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私はユーモア小話などの収集の趣味がある。2014年5月4日、5日、11月2日投稿文も併せてお読みください。最近集めたコレクションを紹介しよう。全然泳げなかった77歳のおばあさんが、急にスイミングスクールに通いだした。コーチがわけを尋ねると、「三途の川を泳いで渡りたいから」という。5m、10m、30mとどんどん泳げるようになって、とうとう200mまで泳げるようになった。すると、お嫁さんがすっ飛んできて、コーチに頼んだ。「お願いですから、ターンは教えないでください。」子どもと父親の会話父親 成績表を見ると、お前は「行為」がDで、「礼儀」がAなのだが、一体これはどういうことかね。子供 友達を蹴飛ばすたびにすぐに謝ってるってこと。荒海で船が沈み、みんな救命ボートに乗り移ろうとした。大勢の為全員乗りこめない。船長が指揮をとり、若い男性に救命着をつけて海に飛び込んでもらうことにした。船長はそれぞれの国にふさわしい言い方を工夫した。イギリス人には「あなたは紳士ですね」という。「もちろんです」といって飛び込む。ドイツ人には「船長の命令に従え」といえば黙って飛び込む。アメリカ人には「生命保険を沢山かけたよ」と言うと飛び込む。イタリア人には「飛び込んではいけないよ」と言うと飛び込む。イタリア人は権威が嫌いで、御上の命令に従うのは大嫌いだからだ。さて、日本人には、目立たないように耳元で「皆さまが飛び込んでいらっしゃいますよ」と言えば飛び込む。次にクイズ。白豆と黒豆を一緒に炊きました。炊きあがったら、白豆と黒豆をバッと2つに分けることができました。どうしてでしょう。答え 白豆と黒豆は一粒ずつだった。マンションの10階の窓から飛び降りました。怪我もせず、命も無事でした。どうしてでしょう。答え 窓の外へ飛んだのではなく、家の中に飛んだ続いて面白い川柳。厨房で チンと音する レストラン骨粗鬆 文字は意外と つまってるお転婆に 婆が転ぶは ないだろう鄙びてる じっくり見れば 寂れてる患者より 顔色悪い 夜勤明け非番の日 「看護婦さん」と 母が呼ぶ感染に とらわれすぎて 風邪をひく何にでも 効く温泉で 風邪をひき痴呆介護 「ボケたくないね」と 言う患者徘徊を 訓練中と 言う患者脳外科に 頭切れない 医者がいる目薬を アーンして待つ 患者さん停滞で 前の車の 子をあやす朝寝して 宵寝するまで 昼寝する時々起きて 居眠りをする(ベットサイドのユーモア学 柏木哲夫 MCメディカ出版より引用)
2015.04.30
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私はおじいさん子であった。小さい頃はおじいさんの後ばかりをついて回っていた。またおじいさんは私をよく可愛がってくれた。今も懐かしく思い出すことがある。そのおじいさんは炭焼きの名人であった。いつも上等の炭を焼いていた。炭を焼くには山をきれいに掃除する。小枝は火を焚くときに使う。余った小枝は家に持って帰って風呂の焚きつけやかまどで使うのだ。背中に背負わされて山道をかけ下りたことを思い出す。炭窯は土で作られていた。後ろの方にブリキの煙突があった。その窯の中に適当に切られたクヌギのような木をきれいに並べていた。並べ終わると、入口のところで火を焚くのだ。火を絶やさないように3日ぐらい燃やし続ける。おじいさんはその間炭焼き小屋に寝泊まりしていた。3日ぐらい経つと煙の色が変わってくると言っていた。最初は黄色い煙が出る。そのうち青い色に変わるとそろそろ火をとめるころあいだ。火をとめて窯に泥土を塗りたくって、酸素を断つのだ。そのままにして一晩置くのである。口で言うのは簡単だが、ここは経験と勘がものをいうところだ。泥土を塗りたくるのが早すぎると生焼けになって炭にはならない。反対に遅すぎると焼けてしまって灰になるのだ。おじいさんはそのタイミングを計るのが上手だったのだ。近所の人がおじいさんによく相談に来ていた。おじいさんは仕事の合間には遊び相手になってくれた。木の名前、山に咲く花、松茸の生えるシロの場所も教えてくれた。食べられるきのこ、木の芽や実も教えてくれた。木を使っておもちゃも作ってくれた。みかん箱にタイヤもどきに丸太を4つつけた車は大のお気に入りだった。大きな枝ぶりの木にブランコもかけてくれた。昼にはよく焼きおにぎりやあんこ入りの餅を焼いてくれた。小枝で作った箸も作ってくれた。山で食べるご飯はとても楽しみであった。山にはよくヘビがいたがおじいさんは平気だった。マムシがいると喜んでとっていた。精力増強になるといっていた。家に持ち帰り藁ぶき屋根に何匹も串ざきにしているので気持ちが悪かった。今考えるとおじいさんの毎日の生活は遊びみたいなものだったのかもしれない。実際やることなすことがイヤイヤする仕事ではなく、遊びのようなものだった。家族の生活に必要なことを楽しみながらこなしていたのである。92歳で亡くなる数日前までこんな調子であった。私はそのおじいさんの血を引いているのだと思うと誇らしく思うことがある。
2015.04.29
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森田先生は「人生の目的は、限りない進化発展であり、その目的に達する方法手段は努力である。従って、人生の目的は努力ということができ、人生の実際もこの努力である。そして、生物はみな快を求め、不快を避けようとして機能を発揮している。これが努力である。」(「恋愛の心理」より)運命はただ耐え忍ぶばかりがよいのではなく「生の欲望(向上発展欲)」に乗りきって、粘り強く、切り開いていくものである、という森田療法の根底に流れている教えを貫徹することが大切である。直す必要のない神経質の症状を、何としてでも治さなければならないと、無駄にエネルギー(時間とお金、気力と体力、等)を使い果たして、人生をむなしく過ごしてしまうのではなく、せっかく人として生まれたのだから、二度とないあなたの人生がかけがえのないものとなるよう生命を燃やし、少しでもよいから世のため人のためになるような活動ができ、日々の生活がさらに充実し、具体的・建設的に進んでいくように努めていきましょう。(生活の発見誌26年10月号の61ページより引用)どちらも生の欲望に沿って生きていくことの重要性が述べられています。この「生の欲望の発揮」を無視しているとどうなるのか。まず意識や注意が外に向かわずに内へ向いてきます。いわゆる自己内省してきます。そして課題や問題点、夢や目標に向かって努力している人をあこがれを持って眺めるようになります。イチロー選手、黒田博樹投手、錦織圭選手などです。その人たちを参考にして自分も努力精進して成長したいという気持ちはほとんど湧いてきません。むしろその人たちと比較して自己嫌悪、自己否定で自分の存在自体を許せなくなってしまうのです。次にカリスマ的な強いリーダーの登場を待つようになります。自分のアイデンティティを確立していない。自分の進むべき道を確立していないので、そういうリーダーのもとに引き寄せられてしまうのです。リーダーの取り巻きとなり、リーダーの指示通りに行動するようになります。自分の意志や主体性はないのです。そういう仲間集団に所属していないと不安で仕方なくなるのです。リーダーは人格者ばかりとは限りません。ヒットラーのような独裁者の後についていくと自分の人生はめちゃくちゃにされてしまいます。最後に、そういう人たちが寄り集まって共通の攻撃対象を作り上げていくのです。学校でいえば、その場の空気を読んでまとめ上げるリーダー的役割を持った人のまわりに人が集まります。リーダーとその取り巻き集団ができます。子どもたちはどうにかしてその仲間に加わろうと努力します。孤立することは耐えられないからです。でもどうしてもその場の空気を読めないで、自分勝手な行動をとる子供がでてきます。当然仲間に入れてくれません。みんなでその子どもを無視したり、あからさまに排除しようとします。一匹狼的に生きていけるような人は問題はありません。問題は孤独で一人ぼっちにされた子どもたちです。仲間に溶け込めない子どもたちです。こうなるとすぐに学校に行けなくなり、不登校につながります。仲間に加わっている子供も何かのきっかけでいつ排除されるかもしれないので、気を抜くことはできません。こうしてみんなびくびくしながら、人の思惑に右往左往する人間になっていくのです。森田理論ではこの「生の欲望の発揮」ということをことさら重要視しています。日常生活を丁寧に規則正しくすることから、目標や夢を持つことまで実に幅広いことを言っています。ここが森田理論の土台部分となります。
2015.04.29
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今の日本の社会は、1億総対人恐怖症の様相を示していないだろうか。人の思惑がいつも気になる。他人の言動に鋭く反応してしまう。特に自分のことを非難されたり、無視されることには耐えられない。いつもピリピリ、オドオドしてしまう。そんな自分が情けない。心はいつも曇天、あるいは暴風雨の状態である。対人関係を無難にこなしていくことが頭の中の大半を占めている。生きていくことが苦しい。毎日地獄のようだ。なんとか抜け出したいが、どうしたよいのか。皆目見当がつかない。どうしてそんなことになるのか。その原因を探ってみた。まず、明確な課題や目標、夢や希望を持ち得ていないことがあげられる。高度経済成長時は車が欲しい、家電が欲しい、家を建てたい等の夢や目標があった。現在はほとんど欲しいものは買いそろえた。そこで新たな目標の設定が必要になった。だが物質的豊かさの次の目標設定はなかなか難しいのかうまくできていないようだ。つぎは心の豊かさの追求に向かって方向転換してゆくべきだという人は多いいが、明確な目標とはなりえていないようである。つまり現代は生きる目標の喪失時代と言えないだろうか。そういう時代は、本来前に前進するエネルギーが不完全燃焼して、右往左往して閉塞状態に陥っている。そこには自分の夢や希望などはない。課題や目標達成という意欲もわいてこない。きわどく人間関係という障害物をかわしながらなんとか生きているけなげな姿がある。アフリカのサバンナの草食動物たちが肉食獣の餌食になることを気にしながらなんとか1日を生き抜いているようなものだ。これではいかにも苦しい。第2に家庭教育、学校教育、社会教育の弊害である。最近の教育は没個性化、均一化、同質化、平均化、平等化を前面に押し出している。抜けがして勝手な自由行動は許されないのである。その場の空気を読んで、相手に合わせることが求められる。4月26日で投稿した事例がそのことを物語っている。日本は、国民皆年金、国民皆医療、介護保険、生活保護などのセーフティネットを張っている。弱者を放置すると大混乱するから、最低限の生活は国が保証しているのである。アメリカ等ではこれらは自己責任の自助努力に任せられていることが多い。私はセーフティネットを批判しているのではない。その考え方について説明しているのだ。最低限の生活を保障するということは、落ちこぼれを可能な限り救済するということである。つまり同質化、均一化の考え方が土台として確立しているということである。私はその考え方が突出して、突っ走ってしまうことに警鐘を鳴らしたいのである。つまり前提として、その人のもともと持っている特性や個性を引き出して全面的に花開かしていくという考え方が先にくるべきではないのかということを訴えたいのである。自分の長所、能力、個性を活かして、失敗やミスを繰り返しながら、自由に伸び伸びと挑戦したり、自由に行動することを推し進めない社会は問題がある。自分のキャラクターをうまくアピールして、相手と話を合わせ、その場の空気を読んで、人づきあいの上手な社交的な子供ばかりを養成していると、対人恐怖症で苦しむような人間を多量に作り出すことにつながるのではないか。換言すれば、そういう教育は他人の意向を第一に考える他人中心主義の人間を大量に作り出すことになっている。他人を傷つけてはいけない。自分も傷をつけられてはいけない。本音を隠して当たらずさわらず建前中心の人間関係を築いていくことが絶対的で唯一の価値観となっているのである。その価値観を共有できない子どもは社会不適用として仲間外れにされるのである。今のいじめは暴力でいじめられるよりも、無視されたり排除されるのである。いったん排除されると元に戻ることは難しい。だから子どもたちは仲間外れにされないように、本音を隠して表面上相手に媚びることばかりに神経をすり減らしているのである。これは村八分にされた人が村から追い出されるのと同じことである。これが1億総対人恐怖症に見舞われている日本の実態ではないのか。人間は自分中心の考え方で生きていくことが優先されなければいけない。自分の意志、気持ち、課題や目標、夢や希望に常に視線が向いていないといけないのだと思う。
2015.04.28
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欧米では同性愛者が社会的に認知されていてなんの問題もないように思っていたがそれは違っていたようだ。アメリカでは同性愛者が偏見の目で見られていないのは、ニューヨークやロスアンゼルスといった、ごく一部の大都市に限ってのことである。中西部から南東部にかけての地域では、「神を冒涜するもの」とみなされて、激しい差別を受けているそうだ。日本では会社帰りに同僚や上司と少人数で一杯やることが頻繁にある。男同士が肩を寄せ合うようにしてショットバーや居酒屋などでひそひそ話をしていても誰も気にとめない。かえって男性と女性がひそひそ話をしているとあらぬうわさをたてられることが多い。これがアメリカでは反対になる。男同士の方が問題になるのだ。同性愛者と判断されてしまう危険性があるからだ。だれもが、絶対に同性愛者と見られたくない。危険視されるからだ。その恐怖心は相当なものがある。だから男同士で飲みに行く習慣が無い。男同士で深酒、泥酔するまで本音を出し合ってむしゃくしゃした気持ちを発散するということが無い。そんなことをすると社会人不適格者として排除されてしまう社会なのだ。アメリカ人もつらいのである。自己責任の思想がここでも貫徹されているのだ。こういう風潮だと自分の抱えている不満や愚痴などのつらい思いを吐き出す機会が無くなる。家に帰って奥さんにでも聞いてもらえばいいではないかとも思うが、それは女性差別主義という烙印を押されかねないのだ。ここが日本と大きく違うところだ。アメリカ人は不平不満や悩みを自分で抱えてしまいやすいのだ。ではどこで本音を吐き出すのか。それはかかりつけの精神科医であり、心理カウンセラーなのだ。自分の愚痴や悩みについては、お金を支払って聞いてもらう。アメリカという国は多くの人がかかりつけの弁護士や精神科医を持っているといわれる。日本では「赤提灯での愚痴」が日本人の心の健康を支えてきた面がある。我々でいえば集談会の仲間たちが反論しないで悩みを聞いてくれている。アメリカではそういう習慣がないというのが問題を大きくしているのである。森田を学習しているものとしてここで一つ確認しておきたいことがある。自分の仕事や生活上の問題点、不平不満は何らかの形で吐き出さないとフン詰まりになってしまうということである。ため込んでいるとストレスがたまり最終的には大爆発ですべてが終わってしまう。不平不満は小さいうちにどんどん吐き出していくほうがよい。その際有効なのは信頼できる人に聞いてもらうことである。それも不可能ならば、次善の策としては日記のようなものに書いていくことである。注意したいのは思いついた不平不満をやたら吐き出すのはとても見苦しい。相手にしてもらえなくなり、仲間から排除されてしまうことになる。またリラックスできる場所や時を選ぶことも必要である。また一方的に話すだけではなく相手の愚痴や悩みも聞いてあげて受け止めてあげる態度が必要である。とにかく吐き出さないと身体及び心に問題を発生させることは心しておきたい。要は他人中心の建前の人間関係と本音で言い合う自分中心の生の欲望の発揮のバランスを意識していないといづれ行き詰まる。
2015.04.27
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こんな話がある。今の学校の運動会の徒競争では一等賞、二等賞、三等賞の表彰をしない。私の頃はそれぞれ色違いのリボンをもらった。リボンをもらえた時は誇らしかったものだ。今は順位を付けることはよくないと思われているのだ。弱い人や負ける人を差別することになるからだそうだ。だからなるべく足の速い人は早い人同士で走らせる。遅い人は遅い人は遅い人同士で走らせる。あるいはゴールにはみんな手をつないでテープを切るということもあるという。これは運動会に限ったことではない。勉強やスポーツの成績で子供を差別しないようにしているのだ。私の高校の時は全成績が一覧表にして配布されていた。今は学力テストの成績や、足の速さで順位をつけることはタブーとされているのだ。学芸会では一つの主役を何人もの子供が演じたりする。ストーリーにお構いなしに、舞台上にシンデレラたちや桃太郎たちがずらりと並ぶ。あるいは場面ごとにシンデレラや桃太郎が入れ替わるという。そうしないと保護者がクレームをつけてくることもあるという。実に奇妙な光景だ。昔は考えられないことだ。「主役と脇役」という「差別」を嫌がり、みんなを平等に扱うという意図があるのだという。ある県では20年前から、「学級委員長」を選出していないという。委員長になれない子を差別することになるからだという。森田理論を学習しているものから見るとこれらは明らかにおかしにことだと思う。普通、子どもは勉強ができる子供もいればできない子供もいる。スポーツが得意な子どももいれば苦手な子どももいる。リーダシップがあってみんなをまとめるのがうまい子もいれば、その他大勢の方がよいという人もいる。つまり子供はそれぞれ得意なこともあれば苦手なこともある。それが当たり前の事実だ。それなのに大人がそれを認めるとできない人がかわいそうだ。それは差別ではないのかというのだ。まさに究極の「かくあるべし」の押し付けです。事実は事実のままに認めていくというのが森田理論である。今の教育は違いを認めるということは、差別になるからダメだというのだ。でもこれは断じて差別ではないと思う。その人と他の人の能力の違いであり、特性、個性のちがいなのだ。それが個々に違っているから面白い。それはもっと尊重しないといけないと思う。また違いを人と比較するのはダメだという人もおられますが、私はそうは思いません。十分に比較して他人と自分の違いを十分に認識することはとても大切だと思います。違いが分かれば自分の得意な面や苦手な面がはっきりと分かります。それが分かれば自分の得意な面に焦点を当てて伸ばしてゆけばよいのではないでしょうか。比較するのがいけないというのは、比較したあとに是非善悪の価値判断をするからおかしなことになるのです。自分の欠点と相手の長所を比較してよいわるいと判定することは意味がないことです。自己嫌悪、自己否定に陥ってしまうからです。さて、子供たちのそれぞれが持っている得意な面を評価してあげないと、子どもたちはまともに成長できません。つまり実力があり、能力がいくら高くても、評価されず無視されると、やる気や意欲がでてきません。するともともと備わっていた力や能力は磨きあげることをしないので錆ついてしまいます。能力を獲得して、自信をつけて運命を切り開いていく力は生まれてきません。最後には課題や目標を持てない無気力、無感動な子どもをたくさん作りだしてきます。そういう子供たちの注意や意識はどこに向かうのでしょうか。自分の身体や心に向いてきて、自己内省力が強く働いてきます。そして他人の思惑がいつも気になり、生きた心地がしなくなるのです。これはある意味で対人恐怖症を持った神経症の発生と同じからくりです。これを象徴するようなことがあります。大学生が昼食を一人でトイレで済ますというのです。一人で学食に行って食べると、友達がいなくて、孤立している人だと他人に見られるのではないか。そんな人間に見られるということが耐えられないというのです。これは基本的に対人恐怖の人と同じ心の現象です。つまり他人中心の生き方になってしまって、自分中心に生きていくということができなくなってしまっているのです。対人恐怖の原因が、小さいころからの教育の弊害として現れているのだ、ということは理解しておく必要があると思います。そしてそういう間違った教育は今後早く是正する必要があるのではないでしょうか。(なぜ若者は「ひとりランチ」をするのか 和田秀樹 祥伝社参照)
2015.04.26
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世の中には「仕事は言われた事だけをやればいいのだ」と考えている人がいます。これは神経症でどん底の状態ある時はその通りです。あるいは軽症うつや大きな心配事、悲しみを抱えている時も同じことです。超低空飛行を続ける。月給鳥という鳥になって最低限の餌をとってくる。これで十分です。しかし困難な状況が無くなったり、軽くなったにもかかわらず、いつまでも、「言われた事しかしない」という態度を維持することは考えものです。私の以前勤めていた会社の営業マンは毎月の販売予算が一人当たり確か1000万円ぐらいだったと思います。粗利率が15%ぐらいでしたから、粗利額は約150万円ぐらいです。これで自分の給料やボーナス、間接経費を賄うのです。自分の給料の3倍の粗利額確保が最低限のノルマでした。ここで「指示された事だけこなしてゆけばよい」と考える人はどう行動するか。1000万の予算だから、800万から900万の売り上げはあげないといけないな。そこまでやればクビにはならないだろう。それ以上やると来年の販売予算が増額されるので困る。それよりも自分の勝手に決めた予算を達成したあとは、適当に流そう。つまりさぼろうと考えるのです。仮に早く予算を達成すれば、それ以上の販売分は来月の販売実績として計上しよう。等と考えるのです。こういう考え方をされると会社は困ります。みんながそんな気持ちで仕事をすると、経費が賄えないからです。縮小再生産を余儀なくされます。それだけではありません。一番問題なのはそう考えている本人です。真っ先にリストラ候補にされてしまうのです。さらに仕事に今一歩踏み込むということが無いので、仕事が面白くないのです。販売予算は8掛けで取り組む。そして余った時間は仕事をしないでさぼる。あるいは趣味やギャンブルなどに夢中になる。その方がしんどい思いをしないで済む。楽ができる。適当に仕事をして、最低限の給料をもらえればそれでよしとしよう。等と考えていると仕事に対するやる気や意欲は湧いてきません。イヤイヤ生活の為に仕事にしがみついているだけになってしまいます。1日の3分の1ぐらいを占める仕事が面白くないのですから、仕事をすることが苦痛になります。さらに生きること自体になんの意味も見出せなくなるのです。ストレスがたまり、さまざまな身体と精神の病気を引き起こすことになります。形外先生言行録にこんな話があります。ある日庭で働いている私を、二階の居間におられた先生が「林君、林君」と呼ばれた。早速二階に上がって、居間に伺うと、先生は床の間にかけられた掛け軸を指さして、これを巻いてしまいなさいとのことである。お指図のままにその幅を巻いて箱に収めた。「それでよろしい」といわれるかと思うとそうではない。「君はあれは誰の筆かみたか」とのお尋ねに私はハッと詰まって黙ってしまった。森田先生曰く。「だから君は駄目だ、掛け軸を巻けといえば、いわれるままに機械的に巻くだけだ。なぜ巻きながら筆者を見たり絵を見たりしないのか」という先生の言葉がつづいた。指示されたことをきちんとしたのだからそれでいいではないか。どうしてくどくどと文句を言われなければいけないのか。林さんはきっとそういう気持ちだろう。こういうのを「お使い根性」という。うがった見方をすれば、本当はやりたくはないのだけれども、森田先生の頼みだから断るわけにはいかない。しかたないから言われたことだけをきちんとやっておこうという気持ちである。こういう態度ではいつまでたっても神経症は治らない。森田理論というものは「感じが発生する」ということをとても重視しています。これは目の前のことに今一歩踏み込んでみる。一心不乱に取り組んでみる。一生懸命になる。ものそのものになりきる。物事本位になるということの中から生まれてくるものです。そういう生活態度を作り上げて、維持していくことが大変重要です。
2015.04.25
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以前森田理論学習をしていた時に、「人のために尽くす」ということが盛んに言われた。これは神経症で苦しんでいる人は、自己中心性が強く、自分の苦しみをなくすることばかりに神経を集中している。他人のことを思いやるといった気持ちはなく、常に自分の症状を治すことばかりに目が向けている。そういう態度では神経症は治りませんよ。だから人のことを思いやる気持ちを持たなければいけません。そうなってはじめて神経症は快方に向かうのですと教えられました。そのためには、いつも「人のために尽くす」ことを探してこつこつと実践すれば、自己中心性が打破できますよ。普通に考えるともっともらしい話である。これに対する私の見解はこうである。「人のために尽くす」ことを否定する気持ちはありません。神経症で行動・実践が滞っている人は、身近なことを探して人の役に立つことをすることはよいことだと思います。曲がりなりにも手や足が動きだすのですから。最初の取りかかりはそれでよろしいと思います。でもいつまでもそういう気持ちでは困ります。ここがポイントです。特に神経症の克服のために「人のために尽くす」をお勧めすることは考えものです。なぜなら、注意や意識を益々神経症の克服に向けてしまうからです。つまり、こんなに「人のために尽くす」実践をしたので、神経症は少しずつ治るはずだと思っている限り神経症は治りません。その気持ちとは反対に益々悪化してくると思います。そもそも「人のために尽くす」ということをよく考えてみますと、「相手が喜んでくれるのではないか」「相手が自分を評価してくれるのではないか」「あとで何かお返しをしてくれるのではないか」「いずれプラスになって跳ね返ってくるのではないか」という気持ちが多少見え隠れしています。人の為と書いて「偽」(いつわり)というのはそのことです。ではどうすればよいのか。結論から言うと、最初は「人のために尽くす」ことをあれこれ探して実践することはよいのです。でも途中からはそのことを忘れることが必要だと思います。つまり何らかの見返りを期待する気持ちが、そのうち無くなってくるということが重要です。気がつけば、一心不乱になって、目の前の課題に取り組んでいた。こういう状態が具現することが何よりも大切です。このことを森田理論では、「物事本位」の態度と言います。例えば集談会で世話係を引き受けるということを考えてみましょう。「世話係を引き受けると早く症状が無くなりますよ」といわれて引き受けることがあります。最初は症状が治るならと、イヤイヤ仕方なしに引き受けた世話役です。そのままの状態を継続している限り神経症は治りません。治らないから反発さえ湧き起ってきます。一方、参加者が喜んでくれるようにと、一生懸命に世話活動に取り組んでいる人もいます。すると一瞬自分の症状を忘れていたという瞬間が時々訪れます。これが希望の光です。継続すれば神経症の克服につながります。そんな瞬間が次第に増えていく。さらに自分に与えられた世話役以外のことにも気づきや発見が頭に浮かんでくる。そんなに違いはないではないかと思われるかもしれません。実際にはその後の展開が大きく違ってきます。神経症が治るというのは、ほとんどこの過程を通っているのです。これを森田理論的にいうと「感じが発生した」といいます。ここがポイントです。よく人から言われてイヤイヤする仕事は間違いが多くて危なっかしい。自分が納得して、やる気や意欲が高まらないといい仕事はできないなどという人がいいます。その気持ちを持ったまま、歳をとってもいつまでも「自分探しの旅」に出ている人もいます。私の意見としては、そんなのはどちらでもよいのではないか。とにかくまずは重い腰をあげて動き出すことが大切だと思います。でも一旦動き出したあとは「ものそのもの」になりきってみる。この態度が必要不可欠です。例えばキャッチボールをする時に、最初は自分の投げ方はこれでよいのか、人が自分の投げ方を見てひやかさないだろうかということに気が向いてもよい。でもそのうち、相手のミットをよく見て、目をそらさないで一心不乱に球を投げてみることが必要です。その時自分の身体や心にとらわれている余裕はないはずです。つまり一旦自己執着から離れることが重要です。すると森田理論の教え通りのことが起こります。つまり「感じが発生する」「感じか高まる」「課題や問題点を発見し、気づきが生まれる」「なんとかしたいという意欲ややる気がでてくる」「行動・実践する」「さらに改善点や課題が見えてくる」「しだいに行動は建設的、生産的、創造的、意欲的に発展してくる」ということです。ここが肝心なところだと思います。これは人間が活き活きと生きていくことの本質だと思います。
2015.04.24
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笑いのある生活は精神の健康を保つために大変役立つ。岡山で「生きがい療法」をされている伊丹仁朗先生はユーモア療法などに取り組まれている。ユーモア小話作りは、注意を外部に向けてネタ探しをする。さらに作品として作り上げる過程で創意工夫をする。みんなの前で発表するとドキドキハラハラの体験ができる。みんなを喜ばせて人のために尽くす体験もできる。元手がかからずいいことづくめである。村上和夫先生は笑いが糖尿病患者の血糖値を下げるという実験をされた。25人の糖尿病患者の協力で2日にわたって実施された。1日目は昼食の直後に50分間、医学部の助教授が糖尿病のメカニズムについて講義をされた。あまり面白くはない講義である。次の日はやはり昼食直後に50分間、吉本興業の漫才師に来てもらって大いに笑ってもらう。この2日間、食事などの日常生活は全く同じで、違いは講義と漫才だけ。そして、講義と漫才の前と後で、血糖値を測定し比較した。講義後の血糖値の上昇は平均123ミリグラム、漫才の後は77ミリグラムで46ミリグラムもの差がでてきた。詳しくは「生命のバカ力」村上和夫 講談社参照してください。「とても面白かった」と答えた人が、「そこそこ面白かった」と答えた人よりも余計に下がっていたという。アメリカのジャーナリストのノーマン・カズン氏は、膠原病で治療法がないといわれた。彼は薬をやめて、病室にコミック、面白い映画やテレビ番組のビデオを持ち込み、それを見ては大笑いするようにした。2週間すると、痛みが軽減して退院した。そして数ヵ月後に職場復帰した。その経験をニューイングランド医学誌に発表して、大反響を呼んだ。私はみんなに「一人一芸」を勧めている。自分でも楽器演奏、どじょうすくい、獅子舞、浪曲奇術などを手掛けている。その他アナウンサーのものまね、皿回し、剣玉、替歌、盆踊り、しばてん踊りにも手を出している。さらにユーモア小話作りとその収集まで行っている。川柳作りと収集にも興味を持って取り組んでいる。それらを積極的にみんなの前で公開している。究極は老人ホームや地域イベントでのパフォーマンスだ。これらの活動をしているとエーテン神経(快楽神経)が活性化されていくのをひしひしと感じている。今までは完全に眠っていたのだ。私は元々ネクラと呼ばれて、陰鬱で暗いばかりの人間だったのである。いつも何かに極度に怯えてつらく苦しい生活を送っていたのである。ところがこれらの活動のおかげで、不安や恐怖に敏感に反応する扁桃体の働きが相対的に弱まってきた。エーテン神経が盛んに活動を始めたおかげで、バランスが多少なりともとれてきたのである。私は現在神経症の克服に一つの確信を持っている。森田理論学習の実践編では、笑いやユーモア、一人一芸の習得は避けて通れないものなのではないか。神経質な人は好奇心旺盛で、多彩な趣味を持っている人が多いことはよく知られている。それに加えて自分でもよく笑う。人を笑わせて愉快にさせるということも付け加えていくことをお勧めしたい。
2015.04.23
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パチンコなどのギャンブルにはまって自己破産や家庭崩壊を起こしている人がいる。またアルコール依存症に陥って業務遂行に支障があるという人もいる。違法ドラッグに手を出して精神状態がおかしくなり、犯罪を起こす人がいる。あるいはネットゲームにはまって昼夜逆転の生活を続けている人がいる。健康を害し、赤貧の生活を余儀なくされ、人間関係、子育てに大きな問題を抱えている。ひとつもいいことはないが、ひとたび弾みがついてはまり込んでしまうととても抜け出すことは困難である。地獄を見ることになる。仮にぬけだしてもう安心と思っていても、気を抜いた瞬間もとの木阿弥になる。だから10年経過しても酒を一滴も飲んではいけない。パチンコ屋には入ってはいけない。薬物に手を出してはいけない。ネットゲームに手を出してはいけない。依存症は重症になると医療の介入が必要である。同時に自助グループ(例えばアルコール依存症にはAA、ギャンブル依存症にはGAがある)への参加が必要である。実は私も一時期パチンコにのめり込んだことがあった。約3年ぐらいだったろうか。会社帰りに毎日パチンコをしていたのだ。するとある時期を過ぎたころから、今日はまっすぐに家に帰らないといけないと思っても、足がいうことをきかない。自然にパチンコ屋に入ってしまうのだ。あるいは友達に誘われると断れないのだ。仕事をしていても、家にいても頭の中はパチンコのことが6割も7割も占領していた。私の場合、自分の貯金を取り崩したり、小遣いの範囲でやっていた。幸い消費者金融で借金することはなかった。でもかなりのお金をつぎ込んでしまった。パチンコに狂った友人は最終的に自己破産にまで追い込まれた。当然会社は解雇された。私の場合は、最終的に負けが続き、やりたいという誘惑をなんとか断ち切ることができた。ギリギリのところで、このままでは自分と家族の生活がダメになるという抑止力がなんとか機能してくれたのである。運がよかったのか多少の抑止力が身についていたのか、すれすれのところであった。それ以来1回もパチンコ屋に行っていない。一回でも行くとまた地獄を見ることになる可能性があると思っている。それぐらい自分はちょっとした欲望という誘惑に弱い存在なのだと思う。以前にも投稿した通り、大脳旧皮質には快楽神経がある。そこにドーパミン等の神経伝達物質が投入されるととても快感を得ることができる。これを野放しにしておくと快楽依存症に陥ってしまうのだ。一方同じ大脳旧皮質の扁桃体という部分で不安や恐怖を感じて行動を自重したり、抑止する機能を合わせて持っている。元々進化の過程でこちらが先に確立していた。他の肉食獣の餌食になることを回避して生き延びるために必要だったからである。その後生活が安定して快楽神経が付け加わったのであろう。この相反する機能のバランスがとれているということがとても重要なところである。依存症の人は快楽神経のみが機能して暴走している状態にある。下り坂でさらにアクセルを吹かしている状態である。ブレーキは錆びついてほとんど効いていない。危険極まりない状態である。一方神経症の人は行動を自重したり、抑止する扁桃体の機能が効きすぎている状態である。上り坂でアクセルを踏み込まないで、ブレーキをかけて後ずさりしないように必死になって耐えているようなものである。これではいつまでたっても、明るい見通しが立つことはない。こう考えると依存症にしろ、神経症にしろ、この相反する2つの機能のバランスがとれていないことが最大の問題なのである。バランス機能が完全に失われている状態は医療の介入が不可欠であろう。自分の自助努力ではどうにもならないだろう。多少のバランス機能が残っている人は自力救済の道が残されている。私の場合は対人恐怖症という神経症を抱えている。神経症で仕事や勉強、家事、育児が全く手につかない場合はどうしたらよいか。その時点では、森田理論学習は、猫に小判、豚に真珠のようなものである。ここで必要なのは、医療の力を借りてでも、臨床心理士の力を借りてでもまずは蟻地獄の底から地上に這い出ることである。でも仮に這い出てもここで安心してはいけない。神経質者として、しっかりとした人生観を確立していかないと、すぐに元の木阿弥になる可能性が高い。そうならないためには是非とも本格的に森田理論学習に取り組んでいただきたい。その期待にお応えするだけのものはきちんと用意されているのである。しかもほとんど経済的な負担はないのである。蟻地獄から抜け出して、なんとか生活ができるようになった時が、いよいよ待ちに待った森田理論学習の始まりである。
2015.04.22
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私は以前買掛金管理の仕事をしていた。これはメーカーからから仕入れた商品代金を1カ月ごとに集計して支払いに回す仕事であった。全部で支払先は100社ぐらいあった。メーカーからの請求書と私の会社の仕入元帳が一致していればそのまま支払いに回せばよい。これほど楽な仕事は無い。ところが多くの場合金額が合わないのである。するといちいち個個に照合して、一致していない部分を探し出して明細表を作らないといけない。違算明細書といわれるものである。どうして違算が発生するかというと2つある。不良品、不具合品が発生する場合である。その場合は返品、再発注が絡む。また普通の正規の値段でなく、営業が交渉して割引価格で購入するケースがある。まとめ買い、得意先からの値引き要請があるとメーカーに値引き要請をするのである。主力仕入先になると1カ月の仕入れが500件以上にもなる。そのうち何割かは特別価格での仕入れとなる。だからメーカーの請求書通り支払う事はまずない。請求額から違算を差し引いたものが当社の支払金額となる。ところが厄介のことが起きる。メーカーからの苦情がくるのである。当然理由を説明しないといけない。理由としては返品が遅れたり、紛失するケースがある。そうなるとメーカーからの取り消し伝票はこない。再発注分と合わせて二重に請求されることになる。当社は二重に支払いをすることはできない。仕入れと売り上げは連動しているからである。売り上げができないものを仕入れに回すことはできないのである。またメーカーの営業がそんな法外な割引は承認できないという事が起きる。営業が勝手に見込み発射で仕入れ額を確定させているのである。そういう問題が数多くあるのである。一つ一つは小さい問題である。ところがこれをまあいいだろうなどとそのまま放置していると地獄を見ることになる。小さい問題が数多く発生すると、魚釣りの糸が絡まったような状態になる。なかなか絡みを解きほぐすことができなくなる。そうなると最後には業務遂行能力なしとみなされて異動されられたり退職を強要されたりする。この仕事は粘り強い神経質者に向いた仕事かもしれない。細かいことを大切にして、問題解決の糸口を見つけて、違算発生の次の一ケ月の内に処理しておくことである。ここが最大にして唯一のポイントとなる。返品は確実にメーカーに返して取り消し伝票を入れてもらう。値引き要請に対して確実に赤黒伝票を発行してもらい違算を解消しておく。すると原則として当月で違算がすべて片付くことになる。次の月は当月の違算だけになる。すると仕事はかなり楽になる。また新たな気持ちで仕事に向かうことができるのである。これを自分の怠慢で放置することもできるが、自分で自分を窮地に追い込んで苦しめることになる。小さい仕事をいい加減扱わないで、丁寧にお金を取り扱うように対応していけば、仕事が面白くなる。こういう状態は「仕事に追われる」のではなく、「仕事を追っている」状態である。仕事が楽しい。仕事にやりがいを感じる。そういうことができる人は何人もはいない。だから自分の存在価値を示すことができて、上司や同僚から高い評価を得ることにつながるのである。
2015.04.21
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広島カープの黒田投手はアメリカでは100球制限をうけていたという。つまりシーズンを通して中4日で投げ続けることを求められていたのである。シーズンを通して働いたということが大きな意味があるそうだ。大リーグでの黒田投手は勝ち負けが拮抗していた。いつも勝ちが負けを優先していたわけではない。それでも大リーグでの評価が大きかったのは、シーズンを通してローテンションを守ったからだ。6回投げて2点以内に抑えられれば勝ち投手並みの最高評価をされていたのである。それを続けたので20億円の評価が与えられたのである。我々でいえば1年365日、日常茶飯事を丁寧にこなしているようなものである。そのためには1回あたり15球から20球以内に収めないとならない。無駄球を投げる余裕はない。すべてストライクでの真っ向勝負である。でも大リーガーは力がある。ストレートにはめっぽう強い。力まかせにストレートを投げこめば簡単にホームランを打たれてしまう。そこで手元で変化するツーシームを覚えた。これがなかったら今の自分は無いとまで言っている。またバックドア、フロントドアと呼ばれるボールからストライクになるボールも覚えた。20億の評価がある選手だからヒットを打たれないかというとそんなことはない。たまには打たれる。でも黒田選手は曰く。目標は6回投げて2失点以内に抑えて、試合を作っていくということが自分に課せられた仕事である。ヒットはあまり打たれたくはないが、塁上をうめられても逃げずにストライク勝負して、できるだけ0点に抑えること。これが僕に与えられた仕事だ。投球を見ていると百戦錬磨の勝負師という感じである。困難な状況でも決して逃げない。しかもきわめて冷静である。失敗して点を取られることもあるが、困難に立ち向かう姿勢は共感を覚える。予期不安があるとすぐに逃げまくっている私にとっては、実に勇気がでてくる。
2015.04.20
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「森田理論習得3カ年計画」で学習する項目について考えてみました。4月9日投稿の「私の森田理論学習の夢」と合わせてお読みください。オンライン学習で進める場合は、それぞれガイダンス・自己紹介が加わります。オンライン学習はそれぞれ3カ月で終わるものとします。出来ればその後1泊学習会でのまとめと懇親会。さらにその後は掲示板で交流を続けるというのは如何でしょうか。ではまず1年目。森田理論の基礎について学習する。1、 神経症の悩みとは何か2、 森田理論はどんな人に役に立つのか3、 今苦しみの最中にある人の対処方法4、 神経症の成り立ち5、 神経質の性格特徴6、 感情の法則7、 誤った認識や認知について8、 森田理論学習のツールと利用方法9、 医療と学習の連携と違いについて10、 森田理論学習と関連団体の連携続いて2年目。森田理論の真髄についての学習1、 森田理論全体像とはなにか2、 生の欲望の発揮とは3、 欲望と不安の関係4、 「かくあるべし」の発生と苦悩の始まり5、 事実本位・物事本位の生活態度を養う6、 森田理論のキーワードについての学習7、 森田理論4本柱と相互関係の学習8、 横断的学習と最終まとめ3年目。実際に日常生活に森田を活かす。1、実践力、行動力を身につける2、「無所住心」の態度を身につける3、生活にリズム感を作る4、バランス感覚を身につける5、変化対応力を身につける6、人の思惑より、まず自分の「生の欲望」を優先する7、自分、人、物の価値や能力を最大限に引き出す8、「純な心」から出発する、「感じ」から出発する9、不安に学んで、「生の欲望」との調和を図る10、事実を受け入れ、事実に服従する11、ありのままの自分を磨きあげる12、他人の仕打ち、欠点、ミス、失敗を許す13、立ち直った人の生活を真似てみるということ各種学習シートを活用します。また日記指導なども取り入れるとよいかもしれません。つぎに森田理論を使って実際の日常生活の悩みを考えてみる。例えば次のようなことです。実際には各学習仲間からテーマを出してもらいますのでテーマは変動します。1、怪我や病気で自暴自棄になった人へ2、自分の生まれた境遇を呪っている人へ3、アダルトチルドレンと診断された人へ4、ガンや難病にかかったことのある人へ5、すぐに他人と比べて劣等感にさいなまれる人へ6、すぐに他人に「かくあるべし」を押し付けてしまう人へ7、虫が好かない人とどう付き合うか8、どんな人と結婚したよいか迷っている人へ9、他人の優柔不断な言動に腹が立つ人へ10、対人恐怖で仕事がこわい人へ11、子供のしつけと教育で苦労している人へ12、無気力で自分から動こうとしない子供を抱えている人へ13、いつも子供を甘やかせている人へ14、腹が立ちやすいと思っている人へ15、いつも他人の思惑が気になる人へ16、人から指示、命令されるとやる気がしなくなる人へ17、ワンクリックサギに引っかかってしまった人へ18、森田で原発問題を考える19、森田でTPP参加の是非を考える以上を真剣に取り組めば、3年でかなりのレベルに達することが可能だと思います。その後、各地の学習グループで交流を深めれば森田理論を自分のものにすることができるでしょう。
2015.04.20
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有馬らい底さんという禅宗の管長さんのお話です。僧堂で修業する僧侶たちは雲水と呼ばれます。行く雲も流れる水も、けっして一か所にとどまることなく同じ形になることはありません。そういう自然の在り方を「行雲流水」という語に表し、師を求め道を求めて行脚をする修行僧の姿をそこに重ねて雲水と呼ぶのです。これは森田理論のすべてのものは変化流転するという考え方に通じます。さて、寺における雲水たちは、大きく分けると「禅堂」と「常住」に分かれます。「禅堂」というのはもっぱら座禅に専念するのが役目です。「常住」というのは自分たちも含めて雲水の生活全般の面倒をみる役目です。ほとんどの組織や集団では、食事や風呂焚きといった仕事は新米がするものです。けれど、僧堂では、新米はもっぱら禅堂で座禅修行に明け暮れます。それがだんだんできるようになってくると、はじめて「常住」の仕事がまかせられるようになります。普通に考えれば、禅の修行をしに僧堂に入ったのだから、人の世話よりも修業を優先させたい、と思うでしょう。体験の学問といわれる禅では、生活のすべてが修業そのもの。座禅を組むことは修業のほんの入り口にすぎないのです。日々の粛々たる生活ことが修業だということだと思います。ここが肝心なところです。座禅をして修業するよりも、日々の日常生活を丁寧にこなすことの方がよほど修業になるといわれているのです。掃除の作法、料理を作る、食事の作法、普段の振る舞い、禅寺での作法、文化の作法など「ものそのもの」になって創意工夫していくことが大切なのです。森田理論学習も全く同じことです。森田理論を学習することが唯一最大の目的となってはいけないということです。森田理論を観念の世界の遊び道具にしてはいけないということです。森田理論はある程度のレベルに達すると生活面に応用していくことが大切です。日常生活に森田を応用していく態度を持つことが大切です。日常生活をいい加減にしておいて森田理論の学習を深めていくというのは本末転倒だと思います。森田理論は全く知らないが生活が森田的になっているというのがまだましだということです。生活への応用なくして森田理論学習なしということは肝に銘じておいてほしいところです。(禅が教えるほんものの生活力 有馬らい底 集英社 114ページより引用)
2015.04.19
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私たちは生まれ落ちてから五感を使って体感力を高めてきました。そして一部は大脳にしっかりと記憶として蓄積しています。それが歳をとって例えば認知症などにかかっても、突然によみがえってくることがあります。私の場合は次のような記憶がすぐに思い出されます。見るということでは、いちご畑で蝮に咬まれた人を見たこと。春になって山いっぱいにつつじが咲き乱れて、すべての動植物が動き始めたワクワクするような感覚。聞くことでは、県警の吹奏楽団が小学校にやってきてかっこいい演奏を聞かせてくれたこと。初めてオーケストラでモーッアルトの曲を聞いた時の衝撃。与論島のシュノーケリングで色鮮やかな熱帯魚とサンゴ礁と戯れたこと。味わうということでは、毎年木イチゴを食べた時のプチとした感覚。初めて川でとれたウナギのかば焼きを食べた時なんともいえないおいしさ。触覚としては、家で飼っていた牛のザラザラした舌触り。川釣りで魚が釣れた時の手ごたえの感触。祖父や母との心温まる交流。これはほんの一例です。このほかにもいろんな記憶があります。気持ちのよい思い出も思いだすだけでぞっとするような思い出もあります。嫌な思い出は絶えず自己嫌悪や罪悪感で苦しむことになります。懐かしいほっとする思い出は勇気が湧き、しばし一服の清涼飲料水のようなものです。こんな人がいます。その方は四国の四万十川の近くで育ち東京で暮らしている人です。仕事でつらいことがあると「四万十川の風が吹いてきた」とつぶやくのだそうです。四万十川というのは最後の清流といわれる川で、山下清画伯の「裸の大将」でロケ地になりました。この方はそうつぶやくと、四万十川に吹く風の匂い、水の感触、透き通った川に住む魚たちの泳ぎがよみがえりまたやっていけるという気持ちになるのだそうです。最初はふと風景がよぎっただけかもしれない。でも何度か連続すると、東京にいても感覚がよみがえり、困った時は四万十川の原風景を思い出せばなんとかなるのだという確固たる感覚が刷り込まれているのだと思います。我々は意識するしないにかかわらず、小さいときからの五感をフル活用して得た感覚というものを今現在に役立てていることではないでしょうか。私たちは気持ちのよいことは無意識に何度でも繰り返して行動・実践する特徴があります。これは五感の記憶が気持ちよいとして自然に体に刷り込まれているのです。五感で感じる体感力の経験が全くない状態で大人になったとしたらどうでしょうか。後悔や罪悪感で悩むことはないでしょう。でも心地よい感じ、気持ちのよい感じ、嬉しい感じ、懐かしい感じ、受容や共感する気持ちも同時に記憶からは抜け落ちているのです。この状態は苦しいときに立ち戻る「心のふるさと」を持たないようなものです。また経験がないので、目の前に立ち現れた現象に対してどう対応していけばよいのか手掛かりがないので右往左往することになります。だから実際に自分で体験して五感を使って体感をするということはとても大切なことです。ネットゲームでバーチャル世界で生活していると五感はどんどん衰えてきます。またテレビで行ったつもり、味わったつもりというのは五感を使った体感には程遠いものです。五感を使った生々しい体感にはなりません。気分一転して生きる力には結びついてはきません。今現在の出来事に対して適切に行動を選択する力にはなりません。そして大人になってさまざまな葛藤や苦しみがでてくるのです。そういうことを自覚して子供を育てること。大人になった我々は子供に戻って再教育はできません。でも今後は自分で実際に足を運んで五感を使って体感してみるという生活を取り戻すことはできます。森田を学習しているとここのところは無視できないところだと思います。(「五感力」を育てる 齊藤孝+山下柚実 中公新書を参照)
2015.04.18
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ありのままの自己を認める、自己を肯定して生きていくことはとても大切なことです。神経症で苦しんでいる人は自己嫌悪、自己否定は得意です。しかし自己肯定は最も苦手とするところです。これはいくら言葉で観念として自己肯定に向かおうとしても無理があります。そういう時は、観念ではなく身体感覚で自分を実感するといいのだという人がいます。どういうことか。例えば、スポーツをやっていると、力んではいないけれども、すごく集中していて、身体が自在に動くという状態がときおり感じられます。それを何度も繰り返すと、自分のベストの状態が分かってくる。自己のベストの状態を知っていると、帰る場所があるという肯定的な感じが持てます。これは自分自身に対する肯定感が持てるということと、自分の身体の中に中心感覚があるということは、深く結び付いているのではないか。腰や肚(はら)をある程度鍛えますと「自分の中心はここにある」という感覚が、ごく自然に感じられるようになる。体に芯のようなものができるのです。これが困難に出合った時に後ろ盾となる。反対に身体のどこにも中心感覚が感じられないと、ふわふわした透明な感じになってしまって、それは漠然とした不安感につながってきます。人が生きていく上で、すごいプレッシャーがかかる時があります。そのプレッシャーに飲みこまれるか、それともそれは自分への期待だと受け止めて背負うことができるのか。どちらに傾くかは当人たちの構え次第です。その時に身体のどこかに受け止めるポイントがないとつらくなります。これは不安の発生を考える時に考慮すべきことであろう。齊藤孝氏は身体の中心部分を鍛える方法を伝授されています。腰や肚(はら)を鍛える方法としての丹田呼吸法です。これは息を三秒吸って二秒そのままにする。そして15秒かけてはく。これを6回繰り返すというものです。簡単にできます。丹田呼吸法によって自分の確かな中心感覚を鍛え上げると、自己肯定感につながってくるということです。相撲でよく四股を踏むということを言われます。これは腰の据わったどっしりとした姿勢を作ることによって自己肯定感を作り上げているということかもしれません。(「五感力」を育てる 齊藤孝+山下柚実 中公新書より引用)
2015.04.17
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プロ野球を見ていて外野手がフライを上手に取るのに驚くことがあります。プロ野球の選手は小さいころからが多くの球を捕球して経験を積んでいます。するとバッターの素質、バットの振りとスピード、打球の角度、そして打球音などを聞いて総合的に判断して、直感で落下方向に向かって走り出しているのです。つまり我々と違うのは打球音で球の方向性や種類を判断しているのです。草野球で外野に球が飛んできて目測を誤るという事はよくあります。これは経験不足と打球音という五感を働かせて球を見ていないからです。実際に自分で見る、聞く、臭う、味わう、触れるという五感を鍛える訓練はとても大切です。これは本来小さいころからの親子や友達との遊びのなかで自然にはぐくまれます。でも最近は小さいころからのスキンシップが少なくなっています。五感で言うと触覚です。私たちの小さい頃は、弟や妹が生まれるとおんぶして子守りをしていました。また遊びとして、馬乗り、縄跳び、ゴム飛び、おしくらまんじゅう、相撲、こま回し、たこあげ、ベーゴマ、パッチン、チャンバラ、鬼ごっこ、かけっこ、水遊び、魚釣り、戦争ごっこなどで友達と遊んでいました。身体と触覚は自然に鍛えられていました。今の子どもたちはおんぶ抱っこがうまくできないそうです。おんぶされるときは、相手の腰骨にうまく乗っかってフワッと力を抜き、体をあずけますが、だからといって力を全部抜いてしまえば、液体のようにズルズルと崩れ落ちてしまう。固めるところと緩めるところが微妙にある。その加減ができないので、上の方で暴れてしまったり、硬直してしまうとか、あるいはすっかり身体を投げ出すようにあずけきってしまって相手をつぶしてしまう。人間が人間をおんぶする時は、両者の意思でいちばんバランスのいいところを見つける探り合いがあるはずですが、おんぶできない子どもたちは経験がない。他人の身体と自分の身体の一番いいポイントや角度を探り合うという体験が全くない。また最近の子どもは身体を他人に触られるという事をとても嫌がるそうです。爪切り、散髪、耳垢とりなどを嫌がるというのです。触れられるという事を嫌がる反応が、他人への乱暴な行動につながったり、近づいてくる子どもを叩いたりすることになる。触覚の発達につまずきがあるために、本人の意志以前の段階で、つまり生理的な反応として、「触覚防衛」という症状がでてしまい、結果的に乱暴な行動をとってしまう。これは脳のなかに、外から入ってくる皮膚への触覚刺激に、しっかりと注意や意識を向けていく働きが弱いのです。そのために本能的に対象に向かっていったり、逆に防衛行動や警戒行動がでたりするのです。私たちも五感を無視して言葉をうのみにして価値判断をすることがあります。他人から「彼は箸にも棒にもかからない営業マンだ」と聞くと、実際に確かめもしないで、言葉を真に受けてその人を評価してしまいます。加齢臭が若い女の子に嫌われると聞くと、自分が嗅いだこともないのに匂いに敏感に反応する。自分の舌で味わってもいないのに、「おいしい」「まずい」という言葉に反応してしまう。出来るだけ出向いていって、実際に自分の目で見る、聞く、臭ってみる、味わってみる、触れてみるという体験が必要なのではないでしょうか。百聞は一見に如かずという事です。強迫行為を伴う強迫神経症になる人も五感を信じられないことから症状化してきます。ドアが閉まったかどうか、電気やガスの栓を閉めたかどうか気になる人は五感が信じられない人です。小さいときからの五感が鍛えられていないのです。言葉に頼り切っているのです。言葉は便利なものでありますが、極めていい加減なものです。全面的に信用してよりかかってはいけないものです。そういう方は今からでも遅くはありません。言葉に全面的に頼らずに五感でいろんなものを味わってみる。そういう生活態度に切り替えていくことが大切だと思います。観念でやりくりするのではなく、自分の身体を動かして現地に足を運ぶ態度を持ち続けることが大切だと思います。少しでも五感を取り戻す方向で努力して、これ以上言葉に頼らないようにしたいものです。(「五感力」を育てる 斎藤孝+山下柚実 中公新書引用)
2015.04.16
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最近退職金の運用に失敗している人が多いという。退職金を元手にしてさらに増やしてやろうという気持ちが強いのである。退職金を持っていると金融機関や証券会社が虎視眈々と狙っている。大体最初は投資信託を勧められる。ところが大幅な元本割れを起こしている人も多いのである。中には郵便局で投資信託を勧められ、全額を投資したがリーマンショック後資産が半分になったという人がいた。悔やんでも悔やみきれない。また資金の運用に積極的な人はFX、先物取引、株式の運用をされていることだろう。でもそれらは必ずもうかるというものではない。安倍政権に変わってからは株価が上がり利益を出してしている人もいる。しかし株は変動要素が多い。いいと思って始める時は高値である。高い株価はやがて下がる。それが世の習いである。例えば東京電力などは安定株の筆頭だったのに、今や見る影もない。社債も配当金が多いところを見つけても、そういう会社に限って倒産することがある。大体資産を増やそうという欲が強すぎるとろくなことはない。資産を安全に守るということを最初に考えないといけないと思う。その次のステップとして資産運用を考えるというスタンスを守るべきである。ファイナンシャルプランナーとしての私の考え方はこうだ。資産の10分の2以内だったら株式投資をしてもよい。リスク商品を研究してそれにかけてもよい。それ以外の資金は投資に回してはいけない。また最初は余裕資金の1割か2割で様子を見るのがよい。デイトレードでお金儲けをしようというのはもってのほかだ。ほとんど失敗して後悔する。デイトレードは9割以上の人が苦労してためたお金を失っているのだ。運用というからには半分に減るということも考えないといけない。それでもいいという人が、研究を重ね、勉強会に参加して納得して取り組むことなのです。株が儲かるといって大半の財産をつぎ込むようなことは絶対に慎むべきだと思う。また他人の推奨する株を無条件に信じて投資するのは如何なものか。それで運用益を出そうとする魂胆がそもそも間違っている。そういうのは投資とは言わない。博打というのである。一番いいのは余裕資金の一部を、将来世の中で必ず役に立つと思う会社をベンチャー企業として起業した人を応援するつもりで投資することである。投資というよりも「寄付」するという気持ちである。そういえば森田先生はあちこちに多額の寄付をされていた。寄付したと思えば投資資金失っても腹が立たない。寄付だと思えば余裕資金を超えて投資することは無くなる。うまくいけば会社が伸びて思わぬリターンが入ってくることもある。
2015.04.15
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あるお母さんの話です。子供が幼稚園に入りました。お母さんは朝早くからお弁当作りをしていました。お母さんが作る弁当はとても手が込んだものでした。他の子どもたちのとはちょっと違っていました。自分の体具合が悪くても、必ず早く起きて弁当を作っていたのです。そのお母さんが言われるには、「それをしなければいけない」というモードに入ると、それをしないとどうしてもだめ、そうしなければと思うと確信的に考えて行動してしまうのです。子供が健康でいるためには、三度三度の食事をきちんと完璧にしなければいけないと考えてしまい、死に物狂いで頑張ります。ところが緊張の糸が切れてしまうと「どうでもいいや」と思い、ごはんとゆで卵だけの日が1週間も続く。あるいはごはんとウィンナーだけの弁当になってしまう。極端になってしまうのです。そうなると自分ではどうすることもできないのです。そして自己嫌悪、自己否定、罪悪感でさいなまれるのです。そして落ち込んでしまうのです。これは完璧主義、完全主義の人が陥りやすい認識の誤りの一つです。やることは完璧にしなければならないと思ってしまう。完全にできないと思うと全くしなくなる。0か100、白か黒、極端なのです。完璧にするために計画は綿密に立てようとします。しかし計画を立てる段階で気が重くなり、全く行動に移すことができなくなってしまいます。森田理論学習では、完全主義は「かくあるべし」という認識の誤りからくるといいます。「かくあるべし」思考から、事実、現実、現状重視の生活態度に変更することが大切であるといいます。そのためにはまず森田理論学習によって「かくあるべし」の成り立ちをよく学習することです。「かくあるべし」は、森田先生も言われているように、一つには教育の弊害があります。もう一つは「生の欲望の発揮」に向かう意志が希薄で途中ですぐにくじけてしまうことにあります。それを自分の場合にあてはめて自覚を深めていくことから始めます。次に「かくあるべし」という認識の間違いを改めて、現実にどっしりと足をついた生活をするための手法を学習しましょう。それを現実の生活の中に応用していく。玉ねぎの薄皮をはがすように変化していく。そのための手法としては、まず事実をよく観察すること。事実に基づいて具体的、赤裸々に話す。両面観で物事を見ていく。精神拮抗作用の理解と応用。事実を4つに分けてみる視点を持つ。事実を価値判断しない生き方の習得・応用。事実を受け入れて、事実に服従する生き方を身につける。「純な心」の生活への習得・応用。私メッセージの習得・応用などがあります。その他森田理論活用ノウハウが13項目あります。これらはすでに解説してきました。ここはとても奥が深いものがあります。森田理論学習の核心部分です。これは私の「森田理論習得3カ年計画」の2年目、3年目で取り組むべき課題となります。しんどいところです。でも一旦身につけてしまうと残りの人生が光り輝いてくると思っています。
2015.04.14
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小泉武夫さんが痛快な話をされている。私は粗(あら)を食わせる小料理屋をやろうと考えている。お客さんがくると粗しか出さない。まず最初の品目は潮汁だ。いうまでもなく魚の頭を入れた吸い物である。「旦那、酒をくれ」ときたら、何も言わずに骨酒を出す。鯛でもヒラメでも鯒でも何でもよい。骨をぶつ切りにして、こんがりと焼く。あの焦げたきつね色というのがいい。骨がこんがりと焼きあがり、ジュージュー、プチプチなどという音をたててきたら、それをどんぶりに入れて、純米酒の熱燗を一気に上から注ぐ。すると、ピューという音がするので、ちょっとそのままにしておいて待つこと1分37秒。骨酒の出来上がりだ。「旦那、何かつまむものはないか」ときたら、小皿に「酒盗」をのせて出す。酒盗はカツオやマグロの腹腸の塩辛である。次にカツオかマグロの心臓の串焼きを出してやる。これは塩焼きで食べると、味が濃厚なうえにシコシコして実に美味しく、新鮮なものなら生臭みは全くない。さらに催促されれば、おもむろに魚の皮のうろこをはいで、真ん中のところにあるゼラチン質のぶよぶよした部分を刻む。これに胡瓜もみをあえて三杯酢で出す。これもまたシコシコして美味しい。「もう一品くれ」とくればニシンの白子を焼いて出す。その他にも、目玉、骨、ヒレ、皮、血合、胃袋、心臓、肝臓、腎臓、腸、砂ずり、中落ち、腹の下などといったところが粗屋の材料料理である。どれも新鮮さが自慢だ。材料代はすべてタダというところが素晴らしい。というのは、どこの魚屋でも今では粗の処分に困っていて、金を払ってでも引き取ってほしいほどなのだ。築地の魚市場では、粗を処分するために、生ゴミ処理業者に1トン当たり何万円も払っているのである。お客さんが最後に「おやじ、ご飯を出してくれ」とくれば、「粗の煮こごり丼」を出す。煮こごりをつくるには、粗をコトコトと煮込み、醤油と酒と味醂で味付けをして、冷蔵庫の中にその煮汁を入れておけばいい。あとは何日か待つ。注文が合った時に、冷蔵庫から煮こごりを取り出して、そのブヨブヨしたものを熱いご飯の上にぱっとかけるだけだ。客はそれはもう喜んで、あっという間に煮こごりを食べて、安い勘定を払って上機嫌で帰っていくだろう。森田先生が生きておられて、この小料理屋のことを話してあげると、泣いて喜ばれるだろう。森田先生の「物の性を尽くす」という実践編の例だからである。物の性を尽くしていけば、その物そのもの、その人自体が活き活きとしてくるだけではなく、自然循環が貫徹されて、ゴミ処理、環境汚染問題も同時に解決されるのである。(食の堕落と日本人 小泉武夫 東洋経済新報社 179ページより引用)
2015.04.13
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王貞治さんの話です。大人は子供に対してある程度やるべきことを仕向けて、方向を示してやることが必要だと思います。大人が子供と対する場合は、絶対に対等ではありません。最初は大人がリーダーシップをとらなければいけないと思います。ときにはスパルタでもいいと思うんです。「気づかせる」ことが大切ですから、子供が嫌がるのを「とにかくやってみろ」と。それでやってみて、「できたじゃないか」「案外おもしろいだろう」という体験をさせることは、自主性に任せたらできないところがあるんですよね。本人がやりたがらないことでも、上達するうえで、成長するうえで大切なことだったら、無理矢理やらせる部分というのもあっていいと思います。気づけば、あとは自分でやるようになります。普通は子どもが好きかどうかもわからないものを無理やり押し付けてはいけない。子供がやりたいことを自分で見つけるまで待たなければならない。そう思っている親が多いのではないでしょうか。でも実際には子供に自由に好きなことをやれと言っても、あまりにも範囲が広すぎて何にから手をつけたらよいのか判断できないことが多いのではないでしょうか。だから最初は親や先生やコーチが率先して子供たちに、自分たちが信じるものを強引に仕向けていく方がよいと言っておられるのだと思います。やってみたらできることもできないこともあるでしょう。また興味がでてくるものも、全く興味が湧かないものもあるでしょう。ここで肝心なことはまず手をつけること。すると感情が湧き起るのです。この感じが湧き起るという事が大切なのです。感じが発生するとこうしたい、ああしたいという気持ちが起きます。そして創意工夫して行動するようになればいくらでも進歩発展があります。そのとっかかりは大人が作ってあげるという事が大切なのだといわれているのだと思います。山本五十六の次の言葉はまだ生きていると思います。(親が)やって見せ、言って聞かせて、やらせてみて、ほめてやらねば人(子供)は動かず(池上彰が聞いてみた「育てる人」からもらった6つのヒント 帝国書院 41ページ引用)
2015.04.12
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今日は替歌6曲作ってセミプロ級の人にカラオケで歌ってもらった。曲は「青い山脈」の替歌で「森田とともに」。「瀬戸の花嫁」の替歌で「瀬戸内支部賛歌」。福岡炭坑節の替歌で「ハチがきた」。水森かおりの「かおり音頭」の替歌でマンションの「管理人音頭」。あと既存の替歌で「青春時代」の替歌で「年金時代」。「お座敷小唄」の替歌で「ボケます音頭」「ボケない音頭」。私はカラオケを上手く歌いたいという気持ちは強いのだが、こんなに音を外す人は珍しいといわれるほどひどいのだ。そこでこの方に白羽の矢を立てたところ、快く引き受けていただいた次第である。この方はさすがにカラオケで100点近くを連発される方だけに素晴らしい美声である。また音程がしっかりしていて聞き惚れた。週に2回3回は本格的に練習されているそうだ。それをPCM録音機に録音させてもらった。この録音機はすぐれものです。ダイレクト録音でCD並みの録音ができる。すでに25時間ぐらいの録音をためている。サックスの練習でも使うので、これなしでは生活に支障があるのです。私はこれを森田理論の支部研修会の懇親会の余興、マンション管理人の仕事仲間の宴会の余興、老人ホームなどの慰問活動で使わせてもらいたいと思っている。マイクで音を拡大すればすぐに使える。みんなに喜んでもらえると思う。ただネックなのは歌詞を模造紙に書いて掲示することである。めくれてしまって見えにくい。またマジックで書いているので見にくい。そうかといって歌詞をいちいちコピーして配布するのは無駄になることが多い。これからの検討課題だ。そういうわけで、替え歌を一つだけおすそ分けします。よかったら各地学習会後の懇親会でカラオケの音楽で歌ってみてください。きっと盛り上がりますよ。森田とともに(青い山脈の替歌)つらく暗い人生に 何度死のうと思ったか森田の理論に 出会ったときからはなんとなく生きる勇気が湧いてきた事実唯真なりきると 心に誓ったあの言葉森田の理論で 毎日生きてますお仕事や家事に勉強 やっています森田先生ありがとう 水谷先生もありがとう森田の理論に出会った人からは うれしくて感謝感激うれし泣き長谷川先生ありがとう 斎藤先生もありがとう森田の理論の学習運動は 全国で今日も集会やっています
2015.04.11
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帯状疱疹という病気がある。3人に一人はかかるそうだ。私もかかった。この病気にかかるとチクチクと針の先で体を指されているような痛みがある。下着が触れただけでも激痛がはしる。ちょうど風疹の発作のような痛みだ。その痛みが一日中続くのだからたまらない。なかには日中肌着を脱いでいる人もいるそうだ。60歳過ぎの人がかかるケースが多い。原因は水痘ウィルスだそうだ。この病気の厄介なことは現在完治する治療法が確立されていないという事だ。つまり極端なことをいえば死ぬまで痛みが続くという事だ。それを帯状疱疹後神経痛というそうだ。これは末梢神経から脊髄、脳に及ぶ神経系を広く巻き込んだ障害だそうだ。初期治療としては抗ウィルス薬が効く。早期治療すれば治るケースもある。ところが最初の自覚症状は皮膚にかゆみがあるなという程度である。孫の手で掻いたりしている。そのうち突然針で刺された痛みがでてくるのだ。あわてて医者にかかる。すると「どうして早く受診しなかったのかといわれる」この時点でたいていの場合後の祭りだ。帯状疱疹後神経痛になるとどうするか。基本的には痛みを緩和する治療法しかない。それは脊髄の近くの神経根に水痘ウィルが住み着いていて、今の医療では退治することが不可能だからだ。重症になると神経ブロック、鎮痛剤、抗ウツ剤などで緩和治療を行うようだ。私の場合は針で刺されるような痛みは無くなった。ところが何か背中や腹のあたりにかゆみが残っている。皮膚科の医者に相談すると消炎鎮痛剤とビタミンB12を処方してくれた。ウィルスを完全に撃退する抗ウィルス薬を処方してくれるように頼んだ。しかしその薬を飲んでももはや撃退することは不可能であるという。再発したときはまた処方を考えるからその時相談してくれという。とりあえず今のところ違和感はあるが生活するには支障がない。私は覚悟を決めた。この病気を治すことはあきらめよう。お医者さんはこの病気はイヤなものだが死ぬことはめったにないという。だったら死ぬまでこの病気と付き合っていこう。症状が悪化したときだけお医者さんのお世話になろう。それよりも人生を楽しもう。充実した生活を送ることに目を向けていこう。これはくしくも対人恐怖症を抱えた私の対処方法と同じであった。
2015.04.11
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すぐにはどうにもならない課題を前にしたら、それなりの努力やトライをしたあとで、しばらく放置していたほうがよい結果を生むことがあります。その方が賢明な場合が大部分なのかもしれない。頭を切り換えることで、何かの拍子に妙案がでてくることもありましょう。いつしか機会が熟して、ことがうまく運ぶように自然にお膳立てが整うことだってある。(これは森田では啐啄同時と言います。)また状況が変化して、課題そのものの意味が違ってくることすらある。(たとえば、人員削減に応じてプロジェクトの規模が縮小され、その結果として課題が別な形に変化するとか)。あまりにも熱心に課題のことばかりを執拗に考えていると、精神的な視野が狭まり、柔軟性が劣化し、思考がやせ細ってくることが珍しくありません。(待つ力 春日武彦 扶桑社新書106ページ引用) 森田先生は次のように言われている。疑問と不安は絶えず出没して一つ一つこれを解決して、しかる後初めて安心するということはできない。すぐに解決できそうもないようなとき、疑問は疑問としてこれが解決する時節を待つしかない。すぐに衝動的な行動をしてはならない。態度を保留にすることが大事である。不安は不安のままにいつまでも執着していられるものではない。強迫観念も、無理にただ一つのことを解決しようと、もがかずに、素直に境遇に柔順でありさえすれば、苦しい不安でも、水の上の泡のように、水の流れの早いほど早く消えて、跡をとどめぬようになるものである。(森田正馬全集5巻764ページ)神経質者は心配性でせっかちです。なんでもその場ですぐに解決しないと承知しません。心配事、不安、ストレスを抱えたまま本来なすべきことに取り組んでいくことは大変困難です。そういうことができるようになると一つの大きな能力を獲得したことになります。森田理論を学習してそういう能力を徐々に高めていくことが大切です。
2015.04.10
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私の森田理論学習の夢について書いてみました。私は今後の人生は森田理論学習の普及に努めてゆきたいと思っています。というのは、神経質性格を持ち生きづらさを抱えた人はとても多いと思っているのです。それは海に魚釣りに行って、魚がたくさん泳いでいる状況に似ています。でも餌が悪いのか、釣り方が悪いのかほとんど魚が釣れないような状態です。餌を変え、釣り方を変えて日々悶々と生活している人に、森田の考え方のエッセンスを伝えたい。そして人生後半の生き方を実りあるものに変えていってほしい。そのためにはどうするか。まずこのブログは5年間は注力していく。あと2年半である。その後はそのあとで考える。読者の人が最初は50人程度だったが、今では300人前後である。今後さらに読者が増えれば森田の認知度も上がるのではないかと考えています。そのためには役に立つ、核心をついた記事にする必要がある。難しいところだが精一杯頑張るしかない。次に学習についてですが、私は「森田理論習得3カ年計画」を提唱している。これは森田初心者に3年間で曲がりなりにも、必要最低限のレベルまでに達してもらいたいと思っている。短期集中型が私のスタンスである。それは家でいえば基礎ができ、柱が立って屋根の骨組みができた状態である。ここまでできれば、あとは壁を塗り、内装、家具などを手掛けることができる。それは学習仲間やご自分で手掛けてほしい。その前段階が私の役目だと思っている。そのためには分かりやすいテキストがいる。そのテキストは3部構成である。まずは森田理論の基礎知識。次に森田理論の応用編。そして森田理論の実践編である。このテキストはもうすでに作っている。直接配布やメール配信してきた。すでに目にして、学習で使われた人の話もよく聞いている。しかし応用編、実践編になると実際に出向いて説明しないと十分に伝わらないような気がしている。今はこの考え方の賛同者、けん引役を発掘しているところである。断っておくがこれは非公式なものです。ただ自由裁量で学習するにはかまわないといわれています。実際の学習方法として、1年目はおおむね森田の基礎知識を学んでいく。これは今までどこの学習会でも行われていることである。2年目の応用編は森田理論全体像をまず学習していく。森田理論には4つの大きな柱がある。それぞれの柱を深耕するとともに、相互の関連性を学習していく。そして最後は森田理論のキーワードで補強していく。3年目は、実際に森田理論を生活に活かしていく手法を学んでいく。私は現在13点あげている。このテキストはどんどん更新していくものと考えている。主力はメール配信である。自分でプリントアウトしてファイルにとじ込む。A4サイズで約160ページである。この系統的学習をどう進めていくのか。今のところ主力はネットを使ったオンライン学習会になると考えている。レクチャーを読んで、参加者や進行役が自由に投稿して学習していく方法である。今のところこの方法がよいと考えている。基礎編で3カ月。応用編で3カ月。実践編で3カ月のオンライン学習会である。それを3年間の内に1年ごとに一つづつ受講するのである。これに代わるものとしてDVDやYou Tubeも可能性があるかもしれない。その方が認知度上がるのであれば検討する価値があると思う。一応3年間で基礎固めをしても、そこが出発点だと思う。実践力を高めるための日記指導の活用。掲示板での会員同士の交流。あるいは年に何回かの合宿学習。そして何よりも後輩たちへの援助活動。森田理論を使って社会のあり方、子育て、人間関係などを改めて考える活動。そして夢としては、森田を学習する人を最低でも3万人は作りたい。1万人になれば加速度的に広まっていくのではないかと考えている。最初は苦しい時期が続くだろう。というのは私のブログはその経過をたどっているからである。でも役に立つ必要なものは必ず大衆に受け入れられる。これを確信している。夢は実現に向かって進まなくてはならない。今は所属しているセルフヘルプグループもあるので単独行動は許されないので自重している。でも夢はいつか実現してみたいとひそかに思っている。
2015.04.09
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2015年4月号の「生活の発見誌」の37ページからの記事は永久保存版にしたいと思っています。コピーして自分独自のテキストに貼りつけたいと思っています。それほど的確な記事です。強迫行為を伴う強迫神経症の人は必見です。ガス栓が気になり何度も確認行為をしている人のメカニズムをこう説明されています。強迫行為をする人は五感に対する信頼が弱いため、ガス栓を見ただけでは安心できません。そこで一旦言葉で「閉まっている」ととらえ直して確認するというやり方をします。いわゆる「意識レベル」での確認です。そのため、意識作用に必然的にともなう「閉まっていないのでは」という反対観念が想起され、その葛藤のなかで身動きできなってしまうのです。健康な人は、わざわざ言葉でとらえ直すことはしませんので、反対観念の出る余地がないのです。この悪循環から抜け出るためにはどうしたらよいのか。1、 自分の確認の仕方が健康なときとは違い「意識レベルでの行為」であると自覚することがポイントである。意識レベルでの行為だから「反対観念」が生まれ、その葛藤で確認を繰り返すことになるという、からくりをよく学習すること。2、 「確認した」という事実にすがるという方法をとる。確かに、何度確認しても「閉まった」という実感が得られないというのが強迫神経症の特徴です。それでも「何度か確認を繰返した」という事実だけは確認できているのですから、「その事実」にすがることで、しだいに五感の持つ確かな手ごたえを感じられるようになってゆきます。強迫行為をする人の心の中では、「強迫行為をしない」という決意を強固に持てば持つほど、一方で「強迫行為をしたい」という反対観念が同時に立ちあがってくる。森田理論で言う精神拮抗作用がマイナスに作用しているのです。反対観念にとらわれて生活に支障をきたしているというのが実態です。この方はさらに森田の受容的側面を取り入れていくことの重要性を指摘されています。不安常住、あるがままの態度です。こういう具体的な手法も大事です。1、 例えば「質問しよう」とすると、それと拮抗する「大勢の前では恥をかきたくない」という気持ちが同時に立ちあがってきますが、すぐにスッキリせずにこの気持ちの揺れをそのままにしておくと、そのうち自然に落ち着くところで動けるようになります。2、 強迫神経症の人は悩みを一つに絞って悩んでおられる。一つに絞らずに同時にたくさんの悩みを抱えていたほうが思いのほか楽になります。以上概略を説明しました。強迫行為で悩んでおられる方は、この記事をよく読んでください。また生活の発見会の中に「生泉会」という学習グループがあります。克服した仲間がたくさんおられます。その「生泉会」から、「仲間とともに強迫神経症を生きる」という冊子も発行されていますのでご一読されてはいかがでしょうか。立ち直りのエッセンスの詰まったとてもよい本です。
2015.04.08
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沖縄の米軍普天間基地の辺野古移転がもめている。政府の言い分はこうである。普天間の危険除去と日本の防衛を考えると必要な措置である。前知事から経済協力と引き換えに承認を受けており、いまさら撤回はできない。それに対して翁長雄志沖縄県知事は、公約で「辺野古に新基地は造らせない」と掲げて当選した。名護市長選も衆議院でも県内4選挙区で移設反対派が勝利を収めている。真摯に民意に耳を傾けてほしい。この問題は、沖縄県民が受けてきた過去の経過から見て容易に結論の出るものではない。しかし放置しておくにも行かない。でもこの問題は私が論評するには荷が重すぎる。注意深く成り行きを見守ってゆきたい。考えてみると、私たちの日常生活の中でこの手の問題は時々発生する。今日はそのことを考えてみたい。森田では容易に結論の出ないような問題は、二つの相対立する考え方をもとにしてあらゆる視点で試行錯誤を繰り返す。すると時間の経過とともに自然に折り合いがつくものであるという。だから無理矢理どちらかの考えに固執することは避けなければならないと言っています。例えば赤ちゃんが夜泣きをしてうるさい時に、眠りから覚めてイライラすることがある。そんな時に叱りつけたり、お菓子を与えて機嫌をとったりすることがある。森田先生はどうしようかといろいろと思索しているうちに、子どもは自然に泣きやむものだといわれています。だから性急に対策を打つのではなく、イライラした気持ちを抱えたまま、揺れ動く心のままにじっとしていることである。これを「かくあるべし」でどちらかに決めつけることは、のちのち多くの問題を生じさせる。その問題を解決しようとするとますます問題の本質からそれていってしまう。でも現実には、普天間移設のような放置しておけない問題もある。そういう時にはどうするか。いろんな案を出しあい、双方がある程度譲り合って、妥協点を見つけていくことしかないのではなかろうか。時間がかかってもそれしか方法が無い。暴力や抑圧でもって一方が他方を支配してしまう事は絶対に避けなければならない。案を出すにあたっては、将来的にどちらの案が明るい見通しが立ち、発展性があるのか。次にどちらの案が住民、関係する人たちの生活を豊かにして役に立つのか。この視点からの議論が必要なのではなかろうか。
2015.04.07
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新興宗教ではマインドコントロールという事が言われる。洗脳である。洗脳はどのように行われるか。まずお布施と言って自分の財産を差し出すことを求められる。無一文にさせられる。次に家族、友人、仕事や学校での人間関係を断つことを求められる。人間的な温かい触れ合い、相談相手を持たせないのである。元々希薄だったものをさらに孤立させるのだ。次に隔離した上で、人格否定、存在否定の言葉を浴びせるのである。「お前は駄目人間だ」「何にもできない奴だ」「やがて破滅してしまうしかない」「この世は破滅に向かって突き進んでいる」「最後に破壊されてしまう」などなど。つまり自分のアイデンティティのすべてを破壊してしまうのである。人格破壊と思想の分裂が起きているのである。心のよりどころをすべて取り去ってしまうのである。そこにカリスマ教祖様が、時には暴力を背景にして恐怖の暗示を与えていくのである。信者の心の空白をカリスマ教祖様が埋めていくのである。「私を信じてついてきなさい。そうすれば救われる。」「あなたには私を信じるしかない」「私の言う通りにしないとあなたは駄目になる」「あなたにはもはやこれしか残されていない」など。ここまで洗脳されてしまうと、もう逃げ出すことはできなくなる。よきにつけ悪しきにつけ教祖様のいいなりになる。このように一歩的に洗脳されて生きていくことは大変不幸である。新興宗教の場合は目に見えるからすぐに分かる。でもこれが目に見えない形で一般社会、あるいは国レベルで行われてしまうとどうだろうか。生まれた時からどっぷりとつかってしまい、成長してきたとするとすでに洗脳されて生きているのだとは気がつかない。たとえば消費は美徳というような考え方である。洗脳されないでアイデンティティを保つためにはどうしたらよいのか。3つほど提案したい。(アイデンティティという言葉は、他者との関係の中での自己の存在価値、存在意義、存在理由という意味で使っている)1、 自分の存在価値を見つけて高めていく。どんなに困難な状況になっても、死に絶えるまで人間には存在価値がある。その価値価値をよりどころにして生きていく道が残されている。森田を学習すると、「物の性を活かす」という事がある。自分、他人、物、時間、お金などの存在価値を尊重して、最後まで活かし尽くすという考え方である。新興宗教の自己否定とはまるっきり異なる考え方である。またこの考え方は「かくあるべし」ではなく現実、事実を肯定していく考え方である。2、 人間関係は薄く幅広い付き合いをお勧めする。森田で言う「不即不離」の人間関係である。一般的に神経症になるような人は親密な狭い人間関係を求めていく。2、3人親友がいれば後は友達なんかいらないというような考え方である。でもそれだと何かのトラブルで親友を失った時はどうするのか。人間関係はその時々でくっついたり離れたりしているものです。親子、親戚、会社、学校、地域社会、同窓生、集談会、趣味の会等様々な人間関係の中で、あまりべたべたしないで時と場合に応じて、薄く幅広い人間関係を保っていく。すると困難に出会った時、適当な人が手を差し伸べてくれるのではないでしょうか。3、 雑事や日常茶飯事などに丁寧に取り組んでいく。規則正しい生活を送っていく。平凡な生活の中でささやかな楽しみをいくつも作りだしていくこと。これはいくら経済的に余裕があっても、基本的には決して他人任せにしてはならない。これが自分が生きるための土台となるのである。これ以外にも、自分が自立して生きがいのある人生を全うすることはあるだろう。それはそれぞれに考えて付け足してもらいたい。でもこの3点はその土台となるものであるから、決して見過ごすことはできないと思う。
2015.04.06
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沖縄の「舞踊集団 花やから」をご紹介します。滑稽な子どもたちの踊りや歌を見ていると、憂鬱な気持ちなどすぐに飛んでいってしまいそうです。小さい女の子がおひねりをあつめる姿が滑稽でした。私も老人ホームの慰問活動をしていますが、「花やから」の踊りや歌を見たり聴いたりすればきっとお年寄りたちも元気を取り戻すと思います。「舞踊集団 花やから」は1997年1月、沖縄の舞踊の明日を担う少女達による子供舞踊集団として結成されました。少女達の舞台での華やかさに「花」の艶やかさ美しさのイメージを重ね合わせ、沖縄の方言で「優れた者、卓越した者」を意味する「やから」と合わせて名付けられたそうです。「舞踊集団 花やから」の舞台は、琉球古典舞踊のほか、琉球舞踊をベースにした民謡・童謡・歌謡の創作舞踊を中心とし、曲間を空けずテンポ良く連続的に展開していきます。歌・三味線のライブコーナーや沖縄の方言での寸劇などでは、従来の琉球舞踊にエンターテーメント性を加味して「沖縄」を表現しています。沖縄県内での公演はもとより、テレビ/CM出演多数。2000年にスタートした全国公演(主催:民主音楽協会)で日本各地を巡業するなど、年間ステージ数は150〜200回に及びます。また、海外公演を行うなど、活躍の場をいっそう広げています。ホームページ参照しました。是非YOU TUBEでご覧ください。たくさんアップされています。皆さんも「一人一芸」にぜひ挑戦してみてください。
2015.04.05
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神経質の人はプライドの高い人が多い。自尊心、自意識、自己愛、選民意識のことである。誇り高き人々なのである。森田では唯我独尊という言葉がある。どんなに困難なことがあっても、自分に対する確固たる信頼や自信が持てれば立ち向かっていけるはずである。他人にどういわれようが、どう扱われようが右往左往することはないはずである。ところが、症状で苦しむような人は、他人から注意、非難、拒否、無視、否定されるとナメクジに塩をかけたみたいにたちまち萎縮してしまう。これは仮面をかぶって生活しているようなものだ。仮面をつけて一見誇り高き自分を装ってはいるが、仮面の下には他人の言動に振り回されて苦しんでいる弱弱しい自分がいる。そういう人の特徴は、本来外部に向かうべき意識、目的や目標に向かうべき行動が、内部や自己内省に向かっているのである。こういう人の特徴として、「生の欲望」がとても弱い。そういう気持ちがあっても、執着性が弱い。困難や障害に会うとすぐに腰砕けになってしまうのである。努力をやめるといったん楽になるのですが、それは麻薬みたいなものです。すぐに効果が無くなり、その後は自己嫌悪、自己否定で苦しむことになります。腰砕けになった時の自分の注意や意識はどこに向かうのか。2つある。一つはふがいない自分の心や身体に向かう。もう一つは、努力を放棄して自分の求めていた最終的な理想を夢見るようになるのである。自己否定と「かくあるべし」に振り回されて葛藤が深まり、苦悩するようになるのである。これはもとはと言えば「生の欲望」の取り組みが甘すぎるのである。森田の「生の欲望の発揮」は難しいことはありません。雑事を丁寧にする。日常生活に真剣に取り組む。規則正しい生活を続ける。これが基本です。土台です。何だそんなことかと思われるかもしれません。取り組もうと思えば誰でもできることです。でも1年365日継続することはとても大変なことです。そうしようとする強い意志が必要です。これを日々きちんとこなしていく。まずはこれから手をつけて発展させていく態度が大切です。
2015.04.05
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今日は「物の性を尽くす」ことについて考えてみたい。「なんでも鑑定団」というテレビ番組がある。家に眠っているお宝を鑑定の専門家に鑑定してもらう番組である。鑑定後に必ず鑑定額が示される。あまり大切にしていなかったものに高値がつくことがある。一般的に有名な陶芸家、画家、書家、技工士等の作品には思わぬ高値がつく。反対に本物と信じて疑わなかったのに、真っ赤な偽物と分かりがっかりするケースも多い。出演者の口にすることが面白い。「もし高かったらこれを売って家族で海外旅行に行くための資金にしたい」ここで言うものの価値はなんで決まるのか。希少価値、流通価値、歴史的価値、評価価値、経済的価値等である。一言でいえば、高い鑑定額がつくかどうかということである。その経済的価値一辺倒で一喜一憂しているのである。拝金主義の現代の価値観をそのまま反映しているのである。ここにはものそのものに対する存在価値を認めるという考えは希薄である。次に2006年滋賀県知事に当選した嘉田さんの「もったいない」という言葉がある。少し不便さを我慢すれば無駄遣いが防げる。欲望のままに無駄遣い、浪費、使い捨てすることはいけません。そんな生活を続けていくと早晩石油資源、森林資源、海洋資源、鉱物資源等が枯渇してきます。さらにゴミ処理問題、地球の温暖化などの環境汚染を招き人類の生存に悪影響を及ぼします。だからまだ利用価値があるのに使い捨てするのはやめましょう。欲望を抑えて浪費や資源の無駄遣いはなくしてゆきましょう。古いものをできる限り長く大切に使いましょう。紙などは再利用して使いましょう。なくても生活できるのなら多少の不便は我慢して生活してゆきましょうという考え方です。つまり欲望の暴走を抑えて永続性のある社会を作りましょうという事です。これに対して森田理論の言う「物の性を尽くす」という考え方は何をいっているのか。物にはそれぞれに存在価値があります。自分には自分の存在価値があります。他人には他人の存在価値があります。ところが普段は他と比べて是非善悪の価値判断をしています。存在価値を忘れて、経済的価値、利用価値、評価価値で優劣の判断を付けているのです。存在価値よりもそちらの方の価値に意味があると考えているのです。でもそれは違いますよと教えてくれているのです。その考えによると、「かくあるべし」で考えた理想、完全、完璧な状態のものだけを評価していくということになります。比較して見劣りするもの、価値のないものは簡単に見捨てられてしまいます。安易に新しいもの、すぐれたものと取り換えようとします。森田では生きとし生けるものすべてに存在価値があります。その独自の潜在価値や潜在能力を発掘しましょう。それを土台にして出発して、めいっぱい活用する。さらに磨きをかけて伸ばしてゆきましょう。新しいものに買え変えたりする前に、そのものの利用方法を考えてみましょう。人間についても、ないものねだりをして自己改造を目指すのではなく、元々自分や他人にそなわっている特徴、性格、能力を活かしていくことに力を入れてゆきましょうと言っているのです。これは事実をそのまま認めていく生き方につながります。
2015.04.04
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斎藤孝先生の話です。私が「明治維新がなぜ起こったのか」1時間の講義をしたとします。授業が終わったあとには、学生たち全員がその内容を話すことができて、自分の意見を話せるようになってもらいたい。漫然と講義を聴くだけではやった意味がないと考えておられます。そのためにはどうするか。先生が話す内容をメモさせます。それから、そのメモを記憶させる時間をとります。次に、ふたり一組になって、その内容を順番に話します。その間、聞き手はノートを見ながらチェックして、言い忘れていることを教えてあげる。それを交互に行う。これはお気に入りのテレビ番組を録画しておいて再生するようなものです。「考える授業」というのは、その基本に、先生の言ったことを理解して、自分の口からもう一度言える(再生できる)力がないといけません。再生できない人は自分で考えることはできないと思います。ここが重要なポイントです。ですから心の健康セミナーに参加する。支部研修会や集談会などで講師から森田の講話を聴く。その場合、メモをとって聴くことは大切です。そして整理して他の人に分かりやすく説明してあげる。聴いた人から説明不足の部分や抜け落ちている部分を教えてもらう。そのためには出来るだけ忠実に再生していく。これは森田で言うと事実をよく観察して、見たことを具体的に話すという事だと思います。先入観や決めつけで持って理解してしまうと、どんどん横道にずれて行ってしまいます。ここが基本になります。次にその中で自分の琴線に触れたものをピックアップしてみる。自分の気づきや発見、感想、理解したこと、新たに考えたことを整理してみる。それを集談会のような相互学習の場で、みんなの前で話してみる。あるいはノートに書き出して整理してみる。それは正しい考えなのか。誤解している部分は無いか。さらに発見できたり、発展できる部分は無いか。斎藤先生は、考えるというのは、手で考えることが大切だといわれています。頭の中で観念的に考えるのではなく、口に出したり紙に書いたりして考えることです。そしてまずは読解できる。人の言っていることが分かる。メモがとれる。自分のコメントができる訓練は、社会に出た時に、自由に考えていけるわけです。これは森田理論学習の進め方の中にぜひ取り入れてみたいものです。(池上彰が聞いてみた「育てる人」からもらった6つのヒント 帝国書院参照)
2015.04.03
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2015年4月号の29ページからの体験談は対人恐怖の人は必見だ。対人恐怖症から解放されるとはどういうことかがよく書かれているからである。この方は、他人からよい評価を受けたい、みんなに認められたいという強い欲求を心の奥底に持っていたといわれております。その反面、自分の評価が下がることがすごく気になり、生きづらくなっておられたようです。生活の発見会に入会して、基準型学習会を受講されました。この方は森田理論学習によって考え方や生活が大きく変わりました。二年でこれほど変わられたというのは大変な驚きでした。よほど真剣に取り組まれたのでしょう。以下私の感想です。1、学習仲間との交流から、あるがままの自然な自分の姿を見せる方が、かえって人は受け入れてくれるものだと実感できた。「私は私でいいのではないか」と思えるようになった。趣味のフォークソングサークルに入り、遊び仲間ができた。私は人が大好きで、わりと人懐っこいということが分かってきた。自分を否定しないで、あるがままの自分を受け入れることができるようになったというのがすごいことです。そのためには温かい集団の中に身を置くことが大切です。集談会や支部単位での学習仲間を作っておくことが役に立ちます。2、気になっても手の届かないことにとらわれるよりも、それを手放してあきらめる。それよりももっと大切なことは、できたこと、頑張ったこと、努力したことに目を向け、自分をほめて受け入れること。他人の思惑は気になるままに、雑事や日常生活に取り組まれていることが素晴らしいと思います。3、自分はどうしたいのか、どう感じているのかという欲望・気持ちをキャッチし、自分優先の生き方に変えた。他人の思惑に翻弄されるよりも、自分の素直な感じから出発できるようになったという事だと思います。これは他人中心から自分中心の生き方に変えられたのだと思います。森田の「純な心」の実践そのものです。4、毎日のささやかな幸せを感じるようになり、休日の予定がふえ、誰かと一緒に行動し、皆と共有できることに大きな喜びを感じるとともに行動的になった自分にびっくりしています。大きな喜びよりも、まずは生活の中で小さな幸せを数多く見つけていく生き方、これが素晴らしいと思います。5、しかし、以前よりも少なくなったとはいえ、人の視線や思惑にはあいかわらずドキドキしてしまう気の小さな私もいます。神経症から解放されると、人の思惑が気にならなくなると勘違いしている人がいます。実際は行動が活発になり、他人と接触する機会が増えます。すると他人の思惑が気になるという事はますます増えてくると思います。でも森田理論の学習のおかげで振り回されることは無くなります。ビクビクハラハラして憂鬱ではありますが、それもある程度は必要なのだと思えるようになります。それよりもそうした鋭い感受性は自分の持ち味、個性だと思うようになります。細かいことによく気がつく、他人の苦しみを分かる。他人のことを思いやることは天性のものだから、これにますます磨きをかけて生活していこう。こんなふうに変わってきます。これは不安常住の生き方です。
2015.04.02
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森田理論を早く自分のものにするには、将来森田理論をものにした時の明るいイメージを持つことが大切だと思います。例えば料理を作る時に、最終的にどんな料理ができるのか分からないのではもう一つ身が入りません。でも、先にこんな料理ができますよという、実際に出来上がった料理を見せる。あるいは出来上がった動画や写真などを見せる。するとおいしそうだ。自分も作ってみたい。どうしたらあんなおいしそうな料理ができるんだろう。是非作り方を教えてください。食材はなんだろう。下ごしらえは。調味料は。匙加減は。煮たり焼いたりする時間は。どういう順序で作るんだろうという気持ちになります。最初にイメージを持てたので、やる気や意欲が高まったのです。最初は先生に教わったり、レシピを見たりしてその通りに作ります。順序よく作れば多分同じようなものができるでしょう。出来上がればちょっとした喜びがあります。おいしければ家族が喜んでくれます。それを見て自分もうれしくなります。弾みがついてまた新たな料理に挑戦したい気持ちも湧いてきます。1回経験すればおおよそのことが分かります。それからは自分なりに創意工夫して、食材を変えたり、追加したり、作り方を変更したりいろいろとアレンジすることも可能になります。ここで強調したいことは、最初に最終段階のおいしそうな料理のイメージを持つことの大切さです。それがすべての始まりでした。これを森田に置き換えてみましょう。神経症に陥った時は、症状に振り回されて、なすべきことに手がつかない。心がいつもびくびくおどおどして生きるのがつらい。人間関係がうまくゆかない。八方塞がりの状況です。そういう苦しい状態で集談会に参加してみる。すると症状を持ちながらも、仕事や勉強、家事、育児、介護などに目を向けて日々生活している人がいる。毎日の生活の中で小さな楽しみを見つけて、生活を楽しんでいる人がいる。趣味ややりたい目標に挑戦している人がいる。森田の達人と呼ばれている人がいる。森田理論を生涯学習として深めている人がいる。そういう人を目の当たりにします。つまり自分が神経症を克服して活き活きと生活している最終的なイメージを持つことができます。刺激を受けて、自分もそうなりたいという目標やイメージを持つこと。これがすべての始まりではないでしょうか。目標やよいイメージが湧きおこらないのに森田学習をしなさいといわれても、意欲ややる気は起きてきません。途中で挫折する可能性も高くなります。そういう意味では信頼できる先輩を身近なところで早く見つけるということが大切です。最近の集談会は参加者も少なくなり、近くの集談会ではそういう人が見つからないかもしれません。そういう時は年に何回かは足を延ばして他の集談会に出かける。あるいは1泊2日の支部研修会、その他学習会に参加してみる。心の健康セミナーに出かけてみる。等に取り組んでゆけば間違いなく発掘できるでしょう。さらに先輩たちが森田理論基礎知識、さらに森田理論の全体像に沿って理論の解説をしてくれれば3年でほぼ森田は身につけることでできるものと確信しております。
2015.04.01
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