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作家の五木寛之氏は「自力と他力」の本で次のように述べておられます。アメリカ人は徹底した自力の思想です。自分や自分の家族の安全を守るためには、女性であっても銃をとって戦うという思想です。家庭の主婦たちがピストルの実弾射撃場であっても別に驚くことではない。ガンやその他の病気に冒されれば、現代医学の水準を信じて、死の間際まで徹底的に病気と闘うというのが常識でしょう。テロの脅威にさらされれば、国民が一丸となって敵と対決します。そのためには、先制攻撃さえ辞さないのです。いわば徹底した自己責任、「自力」の社会なのです。とことん自力で頑張る。頑張りぬいた末に敗れたとしても、その英雄的な姿に惜しみない拍手を送るのがアメリカ社会なのです。こういう社会で五木さんの言う「他力」の思想を伝えていくという事は大変大きなハードルだと言われます。そもそも「他力」という考えは、日本でも十分に理解されていない。他力本願とは、自分では努力しないで、もっぱら他人の力をあてにすること。用例としては、「妹は何かにつけて他力本願だから、いつまでたっても子供のようだ」とあります。他力本願がいつのころから他人頼み、自己責任の放棄になったのか。五木さんは本来の「他力」はあなた任せの思想ではありません。他力というのは、自主努力を放棄した状態が本来の意味です。例えばヨットで海に出ます。無風状態ではヨットは動きません。それに対して腹を立てたり、イライラしてもどうにもなりません。大型扇風機で風を起こしてもらうと思う人がいるかもしれません。あるいは人に後ろから押してもらったり、前から引っ張ってもらう事を考える人がいるかもしれません。自力というのは、普通どうにもならないようなことに対して、なんとか突破口を見つけて挑戦していこうとする態度のことです。これに対して他力というのはそういう小細工をするということではない。そういう場合は、水平線の雲の気配をうかがい、いつかは必ず風が吹いてくると信じて、そのチャンスを逃さないように観察する。風が吹いてくるまでじっと待つということである。そしていったん風が吹いてくると素早く対応するということです。この考え方は森田理論と同じです。不快な感情をなんとかしてなくそうとするのではない。気に入らない自分の容姿、性格、素質等を変えようとするのではない。他人の許せない言動を改めさせるのではない。理不尽な自然災害を呪うのではない。それらは我慢できないことではあるが受け入れていく。事実に服従していく。いわゆる「あるがまま」の世界のことを言っているのだと思います。五木氏は人間は誰でも宿命を背負って生まれてくる。生まれてくる時代、国、両親、環境、素質、性格、容姿はおいそれと変えることはできない。でも運命は変えることができる。変えることのできるものと変えることのできないものをしっかりと区別していくこと。変えることのできないものは潔く受け入れていく。そして変えることのできるものは積極的に手を出していく。親鸞は「運命が自分を育ててくれている」と言いました。どんなにつらくても、運命を切り開いていくこと、生き続けていくことが大切なのです。五木寛之氏の思想は、森田理論を深めるためにさらに学習してみる価値があると思います。(自力と他力 五木寛之 講談社参照)
2015.02.28
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人間がエネルギーを得るには、2つの系統があります。1つは解糖系で、もう1つがミトコンドリア系です。解糖系は、酸素を使わず、糖質を分解してエネルギーをつくり出します。100mを全力で走る場合などがそうです。解糖系は、細胞質で、酸素を使わず低体温の環境で働きます。ピルビン酸を経由して乳酸をつくり出す過程で、ATP(アデノシン3リン酸)を瞬時につくります。グルコース(ブドウ糖)1分子当たり、2分子のATPが生成されます。骨格筋(白筋)、精子、再生上皮細胞、骨髄細胞、ガン細胞など分裂の盛んな細胞は、解糖系のエネルギーを主体に活動します。瞬発力と分裂に使われます。瞬発力はありますが、持続性はありません。解糖系のエネルギーの産出量はわずかです。ミトコンドリア系は、酸素を使って、食事で得られた糖や脂肪、たんぱく質や解糖系で生まれたピルビン酸を材料に大量のエネルギーをつくり出します。有酸素運動といわれるマラソンなどがこれにあたります。もともとは核の中にミトコンドリアはありませんでしたが、進化の過程で共生したのです。ミトコンドリア系は、ミトコンドリア内で、酸素を使って高体温の環境で働きます。ここが重要なところです。グルコース(ブドウ糖)1分子当たり、36分子(計38分子)のATPが生成されます。解糖系の18倍以上の効率で、安定的にエネルギーをつくり出すことができます。骨格筋(赤筋)、心筋、ニューロン(脳神経細胞)、卵子、一般の細胞などは、ミトコンドリア系のエネルギーを主体に活動します。我々はこの2つのエネルギー系を使い分けているのです。子どものころは解糖系が優位で、加齢とともにミトコンドリア系中心にシフトしていきます。ただし、ストレスによって交感神経の緊張が持続すると、血管が収縮して低体温になり、解糖系のエネルギーが主体となってきます。糖尿病やガンを治すには、高体温、高酸素、低血糖の状態にして、ミトコンドリア系にシフトしていく必要があります。ストレスにうまく対処して、副交感神経優位の状態に戻していく必要があります。ミトコンドリア系で問題となるのは、酸素を使うという事です。一部の酸素は、余分なマイナス電子を一つ抱えて不安定な状態になります。そこでプラスの電子を求めて飛び回ります。この状態が「活性酸素」と呼ばれる有害な副産物です。「活性酸素」はさまざまな細胞を攻撃して損害を与えます。細胞組織のタンパク質や脂質は「活性酸素」によって、酸化され、いわば錆びた状態になります。「活性酸素」を増やさない方法は2つあります。一つは抗酸化物質を利用することです。体内で作られるものと食べ物で補給するものがあります。食べ物では、ビタミン、ミネラル、ポリフェノール、ベーターカロテンなどがあります。もう一つは運動です。運動するにはたくさんの酸素が必要ですから、活性酸素も多く発生して老化が進むように考えられていましたが、今では運動することによって抗酸化能力が高まると言われています。有酸素運や筋力トレーニングが役に立ちます。関連記事が2014年8月3日、7月16日にもあります。参考にしてください。
2015.02.27
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2015年2月号の生活の発見誌の39ページよりの引用です。神経症が無くなったらどんなに楽に生きられるだろうかと、ふと思う時もあります。ヒポコンドリー性基調という性格傾向を持った私たちに、症状が完全になくなることは考えにくいのですが、もしそうなったとしたら、果たしてそれでよいのだろうか、という思いもあります。むしろ私は、症状が少しくらい残っている方が悩んでいる人の気持ちがよく分かるし、共感したり寄り添っていけるような気がするのです。また、私にとって、時々顔をのぞかせる症状は、今のこの生き方でいいのか、他にやることはないのかという、心のセンサーの役割を担ってくれています。全くその通りですね。私たちは生活習慣病検査の時全く異常のない結果を期待します。でも異常が全くないという人はほとんどいません。ほとんどの人は何らかの異常を指摘されています。でもそれによって食事を変えたり、運動をしたり、病院でさらに精密検査をしたりします。つまり健康を見直すきっかけになっているのです。このことを一病息災と言います。私の父は5人兄弟でしたが、その中でいちばん長生きをしているのは長女です。現在95歳になります。長女は産後のひだちが悪く入退院を繰り返していました。一生薬が手放せず、病院通いをしてきました。病気持ちだったため、健康に気をつけて生活できたことが大きかったのです。反対に病気には縁のなかった他の兄弟の方が先に亡くなってしまいました。何が幸いするか分かりません。私は痔の手術をしたことがあります。また尿道結石で夜明け方腹が痛み出して救急車で運ばれた事もあります。痛風になり歩けなくなったこともあります。仕事のストレスで胃潰瘍になったり、手の骨を折ったこともあります。そういうケガや病気は嫌なものですが、今では感謝しています。それは健康で長生きをするためのきっかけ作りをしてくれたからです。また、そういう病気をした人の気持ちがとてもよく分かるのです。受容と共感というのは自分が体験してはじめて生まれてくるものだと思います。私たちはいつも完全、完璧を目指しています。目指すことはいいのですが、6分から8分ぐらいの状態が一番安定しているように思います。逆にいえば不安や病気は必要なのです。不安や病気を抱えていたほうが、はるかに意味があるのです。残りの2分や4分は意欲ややる気の基になる餌のようなものだと思います。完全、完璧な状態が実現してしまうと、目標を失い、生きる力がしぼんでしまうのではないでしょうか。
2015.02.26
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私はニューロン(脳の神経細胞)は大人になると新たに作られることはないと思っていました。死滅するばかりではないのかと思っていました。久恒辰博氏は、それは違うと言われています。子どもの時のように急激に増えるという事はあり得ないが、新たに作られることは間違いない。またニューロンは使えば使うほど強化されると言われています。反対に使わないニューロンは廃用性萎縮を起こすという事です。つまりせっかく作り上げたシナプスのネットワークが破壊されてしまうという事です。これは我々が問題にしている不安や恐怖の対応に明るい希望を与えてくれます。不安や恐怖というのは主として脳の扁桃体と海馬が絡んでいます。扁桃体で感じとり、海馬で長期記憶として判断されたものは大脳新皮質に送られます。事あるごとに予期不安として意識化されて不快になるのです。つまり不安や恐怖にとらわれるという事はそのあたりの神経組織が強化されているという事なのです。そしてギャバ等の神経伝達物質が多量に作りだされてしまいます。不安や恐怖で苦しむという人は、多くの認識の誤りがあると言われます。事実を無視して物事を否定的、ネガティブに考える。自分を否定したり、たいしたことのないものを極端に大げさに考えてしまう。等などです。これは脳の働きから見ると、そういう方面のネットワークが強固に出来上がっているので、自動的にマイナス思考の連鎖が引き起こされるのです。これらの悪循環を断ち切る方法があります。脳には意欲ややる気を高める淡蒼球というものがあります。また快楽や幸福を感じると盛んに活動するエーテン神経、側坐核、腹側被蓋野というものもあります。さらに相手を受容し共感するためのミラーニューロンというものもあると言われています。不安や恐怖の感情を強く意識している人は、その方面の神経のネットワークは使うことが少ない傾向があります。すると脳はニューロンのネットワークを成長させたり強化することをやめてしまいます。つまり喜び、楽しみ、嬉しさ、思いやりというものは感じる力が弱くなってくるのです。すると悲しみ、苦しさ、つらさばかりが強くなってきます。少しの刺激でもより大きく感じるということになるのです。それらは大きなストレスとなります。少しでも中和しようとします。それらを減少するために刹那的な快楽を求める。キャンブル、アルコール、薬物、セックス、過食、物欲等にのめり込んでいくというパターンに落ち込んでいくのです。ですから脳科学の立場からすると2つの神経のネットワークをバランスよく鍛えていくことが極めて大切となるのです。久恒氏は「幸せ脳」(エーテン神経、側坐核、腹側被蓋野を強化させる)を作るために次のように提案されています。まず脳の栄養と脳の休養に気を配る必要があります。つぎに脳に活力を与えるためにはほどよい運動が欠かせません。また精神的、肉体的にストレスがたまっている時は、マッサージなどで脳の緊張をほぐしてあげることも忘れないでください。次に将来への希望や生きがいを持って生活している時、また周りの人たちと共感し多くの愛情の中で過ごしている時、そして自分に自信を持って暮らしている時「幸せの脳回路」は、命のある限り成長を続けていくのです。これらは森田的でよく言う欲望を抑制して生の欲望の発揮に邁進することで可能になります。さらに「自然に服従して境遇に柔順になる」生き方を身につけることで、脳のバランスは自然にとれてくるものと思われます。ともあれ神経質者はこの方面の神経を鍛えてもっともっと使う必要があるのです。このことを自覚していると将来に明るい希望が湧いてきます。(「幸せ脳」は自分で作る 久恒辰博 講談社参照)
2015.02.25
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肉親の死に遭遇すること。理不尽な事故に巻き込まれてしまった。受験や資格試験に落ちてしまう。彼女や彼氏に交際を申し込んだのに断られてしまった。悲しいことです。それらにどう対処して行ったらよいのか。垣添忠生さんの話を紹介します。1、 涙を流す。涙には大変大きな癒し効果があります。泣いた後には脳内にエンドルフィンが増加することが確認されています。エンドルフィンには鎮静作用があり、リラックスさせたり、スッキリした感覚をもたらします。泣きたくなるのは私たちの心が癒えようとする働きの現れですから、我慢したり遠慮する必要はありません。大いに泣きましょう。2、 言葉にして苦痛を吐き出す。理解や共感を示してもらいながら聞いてもらうと、表現することに抵抗があった苦しみを無理なく言葉にして解き放つことができます。また、人に理解してもらおうとして話すときには、自分の考えを整理して説明しようと努力します。その作業をする中で、新たな気づきがもたらされることがしばしばあります。日記等に書くことも有効です。3、 一人で苦しまない。生活の発見会等のセルフヘルプグループに参加する。カウンセラー等に相談する。4、 生活の負担を減らしてしっかりと悲しむ。悲しみから目を背けたり、他のことで気を紛らわせたりしていると、悲嘆の経過が長引き、悪化することがあります。5、 区切りのセレモニーをおこなう。法事などのことです。6、 自分なりの死生観を持つ。死後の世界が存在するかどうかは誰にもわかりません。でもあると仮定して生きていくことは、人生そのものが全く違ったものになります。7、 身体を動かす。ウォーキングなどの有酸素運動がよいと言われています。8、 丁寧に暮らす。日常茶飯事にものそのものになって取り組んでみるという事です。これらは森田理論に通じるところがあります。悲しみは抱えているだけではどんどん増幅してしまいます。これらを参考にして悲しみを少しずつ流していくことを実践してゆきたいと思います。(悲しみの中にいる、あなたへの処方箋 垣添忠生 新潮社)
2015.02.24
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森田理論学習を宗教のように見立てて、「森田教」というのは違うような気がする。森田を宗教のように見なすと盲従することになるからである。盲従は駄目である。今日はその説明をしてみたい。実は2013年2月9日の投稿で「柔順と盲従」の違いについて書いた。20歳の水谷先生が入院中の時、森田先生が、「今ここで三べん回って、わしにおじぎをして見給え」といわれた。女中さんなどみんなが見ている前で、犬のような真似をするのは、いくらなんでも恥ずかしい。しばらくためらったが、私は思い切って、不格好にもぐるぐると三べん回って、先生の前に頭を下げた。森田先生は苦笑いしていわれた。「それは柔順ではなくて、盲従というものだ。君は、わしが言ったことを取り違えている。柔順な人は、自分の心に対しても柔順なものだ。君はいま、こんなことをするのは恥ずかしい、という気持ちが起こっただろう。それが君の正直な気持ちだ。そして、その正直な気持ちを押しつぶすようにして、ええい、やっつけろ、という気でぐるぐるまわりをしただろう。」まったく図星で、返す言葉もない。「こんな場合、ほんとうに柔順な人であったら、困ってもじもじするか、あるいはそいつはどうもとかいって、頭をかくだろう。いくら柔順に実行するといっても、ばかげきったことで、先生の言葉に従う必要はない。」つまり柔順というのは、自分の気持ちを前面に打ち出すということである。盲従というのは、意に沿わないのを押し殺して相手の意向に合わせてしまう事です。こんな場合は押し殺す必要はないのです。森田先生は森田理論の学習はいくら疑いを持っていてもよいと言われています。その上で、森田先生は「神経質問答」の194ページでこうも述べておられます。「こんなことをして治るとは不思議なことだ、どうも納得がいかない」と思いながらも、もくもくとその通りに実行するのを「素直」とか「柔順」とかいいます。「素直」とは、自分にはよく分からないながらも、自分の信頼する人の教えるままに、仮に「そうかなあ」と定めて、ためしにやってみることであります。少しも難しいことではない。ところが、不柔順な人は「わからない」と断言して、少しも実行しようとしません。これが横着であり、強情であります。この素直と強情の区別が、治ると治らないとの分かれ道である。」ただ疑いながら、理解できぬままに、一定日数、森田療法を実行して試みればいいのである。反抗的で、もっと自分の病気を増悪させて、先生に見せつけてやろうと思ってもよい。どんなに反抗気分でもよい。真剣勝負のようにならないといけない。不得要領でノラクラしているのが一番悪いとも言われています。その点生活の発見会は入会も退会も自由である。その後森田学習を続けるかどうかを判断すればよい。1年でも真剣に学習すれば容易に判断がつくと思う。
2015.02.23
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北野武さんの話です。芸人の資質として、舞台に立っている自分がいて、もう一人の自分が客席にいないような芸人は駄目なんだよね。よくあるのは客がノってくると、自分も一緒になって興奮しちゃう芸人がいるんだけど、それは違うんだよね。客がノってきたのが分かって、客席に自分がいてノった自分を見ている。ノっているんだけど、それは冷静にのったふりをしている。役者でも、カメラの横に自分を置いて演技するっていうのがない奴は全然駄目。自分の演技を客観的に見られないから、自分が形だけで演技しているから分からないんだ。例えば、一番難しいのは普通に歩くことなんだけど、役者を歩かせて「手の振りがちょっと小さいんですけど」というと歩けなくなったりする。ヤクザ役の人に、ポケットから手を出して演ってというともうできなくなる。北野武さんはおもしろいことをいう。よく観察して、物事の本質を掴んでおられるようだ。これは森田では自己内省性という。森田では我々神経質者は、自己内省力が強すぎて本来外へ向かうべき注意が自分の身体や心に向かい、精神交互作用で神経症へと陥ると学んでいます。つまり我々の場合は自己内省性がマイナスに出ているのである。でも北野武さんは、芸人は客観視、自己内省性のない人は大成しないと言っている。自分の演技を冷静に見つめて、さらに高めていこうとする人でないと伸びてゆかないと言っているのです。漫才をしていて客が大笑いをしてくれると、客と一緒になって一喜一憂しているとそれだけのものだ。さらにギャグを飛ばして、大きな笑いの渦を巻き起こすことはできない。自分の演技に自己陶酔するだけのキレを持つことはよいのだが、同時に自己内省がないと反省することがないので芸はそこで止まってしまう。つまりその芸人は伸びてはこない。この考え方は森田理論の欲望と不安の関係についても言えることだ。森田ではどこまでも生の欲望の発揮に邁進しなさいと教えてくれています。でも欲望に任せてどこまでも物欲を追い求めること、食べ物を世界中から買いあさることは極めて深刻な問題を表面化させる。だから自己内省力が働いて欲望は制御してしかなければいけないということである。常にバランスを取りながら前進してゆかないといけない。欲望はほどほどに抑制していかなければ、我々の生命の存在が危ぶまれるということである。欲望の発揮は自己内省力で制御する。そしてバランスや調和のとれた生き方を目指すということが基本である。人間はともすると欲望が暴走しやすい。今の世の中の問題は欲望の暴走のなれの果てと見ることもできる。森田理論をよく学んで調和のある生き方を目指してゆきたいものである。
2015.02.22
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元伏見工業高校ラグビー部監督の山口良治さんのお話です。「いやぁ、あの子は問題でね」そんなことを言う教師がいる。何回か注意して、聞かなかったらすぐにいう。「あいつはもうアカン。何回いうても聞かへんし、こんなことしているし、こんな問題を持っています。」などなどです。森田で言う是非善悪の価値判断をしているのです。高校生ともなると体力的には大人と同等な力を持っています。危害を加えられたり、悪い評判が立つことを恐れてみて見ぬふりをしてしまうのです。でも教師の仕事はその生徒がいいか悪いかを判定することではないのです。生徒を教育することです。問題児なんて、始めから問題児になりたくてきているんじゃなくて、そういう問題性を持った子が、その行為から何を発信しているかまで受け止めてやろうと、分かろうとしてやらないのかなと思います。生徒はやったらいかんことを、分かっていてやるんだから、当然教師には叱られるだろうと思っています。大人には注意されるだろうと思ってやっているんです。なのに、だれも言わない。注意しないと無視されているということになって、ますますエスカレートしてきます。そういう意味では、問題児なんて最初からいない。誰が作ったのか。教師が作ったのだ。「どうせ俺は問題児なんだ」というような気持ちになっていく子の、その寂しさを考えると、私は耐えられないのです。教育というのはまさにコーチであって、子供が将来幸せな人生を歩んでいく。それも本当に自立して、ひとりでいろんな場面に出会っても、しっかりとした判断、正しい判断ができて、次なる自分をしっかりと決断できる。そのために必要なことを学ばせるのです。そのためには、ああせい、こうせいと言うのではなく、「これだったら、絶対あいつには負けへんぞ」とか、「お前だったら、頑張ったら将来こんなふうになれるぞ」とか、共に夢を語ること、ともに希望を語ること。ラグビーのように身体ごとぶつかっていくことなのです。これイコール教えるってことです。いくら親や教師が子供になりかわってやってあげても子どもの力にはなりません。ドキドキするような気持ちにさせて、どんなになりたいのか。そのイメージを描かせながら、夢を語りながら、その実現のためにどんなことがしてあげられるか。教育者にはその点が一番大切だと思うわけです。(17歳を語る 山口良治 青少年交流振興協議会より引用)
2015.02.21
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形外会で松本さんが森田先生に次のように質問した。(5巻112ページ)「先生が絶えずハラハラした心持で生活していれば神経症がよくなるといわれたが、家でゆっくりしているときはそんな必要はないのではないか」また川上さんという方は次のように質問した。(5巻328ページ)「先生はいろいろと気をもんでハラハラしている時に、仕事がよくできると言われましたが、それは神経質ならばよいでしょうが、一般の人は、仕事に注意を集中して、他のことを考えないときに、最もできるのではないか。それも本当であって一概に言う事はできないと思う」お二人は森田先生のお話の疑問点を素直に発言しているようにも思える。でも学習にあたってはよく考えてみることが必要である。森田先生はここで無所住心の話をされている。それも通り一遍の話ではなく様々なたとえ話をされる。具体的な話である。その方がみんなが理解してくれるのではないかという気持ちである。中には適切なたとえでない話もあるだろう。それにいちいち引っかかって議論を吹っ掛けているのは如何なものか。そんなたとえ話の中で心の琴線に触れる人が中にはいるのだと思う。頓悟と言うのはそういうなんでもない話の中に隠れている事がある。こうした学習態度は厳に慎まないといけないと思う。二人の質問は森田先生の上げ足をとっているとしか思えない。すると森田先生は話す気力が多少なりともそがれてしまう。せっかくの問題提起を引っ込めてしまわれる。他の人も森田理論のポイントを考える機会を失われていい迷惑である。こういう人は反論することによって自己の存在をみんなに示したいのだろうか。あるいは少しでも自分の感覚とマッチしないものは完全に排除しないと落ち着かないのだろうか。少しの違和感も受け入れられないのかもしれない。とらわれの程度がかなり強いと見受けられる。質問した人にとっては、森田学習からどんどん離れて行ってしまう。言葉にとらわれて、森田を生活に応用することなどは考えも及ばないということになる。そういう人は「かくあるべし」にとらわれて、そもそも学習をするという姿勢ではなく、形外会をかき乱そうとしているのかもしれない。本人にはその意識がなくても結果的にそうなっている。せめて違和感を感じても、「その話では私はついていけない。でもそれを元に学習している人もいるのだからおとなしくしておこう」そういう気持ちを持って学習会には参加してほしい。こういう例は集談会でもよくある。上げ足をとる。反論のための議論を吹っ掛けてくる人である。例えばバランス、精神拮抗作用の説明のために大輔花子の夫婦漫才の掛け合いの話をした。するとある人は、漫才師は演技でやっているのであって、夫婦のバランスの例として持ち出すのはふさわしくない等という。話が前に進まなくなってしまった。私はもう話を進める気力がなくなってしまった。この例を持ち出すことによって、森田先生はみんなに何を勉強してもらいたいと思っているのだろう。森田先生は何を考えさせようとしているのだろう。この問題に対して森田先生だったらどう考えられるだろうか。絶えず森田のキーワードやポイントを確認しながら学習に取り組まないと、いつまでたっても成長は望めない。
2015.02.20
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阿部佳さんがNHKのプロフェッショナルに出ていた。阿部さんは東京・六本木にある毎年ミシュランで最高評価を獲得する超高級ホテルのコンシェルジュだ。職場は、宿泊客の約7割を外国人が占めるという。当然英語での対応となる。一日になんと300件以上もの依頼がコンシェルジュに寄せられる。その内容は、交通手段や劇場チケットの手配からレストランの予約、観光案内など、オーソドックスな依頼から、無理難題ともいえるものまで多岐に渡る。彼女は言われた事をやるだけではダメだという。彼女が大切にしているのは、この客がいま何を望んでいるのか。その要望を見極め、同じ方向を向いて進んでいくということ。自分とは異なる国に生まれ育ち、異なる考えを持っている他人という存在。その気持ちに、どれだけ寄り添い、近づくことができるか。それを見極めて短時間のうちにやり遂げる、それがコンシェルジュという仕事の難しさであり、おもしろいところでもあるという。この考え方を森田に応用していくと面白くなる。これは神経質性格を持っていないとなかなか難しい。我々は心配性だからいろいろと細かいことによく気が付く。それは細やかな感性を持ち、いろんなことをよく気がつくということだ。ものそのものになりきって行動すれば阿部さんのように他人に喜ばれる。そもそも自分の行為によって相手の受け止め方は4つに分けられる。まず自分の期待水準以下のことしかしてくれない段階。すると不平不満が起き、怒りさえ覚えることになる。これはもちろん論外のサービスだ。リピートのお客はやってこない。次に自分が期待していたサービスを提供してくれた。自分の要望や要求していた通りのことをしてくれた。これはあたりまえ、当然のサービスだ。やってあげた方は人のために親切にしたと思うが、相手はそれほど思っていない。当然自分が受け取る権利があるサービスを受けたまでのことだ。この段階で仕事が終わりという人がとても多い。次に相手の期待しているサービスにプラスアルファのサービスを付け加えたらどうだろうか。こうなると「ありがとう」と感謝されることになる。おやこの人のサービスは普通とはちょっと違うなと思われる。関心が自分にすこし向けられてくる。でもまだまだである。その次に相手の期待水準を大きく上回るサービスがある。相手に大きな感動を与える。涙が出るほど喜ぶ。感謝感激のサービスがある。相手があなたのために何かお返しをしたくなるのである。相手があなたのファンになるのである。そういう相手の姿を見るとあなたはとてもうれしくなるはずだ。そういう段階の究極のサービスである。阿部さんはそこまで相手に寄り添っているのだと思う。そういう創意工夫を心がけていくと仕事はとてもおもしろくなる。仕事仲間にもその影響が伝わっていく。例えば相手がスマホを買おうとしている。自分がスマホに詳しかったらどこのスマホがよいか、教えてあげる。機種も提案してあげる。料金プランについても教えてあげる。次に自分と同じメーカーなら店までついて行ってあげる。必要に応じてアドバイスしてあげる。そして買った後には使い方を教えてあげる。機種が変わるとちょっとした操作変わるのである。またあまりに多機能なので全部の機能を使いこなすことは難しい。相手のこんなことをやりたいという要望を聞いてそれに応じた使い方を教えてあげるのである。また相手にはこんな利用方法が役に立つのではないのかと提案してみる。ここまで教えてあげるととても喜ばれることがある。あなたのファンになるかもしれない。これはちょっとした気づきを大切にして、それを相手の気持ちになりきって大きく膨らませていくだけである。これは神経質性格を持っている人でないとなかなかできないことである。神経質性格を活かす、森田を生活に応用するとはこのようなことを言うのである。
2015.02.19
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夏目漱石はイギリスへ留学中に被害妄想的な精神状態となった。そのため文部省から帰国命令を受けて、予定よりも早く帰国した。その後一高に職を得た。それでも漱石の精神状態はよくならなかった。時には妻子に暴力を振るうこともあったという。妻子は別居を余儀なくされた時期もあった。漱石の息子はわけもわからずステッキで殴り倒された事もあったという。長女は「こんなお父様なら、いなければいいのに」と感じたことを後に回想している。子どもたちにとっては恐怖の対象であったという。妻は精神科の主治医から「今の不安定な行動は元々の漱石の性質ではなく病気のせいである」と病状の説明を受けたりしている。漱石の妻は、漱石が病気でこうなったのなら、今までどおり一生付き合っていくしかないと考えた。そして今までどおりの家族生活を続けた。症状を抱えたまま生活を続けていったのである。それが結果的にはよかった。その後高浜虚子にすすめられて「吾輩は猫である」を書きはじめた。それが評判を呼び、漱石は作家としての活動に力を注ぐようになった。すると、やっと漱石の精神状態も安定してきたのである。1907年に教師を辞めて専業作家となって独立していった。漱石は統合失調症のような症状を抱えながらも小説を書き続けたことがよかったようです。これと同じようなことを、冨高辰一郎氏は、うつに陥った人に対してこうアドバイスされている。うつ病でつらいときは病気であることを認識した方がよい。自分は病気の影響下にあるという諦めが、療養への覚悟につながる。治療に専念できる。でも回復期になっても過剰に病気を意識することは問題となることが多い。うつ病患者はある程度時間がたつと回復期へと移る。それまでは、うつ病という悲劇の中に沈んでいた患者が、その中にいることにしだいに違和感を抱くようになる。悲観的思考と憂鬱気分の悪循環から離れ始め、冷静な自分を取り戻していく。うつ病の回復期に必要なのは、うつ病という精神の悪循環から離れようとする心の動きがあるのである。うつ病に同化することではない。けれども急性期に身につけた「自分は病気の影響下にある」という意識が、回復期になってもなかなか抜けず、それがうつ病の回復を阻害する場合もある。だからこの段階では緩やかな森田療法を応用していくのがよいのではないだろうか。(なぜうつ病の人が増えたのか 冨高辰一郎 幻冬舎ルネッサンス新書より引用)
2015.02.18
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何年か前に妻の父親が入院している病院に見舞いに行った時のことです。余命があまり残ってはいないと聞かされています。病室に入ると何人もの人が見舞に来ておられました。当の本人は痩せこけて、酸素マスクをつけられています。意識は全くありません。苦しいのか首を左右に振っています。近くには血圧計があります。時折最低血圧が下がってきます。最低血圧が50を切ると危ないと聞かされました。手には点滴を打たれていました。ビニールの管が何本も身体の中に入っています。私はあんなに元気だった人がこんなになるのかと驚きました。悲しみでみんな無言です。ところがしばらくすると、妻の姉さんや弟たちが葬儀の段取りの話を始めました。驚きました。その時私の頭の中には、こんな時の「純な心」はなんだろうと思いました。「かわいそうに」「しきりに首を振って苦しんでいるのではないか」「なんとか回復してほしい。」「それにしてもたくさんの生命維持装置だなあ」私の最初の感じです。森田ではそこから出発しなさいと教えてくれている。これは初一念ですね。その時の意識は注意がお父さんの容態に向いています。ところがしばらくすると、初二念や初三念がでてきます。もしお葬式を出すようになったらどうしよう。どんな段取りを組めばいいのだろう。経費はどれぐらいかかるのだろう。心配なことが次から次へと湧いてきます。その時の注意はもはやお父さんに向けられてはいません。意識がないとはいえ苦しんでいるお父さんを前にして葬式の話に加わっている自分がいます。この点について集談会で他の人に聞いてみました。そこで出た話です。普通こんな状態のときは「葬式を出すことを考えておかないといけない」「経費はどれくらいかかるのだろう」「お寺さんの手配は」「親戚はどこまで連絡しようか」等という心配が当然湧いてきます。これは自然な感情だと言われます。もう直に死んでしまうのだから、悲しんでばかりいても仕方がない。次にしなければならない事態を想定して段取りを組むようにした方がよい。そういう心の準備をしておかないと後で大慌てることになります。安易に葬儀社を決めて多額の費用を支払うことになった人もいました。そう言われてみればそういう気がしないわけではありません。でもその時、お父さんが「かわいそうだ」「苦しそうだ」「苦しみを取り除いてあげたい」「持ち直してほしい」という「純な心」はどうなっているのでしょうか。どこかに飛んでいっています。それでいいのでしょうか。森田では初一念を感じるという事は大切なことだといいます。それを味わうことをしないで、初二念に翻弄されてしまうというのはこれでいいのでしょうか。その場ではよく分かりませんでした。私は後で考えてみました。ここで一番肝心なことは、やはり初一念を十分に味わうということだと思います。これをまずよく思い出して、十分味わうということ。まずはそこを出発点にすること。これは絶対にはずしてはいけないと思います。というのは、初二念や初三念の感情は、理性的な感情です。とっさにでてくる感情ではありません。ともすると言い訳や弁解、相手への批判等を含んだ感情だと思います。だから初二念や初三念は「純な心」とはずいぶんかけ離れた感情です。つまり私たちがよく学習している「かくあるべし」を含んでいると思うのです。私たちは初一念を無視して、そういうものに頼っている事の弊害は嫌になるほど学習しています。まずは初一念をしっかりと感じとる。そしてその次に湧き起ってきた初二念も否定しないで感じとる。この二つの狭間で感情が揺れ動いているという状態を維持していくこと、これこそが大切なのではないでしょうか。この二つの狭間で揺れ動くなんとも不安定な精神状態の中に身を置くこと、これに尽きるような気がします。普通は初一念を感じてはいますが、すぐにどこかに飛んで行ってしまいます。つまり無視しています。そして続いて湧き起ってきた感情の初二念や初三念にばかり振り回されているのです。また一方的に初二念に振り回されるようになると、初一念と初二念の二つの感情の間を揺れ動くという体験はできなくなってしまいます。初二念に偏ってしまうからです。するとバランスを欠いた極端な言動へと発展してしまいます。森田でよく話される、皿を落として割った時の話、ウサギが野犬にかみ殺された話を思い出せばすぐに分かります。私の体験ではもはや自分の注意は目の前で苦しんでいる父親から離れて、自分の次にとるべき対応に意識が向いてしまっているのだと思われます。この態度は森田を生活に応用している態度とはいえません。こんな状態では何のために森田で「純な心」を学習しているのだろうと感じた次第です。
2015.02.17
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近畿全域を股に掛け、結婚相談所を通じて次々に結婚を繰り返していた筧(かけひ)千佐子という人がいる。かつて千佐子と婚姻あるいは内縁関係にあって死亡した男性は10人を数える。手にした遺産は総額で10億円ともいわれる。その多くはこの10年内に集中している。10億以上もの遺産の使い道としては、娘にマンションを買い与えたりしていた。でも遺産の多くはFXの投資で失っているという。挙句の果てに借金を重ね、生活保護も受けていたという。遺産目当ての殺人事件ではないか。きっとそうだろう。これがもし事実だとすると許せない。死刑にすべきだというという人が多い。でもこれは早計だ。証拠が完全ではないからだ。4人目の夫・筧勇夫さんに対する殺人罪で起訴されが、テレビのインタビューでも一貫して容疑を否認していた。「私はそんなことをするような馬鹿な女ではない」と公言していた。日本では証拠がないと起訴できない。罪を償わせることができない。このケースも練炭殺人の木嶋佳苗容疑者のように状況証拠だけで起訴に持ち込むのかと思っていた。本人の自白だけ、あるいは状況証拠だけというのは実に心もとない。裁判が長引く。取り調べ段階で容疑を認めても、裁判で否認というケースは過去何回も繰り返されてきた。森田でよく言うように言葉だけでは信用できない。裏付けとなる事実の立件が欠かせない。相手には弁護士がついているのだ。被告人の立場に立ち、矛盾点をついて最大限の弁護をしてくる。現在警察の取り調べでは、供述の矛盾点を理詰めで突かれて、関与を認めたかと思うと、時間をおいてまた否認に転じるなど、揺れ動いているそうだ。全面自供を躊躇させているのは子どもの存在だという。千佐子容疑者には、20年前に死亡した初婚の相手との間にもうけた一男一女がいる。子供たちは成人して独立しているが、潔白を主張する千佐子容疑者を信じている。容疑を認めてしまえば、子供たちに迷惑がかかると思っているようだ。殺害事実を元にして立件できるのは、バイクの走行中に死亡した本田さんと筧勇夫さんの2件のみといわれている。それは2人の体内から青酸化合物を検出しているからだ。さらにきちんと立件していくためには、殺害に使用された青酸化合物の入手経路とその時期だ。千佐子容疑者が言い逃れできなかったのは、昨年の夏、業者に頼んで処分しようとした園芸用プランターから、青酸化合物が付着した袋が押収されたという事実だ。これは本人も認めており、入手に関する供述もなかったわけではないが、その都度、裏付けに走ったものの、入手ルートの解明には至っていないという状況であるという。我々の葛藤や苦悩は、事実を確かめないで、先入観や決めつけで物事を判断して、後で後悔することが多い。だからこそ、この事件では、是非とも事実を確かめて、事実にもとづく立件に持ちこんでもらいたいものだと思う。
2015.02.16
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部下や子どもに意欲を持たせて、やる気を高める働きかけをするにはどうしたらよいのか。森田理論を中心に考えてみたいと思います。まず相手の存在を認めてあげることだと思います。デール・カーネギーの「人を動かす」という本の中に6つのことを指摘されています。1、 誠実な関心をよせる2、 笑顔を忘れない3、 名前を覚える4、 聞き手にまわる5、 関心のありかを見抜く6、 心からほめるこれらは人を思うように操ろうとする処世術だといって嫌う人がいます。私はそうは考えません。相手の存在を認めて、相手を大切にするというのは意欲を持たせて、やる気を高めるための土台となるものだと思います。ここであげられている6つの視点はとても意味があります。相手に対し最初からけんか腰で、拒否、無視、否定、非難する気持ちではかえって反発されます。相手に礼儀正しく、やさしく接する。相手の話をよく聞いてあげる。相手のよい面をほめてあげる。潜在能力を高く評価してあげる。そして自分の力や能力を高めて、夢や希望を実現することの大切さを語ってあげる。相手に期待をかけてあげる。叱咤激励する。信頼関係ができていれば叩いてもいいのです。却って後で相手に感謝されることだってあります。次に「かくあるべし」を押し付けることは絶対に慎まないといけません。自分の考える理想の状態に相手を誘導しようとすることは絶対にあってはならないことです。非難、説教、命令、指示、禁止、叱責等は相手の意欲を持たせて、やる気を高めることにはつながりません。いずれ大きな反発を招くことになります。それでもかまわないというのならやってみてください。また相手に任せて、相手にやらせるべきことを、手っ取り早く片づけるために、自分が代わりにやってしまう事はいけません。これは過保護というものです。相手のやる気や意欲は最初から抑圧されてしまいます。そして無気力、無関心、無感動で依存的な人間を作ります。これはていのよい拷問のようなものです。おもしろい未知の体験をさせることは大切なことです。出来るだけ多くの体験をさせる。多くのミスや失敗の経験をさせる。多くの人と接する機会を作ってあげることも大切です。失敗や体験から多くのことを学びます。3000回の失敗をして大人になるのだという人もいます。多くの失敗や体験は貴重な財産となってさらに前進することができます。また自分の信じたこと、楽しいこと、面白いことをやって見せることは、相手に良い意味でも、悪い意味でも刺激を与えることになります。出来るだけ将来に展望が開けるようなものを、紹介してあげることは相手に大きな影響を与えます。意欲ややる気に火がつきます。父親が魚釣りが好き、スキーが好き、楽器の演奏が好きな場合、子どもは少なからず影響を受けます。そして実際の問題点や課題を目の前に提示してあげることも必要だと思います。神経症で苦しんでいる人には特に必要だと考えています。相手が気づいていない事実を目の前に突きつけてあげることなのです。提示するだけです。行動は相手に任せてしまうということが大切です。ここを誤っていては何の意味もありません。それによって相手にどんな感情が起こってきて、どんなことに気がつき、どんな発見があるのか、とても大切なことです。例えば不良品率が20%もあった会社が、その不良品のサンプルを玄関に展示をしたところ、不良品率が劇的に改善されたという例があります。それは展示品がきっかけとなってみんなが刺激されて、話し合い、改善の機運が高まり、不良品率の削減に取り組むようになったからです。我々神経質者は、認識の誤りをたくさん作りだして自ら苦しみの種を作り出しているようなものです。その最たるものが「かくあるべし」的思考方法です。それ以外にもたくさんあります。その誤りは迷路に入っているようなものですから、自分一人ではなかなか気がつきません。分かりやすい事例を紹介してあげて相手に考えさせるきっかけづくりをすることはとても意味のあることです。セルフヘルプグループ活動の意義が試されるところです。最初は反発をされるかもしれませんが、一つでも二つでも考えるきっかけになれば、その人も改善のために舵を切っていくことができるようになるのです。以上が私が考えている、相手に意欲ややる気の気持ちを芽生えさせる働きかけの一例です。これ以外のことがありましたらぜひ教えてください。
2015.02.15
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本日の投稿で「是非善悪の価値判断の弊害は森田理論の常識である」と書いた。ある方から連絡をいただき、そんな森田理論学習は聞いたことがない。いい加減なことを書かないでほしいとの意見をいただきました。さらに、それが事実ならもっと丁寧に説明すべきではないのかとのご意見でした。そう言われてみれば、確かに森田理論のスタンダードな見解とは言い難い。舌足らずなことを書いて申し訳ありませんでした。深く反省しております。そこで弁解がましいのですが、もう少し説明させてください。森田先生は、治るということの説明をされています。その中に中学卒業程度の治り方について次のように書かれています。「事実から逃げたり、ごまかしたりしないで事実をそのままに認めることができる。このように「事実唯真」の動かすべからざることを知れば、いまさらいやなものを朗らかにしたり、無常を恒常のものに見替えたり、相対を絶対にしたりする不可能な精神葛藤が無くなるから、ただそれだけで非常に安楽である。」つまり自然な感情の事実に対して、その事実を受け入れて、自然に服従していく生き方の重要性を説かれています。ところが治るという意味では、中学の上に大学卒業程度の治り方もあると言われています。「善し悪しとか苦楽とかいう事は、事実と言葉との間に非常な相違がある。この苦楽の評価の拘泥を超越して、ただ現実における、我々の「生命の躍動」そのものになりきって行く事が大学卒業程度のものであろうか。」私はこれこそが是非善悪の価値判断をしない生き方のことを言われていると思います。つまり思想の矛盾を打ち破ることの大切さは中学卒業程度の学習でよく理解できているのです。ところが普段の生活では、問題が発生するとすぐにまた「かくあるべし」に翻弄されてしまうのが現実です。つまり生活の中にしっかりと根付いて、あるがままの生活態度が実践できているわけではないのです。理論はよく分かっているが、生活に応用することは難しいという段階です。ここまでの学習を積み重ねている人は数多くおられます。ところが大学卒業程度となるとぐっと少数になります。これはなぜそうなるのかというと、是非善悪の価値判断をしているからなのです。この部分は森田理論の中でも核心部分にあたると考えています。是非善悪の価値判断は、他と比較することから始まります。比較の対象は3点あります。まず頭の中で考えた理想や完璧な状態と現実のふがいない事実を比較して価値判断しています。次に、他人のよいところと自分の悪いところを比較して価値判断に持ち込んでいます。さらに過去のよかった時のことと現在の悪い状況を比較して価値判断しています。価値判断するに当たっては、よいと判定した考え方を支持しています。悪いと判定した考え方を排除しようとします。さらに悪い方をよい方に変化させようとする傾向にあります。どうにも変化させることができないと、悪い方を批判したり、無視したり、否定してしまいます。私は比較してもよいと思っています。比較して両者の違いをはっきりと認識するだけなら比較することはよいと思うのです。ところが普通は比較だけではすみません。いい悪いと価値判断をするのです。比較だけにとどめて価値判断には持ちこまないというのはとても難しいところです。強い意志が必要です。でもこれを続けていたら、いつまでたっても思想の矛盾の打破は不可能ではないかと思うのです。これは森田理論の核心部分ですが、集談会のなかで、みんなで学習したり議論することはありませんでした。もしよかったらこれを機会に各地の集談会の学習項目として取り上げてみてください。ぜひお願いします。
2015.02.14
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私のところへこんな相談が持ち込まれた。このたび退職される方である。有給休暇をすべて消化してやめようと思い、残日数を調べていると間違って処理されている事に気がついた。取得した有給休暇よりも多く差し引かれていたのである。また有給休暇をとっていないのに二重にひかれている事にも気がついた。そんな月が6月と9月にあった。確かに不思議な現象である。本人は発見するとすぐに会社の出先事務所に電話した。本社の人事部にも電話した。すると次月では修正されていた。だいたい当月の取得した有給休暇を入力すれば、残日数は自動計算で表示されるソフトになっているのではないか。本人は残日数を会社が故意に操作しているとしか思えないという。辞めるにあたっては、今現在勤務している人の今後のこともあるので徹底して会社に原因を追及していくという。納得できる回答を得ない限り引き下がらないと言っている。そこで、会社に確認してみたい疑問点を箇条書きにして私のところに持ってきた。これでよいか見てアドバイスしてほしいというのである。5点ぐらい書いてあった。私はこれを見て、すぐにこれはまずいと思った。1番目にこの処理は出先事務所が間違ったのか、本社が間違ったのか、悪いのはどちらかはっきりさせてほしいとある。つまり自分の憤懣やるかたない気持ちを相手に分からせたいのである。是非善悪の価値判断の弊害は森田では常識である。一般の人はこの点よく分からないのだと思う。こんな質問は具体性に欠ける。またそんなよい悪いの価値判断をして何の意味があるのか。仮に出先事務所が間違えていました。「すみませんでした」と陳謝したとすると話はそれで終わってしまう。相手の思うつぼである。あなたはそれでスッキリするのですか。ますます怒りが増すのではないですか。ではどうすればよいのかと質問された。私は助言した。この質問は削除することである。そして間違った事実関係を明らかにするという姿勢に転換することである。つまり間違った事務処理の経過を明らかにすることである。まず出先事務所では、誰がどういう処理をされたのか。入力作業はパソコンを使っているのか、あるいは紙ベースでされたのか。パソコンでは有給残日数にあたっては自動計算になっていないのか。手入力で修正されているとするとその真意は何か。入力作業後のチェックはどうされていたのか。そのデーターを本社にはどのようにして送られたのか。電送で送られたのか、あるいは宅急便や郵便で送られたのか。次に本社はそのデーターを受け取ってどういう作業をされたのか。パソコンに打ち込まれたデーターは再入力する必要はないと思われる。出先事務所は本社が再入力の際間違えたと言っているが、本当に再入力する必要があるのか。この点明らかにしてもらう必要がある。再入力したとして、地元事務所のデーターをプリントアウトしてそれを見て再入力されたのか。それとも別な方法をとっていたのか。その際有給残日数をわざわざ手入力されているのか。また打ち込みデーターというのは間違い起こる。入力間違いをしないオペレーターはいない。だからチェックリストを出力してデーターが間違っていないか、他の人がチェックしていくのがセオリーである。そういう事はどうされていたのか。以上のように正確な事実関係を追及して原因を明らかにしてゆかれたらどうでしょうか。一人の人にこういう問題があるという事は、他に大勢の人に影響が及んでいる可能性があります。そうなると大変なことです。感情的にならずに、事実のみを明らかにして状況を明らかにしていくことが、双方にとって意味があることではないでしょうか。これは森田理論の言っているとおりです。森田を知らなかったらこんなアドバイスはできなかったでしょう。
2015.02.14
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人間が味わい深い人生を送るためにはどうしたらよいか。そのためには、いつも自分のなすべき課題、夢、目標を持って挑戦することである。前向きに活動している状態を維持していくこと。森田で言う「努力即幸福」の状態を生涯持ち続けることである。そのプロセスについては森田理論が明快に教えてくれている。まず目の前の出来事、現実、事実をよく見る。徹底して観察する。すると自然に感じがでてくる。しだいに感じが高まっていく。つぎに「こうしたいな」という気付きや思いつき、おもわぬ発見、アイデアが湧いてくる。するとしだいに意欲が高まり、やる気に火がついてくる。エネルギーが補充されて、モチュベーションが高まってくる。それに基づいて着実に行動実践を積み重ねていく。その際すべて思い通りにいくとは限らない。行動実践すればするほど、数多くのミスや失敗が起こってくる。そのミスや失敗を糧にして、さらに工夫創意を重ねて前進していく。そういうサイクルで生活を紡いでいくことが一番幸せな生き方となる。まずはこの考え方を整理して頭の中に入れておくこと。ここで一番問題になるのは、目の前の出来事、現実、事実をありのままによく見るということである。ここが一番肝心なことである。またここは心を鬼にしてとり組む必要がある。よくありがちなことは、自分で事実を確かめもしないで、人が言っていたことを真に受けて先入観や思い込みで事実を見てしまう。事実を観察しないですぐに分かったつもりになって、性急に価値判断をしてしまう。そして論理的に飛躍して、マイナス思考、ネガティブ思考に陥ってしまう。そして極めつけは事実を認めないで「かくあるべし」を優先させてしまう。理想や完全主義に陥ってしまうのである。これらは事実をあまりにも安易な態度で取り扱っているのである。出発点からしてすでに大いに間違っているのである。そういう事実軽視の生活態度が神経症に陥る原因となっているのである。神経症に陥らなくても、葛藤や苦悩を産み、他人との軋轢を生じさせている。事実にこだわる。事実こそが神様であるという視点立たないと、その先どんどん間違った方向に進んでしまう。最後には迷路にはまり取り返しのつかないことになる。自分の目の前に現れる不安、恐怖、不快な感情から目をそむけてはならない。よく観察しないといけない。問題になる事態をよく把握する。事実をありのままに認める。事実を受け入れる。決して安易に事実を捻じ曲げてはいけない。自分の都合のよいように捻じ曲げて解釈してもいけない。事実はお金を扱うのと同じように丁寧に取り扱わないといけない。事実をありのままに見ることである。すると葛藤や苦悩のない生活ができるようになります。これは自分だけでなく他人もそういう傾向がある。他人は自分自身ではなかなか真実の事実に気がつかないこともある。認めようとしないこともある。そういう時は正確な事実を教えてあげよう。「私メッセージ」や「純な心」で真実の事実を教えてあげよう。事実から湧きあがった感じから出発できるように援助しよう。その後の相手がどう行動するのかはもう相手に任せるしかない。我々のできることは相手の感じを発生させるためにちょっとした刺激を与えることである。その際自分の是非善悪の価値判断等は全く役に立たないばかりか、相手に多大な迷惑をかけることになる。事実を伝えるだけでいい。森田を学習してその認識を持ってほしいものである。子どもを育てる。部下を指導するという時にこのことは決して避けて通れない考え方であると思う。
2015.02.14
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肉親の死ほどつらいものはありません。子どもや高齢者は、葬儀などのイベントから締め出されることがあります。家族が、子どもや高齢者に対して「死を理解できないだろう」「葬儀などの儀礼に参加することはないだろう」と勝手に思い込んでいるのです。ですが、子どもであろうが高齢者であろうが、たいていは死を理解し悲嘆を味わっています。それにもかかわらず、彼らは「大切な人の死について何も説明されていない」「葬儀に参加させてもらえない」という目に遭い、悲嘆だけでなく孤独や怒りまで負うことになるのです。ある幼稚園児のケースがあります。その男の子は、同居していた祖父が亡くなった時、「この子にはまだ分からないから」という大人たちの判断で、田舎の親戚に預けられ、葬儀に参加することができませんでした。男の子はわけもわからず田舎に行かされ、帰ってくると大好きなおじいちゃんの姿がありません。そこでお母さんに「おじいちゃんはどこ」と尋ねると、「おじいちゃんは長い旅行に出かけてしまったから、しばらくおうちには帰ってこないのよ」と説明されていました。その後、彼は通っている幼稚園で、友達からおじいちゃんのことを聞かれました。教えられたとおり「旅行に行っている」と答えると、ほかの園児から「バカじゃないのか」「おじいちゃんは死んだんだ」「お葬式をやっていたじゃないか」と言われたのです。これに大変ショックを受け、彼は翌日から幼稚園には行きたくないと言いだしました。彼にとって、この体験はただのおじいちゃんとの死別の体験ではすみませんでした。大切なことについて自分に嘘をついた母親の行為によって、母親との信頼関係を失う体験になり、また幼稚園の友達を失う体験にもなったのです。母親が子どもに本当のことを説明し、葬儀にも連れて行っていたとしたら、この子は悲嘆を複雑化させず、自分なりに乗り越えていくことができたでしょう。森田では事実唯真といいます。事実こそが神様です。肉親の死の悲しみからショックを受けて当分悲嘆にくれてイライラすることは当然です。でも死という現実から目をそむけて逃げてしまうという事は、大きな苦悩を引き受けることになるのです。つらくても受け止めていく。そして癒される時間を待つということしかできないのではないでしょうか。そういう過程を経ることによって立ち直る人は立ち直っていくのだと思います。(悲しみの中にいる、あなたへの処方箋 垣添忠生 新潮社より引用)
2015.02.13
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森田に「恐怖突入」という言葉がある。ぶっそうな言葉である。恐怖に耐えて行動・実践しなさいということだろうか。神経症に苦しんでいる時は、行動できないから森田療法を受けているのになんと無茶なことを言うのだろうと思った。あまりにも唐突だ。だから森田理論は厳しすぎると言われるのかもしれない。実は認知行動療法にも同じようなことを言っている。人間は不安や恐怖を感じていても、何回も遭遇するとだんだん慣れてきて不安や恐怖を感じなくなることが分かっています。この理論を応用しているのが認知行動療法の曝露療法です。例えば特急電車に乗れないという人に対してどう治療していくか。症状の段階に応じて徐々に慣れてもらい、不安や恐怖を少なくしていくという方法をとります。まず外出する。次に駅まで行く。切符を買う。付き添いの人と一区間だけ普通電車にのる。一人で一区間だけ普通電車にのる。次に付き添いの人と急行電車に一区間だけのる。自分ひとりだけで乗る。付き添いの人と特急電車にのる。最終目的地まで一人で乗る。行動するにもアシストする人がいて、不安や恐怖の階層を細かく分けて行動を促していく。できなければ、また下の階層に落として根気よくチャレンジしていく。神経症の人に寄り添ったなんと親切なやり方だろうと思う。手とり足とりのやり方である。森田理論学習というのは、そういうことはやらない。考え方の基本を学習していくのだ。そしてやり方は基本的に自分で編み出していくものである。その際他の人の経験はとても役に立つ。でも基本的には自分で実践課題を考えて実践していくのである。ここでの気付き、発見をとても重視している。気付きや発見が感じを高めて、やる気や意欲に火をつけていくのだという考え方をとっている。ですから症状のきつい人は認知行動療法から入って、最終的に森田理論の学習で補強していくのがよいのではないかと思う。認知行動療法だけで治ったというのは危ない。何かのとらわれで容易に再発しやすいと思う。森田を頭に入れて行動してほしいものである。さて、「恐怖突入」というのはもう一つ重要な側面がある。不安や恐怖の中に入り込むということである。自分がとらわれている不安や恐怖と格闘したり、逃避したりすることを止めるということである。はからいを止める。不安や恐怖との闘いを止めて、受け入れていくということである。受け入れて自然に服従していくということである。森田では「あるがまま」「なりきる」ともいう。つまり不安や恐怖の対応の仕方を学んで、間違いのない生活を体得するということの方がとても大事である。「恐怖突入」の主要な側面はこちらではないかと思っている。このブログで繰り返して説明しているとおりである。理論を納得するまで学んで、確実に生活に活かしてほしいものである。
2015.02.12
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前にも書きましたが私は現在マンションの管理人の仕事をしています。その中で月末にその月の仕事の報告を管理会社にFAXするというのがあります。ところが管理会社にはFAXが一台しかないために大変込み合います。なにしろ150名ぐらいの管理人さんがFAXを流しているのです。この前はFAXの前に一時間以上座って送り続けていました。ところが流れません。昼すぎにもまた挑戦して1時間ぐらいしてやっと流れました。大変ストレスがたまります。気の短い管理人さんは管理会社の担当者に「FAXが流れない。なんとかしてくれ」何回も電話をしています。ところがそんなクレームをつけると、目をつけられて次年度契約の更新が不可として判定されることがあるのです。みんなビクビクしているのです。中には午前中だけの勤務の人もいます。その方たちは家に帰るに帰れないという事態に追い込まれます。明日でいいだろうと勝手に判断して帰った人は後から厳しいお叱りの電話が入ります。改善の申し込みは会議などで出されていますが一向に改善されません。この問題に対して私はこう考えています。会社の担当者の方は150名の管理人を統率するということに精一杯なのだろうと思います。管理人は定年退職者が多いのです。そういう人は自己主張が強く、頑固な面があり、一度言い出したら妥協しない面があります。「そんなに文句を言われるのだったらいつでも辞めてやる」というような態度が見え見えです。特に年金を夫婦で十分にもらい、健康維持のために管理人をしているような人はそういうタイプの人が多いように思います。そういう人はわがまま勝手な要求を管理会社に言うことが多いのです。有給休暇も自分勝手に自由気ままにとろうとしています。それも海外旅行などのために何日にもわたってとろうとします。そんな人が多いと代行の段取りができなくなってしまいます。また管理人の中には会社の指示したことを平気で無視する人もいるのです。目に余るお粗末な仕事ぶり、事務処理を繰り返す人がいるのです。ですから管理会社の管理人担当の人もストレスがたまりやすいのです。いきおい管理人を厳しく指導して、仕事に穴をあけないようにするということに神経が集中しています。管理人と対決姿勢をとっている態度が電話を受けただけでよく分かるのです。だからFAXがスムーズに流れているかどうか等という事には神経が行き届かないのだと思います。これは神経症に陥り自分の症状だけに神経を集中している状態とよく似ています。これに精神交互作用が加わるとどつぼにはまってしまいます。この方はまさにそのような状態です。私だったら午前中だけの勤務の人を優先して時間帯を分けてFAXさせたらよいと思うのです。一時間ごとに分けていくとそんなに込み合わなくなると思うのです。でもその人にはそれに気がつくだけの余裕が無くなっているのだと思います。その人に直接言うと反発されたり、無視されることが目に見えていますので、その人がいない会議の席で、会社の管理者に私の案を提案してみようと思います。どうなりますことやら。
2015.02.11
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森田は感じを発生させて、感じを高めていくということを重視しています。そのためには目の前の出来事や事実をよく見つめなさいと言われます。すると自然に感じがでてくると言われます。これが基本です。この点を強化するために、私はさらに次のように考えています。四字熟語に「少欲知足」「吾唯足知」という言葉があります。これは完璧、完全であってはいけない。あまりにも欲をかき過ぎてはいけないということです。欲望はある程度抑制して生活しないといけないということです。食べ物も腹いっぱい食べてはいけない。欲しいものも多少我慢する方がよい。お金も多少不足するくらいがよい。仕事も不満がある方がよい。住むところも冷暖房完備の至れり尽くせりの家でなくてもよい。容姿も二枚目でなくてもよい。少し心配事がある。少し不安がある。少し腹が立つ。もう少し眠たい。少し病気がある。テストでもっとよい点数をとりたい。もう少し楽しみたい。もう少し飲みたい。もう少しゲームをしたい。そういう気持ちを持っていてもよいが、少し抑制して我慢することである。つまり少し不満がある状態がよい。ほどほどがよいと言っているのである。普通は耐えたり我慢できずに欲望を追い求めますので、そういうことができる人は一つの能力を獲得している人です。するとどんなことが起きるか。まず感性や感受性が発生してきて強まります。満ち足りた人が感じないような微妙なことを鋭くキャッチできるようになります。そして課題や目標を持てるようになります。さらに意欲、気力がでてきます。そして困っている人のことを思いやる気持ちも自然に湧いてきます。おいしいものを飽食三昧しているとどんなことが起きるか。血液中に栄養分が充満してきます。すると細菌やウィルスやその他異物を処理する白血球の働きが悪くなるそうです。別にそんなものと闘わなくても、そこら中に食べ物があるので本来の役割を果たそうとしなくなるというのです。このほどほど道という考え方はとても大切だと思います。欲望というのは暴走する特徴がありますので、制御するほうに注意を向けておくことが重要です。行動・実践できるようになると感性・感受性はしだいに高まってきます。
2015.02.11
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アスリートの魂 嘉風をみた。感動した。嘉風は32歳。身長175センチという小柄な体格である。大きな外国人力士から見るととても小さく見える。しかし人気がある。大相撲で最も人気のある力士だそうだ。それは自分の人生と重ねてみるからではなかろうか。年齢も多い、体格もひときわ小さい。でも一歩も引かない。前に出て相手のあごに自分の頭をつけて、まわしを取らせないでスピード勝負の相撲である。相手の身体の大きさに威圧されて、不安や恐怖と闘っている。つい立ち合いで変化したり、引いてしまう自分がいる。勝ち越したいと思う自分がいる。「土俵上では、恐怖心といつも闘っている。でも、そんな"弱い自分"をやっつけてやりたい」嘉風は、昨年夏場所、史上4番目(昭和以降)のスロー出世で三役昇進を果たした。押し相撲で日体大時代にアマチュア横綱、史上2位の早さで幕内昇進。ところが「ケガとの恐怖」から逃げの相撲が多くなり、幕内と十両を往復する日々が8年に渡って続いた。その嘉風を変えたのは、「横綱・大関にならなくていい。記憶に残る力士になれ」という師匠・尾車親方の言葉だった。入門10年目にして原点の「押し相撲」に戻った嘉風。それは諸刃の剣だ。11月の九州場所では、3日目の豊響戦で左太ももを痛め、日本相撲協会に「左大腿四頭筋不全断裂で約1カ月の治療を要する」との診断書を提出した。ところが驚くことに8日目から再出場を果たした。そして迎える初場所。負け越せば十両陥落。なんとか8勝7敗で乗り切った。とりあえず幕内にとどまった。しかしいばらの道が続く。でも一番応援したい力士である。それは「不安、恐怖」があっても、自分の相撲を取ろうとするその姿勢に共感を覚えるからである。
2015.02.10
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森田先生は全集5巻の748ページで次のように言われています。癪にさわるべき事は、大いに癪にさわらなければいけない。何事にも刺激に対して、心の反応の鈍いものにろくなものはない。しかしいくら癪に障ったからといっても、決して八つ当たりをしたり・手を出したりしてはいけない。夫婦喧嘩で口争いをした時でも、不快な腹立ちが急に落ち着くものではない。これを強いて押さえつけようとすると、かえってますます苦しくなり、爆発する危険度が多くなるが、心の自然にまかせて「なんとかしてアイツをやりこめる工夫はないか」といろいろ考えながら、用事をしていると、いつの間にか心は他に転導して、楽な気持ちになっている。つまり我々は、自分の感情を否定し・抑圧することは不可能であるが、感情の自然に従いて、理知でもってこれを調節する工夫をすれば、楽に心の調和が保たれるようになる。森田先生は腹が立った時、その感情を抑えたり我慢したりしてはいけないのだといわれています。しかし軽率に仕返しをしてはいけない。反論したり、暴力に訴えることは幼児のすることと同じである。我々大人は理性があるのだから、怒りを制御しなくてはならない。神経質な人は腹立たしさを抑え込む人が多い。でもストレスはたまっている。それが何回か重なると、わずかなことから他人がびっくりするぐらい大爆発をすることがある。そしてあんな人とは思わなかったといわれるようになる。だから爆発を恐れて当たり障りのないように、耐えたり、我慢して付き合うようになる。森田先生は夫婦喧嘩の時は、腹が立つことがあっても決して顔に出さないようにして、日記帳に無理なこと・自分の不満のことを詳しく書き留めておいて、さらば喧嘩というときに、充分相手をやりこめるだけの材料を集めておいて、予定通りに論争を開始するがよいといわれています。
2015.02.10
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1997年の子供白書を見ると、盛岡市教育研究所が市内の全小中学校から小学校3年と5年、中学3年のそれぞれの1学級を選んで実施したアンケートの調査結果が発表されています。それによると「自分の存在感」の項目で、「生まれなければよかったと思うことがありますか」という質問に、「よくある」「時々ある」と答えた子どもが、小学校3年生で34%、小学校5年生で35%、中学校3年生で38%だったという。「学校が楽しくない」というのは高学年ほど増えて、中学3年生では34%だったという。また、ベネッセ教育研究所が、世界6カ国の大都市に住む小学5年生、約4500人に「あなたは幸せですか」と聞いたところ、「とても幸せ」と答えたのは中国75%、ニュージーランド43%、アメリカ40%、日本はなんと26%だったという。(日本経済新聞1997年1月10日)それから18年経過しているが事態はさらに深刻になっていると思われる。親は子どもたちが欲しいものはなんでも与えている。やりたいことはなんでもやらせている。両親を始め、4人のおじいちゃん、おばあちゃんが至れり尽くせりの世話をしてかわいがっている。それなのにどこに不満があるというのだろうか。その原因がさっぱり分からないというのが実情ではないだろうか。その原因を精神科医町澤静夫は明快に説明している。子どもを甘やかせて過保護に育てているのがその原因だ言う。家庭で王子様、女王様として育てられた子どもは「世界は自分を中心にして回っている」と思っています。今や家族の中での最高権力者として君臨しています。しかし外へ出てみると「ただの人」でしかありません。「ただの人」は外の世界では極めて脆弱です。そのため、外では彼らはひたすら自分が傷つかないように、相手も傷つけないようにふるまうのです。子どもたちにとって対人関係は実に疲れる仕事になっているのです。友人との接触は極めて少なく、家庭内では母親との接触が異様に長くなる「母子密着」という現象。やさしい母親のもとで惰眠をむさぼり、わがままかつ自由気ままに過保護な生活を満喫する日々。その代償として、独立心や他者への共感、感情のコントロールといったものが徐々に失われているのです。それは生きる力を奪い取るほどの深刻さを秘めていました。生きる力や野心、好奇心や独立心を喪失し、社会に出るのは嫌だ、会社は嫌だ、大人になるのは嫌だという虚無感が蔓延し、彼らは成熟を拒否するのです。「どうせ生きていてもつまらない」「ぼくは1個の石ころと同じである」心の中ではそう思っているのに、一方家の中では途方もなく高い自尊心を持っています。自分は能力がある。なんでも自由にできる筈だという万能感を持っています。この内と外との落差が、彼らの満たされない葛藤の根源にあります。子どもが外でも自尊心を守るためには「偏差値」を中心とした学力を獲得することが必要です。多様な個性は評価されず、判断となる価値観は偏差値だけといってもよいでしょう。少しでも偏差値街道から外れると、彼らは自分を呪い、家族を呪い、世の中を呪うという、果てしのない、地獄のような状態に陥るはめになっているのです。自己否定で引きこもり、家庭内暴力、社会的凶悪事件の温床となっています。アメリカでは児童虐待、性的虐待、ネグレクトが問題になっています。日本では過干渉と過保護が問題になっています。過干渉は自分の意志を持たずに周囲の顔色ばかり気にする子どもを作り出しています。生きることは苦しみ以外の何物でもありません。過保護というのは、子どもの自主的な能力を摘み、発明や新しい発見をしたり物を創るという子どもらしい喜びを奪うものです。過保護は子どもの生きる能力を奪うという意味で、親の精神的「虐待」だと思います。この解決の手がかりとして森田理論学習があると思います。森田は神経症を克服するだけでなく、子育てにも十分に対応できる考え方を含んでいると思います。(佐賀バスジャック事件の警告 町澤静夫 マガジンハウス参照)
2015.02.09
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事実を事実のままに受け入れるというのは簡単なようでとても難しい。2000年5月3日に起きた佐賀県の少年の起こしたバスジャック事件で見てみよう。参考にするのは精神科医師町澤静夫氏の「佐賀バスジャック事件の警告」である。この事件は国立肥前療養所に入院していた少年が外泊中に起こした事件でした。病院側の記者会見にはこの主治医は現れなかった。院長や局長が一般的な説明しただけだった。したがって病気の診断や治療内容の詳しい説明はなされなかった。この少年は両親の証言などから妄想や幻覚症状があるということが分かるが、これは見逃されていた可能性がある。他人を傷つけたいという妄想や幻覚があるのに、外泊許可ははたして妥当であったのだろうか。つまり医療ミスの可能性があったのである。主治医はプライバシィーの保護という名目でマスコミからも逃げ回っていたのである。つまり事実を白日のもとにさらすというのは隠し通されたのである。警察は、「家族から子どもを病院に運んでほしいとの要請を受けて、ただちに出向いた」といっている。これはうそである。警察は民事不介入のもとで、たび重なる出動要請にもかかわらず、全く動いてくれようとはしませんでした。相談を受けていた町澤医師が警察に電話して、「家族が要請しているに何もしないでいると、新潟の少女監禁事件のように警察が非難されることになりますよ」といって初めて重い腰を上げたというのが真相である。つまり警察も事実を捻じ曲げて自分たちの有利な証言をしていたのである。マスコミは「強引に入院させたから子どもが怒り、バスジャクを起こし、人が殺された。あの入院は間違いだった」と書いた。この論調はおそらく警察からのリーク、世論誘導によって出てきたものと思われる。実態はこの少年は、入院前には中学校を襲って何人かを殺すことを計画していたのである。入院していなかったら中学校襲撃事件を起こしていた可能性が高かったのである。自分たちで事実を確かめもせずに利害関係者から聞いたことを事実として公開しているのである。次に学校や教育委員会の対応である。この少年はいじめを受けていた。中学3年の時、同級生から「筆箱を返してほしいなら踊り場から飛び降りてみろ」と言われて、実際に飛び下りている。その時第一腰脊椎圧迫骨折と診断されて入院している。でも本人は、なぜだか先生には「いじめはありません」と答えている。校長や教育委員会は、その言葉を真に受けている。言葉はいい加減なものである。だから実際に調査して事実を確かめないといけない。取材に答えて「いじめは全くなかった」と答えている。しかもその後、いじめはなかったということで全校の意思を統一させています。子どもたちに「いじめはなかったといえ」と指導する担任の先生。先生に「いじめはなかった」といわせる校長。学校にそう言わせる教育委員会。そして裁判になって初めていじめの存在を認めるのです。それだったら最初から事実を確かめて、事実を認めてしまえばよいのではないか。事実を隠して弁解をする。するとどこかにほころびが見えてくる。するとそれを隠すためにさらに言い訳をする。でも隠しているといつかそれがばれてしまうのではないかとびくびくする。後ろめたいのである。針のむしろに座らされているようなものである。注意の大半がそのことに向けられて、他のことがおろそかになる。事実を素直に認めないで自己保身をしているとどんどんと悪循環のサイクルにはまり込んでしまう。不快な事実、不安や恐怖を認めることは苦しいことです。でもその苦しみは一瞬です。しかし隠したり逃げたりしていると、苦しみだけではすみません。その後ずっと続きます。そして葛藤や苦悩に変わっていくのです。生き地獄とはこのことです。事実を事実のままに認めるということはとても難しい。その自覚を持つことが重要です。
2015.02.08
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日本人は外国人に比べるともともと感受性が豊かである。それは芭蕉等の俳句を口ずさめばすぐに分かる。「閑さや 岩にしみいる 蝉の声」芭蕉は山寺の山上に立ち、眼下にうねる緑の大地を見わたした。頭上には梅雨明けの大空がはてしなくつづいています。そこで蝉の声を聞いているうちに芭蕉は広大な天地に満ちる「閑さ」を感じとった。このように「閑さ」とは現実の静けさではなく、現実のかなたに広がる天地の、いいかえると宇宙の「閑さ」なのです。梅雨の雲が吹きはらわれて夏の青空が広がるように、突然、蝉の鳴きしきる現実の向こうから深閑と静まりかえる宇宙が姿を現わしたというわけです。この句に触発されて、私たちも淡々と変化流転している宇宙を感じとっている。さらに人間と自然との関わり方にまで連想させるのである。このように日本人は、わずかな自然の動きに感動します。秋の虫の音色、春の蛙の合唱、さわやかな風、しんしんと降る雪、草花の芽吹き、むせかえるの夏等からどんどん感じを膨らませていく能力を持っています。これは一事が万事そうなのです。例えば木こりの人は、木にさわっただけでその木が健康なのか病気かが分かったと言います。陶芸をやる人は土に命があると言います。漆喰塗の職人さんは、漆は呼吸をしていると言います。鍛治屋さんは、鉄は生きていると言われます。その自然感応力には驚かされます。こうした豊かな感受性を多かれ少なかれ日本人は持っています。基本的に欧米人、中国や韓国の人はそういう感受性はあまりないようです。秋の虫の音を聞くとあのノイズはなんとかならないのかというそうです。田舎で春になって蛙が鳴き出すと気味悪がるというのです。外国人は風流とかもののあわれを感じる力がもともと備わっていないのです。持っていても希薄なのです。この感性や感受性が強いということは、もう一面では過度な心配性ということでもあります。心配性にとらわれて、不安をなくそうとすると神経症に陥ります。日本人は対人緊張が強い人が多いというのは、この感受性がマイナスに作用しているのだと思います。でもこれは日本人のすぐれた特徴として、しっかりと認識する必要があるのではないでしょうか。これを活かしていくより我々を活かす道はない。感受性が強いと人の気持ちもよく分かります。また仕事、家事、子育て、学習の課題や問題点にもよく気がつきます。気付くというのは一つの能力です。気づきは感じを高めてやる気や意欲を産みます。それらを行動や実践に結びつけてゆくと、さらに感じが高まり成長発展することができます。ですから、自分たちが生活していく上において、存分に活かしていく必要があるのではないでしょうか。
2015.02.07
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ハワイにホ・オポノポノというのがあります。これは森田理論の「かくあるべし」を少なくしていく考え方によく似ています。ホ・オポノポノの考え方は、我々の潜在意識の中の「記憶」が私たちの生き方をゆがめているといっています。先入観、決めつけ、マイナス思考、ネガティブ思考、かくあるべし等は、記憶をもとにして、私たちの行動、生き方に反映され、数々の障害、苦悩を産みだしていると考えているのです。このような障害や苦悩を生み出す潜在意識の中の記憶を消去することを、ホ・オポノポノではクリーニングと呼んでいます。記憶を消去することにより、本来のあり方、生き方を取り戻し、無限の自由、豊かさ、幸せを手に入れることができるのです。その方法として4つの言葉を大切にしています。ありがとう、ごめんなさい、許してください、愛しています。これらの言葉で潜在意識の中の記憶に感謝して、心の中の内なる気持ちに耳を傾けようと言っているのです。これは内観療法の「身しらべ」によく似ています。相手にしてもらったこと、してあげたこと、迷惑をかけたことを身近な人から振り返ってみるのです。すると自己中心的な考えをしていることに気づき、自然に感謝の念がでてくるといいます。またホ・オポノポノは森田の核心部分のことをとり扱っています。今一度整理してみましょう。森田では私たちはいろんな認識の誤りを身につけてきました。その最たるものが「かくあるべし」的思考方法だといいます。森田理論ではその認識の誤りを森田学習によって自覚してゆきましょう。そして「かくあるべし」を少なくしてゆきましようといっています。どうすればよいのか。不快な出来事が目の前にあるとします。普通は今までの記憶をもとにして、即座に良い悪いといった価値判断をして対応しているのです。判断が正しければ良いのですが、間違っていれば問題はどんどん大きくなってきます。森田では是非善悪の価値判断をする前になすべきことがありますよといっています。それは目の前の出来事をよく観察することです。事態をよく把握することです。そして価値判断をしないで事実を丸ごと認めることです。他人に伝える場合は、価値判断した考えを話すのではなく、事実そのものを伝えていくことです。私メッセージ、純な心というのはそういうことです。その上で将来に展望が開けるもの、相手の役に立つことは積極的に行動・実践してゆきましょう。それ以外のものは事実を受け入れてゆきましょう。事実に服従して生きていきましょうと言っているのです。「かくあるべし」を少なくしていくことは、その流れを生活態度として体得していくことだと思います。
2015.02.06
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昭和39年の東京オリンピックで日本女子バレーチームが優勝した。その陰には大松博文監督がいた。強力なリーダーシップで選手を引っ張っていった。「俺についてこい」が口癖であった。これは社会の象徴であった。当時日本は経済成長の真っただ中にあり、強力に社員たちを鼓舞していく経営者が多かった。強いリーダーシップを持ったカリスマ経営者が数多くいた。社員に求められたのは誠実で口答えをしないで努力する人である。そういう社員を終身雇用で守っていったのである。管理職の仕事は、部下を管理することでした。命令や指示を下して、部下がそれに忠実に従って会社のために尽くすことが求められていたのです。しかし現在こういうやり方では、会社が立ちゆかなくなってきた。変化のスピードが速く、一人ひとりの欲望が多様化してきたからである。このやり方は森田でいえば、管理者が部下に対して「かくあるべし」を押し付けるやり方です。現在うまくいっている会社は、社員一人一人が仕事を通じて問題点や課題を見つけて、自ら意欲を燃やして仕事に取り組んでいる会社である。仕事を生活の糧を得るだけではなく、仕事に生きがいを持てている社員を数多く作り出している会社である。そういう会社は社会の変化を感じとる力がある。今や顧客の要望、好み、ライフスタイルは多方面に変化してきた。その変化に対応できないと会社は生き残ることは難しい。会社は生き物である。変化を嫌い旧態依然した経営を続ける会社の寿命は30年といわれる。5年ごとに仕事の内容、仕事のやり方、仕事に携わっている人の3分の1が変わっていなければ、企業は衰退していくという人もいます。そういう意味では、管理者のマネージメントの仕事は依然として大切ではあるが、それだけではダメということである。指示、命令、叱責、非難で部下を鼓舞するやり方は古いやり方である。今は、社員一人一人をよく観察して、その能力を見極めて、その能力に応じて課題や問題点を目の前に提示していく。社員一人一人が自ら気付き、発見、アイデアを持てるような指導をすることである。つまり意欲ややる気を引き出していくことである。今や指導方法はオーダーメイドなのである。大勢の社員がモチュベーションを高めている「情熱企業」といわれる会社は強い。今のスポーツにおけるコーチの役割というのは、こういう方法がとられている。テニスの杉山愛さんのコーチだったお母さん曰く。「選手の資質、才能の全部、もしくはそれ以上に引き出すことができたコーチが一流なコーチです」つまり刺激を与えて、自分で自己変革できる選手を育てることなのだ。選手は一人ひとり、資質、才能、能力は違うので画一的な指導はできない。また自分の成功体験を押し付けても選手は伸びてこない。コーチの役割は、選手個人、個人の技術力、身体体力、精神体力、人間力をあげることである。これらすべてにわたってサポートできるコーチはなかなかいない。一人でできない場合はテクニカルコーチ、トレーニングコーチ、メンタルコーチ、生活や人間関係の基本を教えるコーチを組み合わせる必要がある。偏るといつか行き詰まりを起こす。総合的にコーチできないと選手は成長してこないのである。スポーツではよく心、技、体といわれる。それに思いやりを加えて4つをバランスよく成長させることだ。この考え方は部下を持っている上司、子どもを育てている親は是非とも考慮して欲しいことである。
2015.02.05
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2015年1月号の生活の発見誌に「治るとはどういうことか」の記事がある。ここで症状ははたして行動によって乗り越えられるかということが書いてある。中高年になって症状が再発したり、うつ状態に陥る人がいる。再びとらわれが発生すると完治は難しい。というのは、かつて行動や実践によって乗り越えた経験はこの時ほとんど役に立たない。自分で自分の足を引っ張る。前のように行動中心の解決を目指しても、たいていそれは通用しない。ゆえに自信を失い、うつ状態に取りつかれる。自分なりに頑張ってみるがうまくいかない。いよいよ葛藤や挫折感が強くなる。実は私がこのパターンだった。最悪期は会社を辞めたい。人間を止めたい。その考えに取りつかれていた。そこで精神科にかかりながら、集談会に参加して先輩会員に励まされながら森田理論を学んでいった。一番役に立ったのは実践課題の設定と取り組みであった。1年もするとたちまち軌道にのってきた。人に役に立つ仕事や役割を果たすことができるようになった。やればできるが自信に変わってきた。それとともに最悪期は脱することができた。でも後から考えると、これは蟻地獄から地上に這い出ただけであった。というのは、対人緊張は依然として強いものがあった。会社でも家庭でもそれに振り回されていた。依然として苦しかったのである。それがその後20年あまりも続いていたのである。森田ですぐによくなると思っていたのにあてが外れたのである。その段階では森田の限界を感じていた。森田はダメだなと感じていた。私のまわりでもそういう人が実に多かった。その人たちは早々と「生活の発見会」から離れていった。入会も退会も自由にできたからだ。私は世話活動をしていたため、多くの友達ができた。だから森田の限界を意識していたにもかかわらず発見会にとどまっていた。今となってはこれが幸いした。森田の問題や課題をなんとかしたいという気持ちを抱えていたからだ。それが一挙に解決する時がきた。新版森田理論学習の要点等を参考にして、試行錯誤の末に自分なりの「森田理論全体像」を自分で作り上げた時だった。これが森田理論の奥深さ、素晴らしさに目覚めた時だった。森田を生涯学習としてやってみよう。森田を分かりやすく伝えていこうと思った。ここで治るということは大きく分けて、少なくとも2つの視点が必要であると思った。一つは不安を活用しながら「生の欲望の発揮」に沿った生き方を踏襲すること。これは森田理論の土台となります。行動・実践の重要性はここのところを言っています。もう一つは認識の誤りを自覚すること。認識の誤りは多方面に及んでいます。その中でも特に「かくあるべし」的思考を少なくして、事実を受け入れて、服従して生きていく態度を身につけるということでした。最初の方は、症状をまずは横において「なすべきをなす」ということである。これはなんとか一人でも実行可能である。二番目は厄介である。自覚するといっても、自分のことを客観視することができないので、問題点や課題が明確にならないのである。自覚が深まらないと次に進むことができない。本を読んで自覚が深まる人もあるでしょう。でも長い人生を生きてきて、自分にしっかりと住みついた「かくあるべし」をひっくり返すということは並大抵のことではありません。人から指摘してもらったり、森田理論を集団学習する中で、自分自身で気付いたり、発見するということの方がまだ有効性があります。つまり集団学習の中でしか、なかなか自覚は進まないと思っています。でも自覚できるようになると、やっとその方向に舵を切っていくことができます。それが可能になると、人間が生きるということはどういうことなのか、はっきりと分かるようになると思います。
2015.02.04
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日本語に「もったいない」という言葉があります。英語にはこれにあたる言葉はありません。平成2005年3月、ノーベル平和賞の受賞者であるケニアのワンガリ・マータイさんが環境保全の合言葉として紹介して有名になりました。マータイさんは、消費の削減、リサイクル、物を丸ごとすべてを利用する、使い捨ての見直しなどを提唱されています。物を粗末に扱ってはいけない。有効に活かして使いましょうということです。人間が自然破壊や環境破壊を繰り返している。このままでは地球全体が破滅してしまうので警鐘を鳴らされているのです。現代社会では「消費は美徳」といわれます。そうしないと経済が成り立たない。経済が成り立たないと食べていくことができない。今や全人類は経済を維持し拡大するのが善だという亡霊に取りつかれています。その現れとして、大量消費、消費の拡大、使い捨て、短いサイクルでの買い変えが進められています。その方向は当然自然破壊、環境破壊、大量のゴミの投棄が加速度を増して問題となっています。その方向は人類を破滅させかねないので、「もったいない」という考え方を持ちだしてきているものと思われます。これは森田の「物の性を尽くす」ということとよく似ています。でも森田の言っている事はもっと深い意味があると思います。森田では、物にはそれぞれ存在価値がある。その存在価値を評価して、存在価値をどんどん高めて活用し尽くすことを言っています。そして、他人や世の中に役立たせることを言っています。大切なのは、資源や物だけではなく、自分自身、他人、時間、お金等すべてに及んでいます。森田に「唯我独尊」という言葉があります。我々が自分の本性を認めて、これを礼賛し、ますますこれを発揮し、どこまでもこれを向上させていこうとする態度のことを言います。これは「物の性を尽くす」ことと同じ意味です。究極のところ、森田では人間の本来の生き方を問うているのだと思います。「もったいない」から資源を大切に、環境が破壊されるから消費を抑えましょうと言っているのではありません。人間の生き方そのものに迫っているのです。森田理論の土台は「生の欲望の発揮」です。自分の置かれた境遇のもとで、自分に元々備わっている能力と存在価値を活用して精一杯に努力していく。その努力の過程に幸せがある。それが、人間が生きるということだ。そのためには、なんとしても自分の存在価値に磨きをかけて、成長させて、活かしきるという生活態度が欠かせない。この視点から出てきた言葉だと思います。欧米には「神は大自然の管理者として人間を選んだ」という思い上がった考え方が根底にあります。もともと自然との調和という考え方はありません。自然は対立する相手であり、征服すべき存在なのです。だから欧米人はこの点ではあまりあてにはなりません。日本人はもともと自然と調和する考え方を持っていましたが、残念なことに欧米の考え方が徐々に浸食してきました。森田を学習している人は、この点警鐘を鳴らしていく役割を果たしてゆかなければならないのではないでしょうか。
2015.02.03
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意欲とかやる気、モチュベーションの高まりはどうしたら出てくるのか。この点森田理論での説明は明快です。本来人間の行動は、まずそのきっかけとなる外部の出来事があり、次にそれに対して感情が湧いてきて、最終的に意欲ややる気に火がついて、自主的、積極的な行動へとつながります。たとえば、火事になった時のことを考えてみてください。建物の中にいると火災や煙で身の危険を感じます。そこで急いで脱出という流れになります。また、「腹がへった」という出来ごとに対して、「ご飯をたべたい」という欲求が湧いてきます。それから「食事を作るか食べに行く」という行動につながります。つまり「食べる」という行動には「腹が減った」という動機が関わっています。でも動機が直接的に行動へと結びついているわけではありません。あくまでも「ご飯を食べたい」という「自分の感情の発生や高まり、意志の力」が介在しているのです。ここで注目していただきたいのは、人間が生きていく上において、「動機の発生」、「感情の高まり」は、やる気や意欲の発生にとても重要な役割を果たしているということです。意欲的、自主的、積極的、創造的行動においては、必要不可欠なものといえます。「かくあるべし」でこうしなさい、ああしなさいと他人からの指示を受けて行動するということは、「動機の発生」もない、「感情や意志の発生もない状態」で、いきなり「行動を押し付けられる」ということになります。これではやる気や意欲に火をつけることはできません。最近コーチングの重要性がよく叫ばれます。テニスの錦織圭選手がマイケルチャンコーチの指導を受けて、なかなか破れなかったトップテンを果たしました。現在の世界ランキングは5位です。上背で見劣りのする錦織選手の活躍は痛快です。マイケルチャンコーチは、錦織選手のメンタルサポートを重視しました。つまりこんな言葉をかけて錦織選手を刺激し続けました。格上の選手のプレーを羨望のまなざしで見ていてはたして試合で勝てると思いますか。体格のよい選手と同じようにコートの後ろに構えていて互角の勝負ができますか。つまり錦織選手に刺激を与えて自ら考えさせたのです。その結果、自ら現状を変革するアイデアを錦織選手が考え出してきたのです。意欲ややる気に火がついたのです。これは森田理論の教えている通りだと思います。
2015.02.02
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普通の人は理想と現実、他人と自分、昔と現在を比較しています。比較するだけなら良いのです。現実をよく観察してその違いをしっかりと自覚することになるのですから。でも人間は比較すると同時に理想、他人、昔の方が良くて、現実、自分、現在の方が良くないと勝手に判断する傾向があります。判断するだけならまだよいのです。問題はこの先にあります。良くない現実、自分、現在の状況を良いと判定した理想、他人、昔に変えようとするのです。今すぐに変えないと気分がすっきりしないのです。その際自分の存在価値は無視しています。利用価値、経済価値、評価価値という物差しで推し量っているのです。これらが神経症の悩み、苦悩を作り出しているということは皆さんよく学習されていると思います。このような悩みを全く感じない人がいます。それは幼児と認知症にかかっている人です。それは「かくあるべし」という考えがもともとないからです。また他人と比較することがないからです。昔のことと比べようにも経験や記憶がないのです。つまり脳の記憶の機能低下が起きている、あるいは経験不足によって記憶の蓄積がないのです。つまり今現在を理想、他人、昔と比較することができないのです。比較しないから良い悪いの是非善悪の価値判断はしないのです。世間常識に振り回されることはありません。あるのは今現在だけなのです。その時々の欲望、思いつきで衝動的な言動をすることになります。理性が全く働かないので問題行動が多くなります。でもここで参考になることは、今現在になりきって生きていくと苦悩や葛藤からは解放されるということです。我々大人は、あまりにも今現在をおろそかにしています。観念や他人、過去のしがらみに振り回されて、自分で勝手に苦の種を作り出して、自作自演の苦の人生を演じているのです。そこで森田理論の出番です。ここから抜け出るには、良い悪いの是非善悪の価値判断はしないという態度を身につけることです。当然「かくあるべし」ではなく、現実、現状、事実本位の態度になります。他人と比較するのではなく、自分の存在価値を見極めて活かしていくことになります。昔を懐古するのではなく、今現在を大切にして生きていくことになります。これを森田理論学習が教えてくれているのです。
2015.02.01
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