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バスや電車内で痴漢行為をする人がいる。本来いくら欲情してもよいと思う。その状態が人間の自然な姿であると思う。かえってその欲望が強いほど生命力にあふれているといえる。森田先生も本能的な欲望は大きければ大きいほどよいといわれている。だが普通の人は欲情のままに行動することはめったにない。それを押しとどめる抑制力が備わっているからである。森田先生も、欲望と同時に抑制力も同じ程度に働かなくてはいけないといわれている。つまり欲望と抑制力のバランス、調和がとれていることは極めて大事なことです。森田ではこのことを精神拮抗作用という。精神拮抗作用は元々人間にそなわっている。痴漢行為をすると軽蔑される。警察に逮捕される。さらに新聞やテレビで放映されてしまうと、一挙に自分の生活を破綻させてしまう。それだけではない。家族や親せきにも多大な迷惑をかけてしまう。あとでいくら後悔してもあとの祭りである。そういう感情が歯止めとなって破滅的行動を抑制しているのである。欲望と制御のバランスがとれていると社会的に問題に発展することはない。幼児の場合は抑制力が育っていないので、本能のおもむくままに自己中心的に行動してしまう。しかし大人になってもそのような状態では社会適応することが難しい。それを司っているのは眼窩前頭葉皮質であるといわれている。これがしだいに発達すると抑制力として機能してくるのだ。痴漢行為をする人は、その眼窩前頭葉皮質が機能不全を起こしている。幼児期、過保護でやりたい放題で、王子様お姫様状態で育った人などはまともな成長が阻害されている。最近はそうした人が増えてきている。いざという時に抑制力がほとんど機能しないのである。性欲以外にも、アルコール、ギャンブル、ネットゲーム、買い物、過食などの欲望に対して制御機能を失ってしまっている人が増えてきた。こういう人はそういう傾向があると自覚することが大切である。そういうものには最初から決して近づかない。一度でも近づくとずるずると深みにはまってしまう。そして自分の生活を破壊してしまう。そういう場面はできるだけ避けるようにしなといけない。あるいはあらかじめ人に制御してもらうように頼んでおく。普段から自助グループに参加して学習を積み重ねる。普段からこれらの手立てをしておくことである。このように欲望の暴走が起きやすい人は、もう一方では容易に神経症になりやすい傾向がある。それはどうしてか。欲望の制御機能を失っている人は、もう一方で不安や恐怖の対応力を失い、容易に増悪させやすい人でもあるからだ。つまり不快な感情に対しても制御機能を失っているのである。不安を抱えたまま行動をするということが困難な人たちである。目盛が欲望の暴走で振り切れてしまう人は、もう一方で不安や恐怖に取りつかれると、容易に反対方向にも針が振り切れてしまうのである。欲望の暴走が起きやすい人は、不安に翻弄されて生活が破壊されてしまっている人だともいえる。二重の苦しみを抱えやすい人だと言えるのです。ですから、欲望の暴走を抑えることと、不安にとりつかれて神経症になることは同時に治す必要があるし、それが可能であるということでもある。つまり精神拮抗作用、分かりやすくいうとバランス、調和を取り戻すための学習と生活態度の修正である。本丸に直接切り込むのではなく、欲望と不安のバランスの回復という視点からアプローチしていくのである。神経症からの回復はそれだけではないがこれが有力な手段となる。これには森田理論の欲望と不安の単元が役に立つと思う。
2015.10.31
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ipod(携帯型音楽プレイヤー)はアップル社の製品であるが、部品の半分以上は日本製であるという。日本のメーカーが部品を作らないと製品にはならない。それならなぜ日本人が作らなかったのか。CD、MD、カセットの世界の考え方から抜け出して物事を見通すことができる人がいなかったからである。また音楽業界と権利の調整をして音楽配信の協力を取り付けるといったことを思いつかなかったのである。それを思いついたのはアメリカのスティブ・ジョブズ氏だったのだ。すぐれた部品作りはそれとして、素晴らしいことではある。しかしもっと重要なことはその部品を組み合わせて新たな商品を思いつくという発想力である。世界のホームラン王の王貞治氏は、筋力が相当強そうなイメージがある。実際はそうではなかった。当時の巨人軍で腕相撲が一番弱かったのは、王さんその人だったのである。しかし王さんは一部の筋力の面では弱かったかもしれないが、全体としてみればメンバーの中では一番だったのではなかろうか。ホームランを打つための筋力がバランスよく発達していたのではなかろうか。868本のダントツの数字を叩き出したのはそのたまものだったのだろう。日本では一般的に専門分野一筋に鍛え、他の追随を許さない技術や能力を持っている人が尊敬される。それはそれで素晴らしいことではある。否定するつもりはない。しかしその態度はマイナス面もある。森を見ないで木ばかりをみている状態になるからだ。全体を俯瞰することができないで、専門性ばかりが野放し状態になるとまずい。まずその専門性を全体の中で有効に活用することが難しくなる。次に、例えば核分裂の研究の専門家が全体を見通すことをしないと人類破滅へと向かうことにもなる。何を言いたいのかというと、その道の専門性を高めていくことは、常に全体の方向性、人間の心身、人間社会、自然環境にどういう影響を及ぼすのかということとセットとして進めてゆかなければならないということである。これを森田理論学習に当てはめるとどういうことか。森田にはいろいろキーワードがあります。事実唯真、あるがまま、純な心、自然に服従、境遇に柔順、思想の矛盾、精神交互作用、精神拮抗作用、生の欲望、感じを高める、努力即幸福・・・。これらを個々に研究して理解していくことも必要であろう。それと同時に必ずしなければならないことは、森田理論の全体の理論のスキームを理解することだろうと思う。森田理論全体像とその中身である4本の柱をしっかりと理解することを怠れば、森田理論そのものが宇宙をさまよう浮遊物のような存在となり、ほとんど自分の生き方に影響を与えるものにはなりえないのである。このことを肝に据えながら森田理論学習にあたれば必ず成果は得られるはずだと思う。
2015.10.30
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京都医療少年院で少年少女の更生の仕事をされていた岡田尊司氏のお話です。入所してくる少年少女たちは親との関係が壊れている。愛着障害、AC、過干渉、過保護、ネグレクト、虐待、孤立等の問題を抱えている。心を病んでいる。更生させるにあたっては、まず行動や基本的生活態度から修正していくといわれる。心理的な面ばかりを追求し、問題にしても、長年身についてしまった行動や対人関係のパターン、適応力不足、受け皿の問題が変わらないと、現実的な変化は望めない。いくら本人が前向きになっても、現実の厳しさに弾き飛ばされてしまい、またネガティブな考えに戻るというのはありがちなことだ。まず行動面の改善をはかり、心の問題や親子関係の問題も、徐々に手当てしていくというのが、実際的で、効果を上げやすい。医療少年院では、事件を起こした少年少女たちを親や学校や社会から隔離する。電話や携帯で話すことはできない。面会も限られている。テレビは昼30分。夜1時間だけである。本の冊数は限られている。もちろんゲームなどはできない。お菓子を自由に食べことはできない。過度に自由な環境で、やりたい放題に暮らしてきた少年少女たちにとっては、不自由で、制限された場所は決して居心地のよいものではない。今までの生活と比べて、刺激や情報が極端に乏しい環境である。暇つぶしにゲームや娯楽や食べ物に逃避することはできない。残るのは限られた人間との交流と有り余るほどの大量の時間だ。しかしそういう不満足な環境に置かれているにもかかわらず、彼らは規則に従って、生き生きと暮すようになる。そういう自由を制限された環境だからこそ更生が可能になるといってもよい。そういう環境の中での密度の濃い人間関係と規則正しい生活を続けて人生を立て直してゆくのである。入院森田療法に臥褥というのがある。1週間何もない部屋に隔離される。娯楽はない。雑誌や新聞は読めない。テレビも見れない。携帯電話も使えない。有り余る時間の中で自分と向き合うことしかすることがない。最初はほっとするが、しだいに退屈を感じるようになる。その後しだいに身体を動かしたい。頭を使って自由に行動したいという気持ちになる。いわゆる元々備わっている生の欲望が湧き起ってくるのだ。これとよく似ている。このことを考えると今の私たちの生活はどうだろうか。一日中テレビ、携帯電話、インターネットの世界で暮らしている。いまや夜の娯楽はテレビである。夜テレビは一切見ないという家庭はほとんどないだろう。あるいはネットゲームに凝っている人もいるだろう。さまざまな情報が洪水のように押し寄せてくる。ストレスを減らすための刹那的で刺激的で誘惑的なものに取り囲まれて、飲みこまれてしまっている。つまり絶えず周囲の影響にさらされながら生活している。今や自分の生き方見つめながら方向性を探るというようなことはできない。ねずみが糸車を永遠に回し続けて生きているのと同じようなものである。岡田氏は、豊かで便利で楽しみに満ち溢れた社会は、一見すばらしいように思うが、子どもたちから活力、元気さ、創造性、耐久力を奪い去っているのではないか。生まれたての子どもは純粋無垢である。無気力、無関心、無感動な子供を作り出してきたのは私たち大人ではないのか。医療少年院では規則正しい生活、食事、運動、清掃や作業という身体へのリズムある働きかけが、心の変化の下地をつくる。規律ある生活や動作、運動は明らかに変化をもたらす。この土台なしでは、いかなる療法や教育も成果を上げられない。これは私たち神経症からの回復と同じことであると思う。(悲しみの子どもたち 岡田尊司 集英社新書参照)
2015.10.29
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韓国政府の日本政府への批判が止まらない。従軍慰安婦、歴史問題への謝罪と賠償要求である。2014年4月セォール号が沈没して多くの犠牲者を出したが、その時日本は救助の協力の申し込みをしたが韓国政府は断ってきた。切羽詰まった状況でも日本の助けは借りたくない。日本は決して許すことができないという考えなのである。中国は閣僚が靖国神社に参拝すると途端に猛烈に反発する。また中国政府はユネスコ(国連教育科学文化機関)に対し、第二次世界大戦中に日本が関わったとされる「南京事件」や「従軍慰安婦」に関する資料の世界記憶遺産への登録を申請した。中国人をないがしろにしたという歴史問題は決して忘れてはならないという気持ちなのだろう。その気持ちは当然だろう。理解できる。日本の政府が戦時中したことはひどすぎる。日本国民にも多くの戦死者をだし、わが故郷の広島ではアメリカの一発の原子爆弾によって、その年末までに14万人もの人が命を落としている。その後も多くの人が白血病やガンなどの病気で苦しんで死んでゆかれた。戦時中の日本は隣国では悪事のし放題であった。侵略戦争だったのである。とりわけ韓国、中国国民に対しては本当に申し訳ないことをした。悔やんでも悔やみきれないところである。今日はこの問題を森田理論で考えてみたい。現在の状況は、韓国、中国政府はそこにばかり注意を向けていて、森田でいう精神交互作用が繰り返されて蟻地獄の泥沼に入り込んでいるように思える。絶えず刺激を与え続けているので、坂道を転がる雪だるまのようにどんどん日本に対する嫌悪感が大きくなっている。ついにどうにもならない神経症として固着していった状況ではないだろうか。神経症が重症化すると普通の生活はできなくなる。どんな策を弄しても抜け出すことは難しい。さらに多額の賠償金が絡むので問題が複雑化しているように思われる。この問題を仮に個人の問題だとするとどうだろうか。自分に非はないのに理不尽な相手の行為によって大きな被害をこうむった場合である。とても許せない感情はしばらく収まることはないだろう。森田ではその不快な感情を無くそうとしてはならないという。憎んで憎んで、憎み尽くせばよいのである。決して不快な感情を取り除こうと決闘を挑んではいけない。その不快な感情を持ったままでどう対応するか。日本、韓国、中国は隣人同士である。いつまでも友好関係を持たずに仲たがいしていてもよいことは何もない。イヤイヤ仕方なしに必要なことは付き合っていかざるを得ないのではないか。お互いにある程度譲り合い、妥協することが将来につながるのではないか。いがみ合い続けることは駄々っ子が自分の欲望が満たされずに、やりたい放題に暴れまくっているようなものだ。人間生きていれば、日々の生活を紡いでいかなくてはならない。いくら相手が許せないとは言っても自分たちが生きぬくためには目をつむってゆかなくてはならないこともある。森田理論はそうすれば感情は変化していくと教えてくれている。精神的に楽になると教えてくれている。感情は自然に変化流転していくのである。例えば小学校、中学校時代に憎くてしかたがなかった人と久しぶりに同窓会で会った時には、そんな気持ちがなくなっているようなものだ。そういう考え方を信じて、日本政府も中国政府も韓国政府も、森田理論から打開策を学んでほしいものである。
2015.10.28
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心理学者の内藤誼人氏がこんな話をされている。カナダにあるトロント大学のマクセラ・キャンベル氏によると「自分の外見が気に入らない」と思っている人のうち41%は、「好きな人にもあえて近づかないようにする」という行動をとる。自分の外見が気に入っている人は、好きな人がいれば、自分から挨拶をしたり声をかけたりする。ところが、自分の外見が気に入らない人は、せっかく好きな人に出会っても、自分から声をかけることをせず、むしろその場から逃げてしまうわけである。おそらくは「恥ずかしい」という気持ちが先に立ってしまうからであろう。(心の誘導術 内藤誼人 廣済堂出版212ページより引用)この傾向は日本人に多いのではなかろうか。ここでいう外見とはイケメンとか、美人ということだろう。顔立ちがよい。背が高い。太っていない。ハゲていない。自分の容姿のことを言っているのだろう。そういう人はますます磨きをかける。メイクにしても、服装にしても、持ち物にしてもそれなりに気を配っている。髪を整えたり、服にアイロンをかけたり、靴はピカピカに磨いている。それが心のゆとりや自信につながり、対人関係にも前向きで積極的になれるのである。ところが容姿に全く自信が持てない。またそんなことは人間の価値とは全く関係ないと思っている人は、どちらかというと無関心になる。手入れが行き届かない。それが自分自身への信頼感を少しずつ失わせて、劣等感が強く出てくる。どうせ自分は誰からも相手にされるはずがないと決めつけてしまうのである。自分で自分のことが好きになれないのに、他人が自分のことを好きになるはずはないと思っているのである。この問題をどう考えてゆけばよいのだろう。自分の身体に愛着を持ったり、自分の身の回りの持ち物を大切に取り扱うことは大事である。生まれつき容姿に恵まれていない人もいる。重い障害を持って生まれてくる人もいる。みんな平等というわけにはいかない。100%完璧な人間という人はいない。不平等だけれども、今現在の自分の状況を見極めて、その状態を受け入れて、精一杯磨きをかけることは誰でもできる。私は以前にも投稿したことがあるが、この世での自分の身体は神様からの預かりものであるという考え方に立っている。死んで魂が身体から離脱する時、身体から、欠点や弱みを抱えた身体をよくいたわり、支えてくださいました。感謝しても感謝してもつくせません。またいつか生まれ変わってペアを組んで新たな課題に挑戦しましょう。そう言ってもらえるように誠心誠意努力することが重要なのではないかと考えています。
2015.10.27
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このたびメンタルケア心理士試験を受けた。なんとか一発合格できた。20問の学科試験と論文試験が2問あった。学科試験は20問のうち15問正解。5問は間違いだった。学科試験で厄介だったのは、5つの選択肢のうち間違いはいくつあるのかというふうに聞いてくることだった。今まで受けた資格試験は「次の選択肢のうち間違いは何番か。あるいは正しいのは何番か」という質問だった。メンタルケア心理士の試験では、選択肢の全部を正確に理解していないと、その問題は間違いと判定されてしまう。仮に4つの選択肢の○×が分かっても正解にはならないのだ。細かいことばかり聞かれるので相当の学習が必要だった。簡単な気持ちでは合格までに至らない。75%の正解率で偏差値59パーセントだったというから、半分以上正解を得ることはいかに難しかったかということだろう。論文試験は400字で記入する問題が2つあった。こちらは80%の出来だった。この次にメンタルケア心理専門士の試験が来年5月にある。こちらがメインである。この資格はカウンセラーとして開業したり、ボランティアでいろんなところで教えたりできる道が開けるそうだ。私には森田理論という専門分野を持っているのでさらに挑戦してみようと思う。森田を深耕するためには、他の心理療法やカウンセリングの基礎知識を身につけないと、井の中の蛙になり孤立してしまうと考えたからだ。こちらはかなりハードルが高い。学科試験50問。1600字の課題レポート。さらに二次試験として口頭試問がある。合格率は20%くらいだそうだ。すでに準備を開始した。本来は臨床心理士を目指したいのだが、60歳を過ぎてからの挑戦はハードルが高すぎる。臨床心理士は大学院卒が対象だから私のようなものが手軽に挑戦することはできない。この資格ならマイナーな資格ではあるが、幅広く臨床心理学を学べるのがよい。森田理論を深めるには、心理学、精神医学、精神解剖学、発達心理学、心理療法、検査学、面接技法、カウセリング技術、精神予防等幅広く学習することを痛感したので役に立つ講座である。あくまでも基礎学問をきちんと学習したうえで、森田理論を深めてゆきたいと思うのである。いずれにしても残された人生は、森田理論による神経症からの解放にささげてゆこうと思っている。
2015.10.26
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平野啓一郎氏は「分人」という考え方を提唱されている。いろんな個性を持っている人同士がコミュニケーションを図ろうとすれば、どうしてもその人向けの人格にならないと、コミュニケーションがうまくいきません。会社で上司、同僚、部下と会話する時、あるいは家で親や子どもに話をする時、それぞれに対応を変えています。それは別にキャラを演じるとかではなく、自然とそうなっているのです。人間というのは個人として分けられない存在と考えられてきましたが、実は対人関係ごとに分けられる存在ではないのか、というのが、私が提唱している考え方です。人間というのは、いろんな人との出会いを通じ、相互作用の中で、あの人といる時はこんな感じで、別の人といる時の自分はこんな感じ、というふうに分けられるのだと思います。そうすると例えば学校でいじめられたりしても、分けられないとなると、いじめられる自分にも責任があるのではないかと思ってしまう。自分は本質的にいじめられるような人間なんじゃないかと考えられる。しかし、それは学校という場所の、いじめる子供との関係性の中での分人であり、家族と一緒にいる時の分人は、もっと快活に笑ったりできる。そんなふうに、自分というものを、分けて考えるようになれば、生き方が変わってきます。やはり、生きていくためには、この世の中が好きか、自分が好きか、どちらかが好きじゃないと難しいと思います。しかし、単に自分を好きになれと言われても、よほどナルシストでない限り、なかなか自分のことを好きと思えないでしょう。いやなところもあるし、特に人生がうまくいっていない時は、自分を好きになりなさいと言われても、何をどう考えればいいか分かりません。しかし、あの人といる時の自分は案外饒舌にしゃべったりして笑顔も出るなとか、あの人といる時の自分は好きだけど、別の人といる時の自分は好きじゃないとか、そういう考え方はできると思うんです。そういう中で、自分の好きな「分人」が一つあれば、それを足場にして生きていけばいいのではないでしょうか。個人は、環境や対人関係ごとに分化していく。つまり、「分人化」します。仕事がうまくいっていない場合でも、インターネットの世界での趣味のサイトでは快活になれる、というふうに考えられることができる。人生のリスクを分散させるために、いくつかの「分人」を自分の中に抱えておけば、こっちがダメならあっちがあるというふうに、もっと気楽に生きていけます。この考え方に対して私の感想です。現役の時仕事人間の人がいます。そういう人が定年退職すると、途方にくれます。仕事以外に何もすることがないからです。テレビを見る。奥さんの買い物のお伴をする。ゴルフを始める。魚釣りを始める。突然始めようとしてもうまくゆきません。現役の時から仕事だけではなく、人間関係、趣味、地域社会とのつながりなどバランスを意識して生活していくことが必要なのではないでしょうか。また会社の上司部下という人間関係の中だけで生活している人もいます。仕事は利害関係が絡んでいるので、容易に対立関係に陥ります。そういう井の中の蛙のような人間関係はストレスの温床となりやすいと思います。仕事以外の人間関係を沢山持っておけば精神的に挫折することから防げることができるのではないでしょうか。(助けてとはいえない NHKクローズアップ現代取材班 文藝春秋 222ページより一部引用)
2015.10.25
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大手レンタルチェーンTUTAYAの創業者は増田宗明氏だ。NHKのプロフェッショナルに出演されていた。TUTAYAと言えば、今や格安の映画のネット配信事業を成功させている。それ以外にも、新しいコンセプトのもとに公営図書館事業も行っている。CDやDVDのレンタル事業は一部分なのだ。今度は百貨店経営に乗り出すそうだ。それも5階建ての新店舗を新たに建設して乗り出すという。百貨店といえば赤字続きで経営的には苦戦している店が多い。誰もがやらないやり方で勝負をかける。やってみなければ成功するかどうなるかは分からないという。でもかなり自信があるようだ。増田氏は今までは何度も失敗を繰り返してきたそうだ。以前事業に失敗して200億円の負債を出したこともあるという。でも復活してきた。多くの人がその手腕に注目している。増田氏の失敗ついての考え方が面白い。「自分の失敗」だけが「自分の力」になるという。「あれやれ」「これやれ」と他人から言われてやった失敗は何の反省にもならない。だけど、自分の好きなことで、あるいはやりたいことの失敗は、その人に反省をもたらす。その反省が次の成功をもたらす。だから今回の百貨店の展開はおおむね部下に任せている。僕がわあー、わあー言っていい店を作るんじゃなくて、彼らが気づいて、彼らがイメージして作った店にするという。そうしないとオープンした後さらによくはならない。百貨店を1軒の家に見立てたコンセプトで挑戦するそうだ。食材、料理、衣料、家電、暮らしに関するもので豊かさを提案していく。リピーターがこない百貨店はつぶれてしまう。何度も行ってみたい安らぎ空間、気づきや発見が得られる百貨店を作り出そうとしておられるのだろう。開店のあかつきには、是非行ってみたい気持ちになる。「あれやれ」「これやれ」と他人から言われてやった失敗は何の反省にもならないというのは耳が痛い言葉だ。普通の会社員の仕事はイヤイヤ仕方なくやっていることが多い。給料を得ることが唯一の目的になると確かに仕事は苦痛だ。外回りの営業等をしているとさぼることばかり考えている人もいる。なかなか自分の好きなこと、やりたいことを見つけきらない。見つけても継続しない。それは森田で学習したように、仕事そのものになりきれないからだと思う。少しでも仕事になりきれば感じが湧いてくる。すると気づきや発見があり、創意工夫できるようになればどんどん仕事が面白くなる。たまにはそういう気持ちになることもあるが、なかなか継続しない。そういうなかでの失敗は、失敗そのものが成功への糧になる可能性が強いと思う。ここでのキーワードは、「仕事そのものになる」ということだと思う。
2015.10.24
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神経症になって困ることはなにか。心配事にとらわれて、生活が滞ってしまうことである。自分も苦しいが周りの人にも迷惑がかかる。さらに不安が頭いっぱいを覆って精神的に苦しくなる。常時怯えや憂うつ感を抱えて生きていくことは、砂を噛んでいるようなものだ。神経症が治るということは、この二つが解消されることである。まず心の状態はどうであろうとなんとか仕事ができるようになる。学校に行けるようになる。家事・育児ができるようになる。決して満足はできないかもしれいが、全く手足がでなかった状態から見ればある程度は治ったのである。次に不安が100%頭の中を占拠していた状態から、80%、70%と下がってきた状態。あるいは一瞬でも不安やとらわれていることを忘れて何かに心を奪われていたという状態が訪れるようになった。しだいにそういう情況が増えてきた。そういう状態は神経症がある程度は治っているのである。注意したいのは、100%完全な状態を目指すことはかえって自分を苦しくしてしまう。過去と比べて10%回復すれば、その成長を素直に喜ぶ。これを素直に喜ぶことができるのかどうかが神経症回復の成否を分ける。決して回復していない90%の方に注意を向けてはならない。完全や完璧な心身の状態で、自分の思いのままに生きていけるということは不可能である。100%完全を目指していくと、1%の不完全なところに神経が集中していく。注意と感覚の悪循環が繰り返されて生きづらくなっていく。そういう意味では「ほどほど」の治り方が精神衛生上とても健全と言えるのだ。今の苦しい状態から60%回復すれば、もうその人は神経症から解放されたと思ってもよい。あとのもやもやはとっておく。あるいはそのまま抱えたままでいる。その状態でもう治すことにエネルギーを消費することをやめてしまう。残ったエネルギーは「生の欲望の発揮」につぎ込むのである。きっと素晴らしい生き方ができるようになるだろう。神経症が治るということは不安や恐怖、不快感が起こらなくなることではない。治った段階では、行動的になるのでますます不安や恐怖の数は増えていく。治るとはそれらにとらわれても執着する時間が少なくなる。早く流していけるようになるということである。とらわれては消え、とらわれては流れていくという状態になる。諸行無常、万物流転の自然の流れに乗っていくことである。言葉を変えれば不安や恐怖を抱えたまま、仕方なく生活ができるようになるということである。なんかスッキリしない説明だと思われる方がおられるかもしれない。でもここが肝心なところです。要は神経症が治るとか治らないとかは問題の核心ではないということです。不安や恐怖と共存し、それらを活用して悔いのない人生を生き抜いていくということが一番大切だということです。それに近づくための方法を森田理論学習で習得していくのです。具体的には4つの方法があります。行動・実践手法。欲望と不安のバランス回復手法。認識・認知の片寄りの修正手法。不安や恐怖の受容手法です。この4つをまんべんなく学習し、体得することで目的は確実に達成されると確信しております。それぞれの中身は大変奥深いものがあります。すべて何度も投稿済みです。関心のある方はキーワードで検索してみてください。今後もこの視点からどんどん投稿していくつもりです。
2015.10.23
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濡れ落ち葉現象という言葉がある。仕事一筋だった人が定年退職後何もすることがなくなり、奥さんにくっついて離れなく現象だ。奥さんにとってはうっとうしい限りだ。そういう人には、遅かれ早かれ老年うつ病や認知症がしだいに近づいてくる。野村総一郎氏が「心の悩みの精神医学」でこんな人を紹介されている。その方は長年信用金庫に勤めて、融資に関してはこの人の右に出る人はいないとまで言われていました。最終的には支店長までになった方です。その人が定年退職後濡れ落ち葉状態になり奥さんが心配して趣味を勧めた。奥さんはトレッキングが趣味で御主人を誘ったがついてこない。でも自分では「老後は趣味を持たなければならない」と考えて、まず熱帯魚を飼うことにした。専門店で水槽、加熱器、ポンプ、濾過装置、水草を飼ってきて居間で飼い始めた。ところが熱帯魚は数日で全滅した。飼い方を勉強したり、お店の人に聞くことをしなかったのである。イヤになりすぐにやめた。次にパソコンをやろうと考えた。パソコンを買いに秋葉原に行ったところ、店員からどんな目的で使うのかと聞かれた。その方は店員が自分のことを馬鹿にしているようだと感じた。結局嫌気がさして、何も買わずに家に帰った。それから町内でやっているゲートボールの会に参加した。一日おきに近くの公園で練習に参加した。ところが人間関係でつまずいた。自分は元支店長というプライドがあったが、誰も一目置いてくれない。支店長時代の話など誰も聞いてくれない。面白くない。昔から町内会での繋がりのある人たちは打ち解けていたが自分にはよそよそしかった。しだいに足が遠のいていった。そんな折、老人ホームで経理のボランティアの募集があった。地域には社会福祉協議会というのがある。この団体は、高齢者のボランティア活動の斡旋をしている。この方は、この会の仲介で、ある福祉老人ホームの経理を週3日手伝うことになった。ここではみんなから大変尊敬された。信用金庫の支店長をされていた方が来ていただけることに驚嘆されたそうだ。経理事務はお手のものである。さらに、職員の指導的立場で助言を続けた。この活動がきっかけとなり、ホームでの様々な活動にも参加するようになってきた。この例から何を学ぶか。まず定年後すぐに仕事中心の生活スタイルを別の生活スタイルに変えることは難しいということである。50歳ぐらいになると、仕事の比重はしだいに下げてゆく。その間は定年後の生活設計にもいくぶん力を入れていく。ソフトランディングを心掛けないと急激な変化に対応できずに、墜落してしまう。それと、定年後の生活として趣味、習い事、スポーツ、旅行などを思い浮かべる。これらは自分が楽しむことばかりである。この方のように今までの自分の人生の中でやってきたことを活かして、無理なく社会に貢献できることも視野に入れるとよい。自分の得意なこと、能力のあることで社会参加できれば、それも大きな生きがいになるのである。小さなことでもよいので人のために役に立っているという気持ちを持てるかどうかが、老後の生活に大きな意味を持つ。
2015.10.22
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森田理論は、不安、恐怖、不快感、違和感は自然現象だから人間の力ではどうしようもない。どうしようもないものは何も手出しをしないで受け入れましょうという理論です。基本はたしかにそうですが、すべてをこのように考えることは大変危険な考え方です。何を言いたいのかというと、不安や恐怖を感じたときはすぐに対策を立てて行動しなければならない部分も一部あるということです。例えば信号無視の車がやってきた。とっさに安全確保のため行動を起こさないといけません。家族を抱えた働き盛りの人は、万が一自分が事故に遭ったり、大病した後の家族の生活のことを考えておかなくてはなりません。リスク管理をして生命保険などの保険に加入しておかなくてはなりません。最近は日本全国いつどこでも大地震に見舞われることが予想される。せめて家屋の耐震化、避難経路の確保、持ち出し品の準備をしておかなくてはなりません。不安や恐怖に即座に対応していくことは、自分たちの身体の危険や精神的苦痛の種をあらかじめ摘み取っていくということでもあるわけです。松下幸之助氏は、「人間万事、天の摂理でできるのが90%、あとの10%だけが、人間のなしうる限度である」といわれています。不安や恐怖を受け入れることが基本的生活態度であるとしても、残り10%は積極的に行動しなければならない部分があるということです。さらに、ラインハート・ニーバンは次のように述べています。1、 変えることができないものについては、それを「受け入れる平静さ」を2、 変えるべきものについては、それを「変える勇気」をもつ3、 変えることのできないものと、変えることのできるものを「区別する知恵」を持ちなさい。森田理論の欲望と不安という単元があります。その単元を学ぶ前提として、不安は積極的に不安解消のために手足を出して行動しなければならない面もあるということをしっかりと認識することだと思います。森田理論は森田先生の言われていることを手あたりしだい学習するのはあまり感心しない。森田理論は順序立てて理論として学習することが大切であると思う。理論というのは、大切な考え方はすべて盛り込まれたものである。一部分大切な考え方が抜け落ちているというような森田理論は、理論化されているとはいえない。また理論というのは全体の理論のスキームがスッキリとしており、普遍化されているものである。そうした学習が実践的であり、症状を乗り越えて、自分の生き方を変えていくのである。そういう学習をしてみたいという方は、基礎編の学習の後には、森田理論全体像と4つの柱を十分に学習してもらいたいと思う。その一端は何度も投稿させていただいたので参考にしてみてください。
2015.10.21
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上野動物園の園長をされていた方の話です。「実はお客さんには見せられないんですが、ライオンなどの肉食獣には、時々は、生きたウサギとか、動物を追いかけさせて、生き物の肉を食べさせないと彼らは元気を失ってしまうのです。無気力になり元気を失ってしまう。それも大変なので、人工電気装置で肉を走らせて追いかけさせるなんてこともやっています」ライオンはアフリカの草原で獲物を追い掛け回していた時の方が元気で活動的だった。精神状態も安定していた。そういう煩わしい日常の営みを人間がなくしてやった途端、無気力で生きる力がなくなってしまった。この話から得られる教訓は何か。めんどうな日常茶飯事を人に任せずに、自分の手でこなしていくことが、いかに精神状態を健全に保っていたかということです。日常生活の基本は食べることです。本来は自分で食べる米を作る。野菜や豆を作る。鶏などの小動物を飼って卵、乳、肉を得る。これらは人間が活き活きと生きていくために欠かすことのできない大切なものだということです。一生懸命に取り組むことで、いくらでも創意工夫が発揮されます。さらに三度三度の食事を用意する。自分の住まいや衣類を用意する。掃除したり洗濯をする。現代社会は、それらをお金を出して他人に依存するようになりました。自分でする場合でも機械任せで、創意工夫の余地はほとんどなくなりました。この状態は動物園のライオンと同じです。その結果無気力で元気がなくなりました。そこで、日常茶飯事に変わる何か夢中になるものを探す。スポーツやゲームなどをして元気を取り戻す必要が出てきたのです。本末転倒です。自分のできることは自分でする。その中でたくさんのささやかな楽しみを見つけ出す。これが生き生きと暮らすための本道だと思います。森田理論の土台は「生の欲望の発揮」ですが、その基本は日常茶飯事に丁寧に取り組むということです。これを無視しての森田理論の学習は何の意味もありません。かえって自分の神経症をさらに悪化させるだろうと思います。
2015.10.20
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フレデリック・ハーズバーグが二要因理論を提唱している。人間には「苦痛を避けようとする動物的な欲求」と「心理的に成長しようとする欲求」があるというものである。苦痛を避けるというのはマズローの欲求段階説でいうと、「生理的欲求」「安全・安定の欲求」などであろう。心理的に成長したいという欲求は「自尊欲求」「自己実現の欲求」などであろう。ここで注目したいのは、人間の意欲、やる気、モチュベーションの維持とどのような関係があるのかということです。目標に向かって努力して達成すること、人から称賛を浴びることなどは、ますますやる気に火がついて意欲やモチュベーションが高まります。これは問題はありません。問題にしたいのは、不安、恐怖、苦痛、腹立たしさ、イライラなどのマイナス要因を取り除いたからと言って、必ずしも意欲、やる気、モチュベーションの維持には結びつかないということです。神経質の人がよく間違えているのは、不安、恐怖、違和感などがなくなって、思い煩う問題がゼロにならないと、何もやる気が起きないと思っていることです。これは認識の誤りです。すべてスッキリと納得して初めて、次の行動に移ることはまれなことです。なかには理不尽な思いを抱えたまま、生活を前進させてゆかなければならない場合が多いかもしれません。不安、恐怖、違和感を抱えたまま行動実践できる人は、そういう能力を持っている人です。そういう能力を獲得するということが森田理論学習の目的の一つとなります。
2015.10.19
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雑談恐怖症について考えてみたい。人が数名で雑談している。あるいは主婦が何名かで立ち話をしている。その場の中に入り込めない悩みである。これは大勢でおこなう縄跳びにうまく参加できないのとよく似ている。みんなは何の迷いもなくどんどんと流れるように飛び込んでいく。縄が足に引っ掛かって縄跳びが中断することがない。ところができない人は、どこで入り込んだらよいのか分からない。仮に飛び込んで見てもうまく飛べるという自信が持てない。挙句の果てには自分の足に縄が引っ掛かって進行を妨げてしまうのである。そして恥ずかしい思いをする。みんなが自分を責めているような気がする。また能力のない自分を軽蔑しているように感じる。それならなんとか理由をつけて参加しない方が気が楽だ。人にも迷惑がかからない。でも避けてばかりいるといつまで経っても縄跳びはできない。みんなと楽しく遊ぶことはできない。そんな自分を自己嫌悪して、どんどん孤立して人間関係作りを避けていってしまうのである。雑談恐怖という人を見ていると、不思議なことに、仕事で人と会話する時は意外にも実に堂々としていることがある。営業成績をそれなりにあげて生活しているわけだから、会話ができないというわけではない。それは会話自体に仕事のためという目的があるからである。商品説明をして売り込むという目的。相手を説得するという目的がある。その目的があるために一心不乱になれる。雑談ではないので不安は発生しない。ところが雑談というものは、とりとめのない会話である。仕事のように会話自体にはっきりとした目的はない。会話自体が空中浮遊物のようなものなのだ。またはっきりした目的のない会話は無駄であるという気持ちがある。目的のない会話というものは、森田でいうと「生の欲望の発揮」を忘れてしまっているようなものである。そういう状態の時は、自分の意識は外へは向かわずに、内へ内へと自己内省していくのである。つまり自分の身体の違和感とか気分に向いてくるのである。そうなると相手との会話は蚊帳の外になる。また雑談することが苦痛になるのである。そもそも雑談には目的がないというがその考え方自体が間違いである。雑談は相手との関係を敵対するのではなく、友好的に保つという役割がある。挨拶と一緒である。「おはようございます」「おつかれさまです」「今日はいいお天気ですね。お変わりございませんか。」「おかげさまで。あなたもお元気そうですね」「もうかってますか」「ぼちぼちですな」これらは意味のない会話である。なくても別に生活に困るというものではない。でも意味のないことだからと言って、すれ違う相手にこういう声かけを全くしないとすると、疑心暗鬼で人間関係はとてもぎくしゃくしてくる。雑談というのは会話の中身に目的があるわけではない。人間関係を円滑に保つという目的があるのだ。だから取りとめのない肩に力の入らない話でちょうどよいのだ。またしいて会話に加わらなくてもよい。聞いているだけでよい場合も多い。参加していることに意味がある。参加してみんなの話を聞いているだけで、居合わせた人と良好な人間関係作りをしているということになる。意味のない会話は時間の無駄だと思って避けていると、人間関係は疎遠なままなのである。雑談の時話の中身に注意を向けてはならない。相手との人間関係を良好に保つための潤滑油としての役割を果たしていると思えば苦にならなくなるのである。そう考えると雑談の持っている意味は大きいのである。
2015.10.18
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2013年テレビドラマ「半沢直樹」という番組があった。とにかく痛快で、特にサラリーマンに絶大な支持を集めた。「やられたらやり返す。倍返しだ。いや10倍返しだ」という言葉が評判になった。これは自分の父親が町工場を営んでいた。ところが経営不振に陥った。銀行につなぎ融資を申し込んだが断られた。資金難に陥りすぐに倒産。それを苦にして父は自殺した。その当時主人公はまだ小さかったが、取引銀行と大和田という担当営業マンに恨みを持つ。そして復讐を誓うのである。半沢は、その目的を果たすべくその銀行に入行。一方大和田は悪代官なみの手を使いながら、支店長、常務取締役にまで出世していた。今や飛ぶ鳥を落とす勢いで頭取を狙っていた。最後は半沢のほうが目的を果たし、大和田常務に土下座して謝らせたところで終わった。世の中のサラリーマンたちの溜飲を下げたのである。いかに会社勤めはストレスが多いかということである。あらすじとしては勧善懲悪の時代劇と同じなのである。半沢直樹が自分たちのストレスの発散をしてくれたのである。ところで日本人は元々自己主張が少ない。例えば最近日本への中国人観光客はうなぎのぼりである。爆買いの様子がよくテレビに出る。ところが日本からの中国への観光客はどんどん減っているそうだ。これは中国政府や一部の中国人の日本国民への敵対的態度、食品や大気汚染の影響が強いのだろう。これに対して日本人はデモなど面と向かってあからさまに行動はしない。でも関わりを持たないで突き放して無視し出したのである。自分たちの言い分を正々堂々と主張することはしないのである。その態度は表面上おだかかで何も問題はないように思える。しかしその嫌悪感、不平不満というものはどんどんと蓄積されているのだと思う。発散しないでそのエネルギーがどんどん蓄積されているというのは精神衛生上あまりよいやり方とは思えない。半沢直樹は怒りをどんどん膨らませて最後には復讐を果たした。一方日本人は中国に対しては付き合うことをやめて避けるようになった。どちらも怒りや恨みという感情に対してはからいをしているのである。これは森田のいう怒り、恨みという感情の取り扱い方とは違うように思う。森田では怒り、恨みという感情は基本的は自然現象であって意思の自由はない。コントロール不可能なものだ。そういうものは素直に受け入れるしかない。下手に手を出すと必ずしっぺ返しを食らうという。一方行動には意思の自由がある。怒りや恨みはそのまま抱えたまま実践、行動に目を向けていく。するとどうにもならないと思っていた怒りや恨みの大きさはどんどん変化してゆきます。感情は時とともに変化流転して小さくなり流れてゆきます。そういう生き方、生活態度を身につけて生きてゆきましょうといっているのが森田理論です。
2015.10.17
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カウンセリングとは何だろう。私の個人的な意見をまとめてみた。まずカウンセリングを受けようとする人はどんな人か。いうまでもなく、心の問題を抱えて社会に適応することができない人。あるいは不快な感情に振り回されて生きていくことがつらいと感じている人。特に対人関係に問題を抱えている人。これらの苦しみや葛藤をカウンセリングを受けることによって打開策を見つけたいと思っている人である。心の問題を解決したいという強い意志が必要である。一般的には、病院内の臨床心理士のお世話になる。臨床心理士は民間資格ではあるが、指定の大学院を出ている必要がある。国家試験にしてもいいような資格である。しかし大学院によっては、行動療法中心の教育をしているところもあれば、精神分析を中心に教えているところもある。レベルは高いが、その内容は千差万別であるのが実情だ。クライアントとしては確かな技能、能力のあるカウンセラーを選ぶことが必要である。一方カウンセラーとしては、クライアントに目的や現状を見て、自分が適切に援助できるかどうかを正確に判断しなくてはならない。自分にその能力がない。資質がない。自分よりも他のカウンセラーの方が適任である。そう言った場合は引き受けてはならない。双方にとって時間の無駄、経費の無駄、感情の摩擦を招く。それを判断するのはインテーク面接(受理面接)という。この段階ではカウンセリングを行うかどうかを決定するためのものである。性急にカウンセリングが始まっていると勘違いしてはならない。ここではカウンセリングがクライアントに役に立つものであるかどうか判断しようとしているのである。具体的にはクライアントのことを詳しく聞いて現状を把握するのである。氏名、生年月日、学業成績、現病歴、薬歴、家族構成、家族関係、生育歴、対人関係、カウンセリングを受けようと思った動機など細かく聞かれる。さらにいろんな心理テストを受けることになる。これは精神疾患は次の3つの理由によって引き起こされると考えられているからである。1番目は外因性である。脳の損傷、身体疾患、ウィルスや薬物などの原因によっておこるもの。2番目に内因性といって脳の機能障害によっておこるもの。神経伝達物質やホルモン等の異常である。3番目に心因性といって素質や気質、ストレスによって引き起こされるもの。1番目や2番目の原因については当面は医療の対象である。カウンセリングによって解決することは困難である。3番目は薬物療法では難しい。むしろカウセリングの方が望ましい。さらに家族や学校の教師、職場の上司などの意見を参考にしてカウンセリングによって問題解決につながるのかどうかを検討していくのである。これを心理アセスメントという。それらを総合してクライアントの治療方針を決定していくのである。医師の治療を受けたほうがよい人。自助グループ活動に参加した方がよい人。あるいは直接専門の個別心理療法を受けたほうがよい人。カウンセリングを受けたほうがよい人。カウンセリングを受ける場合でも、自分が担当した方がよいのか、他のカウンセラーがよいのか見きわめる必要がある。次にカウンセリングはどのような目的があり、どのように進められていくのかを見てゆこう。まずカウンセリングを受けようとする人は生育歴に問題がある人が多い。いじめ、過保護、過干渉、育児放棄などで愛着障害、AC、PTSD等のトラウマを抱えていることが多い。愛着障害は先日からいろいろと投稿してきたが、この人たちはまず信頼関係の形成が大切となる。カウンセラーとクライアントの人間関係が良好にならないとカウンセリングはスムーズに進まない。次にカウンセラーの助けを借りて自分の抱えている心の問題を整理していく。カウンセリングに来る人だから、解決したい問題点は、はっきりしているようにも思えるが、必ずしもそうではない。糸がもつれたような状態であるので、一つ一つほぐして、問題点を見つけて区分けをしていく。その中のどれから解決していくのか明確にしていく。次にカウンセラーとのやり取りの中で、患者が自ら自分の考え方の誤りや生き方の誤りに気づく作業を続けていく。ここまでくれば解決への道筋はかなり深まってくる。だがその気づきをどうして修正していくのかクライアントはその手掛かりを持っていない。カウンセラーはその手がかりを提示していく。いろんな心理療法がある。その人にとって何が役に立つのか。内観療法か、森田療法か、認知療法か、行動療法か。その他・・・。それを提示してあげる。実行援助の手助けをしてあげる。「この手がダメなら、あの手で」と臨機応変に対応できるのがよいカウンセラーの条件なのだ。カウンセリングを受けようとする人は、以上の点を参考にして、間違いのないカウンセラーを選んでほしいものである。
2015.10.16
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2015年10月の生活の発見誌に高良武久先生の話がある。私のところに植木鉢がたくさんあります。患者さんが水をやりますが、雨上がりの鉢は一杯水を含んでいるところに、じょろで、ざあざあ水をやっている患者さんがあります。「君は、雨上がりに水をやるのはどういうわけだ」と聞くと、「いや、先生、私は毎日一回やることに決めていますから」という。その他高良先生のところに入院していた人でこんな人もいた。小さな苗木に大きな丸太のような添え木をしていた人。あるいはなすべき作業が見つからなくて、大きな木をゆすって葉が落ちてくるのをかき集めて仕事を作ろうとしている人。神経症の陶冶というものは、自分が「こうであるべきだ」ということではなくて、「こうである」という現実に従って、自分が変化して順応していく。もちろん、自分の「こうありたい」という理想というものは、あっても差し支えないが、誤った理想主義、いわゆる完全主義、あるいは「こうであるべきだ」ということにいつもとらわれて「こうである」という現実に順応できないという態度では、神経質の陶冶はできないのであります。これについては、森田先生も同様のことを言っておられます。人間の感情というものは、いつまでも同じ状態にとどまっているものではない。水の流れと同じで、絶えず流転している。またそれは、鏡に写る影のようなものである。明鏡止水というのは、鏡に影の写らないことではなく、写っては消え、写っては消え、止まらないさまをいう。悲しいときには悲しいままに悲しみ、苦しいときには苦しいままに苦しんでいれば、心は自然と転換されてゆくが、悲しむまい、苦しむまいと努力するから、何時までも悲しみや苦しみから抜け出せなくなるのである。宇宙の営みも絶えず流動変化しています。変化しないで固定していることが、安定しているように考える人がいますが、変化しないで固定するということは、存在すること自体不可能なことです。独楽は回転しているときが一番安定しています。自転車は前に進んでいるときが、倒れないで安定しています。常に動いて変化しているということが、安定するためには必要不可欠となります。不安、恐怖、不快な感情も流動変化を心がけて生活すれば、いちばん安楽な対応となります。そのためには物をよく見る。事実から目をそらしてはならないのである。
2015.10.15
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臨済宗は中国唐時代の禅僧である臨済義玄が開祖といわれている。その開祖の言葉を弟子たちが編纂したのが臨済録といわれるものである。その考え方の骨子は、人間の体はレンターカーを借りているようなものである。あるいは市民菜園を借りているようなものといってもよい。人さまのものを借りて使う時は細心の注意を払わないといけない。自分の存在を軽視していないか。自分のことを救いようのないつまらない人間だと思っていないか。この世のあらゆる不幸は、自分をお粗末に取り扱うことから始まっている。「かくあるべし」という理想から現実の自分を見て自己嫌悪、自己否定してはいないか。そういう考え方が葛藤を生み自分を苦しめている。事実を受け入れて、事実に服従していく中に本当の生き方があると教えてくれています。森田先生がよく臨済録から引用されている一文は次の言葉です。心は万境に随って転ず、転ずる処、実に能く幽なり。流れに随って性を認得すれば無喜亦無憂なり。とらわれのない心のままであるならば、万境にしたがって、心は刻々に流転してとどまるところがない。その流転していくありさまは、まことに不思議なくらいである。その流転していくままの姿が心の本来性であることを認得するならば、喜びも悲しみも超越することができる。不安、恐怖、違和感、不快感などにいちいち関わりあってはいけない。その時一瞬は関わりあっても、谷川を流れる水のように、絶えず流していくことが大切である。それが城のお堀の水のように淀んでしまうと、雑菌や藻が繁殖して、最後には魚の住めないような状態になってしまう。諸行無常、変化流転の世界観が森田の考え方なのである。さらに森田先生は、その変化流転は緊張と弛緩というリズム運動で成り立っているといわれている。
2015.10.14
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事実を受け入れる。事実に服従するためのキャッチフレーズとなる言葉があります。「これでいいのだ」「これでちょうどいいのだ」という言葉です。「これでいいのだ」というのは赤塚不二夫の天才バカボンの口癖です。この2つの言葉を自分や他人に不平不満を感じたときに、何も考えずに口ずさんでみるのです。人前で恥ずかしかったら心の中で口ずさんでみるのです。すると不思議なことが起こります。だから魔法の言葉なのです。例えば仕事でミスや失敗をして上司に叱責されました。あるいはノルマが達成できずに叱責されて改善を求められました。対人恐怖の人はその言葉に否定的に鋭く反応してしまいます。上司に怯えまくり、さらに自分を否定してしまいます。その後は上司の言動にビクビクして、仕事どころではなくなります。反面ミスや失敗したことは蚊帳の外になってしまいます。どこまでも自分の中に湧き起ってきた、不快な感情に振り回されているのです。そんな時「これでいいのだ」と口ずさんでみるのです。あるいは心の中で呟いてみるのです。この言葉は現実を肯定する言葉です。どんなに腹が立っても、理不尽な現実にやるせない現実であっても、一旦その現実を受け入れましょうという起爆剤になるのです。すると不快な気持ちを引きずったり、自分を否定したりすることが少なくなります。しだいに自分の引き起こしたミスや失敗の内容の方に意識が向いてゆきます。これはこの言葉によって事実を受け入れていくということであり、物事本位になることでもあります。また、両親、配偶者、子ども、友人、親戚、隣近所の人からの言動で、不平不満が湧き起ってくることがあります。あるいは自分の理想水準からあまりにも劣っていると思うことがあります。すると、相手を非難したり、叱責したり、腹をたてたりします。そんな時は、「これでちょうどいいのだ」と口ずさんでみるのです。反発の感情がでてきたときに、何も考えず自動的にこの言葉を発してみるのです。この言葉は、自分の容姿、性格、素質、能力、持ち物、運命についても言えます。理想の自分と現実の自分を比較して、現実の自分を否定しているのです。森田でいう思想の矛盾に陥っているのです。そんな時はないものねだりをしないで、今現在の状況を認めるのです。この2つの言葉は、自分や他者の存在価値を認めて、そこからさまざまなことを考えていく出発点とすることができるのです。不安や不快な感情に対してなかなか受け入れることができないという方は、この二つの言葉をキャッチフレーズにして取り組んで見られたらどうでしょうか。
2015.10.13
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ACTの誕生に影響を与えた、カバット・ジョンのマインドフルネスとは何か。マインドとつくと、日本人はオーム真理教のマインドコントロールを連想してしまう。似ても似つかないことである。岡田尊司氏は愛着障害を抱えた人の改善に効果があるといわれる。マインドフルネスとは、物事を価値判断するのではなく、ありのままに受け止めて、豊かな気づきを得ることである。マインドフルネスはとらわれから自由になることを目指す心理的アプローチで、その起源は瞑想であるという。森田理論学習で「受容」の難しさを実感しているものにとっては魅力的な言葉である。症状にとらわれ、症状をとろうとすればするほど悪循環にはまってしまう。その悪循環を断ち切り、不安を受容することができるようになるのか。興味は尽きない。ご存じのように自律神経には交感神経と副交感神経がある。このバランスが崩れると病気を引き起こすことはこのブログで何度も取り上げた。マインドフルネスは瞑想、呼吸法、身体の感覚、リラクゼーションなどの手法を用いてそのバランスを回復していくことを目指している。またこれは自己洞察瞑想療法に近いものがある。これは呼吸とか身体の感覚とか、目の前のことに意識を集中して行う。過去や未来に意識が向けられないように注意する。意識が飛んでも「今、現在」に引き戻し集中していく。不安や恐怖が起きている場合でも、呼吸法、身体感覚と組み合わせて、自然に受け入れられることを体験していく。さまざまな不安や不快感を価値判断しないでそのままに味わっていくのである。これは森田療法で治るということを考えてみた場合、最終段階である。なすべきをなす、思想の矛盾の打破の次に来るものである。森田先生はこの段階は大学卒業程度の治り方であるといわれている。ともあれ、マインドフルネスの大きな特徴は、頭で分かっても、役に立たないということだ。心や体を通して、それを実践的に体験し、身につけていく必要がある。いくら言葉を尽くしても伝えることができない。実際に体験する中でしか、会得できないのであるといわれている。岡田氏は、マインドフルネスは、認知療法のように、受け止め方が「偏っている」とか「正しい」とかいうことは問題にしない。偏った受け止め方は間違っているので、それを正しい受け止め方に直しましょうということもない。価値判断をする代わりに、ありのままに感じてそれを感じるということを目指す。もっといえば、よいとか悪いとかといった価値判断から自由になることを目指している。ここは私の意見と違うところである。私は認識の誤り、認知の偏りは修正していかなくてはいつまでも同じ思考方法をとり自分を苦しめてしまうという立場に立っている。一方ではそういうことをしながら、このマインドフルネスの手法を活用して不安や恐怖の感情を受け入れることができるようになれればと思っている。 (回避型愛着障害 岡田尊司 光文社新書260ページ引用)
2015.10.12
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2000年ごろ心理療法としてアメリカではじまり全世界に広まっているACT(アクト)について紹介してみたい。これは日本ではアクセプタンス・コミットメント・セラピーといっている。アクセプタンスとは、不安、不快感などを「受容」するということである。これは今までの欧米の精神分析療法、認知行動療法の考え方には基本的にはなかった考え方である。ロジャーズの来談者中心療法が近いのではないのかという人がいるかもしれない。確かにロジャーズの来談者中心療法は「受容」に比重を置いている。そのため非指示的カウンセリングといわれている。無条件の肯定、共感的理解の態度でクライアントに接して、クライアントが自らの力で問題解決をおこなう手助けするのだという。基本的にアドバイスや指示は行わない。しかし成果はあまり芳しくない。クライアントは受容と共感ばかりで本格的治療が行われないことに不満を持つという。そこで現在心理療法としては指示的カウンセリングが主力であり、来談者中心療法をおこなっている場合も、それとの折衷型がほとんどである。つまり欧米の心理療法には根本のところに、不安は取り除く相手であり、不安に学び、不安と共存し、不安と欲望のバランスをとって生き方を見直すという考えは元々なかったのである。ところがさまざまな心理療法の成果が今一つ上がらない。そこで一方には薬物中心療法の進展。もう一つは多分森田療法にヒントを得て、アクセプタンス(受容)という概念を持ち出してきたのだと思える。これは森田正馬先生が1919年にすでに声を大にして主張していたことである。コミットメントとは自分のなすべき事や目標を設定して取り組んでいくということである。これは森田先生がが「生の欲望の発揮」として何度も繰り返して述べていることである。森田療法の土台部分は、「生の欲望の発揮」にあると高らかに宣言している。セラピーとは心理療法のことである。森田正馬は、神経症治療のため自宅を開放して治療にあたった。その後は日本での森田療法は風前の灯に追い込まれた。それは森田療法が業として成り立ちにくいからである。森田療法の真髄が人間の再教育であるということから医療になじみにくいのである。心理学の本にも森田理論のことは、ほとんど記載されていないのが現状である。今はなんとかかろうじて持ちこたえている。私は医療としての純粋森田療法はもはや日本では役目を終えていると思う。反対される方も多いいであろうが。しかし神経質性格を持ち、生き方を見直す「生き方理論」の支柱としての森田理論は輝かしい前途が約束されているような気がしてならない。森田理論で恩恵を受けることができる日本人は少なくとも100万人程度は存在しているのではないかと考えている。なにしろ社会不安障害で苦しんでいる人が300万以上おられるといわれているのである。メンタルヘルス記念財団の設立者の岡本常男氏の尽力で森田療法の普及に関しては、海外の方に主戦場を移している。いみじくも岡本氏曰く。「海外で森田療法が評価されて、それで日本人が始めて森田療法の素晴らしさに気がつく。つまり日本での森田療法の普及は、逆輸入の形を待たなければならないのではないか」けだし名言である。ACTというのは森田療法に非常に近いものである。ACTの誕生に影響を与えたものに、カバット・ジョンのマインドフルネスやリネハンの弁証法的行動療法があるという。私は森田理論もその一翼を担ったのだと考えている。ただ、ACTは不安や恐怖を受け入れると言いながらその手段や方法はあまり理論化されてはいない。マインドフルネス、イメージによる段階的エクスポージャ(系統的脱感作法)ぐらいしか特筆するものがない。だからACTもまだまだ試行錯誤の段階にあるのだろう。その点森田理論はきちんとした理論として確立されていると考えている。
2015.10.11
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ラグビー日本代表の快進撃が止まらない。世界ランク3位の南アフリカ代表に劇的に勝利し、強豪サモアにも完勝した。10日スコットランドがサモアに負け、日本がアメリカに勝てばW杯では初の8強が決まる。これは日本代表監督エディー・ジョーンズ監督の力が大きい。この人なしでは成し遂げることはできなかった。エディ監督は母親が日本人だ。父親はオーストラリア人。選手としては身体が小さく活躍できなかった。ところが監督になってすぐに頭角をあらわす。前オーストラリア監督である。オファーは数限りなくあるが、すべて断って日本代表監督、ヘッドコーチの道を選んだ。エディ監督はいう。日本人は世界と比べると身体が小さい。当たり負けをする。また闘争心がひ弱だ。相手にけがをさせることを嫌う。ラグビーは勝つか負けるかの闘いなんだ。勇気を持って戦わないと自分がケガをする。まずは意識改革をおこなった。それから俊敏性スタミナをつけるためにとにかく練習漬けにした。日本人は真面目だし、コツコツと一つのことに取り組むというのが長所だという。その長所を伸ばさないと勝ち目はないという。ダッシュも死に物狂いでとり組ませる。練習は朝は6時代から夜7時まで続く。外国では取り入れていなかった指導である。日本ラグビーは何度強力タックルでつぶされても、俊敏性を活かして、早いパス回しを繰り出してトライを奪う戦法だ。作戦会議では、自分が方針をある程度しゃべったあとは退席する。そして各ポジションのリーダーたちにその先の作戦について考えさせる。それを実行させる。自分の考えと合っていると賞賛して選手達を褒める。厳しいけれどもやさしい。それは普段のたち振る舞いを見ているとすぐに分かる。小柄ながら、人なっこい表情で、ちょっと話をしてみたくなるような人柄である。実際の試合では監督は見ことしかできないのだという。個々の選手にはよく声をかけて回る。スキンシップを欠かさない。あとミスや失敗をわざとしかけて数多くの経験をさせる。例えば変形ボールを使った練習などである。その他たくさんの逆境をしかける。日本人コーチの場合はミスや失敗はご法度だ。そのたびごとに選手は叱責されて、改善を求められる。なかなか貴重な経験としてプラスに活きてこない。エディ監督の場合はミスや失敗は数多く経験する必要がある。それが宝になるという。またそれは乗り越えていくべきものだという考え方である。それとエディ監督は目標設定が高く、それに至る工程をとても綿密に組んでいるそうだ。誰も世界3位の南アフリカに勝てるとは思っていなかっただろう。でもエディ監督の「勝利までの細かいプランニング」「目標達成へのこだわり」を体験した選手たちは、ギリギリの闘いの中で必ず勝利するんだという決意で臨んだという。このエディ監督の組織論はあらゆるところで分析して活用できるだろう。しかし、すでにエディ監督はこの大会後の退任が決定している。
2015.10.10
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環太平洋連携協定(TPP)2015年10月5日大筋合意したという。日本は自動車の輸出では、2025年には完成車の関税はすべて撤廃してもらう。そのかわり米国産とオーストラリア産のコメを78400トンほど関税を撤廃する。考えてみれば今でも日本はコメが余っており、減反政策、政府買い上げ備蓄米も積み重なっている。そんな中でさらに安いコメが入ってくると、日本の米作りは崩壊するのではないか。方向性としてはすべての輸入米は完全関税撤廃に向かうことはほぼ間違いないところだ。現在牛肉には38.5%の関税をかけている。これをゆくゆくは9パーセントとする。豚肉、バター、脱脂粉乳、大麦、小麦、ココアなども大幅に関税を緩める。日本は関税を設定している834品目のうち実に約半数は即時撤廃である。この協定は世界の国内総生産(GDP)の、実に4割を占める自由経済協定である。これは加盟12カ国を一つの国とみなして、安いものを輸入して、自国で生産しても価格競争力のないものは、他国に依存して経済効率を高めようとしているのである。日本の場合、食料は原則として作らない。工業製品を作って売り、得たお金で食料を買って生活しようというのである。一見合理的ともいえる考え方である。しかし、この経済優先、合理的考え方はたいへん危険である。人類の危機を各国政府先頭に立って推進しているのである。経済効率一辺倒で、人間の生き方の思想といったものは全く考慮されていない。何が危険なのか。森田理論で考えてみたい。森田では日常茶飯事、雑事に丁寧に取り組むことを重視している。そんな平凡な生活に「ものそのもの」になって取り組むことによって、その人の生きる意味は磨かれていく。味わい人生を全うすることができるといっている。特に食べることに関しては毎日取り組んでゆかなければならないことである。料理をする。加工食品を作る。食材を調達する。食材を作る。これらは最も基本的な日常茶飯事である。TPPの考え方によると、そんなわずらわしい非効率なことはしなくてもよい。第一自分で作れば時間がかかる。まずいい。後片付けもしなければならない。料理をしなくても、スーパーには色とりどりのお惣菜を用意します。外食産業もあります。その時の気分で和食、洋食、中華と好きなものを食べてください。加工食品も自分で手間暇をかけても、ろくなものができないじゃありませんか。専門の業者にうまくて安いものを提供させます。さらに食材の配達、弁当の宅配も行います。至れり尽くせりで余った時間は、スポーツ、旅行、余暇を思い切り楽しんでください。TPPはさらにその考えを推し進めているのです。世界経済は分業制ですから、日本は食料生産からは一切撤退します。猫の額のような場所で、米や自給野菜、牛や豚、鶏を飼うなどということはやめましょう。非効率だし、わずらわしいし、土や家畜ををいじくるなんて汚いじゃありませんか。そんなバカなことはやめましょう。それよりも工場で働いて得たお金で好きなもの買って食べたほうが、どんなにか豊かな生活ができますよ。でもその分、やりがいがないとはいっても工業製品を作る仕事を8時間ぐらいは必ずやってくださいよ。その対価として食物にありつけるという仕組みになっているのですから。そのような生活に追い込まれた人間の精神状態がどうなるか、考えれば考えるほど恐ろしいことです。人間性を無視した経済合理主義は、人間社会を将来的には骨抜きにして、無気力、無感動、無関心な人々を数多くつくりだしていくのではないかと危惧しています。
2015.10.09
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岡田尊司氏は次のような警告を発しておられる。例えば、ある人が、会社の上司や隣近所の人とすれ違った時、こちらから挨拶をしたのに、向こうからは何も返してくれなかったとしよう。見捨てられ不安が強い人や自分を認めて欲しいという欲求が強い人は、無視されたとか、嫌われていると思い、落ち込んでしまうかもしれない。だが、同じ状況でも、「何か考えごとでもしてたんだろう」と気楽に考える人もいる。この両者の反応の違いには、それぞれの認知の偏りが関係している。認知療法や認知行動療法では、こんな場合、相手の顔色に過敏すぎる傾向や、過剰に傷ついてしまう傾向に気づいてもらい、それをもっと楽観的で合理的に受け止める方法を訓練してもらう。こうした方法は、一群のケースには、とても効果的なのだが、別の一群のケースには、効果がないどころか、状態を悪化させてしまうことがある。特に愛着が不安定で、他者への不信感が強かったり自己否定が強いケースでは、あまり役に立たないのだ。というのも、認知療法や認知行動療法の考え方そのものが、「その人の考え方は片寄っている」とか「正しい受け止め方ができない」という否定的な見方を前提としたものだからである。もともと自己否定や他者不信の強い人にとって、「あなたの考え方は偏っている」といわれることは、それがいくら正しい指摘だとしても、反発や落ち込みを招いてしまう。この指摘は森田理論学習をおこなっている集談会にも通じることです。愛着障害のある人に、いきなり森田の真髄の話をしても猫に小判、豚に真珠を与えるようなものである。集談会では不安には手をつけない。行動本位、恐怖突入、目的本位のアドバイスをされることは多い。でも参加した人は、それができないから藁をもつかむ思いで参加されたのである。なんと無茶なことを言うのだろうと思われてしまうことがある。また治った人の話を聞いても、自分の場合は状況が違う。自分は人生に絶望した。自分はなんとダメな人間なのだろうと益々自己否定を深めてしまう。集談会に参加することが、自分の不安や悩みを増幅してしまうのである。集談会に1回参加しただけで2度と参加されない人は多い。実感としてはその数は8割から9割にものぼる。こういう人たちが来られたら、この人たちに愛着障害はないのだろうか。もしあれば、心の「安全基地」になってあげようという態度で接することが大変重要な意味を持つものだと思う。(回避性愛着障害 岡田尊司 光文社新書258ページより引用)
2015.10.08
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安定した愛着をはぐくむうえで不可欠なのは心の安全基地を作ることである。そこでは親や第三者の協力が必要となる。具体的には共感性と応答性が重要となる。共感性とは相手の身になって考えるということである。決して拒否したり、無視したり、抑圧したり、否定してはならない。応答性とは相手が助けを求めたときは、即座にその気持ちをくみ取ってあげて応えてあげることができるということである。求めてもいないことを押しつけたり、求めていないときに介入してはならない。一言いいたくてもじっと我慢して見守るという態度を維持することである。共感性と応答性は次のような効果をもたらす。1、 自分のことを分かってもらえたと感じ、安心感や満足を覚えることで、他者というものを心地よい存在として認識するようになることである。基本的信頼感というものがはぐくまれる上で、共感的応答はとても大切である。2、 自分の感情や意図を鏡のように映しだしてくれることにより、自分自身の気持ちを理解する力を育んでいくことだ。渾然とした感情や欲求に囚われている子どもは、自分が何を感じ、何を求めているのかさえ分かっていない。親が自分の気持ちを読み取ってくれ、笑ったり、困ったりという顔をしながら、言葉にして応えてくれることで、子どもは自分に起きていることの意味をしだいに理解できるようになる。漠然としていたり混乱している感情や欲求が、言葉によって名づけられ、理解やすいものに整理されていく。そうして、自分の心に起きていることがあまり大騒ぎをする問題ではないのだと認識し、安心を手に入れていく。3、 共感的応答が繰り返しなされることにより、子ども自身も共感的応答ができる力を身につけるようになるということだ。共感的応答は、親と子の表情や情動が響き合う共鳴という現象を引き起こし、気持ちを共有し合う相互的な関係を育む出発点となる。他者と響き合うことの楽しさを味わった子どもは、他者と関わり、体験を共有し合うことを自然に求めるようになる。そしてそれが、相互性や共感性を育み、やがてその子自身、他者に対して共感的応答をするようになる。(回避性愛着障害 岡田尊司 光文社新書57ページより引用)
2015.10.07
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愛着の形成という現象は、オキシトシンとアルギニン・バソプレシンと呼ばれるホルモンによって支えられていることが分かっている。この生物学的な仕組みもある程度知っておくと役に立つと思う。オシトシンの働きを阻害する薬品を動物に注射すると、親は子育てに無関心になってく。つがいが生涯添い遂げることで知られるオシドリも、平気で浮気をするようになり、夫婦関係は破綻してしまう。アメリカでハタネズミを調べた実験がある。ハタネズミには草原に住むプレーリーハタネズミと山地に住むサンガクハタネズミがいる。近縁種でありながらライフタイルはまったく異なる。プレーリーハタネズミは、つがいを形成し、大家族で暮らす。家族の絆がとても強い。一方、サンガクハタネズミは、一匹で暮らす。発情期に交尾を終えると、もう出会うことはない。母親は子育てが終わると、子どもを追い出す。その後は他人どうしとして暮らす。子どもも母親に愛着を持たなくなる。この差はオキシトシン・システムの些細な違いによる。プレーリーハタネズミには、オキシトシン受容体が脳内に豊富に存在するだけでなく、線条体といわれる快楽中枢の中にも、オキシトシン受容体が多く存在する。ところがサンガクハタネズミには、オキシトシン受容体が少なめで、かつ線条体にはほとんど存在しない。オキシトシンの働きが活発だと、その人は対人関係で積極的になるだけではなく、人に対してやさしく、寛容で、共感的になりやすい。逆にオキシトシンの働きが悪いと、人になじみにくく、孤立的に振る舞うようになり、また過度に厳格になったり、極端な反応をしやすくなる。またオキシトシンは、ストレスや不安を抑える効果がある。オキシトシンの働きがよい人は、不安やストレスを感じにくく、うつやストレスに関連した病気にかかりにくい。オキシトシンの働きは個人によって差がある。それがストレス耐性の違いともなる。その差は何によってきまるのか。その最大の原因は、幼いころに安心できる養育環境で育ったかどうかということなのである。つまり愛着形成期を無難に過ごしてきたかどうかがその後の人生に影響を及ぼしているのである。安心できる環境で育った人は、脳内にオキシトシン受容体が増え、オキシトシンがスムーズに作用するので、その働きがよい。ところが虐待されたり、育児放棄を受けたりした子どもでは、オキシトシン受容体が脳内にあまり増えないため、オキシトシンの働きが悪く、ストレスに敏感になってしまう。このことから言えることは、愛着の絆をあとから回復させることは大変難しいということである。そういう前提に立って取り組むことが大変重要である。つまり他人の協力を得て素直な態度で取り組まないと改善することはできないだろう。(回避性愛着障害 岡田尊司 光文社新書30ページより引用)
2015.10.06
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10月4日甲子園球場で行われた阪神対広島のプロ野球中継を見た。阪神は藤浪投手。藤浪投手は甲子園で負けなし。しかも最多勝をかけての登板である。阪神がこの試合に勝てばCS出場が決まる。甲子園球場には多くの阪神ファンが詰めかけていた。どう見ても阪神有利に思えた。広島のピッチャーは黒田だった。黒田にとってはこれ以上ない逆境のマウンドだった。しかし実際には最高級の芸術作品を見せられた思いだった。黒田のストレートは140キロ台前半である。ストレートだけで見ると、プロのピッチャーとしては並みの投手である。ストレートで勝負できるピッチャーではない。ツーシーム、カットボール、スライダーでほとんどのボールに変化をつける。でも変化球で握りが変則であるにもかかわらずコントロールが素晴らしい。多分8割以上は狙ったところに投げていた。変化する球を内角、外角にきっちりと投げ分けられるのだ。内角ぎりぎりに変化球を投げてもデットボールはない。だから相手打者を見ながら投球の組み立てができる。つまり常に勝負ができているのだ。見ている人にとってはたまらない緊迫感がある。黒田投手はどんな困難な状況でも逃げない。ホームランバッターに対しても果敢に勝負を挑んでいく。だからヒットはよく打たれる。でも点は取られない。取られても最小失点で逃げ切ることが多い。私が注目したのは4回裏阪神の攻撃で先頭打者福留の場面である。この後はホームランバッターゴメス、マートンと続く。2ストライク3ボールになった。どうするのかと見守った。しびれる場面だ。黒田は真ん中にスライダーを投げた。結果は運よくセカンドゴロになった。この場面絶対避けたいのはフォアボールだ。ストライク勝負しかない。黒田は、ヒットは覚悟したのではないか。でもヒットを打たれて出られるのと、ボール気味の球を投げてフォアボールで塁に出られるのとは気持ちの面で格段の違いがある。百戦錬磨の勝負師の顔を見た気がした。また藤浪投手との3回の黒田の打席でどきもを抜いた。藤浪は打者黒田に対してファールで粘られて13球も投げさせられたのである。簡単に打ちとれず何度も苦笑いをしていた藤浪投手が印象に残る。これが広島ナインを奮い立たせたのではないだろうか。緒方監督は8回で黒田を降板させようとしたが、先日ヤクルト戦で球数を投げていた大瀬良、中崎を休ませたいと言って志願して9回のマウンドに上がっていったという。結果としては2本のヒットを打たれて降板した。今年黒田が日本のプロ野球のピッチャーに与えた影響はとても大きいものがある。男黒田ここにあり。40歳での11勝は日本プロ野球最多タイになるそうだ。今シーズンは2570球を投げたという。勇気を与える芸術作品に乾杯!!!
2015.10.05
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ギャンブル依存症にはGA、アルコール依存症にはAAという自助組織がある。アダルトチルドレンの自助組織もある。その他にも不登校、引きこもりの自助組織もある。親になった人が子育てを学ぶ親業の会もある。我々神経症には生活の発見会などの自助グループがある。強迫神経症の人には別な自助組織もある。これらの自助組織では同じ経験を共有した信頼できる人たちが集まっている。体験交流や森田理論学習をおこなっている。この中に愛着障害が原因でさまざまな問題や生きづらさを抱えている人がいるのである。自助グループ活動を推進していくに当たってはその点を考慮することが必要である。初めて参加した人は、愛着診断テストを受けてもらい、おおよその診断をつけることが大切です。これについては岡田尊司氏の「愛着障害」「回避性愛着障害」の本の巻末に記載されている。ちなみに私は強い「恐れ・回避型愛着障害」であった。愛着障害の人がいる場合は、特に傾聴、共感、受容の姿勢が欠かせない。聞かれてもいないのに、いきなり森田的アドバイスしたり、理論そのものを説明してはならない。また自助グループの中に愛着障害からある程度回復した人がおられることが望ましい。そういう人は傾聴、共感、受容がきちんと身につけておられる。私の経験では集談会には、確かに心の「安全基地」としての役割を果たしている人がいる。そういう方を見つけて、心のよりどころとして、節度を保ちながら活用していくことが大切である。この点神経質者は自己内省性が強いので大丈夫である。その人たちに傷ついた体験を具体的・赤裸々に話してみることである。言葉に出すことはとても大きな癒し効果がある。その他夏目漱石は小説を書くことによって愛着障害を見つめることができた。日記などに書いていくことも役に立つ。さらに愛着障害を克服した人に、一定期間日記指導をお願いしてみるとよい。内観療法も効果がある。内観療法は自分と関係の深い母、父、祖父母、兄弟などの関係を振り返ってみるという作業である。しもらったこと、してあげたこと、迷惑をかけたことの3つである。幼児期から学童期、学生時代、青年期などに区切って丹念に振り返ってみる。すると一方的な思い込みから、客観的立場で自分を見れるようになる。感謝の念が自然に湧き起こり、お返しをしたい、人の役に立つことをしたいと思うようになる。それ以外に岡田氏が指摘されていたが、頭の中であれこれ考えるだけではなく、日常生活、規則正しい生活、仕事、勉強、家事、育児などの生活面を立て直していくことがとても大切である。また、愛着障害を抱えた人は、「かくあるべし」的思考、オールオアナッシィングの極端な考えをしやすい。いわゆる認知のゆがみや片寄りが強いのである。物事を両面観で多面的角度から見れるように修正していくことが大切である。これらは森田理論学習で勉強している項目である。愛着障害の回復にあたっても森田理論学習が役に立つということである。
2015.10.05
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アダルトチルドレンという言葉をよく耳にする。親に問題があって、子どもらしい本来の育て方をされなかったために、大人になってさまざまな精神症状や生きづらさが出てくるのである。機能障害家庭で育った人たちである。愛着障害はアダルトチルドレンと重なる部分が大きい。アダルトチルドレンや愛着障害の原因となるものをもう一度整理しておこう。幼いころ(特に生後6カ月から1年6カ月の間が重要)親に見捨てられた。育児放棄をされた。親と死に分かれた。親と離れ離れになった。親に放任されて育った。親が離婚した。夫婦がいつもケンカをしていた。親がアルコール、ギャンブル、薬物、ネットゲームなどにとりつかれていた。親が自暴自棄になっていた。親が自殺、あるいは自殺未遂をしたことがある。親が再婚した。他の兄弟ばかりかわいがっていた。親が自分のことをいつも否定していた。叱責ばかりされていた。親の都合や期待ばかりを押し付けられていた。親が先回りして何でもやってしまっていた。こずかいは要求すればいくらでもくれて、欲しいものはなんでも買い与えていた。一旦アダルトチルドレン、愛着障害に陥った人は回復することは大変難しい。でもそれを抱えたまま一生を過ごすことはとてもつらいことである。完全には回復しないとしても、やり方によってはかなり修復可能である。岡田尊司氏は回復の手立てをいろいろと述べられている。詳しく知りたい人は「愛着障害」という本を読んでほしい。ここでは私が納得できた部分を紹介したい。岡田氏はまず自分の心の中に「安全基地」「ベースキャンプ」を作る必要があるといわれる。精神的に落ち込んだ時に、やさしく支えてくれたり、相談に乗ってもらったり、退避できる人や場所を持つということである。遅ればせながら多少なりとも愛着を形成していくということである。では「安全基地」となる人はどういう人がよいのか。岡田氏は「安全基地」の条件として5つあげられている。1、 安全感を保証する。これが最も重要である。傷つけられることがない。非難されない、否定されない、無視したり、拒否されることがない。2、 感受性、共感性の豊かな人。愛着の問題を抱える人が何を感じ、何を求めているのかを察し、それに共感することである。3、 応答性。いざという時に相談できる。守ってもらえる。求めていないときは、余計な手だしをすることはない。4、 安定性。相手の求めに応じたり、応じなかったりしてはダメ。その時の気分や都合で態度が変わってしまうのはダメ。5、 すると愛着障害を抱えた人が、自分の抱えた問題や課題を、具体的に赤裸々に、包み隠さず何でも話すことができるようになる。本来は親が果たすべき役割であるが、不可能な場合は親に替わる第三者が必要になる。9月17に紹介したギャンブル依存症の人のための認定NPO法人ワンデーポートがそうである。9月21日に紹介した引きこもりなどの子どもや若者支援を行っているNPO法人ステューデント・サポート・フェイスなどもその役割を担っている。身近なところで「安全基地」を作ることはできないのか。精神科医、カウンセラーという手もあるが、24時間いつでもオッケーというわけにはいかない。業として行っておられるのであり、心の「安全基地」とし末長くお付き合いすることは難しい。このような利害関係のある場合は「安全基地」作りはとても難しい。特に多額の金銭や無料奉仕を要求される場合は要注意である。お勧めは利害関係を離れた自助組織やサークルなどである。世の中にはそれぞれの問題に応じて様々な自助グループが存在する。明日はさらに詳しく見てゆきたい。
2015.10.04
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岡田尊司氏は愛着障害という本の中で、愛着障害持って困難な人生を送った人を数多く紹介されている。(詳しく知りたい方は愛着障害 岡田尊司 光文社新書を読んでもらいたい)川端康成、ルソー、夏目漱石、太宰治、ミヒャエル・エンデ、クリントン、ヘミングウェイ、中原中也、ウイニマット、エリクソン、ジャン・ジュネ、谷崎潤一郎、チャップリン、高橋是清、種田山頭火、マーロン・ブランド、マーガレット・ミッチェル、スティーブ・ジョブズなどである。いずれも大きな仕事をやり遂げて、後世に名を残した人ばかりである。愛着障害をバネにして愛着障害を引きずりながらでも、世の中の人の役に立ってきた人たちもいるという事の証明である。もしこの人たちに愛着障害がなかったとしたらすぐれた作品、業績は残しえなかっただろう。でもその人たちのやりきれない苦悩を思いやってみる時、出来れば安定した愛着形成期を過ごし、無難な人生を送ることの方が幸せのような気がする。その中の一人川端康成に焦点を当ててみよう。川端康成は2歳にならないうちに父親を亡くし、その後すぐに母親も亡くしている。二人とも結核だった。結核感染予防のため両親と隔離されて十分な愛着形成期を過ごすことができなかったことが推測される。また幼児期に両親を相次いで亡くするという事が、どれほどの心のダメージを与えたのか察するに余りある。育ての親は祖母と祖父であった。その祖母は康成7歳の時、祖父は15歳のときに亡くなり天涯孤独となる。康成は愛着障害の中でも回避性愛着障害といわれている。人との交流を拒むタイプである。25歳ら28歳の元気のいい時期に伊豆湯ヶ島で世間の喧騒から逃れてひっそりと暮らしていた。繊細すぎる神経が、人里離れた静けさと、都会との距離を必要としていたのであろう。川端康成の代表作に「伊豆の踊子」がある。川端は愛着障害でもがき苦しむ活路を小説を書くことで昇華しようとしていた。この小説はその癒しの過程で生まれた作品である。「いい人ね」「それはそう、いい人らしい」「ほんとにいい人ね、いい人はいいね」これは小説「伊豆の踊子」の中で、伊豆大島からきた踊り子が連れに話す場面である。川端はうれしかったのだろう。自分自身もいい人だと素直に感じることができた。20歳の川端は自分の性格が天涯孤独で歪んでいると思い、その息苦しい憂うつに耐えかねて伊豆の旅に出てきたのだ。踊り子に「いい人ね」といわれることが、どれほどの心の癒しになったことだろうか。愛着障害で悩む人はこういう第三者の支えが重要である。心の安全基地を持つということだ。伊豆から戻った川端は、それまでの悶々とした生活に終止符をうち、積極的に社会体験を広げていった。受け入れられ、価値を認められる体験が、回避的愛着障害の修正に寄与し、川端の脱皮の一つのきっかけになったのである。愛着障害陥った人は、後々の人生に多くの困難と障害を発生させる。しかし修正が全く不可能という事ではない。手掛かりはある。岡田尊司氏はその点も言及されている。明日はその手掛かりを求めて考えてみたい。(愛着障害 子ども時代を引きずる人々 岡田尊司 光文社新書参照)
2015.10.03
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4つ目の、恐れ・回避型愛着スタイルは、回避型愛着スタイル、不安型愛着スタイルのいずれの特徴も持っている人である。対人関係を避けて、引きこもろうとする人間嫌いな面と、人の反応に敏感で、見捨てられ不安が強い面の両方を抱えている人である。私の場合でいうと基本は不安型であるが、他人に受け入れられないという現実に直面して、開き直って他人を拒否してしまう。それでもなんとか生きていけるという変な自信のようなものに支えられて恐れ・回避型愛着スタイルを形作っていると思われる。恐れ・回避型愛着スタイルの代表的な人に夏目漱石がいる。漱石は自分のことを表現することがとても不器用だった。文学作品という体裁をとって、間接的に自分の傷ついた心を表そうとしたともいえる。漱石の作品はいかにも自分の正体を見破られないように隠蔽しつつ、かつ自分を表現するという二つの相反する要求の微妙なバランスの上に成り立っていた。その一方で漱石は、自分の評価や周囲の反応というものに非常に敏感だった。少しでも自分をないがしろにされたと思うと、激しい怒りを抑えることができなかった。些細なことで妻や子どもを怒鳴りつけたり、下女をやめさせたり、次々と勤め先を変わったりしていたのである。奥さんの鏡子さんはうつになり、熊本五高時代には自殺未遂にまで追い込まれた。漱石は愛着障害を抱えていた。夏目漱石は父50歳、母41歳の時の子どもである。母親はこんな年で子どもを産むのはみっともないと後々まで語っていたというから、漱石は予期せざる、歓迎されない子どもだったのである。そんなこともあってすぐに里子に出された。実際の父母のことは「おじいさん」「おばあさん」と呼んでいたという。強情で、いたずらやけんかがひどくなって、叱られたり、否定されることが多くなった。愛着障害の典型的な経過をたどっているのである。(愛着障害 子ども時代を引きずる人々 岡田尊司 光文社新書より引用)
2015.10.02
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つぎに不安型愛着スタイル特性と対人関係について見てみよう。このタイプの人は対人タイプの神経症の人に多いように思う。私もこのタイプの傾向が強い。終始周囲に気を使っている人がいる。プライベートはもちろん、仕事の場でも、相手の顔色を見ながら機嫌をうかがったり、馬鹿丁寧に挨拶ばかりする。そのとき、少しでも反応が悪かったりすると、嫌われているのではないかと不安になって、肝心の仕事どころではなくなってしまう。この過剰な気づかいこそが、愛着不安の表れなのだ。そして気づかいばかりが空回りするのが、不安型の人の特徴でもある。不安型の人は、相手の表情に対して敏感で、読みとる速度は速いものの、不正確であることが多い。ことに、怒りの表情と誤解してしまう事が多々ある。不安型の人は、自分が相手に送るメッセージに、相手が大きな関心を払っていると思い込みがちである。しかし、実際には本人が気にするほど自分のことを気にはしていないことが多い。拒絶されたり、見捨てられることに対して、極めて敏感である。少しでも、相手が拒否や否定の素振りをみせたりすると、激しい不安にとらわれ、それに対して過剰反応をしてしまいやすい。拒絶されるかもしれないという予期不安が発生すると、その不安をなかなか消し去ることができない。不安型の人は、相手に逆らえないという事がしばしば見られる。明らかに不当なことを要求されたり、自分のことを都合よく利用しようとしている相手に拒むという事ができない。不安型の人は人間関係のバランスがとりにくい。ある程度の人間関係の距離が保たれているうちはよいが、親密になればなるほど、急速に自分と他者の境界があいまいになり、相手を自由自在に操ろうとする。これは「見捨てられ不安」が強いため、相手をつなぎとめておこうと過剰行動、猜疑心、嫉妬心が出てくるのである。仕事、趣味、ボランティアなどの関係で知り合った異性の人をすぐに恋愛対象としてみたり、親子関係、夫婦関係も軋轢を生じやすい。不安型の人は、不安や苦痛といったネガティブなことを、つい口にしてしまう傾向がみられる。言い出すとどんどんエスカレートして、そこまで思ってもいないことまで言ってしまう事がある。相手に見捨てられることを恐れる一歩で、激しい言葉や、相手のプライドをズタズタにするような言葉を、わざわざ投げかけてしまうのである。(愛着障害 子ども時代を引きずる人々 岡田尊司 光文社新書225ページより引用)
2015.10.01
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