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「かくあるべし」という思考方法をとる人は、他人や物事を受容するよりも、変革意識の強い人だと思います。改革、革命意識が強い。それは一面問題意識の強い人でもある。強い生の欲望を持っている人だともいえる。でも、そういう人は、どちらかというと相手の話をよく聞くことが苦手である。相手を受容し、共感、友愛、共存、妥協、協力的な関係になることが苦手である。どちらかというと支配欲、権力欲、コントロール欲求が前面に出て、他人と対立することが多くなる。勝つか負けるか、支配するか支配されるかという関係になりやすい。アドラーが言うところのタテの関係になりやすい。しかしその思いは空回りすることが多い。無理矢理自分の思うように相手を動かそうとすると思想の矛盾で苦しむようになる。人間関係でいつもつまずいて気まずい思いをするようになる。人間関係がうまくいかないのは、支配欲求が強すぎて、それが表面化しているからである。そういう人は人間関係のコントロール欲求だけでは終わらない。恐怖や不安な感情も自分の意思の力でねじ伏せようとする。自分自身でさえも理想の自分像を掲げて自己改造を試みるようになる。でもうまくいかなくて自己嫌悪、自己否定に陥ってしまう。さらに天然自然も自分たちの意のままに作り変えようとする。さらに、「かくあるべし」思考をする人は、頭の中で完全、完璧、理想の状態をイメージして、そこから現実をみる傾向が強い人でもある。自分の持っている素質、容姿、性格、境遇等は常に完璧を求める。自分の持っている能力は当たり前だと思う。自分になくて相手にあるものがよく見える。ないものねだりをするようになる。あるもの、持っている、そなわった能力を活かすという気持ちになれない。ないものを獲得して、完全、完璧、理想の自分を目指そうと努力する。そういう完全欲は自分に向けられるだけではすまない。不快な感情も不安や違和感が一つもない100%爽快な状況を求める。他人の欠点や弱みは絶対に許せなくなる。見逃すことがない。完全を押しつけて当然と思っている。生の欲望が強い。問題意識が強くて、変革意識が強いということは一面ではいいことだと思う。また完全、完璧、理想を追い求めることも、一面では素晴らしいことであると思う。しかしそれが極端になると、他人の気持ちを思いやることなく、やりたい放題になる。すぐに相手を自分の意のままに操ろうとする。完全主義が強いと、不完全なところにばかり注意が向いていく。本来なすべきことがおろそかになる。その結果いつもうつ状態を抱えて気が晴れない。そうした状況から抜け出すにはどうしたらよいのだろう。まず私たち神経質者はそういう傾向が強く表れやすいということはしっかりと自覚しておく必要がある。そして相手を受容し、共感、友愛、共存、妥協、協力的な関係を作り上げる方面にこそ全力で取り組んでゆかねばならない。そうしないとバランス、調和がとれないのである。調和がとれないと窮屈な欲求不満だらけの生き方になる。完全主義についても、その方向で努力していくことは必要な場合がある。でもそれに固執すればむしろ弊害の方が大きい。だから、ほどほど、60%で折り合いをつける生き方を身につけていく方向性に舵を切りなおさなければならない。その方がよほど意味がある生き方ができる。その方に注意を向けることによって、バランス、調和をとっていく道を探っていくべきであろう。森田でよくいうバランス、調和を取り戻す必要があるのである。森田先生の言われる精神拮抗作用の考え方はしっかりと身につけたいものである。
2015.11.30
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野田俊作氏の話です。結婚前の若いカップルのカウンセリングをやることが多いのですが、彼らの多くは出だしから間違ったことを考えている。つまり相手と相性が良くて、一心同体で、互いに同じことをいつも考えていたら、幸せになれるだろうと思っている。これ一見そうみたいに思えるでしょう。でも、実はこれは支配欲なんです。相手が自分の思う通りに動けばいいなぁと思っているのです。でもそんな人いませんよ。結婚してみればよく分かるけど、夫婦に与えられた課題はいったい何かというと、自分と違った物の見方をし、違った感じ方をする人とどう生きていくか、なわけです。それを、できるだけ自分と同じ種類の人を、と望むから、まず最初に失望するわけですね。この頃の若い女性はとてもバカげたことを考えているのね。働き者で、やさしい男性がいいという。そんなもの、働き者だったらやさしいわけないのよ。どちらか片方しか取れないのにどっちもある人間が理想だというこれ最初から間違い。さらに根性の悪いことにですね、結婚して幸せにしてもらおうと思っている。そんなアホな話はないと思う。ちゃんとした男にくっついて幸せにしてもらおうという考え方が間違っている。一生苦労するかもしれないけど、彼と一緒だったら、私はどんな苦労でもしようと思い、それが私の幸せだと感じる方がよい。最初から一緒に苦労しようと思って、それで結婚しているならば、これはヨコの関係なんです。あの人にくっついて幸せにしてもらおうと思っているのはタテの関係なんです。結婚の出だしからタテの関係だから、それに伴って出でくる、対人関係は、みんなタテの関係。親子関係や、嫁姑関係もね。絶えず感情が波立つわけよ。およそタテの関係があるときに、我々の感情は騒ぎだすからね。あなた方が日常生活の中で、感情的になることがあるとしたら、それはどこかにタテの関係があるからです。相手と自分は別々の考え方をする人間です。だから考え方の違いがあるのが当然です。それを、相手を自分の思うがままに支配してしまおうと意地を張るから問題が起きてくる。違うことを前提にして、その違いをいかに妥協させてソフトランディグさせていくか。そして協力して生活したり、子育てしたり、生活を楽しんだりする。一人ではとても味わえない人生のだいご味を二人で作り上げて共有化していく。そうでなかったら夫婦関係を継続することがストレスになり、精神的な苦痛を味わい、一人で暮らした方が健全であるということにもなりかねないのです。ましてや世間体、経済的な依存関係を求めて一緒にいるといることは、地獄のような苦しみを続けているということになります。これが心機一転、相手をコントロールしたい、相手を自分の思うように操りたいということは不可能なのだ。またそういう人間関係を続けていてはいけないのだということに気がついて、態度を改めることができれば、途端に夫婦の人間関係は良好になるのです。(続アドラー心理学トーキングセミナー 野田俊作 星雲社 82ページより一部引用)
2015.11.28
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先日マンションに放置自転車があった。交番に電話した。するとすぐに警察官が駆けつけた。警察官はすぐに本署に無線連絡をとられた。盗難届は出ていないということだった。盗難届が出ていないものは持って帰れない。警察の役目はこれで終わりだというのだ。そして役場に電話して引き取ってもらいなさいと言われた。すぐに役場に電話した。受け付けの人が出てきた。「20日ぐらい前から、当マンション内に放置自転車があります。警察の人が役場に引き取ってもらい処理してくださいと言われました。」受付の人は担当部署にまわしますと言われた。都市整備課に回された。一通りまた同じ話をした。すると担当が違います。建設課に回しますのでしばらくお待ちくださいという。しばらくして建設課の人が出てきた。「どうしたんですか」という。私は何度も電話をたらいまわしにされてイライラしていた。でも冷静になってまた一から話をした。すると建設課の人が次のように言われた。「その自転車はどこにあったのですか」「当マンションの出入り口にありました」「公道ではないのですか」「はいそうです」「それでしたら役場では持ち帰ることはしません」「大型ごみの日にお金を支払って処理してください」等という。「でも警察の人が役場に電話してくださいと言われました」「それは警察官の認識が間違っているのです」等という。私はますます頭に血が上ってしました。一発触発のような状態であった。でもここで森田が役に立った。アドラーの「他人を自分の思い通りに支配しようとしていませんか」という言葉が脳裏に浮かんだ。もし相手を自分のいいなりにしようとしていると、人間関係は険悪になりますよということだった。確かに私は放置自転車が目障りで、役場に自転車を処理させようとしていた。でも役場の対応が、自分が想像していたよりも悪かったので腹が立った。普通なら皮肉の一言でも言わないと高ぶった気持ちは収まらないところだ。でもそうしたところで一時的には怒りを発散できても、あとで後悔することになる。それより相手の言い分を、良い悪いと価値批判しないで、よく相手の話を聞いて理解することに専念した方がよい。腹が立ったのは立ったままにしておく。怒りや腹立ちは決してすぐに反応して行動しないこと。時間がたってまだ腹が立っていれば、よく対策を立てて感情的にならずに対応すること。自分の言い分と相手の対応、言いたいことを客観的に第3者の立場から見ること。すると冷静になれる。これが相手を自分のいいなりにしようとする態度から脱却できる方法ではないのか。今回の事件では、役場の人の言い方についてはカチンと来たが、筋は通っている。あの自転車を公道に持っていって、「公道に放置自転車があります」と電話をすればすぐに役場の人が飛んできて、無償で自転車を撤去してくれることが分かった。貴重なことが学習できたのである。自分が他人を意のままにコントロールしようとしていたら、相手と喧嘩になり、イライラはますます増悪していただろうと思った。
2015.11.27
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(学習テーマ) 神経症が治るとはどういうことか(学習のねらい)神経症が治るとはいくつかの段階があると思います。どの段階まで治したいかは人それぞれだと思います。まず治る段階について理解しましょう。この部分の内容は森田理論全体像の概要説明の中で取り扱っています。(内容説明)神経症が治る4つの段階は次の通りです。1、精神交互作用を打破する2、認識の誤り、特に「かくあるべし」の理解と脱却3、是非善悪の価値判断からの脱却4、「生の欲望」に沿った生き方をめざす 1、精神交互作用の打破神経症に陥った人は一つのことにとらわれて、症状以外のことに目が向かなくなります。注意と感覚の相互作用により、どんどん増悪してゆきます。そして観念上の悪循環、行動の悪循環が際限なく繰り返されるようになります。まず、その悪循環に歯止めをかけることが必要になります。それは、症状はひとまず横において、日常生活のなすべきことに手をだすということです。不安や恐怖をもちながらも、これができるようになれば、第一段階の治るということは達成されます。治った段階で「欲望と不安の関係」の学習をして、神経症の成り立ちについて十分に自覚を深めてください。キーワードは、生の欲望の発揮、欲望と不安の調和、精神交互作用と手段の自己目的化などです。2、認識の誤り、特に「かくあるべし」と苦悩の始まりの理解神経症に陥った人は、普通の人と比べて多くの認識の誤りを持っています。特に強い「かくあるべし」を持っています。○○しなければいけない。○○してはいけないといったものです。「かくあるべし」を前面に打ち出して、自分や他人、物事を価値判断してゆくと、「現実、現状、事実」はとても我慢がならなくなります。無理やり「かくあるべし」に合わせようとすると強い葛藤や苦しみを生みだします。これが神経症への苦悩の始まりとなります。森田では事実から逃げたり、ごまかしたりしないで事実をそのままに認めることができる。このように「事実唯真」の動かすべからざることを知れば、いまさらいやなものを朗らかにしたり、無常を恒常のものに見替えたり、相対を絶対にしたりする不可能な精神葛藤が無くなるから、ただそれだけで非常に安楽である。事実を素直に認めることは簡単なようで難しい。まずは学習によって、「かくあるべし」がいかに自分を苦しめているかを学習すること。そして実際に応用してみることが大切です。この段階では理論的な理解を深めていくという段階です。必ずしも事実本位、物事本位の生活になっていなくても、理解が深まればよしという段階です。こうした理解が進むと、第二段階の治るということは達成されます。3、次に第三段階の治るについてみてゆきましょう。森田先生は次のように説明しています。善し悪しとか苦楽とかいう事は、事実と言葉との間に非常な相違がある。この苦楽の評価の拘泥を超越して、ただ現実における、我々の「生命の躍動」そのものになりきって行く事が大学卒業程度ということであろうか。私たちは事実を見てたいていよいとか悪いとか是非善悪の価値判断を下しています。例えば人前に出ればあがる。それはよくないことだ。精神を鍛えて、人前でも物おじしない堂々とした人間にならなくてはいけない。等と普通は考えます。森田の学習が進むと、人前であがるというのは自然現象である。自然現象はどうすることもできないものである。あがるということをやりくりしてはいけない。そのまま受け入れて、事実に服従しなければならないというように考えることができます。ところが心の中では依然として、これが良いとか悪いとかの是非善悪の価値判断をしているのです。これでは本当の意味で「思想の矛盾」を打破して事実本位を体得することは困難です。この段階では、事実をよく観察する。事実をしっかりと正確に把握する。その事実を先入観や決めつけなどしないでそのまま認めるということが必要です。さらに事実を受け入れて、事実に服従できるようになるということです。事実は比較してその特徴や個性等の違いをしっかりと見極めることは必要ですが、決して是非善悪の価値判断をしてはいけません。これが身につくと、第三段階の治るということは達成されます。4、「生の欲望」に沿った生き方ができるようになる「かくあるべし」が小さくなり、事実本位、物事本位の生活態度が身についてくると、神経質者は強い「生の欲望」を持っていますから、不安というブレーキを活用しながら、自分に備わった能力をどこまでも活かし、運命を切り開いてゆくようになります。これが第四の最終段階です。この段階では、症状を治すということを通り越して、神経質者としてよりよい生き方を目指してゆくことになります。(話し合うテーマ、課題)・あなたは今どの段階にありますか。・また、どんな段階を目指しますか。・そのために力を入れたいことはどんなことですか。
2015.11.26
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私はどじょうすくい1級の腕前です。3級から始まって、2級、1級なのです。この先検定を受ければ初段、2段、3段、準師範、師範と続きます。ただ私は検定にはあまり関心はありません。この写真は、安来節演芸館で撮りました。私も数多く踊ってきましたが、自分の写真がないのでやむなく代用品を載せてみます。
2015.11.25
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どこの会社でも指示命令系統がはっきりしています。取締役会での会社の方針は、社長、部長、課長、係長、主任、社員へと伝達されます。そして全体が一丸となって目標達成のため頑張ります。ではここで質問です。社長は社員と比べて偉い人なんでしょうか。一般社員は上司と比べて人間的に劣っているのでしょうか。私はそうは思いません。そう考える人は、仕事での役割分担と個人の人格を一緒にしているのだと思います。管理職になるような人は目標設定能力のある人です。またそれを実現するために創意工夫の出来る人です。さらにリーダーシップがとれる人です。人を束ねて、一つの方向に向かって誘導していく力あります。一方そんな能力が全くない人もいます。目標設定能力もない。対人折衝能力もない。でもコツコツと努力して自分に与えられた仕事だけならきちんと成果を出すことができる人もいます。会社ではそういう人も欠かすことはできません。また人間関係が希薄な専門職や研究職としてだったら力が出し切れる人もいます。これはどういうことでしょう。人それぞれに能力や力量が違うということを意味しています。人それぞれ違いがある。個性を持っているということです。でもそれぞれの人が持っている独自の存在価値に上下があるということではありません。これはオーケストラの指揮者にも言えることです。全体を束ねて指揮をしていくのが得意な人もいます。そうではなくてバイオリンの演奏技術で勝負していく人もいます。指揮は上手だが、演奏技術のそれほどでもないという人もいるのです。プロ野球でも現役の時目立った成績は残していないのに監督として素晴らしい仕事をする人。現役の時は選手として素晴らしい成績を残した人が、監督としては成果を上げることができない人。これも人それぞれに異なった素晴らしい存在価値は持っているということです。どちらが人格的に優れている、劣っている、あるいは良いとか悪いとかの評価とは関係がありません。ここでよく間違えるのは、管理職、指揮者、監督が偉い。人格的にすぐれているとみなすことです。これは組織として目的を達成するための役割分担にすぎないのです。会社の役職者が平社員と比べて人格的にすぐれているということではありません。この点をしっかりと押さえてほしいものです。この点をしっかりと理解していると、人間関係の持ち方が変わってきます。相手を自分の思いのままに動かそうとしなくなります。これを誤解すると上司が地位や権力を利用して部下に罵声を浴びせることがあります。世にいうところのパワーハラスメントです。これは越権行為です。直接的でなくても、心の中でいつも他人をコントロールしようと思っていると、何かの拍子に必ず言動に出てきます。これらは上司が部下を見下して、自分の思い通りに動かそうとしているのです。役割の分担を人間の価値の上下と取り間違えてはならないと思います。人間が他の人間を支配したり、被支配に追い込まれると腹が立ったり、怒りが出てきたりします。これをタテの人間関係といいます。アドラーが言うように人間関係はヨコの関係を基本にしないといけません。ヨコの人間関係は信頼、尊敬、評価、協力、共感、寛容、平等という言葉がよく似合います。そこでは勝ったとか負けたとか、優れているとか、劣っているとか、良いとか悪いとかの人格評価とは無縁な世界だと思います。人間の生きる苦しみの多くは、相手を自分の思い通りに動かしたいということからきているのではないでしょうか。会社、家庭、学校等の人間関係でタテの人間関係を中心にしていると自分も他人も不幸になります。タテの生き方をやめて、ヨコの生き方に意識的にくり組むと葛藤がなくなりますのでとても楽になると思われます。
2015.11.25
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先日、「心の健康セミナーイン広島」がありました。これを主催されたのは、広島市安芸区矢野町にある「医療法人あさだ会 浅田病院」でした。この病院は思春期外来に力を入れておられる病院です。この病院に渡邊先生という方が、臥褥(ガジョク)から始まる入院森田療法を実施されています。期間は約1カ月間とのことでした。入院森田療法は慈恵医科大学第3病院などでも行われていますが、数はほんとにごくわずかです。広島でも入院森田療法に取り組んでいる病院がありますので、ご紹介しました。渡邊医師は水曜日から土曜日まで広島で診療にあたられています。詳しくは、ぜひ「浅田病院」のホームページをご参照願います。追伸 渡邊先生はその後鎌倉市の病院に移られましたので、現在浅田病院では森田療法は行っておりません。
2015.11.24
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私は老人ホームの慰問活動をしています。その時に奉納獅子舞いの「江戸寿獅子」を舞うことがあります。大きな獅子のほうで舞います。これは本来高価なものですが、友人がほぼ無償で作ってくれたものです。約3キロぐらいあります。小さい獅子は宴会などでにぎやかしで使うものです。黒子の衣装で操ります。
2015.11.24
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森田理論学習の方法としては、生活の発見会の集談会に参加することが、今の段階では一番良いと思う。ただ将来的には集談会の数は少なくなっていくのではないかと思っている。しかしフェイスtoフェイスの勉強会は貴重である。少なくなっていっても、年に何回かは活発な集談会に参加することが望ましい。勉強会自体はインターネットを使ったものに変わる可能性がある。しかし、それだけでは肝心なところが補えない。次のようなことが考えられる。1、 本当の意味の共感の場が持てない。2、 自分の心のよりどころとなる集団に癒されるという体験が持てない。3、 親身になった十分なアドバイスが受けられない。4、 世話活動、幹事会などの体験学習ができない。5、 学習の継続性が持てない。すぐに安易に離れてしまう。その結果森田理論の神髄を習得できない。6、 生の人間的交流が持てない。苦しい時相談に乗ってもらうことができない。7、 突っ込んだ学習にならない。森田理論学習は難しくはありませんが、奥が深いと思います。8、 森田を十分に体得した人に接する機会が持てない。魅力ある人に接することができない。9、 貴重な講話などを聴くことができない。10、 傾聴、受容と共感、励ましたり、ほめるという経験が持ちにくい。11、 喫茶店や懇親会などの貴重な交流が持てない。12、 いろんな生活情報などの幅が拡がってこない。13、 自分の特技や自信のある芸などを披露する機会を持てる。14、 力を合わせて学習会やイベントを企画したり、実施する体験が持てない。そのほかにもまだいろいろメリット、デメリットはあると思います。自分のところの集談会へ行くのが苦痛という人は、距離はあっても他の活発で面白そうだという集談会に年に何回か訪問することをお勧めします。私は入会してすぐに世話活動を頼まれて、休みたくても休めないという状況が長続きして、気がつけば森田理論が体得できていたと思っています。また何よりも貴重な人々と交流できたことが財産になっています。
2015.11.24
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海から見た宮島の大鳥居です。いまは引き潮です。宮島は弥山(ミセン)という山があり、ロープウェイで行けます。いくつものハイキングコースがあります。頂上から見た日の出は最高です。また穏やかな瀬戸内の海がパノラマのように広がります。そこには牡蠣いかだが浮かんでいます。
2015.11.23
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昨日田舎に帰って近所の人と話をした。仕事をやめた後は自分の食べる野菜やそば等を作り、自給生活を楽しみたいという夢を語った。今すぐには帰れないので、とりあえずジャガイモ、玉ねぎ、サツマイモ等を植えたいと言った。そんなことをすると、自分が食べる前にイノシシに食べられてしまうといわれた。だから田舎の人でも、イモ類を作る人はいなくなっていると言われた。最近は山からイノシシ、鹿、たぬき、熊が出て来るようになったという。熊が出ているから注意するようにという有線放送がたびたびあると言われた。イノシシは夜になると群れになってそこら中の田畑を走り回る。だから夜になると外出することは控えているという。それよりももっと深刻な問題があるという。講中という隣近所の自助組織があるが、14軒のうち5軒は空き家である。住人が亡くなって全くの空き家が2軒。私のように子どもが都会に住んでいて時々帰っている家が3件。現在住人のいる9軒も高齢化している。そのうち高齢のお年寄りの一人暮らしが2軒。あとの家は老夫婦はいるが、地域の共同作業に出られなくなっている家も2軒ある。限界集落の予備軍になっているのである。そう言えば、見聞きするいたるところが限界集落予備軍なのである。松茸がよく生えた山は、今は荒れ放題で足の踏み場がない。またスズメバチ、蝮等の危険生物がたくさんいるので足を踏み入れることができない。今や稲作は営農集団や個人の農業経営者が手広く引き受けて作っている。小作料は1反につき0.7袋だそうだ。1反というのは10m掛け100mの面積である。それの小作料が21キロの米だという。1割程度だ。それは3反一区画で耕地整理されている土地が対象だ。耕地整理されていない土地などは、大型機械が使えないために耕作放棄地となっている。今年は始めて、小作料は無しでも田圃を作ってほしいという人が現れたそうだ。この傾向は今後ますます加速するだろうといわれていた。ましてや田圃を売ってほしいという人は全くいない。ただでもいらないという。固定資産税がかかる。移転登記が面倒で金がかかるからである。このような状態がつつけば、水利施設の共同作業、河川や田圃の畦の草刈りはできなくなってしまう。まともな田圃でも耕作放棄地の予備軍になってしまう。現在稲作を引き受けている営農集団や個人の農業経営者もTPPで米の自由化が決まり将来に絶望的だそうだ。米なんか作るものではないという人もいる。八方ふさがりで先が見えない。今なんとか生活できている人は、兼業農家で年金がある程度はいる人である。若いころ職人や土木作業員等をしていた人は年金も少なく、米は安く、体は弱っているために仕事はできない。大体仕事自体があまりないのだ。こんな人に夢を持って生きてゆきましょうということ自体無理があると思えて仕方がない。私が話を聞いた方は元公務員で年金で生活は成り立っている。米作りは営農集団に任せている。1町余りの田圃で30キロの米を7袋もらっている。裏にはニワトリ、ウコッケイなどを放し飼いにしている。野菜はカラスよけ、霜よけでハウスの中で作っている。梅干し、ラッキョウ、ブドウ酒、干し柿、燻製、ピザなどを作っていた。80歳を超えているが冗談やユーモアがあり、夫婦ともに元気であった。日々の生活を楽しんでおられるのがよく分かった。ただだんだんと足腰は弱っているようであった。
2015.11.23
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私は田舎をこよなく愛しています。私の田舎は広島県世羅台地です。なしやブドウなどの果物と花街道、高校駅伝で売り出しています。地域おこしが成功しています。私は花が好きなので、チュウリップ、ダリア、ポピー、ラベンダー、ユリ、芝桜、ヒマワリ畑を見に行きます。この写真はチュウリップ祭りのひとこまです。
2015.11.22
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私はこのブログを始めて約3年になる。ほぼ毎日1つは投稿してきた。振り返ってみると私自身とても森田理論を深めることができました。それまでは本は気が向けば読むし気が向かなければ何日も読まなかった。月刊の機関誌「生活の発見」でさえも、正直なところ気に入った記事しか読んでいなかった。ところがこのブログを始めた途端読書欲が旺盛になった。森田のネタは生活の中にもあるが、最も多いのは先人たちの残してくださった本の中にある。その中からヒントをもらって自分なりに森田理論と照らし合わせているのである。現在は月曜日から金曜日までは約3時間程度は本を読んでいる。窓口での受付の仕事が多い。一日3時間程度は受付対応である。大きな声では言えないが、居住者や業者のお相手をする以外は何もすることがないのである。その時間や昼休みの時間を有効活用している。本は森田関連の記事を速読気味に読んでいる。200ページのやさしい本は1日で読みあげてしまう。300ページぐらいで、難しい本は2日で読み上げる。1カ月20日として15冊から20冊ぐらいは読んでいるだろうか。本はほとんど図書館で借りている。心理学、医学、教育、人生観、伝記、思想、生活などが中心である。読んでいて大事なところは付箋をつける。そこをあとで読み返して、ポイントをA4用紙に書き出す。その中から森田の琴線に触れるものを選別して、森田理論を使って自分の考え方をまとめ上げているのである。この作業を3年間ずっと通してやっている。今までの食い逃げ状態の森田理論の学習とは大違いである。自分が日々進化していることをひしひしと感じるのである。また自分が気づいていなかった森田理論の重要点が、にわかに意識されるようになることがよくある。例えば今一番うれしいのは、心理学者アドラーの思想を学習していてあることに気がついたことだ。アドラーはいろんなことを言っている。森田と関係あることもたくさんある。その中でも、特筆すべきことを発見した。アドラーは他人を自分の思うように動かしてはならないと言っている。他人を自分の意のままに動かしてはならない。支配被支配の関係になってはいけない。これはタテの人間関係であるという。これが森田とつながる考え方なのだ。私はアドラーの思想の中から森田理論に通じる考え方を発見したのだ。このアドラーの考え方を見つけたときにピンときた。森田では感情は自然現象だから人間の意思の自由はない。だから感情はコントロールすることはできないし、してはならないと言っている。この点に関して、アドラーは他人に絞って、自分の都合のよいように他人をコントロールしてはならないと言っているのだ。私はそこからさらに話を進めて考えてみた。森田理論でも感情は自分の意のままに操ってはならないと言っている。でもそれだけではない。相手の理不尽な行為に対しても、その事実を認識することは必要であるが、相手に対して仕返しをしたり、その行為を評価して是非善悪で優劣をつけてコントロールしてはならないと言っている。さらにそれだけではない。自分自身を自分で作り上げた「かくあるべし」に近づけるように叱咤激励することは、自分自身をコントロールしようとすることにつながっている。また自然現象、経済危機、紛争なども自分たち人間の思いのままに変えようとしている。つまり人間の不幸の始まりは、コントロールしてはならないものを無理矢理コントロールして、自分の都合のよいように支配しようとしていることにあるのではないか。あるいは人間の都合のよいように自然を支配しようとしていることにあるのではないか。この考え方を見つけたときはうれしかった。森田理論をさらに深めることができると確信できたからである。こういうことが年間を通じると何回かは訪れるのである。それは予期することはできないが、学習の過程で突如として出てくるものである。これだから森田理論の学習とブログは止められないのである。それがいくつか積み重なるとすごい思想に発展するのではないかと思っている。
2015.11.22
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数年前に市民菜園を借りてキュウリ、ナス、ピーマン、ミニトマトを作っていました。その時のキュウリです。キュウリやナスの漬物を作っていました。今はくじに外れて畑が貸してもらえません。でも、自分の食べる野菜は自分で作りたい。その夢は必ず実現したいと思っています。
2015.11.21
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怒り、恨み、憎しみという感情は自然に湧き起こったといいますが、これらは相手を自分の思うように操作するために利用されている。怒るとご主人が自分のいいなりになるだろう。叱ると子どもが自分に従うだろう。やさしく諭してもいうことを聞かないだろうが、目を吊り上げて、大きな声で怒ったり、叱れば効き目があるだろう。心はちゃんとその要望にこたえて怒りを作りだしてくれるようになっているのです。こう考えると怒りは自分の考えと違う行動をとる相手に対して、なんとか自分のコントロール下に置こうとしているのです。相手を自分の思うままに支配しようとしているのです。怒りはそのための手段になっているのです。強力な道具となっているのです。怒りという手段を最大限に使って、相手を自分に屈服させようとしているのです。怒りという道具を使わないと目的を果たすことが大変難しくなります。うそだと思われるのなら、相手を自分の支配下において、手なずけようという気持ちが全くない状態を想像してみてください。相手は自分と同じ意思を持った人間である。だから時には見解の違うことは起こりえるはずだ。相手と対等な人間関係を築き上げて、利害が一致しないときは、話し合いで分かりあおうと思っている状態を想像してみてください。相手を自分の思い通りに動かそうとしないで、相手の実際の行動や考え方を尊重し、それに寄り添って励ましたり、協力したりすることができます。そういう友愛、調和の気持ちのもとでは怒りは湧きおこらないのではないでしょうか。人はそれぞれ自由にのびのびと自分の生き方をする権利があると言いながら、もう一方で他人は自分の思い通りに動くべきだと考えていると、大きな矛盾を抱えていることになります。実はこのような人間関係を心理学者のアドラーは、タテの人間関係と言っています。タテの人間関係は相手と自分を競争関係に追い込み、どちらが勝ちでどちらが負けという人間不信に追いやるものなのです。お互いに支配するか、支配されるかでいつも戦闘状態にあるのです。そこには非難、説教、命令、指示、禁止、叱責、怒り、拒否、無視、否定、抑圧などがつきまといます。タテの人間関係では、思いやりのある人間関係を築くことが難しくなります。いつも疑心暗鬼の状態です。また子どもは過保護、過干渉、放任等で健全な人格が育たなくなってしまいます。また他人を思い通りに動かそうとする人はそれだけには留まりません。自然現象である悲しみ、嫉妬、不安、違和感、恐怖、不快感などの感情も自由自在に操作しようとするのです。そうなると神経症に陥りやすくなります。また自分自身も思いのままに動かそうとします。「かくあるべし」という理想の状態にない自分を嫌悪し、自己否定するようになります。自分を認めることができず、苦悩や葛藤で苦しみ続けます。また自然災害なども受け入れることができません。自然現象も自分たちがコントロール可能だと考えているのです。今は不可能でもいずれ将来コントロールできると考えているのです。謙虚さを失って自然に対して闘いを挑もうとするのです。アドラーや森田先生は、そうした感情、自分、他人、自然を意のままにコントロールしようとする態度を厳しく糾弾されています。森田先生は、自然に服従する態度を求められております。自然に反した行動は悪循環のスパイラルに落ち込んでしまいます。アドラーはタテの人間関係ではなく、ヨコの人間関係を中心にして交流をはかることを提唱されています。ヨコの人間関係は、まず相手の存在価値を正しく認めていく。そして尊敬、信頼、協力、共感、平等、寛容、調整等を基本とした人間関係を提唱されています。(続アドラー心理学 トーキングセミナー 野田俊作 星雲社参照)
2015.11.21
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大阪に単身赴任の時に行きました。紅葉まっ盛りの天龍寺、常寂光寺、落柿舎、二尊院、袛王寺、化野念仏寺のハイキングは最高でした。あと京都は、サントリー山崎ウィスキー工場、サントリー京都ビール工場もお気に入りでした。ウィスキー山崎10年物とプレミアムモルツの試飲のあと、淀の京都競馬場で競馬を楽しんだのがいい思い出です。
2015.11.20
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イタリアの映画に「ひまわり」というのがあるそうだ。愛する夫をロシア戦線に連れて行かれて、夫は行方不明になる。はるばるミラノからその妻(ソフィア・ローレン)がロシアを訪ねて探し出す。しかし、その夫は、自分を助けてくれた若いロシア娘と結婚し、子供のある家庭を作っている。妻はこの現実に出会って絶望的な気持ちになって、ミラノに戻る。しかし、夫もかっての妻に対する愛情を失ってはいない。ロシアからはるばるミラノを訪れて再会するが、過去の愛を現在にまた取り戻すにはなかなかむずかしい現実がある。心ならずも二人はまた離れていかねばならない。この映画に感動した小此木圭吾先生は学生に見せた。すると学生の感想はこうだ。「お互いにずいぶん見極めの悪い人たちですね。大体、何年も行方不明になったり別れたりして、一緒に暮らすこともできないような人のことをいつまでもああやって思いづけているなんて、およそ見極めが悪いよ。1年もいなくなったら、さっさと次の人を見つければいいのに、何か見ていて愚かしい感じがしてきてしまいます。」小此木先生は、世代間ギャップを感じてすごい衝撃を受けたそうだ。私も驚きました。そしてこう思いました。初恋の人や生き別れになった人のことをいつまでも思い続けることはすばらしいことではないか。執着性が強いというけれども、確かに私たちのように感情を流すことができずに一つのことにいつまでもこだわるというのは問題がある。でもこういうこだわりはよいのではないか。執着性というのはスッポンのように一度食いついたら離さないことだが、これにもプラスとマイナスの両面があるように思う。これはプラスの面だと思う。これと同じような映画でメリル・ストリープ主演の「マディソン郡の橋」という映画がありました。旅先で出会った人妻を思い続けて一生を独身で過ごす男の物語です。せつない映画ですが人間の人情について考えさせてくれました。小此木先生と同じような感性の持ち主は、神経質性格の「心配性」という特徴を持った人ではないだろうか。心配性というのは、普通の人が感じられないようなことでも、敏感に感じることができる。つまり感受性や感性の強い人である。これは生まれつきのものであって、あとから訓練によって身につくものではない。自分たちは素晴らしい特徴を持っているということに目覚めて、それをさらに磨き上げていくことに力を注いでゆきたいものである。心理学者のアドラーは、「重要なことは何を持って生まれたかではなく、与えられたものをどう使いこなすかである」と言っている。私たちは神経質性格を持って生まれた。これを活かして生きていくしか他に道はない。
2015.11.20
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チンドン屋で公民館祭りで宣伝に行ってきました。老人ホーム慰問、地域のイベントで引っ張りだこです。これにゴロス(タイコ)が加わればフルメンバーです。後ろでアルトサックスを吹いているのが私です。
2015.11.19
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野田俊作さんの本にこんな話があった。夫が夜遅く帰ってきます。妻は腹を立てました。「あなた、今ごろまで一体何をしてたのよ」と怒りました。この妻の怒りの感情の目的は、夫を脅かして早く帰宅させることが目的です。でも遅くなって怒られた夫は妻のことが嫌いになるかもしれません。夫婦仲は険悪になります。こんな些細なことがチリと積もれば修復不可能となりかねません。お互いに離婚を考えるようになるかもしれません。こんな時は、野田さんは次のようにアドバイスしました。私メッセージを使って、「私はあなたが遅くなると寂しいので、早く帰ってもらえないかしら。あなたが早く帰ってきてくれると本当にうれしいんだけど」すると妻は、「そんなこと金輪際言えません。腹が立って仕方がないんですから」と言われたというのです。これは妻が自分の思うように夫を操りたいという気持ちが前面に出ているからだと思います。夫を自分の言いなりにできると思っているのです。つまり常に戦闘状態にあるのです。自分の思い通りに夫を動かしたいという気持ちが強いと、夫がその通りに行動してくれないと腹が立ちます。怒りを無くそうと思えば、夫といえども自分の自由にはならない。だから早く帰ってきてほしいという自分の希望は伝えるけれども、どう行動するかは相手に任せるしかない。時には自分の思い通りになることもあるが、半分以上は自分の思いとは反対の行動をとられる。するとがっかりする。ショックを受けることもあります。反対にそれは自分の希望を伝えて、その後の行動は相手の自主性に任せるしない。自分には命令や強迫で相手を操作する権限はない。と思っていれば腹は立ちません。そもそも夫婦関係はどちらが上でどちらが下というようなものではないのではないでしょうか。そういう方は夫婦の人間関係以外のところでも、対人関係が勝ったか負けたか、屈辱を受けたか、屈辱を与えたか、自分がよいか悪いか、優れているか劣っているかという価値判断をしているのです。力関係が自分の方が強ければ、相手を自分に従属させようとします。反対に自分の方が弱いと、陰で相手を批判したり、足を引っ張ったり、距離をとるようになります。これは縦の人間関係にとらわれているのです。相手と自分を常に価値判断のまな板に載せて闘っているのです。縦の人間関係にとらわれると勝ち負けにとらわれて、いつも対立するようになります。そして怒りや怯えがつきまといます。こういう人は人間関係を改善するには、横の関係を意識するようになるといいのです。縦は勝ち負け、支配被支配の関係になりますが、横の関係はお互いに存在価値を認め、協力的な関係、信頼関係の構築が基本になります。相手との関係を良好にするためには何が必要なのか。どう行動すればお互いの関係がよりよくなるのかと考えることです。将来的によりよい人間関係に発展するように努力することです。その過程では自分の考えを自由に述べてもいいのです。論争することはよいのです。でも自分の考えを一方的に相手に押し付けるのではなく、相手の言い分もよく聞かなくてはなりません。相手を尊重し、相手を信頼し、相手の身になって考えることが必要です。そして譲り合い、協力しあってよりよい人間関係を作り上げていく。多くの食い違いを突き合わせて、折り合う接地点を見つけるように努力する。森田でいうと「かくあるべし」的思考から、事実本位の態度に転換することを意味します。(続アドラー心理学 トーキングセミナー 野田俊作 星雲社参照)
2015.11.19
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(学習テーマ) 認識の誤り、認知の偏りについて(学習のねらい)森田では、「劣等感的差別観」「部分的弱点の絶対視」「劣等感的投射」「手段の自己目的化」「異物化のからくり」等を学習します。ここではそれ以外にも認知行動療法で取り上げられている認知の偏りについても学習します。森田理論全体像での該当場所は、「かくあるべし」の発生と苦悩の始まりです。(内容説明)まず森田でいわれている認識の誤りから見てゆきましょう。1、劣等感的差別観 他人と比べて自分だけが外からの刺激に対して特別に抵抗力が弱い。普通の人と比べて自分だけが特別精神的に弱い。あるいは身体的に劣っていると劣等感的に自分を見てしまう。2、部分的弱点の絶対視 自分のある不安や弱点を、自分の将来を左右する致命的な障害のように受け取ってしまい嘆き悲しむ態度のこと。3、劣等感的投射 自分の欠点や弱点にとらわれていると、他人はそのことに気がついて、自分に対して、反感、軽蔑、嫌悪したり、迷惑がってくるはずだと思いこむ。4、手段の自己目的化 不安や恐怖は、欲望達成の過程で欲望が暴走しないように制御機能を担っています。ところが一方的に不安や恐怖にとらわれると、生の欲望の発揮の方向へは向かわずに、不安や恐怖を取り除くことばかりにエネルギーを使うようになります。5、異物化のからくり 生活している中で不安はつきものですが、不安はあってはならないものと考える。不安を異物のように取り扱って、不安を排除しようとしたり、不安から逃げたりするようになること。次に認知療法で取り上げられている認知の偏りについてみてゆきましょう。全か無か思考、一般化のしすぎ、心のフィルター、よい出来事を悪く考える、結論の飛躍、拡大解釈と過小評価、自分の感情を根拠に決めつける、すべき思考、レッテル貼り、自分のせいにするなどがあります。主なものを説明します。6、情報を偏って選別する。たとえば、自分が話をしているときに、真剣に話を聞いてくれている人のことを見ようともせずに、あくびをしている人、よそ見をしている人、難しい質問や批判をする人のことだけが気になってしまう。ものの見方がマイナス面、悪い方に偏っている。7、根拠のない結論を下す。事実や証拠もないのに、先入観でそうに違いないときめつけてしまう。事実を実際に確認することができない。事実を確認しない場合間違いが多発する。8、自分のせいだと思い込む。自分の周りで起きたことに対して、「よくないことはすべて自分のせいだ」と思い込んでしまう。失敗やミスはすべて自分の責任だと思って落ち込む。事実を主観的にばかり見ている。客観的に見ることができない。9、よいことを過小評価し、悪いことを過大評価する。よいことは誰か別の人のおかげで、悪くいかないのはすべて自分のせいだと思い込む。マイナス思考、ネガティブ思考である。物事を否定的に見ることが多く、肯定的に見ることができないのでいつまでたってもバランスのとれた考え方ができない。10、たった一つの結果をすべてだと思い込む。例えば会議で誰かが時計に目をやっただけで「ぼくはみんなを退屈させている。」と思い込んでしまう。たった一つの出来事、たった一つの結果を、すべてだと考えてしまいがちなのだ。そして些細なごくわずかな失敗をすぐに人生を左右するような大きな問題にしてしまう。11、オールオアナッシングと考える。善か悪か、成功か失敗か、0か100か、白か黒かの極端な決めつけをしてしまう。現実にはありえないようなことに執着する。中間、灰色、中庸という考え方がない。これらの認識には共通点が見られます。1、 考えることが無茶で大げさであり、論理的に飛躍しすぎている。2、 マイナス思考、ネガティブ思考一辺倒である。そして自己嫌悪、自己否定に陥っている。3、 事実を無視して、実態から遊離して勝手に決めつけをしている。4、 完全主義、「かくあるべし」思考に陥っている。「かくあるべし」は森田で特に重視している認識の誤りです。頭の中で「こうでなければならない」と考えた事と、現実がかけ離れて、それによって悩んだり、苦しみを抱えてしまうことです。(話し合うテーマ、課題)ご自分の問題だと思う認識の誤りはどんなことがありますか。そのためにどんな支障が起きていますか。自分を振り返って具体的にお話ししてください。次の手順によって、みんなで認識の誤り、認知の偏りの修正に取り組んでみましよう。1、 そう考える根拠はどこにあるのか。逆の事実はないのか。別の考え方はできないか。2、 結果について考える。自分の考えていることが本当だとして、どんなひどいことが起きるのだろう。最悪を予想して、覚悟を決める。3、 代わりの考えを探す。現実的で柔軟な考え方を見つける。
2015.11.18
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森田理論学習の応用編の最初の学習項目です。ステップアップ学習会はここから始まります。下の写真が見にくくてすみません。表示を200%ぐらいに拡大してみてください。森田理論全体像の説明は、2013年3月29日、2014年4月25日、2014年9月20日等を参照願います。上の赤字の1は、今現在の欲望(なすべきことややりたいこと)に取り組む。生の欲望の発揮です。左の上の赤字の2の1は、不安の活用欲望の制御機能として働く不安や恐怖本来欲望と不安はアクセルとブレーキ左の下の赤字の2の2は、不安との格闘強い不安、恐怖、不快感、おびえを感じる。神経症の苦しみの発生右の赤字の3は、認識の誤り、「かくあるべし」からの発想。理想の立場から、現実、現状を見てダメ出しをしている。(思想の矛盾)他人中心の生き方下の赤字の4は、現状、現実、事実を認めて受け入れ、そこから出発する。事実本位、物事本位の態度。認識の誤りの打破、「純な心」、私メッセージの体得自分中心の生き方の体得
2015.11.17
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自然の脅威を感じました。人間は「あるがま」に自然を受け入れるしかない。そんなことを感じさせてくれる場所です。「21世紀に残したい日本の自然100選」に選ばれています。
2015.11.17
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2015.11.16
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学習テーマ集は随時作ってゆきますが、その手始めに「純な心」について考えてみました。(学習テーマ) 「純な心」の理解と体験学習(学習のねらい)森田特殊用語である「純な心」の意味を理解して、「純な心」を生活に応用できるようにする。森田理論全体像での該当場所は、「事実本位・物事本位の生活態度を養う」です。(内容説明)「純な心」は、混じりけのない純粋な心のことではありません。物に接して最初に浮かんだ感情、直感などのことを言います。森田では初一念などと言います。普通は瞬間的に湧いてきた感情はすぐに消えてしまいます。そして「かくあるべし」を含んだ初二念、初三念といわれるものが沸き起こってきます。その時点で初一念は蚊帳の外になってしまいます。森田では初一念を大切に取り扱うことが大切であると教えてくれています。「形外先生言行録」から片岡武雄さんの話をご紹介します。ある方がウサギの世話をしておられた。ウサギに餌をやりに小屋に入ったとき、突然猛犬が飛び込み、一頭のウサギをくわえて逃げ出し、噛み殺してしまった事件があった。この方は、これは入口の作り方が悪いからこんなことになってしまったと弁解された。途端にそこに居合わせた私たちもびっくりするほどの森田先生のお叱りの言葉。なぜ森田先生はそんなに叱られたのでしようか。ウサギの世話をしていた人の気持ちになってみましょう。きっとウサギが噛み殺されて一瞬背筋がぞっとするような、目をそむけたくなるような気持ちになられたことでしょう。誰でもそんな気持ちになります。でもそんな気持ちは一瞬で消えて、次にこれはまずいいことになった。森田先生にこっぴどく叱られるかもしれない。そうなったら困る。その状況から逃れられたいと思われたのではないでしょうか。普通の人はそんな感情が自然に湧いてくるでしょう。そこでつい瞬間的に口をついて出た言葉が、「これは入口の作り方が悪い」と責任転嫁されたのです。これは森田の考えからみると見逃すことのできないゆゆしき問題です。森田先生のお叱りの意味は、責任回避の表面的なことではなく、なぜかわいそうなことをしたと思わないのかと。なぜその感情を無視したのかということです。ウサギが噛み殺されて一瞬背筋がぞっとするような、目をそむけたくなるような何ともいやな感情が湧き起ったという事実が一つ目。もうひとつは、これはまずいいことになった。森田先生にこっぴどく叱られるかもしれない。そうなったらイヤだ。これは予期不安ですが、そういう感情が湧き起ったというのはまぎれもない事実だったのです。ここで森田先生の言いたいのは、その2つの感情の事実をごまかさないでなぜ認めて受け入れないのだということなのです。これが核心部分なのです。この方は、事実を認めないで、人に責任転嫁した。言い訳をした。自己弁護した。このことを責めているのです。「純な心」とは、事実を無視して責任転嫁することではないのです。事実を正しく認識して受け入れることです。そして服従することなのです。森田先生は「純な心」ということについて次のように説明しておられます。「純なる心とは、我々の本来の感情であって、この感情の厳然たる事実をいたずらに否定したり、やりくりしないことである。我々はこの事実をもとにして、初めて成長発展するのである。まず是非善悪の標準を定めて、それから後にこれに従っていくというような観念的理想主義ではいけない。あるいはまた自分の気分を満足させればそれでよいという気分本位でもいけない。いま私どもが仕事をするときに、いやなこと、面倒なことがあっても、いやだなあ、面倒だなあというそのままの心から出発したときには、そこには必ず手軽に有効に迅速に、それをやり遂げたいという工夫が起こってます。そのままの気持ちでやったらいいじゃないかと。ところが観念的理想主義を立てて、我々は忍耐し、努力しなければならないとか、あるいはいやとか面倒とか思ってはならないとか、そうゆうことを考えるために、心の働きはいたずらにその本来の感情を否定しようとする。これは不可能な努力でありまして、この不可能な努力のために費やされて、自己本来の欲求に従って困難を切り開いて前進しようという方向には少しも発展しない。」次にチェックシートを配布し、例題をもとにして自分の「純な心」の体験例を記入してみましょう。10分ぐらいの時間をとる。(エクセルで作成した純な心の具体例を記入したシートを配布して自分の例を書いてもらう。)(話し合うテーマ、課題)・森田でいう「純な心」という意味はどういうことだと思われますか。・「純な心」は自分の生活の中でどういう風に役立つと思いましたか。また役立てたいと思われましたか。みんなで話し合ってみましょう
2015.11.16
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2015.11.15
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最近生活の発見会の集談会に参加していて、森田理論学習の内容部分は改革の余地が残されていると思う。この部分をもっともっと改善していけば会員は増えていくように思えてならない。現状の学習テーマは、新版 森田理論学習の要点、生活の発見誌、森田関係図書からの抜粋等から幹事さんなどが用意されているのではなかろうか。内容的には申し分ないのであるが、今一つ学習が深まっていかない。「学習の要点」は見出しのようなものだから、あまりにも簡潔すぎて解説者がいないと学習が深まりにくいと思う。また学習内容がバラバラで統一性がないことも一つの原因だろう。つまみ食いのような断片的な学習は、木だけを見て森を見ないような学習になると思う。森田理論を俯瞰した見方がとても大切だと思う。現在系統的学習方法として、オンライン学習会、基準型学習会などがある。これに参加すれば表面的には系統的な正統森田理論学習ができるようになっている。これは新版 森田理論学習の要点に沿っている。苦労してつくられただけあって非常によくまとまっている。これが森田理論全体像にふれて、森田理論を系統立てて説明してあるともっと違った学習内容になるのではなかろうか。特に「あるがまま」と「純な心」、森田療法の人間観の部分は難しいように思う。でもなかなか内容の変更というのは困難な作業なのかもしれない。以上のような理由で、各地集談会では毎月の森田理論学習のテーマとして何を取り上げるかということに苦労している。そんな状況下で、私は「森田理論学習のテーマ集」のようなものを作ることを思いついた。なんとか役に立つ形にしてメール配信できるようにまとめ上げたいと思う。この機会に少しのその内容について考えてみたい。これは集談会で輪読して、その後参加者みんなで作業をしたり、議論できるようなものだ。輪読するのでA4サイズで2枚ぐらいが適当ではなかろうか。多くても3枚4枚が限度だろう。あまり長いと学習しようという意欲がわかない。これは私の作成した学習テキストを見た人の意見だった。でも要点のみでは人数の少ない集談会では学習の深まりは期待できない。最低限具体例などを取り入れた説明が必要である。「森田理論学習のテーマ集」では、まず、学習項目と学習のねらいを示す。そして森田理論全体像の中のどのあたりの学習になるのかを示す。次に内容説明。最後に課題をいくつか示す。場合によっては実際の作業シートもいくつか作成する。テーマとしては、まず森田理論全体像。これが要となる。1年に2回ぐらいは学習テーマとして取り上げたいものである。その他、このブログでよく取り上げているものをピックアップしてゆく。例えば、神経症克服のための4つの手法。治るとは何か。日常生活に森田を活かす。無所住心。変化対応力を身につける。リズム感とバランス感覚。精神拮抗作用。感じを高める。物の性を尽くす。不安と欲望の関係。「かくあるべし」と苦悩の発生。神経質の性格特徴。感情の法則。認識や認知の誤り。「純な心」と「私メッセージ」。自然に服従するとは。事実本位の体得。今ざっと思いつくテーマはこんなものである。まだまだ吟味してテーマを絞り込まなくてはならない。これらを手元に置いて、集談会で理論学習のテーマが決まらないときは活用していく。肝心なことは森田理論の学習体系の中のどの部分を学習するのかという視点をしっかりと持つことだと思う。こういうものを20テーマぐらい持っていると、参加者の少ない集談会でも森田理論学習を深めていけるのではないかと考えている。さっそく試作に取り掛かってみたいと思う。近いうちに試作品を投稿したい。
2015.11.15
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今日は人間の宿命について考えてみたい。辞書によると、宿命とは、生まれる前から決まっていて、人の力ではどうすることもできない運命だとある。グレートサムシングによって運命づけられた人間の宿命とは何か。私はこう思う。人間は自分という生命体を維持し、できるだけ生きながらえさせるという宿命を負っているのではないか。その目的達成のためには、何が重要であるか。自分が生き残るためには、基本的に他人のことや自然環境の維持などを考える余裕はあまりないのかもしれない。こういうと何をしてもいいのかといわれるような気がする。決してそういうことを言っているのではない。自分中心に視点をおいて、満足できる基本となる考え方を分かってもらいたいのだ。自分という生命体を維持し、生き残らせるためには生半可な取り組みでは絵にかいた餅になってしまうのだ。常に自分の欲望の充足のための、たゆまぬ努力が不可欠となる。欲望についてはマズローの欲望の5段階説を思い出してほしい。まずは衣食住への欲望。安全確保への欲望。温かい人間に囲まれていたいという欲望。他人に認められたいという欲望。自己実現の欲望。その他、もっと人生を楽しみたいという欲求。自由でいたいという欲求などもある。これらの欲望の充足に真剣に取り組まないと、宿命に沿って生きていくことにはならないと思う。ところが、ご存じのように欲望の充足には目の前に必ず大きな障害が待ち構えている。一つは欲望には必ず「不安」がつきまとうことだ。あまりにも不安への対応にばかり傾斜してしまうと、すぐに神経症に陥ることは森田理論で学んだ。手段の自己目的化が起きてしまうのだ。欲望の充足を忘れて、ミイラとりがミイラになるようなものだ。これは本末転倒である。欲望を忘れ去っていることがとても大きな問題である。だから人間はどんなに不安につきまとわれようとも、欲望から目を離してはならないのだと思う。また不安をすべて取り除いてから、欲望に目を向けるのではなく、不安を抱えたまま欲望の充足に邁進することだ。さらに不安と欲望のバランスを取りながら注意深く前進することができれば言うことはない。これは森田理論学習で学んだ通りである。もう一つには、欲望の達成には、大なり小なり目の前に障壁やハードルが立ちふさがっていることだ。障壁やハードルを乗り越えることに、早々にくじけてあきらめてしまうと、もはや人間らしく生きることはできなくなってしまう。闘いを中止して、本来の目標を、指を咥えて見るようになるとどうなるか。たちまち何もすることがなくなり、暇を持て余し、退屈になる。生きていても面白く無くなる。意識は常に内向的になり、自己否定するようになる。よいことは何も起こってはこない。だからどんなに大きな障壁に行く手を妨げられようとも、簡単にあきらめたり、逃避してはならないということだ。一時的に後退することはあってもかまわないが、やがて起き上って前向きに生きていく以外に道はないのだ。それが人間に宿命づけられた生き方である。どうにもならないときは頭を使うことだ。突破口は必ず見つかると思いましょう。あまりに大きな目標は、達成可能な小さな目標に設定を変えなければならない。また自分ひとりで乗り越えられないときは、人の力を借りようではないか。今現在、無理なときは、時が熟すまで待とうではないか。今までのやり方では無理なときは、発想をかえたり、やり方を見直そうではないか。とにかく前に向かって生きていくしか、私たちに与えられた道はないのだという意識をしっかりと自覚しようではありませんか。人間に生まれたからには、この2つの基本的な姿勢だけは絶対に崩してはならないと思う。基本をしっかりと守っていれば、あとは臨機応変に対応すればよいのだと思う。少々のことは自由にしてもよいだろう。宿命に沿って生活する生き方は、とても魅力的な生き方に見えて仕方がない。
2015.11.14
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2015年11月号の生活の発見誌の9ページより引用します。高良武久先生のお話です。森田先生は晩年病弱で、二階によく寝ておられましたが、隣の部屋なんかで患者さんが掃除をして、ハタキをかけておりますと、寝ている先生が、「あの患者は大分よくなっている」「あの患者はまだだなあ」というようなことをおっしゃる。どういうわけかというと、「治らない人は機械的にやる」と言うのですね。「ただ仕事をやりさえすればいいんだというようなことで、機械的にやるから変化がない。よくなっている人は、ものごとに即して緩急がある。つまり、真ん中をやるときだとか、スミの方をやるときだとか、下の方をやるとき、上の方をやる時、音に変化がある」というものですね。ものごとに即する態度と、ただ機械的に治療するために作業をやるんだという態度とは違うわけです。森田先生はこんなふうにもいわれています。「わしは風呂を焚くときには、風呂焚きになり切る。どうしたらゴミの整理がうまくできるか。どうしたら少ない燃料でもっともはやく風呂をわかすことができるか、真剣に研究し、工夫する。風呂を焚くときには風呂焚きになりきり、診察する時には医者になり切り、将棋をさすときは将棋さしになり切る。つまり何をやっても、自分の全力をつくすのだ。そこには価値批判はなく、風呂焚きも診察と同じように興味があり、張り合いがある。これがもし、下手な価値批判にとらわれ、風呂を焚くより原稿を書いた方が得だ、原稿を書くより診察のほうがもうかる、診察よりも病院の経営をやった方が利益が多い、という具合に損得を基準にして考えてゆくと、しまいには何もすることがなくて手をこまねいているか、あるいは詐欺をやった方が早道だ、というようなことにもなりかねない。風呂焚きでも、飯炊きでもなんでもよい。価値批判を抜きにしてとにかく手をつけさえすれば、いつとはなしに興味がでてきて研究と工夫を重ね、仕事はそれからそれへと発展して、社会に役立つ働きができるようになるのだ。」入院森田療法は作業療法とも言われます。掃除、整頓、炊事、風呂焚き等の日常生活から取り組んでゆきます。最初はなんで自分がこんなことをしなければならないんだ。高い入院費を払っているのに作業をさせるなんて許せないと思っておられた人もいたと思います。だから当然作業に身が入りません。イヤイヤ仕方なく手をつけています。あるいは行動すると症状のことを忘れて、気持ちが楽になると聞いて、それなら一生懸命に取り組んでみようと思われた方もおられたでしょう。最初の気持ちはどうでもいいのだと思います。とにかく手や足を動かすことが大切です。でもいつまでもその段階にとどまっていることは大変問題です。作業を始めたら、もう治療のことは忘れて、作業そのものの目的を果たすということが大事になってきます。この段階では作業をやっている中で、気づきや新たな発見が見つかるということに大変意味があります。作業することによって新たな感情が発生するということです。感情は弾みがついてどんどんと変化流転して高まってきます。そして欲求や意欲、やる気が出てきます。こうした変化が起こらなかったとすると、作業療法はほとんど意味がなくなってしまいます。
2015.11.13
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神経症で苦しんでいる時は、話が抽象的になる。さらにみんなに知られたくない都合の悪い話は隠してしまうのでますます分からなくなる。話が抽象的になる人は問題のある事実をよく見ていない。意識的に事実から顔をそむけて見ないようにしたり、隠蔽しようとする。自分の目で事実を確かめもしないで、人が言っていたことを真に受けて先入観や思い込みで事実をねつ造してしまう。事実を観察しないですぐに分かったつもりになって、性急に価値判断をしてしまう。その間違った妄想のもとで行動してしまう。その妄想は論理的に飛躍しており、マイナス思考、ネガティブ思考に偏っている傾向がある。私たちはこのように事実をあまりにも安易な態度で取り扱っているのである。出発点からしてすでに大いに間違っているのである。そういう事実軽視の生活態度が神経症に陥る原因となっているのである。神経症に陥らなくても、葛藤や苦悩を産み、他人との軋轢を生じさせている。事実にこだわる。事実こそが神様であるという視点立たないと、その先どんどん間違った方向に進んでしまう。最後には迷路にはまり取り返しのつかないことになる。自分の目の前に現れる不安、恐怖、不快な感情から目をそむけてはならない。よく観察しないといけない。問題になる事態をよく把握する。事実をありのままに認める。事実を受け入れる。決して安易に事実を捻じ曲げてはいけない。自分の都合のよいように捻じ曲げて解釈してもいけない。事実はお金を扱うのと同じように丁寧に取り扱わないといけない。事実はありのままに見ることである。すると葛藤や苦悩のない生活ができるようになります。マル、ながくろ、バック、クロ、くい、リキ、ちょこ、タロ、うろ、チビ、つる、いろ。これは小学校4年生の横山あやちゃんという子供が、自宅で飼っていた12匹の蚕につけた名前だそうです。一匹ずつ、わずかに違う顔の特徴をつかんでスケッチしているそうです。我々大人には同じようにみえる蚕でも、よく観察しているとそれぞれの違いが見えてくるということです。森田先生も常識にはとらわれない人でした。常識は自分の目で観察して、自分の足で確かめるという態度を崩されることはありませんでした。事実を確かめるということ。事実を具体的、赤裸々に話すということ。これらは面倒なことです。でも神経症から解放されるためには必要不可欠なことです。
2015.11.12
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最近の報道として韓国ではTPPに参加していなかったことが大問題になっている。韓国は家電の分野では品質、価格面で日本企業よりも優位である。それらを海外に輸出して外貨を稼ぎ国民の生活を維持しようとしていたのである。ところがTPP(環太平洋連携協定)に参加していないので、自由競争の場に出ていくことができない。日本が同盟国間で関税を撤廃していくと相対的に韓国企業の価格優位性が薄れていく。すると国益が失われて、国の存立が危うくなる。現政権の政治的失敗だと言われているのである。これに対して私の意見です。それは経済至上主義、効率至上主義、利潤至上主義の資本主義の世界の本流のことばかりを問題にしている。資本主義というのは自由な経済活動を前提としている。便利で、快適で、物質的に豊かな社会の実現を唯一の目標として、儲けたいと思う人は思う存分儲けてくださいという考えである。今やそうした欲望が独り歩きを始めて、欲望が欲望を無制限に生み出し、制御不能に陥ってしまっている。その結果飢餓、自然環境破壊、紛争、テロ、戦争、軍事衝突、人種差別、南北問題、大量破壊兵器製造などにより人類の生存を危うくしている。これらは人類の将来の繁栄を破壊するものである。つまり韓国が政策の誤りとしているTPP不参加というのは、人類破滅の方向に加担しませんという意思表示であり、将来的にみると極めて先見性の高いすぐれた行動なのです。世界一幸せな国といわれるブータンでは、GDP(国民総生産)ではなく、GNH(国民総幸福量)の伸長を第一目標として努力しているという。韓国の行動は、そういう考え方に同調してゆきますという意思表示なのです。韓国がその方向に舵を切っていくと世界の模範国家として支持する人は多いと思うのである。長い目で見ると世界を先導していくすぐれた国家として評価されるようになると思うのである。現在快適で便利な社会の象徴はコンビニである。今やコンビニを利用しない人はまれである。でもコンビニの考え方は無理がある。コンビニは24時間営業である。ということは普通は寝る時間帯に起きて働いている人がいるということだ。こんな人間軽視の考え方があっていいものだろうか。こんなことを続ければ、体内時計が狂い、身体的にも精神的にも変調をきたす。さらに電気を煌々と点けている。電力の無駄遣いではないか。そういう無駄な電力消費のために、安全性が担保されていない原子力発電に手を出さざるを得ない。さらにまだ食べられるものでも賞味期限が来るとすべて廃棄される。日本での食品ロスは500万トンから800万トンといわれており、その額11兆円にも上るという。世界中には食糧難で苦しんでいる人がいるなかで、そんなことが倫理的、道義的にはたして許されるものだろうか。TPPというのは人間の生きがいとかには結びつかない。人間の幸せを破壊する。人間の尊厳を踏みにじるものである。人間の生きる意味を隠蔽してしまうものである。人間の存在の根幹を破壊するものなのだ。これについては過去何度も投稿してきた。興味のある方は検索してみてください。
2015.11.11
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先日参加した集談会で森田理論学習があった。その時に配布されて輪読した資料の中に、「自分と他人を比較検討するというのは無意味である」というのがあった。私はこの考え方には、にわかに賛成しがたい。私はむしろ他人と比較検討することを奨励しているのである。違いを明確にすることが大事だと思っているのです。よく考えてみますと、私たちは他人と接触するたびに絶えず比較検討しています。これは好むと好まざるにかかわらず、自然にそうしていると思います。そして他人と自分の違いを認識しているのです。言葉を替えると、自分の特徴、他人の特徴の違いを個性の違いとして認識していると思うのです。自覚を深めているといってもよいと思います。この認識、自覚はとても大切なものだと思います。なぜなら、他人を通して自分のことがより深く分かるからです。他人を鏡にして自分の性格や能力について認識が深まるからです。ですから他人と比較検討するという手法を利用しないことは、もったいないと思います。これは、例えば外国へ旅行して、日本人、日本という国のことがよく分かるということに似ています。日本が外国に比べていかに治安が安定しているか。いかに物質的に恵まれた生活をしているか。いかにまじめに努力する人が多いか。いかに社会的インフラが整備されているか。それと同時にこれから日本で解決しなければならない問題点も数多く見えてきます。これは外国に行って始めて分かることです。外国を知ることが自分の国をより深く知ることに繋がっているのです。他人の観察を通して、自分のことがより深く分かるということも、同じような意味あいがあります。活動的で外向的な人を見ると、私たち神経質者の特徴がとてもよく分かります。その認識の上に立って、自分の存在価値を再評価する。自分の性格、性質、潜在能力に気が付く。アイデンティティの確立といってもよいでしょう。それらを過不足なく意識して、自分の寄って立つ、生きていくためのベースを考えてみる。そういう意味では、私たち神経質者は、活動的で対人折衝能力がすぐれているわけではありません。細かいことにこだわりやすく、心配性です。でも感受性が強く、粘り強くまじめなところもあります。物事をよく考えて軽はずみなことはしません。また生の欲望が強いという面もあります。これらは神経質の性格特徴で学んだ通りです。その方向で自分を活かし鍛えて伸ばしていけばゆけばよいのではないでしょうか。他人と比較して、自分の強みしっかりと把握して生活に活かすことはとても重要だと考えます。味わい深い人生を送るためには欠かすことができないことです。ここまで説明しても、まだまだ他人と比較検討することはよくないと思われている方おられるかもしれません。それは、他人のよいところと自分の悪いところを比較して、自己嫌悪、自己否定に陥り悲観的でネガティブな気持ちになるからです。比較することは大切なことなのにどうしてそんなふうになるのでしょうか。これは両者の特徴を認識した後の行動によるのだと思います。普通は比較検討した結果を見て、いいとか悪いとか価値判断をしてしまう傾向があります。十分に比較して違いを認識することはとても大切なことで役に立ちます。でもその次に、よいとか悪いという価値判断をするというのは余計なことだと思います。自分勝手な「かくあるべし」で是非善悪の判定をしてしまうのです。これではどんどん横道にずれていってしまいます。自分を苦しめるだけになってしまいます。この点は森田先生も声を大にして力説されています。つまり、よいとか悪いとかの評価の拘泥を超越して、事実をあるがままに認めていくことが極めて大切なことである。事実をよく観察し、その事実をそのままに受け入れて、「生の躍動」そのものになりきって生きていくことが肝要であるといわれています。つまり浅はかな考えで是非善悪の価値判定をしてしまうことは、神経症のさらなる増悪につながってしまうということです。事実を細かく観察していくという生活態度だけなら人間として大きく成長できますが、その事実をすぐにいいとか悪いとかの価値判断に持ち込んでしまうということが、我々に大変な苦悩と葛藤を招いてしまうということは肝に銘じておく必要があると思います。
2015.11.10
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生活の発見誌2015年11月号に高良武久先生の記事がある。14、15ページより引用します。昔、学校の先生が来まして、「私は生徒を平等に愛すべきだと思うけれども、どうしてもそれができないで悩んでいる。教師たる資格はないように思う。」そういうことをしきりに訴えておりましたが、私は平等に愛すべきだという、そういう観念論が間違いのもとだと思うわけです。まあここに50人の児童がおるとすれば、それはいろいろな子どもがいるんだな。実にもう汚い子どももいるし、可愛らしいのもいるし、なんか憎らしいようなのもいるし、それは様々なんだ。人好きのするようなのもいるし、なんか意地の悪そうなのもいる。それはできるもんじゃないんですね。ですから、そういう気持ちは自然に受け入れて、憎らしいと思ったっていいんだ、ということです。ただしかし、教師としてこれを預かって教育しなくちゃならん、とにかく嫌でもこれを世話していこうと、世話をしていく。世話していくうちにだんだんに、その子どもに対する愛情を覚えるようになる。これが自然の人情であります。好き嫌いというものははじめからあるものです。なんとなく好きな人だとか、気の合う人だとか、あるいは反対の人もあるわけですけども、仕方なしに付き合っておればですね、思ったほど嫌いな人でもなくいいところもあるということが、だんだんにわかってきます。母親は馬鹿な子ほどかわいいというようなことがありますが、世話を焼いていきますからして、どんな子供でもたいてい愛情をもつことができ、またそれが自然であります。ここで言われていることは、好きとか嫌いとかいう感じは自然現象でどうすることもできない。その感情を拒否、無視、否定することはできない。またしてはならない。それらはどんなに不快であろうとも受け入れることしかできない。そういう不快な感情を持ったまま生活をしていくという態度が好ましいということです。そういう感情を持ったままイヤイヤ仕方なく最低限の付き合いをしていく。あるいは世話をしていく。すると不快な感情がしだいに融解して変化してくる。時には嫌いなものが、世話をしているうちに好きになってくることもある。嫌いな感情は今も将来も固定しているものではなく、時間とともによきにつけ悪しきにつけ変化してくるものです。その変化する時の流れに身をゆだねて生活するということが、人生そのものであるといわれているように思います。
2015.11.09
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私は来年5月のメンタルケア心理専門士の資格取得の試験を受けてみようと思っている。その際、今まで学習した森田理論をフル活用してみようと思っている。まず試験の内容をきちんと把握する。挑戦する相手をよく観察するということである。試験範囲は、精神医科学諸論、応用生活心理学、面接技法、各種心理療法、精神予防政策学。これにメンタルケア心理士試験の試験範囲が加わる。学科試験50問。これには正誤選択、択一選択、穴埋め記述、用語解説等がある。次に1600字の課題レポートがある。聞いたことのないような課題が出される。二次試験として口頭試問による実技試験がある。これに対して私の学習の進め方は次のようになる。まずそれぞれにテキストがある。私は通信教育なので、そのテキストに沿った講義のDVDがある。まずは、テキストとDVDを見ながら学習する。それが終わると、各科目別に与えられた問題やレポートを提出する。さらに模擬試験、補修問題、修了試験のためのレポートや問題を仕上げて提出する。すべてが基準点に達すると修了証が授与される。これが受験資格の一つなのである。次に受験対策問題集を買ってやってみる。試験問題に取り上げられた部分を、テキストの該当場所に目立つように印をつけていく。ここまでは11月、12月、1月までに終わらせたい。次にテキストごとに重要な部分を私なりにまとめをしていく。知識を定着させていくのだ。次にPCMレコーダーに重要なテキストの内容を吹き込む。声に出して読むことを重視するようにする。これを外出時に聴くようにする。さらに暗記する事項が多いいので、重要な部分の暗記帳を作る。次に「境界性人格障害の特徴を答えなさい」というような問題が出るので、一問一答方式で幾つも問題を作り、繰返して学習したい。そして暗記していく。さらに最近はパソコンばかりで手書することがない。パソコンでは、どんなに難しい漢字でもすぐに表記してくれる。試験は自分で書かないといけない。普段書きなれていないので、なかなか書けない。例えば、投影法、不定愁訴、遊戯療法、産褥期精神病、注意欠陥多動性障害などという言葉がすらすらと書けなければ話にならない。漢字の書き取りはとても大切である。また言葉は正確でないと不正解になってしまう。例えばセクシャルハラスメントは間違いで、正しくはセクシュアルハラスメントが正しい。ロジャースでなくて、ロジャーズが正しい。注意したい。森田の活用であるが、まずは神経質性格を活かしてコツコツ粘り強く取り組むことだ。学習時間は早朝1時間。昼休憩30分。夜1時間を予定している。休日は3時間から5時間は学習時間を確保したい。基本的には5月の試験まで続ける。好きなアルコールは曜日を決めて抑えなければならない。毎月の達成目標を立てて進捗状況をチェックしていく。食らいついたら離さないというのが神経質の特徴である。最後までやり抜きたい。第2に五感のフル活用である。目で見るだけではなく、耳で聞く、声を出して読む。手で書きながら覚えることを徹底したい。記憶の定着を図るにはテキストを見るだけでは心もとない。五感すべてを使う。第3に分からないことは自分一人で抱え込まずに、受験専門校にどんどん質問して援助してもらう。第4にリズム感を意識したい。高い緊張感が5月まで継続することは考えづらい。緊張と弛緩は絶えず繰返しているのだから、その波に乗ることを意識したい。特に試験の20日ぐらい前は、いったん弛緩状態にして緊張感を落してみたい。そして試験当日に向かってモチュベーションを高めていくという方法を取り入れてみたい。何しろ100人の受験生のうち80人は不合格になる試験である。いい加減な態度では合格は難しいだろう。できることはなんでも挑戦してみる。他人の受験勉強の5倍程度の学習と努力を続けないと目標の達成は難しいと考えている。ちなみに私のような60歳以上の受験者及び合格者はそれぞれ全体の1%だという。でも今まで社会保険労務士、行政書士、宅地建物取引主任者、ファイナンシャルプランナー(CFP)、メンタルケア心理士等へ挑戦し合格してきた経緯からすると決して無謀な挑戦ではないと考えている。楽しんで走り抜けたいと思っている。
2015.11.08
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イチロー選手はオリックス時代、振り子打法の時があった。振り子打法はパワーが無いバッターが強い打球を打つために勢いをつけるためのものだそうだ。でも振り子打法はタイミングが取りづらくとても難しい技術だそうだ。イチローのバットコントロールがあって初めて可能であったのです。イチロー選手は入団3年目に、この振り子打法で210本のヒットを打った。普通の人ならその打撃フォームを完成形として、こだわりを持ってさらに磨きをかけていくのではなかろうか。ところが、そのイチロー選手があっさりと振り子打法をやめた。それは振り子打法ではメジャーでは通用しないことをイチロー自身がよくわかっていたことと、イチロー選手自身にパワーがついて振り子にする必要がなくなったためだといわれています。イチロー選手の考え方はこうだ。野球には心、技、体のバランスが大切です。それらは20代、30代、40代という年代に応じて少しずつ変化してきます。成長してくるといってもよいでしょう。その変化に応じて、それぞれを少しずつ変えていく必要があるのです。絶えずバランスを取りながら、変化させていくという姿勢が大事だと言っているのです。精神力を鍛える。平常心で打席に立てるようにする。バッティング技術をいろいろと試してみる。身体を鍛える。技術だけを偏って鍛えてもだめなのです。筋力だけを鍛えてもだめなのです。変化に対応して、3つのバランスを意識して鍛えるのです。この考え方は森田理論の「変化対応力を磨く」と同じ考え方です。田原綾さんの森田先生の思い出話より紹介します。先生は常に備えを忘れておられず、精神病の患者さんを診察なさるときはいつも、出口に近い方におられて、とびかかられた時は、いつでも逃げられるように用意しておられたということです。森田先生は、精神病の患者に殴られた事があったので、常に警戒されていたのです。また森田先生は、みんなにこう言われていたそうです。昔の侍の覚悟でおれ、サッと斬りかかられた時に、素早く応じられるように構えておけ。わしは、寝ていても、お前らが後で何をしているか、みんな分かっておる。神経を四方八方に張り巡らせて、いろんな危険を想定して、いつでも変化に対応できるような心構えで生活するようにという教えだと思います。自分の身の回りに注意を張りめぐらし、変化に素早く対応する習慣を身につけることは大切なことです。変化対応を意識して生活していると、気持は内向きから外向きに変わってきます。
2015.11.07
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「メジャーリーグへの挑戦は、何も大きな決断ではなかったのです」メジャーリーグ挑戦にあたってのイチロー選手の言葉です。イチロー選手は日本でプレーしていれば高年俸が約束されて、数々の記録を打ち立てることができたでしょう。ファンからの賞賛を得て、少年たちの熱い自然を一身に集めるイチロー選手にとって、それを捨て、活躍の場を替えることは大きな賭けだったに違いありません。メジャーリーグに挑戦するかどうか、夜も眠れぬほど悩んだとしてもなんの不思議もありません。これに対するイチロー選手の言葉です。「すごい決断であるかどうかは、野球が職業であるか趣味であるかということです」もちろん、イチロー選手にとって野球は仕事です。プロ中のプロともいうべき存在であることは、誰でも知っています。彼自身もそんなことは百も承知。しかし、彼は、自分にとって野球は「仕事」であるのか、「趣味」であるのかと問いかけているのです。その問いかけに対して出した言葉が次の言葉。「野球を仕事だけとらえていれば、今の仕事に満足するでしょうから、あえて大リーグに移ってリスクを背負うのは大きな決断でしょう。でも、僕にとっては、野球は趣味の部分が非常に大きいので、何も大きな決断ではないんです」つまり、彼にとっては、野球は間違いなく「仕事」であるが、意識の中では「趣味」の部分が大きいということです。「趣味」だから、メジャーリーグに挑戦することは大きな決断でもなんでもない。仕事というのは生きていくための必要悪であるであると考えていると、イヤイヤやらされている気持ちがどこかに出てきて苦痛になります。イチロー選手のように仕事ではあるが、趣味の部分が非常に大きいということになると状況は全く違ってくる。これから私たちが学ぶことはなにか。イヤイヤながらする「仕事」でも、「趣味」の部分を取り入れるとよいということです。「趣味」の部分というのに語弊があるとすれば、何か小さな「目標」みたいなものを設定するということです。「目標」を持つということは、「趣味」に取り組むのと同じようにモチュベーションが高まるのです。例えば営業の仕事。メンバーの中で一番の営業成績を叩き出したい。ボーナスの査定評価をAランクにあげたい。営業のノウハウを確立したい。断る相手の心理を研究してみたい。毎日パソコンでデータ―の打ち込みをしている人。入力間違いを5%以下にしたい。もっと効率が上がるシステムを作り上げたい。お茶出しやコピー取りの仕事をしている人。美味しいお茶を適宜出して喜んでもらいたい。コピー機のトラブルは自分ですべて対応できる。管理職の人。他の部署よりも成果を上げる。部下がやる気を出す方法を考える。これはほんの一例です。それぞれの仕事に応じて、自分なりの小さなささやかな目標を立ててみるのです。それがいくつかあって、常にその目標を追いかけて仕事をしていく。すると、与えられた仕事をイヤイヤするということから、自分の掲げた目標に向かって意欲ややる気が高まってきます。それを達成すると、ささやかな自信も持てるし、仕事をすることが楽しくなると思うのです。気がつけばあっという間に1日が経っていたということになると思います。これは森田でいうと、「ものそのものになる」ということだろうと思います。仕事に今一歩踏み込み、一心不乱に取り組んでいる状態のことを言います。(セルフ・コーチング 庵里直見 丸善 42ページより引用)
2015.11.06
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赤ちゃんを抱きしめたりおんぶすることはとても大切なことだそうだ。おんぶは身体が不安定になりますから、子どもは自分の腕を使ってしっかりとしがみつく。その時前庭感覚(重力・平衡感覚)や固有感覚(筋肉・関節など)が刺激され、大人の身体からの振動・呼吸が伝わり、親子が皮膚を接触させリズムを共有した。あるいは顎を肩において、親と同じ視線で見た。物を一緒に見ることで言葉を覚える訓練もできたのです。一つ一つは小さいことですが、こうした子供の身体の基本的な発達を促してきた育児の形が、今、どんどん失われているのです。現代の子どもたちは、見る、聞く、臭う、味わう、触れる等の五感を使った感覚体験もどんどんと少なくなっています。これは昔と違って遊びそのものが変化してきた影響が大きいようです。今の遊びは家の中でテレビを見たり、ゲームをして過ごす。バーチャル世界での遊びが中心だ。あとはサッカー、野球、水泳、音楽の教室に行くぐらいが関の山である。自然の中で身体を鍛えたり、五感を育てたりする機会はどんどんと失われている。五感を軽視しているとどうなるのか。神経症でいえば強迫行為と関係がある。強迫行為は、ガスの元栓、玄関戸のカギ、手を何回も洗うなどが気になり生活に支障を起こしている状態です。この方たちは五感の感覚をほとんど信用できない人たちです。目や耳等で確認したにもかかわらず不安に取りつかれてしまうのです。これは小さいころから五感を鍛えることが少なかったことが関係しているのではないだろうか。記憶としてしっかりと定着していない。五感を信頼するという体験が希薄であるために、信用できないのだ。小さいころから実際に現地に足を運んでよく観察する。実際に鳥の声や小川のせせらぎを聴く。スポーツ会場で実際の試合を見る。実際のコンサートを聴きに行く。花の匂い、食べ物の匂いを嗅いでみる。実際に釣り上げた魚をさばいて料理してみる。そして味わってみる。野山を遊び場とする。泳ぎの体験をする。等の実体験があまりない。あっても普通の人と比べると圧倒的にその体験が少なかったことが考えられる。実際に自分の五感で感じた感覚は、人から聞いただけ、テレビで見た感じ、ゲーム等で体感することとは質も量も大きく異なる。それらが膨大な感覚記憶として蓄積されていくのである。そして大脳の中で、その人の好き嫌いや、価値観、信念などと統合されていく。統合されることでその人のアイデンティティを形作っていく。新たな考え方、新たな行動へと駆り立てられるのである。もし五感がとても貧弱なものでしかないとすると、知覚統合ということから見ると、とても心もとない。森田理論では、感じ、五感というものをとても重視します。感じの発生。感じを高める。すると気づきや発見がある。すると意欲ややる気が出てくる。それに基づいて行動すればいくらでも成長できる。その出発点は五感を鍛えるということなのである。それは今からでも遅くはない。実体験を基本とする生活を送ることである。(五感の故郷をさぐる 山下柚実 東京書籍参照)
2015.11.05
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森田に「物の性を尽くす」という言葉があります。物の価値を見出して、その価値を高めていく。最後まで活用していく。これは物だけに限りません。他にもいろいろとあります。自分自身の性を尽くす。他人の性を尽くす。お金の性を尽くす。時間の性を尽くす。等など。「物の性を尽くす」とどんなことが起きるのか。まずは物自体も自分が人のために役に立つことができてうれしいのです。活躍の場が与えられて活き活きとして目が輝いてきます。自分が役立たずとして無視されることほどみじめなことはありません。活用方法を見つけた人も、そのものの存在価値や潜在能力を発見できたわけですからうれしいのです。そういう価値を見つける能力を持った人間であるということがうれしいのです。人や物が喜んでくれる姿を見ることは、なによりも自分自身が元気になります。意外な発見に喜び、創意工夫できたことでうれしくなります。そのためには、そのものの持つ存在価値の活かし方を見つめていないといけませんが、それだけを見ていてはすぐには見つかりません。のほほんと生活をして、観念の世界で「存在価値とは何か」「潜在能力はないか」と考えることは、絵にかいた餅のようなものです。活躍の場は、問題だらけの自分の生活のなかに隠れています。常日頃、日常生活に一生懸命に取り組んでいないと、よいアイデアは浮かんでこないのです。例えば、森田先生のエピソードにこんなことがあります。机の足が畳や床の真にあたるところは傷がついたり、へこんだりします。森田先生はそれが気になっていました。なにか改善方法はないかなと常日頃考えおられました。ある時自転車やの前を通りかかりました。すると不要になったタイヤやチューブがたくさん置いてありました。森田先生はそこでピンときました。そうです。それを分けてもらい、加工して机や椅子の足につけることを思いつかれたのです。このようにして、廃タイヤや廃チューブの活躍の場を見つけて、実際に役立てられたのです。それからは机や椅子の足が畳や床を傷つけることがなくなりました。森田理論の奥深い理論は何も分からなくても、「物の性を尽くす」ことだけに愚直に取り組むことで、森田の鉄人、森田の達人になることはできます。つまり味わい深い人生を送ることができるのです。興味のある方は、まずは、マイ箸を持ち歩く。買い物袋を持ち歩く。コピー用紙は裏も利用する。服の棚卸をして、有効活用する。無駄なものはバザーに出す。本はリサイクルされたものを利用する。ボールペンやシャープペンシルは限られたものを大切に扱う。水を出しっぱなしにしない。洗面器一杯の水で顔を洗う。パソコンや電燈のスイッチをこまめに切る。テレビは録画したものを見る。生活の発見誌は切り抜きをして整理する。お金の活用のためこずかい帳をつける。こずかい帳の予算管理をする。時間の活用として細切れ時間の利用することなどから取り組んでみてください。そこから次のステップへと進んでいく足がかりができるでしょう。
2015.11.04
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森田正馬全集5巻113ページにこんな記事がある。今度、私(森田先生)の3月の病気の時も、自分は心臓性の喘息であるから命が危ないと思い、古賀君か佐藤君か、よく覚えていないが、死んだら解剖のことを頼み、また井上君や山野井君や修業のできた人には、危篤の電報を打ち、香取君には電話で、きてもらった。それは私が死ぬる今はの実際の状況を見せて、参考に供したいと考えたからである。つまり肉体的解剖でも、臨終の心理的実況でも、これを無駄にしないで、有効な実験物として提供したいのであるいはこれを功利主義といえるかもしれないのである。この文章から森田先生は、死後医学の発展のために自分の身体を献体しようと考えられていたようである。さらに苦しんで死んでいくその様子を、周りの人たちに包み隠さず見てもらおうとしていたのである。自分の臨終の様子も決して無駄にすることはなかったのである。森田先生の物の性の尽くし方は半端ではなかったということがよく分かる。物の性を尽くすという点では、森田先生の水の活用の仕方は有名です。風呂の残り湯は洗濯、ふき掃除、植木、打ち水など最後まで徹底的に利用しつくすというものです。一見すると物を大事に使いましょうという考え方のように思える。よくいわれる「もったいない」運動のように受け止められる。でも、そういう表面的な理解にとどまると、森田理論の本質的な思想に至ることはできない。森田先生が声を大にしていいたかったことは、物、お金、時間、己、他人などはそれぞれかけがえのない「存在価値」や「潜在能力」をもっている。それを見つけ出して最大限に活かしてゆくことだったのではないか。人と比較して欠点や弱みを見つけ出して自己否定するのではなく、自分の「存在価値」や「潜在能力」を見つけ出して活用することに力を入れましょう。お金にしても、森田先生はよく寄付をされています。森田先生は寄付することでそのお金を最大限に有効に活用したいがためであるといわれている。時間についても、「休息は仕事の中止ではなく、仕事の転換である」といわれている。仕事を変えることによって、時間を有効に活用することを言われているのだろう。他人に対しても欠点や能力不足を指摘するのではなく、その人の「存在価値」や「潜在能力」を見つけ出して、評価をして、適材適所で活用することを言われているのだと思う。ないものねだりをして現状に不平不満を持つのではなく、持っているものを足がかりにして、現状にしっかりと足場を築いて一歩ずつ前を向いていく生き方を説かれているのだと思う。そういう方向に向かわないと、味気ない人生で終わってしまうだろう。
2015.11.03
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土曜日は趣味の会の発表会に行ってきた。私は江戸寿獅子という「獅子舞」を披露した。獅子頭は5キロぐらいあるので、5分も抱えて舞うととても手がだるくなる。今回始めてあまりよいとは言えないが脇の下にゴムボールを抱えることにしたのでとても楽であった。発表会で一番驚いたのは、ガンが脳にまで転移して余命いくばくもないといわれていた人が、2時間も電車を乗り継いで一人で来られたことだった。体重は大分減少されていたが、脳の障害は全く分からなかった。その方はひょっとこ踊りを披露された。面をつけて、赤いふんどし姿で場内を練り歩かれた。とても滑稽で面白かった。その方は高知のしばてん踊り。浪曲奇術。どじょう掬いなどもされる。それも玄人はだしである。私はその方に影響を受けていろいろと教えてもらった。私はその方のひょっとこ踊りを見て、自分でもやってみたいと思った。この方は重いガンにもかかわらず、生き長らえておられるのはあくなき「一人一芸」のたまものではないかと思った。森田的生き方をされているのである。日曜日は、仲間とともに地域の祭りと老人ホームの慰問活動に行った。私はアルトサックスをふいている。いつものことだが、イベントの出演にあたっては、本番を想定して全員で念入りに予行演習を行っている。個人でも寸暇を惜しんで猛練習をする。練習段階では100%の出来になるまで持っていく。ところが残念ながら、本番で練習の成果を100%出せるかというと必ずしもそうではない。実際のところ80%の出来というのが正直なところである。以前の私は完全主義的なところがあったので、ミスタッチをしたりすると自分を責めていた。自分の演奏技術の未熟さを嘆き、自分嫌悪に陥っていたのである。ところが今では森田理論学習のおかげで、本番は80%の出来で十分だと思えるようになってきた。もし間違えても、そこで一旦中止して、入りやすいところから合流すればOKだと思えるようになってきた。そこは仲間が支えてくれるので大きな穴が開くようなことはないのだ。みんなで観客に手ごたえのある演奏をお届けできればいいのではないかと考えることができるようになった。すると必要以上に緊張することがなくなってきたようだ。みんなと演奏を楽しめるようになってきた。自分を責めることが少なくなってきた。反対に85%、90%、95%の出来になると、自分もまんざらではないと自分を褒めてあげることができるようになってきた。森田ではよく60%の出来で十分だということを言われる。この考えで大事なことは、できない40%のことでくよくよ悩むことではない。コツコツと努力して達成できた60%に焦点をあててプラスの評価していくことである。そういう意味で森田理論は減点主義ではなく、加点主義の考えをとっているのだと思う。
2015.11.02
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「他人がこわい」(紀伊国屋書店 クリフトフ・アンドレ&パトリック・レジュロン)より認知の誤りについてみてみよう。1、 情報を偏って選別する。たとえば、自分が話をしているときに、真剣に話を聞いてくれている人のことを見ようともせずに、あくびをしている人、よそ見をしている人、難しい質問や批判をする人のことだけが気になってしまう。ものの見方がマイナス面、悪い方に偏っている。ものの見方はプラス面、よい面も見なければいけない。森田でいう両面観で見なければならない。2、 根拠のない結論を下す。事実や証拠もないのに、先入観でそうに違いないときめつけてしまう。事実を実際に確認しなければならない。事実を確認しない場合間違いが多発する。3、 自分のせいだと思い込む。自分の周りで起きたことに対して、「よくないことはすべて自分のせいだ」と思い込んでしまう。失敗やミスはすべて自分の責任だと思って落ち込む。事実を主観的にばかり見ている。客観的にも見なければならない。4、 よいことを過小評価し、悪いことを過大評価する。よいことは誰か別の人のおかげで、悪くいかないのはすべて自分のせいだと思い込む。マイナス思考、ネガティブ思考である。物事を否定的に見る癖のある人は、肯定的にばかり見る癖をつけないといつまでたってもバランスのとれた考え方ができない。5、 たった一つの結果をすべてだと思い込む。会議で誰かが時計に目をやっただけで「ぼくはみんなを退屈させている。」と思い込んでしまう。たった一つの出来事、たった一つの結果を、すべてだと考えてしまいがちなのだ。そして些細なごくわずかな失敗をすぐに人生を左右するような大きな問題にしてしまう。6、 オールオアナッシングと考える。善か悪か、成功か失敗か、0か100か、白か黒かの極端な決めつけをしてしまう。現実にはありえないようなことに執着する。中間、灰色、中庸という考え方がない。認知の誤りは、認知行動療法で言われていることだが、是非理論的に整備して森田理論学習にも取り入れたい学習項目である。
2015.11.01
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