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「あるがまま」とは、神経症の原因となるような不安、恐怖、症状をそのまま受け入れて、本来の欲望に乗ってなすべきことをなすことだと言われています。不安や症状を受け入れられないから神経症に陥ったのに、それをそのまま受け入れなさいと言われてもすんなり分かりましたというわけにはいきません。どうすれば「あるがまま」の態度を身に着けることができるのでしょうか。「あるがまま」は2つの側面がありますが、「なすべきをなす」ことから入るほうが取り組みやすいと思われます。仕事や日常生活の中で雑仕事や雑事に丁寧に取り組むことです。凡事徹底のことです。そのために規則正しい生活習慣を作り上げる。毎日同じ時間に同じことをするというルーティンワークを確立する。すると何も考えなくてもすっと身体のほうが動いてくれるようになります。ルーティンワークをすっぽかすと居心地が悪いと思えるようになるとしめたものです。ルーティンワークは「ものそのものになる」ように心がける。小さな気づき、発見、工夫、アイデア、興味や関心が泉のようにコンコンと湧き出てくるようになるとよいのです。ルーティンワークの中で問題や課題、改善点や改良点、気づきや工夫、小さな感動や楽しみを見つけるように心がける。そういうものが見つかると忘れないようにメモしておくことが肝心です。こういう気持ちで取り組めば、ルーティンワークがマンネリに陥ることはなくなるはずです。不安や症状をいきなりそのまま受け入れるというのは、かなりハードルが高いと思います。これには順序があります。まず不安や症状にきちんと向き合うことから始める。逃げることを考えて、うわの空で向き合っていると不安や症状はどんどん膨れ上がってきます。不安の正体を正確につかむという姿勢が必要です。「幽霊の正体見たり枯れ尾花」という話がありますが、不安の正体が正確にわかると、それ以上に不安が膨れ上がることはありません。不安が解消したら注意や意識はすぐにそこから離れるようにすることが肝心です。時間の経過とともに次々と不安や不快感は出没してきますから、その場にじっとしていることはできません。どうすることの出来ない不安や症状はそのまま積み残したままにして、次の不安や恐怖に飛び乗ってとにかく生活を前進させていくことが重要になります。
2024.08.31
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渡辺和子さんのお話です。真山美保氏の「泥かぶら」という劇をご存じの方もおいでになるでしょう。非常に醜いがゆえに人々から「泥かぶら」とあざけられ、からかわれて、身も心もすさんでいく一人の娘がおりました。そしてその日も、はやしたてる村の子どもたちを竹の棒を振りまわしながら追いかけている時、一人の旅の老人が通りかかり、「お前がそんなに美しくなりたいのなら、次の3つのことを来る日も来る日も守ってごらん。そうすれば、きっと美しい人になれる」と言いおいて去っていきます。いつもにっこり笑うこと人の身になって思うこと自分の醜さを恥じないことその日から泥かぶらの自分との闘いが始まりました。何度もつまずき、志を翻そうとしながら、美しくなりたい一心で、この3つのことを守る泥かぶらの顔からいつしか険しさが消え、村の人からは、お使いに、子守りにと重宝がられて、やがて村の人気者になります。そんなある日、この村に人買いがやってきました。泣いて嫌がる娘、そして悲しむ両親、その人たちに、自分が身代わりになることを告げて、泥かぶらはその人買いに買われていきます。道すがら村の人々がどんなに親切で、村の子どもたちがどんなにかわいいか、顔を輝かせて話す泥かぶらに、鬼のような人買いの心は、温かい人間の心に変わっていくのでした。そしてある日、泥かぶらを置き去っていく人買いが残した1通の書置きのなかには「もうお帰り、仏のように美しい子よ」と書かれてあったということです。(あなただけの人生をどう生きるか 渡辺和子 筑摩書房 73ページ)人間関係もうまくいかない。自己嫌悪、自己否定感が強い。やることなすことがすべて裏目に出る。生きていても何も面白くない。いつ死んでも構わない。などと考えている人にとってホッとする話だと思います。自分に置き換えて考えてみました。・いつもにっこり笑うこと苦しいことや腹の立つことはよくあります。そんなときはまず深呼吸をする。4秒で吸いこみ、3秒止めて、7秒で吐ききる。吐ききると気持ちが変わる。つぎに鉛筆を横にくわえて笑顔を作る。否定語を取り消して、あらかじめ一覧表にしている肯定語を読み上げる。脳は最後にインプットしたことを記憶するそうだ。・人の身になって思うこと相手の話をよく聞くようにする。受容、共感、許容の気持ちを持って聞く。世話活動に取り組む。集談会での世話活動。子育て、親の介護。ペットの世話。観葉植物の世話。自分問題はその後で考えるようにする。・自分の醜さを恥じないこと自分の容姿、弱点、ミス、欠点を隠さないように心がける。できるだけごまかさないように心がける。それよりも、自分が持っているもの、自分の能力、強み、長所に光を当てて活用していくように心がける。
2024.08.30
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9月号の生活の発見誌に中間管理職の人の話がありました。問題ある部下を何人も抱えてマネージメントで苦労した人です。一人は、たびたび仕事を休む人です。遅刻や早退も多い。出勤しても熱心に仕事をしないでサボってばかりいる。ある時私もたまりかねて、注意を与えたのですが、注意された彼は、「私に至らないところがあれは、いつでも叱ってください」と、いたって平静で、注意している上司である私のほうが、胸がドキドキして声が震えてくるという状態でした。もう一人は、以前職員組合の組合長をしていた人です。仕事ができる営業マンでしたが、何かあったとき、上司につっかってくるというような扱いにくい部下でした。私にしてみれば、「俺の方が歳が上じゃないか」「会社でも先輩じゃないか」「仕事だってお前にゃ負けんぞ」という気で、対抗心まる出して対応していたのでだんだん仲が悪くなった。険悪なときには、顔を合わせても、口もきかない、あいさつもしない状態だった。こういう部下とどのように折り合いをつけていけばよいのか。この問題に対して、アドラー心理学の目的論の考え方が役に立ちます。早速検討してみましょう。この方の一番の目的は、問題を持っている部下を、上司という立場を利用して、思うがままにコントロールしたいということだと思います。つまり部下に負けたくない。負けを認めると自分の存在価値がなくなる。なんとしても勝ちたい。部下を征服したい。屈服させたい。自分の力を思う存分見せつけてやりたい。しかし、部下もさるもの。一筋縄ではいかない。「かくあるべし」を押し付けようとすれば、部下は精一杯の抵抗を試みます。すれ違いや反抗的な態度にでてきて事態はますます悪くなっていく。人間関係が悪化して息が詰まるような状態になる。苦しい。つらい。このままの状態を続けていくと、マネージャー失格の烙印を押されかねない。どうすればよいのかと苦慮されています。アドラー心理学では、勝ち負けにこだわり、白黒をはっきりさせたいという目的を持って相手を挑発していると人間関係は修復できなくなると言います。仮にあなたが勝利しても、相手は賛同者を集めて、態勢を立て直してすさまじい勢いで「復讐」してくる。その時あなたは「こんなことになるなんて」と後悔することになる。そのときになって反省してもすでに時遅しというものだ。一旦破壊された人間関係は元には戻らないだろう。上司の本来の目標は、まずは自分の組織の方針を立てること。適性な人員配置をすること。部下のやる気を鼓舞すること。部下を成長させること。目標に対する進捗の管理をすること。問題点や改善点、将来の課題を見つけて対策を立てる。関係各部署との連絡調整をすることなどです。勝ち負けにこだわってしまうと、これらの目標を忘れてしまう。組織の中で部下と勝ち負けをかけて戦うことを目的とする生き方にこだわることになります。そういう目的にエネルギーを注ぐことは労多くして実りは少ない。部下から勝ち負けを迫るような挑発を受けたとき、その挑発には決して乗らないという態度の上司はマネジャーの仕事に向いていると思います。
2024.08.29
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アドラーは劣等感は誰にもあるものだと認めています。劣等感自体は、なにも悪いものではありません。アドラーは「優越性の追求も劣等感も病気ではなく、健康で正常な努力と成長への刺激である」と述べています。劣等感をバネにして、努力や成長の促進剤になりうると語っています。劣等感を取り除くべく、より前進しようとする、現状に満足することなく、一歩でも先に進もうとする、もっと幸せになろうとする、こうした劣等感の在り方には、なんの問題もありません。ところが、一歩踏み出す勇気をくじかれ、「状況は現実的な努力によって変えられる」という事実を受け入れられない人たちがいます。なにもしないうちから、「どうせ自分なんて」「どうせがんばったところで」とあきらめてしまう人たちがいます。アドラーはこれは劣等感ではなく、劣等コンプレックスだと述べています。劣等コンプレックスとは、自らの劣等感をある種の言い訳に使い始めた状態のことを指します。具体的には「わたしは学歴が低いから、成功できない」と考える。あるいは「わたしは器量が悪いから、結婚できない」と考える。このように日常生活の中で「Aであるから、Bはできない」という論理を振りかざすのは、もはや劣等感の範疇に収まりません。劣等コンプレックスです。(嫌われる勇気 岸見一郎 ダイヤモンド社)森田理論でも自分と他人を比較して劣っていると判断すると、自己嫌悪、自己否定感でいっぱいになるといいます。そのとき見劣りする事実を認めて、努力次第でなんとかなるものでしたら、改善に向けて舵を切ったらよい。でも努力してもどうすることもできないものがたくさんあります。そういうものは、他人に譲って、自分としては潔く事実を認めてあきらめるしかない。自分の強みや長所や好きなことに光を当てて、努力精進していくほうが理にかなっています。「谷深ければ山深し」と言います。大きな欠点や弱みを持っている人は、それに匹敵する長所や強みを持っていることが多いのです一歩前に出ることが恐ろしい、現実的な努力をしたくない。今享受している楽しみを犠牲にしてまで変わりたくない。多少の不満や不自由があったとしても、今のままでいたほうが楽だと考えている人は、味わい深い人生とは縁のない人です。
2024.08.28
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長谷川洋三氏のお話です。私たち人間は、動物が外部からの刺激に応じて、反射的に、本能的に反応するというものとはだいぶ違います。私たちは、外部からの刺激を受け止めて、その刺激の持っている意味をよく考えて、自分としてはどういう対応をしたらいいのかということを考えて、行動に出ていく。これが人間性の共通の特徴だろうと思うのです。動物や昆虫のように、刺激に対して短絡的な反応はしない。(生活の発見誌 7月号 4ページ)この指摘に対して、私の体験からするとにわかに賛同できない。自分のことを非難、否定されると、力関係が同等か弱い人と判断すると、売り言葉に買い言葉的な対応をしてきた。また叶わない相手と判断したときは、すぐに逃げ出した。つまり反射的に、本能的に対応してきたのである。長谷川先生の指摘されるように、感情と行動、気分と行動をきちんと切り分けて、その時、その場で適切な対応をしてきたかと問われれば心もとない。そのような対応のつけは大きかった。相手が逆襲してきたのである。相手は賛同者を集めて逆襲してくるので、多勢に無勢となって窮地に追い込まれた。その反省の上に立って、私と同じような傾向の人にこれだけは伝えたい。腹が立ったとき6秒間だけはがまんする。脳はがまんして耐えること、つまりじっと待つということは大きなストレスになることが分かっている。ただじっとして怒りが収まるまで待つというのが無理ならば、別のことをする。つまり、腹が立ってきたときは、1、2、3、4、5、6と数を数えるようにする。これは感情の法則の学習の時、怒りの感情は6秒で一山駆け上ると聞いたからだ。その後は下降してくる。たとえ下降しなくても、間が取れることが大きい。6秒たったら、できるだけ相手から離れる。怒りをすぐに爆発させてしまう人は、近づいてはいけないときに敢えて近づき、近づいたほうがよいときに相手を無視している。その他、2023年6月21日に投稿した「意識して眼を動かすようにする」、さらに山富浩司氏の「マインドフルネスタッピング」などの技法を取り入れるようにする。次に気分に流されてしまう人へ。危険なこと、気がすすまないことを避けるのは人間の特性です。楽なこと、気持ちのよいことを求めてしまうのも人間の特性です。あなたの人間性に問題があって、楽な方、本能的な気分に流されているのではありません。しかし気分本位の行動は弊害が多すぎます。気分本位の人の単独行動は極めて危険です。酒を飲んだ時などは単独行動してはいけない。配偶者や制御能力のある人といっしょに行動した方がよい。人の力を借りて、気分本位の態度をコントロールすることを考えるのです。訪問営業でさぼり癖のある人は自分では治すことはできません。これを同行営業に切り替えればすぐに修正することができます。
2024.08.27
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玉野井幹雄氏のお話です。永い間私が、「症状のあるままやるべきことをやってきた」にもかかわらず、苦境から抜け出すことができなかった主な原因は、どうしても「不快感がなくなることを期待する心がなくならなかった」からであると思っています。その心がなくならないと、すべての行動が「不快感をなくするための手段になってしまって」、常に結果を期待することになりますから、上手くいかないわけです。そのために、「森田」がいつも言っている「あるがまま」とか「事実本位」とか「目的本位」という言葉も、一時的には効果があるような気がしましたが、本当のところを体得することができず、問題を根本的に解決するには、ほとんど役に立たなかったのであります。ではどうすればよいかということですが、「この症状は絶対に治らない、このまま、できるだけのことをして、命のある限り生きるしかない」と覚悟を固めることです。これは「自分の救いを断念する」「地獄に家を建てて住む」ことに他ならないのであります。集談会に参加している人たちを見ていると、かなり「断念」の度合いがすすんでいて、日常生活には支障のない程度にはなっているけれども、まだ少し「断念」しきれないところが残っているために、すっきりした状態にはなっていない、まだひっかかっているところがある人が結構いるように思われます。(いかにして神経症を克服するか 玉野井幹雄 自費出版 47~58ページ要旨引用)この話を私に当てはめて考えてみました。私は過去の不祥事を思い出しては、後悔し罪悪感でいたたまれなくなることがあります。それはこの不快な感情を何とか取り除いてしまいたいという気持ちが強いからだと思います。そのために精神交互作用で自分を窮地に追い込んでいる。今までは、起きてしまったことは取り消すことはできないのだから、不祥事を反省してこれから人の為に尽くせばいいはずだと考えていました。そうすれば、過去の不祥事の数々は帳消しになるかもしれないなどと虫のよいことを考えていたのです。玉野井幹雄氏の話を聞くと私は誤った考え方をしていたと思いました。今までの不祥事はこれから先どんなに人の役に立つことをしても決して帳消しになることはない。そんな虫のよいことを考えても、後悔、罪悪感、不快感がなくなるわけではない。むしろますます悪化するばかりだ。不祥事で後悔、罪悪感、不快感が湧き上がってくることは、そのまますべて受け入れるしかない。後悔や罪悪感を受け入れながら、いま自分のできることに精一杯取り組んで生きていくしかない。受け入れることは難しいことですが、この生き方はできるはずだと思っています。
2024.08.26
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アドラー心理学の「怒り」についての考え方はとても参考になります。相手の言動によってあなたが本気で腹が立ったとき、相手が「権力争い」を挑んできているのだと考えてください。相手の目的は戦ってあなたに勝ちたいのです。あなたを屈服させたいのです。勝つことによって、自らの力を証明したいのです。勝つことによって、上下の人間関係を確立させたいのです。たとえば、あなたが友人と現下の政治情勢について語り合っていたとしましょう。そのうち議論は白熱し、お互い一歩も譲らぬ言い争いのなか、やがて相手が人格攻撃にまで及んでくる。だからお前は馬鹿なのだ、お前のような人間がいるからこの国は変わらないのだとまで言ってきた。この場合、相手の目的は、純粋に政治問題を語り合いたいのではありません。相手はただあなたを非難し、挑発し、権力争いを通じて、気に食わないあなたを屈服させたいのです。ここであなたが怒ってしまえば、相手の思惑通り、関係は権力争いに突入します。ここで相手の挑発に乗ってしまうと人間関係は壊れてしまいます。また、その挑発に応じて運よくあなたが相手を打ち負かしたとしましょう。打ち負かされた相手は潔く負けを認めて引きさがるでしょうか。争いに敗れた相手は、次の段階に突入します。相手は別の場所、別のかたちで、なにかしらの「復讐」を画策し、報復行動にでます。親に虐げられた子供が非行に走る。不登校になる。リストカットなどの自傷行為に走る場合があります。アドラーの目的論という考え方によると、そのようなことをすれば親は困ります。あわてふためき、胃に穴が開くほど深刻に悩みます。子どもはそれを100も承知のうえで、問題行動を起こしているのです。親に対して「復讐」するという目的を達成するために問題行動を起こしたのです。普通はリストカットをする子供を見て何のためにそんなことをするのかと不思議に思う人もいるでしょう。しかし、リストカットという行為によって、周囲の人がどんな気持ちになるのかを考えてみて下さい。そうすれば、おのずと行為の背後にある「目的」が見えてくるはずです。この手の話は自分の体験に照らし合わせて納得できる方もいらっしゃるでしょう。相手の「復讐」は、周りの賛同者をかき集めて泥沼の戦いが始まります。この戦いには終わりはありません。対人関係が復讐の段階にまで及んでしまうと、人間関係が破綻し、当事者同士の解決は不可能となります。またこれがトラウマとなって一生涯悪夢でうなされるようになります。そうならないためには、自分を打ち負かしてしまいたいという相手の挑発には、決して乗ってはならないことです。毒蛇でも怖いからとつつきまわしていると、とぐろを巻いて飛びかかってきますよ。こうゆうときは、相手から距離を置く、誰かに仲介を頼むなどの手立てが必要になります。売り言葉に買い言葉的な対応は後で禍根を残すことを肝に命じておきたいものです。(嫌われる勇気 岸見一郎 ダイヤモンド社 参照)
2024.08.25
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渡辺和子さんのお話です。良寛和尚という方が、その手紙のなかに「災難に遭うときには災難に遭うがよく候、死ぬる時節には死ぬがよく候。これはこれ災難を逃るる妙法にて候」と書いていますが、これは辛いことの多い人生を生きていく上の一つの知恵ともいえましょう。病気の時には病気になりきること、浪人の時には浪人になりきることの大切さ、つまり、そのものと一体になることによって、そのものの存在から解放され、自由になるということなのです。今、私はいわゆる高齢者の仲間入りをして自分の不甲斐なさと顔を合わさねばならなくなっています。かってのように物事を手際よく片付けられない自分、若い時にはなかった体の諸部分の不調、ハイヒールでさっそうと歩いていたのにローヒールを履かざるを得なくなった自分、そんな自分が今や自分の目の前に立ちはだかっています。老いというものは悲しいものと、しみじみ思います。そこで最近、生きるということ自体がすでに一つの大切な使命で、何をどのくらいするかということは、それに比べたら付随的なものではないかしら、と考えるようになりました。良寛の言葉になぞらえていうなら、老いる時には老いるがよく候、とでもいうのでしょうか。今まで自分が持っていたプライドが一つひとつはぎ取られていって、自分より若い人たちの活躍を喜ぶことができる自分になること、他人に頭を下げて生きていかねばならない。その現実を直視して、それを謙虚に受け止めていくこと、それは口でいうほど易しいことではありません。でも、そのように、その時その時の、ありのままの自分を肯定して生きていくことこそ、真の自分へのやさしさであり、人生を生きていく上での一つの妙法といえるのではなでしょうか。(目には見えないけれど大切なもの 渡辺和子 PHP文庫 163ページ)歳をとると今まで苦もなくできていたことができなくなってしまいます。なんとかできるという人もぎこちなくなります。歩くことがやっとという状態になる。骨粗しょう症になることもあります。肌の艶もなくなってきます。しわやシミが出てきます。髪も抜け落ちてくる。歯も抜けてくる。記憶力も衰えてきます。さまざまな痛みや病気で苦しむようになります。歳をとるということは、今まで当たり前だったものが、次第に失われていくということだと思います。名誉、権力、所有物、金銭、財産、健康、筋肉、記憶力などこれだけは絶対に手放したくないと思っていたものが自分の手元から逃げて行ってしまう。この現実と格闘していると、身体はますます衰え、不安やストレスだらけになります。また自己嫌悪、自己否定するようになります。これから逃れる方法は何でしょうか。良寛さんは、その事実を価値批判しないでその事実と一体化することが災難から逃れる妙法だと言われています。森田の考え方と同じです。そのうえでまだ失われていない面を見分ける知恵を持つことが大事だと思います。長く生きてきた人は他人様のお陰でここまで生きてきたということがいえます。これからはもっと他人様のお世話にならざるを得なくなります。そこから自然に感謝の気持ちが生まれてきます。感謝即幸福という人もいます。次に年老いた人は、数多くのミスや失敗の経験者です。それを公開して、他山の石として役に立つ活動をすることができます。年老いた人はもう1回人生をやり直すとしたら、ここは注意したいというものをつかんでいます。自分の人生は1回限りですが、その知恵を若い人達に伝えていくようにすれば、自分の人生を大いに活かすことができます。
2024.08.24
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マイナス感情には、不安、おびえ、怒り、不快、憤慨、憂うつ、嫌気、イライラ、心配、悲しみ、嫉妬、恥辱、惨めさなどがあります。プラス感情には、嬉しい、楽しい、愉快である、ワクワクする、ウキウキする、晴れやか、満足、しあわせなどがあります。誰でもマイナスの感情はできるだけ回避したいと思いがちです。そしてプラスの感情は数多く味わいたいという気持ちがあると思います。しかし感情は自然現象ですから、マイナス感情とプラス感情を選り好みして、マイナス感情にフタをしておくことはできません。マイナスの感情にきちんと向き合わないと、プラス感情が鈍化してしまうのが問題です。日常生活の中で発生している小さな楽しみや喜びを味わうことができなくなってしまうのです。当の本人はそのことに気づくことはできません。本人はそのモヤモヤを解消するために、もっと強い刺激や快楽を求めていくようになります。欲望が暴走するようになるのです。最悪依存症に陥ります。自分で課題や目標を設定して努力した結果得られるような喜びや達成感は、しんどいばかりでつまらないと考えるようになります。自ら努力することを放棄して、他人から与えられる刺激や快楽に目が向くようになってしまいます。面白いことは何もない、何も興味が湧き起こらない、とにかくやる気が起こらないというのは、他人から与えられる快楽や刺激を追い求めている人の特徴です。神経質性格者はもともと感受性が豊かで細やかなのですが、マイナス感情と敵対してきたために自分でも気がつかないうちに感性が鈍化してきたと考えられます。感受性が衰えてくることは神経質性格者にとっては大問題です。感受性が豊かであることは芸術などをよく深く味わるためには必要な能力です。また人間関係でも他人の気持ちを思いやることができるのも感受性が強いことが必要条件です。神経質者にとって好奇心がなくなるというのは死活問題となります。興味や関心が持てなくなると、無気力、無感動、無関心になります。この悪循環に陥らないためには、マイナス感情にフタをしないで、きちんと向き合うようにすることが必要です。そしてその感情を否定するのではなく、客観的に眺めるようにする。マイナス感情に連動して、反射的な短絡的な行動に走ってしまうのは考えものです。マイナス感情と行動は別物ということを意識して行動すれば問題の発生を避けることができます。今年の田舎のコメは豊作です。大都市ではコメの品薄現象が発生しているようです。
2024.08.23
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渡辺和子さんのお話です。私たちは誰しも、「ありのままの自分」と、「見てもらいたい自分」の、二人の自分を持って生きている。「ありのままの自分」は有機体だから、病気もすれば歳もとる、感情が高ぶることもあればおちこむこともある自分だ。ところが他人にそういう自分を見せたくなくて、「見てほしい自分」を演技するところに無理が生じ、不自由になってしまう。「ありのままの自分」と、「ありもしない自分」との間のギャップが大きければ大きいほど、隠すものが多くて疲れは激しい。絶えずそれらしく見せかけ、ボロが出ないよう気を使わないといけないからだ。それはちょうど、着なれないよそゆきの着物を一日中着ていて、家に戻って脱いだ時に感じる疲れのようなものである。そんなに苦労してまで、どうして「ありもしない自分」を保とうとするのかといえば、多分、そういう自分でないと他人が相手にしてくれない、他人に好かれないという恐れがあるからではなかろうか。デートの時に、念入りに化粧し、相手の気に入るように振舞おうとする心理に似ている。このような「見せかけの自分」から自由にしてくれるのは、自分を、ありのままの姿で愛してくれる人との出会いである。「ふだん着のあなた、素顔のあなたでいいのです。それが好きなのです」という人に出会って、初めて、よそ行きの装いとその窮屈さから自由になり、人は本来の自分の姿を見つめる勇気を与えられるのだ。(目に見えないけど大切なもの 渡辺和子 PHP文庫 28ページ)「ありのままの自分」で生きぬき、75歳で全身ガンで亡くなられた樹木希林さんをご紹介したい。娘の也哉子さんによると、樹木希林さんは、「恥ずかしいことほど人前に晒す」ということを信条としていた節がある。2018年公開の「万引き家族」という映画で入れ歯を外して演技された。髪もぼさぼさにして手入れもしないで出演した。この映画を見た人から「女優がそんなことをするのは、ヌードになることより恥ずかしいことだ」と言われたそうだ。この映画で、みかんにかぶりつくシーンがありました。入れ歯を外しているから、歯茎でしごくのよ。歯がないっていうことはそういうことなのよ。人間が老いていく、壊れていく姿を見てもらいたかった。樹木希林さんは、演技や自分の生き方や考えを通じて森田の神髄を語られているように思う。一部を紹介します。・欲や執着があると、それが弱みになって、人がつけこみやすくなる。・人間でも1回、ダメになった人が好きなんです。・しっかり傷ついたりヘコんだりすれば、自分の足しや幅になる。・どんな素材でもそれが光る場所に置いて活かしたい。・淡々と生きて淡々と死んでいきたい。(一切なりゆき 樹木希林 文芸春秋 目次より)
2024.08.22
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曽野綾子さんのお話です。動物園のライオンていうのは、いつもエサがあるからだらけきっちゃうんですって。動物園のライオンを長生きさせるにはどうするか。人間が移動する車の通り道にエサをとる必要もなくて、ライオンがでれーっと寝てる。それをわざと轢こうとするんです。もちろんライオンのほうがすばやいから、絶対轢かれたりしないんですよ。どうしてそんなことをするかと言えば、それが唯一の健康を保つためのストレスなんですって。そうでないと飼われているライオンには何ひとつストレスがない。敵がいなくて、いつでもエサがある。なんにもストレスがないっていうのは困ったことなんですね。何か少しはストレスがあった方が身のためということでしょう。(善人はなぜまわりの人を不幸にするのか 曽野綾子 祥伝社黄金文庫 191ページ)森田では「不安は安心の為の用心である」と言います。不安の存在は我々の生活になくてはならないものです。不安が不必要なものならば、人類の進化の過程で淘汰されていたと思われます。不安を毛嫌いしないで味方に引き入れることが大事になると思います。不安と同様に適度なストレスもなくてはならないものです。こんな逸話があります。デンマークに毎年秋大きな集団を作って南方に飛び去る渡り鳥の野鴨がいた。シーランド海岸に住む人たちが野鴨に親切心でエサを与えていた。しばらくすると、野鴨のうちの幾羽かは南方へ飛び去ろうとしなくなった。この人たちのエサをたよりにして、デンマークで越冬するようになったのだ。だんだんこの野鴨たちは飛ぶことが少なくなってきた。3~4年ののちには、この野鴨たちはすっかりだらしなくなり、飛ぶことさえむずかしいほど太ってしまった。野鴨はもはや野鴨とは言えなくなってしまった。アヒル(家鴨)のように人から餌をもらうことで生き延びるしかなくなった。鳥は1日の65%は餌捕りに費やすそうだ。必死でエサを求めているから、より野鴨らしくなっていたのです。人間もストレスから解放されて、自由を謳歌していると、最後には身体が弱り、脳が廃用性萎縮現象を起こしてしまいます。適度なストレスを抱えながら、課題や問題解決のために、絶えず心身を動かし続けるということが大事になります。(人間力をフリーズさせているものの正体 藤田英夫 シンポジオン 93ページ参照)
2024.08.21
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感情の法則1は、「感情は、そのままに放任し、またはその自然発動のままに従えば、その経過は山形の曲線をなし、ひと昇りひと降りして、ついに消失するものである」と言われています。これは、感情の取り扱い方を明確に説明してくれています。感情は天気と同じ自然現象なので、コントロールしようとしても不可能です。どのように抵抗しても人間は自然の驚異の前では無力です。台風がきたときは、台風が通り過ぎるまで、家の中でじっとしていることです。敢えて外出すると、強風や高波、土砂災害、車の横転、飛来物などで思わぬ惨事に見舞われる場合があります。自然を甘く見てはいけません。自然現象にはいいも悪いもないわけですから、価値判定することをやめて、イライラ、ジリジリしながらそのまま感じていればよいということになります。さらに自然に対して抵抗することを考えてはいけません。それは普段びくともしない巨大な松が台風によって、無残にも倒壊していることがあります。一方柳の木は、枝が引きちぎれんばかりに乱れまくっていますが、台風が通り過ぎた後はすぐに普段の生活を取り戻しています。突発的な怒りの感情は、1から6までの数を数えているうちにひと昇りしてしまう言われています。その後はひと降りする運命にありますので、やり過ごすことが得策です。売り言葉に買い言葉の人間関係は問題です。次に森田では感情と行動は別物として取り扱いましょうと説明されています。感情には、悲しみ、不安、怒り、喜び、嬉しさなどがあります。またイヤだ、しんどい、面倒、おっくう、つまらない等という気持ちになることもあります。具体的にはどのように行動すればよいのでしょうか。悲しみ・・・悲しいときは我慢しないで泣いた方がよいと思います。涙のなかには濃縮されたマンガンが含まれているそうです。それを体外に出すことで、不安やストレスが減少します。不安・・・現実的な不安には、積極的に手を出す必要があります。放置していると事態はますます悪化します。神経症的な不安は欲望の裏返しとして発生するものです。自分の欲求や欲望を見極めて、生の欲望の発揮に向かうことが肝心です。怒り、憎しみ、いらだち、不平不満・・・口や態度に出してすっきりするのは、一瞬だけです。交通事故と同じで、原状復帰するためには多大なエネルギーを必要とします。森田では不即不離をお勧めしています。気まずくなったときは相手との車間距離をとることです。問題行動を起こす人は、近づいてはいけないときに近づきすぎ、近づかなくてはいけないときに相手のことを無視している傾向があります。気分本位な行動・・・気分に振り回されて、逃げてしまうとしばらくはホッとします。ところが時間が経つにしたがって暇を持て余すようになります。困難から逃げていると、人間としての成長はそこで止まってしまいます。耐える力、我慢して努力精進するという人間本来の生き方が身に付きません。気分本位な行動を修正するためには、規則正しい生活、ルーティンワークを確立する必要があると思います。気分に振り回される前にすっと身体が動いてくる習慣を身に着けたいものです。
2024.08.20
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人間はどんな時にやる気が出てくるのか。これが分かっていると、人生がむなしいとか退屈だなどとは考えなくなります。時間が経つのが早く、人間に生まれてよかったと思えるようになります。今日はこの問題を取り上げてみました。1、好きなこと、楽しいこと、気持ちがよいこと。興味や関心があることは、ドパミンやβエンドルフィンがでてきて、すぐにやる気が出てきます。逆に嫌いなこと、苦しいこと、面倒なこと、おっくうなことは、ノルアドレナリンがでてきて、行動は抑制的になります。これが脳の仕組みです。2、得をすること。人から評価されること。お金などの報酬に結びつくものが見つかるとすぐにやる気が出てきます。誰もができないようなことで成果を上げることが予想されるとやる気になります。しかも長期的な持続力があります。3、相手と競り合い、勝ちたいという気持ちが湧き上がってくると途端にやる気に火がつきます。ライバルを持っている人は情熱の塊です。スポーツやゲームなどは、ほとんどこの要素があります。4、イヤイヤ仕方なく始めた事でも、その中に問題点、課題、改善点、改良点、楽しみ、感動が見つかるとやる気が出てきます。これは森田でお勧めしていることです。そのためにはそれらをきちんとキャッチすることが不可欠となります。5、日々のルーティンワークを確立した人は、身体がすっと動いてくるようになります。習慣化された行動を中断すると、居心地の悪さを感じるので自然に必要な行動ができるようになります。傍から見ていると規則正しい生活をしている人は、やる気のある人に見えます。これも森田でお勧めしていることです。今やりたいことが何もなくて虚しいという人は、5つの項目の中から取り組む課題を見つけてみましょう。特に4と5をお勧めしたいです。2つを組み合わせると俄然やる気が出てきます。よい行動の習慣化は3ヶ月くらいかかります。飛行機でも安定軌道に入るまでは不安ですが、一旦安定軌道に入ると安心と自信が生まれます。
2024.08.19
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医師の帯津良一先生のお話です。驚くような治癒力を発揮する患者さんには、ある共通点がありました。それは、みなさん「いい場」に身を置いているということです。家庭、職場、医療現場、学びの場など、さまざまないい場に恵まれていました。私の考える「いい場」とは、生命エネルギーを日々高めようとする人が集まった場、もしくは大地のエネルギーがふんだんにある大自然です。自然はイメージしやすいですが、前者はいったいどういうところを指すのでしょうか。どこかを訪問したとき、「ここは気持ちがいい場所だな」と感じるところと、「ここにいるとなんだか気分が沈んでくる。早めに引き上げよう」と感じる場所があります。場を左右するのは土地や環境はもちろんですが、そこにいる人の生命エネルギーが大きく関係しています。生命のレベルの高い人、高くしようと頑張っている人が多いほど、いい場が作られるはずです。(自然治癒力で生き返る 帯津良一 角川書店 100ページ)ここで言われている「生命エネルギー」ですが、明確な課題や目標を持って前向きに生活している人だと思います。その目標が人から感謝されるものでしたらますますモチベーションが高まります。目標には短期目標、中期目標、長期目標があります。私の長期目標はこのブログを30年続けることです。今年はその12年目です。「10年偉大なり、20年畏るべし、30年歴史なる」という言葉をスローガンにして取り組んでいます。日々の生活目標は、規則正しい生活と凡事徹底です。日々の生活の中で小さな成功体験を積み重ねていくことです。そのために小さな気づきを宝物として大切に取り扱っています。小さな気づきはすぐにメモしています。メモ帳とボールペンは必須アイテムです。これを取り逃がすと神経質性格を活かすことができなくなると考えています。帯津先生は、「いい場」に身を置きなさいと言われています。これは「生命エネルギー」がほとばしり出ている人と付き合いなさいということだと思います。私もこの考え方に賛同します。交流することでよい刺激をもらえます。その結果自分のモチベーションが高まります。私の場合でいえば、生活の発見会の集談会仲間との交流があります。現在はZOOMにより全国各地の人と交流しています。また所属している支部の人たちとの交流もあります。精神的のみならず生活上の問題を抱えたときの力強い相談相手です。さらに一人一芸の趣味の仲間、カラオケ仲間、自家用野菜や花卉園芸の仲間、男の料理教室の仲間、マンションの管理人仲間、大学時代や以前勤めていたOBとの交流もあります。これらの人たちとの交流は森田理論の不即不離を応用しております。つまり広く浅く必要に応じて必要なだけの人間関係を心がけております。心温かい人たちに囲まれて、刺激的で楽しい毎日を過ごしております。できれば私も多少なりとも「生命エネルギー」を与えられるような存在でありたいと思っております。
2024.08.18
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渡辺和子さんのお話です。人間関係を和やかにするためには、相手の立場に立つことが欠かせません。例えば、夫が会社から戻ってきて、「ああ今日は疲れた」と言ったときに、知らん顔をする、その言葉を聞き流すのは論外です。「私だって、1日結構忙しかったのよ」と自己主張したのでは、二人の間はうまくいきません。その時に、「ああそう、疲れたの」と、相手の気持ちをそのまま受け入れてあげることが大切なのです。友人が、「私、海外旅行に行ってきたの」といえば、「あら、私もよ」と相手の出鼻をくじいたり、「どこへ、誰と」と尋ねたりする前に、「そう、旅行してきたの」とおうむ返しに相手の発言をそのまま繰り返して、相手と共感することが、相手への真の優しさとなります。私たちはとかく自分本位になりがちで、共感する前に、自己主張をしがちです。相手が感じていることを、そのまま受け止めてあげる前に「私だって」とか、「私なら」と比較してしまいがちになります。(目には見えないけれど大切なもの 渡辺和子 PHP文庫 )枡野俊明氏は、「の」と「と」の使い分けの重要性を説明されています。「私の仕事」「私の友達」「私の夫」「私の妻」という言い方は、上下の対立関係よりも、横の対等な関係性を連想させます。「私と仕事」「私と友達」「私と夫」「私と妻」という言い方は、両者の関係が対立的になりやすい。対立するとグチや不平不満が発生して、批判や否定の態度に陥りやすい。対立関係というのは、森田でいえば「かくあるべし」を自分にも、相手にも押し付けることにつながります。神経症に陥る原因にもなりますし、自分が苦しくなるばかりです。枡野俊明氏は、すべての物事と向き合うときに「の」の心で向き合うことを勧めておられます。(2020年10月6日投稿記事より)樹木希林さんは、相手から気に障るようなことを言われたとき、「さいですか」というのが口癖だったそうです。腹がたつ。憤りを感じた時、すぐに反論するのではなく、最初に「さいですか」と言って、相手の発言を受け止めておられたのです。「売り言葉に買い言葉」的な言動の弊害をよく理解しておられたのでしょう。(2020年2月10日投稿記事より)今年は梅は不作でしたが、栗と柿はたくさん実がついています。
2024.08.17
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アメリカに住んでいるハタネズミは山岳ハタネズミとプレイリーハタネズミがいるそうです。同じハタネズミでありながら生活スタイルは全く異なる。サンガクハタネズミは単独行動を好む。プレイリーハタネズミは仲間と共に生活することを好む。これを人間に置き換えてみた場合、単独行動を好むタイプと仲間との付き合いを大事にするタイプに分かれるということではないでしょうか。これらは後から修正したいと思っても基本的には難しいと思っています。またこれらはどちらが良くて、どちらが悪いという問題ではないと考えています。これは生まれ持った性格も影響しています。さらに親の子どもの育て方も影響しています。ちなみに私は単独行動を好むタイプです。自分一人で生活を楽しむ方法はいくらでも持っています。どちらかというと仲間と絶えず一緒にいることはストレスになるのです。一人心静かに好きなことに取り組む方が性に合っているのです。私の場合、人間関係では、なんとなく気があう人10%、なんとなく気が合わない人30%、どちらでもない人60%くらいかなと思っています。このスタイルは今更変えることもできませんし、変えるつもりもありません。但し、どちらでもない人を敵に回してしまうのは避ける必要があると考えています。そうしないといろいろと支障が出てくるからです。そのためには最低限「やってはいけないこと」に手を出さないように気を付けるようにしています。これは私の過去の失敗の経験が役立っています。これを整理してみました。・仕事をさぼらない。与えられた仕事の最低限の責任を果たす。・ルールや習慣や決まりごとを無視しないできちんと守る。・約束はきちんと守る。ドタキャンはしない。・迷惑行為をしないように心がける。・暴言、暴力、喧嘩を控えるようにする。・早合点、先入観、決めつけ、思い込みで判断しない。・相手の話や行動を非難しない、否定しない。・叱責、拒否、脅迫、強制しない。・傾聴、共感、受容、許容の気持を持つ。・相手を無視しない。軽視しない。からかわない。・不平や不満をすぐに態度に出さない。しばらく我慢する、耐える。・しかめっ面、ふくれっ面を出さないようにする。笑顔を心がける。・自分の「かくあるべし」を相手に押し付けない。・気分本位、本能的、自己中心的な行動を抑える。・自分の自慢話、成功談を控える。
2024.08.16
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中谷彰宏氏のお話です。人生は1コマ1コマ撮影するアニメーションのようなものである。アニメーション映画は、止まっている写真をつなぎあわせることで、動いているように見えます。1枚撮って、少し動かして、また一枚撮る。そういう作業を24回繰り返して、ようやく1秒です。1分の映像をつくるために、1440回繰り返さなければなりません。他人から見て、とんとん拍子に成功している人も、1コマ1コマ、止まっているものを、コツコツつなぎ合わせているだけなのですね。(人を許すことで人は許される 中谷彰宏 53ページ)感動的なアニメ作品をみて涙することがあります。細かいこと、面倒なこと、根気のいる仕事を丁寧に積み重ねによって、人を感動させる作品が生まれているようです。これを面倒だといって、24回のところを12回に減らすと、ぎこちない不自然な作品になってしまいます。そんな作品を長時間見続けるとストレスがたまります。この話は私たちでいえば、雑事や雑仕事を、わずらわしい、めんどうだ、やる気が起きないといっていい加減に取り扱っていては、面白いことは何もなくなるということだと思います。暇をもてあまし、退屈で面白いことが何もない。生きることはつらいことばかりだという人は、雑事や雑仕事を軽視している人かもしれません。三重野悌次郎氏は、人生は雑事の積み重ねですと言われていました。自分の目の前の雑事の他に人生はありません。雑事の代表は家事です。炊事、洗濯、掃除、整理整頓など家事は雑事の集大成です。時々、「こんなつまらないことばかりしている自分が情けない。社会から取り残されているようで肩身が狭い。社会に出てバリバリ働きたい」という人がいます。社会に出て働くことに反対ではありません。だが、家事を「こんなつまらないこと」という考え方には反対です。そういう人は、社会に出ても、雑仕事をつまらない仕事と思うでしょう。雑事に真剣に取り組めば、必ず興味が湧いてきます。森田先生のいうお使い根性で働けばすべてがつまらないのです。ともあれ、雑事に喜びを見出す人は幸せな人です。(森田理論という人間学 三重野悌次郎 白揚社)先日さし穂したアジサイの鉢上げをしました。どんな花を咲かせてくれるのか、今から楽しみです。
2024.08.15
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事実が見えてくることのメリットを考えてみました。私はプロ野球のファンです。ときどき球場に出かけます。暑さには閉口しますが、臨場感はテレビでは味わえないものがあります。観客の声援、ホームランボール、電光掲示板の鮮やかさなどは刺激的です。普段はテレビ観戦です。しかしたまにテレビ中継されないときがあります。そんなときはラジオを聞いていますがテレビと違って迫力がない。そこでインターネットの「スポーツNaVi」を開いてみた。映像がない。音声がない。情報の伝達が遅い。情報の入手が遅れる(事実確認が遅れる)ということは、大きなストレスを抱えることになるというのが私の実感です。野球で判定が紛らわしいときは、監督の要請に応じてビデオ判定がされます。以前はそんな制度がなかったので、納得できない人は激しい抗議をしていました。そして勢い余って暴言や暴力行為で退場になる監督、選手もいました。現在はあらゆる角度からのビデオを見ると一目瞭然です。事実が分かれば、抗議した監督も納得して判定に従います。ファンも納得できます。これが事実の力です。最近は南海地震の注意喚起がテレビ画面に出ています。これは不安をあおっているだけではないのかと思うのは私だけでしょうか。地震発生時のアラーム音と「地震です。強い揺れにご注意ください」というアナウンスほど心臓に悪いものはありません。せめて震源域を教えてほしい。もしこれが事前に予知できれば不安はかなり解消できるのではないでしょうか。私は不安軽減のためそういう情報サービスに加入しています。ある程度は不安が解消されているように感じています。これによると地震予知は大変難しいということがよく分かりました。しかし全く手がかりがないわけではありません。地殻変動などを細かく観察していると、かすかな地震の前兆があります。大地震の後で振り返ってみるとあの現象がそうだったのかというようなものです。地震予知にはいろんな手法があるようですが、その中でも事前に地殻の変動を捉えることがかなり有効性があるようです。8月8日に日向灘でM7.1の大地震が起きました。それに先立って7月30日にM5.3の中規模地震が起きています。これに誘発される形で今回の日向灘地震が発生したようです。これで終わればよいのですが、地震の場合は次の大きな地震を呼び寄せます。これがトリガーとなって、九州から四国、紀伊半島、中部地方を震源域とする南海地震が起きる可能性がにわかに高まってきたのです。南海地震が誘発されると、30万人以上の人命が失われると想定されています。私は大丈夫と思っていても、海岸線に近い大型ショッピングモールなどに出かけていると、高台に避難することは難しくなるのです。現在不安をあおるだけで地震予知の情報はほとんど知らされません。地震予知が難しいのは分かりますが、わかる範囲で結構ですのでいろんな情報を知らせてほしいのです。GPSによる地殻変動の様子がほぼ分かっているのでしたら、せめてその情報は流してほしいのです。その情報を活用するかどうかは個人責任ということでどうでしょうか。予知機能の精度が低いので専門家だけが情報共有すればよいというのは如何なものでしょうか。地震発生の予知情報を持っていれば、震度6~7程度の地震に遭遇したとしてもそれなりの覚悟ができます。無知の状態で大地震に遭遇すると、固まってしまって一歩も動くことができなくなるのではないでしょうか。ヘルメットをかぶったり机の下に身を隠すこともできなくなる。特に風呂に入っている時や就寝中の場合は手も足も出なくなります。事前の準備にも雲泥の差が出てきます。転倒が予想される家屋から逃げる。家具やテレビや冷蔵庫の固定をする。食器や酒の瓶類や本箱の整理。棚の上のものや額縁などの片づけ。自動車の移動。津波に対して避難経路を確保する。生活必需品の持ち出しなど。できる限りの準備をして、それ以上の災害に巻き込まれた場合は仕方ないとあきらめもつきますが、準備もなしに大災害に巻き込まれることは大きな後悔が残ります。地震対策は身近な人と話し合い情報交換することが大事になると思います。和歌山県串本の海金剛です。なおこのブログは、本日で5000投稿の節目を迎えました。今後ともよろしくお願いいたします。
2024.08.14
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曽野綾子さんのお話です。本当の意味で強くなるにはどうしたらよいか。それは一つだけしか方法がない。それは勝ち気や、見栄を捨てることである。すぐばれるような浅はかな皮をかぶって、トラに化けた狐のようなふるまいをしないことである。世間は人間の弱みや弱点など、すべて承知ずみなのだ。金のないことも、一族のなかにヘンな人間がいることも、子供が大学にすべったことも、そんなこと、あちらにもこちらにもごろごろ転がっていることなのである。それなのに、自分だけは関係のないような顔をすること自体が、もうおかしい。勝ち気や見栄を捨てた時、人間は解放される。かっての私の首や肩のように、こちこちではなく、しなやかな感受性をもち、自由になれる。その自由さの中で、人間は光り輝くように、その人らしく魅力的になり、かしこげになり、金はなくても精神の豊かさを感じさせるようになり、大人物に見えてくる。自分の弱点をたんたんと他人に言えないうちは、その人は未だ熟していない人物なのである。(善人はなぜまわりの人を不幸にするのか 曽野綾子 祥伝社黄金文庫 90ページ)自己開示 懇親会で 全開放これは発見会川柳で最優秀賞をいただいた作品である。自分が不利になるような事実を隠さない、ごまかさない、言い訳しない、責任転嫁しないだけで人間関係は大きく改善できます。イソップ物語の北風とマントのように、人が近寄ってきます。逆に弱点や欠点を隠すような工作を行っていると、すぐに見破られてしまう。人並に修正しようとすると時間もお金もかかり、思ったような成果は上がらない。それを面白おかしく周りの人に拡散するので、自分の周りは敵だらけということになります。弱点や欠点を開示すると、みんなに嫌われ、仲間外れにされて生きていけなくなると思っているのだと思います。これは認識の誤りです。弱点や欠点を開示した方が、みんなに親しみを持って受け入れられるというのが真実です。弱点や欠点を潔く受け入れて、自分の強みや長所、得意な面を磨いていくほうがよほど楽で有意義な人生を送ることができます。
2024.08.13
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人間は自由を制限されることを嫌います。いつも自由気まま、自分の思い通りに行動したいと考えています。しかし社会的動物である人間が自由気ままに行動すると大混乱に陥ります。ルールを無視して、欲望が暴走すると人類の将来はありません。例えば次のようなことが起きます。MR検査では身体を固定されて、細い筒のようなものの中に入れられます。身動きできないのでパニックになって気が狂いそうになります。それがイヤで検査を拒否すると、自分の健康状態を掴むことができません。仕事をしている人は最低限のノルマを果たす必要があります。営業マンの場合は自分の給料の3倍の利益を出さないと会社がつぶれてしまいます。コンサート会場では、スマホはマナーモードにしておく必要があります。また会場内では飲食は控えなければなりません。幼い子どもがいるときは、キッズルームがあればそこで聞くことになります。信号機が赤の場合は停止しなければなりません。信号無視は重大事故につながります。信号のない交差点では、一時停止して安全を確認する必要があります。スポーツでは様々なルールがあります。格闘技などで、ルールを無視すると単なる殴り合いになります。これらの規制は何を意味しているのでしょうか。自由というのは、社会の取り決め、共通認識、規則、ルール、法律、しきたりという枠内でのみ許されているということだと思います。それらを無視して、自分の思い通りに行動すると社会が大混乱します。社会的な生き物である人間にとって決して許されるものではありません。このことは特に子育ての中で大いに活かしていく必要があります。親は子どもに対して、やってはいけないこととやらなければいけないことを、強制力を持って教えていかなければなりません。社会のしきたり、ルール、規則、社会常識、命にかかわる危険な行為、法律などを厳しく教える必要があります。それがしつけと言われるものです。一度で身につかないものは何度も教えていく。子どもが自由に行動してよいというのは、親が決めたルールの範囲内でのみ許されるということです。好き勝手になんでも自由にさせていると、欲望が暴走して放縦児になります。一旦放縦児が出来上がってしまうと手に負えなくなります。親が幼い子どもに、自由に行動できる範囲を教えることは、子どもが大人になったとき、自ら欲望の暴走を防ぐことができるようになります。親は子どもに、我慢力、忍耐力、自制心を身に着けさせるという大事な役割を持っているということです。次に、規制の枠内では子供に対して、自由に行動させることが肝心です。少々のことには目をつむって、敢えて冒険させることです。少々の困難に立ち向かっていく勇気、意欲を育てていくことが大切になります。その時に参考になるのは普段の親の生き方です。森田理論で人生観を確立した人は、好奇心旺盛でいろんなことに挑戦していますので、子どもにとってはとても役に立つと思われます。
2024.08.12
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広島県立加計高校は廃校の危機を乗り越えただけではなく、今や志願倍率1位の人気校へと変身した。不思議なことがあるものだ。今日はその秘密をご紹介したい。加計高校のある広島県山県郡安芸太田町は人口5500人の過疎の町である。2003年にはJRも廃線になった。広島の県立高校は全校生徒が80人を割ると廃校処置がとられる。加計高校は2014年90人まで落ち込み、廃校の危機を迎えた。危機感を抱いた町の人たちは、「子どもがいなくなると町が衰退する」と「加計高校を育てる会」を発足させた。当面1学年40名、全学年120名を目指した。広島県教育委員会に働きかけて「特定校」の認可を受けた。「特定校」の認可を受けると、全国各地から生徒の募集が可能となるのです。不足分を全国各地から集めようという戦略に出たのだ。全国から生徒を募集するためには、魅力のある学校にすることが欠かせない。今までにない取り組みを考えて実行に移した。そのためにまず5億円をかけて60名収容できる「黎明館」という学生寮を作った。全室一人部屋、冷蔵庫、エアコン、棚、机、ベッド、無線WiーFi完備。食事は1日2食、朝食と夕食を提供している。寮費は1ヶ月4万円。これで県外の生徒を受け入れる拠点ができた。つぎに大学進学希望者のために、「加計高校を育てる会」が費用を負担して無料の公営塾を開設している。これは土曜日、日曜日にそれぞれ6時間、国語、数学、英語の授業を行っている。令和4年度は10名以上が難関大学に進学を果している。部活動の参加者は92%と多い。特に射撃部、美術部は全国的にも有名です。その他、野球、バレーボール、卓球、茶華道、軽音楽があります。運動部と文化部はほぼ半数ずつです。加計高校は、ハワイのホノカワ高校と韓国のソラク高校と姉妹校提携を結び、毎年5名程度の短期留学生を送り出している。費用は加計高校同窓会が援助している。国際交流には特に力を入れており、ベトナムやインドをはじめとして、毎年100名以上の外国人がやってくるという。授業内容としては、2年生になると大学進学組は理系と文系、保育・福祉の専門分野、ビジネス分野に分かれて専門教育を受ける。SNSで紹介したところ、大きな反響があった。特に女子の入学者が増えたという。金太郎飴のような全国一律の教育ではなく、独自性を出したことが成功につながった。これらの活動が認められて、文部大臣表彰、環境大臣表彰などを受けている。過疎になると子どもが少なくなり町全体に活気がなくなります。高校だけではなく、小中学校もどんどん統廃合されているのが現状です。加計高校のように、その事実を受け入れて、みんなで知恵を出し合うといろんなアイデアが出てきます。たとえピンチになっても、チャンスに変える方法があることを教えてくれています。その内容はSNSで紹介されていますので、興味のある方は是非ご覧ください。
2024.08.11
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曽野綾子さんが、宮川優さんの詩を紹介されている。凧が空高く飛べるのは誰かが糸を引っぱっているからでも凧はその糸さえなければもっと自由に空を飛べると思っているその糸がなければ地上に落ちてしまうのも知らずに凧の糸は、失敗、苦労、不運、貧乏、家族に対する扶養義務、自分や家族の病気に対する精神的な支援、理解されないこと、誤解されること、などのことだ。それらは確かに自由を縛るようには見えるが、その重い糸に縛られた時に、初めて凧は強風の青空に昂然と舞うのである。(善人はなぜまわりの人を不幸にするのか 曽野綾子 祥伝社黄金文庫 176ページ)苦悩というのは、人間にとって極めて大切な要素です。苦悩のない人間は、人間性を失う。神も人も見えなくなる。(同書 58ページ)神経症を抱える、承服しがたい自然災害、理不尽な他人の仕打ち、過酷な運命、命にかかわるような病気やケガ、打開策が見つからない問題を抱えることは、人間誰にも起きます。それらを忌み嫌い否定することが多いと思います。しかし否定するばかりでは将来につながりません。神経症は神様が自分に与えてくれたギフトや試練ととらえるのは如何でしょうか。私は対人恐怖症で苦しんだ経験は、無駄ではなかったと思います。この苦しみがなかったとしたら、森田理論学習をすることもなかったでしょう。生きづらさの原因が分からないまま失意の人生で終っていたでしょう。森田理論学習によって、神経質性格者としての生き方を見つけたことは、最大の幸福をもたらしました。また自分の苦しみを開示して人様のお役に立つ活動をすることで生きがいを持つことができました。どんなに忌まわしい過去を持っていても、人生に無駄なこと、無意味なことは一つもない。そのためには一つ条件があります。自分の性格、容姿、能力、境遇、環境、試練をあるがままに受け入れることです。膝をかがめてエネルギーをため込み、後は思い切って飛び上がることです。雨降って地固まり、人間としてこの世に生を受けたことに対して感謝できるようになります。
2024.08.10
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「逆U字理論」とは、過緊張や弛緩状態の弊害と最適状態を作り上げる理論です。最適状態はスポーツの世界ではゾーンに入るといいます。ゾーンに入ると練習以上の成果を出すことが可能となります。ゾーンから外れると途端にパフォーマンスが下がって、歯ぎしりすることになります。この理論をもとにして、最適状態を作り上げる方法を考えてみました。まず弛緩状態を最適状態のあげる方法です。脳の仕組みでいえば、ドーパミン主導の報酬系神経回路が休眠状態にあります。やる気の脳のいわれる側坐核、腹側被蓋野、A10神経群が活動停止しています。これらを活性化させる必要があります。森田でいえば生の欲望を活性化させることが欠かせません。私は規則正しい生活が欠かせないと考えています。ルーティンワークを確立して、身体がすっと動くように修正すれば、弛緩状態から抜け出すことは可能となるでしょう。つぎに過緊張を最適状態に下げていく方法です。これは脳の仕組みでいえば、いくら成果を出さなければと自分で自分を叱咤激励してもノルアドレナリン主導の防衛系神経回路が活性化しているので、笛吹けど踊らず状態に陥っています。これは口で言うは易く行うは難しという面があります。これを和らげる方法を私の例で説明します。私は老人ホームでアルトサックスの演奏をするときに過緊張になります。・練習段階では100%以上に仕上げる。・忘備録を見て準備万端持ち物点検をする。・3時間前にデパスを1錠飲む。・本番前に次の言葉を唱和する。・弱気は最大の敵だ。・練習は決してウソをつかない。・困ったときは神様が助け舟を出してくれるはずだ。・胸を張って深呼吸をする。4秒で吸って3秒止めて7秒で吐ききる。・口角を上げて笑顔を作る。・2023年6月21日に投稿した「目を意識的に動かす」を実践する。・山富浩司氏推薦の「恐怖・不安解消のマインドフルネスタッピング」を行う。・ソロで吹き始める前に、「イチニイノサン」と前振りをつけて吹き始める。これが私のルーティンです。ある程度過緊張を押さえこむことができているなと思っています。
2024.08.09
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森田理論学習の要点のなかに「行動の原則」があります。その中に「今できることはひとつしかない」というのがあります。神経質性格の人は目の前のことも気になりますが、いろんなことが気になって混乱することがあります。例えば、外出するときに仕事のことや人間関係のことが気になって、鍵の確認がうわの空になってしまう。他のことを気にしながら戸締りをすると、後で不安になります。引き返して再度確認することも発生します。私は学生の頃、神奈川県の丹沢山系で沢登りというスポーツをしていたことがあります。川沿いの15mから20mの崖を登るスポーツです。このときインストラクターから落下しないための指導を受けました。その中でも手先、足先の3点確保を心がけることが印象に残りました。それと注意や意識は次の確保点を探すことに集中するようにということでした。少しでも下の方に視線を移すと、恐怖で頭が真っ白になり身体が固まってしまうのです。競技続行が不可能になり、ロープで地上に降ろしてもらうことになります。車の運転中は、よそ見や心配事を抱えてうわの空になることは大変危険です。特に交差点で右折するときは、細心の注意を払う必要があります。対向車の有無、交差点内の人の動きを無視すると悲惨な事故につながります。電車道では電車の有無も確認する必要があります。私たちは将来のことに取り越し苦労し、過去の不祥事をいつまでも後悔するという特徴があります。それは神経質性格者の特徴ですから仕方ない面があります。そんなときは「今できることはひとつしかない」をキャッチフレーズにして、目の前のことにしっかりと集中したいものです。そうしないと、本来集中しなければならないことがおろそかになります。「二兎を追うものは一兎も得ず」ということわざのように、何の成果もあげられないということになってしまいます。
2024.08.08
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親になったら子どもをきちんとしつけることが大事になります。その一つに我慢できる子どもに育てるというのがあります。大平光代さんのしつけ方が参考になります。おなかがすいて泣いた時、あわててミルクは作りません。「ミルクを作ってくるからちょっと待っていてね」と声をかけて、台所に引っ込みます。激しく泣き続けてもそのままにしておき、頃あいを見はからって「お待たせ」とミルクを持っていくのです。そしてその待たせる時間を少しずつ長くしていきました。抱っこをせがまれた時も同じ。「お母さんは今、お片づけをしているからちょっと待っていてね」と声をかけてから、台所に入ってしまいます。泣きわめいてもそのままにして、10分ほどたってから出て行って「はるちゃん、お待たせ」と両手を差し出します。でも敵もさるもの、すねて寄ってこない。「じゃあ、いいのね」私が台所に戻りかけると、ギャーギャー大泣き。そこで手を差し伸べると、飛びついてきました。こうしたことを繰返していくうちに「待っていてね」と声をかけると、ちゃんと待っていられるようになりました。長時間ワーワーギャーギャー泣き叫ぶのを聞いていると、抱いてやるほうがどんなに楽かと、何度思ったかしれません。でも負けてしまうと、「泣いたり、ごねたりすれば、なんでもいうことを聞いてもらえる」と親をなめるようになってしまいます。スーパーへ買い物に行った時もそうです。買い物中に「ジュースが欲しい」と泣き叫ぶことがあります。その場で買い与えれば泣きやむわけですが、私は「お買い物がすんでからね」と言い聞かせるだけで、そのままにしていました。とにかく、「あなたのいいなりにはなりません」ということを教えないといけないのですから。すると子どもはしだいに、泣いても言うことを聞いてもらえないということを自覚するようになりました。ミルクを飲まないときは、「次はお昼まで飲めないよ、それでいいの」と言い聞かせ、その間で「おなかがすいた」といっても飲ませません。はじめは目に涙をいっぱいためて抗議をしていましたが、泣いても無駄だと分かってから、口元に少し力を入れてモグモグ。ミルクを吸うまねなのです。そうやって、けなげに耐えている様子を見ていると、子供心にも我慢することを理解してくれたようで、嬉しくなります。私はダメという場合は、ちゃんとその理由を言葉で説明するようにしています。そして約束したことはどんな小さなことでもきちんと守ります。「ミルクを作ってくるから少し待っていてね」と事前に説明し、その通りにすることで、最初泣き叫んでいた子どもも「お母さんはミルクを持って必ず私のところに来てくれる」ことを学習します。我慢することと同時に、人を信頼する基礎が培われるわけです。自分の思い通りにならないことがあるということを自覚できることは大変重要なことです。我慢することができるようになった子どもは、一つの能力を獲得したのだと思います。この能力を持って大人になった子どもは柔軟性があります。人との調和、調整能力としていきてきます。こういう人がリーダーとして活躍できるのだと思います。そして現実、現状、事実を受け入れることにつながります。それは神経症とは無縁の世界に身をおくことにつながります。(今日を生きる 大平光代 中公文庫より引用)
2024.08.07
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2日前からの続きです。フランクルの危機を脱出した人の特徴の3番目は次のようなものです。強制収容所では、自分も飢餓状態なのに、仲間に自分のパンを与え、絶えず温かい言葉をかけ続けた人がいたというのです。自己中心的な言動をとる人よりも、相手のことを思いやる気持ちを持っていた人のほうが生還には有利に働いていた。そして悲しいことですが、極限状態の人間は天使と悪魔に分かれてしまったと指摘している。さて、生きとし生けるものは、自分の生命を長生きさせることと子孫を残すことが最大のミッションであると言われています。その目的追及のためには、すべての生き物は自己中心的にならざるを得ません。相手の気持ちを忖度し過ぎると、すぐに足元をすくわれて、自らの生存を危うくする。しかし自己中心性が強くなり過ぎると、対立や紛争を生み出し、逆に生き延びることは極めて危うくなるというのも事実です。そのジレンマの狭間で苦悩しているのが人間の姿です。この問題を考える上でアドラーの共同体意識と孤独感の話が参考になります。アドラーはある集団の一員であるという感覚は、孤独感を癒し、心の安定をもたらすという。集談会に参加する人の中には、ほとんど発言しない人がいます。他の参加者の話を黙って聞いていることが多い人です。その方に聞いてみると、参加するだけで、その後1週間くらい精神が安定するということでした。学習仲間の輪に加わっているだけで孤独から逃れることができるのだと思われます。健康的な心の状態は、孤立することを避けて、絶えず社会との接点を模索することの中で成り立っているのかもしれません。岡田尊司氏によると、愛着障害を克服するためには、一つには、家族以外の人のなかから「心の安全基地」となりうる人を見つけることが大切になると言われています。自分を温かく迎え入れてくれ信頼できる人を見つけることです。集談会に参加している人は「心の安全基地」を確保している人が多いように思います。ここで岡田氏はもうひとつ重要なことを指摘している。自分のほうからも問題を抱えている人、あるいはペットでも観葉植物でも草花でも何でもいいのですが、「心の安全基地」となるべく努力をすることだと言われています。つまり、相手の悩みを聞いてあげたり、積極的に世話活動に取り組むということです。この2つに取り組むことで精神的な安定が保たれると指摘している。さて、「人の為に尽くす」というのは本音ではなく建て前であることが多い。建前でいくら叱咤激励しても途中で息切れしてしまいます。この関係を見直すことができれば、精神的な安定感をもたらすことが可能となります。これは「相手の為に尽くす」という行動を自分が取り組むべき課題にしてしまうということです。これは料理を提供する場合で考えてみるとよく分かります。値段に見合った料理を提供するというのは当たり前のことです。お客様の期待値以下の料理を出すと、低評価となりリピート客はやって来なくなります。お客様が想像していた通りの味、彩り、盛り付け、価格だと不平不満は起きないはずです。お客様はある程度は納得します。但しリピート客になるかどうかは不明です。次の段階として、行列ができる店、予約が取れない店があります。辺鄙なところでもネットで探してわざわざお客さんがやってきてくれる。こういうお店はとにかく味が群を抜いている。ここでしか食べられない。コストパフォーマンスが圧倒的である。ついお持ち帰りもしたくなる。つい知らない人に教えてあげたくなるようなお店です。こういうお店は、お客様に期待値以上の大きな驚きや感動を与えている。料理を提供する人は、お客様の喜ぶ姿を見るのが三度の飯よりもうれしい。来てくれたお客様をうれし涙を出すほど感動させたいと思っている。そういう目標を持って日々料理作りに向き合っている。その目的を達成するためには、どんな努力もいとわない。この段階になると、本音と建前が一致することになります。本音で生きている人は、積極的、生産的、建設的、創造的な生き方ができるようになり、精神状態は安定してきます。
2024.08.06
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昨日の続きです。2は心のよりどころとなる精神的支柱を確立している人です。フランクルは過酷な強制収容所で祈りや礼拝を欠かさない人に注目しています。殺伐とした日々の中で、祈ることを忘れず、感謝することを忘れない精神の持ち主は、生きのびる確率が高かったのです。医療の世界でも、特定宗教の信仰を持ったり、特定の信仰はなくても、人間を越えた崇高な何か(スピリチュアリティ)のつながりを大切にする人のほうが、そうでない人よりも、寿命が長いことが多いとしばしば指摘されます。収容所の生活では、さらにはっきりとこの事実が示されたのです。精神性が高く、豊かな人は、どんな状況にあっても、それに支配され押しつぶされてしまうことがなく、内面的な精神の自由さと豊かさという「もう一つの世界」への通路が開かれていたからである。(100分で名著 フランクル 夜と霧 諸富祥彦 要旨引用)ここで考えてみたいことは、森田理論が精神的支柱になりえるのかどうかということです。私は森田理論が神経症を治すという側面は、森田の理論体系全体から見るとごく一部ではないかと考えています。残りの部分は神経質性格を持っている人の生き方や指針を具体的に提示している部分が大きいと思います。私たちは森田を学ぶ前は神経症以外にも生きづらさを抱えて苦しんでいました。そしてアリ地獄の底に落ちたような状態のときに森田理論に出会いました。そして多くのことを学びました。たとえば、不安には役割がある。不安には現実的な不安と神経症的な不安がある。森田理論学習によって、不安と欲望の関係が理解できました。そしてまた欲望の暴走は身の破滅を招くことを学びました。次に、人間は言葉をあやつり、大脳の前頭前野が発達したため、物事を観念で処理するようになりました。現実や事実を軽視、無視するようになり葛藤や苦悩でのたうち回るようになってきました。その他森田理論学習により、神経質の性格特徴、感情の法則、認識の誤り、行動の原則などを学びました。「あるがまま」「純な心」に代表されるような森田的な考え方や生き方を学びました。物の性を尽くす、己の性を尽くす、他人の性を尽くす、時間の性を尽くす、お金の性を尽くすことも学びました。変化への対応、バランスや調和を重視する考え方や生き方も学びました。それから波及して、仕事との付き合い方、日常生活の取り組み方、人間関係の改善方法、子育ての取り組み方、心身の健康維持などについても学びました。それ以外にも学んだことは数多くあります。これらの考え方は私たちの血となり肉となってきました。今では多くの人が仕事や生活に応用・活用しています。これらは森田理論を深耕した人の精神的支柱となっているのではないでしょうか。森田の理論学習を続けてきたおかげで、将来に展望が持てるようになりました。人生90年時代に突入していますが、悩みを抱えることはあっても、苦悩でのたうち回ることはないと思えるようになりました。
2024.08.05
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ナチの強制収容所から生還を果たしたフランクルは、極限状態を生き延びた人を分析して、その特徴を3点をあげています。この3つの特徴を森田理論で考えてみたいと思います。1、未来に対して目標や夢や希望を持ち続けていた人。2、人に生きる力を与え、過酷な状況にあっても生き長らえるためには、肉体の頑強さでも、世渡りのうまさなどではなく、心のよりどころとなりえる精神的支柱を持っていた人だった。信仰を持っていたり、その人独自の人生観を確立していた人であった。3、飢餓状態の中で、相手のことを思いやる精神的余裕をもっていた人である。仲間に自分のパンを与え、あたたかい励ましの言葉をかけ続けていた人である。自己中心的な人は一時的には生存に有利に見えるが、生還を果たすことを難しくしていた。悲しいかな人間は極限状態に置かれると、天使と悪魔に分かれてしまうのです。1についてですが、フランクルは絶望して希望の見えない二人の人に次のように助言している。あなたには、あなたのことを待っている誰かが、どこかにいませんか。あるいは、あなたによって実現することが待たれている何かが、ありはしないでしょうか。たとえば、やり残している仕事、あなたがいなければ実現されることのない何かがあるのではありませんか。よく探してみて下さい。あなたを必要としている誰かがいるはずです。あなたを必要としている何かがあるはずです。すると二人はしばらく考え、一人は、自分には外国に子供が一人いる。その子は自分を待っているはずだ。もし自分が死ねばその子は肉親が一人もこの世にいない子になってしまう、と答えました。もう一人は、自分は科学者であり、書きかけの著作の原稿がある。それはシリーズであり、それが完成するまでは死ぬに死ねない思いがある、と答えました。二人とも、自分を待っている何か(誰か)がこの世にあることに気づくことで自殺を思いとどまったのです。私たちは、生きるというのはあくまでも自分の意志の問題であり、あたかも自分の内部から湧いてくるもののように考えがちですが、実際にはそうではないことが多いのです。人間という存在の本質は、自分でない誰か、自分ではない何かとのつながりによって生きる力を得ているところにあります。自分を待っている何か(仕事)、自分を待っている誰かとのつながりを意識した人は、けっしてみずからの生命を絶つことはない、とフランクルは言っています。(100分で名著 フランクル 夜と霧 諸富祥彦 要旨引用)これは森田理論でいうと「生の欲望の発揮」ということになります。「生の欲望の発揮」は難しい言葉のように思えますが、その基本は日常生活を規則正しくものそのものになりきることだと思っております。2は明日の投稿といたします。
2024.08.04
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「人」と「為」をくっつけると、「偽」(いつわり)という字になります。「他人の為に尽くす」ことが「いつわり」というのはどういうことでしょうか。また、「小さな親切大きなお世話だ」と反発されることもあります。人の為に尽くすことが、相手の役に立っていない。反対に親切の押しつけになっているというのはどういうことでしょうか。これでは人の為に誠心誠意努力している人も相手も浮かばれません。これに関して森田先生は次のように説明されている。およそ自分が善人として、周囲の人から認められるためには、人が自分に対して、気兼ねし遠慮しようが、うるさく面倒がろうが、人の迷惑はどうでもよいということになる。これに反して、人を気軽く便利に、幸せにするためには、自分が少々悪く思われ、間抜けと見下げられても、そんなことは、どうでもよいというふうに、大胆になれば、はじめて人からも愛され、善人ともなるのである。つまり自分で善人になろうとする理想主義は、私のいわゆる思想の矛盾で、反対の悪人になり、自分が悪人になれば、かえって善人になるのである。(森田全集第5巻 205ページ)森田先生は「相手の為に尽くそう」という理想主義から出発すると、相手にとってはありがた迷惑になると言われている。理想主義から出発して、親切の押売りをしてはならないと言われています。どうしてそのようなちぐはぐなことが起きるのか。それは相手が欲しいもの、求めているものがよく見えていないからだと思います。闇夜で鉄砲を撃つようなもので的がはずれているということです。相手に尽くす前に、相手の話に耳を傾けて、相手の気持ちや関心事を掴むという基本動作ができていない。自分の頭で考えた援助をすれば、相手はきっと喜ぶはずだと勝手に決めつけているのです。的の外れた助言や援助はありがた迷惑となり、反発されることもある。逆に相手の気持ちや欲求に合致した援助ほどありがたいものはありません。涙が出るほどうれしいし、お礼をしたくなります。感謝されます。人の為に役に立つことをしようと思ったら、相手の状況確認が欠かせないということになります。森田では、傾聴、共感、受容、許容を重視しています。但し、相手の気持ちや欲求が理解できても、性急に援助の手を差し伸べることは考えものです。なぜなら、のべつ幕なしに援助の手を差し伸べていると、相手の成功体験の機会をことごとく摘み取ってしまうからです。相手が右往左往して、自分一人の力では改善することが難しいとき、援助の手を差し伸べると相手にとってはとてもありがたいものとなります。
2024.08.03
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小学生の「月刊教材」の中にこんなことが書いてある。鉢仕立ての朝顔の絵がカラーで描かれており、細い支柱が中心に立っていて、そこに朝顔の蔓が時計回りに巻き付いている。この絵の中に間違いがあるので、本物と比べて答えなさいというものだ。そういいながら、次のページに答えが載っている。それによると正解は、次の3つであるという。1、 蔓の巻きかたが反対2、 花は下から咲いてくるので花の下に蕾があることはない3、 一株の朝顔に違う色の花は咲かない。藤田英夫さんが実際に調べてみた。確かに蔓の巻き方はその通りだった。花の色については、淡いピンクとほとんど白といえる花が咲いていた。花の咲く順序も違っていた。咲いている花の根元よりに蕾があった。数日するとそのつぼみが見事に咲いた。教材に書いてあるということと事実が違うということはどういう意味があるのだろうか。藤田さんは、これが問題として出題された場合、自分の目で見た観察は間違いと判定されてしまうことが問題だといわれる。敷衍して言うと、観察などはしなくてもよい。正解を次のページにのせているので、それを覚えればよいのだということになる。自分の目で見て、手に触れて実感したもの、それこそは、その子にとって忘れることのできないもの、かけがいのないものである。自分が確かだと掴んだそのような事実が否定されてしまうことは、やがては自分自身への否定につながっていくことになりはしないか。この朝顔の話は、このことに真っ向から反対の立場をとっています。この場合には答えを載せずに、生徒たちに自分たちが観察した結果をそれぞれ発表してもらう。蔓の巻き方はどちら向きでしたか。花は単色でしたか。蕾は上の方だけにありましたか。などと聞いてゆけばいろんな観察結果が出てくるのではないでしょうか。(人間力をフリーズさせているものの正体 藤田英夫 シンポジオン参照) 1923年(大正12年)9月1日、午前11時58分に関東大地震が発生した。震源は相模湾でマグニチュードは7.9、その後7.3の地震がたて続けに発生している。森田先生はその時の様子を実際に自らの目で詳細に記述されている。(森田全集第7巻の309ページから342ページ)根も葉もない流言飛語が発生して社会が混乱した。その内容は、外国人が大挙して襲来し、一部のものと共謀し、爆弾を仕掛け、火をつける。井戸に毒薬を投げ込み、略奪、殺人など、あらゆる悪事を働いているというものだった。横浜あたりから発生し、1日か2日で東京、神奈川、埼玉、千葉、群馬などに拡がった。流言飛語は、同じ境遇にある群衆が、ある事変に当面して感情が興奮し、精神不安になっている時には、何かちょっとしたことがあってもそれをひどく感じ、あるいは、まったく根も葉もないことまで感情的にそれを受け入れて、実際にあるかのように感じるものである。流言飛語は群集の気分と意向に合致したものだけが広まる。このような混乱に巻き込まれたときは、森田先生のように現地に赴き自分の目で事実を正しく観察することで間違った行動を防ぐことができる。
2024.08.02
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加藤隆行氏のお話です。自己肯定感が低くなってしまっているのは、自己「否定」グセがあるからです。だから、そのクセを上書きしてあげます。「否定」するのをできるだけやめて、「肯定」するクセに変えていくのです。あらゆる自分の行動、思考、感情に「肯定=OK」を出す練習です。実施するときのポイントは次の4つです。1、いい悪いで判断せず、とにかく全肯定する。2、「OK」を出すハードルを地べたまで下げる。赤ちゃんを褒めるようなレベルまで下げる。3、ムリをせず、気が向いたときや、気分のいいときに楽しんでやる。4、自己否定やネガティブな感情こそ、「それに気づいてOK」出す。(会社に行きたくないと泣いていた僕が無敵になった理由 加藤隆行 小学館 71ページ)否定語を頻繁に口にしている人は多いように思います。そしてそのことに関しては無自覚です。そういう傾向のある人は周囲の人を憂うつにさせます。それを自覚するには配偶者や親しい友人、集談会の仲間に教えてもらう。あるいは自分の会話を録音して後で聞いてみるとよく分かります。私は採点付きカラオケで歌唱している自分の姿をビデオにとってあとで見ました。「ひどい」「だめだ」「下手だ」「救いようがない」という言葉を頻繁に使っていたことがよく分かりました。西田文郎氏は、脳は最後にインプットしたことを記憶するという特徴があると言われています。森田では「外相ととのえば内相自ずから熟す」と言います。否定語を口にしたことを意識したら「今のは取り消します」「今のはなし」と肯定語に置き換えてしまうことはできます。よい習慣は3ヶ月継続すると自分のものにする事ができます。何も考えなくても身体が自然に反応するようになります。否定語の一例・・・ダメだ、イヤだ、ムリだ、つらい、しんどい、面倒だ、憂うつだ、恥ずかしい、運がない、後悔だらけだ、もっと頑張れ、ミスをした、失敗した、親の教育が悪かった肯定語の一例・・・おもしろい、愉快だ、ワクワクする、いいぞ、大丈夫、ツイている、うれしい、楽しい、できるかも、面白そう、いいことが起きそうだ、ドキドキする、ワクワクする、挑戦してみたい、前途洋洋だ関連記事のご紹介・・・2022年10月1日「イエス・バット法」の活用パソコンの前が狭くて困っていました。スライド式の台を二つ置くことでこの悩みは解消しました。キーボードを使わないときは下の台のなかに収納できます。下の台と上の台の間に本を置くとページを押さえる手間がなくなりました。上の台は物置として活用しています。ZOOM会議の時は上の台は片づけています。視界良好となります。こんな発見で感動できる私は幸せ者です。
2024.08.01
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