全30件 (30件中 1-30件目)
1
次に回避型愛着スタイルの特性と対人関係について見てゆこう。このタイプは、距離をおいた対人関係を好む。親しい関係や情緒的な共有を心地よいとはは感じず、むしろ重荷に感じやすい。過保護、過干渉の経験者に多いように思う。回避型の考え方の中心は、縛られないことである。人にも依存しなければ、人から依存されることもなく、自立自存の状態を最良とみなす。困った時自分から人の助けを求めることが少ない。他人から一定の距離を保っている方が精神的に楽に過ごすことができる。そして、他人に迷惑をかけないことが大事だと、自己責任を重視する。自分の属する組織や集団とも、気持ちを共有することは少なく、仲間に対して、一緒にいてもあまり意味がないとか時間の無駄であるといった、ネガティブな見方をする傾向がある。積極的に関与することよりも、自分に余計な責任がかからないようにする。回避型のもう一つの大きな特徴は、葛藤を避けようとすることである。そのため、人とぶつかり合ったりする状況が苦手で、そうした状況に陥るくらいなら、自分から身を引くことで事態の収拾を図ろうとする。人への積極的な関与を好まないのも、ある意味、葛藤を避けようとするためでもある。葛藤を抱えられないので、ストレスがかかると、短絡的に反応して、攻撃的な言動に出てしまいやすい。相手の痛みに無頓着なところもある。自分が相手を傷つけていることに気がつかなかったりする。冷静そうに見えて、切れると暴発してしまうのである。対人恐怖症の考え方や行動と一致している。回避型の人は、何に対してもどこか醒めているところがある。クールでドライな印象を与えることも多いが、そうすることで、傷つくことから自分を守っているともいえる。回避型の人は、自己開示を避けるために、コミュニケーション能力が育ちにくい。表情や感情表現も乏しい。鈍感であると判断されることもある。回避型の人は、めんどくさがり屋でもある。やらなければならないことやった方がよいことであっても、厄介なことから逃げたり、手をつけずに放っておくことが多い。自己内省的、観念的で苦悩と葛藤の悪循環が繰り返される。このタイプに川端康成がいる。苦悩と乗り越え方は後ほど見てゆきたい。(愛着障害 子ども時代を引きずる人々 岡田尊司 光文社新書212ページより引用)
2015.09.30
コメント(0)
岡田尊司氏は愛着スタイルを安定型愛着スタイル、回避型愛着スタイル、不安型愛着スタイル、恐れ・回避型愛着スタイルの4つに分類されている。その特徴を順に見てゆこう。まず安定型スタイルである。安定型愛着スタイルの第1の特徴は対人関係における絆の安定性である。安定型の人は、自分を愛着し信頼している人が、自分をいつまでも愛し続けてくれることを当然のように確信している。愛情を失ってしまうとか、嫌われてしまうなどと、思い悩むことがない。自分が困ったときや助けを求めている時には、それに必ず応えてくれると信じている。だから、気楽に相談したり、助けを求めたりすることができる。また安定型のもう一つの特徴は、その素直さと前向きな姿勢である。人の反応を肯定的に捉え、自分を否定しているとか、蔑んでいるなどと誤解することがない。そもそも、人がどういう反応するかということにあまり左右されることがない。自分が相手の要求を拒否したり、主張を否定したりすると、相手が傷つき、自分のことを嫌うのではないかと心配したりしない。自分の気持ちを偽ってまで相手に合わせるよりも、自分の考えをオープンにさらけ出した方が、相手に対して誠実であり、お互いの理解につながると考える。自分の意見や気持ちを口にすることイコール、相手を否定することではないからだ。相手を信頼し、尊重しているからこそ、本音で話すのだと考える。互いに意見を述べて、議論しあうときも、がむしゃらに議論に勝とうとしたり、感情的に対立したりするのではなく、相手への敬意や配慮を忘れない。相手の主張によって自分が脅かされたとは受け取らないので、客観的スタンスを保ちやすいのである。愛する人との別れに際しても、悲しい気持ちを抱きながらも、その気持ちに圧倒され、心が不安定になったり、生きていく勇気を失ったりすることはない。自分のなかに、大切な存在は生き続けていると感じ、それまでの愛情に応えようと、前向きに生きていこうとする。仕事と対人関係のバランスがよいことも、大きな特徴であり、ともに楽しみながら取り組むという事が自然にできる。そのためストレスをため込みにくい。(愛着障害 子ども時代を引きずる人々 岡田尊司 光文社新書210ページより引用)
2015.09.29
コメント(0)
まず愛着障害を持っている人はどういう心理状態、行動を起こすか。なぜか人の気持ちばかり気にしてしまう。対立したくないので、つい相手に合わせてしまう。自分をさらけ出すことに憶病になってしまう。人との交流を楽しむことができない。人の顔色をすごく気にする。気疲れしやすい。いつも本心を抑圧して相手に合わせてしまう。いつも醒めていて、何事も本気になれない。拒否されたり、傷つくことに敏感でいつもビクビクオドオドしている。「能力のない人だ」「あなたなんかいないほうがいい」と言われないかいつも不安に思っている。いつも防衛一辺倒である。損だと分かっていても意地を張ってしまう。このような傾向があり、実生活に支障をきたしている人は愛着障害が存在する可能性が高い。愛着障害は生後6カ月から1歳6カ月の愛着形成期を無難に過ごすことができたかどうかが一番の問題となる。子育てに無関心な親で身の回りの世話をしてもらえない。育児放棄を受ける。養子に出される。児童養護施設で育てられる。実母との死別。両親のいさかい。離婚。放任、過干渉、過保護などは特に問題が起きやすい。過干渉、過保護は世話を焼きすぎることであり、子どもを縛り付けてしまい、依存的で、不安の強い、自立できない子どもを育ててしまう。これも愛着形成上問題がある。この間、特に母親の間に十分なスキンシップがあったかどうか。抱っこをしてもらっていたかどうか。母親が子どもの欲求を感じとり、それに対して速やかに応答してきたかどうかが問題となる。これは他人に肩代わりしてもらう事は出来ない。一人の母親、父親など特別の存在との交流が重要である。それはイスラエルのキブツでの実験で明らかになっている。生まれたての子どもに対して、母親と切り離して、多くの大人が子どもに関わりをもち、かわいがり、十分なスキンシップをしたが、安定した愛着が育っていくことはなかったそうだ。この時期を無難に過ごし、いったん愛着の絆が形成されると、それは容易に消されることはない。心の中に「安全基地」「ベースキャンプ」を持っていて、そこを足がかりにして冒険をすることができるようになる。そして危険なとき、苦しい時は、安心してそこに退避できる。さらにエネルギーを補給して再び飛び出すことができるようになる。エベレスト登山のような場合、「安全基地」「ベースキャンプ」がないとどうなるか。シェルパや支援部隊がいないと、急な悪天候で容易に挫折してしまう。愛着の絆の形成はそういうものなのだ。明日からは愛着障害の4つのタイプにスポットを当ててみたい。(愛着障害 子ども時代を引きずる人々 岡田尊司 光文社新書参照)
2015.09.28
コメント(0)
エリク・H・エリクソンという心理学者がいる。臨床心理学を学習した人は誰でも知っている有名な人である。アイデンティティ理論のエリクソンとして有名である。この人には面白い逸話が残っている。これを「エリクソンの奇跡」というそうだ。エリクソンはユダヤ人で、ナチスからの迫害から逃れるために、1933年にドイツからアメリカのボストンにやってきた。英語は全く分からず、単語を100個ぐらいしか知らなかった。当時心理学はおろかカウンセリングもほとんど知らなかった。学校では問題児で、大学には行かずに、画家を目指して専門学校に行った。しいて言えば、アンナ・フロイト(あの有名なフロイトの娘である)のもとで精神分析を受ける子どもたちの世話係をしていただけだった。それをきっかけとして、専門知識がないにもかかわらず、小さな借家の一室を面接室にして治療を始めた。当時のアメリカでは、訓練を受けた医師のみに精神分析を認めていた。エリクソンは、いわば無許可の営業をしていたのである。ところがその彼が奇跡を起こしたのだ。それまで、名高い精神分析医が長年治療を行っても、少しもよくならなかった患者が、顕著な改善を見せたのだ。それも一人ではない。何人もいたのだ。精神科医が見捨てたような患者が(彼のもとにはそういう人しかやってこなかった)すっかりよくなっていったのだ。そのうわさがボストン中に広まったという。その一人にマーサ・テイラーという女性がいた。深刻な自己不全感で苦しんでいた。今でいえば境界性人格障害と依存性人格障害を抱えた状態だったと思われる。マーサは裕福だったため、パリまで行って著名な精神分析医の治療を受けたが全く改善しなかった。そこで手あたりしだい治療先を見つけていたのだ。その最中に偶然エリクソンに出会った。だが、マーサがまず驚いたのは、みすぼらしい診察室。隣の部屋からは子どもたちの泣き声がしていたという。エリクソンは分析を中断して子どもの面倒を見に行っていたという。分析の方法も、正式な寝椅子を用いた精神分析ではなく、ごく普通の会話だった。治療の後には、マーサを家族に紹介したり、一緒に食事をしたりした。通常のやり方からすればタブーとされることばかりだった。しかも英語が話せない。治療という名目で患者から英会話のレッスンを受けているようであった。ところが、驚くべきことに、マーサは、自己不全感が薄らぎ、前向きな自信が湧いてくるのを感じるようになった。やがてすっかり良くなっていった。これについて岡田尊司氏の分析はこうである。エリクソン自身は重い愛着障害を抱えていた。エリクソンは不義の子として生まれ、実の父親が誰か知らないまま育った。幼いころからエリクソンは自分につきまとう影のようなものを感じていた。しだいに母や義父との確執が強まっていった。つまりエリクソンの人生は、愛着障害と格闘し、克服するための人生を歩んできていたのである。エリクソンはマーサ等の患者さんたちに自分と同じ愛着障害があることを見抜いていたのである。その治療、癒し方を自分の体験を通じて会得していたのが大きかったのである。現在神経症で悩む人がいる。発達障害で悩む人もいる。人格障害などで悩む人がいる。そういう人たちは薬物療法、精神分析、認知行動療法、カウンセリングなどを受ける。岡田氏は、もしその人たちに愛着障害があれば、そちらの治療が先に来ないといけないのではないかといわれる。私もその考え方に賛同している。愛着障害の詳しい説明は明日投稿いたします。(愛着障害 子ども時代を引きずる人々 岡田尊司 光文社新書参照)
2015.09.27
コメント(0)
長谷川洋三氏の「行動が性格を変える」という本にこんな話がある。お寺の小僧さんが竹箒をもって庭掃除をしている。薄暗いうちに起き出して、ひととおり掃除をすましたはずの彼が、チリ一つ見られないところを、頭から湯気をたてて掃き立てている。掃くというより、地表をはぎとろうとでもするように、竹箒が折れんばかりに力を込めている。そこへ住職がやってきた。「なにをしているんじゃ」「ここが、こいつがどうしてもきれいにならないんです。まるでわたしについてまわるみたいにしつこいのです」小僧さんの指さすところには、彼の影があった。小僧さんは自分の影をゴミと間違えて取り除こうとしていたのです。影はいつまでたっても取り除くことができず、疲労困憊でついには身体も心もガタガタになってしまいます。人ごとではありません。神経症で苦しんでいる人はみんなこの小僧さんと同じことをしているのです。不安のみに振り回されると誰でもこのような滑稽な行動をとるようになるのです。これに対して長谷川洋三氏は次のように言われています。新人にとって大切なことは、自分の欲望を自覚して、仕事を一日も早く習得するよう努力することである。ところが新人たちは、まず不安や悩みを取り除いてから、その努力をしようとするのである。お寺の小僧さんと同じことをしているのだ。森田先生は「苦痛は安楽と相対的なもので、影の形に於けるが如く、苦楽は同一事実の両面観である。一円の希望には一円の努力を要し、希望が大きいほど、取り越し苦労も大きい。強迫観念が強いほど、その人の抱負が大きいのである。神経質は欲望が大きく、意志薄弱者は人生の希望の欠乏である」といい、「ただ人生の目的に向かって欲張りさえすれば、苦痛はおのずから調和して、これを感じなくなる。そこに安楽も安心立命もあるのである」と、言われている。(行動が性格を変える 長谷川洋三 マネジメント社209ページ引用)
2015.09.26
コメント(2)
定年退職すると目標が持てず、テレビを見たり、ゲームをしたり、買い物に行ったりして暇をもてあまし気味の人がいます。こういう生活は体力が衰えるだけではなく、脳が廃用性萎縮を起こします。脳がもう働かなくてもいいんだなと思うと、シナプスの連絡経路を遮断してしまうのです。二度と再生することはありません。アルツハイマー病という認知症があります。脳が委縮して小さくなります。記憶障害、判断力が低下し徘徊するようになります。この人たちの脳には神経伝達物質のアセチルコリンが減少しているそうです。アセチルコリンは知的活動、とくに記憶との関係が注目されています。では定年後の生活はどういう心構えを持てばよいのでしょうか。萩本欽一さんの話が参考になります。「年をとればとるほど、なにごともスピードをあげて取り組むことにしています。でないと輝いて生きられませんから。例えば仕事をするときは、これが最後の一つ手前の仕事と考えて全力で頑張ります。そうして次の仕事、次の仕事とやっていくと、どんどんスピードが上がっていくんです」「これが最後の仕事」と思うと、それをやり終えると、次の仕事に向かう意欲がわかなくなってしまいます。だから意識を「最後の一つ手前の仕事」におくのでしょう。反対に、「もう年だから、無理をしないでスローペースで行きましょう」それも一理あるかもしれません。でもそうなると自分で自分の限界を設定して、歳だからもう挑戦しないとあきらめの気持ちになってきます。それが積み重なるとしだいに生きる力は弱まってくるのではないでしょうか。心も体もなえてしまいます。もしこれが現役のプロ野球選手だとすれば即刻現役引退となるでしょう。野村前プロ野球監督は「生涯一捕手」にこだわっていました。サムエル・ウルマンは「青春の詩」で次のように言っています。年を重ねるだけで人は老いない。理想を失う時に初めて老いがくる。歳月は皮膚のしわを増すが,情熱を失う時に精神はしぼむ。苦悶や狐疑や,不安,恐怖,失望,こう言うものこそ恰も長年月の如く人を老いさせ,精気ある魂をも 芥に帰せしめてしまう。心して命のある限り一生懸命に生き抜いてゆきたいものです。
2015.09.25
コメント(0)
私が提唱している神経症克服の方法は4つある。これについてはすでに投稿しているがさらに投稿してみたい。1、 行動・実践力を取り戻す2、 両面観を身につけて常にバランスをとるようにする。3、 自分の考え方に「かくあるべし」がないか、認識の片寄りがないか仲間の力を借りて修正する。日記指導を受けるのも有効である。4、 不安や恐怖などとらわれの原因は、基本的には、取り除いたり逃げたりしない。そのまま受け入れる態度を養成する。この4つを1から10段階のどの段階にあるのか。おおむね6段階以上を目指してもらいたい。どれも平均的に取り組まなければ神経症克服の成果が上がりにくい。やりやすいのは1である。日常茶飯事、雑事に丁寧に取り組む。規則正しい生活をする。仕事、勉強、家事、育児にものそのものになって取り組む。その他自分のやりたいことにも積極的に手を出してみる。人の役に立つことに手をだす。2番目はバランス思考で考える癖をつけることである。不安の裏には必ず欲望がある。不安に振り回されている時は、欲望のことは蚊帳の外になっている。不安が強ければ強いほど、欲望の発揮を意識する必要がある。そのための意識付けを行う。ヤジロベイや天秤を目のつくところにおいておく。不安が襲って来た時はそれを見て欲望に目を転じて調和を図っていく生き方を身につけていくこと。3番目は自分ひとりの力では無理だという認識を持つ。他人の力を借りて自分の考え方の癖を修正していく。自助組織に参加して、謙虚に仲間の指摘に耳を傾けること。不安等の事実はできるだけ具体的に赤裸々に話す。それに基づいて誤りがないか、片寄りがないか謙虚に教えを請う。他人の考え方の間違いや片寄りについて気がついたことは話してあげる。むかっとすることもあるが、自分のためになることなので謙虚に受け止めることが大切である。4番目については以前6項目にわたって書いている。どれ大切である。その中でも一番効果があるのは、他人の不安をよく聴く。無理にでも共感できるところを探す。そして他人を受容していこうという生活態度を身につけていく。するとしだいに他人を叱責したり、批判したり、拒否したり、無視したりしなくなる。こういう態度で生活していると徐々に自分自身も受容できるようになる。この実践を6カ月続けてみる。日記等に記録をとってみる。自己嫌悪、自己否定から、少しずつ自分自身の存在を認めることができるようになるでしょう。
2015.09.24
コメント(0)
私は以前金魚を飼っていた。優雅に泳ぐ姿になんともいえない癒しを感じたのである。2009年10月17日のことだった。日記に書いている。赤いリュウキン、白に頭に赤い模様のある丹頂が我が家にやってきた。いつも見ても飽きない。リュウキンが丹頂を追いかけまわすのが気になったがそれ以外は気にならなかった。金魚の隠れ家や水草も入れた。酸素補給の泡の出るものは入れなかった。言われたように外付け濾過機をつけた。砂も引いた。水も1日バケツで放置してカルキを抜いた。カルキ抜き材も使った。濾過機のフィルターはすぐに汚れるので汚れるたびに取り換えていた。金魚はフンをよくするので水槽内が汚れるので、半月か1カ月に1回は掃除をしていた。水槽をこすり磨いた。砂はフンを取り除いて、ごしごし洗った。そして水は今までのものを3分一ほど残してまずそれを入れた。そして1昼夜寝かせた水を入れて、金魚を戻した。餌は金魚屋で買った浮き餌を与えた。毎日仕事から帰って餌やりをしていた。最初の頃は餌を与えると飛びつくように食べていたがそのうち食欲がなくなった。食べ残った餌が濾過機の周辺でへばりつくので難儀した。金魚は最低でも10年は生きるといわれていたので成長を楽しみにしていた。ところが2011年に相次いで死んでしまった。我が家にやってきて2年の命だった。仕事の出入り業者の人で金魚に詳しい人がいた。その方に飼い方をについて聞いてみた。するといろいろと参考になるアドバイスをしてもらった。その人が言うには、金魚はとてもデリケートで環境の変化がとてもストレスになっていること。だからたびたび水替えをするとストレスになる。なるべく水替えをしない方がよいという。では水槽が汚れるのはどうしたらよいのか。その方が言うには、それは水槽内のバクテリアを育てて、バクテリアに分解してもらうのだという。水質浄化のためにバクテリアの力を借りないと金魚は死んでしまうという。金魚はとてもフンをよくする。これは砂の上に堆積するので時々とる必要がある。その時砂をゴシゴシ洗ってはいけない。フンだけをすくいとってやる。そういう専門のポンプを売っているという。砂の中には大切なバクテリアがたくさん住みついている。また餌はやり過ぎだという。金魚は10日ぐらい餌を食べなくても死なないという。私は金魚屋の簡単な説明を聞いただけで飼い始めたのがよくなかったと思った。今はインターネットで金魚の飼い方を根掘り葉掘り調べことができる。飼い方の基礎を学び、くわしい人に指導してもらうという事を怠っていた。基礎的な知識ががないままに、自分勝手に飼っていたのだ。金魚の気持ちが分かるほど、よく学習して、観察していれば15年ぐらい長生きすることができたかもしれない。考えてみれば森田理論学習もそうだ。聞きかじりで森田は分かったというのはほどんど自分のプラスにならない。いいところ取りの学習を断片的に続けただけでは、観念的になり知識だけが身についていく。理論と実践は車の両輪といわれる。理論の車輪が大きくて実践の車輪が小さいと前進できない。観念の空回りになってしまう。観念の空回りは益々症状を悪化させていく。森田理論は系統立てて学ぶことが大切だと思う。私がお勧めするのは、森田理論の基礎編、応用編、生活への応用の3段階に分けて、3年ぐらいをめどにして行う。またのんべんだらりと学習するのではなく短期に集中して行うのがよいと思う。3年は長いようであるが、森田を生涯にわたって生きる指針にしようと思えば、短い期間である。
2015.09.23
コメント(0)
2015年2月号の生活の発見誌の55ページに、森田先生のところで治療を受けられた黒川邦輔氏の記事あった。とても興味深く読ませてもらった。というのは、森田先生が講話をするときは特高警察が監視していた。ある時森田先生がみんなにこう問いかけた。「人はすべからく生の欲望に従って生きていかねばならない、人はだれでも死ぬのは怖い、死にたくないのが人間の心である」「この中で死にたいと思う人はいますか。誰もいないでしょう。いたら手をあげてください」時は戦時下である。特高が弁士注意。集会解散と叫んで森田先生を逮捕しようとしたのである。この時黒川邦輔氏、検事の日高氏、警視庁の金子医師などのおかげでなんとか逮捕を免れたという話を聞いていたからである。もしそういう弟子の人がいなかった場合、当時の状況から考えて森田先生は獄中で拷問死していたことが予想される。(森田正馬癒しの人生 岸見勇美 春萠社参照)黒川氏は軍人である。昭和16年ビルマに派遣されている。昭和16年8月飛行機事故で戦死している。享年44歳であった。「回想ビルマ作戦」(野口省己著・光人社NF文庫)に黒川氏の関連記事があるという。この本の著者は黒川氏の部下にあたる人である。この中で野口氏は黒川氏のことについて、とある上司にまったく頭が上がらない様子だったので情けなく思ったのか「しっかりしてください」と申し上げたと書かれている。つまり黒川氏は森田先生のもとで入院療法をうけて、神経質の性格をうまく活かして、軍隊で参謀にまで地位をあげられ、人格的にも大きく成長された。ところが性格そのものまで変わってしまったわけではなかったのだ。やはり上司の前ではびくびくおろおろし、それを後輩から咎められている。このエピソードは何を訴えかけているのだろう。森田は人前で恥ずかしがり、おどおどする自分を大胆で物おじしない堂々とした人間に変えるということではない。むしろますます恥ずかしがり、おどおどする自分のままで生きていくという覚悟をきめさせることである。不安をなくしようとしないで、自分を正しく自覚するということである。持って生まれた神経質性格は変えることはできない。神経質性格のマイナス面はそのままにして、プラス面に光をあてて性格を活かしていくことである。不安や不快感は横において、今なすべきことに注意を向けて生活を前進させていくこと。そうした生き方が味わい深い人生に通じ、とても大切であるということを教えてくれているのだと思う。
2015.09.22
コメント(0)
プロフェッショナル仕事の流儀で谷口仁史さんが紹介されていた。谷口さんは佐賀県にあるNPO法人スチューデント・サポート・フェイスの代表である。家庭内暴力、ひきこもり、不登校、ニートの子どもや若者の訪問支援を行っている。今までに7000人の子どもや若者と関わってきた。谷口さんは佐賀大学の学生時代アルバイトで家庭教師をしていた。学力以前に、子どもの抱えた心の悩み、それを発散している現状に衝撃を受けた。教師になるよりもやるべき仕事がある。そういう子どもたちの支援をしてゆきたいと考えて進路を定めた。谷口さんたちの支援は、直接面会して解決の糸口を探るというアウトリーチというやり方である。凶暴な子どもは凶器を振り回すこともある。普通の大人がしり込みしたくなるようなケースが多い。どんな過酷なケースでも立ち向かっていく。支援の仲間、関係機関と協力しながら大きな成果をあげておられるのに驚いた。どんな姿勢、どんなやり方で支援をされているのか。1、 どんな子供も決して見捨てない。子どもは子どもなりに苦しみを抱えている。苦しみを取り除いて子どもを信頼してゆけば立ち直っていく。それが分からないと解決には結びつかない。2、 子どもの価値観のチャンネルに合わせる。子どもはなにが好きなのか。どんなことに興味を持っているのか探る。子どもの趣味などを聞き出す。カード遊びが得意な子は谷口さんもカードを買い遊び方を覚える。そして一緒に楽しむ。そうして信頼関係を築いていく。車の中には学習参考書、サッカーボール、釣り道具等の遊び道具で満載だ。ひきこもりの子どもは夜釣りに連れ出す。人の顔を見ることを恐れている子どもたちだ。そしてだんだんと人前に連れ出す。3、 必ずそばにいる。家庭内暴力のひどい子を一旦家族と引き離しておばあちゃんが養育していた。そのうち母親が子どもを引き取りたいと言ってきた。谷口さんはなにかの事件に備えて、近くの車で仮眠をとりながら一晩中待機していた。4、 その若者の身になって考える。子どもの頃信頼していた兄がなくなり、引きこもりの若者がいた。20代になり就職したいという気持ちになった。谷口さんは面接の手ほどきをした。自分の長所はなにか。自分の欠点はなにか。全く答えられない。若者の趣味はネットゲームだった。ネットゲームは長時間集中して行う。若者が希望している仕事は製造業だった。その仕事は集中力が必要だ。しかも長時間にわたる。ネットゲームができることはそういう仕事に耐えられるという事だ。自分の長所は粘り強く、集中力があることではないのかと認識させていた。でも怠けることもあると若者が言っていた。それはそういう感情があるという事だ。感情があるという事はとても人間らしいという事なんだよと教えていた。少しずつ自信を取り戻し面接試験を受けて採用された。その夜彼と両親にあった。両親は谷口さんに出会う事ができなかったらどうなっていたか分からないと言っていた。この谷口さんの支援方法は、神経症で悩んでいる人たちのセルフヘルプグループの活動にも応用できるものではなかろうか。私たちの自助グループ活動は、傾聴、共感、受容が重要だ。もっともっと深めてゆきたい。
2015.09.21
コメント(0)
私の最近挑戦してみたいということは次のようなものである。・パソコンのパワーポイントをマスターしたい。・画像をパソコンに取り入れる方法を完全にマスターしたい。・ゆくゆくはホームページの立ち上げ方を習得したい。・携帯電話の活用法をもっと知りたい。・ソバ打ち、梅干し、ラッキョウ、ワイン、燻製作りをしてみたい。ピザ窯でピザ焼きをしてみたい。・金魚や観賞魚を飼ってみたい。金魚は15年ぐらい長生きさせたい。・チヌ釣り、釣った魚の三枚下ろしができるようになりたい。・本格的な自給自足の生活をしてみたい。・大菊の福助、松の盆栽、バラ、ダリア、芝桜を楽しみたい。・速読法をマスターしたい。・腹話術をやってみたい。・ヨガをマスターしたい。・ラジコンヘリコプターを操縦してみたい。皆さんの中にはそんな事だったら教えてあげてもいいというものがあると思います。私は多くはかじった程度で途中うまくゆかなくなって止めたものが多い。でもいつかは本格的に挑戦してみたいと思う。今考えてみると展覧会や催し物会場で見たものが多い。その他、人が上手にやっていて自分もできるようになりたいなと思ったものばかりである。私は好奇心旺盛で人がやっているものにすぐに興味を示すのである。みなさんもいろいろとあると思う。私は一から自分一人で本格的に学んでいこうとは思っていない。誰か詳しい人を見つけて教えてもらいたいと思っている。そのほうが早くて確実だ。その他趣味の会に入って教えてもらいたいと考えている。この手のものは公民館活動などでいたるところでサークルができている。みなさんも私のやってみたいリストを見てこんなことだったら訳なくできると思うものがあるかもしれない。それを人に教えてあげれば喜ばれると思う。そういう活動が自分を生き生きさせるのではないだろうか。自分ではできて当たり前と思っていることで、宝の持ち腐れになっているものが数多くあるのではないか。他の人にとっては垂涎の的なのである。自分の得意なものは人に教えてあげるという生きがいを持ってもらいたいと思う。歳をとったらおとなしくして、楽に余生を過ごそうというのではあまりにも悲しすぎる。私の得意なことで人の役に立つようなことは何か。・神経症の克服の仕方がある程度分かっている。克服のためのノウハウを教えられる。・初心者にアルトサックスの演奏が教えられる。現に3人ほど始められた。・ネットでの健康麻雀のやり方を教えることができる。20級からはじめて今は5段である。勝つコツが分かっている。・宴会芸のどじょう掬い、浪曲奇術、江戸寿獅子という獅子舞を教えることができる。・簡単なパソコン操作、ネット株取引、投資信託の多少の知識がある。・北海道から沖縄まで全国の観光地はほぼ行っている。とっておきの観光案内ができる。・資格試験は数多く合格したのでその秘訣を教えることができる。・森田に関係する数多くの本を読んできたのでその指南ができる。・ユーモア小話の作り方のコツをマスターしている。・インターネットを使った動画配信の仕組みを知っている。・運転免許がある。などがすぐに思いつくところである。それ以外にも細かいことはいろいろある。これらを人に教えて喜んでもらいたい。ギブアンドテイクで交流を深めてゆきたいと思っている。
2015.09.20
コメント(0)
私は以前尿道結石になり明け方救急車で病院に運ばれた事があった。それはある本に水のとり過ぎはよくない。水のとり過ぎは身体を冷やす万病のもとであると書いてある本を読んだからだ。このことを漢方では水毒というと書いてあった。それを真に受けたのである。昼間は全く水を飲まないようにした。それから10日ぐらいして、明け方尿道結石で腹が痛んだのである。今考えると極端な考え方をして、それを実行したつけが回ってきたのだと思う。「病気にならない生き方」(サンマーク出版)の新谷弘美氏は、水を飲むと血のめぐりやリンパ液の循環をよくするといわれている。身体の代謝に必要な水は2リットルといわれている。二つの相反する考え方を聞くと、どちらにも偏らないほどほどの考え方をすればよかったのだと思う。私はその他、痛風になりやすい体質である。予防の薬を飲んでいる。また2カ月に一回血液検査をしている。現在の数値は4から5でずっと安定している。ある方があなたは納豆はよく食べるかと言われた。私は比較的よく食べていると答えた。するとテレビでやっていたが、納豆は痛風の大きな原因になっているという。原料の大豆はプリン体が多い食品というのがその根拠だそうだ。カリウムが多く含まれていて「高カリウム血症」という心臓が止まる病気になる可能性もあるという。でもそういう一面的な見方はどうだろうか。納豆には納豆菌がいて腸内環境をよくしてくれている。さらに「イソフラボン」が動脈硬化、コレステロールの調整を行っている。また血液をサラサラにしてくれている。食べるといっても一日1パックである。それにとらわれて極端な行動に走ることの方が問題である。高年齢者は肉を食べない方がよいという人もいる。というよりも食べたくなくなるという人が多い。でも必須アミノ酸の多くは肉を食べないと補給はできない。食べ過ぎはまずいが、少量のバランスのとれた食事は必要である。私は森田理論学習でどちらか片方に片寄るような考え方や行動はいけない。サーカスの綱渡りのように、長い竿のようなものを持って注意深く進んでいかなければならないと学んだ。でも食べ物の例で見るように一つの考え方を示されればすぐに動揺しやすいのである。机の前にあるヤジロベイを見ながらバランス、調和を意識しているところである。
2015.09.19
コメント(0)
今年5月27日カザフスタンのバイコヌール宇宙基地から油井亀美也さんが国際宇宙ステーションに向けて旅立った。油井さんは国際宇宙ステーションでは6カ月にわたり任務に就くそうです。宇宙飛行士の選抜試験は超難関だ。963名の応募者に対して最終的な合格者は2名だった。しかも日本国内の宇宙飛行士選抜試験は約一年にわたる。短期間で結論を出してくれればすぐに元の職場に復帰できるが、職場の理解がないといったん退職して挑戦することになる。合格してもでもすぐに宇宙に行けたわけではない。その後のNASAなどでの訓練は6年間だったそうです。ロシア語の習得、ロボットアームの操縦、危機対応など過酷な訓練ばかりだ。油井さんは39歳で合格。45歳で夢がかなった。NHKで「宇宙飛行士になりたかった 夢からの挑戦から6年」という番組があった。この番組は最終選考に残った10名。不幸にして不合格になった人のその後の生活を紹介していた。最終10名に残った人は半端ではない。特に小さいころから宇宙飛行士になるという夢を持っていた人ばかりだった。それだけに不合格になった時のショックは計り知れない。最終選考は1週間ぐらい宇宙ステーションに見立てた狭い空間で共同生活するというものでした。精神的に耐えられる人か、協調性のある人かを見極めているのでしょう。宇宙飛行士になる人は英語がペラペラ。身体強健。精神的にもタフな人だ。特殊技能の保持者。困難な状況を乗り越える力がある。リーダーシップのとれる人。チームワークのとれる人です。それだけに最終不合格になった人はしばらくは放心状態。何もする気が起きなくなったようだ。でもあれから6年。みんなそれぞれの道で力強く生き抜いていた。海上保安官、教師、医師、パイロット、主婦などで再出発を図っておられた。それぞれ不合格で打ちのめされたけれども、それを糧にして新たな生きる目標を見つけられていた。その人たちの言葉が胸をうった。「自分が不合格になったから、ダメだと否定してしまうと挑戦した意味がなくなってしまう」「努力して得た知識や経験は誰も奪えない」「自分のやりたいことがみえてきた」「夢がかなっても、夢破れても人生は続く」例え挫折しても再び息を吹き返し、再度新たに人生に挑戦する態度に感動した。
2015.09.18
コメント(0)
ギャンブル依存症からの回復支援施設に認定NPO法人ワンデーポートがある。2000年に横浜でギャンブル依存症の人が自ら立ちあげられた施設である。一旦社会生活、家族から離れてギャンブル依存症の人が3人ひと組で共同生活をしながら立ち直りの支援をしておられる団体である。活動の中で、ギャンブルにはまっている背景は一人一人違うという事が分かったという。グループセラピーやミーティングに参加すればするほどに状態が悪くなっていく人がいた。再びギャンブルをやってしまう人もいた。その人たちの支援をしていく過程で、あえてミーティングへの参加を控えてもらったところ、ギャンブルが止まり、安定する人が出てきたという。また別のケースでは、金銭管理など生活面での個々の課題に取り組んでもらったところ、仕事に就くことができる人もでてきたという。つまりギャンブル依存症の人を十把一からげに同じような支援をしてもうまくゆかない。つまり一人一人の個別の事情を把握して、状況に応じて適切に対応することが重要なことだったという。それを次のように大まかに3つのタイプに分類されている。1、 元々社会生活がきちんとできており、ギャンブルに落ち込むことによって正常な生活が営めなくなっている人。この人はグループセラピーやGAへの参加は効果がある。2、 環境の変化、仕事の内容の変化など自分の対応力を超える変化についてゆけなくなり、その苦しさからギャンブルに逃げ込んでいる人。この人はグループセラピーやGAへの参加は効果がない。3、 ギャンブルにはまる前から生活能力、金銭管理、対人関係能力に問題がある人。子どもの頃から一人遊びが好きでゲームにはまったり、好き嫌いが激しく人との付き合いがうまくいかない。先の見通しや罪悪感が乏しい状態でギャンブルをしている。1の人は、自助グループに参加して、立ち直りの学習を続けていく支援をしていく。2の人は、仕事への適正、仕事の改善、人間関係改善力、問題解決能力を高めていくような支援を行う。そこが解決しないとギャンブルは止められない。3の人は大人の発達障害の傾向がある。発達障害は脳の機能障害といわれている。医師との連携が欠かせない。最低限のコミュニケーションの取り方、金銭の取り扱い方、規則正しい生活習慣を身につけさせる。発達障害の理解を深めて、その前提に立って支援していくと、ギャンブルも止めて社会に溶け込めるようになるケースもある。何が何でもギャンブル依存症はGA等のグループセラピーというのは本人にとっても支援する人にとってもうまくゆかない。この事例から私たちの自助グループが学ぶことはなにか。神経症で一つのことにとらわれて生活が停滞していることは同じあっても、人それぞれにそこに至った状況は違います。神経症とは別の問題を抱えて集談会にやってくる人もいる。神経症は神経質性格を持っていること。治そうとする強い意志を持っていること。人のことを思いやる姿勢を持っていることなどがあげられる。それらを見きわめることも必要ではある。でも一番大切なのは傾聴、共感、受容の気持ちなのではないだろうか。ベテランになるとすぐに自分の経験からアドバイスをしたくなる。でも相手の状況とマッチしていないとなんの効果もない。却って反発されるということになる。そう感じた人は二度と集談会にやってくることはないのである。(ギャンブル依存との向き合い方 ワンデーポート 明石書店参照)
2015.09.17
コメント(2)
私たちは大きくなって苦しいことがあって親と言い合いになることがあります。そんな時「産んでくれと頼んだのではない」「どうして許可も得ないで勝手に産んだのだ」「勝手に産んでまともに育てることもできないでそれでも親の資格があるのか」「こんな親のもとで生まれたくなかった」「自分が八つ当たりするのは親のせいだ。責任をとれ」等という事があります。これは本人も生きることがつらく、思うようにいかなくてイライラしているのでしょうが、親もかなしくなってしまいます。世界で一番子どもの幸せを願っているのに、なんでそんなことを言われなくてはならないのか。人間はもともと苦労を背負って生きていく動物だと思います。四苦八苦という言葉があります。四苦とは「生老病死」のことです。八苦とは生老病死以外に、愛する人と別れる苦しみ、怨み憎む人と出会う苦しみ、求めるものが得られない苦しみ、存在を構成する物質的・精神的五つの要素に執着する苦しみといわれています。生きることは問題だらけ、理不尽だらけ、自分の思うようにならないことだらけです。それが普通の状態です。森田先生も「浜の真砂は尽きるとも世に苦労の種は尽きまじ」といわれていたように思います。災難、トラブル、問題を引き受けないで、不平不満ばかり言っているという事は、発想が間違っていると思います。夜と霧のフランクルはこう言っています。「人間は人生から問いかけられている存在」である。私たちは、生きるというのはあくまでも自分の意思の問題であり、あたかも自分の内部から湧いてくるように考えがちですが、実際はそうではない。フランクルは、「自分の欲望や願望達成中心の生き方」「自己中心的生き方」は間違いだと言っています。他人、境遇、運命に対して自分の要求を突き付けるのではなく、「人生からの呼びかけにこたえていく生き方」「自分に与えられた存在意義を認識して使命中心の生き方」への転換を提唱しています。自分の人生に与えられているミッション(使命)を全うすることが肝心なのだと言っています。まさにコペルニクス的発想の転換です。そう考えると目の前に次から次へと立ち現れる災難、トラブル、問題は決して忌み嫌って憎んで排除する相手ではありません。グレートサムシング(偉大なるこの世の創造主)より我々が活き活きと生きるために餌を与えられているようなものです。それに真摯に立ち向かってゆけばよいのです。注意点としては、将来に明るい展望が開けるもの。真の意味で人の役に立つことは積極的に手を出してゆけばよい。問題解決に当たっては人と協力したり、他人の力を借りる。それ以外のことは、森田でよくいうように謙虚な姿勢で受け入れていく。服従していく。その二つを区別する知恵を育てていくことが大切だと思います。
2015.09.16
コメント(0)
ジョン・F・ケネディが大統領就任演説でこういいました。同胞であるアメリカ市民の皆さん、国があなたのために何をしてくれるかではなく、あなたが国のために何ができるかを考えようではありませんか。また同胞である世界市民の皆さん、アメリカがあなたのために何をしてくれるかではなく、人類の自由のために共に何ができるかを考えようではありませんか。ケネディ大統領は政治の最終決断は自分でしますが、そこに至るまではみんなで喧々諤々議論しましょうと言っているのだと思います。それでは安倍総理の場合はどうでしょうか。安全保障関連法案を議員の数にものを言わせて頃合いを見て強行採決するようです。憲法学者、元最高裁判所の判事さん、地方公共団体の首長さん等多くの人が違憲だと言っています。世論調査によるとこの法案には6割から8割の人が反対だという。そんなものを簡単に強行採決してもいいのでしょうか。安倍総理は憲法を自分なりに都合のよいように解釈しているのです。憲法をないがしろにしている。各地で法案反対のデモが行われています。もっと説明責任を果たしてほしいと思います。説明をすればするほど反対意見が多くなり、オバマ大統領に義理が立たなくなるのでしょうか。そもそも自民党は多くの議席を占めているが、国民の2割の票しか獲得していないのである。自民党の絶対多数はその上に成り立っているのである。そのことを胸に手をあてて謙虚な態度を示してほしい。それなのに国民の代表である国会議員の多数決で決めれば問題ないと言い張っている。アメリカは世界覇権の一環として世界各地で戦争をします。自衛隊は米軍の尖兵として、米軍が攻撃された場合、アメリカになり代わって敵国を攻撃するという。当然アメリカは日本に対して最前線で殺し合う役目を押し付けてくることだろう。自衛隊は戦地で敵を殺し、自衛隊員も殺されることになる。するとどうなるか。最悪日本は報復攻撃を受ける。さらにテロなどのリスクは格段に高まります。核攻撃の脅威にもさらされる。安倍総理は先の敗戦のことをどう考えているのだろう。第二次世界大戦の時は特高によって徹底的に言論弾圧された。森田先生は特高に捕まりそうになったことがあった。書籍は検閲を受けて多くの部分を削除させられた。今の政府のやり方は本質的にはそれと同じことだ。有無を言わせず法案を強行採決させて、最終的には国民を不幸に追いやってしまうのである。日本人はもう戦争にはこりたのでなかったのか。それでもこの法案が大事だというのなら、もっと説明責任を果たして、国民に信を問うてほしい。一方、私たちは政治家を選ぶだけで、あとはお任せしますのでよろしくお願いしますというのではまずい。主体性は国民にあるのであって、政治の成行きを見守り、おかしな方向に行きそうな時は世論として苦言を呈してゆかなくてはならない。チェックのないお任せ政治ではよくない。オンブズマンのチェックのない政治家は、不正のやり放題ではないか。子どもの育て方でも、過保護、過干渉と並んで自由放任で関わらないというのが大変な問題だと言われます。自由放任というのは、耳触りはよいのですが、無関心でつき離して関わりを持たないという事です。当然人間的信頼感は得られません。子どもは疑心暗鬼となりまともには育ちません。鍋の中に飛び込んで蛙が、どんどん中の水が温かくなって温泉気分でリラックスしていました。ところがその後熱くなっているにもかかわらずそのまま入っていて、ついにゆであがって命を落としてしまいました。自分たちの知らない間にどんどん悪政が行われて、気が付いたらもうもとへは戻れない。こんな状態になってはまずいいのではないか。第二次大戦の突入前のような事態が起きつつあるのではないか。その責任は最後には私たち国民が命をかけて引き受けなければならないのです。その時に反対しても後の祭りである。
2015.09.15
コメント(0)
さあここまで説明したところで、次の課題に移りましょう。課題は2点あります。1、無意識化した行動に、安易に意識化の介入を許さないためにはどうしたらよいのか。2、認知の誤りや強い片寄りのある無意識化した自動思考をどう修正してゆけばよいのか。まず一番目。これは大リーグマーリンズのイチロー選手が参考になります。ご存じのようにイチロー選手はルーティーンを大事にします。決まった時間に決められた行動を淡々とこなしていくというものです。球場へ出かけるまでの過ごし方。球場入りしてからの準備。バッターボックスに向かうしぐさ。すべてが流れるような動きで無駄がありません。すると意識が出る幕が少なくなるのです。次から次へと行動することによって、一つ一つ湧き起ってくる感情にかかわっていられないという状況を作り出しているのです。考える時間を作らないで、次々と身体を動かしていくやり方です。これは森田理論でいうと感情は操作できない。しかし行動することによって新しい感情を作り出すことができる。次から次へと行動すると一つ一つの感情にこだわっておれなくなる。一つの感情だけにとらわれるという事がなくなってくるのです。100%ではありませんがかなりの効果が望めます。それから先日、楽器の演奏のところで説明しましたが、120%身体に覚え込ませて無意識的に身体が反応するという状態を作り上げるという事です。少々意識化が起きても、無意識化の力関係が相対的に強くなっているのだと思います。意識化に振り回されることが少なくなっているのです。そういう状態になると、例え動揺することがあっても、高確率で高いパフォーマンスが出せるようになるのです。これはそういう経験を持っているとすぐに理解できます。それの繰り返しでやがて自信も生まれてきます。仕事で誰にも負けないという専門性を身につけると、対人関係の苦しみは少なくなるという人もいます。これもそのことと関連があると思います。その他、呼吸法、ヨガ、アロマセラピー、マインドフルネス、自律訓練法なども効果があるといわれています。次に2番目の問題です。これは神経症の人が陥りやすいところです。認識の片寄りや誤りは自分では気がつきにくい。集談会などで他の人の力を借りることです。第三者には比較的他人の認知のゆがみは気がつきやすいものです。具体的な修正方法は過去の投稿を参考にしてください。検索のところに「認知の誤り」「認識の誤り」「認知の片寄り」等というキーワードを入れていただければでてきます。
2015.09.14
コメント(2)
次に意識化とは何かについてみてゆきましよう。意識化というのは前頭葉に精神機能中枢というものがあります。この脳の働きを活用しています。動物にはありません。人間だけが高度に発達しています。その存在により文化や文明が発展してきました。比較したり、検討したり、思索したり、意思や計画性、創造性などもこの部分で司っています。さらに眼窩前頭皮質というものがあります。これは欲望が暴走しようとするときに、それに制御をかける役割を持っています。幼児期には未発達ですが、成長するにつれて次第に機能するようになります。詳しくは本年度5月9日に投稿していますのでご覧ください。これも意識化の役割です。意識化するというのは、簡単にいえばそのものに注意を向けるという事です。そこに注意を固定してこだわるということになります。ああでもない、こうでもないと試行錯誤をするのです。初めて経験すること、始めて遭遇する出来事には誰でも自然に注意が向きます。また、うまくいくかどうかわからないようなものに対しても注意が向きます。さらに、私たちが問題にしている不安、恐怖、違和感、不快感に対しても注意が向きます。実践行動が少なく、観念の世界にどっぷりつかって生活しているような人は意識化が起こりやすいといえます。また、完全主義、完璧主義、理想主義的思考方法をとる人も現実とのアンマッチで苦しみ、意識化が起こりやすい人といえます。森田では「かくあるべし」的思考をする人です。意識化の特徴としては、隙間があればどこでも入り込んでゆきます。例えばゴルフで何も考えずに練習してきたとおりにプレーしていたとします。その段階ではスムーズにいつもの成績が残せています。ところが、誰かが「ナイスプレー」といったとたんに、変に意識化が起こることがあります。「どこがよいのだろうか」と意識的にフォームのチェックを始める。「さらに精度を高めていこう」等と考えだすと途端に調子を崩してしまう事があります。30センチのパターでもこれを沈めると優勝というような意識化が起きるとなんでもないミスを連発するようになるのです。意識化の特徴と仕組みについて整理してみました。
2015.09.13
コメント(0)
神経症は不安をことさら意識化して、とらわれを強化、増悪している状態だと思います。意識化と無意識化について私の理解していることを書いてみたい。まず無意識化ということについて考察してみたい。ここでは2つの重要な側面があると思う。まず無意識化した行動はなにかという事です。例えば、自動車や自転車の運転、クロールの泳ぎ方、パソコンのキータッチ、箸の使い方、楽器の演奏などは、最初は失敗を繰り返しながら、意識して一つ一つ指や身体に覚え込ませていきます。最初は最大限の注意を向けて意識が前面に出た状態で取り組んでゆきます。練習をくり返すと、やがて自分のものになります。そうしたことが無意識にできる能力を獲得したのです。一旦身につけてしまうと、無意識的行動が可能になります。体得した無意識的行動は確実に脳に記憶されます。意識が指示を出さなくても事がスムーズに運んでいきます。こんな例もあります。酔っぱらって前後不覚になっても鞄をしっかりと抱えて、自宅に戻っていることもあります。これも意識の介入がないにもかかわらず、無意識に脳が働いてくれるおかげで事なきを得ているのだと思います。無意識というのは私たちの生活の中でより多くのことを迅速に処理することに役に立っています。しかし一旦無意識的行動の能力を身に付けたのにもかかわらず、何かのきっかけでとらわれて、意識がしゃしゃり出てきて、その行動の意味やよしあしの検討を始めてしまうと問題が起きます。無意識的行動は無意識に行っているからこそうまくいっているのです。そのままにしておく方が無難です。しかし厄介なことに意識化は常に無意識化の領域に入り込むことを狙っています。また意識化と無意識化の力関係を見ると意識化の方が力を持っています。無意識化というのは常に、意識化に介入されやすく、従属されやすいのです。よく不安に生活が乗っ取られてしまったといいますが、このことを言っているのです。次にもう一つ押さえておきたいことがあります。認知行動療法でよくいわれる自動思考という事です。自動思考というのは、ある出来事に遭遇したときに、その人にとってどのような感情が湧き起ってくるかという事です。人によっては全く正反対に受け取ることがよくあります。例えばのどが渇いているとします。目の前のコップに水が半分あります。ある人はまだ半分も残っていると楽観的に受け止めます。ところが物事を悲観的にみる習性の人は、もう半分しか残っていない。どうしようと思案します。このように同じ出来事を見ても人によって受け止め方は様々です。このように極端に片寄った考え方は問題を起こします。特に神経質な人は考えることが無茶でおおげさ、論理的に飛躍する。マイナス思考、ネガティブ思考に大きく片寄っている。事実をよく確認しないで、先入観や決めつけが多い。完全主義、完璧主義、理想主義的な思考方法をとりやすい。つまり認知の仕方に誤りや片寄りがあるのです。これは本人の持って生まれた性格、資質などもあるでしょう。また親、学校、社会などからの接し方、教育の影響もあるでしょう。でもそういうゆがんだ無意識的な考え方は、決断や実際の行動に大きな影響を及ぼしています。認知の仕方がゆがんでいると問題が発生しやすい。そういうゆがんだ無意識的な考え方は修正していく必要があると思います。まとめると、同じ無意識であっても無意識的行動は意識化しない方がよい。むしろ意識化を無意識化できるようになるとよい。ネガティブで悲観的な自動思考は意識化して修正した方がよいということになります。無意識化については以上の2点を抑えておくことが大切だと思います。意識化については明日考えてみたいと思います。
2015.09.12
コメント(0)
行動には意識的行動と無意識的行動があります。例えば、車の運転を考えてみると、これは初心者でない限りは無意識的行動です。ブレーキ、アクセル、ウィンカーの操作などは人と会話しながら、あるいは別のことを考えながらでも正確に行っている。問題もなく外部の変化に対応している。とっさの出来事に適応できている。ここに意識が出てきてこの操作が良い悪いと検討を始めるとたいへん危険である。無意識的行動が意識化によってかき乱されるからである。為末大さんも同じことを言われている。為末さんは日本代表のハードルの選手だった。為末さん曰く。「高いレベルで競技を行うと、意識的にどうこうしてやろうというのは役に立たないどころか、むしろ自然な動きを阻害する。自分の身体に任せてしまった方がうまくいく。右足を出して体重を移して、なんて考えてはいない。身体はひたすらに自動的に同時に複合的に動いている。」つまり為末さんがハードルを飛ぶという事は、無意識的行動を目指しているという事なのです。この時意識がしゃしゃり出てくると途端に調子が狂うというのだ。私は人前でアルトサックスの演奏する機会が多い。へたくそなのだが、それでも10年以上活動していると感じることがある。出演日、演奏曲が決まる。それに向けて猛練習をする。1曲を30回から50回以上も練習する。それ以前にも300回とか500回以上も練習している曲である。それでも過去の練習の積み重ねは、今回の出演に向けては60パーセントぐらいしか役に立たない。肝心なのは今回の30回から50回の練習なのである。特に指使いの難しい部分はゆっくり念入りに行う。練習を続けると、指が自然に動いてくれるようになる。譜面なしでもスムーズに演奏できるようになる。録音してあとで聞いても心地よい。これまでくれば第一段階はクリアである。ところがここで気を抜くと大変な落とし穴が待っている。常に本番を意識して緊張感を持続しないといけない。日程にゆとりがあれば一旦緊張を緩める。そして3日ぐらい前からまた徐々に緊張感を高めて、当日に向けてモチュベーションを最高の状態に持っていく。当日は出かける前は、持ち物のチェックリストを見て忘れ物がないようにする。こんなところでつまらぬトラブルを抱えてはならない。本番会場ではぎりぎりまで指使いを確認する。うまく演奏できるだろうか。間違って恥をかかないだろうか。とても緊張感が高まる。逃げられるものなら逃げ出したい気持ちにもなる。でも命まで取られることはないのだ。柔軟体操や深呼吸を繰返す。それでも身体が震える。講話をする時は全くそんな追いつめられた気持ちにはならないのだが、細かい指使いが要求される楽器演奏は全く違う。でももうやるしかない。清水の舞台から飛び降りるような気分で舞台に上がる。毎回こんな気持ちなのである。でも不思議なことに、演奏の中止になるような大失敗をしたことはないのである。細かいミスタッチはよくある。100%の出来は考えていない。80%から90%の出来でよしと思っている。練習によって身体が自然に動くのだろう。前頭葉の意識の命令が無くても、指が自動的に動いてくれるのだ。難しい個所もなんとかスムーズにこなせているのである。常識的に考えると、意識が働かないと、とんでもない間違いだらけの演奏になるような気がする。でもこれは間違いだ。楽器演奏は、脳の命令系統が違うのだと思っている。前頭葉の精神機能中枢を通さずに、体験による記憶と前頭葉の運動機能中枢が指先に指示を出しているのだと思う。このときに前頭葉の精神機能中枢の意識がしゃしゃり出てきてはまずい。その方が危険なのである。少しでもキータッチの不安が頭をよぎるとちょっとしたパニックになる。これは意識が無意識の中に割り込んでいるのである。この原因の多くは練習不足で、指先が助けてくれる状態になっていないのである。するとほとんどミスタッチをしてしまう。不安、恐怖、不快感は前頭葉の精神機能中枢でああでもない、こうでもないと考えることで、どんどんと大きくなる。神経症から解放されるというのは、意識化された不安などを、無意識化するということかもしれない。森田理論学習をしているとそのことがよく理解できるのである。あす以降さらに説明してみたい。
2015.09.11
コメント(0)
次の項目で自分が普段他人を受容しているかどうかを判定してください。Aはそのようには思わない。Bはどちらとも言えない。Cはそのように思う。深刻に考えないで直感で判断してみてください。1、 自分の周りには気のきかない人が多いと思う。2、 他の人の仕事を見ていると、手際が悪いと感じることがある。3、 話し合いの場で、無意味な発言をする人が多いと感じる。4、 知識や教養がないのに偉そうにしている人が多い。5、 他の人に対して、なぜこんな簡単なことが分からないのだろうと感じる。6、 自分の代わりに大切な役目をまかせるような有能な人は、私の周りに少ない。7、 他の人を見ていて「ダメな人だ」と思う事が多い。8、 私の意見が聞き入れてもらえなかった時、相手の理解力が足りないと感じる。9、 今の日本を動かしている人の多くは、たいした人間ではない。10、 世の中には、努力しなくても偉くなる人が少なくない。11、 世の中には、常識のない人が多すぎる。結果はどうでしたか。私は症状の強く表れていた時はCのような気持ちが強かった。現在は相手が自分の期待しているように行動してくれないとBやCのように考えやすい傾向があります。森田理論学習を続けてきたので多少は自覚できているのかなと感じています。つまり自分のことはさておいて他責の気持ちが強いのです。すると傾聴、受容、共感の気持ちにはなりません。自己中心的な言動が目立つようになります。人間関係は悪化の一途をたどります。どのように改善したらよいのでしょうか。森田では、基本的に不安、恐怖、違和感、不快感はそのまま受け入れましょうと言います。それは自分自身に対しても言えます。どんなに考え方の悪癖があっても、引っ込み思案であってもありのままの自分を受け入れる。どんなに困難な状況に陥っても自分を見捨てない。いつも自分の味方になってかばってあげる。でも実際にはどうでしょうか。自分ほどダメな人間はいない。自分に自信が持てない。生きている価値のない人間だと思う。容姿、性格、資質、置かれた環境のすべてに不平や不満を感じている。やることなすことすべてが気にくわない。こういう状況の中で、いくら自分に目を向けて自己改造を試みても難しいと思います。無駄な努力に終わることが多い。別のやり方で目的を達成できる方法があります。そのためにはまず、自分の不安、恐怖、違和感、不快感には一時棚上げにすることです。そして他人の話をよく聞く。先入観や最初からきめつけてしまわないで、正確に聞きとる。他人の話を受け入れるという姿勢を持つ。じかに反論はしない。自分の意見を述べるときは、「あなたはそのように考えているのですね。私はこう思っています。」つぎに他人の考え方に共感できる面を探す。最初は共感できなくてもよいのです。相手の立場に立って考えてみることが大切です。このようにして他人を受容できるようになると、結果として自己受容も可能になるのです。手段を変えるだけで大きな成果を手にすることができるようになります。これは生活の発見会のオンライン学習会などでよく感じることです。相手の顔も息づかいも分からない中で学習会を進めて行きます。するとちょっとしたことで感情の摩擦が発生しやすいのです。だからオンライン学習会では、一言いいたいことがあっても決して相手を批判してはならないのです。反対に傾聴、共感、受容を推し進めていけば、最後は家族のように一体化して離れがたい人間関係を築くことができるのです。気づいてみれば自分自身の自己受容力が高まっているのです。こんなにうれしいことはありません。(他人を見下す若者たち 速水敏彦 講談社現代新書参照)
2015.09.10
コメント(0)
人間はどこでボタンをかけ違っているのだろうと思う事がいくつかある。シリアでは多くの難民が戦火を逃れてドイツに向かっている。どうして生まれ故郷を捨てて着の身着のままで脱出しなければらないのか。世界には2万発を超える核爆弾が存在している。さらに北朝鮮、イランなどでも核爆弾を準備している。極東ロシアでは廃棄処分されていない放置された原子力潜水艦が数多くあるという。それらがいつか人間に惨事をもたらすと考えるのが自然ではないのか。以前イギリスで狂牛病が起きた。牛の脳がスポンジ状になり、起立不能になる。これは人間にも感染するという。羊の骨を餌に混ぜて与えたのが原因ではないかといわれている。これは自然の中で育つ牛には考えられない餌である。人間のなせるわざである。最近は病気にかかりにくくするために、遺伝子組み換え食品がある。人間が人為的に操作したものが食品と言えるのだろうか。最近は電磁波を使った製品が多い。電子レンジ、電磁調理器である。誰でも利用し、どこの家にもある商品だ。電磁波は人間とって無害なのだろうか。電子レンジで沸騰させた水と、ヤカンで沸騰させた水を同じ植物に与えるという実験があります。電子レンジで加熱した水を与えた植物は、数日で枯れてしまうそうです。電子レンジで加熱したものは「命を養う力」はないのではないでしょうか。電子レンジは、超短波の電磁波を発生させ、それを非加熱物に照射することで、非加熱物内部の水分子を振動させて温めているのです。その振動は秒速2万回とも言われている。自然界ではありえない速度での振動が物質内部で起きているのです。この自然界ではありえない状態に細胞や遺伝子が耐えられる保証はありません。自然や他の人を踏み台にして、自分の利益のために、どこまでも自然や他者をコントロールしようとする人間。欲望が制御できなくなっている人間。そしてついに限界を超えて後戻りができなくなっているのではないかと思える現状。森田理論は、欲望は不安や恐怖で制御する必要がある。行き過ぎた欲望は野放しにしてはならないという。バランス、調和をとりながら進んでいくことが大切であると教えてくれています。森田を学んだ人は、こういう考え方をどんどん社会に向かって発信する使命があるのではないでしょうか。(病気にならない生き方 新谷弘美 サンマーク出版より一部引用)
2015.09.09
コメント(0)
「生きがいの本質」の著者飯田史彦さん、精神科医の水島広子さん、船井総合研究所の創始者の船井幸雄さんたちの考え方には共通点があるように感じている。人間が死んだりしてもそれで終わりではないという考え方だ。身体はこの世に存在はしなくなるが、魂とでもいうべきものはなくなることはないのではないか。私もこの考え方を支持している。もちろん科学的に証明はされていない。だからなんとバカなことを言い出すのだという方も多い。船井さんもなんと非科学的なことを言うのかと、仕事の業績にも影響を与えたといわれている。しかし、そういう仮説のもとに生きていくという事は、生きていくことをより深く味わう事ができるようになる。人生を意味のあるものにすることができるように思う。私は次のような仮説を立てている。私たちは生まれる前にグレートサムシング(偉大なこの世の創造主)と契約してきたのではないか。その契約には、あなたは銀河系の太陽系第三惑星の地球に行ってもらう。あなたの性別、容姿、性格、健康状態はこうなっている。こういう教育を受けて、こんな仕事をするようになる。生まれてくる時代は1900年代から2000年代。その時代の社会環境、自然環境、経済環境はこうだ。国は日本だ。両親、親族、配偶者となる人はこういう人たちだ。生存中あなたはこんな事件に巻き込まれる。こんな病気になる。そしてあなたが当面する課題、問題はこういうものだ。そして最後に、亡くなってこちらに戻ってくるのは何歳とします。その中で課題や問題に対して、どのように対応していったのかを査定させてもらいます。間違ったことやミスや失敗はいくらしてもかまいません。ミスや失敗はむしろ貴重な経験として査定ポイントが加算されます。肝心なことはあなたの進んでいる方向性です。その査定はもちろん今後のあなたの処遇に反映します。以上が今回の大まかな契約内容です。この統一契約書にサインをしますか。それとも止めておきますか。私たちは、幾つもの選択肢の中から、熟慮を重ねた末に統一契約書にサインした。そして記憶を一切リセットされてこの世に生まれてきた。このように考えると、「自分の考えている事や意思や心」と「自分の身体」は別物と考えるのが自然なのではないか。この世ではこの2つは一心同体のようであるが、本来は別々のものなのではないか。決して自分の考え方一つで自由自在に扱っていいものとは違うのではないか。そう考えると、あれがダメだ。これが気にくわないといってる場合ではない。身体はこの世で管理を任されているものなのだ。管理人のようなものだ。どう管理していくかはあなたの腕の見せ所である。きちんと管理をしていくと身体は心身ともに健康体となる。身体が喜んでくれる。自分の存在価値を認めてくれて、いたわり、励まし、いつも味方になって見守ってくれるので精神的にとても安定している。自由に誰に気兼ねをすることもなく行動することができる。一旦は離ればなれになるけれども、またいつかどこかでペアを組んでもっと人生を謳歌しましようね。魂と身体がともにお互いを尊敬し、助け合って離れがたくなっているのである。反対にいい加減に扱っていくと、心身ともに不健康になる。元々備えていた潜在能力を引き出すことができなくなり、宝の持ち腐れとなる。自分の意思と身体が反目を繰返しているのである。そんな状態では、最後に魂が身体から遊離する時どうなるか。魂はやれやれやっとこの欠点だらけ、弱みだらけの身体とおさらばできる。この世に来ても一つもいいことはなかった。反対に身体の方は、二度とこの人(この魂)とペアを組みたくない。憎んでも憎みきれない相手だった。顔も見たくない。感謝の気持ちは全く湧いてこない。清々したわ。このような仮説を立てて、この世での生き方の方向性を見定めていくことのメリットは多い。逆にこの考え方が間違いであったとしても弊害はまったくない。みなさんはどう思われますか。
2015.09.08
コメント(0)
2015年9月号の「生活の発見」誌に、長谷川洋三氏が森田理論学習のやり方について解説されています。初心者の人は以下の4点を勧められている。1、 人の話をよく聞くこと2、 生活の発見誌をよく読むこと。森田理論の解説書を繰り返し学習すること。3、 とにかく助言されたように実行してみること。4、 自分の進歩を仲間に報告すること。これは大変的をえた指摘である。私の意見を述べてみたい。まず第1番目です。集談会でも他人の発言に難癖をつける人は後を絶たない。本人は何気なく正直に話したつもりでも、言われた人はとても落ち込むことがある。それで集談会に参加しなくなった人を何人も見てきた。集談会では、「これはどうかな」と思う発言は多々ある。それにいちいち反論しない方がよい。それよりも傾聴、共感、受容の気持ちを持って参加することである。最初は共感できなくてもいいんです。相手の話をよく聞いて、まず「あなたの言われていることは、こういう事なんですね。」と話の中身をフィールドバックしてきちんと受け止めることが大切です。そして相手の気持ちを思いやった言葉が見つかれば投げかけてあげる。するとしだいに弾みがついて、共感や受容の気持ちが湧いてくるから不思議です。私はどんなことがあってもあなたの味方ですという態度が大切です。2番目です。発見誌や森田関連の単行本の読み方はコツがあります。まず重要なところは付箋をつけたり、マーカーで印をつけておく。それを簡単でもよいのでノートに書き出すのです。私のこのブログの分類のような項目をつけて、何月号、ページ数、内容、自分の意見や感想を3行ぐらいに書いておくのです。学習の深まりという点からすると、これをやるかやらないでは大きな違いとなります。読みっぱなしはほとんどあとには残らないのではないでしょうか。これは講師の話を聞いた時も同じです。メモをとってあとで自分の感想や意見と照らし合わせることが大変意味があるのです。3番目です。森田理論学習は生活への応用や体得が欠かせません。集談会でのアドバイス、生活の発見誌、単行本などで参考になることは実践課題として取り組んでみることがとても大切です。私は先輩のアドバイスに基づいて、布団あげ、風呂の掃除、部屋の後片付け等からはじめました。その後メモ用紙の活用などで行動力が格段にアップしました。さらに森田先生に学んで、一人一芸の習得に取り組みました。アルトサックスの演奏、獅子舞、どじょう掬い、浪曲奇術等の芸を持ち、この9月は5回も敬老会、老人ホームの慰問活動があります。4番目です。集談会で3番目の結果報告をしてみんなの意見を聞いてみてください。また私たちは認識の誤りを冒しやすい特徴があります。それを解決するのは仲間の力を借りなくては克服できません。自分の片寄った考え方は、仲間と学習する場を共有することで少しずつ可能となるのです。
2015.09.07
コメント(2)
今月号の「生活の発見」誌で印象に残っているのは、「生活の発見会活動から得られる宝物は、人との出会いにあると思います」というくだりです。私も全く同感です。30年も発見会活動をしていますと、全国にたくさんの友人ができました。それぞれに温かい人ばかりです。噛めば味わいがどんどんと広がる人が多いのが特徴です。ある意味では家族に話せないようなことでも、安心して相談できます。それは同じように神経症を患って苦しんできた仲間であるという気持ちにささえられていると思います。初対面の人であってもすぐに打ち解けて話がはずみます。そういう人間関係を30年にわたって築き上げてきたというのは私の宝です。神経症を克服したいと参加してきたのですが、振り返ってみると温かい人間関係を幅広く作り上げることができたのが最大の収穫かもしれません。そういう宝物を手に入れるために大切なことはなんだったのだろうか。まずは素直に傾聴する態度を持ち続けること。そしてどんなにアドバイスをしたくなっても、相手の話に共感して受容すること。この態度で参加することがとても大切です。アドバイスはたいして必要ない。ただ側にいて温かく見守ってくれるだけでよい。私の尊敬する先輩は人を非難したり、軽蔑するといった発言や行動が全くありません。でも身近にいつも寄り添って温かい言葉をかけてくださいます。それがどんなに心の支えになったことかと思います。そんな人間関係は一般社会では味わう事は少ないと思います。それと集談会は学習の場ですから、遊びのように面白いことばかりではありません。私も参加することが苦痛になって退会したいと思ったことが何回もありました。でも安易に退会していたとしたら宝物は決して手に入らなかったと思います。ずっと集談会に出続けることで手に入れた宝物です。そのためには、会の運営の世話をしたことが大きかったのではないかと思います。図書係、会場設営、司会、集談会だよりの発行、一泊学習会の企画や実施、代表幹事、支部委員等の役割を引き受けたことです。つまり人から恩恵を受けることばかりではなく、人の役に立つ活動も自分のできる範囲で引き受けたことです。これが退会の歯止めとなりました。よく世話役を引き受けると症状がよくなるといわれます。これはいろんな面で真実だと思われます。支部研修会でも自助グループ活動は、最初は仲間意識だけで参加するのですが、しだいに会員意識を持って両者のバランスを意識しないと、会は衰退してくるし、自分の神経症の克服も考えづらいと学びました。活動の中では集談会の人間関係を超えて支部の人たちとの交流がとてもよかったと思います。特に1泊学習会に参加して、懇親会で打ち解けるという事が効果がありました。また集談会はどちらかというと、井の中の蛙のような人間関係です。そこで他の集談会、支部や全国の研修や集いに参加すると、まさに目から鱗のような体験をしました。味わいの深い人間関係はそんなところに築かれているのだという事をしみじみと感じています。
2015.09.06
コメント(0)
若杉友子さんが面白いことを言っている。万物は陰陽からなるというのだ。例えば、陽として山陽、太陽、大地、晴れ、夏、動物等がある。それに対する陰は、山陰、月、天、雨、冬、植物である。陽が良くて、陰が悪いという考え方をしてはいけない。陽と陰はコインの裏表の関係だ。陽が無ければ陰もない。陰が無ければ陽もないという関係だ。そのバランスを意識しないといけない。調和、中庸という考え方である。これを食べ物に当てはめて考えると、ナトリュームが多く含まれている食品が陽性である。カリウムが多く含まれている食品が陰性である。陽性食品は、身体を締める働きがある。血管や腸管を締めて身体を温める。陰性食品は、身体を緩める働きがある。血管や腸管を緩めて身体を冷やす。さらに陽性、陰性食品は、それぞれアルカリ性食品と酸性食品に分けられるという。酸性食品は血液を汚して、動脈を硬化させて、血圧をあげる。強陽性、アルカリ食品として、味噌、しょうゆ、自然塩、梅干し、大根、かぼちゃ、ニンジン、ゴボウなどがある。強陽性、酸性食品として、マグロ、サバ、ブリ、鶏肉、牛肉、豚肉、マトン、クジラ、マヨネーズなどがある。強陰性、アルカリ食品として、酢、柚、きのこ、緑茶、コーヒー、ナス、ピーマン、トマト、ジャガイモ、サトイモ、サツマイモ、豆腐、納豆、こんにゃくなどがある。強陰性、酸性食品として砂糖、アルコール、菓子、ナッツ、牛乳、パン、スイーツなどがある。その中間に位置するのが、玄米、小麦、うどん、トウモロコシ、さまざまな野菜などである。以上のことを頭に入れて、バランスのとれた食事を提唱されている。日本人の基本は玄米を主食とした一汁一菜である。陽と陰の中間あたりを意識した食事をとることを勧められている。次に、陽性ばかり、陰性ばかりの食事はダメだと言われている。そのバランスを意識することである。もっとも人間の身体は、無意識のうちにバランスをとろうとする働きが備わっているという。例えば肉を食べた後は、野菜やデザートを食べたりする。なかにはそういうことを無視して、肉ばかり食べて野菜は一切食べない人もいる。強陽性、強酸性の食べ物であるから、その弊害は必ずやってくるだろう。バランスという点に関しては、強陽性の酸性食品を強陰性の酸性食品だけでバランスをとろうとすることは難しい。これは地上から高いところで綱渡りのようなものだ。焼き肉をたらふく食べて、酒を目一杯飲むような食生活である。強陽性の酸性食品には、強陰性のアルカリ性食品の組み合せの方がバランスが取れやすい。焼き肉と野菜やシイタケなどのきのこを組み合わせる等ということである。次に自分の体質も考慮した方がよい。自分の体質が陽性体質であるか、陰性体質であるかということである。体温は36.5が標準である。陽性体質の人は体温も高く、血圧も高い。陰性体質の人は、体温が低く手足が冷たい。目がクラクラ回ったり、頭がフラフラする。陰性体質の人が陰性の食べ物をとり過ぎると、低血圧、冷え症、便秘を招きやすい。陽性体質の人が陽性の食べ物をとり過ぎると、高血圧や脳梗塞を招きやすい。陰性体質の人は陽性の食事を心がける。反対に陽性体質の人は陰性食品の食事を心がける。この若杉さんの考え方は、森田理論学習の欲望と不安のバランスを意識するという考え方に近い。森田理論というものは、応用や体得が大事なのですから、こういう話が役に立つと思う。これを食べれば医者はいらない 若杉友子 祥伝社より引用
2015.09.05
コメント(0)
最近は除菌グッズのテレビ宣伝が目立つ。ファブリーズしようという言葉もあるくらいだ。布団、衣類、靴、カーテン、カーペット、まな板、おもちゃ、便器等様々な分野に及んでいる。昔は天日乾燥や煮沸が主流だった。今や抗菌グッズで細菌を一網打尽にしようというのである。人の皮膚の表面にはバイ菌から皮膚を守る皮膚常在菌が存在している。抗菌剤や消毒用アルコールはこうした有用な菌まで殺してしまう。プールでは塩素で殺菌している。大腸菌などの菌を殺すためだ。ウィルスなどに汚染された場合は10ppmまで塩素濃度をあげる。2日間放置して1ppmまで下げて遊泳を再開しているという。せっかく水泳を始めても塩素の匂いに嫌気がさしてやめる人もいる。塩素濃度が高いと、体内の活性酸素をより多く発生させる。活性酸素は細胞を破壊して、がんや老化の原因となるものである。夏祭りやキャンプに行くときによく虫よけスプレーを身体や衣服に振りかけます。これは野菜や果物の防虫剤として使われている「ディート」という農薬だそうだ。薄められてはいるが、頻繁に使用していると、血行障害や中枢神経に悪影響を及ぼす。細菌、カビ、虫は人間が生きていれるところどこにもいる。根こそぎ退治したと思ってもすぐに入り込んでくる。それは草刈りをしてもどんどん雑草が生えてくるようなものだ。だから発想の転換をしたほうがよい。みそ、しょうゆ、納豆、漬物、お酒、その他発酵食品のように細菌やカビと共生して利用する。カビ、菌を悪者としてすべて駆逐するという考え方を放棄するのである。腸内にはビフィズス菌、乳酸菌、腸球菌のような善玉菌もいれば大腸菌のような悪玉菌もいる。そのバランスを整えるようにすれば何ら悪影響はない。反対にすべての腸内細菌を抹殺しようとするとそのしっぺ返しは計り知れない。白菜やキャベツ等アブラナ科の野菜を作り続けると、根こぶ病になることがある。根こぶ病菌は普段は休眠している。ところがアブラナ科の野菜を植えると途端に休眠から覚めて猛威を振るう。それを農薬の大量散布で対応しているのが人間なのだ。産地を形成して単一作物を作りつづけると必ずそういういたちごっこが始まる。そして最後にどうにもならなくなって敗北するのは人間のほうである。対策はないのか。イヤ対策はあるのである。しかも簡単である。輪作を導入すればよいのである。ネギやホウレンソウ、イネ科の作物を組み合わせればよいのである。そういう作物を作ると大量発生した根こぶ病菌は死滅する。そして土の中の細菌類のバランスがとれてくるのである。人間の害になるものを抹殺するという考え方は捨てなくてはならない。共生、バランスを意識する考え方を取り入れなければならない。これは森田理論学習でいえば、不安、恐怖、違和感、不快感はなくしてはならないということである。しかもそれらはきちんと役割を持って、役割を果たしているのである。不安に学び不安を活かしていく。不安と欲望のバランスをとって生きていくことが基本である。
2015.09.04
コメント(0)
新版森田理論学習の要点の中に、「外相ととのえば内相自ずから熟す」とある。心の中がどんなに苦しくても、まず形だけを整えてみる。「やる気」になるのを待つのではなく、行動や態度をひとまず整えていれば、不快な感情も、その外側につられて後退してゆくものだとある。それではこういう例はどう考えたらよいのだろう。ハゲが気になるのでアデランスをした。背が低いのが気になるのでシークレットブーツを利用している。太っているのが気になるのでダイエットを始めた。ほとんど食事をとっていない。胸が小さいので豊胸手術をした。あるいは顔のたるみが気になるので手術した。自分の身体の気になる部分を取り繕って欠点を隠したのである。普通の人並み、あるいは普通の人以上に外相を整えた。見た目には気になる部分が消えた。不安が消えてスッキリした。前向きに気持ちに変わってきて、人前に出るのが楽しくなった。異性にも関心を持ってもらえるようになった。やる気や意欲がどんどん高まりいろんなことに挑戦できるようになった。人間が生まれ変わったようで、人生に前向きに取り組むことができるような気持ちになってきた。かつらのテレビ宣伝、スポーツジムのテレビ宣伝はまさに夢を与えるかのようです。森田を勉強して分かったことは、これはホントのようなウソの話だという事です。それはなぜか。不安や不快感を無くするための行動だからです。そのような行動は益々症状を強める方に向かいます。意識は絶えず気になる一点に固定されてきます。いくらばれないように隠したとしても、アデランスをしていることを人は気づいていないだろうか。ジロジロ頭を見られたらどうしよう。雑談をしているのは自分のアデランスのことではないだろうか。装着に違和感がないだろうか。もし人前で外れたら。雨が降ったらどうしょう。汗が出たらどうしょう。そのことばかり考えているのです。ますます注意をひきつけて悪循環に陥ってしまいます。不健康です。そういう外相の整え方は、誤りだという事です。森田では不安や不快感は基本的にはそのまま放置しておくという事です。ハゲはハゲのまま。背が低いのは低いまま。太っているのは太っているまま。その上で外相をととのえるとはどういうことか。日常茶飯事、雑事を丁寧にこなしていく。規則正しい生活を心がけていく。仕事や勉強、家事や育児に目を向けて真剣に取り組んでいくこと。これらが外相を整えるという事です。そうすると頭の中で不安や不快感の占めていた割合がどんどん低下してくる。症状でのたうちまわっていた時は、頭の中も症状のことばかり考えています。80%から90%は症状のことを考えています。症状は横において自分のなすべき事をイヤイヤ仕方なく淡々とこなしていれば、50%、30%、20%と下がってきます。不安や不快感はどんどん出てくるけれども、執着することはなくなる。そういう状態が「外相を整えて内相が自ずから熟した」というのです。「玄関の靴を揃えれば心が揃う」という人がいます。日常生活に目を向けてゆけば弾みがついてきます。そうこうしているうちに、不安や不快感を早く流すことができるという能力を身につけていくようになるのです。
2015.09.03
コメント(0)
「こだわり」と「とらわれ」の違いについて考えてみた。共通点のあるような言葉でありながら、その本質はかなり違うと気がついたからである。私たちの問題にしている「とらわれ」がより深く理解できるようになるかもしれない。「こだわり」を持っている人は頑固であるというイメージがある。人の言う事はあまり聞かない。融通が効かない。言い出したら梃子でも動かない。わが道をどこまでも突き進む。一途に自分の信じた道を貫く強さがある。うんちくを人に語り出すと止まらない。自分の持ち物については気にいったものをずっと使い続ける。健康志向にこだわっている人もいる。食事の内容、体を動かすこと、睡眠、ストレスの発散、趣味、温かい人間関係の構築などに気を配っている。特に食べ物については、無農薬、遺伝子組み換え食品、生産地、消費期限を気にする。そして食事のバランス、サプリメントにこだわる人もいる。生活習慣病にはいつも関心を持ってチェックしている。長寿そのものよりも、心身の健康年齢の延命を心がけている。特にがん等の難病、認知症等を警戒している。つまりこだわりのある人は、その内容を重視しているのである。さらに自分が主体性を持って自分の所有物や身の回りの人に接しているのである。それだけに「こだわり」のある人は味がある。芯の強さを感じるのである。つぎに「とらわれる」人の特徴はなんだろう。目先のことに「とらわれる」という言葉がある。ちょっとしたこと、とるに足らないようなことに簡単に「とらわれる」のである。これは心配性の性格を持っている我々に当てはまることである。とらわれる人は、不安や不快感を流せないで、いつまでも抱え込んでしまう人である。どうにもならないこと、気になることに注意を集中させて、不安や不快感をできるだけ早く無くそうとする。それ以外のことに目が行き届かなくなり、生活が後退する。観念上の悪循環が始まる。つまり自分の生活が不安や不快感に乗っ取られた状態である。不安や不快感が頭に浮かんできて、なんとか取り除くように自分に迫り、その不安を解消するために手あたりしだい何かしないではいられない。強迫観念で自分を追い込み、強迫行為をするようになるのである。ちょっとでも頭が痛い、腹の調子がおかしい。すぐに何か命にかかわる重大な病気にかかっているのではないかと気にする。そして病院にかかり薬を処方してもらう。私ものどにものが引っかかったような不快感が気になり大学病院に行ったことがある。診察した先生は、「この病院は開業医の紹介状が必要です。あなたのような一限の患者さんが直接来院するのは手順が違う」と言われた。事実のどの痛みはヒステリー球という精神的なストレスが原因でしょうと言われた。紹介状が無いので高い料金を請求されて、すぐに追い返されてしまった。考えてみれば、大学病院は命にかかわるような人が来るような病院だ。でも私はガンになったのではないかと気が動転して、一番信頼のおける病院でよく見てもらおうと思ったのである。これがとらわれの悪循環に取りつかれた人の特徴である。やることなすことが極端で、後先のことを考えないで短絡的である。不安や不快感に対して対症療法で簡単に応急処置をとろうとするのである。健康でいたいという気持ちが強いが、不快感や病気が発生したときに、その原因を特定して誰かに取り除いてもらおうという気持ちが強い。「こだわり」を持っている人のように、自分の立場を明確にして人や物事に対しているのではない。主体性に欠ける人である。「とらわれる」人は不安や不快な気分を気にしているのである。安易に気分本位の行動をとっている人なのである。その時の気分に翻弄されるばかりであるから、不安定なのである。
2015.09.02
コメント(0)
森田理論の中によい悪い、正しい間違いという価値判断をしてはならないというのがあります。森田全集第5巻の中で「善し悪しとか苦楽という事は、事実と言葉との間に非常な相違がある。この苦楽の評価の拘泥を超越していく。・・・善悪不離、苦楽共存という態度のことである。」と述べられています。森田理論を突き詰めていくと、価値判断、評価をしなくなり、自然な感情をそのまま受け入れるような態度が身につくと言っておられるのです。この価値判断、評価の意味について考えてみたいと思います。私は対人恐怖症です。対人恐怖の人は人を恐れています。いつもビクビクオドオドしています。人の影に怯えながらひっそりと生きているのです。小さいころから、こうしなさい、ああしなさい、これをしてはいけませんと言われて育ってきました。自分の存在を否定されて、親の意向に沿った言動をとるようになりました。つまり今思えば、しつけと称して、よい悪いという人物評価を受け続けてきたのです。その結果どうなったか。他人は自分に対して評価を下す存在なのだ。自分はその評価を甘んじて受け入れるだけの人間であるという考え方が刷り込まれてしまっているのです。そして今や反対に他人をも厳しい価値判断、評価の対象としてしまっているのです。それだけではあのません。神経質性格を持ち自己内省性の強い私たちは、自分自身をもその厳しい評価の対象としているのです。つまり自分という一人の人間の中に、評価する人間と評価される人間を抱えてしまっているのです。それは、自分自身に「かくあるべし」を押し付けていることであり、葛藤や苦悩でのたうちまわっている状態です。私たちは、他人の評価が絶対的なものであると考えるようになりました。他人の評価に振り回されて、一喜一憂するようになりました。対人恐怖の人の会話は、そのほとんどが他人の評価に関することです。他人を理解したり、事実を確かめたり、他人の気持ちを思いやるよりも、自分の評価がよかったのか悪かったのかばかり考えているのです。あるいは反対に他人の是非善悪の評価をシビアにランク付けしているのです。評価というのはそもそもどういうものなのでしょうか。評価対象物は、自分の頭の中にある確固たる位置を獲得している常識的な考え、存在物とは異質なものです。未知との初めての遭遇なのです。つまり新たに自分の頭の中で整理して、消化をしないとならないものです。つまり評価とは異物を自分なりに消化しようとする試みではないでしょうか。未知のものをそのままに放置しておくことは不安や恐怖につながります。自分が知っていることの枠組みの中にきちんと位置付ける作業をしたくなるものです。価値判断、評価はきわめて主観的なものです。独りよがりなものです。他人は他人で同じものを見ても別の価値判断、評価をしているケースが多々あります。それぞれが違う目盛りの物差しを持って実測しているようなものですから、ずれが生じます。でも本人は自分の価値判断は間違いない。絶対的だと思って相手に押し付けているのです。一方的で脅迫的です。その決めつけ方は暴力と何ら変わりはありません。評価という名の暴力です。評価というのは自分の解釈を、あたかも事実であるかのように相手に押し付けているものなのです。このように考えると、相手が自分のことを悪く評価したという場合、その人の独自の考え方であって普遍性のあるものではないという事です。それを真に受けてオドオドビクビクすることはありません。そのように受け取ることのほうがおかしい。異論があればその価値判断に対して反論を加えてもよいのです。自分の価値判断、評価をぶつけていってもよいということになります。でも私たちのように、評価される以外の人間関係を経験したことがない人にとって反論することは考えもつかないことでしょう。圧倒的な力関係のもとで、一方的な評価を下され続けて、相手が自分に下した評価は絶対的なものであり、それが自分の価値を決めると思ってしまうのです。相手の評価が正しくない場合、それは評価される側が修正できるという事を知らないのです。評価の泥沼から這い出るためには、私たちはそういう状況の中で生活しているのだという自覚を深めることだと思います。そして、「価値判断の是非」は森田理論学習の中心テーマですのでさらに学習を深めていくことだと思います。(ダイエット依存症 水島広子 講談社より一部引用)
2015.09.01
コメント(0)
全30件 (30件中 1-30件目)
1


