッドにしっかりマークをつけて…)2時半までギャーギャー、ピーピー言っていた。でも、嬉しかった。元気であってくれることがこんなに有り難いと思ったことはなかった。いくらぐずって寝つかなくても、特大うOこでベッドを汚しても、元気でいてくれれば、それでいい。それだけで、十分過ぎるくらい十分だ、と心からそう思った。その日はほとんど眠れず朝を迎えた。Lisaが寝ついた後も、ちゃんと息をしているかどうか何度も確認してしまったからだった。翌日、朝一で近くの医院へ行き、診察してもらったが、やはり、突発性発疹だと言われ、昨夜の意識朦朧状態は、ただの熟眠だった、という結論に相成った。それにしても、あんなに死んだように寝るなんて、信じられない。きっと、火事になっても起きないだろう。・・・そういえば、そんな人の話、どこかで聞いたことがあったっけ。
2004.10.12
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日記というものは、不思議なもので、毎日書いていると苦にならないのに(←毎日書いてないだろーに)、1日、2日…と空けてしまうと、どんどん書くことがたまっていって、さらに現実逃避してしまう、という悪循環をたどる。それは、小学生時代の夏休みの「百字帳」を思い起こさせる。(夏休み最終日の追い込みはすごかった…。あの集中力をもっと他のことに使っていれば、今ごろ大物になっていただろうに…)そういうわけで、そろそろこの悪循環に歯止めを掛けないと、と丑三つ時にこうやってパソコンに向かっている。あー眠い。気がつくと、日本滞在ももう、2週間近く過ぎてしまった。日本について、最初の1週間はほとんど何もせずに過ぎて行った。なぜなら…私は職業柄ほとんど時差ボケは起こさないのだが、代わりにLisaが、最初の1週間はばりばりイギリス時間で回っていたのだった。大体寝つくのは、朝の4時。起きるのは、昼の12時。Lisaのような乳児は、体内時計がきっちりしていて、変更するのは容易ではない。だからといって、無理やり寝つかせるのは時間と労力の無駄使いなので、朝方まで、Lisaが疲れて寝つくまで付き合う日々を送った。毎日1‐2時間ずつ時間をずらして行って、ようやく日本時間に戻った2週目、Lisaが熱発でぶっ倒れた。おかげで、せっかく苦労して日本時間になったのに、1日中ウトウトと寝ていて、昼も夜もない生活が3‐4日続いたのだった…トホホ。Baby Paracetamol(小児用熱さまし)と氷のう、氷枕を駆使した上で38.5度を行ったり来たりしていたので、かなりの熱発だったと思うが、Lisaは比較的元気だったのと、週末で保険証が手にはいらなかった…ので、そのまま様子を見ていた(おいおい)。多分、突発性発疹だろうと踏んでいて、案の定熱が下がった後発疹が出てきたため(突発性発疹は、3-4日の高熱後に発疹が表れるのが特長)、病院には連れて行かなくてもいいかーと思っていた日の夜…意識消失?事件が発生したのだった。…つづく。(麗秋母は睡魔に襲われました・・・本人は、とりあえず悪循環からは抜け出たので満足しています^o^)
2004.10.07
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