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神経症になると生きることがつらい。なんとかしてこの心の苦しみを無くしたい。みんなそう考えます。雲ひとつない真っ青な秋空のような状態を求めます。こういう治り方は問題があります。つまり、治り過ぎ症候群です。私の知り合いにもいます。森田の第一段階の治り方で森田卒業と考えている人です。蟻地獄の底から地上に這い出し、生活が元通りにできるようになった。苦しくても、「なすべき」方向に舵を切ってゆけるようになり、以前よりも成果が上がるようになった。人からも評価されて、自信もでてきた。そんな自分の体験を絶対的なものだと思い、人にアドバイスをするような人です。本人は間違っていない。正しいことをしているのだと思っているのかもしれません。でもまだまだ悩みを持って苦しんでいる人から見ると、尊大で鼻持ちならない人に見えてしまうのです。つまり、悩みの最中の人に共感的受容の気持ちがなく、自分の考えを一方的に押し付ける。自分が治ったということを誇らしげに自慢しているように見えるのです。悩みの最中の人から見ると、以前症状に振り回されながらも、けなげに生きていたころの状態がよほど思いやりがあり、魅力的に見えてしまうのです。「過ぎたるは及ばざるよりもなお悪し」と聞いたことがあります。苦しんでいる人は不安や恐怖、不快な感情をすべて取り去りたい。たとえて言えば、無菌状態にしたいと思っておられると思うのです。苦しみの最中におられるときは無理もありません。でも無菌状態にして、集中治療室に入っていつまでも生活できるわけではありません。外に出たとき、無菌状態では抵抗力がなくて、すぐに悪い細菌が忍び込んできて体全体がやられてしまいます。ですから神経症を直すのもほどほどにしなさいということを言いたいわけです。強迫行為の人は、確認行為をして時間のロスがあったけれども、最終的には電車に乗って会社に行けた。不安神経症の人は、特急電車には乗れないけれども、各駅停車で目的地には行けた。対人恐怖の人は、ビクビクハラハラしたけれども、時間をかけて準備をしてプレゼンができた。このような状態の治り方を目指してくださいということです。多少は気になる部分、治らない部分をそのまま残しておいてくださいということです。その段階で治りましたと高らかに宣言をしてくださいということです。スッキリしない。まだ不安がある。苦しい。なんとかまだまだよくなりたい。無理もない考え方です。こんなふうには考えられませんか。曲がりなりにも目的は達成している。ということは、ほどほどには治っているのだ。それで十分だ。なんとか社会生活を送れる。社会に適応できて自立して生きていける。そこを神経症治療の最終目標にされてはどうですか。完全に治すと、課題、問題点、改善点、目的、目標はなくなります。実はこのことが一番問題なのです。当然森田理論学習には用がなくなります。完全に治っていないからこそ、生涯学習として森田を学び続ける意欲がわいてくるのです。なんでもできるように思えますが、実際には生きる目的を失ってしまう。生きがいを無くしてしまう。私もまだ完全には治っていない。2分や3分はまだスッキリしないところがある。その状態でも治りましたと言っているわけです。それは100%治すということは、それなりの弊害があるという事例を見てきたからそう思えるようになったのです。だからあえて、スッキリしない部分を残しておこう。いやそうしなければならないのだと固く言い聞かせているのです。
2015.06.30
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対人恐怖の人はイヤな対人場面が予想される場合、すぐに逃避します。私の場合、訪問営業をしていた時は、人が恐ろしくて仕方がなかったのです。いつも仕事をさぼっていました。それが悪いことだというのは重々承知しています。逃げた瞬間は少しだけ楽になります。逃げるのはよいのですが、そのあと暇を持て余すようになります。どうして時間をつぶそうかと考えます。そんなことをしていると、何と自分は情けない奴なんだと自分で自分を責めてしまいます。そして夕方になって事務所に戻るのが恐怖になります。ノルマの半分ぐらいで帰ると上司から叱責され、同僚からは冷ややかな目で見られる。針のむしろに座ったようななんともやりきれない心境に追い込まれるのです。これではうつ病や胃潰瘍を発症したのも無理はなかったと思います。さて、ここで逃げることは本当にダメなのかを考えてみたいと思います。私は今では必ずしもそのようには考えません。逃げたから命が助かった。大事に至らずに事なきを得たということは誰でも経験していると思います。例えば韓国でのセオール号の沈没事故ではすぐに海に飛び込んで逃げた人が助かった。東日本大震災ではすぐに高台に避難した人が助かった。プロ野球を見に行って、ファールボールが飛んできて逃げきれなかった人がけがをしたことがあります。右往左往しているうちによけきれなかったのです。ボールをよく見て30センチでも逃げていればケガをしなくて済んだのです。交差点を渡っている時、前方不注意の自動車が人をはねることがあります。こういう時は、歩行者も注意して危ないと思った瞬間すぐに逃げないといけません。逃げてこその物だねです。それなのに私たちは「逃げる」という言葉によいイメージがありません。ネガティブだ。男らしくない。負け犬だ。恥ずかしい。消極的だ。やる気がない。暗い。じり貧だ。困難な状況に立ち向かわないで、安易に逃避、回避している人を見るとこちらまで落ち込んでくる。そんな人とは付き合いたくない。でもよく考えてみてください。他人から指示、命令、脅迫されて逃げているのではないのですよ。自分自らが判断して逃げているのです。逃げないで立ち向かっていく方法もあったのです。そこをあえて逃げる方法を選択したのです。それは何か意味があるのではないか。それは一時的にではあっても自分の身体、心の平穏や安全を確保しようとしたのです。それのどこが悪いというのでしょう。自分を守ろうとすることのどこが問題なのでしょう。結論をいうと問題が大ありです。逃げてはいけないという価値判断を自分自身に押し付けていることが問題なのです。自分の「ここは逃げたい」「逃げるべきだ」という自然な感情や判断を批判していることが問題なのです。もし、自分の行動を非難しないで行動の事実だけを見つめることができたらいかがでしょうか。そこには是非善悪の価値判断がありません。自分の中にいる二人の自分はいがみ合うことがありません。完全にいたわりあい、励まし合う関係にあります。すると自分の中での心の葛藤は生まれません。そこには逃げたという事実があるだけです。そのあとの結果は別です。逃げてよかった場合もあれば、逃げてさらに苦しさが増してきた。時には精神を病むということもあるわけです。そういう場合は結果を謙虚に反省して、苦しくても逃げるとさらに苦しみは増悪していく。だから気持ちはスッキリしないけれども、墜落しないように超低空飛行で仕事にしがみついていこうか。ここで言いたいことは、「逃げることは悪いことだ」と勝手に判断してはダメだということです。「逃げたい」と思うことはよいも悪いもない。内なる自然な私たちの感情なのです。私は今自分の身体と心の安全を確保するために、逃げたいと思っているのだなと認めることです。自然な感情を素直に認めてあげる。それでいいのです。これが自分に対する礼儀というものです。感情はどんなに醜く卑猥であると思えるものであっても、最優遇待遇でもてなしてあげることです。感情には意思の自由はないのです。
2015.06.29
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「生の欲望の発揮」とは、よりよく生きたいという自分の欲求に従って、実際に体を動かしていくことだと思います。いろんな人がさまざまに解説されていますが、私は次の4点を挙げたいと思います。1、 健康と生命維持への欲求健康で長生きしたい。安全を確保したい。子孫を残したいという欲求です。生きるために必要な食欲、性欲、睡眠欲などはすべてこれに入ります。そのためには、仕事、家事、育児、雑事などをきちんとこなしていくこと。森田ではこれを重視しています。日常茶飯事、雑事、規則正しい生活をするなどです。2、 良好な人間関係を作りたいという欲求ストレスのない温かい人間関係を築きたい欲求です。心の底から愛し、愛されたいという欲求です。そのために、石原加受子さんは、他人中心で生きるのではなく、自分中心で生きてゆきましょうと言われています。他人中心というというのは、いつも他人の言動を気にして、相手の顔色をうかがったり、相手に合わせていく生き方です。彼が迷惑するから、彼が困るから、彼には時間がないから、彼が嫌がるからなどの理由で、電話をかけることを我慢したり、自分の気持ちを抑え込んだりすることです。また、昼時間になりさあ昼ご飯を食べに行こうと思った時、同僚からちょっとこの仕事を手伝ってくれないといわれたとします。自分は昼ご飯を食べたいのにその気持ちを我慢して相手の意向に沿った行動をとる。これも他人中心の行動だと言われています。他人の気持ちを思いやるということは、悪いことではありません。良いことです。肝心なことは順序を間違えてはいけないということです。自分中心というのは、自分の感情、気持ち、欲望、意志を第一に優先するということです。どんな状況でも、自分の気持ちを大事に考えるということです。私たちが生きていくのが苦しいときは、いつも他人中心になっています。他人中心は、自分を否定し、無視し、抑え込み、我慢し、耐えています。自分をないがしろにして、他人の人生を生きていこうとすると、自分の意思ではないので苦しくなるのだと思います。森田理論で、自分の感じから出発する。自分の好き嫌い、人情から出発する。そのあとで、理知で調整していく。この原則を無視すると人間関係のストレスが高まってきます。3、 課題や目標を持って達成してみたいという欲求好奇心に沿って、興味のあることに取り組んでみる。困難や障害物を乗り越えてコツコツと努力してゆきたいという欲求です。自己成長、自己実現の欲求です。また自分の能力を高めたいとか、人に認められたいといった欲求です。こういう状態は生きている充実感に満ち溢れています。4、 味わい深い人生を楽しみたいという欲求五木寛之氏曰く。「私たちは日常の中で自分の好きなこと、そのことが自分にとってすごく気持ちがいいとか、自分が幸福感を感じることをもっと大事にしないといけない。そんな小さな幸福感も、こんなきびしい時代に、私たちに生きる力になっていくのではないか。」神谷美恵子さん曰く。審美的観照(自然芸術その他)、あそび、スポーツ、趣味的活動、日常生活のささやかなよろこび。この中には、生きがいと本人すら意識しないものもあろう。毎日生活していることが楽しい。生きていること自体が生きがいである。これらの欲求を充足したいと思えば、普段から五感を磨き、感受性を鍛えてゆくことが大切です。そのためには、物質的な豊かさを追い求める態度をある程度抑制してゆくと効果があります。
2015.06.28
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私は以前対人恐怖で仕事が手につかなくなりました。訪問営業に行くことができなくなりました。とうとう最初の仕事は32歳で退職しました。次の仕事は事務処理の会社に入りました。最初のうちは順調でした。ところが中間管理職になったころから苦しくなりました。同僚や部下との人間関係がうまくゆかなくなりました。また上司や営業から批判されたり、叱責されるようなことをしてはならないという気持ちが強くなり、いつもビクビク、ハラハラしていて心が休まるということがありませんでした。仕事は中途半端に取り組んでいました。また仕事以外のことでバランスをとってなんとか仕事を続けてきました。お酒、テニス、スキー、魚釣り、トライアスロン、資格試験等です。これは体が悲鳴をあげておりそれを鎮めるために役に立っていたと思います。うつ状態になり精神科にもかかって薬も飲んでいました。また内観療法も受けました。森田療法は30代後半からずっと学習してきました。森田療法の「なすべきをなす」という考え方で最悪期はすぐに脱出できました。ところがうつ状態や対人緊張はほとんどよくなりませんでした。正直森田療法には期待しなくなりました。ところが世話活動をしていたため、自助グループ活動は容易に退会はできませんでした。また、集談会活動を通じて中国、四国、兵庫等に多くの得難い友達がたくさんできており、これを失うことは死ぬより辛いことだと思っておりました。困った時はいつも助けてもらっていたのです。森田で一番役に立ったのはこの温かい人間関係です。仕事でどうにもならなくなれば、集談会の仲間が助けてくれるという気持ちはとても大きな後ろ盾となっていました。そのうち、森田の学習方法を見直しました。森田理論は理論として整備されていないということに気がついたのです。ちょこちょこいいところを食い逃げしているだけでは決して自分のものにはならないのではないか。自分で森田理論を整理して、「森田理論全体像」を作ってみました。間違っているかもしれません。でも私にとってはその後の学習や森田理論の見方が全く変わりました。この方向で進んでいけば間違いないなと確信しました。そこから実際に生き方そのものが大きく変わり、人生に大きな希望が見えてきた感じです。今考えていることは、神経質性格を持った人は何かにつけてとらわれやすい。とらわれないで気になることを流せるようになれば楽に生きられる。そのためには、森田理論は有効ですが、それだけにしがみついていてはもったいない。薬物療法、入院森田療法、外来森田療法、カウンセリング、認知行動療法、内観療法、ピア・カウンセリング、精神分析療法などいろんな神経症にかかわる療法があります。自分に合うやり方を早く見つけること。森田理論学習も他の療法でいいものは、どんどん取り入れる。現代の森田療法は認知療法の考え方は是非とも取り入れる必要があると考えています。認知の誤りの是正は避けて通ることができません。あと私たちは常に意識の大半が自分自身に向いていますので、内観療法も取り入れたほうがよい。自己中心が是正されます。森田理論は神経質者の生き方を変えて、人生を豊かにしてくれる。症状を超えてそこまで踏み込んで生きる知恵を授けてくれる療法は他には見当たりません。だから生涯学習として取り組んでいる人が多いのだと思います。信頼して学習するに足るものだと思います。それだけに他の療法のよいところは積極的に取り入れて、森田をよい方向に変化、成長させていくべきだと考えています。
2015.06.27
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私たちの身体は60兆の細胞から出来ています。ところが私たちの身体の中には、皮膚に常在菌が、腸の中には腸内細菌が住みついています。腸内細菌だけで100兆を超えると推定されているそうです。その重さは成人で1キロを超えると言われています。腸の中は細菌だらけなのです。気持ちが悪いと思いませんか。ちょっと考えると無菌状態の方が健康で長生きができそうな気がします。でもそれは間違いだそうです。人間は腸内細菌が存在しないといきていくことはできないそうです。それはなぜか。まず食物繊維を分解してくれるのは腸内細菌です。私たちが自力で消化できるのはデンプンやグリコーゲンだけだそうです。腸内細菌が分解してくれるからこそ栄養分として体内に吸収できるのです。まだ腸内細菌が少ない赤ちゃんはセルロースやリグニンは分解吸収されずにそのまま排出されています。つぎに腸内細菌が十分にないとビタミンKの不足という事態が引き起こされます。ビタミンKは血液凝固作用があります。これがないと出血が止まらなくなるのです。これは腸内細菌によって供給されているのだそうです。また最近の研究から腸が正常な形状を保つためにも腸内細菌が重要な役割を果たしていることが分かっています。腸内細菌のないマウスを観察すると、盲腸が大きく膨れたような状態になり、放置すると死んでしまうのだそうです。だから腸内細菌は気持ちの悪いものですが、人間とは共生関係にあるのです。私たちは細菌が侵入してくると、炎症を起こしたり、腫れてしまったりする悪い印象を思いだします。それも一面真理です。しかし大局的に考えると、細菌は人間が生き延びるためには役に立っている。なくてはならないものということができます。そういえば毎朝乳酸菌の含まれたヨーグルトなどを食べていますね。納豆菌も食べています。発酵食品はほとんどそうですね。私たちは知らず知らずのうちに細菌を口にしているのでした。これは私たちがいつも問題にしている不安、恐怖、不快な感情についても同じことが言えます。それらを取り除こうとするだけの療法は間違いだとはいえないでしょうか。森田理論は、それらは人間が生きていく上で役に立っている。なくてはならないものだというのが前提です。(細胞「私」を作る60兆の個の力 NHK出版参照)
2015.06.26
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感情の法則3に「感情は同一の感覚に慣れるに従って、にぶくなり不感となるものである」というのがある。この法則はもっと掘り下げて、生活に応用できるまで深めていった方がよいと考えている。私は以前トライアスロンに取り組んでいたが、最初に完走してテープを切った時はとても感動した。努力が報われ、やればできるんだという自信も湧いてきた。その高揚感は1週間は続いた。ところがその後完走してもその時のような感動は味わうことができなかった。嬉しいことは嬉しいのだが、やっと終わったかという気持ちの方が強かった。この法則の意味するところは、どんな行動にもリズムがあるというということだ。つまり緊張感はずっとは続かない。反対に弛緩状態もずっとは続かないということだ。楽しいこと、嬉しいこともずっとは続かない。また苦しいこと、悲しいこともずっとは続かない。一山登れば次には必ず一山下る。海の波と同じだ。大波がくるとこのまま大きくなり、船が波に飲み込まれそうになるけれども、事実は違う。必ず波の上に持ちあげられる。いつまでも大波のままでいることはできず、次には大きな谷になる。だからいくら苦しくても、持ちこたえて普通の生活を心がけていれば、どん底は必ず脱することができる。これは自然の法則なのだ。弛緩状態になれば、自分を刺激して緊張感をもたせる。緊張感が強すぎれば少し気分転換をして弱める。つまり緊張感と弛緩状態は絶えず波のように繰り返されているのだから、その仕組みを理解して、緊張感と弛緩状態のバランスを心がけた生活をするということが大切なのである。この感情の法則3をどう生活に応用するか。例えばプロ野球でいえばローテーションに組み込まれたピッチャーの登板日はあらかじめわかっている。その日に身体と精神の緊張状態を最高レベルに持っていくとよいのである。例えば登板したあとは肩をアイシングしたり、マッサージをしてケアをしている。次の日はリラックスして体を休ませる。ときには気分転換をはかる。3日目にはストレッチや筋肉体操を始める。ランニング中心のトレーニングをする。4日目からキャッチャを立たせて肩を作り始める。自分の課題に取り組む。5日目次の対戦相手の研究をする。本格的に投球練習をして士気を高めていく。そしていよいよ登板日を迎える。元日本サッカー協会の専務理事だった平田竹男氏曰く。W杯などの国際大会の場合は、4年前から準備を始めた。監督は誰にするか。強化選手の人選はいつにするか。海外組の招集時期を見極める。戦い方の意思統一をはかる。チームとしての連携プレーを高めていく。そしてベストのタイミングにベストの相手との強化試合を組んでいく。目標の日から逆算して、いつ頃から、どんなチームと日本代表は戦うべきなのかを順次考えています。そしてしだいに日本チームのコンディションと士気の鼓舞を高めていくのだ。つまり緊張と弛緩の波を心得て、自分たちでその波を作り出しているということです。私たちも緊張感を持って昼は活動している。夜はたいてい11時までには寝て心身ともに弛緩させて休んでいる。つまりバイオリズムを持って生活しているのである。ネットゲームが好きだからといって2時、3時まで起きているような生活。反対に朝寝をしたり、昼間に何時間も寝るような生活はリズムがくずれて、心身とも不健康になる。私たちはただ単に緊張感という波、弛緩状態という波にうまく乗って生活していけばよいのである。極めて簡単なことである。それが自然に服従、運命に従うということにつながるのではないだろうか。
2015.06.25
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剣道の修業には「守・破・離」という発展段階があるそうだ。「守」というのは、竹刀の持ち方や姿勢、背筋が伸びているかどうか。足の幅や踵、右足の踵は紙一重浮かして、左足の先端を右足のくるぶしあたりに持ってくるとかですね。そういうふうに一つ一つ形を身につけ、相手のどういう動きにも自然に対応できるように練習する。ところが最初のうちは形で規制されると非常に動きづらいわけです。ところが、やがて形が身についてくると、その形が一番動きやすいということが分かる。こうして先生の基本的な教えを一通り習得して自由に動けるようになると、つぎに「破」の段階に進む。無心に練習していると、このやり方でいいのか、自分に合っているのか、という疑問がわいてくる。今よりさらにいい動きとか形はないのかと考えるようになって、自分なりに創意や工夫をするようになるわけです。先生の教えを突き「破」って、自分なりに模索をはじめ、究極的に「離」の段階を目指すようになるわけです。それからは、もう先生の考えにとらわれることなく、自分自身のものの考え方や見方、また相手の心を読み、自由自在の動きが理合にもとづいてできるようになった段階が、本当の意味で一人前です。それを突き詰めていくと名人とか達人といわれる域に達する。(棟梁を育てる高校 笠井一子 草思社51ページより引用)これを森田理論学習に置き換えてみましょう。最初は森田先生の書かれた書物を読む。集談会で相互啓発学習を積み重ねる。森田に詳しい人から理論を学ぶ。本当によくなるのだろうかと思いながらも、ともかく一旦は信じてみる。1年という期間を設定してもよい。その間は素直に教えを請う。集談会で指示されることや森田の達人の生活ぶりを観察して実際に自分も応用してみる。ダメだと思ったら、その後に見切りをつけることだ。最初から批判ばっかりして、途中ですぐに見切りをつけることは慎むこと。すると次の段階に進む。ここでは森田の学習からは離れることだ。森田原著を10年、20年と読みこんでいる人もおられる。それはそれで尊いことではある。でも我々は学問として森田理論の学習をしているわけではない。実学のために学んでいるのだ。ある程度の学習を積んだあとは、森田で養った視点で自分の考え方や生活を見つめ直す。さまざまな社会問題を森田の視点から考えてみる。そのためには、森田から離れてみることだ。そして自分なりの森田理論を組み立てることだ。自分の森田理論を深耕していくことだ。私にとっての森田理論とは何か。私にとってのどこをどのように応用していくべきなのか。等を模索していくことだ。森田先生を乗り越えるぐらいの気構えでちょうどよいくらいだ。医者になるには、最初に医学の一般的なことを幅広く学習する。ところがそんなことで一人前の医者にはなれない。範囲が広くてとても使い物にはならない。次に自分の専門領域をきめる。外科、内科、脳外科、小児科、皮膚科、麻酔科、整形外科、眼科、産婦人科、肛門科等に分かれる。専門分化したあとは研修医として実際に指導教官のもとで研鑽をつむ。研修を終えると一人前の医師として臨床に当たる。それでもまだまだである。実際には自分でさらに研鑽をつまないと患者の信頼は勝ち取れないのである。これをT字型成長法という。まず謙虚に教えてもらう。幅広く学習して一応のことは学習して身につける。その後は自分の進むべき道を絞り込む。一旦方向性を決めた後は、独自にその未知の分野に向かって精進して、新しい分野を開拓していくのである。
2015.06.24
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将棋の羽生善治さんは、欠点を直すことにあまり一生懸命にならないようにしているそうです。欠点は長所の裏返しであることが多くて、欠点を是正してしまうと長所まで消えてしまうことがあるからです。短所も自分の一部ですから、無理に短所を直すと、全体のバランスが崩れてきます。自分の形や棋風に何か狂いが生じて、調子が落ちてしまうことがあるのです。サッカーの岡田武史さんも、その通りだと言われています。欠点を直したからといって長所が前面に出てくるかというとそうでもない。身体能力が強くて相手に当たり負けしないが、パスはうまくない選手がいるとします。その選手が「今日はパスをうまく出してやろう」なんて色気を出しながら試合に臨むと、必ずといっていいほど、そのパスをミスしてしまいます。すると得意の当たりでも精彩を欠いてしまうんです。勝負ってそういうもので、欠点の修正を入口にするといい結果は出ないものなんです。逆に、その選手が長所である強い身体能力を活かして思いきって競り合いから入っていくと、苦手なパスでもいいプレーをするようになる。長所が欠点をカバーしてくれるんですね。無理に欠点を直すと長所まで損ねてしまうのとはちょうど反対です。短所を無くそうとばかり力を入れてヤスリをかけていると、長所の山も削れてくるのだ。うまくいったとしても特徴のない並みの人間になってしまう。並みの人間よりは、欠点が多いい人間だが持っている長所が光っている方がよい。その方が社会で役立つ。自分も自信を持つことができる。我々神経質者はすぐれた特徴、長所を持っている。反面社交性に欠け、身体能力が弱く、観念的で行動に積極性が欠ける面がある。欠点はある程度改善することが望ましいが、その前に自分の長所を「神経質の性格特徴」で学んで、その方面を自覚することが先である。細かいことによく気がつく、向上心が強い、粘り強い、責任感が強い、分析力がある。これらが神経質者の長所である。これらのうち一つでも活用することができると、その後の人生はそれまでとは全く異なってくる。
2015.06.23
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たかが人生、されど人生という言葉があります。せっかくこの世に生まれてきたのです。どうせなら「されど人生」にしようではありませんか。先日そんな体験をしました。歌の上手な集談会で知り合いの人とカラオケに行きました。2人で2時間。交互にたっぷりと歌えました。私は初めて知ったのですが、いまのカラオケは全国のカラオケルームとネットで繋がっており、順位が出るようになっているのです。300人同じ歌を歌っていると歌い終わった時点で自分の順位が出ます。歌唱力、テンポ、リズム、音程、熱意、パブレーション、こぶしなど様々な視点から採点しているのです。歌好きが集まっているのか90点ぐらいでは250番以下です。100点というのはありませんが、1位とか2位は98点とか、97点台です。私は90点台はちょこちょこ出るのですが、順位は250番以下です。友人はほとんど50番以内です。場合によっては10番以内にランクされていました。何が違うのか全く分かりません。友人が採点方法を変えてくれました。今度は自分の歌唱の音程、熱意、リズム等6項目に分けて採点するのです。すると自分のよいところと悪いところが分かるのです。私はリズムが特に悪いということが分かりました。リズムと言われても自分ではどうしようもありません。友人のアドバイスとしては、よく音楽を聞いて演奏に合わせること。そのために、思い切り声を張り上げるのではなく、高い音は少しセーブしてやさしく語りかけるように歌ってみたらどうかということでした。そこで、思い切り声を張り上げるのをやめて8分程度で歌うように心掛けました。高音部分が上ずることが少なくなりました。それで歌ってみるとリズム感が20%ぐらいの評価だったのですが、途端に70%以上に跳ね上がり、全体のバランスがよくなってきました。友人のアドバイスに感謝しました。私は本日改めて感じたことは、「されど人生」にするためには、友人の力を借りたほうがよいということでした。人間それぞれ他人が不得手としていることで、自分は得意としていることがある。例えば、私でいえばアルトサックスが吹ける。獅子舞ができる。どじょう掬いもできる。運転免許のない人からしてみると運転免許も持っている。パソコンの操作方法もほぼ分かっている。黒鯛を釣る仕掛けや釣る方法を知っている。日本全国を旅行して観光案内がある程度できる。トライアスロンのアドバイスができる。ラジコンヘリも飛ばせる。資格試験のとり方の指南もできる。財産の安全な運用や保全方法も知っている。等々自分ができて相手が知らないことも多々ある。反対にホームページの作り方はわからない。野菜の作り方や防除の仕方は分からない。家の補修方法や保全方法もよく分からない。他人とのコミュニケーションのとり方がよく分からない。特に異性とは何を話してよいのか皆目見当がつかない。その他分からないことがたくさんあります。そういう時は、自分の分からないことをよく知っている人を早く見つける。そしてその方に謙虚に教えを請う。多少の謝礼を支払ってもよいと思う。すると教わっていくなかで、早く自分のものにすることができる。気づきもある。新たな発見もある。つまり比較的早期に能力を獲得したり、新しい自分に出会うきっかけとなることが多いのだ。こうして新たな自分に変身していくことはとてもうれしいことだ。これは自分一人でできないことはないかもしれないが時間がかかる。いつまでかかっても不可能なこともある。それを詳しい人に教えてもらえれば一挙に解決する。身近で自分を活性化してくれる人はいっぱいおられるのである。それぞれに今まで生きてきた経験から何らかの能力を身につけておられるのだ。それを意識していないだけなのだ。身近なところで宝の山が眠っていることを知ってほしいものである。実は森田理論もそうなのだ。信頼できる人を見つける目を養うことに注力する方がよほど役に立つと思う。
2015.06.22
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集談会での話です。夕ご飯の料理のことです。どういう基準で料理に立ち向かうのか。面白い話が聞けました。ある人はその時々で自分や家族の食べたいものを作る。その目的に沿って食材を買ってくる。なかには1カ月の献立をあらかじめバランスよく立てている人もいます。自分や家族の好物が並んでいます。嫌いなものを作ることはありません。またある人は、まず新聞に入っているスーパーのチラシをよく見る。実際にスーパーに行ってとにかく安い食材を買い込む。その食材を見て料理を考える。だから必ずしも家族の好物ばかり作るわけではない。スーパーは特売日があるので、いろんなスーパーで買い物をしている。特に野菜は店により、時期的に値段に差がある。また品薄で高い野菜は敬遠して代替商品に変更している。最初の人の考え方の長所は自分の感じ方から出発している。自分や家族の好みや意志をはっきりさせている。食に関してはストレスが少ない。自分や家族から料理の不満がない。欠点としては料理が偏る。見たこともない料理にはあまりお目にかからない。料理のバリエーションが少なくなる。肉が好きな人は肉料理が多くなる。魚の好きな人のメイン料理はいつも魚になる。中華料理の好きな人は中華料理が多くなる。酒が好きな人はつまみのような料理が多くなる。趣向品が多くなり、勢い栄養のバランスが崩れたりする。食費が多少多くかかる。次の人の長所は食費の節約がある程度できる。月間の食費の予算を立てて、計画通りに進めている。家計簿をつけて食費だけでなく、その他の経費項目についてもなるべく予算内に収めるように考えている。それだけ頭を使いやりくり上手なのである。欠点としては好きな料理であっても、食材が高いものはあまり食べられない。安い食材を大量に買い込み、一度に多く作り何日も同じ料理を食べさせられることがある。特にカレーやシチュー等。そのため家族から不満が上がることがある。また安いものということが頭にあり、買い物に時間がかかり、生活のリズムが崩れやすい。さらに思いつきの簡単な料理になることが多く、手間暇のかかった料理は少なくなる。美味しいとか見た目の鮮やかさ等はあまり関心がない。それが高じると生きるために仕方なく何かを作っているという状態になる。料理の後の後片付けイヤになることがある。こうしてみるとどちらも一長一短あるということが分かります。どちらの考え方がよいとか悪いとかの問題ではないような気がします。でも面白いことに、集談会ではこんな話題を出されると、感じから出発する方がよい。あるいはお金を大切に使うという(森田では物の性を尽くす)方がよい。どちらかに自分の立場を決めて、相手の意見に対して反発して議論を挑むということがあります。きついことを言うようですが、はたしてこんなことでいいんでしょうか。こんな時は、自分の態度をどちらかに決めつける前にすることがあるのではないかと思うのです。それは両面観でそれぞれの言い分の長所や欠点、よい点や悪い点を挙げて検討してみることです。よく比較検討して両者の違いをはっきりと認識してみることです。比較して両者の違いを十分に認識する。最大の注意点は比較だけにとどめておく。是非善悪の価値判断をすることは、「百害あって一利なし」という気持ちをしっかりと確認することだと思います。これは森田理論の中でも最重要事項だと思います。ここが体得できた人は、その後の人生がまるっきり変わってくるのです。森田先生はこのことを大学卒業程度の治り方だといっておられます。小学校、旧制中学を超えて大学卒業程度の治り方というのはまさにここにあるのです。みなさんここはなんとか体得しようではありませんか。そのためのご協力は是か非でもさせていただきたいと思っております。
2015.06.21
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羽生善治さんの話です。イチロー選手は、目で判断するストライクと体が判断するストライクが違うことがあると言っていたという。つまり選球眼は「ボールだ、打つな」と判断しているのに、体は「打てる、ストライクだ」と反応しているような状態ですね。どちらを優先したらよいのでしょう。そういう時イチロー選手は、より直観的な反応である体の判断の方を優先するらしいんです。イチロー選手がワンバウンドするような低いボールをヒットにする場面が時々あるのは、その結果ではないでしょうか。つまり目よりも範囲の広い全身で選球している。イチロー選手は動物にもある大脳辺縁系の感覚をとても大事にしているということです。大脳辺縁系は本能的な欲望、直観、不安や不快などを感じるところです。それを、何はさておいても大切に取り扱っているということです。神経症に陥るような人は、その点思考方法が全く逆になっています。大脳新皮質で想起される理知、記憶、判断を常に重要視しているのです。本能的な欲望、直観、不安や不快などは暴れ馬のようなものだから、常に抑圧していかないとダメなのだと決めつけているのです。本能的な欲望等は扱いにくく困ったものとみなしているのです。この状態は、車は前に進みたがっているのにサイドブレーキをかけているようなものです。全然進まないことはないが、大きな力が要ります。無理をしているのでブレーキシューが摩擦熱で焼け切れてしまいます。人間でいえば欲望を無理やり押さえつけているのでストレスが蓄積されます。森田でいう思想の矛盾が引き起こされます。森田ではよく「感じから出発して理知で調整する」と言われます。つまりここでいう大脳辺縁系の本能的な欲望、直観、不安や不快などをまずは優先的に考えなさいということです。自分の感情、気持ち、気分、思い、体の感覚、欲求、意志、希望、快か不快か、好きか嫌いかを優先していいのです。自分の気持ちに素直になることが第一です。理知で調整するというのはそのあとのことです。普通の人は精神拮抗作用が働いて、行き過ぎる欲望に対しては自然に制御がかかるようになっているのです。この点は依存症の人以外は安心していいのです。むしろバランスが崩れて抑圧、制御過多になってしまうことに要警戒する必要があるのです。(勝負哲学 岡田武史&羽生善治 サンマーク出版 76ページより一部引用)
2015.06.20
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森田先生がもし今生きておられたら森田理論をどう変化させておられるだろうか。その前に、今は純粋神経症という人は少なくなっています。うつや人格障害等他の症状を併せ持った人が多くなっています。また治療法として、認知行動療法、薬物療法、内観療法、ピア・カウンセリング等様々な療法が出てきました。それを踏まえて推測してみたいと思います。森田理論は歴史的にみれば、医療としての森田理論から始まり、ピア・カウンセリングとしてセルフヘルプ活動として成長発展してきました。神経症治療、いわゆる医療としての森田療法の力はそんなに大きくはありません。そしてセルフヘルプ活動も、日本ではその役目を終えたかのような衰退ぶりを呈しています。でも時代的には、森田理論の神経質者に対する人間再教育の必要性はますます必要となされていると思います。時代的必要性はますます高まっているのが現状です。森田先生が今生きておられたらどう行動されるか。大変興味が尽きないところです。私は次のように推測しています。医療という森田療法よりも、教育としての森田理論の普及に力を入れられておられるのではないか。日本人で神経質な人は誰でも森田理論学習の必要性を認識している。そうした森田理論の普及活動に力を入れられているのではないか。さらに日本のみならず世界中の神経質に対して、森田理論学習の広報活動をされているのではないか。医療行為よりも神経質者の人間教育に精力を傾けられているのではないか。そう思っているわけです。その際、森田理論での言葉の見直しは考えられたのではないか。森田理論という言葉は使っておられないような気がします。そうかといって森田先生が言っておられた、自然療法、自覚療法とも違う言葉を使っておられるような気がします。純な心、あるがまま、思想の矛盾、事実唯真、精神拮抗作用、唯我独尊等の言葉は一般の人が理解できる言葉に置き換えられるのではないか。森田理論は禅だと言っている人がいます。有名な思想家でもその程度の認識なのです。次に森田理論でまだ弱い部分があります。その理論的補強をされていたと思います。まずは認識の誤りです。森田理論では劣等感的差別観、部分的弱点の絶対視、劣等感的投射、防衛単純化等を学習します。ところが認知療法で指摘しているように、神経質者が陥っている認知の誤りはその他に10項目ぐらいあります。いずれも重要な認識の誤りです。それらを基礎として学習して、最大の認識の誤りである「かくあるべし」につなげられていかれると思われます。そして次に最大の問題です。現在森田理論は理論化されているという人がいますが、私はそうは思いません。森田理論に述べられていることをそれぞれ人が、いろんな立場で自己流に解釈して勝手に伝えているだけです。羅針盤のない船に乗って太平洋を航行しているようなものです。右往左往しているのが現状です。理論というからには進むべき全体の方向性が明確に示されていなければなりません。今森田理論が問われている最大の問題点はここにあります。森田先生は森田理論を確立されました。いわば黎明期であったのです。志半ばで64歳という若さで亡くなられました。今森田先生が生存されていたとすれば、筋の通った理論としての森田理論を確立させておられるはずだと確信しております。でもそれは後世の人に託されたのでしょう。にもかかわらずそういう森田理論を全体から見て理論化に成功している人に出会ったことがありません。木を見て森を見ずという状況です。大変残念なことです。森田を学ぶピア・カウセリングを確立されたH先生の功績は素晴らしいものがありました。でも惜しむらくは森田理論の理論化も進めてほしかった。それが確立して、森田理論を自分のものにするのにかかる時間が、3年以内になっていたならば、セルプヘルプ活動の参加者は3万人を超えていたのではないか。以上個人的な雑感です。ご批判は多々あると思います。あえて投稿してみました。
2015.06.19
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対人恐怖症の人は人の思惑が気になって仕方がない。いつもちやほやされていたいのだが、事実は反対になる。非難されたり、無視されたり、バカにされたりの連続である。すると注意のほとんどが対人関係に振り向けられる。いつも自分を抑えて防御しているのですごく疲れる。気分はいつも曇天、時には風雨にさらされながら生活している。こんな状態では会社に行くのがつらい。学校に行ってもつまらない。インターネットでやっとセルフヘルプグループを見つけて参加しました。誰でもいいから、早くなんとか胸のつかえを取り除いてほしい。そんな気持ちで森田理論の学習会に参加されます。でもほとんどの人は1回で来なくなります。いわゆる様子見です。私もまったく同じ悩みを抱えていました。なんとかしてあげたい。でも空回りしています。その原因は、特効薬のようなものを性急に求めておられるからではないかと思います。そんなものがあれば同病のよしみですぐに差し上げます。もちろんそんなものはありません。どんな心理療法を受けられてもそんなものはないと思います。私はまず相手の悩みをよく聞くようにしています。そして学習会に続けて参加してみてください。最低1年は継続してみてくださいといっています。最初のうちはそれしか言いようがない。なぜなら森田理論の効果は「急がば回れ」的な対処方法なのです。森田ではよく症状は治すことはできないが治る方法があるといいます。森田の真髄である、悩みは取り除く方法がないというと相手が失望してしまうからです。本来は対人的な不安や悩みはいくら努力してもなくならないということを自覚することが一番です。努力したり一時的な気休めを求めて逃避すれば、ますます悩みは大きくなり泥沼化してきます。でも初めて参加した人は、不安や悩みを解決してもらいに来たのに、治してはいけない。治そうとするとますます泥沼化してくる。こんな話は聞きたくない。また実際森田に詳しい人が、そのようなことを最初から話してあげては「百害あって一利なし」です。でも真理は、落ちるところまで落ちて症状をとろうとする意欲や気力がなくなって、あきらめたときに初めて楽になれる。それが事実なのです。そういう覚悟を固めるための森田理論学習が必要なのです。そうなるとはじめて、そちらに集中していたエネルギーを自分の人生を楽しむため、自分の生活をより豊かにするためにシフトすることができるようになるのです。そういう考え方をしっかりと体得する。体得してしまえば、以前と比べると楽に生きている自分に気がつくと思います。10%でも意識改革ができれば、もう自分の人生の視界は大きく開けてきます。本当はこういうことが分かってほしいのです。でも逆説的な考えですから相手がそのことを自分で気づくことは大変難しい。ジレンマに陥るのです。さらに、もう一つ学習してほしいことがあります。私たちは先入観で何でもすぐに悪い方に決めつけてしまう。短絡的、悲観的、ネガティブ思考をしてしまう。その最大の認識の誤りとして「かくあるべし」という思考方法をとっています。完全主義、理想主義的な考え方です。この態度が自分の生き方を苦しめているのです。頭の中で考えた事と現実が一致しないために苦悩しているのです。この認識の誤りが正されてくると「思想の矛盾」で苦しむことが少なくなってきます。「事実のみが神様である」と言った心境で生活できるようになるととても楽になります。ここは奥が深い部分ですが、ものにする手立ては森田理論の中にしっかりと組み込まれています。簡単に言ってしまえば、森田理論では以上2つを身につける心理療法だと思います。対人恐怖症でのたうちまわっていた私が、やっと楽な生き方ができるようになった過程を振り返ってみると、この2つに集約できると思います。この体得は薬物を飲んで即効性で勝負するようなわけにはいかない。また、反発は大いに結構ですが、体得に当たっては素直であるかどうかというのが成否を分けるカギになると思います。
2015.06.18
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最近は宅配弁当のチラシをよく見かける。栄養もよく考えられている。少量ずつだが、おかずの種類も多い。飽きないように日替わりになっている。また糖尿病、血圧の高い人向けの弁当もある。おかずだけの弁当もある。値段も手ごろで500円から7、800円ぐらいだ。その他食材の配達業者も最近増えてきた。献立のレシピがあって、その通りに作ればよい。保冷剤を入れて配達する。肉や魚料理。日本食、洋食、中華料理と飽きさせない工夫がなされている。マンションでは宅配専用ボックスがあるのでそこに入れる。また希望によっては玄関先まで届ける場合もある。至れり尽くせりだ。それでなくても、ジャスコなどの大型スーパーの総菜コーナーに行けばほとんどのものはそろっている。おいしそうなものを買いそろえて、電子レンジで温めるだけですぐに食べられる。作るのはインスタントのみそ汁ぐらいか。それにカップ麺やワンタンをつけたりする。それにビールなどのお酒があれば事足りる。ファーストフード、ファミリーレストラン、グルメ三昧の外食も自由自在に利用できるようになっている。また24時間営業のコンビニがさらに完璧にサポートとしている。唯一の欠点としてはお金がかかることぐらい。そもそも人間は、買い物に行ったり、食事の準備もできないほど忙しいのであろうか。またそれらをないがしろにするほど仕事が大切なのだろうか。そうとも言えないのではなかろうか。たくさんお金を稼いで、便利で快適、自由な時間を思い切り羽を伸ばして楽しみたい。誰もが憧れる夢のような生活である。それを延長していくと、自分で本来しなければいけない基本的生活もお金さえ出せば人がやってくれる。依存体質の考え方なのだ。自分はそのためにやる気の出てこない、人間関係で心を痛めながらも必死に仕事にしがみついていくしか生きながらえる道はない。あるいは蓄えの十分な人は左うちわで消費一辺倒の生活を送っている。それも湯水のごとく使い放題である。たしかにそれが現実だ。でもそれのどこが悪いというのか。お前はそれを批判するほどの人間なのかという声が聞こえてきそうな気がする。確かに生きてくことは理想通りにはいかない。妥協したり苦しみを抱えたままに生きていくことが普通である。きれい事だけではすまされない。でも森田を学習したものとしてあえて一言発言させてもらいたいことがある。それはそういう生き方を踏襲して、最後に息を引き取るときに自分の人生はましなほうだった、幸せな生活だった。また機会があればこの世に生まれてきたいものだと思えるのだろうか。心の底から満足感に満ちていないとしたら、もう金輪際この世に生まれてきたくはないと思うことが多いのではないだろうか。宅配弁当に頼ることはたいした問題ではないように思える。でも、森田でよく言われるように、日常茶飯事に手を抜かないで自分できちんとこなしていく。ものそのものになりきって、日常生活を丁寧に紡いでいくなかにこそ生きる意味はある。その中にこそ人生のだいご味、充実感、味わい深い人生は眠っているのではなかろうか。
2015.06.17
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江戸時代に4つの飢饉があった。その中でも最大の飢饉は天保の飢饉であった。1833年から39年まで続いている。二宮金次郎は所用で宇都宮に行った。そこで食事をとった金次郎は、宿の膳に上がったナスを一口食べて驚いた。まだ初夏だというのに秋ナスの味がする。そこで飢饉が近いことを直感したという。すごい感性である。そこで寛永、享保、天明の飢饉の周期や被害について調べている。また、各地の稲の生育状況などを調べた結果、著しく生育が遅れていることが分かった。凶作が近づいていることを察知したのだ。すぐに凶作に備えた施策を打ち出している。小田原藩などの経済危機を救って、そういう権限を持っていたのだ。平均20%の減税を行い、気候変動に強い稗を栽培させた。その稗を蓄えさせるとともに、ある程度貯蔵ができる芋等の栽培を奨励している。天保の飢饉は7年間続き、全国各地で多くの人や家畜が死んだが、金次郎の領内では一人あたり5俵以上の備蓄があったため、一人の餓死者も出さなかったということである。金次郎のするどい感性が結果的に領民を救ったのである。森田理論では感じから出発して、感じを高めることを重視している。それは感じの中に気づきや新たな発見があるからである。それに沿ってやる気や意欲が出でくるのだ。人から強制されて行動するのと違い、自ら行動を起こすようになると生きがいが持てるようになる。この感じというのは、最初の感じがとても大切である。最初の感情を受け取って素早く反応することが肝心である。そして一つの感情にいつまでもとらわれないということも大切である。不快な感じ、怒り、不安や恐怖の感じは扁桃体で受け取るといわれている。扁桃体からはストレスホルモンを出して海馬などと連携して情動として出力して対応を指示している。ところが長期間不安な状態や極限状態にさらされるとストレスホルモンの働きが弱くなってくる。これは神経質者が陥りやすいことで特に注意が必要である。不安が慢性化すると扁桃体はまったく機能しなくなる。例えばゼブラフィシュという小魚を、天敵であるリーフフィシュと同じ水槽に入れる。最初はさかんに逃げ回っているそうだ。ところがしだいに動きが悪くなる。最後にはもはや動こうとはしなくなる。簡単にリーフフィシュの餌食になってしまう。これはストレスホルモンが過剰に出た結果、脳の委縮や破壊が起こり、意欲や行動がなくなってしまったのである。ここから学ぶことは、私たち神経質者は元々素晴らしい感性を持っている。天性で与えられているものである。その感性にさらに磨きをかけていくこと。そして十分に活用していくこと。また一つの不安、恐怖、不快感にとらわれるのではなく、行動によって新しい感情を次から次へと作りだしていく。その時々の感情の流れに乗ってどこまでも自然体で生きていくこと。こういう方向で感情とつきあっていくことではなかろうか。
2015.06.16
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神経質者は大学受験、国家試験等で基準点をクリアして合格する人が多いようです。これは神経質性格をつぶさに検討してみれば明らかなことです。第一に粘り強い。すっぽんのように食いついたらめったなことではあきらめない。合格するまで執着するからです。分析的、論理的な思考ができる。文章を読んで間違いか正解かを目ざとく見つけ出す能力があります。推敲を重ねて、文章を書くような問題は得意です。小さいことが気になるので、いろんなことをよく覚えてしまうのです。また反復して完全に記憶してしまおうという気持ちも強いようです。また好奇心旺盛ですから問題を解くための努力を惜しみません。神経質者はこういう課題や目標の完遂にはたぐいまれな力を発揮するのです。ただそういう方面はすぐれた特徴がありますが、対人折衝能力、統率力、身体能力の発揮は見るべき特徴が少ないということは自覚しておいてください。それを前提にして、今日はさらに自分の経験から資格試験の合格を勝ち取るためのノウハウをお教えしましょう。私のとった資格は、社会保険労務士、行政書士、宅地建物取引主任者、ファイナンシャルプランナー等です。まずは、受験に詳しい資格専門校、名物講師を発掘することです。自分ひとりで取り組もうとすると範囲が広すぎる。独りよがりの自己満足的な取り組みになってしまう。一人で学習するのは、経費はかかりませんが、いつまでたっても合格には程遠いと思います。受験専門校は確かに合格のためのノウハウを蓄積しています。例えば社会保険労務士は、労働白書、厚生白書の中から一般常識なる分野がありますが、分厚い白書のどこから出題される可能性が高いか自分ではまったく見当がつきません。受験専門校では、他社の模擬試験の問題や過去問を見て来年度の出題範囲をいくつかに絞って模擬試験をしているのです。それがだいたい当たっているのです。これを利用しない手はありません。次に、資格試験は覚えることがたくさんあります。覚えるには、反復繰り返しが一番です。100回繰り返すぐらいの気持ちが大切です。注意を引くためには、テキストの脇に実際の問題を張りつけて一緒に学習することです。資格試験はひっかけ問題が多いです。それを防ぐためにも有効です。それは全員を合格させてあげようとするよりも、いかにして合格者を絞るかというところに力を入れているからです。合格率10%ということは90%の人は不合格となってしまうのです。次に五感をフル活用することです。だいたいは目で見て学習する人が多いようです。これだけでは不十分です。耳や手や体、仲間を使うことも考えてみましょう。講師の講話内容は録音しておく。移動中等ではその録音を聞く。見たり聴いたりするだけではなく、実際にノート等に書き出して整理する。手を動かして覚えるのです。模擬試験などを実際に受けて予行演習をしてみる。学習仲間と交流して情報や刺激を受ける。資格試験で勝つためには五感のフル活用が大切なのです。学習時間は朝に力を入れたほうがよいと思います。夜は12時までには寝て、朝少し早目に起きて学習する。朝の学習はとても効率がよいのです。後は隙間時間を利用することです。待ち合わせ時間、昼時間、通勤時間もちりと積もれば大きな時間となります。資格試験の合格はどれだけ時間をかけて勉強してきたかということです。例えば社会保険労務士試験では合格ラインは1000時間と聞いたことがあります。それを各科目に割り振ると1科目100時間になります。理解したかどうかというのは計測するのが難しいですが、時間は毎日パソコンで管理すれば簡単です。それが試験では確かな自信となってきます。ここまでやっても残念ながら1年目不合格という人は30%から40%はいます。でもあきらめなければいずれ必ず合格の栄冠をつかむことができることができます。振り返ってみると大学受験や資格試験は、神経質性格をいかんなく活用していくこと。さらに森田で学習したように、分からないことは謙虚になって詳しい人から教わること。自分たちのするどい感受性、つまり五感をいかんなく活用していくこと。これらを心がけて挑戦していくとうまくいく確率は高まってゆきます。
2015.06.15
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我々は100か0、白か黒、正しいとか間違い、味方でなければ敵であるといった見方をよくします。両極端な見方で割り切ってしまうのです。たとえば自分に一つでも欠点があると、自分は性格、容姿、能力、対人折衝等すべてがダメで生きている価値や資格がない等と考える事です。仕事でミスや失敗をして上司や同僚等に冷ややかな目で見られた。もうこの会社では自分の居場所はない。解雇されるに違いない等と考える。誰でもある欠点やミス、失敗があっという間に人生のすべてを左右するような大問題に発展してしまうのです。実際には誰でも欠点があれば長所もある。ミスや失敗は誰にでも発生しています。そういう経験を積み重ねていないと、大人になってすぐにつまづいてしまいます。悲観的、ネガティブな面にとらわれて自分を追い込んでひとり相撲をして苦しんでいるようなものです。はたから見ていると融通のきかない気難しい人のように思えてきます。これは認知療法では認知の誤りといいます。白か黒かといった両極端の考え方をすることは自分を苦しめてしまいます。実際には白と黒の間には何段階にもわかれてグレーの世界が広がっているのです。0か100の間には1から99までの幅広い数字の世界が存在しているのです。我々は白か黒か、0か100かだけを考慮するのではなく、その中間に存在する世界のことを重視して考えないといけません。例えば、交差点で車同士の衝突が発生したとき、双方の保険会社はどちらの過失が大きいかを決めます。その時双方が動いていた場合、過失割合が0対100となることはあり得ないことです。過失がないように思えてもたいていは、10対90、あるいは30対70とかの割合になります。自分は絶対に悪くない。相手が全面的に悪い等というのは自分の主観であり、希望的観測なのです。その証拠に衝突防止用カメラをつけていた場合、つぶさに検証してみると、自分の方の過失が大きかったというケースは多々あります。中間的見方、グレーゾーン、ファジィ的な思考ができる人を「認知的成熟度」が高い人といいます。これは子どもの頃から、しだいに成長して、大人になると自然に身についてくるものです。例えば小学校低学年ぐらいの子どもは、クラスメイトをいい奴と悪い奴、敵と味方などというように2通りにしか分けて考えられません。高学年ぐらいになると、こんな嫌な面もあるけど、こんないい面もある。だから友達でいよう。というふうに考えられるようになるのです。ところが現代社会では大人でもそのように考えられない人が多くなっています。考えただけでも敬遠したくなります。一旦悪い奴とレッテルを張りつけてしまうと、その人のやることなすことすべてが気に食わない。姿を見ることもイヤ。また親友で素敵な人だと思っていた人が、たった一言気に触ったことを言ったとたん、その人のすべてがイヤになって絶交する。そのうち自分の身の回りに親友がいなくなってしまう。そして孤立してしまうのです。完全か不完全と区分けをしていることは得策ではありません。最初からすべてにおいて完全、不完全な極端な人はいない。すべてグレーゾーンに属するファジーな人ばかりだ、という前提に立って付き合いをしていると、とても楽な気持ちになります。すると最初から、気の合う面では一緒に行動し、気の合わない面では少し距離を置いて付き合う。そういうふうに考えると少ない親友ととことん付き合うよりも、数多くの人と薄く広く付き合うというのが理に合っていると思います。これはまさに森田の不即不離の考え方なのです。
2015.06.14
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ソニー生命で抜群の営業成績をたたき出している人がおられる。林正孝さんである。おもに法人営業をされているようである。林さんが言われるには売る保険商品はみんな同じである。決め手は林さんから買いたいと思わせる何かを持っていないとうまくはいかないという。そのヒントを横浜のラーメン屋で見つけた。そのラーメン屋はもちろん味がよい。でも味のよいラーメン屋はそこら中にある。横浜のラーメン屋の特徴は弟子たちへの厳しい教育。怒鳴る、手を出すのは当たり前。オーナーには息子がいたが、息子まで逃げ出すほどの厳しい社員教育。さらに客にも厳しい。効率よく回転させるために、客が半分入ったら半分は出される仕組みにしている。早く食べないといけない。しかも愛想が悪い。行儀の悪いお客にはお湯をかけたりする。それでも人気がある。それは、列に並んでいる間、店の外で弟子たちが練習している風景を眺めて楽しむことにあった。どういうことかというと、客が並んでいる横で、汗を流しながら弟子たちが必死にタオルで麺上げの練習をしているのだ。本人たちは真剣なのだが、まるで曲芸のようで、見ている方としては楽しい。林さんはこれにヒントを得た。まず基本に絶対的な営業力と知識を習得しておく。でもそれだけではダメだ。その上でお客様は他の営業マンとの違いを求めてくる。お客様を自分のファンにしてしまうことが大切だ。そのためには2つある。1、 自分に有益な情報をもたらせてくれる人間2、 経営の話ができ、耳の痛いことも正直に言ってくれる人間そのために経営の基礎を学んでいる。韓非子や孔子の考え方を知らないと経営者との会話は弾まないという。会社の重大な局面では自分に相談が持ち込まれることがあるという。さらに差別化された情報を届けるためにしょっちゅう世界中を飛び回っている。たとえばベトナム経済が活発で株高の時はベトナムに飛んだ。実体験するためである。でもベトナムで株は買わなかった。なぜかというと、開いても期待する株は買えなかった。ベトナムは外国人投資家の購入比率が決まっており、株価が上昇する株はすでに抑えられている。これらは目で見てきたからこそ分かることである。インターネットで検索しただけでは差別化できる情報にはならないのである。アラスカにも飛んだ。オーロラを見るためである。でも見れなかったという人が多い。それは夜10時から出発して約2時間で帰ってくるツアーからだ。2時間でオーロラが出る確率はとても少ない。ではどうするか。ツアーに参加した人が30分ずつ手分けをして零下25度の中で見張りをするのだ。だれかオーロラが出たと言ったらみんなで見に行く。これはビジネスで活かせる考えだと言われる。ロシアで戦闘機ミグに乗って成層圏に行ったり、対テロ特殊部隊に体験入隊もされた。そのほかいろいろと実際に現地に出向いて自分の肌で感じた情報を得ておられる。その情報が会社の経営とどう関係しているかまで考えて話をしておられる。我々はとてもそこまでのことはできないが、実際に体験したり、実験したりして真実を掴むという態度は林さんから学びたいものだ。自分の頭で考えたことを、事実のように思ったり、事実そのものとして扱うと神経症に陥ってしまうのは森田理論学習で学んだ通りである。(1年の目標を20分で達成する仕事術 林正孝 大和書房より引用)
2015.06.13
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東京のよみうりランドではバンジージャンプ、クレージーヒュー・ストン、バンデットというジェットコースターが体験できる。私は以前ジェットコースターを体験した。見ていた時はとても面白そうに思えた。なにしろ最高スピード110キロ、高低差78メートル、最高到達点150メートル、全長1560メートルある。みんな絶叫をあげている。体験してみる価値がありそうだ。最初坂道をコトコト登り始めたときはうきうきしていた。ところが最初の坂を下りはじめるとすごい重力がかかってパニックになり気が動転した。内臓が上の方に持ち上げられる。なんともいえない恐怖と気分の悪さ。降りてから、この最初の長い坂が最大の売り物だと聞いた。見るのと体験するのは大違いというのはこのことだ。バンジージャンプはニュージーランド等でよくやっているそうだ。よみうりランドは高さ22メートル7回のビルに相当するそうだ。遠くから飛び降りている人を見ていると面白そうだと誰でも思う。すぐそばまで行く。上を見上げる。すると自分でもできるかもしれないと思う。どうにもならない高さではないように思える。それはとんでもない認識の誤りである。ジャンプ台の上から下を見ると誰でも恐怖で足がすくむ。何倍にも高く感じる。これは水泳の高飛びこみも同じだろう。そこをがまんして思い切って飛んでみる。飛んで下から上をみる。やれやれと安堵感に満たされる。思い切って飛び降りた自分を誇らしく思える。満足感に満たされる。その時々でいろんな感じが出てくることがよく分かる。ロープ1本で登るロッククライミングや沢のぼりも同じだ。下から見ると簡単そうに見える。ところが目的地まで到達して、上から下を見下ろすと身も毛もよだつような感じになる。ここで何を言いたいかというと、自分の頭の中だけで考えたことと、実際に体験して感じるということはまったく違うということである。また下から上を見るのと、上から下を見る感じも全然違って見えるということである。見る視点が違うと感じ方も全く違ってくるのだ。我々神経質者は物事を悲観的にマイナス思考で見る傾向がある。よく観察しないで安易に決めつけをしたり、先入観で物を見る。体験しないで頭の中で推測する。いかにそれが一面的で、無茶で、おおげさで、飛躍しているかには気づいていない。考えたことが事実そのものであると信じて疑わない。でもそれは大いなる認識の誤りである。体験して事実を確かめないと判断を誤りやすい。実際によく観察する。体験してみることはとても大事なのだ。また一つの考え方の裏には必ず別の考え方が隠れている。森田でいう「両面観」で物を見ないと正しく見たことにはならない。無理にでも別の考え方を持ちだして比較しないと正しい判断はできない。先入観や思い込みで行動して、取り返しのつかない行動をして後で後悔することになることが多い。
2015.06.12
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現在メンタルケア心理専門士の学習をしている。森田以外の精神関連知識の習得と整理のためである。その中身は次のようなものです。体の仕組みと身体の病気が精神疾患に影響しているケースを学習する。これは今まで考えもしなかった分野ですが、学習する価値があると思いました。うつや統合失調症、躁うつ病等の精神疾患。そして我々が問題としている神経症の学習。人間の心の発達プロセス、人間関係におけるストレスと不安、傾聴の方法やカウンセリングの知識、医師の行う薬物療法、認知行動療法をはじめとした各種心理療法、国の行う精神衛生の施策と推進内容、職場環境におけるストレス問題。その他いろいろと魅力のある科目が並んでいる。学ぶだけで井の中の蛙状態から抜け出しそうだ。学習してまず資格取得として、メンタルケア心理士資格をとる。その資格がないと心理専門士の受験資格はないという。心理専門士試験は、学科試験、論文試験、面接試験があるという。試験会場も東京、大阪、福岡に行くしかない。学科試験、論文試験の合格者のみ面接試験に進めるらしい。結構手ごわいようだ。これは日本学術会議のメンタルケア学術学会が主催しているらしい。臨床心理士と比べるとマイナーな資格のようだが、私はカウンセリングを職業にする目的ではなく、幅広く心理学を学習するには手ごろで最適な講座である。この学習をしていて気がついたことがある。神経症関連では、不安障害、パニック障害、広場恐怖、特定の恐怖症、社会恐怖、強迫神経症、強迫性障害、心的外傷後ストレス障害、依存症、AC等を学習するようになっている。ところが治療法としては、薬物療法、認知行動療法(曝露療法)が主力である。その他論理療法、交流療法、分析療法、遊戯療法、家族療法、内観療法、ピア・カウンセリング、臨床動作法、サイコドラマ、意味療法、ヘルスカウセリングなどを学習することになっている。内観療法、ピア・カウンセリングを取り入れていることは好感が持てる。でも森田療法については1行の記載もない。これはどういうことなのだろうか。社会的認知度が低いのか、あるいは無視されているのか。そもそも心理療法に森田という個人の名前をつけていること自体、拒否反応があるのかもしれない。入院森田療法、外来森田療法を行っている病院もあるのだし、外国では日本以上に重宝されている国もあるのだから、日本で生まれた精神療法にもう少し光を当ててもらいたいものである。30年も学習してきたものからすると残念至極である。でもおかげで森田をもっともっと広めてゆこうと決意も新たにすることができた。私としては、森田理論学習は、神経質性格者のための生き方を見直す学習であると考えている。学習して体得、実践すればその後の人生を劇的に変化させる起爆剤になるものと考えている。こんなに役に立つものは最近ではめったにないのではないかと思っている。
2015.06.11
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私たちの心の中には、どうなりたいとか、どんなことをしたいとか、何が欲しいといった欲求や願望があります。それを実現して幸福になれる人もいますが、やはり、人生そう甘くはないわけで、たいていは思い通りにならずにつらい思いをします。「なりたい自分」になれないし、「欲しいもの」は手に入らない。こうして、「生の欲望の発揮」の努力を中止してしまうと、「かくあるべし」という厄介なものがのさばってきます。現実と理想のギャップに苦しみ出します。心の中は不満だらけになります。最後には、「こんな人生になんの意味があるのだろうか」「ただ苦しいだけではないか」「人間は苦しむために生きているのだろうか」等と悲観的に考えるようになります。だいたい苦難や災難は一つ起こってくると次から次へと連鎖してたて続けに起こることが多いものです。たとえば、リストラで仕事を失い、経済的困窮がもとで奥さんと子供が実家に帰ってしまう。そうした心労とストレスによってうつ病になり、そのうえ両親も病気で介護が必要になるといったようなことです。この問題に対して、「夜と霧」を書いた精神科医のフランクルは、それは認識の仕方が間違っていると指摘しています。つまり、「人生の意味」は、私たちがそれを追い求めるのに先立って、常に人生のほうから送り届けられている。私たち人間がなすべき事は、生きる意味はあるのかと「人生を問う」ことではなくて、人生の様々な状況に直面しながら、その都度「人生から問われていること」に対して全力で答えていくこと、ただそれだけだというのです。これはほっとさせられる考え方です。人間はそもそも「人生とは何か」と問う存在なのではなく、「人生から生き方を問われている存在」である。この視点に立つと、人間が「人生に意味があるかどうかを問う」という態度は傲慢且つ不謹慎であるということになると思います。したがって、人間にできること、しなければならないことは、人生の様々な状況に直面しながら、その都度、状況から発せられてくる「問い」に全力で答えていくということである。そうして自分の人生に与えられている「使命」を全うすることにある。もう一度言いますと、フランクルは「人間は常に人生から問いかけられている存在」だと言いました。フランクルは、ここにこそ人間の本来あるべきあり方があると考えました。これは森田でいうと自分に与えられた運命をそのまま受け入れて、目の前に与えられた困難で悲惨な問題点や課題などに対して誠心誠意立ち向かっていくことだと思います。その努力の過程の中に生きる意味は隠されているのだということだと思います。こういう考え方ができるようになると、ずいぶん楽に生きていけるのだろうと思います。(100分de名著 フランクル夜と霧 諸富祥彦 NHK出版より一部引用)
2015.06.10
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この日曜日は、田舎に帰り隣近所の人全員で行う川の草刈りに参加した。草といっても葦のような硬い草である。全員草刈り機を持って集まった。川の中の作業なので足場が悪い。川の中は雨上がりで水かさがあり、長靴の中にまで水が入ってきた。気持ちが悪かった。休憩時間に草刈り機の替刃の話で盛り上がった。替刃はずっと使っていると摩耗して草が切れなくなる。葦のような草は難儀をする。やわらかい草なら少々切れないときはエンジンをふかして馬力をあげて作業する。でも音はやかましいし、さらに燃料が早く無くなる。そこで替刃を新しいものに交換したり、ヤスリをかけて目立てをする。替刃はホームセンターや農協で売っている。1000円ぐらいから3000円ぐらいまでの幅がある。私は1000円ぐらいの安い替刃を買って切れなくなったら交換していた。ところが安い替刃はすぐに摩耗して使えなくなる。隣近所の人の多くは3000円ぐらいの替刃を使っていた。私は1000円の替刃が3枚買えるのでその方が安上がりではないだろうかと思っていた。でもそれは誤った考え方であったことがよく分かった。3000円の替刃は耐久性に優れていて、さらにヤスリで時々目立てをすれば10倍ぐらい長持ちがするそうだ。農家の人は刃がダメになったらすぐに買い替えるようなことはしていないのである。農家にはほとんどの家に電動や手動のヤスリ機があるそうだ。ヤスリをかけて新品同様にして使っているのだ。私は親しい人にヤスリ機を見せてもらった。その方は2種類のヤスリを持っていた。いずれも電気を使ってグラインダーのようなものが回るものだ。一つは固定式、一つは非固定式であった。その方は実際に実演して見せてくださった。その人が言われるには替刃をよく観察してみなさいと言われた。替刃を何種類も持ってきて言われるには、いろんな形状の替刃がある。種類が一つではないのだ。少なくとも形状が違うものが3種類はあることに気がついた。それぞれにヤスリのかけ方は違うのである。掛ける位置、ヤスリの角度に注意を払う必要がある。時間的には1枚の替刃を研ぐのに10分ぐらいであった。替刃の先は本当によく工夫されていることに気がついた。石にぶっつかった時刃自体に衝撃を与えない工夫等もされているそうだ。替刃は見ているとほんとに面白いものだ。こんなことにも感動すら覚える。私はいろんなことを教わった。替刃で物の性を尽くすということはこのことだと思いました。知らないこととはいえ、私のようにすぐに使い捨てにして新しいものと取り換えるというのは、まだまだ森田の初心者だった。農家の人は自然に森田が言っている物の性を尽くすという実践をされていたのだ。1枚当たりは少し割高でも刃を研いで丁寧に再生してできるだけ長く使うということ。そしてもう一つ感心したのは、もっと替刃を観察して、どうしてこういう形状になっているのか関心を持って見るということだった。いくつかの替刃を見ていると刃先の形状が違う。それは草の種類や草刈り場の状況に応じて作られているのだ。10羽ひとからげのような大雑把な見方では進歩発展はないのである。ものそのものになって眺めていると、どんどん疑問がわいてくる。疑問を詳しい人に尋ねると理屈が分かってくる。すると嬉しくなる。さらに関心が高まってくるのだ。草刈りも奥が深いし面白みがあるのである。さらに刈った草を集めて有機肥料を作り畑にまけば土地が肥えてくる。その方が言うには、有機肥料作りも楽しいし奥が深いそうである。そういえば野菜作りも近所では有名な人だ。玉ねぎなどの野菜もおすそ分けしていただいた。このように、ちょっとした関心を膨らませれば楽しみが大きく花開いてくるのである。これを見過ごしていては、草刈りのたのしみは無くなり、苦痛だけが増してくる。私のような都会暮らしのものにも親切に対応していただいた農家の方に感謝した次第です。
2015.06.09
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桑田真澄氏の考えです。野球って、とても不思議なスポーツで、どんなにすごいバッターが、どんなにすごい打球を打っても、野手の正面に行ったらアウトなんです。逆に変な当たりでも、野手のいないところに行けばヒットになる。ピッチャーでもどんなに好投しても、味方が1点も取ってくれなければ敗戦投手になる確率が高い。またピッチャではリリースポイントが1センチずれたら、ホームベース上では30センチくらいずれてしまいます。バッターでいえば、ボールをとらえる位置が1センチずれるだけで、ホームランか外野フライかでアウトかが別れる。この1センチの差が年俸でいうと大きな差になる。つまり、野球に限らず、人生も同じだと思いますが、運やツキもまた重要なんです。桑田真澄氏は4月1日生まれで、産院の先生がもし「4月2日」生まれでいいんじゃないですかといって4月2日生まれにすると、1学年下の学年になった。すると清原選手とも同学年になることはなかったし、その後の野球人生に大きく影響を与えていたと思います。桑田真澄氏は陰の努力を惜しまず、運とツキを貯金していこうと考えられたそうです。具体的には、トイレの掃除、ゴミ拾い、挨拶と返事、あと靴を揃えることです。そんなことをしたって、野球は上手になりません。分かっているんです。でも自分で、これは陰の努力だと位置づけて、毎日やりました。朝起きてから5分間だけ、便器をひとつピカピカに磨く。翌日は隣の便器、その翌日はさらに隣の便器。寮生活中は寮の目の前がグランドなので、晴れた日には、外野の芝生の雑草取りを5分間くらいしました。それを誰にも見られないように続けました。森田では神経症で苦しんでいる時は実践課題をたてて実行することを重視しています。それが軌道に乗るようになると、メモ用紙に気のついたことをすぐにメモして、やるべきことをたくさんストックしていく。そしてできること、納期の急ぐものからひとつひとつ手がけていきます。これは桑田さんの言う運とツキを貯金していくということにあたるのではないでしょうか。運とツキが回ってきて、成功体験による自信は自分の飛躍の基となるものになります。
2015.06.08
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私のかねてからの夢を書いてみました。平成29年末までは当ブログ「森田理論学習のすすめ」の投稿を中心に森田理論の普及に力を入れてゆきたいと思います。平成30年からは新たな活動に入りたいと考えています。まず森田関係では、ホームページを立ち上げたいです。題は、神経質者のための「森田式生き生き生活塾」とでもしようかと考えています。そことブログをつなげたい。どうしてつなげるかというと、ブログではコメントをすると、みんなに見られるのでコメントはしづらいという意見があるからだ。ホームページではその心配がない。直接私とのやり取りとなる。それを利用してメール相談を始めてみようと思っている。現在のブログは掲載頻度を落してぼちぼちと継続していく予定です。次に学習会で使うテキストの作成を手掛けてみたい。使い勝手の良いもの、使用目的、学習分野に分けて整備してゆきたい。内容は必要に応じて更新していく。さらに森田のミニ講座を開催してみたい。森田を勉強してみたいという方には私の方から出向いて説明していく活動である。2人でも3人でも集まれば、出向こうと思っている。さらにネットを使って森田理論の系統的学習会の実施である。私が20年かかってやっと身に付けた森田理論は、正しい学習を続ければ3年で身につくと思っている。これは大幅に学習期間が縮まるのでメリットが大きいと考えています。その実現のための準備をする必要がある。ホームページの立ち上げをどうするか。業者に頼むのか。自分でするのか。さらにそういう活動をするためには、森田だけではなく心理学全般やカウンセリング等の知識は身につけておきたい。現在メンタルケア心理専門士の資格を取得するための学習を始めた。それともう一つ別の活動を企画している。すでに取得済みの国家資格の第1級ファイナンシャルプランナー技能士、日本ファイナンシャルプランナーズ協会認定のCFPの資格を活かす活動である。これもゆくゆくは別のホームページを立ち上げたい。題は「中高年のための上手なお金のやりくり指南」とでもしようかと考えている。私の専門分野はかねてから関心を寄せている年金生活者のための金銭的トラブル解消、やりくり方法である。今や年金だけで生活することはとても難しくなっている。たとえ月々の生活費はなんとかなっても、それ以上の臨時的な経費は働いて稼ぐか貯蓄の取り崩しである。高齢者には日々の生活資金、臨時の生活資金、税金、預貯金や不動産等の財産の保管や管理、亡くなったあとの相続問題、心や身体の健康の維持管理、生きがいづくり、良好な人間関係作りなど様々な問題を抱えている。これらについてもとっさの困りごと相談に乗る活動を考えている。街のホームドクターのように、金銭面でのトラブルや心配事、やりくり相談でお役にたつことができると思う。これも、お役立ち情報の発信。困りごとのメール相談。お役立ちパンフレット、ミニテキストの作成。啓蒙活動やミニ講座などの企画や実施等を予定している。そのために年度ごとの準備を着実にこなしてゆきたい。以上の2本を柱にして平成30年からは活動してゆきたいと考えている。それと現在の仕事をリタイヤーした後は、車で1時間30分のところに自分の畑があるので本格的に自給野菜作りを始めたいと思っている。森田理論の全面的な実行である。もう一つの老人ホームの楽器演奏や余興等の慰問活動はすでに軌道に乗っており、それらを付け加えて私のライフワークとしてゆきたい。
2015.06.06
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桑田真澄氏は中学生の野球のチームを指導しているそうです。時々こういうやり方で紅白試合をしています。まず順番に番号を言わせて、奇数と偶数に分ける。そこから打順と守備位置を全部、自分たちで決めさせる。サインも自分たちで考えさせる。そこにある条件をつけます。同じポジションを続けて守ってはいけないとするんです。上手な子もいれば、下手な子もいますが、それは関係なく、2イニング続けてベンチにいるということをしちゃいけない。必ず1回出て1回休むか、2回出たら1回休むか、3回出たら1回休むか、いずれにしろみんなが出なきゃいけない。こうやって試合をさせると、みんな考えるんですよね。「おまえ、足が速いから1番打てよ」とか。「左だからファーストだけど、ファースト以外だったらどこを守れるかな」とか。中学の1年生や2年生になると、もう自分で考えられるんですよね。そうすると、子供たちは生き生きとプレーするんです。いままでは、監督やコーチが打順もサインも決めて全部やっていたのが、そういうところから徐々に試してやってみるんですけど、本当は子供たちだけでもできるんです。そうすると、大会に行ったときに、勝利に向かって何が必要か、みんなが考えるようになる。監督やコーチの指示、命令、脅迫で忠実に歯車のように動くだけの選手では、野球をやる意味がないんです。途中でイヤになります。基本を覚えたら後は自主的に工夫して動くことができないと野球自体が楽しめないのです。桑田氏は選手自らが考えないといけない環境作りをされている。素晴らしい指導です。逃げることのできない環境に放りこまれることによって、人間の生命力は活気づくのだと思います。課題や問題点が目の前に突きつけられると、いやがおうにも何らかの感情が湧いてきます。必死になって打開策を考える。そして実行してみる。ミスや失敗が起こる。変更を余儀なくされる。また新たな課題や問題点が発生したのである。さらに改善を続ける。こうすれば選手は意欲ややる気を持って野球に取り組みことができるようになる。これは森田理論でいっている考え方そのものです。森田では感じを高めるということをとても重視します。そして感じを高める。すると何らかの気づきや発見がある。しだいにやる気や意欲が出てくる。手足を出していくとさらに感じは高まって弾みがついてくる。すると進歩、発展してくる。生きがいを持って生きていくことにつながる。これは人間が活き活きと生きていくための方程式のようなものです。その土台に日常茶飯事、雑事を丁寧にすることを主張している。簡単にいえば森田理論とはそのようなことを理論化したものなのです。だれでもやろうとする意志と粘り強さがあればできることです。(野球を学問する 桑田真澄&平田竹男 新潮社 109ページより一部引用)
2015.06.06
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森田理論の自助グループに参加していて、神経症が治るという人と治らないという人がいるという。神経症が克服できるという人は、はじめてきた人に「神経症は治らない」というと誰も自助グループに参加しようとはしなくなる。「神経症はよくなりますよ」と言われて初めて参加意欲がわいてくる。神経症は治らないという人は、実際べテランでもすっかり症状がなくなっている人はまれである。つまり症状は「治らない」とするのが現実に合っている。最初はびっくりするかもしれないが、ここは正直に伝えたほうが後々信頼されると思う。それに医者でもない人間がなんの根拠もなく、やたらと「治る」を連発していたら、かえって信頼されないのではないか。(生活の発見誌6月号63ページより)治るということを、このように言われると混乱するのではなかろうか。この問題を考える時は、自助グループに参加された相手をよく観察する必要がある。今どんな生活をされているのか。仕事や勉強、家事や育児はなんとかこなしておられるのか。あるいは症状でまったく手がつけられないのかどうか。まったく手がつけられない方には、「受容と共感」の気持ちで相手の話を聞いてあげる。自分の体験を話してあげる。入院森田療法、外来森田療法施設を紹介してあげる。あるいは信頼できる臨床心理士を紹介してあげる。また内観療法などを受けられた方は体験談を話してあげる。認知行動療法を受けられ方は病院や体験を話してあげる。それぐらいのことしかできない。けがをして痛がっている人に、けがの原因を探って今度からはけがをしないようにしましょうとアドバイスしても何の役にも立たない。今は痛みを取り除くための応急処置が必要な時である。だから協力医の治療、臨床心理士等のカウンセリングを受けることである。基本的には我々の手には負えない。その人の周りに集まって励ましたり、共感することぐらいが関の山である。では、我々の森田理論の学習自助組織の目的は何か。神経質性格を抱えたままでなんとか社会に適応しようとしているが、その道はいばらの道なのである。困難を極めてついくじけてしまいそうになる。そこに焦点をあてて、もう少し肩の力を抜いて、楽に生きる道がありますよというのが森田理論学習なのである。我々の持っている性格を活かし「生の欲望」に沿った生き方を身につけること。「かくあるべし」をはじめとする認識の誤りを自覚して、基本的に事実を受け入れて、自然と一体となった生き方を体得していくこと。それは一人で極めていくことは非常に難しい。同じような境遇の人と切磋琢磨しながら和気あいあいの中で学習していく方がやりやすい。私は約30年森田理論学習と自助グループにかかわってきた。おかげさまで神経質性格を持ったままでよりよく生きていくことはどういうことかがはっきりと分かってきた。私の血となり肉となり森田理論学習を続けてきて本当によかったとしみじみと感じている今日この頃である。
2015.06.05
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草柳大蔵氏の話である。茶会等で使う茶器に「三島手」というのがある。こまかい縄状の文様のある高麗象嵌焼で、別名を「こよみで」ともいう。濃灰色の地肌にベージュ色の文様の入ったものが多いいが、製作過程では二度手間になる。最初、挽き上げた茶碗に條を入れ、釉薬をかけてから、窯に入れて焼く。焼きあがったら、はじめに條を入れたところに白っぽい陶土を入れ(これが象嵌になる)、もう一度、窯に入れて焼く。こうすると、茶碗の方はすでに焼成されているから、二度目の窯入れでも縮みの度合いが小さいが、あとから入れた白い陶土はわずかな分量だから、一度の焼成できっちりと條の中にはまり込む。したがって、できあがったものの表面を撫でてみると、茶碗の肌を象眼した白陶土の面はほとんど水平になる。茶碗屋の間では、これを「ヅラ(面)が合う」と称している。ところが、いまの芸術大学や工科大学の窯業科ではどのように教えているか。ろくろから挽き上げたばかりの茶碗に條をつけ、最初からそこに白陶土を入れて、一度で焼成してしまう。こうすれば、二度焼きするよりも光熱費も時間も半分で済むというわけである。確かにその通りには違いないが、その結果焼きあがった「三島手」の表面は、白陶土の収縮度と茶碗の収縮度には土の性質によって違いがあるから、その違いのぶんだけデコボコになる。つまり、茶碗屋のいう「ヅラ」が合わないのである。大卒の人が作る「三島手」は、ほとんど、このデコボコ三島である。大学の窯業科の先生が、いかに効率よく、コストも安く、焼き物を作るかを教えるのは自由ではある。でも本物の「三島手」を作る人の心を伝えないで、何のための教育なんだろうな。作った人の使い勝手のよさというメッセージを、ちゃんと使う側に伝えないとダメなんではないか。そのためには、作る側にはそれなりの覚悟、心の用意というものが必要になる。(人は生きてきたようにしか死なない 草柳大蔵 保健同人社 22ページより引用)陶芸品というものは、長い期間かけて培われた伝統がある。基本を学んで踏襲してしくことが出発点である。まずは型を学ぶのである。型がなければ型無しになる。基本を無視して手抜きをしてしまえば、効率よく安いものができるかもしれない。でも本物からどんどん横道に外れてしまう。するとよいものを作って使い手に喜んでもらいたいという気持ちは急速に無くなってしまう。製品作りのやる気や意欲は減退してしまう。偽物を早く大量生産して、大量販売で儲かればよいという気持ちが強くなってくる。製品作りに向かう情熱は消え失せて、商売の方法ばかりに気持ちが向いてくる。そうなると、消費者はすぐに見向きもしなくなる。安易な商売の道に走ることなく、愚直に本物の商品作りに邁進していくことが、自分の生きがいにもなるし、消費者の支持を受けるのではなかろうか。大学では、ものづくりの効率ではなく、その心意気を伝えてほしいものである。
2015.06.04
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サッカーでも将棋でも、試合や勝負の展開を客観的に全体像を認識する俯瞰性がないとダメだと言います。次の一手をどう打つかということもちろん大事です。でも、それよりも状況を上から眺めて全体像がどうなっているか把握して、大きな方針を定めることです。上空から見て、右へ行くか左へ行くか、どれくらいの速度で進むか。それら大筋の方向性を大づかみする。それが定まって初めて、地上へ降りて、何歩歩いて、どこへ曲がるか。その一歩一歩、部分部分を詳細に検討することができます。ですから、大局観をしっかり定めておくと無駄な指し手が省かれて読みや直感も冴えてきます。これを別な例で説明します。東京ディズニーランドに行った時、みんな施設のご案内を持っています。それを見て行ってみたいアトラクションを探すのです。ある程度の概要を知った上で行動を起こしています。もしそうした案内書を持たずに入館したらどうなるでしょうか。とめどもなく歩き回り戸惑うのではないでしょうか。そして自分にあったアトラクションにたどりつくのに時間がかかると思われます。森田理論学習もこれと一緒だと思います。全体の森田理論の体系を頭に入れて学習すれば、とても効率がよくなります。また、偏った学習が是正されて、全体をまんべんなく学習することができるようになります。私は森田理論の学習にあたっては、基礎編と応用編に分けています。応用編ではまず森田理論の全体像の理解から始めてゆきます。これについてはすでに何回も投稿していますので、検索に「森田理論全体像」と打ちこんで探してみてください。「森田理論全体像」を理解すると、次のようなメリットがあります。1、森田理論学習で神経症が治る過程がよく分かるようになります。2、自分の森田理論学習の理解の進捗状況がよく分かるようになります。3、各自この先どのように学習を深めていったらよいのか、そのポイントを見出すことができるようになります。4、自分の生活の中での実践目標の方向性を見つけ出すことができるようになります。5、森田先生の言われているキーワードの意味がよく分かるようになります。森田理論の基礎編(神経症の成り立ち、性格特徴、感情の法則、行動の原則など)を学習された後には、ぜひ「森田理論全体像」から応用編の学習へ進んでいただきたいと考えています。
2015.06.03
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神経質性格の持ち主は心配性です。欠点を探して苦にする。取り越し苦労する。という面も確かにあります。反面、感受性が豊かで芸術をより深く味わうことができる。人の気持ちをより深く察することができる。細かいことによく気がついて、あらかじめ手を打つことができる。性格の活かし方として欠点はそのままにして、長所を育てていくという方向性がよいのではないでしょうか。例えばこんな活かし方があります。スーパーのレジに並んでいる時のこと。たいてい何人かが並んでいます。私は待ち時間の間、その時財布から小銭をすべて取り出して100円、50円、10円、5円、1円と順番に分けて右手に整理しておきます。そして自分の番がきます。863円だったとしましょうか。まず63円を区分けしておいた50円、10円、1円の中からすぐに払います。10円玉がたくさんあれば50円玉を使わずに10円玉で支払います。その方が財布が軽くなるから嬉しいのです。100円が8枚あれば100円玉で払います。無ければ1000円札から払います。短時間で支払完了です。これを最初から1000円札を出してお釣りをもらうと小銭がたまって、財布が重くなるだけです。またレジ係の人から金額を言われて、はじめて財布の中をかき混ぜて探している人がいます。観察していると実に面白いものです。先日の方は探すのに時間がかかっていました。またコインを一枚ずつ摘みあげているので後ろに並んでいるとなんとかならないのかと思いました。多分レジの人もイライラしていたと思います。私は知らず知らずにやっていたことですが、神経質性格をプラスに活かしていることではないかなと思いました。以前バスの中で1万円を出して支払おうとしている人がいました。300円か400円のバス代をどうして1万円で支払おとしたのでしょうか。どうして事前にチェックして用意していなかったのでしょうか。バスの運転手もその時はお釣りを持っていなかったのか困っていました。その他集談会でも会費を払う時に1万ではお釣りがすぐに用意できないときもあります。また私は飲み会の幹事をやることがたまにあります。呑み放題3500円ぐらいが多いのですが、支払いに4人、5人と1万円を出されるとお釣りを用意するのに困ります。後で支払ってくださいと言っているとすっかり徴収するのを忘れて、酔って分からなくなることがあります。神経質者はそういう時にこそ「取り越し苦労をする」という性格を存分に活かしていく必要があるのではないでしょうか。自分も早く清算できて安心しますし、なによりも相手に喜ばれることになると思います。ついでにこんな話もあります。ビンビールを酒屋の配達で買っている人の話です。その中の2本には「冷えてます」シールが貼ってあるのだそうです。ちょっとした気づかいですが、とても好感が持てます。これらは思っただけでは、思わなかった人と結果は同じことになります。思いついたことは具体的に行動に移すということが肝心です。小さいことを積み重ねていけば、弾みがついて多方面に及んできます。すると多くの人から信頼が得られて、評価されるようになってくると思います。このように森田理論の応用というのは誰でもできることが多いいんですね。思いついたことを実行するかしないかの問題なんですね。
2015.06.02
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プロ野球観戦に「かくあるべし」を持ち込むとどうなるのか。自分の贔屓のチームを応援している人も多いと思います。そういう人の中には贔屓のチームが勝てばうれしい。球場やテレビで観戦していたのに、スポーツ番組が始まるとすぐにチャンネルをあわせる。それもいろんなチャンネルをみる。あくる日になると新聞でスポーツ欄から見る。なかには駅でスポーツ新聞を買い求めて見る人もいる。野球三昧とはこのことか。ところが反対に負けると大変なことになる。しかも連敗すると目も当てられない。まずすぐに機嫌が悪くなる。家族や仕事仲間にあたり散らす。その日のスポーツ番組は一切見ない。スポーツ番組が始まるとすぐにチャンネルを変える。なかにはテレビ自体を見ないという人もいる。あくる日の新聞のスポーツ欄は見ないようにしている。なかには新聞自体見ないという人もいる。そしてにわか解説者になって監督の采配、打たれたピッチャーや打てなかったバッターの批判を繰り返す。それでもこのイライラ感や不快感はとれない。そしてしばらくは贔屓のチームの試合は見ないようにする。すると入れ込んでいない分、勝っても負けて不快感やストレスが少なくて済むのである。でも心の中ではいつも気にかかっている。野球依存症にかかっているようなものだから、一生抜け出すことはできない。こうゆう現象はなぜ起こるだろう。私は「かくあるべし」が関係していると思う。贔屓のチームがあるということは仕方のないことです。好き嫌いは自然現象ですからどうすることもできません。でも贔屓のチームが絶対に勝たなければならない。先発ピッチ―はせめて6回か7回は2点、3点以内に抑えなければならない。セットアッパーや抑えのピッチャーは抑えるのが当然だ。ホームランバッターは全打席ホームランを打ってほしい。ホームランが打てない選手はチャンスでヒットを打たなければ承知しない。こう考えているとその期待は半分以上はつねに裏切られる。現実と理想のギャップでイライラしたり腹が立って仕方ないのである。自分の一人相撲で苦の種を作り出しているのである。だいたいレギュラー選手で年間450以上打席に立つが、ホームランはよく打っても40本ぐらいのものだ。15打席で1本のホームランが打てればホームラン王になれる可能性がある。4試合に1本も打てればよいのだ。ホームランの確率としては1割以下である。それでもホームラン王になれる可能性のあるスポーツなのだ。逆に言うと、いくらホームランバッターであっても冷静に考えれば9割はホームランは打てないのだ。そこで打つ確率は非常に少ないという前提であわよくばホームランを打ってほしいと期待するのか。あるいは当然ホームランを打ってもらわないと自分の気がすまないと考えるのか。その違いは大きい。チャンスで2割そこそこのキャッチャーに打席が回ってきた。確率から言えば10回に8回は凡打に倒れている選手である。その選手に絶対タイムリーを打たないと私が許さない。と入れあげてしまうのか。確率は極めて少ない。でもピッチャーがピンチに動揺して暴投することもある。あるいは手元が狂って打ち頃の球を投げることだってある。さてこの場面そんな状況にならないかなと期待してみる。ここで仮にタイムリーを打てばこの上ない喜びになる。でも打てなくても、悔しいけれども想定の範囲と納得できるのではないだろうか。つまりデーターを見ると野球はそもそも成功確率の少ないスポーツなのである。その成功確率は3割以下である。それを前提にして、失敗してももともと、成功すればラッキーという気持ちで観戦すればそれほど私生活に大きな影響を及ぼすとは考えにくいのである。
2015.06.01
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