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"利休忌"(りきゅう-き)千利休(せんのりきゆう)の忌日。陰暦二月二八日。[季]春。---------------AND..."千利休"(せん-の-りきゅう)(1522-1591) 安土桃山時代の茶人。千家流茶道の開祖。和泉国堺の人。法名は宗易。村田珠光相伝の侘茶(わびちや)を武野紹鴎(じようおう)に学ぶ。茶器および諸道具に工夫をこらし、簡素・清浄な茶道を大成。織田信長・豊臣秀吉に仕えて御茶頭(おさどう)となり、天下一の宗匠と評される。政治にも参画するに至ったが、秀吉の怒りを買い自刃を命じられた。---------------「朝はどこから」森まさる作詞・橋本国彦作曲/昭21♪~♪朝はどこから 来るかしらあの空越えて 雲越えて光の国から 来るかしらいえいえ そうではありませぬそれは 希望の家庭から朝が来る来る 朝が来る「おはよう」「おはよう」昼はどこから 来るかしらあの山越えて 野を越えてねんねの里から 来るかしらいえいえ そうではありませぬそれは 働く家庭から昼が来る来る 昼が来る「今日は」「今日は」夜はどこから 来るかしらあの星越えて 月越えてお伽(とぎ)の国から 来るかしらいえいえ そうではありませぬそれは 楽しい家庭から夜が来る来る 夜が来る「今晩は」「今晩は」--------From Where does a human being come????(^何処^)
2006年02月28日
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"17日間のトリノ五輪が閉幕"閉会式始まるASAHI-COM(2006年02月27日04時03分)yori第20回冬季五輪トリノ大会は26日夜(日本時間27日未明)、最終競技のアイスホッケー男子決勝で7競技、過去最多の全84種目を終了し、午後8時(日本時間27日午前4時)から閉会式が始まった。史上最多の80カ国・地域が参加した17日間に及ぶ大会が閉幕する。 国外開催では史上最多の112選手を送った日本選手団は、フィギュアスケート女子で荒川静香(プリンスホテル)が金メダルを獲得した。 次期冬季五輪は4年後、カナダのバンクーバーで開かれる。 ****************"君子は豹変する"出典/易経(えききょう)豹の毛が鮮やかに抜け代わるように、過ちを素直に認めて善に移ること。-------以下 "朝日新聞"(1999年2月21日朝刊)yori 「君子豹変す」という言葉がある。ころころと態度を変える……悪い意味で使われがちな言葉だが、本来は違う。豹の毛が季節に合わせて抜け変わり美しい斑文となることから、君子は時代の変化に合わせて自分を素早く的確に変えていけるとの意味である。そこから、君子はたとえ過ちを犯しても素早く善に立ち戻れるなどの意味も生まれた。一方、君子でない者はどうなのか。実は「君子豹変す」の後には「小人(しょうじん)は面(おもて)を革(あらた)む」と続く(『易経』)。小人も“変われる”が、それは「表面的なもの」にとどまるというのだ。以下 (略)-------"A wise man changes his mind; a fool never."(賢い人の心は変わるが、愚かな人の心は変わらない)-------"男と女のお話"久仁京介 作詞/水島正和 作曲♪~♪恋人にふられたのよくある話じゃないか世の中変わっているんだよ人の心も 変わるのさ淋しいならこの俺がつきあってあげてもいいよ涙なんかをみせるなよ恋はおしゃれな ゲームだよベッドで泣いてると涙が耳にはいるよむかしを忘れてしまうには素敵な恋を することさ男と女がため息ついているよ夜が終わればさようならのはかない恋の くりかえし-------鼻にかかった独特の声が魅力の日吉ミミのヒット曲desu.1970年の作品。*******"悪の華"(by Baudelaire)yori『曇り空』(五〇) おまえの眼差しには、靄(もや)がかかっているようだ。その神秘的な瞳は(色は、青か、緑か、灰か?)、大空のどんよりとした蒼白(そうはく)さを反映しつつ、優しくも、夢見がちにも、すげなくも見える。…… おまえ。思わせるのは、白い、温(ぬく)い、くすんだ日々。すなわち、未知の苦悩にかきみだされて 冴(さ)えた神経が、ねぼけた精神を嘲笑(あざわら)い、……憑(つ)かれた心が、涙に暮れる、そんな日々。おまえ。霧深い季節の太陽に照らされたあの美しい地平線に似ることもあり、……曇り空から漏れる光線に燃えたち、輝きもする、おまえ、湿った景色よ!おお、危険な女性、魅惑の風土よ!おまえの雪を、霜をも、私は愛せるだろうか。そして、氷や剣よりもはるかに鋭利な快楽をこの苛烈な冬から引き出せるだろうか?*******Does your decision "correct" to pick out,dosn't it???I keep my-finger cross!!!(^変^)
2006年02月27日
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AND...------"鐵道唱歌"(第五集)(關西參宮南海各線)♪~♪一 汽車をたよりに思ひ立つ伊勢や大和の國めぐり網島いでゝ關西の線路を旅の始にて 二 造幣局の朝ざくら櫻の宮の夕すゞみなごりを跡に見かへれば城の天守も霞みゆく 三 咲くや菜種の放出も過ぎて徳庵往の道窓より近き生駒山手に取る如く聳えたり四 四條畷に仰ぎみる小楠公の宮どころながれも清き菊水の旗風いまも香らせて五 心の花も櫻井の父の遺訓を身にしめて引きは返さぬ武士の戰死のあとは此土地よ 六 飯盛山をあとにして星田すぐれば津田の里倉治の桃の色ふかく源氏の瀧の音たかし 七 柞の森と歌によむ祝園すぎて新木津の左は京都右は奈良奈良は歸りに殘さまし八 京都の道に名を得たる驛は玉水宇治木幡佐々木四郎の先陣に知られし川もわたるなり九 共仁の都の跡と聞く加茂を出づれば左には木津川しろく流れたり晒せる布の如くにて一〇 川のあなたにながめゆく笠置の山は元弘の宮居の跡と聞くからにふるは涙か村雨か 一一 水をはなれて六丈の高さをわたる鐵の橋すぐればこゝぞ大河原河原の岩のけしきよさ 一二 上野は伊賀の都會の地春はこゝより汽車おりて影もおぼろの月が瀬に梅みる人の數おほし一三 月は姥捨須磨明石花はみよしの嵐山天下一つの梅林ときこえし名所は此山ぞ 一四 伊賀燒いづる佐那具の地芭蕉うまれし柘植の驛線路左にわかるれば迷はぬ道は草津まで一五 鈴鹿の山のトン子ルをくぐれば早も伊勢の國筆捨山の風景を見よや關より汽車おりて一六 愛知逢坂鈴鹿とて三つの關所と呼ばれたるむかしの跡は知らぬども關の地藏は寺ふるし 一七 巖にあそぶ龜山の左は尾張名古屋線道にすぎゆく四日市舟の煙や絶えざらん一八 萬古の燒と蛤に其名知られし桑名町日も長島の西東揖斐と木曾との川長し 一九 龜山城をあとにして一身田も夢のまに走ればきたる津の町は參宮鐵道起点の地二〇 町の社に祭らるゝ神は結城の宗廣ときこえし南朝忠義の士まもるか今も君が代を 二一 阿漕が浦に引く網の名も高茶屋の雲出川わたりながらも眺めやる桃のさかりやいかならん二二 木綿産地の松坂は本居翁の墳墓の地國學界の泰斗としあふがぬ人はよもあらじ二三 田丸の驛に程ちかき齋宮村は齋王のむかし下りて此國に住ませ給ひし御所の跡二四 轟きわたる宮川の土手の櫻の花ざかり雲か霞か白雪かにほはぬ色の波もなし二五 伊勢の外宮のおはします山田に汽車は着きにけり參詣いそげ吾友よ五十鈴の川に御祓して二六 五十鈴の川の宇治橋をわたればこゝぞ天照す皇大神の宮どころ千木たかしりて立ち給ふ 二七 神路の山の木々あをく御裳濯川の水きよし御威は盡きじ千代かけていづる朝日ともろともに 二八 伊勢と志摩とにまたがりて雲井に立てる朝熊山のぼれば冨士の高嶺まで語り答ふるばかりにて 二九 下りは道を踏みかへて見るや二見の二つ岩畫に見しまゝの姿にて立つもなつかし海原に 三〇 今ぞめでたく參宮をすまして跡に立ちかへる汽車は加茂より乘りかへて奈良の都をめぐりみん 三一 はや遠ざかる奈良の町帶解寺も打ちすぎて渡るながれは布留の川石の上とはここなれや三二 都のあとを教へよといへど答へぬ賤の男が歸るそなたの丹波市布留の社に道ちかし 三三 三輪の杉むら過ぎがてになくか昔のほとゝぎす今は青葉の櫻井に着きたる汽車の速かさ三四 こゝよりおりて程ちかき長谷の觀音ふし拜み雄略帝が朝倉の宮の遺跡もたづねみん 三五 初瀬列樹の宮のあと問はんとすれば日は落ちて初瀬の川の夕波にふくや初瀬の山おろし 三六 さぐる名所の樂しさに思はずのぼる多武の峰峰にかがやく鎌足の社のあたり花おほし 三七 櫻井いでてわが汽車は畝傍耳無香山の鼎に似たる三山を前後に見つゝ今ぞゆく三八 畝傍の麓橿原に始めて都したまひし御威も高き大君が御陵をがめ人々よ三九 高田わかれて右ゆけば河内に走る線路あり路にすぎゆく柏原の名高き寺は道明寺四〇 右の窓よりながめやる葛城山の南には楠氏の城に名を擧げし金剛山もつゞきたり 四一 新庄御所を打ちすぎて掖上ゆけば神武帝國を蜻蛉と宣ひし慊間の丘ぞ仰がるゝ四二 終れば起る鐵道の南和と紀和の繋口五條すぐれば隅田より紀伊の境に入りにけり 四三 瞬くひまに橋本と叫ぶ驛夫に道とへば紀の川わたり九度山をすぎて三里ぞ高野まで 四四 弘法大師この山をひらきしよりは千餘年蜩ひびく骨堂のあたりは夏も風さむし 四五 木隠をぐらき不動坂夕露しげき女人堂みれば心もおのづから塵の浮世を離れけり 四六 ふたゝび渡る紀の川の水上とほく雲ならで立てるは花の吉野山見て來んものを春ならば 四七 あはれ暫は南朝の假の皇居となりたりし吉水院の月のかげ曇るか今も夜な夜なは 四八 夕べ悲しき梟の聲より猶も身にしむは如意輪堂の寶藏にのこる鏃の文字の跡 四九 親のめぐみの粉河より又乘る汽車は紀和の線船戸田井の瀬うちすぎて和歌山みえし嬉しさよ五〇 紀の川口の和歌山は南海一の都會にて宮は日前國懸旅の心の名草山 五一 紀三井寺より見わたせば和歌の浦波しづかにてこぎゆく海士の釣船はうかぶ木の葉か笹の葉か 五二 蘆邊のあしの夕風に散り來る露の玉津島苫が島には燈臺の光ぞ夜は美しき 五三 密柑のいづる有田村鐘の名ひゞく道成寺紀州名所は多けれど道の遠きを如何にせん 五四 みかへる跡に立ちのこる城の天守の白壁は茂れる松の木の間よりいつまで吾を送るらん 五五 北口いでて走りゆく南海線の道すがら窓に親しむ朝風の深日はこゝよ夢のまに五六 尾崎に立てる本願寺樽井にちかき躑躅山やまず來て見ん春ふけて花うつくしく咲く頃は五七 佐野の松原貫之が歌に知られし蟻通蟻のおもひにあらねどもとゞく願は汽車の恩五八 貝塚いでしかひありてはや岸和田の城の跡こゝは大津かいざゝらばおりて信太の楠も見ん五九 かけじや袖とよみおきしその名高師が濱の波よする濱寺あとに見てゆけば湊は早前に 六〇 堺の濱の風景に旅の心もうばはれて汽車のいづるも忘れたり霞むはそれか淡路島六一 段通刄物の名産に心のこして又も來ん沖に鯛つる花の春磯に舟こぐ月の秋 六二 蘇鐵に名ある古寺の話きゝつゝ大和川渡ればあれに住吉の松も燈籠も近づきぬ六三 遠里小野の夕あらしふくや安倍野の松かげに顯家父子の社あり忠死のあとは何方ぞ 六四 治まる御代の天下茶屋さわがぬ波の難波驛いさみて出づる旅人の心はあとに殘れども --------Take it easy,Try another world!!!!----(^旅^)
2006年02月26日
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流され侍《はべり》ける時、家の梅の花を見侍て 贈太政大臣 "東風《こち》吹かばにほひをこせよ梅の花 主《あるじ》なしとて春を忘るな"『拾遺和歌集』巻第十六・雑春・1006--------口語訳流された時、家の梅の花を見て 贈太政大臣 東から春風が吹く時期になれば、香りを(風に乗せて、西の果て九州の地まで)送り寄こしなさい、梅の花よ主人がいないからと言って、春を忘れるなよ -----ABOUT"菅原道真"(すがわら-のみちざね)(845-903) 平安前期の学者・政治家。是善の子。菅公(かんこう)・菅丞相(しようじよう)と称される。宇多・醍醐両天皇に重用され、文章博士・蔵人頭などを歴任、右大臣に至る。この間894年遣唐大使に任命されたが建議して廃止。901年藤原時平の讒訴(ざんそ)で大宰権帥に左遷、翌々年配所で没した。性謹厳にして至誠、漢詩・和歌・書をよくし、没後学問の神天満天神としてまつられた。「類聚国史」を編し、「三代実録」の編纂(へんさん)参与。詩文集「菅家文草」「菅家後集」----------"鐵道唱歌"(第四集)(北陸地方編)♪~♪一 車輪のひびき笛の聲みかへる跡に消えて行く上野の森の朝月夜田端は露もまださむし 二 見あぐる岸は諏訪の臺それにつゞきて秋の夜は道灌山の虫のねをこゝまで風や送るらん 三 見よや王子の製紙塲はや窓ちかく來りたりすきだす紙の年にます國家の富もいくばくぞ四 春はさくらの飛鳥山秋は紅葉の瀧の川運動會の旗たてゝかける生徒のいさましさ 五 まもなくきたる赤羽は品川ゆきの乘替塲目白目黒の不動へもよれや序の道なれば 六 蕨すぐれば浦和にてその公園は調の宮埼玉縣の縣廳もこの地にこそは置かれたれ七 大宮おりて八九町ゆけば氷川の公園地園は螢に名も高く宮は武藏の一の宮八 上尾桶川鴻の巣に近き吉見の百穴は古代穴居の人のあと見るも學びの一つなり九 吹上すぎてながめやる熊谷土手の花ざかり次郎直實生れたる村の名今につたへたり十 深谷本庄神保原左に雲のあひだよりみゆる秩父のふもとなる大宮までは馬車もあり十一 はや新町も倉賀野もまたゝくひまに行きすぎて今ぞ上州高崎の繁華の町につきにける十二 町の東北前橋へ汽車にてゆけば十五分群馬縣廳所在の地上野一の大都會 十三 若葉紅葉によしときく伊香保の温泉榛名山高崎よりは程ちかし避暑にも人のゆくところ 十四 みわたすかぎり青々と若葉波うつ桑畑山のおくまで養蠶のひらけしさまの忙がしさ 十五 線路わかれて前橋のかたにすゝめば織物と製絲のわざに名も高き桐生足利とほからず十六 高崎いでゝ安中のつぎは磯部の温泉塲うしろをゆくは碓氷川まへに立てるは妙義山 十七 鉾か劍か鋸か獅子か猛虎か荒鷲か虚空に立てる岩のさま石門たかく雲をつく 十八 あとに見かへる松井田の松のみどりもかげきえてはや横川につきにけりおりよ人々水のみに 十九 これより音にきゝゐたる碓氷峠のアプト式齒車つけておりのぼる仕掛は外にたぐひなし 二十 くゞるトン子ル二十六ともし火うすく晝くらしいづれば天地うちはれて顔ふく風の心地よさ 二一 夏のあつさもわすれゆく旅のたもとの輕井澤はや信濃路のしるしとて見ゆる淺間の夕煙 二二 くだる道には追分の原とよばるゝ廣野あり桔梗かるかや女郎花秋の旅路はおもしろや 二三 御代田小諸とすぎゆけば左に來る千曲川立科山をながれ出て末は越後の海に入る 二四 諏訪の湖水をみる人は大屋をおりて和田峠こゆれば五里の道ぞかし山には馬も駕籠もあり二五 上田をあとに走りゆく汽車は坂城に早つきぬ川のあなたにながめやる山は姥捨月見堂二六 田毎の月の風景も見てゆかましを秋ならば雲をいたゞく冠著の山はひだりにそびえたり 二七 屋代篠井うちすぎてわたる千曲と犀川の間の土地をむかしより川中島と人はよぶ二八 こゝに龍虎のたゝかひをいとみし二人の英雄もおもへば今は夢のあとむせぶは水の聲ばかり 二九 長野に見ゆる大寺は是ぞしなのゝ善光寺むかし本田の善光がひろひし佛なりとかや三十 こゝにとゞまるひまあれば戸隠山にのぼり見ん飯綱の原のほとゝぎすなのる初音もきゝがてら 三一 豐野と牟禮と柏原ゆけば田口は早越後軒まで雪の降りつむときゝし高田はこゝなれや三二 雪にしるしの竿たてゝ道をしへしも此あたりふゞきの中にうめらるゝなやみはいかに冬の旅 三三 港にぎはふ直江津につきて見そむる海のかほ山のみなれし目には又沖の白帆ぞ珍しき三四 春日新田犀潟をすぐれば來る柿崎のしぶしぶ茶屋は親鸞の一夜宿りし跡と聞く 三五 鉢崎すぎて米山のくゞるトン子ル七つ八ついづれば廣きわたの原佐渡の國までくまもなし三六 みわたす空の青海川おりては汐もあみつべし石油のいづる柏崎これより海とわかれゆく三七 安田北條來迎寺宮内すぎて長岡の町は名たゝる繁花の地製油の烟そらにみつ三八 汽車の窓より西北にゆくゆく望む彌彦山宮は國幣中社にて參詣男女四時たえず三九 彌彦にゆくは三條におりよと人はをしへたり吾身は何も祈らねどいのるは君が御代のため四十 加茂には加茂の宮ありて木の間の鳥居いと清く矢代田驛の近くには金津の瀧の音たかし四一 十一年の御幸の日かたじけなくも御車をとゞめ給ひし松かげは今この里にさかえたり 四二 もみぢは新津秋葉山櫻は龜田通心寺わするな手荷物傘鞄はやこゝなるぞ沼垂は四三 おるればわたる信濃川かゝれる橋は萬代の名も君が代とときはにて長さは四百數十間 四四 川のかなたは新潟市舟ゆく水の便よくわたせる橋をかぞふればおよそ二百もありとかや 四五 春は白山公園地一つににほふ梅櫻夏は涼しき日和山鯛つる舟も目の前に 四六 汽船の煙海をそめ商家の軒は日をおほふげにも五港の一つとて戸數萬餘の大都會 四七 新潟港を舟出して海上わづか十八里佐渡に名高き鑛山を見てかへらんも益あらん四八 佐渡には眞野の山ふかく順徳院の御陵あり松ふく風は身にしみて袂しぼらぬ人もなし 四九 波路やすけく直江津にかへりてきけば越中の伏木にかよふ汽船ありいざ乘りかへて渡海せん五十 富山は越中繁華の地こゝよりおこる鐵道は加賀越前をつらぬきて東海道にであふなり五一 藥に名ある富山市は神通川の東岸はるかに望む立山は直立九千九百尺 五二 商業繁華の高岡をすぎて福岡石動の次に來るは津幡驛七尾にゆかば乘りかへよ五三 加賀越中の境なる倶梨伽羅山は義仲が五百の牛に火をつけて平家せめたる古戰塲 五四 津幡七尾の其間すぎゆく驛は八九箇所邑智の潟の青波にさをさす舟も羨まし 五五 七尾は能登の一都會入海ひろく舟おほしちかき輪島の温泉は町きよらかに客たえず 五六 津幡にかへり乘りかへてゆけば金澤ステーシヨン百万石の城下とてさすが賑ふ町のさま五七 名も兼六の公園は水戸岡山と諸共にかぞへられたる吾國の三公園の其一つ 五八 柳みどりに花赤くおちくる瀧の水白し雲にそびゆる銅像は西南役の紀念碑よ 五九 第九師團も縣廳も皆此町にあつまりて海の外までひゞきたるその産物は九谷燒 六十 松任美川うちすぎてわたる手取の川上に雪を常磐の白山は雲まにたかく聳えたり 六一 小松の北におとたかくながるゝ水は安宅川安宅の關は何くぞと問はば嵐やこたふらん六二 折りたく柴の動橋武士が帶びたる大聖寺こゝろ細呂木すぎゆけばいろはの金津むかへたり六三 三國港の海に入る日野川こえて福井驛こゝに織り出す羽二重は輸出の高も數千萬六四 大土呂鯖江あとにして武生鯖波はしりゆく汽車は今こそ今庄につきて燧の城も見つ六五 海のながめのたぐひなき杉津をいでてトン子ルに入ればあやしやいつのまに日はくれはてゝ暗なるぞ 六六 敦賀はげにもよき港おりて見てこん名どころを氣比の松原氣比の海官幣大社氣比の宮六七 身を勤王にたふしたる耕雲齋の碑をとへば松の木かげを指さしてあれと子供はをしへたり 六八 疋田柳瀬中の郷すぎゆく窓に仰ぎ見る山は近江の賤が嶽七本鎗の名も高し六九 豐太閤の名をとめし轡の森は木の本の地藏と共に人ぞ知る汽車の進みよ待てしばし 七十 縮緬山地の長濱にいでゝ見わたす琵琶の海大津にかよふ小蒸汽は煙ふきたて人をまつ七一 驛夫の聲におどろけば眠はさめて米原につきたる汽車の速かさみかへる伊吹雲ふかし 七二 おもへば汽車のできてより狹くなりたる國の内いでし上野の道かへていざやかへらん新橋に -----Would you like to go "梅見"???===(^梅^)
2006年02月26日
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"Turandot"プッチーニ最後の、そして未完に終ったオペラ「トゥーランドット」-----以下 SAHI-COM (2006年02月25日)"天声人語"yori 引用プッチーニの歌劇「トゥーランドット」の舞台は、昔々の中国の北京だ。そこの美しい姫の名前が"トゥーランドット"で、婿選びを巡って筋が展開する。姫が出す三つの謎を解かなければ、求婚者は殺される。ある国の王子がそれに挑む。「夜ごと生まれ朝には死んでしまうものは?」王子は「希望です」と答える。次は「偉大な行為を思うとき燃え上がり、死を思えば冷めるものは?」。「血です」。「あなたを燃やす氷は?」という最後の問いにも「トゥーランドット!」と正答する。今度は、王子が「私の名は?」と謎を出した。「答えられたら姫をあきらめるし、自分の命も捨てよう。期限は明朝……」(M・ルイス『三大テノール』)王子が自分の勝ちを確信して歌う曲が、トリノでフィギュアスケートの荒川静香選手が演技に使った「誰も寝てはならぬ」だ。立ち去れ、おお、夜よ急ぎ沈め、星々よ!星よ沈め! 夜明けに私は勝つ! 私は勝つ!荒川選手は、このメロディーに導かれるようにのびやかに滑り、跳び、そして勝った。しなやかに反り、あでやかに舞う。ひたむきで、しかも余裕すら感じさせた見事な金メダルの演技は、多くの人々の心に長く残るだろう。以下 略-------Could you answer it corect????(~謎~)
2006年02月25日
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春はきぬ...------"春の歌" by 島崎藤村(「若菜集」より)春はきぬ春はきぬ初音やさしきうぐひすよこぞに別離(わかれ)を告げよかし 谷間に残る白雪よ葬りかくせ去歳(こぞ)の冬春はきぬ 春はきぬ さみしくさむくことばなく まづしくくらくひかりなく みにくゝおもくちからなく かなしき冬よ行きねかし 春はきぬ 春はきぬ 浅みどりなる新草(にひぐさ)よ とほき野面(のもせ)を画(ゑが)けかし さきては紅(あか)き春花(はるばな)よ 樹々(きぎ)の梢を染めよかし 春はきぬ 春はきぬ 霞よ雲よ動(ゆる)ぎいで 氷れる空をあたゝめよ か花の香おくる春風よ 眠れる山を吹きさませ 春はきぬ 春はきぬ 春をよせくる朝汐(あさじほ)よ 蘆の枯葉(かれは)を洗ひ去れ 霞に酔へる雛鶴よ 若きあしたの空へ飛べ 春はきぬ 春はきぬ うれひの芹の根を絶えて 氷れるなみだ今いづこ つもれる雪の消えうせて けふの若菜と萌えよかし------------きものは仄(ほの)かな恋に似た、手触(てざわ)りの如くにて...------------"恋はやさし野辺の花よ"F.Zell、R.Genee 作詞/Franz von Suppe 作曲小林愛雄 訳詞♪~♪恋はやさしい 野辺の花よ夏の日のもとに 朽ちぬ花よ熱い思いを 胸にこめて疑いの霜を 冬にもおかせぬわが心の ただひとりよ胸にまことの 露がなけりゃ恋はすぐしぼむ 花のさだめ熱い思いを 胸にこめて疑いの霜を 冬にもおかせぬわが心の ただひとりよ-----"懸想"(けそう)(「けんそう」の撥音「ん」の無表記から)異性に思いをかけること。恋い慕うこと。「窃かにお鈴に―して/薄命のすず子(お室)」-----"鐵道唱歌"(第三集)(奥州線-磐城線)一 汽車は烟を噴き立てゝ今ぞ上野を出でゝゆくゆくへは何く陸奥の青森までも一飛に二 王子に着きて仰ぎみる森は花見し飛鳥山土器なげて遊びたる江戸の名所の其一つ三 赤羽すぎて打ちわたる名も荒川の鐵の橋その水上は秩父よりいでゝ墨田の川となる四 浦和に浦は無けれども大宮驛に宮ありて公園ひろく池ふかく夏のさかりも暑からず五 中山道と打わかれゆくや蓮田の花ざかり久喜栗橋の橋かけてわたるはこれぞ利根の川 六 末は銚子の海に入る板東太郎の名も高しみよや白帆の絶間なくのぼればくだる賑を 七 次に來るは古河間々田兩手ひろげて我汽車を萬歳と呼ぶ子供ありおもへば今日は日曜か八 小山をおりて右にゆく水戸と友部の線路には紬産地の結城あり櫻名所の岩瀬あり九 左にゆけば前橋を經て高崎に至るべし足利桐生伊勢崎は音に聞こえし養蠶地 一〇 金と石との小金井や石橋すぎて秋の田を立つや雀の宮鼓宇都宮にもつきにけり一一 いざ乘り替へん日光の線路これより分れたり二十五マイル走りなば一時半にて着くといふ一二 日光見ずは結構といふなといひし諺もおもひしらるゝ宮の様花か紅葉か金襴か 一三 東照宮の壯麗も三代廟の高大もみるまに一日日ぐらしの陽明門は是かとよ 一四 瀧は華嚴の音たかく百雷谷に吼え叫ぶ裏見霧降とりどりに雲よりおつる物すごさ 一五 又 立ちかへる宇都宮急げば早も西那須野こゝよりゆけば鹽原の温泉わづか五里あまり一六 霰たばしる篠原とうたひし跡の狩場の野たゞ見る薄女郎花殺生石はいづかたぞ 一七 東那須野の青嵐ふくや黒磯黒田原こゝは何くと白河の城の夕日は影赤し一八 秋風吹くと詠じたる關所の跡は此ところ會津の兵を官軍の討ちし維新の古戰場 一九 岩もる水の泉崎矢吹須賀川冬の來てむすぶ氷の郡山近き湖水は猪苗代こゝに起りて越後までつゞく岩越線路あり工事はいまだ半にて今は若松會津まで 二一 日和田本宮二本松安達が原の黒塚を見にゆく人は下車せよと案内記にもしるしたり二二 松川すぎてトン子ルをいづれば來る福島の町は縣廳所在の地板倉氏の舊城下 二三 しのぶもじずり摺り出だす石の名所も程近く米澤ゆきの鐵道は此町よりぞ分れたる 二四 長岡おりて飯坂の湯治にまはる人もあり越河こして白石ははや陸前の國と聞く 二五 末は東に入る阿武隈川も窓ちかく盡きぬ唱歌の聲あげて躍り來れるうれしさよ 二 岩沼驛のにぎはひは春と秋との馬の市千里の道に鞭うちてすゝむは誰ぞ國のため二七東北一の都會とて其名しられし仙臺市伊達政宗の築きたる城に師團は置かれたり 二八 阿武隈川の埋木も仙臺平の袴地も皆この土地の産物ぞみてゆけこゝも一日は 二九 愛宕の山の木々青く廣瀬の川の水白し櫻が岡の公園は花も若葉も月雪も 三〇 多賀の碑ほどちかき岩切おりて乘りかふる汽車は鹽竈千賀の浦いざ船よせよ松島に 三一 汽車に乘りても松島の話かしまし鹿島臺小牛田は神の宮ちかく 新田は沼のけしきよし三二 水は河瀬の石こしてさきちる波の花泉一の關より陸中ときけば南部の舊領地三三 阿部の貞任義家の戰ありし衣川金色堂を見る人はこゝにておりよ平泉 三四 すぎゆく驛は七つ八つ山おもしろく野は廣し北上川を右にしてつくは何くぞ盛岡市三五 羽二重おりと鐵瓶は市の産物と知られたり岩手の山の峰よりも南部の馬の名ぞ高き 三六 好摩川口沼宮内中山小鳥谷一の戸とすぎゆくまゝに變りゆく土地の言葉もおもしろや三七 尻内こせば打ちむれて遊ぶ野馬の古間木や今日ぞ始めて陸奥の海とは是かあの船は三八 野邊地の灣の左手に立てる岬は夏泊とまらぬ汽車のすゝみよく八甲田山も迎へたり三九 渚に近き湯野島を見つゝくゞれるトン子ルの先は野内か浦町か浦のけしきの晴れやかさ 四〇 勇む笛の音いそぐ人汽車は著きけり青森にむかしは陸路廿日道今は鐵道一晝夜 四一 津輕の瀬戸を中にして凾館までは二十四里ゆきかふ船の煙にも國のさかえは知られけり 四二 汽車のりかへて弘前にあそぶも旅の樂しみよ店にならぶは津輕塗空に立てるは津輕富士 四三 歸りは線路の道かへて海際づたひ進まんと仙臺すぎて馬市の岩沼よりぞ分れゆく四四 道は磐城をつらぬきて常陸にかゝる磐城線ながめはてなき海原は亞米利加までやつゞくらん四五 海にしばらく別れゆく小田の緑の中村は陶器産地と兼ねて聞く相馬の町をひかへたり 四六 中村いでゝ打ちわたる川は眞野川新田川原の町より歩行して妙見まうでや試みん四七 浪江なみうつ稲の穂の長塚すぎて豐なる里の富岡木戸廣野廣き海原みつゝゆく四八 しばしばくゞるトン子ルを出てはながむる浦の波岩には休む鴎あり沖には渡る白帆あり 四九 君が八千代の久の濱木奴美が浦の波ちかくをさまる國の平町並が岡のけしきよし五〇 綴湯本をあとにしてゆくや泉の驛の傍しるべの札の文字みれば小名濱までは道一里五一 道もせに散る花よりも世に芳ばしき名を留めし八幡太郎が歌のあと勿來の關も見てゆかん五二 關本おりて平潟の港にやどる人もあり岩の中道ふみわけて磯うつ波も聞きがてら五三 あひて別れて別れてはまたあふ海と磯の松磯原すぎて高萩に假るや旅寢の高枕 五四 助川さして潮あびにゆけや下孫孫も子も驛夫の聲におどろけばいつしか水戸は來りたり五五 三家の中に勤王のその名知られし水戸の藩わするな義公が撰びたる大日本史のその功 五六 文武の道を弘めたる弘道館の跡とへばのこる千本の梅が香は雪の下よりにほふなり 五七 つれだつ旅の友部よりわかるゝ道は小山線石岡よりは歌によむ志筑の田井も程ちかし五八 間もなく來る土浦の岸を浸せる水海は霞ヶ浦の名も廣く汽船の笛の音たえず五九 雲井の空に耳二つ立てたる駒の如くにてみゆる高嶺は男體と女體そびゆる筑波山六〇 峰にのぼれば地圖一つひろげし如く見えわたる常陸の國のこゝかしこ利根のながれの末までも六一 松戸をおりて國府の臺ゆけば一里に足らぬ道眞間の手兒名が跡といふ寺も入江ものこるなり 六二 車輪のめぐり速に千住大橋右に見て環の端の限なくふたゝびもどる田端驛六三 むかしは鬼の住家とて人のおそれし陸奥のはてまでゆきて時の間にかへる事こそめでたけれ六四 いはへ人々鐵道のひらけし時に逢へる身を上野の山もひゞくまで鐵道唱歌の聲立てゝ ------Could you take a KIMONO,....(^着^)
2006年02月25日
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"Noblesse Oblige"「高貴なる者(身分の高い者)の果たすべき重責」---"矜持"(きょうじ)自信と誇り。自信や誇りを持って、堂々と振る舞うこと。きんじ。プライド(proper) pride.「学生としての―を持て」----"惻隠"(そくいん)かわいそうに思うこと。あわれむこと。「―の情」-----cont.-----"鐵道唱歌"(第貳集) (山陽、九州)一 夏なほ寒き布引の瀧のひゞきをあとにして神戸の里を立ちいづる山陽線路の汽車の道 二 兵庫鷹取須磨の浦名所舊蹟かずおほし平家の若武者敦盛(あつもり)が討たれし跡もこゝと聞く 三 その最期まで携へて青葉の笛は須磨寺に今ものこりて寶物の中にあるこそあはれなれ 四 九郎判官義経が敵陣めがけておとしたる鵯(ひよどり)越やいちのたに皆この名所の内ぞかし 五 舞子の松の木の間よりまぢかく見ゆる淡路島夜は岩屋の燈臺も手に取る如く影あかし 六 明石の浦の風景を歌によみたる人麿の社はこれか島がくれこぎゆく舟もおもしろや 七 加古川おりて旅人の立ちよる陰は高砂の松のあらしに傳へくる鐘も名だかき尾上寺 八 阿彌陀は寺の音に聞き姫路は城の名にひゞくこゝより支線に乘りかへてゆけば生野は二時間餘九 那波の驛から西南一里はなれて赤穂あり四十七士が仕へたる淺野内匠の城のあと十 播磨すぐれば燒物の名に聞く備前の岡山にこれも名物吉備團子津山へ行くは乘かへよ十一 水戸と金澤岡山と天下に三つの公園地後楽園も見てゆかん國へ話のみやげには 十二 靈驗今にいちじるく讃岐の國に鎭座ある金刀比羅宮に參るには玉島港より汽船あり 十三 疊おもての備後には福山町ぞ賑はしき城の石垣むしのこす苔にむかしの忍ばれて 十四 武士が手に巻く鞆の浦こゝよりゆけば道三里仙醉島を前にして煙にぎはふ海士の里 十五 浄土西國千光寺寺の名たかき尾道港を窓の下に見て汽車の眠もさめにけり十六 絲崎三原海田市すぎて今つく廣島は城のかたちもしのまゝに今は師團をおかれたり十七 日清戰争はじまりてかたじけなくも大君の御旗を進めたまひたる大本營のありし土地 十八 北には饒津の公園地西には宇品の新港内海波も静なり呉軍港は近くして 十九 己斐の松原五日市いつしか過ぎて嚴島鳥居を前にながめやる宮嶋驛につきにけり 二〇 汽笛ならして客を待つ汽船に乘れば十五分早くもこゝぞ市杵島姫のまします宮どころ 二一 海にいでたる廻廊の板を浮べてさす汐にうつる燈籠の火の影は星か螢か漁火か 二二 毛利元就この島に城をかまへて君の敵陶晴賢を誅せしはのこす武臣の鑑なり 二三 岩國川の水上にかゝれる橋は算盤の玉をならべし如くにて錦帶橋と名づけたり二四 風に絲よる柳井津のみなとにひゞく産物は甘露醤油に柳井縞からき浮世の鹽の味 二五 出船入船たえまなき商業繁華の三田尻は山陽線路のをはりにて馬關に延ばす汽車のみち二六 少しあとに立ちかへり徳山港を船出して二十里ゆけば豐前なる門司の港につきにけり 二七 向の岸は馬關にて海上わづか二十町瀬戸内海の咽首をしめてあつむる船の數二八 朝の帆影夕烟西北さしてゆく船は鳥も飛ばぬと音にきく玄界洋やわたるらん 二九 満ち引く汐も早鞆の瀬戸と呼ばるゝ此海は源平兩氏の古戰場壇の浦とはこれぞかし 三〇 世界にその名いと高き馬關條約結びたる春帆樓の跡とひて昔しのぶもおもしろや 三一 門司よりおこる九州の鐵道線路をはるばるとゆけば大里の里すぎてこゝぞ小倉と人はよぶ三二 これより汽車を乘りかへて東の濱に沿ひゆかば城野行橋宇島をすぎて中津に至るべし 三三 中津は豐後の繁華の地頼山陽の筆により名だかくなりし耶馬渓を見るには道も遠からず 三四 白雲かゝる彦山を右にながめて猶ゆけば汽車は宇佐にて止まりたり八幡の宮に詣でこん 三五 歴史を讀みて誰も知る和氣清麿が神勅を請ひまつりたる宇佐の宮あふがぬ人は世にあらじ 三六 小倉に又も立ちもどりゆけば折尾の右左若松線と直方の道はこゝにて出あひたる三七 走る窓より打ち望む海のけしきのおもしろさ磯に貝ほる少女あり沖に帆かくる小舟あり 三八 おとにきゝたる箱崎の松かあらぬか一むらのみどり霞みて見えたるは八幡の神の宮ならん 三九 天の橋立三保の浦この箱崎を取りそへて三松原とよばれたるその名も千代の春のいろ 四〇 織物産地と知られたる博多は黒田の城のあと川をへだてゝ福岡の町もまぢかくつゞきたり 四一 まだ一日とおもひたる旅路は早も二日市下りて見てこん名にきゝし宰府の宮の飛梅を四二 千年のむかし太宰府をおかれしあとは此處宮に祭れる菅公の事蹟かたらんいざ來れ 四三 醍醐の御代の其はじめ惜しくも人にそねまれて身になき罪をおはせられついに左遷と定まりぬ 四四 天に泣けども天言はず地に叫べども地もきかず涙を呑みて邊土なるこゝに月日をおくりけり 四五 身は沈めども忘れぬは海より深き君の恩かたみの御衣を朝毎にさゝげてしぼる袂かな 四六 あはれ當時の御心をおもひまつればいかならん御前の池に鯉を呼ぶをとめよ子等よ旅人よ 四七 一時榮えし都府樓のあとをたづねて分け入れば草葉をわたる春風になびく菫の三つ五つ 四八 鐘の音きくと菅公の詩に作られて觀音寺仏も知るや千代までもつきぬ恨の世がたりは 四九 宰府わかれて鳥栖の驛長崎ゆきのわかれ道久留米は有馬の舊城下水天宮もほどちかし 五〇 かの西南の戦争にその名ひびきし田原坂見にゆく人は木葉よりおりて道きけ里人に五一 眠る間もなく熊本の町に着きたり我汽車は九州一の大都會人口五萬四千あり五二 熊本城は西南の役に名を得し無類の地細川氏のかたみとて今はおかるゝ六師團 五三 町の名所は水前寺公園きよく池ひろし宮は紅葉の錦山寺は法華の本妙寺 五四 ほまれの花もさきにほふ花岡山の招魂社雲か霞か夕ぞらにみゆるは阿蘇の遠煙 五五 わたる白川緑川川尻ゆけば宇土の里國の名に負う不知火の見ゆるはこゝの海と聞く 五六 線路分るゝ三角港出で入る船は絶えまなし松橋すぎて八代と聞くも心のたのしさよ五七 南は球磨の川の水矢よりも早くながれたり西は天草洋の海雲かとみゆる山もなし 五八 ふたゝびかへる鳥栖の驛線路を西に乘りかへてゆけば間もなく佐賀の町城にはのこる玉のあと 五九 つかれてあびる武雄の湯みやげにするは有田燒めぐる車輪の早岐より右にわかるゝ佐世保道六〇 鎭西一の軍港とその名しられて大村の灣をしめたる佐世保にはわが鎭守府をおかれたり 六一 南の風をハエと讀む南風崎すぎて川棚のつぎは彼杵は松原の松ふく風ものどかにて 六二 右にながむる鯛の浦鯛つる舟もうかびたり名も諫早の里ならぬ旅の心やいさむらん 六三 故郷のたより喜々津とておちつく人の大草や春日長與のたのしみも道尾にこそつきにけり六四 千代に八千代の末かけて榮行く御代は長崎の港にぎはふ百千船夜は舷燈のうつくしさ 六五 汽車よりおりて旅人のまづ見にゆくは諏訪の山寺町すぎて居留地に入ればむかしぞ忍ばるゝ 六六 わが開港を導きし阿蘭陀船のつどひたるみなとはこゝぞ長崎ぞ長くわするな國民よ 六七前は海原はてもなく外つ國までもつゞくらんあとは鐵道一すぢにまたゝくひまよ青森も 六八 あしたは花の嵐山ゆふべは月の筑紫潟かしこも樂しここもよしいざ見てめぐれ汽車の友 ------cont.
2006年02月24日
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梅一輪 一輪ほどの 暖かさ**********"梅"(うめ)「梅」の字音「メ」に基づいてできた語(1)バラ科の落葉高木。中国原産。古く日本に入り、観賞用庭木として珍重されている。葉は卵形で先がとがり、鋸歯がある。花は早春、葉に先立って開き、白色・淡紅色の五弁または重弁で芳香がある。果実は球形の核果で酸味が強く、梅干しや梅酒とする。未熟時に生食すると中毒することがある。[季]春。《二もとの―に遅速を愛すかな/蕪村》(2)梅の果実。(3)家紋の一。梅の花を図案化したもの。(4)「梅襲(うめがさね)」に同じ。〔中古以降「むめ」と表記されることが多い〕---------"梅田"(うめだ)大阪市北区の地名。鉄道各線やバス路線が集中する大阪駅周辺一帯の地。大阪の北の玄関で繁華街。"梅"(ウメ)という字の由来は、埋め立て地のウメ。人工にではなく地滑りで埋まってしまった場所の意味です。大阪市の大阪駅前は「梅田」という地名は、地滑りではなく、元々は湿地帯だった場所を埋め立てたもの。その後、田畑として利用されていましたが、明治7年に東海道線の大阪駅が開業します。その後、私鉄も隣接して梅田駅が建設されて、大発展、ビジネスなどの一大拠点へと変貌しました。---------"鐵道唱歌"作詞/大和田建樹(たけき)作曲/多梅稚(おおのうめわか)明治32年(1899)全5集『東海道』(東京~岐阜)♪~ぽ一 汽笛一声新橋を はや我汽車は離れたり愛宕の山に入りのこる 月を旅路の友として二 右は高輪泉岳寺 四十七士の墓どころ雪は消えても消えのこる 名は千載の後までも三 窓より近く品川の 台場も見えて波白き海のあなたにうすがすむ 山は上総か房州か四 梅に名をえし大森を すぐれば早も川崎の大師河原は程ちかし 急げや電気の道すぐに五 鶴見神奈川あとにして ゆけば横浜ステーション湊を見れば百舟(ももふね)の 煙は空をこがすまで六 横須賀ゆきは乗替と 呼ばれておるる大船のつぎは鎌倉鶴が岡 源氏の古跡や尋ね見ん七 八幡宮の石段に 立てる一木の大鴨脚樹(おおいちょう)別当公暁のかくれしと 歴史にあるは此陰よ八 ここに開きし頼朝が 幕府のあとは何(いづ)かたぞ松風さむく日は暮れて こたへぬ石碑は苔あをし九 北は円覚建長寺 南は大仏星月夜片瀬腰越江の島も ただ半日の道ぞかし 一〇 汽車より逗子をながめつつ はや横須賀に着きにけり見よやドックに集まりし わが軍艦の壮大を一一 支線をあとに立ちかへり わたる相模の馬入川(ばにゅうがわ)海水浴に名を得たる 大磯みえて波すずし一二 国府津おるれば馬車ありて 酒匂小田原とほからず箱根八里の山道も あれ見よ雲の間より一三 いでてはくぐるトンネルの 前後は山北小山駅今もわすれぬ鉄橋の 下ゆく水のおもしろさ一四 はるかにみえし富士の嶺(ね)は はや我そばに来りたり雪の冠(かんむり)雲の帯 いつもけだかき姿にて一五 ここぞ御殿場夏ならば われも登山をこころみん高さは一万数千尺 十三州もただ一目一六 三島は近年ひらけたる 豆相(ずそう)線路のわかれみち駅には此地の名を得たる 官幣大社の宮居あり一七 沼津の海に聞えたる 里は牛伏我入道(うしぶせがにゅうどう)春は花咲く桃のころ 夏はすずしき海のそば一八 鳥の羽音におどろきし 平家の話は昔にて今は汽車ゆく富士川を 下るは身延の帰り舟 一九 世に名も高き興津鯛 鐘の音ひびく清見寺清水につづく江尻より ゆけば程なき久能山二〇 三保の松原田子の浦 さかさにうつる富士の嶺を波にながむる舟人は 夏も冬とや思ふらん二一 駿州一の大都会 静岡いでて阿部川をわたればここぞ宇津の谷の 山きりぬきし洞(ほら)の道二二 鞘より抜けておのづから 草なぎはらひし御剣(みつるぎ)の御威(みいつ)は千代に燃ゆる火の 焼津の原はここなれや二三 春咲く花の藤枝も すぎて島田の大井川むかしは人を肩にのせ わたりし話も夢のあと二四 いつしか又も暗(やみ)となる 世界は夜かトンネルか小夜の中山夜泣石 問へども知らぬよその空二五 掛川袋井中泉 いつしかあとに早なりてさかまき来る天龍の 川瀬の波に雪ぞちる二六 この水上にありと聞く 諏訪の湖水の冬げしき雪と氷の懸橋を わたるは神か里人か二七 琴ひく風の浜松も 菜種に蝶の舞坂もうしろに走る愉快さを うたふか磯の波のこゑ二八 煙を水に横たへて わたる浜名の橋の上たもと涼しく吹く風に 夏ものこらずなりにけり二九 左は入海しづかにて 空には富士の雪しろし右は遠州洋(なだ)ちかく 山なす波ぞ砕けちる三〇 豊橋おりて乗る汽車は これぞ豊川稲荷道東海道にてすぐれたる 海のながめは蒲郡三一 見よや徳川家康の おこりし土地の岡崎を矢矧(やはぎ)の橋に残れるは 藤吉郎のものがたり三二 鳴海しぼりの産地なる 鳴海に近き大高を下りておよそ一里半 ゆけば昔の桶狭間三三 めぐみ熱田の御やしろは 三種の神器の一つなるその草薙の神つるぎ あふげや同胞四千万三四 名だかき金の鯱は 名古屋の城の光なり地震のはなしまだ消えぬ 岐阜の鵜飼も見てゆかん ----『東海道』(大垣~神戸)♪~ポッポ----三五 父やしなひし養老の 滝は今なほ大垣を三里へだてて流れたり 孝子の名誉ともろともに 三六 天下の旗は徳川に 帰(き)せしいくさの関ケ原草むす屍(かばね)いまもなほ 吹くか胆吹(いぶき)の山おろし三七 山はうしろに立ち去りて 前に来るは琵琶の海ほとりに沿ひし米原は 北陸道の分岐線三八 彦根に立てる井伊の城 草津にひさぐ姥ヶ餅かはる名所も名物も 旅の徒然(とぜん)のうさはらし三九 いよいよ近く馴れくるは 近江の海の波のいろその八景も居ながらに 見てゆく旅の楽しさよ四〇 瀬田の長橋右に見て ゆけば石山観世音紫式部が筆のあと のこすはここよ月の夜に四一 粟津の松にこととへば 答へがほなる風の声朝日将軍義仲の ほろびし深田は何かたぞ四二 比良の高嶺は雪ならで 花なす雲にかくれたり矢走にいそぐ舟の帆も みえてにぎはふ波の上四三 堅田におつる雁がねの たえまに響く三井の鐘夕ぐれさむき唐崎の 松にや雨のかかるらん四四 むかしながらの山ざくら にほふところや志賀の里都のあとは知らねども 逢坂山はそのままに四五 大石良雄が山科の その隠家はあともなし赤き鳥居の神さびて 立つは伏見の稲荷山四六 東寺の塔を左にて とまれば七条ステーション京都々々とよびたつる 駅夫のこゑも勇ましや四七 ここは桓武のみかどより 千有余年の都の地今も雲井の空たかく あふぐ清涼紫宸殿四八 東に立てる東山 西に聳(そび)ゆる嵐山かれとこれとの麓ゆく 水は加茂川桂川四九 祇園清水智恩院 吉田黒谷真如堂ながれも清き水上に 君がよまもる加茂の宮五〇 夏は納涼(すずみ)の四条橋 冬は雪見の銀閣寺桜は春の嵯峨御室 紅葉は秋の高雄山五一 琵琶湖を引きて通したる 疏水の工事は南禅寺岩切り抜きて舟をやる 知識の進歩も見られたり五二 神社仏閣山水の 外に京都の物産は西陣織の綾錦 友禅染の花もみぢ五三 扇おしろい京都紅 また加茂川の鷺しらずみやげを提げていざ立たん あとに名残は残れども五四 山崎おりて淀川を わたる向うは男山行幸ありし先帝の かしこきあとぞ忍ばるる五五 淀の川舟さをさして くだりし旅はむかしにてまたたくひまに今はゆく 煙たえせぬ陸(くが)の道五六 おくり迎ふる程もなく 茨木吹田うちすぎてはや大阪につきにけり 梅田は我をむかへたり五七 三府の一に位(くらい)して 商業繁華の大阪市豊(ほう)太閤のきづきたる 城に師団はおかれたり五八 ここぞ昔の難波の津 ここぞ高津の宮のあと安治川口に入る舟の 煙は日夜たえまなし五九 鳥も翔(かけ)らぬ大空に かすむ五重の塔の影仏法最初の寺と聞く 四天王寺はあれかとよ六〇 大阪いでて右左 菜種ならざる畑もなし神崎川のながれのみ 浅黄にゆくぞ美しき六一 神崎よりはのりかへて ゆあみにのぼる有馬山池田伊丹と名にききし 酒の産地もとほるなり六二 神戸は五港の一つにて あつまる汽船のかずかずは亜米利加露西亜支那印度 瀬戸内がよひも交じりたり六三 磯にはながめ晴れわたる 和田のみさきを控へつつ山には絶えず布引の 滝見に人ものぼりゆく六四 七度(ななたび)うまれて君が代を まもるといひし楠公(なんこう)のいしぶみ高き湊川 ながれて世々の人ぞ知る六五 おもへば夢か時のまに 五十三次はしりきて神戸のやどに身をおくも 人に翼の汽車の恩六六 明けなば更に乗りかへて 山陽道を進ままし天気は明日も望(のぞみ)あり 柳にかすむ月の影--------cont,--------Why don't you traveling to KYOTO with me???(^京^)
2006年02月24日
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"王様の耳"は....-----"王様の耳はロバの耳"(イソップ寓話)yori(あらすじ)王様はロバの耳をしてして、それをひた隠にしました。ところが、いつも髪を刈りに来る床屋は王様はロバの耳である事を知っていて口止めされておりました。床屋は何時までも黙っている事が出来ず、井戸の奥に向かって「王様はロバの耳」と大声を出して叫びます。その声があらゆる井戸の伝わって井戸と言う井戸から「王様はロバの耳」と聞こえ、皆にロバの耳を知られてしまった王様は「これは皆の意見を良く聞けるようにロバの耳になっている」と打ち明けるお話desu.----------"葬送の「船」出土"7世紀の史書裏付け 奈良・巣山古墳from ASAHI-com(2006年02月23日)-------奈良県広陵町にある大型前方後円墳、巣山(すやま)古墳(4世紀末~5世紀初め)から、葬送儀式に使われたとみられる木棺のふたや舟形木製品が見つかった。同町教委が22日、発表した。木棺を載せた舟形木製品を引っ張るなどして古墳まで運び、その後、遺体を別の棺(ひつぎ)に移して古墳に埋葬したらしい。古事記などは「喪船(もふね)」と表現し、中国の史書「隋書倭国(わこく)伝」(7世紀)は古代日本の葬送について「遺体を船に置き、陸地で引いた」と記している。それを裏付ける初の物証で、貴重な発見という。 巣山古墳は全長約220メートルで、有力豪族葛城氏の墓とみられている。前方部の周濠(しゅうごう)の北東隅を調査したところ、多量の木製品が出土した。 木棺のふたは長さ約2.1メートル、幅約78センチで、かまぼこのような丸みがある。舟形木製品は長さ約3.7メートル、高さ約45センチの板状で、へさきか船尾とみられる反り返りがあった。いずれも模様が刻まれて朱が残り、半分ぐらいで切断されていた。復元すると木棺は長さ約4メートル、舟形木製品は同約8メートルとみられる。船の帆を表現したらしい三角形の板や角材などもあった。 (以下略)------"殯"(もがり)「喪(も)上がり」の意という「あらき」に同じ。「五月、河内の古市(ふるいち)に―す/日本書紀(欽明訓)」-------Why don't you ride this ship with me.???(^謎^)
2006年02月23日
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十九望の夜の月が冴えて居た。若人たちは、今日、郎女の織りあげた一反《ヒトムラ》の上帛《ハタ》を、夜の更けるのも忘れて、見讃《ミハヤ》して居た。この月の光りを受けた美しさ。(「糸+慊のつくり」)《カドリ》のやうで、韓織《カラオリ》のやうで、――やつぱり、此より外にはない、清らかな上帛《ハタ》ぢや。乳母も、遠くなつた眼をすがめながら、譬へやうのない美しさと、づゝしりとした手あたりを、若い者のやうに樂しんでは、撫でまはして居た。二度目の機は、初めの日數の半《ナカラ》であがつた。三反《ミムラ》の上帛《ハタ》を織りあげて、姫の心には、新しい不安が頭をあげて來た。五反《イツムラ》目を織りきると、機に上ることをやめた。さうして、日も夜も、針を動した。長月の空は、三日の月のほのめき出したのさへ、寒く眺められる。この夜寒に、俤人の肩の白さを思ふだけでも、堪へられなかつた。裁ち縫ふわざは、あて人の子のする事ではなかつた。唯、他人《ヒト》の手に觸れさせたくない。かう思ふ心から、解いては縫ひ、縫うてはほどきした。現《ウツ》し世《ヨ》の幾人にも當る大きなお身に合ふ衣を、縫ふすべを知らなかつた。せつかく織り上げた上帛《ハタ》を、裁《タ》つたり截《キ》つたり、段々布は狹くなつて行く。女たちも、唯姫の手わざを見て居るほかはなかつた。何を縫ふものとも考へ當らぬ囁きに、日を暮すばかりである。其上、日に増し、外は冷えて來る。人々は一日も早く、奈良の御館に歸ることを願ふばかりになつた。郎女は、暖かい晝、薄暗い廬の中で、うつとりとしてゐた。その時、語部《カタリ》の尼が歩み寄つて來るのを、又まざ/″\と見たのである。何を思案遊ばす。壁代《カベシロ》の樣に縱横に裁ちついで、其まゝ身に纒ふやうになさる外はおざらぬ。それ、こゝに紐をつけて、肩の上でくゝりあはせれば、晝は衣になりませう。紐を解き敷いて、折り返し被《カブ》れば、やがて夜の衾《フスマ》にもなりまする。天竺の行人《ギヤウニン》たちの著る僧伽梨《ソウギヤリ》と言ふのが、其でおざりまする。早くお縫ひあそばされ。だが、氣がつくと、やはり晝の夢を見て居たのだ。裁ちきつた布を綴り合せて縫ひ初めると、二日もたゝぬ間に、大きな一面の綴りの上帛《ハタ》が出來あがつた。郎女樣は、月ごろかゝつて、唯の壁代をお織りなされた。あつたら、惜しやの。はりが拔けたやうに、若人《ワカウド》たちが聲を落して言うて居る時、姫は悲しみながら、次の營みを考へて居た。「これでは、あまり寒々としてゐる。殯《モガリ》の庭の棺《ヒツギ》にかけるひしきもの―喪氈―、とやら言ふものと、見た目にかはりはあるまい。」*******LAST. ******* 二十もう、世の人の心は賢しくなり過ぎて居た。獨り語りの物語りなどに、信《シン》をうちこんで聽く者のある筈はなかつた。聞く人のない森の中などで、よく、つぶ/\と物言ふ者がある、と思うて近づくと、其が、語部の家の者だつたなど言ふ話が、どの村でも笑ひ咄のやうに言はれるやうな世の中になつて居た。當麻語部《タギマノカタリベ》の嫗なども、都の上(「藹」の「言」に代えて「月」)《ジヤウラウ》の、もの疑ひせぬ清い心に、知る限りの事を語りかけようとした。だが、忽違つた氏の語部なるが故に、追ひ退《ノ》けられたのであつた。さう言ふ聽きてを見あてた刹那に、持つた執心の深さ。その後、自身の家の中でも、又 廬堂《イホリダウ》に近い木立ちの陰でも、或は其處を見おろす山の上からでも、郎女に向つてする、ひとり語りは續けられて居た。今年八月、當麻の氏人に縁深いお方が、めでたく世にお上りなされたあの時こそ、再|己《オノ》が世が來た、とほくそ笑みをした――が、氏の神祭りにも、語部《カタリベ》を請《シヤウ》じて、神語りを語らさうともせられなかつた。ひきついであつた、勅使の參向の節にも、呼び出されて、當麻氏の古物語りを奏上せい、と仰せられるか、と思うて居た豫期《アラマシ》も、空頼みになつた。此はもう、自身や、自身の祖《オヤ》たちが、長く覺え傳へ、語りついで來た間、かうした事に行き逢はうとは考へもつかなかつた時代《トキヨ》が來たのだ、と思うた瞬間、何もかも、見知らぬ世界に追放《ヤラ》はれてゐる氣がして、唯驚くばかりであつた。娯しみを失ひきつた語部《カタリベ》の古婆は、もう飯を喰べても、味は失うてしまつた。水を飮んでも、口をついて、獨り語りが囈語《ウハゴト》のやうに出るばかりになつた。秋深くなるにつれて、衰への、目立つて來た姥は、知る限りの物語りを、喋りつゞけて死なう、と言ふ腹をきめた。さうして、郎女の耳に近い處を、ところをと覓めて、さまよひ歩くやうになつた。郎女は、奈良の家に送られたことのある、大唐の彩色《ヱノグ》の數々を思ひ出した。其を思ひついたのは、夜であつた。今から、横佩墻内へ馳けつけて、彩色《ヱノグ》を持つて還れ、と命ぜられたのは、女の中に、唯一人殘つて居た長老《オトナ》である。つひしか、こんな言ひつけをしたことのない郎女の、性急な命令に驚いて、女たちは復、何か事の起るのではないか、とおど/″\して居た。だが、身狹乳母《ムサノチオモ》の計ひで、長老《オトナ》は澁々、夜道を、奈良へ向つて急いだ。あくる日、繪具《ヱノグ》の屆けられた時、姫の聲ははなやいで、興奮《ハヤ》りかに響いた。女たちの噂して居た、袈裟で謂へば、五十條の大衣《ダイエ》とも言ふべき、藕絲《グウシ》の上帛の上に、郎女の目はぢつとすわつて居た。やがて筆は、愉しげにとり上げられた。線描《スミガ》きなしに、うちつけに繪具《ヱノグ》を塗り進めた。美しい彩畫《タミヱ》は、七色八色の虹のやうに、郎女の目の前に、輝き増して行く。姫は、緑青を盛つて、層々うち重る樓閣伽藍の屋根を表した。數多い柱や、廊の立ち續く姿が、目赫《メカヾヤ》くばかり、朱で彩《タ》みあげられた。むら/\と靉くものは、紺青《コンジヤウ》の雲である。紫雲は一筋長くたなびいて、中央根本堂とも見える屋の上から、畫《カ》きおろされた。雲の上には金泥《コンデイ》の光り輝く靄が、漂ひはじめた。姫の命を搾るまでの念力が、筆のまゝに動いて居る。やがて金色《コンジキ》の雲氣《ウンキ》は、次第に凝り成して、照り充ちた色身《シキシン》――現《ウツ》し世の人とも見えぬ尊い姿が顯れた。郎女は唯、先《サキ》の日見た、萬法藏院の夕《ユフベ》の幻を、筆に追うて居るばかりである。堂・塔伽藍すべては、當麻のみ寺のありの姿であつた。だが、彩畫《タミヱ》の上に湧き上つた宮殿《クウデン》樓閣は、兜率天宮《トソツテングウ》のたゝずまひさながらであつた。しかも、其|四十九重《シジフクヂウ》の寶宮の内院《ナイヰン》に現れた尊者の相好《サウガウ》は、あの夕、近々と目に見た俤びとの姿を、心に覓《ト》めて描き顯したばかりであつた。刀自・若人たちは、一刻々々、時の移るのも知らず、身ゆるぎもせずに、姫の前に開かれて來る光りの霞に、唯見 呆《ホヽ》けて居るばかりであつた。郎女《イラツメ》が、筆をおいて、にこやかな笑《ヱマ》ひを、圓《マロ》く跪坐《ツイヰ》る此人々の背におとしながら、のどかに併し、音もなく、山田の廬堂を立去つた刹那、心づく者は一人もなかつたのである。まして、戸口に消える際《キハ》に、ふりかへつた姫の輝くやうな頬のうへに、細く傳ふものゝあつたのを知る者の、ある訣はなかつた。姫の俤びとに貸す爲の衣に描いた繪樣《ヱヤウ》は、そのまゝ曼陀羅の相《スガタ》を具へて居たにしても、姫はその中に、唯一人の色身《シキシン》の幻を描いたに過ぎなかつた。併し、殘された刀自・若人たちの、うち瞻《マモ》る畫面には、見る/\數千地涌《スセンヂユ》の菩薩の姿が、浮き出て來た。其は、幾人の人々が、同時に見た、白日夢《ハクジツム》のたぐひかも知れぬ。--------"完"-------***********底本「死者の書」角川書店1947(昭和22)年7月1日発行-----(^死^)
2006年02月21日
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cont.-----十八當麻の邑は、此頃、一本の草、一塊《ヒトクレ》の石すら、光りを持つほど、賑ひ充ちて居る。當麻眞人家《タギマノマヒトケ》の氏神|當麻彦《タギマヒコ》の社へ、祭り時に外れた昨今、急に、氏(ノ)上の拜禮があつた。故上總守 老《オユ》(ノ)眞人以來、暫らく絶えて居たことである。其上、まう二三日に迫つた八月《ハツキ》の朔日《ツイタチ》には、奈良の宮から、勅使が來向はれる筈になつて居た。當麻氏から出られた大夫人《ダイフジン》のお生み申された宮の御代に、あらたまることになつたからである。廬堂の中は、前よりは更に狹くなつて居た。郎女が、奈良の御館からとり寄せた高機《タカハタ》を、設《タ》てたからである。機織りに長けた女も、一人や二人は、若人の中に居た。此女らの動かして見せる筬《ヲサ》や梭《ヒ》の扱ひ方を、姫はすぐに會得《ヱトク》した。機に上つて日ねもす、時には終夜《ヨモスガラ》、織つて見るけれど、蓮の絲は、すぐに圓《ツブ》になつたり、斷《キ》れたりした。其でも、倦まずにさへ織つて居れば、何時か織りあがるもの、と信じてゐる樣に、脇目からは見えた。乳母は、人に見せた事のない憂はしげな顏を、此頃よくしてゐる。何しろ、唐土《モロコシ》でも、天竺から渡つた物より手に入らぬ、といふ藕絲織《ハスイトオ》りを遊ばさう、と言ふのぢやものなう。話相手にもしなかつた若い者たちに、時々うつかりと、こんな事を、言ふ樣になつた。かう絲が無駄になつては。今の間にどし/″\績《ウ》んで置かいでは―。乳母《チオモ》の語に、若人たちは又、廣々とした野や田の面におり立つことを思うて、心がさわだつた。さうして、女たちの刈りとつた蓮積み車が、廬に戻つて來ると、何よりも先に、田居への降り道に見た、當麻の邑の騷ぎの噂である。郎女樣のお從兄《イトコ》惠美の若子《ワクゴ》さまのお母《ハラ》樣も、當麻[#(ノ)]眞人のお出《デ》ぢやげな――。惠美の御館《ミタチ》の叔父君の世界、見るやうな世になつた。兄御を、帥の殿に落しておいて、御自身はのり越して、内相の、大師《タイシ》の、とおなりのぼりの御心持ちは、どうあらうなう――。あて人に仕へて居ても、女はうつかりすると、人の評判に時を移した。やめい やめい。お耳ざはりぞ。しまひには、乳母が叱りに出た。だが、身狹刀自《ムサノトジ》自身のうちにも、もだ/″\と咽喉につまつた物のある感じが、殘らずには居なかつた。さうして、そんなことにかまけることなく、何の訣やら知れぬが、一心に絲を績《ウ》み、機を織つて居る育ての姫が、いとほしくてたまらぬのであつた。晝の中多く出た虻は、潜んでしまつたが、蚊は仲秋になると、益々あばれ出して來る。日中の興奮で、皆は正體もなく寢た。身狹までが、姫の起き明す燈の明りを避けて、隅の物陰に、深い鼾を立てはじめた。郎女は、斷《キ》れては織り、織つては斷れ、手がだるくなつてもまだ梭《ヒ》を放さうともせぬ。だが、此頃の姫の心は、滿ち足らうて居た。あれほど、夜々《ヨルヽヽ》見て居た俤人《オモカゲビト》の姿も見ずに、安らかな氣持ちが續いてゐるのである。「此機を織りあげて、はやうあの素肌のお身を、掩うてあげたい。」其ばかり考へて居る。世の中になし遂げられぬものゝあると言ふことを、あて人は知らぬのであつた。ちよう ちよう はた はた。はた はた ちよう……。筬を流れるやうに、手もとにくり寄せられる絲が、動かなくなつた。引いても扱《コ》いても通らぬ。筬の齒が幾枚も毀《コボ》れて、絲筋の上にかゝつて居るのが見える。郎女は、溜め息をついた。乳母に問うても、知るまい。女たちを起して聞いた所で、滑らかに動かすことはえすまい。どうしたら、よいのだらう。姫ははじめて、顏へ偏《カタヨ》つてかゝつて來る髮のうるさゝを感じた。筬の櫛目を覗いて見た。梭もはたいて見た。あゝ、何時になつたら、したてた衣《コロモ》をお肌へふくよかにお貸し申すことが出來よう。もう外の叢で鳴き出した、蟋蟀の聲を、瞬間思ひ浮べて居た。どれ、およこし遊ばされ。かう直せば、動かぬこともおざるまい――。どうやら聞いた氣のする聲が、機の外にした。あて人の姫は、何處から來た人とも疑はなかつた。唯、さうした好意ある人を、豫想して居た時なので、見てたもれ。機をおりた。女は、尼であつた。髮を切つて尼そぎにした女は、其も二三度は見かけたことはあつたが、剃髮した尼には會うたことのない姫であつた。はた はた ちよう ちよう。元の通りの音が、整つて出て來た。蓮の絲は、かう言ふ風では、織れるものではおざりませぬ。もつと寄つて御覽じ――。これかう――おわかりかえ。當麻語部(ノ)姥の聲である。だが、そんなことは、郎女の心には、問題でもなかつた。おわかりなさるかえ。これかう――。姫の心は、こだまの如く聰《サト》くなつて居た。此 才伎《テワザ》の經緯《ユキタテ》は、すぐ呑み込まれた。織つてごらうじませ。姫が、高機に代つて入ると、尼は機陰に身を倚せて立つ。はた はた ゆら ゆら。音までが、變つて澄み上つた。女鳥《メトリ》の わがおほきみの織《オロ》す機。誰《タ》が爲《タ》ねろかも――、御存じ及びでおざりませうなう。昔、かう、機殿《ハタドノ》の(「片+總のつくり」)からのぞきこうで、問はれたお方樣がおざりましたつけ。――その時、その貴い女性《ニヨシヤウ》がの、たか行くや 隼別《ハヤブサワケ》の御被服料《ミオスヒガネ》――さうお答へなされたとなう。この中《ヂユウ》申し上げた滋賀津彦《シガツヒコ》は、やはり隼別でもおざりました。天若日子《アメワカヒコ》でもおざりました。天《テン》の日《ヒ》に矢を射かける――。併し、極みなく美しいお人でおざりましたがよ。截《キ》りはたり ちようちよう。それ―、早く織らねば、やがて、岩牀の凍る冷い冬がまゐりますがよ――。郎女は、ふつと覺めた。あぐね果てゝ、機の上にとろ/\とした間の夢だつたのである。だが、梭をとり直して見ると、はた はた ゆら ゆら。ゆら はたゝ。美しい織物が、筬の目から迸る。はた はた ゆら ゆら。思ひつめてまどろんでゐる中に、郎女の智慧が、一つの閾を越えたのである。-----(^死^)
2006年02月21日
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cont.-----十七彼岸中日 秋分の夕。朝曇り後晴れて、海のやうに深碧に凪いだ空に、晝過ぎて、白い雲が頻りにちぎれ/\に飛んだ。其が門渡《トワタ》る船と見えてゐる内に、暴風《アラシ》である。空は愈々青澄み、昏くなる頃には、藍の樣に色濃くなつて行つた。見あげる山の端は、横雲の空のやうに、茜色に輝いて居る。大山颪。木の葉も、枝も、顏に吹きつけられる程の物は、皆活きて青かつた。板屋は吹きあげられさうに、煽りきしんだ。若人たちは、悉く郎女の廬に上つて、刀自を中に、心を一つにして、ひしと顏を寄せた。たゞ互の顏の見えるばかりの緊張した氣持ちの間に、刻々に移つて行く風。西から眞正面《マトモ》に吹きおろしたのが、暫らくして北の方から落して來た。やがて、風は山を離れて、平野の方から、山に向つてひた吹きに吹きつけた。峰の松原も、空樣《ソラザマ》に枝を掻き上げられた樣になつて、悲鳴を續けた。谷から峰《ヲ》の上《ヘ》に生え上《ノボ》つて居る萱原は、一樣に上へ/\と糶《セ》り昇るやうに、葉裏を返して扱《コ》き上げられた。家の中は、もう暗くなつた。だがまだ見える庭先の明りは、黄にかつきりと、物の一つ/\を、鮮やかに見せて居た。郎女樣が――。誰かの聲である。皆、頭の毛が空へのぼる程、ぎよつとした。其が、何だと言はれずとも、すべての心が、一度に了解して居た。言ひ難い恐怖にかみづつた女たちは、誰一人聲を出す者も居なかつた。身狹(ノ)乳母は、今の今まで、姫の側に寄つて、後から姫を抱へて居たのである。皆の人のけはひで、覺め難い夢から覺めたやうに、目をみひらくと、あゝ、何時の間にか、姫は嫗の兩《モロ》腕兩膝の間には、居させられぬ。一時に、慟哭するやうな感激が來た。だが長い訓練が、老女の心をとり戻した。凛として、反り返る樣な力が、湧き上つた。誰《タ》ぞ、弓を――。鳴弦《ツルウチ》ぢや。人を待つ間もなかつた。彼女自身、壁代《カベシロ》に寄せかけて置いた白木の檀弓《マユミ》をとり上げて居た。それ皆の衆――。反閇《アシブミ》ぞ。もつと聲高《コワダカ》に――。あっし、あっし、それ、あっしあっし……。若人たちも、一人々々の心は、疾くに飛んで行つてしまつて居た。唯一つの聲で、警(「馬+畢」)《ケイヒツ》を發し、反閇《ハンバイ》した。あっし あっし。あっし あっし あっし。狹い廬の中を蹈んで(「廴+囘」)つた。脇目からは、遶道《ネウダウ》する群れのやうに。郎女樣は、こちらに御座りますか。萬法藏院の婢女《メヤツコ》が、息をきらして走つて來て、何時もなら、許されて居ぬ無作法で、近々と廬の砌《ミギリ》に立つて叫んだ。なに――。皆の口が、一つであつた。郎女樣か、と思はれるあて人が――、み寺の門《カド》に立つて居さつせるのを見たで、知らせにまゐりました。今度は、乳母《オモ》一人の聲が答へた。なに、み寺の門に。婢女を先に、行道の群れは、小石を飛す嵐の中を、早足に練り出した。あっし あっし あっし……。聲は、遠くからも聞えた。大風をつき拔く樣な鋭聲《トゴエ》が、野面《ヅラ》に傳はる。萬法藏院は、實に寂《セキ》として居た。山風は物忘れした樣に、鎭まつて居た。夕闇はそろ/\、かぶさつて來て居るのに、山裾のひらけた處を占めた寺庭は、白砂が、晝の明りに輝いてゐた。こゝからよく見える二上《フタカミ》の頂は、廣く、赤々と夕映えてゐる。姫は、山田の道場の(「片+總」)から仰ぐ空の狹さを悲しんでゐる間に、何時かこゝまで來て居たのである。淨域を穢した物忌みにこもつてゐる身、と言ふことを忘れさせぬものが、其でも心の隅にあつたのであらう。門の閾から、伸び上るやうにして、山の際《ハ》の空を見入つて居た。暫らくおだやんで居た嵐が、又山に(「廴+囘」)つたらしい。だが、寺は物音もない黄昏《タソガレ》だ。男嶽《ヲノカミ》と女嶽《メノカミ》との間になだれをなした大きな曲線《タワ》が、又次第に兩方へ聳《ソヽ》つて行つてゐる、此二つの峰の間《アヒダ》の廣い空際《ソラギハ》。薄れかゝつた茜の雲が、急に輝き出して、白銀《ハクギン》の炎をあげて來る。山の間《マ》に充滿して居た夕闇は、光りに照されて、紫だつて動きはじめた。さうして暫らくは、外に動くものゝない明るさ。山の空は、唯白々として、照り出されて居た。肌 肩 脇 胸 豐かな姿が、山の尾上《ヲノヘ》の松原の上に現れた。併し、俤に見つゞけた其顏ばかりは、ほの暗かつた。今すこし著《シル》く み姿顯したまへ――。郎女の口よりも、皮膚をつんざいて、あげた叫びである。山腹の紫は、雲となつて靉《タナビ》き、次第々々に降《サガ》る樣に見えた。明るいのは、山際《ギハ》ばかりではなかつた。地上は、砂《イサゴ》の數もよまれるほどである。しづかに しづかに雲はおりて來る。萬法藏院の香殿・講堂・塔婆樓閣・山門僧房・庫裡、悉く金に、朱に、青に、晝より著《イチジル》く見え、自《ミヅカ》ら光りを發して居た。庭の砂の上にすれ/\に、雲は搖曳して、そこにあり/\と半身を顯した尊者の姿が、手にとる樣に見えた。匂ひやかな笑みを含んだ顏が、はじめて、まともに郎女に向けられた。伏し目に半ば閉ぢられた目は、此時、姫を認めたやうに、清《スヾ》しく見ひらいた。輕くつぐんだ脣は、この女性《ニヨシヤウ》に向うて、物を告げてゞも居るやうに、ほぐれて見えた。郎女は尊さに、目の低《タ》れて來る思ひがした。だが、此時を過してはと思ふ一心で、御《ミ》姿から、目をそらさなかつた。あて人を讃へるものと、思ひこんだあの詞が、又心から迸り出た。なも 阿彌陀ほとけ。あなたふと 阿彌陀ほとけ。瞬間に明りが薄れて行つて、まのあたりに見える雲も、雲の上の尊者の姿も、ほのぼのと暗くなり、段々に高く、又高く上つて行く。姫が、目送する間もない程であつた。忽、二上山の山の端《ハ》に溶け入るやうに消えて、まつくらな空ばかりの、たなびく夜になつて居た。あっし あっし。足を蹈み、前《サキ》を驅《オ》ふ聲が、耳もとまで近づいて來てゐた。-----(^死^)
2006年02月21日
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I'm return to "KYOTO" this week.AND....I've my birth-day at Feb./26.-----"曲水" by 杜甫朝 囘 日 日 典 春 衣毎 日 江 頭 盡 醉 歸酒 債 尋 常 行 處 有人 生 七 十 古 來 稀穿 花 ? 蝶 深 深 見點 水 蜻 ? 款 款 飛傳 語 風 光 共 流 轉暫 時 相 賞 莫 相 違------ 朝(ちょう)より回(かえ)りて日日(ひび)春衣を典(てん)し、毎日 江頭(こうとう)に酔(え)ひを尽くして帰る。酒債は尋常、行く処に有り。人生七十 古来稀なり。花を穿(うが)つ 蝶(けふてふ)は深深(しんしん)として見え、水に点ずる蜻(せいてい)は款款(かんかん)として飛ぶ。伝語す、風光、 共に流転して、暫時 相(あい)賞して 相(あい)違(たが)ふこと莫(な)かれ、と。-----杜甫の「曲江二首」と題する漢詩の、その「二」。杜甫47歳の作desu.*********"京都の恋"作曲(The Venturs)/ 作詞(林 春生) ♪~♪風のウワサを 信じて 今日からはあなたと別れ 傷ついて旅に出かけてきたの私の心に 鐘が鳴る白い京都に 雨が降るうしろ姿の あの人は今は帰らぬ 遠い人 涙見せたくないの 今日からは一度離れた 恋なんか二度とはしたくないこのまま死んでしまいたい白い京都に包まれて恋によごれた女は 明日(あした)から白い京都の片隅に 想い出を捨てるの 想い出を捨てるの ------1970(S.45)年、渚ゆう子さんのヒット曲。原題は"Kyoto Doll"、「the ベンチャーズ」の曲desu.*********cont.十六山の躑躅の色は、樣々ある。一つ色のものだけが、一時に咲き出して、一時に萎《シボ》む。さうして、凡一月は、後から後から替つた色のが匂ひ出て、禿げた岩も、一冬のうら枯れをとり返さぬ柴木山も、若夏の青雲の下に、はでなかざしをつける。其間に、藤の短い花房が、白く又紫に垂れて、老い木の幹の高さを、せつなく、寂しく見せる。下草に交つて、馬醉木《アシビ》が雪のやうに咲いても、花めいた心を、誰に起させることもなしに、過ぎるのがあはれである。もう此頃になると、山は厭はしいほど緑に埋れ、谷は深々と、繁りに隱されてしまふ。郭公《クワツコウ》は早く鳴き嗄らし、時鳥が替つて、日も夜も鳴く。草の花が、どつと怒濤の寄せるやうに咲き出して、山全體が花原見たやうになつて行く。里の麥は刈り急がれ、田の原は一樣に青みわたつて、もうこんなに伸びたか、と驚くほどになる。家の庭苑《ソノ》にも、立ち替り咲き替つて、栽ゑ木、草花が、何處まで盛り續けるかと思はれる。だが其も一盛りで、坪はひそまり返つたやうな時が來る。池には葦が伸び、蒲が秀《ホ》き、藺《ヰ》が抽んでゝ來る。遲々として、併し忘れた頃に、俄かに伸《ノ》し上るやうに育つのは、蓮の葉であつた。前年から今年にかけて、海の彼方の新羅の亡状が、目立つて棄て置かれぬものに見えて來た。太宰府からは、軍船を新造して新羅征伐の設けをせよ、と言ふ命のお降しを、度々都へ請うておこして居た。此忙しい時に、偶然流人太宰府員外帥として、難波に居た横佩家の豐成は、思ひがけぬ日々を送らねばならなかつた。都の姫の事は、子古の口から聽いて知つたし、又、京・難波の間を往來する頻繁な公私の使ひに、文をことづてる事は易かつたけれども、どう處置してよいか、途方に昏れた。ちよつと見は何でもない事の樣で、實は重大な、家の大事である。其だけに、常の優柔不斷な心癖は、益々つのるばかりであつた。寺々の知音に寄せて、當麻寺へ、よい樣に命じてくれる樣に、と書いてもやつた。又處置方について伺うた横佩墻内の家の長老《トネ》・刀自たちへは、ひたすら汝等の主の女郎を護つて居れ、と言ふやうな、抽象風なことを、答へて來たりした。次の消息には、何かと具體した仰せつけがあるだらう、と待つて居る間に、日が立ち、月が過ぎて行くばかりである。其間にも、姫の失はれたと見える魂が、お身に戻るか、其だけの望みで、人々は、山村に止つて居た。物思ひに、屈託ばかりもして居ぬ若人たちは、もう池のほとりにおり立つて、伸びた蓮の莖を切り集め出した。其を見て居た寺の婢女《メヤツコ》が、其はまだ若い、まう半月もおかねばと言つて、寺領の一部に、蓮根《ハスネ》を取る爲に作つてあつた蓮田《ハチスダ》へ、案内しよう、と言ひ出した。あて人の家自身が、それ/\、農村の大家《オホヤケ》であつた。其が次第に、官人《ツカサビト》らしい姿に更つて來ても、家庭の生活には、何時までたつても、何處か農家らしい樣子が、殘つて居た。家構へにも、屋敷の廣場《ニハ》にも、家の中の雜用具《ザフヨウグ》にも。第一、女たちの生活は、起居《タチヰ》ふるまひなり、服裝なりは、優雅に優雅にと變つては行つたが、やはり昔の農家の家内《ヤウチ》の匂ひがつき纒うて離れなかつた。刈り上げの秋になると、夫と離れて暮す年頃に達した夫人などは、よく其家の遠い田莊《タドコロ》へ行つて、數日を過して來るやうな習しも、絶えることなく、くり返されて居た。だから、刀自たちは固より若人らも、つくねんと女部屋の薄暗がりに、明し暮して居るのではなかつた。てんでに、自分の出た村方の手藝を覺えて居て、其を、仕へる君の爲に爲出《シイダ》さう、と出精してはたらいた。裳の襞を作るのに珍《ナ》い術《テ》を持つた女などが、何でもないことで、とりわけ重寶がられた。袖の先につける鰭袖《ハタソデ》を美しく爲立てゝ、其に、珍しい縫ひとりをする女なども居た。こんなのは、どの家庭にもある話でなく、かう言ふ若人をおきあてた家は、一つのよい見てくれを世間に持つ事になるのだ。一般に、染めや、裁ち縫ひが、家々の顏見合はぬ女どうしの競技のやうに、もてはやされた。摺り染めや、擣《ウ》ち染めの技術も、女たちの間には、目立たぬ進歩が年々にあつたが、浸《ヒ》で染めの爲の染料が、韓の技工人《テビト》の影響から、途方もなく變化した。紫と謂つても、茜と謂つても、皆、昔の樣な、染め漿《シホ》の處置《トリアツカヒ》はせなくなつた。さうして、染め上りも、艶々しく、はでなものになつて來た。表向きは、かうした色の禁令が、次第に行きわたつて來たけれど、家の女部屋までは、官《カミ》の目も屆くはずはなかつた。家庭の主婦が、居まはりの人を促したてゝ、自身も精勤してするやうな爲事は、あて人の家では、刀自等の受け持ちであつた。若人たちも、田畠に出ぬと言ふばかりで、家の中での爲事は、まだ見參《マヰリマミエ》をせずにゐた田舍暮しの時分と、大差はなかつた。とりわけ違ふのは、其家々の神々に仕へると言ふ、誇りはあるが、小むつかしい事がつけ加へられて居る位のことである。外出には、下人たちの見ぬ樣に、笠を深々とかづき、其下には、更に薄帛を垂らして出かけた。一《イツ》時たゝぬ中に、婢女《メヤツコ》ばかりでなく、自身たちも、田におりたつたと見えて、泥だらけになつて、若人たち十數人は、戻つて來た。皆手に手に、張り切つて發育した、蓮の莖を抱へて、廬の前に竝んだのには、常々くすりとも笑はぬ乳母《オモ》たちさへ、腹の皮をよつて切《セツ》ながつた。郎女《イラツメ》樣。御|覽《ラウ》じませ。竪帳《タツバリ》を手でのけて、姫に見せるだけが、やつとのことであつた。ほう――。何が笑ふべきものか、何が憎むに値するものか、一切知らぬ上 (「藹」の「言」に代えて「月」)《ジヤウラフ》には、唯常と變つた皆の姿が、羨しく思はれた。この身も、その田居とやらにおり立ちたい――。めつさうなこと、仰せられます。めつさうな。きまつて、誇張した顏と口との表現で答へることも、此ごろ、この小社會で行はれ出した。何から何まで縛りつけるやうな、身狹乳母《ムサノチオモ》に對する反感も、此ものまねで幾分、いり合せがつく樣な氣がするのであらう。其日からもう、若人たちの絲縒りは初まつた。夜は、閨の闇の中で寢る女たちには、稀に男の聲を聞くこともある、奈良の垣内《カキツ》住ひが、戀しかつた。朝になると又、何もかも忘れたやうになつて績《ウ》み貯める。さうした絲の、六かせ七かせを持つて出て、郎女に見せたのは、其數日後であつた。乳母《オモ》よ。この絲は、蝶鳥の翼よりも美しいが、蜘蛛の巣《イ》より弱く見えるがよ――。郎女は、久しぶりでにつこりした。勞を犒ふと共に、考への足らぬのを憐むやうである。刀自は、驚いて姫の詞を堰き止めた。なる程、此は脆《サク》過ぎまする。女たちは、板屋に戻つても、長く、健やかな喜びを、皆して語つて居た。全く些《スコ》しの惡意もまじへずに、言ひたいまゝの氣持ちから、田居とやらへおりたちたい――、を反覆した。刀自は、若人を呼び集めて、もつと、きれぬ絲を作り出さねば、物はない。と言つた。女たちの中の一人が、それでは、刀自に、何ぞよい御思案が――。さればの――。昔を守ることばかりはいかついが、新しいことの考へは唯、尋常《ヨノツネ》の婆の如く、愚かしかつた。ゆくりない聲が、郎女の口から洩れた。この身の考へることが、出來ることか試して見や。うま人を輕侮することを、神への忌みとして居た昔人である。だが、かすかな輕《カル》しめに似た氣持ちが、皆の心に動いた。夏引きの麻生《ヲフ》の麻《アサ》を績《ウ》むやうに、そして、もつと日ざらしよく、細くこまやかに―。郎女は、目に見えぬものゝさとしを、心の上で綴つて行くやうに、語を吐いた。板屋の前には、俄かに、蓮の莖が乾し竝べられた。さうして其が乾くと、谷の澱みに持ち下りて浸す。浸しては晒し、晒しては水に漬《ヒ》でた幾日の後、筵の上で槌の音高く、こも/″\、交々《コモヾヽ》と叩き柔らげた。その勤しみを、郎女も時には、端近くゐざり出て見て居た。咎めようとしても、思ひつめたやうな目して見入つて居る姫を見ると、刀自は口を開くことが出來なくなつた。日晒しの莖を、八針《ヤツハリ》に裂き、其を又、幾針にも裂く。郎女の物言はぬまなざしが、ぢつと若人たちの手もとをまもつて居る。果ては、刀自も言ひ出した。私も、績《ウ》みませう。績《ウ》みに績み、又績みに績んだ。藕絲《ハスイト》のまるがせが、日に/\殖えて、廬堂《イホリダウ》の中に、次第に高く積まれて行つた。もう今日は、みな月に入る日ぢやの――。暦《コヨミ》の事を言はれて、刀自はぎよつ[#「ぎよつ」に傍点]とした。ほんに、今日こそ、氷室《ヒムロ》の朔日《ツイタチ》ぢや。さう思ふ下から齒の根のあはぬやうな惡感を覺えた。大昔から、暦は聖《ヒジリ》の與る道と考へて來た。其で、男女は唯、長老《トネ》の言ふがまゝに、時の來又去つた事を教《ヲソ》はつて、村や、家の行事を進めて行くばかりであつた。だから、教へぬに日月を語ることは、極めて聰《サト》い人の事として居た頃である。愈々魂をとり戻されたのか、と瞻《マモ》りながら、はら/\して居る乳母であつた。唯、郎女は復《マタ》、秋分の日の近づいて來て居ることを、心にと言ふよりは、身の内に、そく/\と感じ初めて居たのである。蓮は、池のも、田居のも、極度に長《タ》けて、莟の大きくふくらんだのも、見え出した。婢女《メヤツコ》は、今が刈りしほだ、と教へたので、若人たちは、皆手も足も泥にして、又田に立ち暮す日が續いた。coot.------(^死^)
2006年02月21日
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cont.------十五つた つた つた。郎女は、一向《ヒタスラ》、あの音の歩み寄つて來る畏しい夜更けを、待つやうになつた。をとゝひよりは昨日、昨日よりは今日といふ風に、其跫音が間遠になつて行き、此頃はふつに音せぬやうになつた。その氷の山に對うて居るやうな、骨の疼く戰慄の快感、其が失せて行くのを虞れるやうに、姫は夜毎、鷄のうたひ出すまでは、殆、祈る心で待ち續けて居る。絶望のまゝ、幾晩も仰ぎ寢たきりで、目は晝よりも寤《サ》めて居た。其間に起る夜の間の現象には、一切心が留らなかつた。現にあれほど、郎女の心を有頂天に引き上げた頂板《ツシ》の面《オモテ》の光り輪にすら、明盲《アキジ》ひのやうに、注意は惹かれなくなつてゐる。こゝに來て、疾《ト》くに、七日は過ぎ、十日・半月になつた。山も、野も、春のけしきが整うて居た。野茨の花のやうだつた小櫻が散り過ぎて、其に次ぐ山櫻が、谷から峰かけて、斷續しながら咲いてゐるのも見える。麥原《ムギフ》は、驚くばかり伸び、里人の野爲事に出た姿が、終日、そのあたりに動いてゐる。都から來た人たちの中、何時までこの山陰に、春を起き臥すことか、と佗びる者が殖えて行つた。廬堂の近くに掘り立てた板屋に、かう長びくと思はなかつたし、まだどれだけ續くかも知れぬ此生活に、家ある者は、妻子に會ふことばかりを考へた。親に養はれる者は、家の父母の外にも、隱れた戀人を思ふ心が、切々として來るのである。女たちは、かうした場合にも、平氣に近い感情で居られる長い暮しの習しに馴れて、何か、と爲事を考へてはして居る。女方の小屋は、男のとは別に、もつと廬に接して建てられて居た。身狹乳母《ムサノチオモ》の思ひやりから、男たちの多くは、唯さへ小人數な奈良の御館《ミタチ》の番に行け、と言つて還され、長老《オトナ》一人の外は、唯 雜用《ザフヨウ》をする童と、奴隷《ヤツコ》位しか殘らなかつた。乳母《オモ》や、若人たちも、薄々は帳臺の中で夜を久しく起きてゐる、郎女の樣子を感じ出して居た。でも、なぜさう夜深く溜め息ついたり、うなされたりするか、知る筈のない昔かたぎ[#「かたぎ」に傍点]の女たちである。やはり、郎女の魂《タマ》があくがれ出て、心が空しくなつて居るもの、と單純に考へて居る。ある女は、魂ごひの爲に、山尋ねの咒術《オコナヒ》をして見たらどうだらう、と言つた。乳母は一口に言ひ消した。姫樣、當麻に御安著なされた其夜、奈良の御館へ計はずに、私にした當麻眞人《タギマノマヒト》の家人たちの山尋ねが、わるい結果を呼んだのだ。當麻語部とか謂つた蠱物《マジモノ》使ひのやうな婆が、出しやばつての差配が、こんな事を惹き起したのだ。その節、山の峠《タワ》の塚で起つた不思議は、噂になつて、この貴人《ウマビト》一家の者にも、知れ渡つて居た。あらぬ者の魂を呼び出して、郎女樣におつけ申しあげたに違ひない。もう/\、輕はずみな咒術《オコナヒ》は、思ひとまることにしよう。かうして、魂《タマ》の游離《アクガ》れ出た處の近くにさへ居れば、やがては、元のお身になり戻り遊されることだらう。こんな風に考へて、乳母は唯、氣長に氣ながに、と女たちを諭し/\した。こんな事をして居る中に、早一月も過ぎて櫻の後、暫らく寂しかつた山に、躑躅が燃え立つた。足も行かれぬ崖の上や、巖の腹などに、一群々々《ヒトムラヽヽヽヽ》咲いて居るのが、奧山の春は今だ、となのつて居るやうである。ある日は、山へ/\と、里の娘ばかりが上つて行くのを見た。凡數十人の若い女が、何處で宿つたのか、其次の日、てんでに赤い山の花を髮にかざして、降りて來た。廬の庭から見あげた若女房の一人が、山の躑躅林《ツヽジバヤシ》が練つて降るやうだ、と聲をあげた。ぞよ/\と廬の前を通る時、皆頭をさげて行つた。其中の二三人が、つくねんとして暮す若人たちの慰みに呼び入れられて、板屋の端へ來た。當麻の田居も、今は苗代時である。やがては田植ゑをする。其時は、見に出やしやれ。こんな身でも、其時はずんと、をなごぶりが上るぞな、と笑ふ者もあつた。]こゝの田居の中で、植ゑ初めの田は、腰折れ田と言うて、都までも聞えた物語りのある田ぢやげな。若人たちは、又例の蠱物姥《マヂモノウバ》の古語りであらう、とまぜ返す。ともあれ、かうして、山ごもりに上つた娘だけに、今年の田の早處女《サウトメ》が當ります。其しるしが此ぢや、と大事さうに、頭の躑躅に觸れて見せた。もつと變つた話を聞かせぬかえと誘はれて、身分に高下はあつても、同じ若い同士のことゝて、色々な田舍咄をして行つた。其を後《ノチ》に乳母《オモ》たちが聽いて、氣にしたことがあつた。山ごもりして居ると、小屋の上の崖をどう/″\と踏みおりて來る者がある。ようべ、眞夜中のことである。一樣にうなされて、苦しい息をついてゐると、音はそのまゝ、眞下へ眞下へ、降つて行つた。がら/″\と、岩の崩《ク》える響。――ちようど其が、此廬堂の眞上の高處《タカ》に當つて居た。こんな處に道はない筈ぢやが、と今朝起きぬけに見ると、案の定《ヂヤウ》、赤岩の大崩崖《オホナギ》。ようべの音は、音ばかりで、ちつとも痕は殘つて居なかつた。其で思ひ合せられるのは、此頃ちよく/\、子から丑の間に、里から見えるこのあたりの峰《ヲ》の上《ヘ》に、光り物がしたり、時ならぬ一時颪《イツトキオロシ》の凄い唸りが、聞えたりする。今までつひに[#「つひに」に傍点]聞かぬこと。里人は唯かう、恐れ謹しんで居る、とも言つた。こんな話を殘して行つた里の娘たちも、苗代田の畔に、めい/\のかざしの躑躅花を(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている)して歸つた。其は晝のこと、田舍は田舍らしい閨の中に、今は寢ついたであらう。夜はひた更けに、更けて行く。晝の恐れのなごりに、寢苦しがつて居た女たちも、おびえ疲れに寢入つてしまつた。頭上の崖で、寢鳥の鳴き聲がした。郎女は、まどろんだとも思はぬ目を、ふつと開いた。續いて今ひと響き、びしとしたのは、鳥などの、翼ぐるめき裂かれたらしい音である。だが其だけで、山は音どころか、生き物も絶えたやうに、虚しい空間の闇に、時間が立つて行つた。郎女の額《ヌカ》の上の天井の光りの暈《カサ》が、ほの/″\と白んで來る。明りの隈はあちこちに偏倚《カタヨ》つて、光りを竪にくぎつて行く。と見る間に、ぱつと明るくなる。そこに大きな花。蒼白い菫。その花びらが、幾つにも分けて見せる隈、佛の花の青蓮華《シヤウレンゲ》と言ふものであらうか。郎女の目には、何とも知れぬ淨らかな花が、車輪のやうに、宙にぱつと開いてゐる。仄暗い蕋の處に、むら/\と雲のやうに、動くものがある。黄金の蕋をふりわける。其は黄金の髮である。髮の中から匂ひ出た莊嚴な顏。閉ぢた目が、憂ひを持つて、見おろして居る。あゝ肩・胸・顯はな肌。――冷え/″\とした白い肌。をゝ おいとほしい。郎女は、自身の聲に、目が覺めた。夢から續いて、口は尚夢のやうに、語を逐うて居た。おいとほしい。お寒からうに――。------cont.(~死~)
2006年02月20日
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cont.案じるなよ。庭が行き屆き過ぎて居る、と思うてるのだらう。そんなことはないさ。庭はよくても、亡びた人ばかりはないさ。淡海公の御館はどうだ。どの筋でも引き繼がずに、今に荒してはあるが、あの立派さは。それあの山部の何とか言つた、地下《ヂゲ》の召《メ》し人《ビト》の歌よみが、おれの三十になつたばかりの頃、「昔見し舊《フル》き堤は、年深み…年深み、池の渚に、水草《ミクサ》生ひにけり」とよんだ位だが、其後が、これ此樣に四流にも岐れて榮えてゐる。もつとあるぞ――。なに、庭などによるものぢやないは。[#ここで字下げ終わり]恃《タノ》む所の深い此あて人は、庭の風景の、目立つた個處々々を指摘しながら、其據る所を、日本《ヤマト》・漢土《モロコシ》に渉つて説明した。長い廊を、數人の童《ワラハ》が續いて來る。日ずかしです。お召しあがり下されませう。改つて、簡單な饗應の挨拶をした。まらうどに、早く酒を獻じなさい、と言つてゐる間に、美しい采女《ウネメ》が、盃を額より高く捧げて出た。をゝ、それだけ受けて頂けばよい。舞ひぶりを一つ、見て貰ひなさい。家持は何を考へても、先を越す敏感な主人に對して、唯虚心で居るより外はなかつた。うねめは、大伴の氏(ノ)上へは、まだくださらぬのだつたね。藤原では、存知でもあらうが、先例が早くからあつて、淡海公が、近江の宮から頂戴した故事で、頂く習慣になつて居ります。時々、こんな畏まつたもの言ひもまじへる。兵部大輔は、自身の語づかひにも、初中終《シヨツチユウ》氣扱ひをせねばならなかつた。氏[#(ノ)]上もな、身が執《シフ》心で、兄公殿を太宰府へ追ひまくつて、後にすわらうとするのだ、と言ふ奴があるといの――。やつぱり「奴はやつこどち」ぢやの。さう思ふよ。時に女姪《メヒ》の姫だが――。さすがの聰明第一の大師も、酒の量は少かつた。其が、今日は幾分いけた、と見えて、話が循環して來た。家持は、一度はぐらかされた緒口《イトグチ》に、とりついた氣で、横佩 墻内《カキツ》の郎女《イラツメ》は、どうなるでせう。社・寺、それとも宮――。どちらへ向いても、神さびた一生。あつたら惜しいものでおありだ。氣にするな。氣にするな。氣にしたとて、どう出來るものか。此は――もう、人間の手へは、戻らぬかも知れんぞ。末は、獨り言になつて居た。さうして、急に考へ深い目を凝した。池へ落した水音は、未《ヒツジ》がさがると、寒々と聞えて來る。早く、躑躅の照る時分になつてくれぬかなあ。一年中で、この庭の一番よい時が、待ちどほしいぞ。大師藤原(ノ)惠美(ノ)押勝朝臣の聲は、若々しい、純な欲望の外、何の響きもまじへて居なかつた。-----cont.(~死~)
2006年02月20日
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cont.-----十四貴人《ウマビト》はうま人どち、やつこは奴隷《ヤツコ》どち、と言ふからの――。何時見ても、大師《タイシ》は、微塵《ミヂン》曇りのない、圓《マド》かな相好《サウガウ》である。其に、ふるまひのおほどかなこと。若くから氏上《ウヂノカミ》で、數十|家《ケ》の一族や、日本國中數萬の氏人《ウヂビト》から立てられて來た家持《ヤカモチ》も、ぢつと對うてゐると、その靜かな威に、壓せられるやうな氣がして來る。言はしておくがよい。奴隷《ヤツコ》たちは、とやかくと口さがないのが、其爲事よ。此身とお身とは、おなじ貴人《ウマビト》ぢや。おのづから、話も合はうと言ふもの。此身が、段々なり上《ノボ》ると、うま人までがおのづとやつこ心になり居つて、いや嫉むの、そねむの。家持は、此が多聞天か、と心に問ひかけて居た。だがどうも、さうは思はれぬ。同じかたどつて作るなら、とつい聯想が逸れて行く。八年前、越中(ノ)國から歸つた當座の、世の中の豐かな騷ぎが、思ひ出された。あれからすぐ、大佛開眼《カイゲン》供養が行はれたのであつた。其時、近々と仰ぎ奉つた尊容、八十種好《ハチジフシユガウ》具足した、と謂はれる其相好が、誰やらに似てゐる、と感じた。其がその時は、どうしても思ひ浮ばずにしまつた。その時の印象が、今ぴつたり、的にあてはまつて來たのである。かうして對ひあつて居る主人の顏なり、姿なりが、其まゝあの廬遮那《ルサナ》ほとけの俤だ、と言つて、誰が否まう。お身も、少し咄したら、えゝではないか。官位《カウブリ》はかうぶり。昔ながらの氏は氏――。なあ、さう思はぬか。紫微中臺の、兵部省のと、位づけるのは、うき世の事だは。家《ウチ》に居る時だけは、やはり神代以來《カミヨイライ》の氏上《ウヂノカミ》づきあひが、えゝ。新しい唐の制度の模倣ばかりして、漢土《モロコシ》の才《ザエ》が、やまと心に入り替つたと謂はれて居る此人が、こんな嬉しいことを言ふ。家持は、感謝したい氣がした。理會者・同感者を、思ひまうけぬ處に見つけ出した嬉しさだつたのである。お身は、宋玉や、王褒の書いた物を大分持つて居ると言ふが、太宰府へ行つた時に、手に入れたのぢやな。あんな若い年で、わせだつたのだなう。お身は――。お身の氏では、古麻呂《コマロ》。身の家に近しい者でも奈良麻呂。あれらは漢魏はおろか、今の唐の小説なども、ふり向きもせんから、言ふがひない話ぢやは。兵部大輔は、やつと話のつきほを捉へた。お身さまのお話ぢやが、わしは、賦の類には飽きました。どうもあれが、この四十面さげてもまだ、涙もろい歌や、詩の出て來る元になつて居る――さうつく/″\思ひますぢやて。ところで近頃は、方《カタ》を換へて、張文成を拾ひ讀みすることにしました。この方が、なんぼか――。大きに、其は、身も賛成ぢや。ぢやが、お身がその年になつても、まだ二十《ハタチ》代の若い心や、瑞々しい顏を持つて居るのは、宋玉のおかげぢやぞ。まだなか/\隱れては歩き居《ヲ》る、と人の噂ぢやが、嘘ぢやなからう。身が保證する。おれなどは、張文成ばかり古くから讀み過ぎて、早く精氣の盡きてしまうた心持ちがする。――ぢやが全く、文成はえゝなう。あの仁《ジン》に會うて來た者の話では、豬肥《ヰノコヾ》えのした、唯の漢土《モロコシ》びとぢやつたげなが、心はまるで、やまとのものと、一つと思ふが、お身なら、諾《ウベナ》うてくれるだらうの。文成に限る事ではおざらぬが、あちらの物は、讀んで居て、知らぬ事ばかり教へられるやうで、時々ふつと思ひ返すと、こんな思はざつた考へを、いつの間にか、持つてゐる――そんな空恐しい氣さへすることが、ありますて。お身さまにも、そんな經驗《オボエ》は、おありでがな。大ありおほ有り。毎日々々、其よ。しまひに、どうなるのぢや。こんなに智慧づいては、と思はれてならぬことが――。ぢやが、女子《ヲミナゴ》だけには、まづ當分、女部屋のほの暗い中で、こんな智慧づかぬ、のどかな心で居させたいものぢや。第一其が、われ/\男の爲ぢやて。家持は、此了解に富んだ貴人に向つては、何でも言つてよい、青年のやうな氣が湧いて來た。さやう/\。智慧を持ち初めては、あの欝《イブセ》い女部屋には、ぢつとして居ませぬげな。第一、横佩墻内《ヨコハキカキツ》の――此はいけぬ、と思つた。同時に、此|臆《オク》れた氣の出るのが、自分を卑《ヒク》くし、大伴氏を、昔の位置から自ら蹶落す心なのだ、と感じる。好《エヽ》、好《エヽ》。遠慮はやめやめ。氏(ノ)上づきあひぢやもの。ほい又出た。おれはまだ、藤原の氏上に任ぜられた訣やぢあ、なかつたつけの。瞬間、暗い顏をしたが、直にさつと眉の間から、輝きが出て來た。身の女姪《メヒ》が神隱しにあうたあの話か。お身は、あの謎見たいないきさつを、さう解《ト》るかね。ふん。いやおもしろい。女姪の姫も、定めて喜ぶぢやらう。實はこれまで、内々消息を遣して、小あたりにあたつて見た、と言ふ口かね、お身も。大きに。今度は輕い心持ちが、大膽に押勝の話を受けとめた。お身さまが經驗《タメシ》ずみぢやで、其で、郎女の才高《ザエダカ》さと、男擇びすることが訣りますな――。此は――。額《ヒタヒ》ざまに切りつけるぞ――。免せ/\と言ふところぢやが、――あれはの、生れだちから違ふものな。藤原の氏姫ぢやからの。枚岡《ヒラヲカ》の齋《イツ》き姫にあがる宿世《スクセ》を持つて生れた者ゆゑ、人間の男は、彈く、彈く、彈きとばす。近よるまいぞよ。はゝはゝゝ。大師は、笑ひをぴたりと止めて、家持の顏を見ながら、きまじめな表情になつた。ぢやがどうも――。聽き及んでのことゝ思ふが、家出の前まで、阿彌陀經の千部寫經をして居たと言ふし、樂毅論から兄の殿の書いた元興寺縁起も、其前に手習もしたらしいし、まだ/″\孝經などは、これぽつちの頃に習うた、と言ふし、なか/\の女博士《ヲナゴハカセ》での。楚辭や、小説にうき身をやつす身や、お身は近よれぬはなう。霜月・師走の垣毀雪女《カイコボチヲナゴ》ぢやもの。――どうして其だけの女子《ヲミナゴ》が、神隱しなどに逢はうかい。第一、場處が、あの當麻で見つかつたと言ひますからの――。併し其は、藤原に全く縁のない處でもない。天(ノ)二上は、中臣壽詞《ナカトミノヨゴト》にもあるし……。齋《イツ》き姫《ヒメ》もいや、人の妻と呼ばれるのもいや――で、尼になる氣を起したのでないか、と考へると、もう不安で不安でなう。のどかな氣持ちばかりでも居られぬて――。押勝の眉は集つて來て、皺一つよせぬ美しい、この老いの見えぬ貴人の顏も、思ひなし、ひずんで見えた。何しろ、嫋女《タワヤメ》は國の寶ぢやでなう。出來ることなら、人の物にはせず、神の物にしておきたいところぢやが、――人間の高望《タカノゾ》みは、さうばかりもさせてはおきをらぬがい――。ともかく、むざ/″\尼寺へやる訣にはいかぬ。ぢやが、お身さま。一人出家すれば、と云ふ詞が、この頃はやりになつて居りますが……。九族が天に生じて、何になるといふのぢや。寶は何百人かゝつても、作り出せるものではないぞよ。どだい兄公殿《アニキドノ》が、少し佛|凝《ゴ》りが過ぎるでなう――。自然 内《ウチ》うらまで、そんな氣風がしみこむやうになつたかも知れぬぞ――。時に、お身のみ館の郎女《イラツメ》も、そんな育てはしてあるまいな。其では、家《ウチ》の久須麻呂が泣きを見るからの。人の惡いからかひ笑みを浮べて、話を無理にでも脇へ釣り出さうと努めるのは、考へるのも切ない胸の中が察せられる。兄公殿《アニキドノ》は氏(ノ)上に、身は氏助《ウヂノスケ》と言ふ訣なのぢやが、肝腎齋き姫で、枚岡に居させられる叔母御は、もうよい年ぢや。去年春日祭りに、女使ひで上られた姿を見て、神《カン》さびたものよ、と思うたぞ。今《モ》一代此方から進ぜなかつたら、齋き姫になる娘の多い北家の方がすぐに取つて替つて、氏(ノ)上に据るは。兵部大輔にとつても、此はもう、他事《ヒトゴト》ではなかつた。おなじ大伴幾流の中から、四代續いて氏(ノ)上職を持ち堪《コタ》へたのも、第一は宮廷の御恩徳もあるが、世の中のよせが重かつたからである。其には、一番大事な條件として、美しい齋き姫が、後から後と此家に出て、とぎれることがなかつた爲でもある。大伴の家のは、表向き壻どりさへして居ねば、子があつても、齋き姫は勤まる、と言ふ定めであつた。今の阪(ノ)上(ノ)郎女は、二人の女子《ヲミナゴ》を持つて、やはり齋き姫である。此は、うつかり出來ない。此方《コチラ》も藤原同樣、叔母御が齋姫《イツキ》で、まだそんな年でない、と思うてゐるが、又どんなことで、他流の氏姫が、後を襲ふことにならぬとも限らぬ。大伴・佐伯《サヘキ》の數知れぬ家々・人々が、外の大伴へ、頭をさげるやうになつてはならぬ。かう考へて來た家持の心の動搖などには、思ひよりもせぬ風で、こんな話は、よそほかの氏(ノ)上に言ふべきことでないが、兄公殿《アニキドノ》があゝして、此先何年、難波にゐても、太宰府に居ると言ふが表面《オモテ》だから、氏の祭りは、枚岡・春日と、二處に二度づゝ、其外、週《マハ》り年には、時々鹿島香取の東路《アヅマヂ》のはてにある舊社《モトヤシロ》の祭りまで此方で勤めねばならぬ。實際よそほかの氏(ノ)上よりも、此方《コチラ》の氏助ははたらいてゐるのだが、――だから、自分で、氏(ノ)上の氣持ちになつたりする。――もう一層なつてしまふかな。お身はどう思ふ。こりや、答へる訣にも行くまい。氏(ノ)上に押し直らうとしたところで、今の身の考へ一つを抂げさせるものはない。上樣方に於かせられて、お叱りの御沙汰《ゴサタ》を下しおかれぬ限りは――。京中で、此惠美屋敷ほど、庭を嗜んだ家はないと言ふ。門は、左京二條三坊に、北に向いて開いて居るが、主人家族の住ひは、南を廣く空《ア》けて、深々とした山齋《ヤマ》が作つてある。其に入りこみの多い池を周らし、池の中の島も、飛鳥の宮風に造られて居た。東の中《ナカ》み門《カド》、西の中《ナカ》み門《カド》まで備つて居る。どうかすると、庭と申さうより、寛々《クワンヽヽヽ》とした空き地の廣くおありになる宮よりは、もつと手入れが屆いて居さうな氣がする。庭を立派にして住んだ、うま人たちの末々の樣が、兵部大輔の胸に來た。瞬間、憂欝な氣持ちがかぶさつて來て、前にゐる大師の顏を見るのが、氣の毒な樣に思はれる。-------cont.(^死^)
2006年02月20日
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It's begining the last week of Feb...Nener not to be out of servise!!!Let's start to new job.AND...Which day of the week do you like??-----"一週間"(ロシア民謡)楽団カチューシャ訳詞♪~♪日曜日に 市場(いちば)へでかけ糸と麻(あさ)を 買ってきたテュリャ テュリャ テュリャテュリャ テュリャ テュリャリャテュリャ テュリャ テュリャテュリャ リャ♪月曜日に おふろをたいて火曜日は おふろにはいりテュリャ テュリャ テュリャテュリャ テュリャ テュリャリャテュリャ テュリャ テュリャテュリャ リャ♪水曜日に ともだちが来て木曜日は 送っていったテュリャ テュリャ テュリャテュリャ テュリャ テュリャリャテュリャ テュリャ テュリャテュリャ リャ♪金曜日は 糸まきもせず土曜日は おしゃべりばかりテュリャ テュリャ テュリャテュリャ テュリャ テュリャリャテュリャ テュリャ テュリャテュリャ リャ♪ともだちよ これが私の一週間の 仕事ですテュリャ テュリャ テュリャテュリャ テュリャ テュリャリャテュリャ テュリャ テュリャテュリャ リャ*******"Blue Monday"Artist's "New Order"♪~♪How does it feelTo treat me like you doWhen you’ve laid your hands upon meAnd told me who you areI thought I was mistakenI thought I heard your wordsTell me how do I feelTell me now how do I feelThose who came before meLived through their vocationsFrom the past until completionThey will turn away no moreAnd I still find it so hardTo say what I need to sayBut I’m quite sure that you’ll tell meJust how I should feel todayI see a ship in the harborI can and shall obeyBut if it wasn’t for your misfortunesI’d be a heavenly person todayAnd I thought I was mistakenAnd I thought I heard you speakTell me how do I feelTell me now how should I feelNow I stand here waitingI thought I told you to leave meWhile I walked down to the beachTell me how does it feelWhen your heart grows cold(grows cold, grows cold, grows cold)------"New Order"s profile 1976年にイギリスのマンチェスターでセックス・ピストルズのステージを見ていたバーナード・サムナーとピーター・フックが出会い、スティッフ・キトゥンズというグループを結成。その二人がイアン・カーティスに出会い、ワルシャワとバンド名を変え77年5月にはデビュー・ギグが行われる。そこにドラマーのスティーヴン・モリスが参加する事となり78年にはジョイ・ディヴィジョンと再度バンド名を変え偉大なるグループの歴史が始まる。*******By the way...-----In "My personal history"series on today's(2/20) paper of NIKEI SHINBUN, Jack-Nicklaus says about his makeing comeback----"Jack is back"!!『ジャックが帰ってきた』----"Jack William Nicklaus"1940年、アメリカ・オハイオ州コロンバス出身。米ツアー70勝、世界四大大会(メジャー)18勝を誇るゴルフ史上最高の名選手。トレードマークの金髪により「ゴールデン・ベア」と称され、日本では「帝王」と呼ばれる。2005年に歴代優勝者の資格で出場を続けていたマスターズと全英オープンからの引退を表明した。*************cont.-----十三「朝目よく」うるはしい兆《シルシ》を見た昨日は、郎女にとつて、知らぬ經驗を、後から後から展いて行つたことであつた。たゞ人《ヒト》の考へから言へば、苦しい現實のひき續きではあつたのだが、姫にとつては、心驚く事ばかりであつた。一つ/\變つた事に逢ふ度に、「何も知らぬ身であつた」、と姫の心の底の聲が揚つた。さうして、その事毎に、挨拶をしてはやり過したい氣が、一ぱいであつた。今日も其續きを、くはしく見た。なごり惜しく過ぎ行く現《ウツ》し世のさま/″\。郎女は、今目を閉ぢて、心に一つ/\收めこまうとして居る。ほのかに通り行き、將《ハタ》著しくはためき過ぎたもの――。宵闇の深くならぬ先に、廬《イホリ》のまはりは、すつかり手入れがせられて居た。燈臺も大きなのを、寺から借りて來て、煌々と、油火《ビ》が燃えて居る。明王像も、女人のお出での場處には、すさまじいと言ふ者があつて、どこかへ搬んで行かれた。其よりも、郎女の爲には、帳臺の設備《シツラ》はれてゐる安らかさ。今宵は、夜も、暖かであつた。帷帳《トバリ》を周らした中は、ほの暗かつた。其でも、山の鬼神《モノ》、野の魍魎《モノ》を避ける爲の燈の渦が、ぼうと梁に張り渡した頂板《ツシイタ》に搖《ユラ》めいて居るのが、たのもしい氣を深めた。帳臺のまはりには、乳母や、若人が寢たらしい。其ももう、一時《ヒトヽキ》も前の事で、皆すや/\と寢息の音を立てゝ居る。姫の心は、今は輕かつた。たとへば、俤に見たお人には逢はずとも、その俤を見た山の麓に來て、かう安らかに身を横へて居る。燈臺の明りは、郎女の額の上に、高く朧ろに見える光の輪を作つて居た。月のやうに圓くて、幾つも上へ/\と、月輪《グワチリン》の重つてゐる如くも見えた。其が、隙間風の爲であらう。時々薄れて行くと、一つの月になつた。ぽうつと明り立つと、幾重にも隈の疊まつた、大きな圓かな光明になる。幸福に充ちて、忘れて居た姫の耳に、今宵も谷の響きが聞え出した。更けた夜空には、今頃やつと、遲い月が出たことであらう。物の音。――つた つたと來て、ふうと佇《タ》ち止るけはひ。耳をすますと、元の寂かな夜に――激《タギ》ち降《クダ》る谷のとよみ。つた つた つた。又、ひたと止《ヤ》む。この狹い廬の中を、何時まで歩く、跫音だらう。つた。郎女は刹那、思ひ出して帳臺の中で、身を固くした。天若御子《アメワカミコ》――。ようべ、當麻語部嫗《タギマノカタリノオムナ》の聞した物語り。あゝ其お方の、來て窺ふ夜なのか。刀自もがも。女弟《オト》もがも。その子の はらからの子の處女子《ヲトメゴ》の 一人一人だに わが配偶《ツマ》に來よまことに畏しいと言ふことを覺えぬ郎女にしては、初めてまざ/″\と、壓へられるやうな畏《コハ》さを知つた。あゝあの歌が、胸に生《イ》き蘇《カヘ》つて來る。忘れたい歌の文句が、はつきりと意味を持つて、姫の唱へぬ口の詞から、胸にとほつて響く。乳房から迸り出ようとするときめき。帷帳《トバリ》がふはと、風を含んだ樣に皺だむ。ついと、凍る樣な冷氣――。郎女は目を瞑つた。だが――瞬間睫の間から映《ウツ》つた細い白い指、まるで骨のやうな――帷帳《トバリ》を掴んだ片手の白く光る指。なも 阿彌陀ほとけ。あなたふと 阿彌陀ほとけ。[#ここで字下げ終わり]何の反省もなく、唇を洩れた詞。この時、姫の心は、急に寛ぎを感じた。さつと――汗。全身に流れる冷さを覺えた。畏《コハ》い感情を持つたことのないあて人の姫は、直《スグ》に動顛した心を、とり直すことが出來た。なう/\。あみだほとけ……。今一度口に出して見た。をとゝひまで、手寫しとほした、稱讃淨土經《シヤウサンジヤウドキヤウ》の文《モン》が胸に浮ぶ。郎女は、昨日までは一度も寺道場を覗いたこともなかつた。父君は家の内に道場を構へて居たが簾越しにも聽聞《モン》は許されなかつた。御經《オンキヤウ》の文《モン》は手寫しても、固より意趣は、よく訣らなかつた。だが、處々には、かつ/″\氣持ちの汲みとれる所があつたのであらう。さすがに、まさかこんな時、突嗟に口に上らう、とは思うて居なかつた。白い骨、譬へば白玉の竝んだ骨の指、其が何時までも目に殘つて居た。帷帳《トバリ》は元のまゝに垂れて居る。だが、白玉の指ばかりは細々と、其に絡んでゐるやうな氣がする。悲しさとも、懷しみとも知れぬ心に、深く、郎女は沈んで行つた。山の端に立つた俤びとは、白々《シロヾヽ》とした掌をあげて、姫をさし招いたと覺えた。だが今、近々と見る其手は、海の渚の白玉のやうに、からびて寂しく、目にうつる。長い渚を歩いて行く。郎女の髮は、左から右から吹く風に、あちらへ靡き、こちらへ亂れする。浪はたゞ、足もとに寄せてゐる。渚と思うたのは、海の中道《ナカミチ》である。浪は兩方から打つて來る。どこまでも/\、海の道は續く。郎女の足は、砂を踏んでゐる。その砂すらも、段々水に掩はれて來る。砂を踏む。踏むと思うて居る中に、ふと其が、白々とした照る玉だ、と氣がつく。姫は身を屈《コヾ》めて、白玉を拾ふ。拾うても/\、玉は皆、掌《タナソコ》に置くと、粉の如く碎けて、吹きつける風に散る。其でも、玉を拾ひ續ける。玉は水隱《ミガク》れて、見えぬ樣になつて行く。姫は悲しさに、もろ手を以て掬《スク》はうとする。掬《ムス》んでも/\、水のやうに手股《タナマタ》から流れ去る白玉――。玉が再、砂の上につぶ/\竝んで見える。忙《アワタヾ》しく拾はうとする姫の俯《ウツム》いた背を越して、流れる浪が泡立つてとほる。姫は――やつと、白玉を取りあげた。輝く、大きな玉。さう思うた刹那、郎女の身は、大浪にうち仆される。浪に漂ふ身……衣もなく、裳《モ》もない。抱き持つた等身の白玉と一つに、水の上に照り輝く現《ウツ》し身。ずん/\とさがつて行く。水底《ミナゾコ》に水漬《ミヅ》く白玉なる郎女の身は、やがて又、一幹《ヒトモト》の白い珊瑚の樹《キ》である。脚を根、手を枝とした水底の木。頭に生ひ靡くのは、玉藻であつた。玉藻が、深海のうねりのまゝに、搖れて居る。やがて、水底にさし入る月の光り――。ほつと息をついた。まるで、潜《カヅ》きする海女《アマ》が二十尋《ハタヒロ》・三十尋《ミソヒロ》の水《ミナ》底から浮び上つて嘯《ウソフ》く樣に、深い息の音で、自身明らかに目が覺めた。あゝ夢だつた。當麻まで來た夜道の記憶は、まざ/″\と殘つて居るが、こんな苦しさは覺えなかつた。だがやつぱり、をとゝひの道の續きを辿つて居るらしい氣がする。水の面からさし入る月の光り。さう思うた時は、ずん/″\海面に浮き出て來た。さうして悉く、跡形もない夢だつた。唯、姫の仰ぎ寢る頂板《ツシイタ》に、あゝ、水にさし入つた月。そこに以前のまゝに、幾つも暈《カサ》の疊まつた月輪の形が、搖《ユラ》めいて居る。なう/\ 阿彌陀ほとけ……。再、口に出た。光りの暈は、今は愈々明りを増して、輪と輪との境の隈々《クマヾヽ》しい處までも見え出した。黒ずんだり、薄暗く見えたりした隈が、次第に凝り初めて、明るい光明の中に、胸・肩頭髮、はつきりと形を現《ゲン》じた。白々と袒《ヌ》いだ美しい肌。淨く伏せたまみが、郎女の寢姿を見おろして居る。かの日《ヒ》の夕《ユフベ》、山の端《ハ》に見た俤びと――。乳のあたりと、膝元とにある手――その指《オヨビ》、白玉の指《オヨビ》。姫は、起き直つた。天井の光りの輪が、元のまゝに、たゞ仄かに事もなく搖れて居た。*******cont.(^死^)
2006年02月20日
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Today's The third sunday of Feb.Why don't you go for a walk in a early-spring breeze.!!!-----"Sombre dimanche" "暗い日曜日"performed by "Damia"♪~♪Sombre dimanche... Les bras tout charges de fleurs暗い日曜日... 一杯の花束を腕に抱えてJe suis entre dans notre chambre le coeur las私たちの(愛の巣だった)部屋に、疲れた心を抱えて戻ってきたCar je savais deja que tu ne viendrais pasもう貴方がもう戻ってこないことは私にも分かっていますEt j'ai chante des mots d'amour et de douleurそれでも私は愛と苦悩の思いを込めて唄うJe suis reste tout seul et j'ai pleure tout bas私は一人ぼっちで残されて、声を殺してすすり泣いてましたEn ecoutant hurler la plainte des frimas ... 木枯しの呻(うめ)くような苦悩の叫びを聞きながら...Sombre dimanche...暗い日曜日... Je mourrai un dimanche ou j'aurai trop souffert私はいつか日曜日が来たら死んでしまいたい気持ちでいますAlors tu reviendras, mais je serai partiたとえ貴方が戻ってきたとしても、もう私の心はここにはないDes cierges bruleront comme un ardent espoir一縷の望みを持って蝋燭(ろうそく)の束を燃やしてみてEt pour toi, sans effort, mes yeux seront ouvertsだだ貴方のためを思い、気持ちを込めて、両の眼(まなこ)を開いていますN'aie pas peur, mon amour, s'ils ne peuvent te voir悲しむことはない、私の愛がある限り、たとえ二度と貴方に見(まみ)えることができなくてもls te diront que je t'aimais plus que ma vie その眼(まなこ)は言うだろう、今でも私の命の限り貴方を愛していたとSombre dimanche.暗い日曜日--------"暗い日曜日"(Szomorú vasárnap, Gloomy Sunday, Sombre Dimanche)シェレッシュ・レジェー作曲、ヤーヴォル・ラースロー作詞で1933年に発表された歌desu.--------Blow,English one.--------"Gloomy Sunday"Sunday is Gloomy,My hours are slumberless,Dearest, the shadows I live with are numberlessLittle white flowers will never awaken youNot where the black coach of sorrow has taken youAngels have no thought of ever returning youWould they be angry if I thought of joining youGloomy SundaySunday is gloomywith shadows I spend it allMy heart and I have decided to end it allSoon there'll be flowers and prayers that are sad,I know, let them not weep,Let them know that I'm glad to goDeath is no dream,For in death I'm caressing youWith the last breath of my soul I'll be blessing youGloomy SundayDreamingI was only dreamingI wake and I find youAsleep in the deep ofMy heartDearDarling I hope that my dream never haunted youMy heart is telling you how much I wanted youGloomy Sunday --------cont.十二怒りの瀧のやうになつた額田部(ノ)子古は、奈良に還つて、公に訴へると言ひ出した。大和國にも斷つて、寺の奴ばらを追ひ放つて貰ふとまで、いきまいた。大師《タイシ》を頭《カシラ》に、横佩家に深い筋合ひのある貴族たちの名をあげて、其方々からも、何分の御吟味を願はずには置かぬ、と凄い顏をして、住侶たちを脅かした。郎女は、貴族の姫で入らせられようが、寺の淨域を穢し、結界まで破られたからは、直にお還りになるやうには計はれぬ。寺の四至の境に在る所で、長期の物忌みして、その贖《アガナ》ひはして貰はねばならぬ、と寺方も、言ひ分はひつこめなかつた。理分にも非分にも、これまで、南家の權勢でつき通して來た家長老《オトナ》等にも、寺方の扱ひと言ふものゝ、世間どほりにはいかぬ事が訣《ワカ》つて居た。乳母《オモ》に相談かけても、一代さう言ふ世事に與つた事のない此人は、そんな問題には、詮《カヒ》ない唯の、女性《ニヨシヤウ》に過ぎなかつた。先刻《サツキ》からまだ立ち去らずに居た當麻語部の嫗が、口を出した。其は、寺方が、理分でおざるがや。お隨ひなされねばならぬ。其を聞くと、身狹(ノ)乳母は、激しく、田舍語部《ヰナカカタリベ》の老女を叱りつけた。男たちに言ひつけて、疊にしがみつき、柱にかき縋る古婆《フルバヾ》を掴み出させた。さうした威高さは、さすがに自《オノヅカ》ら備つてゐた。何事も、この身などの考へではきめられぬ。帥《ソツ》の殿《トノ》に承らうにも、國遠し。まづ姑《シバ》し、郎女樣のお心による外はないもの、と思ひまする。其より外には、方《ハウ》もつかなかつた。奈良の御館の人々と言つても、多くは、此人たちの意見を聽いてする人々である。よい思案を、考へつきさうなものも居ない。難波へは、直樣、使ひを立てることにして、とにもかくにも、當座は、姫の考へに任せよう、と言ふことになつた。郎女樣。如何お考へ遊ばしまする。おして、奈良へ還れぬでも御座りませぬ。尤、寺方でも、候人《サブラヒヾト》や、奴隷《ヤツコ》の人數を揃へて、妨げませう。併し、御館《ミタチ》のお勢ひには、何程の事でも御座りませぬ。では御座りまするが、お前さまのお考へを承らずには、何とも計ひかねまする。御思案お洩し遊ばされ。謂はゞ、難題である。あて人の娘御に、出來よう筈のない返答である。乳母《オモ》も、子古《コフル》も、凡は無駄な伺ひだ、と思つては居た。ところが、郎女の答へは、木魂返《コダマガヘ》しの樣に、躊躇《タメラ》ふことなしにあつた。其上、此ほどはつきりとした答へはない、と思はれる位、凛としてゐた。其が、すべての者の不滿を壓倒した。姫の咎は、姫が贖《アガナ》ふ。此寺、此二上山の下に居て、身の償《ツグナ》ひ、心の償ひした、と姫が得心するまでは、還るものとは思《オモ》やるな。郎女の聲・詞を聞かぬ日はない身狹乳母《ムサノチオモ》ではあつた。だがつひしか此ほどに、頭の髓まで沁み入るやうな、さえ/″\とした語を聞いたことのない、乳母《チオモ》だつた。寺方の言ひ分に讓るなど言ふ問題は、小い事であつた。此爽やかな育ての君の判斷力と、惑ひなき詞に感じてしまつた。たゞ、涙。かうまで賢《サカ》しい魂を窺ひ得て、頬に傳ふものを拭ふことも出來なかつた。子古にも、郎女の詞を傳達した。さうして、自分のまだ曾て覺えたことのない感激を、力深くつけ添へて聞かした。ともあれ此上は、難波津へ。難波へと言つた自分の語に、氣づけられたやうに、子古は思ひ出した。今日か明日、新羅問罪の爲、筑前へ下る官使の一行があつた。難波に留つてゐる帥の殿も、次第によつては、再太宰府へ出向かれることになつてゐるかも知れぬ。手遲れしては一大事である。此足ですぐ、北へ「廴+囘」つて、大阪越えから河内へ出て、難波まで、馬の叶ふ處は馬で走らう、と決心した。萬法藏院に、唯一つ飼つて居た馬の借用を申し入れると、此は快く聽き入れてくれた。今日の日暮れまでには、立ち還りに、難波へ行つて來る、と齒のすいた口に叫びながら、郎女の竪帷《タツバリ》に向けて、庭から匍伏した。子古の發つた後は、又のどかな春の日に戻つた。悠々《ウラヽヽ》と照り暮す山々を見せませう、と乳母が言ひ出した。木立ち山陰から盜み見する者のないやうに、家人《ケニン》らを、一町・二町先まで見張りに出して、郎女を、外に誘ひ出した。暴風雨《アラシ》の夜、添下《ソフノシモ》・廣瀬・葛城の野山を、かちあるきした娘御ではなかつた。乳母と今一人、若人の肩に手を置きながら、歩み出た。日の光りは、霞みもせず、陽炎も立たず、唯をどんで見えた。昨日眺めた野も、斜になつた日を受けて、物の影が細長く靡いて居た。青垣の樣にとりまく山々も、愈々遠く裾を曳いて見えた。早い菫―げんげ―が、もうちらほら咲いてゐる。遠く見ると、その赤々とした紫が一續きに見えて、夕燒け雲がおりて居るやうに思はれる。足もとに一本、おなじ花の咲いてゐるのを見つけた郎女は、膝を叢について、ぢつと眺め入つた。これはえ――。すみれ、と申すとのことで御座ります。かう言ふ風に、物を知らせるのが、あて人に仕へる人たちの、爲來りになつて居た。蓮《ハチス》の花に似てゐながら、もつと細《コマ》やかな、――繪にある佛の花を見るやうな――。ひとり言しながら、ぢつと見てゐるうちに、花は、廣い萼《ウテナ》の上に乘つた佛の前の大きな花になつて來る。其がまた、ふつと、目の前のさゝやかな花に戻る。夕風が冷《ヒヤ》ついて參ります。内へと遊ばされ。乳母が言つた。見渡す山は、皆影濃くあざやかに見えて來た。近々と、谷を隔てゝ、端山の林や、崖《ナギ》の幾重も重つた上に、二上《フタカミ》の男嶽《ヲノカミ》の頂が、赤い日に染つて立つてゐる。今日は、又あまりに靜かな夕《ユフベ》である。山ものどかに、夕雲の中に這入つて行かうとしてゐる。まうし/\。もう外に居る時では御座りません。-----cont.(^死^)
2006年02月19日
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cont.----十五つた つた つた。郎女は、一向《ヒタスラ》、あの音の歩み寄つて來る畏しい夜更けを、待つやうになつた。をとゝひよりは昨日、昨日よりは今日といふ風に、其跫音が間遠になつて行き、此頃はふつに音せぬやうになつた。その氷の山に對うて居るやうな、骨の疼く戰慄の快感、其が失せて行くのを虞れるやうに、姫は夜毎、鷄のうたひ出すまでは、殆、祈る心で待ち續けて居る。絶望のまゝ、幾晩も仰ぎ寢たきりで、目は晝よりも寤《サ》めて居た。其間に起る夜の間の現象には、一切心が留らなかつた。現にあれほど、郎女の心を有頂天に引き上げた頂板《ツシ》の面《オモテ》の光り輪にすら、明盲《アキジ》ひのやうに、注意は惹かれなくなつてゐる。こゝに來て、疾《ト》くに、七日は過ぎ、十日・半月になつた。山も、野も、春のけしきが整うて居た。野茨の花のやうだつた小櫻が散り過ぎて、其に次ぐ山櫻が、谷から峰かけて、斷續しながら咲いてゐるのも見える。麥原《ムギフ》は、驚くばかり伸び、里人の野爲事に出た姿が、終日、そのあたりに動いてゐる。都から來た人たちの中、何時までこの山陰に、春を起き臥すことか、と佗びる者が殖えて行つた。廬堂の近くに掘り立てた板屋に、かう長びくと思はなかつたし、まだどれだけ續くかも知れぬ此生活に、家ある者は、妻子に會ふことばかりを考へた。親に養はれる者は、家の父母の外にも、隱れた戀人を思ふ心が、切々として來るのである。女たちは、かうした場合にも、平氣に近い感情で居られる長い暮しの習しに馴れて、何か、と爲事を考へてはして居る。女方の小屋は、男のとは別に、もつと廬に接して建てられて居た。身狹乳母《ムサノチオモ》の思ひやりから、男たちの多くは、唯さへ小人數な奈良の御館《ミタチ》の番に行け、と言つて還され、長老《オトナ》一人の外は、唯 雜用《ザフヨウ》をする童と、奴隷《ヤツコ》位しか殘らなかつた。乳母《オモ》や、若人たちも、薄々は帳臺の中で夜を久しく起きてゐる、郎女の樣子を感じ出して居た。でも、なぜさう夜深く溜め息ついたり、うなされたりするか、知る筈のない昔かたぎの女たちである。やはり、郎女の魂《タマ》があくがれ出て、心が空しくなつて居るもの、と單純に考へて居る。ある女は、魂ごひの爲に、山尋ねの咒術《オコナヒ》をして見たらどうだらう、と言つた。乳母は一口に言ひ消した。姫樣、當麻に御安著なされた其夜、奈良の御館へ計はずに、私にした當麻眞人《タギマノマヒト》の家人たちの山尋ねが、わるい結果を呼んだのだ。當麻語部とか謂つた蠱物《マジモノ》使ひのやうな婆が、出しやばつての差配が、こんな事を惹き起したのだ。その節、山の峠《タワ》の塚で起つた不思議は、噂になつて、この貴人《ウマビト》一家の者にも、知れ渡つて居た。あらぬ者の魂を呼び出して、郎女樣におつけ申しあげたに違ひない。もう/\、輕はずみな咒術《オコナヒ》は、思ひとまることにしよう。かうして、魂《タマ》の游離《アクガ》れ出た處の近くにさへ居れば、やがては、元のお身になり戻り遊されることだらう。こんな風に考へて、乳母は唯、氣長に氣ながに、と女たちを諭し/\した。こんな事をして居る中に、早一月も過ぎて櫻の後、暫らく寂しかつた山に、躑躅が燃え立つた。足も行かれぬ崖の上や、巖の腹などに、一群々々《ヒトムラヽヽヽヽ》咲いて居るのが、奧山の春は今だ、となのつて居るやうである。ある日は、山へ/\と、里の娘ばかりが上つて行くのを見た。凡數十人の若い女が、何處で宿つたのか、其次の日、てんでに赤い山の花を髮にかざして、降りて來た。廬の庭から見あげた若女房の一人が、山の躑躅林《ツヽジバヤシ》が練つて降るやうだ、と聲をあげた。ぞよ/\と廬の前を通る時、皆頭をさげて行つた。其中の二三人が、つくねんとして暮す若人たちの慰みに呼び入れられて、板屋の端へ來た。當麻の田居も、今は苗代時である。やがては田植ゑをする。其時は、見に出やしやれ。こんな身でも、其時はずんと、をなごぶりが上るぞな、と笑ふ者もあつた。こゝの田居の中で、植ゑ初めの田は、腰折れ田と言うて、都までも聞えた物語りのある田ぢやげな。若人たちは、又例の蠱物姥《マヂモノウバ》の古語りであらう、とまぜ返す。ともあれ、かうして、山ごもりに上つた娘だけに、今年の田の早處女《サウトメ》が當ります。其しるしが此ぢや、と大事さうに、頭の躑躅に觸れて見せた。もつと變つた話を聞かせぬかえと誘はれて、身分に高下はあつても、同じ若い同士のことゝて、色々な田舍咄をして行つた。其を後《ノチ》に乳母《オモ》たちが聽いて、氣にしたことがあつた。山ごもりして居ると、小屋の上の崖をどう/″\と踏みおりて來る者がある。ようべ、眞夜中のことである。一樣にうなされて、苦しい息をついてゐると、音はそのまゝ、眞下へ眞下へ、降つて行つた。がら/″\と、岩の崩《ク》える響。――ちようど其が、此廬堂の眞上の高處《タカ》に當つて居た。こんな處に道はない筈ぢやが、と今朝起きぬけに見ると、案の定《ヂヤウ》、赤岩の大崩崖《オホナギ》。ようべの音は、音ばかりで、ちつとも痕は殘つて居なかつた。其で思ひ合せられるのは、此頃ちよく/\、子から丑の間に、里から見えるこのあたりの峰《ヲ》の上《ヘ》に、光り物がしたり、時ならぬ一時颪《イツトキオロシ》の凄い唸りが、聞えたりする。今までつひに聞かぬこと。里人は唯かう、恐れ謹しんで居る、とも言つた。こんな話を殘して行つた里の娘たちも、苗代田の畔に、めい/\のかざしの躑躅花を(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている)して歸つた。其は晝のこと、田舍は田舍らしい閨の中に、今は寢ついたであらう。夜はひた更けに、更けて行く。晝の恐れのなごりに、寢苦しがつて居た女たちも、おびえ疲れに寢入つてしまつた。頭上の崖で、寢鳥の鳴き聲がした。郎女は、まどろんだとも思はぬ目を、ふつと開いた。續いて今ひと響き、びしとしたのは、鳥などの、翼ぐるめひき裂かれたらしい音である。だが其だけで、山は音どころか、生き物も絶えたやうに、虚しい空間の闇に、時間が立つて行つた。郎女の額《ヌカ》の上の天井の光りの暈《カサ》が、ほの/″\と白んで來る。明りの隈はあちこちに偏倚《カタヨ》つて、光りを竪にくぎつて行く。と見る間に、ぱつと明るくなる。そこに大きな花。蒼白い菫。その花びらが、幾つにも分けて見せる隈、佛の花の青蓮華《シヤウレンゲ》と言ふものであらうか。郎女の目には、何とも知れぬ淨らかな花が、車輪のやうに、宙にぱつと開いてゐる。仄暗い蕋の處に、むら/\と雲のやうに、動くものがある。黄金の蕋をふりわける。其は黄金の髮である。髮の中から匂ひ出た莊嚴な顏。閉ぢた目が、憂ひを持つて、見おろして居る。あゝ肩・胸・顯はな肌。――冷え/″\とした白い肌。をゝ おいとほしい。郎女は、自身の聲に、目が覺めた。夢から續いて、口は尚夢のやうに、語を逐うて居た。おいとほしい。お寒からうに――。------------cont.(^死^)
2006年02月18日
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cont.-----兵部大輔にとつても、此はもう、他事《ヒトゴト》ではなかつた。おなじ大伴幾流の中から、四代續いて氏(ノ)上職を持ち堪《コタ》へたのも、第一は宮廷の御恩徳もあるが、世の中のよせが重かつたからである。其には、一番大事な條件として、美しい齋き姫が、後から後と此家に出て、とぎれることがなかつた爲でもある。大伴の家のは、表向き壻どりさへして居ねば、子があつても、齋き姫は勤まる、と言ふ定めであつた。今の阪(ノ)上(ノ)郎女は、二人の女子《ヲミナゴ》を持つて、やはり齋き姫である。此は、うつかり出來ない。此方《コチラ》も藤原同樣、叔母御が齋姫《イツキ》で、まだそんな年でない、と思うてゐるが、又どんなことで、他流の氏姫が、後を襲ふことにならぬとも限らぬ。大伴・佐伯《サヘキ》の數知れぬ家々・人々が、外の大伴へ、頭をさげるやうになつてはならぬ。かう考へて來た家持の心の動搖などには、思ひよりもせぬ風で、こんな話は、よそほかの氏(ノ)上に言ふべきことでないが、兄公殿《アニキドノ》があゝして、此先何年、難波にゐても、太宰府に居ると言ふが表面《オモテ》だから、氏の祭りは、枚岡・春日と、二處に二度づゝ、其外、週《マハ》り年には、時々鹿島香取の東路《アヅマヂ》のはてにある舊社《モトヤシロ》の祭りまで此方で勤めねばならぬ。實際よそほかの氏(ノ)上よりも、此方《コチラ》の氏助ははたらいてゐるのだが、――だから、自分で、氏(ノ)上の氣持ちになつたりする。――もう一層なつてしまふかな。お身はどう思ふ。こりや、答へる訣にも行くまい。氏(ノ)上に押し直らうとしたところで、今の身の考へ一つを抂げさせるものはない。上樣方に於かせられて、お叱りの御沙汰《ゴサタ》を下しおかれぬ限りは――。京中で、此惠美屋敷ほど、庭を嗜んだ家はないと言ふ。門は、左京二條三坊に、北に向いて開いて居るが、主人家族の住ひは、南を廣く空《ア》けて、深々とした山齋《ヤマ》が作つてある。其に入りこみの多い池を周らし、池の中の島も、飛鳥の宮風に造られて居た。東の中《ナカ》み門《カド》、西の中《ナカ》み門《カド》まで備つて居る。どうかすると、庭と申さうより、寛々《クワンヽヽヽ》とした空き地の廣くおありになる宮よりは、もつと手入れが屆いて居さうな氣がする。庭を立派にして住んだ、うま人たちの末々の樣が、兵部大輔の胸に來た。瞬間、憂欝な氣持ちがかぶさつて來て、前にゐる大師の顏を見るのが、氣の毒な樣に思はれる。案じるなよ。庭が行き屆き過ぎて居る、と思うてるのだらう。そんなことはないさ。庭はよくても、亡びた人ばかりはないさ。淡海公の御館はどうだ。どの筋でも引き繼がずに、今に荒してはあるが、あの立派さは。それあの山部の何とか言つた、地下《ヂゲ》の召《メ》し人《ビト》の歌よみが、おれの三十になつたばかりの頃、「昔見し舊《フル》き堤は、年深み…年深み、池の渚に、水草《ミクサ》生ひにけり」とよんだ位だが、其後が、これ此樣に四流にも岐れて榮えてゐる。もつとあるぞ――。なに、庭などによるものぢやないは。恃《タノ》む所の深い此あて人は、庭の風景の、目立つた個處々々を指摘しながら、其據る所を、日本《ヤマト》・漢土《モロコシ》に渉つて説明した。長い廊を、數人の童《ワラハ》が續いて來る。日ずかしです。お召しあがり下されませう。改つて、簡單な饗應の挨拶をした。まらうどに、早く酒を獻じなさい、と言つてゐる間に、美しい采女《ウネメ》が、盃を額より高く捧げて出た。をゝ、それだけ受けて頂けばよい。舞ひぶりを一つ、見て貰ひなさい。家持は何を考へても、先を越す敏感な主人に對して、唯虚心で居るより外はなかつた。うねめは、大伴の氏(ノ)上へは、まだくださらぬのだつたね。藤原では、存知でもあらうが、先例が早くからあつて、淡海公が、近江の宮から頂戴した故事で、頂く習慣になつて居ります。時々、こんな畏まつたもの言ひもまじへる。兵部大輔は、自身の語づかひにも、初中終《シヨツチユウ》氣扱ひをせねばならなかつた。氏(ノ)上もな、身が執《シフ》心で、兄公殿を太宰府へ追ひまくつて、後にすわらうとするのだ、と言ふ奴があるといの――。やつぱり「奴はやつこどち」ぢやの。さう思ふよ。時に女姪《メヒ》の姫だが――。さすがの聰明第一の大師も、酒の量は少かつた。其が、今日は幾分いけた、と見えて、話が循環して來た。家持は、一度はぐらかされた緒口《イトグチ》に、とりついた氣で、横佩 墻内《カキツ》の郎しいものでおありだ。氣にするな。氣にするな。氣にしたとて、どう出來るものか。此は――もう、人間の手へは、戻らぬかも知れんぞ。末は、獨り言になつて居た。さうして、急に考へ深い目を凝した。池へ落した水音は、未《ヒツジ》がさがると、寒々と聞えて來る。早く、躑躅の照る時分になつてくれぬかなあ。一年中で、この庭の一番よい時が、待ちどほしいぞ。大師藤原(ノ)惠美(ノ)押勝朝臣の聲は、若々しい、純な欲望の外、何の響きもまじへて居なかつた。女《イラツメ》は、どうなるでせう。社・寺、それとも宮――。どちらへ向いても、神さびた一生。あつたら惜----cont.(^死^)
2006年02月18日
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cont.----------十四貴人《ウマビト》はうま人どち、やつこは奴隷《ヤツコ》どち、と言ふからの――。何時見ても、大師《タイシ》は、微塵《ミヂン》曇りのない、圓《マド》かな相好《サウガウ》である。其に、ふるまひのおほどかなこと。若くから氏上《ウヂノカミ》で、數十|家《ケ》の一族や、日本國中數萬の氏人《ウヂビト》から立てられて來た家持《ヤカモチ》も、ぢつと對うてゐると、その靜かな威に、壓せられるやうな氣がして來る。言はしておくがよい。奴隷《ヤツコ》たちは、とやかくと口さがないのが、其爲事よ。此身とお身とは、おなじ貴人《ウマビト》ぢや。おのづから、話も合はうと言ふもの。此身が、段々なり上《ノボ》ると、うま人までがおのづとやつこ心になり居つて、いや嫉むの、そねむの。家持は、此が多聞天か、と心に問ひかけて居た。だがどうも、さうは思はれぬ。同じかたどつて作るなら、とつい聯想が逸れて行く。八年前、越中(ノ)國から歸つた當座の、世の中の豐かな騷ぎが、思ひ出された。あれからすぐ、大佛開眼《カイゲン》供養が行はれたのであつた。其時、近々と仰ぎ奉つた尊容、八十種好《ハチジフシユガウ》具足した、と謂はれる其相好が、誰やらに似てゐる、と感じた。其がその時は、どうしても思ひ浮ばずにしまつた。その時の印象が、今ぴつたり、的にあてはまつて來たのである。かうして對ひあつて居る主人の顏なり、姿なりが、其まゝあの廬遮那《ルサナ》ほとけの俤だ、と言つて、誰が否まう。お身も、少し咄したら、えゝではないか。官位《カウブリ》はかうぶり。昔ながらの氏は氏――。なあ、さう思はぬか。紫微中臺の、兵部省のと、位づけるのは、うき世の事だは。家《ウチ》に居る時だけは、やはり神代以來《カミヨイライ》の氏上《ウヂノカミ》づきあひが、えゝ。新しい唐の制度の模倣ばかりして、漢土《モロコシ》の才《ザエ》が、やまと心に入り替つたと謂はれて居る此人が、こんな嬉しいことを言ふ。家持は、感謝したい氣がした。理會者・同感者を、思ひまうけぬ處に見つけ出した嬉しさだつたのである。お身は、宋玉や、王褒の書いた物を大分持つて居ると言ふが、太宰府へ行つた時に、手に入れたのぢやな。あんな若い年で、わせだつたのだなう。お身は――。お身の氏では、古麻呂《コマロ》。身の家に近しい者でも奈良麻呂。あれらは漢魏はおろか、今の唐の小説なども、ふり向きもせんから、言ふがひない話ぢやは。兵部大輔は、やつと話のつきほを捉へた。お身さまのお話ぢやが、わしは、賦の類には飽きました。どうもあれが、この四十面さげてもまだ、涙もろい歌や、詩の出て來る元になつて居る――さうつく/″\思ひますぢやて。ところで近頃は、方《カタ》を換へて、張文成を拾ひ讀みすることにしました。この方が、なんぼか――。大きに、其は、身も賛成ぢや。ぢやが、お身がその年になつても、まだ二十《ハタチ》代の若い心や、瑞々しい顏を持つて居るのは、宋玉のおかげぢやぞ。まだなか/\隱れては歩き居《ヲ》る、と人の噂ぢやが、嘘ぢやなからう。身が保證する。おれなどは、張文成ばかり古くから讀み過ぎて、早く精氣の盡きてしまうた心持ちがする。――ぢやが全く、文成はえゝなう。あの仁《ジン》に會うて來た者の話では、豬肥《ヰノコヾ》えのした、唯の漢土《モロコシ》びとぢやつたげなが、心はまるで、やまとのものと、一つと思ふが、お身なら、諾《ウベナ》うてくれるだらうの。文成に限る事ではおざらぬが、あちらの物は、讀んで居て、知らぬ事ばかり教へられるやうで、時々ふつと思ひ返すと、こんな思はざつた考へを、いつの間にか、持つてゐる――そんな空恐しい氣さへすることが、ありますて。お身さまにも、そんな經驗《オボエ》は、おありでがな。大ありおほ有り。毎日々々、其よ。しまひに、どうなるのぢや。こんなに智慧づいては、と思はれてならぬことが――。ぢやが、女子《ヲミナゴ》だけには、まづ當分、女部屋のほの暗い中で、こんな智慧づかぬ、のどかな心で居させたいものぢや。第一其が、われ/\男の爲ぢやて。[#ここで字下げ終わり]家持は、此了解に富んだ貴人に向つては、何でも言つてよい、青年のやうな氣が湧いて來た。さやう/\。智慧を持ち初めては、あの欝《イブセ》い女部屋には、ぢつとして居ませぬげな。第一、横佩墻内《ヨコハキカキツ》の――此はいけぬ、と思つた。同時に、此|臆《オク》れた氣の出るのが、自分を卑《ヒク》くし、大伴氏を、昔の位置から自ら蹶落す心なのだ、と感じる。好《エヽ》、好《エヽ》。遠慮はやめやめ。氏(ノ)上づきあひぢやもの。ほい又出た。おれはまだ、藤原の氏上に任ぜられた訣やぢあ、なかつたつけの。瞬間、暗い顏をしたが、直にさつと眉の間から、輝きが出て來た。身の女姪《メヒ》が神隱しにあうたあの話か。お身は、あの謎見たいないきさつを、さう解《ト》るかね。ふん。いやおもしろい。女姪の姫も、定めて喜ぶぢやらう。實はこれまで、内々消息を遣して、小あたりにあたつて見た、と言ふ口かね、お身も。大きに。今度は輕い心持ちが、大膽に押勝の話を受けとめた。お身さまが經驗《タメシ》ずみぢやで、其で、郎女の才高《ザエダカ》さと、男擇びすることが訣りますな――。此は――。額《ヒタヒ》ざまに切りつけるぞ――。免せ/\と言ふところぢやが、――あれはの、生れだちから違ふものな。藤原の氏姫ぢやからの。枚岡《ヒラヲカ》の齋《イツ》き姫にあがる宿世《スクセ》を持つて生れた者ゆゑ、人間の男は、彈く、彈く、彈きとばす。近よるまいぞよ。はゝはゝゝ。大師は、笑ひをぴたりと止めて、家持の顏を見ながら、きまじめな表情になつた。ぢやがどうも――。聽き及んでのことゝ思ふが、家出の前まで、阿彌陀經の千部寫經をして居たと言ふし、樂毅論から兄の殿の書いた元興寺縁起も、其前に手習もしたらしいし、まだ/″\孝經などは、これぽつちの頃に習うた、と言ふし、なか/\の女博士《ヲナゴハカセ》での。楚辭や、小説にうき身をやつす身や、お身は近よれぬはなう。霜月・師走の垣毀雪女《カイコボチヲナゴ》ぢやもの。――どうして其だけの女子《ヲミナゴ》が、神隱しなどに逢はうかい。第一、場處が、あの當麻で見つかつたと言ひますからの――。併し其は、藤原に全く縁のない處でもない。天(ノ)二上は、中臣壽詞《ナカトミノヨゴト》にもあるし……。齋《イツ》き姫《ヒメ》もいや、人の妻と呼ばれるのもいや――で、尼になる氣を起したのでないか、と考へると、もう不安で不安でなう。のどかな氣持ちばかりでも居られぬて――。押勝の眉は集つて來て、皺一つよせぬ美しい、この老いの見えぬ貴人の顏も、思ひなし、ひずんで見えた。何しろ、嫋女《タワヤメ》は國の寶ぢやでなう。出來ることなら、人の物にはせず、神の物にしておきたいところぢやが、――人間の高望《タカノゾ》みは、さうばかりもさせてはおきをらぬがい――。ともかく、むざ/″\尼寺へやる訣にはいかぬ。ぢやが、お身さま。一人出家すれば、と云ふ詞が、この頃はやりになつて居りますが……。九族が天に生じて、何になるといふのぢや。寶は何百人かゝつても、作り出せるものではないぞよ。どだい兄公殿《アニキドノ》が、少し佛凝《ゴ》りが過ぎるでなう――。自然 内《ウチ》うらまで、そんな氣風がしみこむやうになつたかも知れぬぞ――。時に、お身のみ館の郎女《イラツメ》も、そんな育てはしてあるまいな。其では、家《ウチ》の久須麻呂が泣きを見るからの。人の惡いからかひ笑みを浮べて、話を無理にでも脇へ釣り出さうと努めるのは、考へるのも切ない胸の中が察せられる。兄公殿《アニキドノ》は氏[#(ノ)]上に、身は氏助《ウヂノスケ》と言ふ訣なのぢやが、肝腎齋き姫で、枚岡に居させられる叔母御は、もうよい年ぢや。去年春日祭りに、女使ひで上られた姿を見て、神《カン》さびたものよ、と思うたぞ。今《モ》一代此方から進ぜなかつたら、齋き姫になる娘の多い北家の方がすぐに取つて替つて、氏(ノ)上に据るは。----cont.----(^死^)
2006年02月18日
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cont.----------十三「朝目よく」うるはしい兆《シルシ》を見た昨日は、郎女にとつて、知らぬ經驗を、後から後から展いて行つたことであつた。たゞ人《ヒト》の考へから言へば、苦しい現實のひき續きではあつたのだが、姫にとつては、心驚く事ばかりであつた。一つ/\變つた事に逢ふ度に、「何も知らぬ身であつた」、と姫の心の底の聲が揚つた。さうして、その事毎に、挨拶をしてはやり過したい氣が、一ぱいであつた。今日も其續きを、くはしく見た。なごり惜しく過ぎ行く現《ウツ》し世のさま/″\。郎女は、今目を閉ぢて、心に一つ/\收めこまうとして居る。ほのかに通り行き、將《ハタ》著しくはためき[#「はためき」に傍点]過ぎたもの――。宵闇の深くならぬ先に、廬《イホリ》のまはりは、すつかり手入れがせられて居た。燈臺も大きなのを、寺から借りて來て、煌々と、油火《ビ》が燃えて居る。明王像も、女人のお出での場處には、すさまじいと言ふ者があつて、どこかへ搬んで行かれた。其よりも、郎女の爲には、帳臺の設備《シツラ》はれてゐる安らかさ。今宵は、夜も、暖かであつた。帷帳《トバリ》を周らした中は、ほの暗かつた。其でも、山の鬼神《モノ》、野の魍魎《モノ》を避ける爲の燈の渦が、ぼうと梁に張り渡した頂板《ツシイタ》に搖《ユラ》めいて居るのが、たのもしい氣を深めた。帳臺のまはりには、乳母や、若人が寢たらしい。其ももう、一時《ヒトヽキ》も前の事で、皆すや/\と寢息の音を立てゝ居る。姫の心は、今は輕かつた。たとへば、俤に見たお人には逢はずとも、その俤を見た山の麓に來て、かう安らかに身を横へて居る。燈臺の明りは、郎女の額の上に、高く朧ろに見える光の輪を作つて居た。月のやうに圓くて、幾つも上へ/\と、月輪《グワチリン》の重つてゐる如くも見えた。其が、隙間風の爲であらう。時々薄れて行くと、一つの月になつた。ぽうつと明り立つと、幾重にも隈の疊まつた、大きな圓かな光明になる。幸福に充ちて、忘れて居た姫の耳に、今宵も谷の響きが聞え出した。更けた夜空には、今頃やつと、遲い月が出たことであらう。物の音。――つた つたと來て、ふうと佇《タ》ち止るけはひ。耳をすますと、元の寂かな夜に――激《タギ》ち降《クダ》る谷のとよみ。つた つた つた。又、ひたと止《ヤ》む。この狹い廬の中を、何時まで歩く、跫音だらう。つた。郎女は刹那、思ひ出して帳臺の中で、身を固くした。次にわぢ/\と戰《ヲノヽ》きが出て來た。天若御子《アメワカミコ》――。ようべ、當麻語部嫗《タギマノカタリノオムナ》の聞した物語り。あゝ其お方の、來て窺ふ夜なのか。――青馬の 耳面刀自《ミヽモノトジ》。刀自もがも。女弟《オト》もがも。その子の はらからの子の處女子《ヲトメゴ》の 一人一人だに わが配偶《ツマ》に來よまことに畏しいと言ふことを覺えぬ郎女にしては、初めてまざ/″\と、壓へられるやうな畏《コハ》さを知つた。あゝあの歌が、胸に生《イ》き蘇《カヘ》つて來る。忘れたい歌の文句が、はつきりと意味を持つて、姫の唱へぬ口の詞から、胸にとほつて響く。乳房から迸り出ようとするときめき。帷帳《トバリ》がふはと、風を含んだ樣に皺だむ。ついと、凍る樣な冷氣――。郎女は目を瞑つた。だが――瞬間睫の間から映《ウツ》つた細い白い指、まるで骨のやうな――帷帳《トバリ》を掴んだ片手の白く光る指。なも 阿彌陀ほとけ。あなたふと 阿彌陀ほとけ。何の反省もなく、唇を洩れた詞。この時、姫の心は、急に寛ぎを感じた。さつと――汗。全身に流れる冷さを覺えた。畏《コハ》い感情を持つたことのないあて人の姫は、直《スグ》に動顛した心を、とり直すことが出來た。なう/\。あみだほとけ……。今一度口に出して見た。をとゝひまで、手寫しとほした、稱讃淨土經《シヤウサンジヤウドキヤウ》の文《モン》が胸に浮ぶ。郎女は、昨日までは一度も寺道場を覗いたこともなかつた。父君は家の内に道場を構へて居たが簾越しにも聽聞《モン》は許されなかつた。御經《オンキヤウ》の文《モン》は手寫しても、固より意趣は、よく訣らなかつた。だが、處々には、かつ/″\氣持ちの汲みとれる所があつたのであらう。さすがに、まさかこんな時、突嗟に口に上らう、とは思うて居なかつた。白い骨、譬へば白玉の竝んだ骨の指、其が何時までも目に殘つて居た。帷帳《トバリ》は元のまゝに垂れて居る。だが、白玉の指ばかりは細々と、其に絡んでゐるやうな氣がする。悲しさとも、懷しみとも知れぬ心に、深く、郎女は沈んで行つた。山の端に立つた俤びとは、白々《シロヾヽ》とした掌をあげて、姫をさし招いたと覺えた。だが今、近々と見る其手は、海の渚の白玉のやうに、からびて寂しく、目にうつる。長い渚を歩いて行く。郎女の髮は、左から右から吹く風に、あちらへ靡き、こちらへ亂れする。浪はたゞ、足もとに寄せてゐる。渚と思うたのは、海の中道《ナカミチ》である。浪は兩方から打つて來る。どこまでも/\、海の道は續く。郎女の足は、砂を踏んでゐる。その砂すらも、段々水に掩はれて來る。砂を踏む。踏むと思うて居る中に、ふと其が、白々とした照る玉だ、と氣がつく。姫は身を屈《コヾ》めて、白玉を拾ふ。拾うても/\、玉は皆、掌《タナソコ》に置くと、粉の如く碎けて、吹きつける風に散る。其でも、玉を拾ひ續ける。玉は水隱《ミガク》れて、見えぬ樣になつて行く。姫は悲しさに、もろ手を以て掬《スク》はうとする。掬《ムス》んでも/\、水のやうに手股《タナマタ》から流れ去る白玉――。玉が再、砂の上につぶ/\竝んで見える。忙《アワタヾ》しく拾はうとする姫の俯《ウツム》いた背を越して、流れる浪が泡立つてとほる。姫は――やつと、白玉を取りあげた。輝く、大きな玉。さう思うた刹那、郎女の身は、大浪にうち仆される。浪に漂ふ身……衣もなく、裳《モ》もない。抱き持つた等身の白玉と一つに、水の上に照り輝く現《ウツ》し身。ずん/\とさがつて行く。水底《ミナゾコ》に水漬《ミヅ》く白玉なる郎女の身は、やがて又、一幹《ヒトモト》の白い珊瑚の樹《キ》である。脚を根、手を枝とした水底の木。頭に生ひ靡くのは、玉藻であつた。玉藻が、深海のうねりのまゝに、搖れて居る。やがて、水底にさし入る月の光り――。ほつと息をついた。まるで、潜《カヅ》きする海女《アマ》が二十尋《ハタヒロ》・三十尋《ミソヒロ》の水《ミナ》底から浮び上つて嘯《ウソフ》く樣に、深い息の音で、自身明らかに目が覺めた。あゝ夢だつた。當麻まで來た夜道の記憶は、まざ/″\と殘つて居るが、こんな苦しさは覺えなかつた。だがやつぱり、をとゝひの道の續きを辿つて居るらしい氣がする。水の面からさし入る月の光り。さう思うた時は、ずん/″\海面に浮き出て來た。さうして悉く、跡形もない夢だつた。唯、姫の仰ぎ寢る頂板《ツシイタ》に、あゝ、水にさし入つた月。そこに以前のまゝに、幾つも暈《カサ》の疊まつた月輪の形が、搖《ユラ》めいて居る。なう/\ 阿彌陀ほとけ……。再、口に出た。光りの暈は、今は愈々明りを増して、輪と輪との境の隈々《クマヾヽ》しい處までも見え出した。黒ずんだり、薄暗く見えたりした隈が、次第に凝り初めて、明るい光明の中に、胸・肩頭髮、はつきりと形を現《ゲン》じた。白々と袒《ヌ》いだ美しい肌。淨く伏せたまみが、郎女の寢姿を見おろして居る。かの日《ヒ》の夕《ユフベ》、山の端《ハ》に見た俤びと――。乳のあたりと、膝元とにある手――その指《オヨビ》、白玉の指《オヨビ》。姫は、起き直つた。天井の光りの輪が、元のまゝに、たゞ仄かに事もなく搖れて居た。-------cont.-------(^死^)
2006年02月18日
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"土曜"の夜は-------Why don't you fall-in love,togather???---- "恋に落ちて"performed by 小林 明子 もしも願いが叶うなら吐息を白いバラに変えて逢えない日には 部屋じゅうに飾りましょう 貴方を想いながらDarling, I want you 逢いたくてときめく恋に 駆け出しそうなの迷子のように 立ちすくむわたしをすぐに 届けたくてダイヤル回して 手を止めたI'm just a womanFall in loveIf my wishes can be trueWill you change my sighsto roses, whiter rosesdecorate them for youThinkin' 'bout you every nightand find out where I amI am not livin' in your heartDarling, I need you どうしても口に出せない 願いがあるのよ土曜の夜と 日曜の貴方がいつも 欲しいからダイヤル回して 手を止めたI'm just a womanFall in loveDarling, You love me 今すぐに貴方の声が 聞きたくなるのよ両手で頬を 押さえても途方に暮れる 夜が嫌いダイヤル回して 手を止めたI'm just a womanFall in loveDon't you remember when you were herewithout a thinking we were caught in fireI've got a love song but where it goesthree loving hearts are pullin' apart of oneCan't stop you, Can't hold youCan't wait no moreI'm just a womanFall in loveI'm just a womanFall in love------cont.--------十二怒りの瀧のやうになつた額田部(ノ)子古は、奈良に還つて、公に訴へると言ひ出した。大和國にも斷つて、寺の奴ばらを追ひ放つて貰ふとまで、いきまいた。大師《タイシ》を頭《カシラ》に、横佩家に深い筋合ひのある貴族たちの名をあげて、其方々からも、何分の御吟味を願はずには置かぬ、と凄い顏をして、住侶たちを脅かした。郎女は、貴族の姫で入らせられようが、寺の淨域を穢し、結界まで破られたからは、直にお還りになるやうには計はれぬ。寺の四至の境に在る所で、長期の物忌みして、その贖《アガナ》ひはして貰はねばならぬ、と寺方も、言ひ分はひつこめなかつた。理分にも非分にも、これまで、南家の權勢でつき通して來た家長老《オトナ》等にも、寺方の扱ひと言ふものゝ、世間どほりにはいかぬ事が訣《ワカ》つて居た。乳母《オモ》に相談かけても、一代さう言ふ世事に與つた事のない此人は、そんな問題には、詮《カヒ》ない唯の、女性《ニヨシヤウ》に過ぎなかつた。先刻《サツキ》からまだ立ち去らずに居た當麻語部の嫗が、口を出した。其は、寺方が、理分でおざるがや。お隨ひなされねばならぬ。其を聞くと、身狹(ノ)乳母は、激しく、田舍語部《ヰナカカタリベ》の老女を叱りつけた。男たちに言ひつけて、疊にしがみつき、柱にかき縋る古婆《フルバヾ》を掴み出させた。さうした威高さは、さすがに自《オノヅカ》ら備つてゐた。何事も、この身などの考へではきめられぬ。帥《ソツ》の殿《トノ》に承らうにも、國遠し。まづ姑《シバ》し、郎女樣のお心による外はないもの、と思ひまする。其より外には、方《ハウ》もつかなかつた。奈良の御館の人々と言つても、多くは、此人たちの意見を聽いてする人々である。よい思案を、考へつきさうなものも居ない。難波へは、直樣、使ひを立てることにして、とにもかくにも、當座は、姫の考へに任せよう、と言ふことになつた。郎女樣。如何お考へ遊ばしまする。おして、奈良へ還れぬでも御座りませぬ。尤、寺方でも、候人《サブラヒヾト》や、奴隷《ヤツコ》の人數を揃へて、妨げませう。併し、御館《ミタチ》のお勢ひには、何程の事でも御座りませぬ。では御座りまするが、お前さまのお考へを承らずには、何とも計ひかねまする。御思案お洩し遊ばされ。謂はゞ、難題である。あて人の娘御に、出來よう筈のない返答である。乳母《オモ》も、子古《コフル》も、凡は無駄な伺ひだ、と思つては居た。ところが、郎女の答へは、木魂返《コダマガヘ》しの樣に、躊躇《タメラ》ふことなしにあつた。其上、此ほどはつきりとした答へはない、と思はれる位、凛としてゐた。其が、すべての者の不滿を壓倒した。姫の咎は、姫が贖《アガナ》ふ。此寺、此二上山の下に居て、身の償《ツグナ》ひ、心の償ひした、と姫が得心するまでは、還るものとは思《オモ》やるな。郎女の聲・詞を聞かぬ日はない身狹乳母《ムサノチオモ》ではあつた。だがつひしか此ほどに、頭の髓まで沁み入るやうな、さえ/″\とした語を聞いたことのない、乳母《チオモ》だつた。寺方の言ひ分に讓るなど言ふ問題は、小い事であつた。此爽やかな育ての君の判斷力と、惑ひなき詞に感じてしまつた。たゞ、涙。かうまで賢《サカ》しい魂を窺ひ得て、頬に傳ふものを拭ふことも出來なかつた。子古にも、郎女の詞を傳達した。さうして、自分のまだ曾て覺えたことのない感激を、力深くつけ添へて聞かした。ともあれ此上は、難波津へ。難波へと言つた自分の語に、氣づけられたやうに、子古は思ひ出した。今日か明日、新羅問罪の爲、筑前へ下る官使の一行があつた。難波に留つてゐる帥の殿も、次第によつては、再太宰府へ出向かれることになつてゐるかも知れぬ。手遲れしては一大事である。此足ですぐ、北へ「廴+囘」つて、大阪越えから河内へ出て、難波まで、馬の叶ふ處は馬で走らう、と決心した。萬法藏院に、唯一つ飼つて居た馬の借用を申し入れると、此は快く聽き入れてくれた。今日の日暮れまでには、立ち還りに、難波へ行つて來る、と齒のすいた口に叫びながら、郎女の竪帷《タツバリ》に向けて、庭から匍伏した。子古の發つた後は、又のどかな春の日に戻つた。悠々《ウラヽヽ》と照り暮す山々を見せませう、と乳母が言ひ出した。木立ち山陰から盜み見する者のないやうに、家人《ケニン》らを、一町・二町先まで見張りに出して、郎女を、外に誘ひ出した。暴風雨《アラシ》の夜、添下《ソフノシモ》・廣瀬・葛城の野山を、かち]あるきした娘御ではなかつた。乳母と今一人、若人の肩に手を置きながら、歩み出た。日の光りは、霞みもせず、陽炎も立たず、唯をどんで見えた。昨日眺めた野も、斜になつた日を受けて、物の影が細長く靡いて居た。青垣の樣にとりまく山々も、愈々遠く裾を曳いて見えた。早い菫―げんげ―が、もうちらほら咲いてゐる。遠く見ると、その赤々とした紫が一續きに見えて、夕燒け雲がおりて居るやうに思はれる。足もとに一本、おなじ花の咲いてゐるのを見つけた郎女は、膝を叢について、ぢつと眺め入つた。これはえ――。すみれ、と申すとのことで御座ります。かう言ふ風に、物を知らせるのが、あて人に仕へる人たちの、爲來りになつて居た。[#ここから1字下げ]蓮《ハチス》の花に似てゐながら、もつと細《コマ》やかな、――繪にある佛の花を見るやうな――。ひとり言しながら、ぢつと見てゐるうちに、花は、廣い萼《ウテナ》の上に乘つた佛の前の大きな花になつて來る。其がまた、ふつと、目の前のさゝやかな花に戻る。夕風が冷《ヒヤ》ついて參ります。内へと遊ばされ。乳母が言つた。見渡す山は、皆影濃くあざやかに見えて來た。近々と、谷を隔てゝ、端山の林や、崖《ナギ》の幾重も重つた上に、二上《フタカミ》の男嶽《ヲノカミ》の頂が、赤い日に染つて立つてゐる。今日は、又あまりに靜かな夕《ユフベ》である。山ものどかに、夕雲の中に這入つて行かうとしてゐる。まうし/\。もう外に居る時では御座りません。-----cont.(^死^)
2006年02月18日
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十一ほゝき ほゝきい ほゝほきい―……。きのふよりも、澄んだよい日になつた。春にしては、驚くばかり濃い日光が、地上にかつきりと、木草の影を落して居た。ほか/\した日よりなのに、其を見てゐると、どこか、薄ら寒く感じるほどである。時々に過ぎる雲の翳りもなく、晴れきつた空だ。高原を拓いて、間引《マビ》いた疎らな木原《コハラ》の上には、もう澤山の羽蟲が出て、のぼつたり降《サガ》つたりして居る。たつた一羽の鶯が、よほど前から、一處を移らずに、鳴き續けてゐるのだ。家の刀自《トジ》たちが、物語る口癖を、さつきから思ひ出して居た。出雲(ノ)宿禰の分れの家の孃子《ヲトメ》が、多くの男の言ひ寄るのを煩しがつて、身をよけよけして、何時か、山の林の中に分け入つた。さうして其處で、まどろんで居る中に、悠々《ウラヽヽ》と長い春の日も、暮れてしまつた。孃子は、家路と思ふ徑を、あちこち歩いて見た。脚は茨の棘にさゝれ、袖は、木の楚《ズハエ》にひき裂かれた。さうしてとう/\、里らしい家 群《ムラ》の見える小高い岡の上に出た時は、裳も、著物も、肌の出るほど、ちぎれて居た。空には、夕月が光りを増して來てゐる。孃子はさくり上げて來る感情を、聲に出した。ほゝき ほゝきい。何時も、悲しい時に泣きあげて居た、あの聲ではなかつた。「をゝ此身は」と思つた時に、自分の顏に觸れた袖は、袖ではないものであつた。枯れ原《フ》の冬草の、山肌色をした小な翼であつた。思ひがけない聲を、尚も出し續けようとする口を、押へようとすると、自身すらいとほしんで居た柔らかな唇は、どこかへ行つてしまつて、替りに、さゝやかな管のやうな喙が來てついて居る――。悲しいのか、せつないのか、何の考へさへもつかなかつた。唯、身悶えをした。するとふはりと、からだは宙に浮き上つた。留めようと、袖をふれば振るほど、身は次第に、高く翔り昇つて行く。五日月の照る空まで……。その後《ゴ》、今の世までも、ほゝき ほゝきい ほゝほきい。と鳴いてゐるのだ、と幼い耳に染《シ》みつけられた、物語りの出雲の孃子が、そのまゝ、自分であるやうな氣がして來る。郎女は、徐《シヅ》かに兩袖《モロソデ》を、胸のあたりに重ねて見た。家に居た時よりは、褻《ナ》れ、皺立《シワダ》つてゐるが、小鳥の羽《ハネ》には、なつて居なかつた。手をあげて唇に觸れて見ると、喙でもなかつた。やつぱり、ほつとりとした、感觸を、指の腹に覺えた。ほゝき鳥《ドリ》―鶯―になつて居た方がよかつた。昔語《ムカシガタ》りの孃子は、男を避けて、山の楚原《シモトハラ》へ入り込んだ。さうして、飛ぶ鳥になつた。この身は、何とも知れぬ人の俤にあくがれ出て、鳥にもならずに、こゝにかうして居る。せめて蝶飛蟲《テフトリ》にでもなれば、ひら/\と空に舞ひのぼつて、あの山の頂へ、俤びとをつきとめに行かうもの――。ほゝき ほゝきい。自身の咽喉から出た聲だ、と思つた。だがやはり、廬の外で鳴くのであつた。郎女の心に動き初めた叡《サト》い光りは、消えなかつた。今まで手習ひした書卷の何處かに、どうやら、法喜と言ふ字のあつた氣がする。法喜――飛ぶ鳥すらも、美しいみ佛の詞に、感《カマ》けて鳴くのではなからうか。さう思へば、この鶯も、ほゝき ほゝきい。嬉しさうな高音《タカネ》を、段々張つて來る。物語りする刀自たちの話でなく、若人《ワカウド》らの言ふことは、時たま、世の中の瑞々《ミヅヽヽ》しい消息《セウソコ》を傳へて來た。奈良の家の女部屋《ヲンナベヤ》は、裏方五つ間《マ》を通した、廣いものであつた。郎女の帳臺の立ち處《ド》を一番奧にして、四つの間に、刀自・若人、凡三十人も居た。若人等は、この頃、氏々の御館《ミタチ》ですることだと言つて、苑の池の蓮の莖を切つて來ては、藕絲《ハスイト》を引く工夫に、一心になつて居た。横佩家の池の面を埋めるほど、珠を捲いたり、解けたりした蓮の葉は、まばらになつて、水の反射が蔀を越して、女部屋まで來るばかりになつた。莖を折つては、纎維を引き出し、其片糸を幾筋も合せては、絲に縒《ヨ》る。郎女は、女たちの凝つてゐる手藝を、ぢつと見て居る日もあつた。ほうほうと切れてしまふ藕絲《ハスイト》を、八合《コ》・十二合《コ》・二十合《ハタコ》に縒つて、根氣よく、細い綱の樣にする。其を績《ウ》み麻《ヲ》の麻《ヲ》ごけに繋ぎためて行く。奈良の御館《ミタチ》でも、蠶《カフコ》は飼つて居た。實際、刀自たちは、夏は殊にせはしく、そのせゐで、不譏嫌《フキゲン》になつて居る日が多かつた。刀自たちは、初めは、そんな韓《カラ》の技人《テビト》のするやうな事は、と目もくれなかつた。だが時が立つと、段々興味を惹かれる樣子が見えて來た。こりや、おもしろい。絹の絲と、績《ウ》み麻《ヲ》との間を行く樣な妙な絲の――。此で、切れさへしなければなう。かうして績《ツム》ぎ蓄《タ》めた藕絲は、皆一纒めにして、寺々に納めようと、言ふのである。寺には、其々《ソレヽヽ》の技女《ギヂヨ》が居て、其絲で、唐土樣《モロコシヤウ》と言ふよりも、天竺風な織物に織りあげる、と言ふ評判であつた。女たちは、唯 功徳《クドク》の爲に絲を績《ツム》いでゐる。其でも、其が幾かせ。幾たまと言ふ風に貯つて來ると、言ひ知れぬ愛著を覺えて居た。だが、其がほんとは、どんな織物になることやら、其處までは想像も出來なかつた。若人たちは莖を折つては、巧みに糸を引き切らぬやうに、長く/\と抽き出す。又其、粘り氣の少いさくいものを、まるで絹糸を縒り合せるやうに、手際よく絲にする間も、ちつとでも口やめる事なく、うき世語りなどをして居た。此は勿論、貴族の家庭では、出來ぬ掟になつて居た。なつては居ても、物珍《モノメ》でする盛りの若人たちには、口を塞いで緘默行《シヾマ》を守ることは、死ぬよりもつらい行《ギヤウ》であつた。刀自らの油斷を見ては、ぼつ/″\話をしてゐる。其きれ/″\が、聞かうとも思はぬ郎女の耳にも、ぼつ/″\這入つて來《キ》勝ちなのであつた。鶯の鳴く聲は、あれで、法華經々々々《ホケキヤウヽヽヽヽヽ》と言ふのぢやて。ほゝ、どうして、え――。天竺のみ佛は、をなごは、助からぬものぢや、と説かれ/\して來たがえ、其果てに女《ヲナゴ》でも救ふ道が開かれた。其を説いたのが、法華經ぢやと言ふげな。――こんなこと、をなごの身で言ふと、さかしがりよと思はうけれど、でも、世間では、さう言ふもの――。ぢやで、法華經々々々と經の名を唱へるだけで、この世からして、あの世界の苦しみが助かるといの。ほんまにその、天竺のをなごが、あの鳥に化《ナ》り變つて、み經の名を呼ばゝるのかえ。郎女には、いつか小耳に「插」んだ其話が、その後、何時までも消えて行かなかつた。その頃ちようど、稱讃淨土佛攝受經《シヨウサンジヤウドブツセフジユギヤウ》を、千部寫さうとの願を發《オコ》して居た時であつた。其が、はかどらぬ。何時までも進まぬ。茫とした耳に、此 世話《ヨバナシ》が再また、紛れ入つて來たのであつた。ふつと、こんな氣がした。ほゝき鳥は、先の世で、御經《オンキヤウ》手寫の願を立てながら、え果《ハタ》さいで、死にでもした、いとしい女子がなつたのではなからうか。……さう思へば、若しや今、千部に滿たずにしまふやうなことがあつたら、我が魂《タマ》は何になることやら。やつぱり、鳥か、蟲にでも生れて、切《セツ》なく鳴き續けることであらう。つひに一度、ものを考へた事もないのが、此國のあて人の娘であつた。磨かれぬ智慧を抱いたまゝ、何も知らず思はずに、過ぎて行つた幾百年、幾萬の貴い女性《ニヨシヤウ》の間に、蓮《ハチス》の花がぽつちりと、莟を擡《モタ》げたやうに、物を考へることを知り初《ソ》めた郎女であつた。をれよ。鶯よ。あな姦《カマ》や。人に、物思ひをつけくさる。荒々しい聲と一しよに、立つて、表戸と直角《カネ》になつた草壁の蔀戸《シトミド》をつきあげたのは、當麻語部《タギマノカタリ》の媼《オムナ》である。北側に當るらしい其外側は、「總のつくり」を壓するばかり、篠竹が繁つて居た。澤山の葉筋《ハスヂ》が、日をすかして一時にきら/\と、光つて見えた。郎女は、暫らく幾本とも知れぬその光りの筋の、閃き過ぎた色を、「目+框のつくり」《マブタ》の裏に、見つめて居た。をとゝひの日の入り方、山の端に見た輝きが、思はずには居られなかつたからである。また一時《イツトキ》、盧堂《イホリドウ》を「廴+囘」つて、音するものもなかつた。日は段々 闌《タ》けて、小晝《コビル》の温《ヌク》みが、ほの暗い郎女の居處にも、ほつとりと感じられて來た。寺の奴《ヤツコ》が、三四人先に立つて、僧綱が五六人其に、大勢の所化たちのとり捲いた一群れが、廬へ來た。これが、古《フル》山田寺だ、と申します。勿體ぶつた、しわがれ聲が聞えて來た。そんな事は、どうでも――。まづ、郎女《イラツメ》さまを――。噛みつくやうにあせつて居る家長老《イヘオトナ》額田部子古《ヌカタベノコフル》のがなり聲がした。同時に、表戸は引き剥がされ、其に隣つた、幾つかの竪薦《タツゴモ》をひきちぎる音がした。づうと這ひ寄つて來た身狹乳母《ムサノチオモ》は、郎女の前に居たけを聳かして、掩ひになつた。外光の直射を防ぐ爲と、一つは男たちの前、殊には、庶民の目に、貴人《アデビト》の姿を暴《サラ》すまい、とするのであらう。伴《トモ》に立つて來た家人《ケニン》の一人が、大きな木の叉枝《マタブリ》をへし折つて來た。さうして、旅用意の卷帛《マキギヌ》を、幾垂れか、其場で之に結び下げた。其を牀《ユカ》につきさして、即座の竪帷《タツバリ》―几帳―は調つた。乳母《オモ》は、其前に座を占めたまゝ、何時までも動かなかつた。-----cont.-----(^続^)
2006年02月17日
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十をとめの閨戸《ネヤド》をおとなふ風《フウ》は、何も、珍しげのない國中の爲來《シキタ》りであつた。だが其にも、曾てはさうした風の、一切行はれて居なかつたことを、主張する村々があつた。何時のほどにか、さうした村が、他村の、別々に守つて來た風習と、その古い爲來りとをふり替へることになつたのだ、と言ふ。かき上る段になれば、何の雜作《ザフサ》もない石城《シキ》だけれど、あれを大昔からとり「廴+囘」して居た村と、さうでない村とがあつた。こんな風に、しかつめらしい説明をする宿老《トネ》たちが、どうかすると居た。多分やはり、語部《カタリベ》などの昔語りから、來た話なのであらう。踏み越えても這入れ相《サウ》に見える石垣だが、大昔 交《カハ》された誓ひで、目に見えぬ鬼神《モノ》から、人間に到るまで、あれが形だけでもある限り、入りこまぬ事になつてゐる。こんな約束が、人と鬼《モノ》との間にあつて後、村々の人は石城《シキ》の中に、ゆつたりと棲むことが出來る樣になつた。さうでない村々では、何者でも、垣を躍り越えて這入つて來る。其は、別の何かの爲方《シカタ》で、防ぐ外はなかつた。祭りの夜でなくても、村なかの男は何の憚りなく、垣を踏み越えて處女の蔀戸《シトミ》をほと/\と叩く。石城《シキ》を圍《カコ》うた村には、そんなことは、一切なかつた。だから、美《クハ》し女《メ》の家に、奴隷《ヤツコ》になつて住みこんだ古《イニシヘ》の貴《アデ》びともあつた。娘の父にこき使はれて、三年五年、いつか處女に會はれよう、と忍び過した、身にしむ戀物語りもあるくらゐだ。石城《シキ》を掘り崩すのは、何處からでも鬼神《モノ》に入りこんで來い、と呼びかけるのと同じことだ。京の年よりにもあつたし、田舍の村々では、之を言ひ立てに、ちつとでも、石城を殘して置かうと爭うた人々が、多かつたのである。さう言ふ家々では、實例として恐しい證據を擧げた。卅年も昔、――天平八年嚴命が降つて、何事も命令のはか/″\しく行はれぬのは、朝臣《テウシン》が先つて行はぬからである。汝等《ミマシタチ》進んで、石城を毀つて、新京の時世裝に叶うた家作りに改めよ、と仰せ下された。藤氏四流の如き、今に舊態を易《カ》へざるは、最其位に在るを顧みざるものぞ、とお咎めが降つた。此時一度、凡、石城はとり毀たれたのである。ところが、其と時を同じくして、疱瘡《モガサ》がはやり出した。越えて翌年、益々盛んになつて、四月北家を手初めに、京家南家と、主人から、まづ此 時疫《シエキ》に亡くなつて、八月にはとう/\、式家の宇合卿まで仆れた。家に、防ぐ筈の石城が失せたからだ、と天下中の人が騷いだ。其でまた、とり壞した家も、ぼつ/″\舊《モト》に戻したりしたことであつた。こんなすさまじい事も、あつて過ぎた夢だ。けれどもまだ、まざ/″\と人の心に燒きついて離れぬ、現《ウツヽ》の恐しさであつた。其は其として、昔から家の娘を守つた邑々も、段々えたいの知れぬ村の風に感染《カマ》けて、忍び夫《ヅマ》の手に任せ傍題《ハウダイ》にしようとしてゐる。さうした求婚《ツマドヒ》の風を傳へなかつた氏々の間では、此は、忍び難い流行であつた。其でも男たちは、のどかな風俗を喜んで、何とも思はぬやうになつた。が、家庭の中では、母・妻・乳母《オモ》たちが、いまだにいきり立つて、さうした風儀になつて行く世間を、呪ひやめなかつた。手近いところで言うても、大伴宿禰にせよ。藤原朝臣にせよ。さう謂ふ妻どひの式はなくて、數十代宮廷をめぐつて、仕へて來た邑々のあるじの家筋であつた。でも何時か、さうした氏々の間にも、妻迎への式には、八千矛の神のみことは、とほ/″\し、高志《コシ》の國に、美《クハ》し女《メ》をありと聞かして、賢《サカ》し女《メ》をありと聞《キコ》して……から謠ひ起す神語歌《カミガタリウタ》を、語部に歌はせる風が、次第にひろまつて來るのを、防ぎとめることが出來なくなつて居た。南家の郎女《イラツメ》にも、さう言ふ妻覓《ツママ》ぎ人が――いや人群《ヒトムレ》が、とりまいて居た。唯、あの型ばかり取り殘された石城《シキ》の爲に、何だか屋敷へ入ることが、物忌み―たぶう―を犯すやうな危殆《ヒアヒ》な心持ちで、誰も彼も、柵まで又、門まで來ては、かいまみしてひき還すより上の勇氣が、出ぬのであつた。通《カヨ》はせ文《ブミ》をおこすだけが、せめてものてだてゞ、其さへ無事に、姫の手に屆いて、見られてゐると言ふ、自信を持つ人は、一人としてなかつた。事實、大抵、女部屋の老女《トシ》たちが、引つたくつて渡させなかつた。さうした文のとりつぎをする若人《ワカウド》―若女房―を呼びつけて、荒けなく叱つて居る事も、度々見かけられた。其方《オモト》は、この姫樣こそ、藤原の氏神にお仕へ遊ばす、清らかな常處女《トコヲトメ》と申すのだ、と言ふことを知らぬのかえ。神の咎めを憚るがえゝ。宮から恐れ多いお召しがあつてすら、ふつにおいらへを申しあげぬのも、それ故だとは考へつかぬげな。やくたい者。とつとゝ失せたがよい。そんな文とりついだ手を、率《イザ》川の一の瀬で淨めて來くさらう。罰《バチ》知らずが……。こんな風にわなりつけられた者は、併し、二人や三人ではなかつた。横佩家の女部屋に住んだり、通うたりしてゐる若人は、一人殘らず一度は、經驗したことだと謂つても、うそではなかつた。だが、郎女は、つひに一度そんな事のあつた樣子も、知らされずに來た。上つ方の郎女《イラツメ》が、才《ザエ》をお習ひ遊ばすと言ふことが御座りませうか。それは近(ツ)代、ずつと下《シモ》ざまのをなごの致すことゝ承ります。父君がどう仰らうとも、父御《テヽゴ》樣のお話は御一代。お家の習しは、神さまの御意趣《オムネ》、とお思ひつかはされませ。氏の掟の前には、氏上《ウヂノカミ》たる人の考へをすら、否みとほす事もある姥たちであつた。其老女たちすら、郎女の天禀には、舌を捲きはじめて居た。もう、自身たちの教へることもなうなつた。かう思ひ出したのは、數年も前からである。内に居る、身狹乳母《ムサノチオモ》・桃花鳥野乳母《ツキヌノマヽ》・波田坂上《ハタノサカノヘノ》刀自、皆故知らぬ喜びの不安から、歎息し續けてゐた。時々伺ひに出る中臣(ノ)志斐嫗《シヒノオムナ》・三上水凝刀自女《ミカミノミヅコリノトジメ》なども、來る毎、目を見合せて、ほうつとした顏をする。どうしよう、と相談するやうな人たちではない。皆無言で、自分等の力の及ばぬ所まで來た、姫の魂の成長にあきれて、目をみはるばかりなのだ。才《ザエ》を習ふなと言ふなら、まだ聞きも知らぬこと、教へて賜《タモ》れ。素直な郎女の求めも、姥たちにとつては、骨を刺しとほされるやうな痛さであつた。何を仰せられまする。以前から、何一つお教へなど申したことがおざりませうか。目下《メシタ》の者が、目上のお方さまに、お教へ申すと言ふやうな考へは、神樣がお聞き屆けになりません。教へる者は目上、ならふ者は目下、と此が、神の代からの掟でおざりまする。志斐[#(ノ)]嫗《オムナ》の負け色を救ふ爲に、身狹乳母《ムサノチオモ》も口を「插」む。唯知つた事を申し上げるだけ。其を聞きながら、御心がお育ち遊ばす。さう思うて、姥たちも、覺えたゞけの事は、郎女樣のみ魂《タマ》を搖《イブ》る樣にして、歌ひもし、語りもして參りました。教へたなど仰つては、私めらが、罰《バチ》を蒙らねばなりません。こんな事をくり返して居る間に、刀自たちにも、自分らの恃む知識に對する、單純な自覺が出て來た。此は一層、郎女の望むまゝに、才《ザエ》を習《ナラハ》した方が、よいのではないかと言ふ氣が、段々して來たのである。まことに其爲には、ゆくりない事が、幾重にも重つて起つた。姫の帳臺の後から、遠くに居る父の心盡しだつたと見えて、二卷の女手《ヲンナデ》の寫經らしい物が出て來た。姫にとつては、肉縁はないが、曾祖母《ヒオホバ》にも當る橘夫人の法華經、又其 御胎《オハラ》にいらせられる―筋から申せば、大叔母 御《ゴ》にもお當り遊ばす、今の 皇太后樣の樂毅論。此二つの卷物が、美しい裝ひで、棚を架《カ》いた上に載せてあつた。横佩大納言と謂はれた頃から、父は此二部を、自分の魂のやうに大事にして居た。ちよつと出る旅にも、大きやかな箱に納めて、一人分の資人《トネリ》の荷として、持たせて行つたものである。其魂の書物を、姫の守りに留めておきながら、誰にも言はずにゐたのである。さすがに我強《ガヅヨ》い刀自たちも、此見覺えのある、美しい箱が出て來た時には、暫らく撲たれたやうに、顏を見合せて居た。さうして後《ノチ》、後《アト》で恥しからうことも忘れて、皆聲をあげて泣いたものであつた。郎女は、父の心入れを聞いた。姥たちの見る目には、併し豫期したやうな興奮は、認められなかつた。唯一 途《ヅ》に素直に、心の底の美しさが匂ひ出たやうに、靜かな、美しい眼で、人々の感激する樣子を、驚いたやうに見まはして居た。其からは、此二つの女手《ヲンナデ》の「本《ホン》」を、一心に習ひとほした。偶然は友を誘《ヒ》くものであつた。一月も立たぬ中の事である。早く、此都に移つて居た飛鳥寺《アスカデラ》―元興寺《グワンコウジ》―から卷數《クワンズ》が屆けられた。其には、難波にある帥の殿の立願《リフグワン》によつて、佛前に讀誦した經文の名目が、書き列ねてあつた。其に添へて、一卷の縁起文が、此御館へ屆けられたのである。父藤原豐成朝臣、亡父贈太政大臣七年の忌みに當る日に志を發《オコ》して、書き綴つた「佛本傳來記」を、其後二年立つて、元興寺《グワンコウジ》へ納めた。飛鳥以來、藤原氏とも關係の深かつた寺なり、本尊なのである。あらゆる念願と、報謝の心を籠めたもの、と言ふことは察せられる。其一卷が、どう言ふ訣《ワケ》か、二十年もたつてゆくりなく、横佩家へ戻つて來たのである。郎女の手に、此卷が渡つた時、姫は端近く膝行《ヰザ》り出て、元興寺の方を禮拜した。其後で、難波とやらは、どちらに當るかえ。と尋ねて、示す方角へ、活き/\した顏を向けた。其目からは、珠數の珠の水精《スヰシヤウ》のやうな涙が、こぼれ出てゐた。其からと言ふものは、來る日もくる日も、此元興寺の縁起文を手寫した。内典・外典其上に又、大日本《オホヤマト》びとなる父の書いた文《モン》。指から腕腕から胸、胸から又心へ、沁み/\と深く、魂を育てる智慧の這入つて行くのを、覺えたのである。大日本日高見《オホヤマトヒタカミ》の國。國々に傳はるありとある歌諺《ウタコトワザ》、又 其舊辭《ソノモトツゴト》。第一には、中臣の氏の神語り。藤原の家の古物語り。多くの語り詞《ゴト》を、絶えては考へ繼ぐ如く、語り進んでは途切れ勝ちに、呪々《ノロヽヽ》しく、くね/\しく、獨り語りする語部や、乳母《オモ》や、嚼母《マヽ》たちの唱へる詞が、今更めいて、寂しく胸に蘇つて來る。をゝ、あれだけの習しを覺える、たゞ其だけで、此世に生きながらへて行かねばならぬみづからであつた。父に感謝し、次には尊い大叔母《オホヲバ》君、其から見ぬ世の曾祖母《オホオバ》の尊に、何とお禮申してよいか、量り知れぬものが、心にたぐり上げて來る。だがまづ、父よりも誰よりも、御禮申すべきは、み佛である。この珍貴《ウヅ》の感覺《サトリ》を授け給ふ、限り知られぬ愛《メグ》みに充ちたよき人が、此世界の外に、居られたのである。郎女は、塗香《ヅカウ》をとり寄せて、まづ髮に塗り、手に塗り、衣を薫るばかりに匂はした。-----cont.
2006年02月17日
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cont.-------今一人が言ふ。建つ家もたつ家も、この立派さは、まあどうで御座りませう。其に、どれも此も、此頃急にはやり出した築土垣《ツキヒヂガキ》を築《キヅ》きまはしまして。何やら、以前とはすつかり變つた處に、參つた氣が致します。馬上の主人も、今まで其ばかり考へて居た所であつた。だが彼の心は、瞬間明るくなつて、先年三形王の御殿での宴《ウタゲ》に誦《クチズサ》んだ即興が、その時よりも、今はつきりと内容を持つて、心に浮んで來た。うつり行く時見る毎に、心 疼《イタ》く 昔の人し 思ほゆるかも目をあげると、東の方春日の杜《モリ》は、谷陰になつて、こゝからは見えぬが、御蓋《ミカサ》山・高圓《タカマド》山一帶、頂が晴れて、すばらしい春日和になつて居た。あきらめがさせるのどけさなのだ、とすぐ氣がついた。でも、彼の心のふさぎのむしは迹《アト》を潜めて、唯、まるで今歩いてゐるのが、大日本平城京《オホヤマトヘイセイケイ》の土ではなく、大唐《ダイトウ》長安の大道の樣な錯覺の起つて來るのが押へきれなかつた。此馬がもつと、毛竝みのよい純白の馬で、跨つて居る自身も亦、若々しい二十代の貴公子の氣がして來る。神々から引きついで來た、重苦しい家の歴史だの、夥しい數の氏人などから、すつかり截り離されて、自由な空にかけつて居る自分でゞもあるやうな、豐かな心持ちが、暫らくは拂つても/\、消えて行かなかつた。おれは若くもなし。第一、海東の大日本人《オホヤマトビト》である。おれには、憂欝な家職が、ひし/\と、肩のつまるほどかゝつて居るのだ。こんなことを考へて見ると、寂しくてはかない氣もするが、すぐに其は、自身と關係のないことのやうに、心は饒《ニギ》はしく和らいで來て、爲方がなかつた。をい、汝《ワケ》たち。大伴氏上家《ウヂノカミケ》も、築土垣を引き「廴+囘」さうかな。とんでもないことを仰せられます。二人の聲が、おなじ感情から迸り出た。年の増した方の資人《トネリ》が、切實な胸を告白するやうに言つた。私どもは御譜第では御座りません。でも、大伴と言ふお名は、御門御垣《ミカドミカキ》と、關係深い稱へだ、と承つて居ります。大伴家からして、門垣を今樣にする事になつて御覽《ゴラウ》じませ。御一族の末々まで、あなた樣をお呪《ノロ》ひ申し上げることでおざりませう。其どころでは、御座りません。第一、ほかの氏々――大伴家よりも、ぐんと歴史の新しい、人の世になつて初まつた家々の氏人までが、御一族を蔑《ナイガシロ》に致すことになりませう。こんな事を言はして置くと、折角澄みかゝつた心も、又曇つて來さうな氣がする。家持は忙てゝ、資人の口を緘《ト》めた。うるさいぞ。誰に言ふ語だと思うて、言うて居るのだ。やめぬか。雜談《ジヤウダン》だ。雜談を眞に受ける奴が、あるものか。馬はやつぱり、しつと/\と、歩いて居た。築土垣 築土垣。又、築土垣。こんなに何時の間に、家構へが替つて居たのだらう。家持は、なんだか、晩《オソ》かれ早かれ、ありさうな氣のする次の都――どうやらかう、もつとおつぴらいた平野の中の新京城《シンケイジヤウ》にでも來てゐるのでないかと言ふ氣が、ふとしかゝつたのを、危く喰ひとめた。築土垣 築土垣。もう、彼の心は動かなくなつた。唯、よいとする氣持ちと、よくないと思はうとする意思との間に、氣分だけが、あちらへ寄りこちらへよりしてゐるだけであつた。何時の間にか、平群《ヘグリ》の丘や、色々な塔を持つた京西《キヤウニシ》の寺々の見渡される、三條邊の町尻に來て居ることに、氣がついた。これは/\。まだこゝに、殘つてゐたぞ。珍しい發見をしたやうに、彼は馬から身を飜《カヘ》しておりた。二人の資人はすぐ、馳け寄つて手綱を控へた。家持は、門と門との間に、細かい柵をし圍らし、目隱しに枳殼《カラタチバナ》の叢生《ヤブ》を作つた家の外構への一個處に、まだ石城《シキ》が可なり廣く、人丈にあまる程に築いてあるそばに、近寄つて行つた。荒れては居るが、こゝは横佩墻内《ヨコハキカキツ》だ。さう言つて、暫らく息を詰めるやうにして、石垣の荒い面を見入つて居た。さうに御座ります。此 石城《シキ》からしてついた名の、横佩墻内だと申しますとかで、せめて一ところだけは、と強ひてとり毀たないとか申します。何分、帥《ソツ》の殿のお都入りまでは何としても、此儘で置くので御座りませう。さやうに、人が申し聞けました。はい。何時の間にか、三條三坊まで來てしまつてゐたのである。おれは、こんな處へ來ようと言ふ考へはなかつたのに――。だが、やつぱり、おれにはまだ/″\、若い色好みの心が、失せないで居るぞ。何だか、自分で自分をなだめる樣な、反省らしいものが出て來た。其にしても、靜か過ぎるではないか。さやうで。で御座りますが、郎女のお行くへも知れ、乳母もそちらへ行つたとか、今も人が申しましたから、落ちついたので御座りませう。詮索ずきさうな顏をした若い方が、口を出す。いえ。第一、こんな場合は、騷ぐといけません。騷ぎにつけこんで、惡い魂《タマ》や、靈《モノ》が、うよ/\とつめかけて來るもので御座ります。この御館《ミタチ》も、古いおところだけに、心得のある長老《オトナ》の一人や、二人は、難波へも下らずに、留守に居るので御座りませう。もうよい/\。では戻らう。----cont.
2006年02月17日
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"Are You Lonesome Tonight?"----Are You Lonesome Tonight?performed by~Elvis Presley"♪~♪Are you lonesome tonight今夜は一人かいdo you miss me tonight今夜も、僕がいなくても大丈夫なのAre you sorry we drifted apart僕たち、疎遠になってDoes your memory stray to a bright sunny dayあの強烈な日差しの中を彷徨(さまよ)ったことを覚えているかいWhen I kissed you and called you sweetheart君にキスして、そっと口元で囁(ささや)いた僕をDo the chairs in your parlor seem empty and bare君のいる部屋には椅子がポカンとおかれているだけDo you gaze at your doorstep and picture me there君は唯、入口を見つめて僕のことを想い出しているIs your heart filled with pain, shall I come back again君の心は寂しさに震えるばかり、僕とやり直せるかいTell me dear, are you lonesome tonight愛しい人よ、今夜は一人かいSpoken:(以下、台詞)I wonder if you're lonesome tonight今夜は一人かいYou know someone said that the world's a stage『世の中は回り舞台のようね』って誰かが話していたけれどAnd each must play a partそして『みんな与えられた役を演じなければならない』とFate had me playing in love you as my sweet heart運命的に僕は君を愛する役回りを与えられていてAct one was when we met, I loved you at first glance第一幕で僕たちは出会って、一目で君を好きになりYou read your line so cleverly and never missed a cue君は上手に役を演じて、きちんとやってのけたThen came act two, you seemed to change and you acted strangeそして第二幕が訪れた、君は突然、心変わりした様子でAnd why I'll never know僕には、その理由(わけ)が分からないHoney, you lied when you said you loved meハニー、僕を好きだと言うのは偽りだったの?And I had no cause to doubt you僕には君を疑う術(すべ)もなかったBut I'd rather go on hearing your liesだけとも----Than go on living without you君のいない日々を過ごすよりもNow the stage is bare and I'm standing there誰もいない舞台に立ってWith emptiness all around周りはポッカリと穴の開いたように空しさだけが残り、And if you won't come back to meもしかして、帰ってくる気持ちが失せてしまったのだったらThen they can bring the curtain downこの舞台は幕を下ろしてしまおうかIs your heart filled with pain, shall I come back againTell me dear, are you lonesome tonight------Why don't you promiss it???(^寂^)------cont.----- 九兵部大輔《ヒヤウブタイフ》大伴(ノ)家持は、偶然この噂を、極めて早く耳にした。ちようど、春分《シユンブン》から二日目の朝、朱雀大路を南へ、馬をやつて居た。二人ばかりの資人《トネリ》が徒歩《カチ》で、驚くほどに足早について行く。此は、晋唐の新しい文學の影響を受け過ぎるほど、享け入れた文人かたぎの彼には、數年來珍しくもなくなつた癖である。かうして、何處まで行くのだらう。唯、朱雀の竝み木の柳の花がほゝけて、霞のやうに飛んで居る。向うには、低い山と、細長い野が、のどかに陽炎《カゲロ》ふばかりである。資人の一人が、とつとゝ追ひついて來たと思ふと、主人の鞍に顏をおしつける樣にして、新しい耳を聞かした。今行きすがうた知り人の口から、聞いたばかりの噂である。それで、何か――。娘御の行くへは知れた、と言ふのか。はい……。いゝえ。何分、その男がとり急いで居りまして。この間拔け。話はもつと上手に聽くものだ。柔らかく叱つた。そこへ今《モ》一人の伴《トモ》が、追ひついて來た。息をきらしてゐる。ふん。汝《ワケ》は聞き出したね。南家《ナンケ》の孃子《ヲトメ》は、どうなつた――。出端《ハナ》に油かけられた資人《トネリ》は、表情に隱さず心の中を表した此頃の人の、自由な咄し方で、まともに鼻を蠢して語つた。當麻の邑まで、をとゝひ夜《ヨ》の中に行つて居たこと、寺からは、昨日午後、横佩 墻内《カキツ》へ知らせが屆いたこと其外には、何も聞きこむ間のなかつたことまで。家持の聯想は、環のやうに繋つて、暫らくは馬の上から見る、街路も、人通りも、唯、物として通り過ぎるだけであつた。南家で持つて居た藤原の氏上《ウヂノカミ》職が、兄の家から、弟仲麻呂―押勝―の方へ移らうとしてゐる。來年か、再來年《サライネン》の枚岡《ヒラヲカ》祭りに、參向する氏人の長者は、自然かの大師のほか、人がなくなつて居る。惠美家《ヱミケ》からは、嫡子 久須麻呂《クスマロ》の爲、自分の家の第一孃子をくれとせがまれて居る。先日も、久須麻呂の名の歌が屆き、自分の方でも、娘に代つて返し歌を作つて遣した。今朝《ケサ》も今朝、又折り返して、男からの懸想文《ケサウブミ》が、來てゐた。その壻候補《ムコガネ》の父なる人は、五十になつても、若かつた頃の容色に頼む心が失せずにゐて、兄の家娘にも執心は持つて居るが、如何に何でも、あの郎女だけには、とり次げないで居る。此は、横佩家へも出入りし、大伴家へも初中終《シヨツチユウ》來る古刀自《フルトジ》の、人のわるい内證話であつた。其を聞いて後、家持自身も、何だか好奇心に似たものが、どうかすると頭を擡《モタ》げて來て困つた。仲麻呂は今年、五十を出てゐる。其から見れば、ひとまはりも若いおれなどは、思ひ出にまう一度、此 匂《ニホ》やかな貌花《カホバナ》を、垣内《カキツ》の坪苑《ツボ》に移せぬ限りはない。こんな當時の男が、皆持つた心をどりに、はなやいだ、明るい氣がした。だが併し、あの郎女は、藤原四家の系統《スヂ》で一番、神《カム》さびたたちを持つて生れた、と謂はれる娘御である。今、枚岡《ヒラヲカ》の御神《オンカミ》に仕へて居る齋《イツ》き姫《ヒメ》の罷める時が來ると、あの孃子《ヲトメ》が替つて立つ筈だ。其で、貴い所からのお召しにも應じかねて居るのだ。……結局、誰も彼も、あきらめねばならぬ時が來るのだ。神の物は、神の物――。横佩家の娘御は、神の手に落ちつくのだらう。ほのかな感傷が、家持の心を淨めて過ぎた。おれは、どうもあきらめが、よ過ぎる。十《トヲ》を出たばかりの幼さで、母は死に、父は疾んで居る太宰府へ降つて、夙《ハヤ》くから、海の彼方《アナタ》の作り物語りや、唐詩《モロコシウタ》のをかしさを知り初《ソ》めたのが、病みつきになつたのだ。死んだ父も、さうした物は、或は、おれよりも嗜きだつたかも知れぬほどだが、もつと物に執着《シフヂヤク》が深かつた。現に、大伴の家の行く末の事なども、父はあれまで、心を惱まして居た。おれも考へれば、たまらなくなつて來る。其で、氏人を集めて喩したり、歌を作つて訓諭して見たりする。だがさうした後の氣持ちの爽やかさは、どうしたことだ。洗ひ去つた樣に、心がすつとしてしまふのだつた。まるで、初めから家の事など考へて居なかつた、とおなじすが/″\しい心になつてしまふ。あきらめと言ふ事を、知らなかつた人ばかりではないか。……昔物語りに語られる神でも、人でも、傑れた、と傳へられる限りの方々は――。それに、おれはどうしてかうだらう。家持の心は併し、こんなに悔恨に似た心持ちに沈んで居るに繋らず、段々氣にかゝるものが、薄らぎ出して來てゐる。ほう これは、京極《キヤウハテ》まで來た。朱雀大路《オホヂ》も、こゝまで來ると、縱横に通る地割りの太い路筋ばかりが、白々として居て、どの區畫にも/\、家は建つて居ない。去年の草の立ち枯れたのと、今年生えて稍莖を立て初めたのとがまじりあつて、屋敷地から喰み出し、道の上までも延びて居る。こんな家が――。驚いたことは、そんな草原の中に、唯一つ大きな構への家が、建ちかゝつて居る。遲い朝を、もう餘程、今日の爲事に這入つたらしい木の道の者たちが、骨組みばかりの家の中で、立ちはたらいて居るのが見える。家の建たぬ前に、既に屋敷「廴+囘」りの地形《ヂギヤウ》が出來て、見た目にもさつぱりと、垣をとり「廴+囘」して居る。土を積んで、石に代へた垣、此頃言ひ出した築土垣《ツキヒヂガキ》といふのは、此だな、と思つて、ぢつと目をつけて居た。見る/\、さうした新しい好尚《コノミ》のおもしろさが、家持の心を奪うてしまつた。築土垣《ツキヒヂガキ》の處々に、きりあけた口があつて、其に、門が出來て居た。さうして、其處から、頻りに人が繋つては出て來て、石を曳く。木を搬《モ》つ。土を搬び入れる。重苦しい石城《シキ》。懷しい昔構へ。今も、家持のなくなしたくなく考へてゐる屋敷「廴+囘」りの石垣が、思うてもたまらぬ重壓となつて、彼の胸に、もたれかゝつて來るのを感じた。おれには、だが、この築土垣を擇《ト》ることが出來ぬ。家持の乘|馬《メ》は再、憂欝に閉された主人を背に、引き返して、五條まで上つて來た。此邊から、右京の方へ折れこんで、坊角《マチカド》を「廴+囘」りくねりして行く樣子は、此主人に馴れた資人《トネリ》たちにも、胸の測られぬ氣を起させた。二人は、時々顏を見合せ、目くばせをしながら尚、了解が出來ぬ、と言ふやうな表情を交しかはし、馬の後を走つて行く。こんなにも、變つて居たのかねえ。ある坊角《マチカド》に來た時、馬をぴたと止めて、獨り言のやうに言つた。……舊《フル》草に 新《ニヒ》草まじり 生ひば 生ふるかに――だな。近頃見つけた歌「にんべん+舞」所《カブシヨ》の古記録「東歌《アヅマウタ》」の中に見た一首がふと、此時、彼の言ひたい氣持ちを、代作して居てくれてゐたやうに、思ひ出された。さうだ。「おもしろき野《ヌ》をば 勿《ナ》燒きそ」だ。此でよいのだ。けゞんな顏を仰《アフム》けてゐる伴人《トモビト》らに、柔和な笑顏を向けた。さうは思はぬか。立ち朽りになつた家の間に、どし/″\新しい屋敷が出來て行く。都は何時までも、家は建て詰まぬが、其でもどちらかと謂へば、減るよりも殖えて行つてゐる。此邊は以前、今頃になると、蛙めの、あやまりたい程鳴く田の原が、續いてたもんだ。仰るとほりで御座ります。春は蛙、夏はくちなは、秋は蝗まろ。此邊はとても、歩けたところでは御座りませんでした。----cont.
2006年02月17日
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cont.------ 八奈良の都には、まだ時をり、石城《シキ》と謂はれた石垣を殘して居る家の、見かけられた頃である。度々の太政官符《ダイジヤウグワンプ》で、其を家の周《マハ》りに造ることが、禁ぜられて來た。今では、宮廷より外には、石城《シキ》を完全にとり「廴+囘」した豪族の家などは、よく/\の地方でない限りは、見つからなくなつて居る筈なのである。其に一つは、宮廷の御在所が、御一代々々々に替つて居た千數百年の歴史の後に、飛鳥《アスカ》の都は、宮殿の位置こそ、數町の間をあちこちせられたが、おなじ山河一帶の内にあつた。其で凡、都遷しのなかつた形になつたので、後《アト》から/\地割りが出來て、相應な都城《トジヤウ》の姿は備へて行つた。其數朝の間に、舊族の屋敷は、段々、家構へが整うて來た。葛城に、元のまゝの家を持つて居て、都と共に一代ぎりの、屋敷を構へて居た蘇我臣《ソガノオミ》なども、飛鳥の都では、次第に家作りを擴げて行つて、石城《シキ》なども高く、幾重にもとり「廴+囘」して、凡永久の館作りをした。其とおなじ樣な氣持ちから、どの氏でも、大なり小なり、さうした石城《シキ》づくりの屋敷を、構へるやうになつて行つた。蘇我臣 一流《ヒトナガ》れで最榮えた島の大臣家《オトヾケ》の亡びた時分から、石城の構へは禁《ト》められ出した。この國のはじまり、天から授けられたと言ふ、宮廷に傳はる神の御詞《ミコトバ》に背く者は、今もなかつた。が、書いた物の力は、其が、どのやうに由緒のあるものでも、其ほどの威力を感じるに到らぬ時代がまだ續いて居た。其飛鳥の都も、高天原廣野姫尊樣《タカマノハラヒロヌヒメノミコトサマ》の思召しで、其から一里北の藤井个原に遷され、藤原の都と名を替へて、新しい唐樣《モロコシヤウ》の端正《キラヽヽ》しさを盡した宮殿が、建ち竝ぶ樣になつた。近い飛鳥から、新渡來《イマキ》の高麗馬《コマ》に跨つて、馬上で通ふ風流士《タハレヲ》もあるにはあつたが、多くはやはり、鷺栖《サギス》の阪の北、香具山の麓から西へ、新しく地割りせられた京城《ケイジヤウ》の坊々《マチヽヽ》に屋敷を構へ、家造りをした。その次の御代になつても、藤原の都は、日に益し、宮殿が建て増されて行つて、こゝを永宮《トコミヤ》と遊ばす思召しが伺はれた。その安堵の心から、家々の外《ソト》には、石城を「廴+囘」すものが、又ぼつ/″\出て來た。さうして、そのはやり風俗が、見る/\うちに、また氏々の族長の家圍ひを、あらかた石にしてしまつた。その頃になつて、天眞宗豐祖父尊樣《アメマムネトヨオホヂノミコトサマ》がおかくれになり、御母《ミオヤ》 日本根子天津御代豐國成姫《ヤマトネコアマツミヨトヨクニナスヒメ》の大尊樣《オホミコトサマ》がお立ち遊ばした。その四年目思ひもかけず、奈良の都に宮遷しがあつた。ところがまるで、追つかけるやうに、藤原の宮は固より、目ぬきの家竝みが、不意の出火で、其こそ、あつと言ふ間に、痕形もなく、空《ソラ》の有《モノ》となつてしまつた。もう此頃になると、太政官符《ダジヤウグワンプ》に、更に嚴《キビ》しい添書《コトワキ》がついて出ずとも、氏々の人は皆、目の前のすばやい人事自然の交錯した轉變《テンペン》に、目を瞠るばかりであつたので、久しい石城《シキ》の問題も、其で、解決がついて行つた。古い氏種姓《ウヂスジヤウ》を言ひ立てゝ、神代以來の家職の神聖を誇つた者どもは、其家職自身が、新しい藤原奈良の都には、次第に意味を失つて來てゐる事に、氣がついて居なかつた。最早くそこに心づいた、姫の祖父 淡海《タンカイ》公などは、古き神祕を誇つて來た家職を、末代まで傳へる爲に、別に家を立てゝ中臣の名を保たうとした。さうして、自分・子供ら・孫たちと言ふ風に、いちはやく、新しい官人《ツカサビト》の生活に入り立つて行つた。ことし、四十を二つ三つ越えたばかりの大伴家持《オホトモノヤカモチ》は、父 旅人《タビト》の其年頃よりは、もつと優れた男ぶりであつた。併し、世の中はもう、すつかり變つて居た。見るもの障《サハ》るもの、彼の心を苛《イラ》つかせる種にならぬものはなかつた。淡海公の、小百年前に實行して居る事に、今はじめて自分の心づいた鈍《オゾ》ましさが、憤らずに居られなかつた。さうして、自分とおなじ風の性向の人の成り行きを、まざ/″\省みて、慄然とした。現に、時に誇る藤原びとでも、まだ昔風の夢に泥《ナヅ》んで居た南家の横佩右大臣は、さきをとゝし、太宰(ノ)員外帥《ヰングワイノソツ》に貶《オト》されて、都を離れた。さうして今は、難波で謹愼してゐるではないか。自分の親旅人も、三十年前に踏んだ道である。世間の氏上家《ウヂノカミケ》の主人《アルジ》は、大方もう、石城《シキ》など築《キヅ》き「廴+囘」《マハ》して、大門小門を繋ぐと謂つた要害と、裝飾とに、興味を失ひかけて居るのに、何とした自分だ。おれはまだ現に、出來るなら、宮廷のお目こぼしを頂いて、石に圍はれた家の中で、家の子どもを集め、氏人《ウヂビト》たちを召《ヨ》びつどへて、弓場《ユバ》に精勵させ、捧術《ホコユケ》・大刀かきに出精《シユツセイ》させよう、と謂つたことを空想して居る。さうして年々《トシヾヽ》頻繁に、氏神其外の神々を祭つてゐる。其度毎に、家の語部《カタリベ》大伴(ノ)語造《カタリヤツコ》の嫗《オムナ》たちを呼んで、之に捉《ツカマ》へ處《ドコロ》もない昔代《ムカシヨ》の物語りをさせて、氏人《ウヂビト》に傾聽を強ひて居る。何だか、空《クウ》な事に力を入れて居たやうに思へてならぬ寂しさだ。だが、其氏神祭りや、祭りの後宴《ゴエン》に、大勢《オホセイ》の氏人《ウヂビト》の集ることは、とりわけやかましく言はれて來た、三四年以來の法度《ハツト》である。こんな溜め息を洩しながら、大伴氏の舊い習しを守つて、どこまでも、宮廷守護の爲の武道の傳襲に、努める外はない家持だつたのである。越中守として踏み歩いた越路《コシヂ》の泥のかたが、まだ行縢《ムカバキ》から落ちきらぬ内に、もう復《マタ》、都を離れなければならぬ時の、迫つて居るやうな氣がして居た。其中、此針の筵の上で、兵部少輔《ヒヤウブセフ》から、大輔《タイフ》に昇進した。そのことすら、益々脅迫感を強める方にばかりはたらいた。今年五月にもなれば、東大寺の四天王像の開眼《カイゲン》が行はれる筈で、奈良の都の貴族たちには、すでに寺から内見を願つて來て居た。さうして、忙しい世の中にも、暫らくはその評判が、すべてのいざこざをおし鎭める程に、人の心を浮き立たした。本朝《ホンテウ》出來の像としては、まづ、此程物凄い天部《テンブ》の姿を拜んだことは、はじめてだ、と言ふものもあつた。神代の荒《アラ》神たちも、こんな形相《ギヤウサウ》でおありだつたらう、と言ふ噂も聞かれた。まだ公《オホヤケ》の供養もすまぬのに、人の口はうるさいほど、頻繁に流説をふり撒いてゐた。あの多聞天と、廣目天との顏つきに、思ひ當るものがないか、と言ふのであつた。此はこゝだけの咄だよ、と言つて話したのが、次第に廣まつて、家持の耳までも聞えて來た。なるほど、憤怒《フンヌ》の相《サウ》もすさまじいにはすさまじいが、あれがどうも、當今大倭一だと言はれる男たちの顏、そのまゝだと言ふのである。貴人は言はぬ、かう言ふ種類の噂は、えて供をして見て來た道々《ミチヽヽ》の博士《ハカセ》たちと謂つた、心 蔑《サモ》しいものゝ、言ひさうな事である。多聞天は、大師《タイシ》藤原(ノ)惠美中卿《ヱミチユウケイ》だ。あの柔和な、五十を越してもまだ、三十代の美しさを失はぬあの方が、近頃おこりつぽくなつて、よく下官や、仕《ツカ》へ人《ビト》を叱るやうになつた。あの圓滿《ウマ》し人《ビト》が、どうしてこんな顏つきになるだらう、と思はれる表情をすることがある。其 面《オモ》もちそつくりだ、と尤らしい言ひ分なのである。さう言へば、あの方が壯盛《ワカザカ》りに、捧術《ホコユケ》を嗜《コノ》んで、今にも事あれかしと謂つた顏で、立派な甲《ヨロヒ》をつけて、のつし/\と長い物を杖《ツ》いて歩かれたお姿が、あれを見てゐて、ちらつくやうだなど、と相槌をうつ者も出て來た。其では、廣目天の方はと言ふと、さあ、其がの――。と誰に言はせても、ちよつと言ひ澁るやうに、困つた顏をして見せる。實は、ほんの人の噂だがの。噂だから、保證は出來ぬがの。義淵僧正の弟子の道鏡法師に、似てるぞなと言ふがや。……けど、他人《ヒト》に言はせると、――あれはもう、二十幾年にもなるかいや――筑紫で伐たれなされた前太宰少貳《ゼンダザイノセウニ》―藤原廣嗣―の殿《トノ》に生寫《シヤウウツ》しぢや、とも言ふがいよ。わしにも、どちらとも言へんがの。どうでも、見たことのあるお人に似て居さつしやるには、似てゐさつしやるげな……。何しろ、此二つの天部《テンブ》が、互に敵視するやうな目つきで、睨みあつて居る。噂を氣にした住侶たちが、色々に置き替へて見たが、どの隅からでも、互に相手の姿を、眦《マナジリ》を裂いて見つめて居る。とう/\あきらめて、自然にとり沙汰の消えるのを待つより爲方がない、と思ふやうになつたと言ふ。若しや、天下に大亂でも起きなければえゝが――。こんな「口+耳」きは、何時までも續きさうに、時と共に倦まずに語られた。前《セン》少貳殿でなくて、弓削新發意《ユゲシンボチ》の方であつてくれゝば、いつそ安心だがなあ。あれなら、事を起しさうな房主でもなし。起したくても、起せる身分でもないぢやまで――。言ひたい傍題《ハウダイ》な事を言つて居る人々も、たつた此一つの話題を持ちあぐね初めた頃、噂の中の大師 惠美《ヱミノ》朝臣の姪の横佩家の郎女《イラツメ》が、神隱しに遭うたと言ふ、人の口の端に旋風《ツジカゼ》を起すやうな事件が、湧き上つたのである。----cont.(^死^)
2006年02月16日
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七南家の郎女の神隱(かみかく)しに遭つたのは、其夜であつた。家人は、翌朝空が霽れ、山々がなごりなく見えわたる時まで、氣がつかずに居た。横佩墻内(よこはきかきつ)に住む限りの者は、男も、女も、上(うは)の空になつて、洛中洛外を馳せ求めた。さうした奔(はし)り人(びと)の多く見出される場處と言ふ場處は、殘りなく搜された。春日山の奧へ入つたものは、伊賀境までも踏み込んだ。高圓山の墓原も、佐紀の沼地・雜木原も、又は、南は山村(やまむら)、北は奈良山、泉川の見える處まで馳せ「廴+囘」つて、戻る者も、戻る者も皆 空(から)足を踏んで來た。姫は、何處をどう歩いたか、覺えがない。唯、家を出て、西へ/\と辿つて來た。降り募るあらしが、姫の衣を濡した。姫は、誰にも教はらないで、裾を脛(はぎ)まであげた。風は、姫の髮を吹き亂した。姫は、いつとなく、髻(もとヾり)をとり束ねて、襟から着物の中に、含(くヽ)み入れた。夜中になつて、風雨が止み、星空が出た。姫の行くてには常に、二つの峰の竝んだ山の立ち姿がはつきりと聳えて居た。毛孔の竪つやうな畏しい聲を、度々聞いた。ある時は、鳥の音であつた。其後、頻りなく斷續したのは、山の獸の叫び聲であつた。大和の内も、都に遠い廣瀬・葛城(かつらぎ)あたりには、人居などは、ほんの忘れ殘りのやうに、山陰などにあるだけで、あとは曠野。それに――、本村(ほんむら)を遠く離れた、時はづれの、人棲まぬ田居(たい)ばかりである。片破れ月が、上(あが)つて來た。其が却て、あるいてゐる道の邊(ほとり)の凄さを、照し出した。其でも、星明りで辿つて居るよりは、よるべを覺えて、足が先へ先へと出た。月が中天へ來ぬ前に、もう東の空が、ひいわり白(しら)んで來た。夜のほの/″\明けに、姫は、目を疑ふばかりの現實に行きあつた。――横佩家の侍女たちは何時も、夜の起きぬけに、一番最初に目撃した物事で、日のよしあしを、占つて居るやうだつた。さう言ふ女どものふるまひに、特別に氣は牽かれなかつた郎女だけれど、よく其人々が、「今朝(けさ)の朝目(あさめ)がよかつたから」「何と言ふ情ない朝目でせう」などゝ、そは/\と興奮したり、むやみに塞ぎこんだりして居るのを、見聞きしてゐた。郎女は、生れてはじめて、「朝目よく」と謂つた語を、内容深く感じたのである。目の前に赤々と、丹塗(にぬ)りに照り輝いて、朝日を反射して居るのは、寺の大門ではないか。さうして、門から、更に中門が見とほされて、此もおなじ丹塗りに、きらめいて居る。山裾の勾配に建てられた堂・塔・伽藍は、更に奧深く、朱(あけ)に、青に、金色に、光りの棚雲を、幾重にもつみ重ねて見えた。朝目のすがしさは、其ばかりではなかつた。其寂寞たる光りの海から、高く抽(ぬき)でゝ見える二上の山。淡海(たんかい)公の孫、大織冠(たいしよくくわん)には曾孫。藤氏族長(とうしぞくちよう)太宰帥、南家(なんけ)の豐成、其 第一孃子(だいいちぢようし)なる姫である。屋敷から、一歩はおろか、女部屋を膝行(いざ)り出ることすら、たまさかにもせぬ、郎女(いらつめ)のことである。順道(じゆんたう)ならば、今頃は既に、藤原の氏神河内の枚岡(ひらおか)の御神(おんかみ)か、春日の御社(みやしろ)に、巫女(みこ)の君(きみ)として仕へてゐるはずである。家に居ては、男を寄せず、耳に男の聲も聞かず、男の目を避けて、仄暗い女部屋に起き臥しゝてゐる人である。世間の事は、何一つ聞き知りも、見知りもせぬやうに、おふしたてられて來た。寺の淨域が、奈良の内外(うちと)にも、幾つとあつて、横佩 墻内(かきつ)と讃(たヽ)へられてゐる屋敷よりも、もつと廣大なものだ、と聞いて居た。さうでなくても、經文の上に傳へた淨土の莊嚴(しやうごん)をうつすその建て物の樣は、想像せぬではなかつた。だが目(ま)のあたり見る尊さは、唯息を呑むばかりであつた。之に似た驚きの經驗は、曾て一度したことがあつた。姫は今其を思ひ起して居る。簡素と、豪奢との違ひこそあれ、驚きの歡喜は、印象深く殘つてゐる。今の 太上天皇樣が、まだ宮廷の御あるじで居させられた頃、八歳《ハツサイ》の南家の郎女《イラツメ》は、童女《ワラハメ》として、初《ハツ》の殿上《テンジヨウ》をした。穆々《ボクヽヽ》たる宮の内の明りは、ほのかな香氣を含んで、流れて居た。晝すら眞夜《マヨ》に等しい、御帳臺《ミチヤウダイ》のあたりにも、尊いみ聲は、昭々《セウヽヽ》と珠を搖る如く響いた。物わきまへもない筈の、八歳の童女が感泣した。「南家には、惜しい子が、女になつて生れたことよ」と仰せられた、と言ふ畏れ多い風聞が、暫らく貴族たちの間に、くり返された。其後十二年、南家の娘は、二十《ハタチ》になつてゐた。幼いからの聰《サト》さにかはりはなくて、玉・水精《スヰシヤウ》の美しさが益々加つて來たとの噂が、年一年と高まつて來る。姫は、大門の閾《シキミ》を越えながら、童女殿上《ワラハメテンジヤウ》の昔の畏《カシコ》さを、追想して居たのである。長い甃道《イシキミチ》を踏んで、中門に屆く間にも、誰一人出あふ者がなかつた。恐れを知らず育てられた大貴族の郎女は、虔《ツヽマ》しく併しのどかに、御《ミ》堂・々々を拜《ヲガ》んで、岡の東塔に來たのである。こゝからは、北大和の平野は見えぬ。見えたところで、郎女は、奈良の家を考へ浮べることも、しなかつたであらう。まして、家人たちが、神隱しに遭うた姫を、探しあぐんで居ようなどゝは、思ひもよらなかつたのである。唯うつとりと、塔の下《モト》から近々と仰ぐ、二上山の山肌に、現《ウツ》し世《ヨ》の目からは見えぬ姿を惟《オモ》ひ觀《ミ》ようとして居るのであらう。此時分になつて、寺では、人の動きが繁くなり出した。晨朝《ジンテウ》の勤めの間も、うと/\して居た僧たちは、爽やかな朝の眼を「目+爭」いて、食堂《ジキダウ》へ降りて行つた。奴婢《ヌヒ》は、其々もち場持ち場の掃除を勵む爲に、ようべの雨に洗つたやうになつた、境内の沙地に出て來た。そこにござるのは、どなたぞな。岡の陰から、恐る/\頭をさし出して問うた一人の寺奴《ヤツコ》は、あるべからざる事を見た樣に、自分自身を咎めるやうな聲をかけた。女人の身として、這入ることの出來ぬ結界を犯してゐたのだつた。姫は答へよう、とはせなかつた。又答へようとしても、かう言ふ時に使ふ語には、馴れて居ぬ人であつた。若し又、適當な語を知つて居たにしたところで、今はそんな事に、考へを紊されては、ならぬ時だつたのである。姫は唯、山を見てゐた。依然として山の底に、ある俤を觀じ入つてゐるのである。寺奴《ヤツコ》は、二言《コト》とは問ひかけなかつた。一晩のさすらひでやつれては居ても、服裝から見てすぐ、どうした身分の人か位の判斷は、つかぬ筈はなかつた。又暫らくして、四五人の跫音が、びた/″\と岡へ上つて來た。年のいつたのや、若い僧たちが、ばら/″\と走つて、塔のやらひの外まで來た。こゝまで出て御座れ。そこは、男でも這入るところではない。女人《ニヨニン》は、とつとゝ出てお行きなされ。姫は、やつと氣がついた。さうして、人とあらそはぬ癖をつけられた貴族の家の子は、重い足を引きながら、竹垣の傍まで來た。見れば、奈良のお方さうなが、どうして、そんな處にいらつしやる。それに又、どうして、こゝまでお出でだつた。伴の人も連れずに――。口々に問うた。男たちは、咎める口とは別に、心はめい/\、貴い女性をいたはる氣持ちになつて居た。山ををがみに……。まことに唯 一詞《ヒトコト》。當《タウ》の姫すら思ひ設けなんだ詞《コトバ》が匂ふが如く出た。貴族の家庭の語と、凡下《ボンゲ》の家々の語とは、すつかり變つて居た。だから言ひ方も、感じ方も、其うへ、語其ものさへ、郎女の語が、そつくり寺の所化 輩《ハイ》には、通じよう筈がなかつた。でも、其でよかつたのである。其でなくて、語の内容が、其まゝ受けとられようものなら、南家の姫は、即座に氣のふれた女、と思はれてしまつたであらう。それで、御館《ミタチ》はどこぞな。みたち……。おうちは……。おうち……。おやかたは、と問ふのだよ――。をゝ。家はとや。右京藤原南家……。俄然として、群集の上にざはめきが起つた。四五人だつたのが、あとから後から登つて來た僧たちも加つて、二十人以上にもなつて居た。其が、口々に喋り出したものである。ようべの嵐に、まだ殘りがあつたと見えて、日の明るく照つて居る此小 晝《ビル》に、又風が、ざはつき出した。この岡の崎にも、見おろす谷にも、其から二上山へかけての尾根《ヲネ》尾根にも、ちらほら白く見えて、花の木がゆすれて居る。山の此方《コナタ》にも小櫻の花が、咲き出したのである。此時分になつて、奈良の家では誰となく、こんな事を考へはじめてゐた。此はきつと、里方の女たちのよくする、春の野遊びに出られたのだ。――何時からとも知らぬ習《ナラハ》しである。春秋の、日と夜と平分《ヘイブン》する其頂上に當る日は、一日、日の影を逐うて歩く風が行はれて居た。どこまでもどこまでも、野の果て、山の末、海の渚まで、日を送つて行く女衆が多かつた。さうして、夜に入つてくた/\になつて、家路を戻る。此爲來りを何時となく、女たちの咄すのを聞いて、姫が、女の行《ギヤウ》として、この野遊びをする氣になられたのだ、と思つたのである。かう言ふ、考へに落ちつくと、ありやうもない考へだと訣つて居ても、皆の心が一時、ほうと輕くなつた。ところが、其日も晝さがりになり、段々 夕光《ユフカゲ》の、催して來る時刻が來た。昨日は、駄目になつた日の入りの景色が、今日は中日《チユウニチ》にも劣るまいと思はれる華やかさで輝いた。横佩家の人々の心は、再重くなつて居た。-----cont.(^死^)
2006年02月16日
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其外は、廣い水田と、畠と、存外多い荒蕪地の間に、人の寄りつかぬ塚や岩群(いはむら)が、ちらばつて見えるだけであつた。兎や、狐が、大路小路を驅け「廴+囘」る樣なのも、毎日のこと。つい此頃も、朱雀大路(しゆじやくおほぢ)の植ゑ木の梢を、夜になると、「鼠+吾」鼠(むさヽび)が飛び歩くと言ふので、一騷ぎした位である。横佩家の郎女(いらつめ)が、稱讃淨土佛攝受經(しようさんじやうどぶつせふじゆぎやう)を寫しはじめたのも、其頃からであつた。父の心づくしの贈り物の中で、一番、姫君の心を饒(にぎ)やかにしたのは、此新譯の阿彌陀經 一卷(いちくわん)であつた。國の版圖の上では、東に偏(かたよ)り過ぎた山國の首都よりも、太宰府は、遙かに開けてゐた。大陸から渡る新しい文物は、皆一度は、この遠(とほ)の宮廷領(みかど)を通過するのであつた。唐から渡つた書物などで、太宰府ぎりに、都まで出て來ないものが、なか/\多かつた。學問や、藝術の味ひを知り初めた志の深い人たちは、だから、大唐までは望まれぬこと、せめて大宰府へだけはと、筑紫下りを念願するほどであつた。南家(なんけ)の郎女(いらつめ)の手に入つた稱讃淨土經も、大和一國の大寺(おほてら)と言ふ大寺に、まだ一部も藏せられて居ぬものであつた。姫は、蔀戸(しとみど)近くに、時としては机を立てゝ、寫經してゐることもあつた。夜も、侍女たちを寢靜まらしてから、油火(あぶらび)の下で、一心不亂に書き寫して居た。百部は、夙くに寫し果した。その後は、千部手寫の發願をした。冬は春になり、夏山と繁つた春日山も、既に黄葉(もみぢ)して、其がもう散りはじめた。蟋蟀は、晝も苑一面に鳴くやうになつた。佐保川の水を堰(せ)き入れた庭の池には、遣(や)り水傳ひに、川千鳥の啼く日すら、續くやうになつた。今朝も、深い霜朝を何處からか、鴛鴦の夫婦鳥(つまどり)が來て浮んで居ります、と童女(わらはめ)が告げた。五百部を越えた頃から、姫の身は、目立つてやつれて來た。ほんの纔かの眠りをとる間も、ものに驚いて覺めるやうになつた。其でも、八百部の聲を聞く時分になると、衰へたなりに、健康は定まつて來たやうに見えた。やゝ蒼みを帶びた皮膚に、心もち細つて見える髮が、愈々黒く映え出した。八百八十部、九百部。郎女は侍女にすら、ものを言ふことを厭ふやうになつた。さうして、晝すら何か夢見るやうな目つきして、うつとり蔀戸(しちみど)ごしに、西の空を見入つて居るのが、皆の注意をひくほどであつた。實際、九百部を過ぎてからは筆も一向、はかどらなくなつた。二十部・三十部・五十部。心ある女たちは、文字の見えない自身たちのふがひなさを悲しんだ。郎女の苦しみを、幾分でも分けることが出來ように、と思ふからである。南家の郎女が、宮から召されることになるだらうと言ふ噂が、京・洛外に廣がつたのも、其頃である。屋敷中の人々は、上(うへ)近く事(つか)へる人たちから、垣内(かきつ)の隅に住む奴隷(やつこ)・婢奴(めやつこ)の末にまで、顏を輝(かヾや)かして、此とり沙汰を迎へた。でも姫には、誰一人其を聞かせる者がなかつた。其ほど、此頃の郎女は氣むつかしく、外目(よそめ)に見えてゐたのである。千部手寫の望みは、さうした大願から立てられたものだらう、と言ふ者すらあつた。そして誰ひとり、其を否む者はなかつた。南家の姫の美しい膚は、益々透きとほり、潤んだ目は、愈々大きく黒々と見えた。さうして、時々聲に出して誦(じゆ)する經の文(もん)が、物の音(ね)に譬へやうもなく、さやかに人の耳に響く。聞く人は皆、自身の耳を疑うた。去年の春分の日の事であつた。入り日の光りをまともに受けて、姫は正座して、西に向つて居た。日は、此屋敷からは、稍 坤(ひつじさる)によつた遠い山の端(は)に沈むのである。西空の棚雲の紫に輝く上で、落日(らくじつ)は俄かに轉(くるめ)き出した。その速さ。雲は炎になつた。日は黄金(わうごん)の丸(まるがせ)になつて、その音も聞えるか、と思ふほど鋭く「廴+囘」つた。雲の底から立ち昇る青い光りの風――、姫は、ぢつと見つめて居た。やがて、あらゆる光りは薄れて、雲は霽れた。夕闇の上に、目を疑ふほど、鮮やかに見えた山の姿。二上山である。その二つの峰の間に、あり/\と莊嚴(しやうごん)な人の俤が、瞬間顯れて消えた。後(あと)は、眞暗な闇の空である。山の端(は)も、雲も何もない方に、目を凝(こら)して、何時までも端坐して居た。郎女の心は、其時から愈々澄んだ。併し、極めて寂しくなり勝(まさ)つて行くばかりである。ゆくりない日が、半年の後に再來て、姫の心を無上(むしよう)の歡喜に引き立てた。其は、同じ年の秋、彼岸中日(ちゆうにち)の夕方であつた。姫は、いつかの春の日のやうに、坐してゐた。朝から、姫の白い額の、故もなくひよめいた長い日の、後(のち)である。二上山の峰を包む雲の上に、中秋の日の爛熟した光が、くるめき出したのである。雲は火となり、日は八尺(はつしやく)の鏡と燃え、青い響きの吹雪を、吹き捲く嵐――。雲がきれ、光りのしづまつた山の端は、細く金の外輪を靡かして居た。其時、男嶽・女嶽の峰の間に、あり/\と浮き出た 髮 頭 肩 胸――。姫は又、あの俤を見ることが、出來たのである。南家の郎女(いらつめ)の幸福な噂が、春風に乘つて來たのは、次の春である。姫は別樣の心躍りを、一月も前から感じて居た。さうして、日を數(と)り初めて、ちようど、今日と言ふ日。彼岸中日、春分(しゆんぶん)の空が、朝から晴れて、雲雀は天に翔り過ぎて、歸ることの出來ぬほど、青雲が深々とたなびいて居た。郎女は、九百九十九部を寫し終へて、千部目にとりついて居た。日一日、のどかな温い春であつた。經卷の最後の行、最後の字を書きあげて、ほつと息をついた。あたりは俄かに、薄暗くなつて居る。目をあげて見る蔀窓(しとみど)の外には、しと/\と――音がしたゝつて居るではないか。姫は立つて、手づから簾をあげて見た。雨。苑の青菜が濡れ、土が黒ずみ、やがては瓦屋にも、音が立つて來た。姫は、立つても坐(い)ても居られぬ、焦躁に悶えた。併し日は、益々暗くなり、夕暮れに次いで、夜が來た。茫然として、姫はすわつて居る。人聲も、雨音も、荒れ模樣に加(くはヽ)つて來た風の響きも、もう、姫は聞かなかつた。
2006年02月16日
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『三寒四温』It's starting to spring too fast!!Be carefull about your-hearth.----- "椿"(a camellia)"木"偏に"春"と書いて"椿"--------------------AND "椿"〈山茶)(1)ツバキ科の常緑低木ないし高木。暖地の山林から本州北部の海岸に自生し、早春、葉腋に五弁花をつける。ヤブツバキとも。(2)ツバキ(1)・ユキツバキおよびその園芸品種。中国産の近縁種などを含めることもある。葉が大形で光沢があること、早春に花が咲くことでサザンカと区別される。普通、花弁は離生しない。種子から椿油を採る。[季]春。《赤い―白い―と落ちにけり/河東碧梧桐》〔「椿の実」は [季]秋〕-----「釜山港(プサンハン)へ帰れ」三佳令二/訳詞・黄善雨作詞/作曲♪~♪"椿"咲く春なのに 貴方(あなた)は帰らないたたずむ釜山港(プサンハン)に 涙の雨が降るあついその胸に 顔うずめてもいちど幸せ 噛(か)みしめたいのよトラワヨ プサンハンエ逢いたい 貴方行きたくてたまらない 貴方のいる町へさまよう釜山港は 霧笛が胸を刺すきっと伝えてよ カモメさんいまも信じて 耐えてるあたしをトラワヨ プサンハンエ逢いたい 貴方*******cont.----- 六門をはひると、俄かに松風が、吹きあてるやうに響いた。一町も先に、固まつて見える堂伽藍――そこまでずつと、砂地である。白い地面に、廣い葉の青いまゝでちらばつて居るのは、朴の木だ。まともに、寺を壓してつき立つてゐるのは、二上山(ふたかみやま)である。其眞下に「さんずい+(日/工)」槃佛(ねはんぶつ)のやうな姿に横つてゐるのが、麻呂子山だ。其頂がやつと、講堂の屋の棟に、乘りかゝつてゐるやうにしか見えない。女人(にょにん)の身は、何も知つて居る訣はなかつた。だが、俊敏な此旅びとの胸に其に似たほのかな綜合の、出來あがつて居たのは疑はれぬ。暫らくの間、その薄緑の山色を仰いで居た。其から、朱塗りの、激しく光る建て物へ、目を移して行つた。此寺の落慶供養のあつたのは、つい四五日前(あと)であつた。まだあの日の喜ばしい騷ぎの響(とよ)みが、どこかにする樣に、麓の村びと等には、感じられて居る程である。山颪(おろし)に吹き暴(さら)されて、荒草深い山裾の斜面に、萬法藏院(まんほふざういん)の細々とした御燈(みあかし)の、煽られて居たのに見馴れた人たちは、この幸福な轉變(てんべん)に、目を「目+爭」つて居るだらう。此郷に田莊(なりどころ)を殘して、奈良に數代住みついた豪族の主人も、その日は、歸つて來て居たつけ。此は、天竺の狐の爲わざではないか、其とも、この葛城郡に、昔から殘つてゐる幻術師(まぼろし)のする迷はしではないか。あまり莊嚴(しようごん)を極めた建て物に、故知らぬ反感まで唆られて、廊を踏み鳴らし、柱を叩いて見たりしたものも、その供人(ともびと)のうちにはあつた。數年前の春の初め、野燒きの火が燃えのぼつて來て、唯一宇あつた萱堂(かやどう)が、忽痕もなくなつた。そんな小さな事件が起つて、注意を促してすら、そこを、曾て美(うるは)しい福田と、寺の創められた代(よ)を、思ひ出す者もなかつた程、それは/\、微かな遠い昔であつた。以前、疑ひを持ち初める里の子どもが、其堂の名に、不審を起した。當麻(たぎま)の村にありながら、山田寺(でら)と言つたからである。山の背(うしろ)の河内の國 安宿部郡(あすかべごほり)の山田谷から移つて二百年、寂しい道場に過ぎなかつた。其でも一時は、倶舍(くしや)の寺として、榮えたこともあつたのだつた。飛鳥の御世の、貴い御方が、此寺の本尊を、お夢に見られて、おん子を遣され、堂舍をひろげ、住侶の數をお殖しになつた。おひ/\境内になる土地の地形(ぢぎやう)の進んでゐる最中、その若い貴人が、急に亡くなられた。さうなる筈の、風水(ふうすい)の相(そう)が、「まろこ」の身を招き寄せたのだらう。よしよし、墓はそのまゝ、其村に築くがよい、との仰せがあつた。其み墓のあるのが、あの麻呂子山だと言ふ。まろ子といふのは、尊い御一族だけに用ゐられる語で、おれの子といふほどの、意味であつた。ところが、其おことばが縁を引いて、此郷の山には、其後亦、貴人をお埋め申すやうな事が、起つたのである。だが、さう言ふ物語りはあつても、それは唯、此里の語部(かたりべ)の姥(うば)の口に、さう傳へられてゐる、と言ふに過ぎぬ古(ふる)物語りであつた。纔(わづ)かに百年、其短いと言へる時間も、文字に縁遠い生活には、さながら太古を考へると、同じ昔となつてしまつた。旅の若い女性(によしやう)は、型摺りの大樣な美しい模樣をおいた著る物を襲うて居る。笠は、淺い縁(へり)に、深い縹色(はなだ)の布が、うなじを隱すほどに、さがつてゐた。日は仲春、空は雨あがりの、爽やかな朝である。高原(かうげん)の寺は、人の住む所から、自(おのづか)ら遠く建つて居た。唯凡、百の僧俗が、寺(じ)中に起き伏して居る。其すら、引き續く供養饗宴の疲れで、今日はまだ、遲い朝を、姿すら見せずにゐる。その女人は、日に向つてひたすら輝く伽藍の廴+囘」りを、殘りなく歩いた。寺の南境(ざかひ)は、み墓山の裾から、東へ出てゐる長い崎の盡きた所に、大門はあつた。其中腹と、東の鼻とに、西塔・東塔が立つて居る。丘陵の道をうねりながら登つた旅びとは、東の塔の下に出た。雨の後の水氣の、立つて居る大和の野は、すつかり澄みきつて、若晝(わかひる)のきら/\しい景色になつて居る。右手の目の下に、集中して見える丘陵は傍岡(かたをか)で、ほの/″\と北へ流れて行くのが、葛城川だ。平原の眞中に、旅笠を伏せたやうに見える遠い小山は、耳無(みヽなし)の山であつた。其右に高くつつ立つてゐる深緑は、畝傍山。更に遠く日を受けてきらつく水面は、埴安(はにやす)の池ではなからうか。其東に平たくて低い背を見せるのは、聞えた香具(かぐ)山なのだらう。旅の女子(をみなご)の目は、山々の姿を、一つ/\に辿つてゐる。天(あめの)香具山をあれだと考へた時、あの下が、若い父母(ちヽはヽ)の育つた、其から、叔父叔母、又一族の人々の、行き來した、藤原の里なのだ。もう此上は見えぬ、と知れて居ても、ひとりで、爪先立てゝ伸び上る氣持ちになつて來るのが抑へきれなかつた。香具山の南の裾に輝く瓦舍(かはらや)は、大官大寺(だいくわんだいじ)に違ひない。其から更に眞南の、山と山との間に、薄く霞んでゐるのが、飛鳥(あすか)の村なのであらう。父の父も、母の母も、其又父母も、皆あのあたりで生ひ立たれたのであらう。この國の女子(をみなご)に生れて、一足も女部屋(をんなべや)を出ぬのを、美徳とする時代に居る身は、親の里も、祖先の土も、まだ踏みも知らぬ。あの陽炎(かげろう)の立つてゐる平原を、此足で、隅から隅まで歩いて見たい。かう、その女性(によしやう)は思うてゐる。だが、何よりも大事なことは、此 郎女(いらつめ)――貴女は、昨日の暮れ方、奈良の家を出て、こゝまで歩いて來てゐるのである。其も、唯のひとりでゞあつた。家を出る時、ほんの暫し、心を掠めた――父君がお聞きになつたら、と言ふ考へも、もう氣にはかゝらなくなつて居る。乳母があわてゝ探すだらう、と言ふ心が起つて來ても、却つてほのかな、こみあげ笑ひを誘ふ位の事になつてゐる。山はづつしりとおちつき、野はおだやかに畝つて居る。かうして居て、何の物思ひがあらう。この貴(あて)な娘御(ご)は、やがて後をふり向いて、山のなぞへについて、次第に首をあげて行つた。二上山。あゝこの山を仰ぐ、言ひ知らぬ胸騷ぎ。――藤原・飛鳥の里々山々を眺めて覺えた、今の先の心とは、すつかり違つた胸の悸(ときめ)き。旅の郎女は、脇目も觸らず、山に見入つてゐる。さうして、靜かな思ひの充ちて來る滿悦を、深く覺えた。昔びとは、確實な表現を知らぬ。だが謂はゞ、――平野の里に感じた喜びは、過去生(くわこしやう)に向けてのものであり、今此山を仰ぎ見ての驚きは未來世(みらいせ)を思ふ心躍りだ、とも謂へよう。塔はまだ、嚴重にやらひを組んだまゝ、人の立ち入りを禁(いまし)めてあつた。でも、ものに拘泥することを教へられて居ぬ姫は、何時の間にか、塔の初(しよ)重の欄干に、自分のよりかゝつて居るのに、氣がついた。さうして、しみ/″\と山に見入つて居る。まるで瞳が、吸ひこまれるやうに。山と自分とに繋(つなが)る深い交渉を、又くり返し思ひ初めてゐた。郎女の家は、奈良東城、右京三條第七坊にある。祖父(おほぢ)武智麻呂(むちまろ)のこゝで亡くなつて後、父が移り住んでからも、大分の年月になる。父は、男壯(おとこざかり)には、横佩(よこはき)の大將(だいしよう)と謂はれる程、一ふりの大刀のさげ方にも、工夫を凝らさずには居られぬだて者(もの)であつた。なみの人の竪にさげて佩く大刀を、横(よこた)へて弔る佩き方を案出した人である。新しい奈良の都の住人は、まださうした官吏としての、華奢な服裝を趣向(この)むまでに到つて居なかつた頃、姫の若い父は、近代の時世裝に思ひを凝して居た。その家に覲(たづ)ねて來る古い留學生や、新來(いまき)の歸化僧などに尋ねることも、張文成などの新作の物語りの類を、問題にするやうなのとも、亦違うてゐた。さうした闊達な、やまとごゝろの、赴くまゝにふるまうて居る間に、才(ざえ)優れた族人(うからびと)が、彼を乘り越して行くのに氣がつかなかつた。姫には叔父彼――豐成には、さしつぎの弟、仲麻呂である。その父君も、今は筑紫に居る。尠くとも、姫などはさう信じて居た。家族の半以上は、太宰帥(だざいのそつ)のはな/″\しい生活の裝ひとして、連れられて行つてゐた。宮廷から賜る資人(とねり)「にんべん+慊のつくり」仗(たち)も、大貴族の家の門地の高さを示すものとて、美々しく着飾らされて、皆任地へついて行つた。さうして、奈良の家には、その年は亦とりわけ、寂しい若葉の夏が來た。寂かな屋敷には、響く物音もない時が、多かつた。この家も世間どほりに、女部屋は、日あたりに疎い北の屋にあつた。その西側に、小な蔀戸(しとみど)があつて、其をつきあげると、方三尺位な「片+總のつくり」になるやうに出來てゐる。さうして、其内側には、夏冬なしに簾が垂れてあつて、戸のあげてある時は、外からの隙見を禦いだ。それから外「廴+囘」(そとまは)りは、家の廣い外郭になつて居て、大炊屋(おほひや)もあれば、湯殿 火燒(ひた)き屋なども、下人の住ひに近く、立つてゐる。苑(その)と言はれる菜畠や、ちよつとした果樹園らしいものが、女部屋の窓から見える、唯一の景色であつた。武智麻呂 存生(ぞんじやう)の頃から、此屋敷のことを、世間では、南家と呼び慣はして來てゐる。此頃になつて、仲麻呂の威勢が高まつて來たので、何となく其古い通稱は、人の口から薄れて、其に替る稱へが、行はれ出した樣だつた。三條三坊第二保をすつかり占めた大屋敷を、一垣内(ひとかきつ)――一字(ひとあざな)と見做して、横佩墻内(よこはきかきつ)と言ふ者が著しく、殖えて來たのである。その太宰府からの音づれが、久しく絶えたと思つてゐたら、都とは目と鼻の難波(なには)に、いつか還り住んで、遙かに筑紫の政を聽いてゐた帥(そつ)の殿であつた。其父君から遣された家の子が、一車(ひとくるま)に積み餘るほどな家づとを、家に殘つた家族たち殊に、姫君にと言つてはこんで來た。山國の狹い平野に、一代々々都遷しのあつた長い歴史の後、こゝ五十年、やつと一つ處に落ちついた奈良の都は、其でもまだ、なか/\整ふまでには、行つて居なかつた。官廳や、大寺が、によつきり/\、立つてゐる外は、貴族の屋敷が、處々むやみに場をとつて、その相間々々に、板屋や瓦屋が、交りまじりに續いてゐる。-------cont.(^死^)
2006年02月16日
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cont.-----其父君から遣された家の子が、一車(ひとくるま)に積み餘るほどな家づとを、家に殘つた家族たち殊に、姫君にと言つてはこんで來た。山國の狹い平野に、一代々々都遷しのあつた長い歴史の後、こゝ五十年、やつと一つ處に落ちついた奈良の都は、其でもまだ、なか/\整ふまでには、行つて居なかつた。官廳や、大寺が、によつきり/\、立つてゐる外は、貴族の屋敷が、處々むやみに場をとつて、その相間々々に、板屋や瓦屋が、交りまじりに續いてゐる。其外は、廣い水田と、畠と、存外多い荒蕪地の間に、人の寄りつかぬ塚や岩群(いちむら)が、ちらばつて見えるだけであつた。兎や、狐が、大路小路を驅け「廴+囘」る樣なのも、毎日のこと。つい此頃も、朱雀大路(しゆじやくおほぢ)の植ゑ木の梢を、夜になると、「鼠+吾」鼠(むささび)が飛び歩くと言ふので、一騷ぎした位である。横佩家の郎女(いらつめ)が、稱讃淨土佛攝受經(しやうさんじやじやうどぶつせふじゆぎやう)を寫しはじめたのも、其頃からであつた。父の心づくしの贈り物の中で、一番、姫君の心を饒(にぎ)やかにしたのは、此新譯の阿彌陀經一卷(いちくわん)であつた。國の版圖の上では、東に偏(かたよ)り過ぎた山國の首都よりも、太宰府は、遙かに開けてゐた。大陸から渡る新しい文物は、皆一度は、この遠(とほ)の宮廷領《みかど)を通過するのであつた。唐から渡つた書物などで、太宰府ぎりに、都まで出て來ないものが、なか/\多かつた。學問や、藝術の味ひを知り初めた志の深い人たちは、だから、大唐までは望まれぬこと、せめて大宰府へだけはと、筑紫下りを念願するほどであつた。南家(なんけ)の郎女(いらつめ)の手に入つた稱讃淨土經も、大和一國の大寺(おほてら)と言ふ大寺に、まだ一部も藏せられて居ぬものであつた。姫は、蔀戸(しとみど)近くに、時としては机を立てゝ、寫經してゐることもあつた。夜も、侍女たちを寢靜まらしてから、油火(あぶらび)の下で、一心不亂に書き寫して居た。百部は、夙くに寫し果した。その後は、千部手寫の發願をした。冬は春になり、夏山と繁つた春日山も、既に黄葉(もみぢ)して、其がもう散りはじめた。蟋蟀は、晝も苑一面に鳴くやうになつた。佐保川の水を堰(せ)き入れた庭の池には、遣(や)り水傳ひに、川千鳥の啼く日すら、續くやうになつた。今朝も、深い霜朝を何處からか、鴛鴦の夫婦鳥(つまどり)が來て浮んで居ります、と童女(わらはめ)が告げた。五百部を越えた頃から、姫の身は、目立つてやつれて來た。ほんの纔かの眠りをとる間も、ものに驚いて覺めるやうになつた。其でも、八百部の聲を聞く時分になると、衰へたなりに、健康は定まつて來たやうに見えた。やゝ蒼みを帶びた皮膚に、心もち細つて見える髮が、愈々黒く映え出した。八百八十部、九百部。郎女は侍女にすら、ものを言ふことを厭ふやうになつた。さうして、晝すら何か夢見るやうな目つきして、うつとり蔀戸(しとみど)ごしに、西の空を見入つて居るのが、皆の注意をひくほどであつた。實際、九百部を過ぎてからは筆も一向、はかどらなくなつた。二十部・三十部・五十部。心ある女たちは、文字の見えない自身たちのふがひなさを悲しんだ。郎女の苦しみを、幾分でも分けることが出來ように、と思ふからである。南家の郎女が、宮から召されることになるだらうと言ふ噂が、京・洛外に廣がつたのも、其頃である。屋敷中の人々は、上(うへ)近く事(つか)へる人たちから、垣内(かきつ)の隅に住む奴隷(やつこ)・婢奴(めやつこ)の末にまで、顏を輝(かが)やかして、此とり沙汰を迎へた。でも姫には、誰一人其を聞かせる者がなかつた。其ほど、此頃の郎女は氣むつかしく、外目(よそめ)に見えてゐたのである。千部手寫の望みは、さうした大願から立てられたものだらう、と言ふ者すらあつた。そして誰ひとり、其を否む者はなかつた。南家の姫の美しい膚は、益々透きとほり、潤んだ目は、愈々大きく黒々と見えた。さうして、時々聲に出して誦(じゆ)する經の文(もん)が、物の音(ね)に譬へやうもなく、さやかに人の耳に響く。聞く人は皆、自身の耳を疑うた。去年の春分の日の事であつた。入り日の光りをまともに受けて、姫は正座して、西に向つて居た。日は、此屋敷からは、稍坤(ひつじさる)によつた遠い山の端(は)に沈むのである。西空の棚雲の紫に輝く上で、落日(らくじつ)は俄かに轉(くるめ)き出した。その速さ。雲は炎になつた。日は黄金(わうごん)の丸(まるがせ)になつて、その音も聞えるか、と思ふほど鋭く「廴+囘」つた。雲の底から立ち昇る青い光りの風――、姫は、ぢつと見つめて居た。やがて、あらゆる光りは薄れて、雲は霽れた。夕闇の上に、目を疑ふほど、鮮やかに見えた山の姿。二上山である。その二つの峰の間に、あり/\と莊嚴《シヤウゴン》な人の俤が、瞬間顯れて消えた。後(あと)は、眞暗な闇の空である。山の端(は)も、雲も何もない方に、目を凝(こら)して、何時までも端坐して居た。郎女の心は、其時から愈々澄んだ。併し、極めて寂しくなり勝(まさ)つて行くばかりである。ゆくりない日が、半年の後に再來て、姫の心を無上(むしよう)の歡喜に引き立てた。其は、同じ年の秋、彼岸中日(ちゆうにち)の夕方であつた。姫は、いつかの春の日のやうに、坐してゐた。朝から、姫の白い額の、故もなくひよめいた長い日の、後(のち)である。二上山の峰を包む雲の上に、中秋の日の爛熟した光が、くるめき出したのである。雲は火となり、日は八尺(はつしやくの鏡と燃え、青い響きの吹雪を、吹き捲く嵐――。雲がきれ、光りのしづまつた山の端は、細く金の外輪を靡かして居た。其時、男嶽・女嶽の峰の間に、あり/\と浮き出た 髮 頭 肩 胸――。姫は又、あの俤を見ることが、出來たのである。南家の郎女(いらつめ)の幸福な噂が、春風に乘つて來たのは、次の春である。姫は別樣の心躍りを、一月も前から感じて居た。さうして、日を數(と)り初めて、ちようど、今日と言ふ日。彼岸中日、春分(しゆんぶん)の空が、朝から晴れて、雲雀は天に翔り過ぎて、歸ることの出來ぬほど、青雲が深々とたなびいて居た。郎女は、九百九十九部を寫し終へて、千部目にとりついて居た。日一日、のどかな温い春であつた。經卷の最後の行、最後の字を書きあげて、ほつと息をついた。あたりは俄かに、薄暗くなつて居る。目をあげて見る蔀窓(しとみど)の外には、しと/\と――音がしたゝつて居るではないか。姫は立つて、手づから簾をあげて見た。雨。苑の青菜が濡れ、土が黒ずみ、やがては瓦屋にも、音が立つて來た。姫は、立つても坐(い)ても居られぬ、焦躁に悶えた。併し日は、益々暗くなり、夕暮れに次いで、夜が來た。茫然として、姫はすわつて居る。人聲も、雨音も、荒れ模樣に加(くはヽ)つて來た風の響きも、もう、姫は聞かなかつた。-----cont.(^死^)
2006年02月15日
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cont----- 六門をはひると、俄かに松風が、吹きあてるやうに響いた。一町も先に、固まつて見える堂伽藍――そこまでずつと、砂地である。白い地面に、廣い葉の青いまゝでちらばつて居るのは、朴の木だ。まともに、寺を壓してつき立つてゐるのは、二上山(ふたかみやま)である。其眞下に「さんずい+(日/工)」槃佛(ねはんぶつ)のやうな姿に横つてゐるのが、麻呂子山だ。其頂がやつと、講堂の屋の棟に、乘りかゝつてゐるやうにしか見えない。女人(によにん)の身は、何も知つて居る訣はなかつた。だが、俊敏な此旅びとの胸に其に似たほのかな綜合の、出來あがつて居たのは疑はれぬ。暫らくの間、その薄緑の山色を仰いで居た。其から、朱塗りの、激しく光る建て物へ、目を移して行つた。此寺の落慶供養のあつたのは、つい四五日前(あと)であつた。まだあの日の喜ばしい騷ぎの響(とよ)みが、どこかにする樣に、麓の村びと等には、感じられて居る程である。山颪(おろし)に吹き暴(さら)されて、荒草深い山裾の斜面に、萬法藏院(まんほふざういん)の細々とした御燈(みあかし)の、煽られて居たのに見馴れた人たちは、この幸福な轉變(てんぺん)に、目を「目+爭」つて居るだらう。此郷に田莊(なりどころ)を殘して、奈良に數代住みついた豪族の主人も、その日は、歸つて來て居たつけ。此は、天竺の狐の爲わざではないか、其とも、この葛城郡に、昔から殘つてゐる幻術師(まぼろし)のする迷はしではないか。あまり莊嚴(しようごん)を極めた建て物に、故知らぬ反感まで唆られて、廊を踏み鳴らし、柱を叩いて見たりしたものも、その供人(ともびと)のうちにはあつた。數年前の春の初め、野燒きの火が燃えのぼつて來て、唯一宇あつた萱堂(かやどう)が、忽痕もなくなつた。そんな小さな事件が起つて、注意を促してすら、そこを、曾て美(うるは)しい福田と、寺の創められた代(よ)を、思ひ出す者もなかつた程、それは/\、微かな遠い昔であつた。以前、疑ひを持ち初める里の子どもが、其堂の名に、不審を起した。當麻(たぎま)の村にありながら、山田寺(でら)と言つたからである。山の背(うしろ)の河内の國 安宿部郡(あすかべごほり)の山田谷から移つて二百年、寂しい道場に過ぎなかつた。其でも一時は、倶舍(くしや)の寺として、榮えたこともあつたのだつた。飛鳥の御世の、貴い御方が、此寺の本尊を、お夢に見られて、おん子を遣され、堂舍をひろげ、住侶の數をお殖しになつた。おひ/\境内になる土地の地形(ぢぎやう)の進んでゐる最中、その若い貴人が、急に亡くなられた。さうなる筈の、風水(ふうすい)の相(そう)が、「まろこ」の身を招き寄せたのだらう。よしよし、墓はそのまゝ、其村に築くがよい、との仰せがあつた。其み墓のあるのが、あの麻呂子山だと言ふ。まろ子といふのは、尊い御一族だけに用ゐられる語で、おれの子といふほどの、意味であつた。ところが、其おことばが縁を引いて、此郷の山には、其後亦、貴人をお埋め申すやうな事が、起つたのである。だが、さう言ふ物語りはあつても、それは唯、此里の語部(かたりべ)の姥(うば)の口に、さう傳へられてゐる、と言ふに過ぎぬ古(ふる)物語りであつた。纔(わづ)かに百年、其短いと言へる時間も、文字に縁遠い生活には、さながら太古を考へると、同じ昔となつてしまつた。旅の若い女性(によしやう)は、型摺りの大樣な美しい模樣をおいた著る物を襲うて居る。笠は、淺い縁(へり)に、深い縹色(はなだ)の布が、うなじを隱すほどに、さがつてゐた。日は仲春、空は雨あがりの、爽やかな朝である。高原(かうげん)の寺は、人の住む所から、自(おのづか)ら遠く建つて居た。唯凡、百の僧俗が、寺(じ)中に起き伏して居る。其すら、引き續く供養饗宴の疲れで、今日はまだ、遲い朝を、姿すら見せずにゐる。その女人は、日に向つてひたすら輝く伽藍の「廴+囘」りを、殘りなく歩いた。寺の南境(ざかひ)は、み墓山の裾から、東へ出てゐる長い崎の盡きた所に、大門はあつた。其中腹と、東の鼻とに、西塔・東塔が立つて居る。丘陵の道をうねりながら登つた旅びとは、東の塔の下に出た。雨の後の水氣の、立つて居る大和の野は、すつかり澄みきつて、若晝(わかひる)のきら/\しい景色になつて居る。右手の目の下に、集中して見える丘陵は傍岡(かたをか)で、ほの/″\と北へ流れて行くのが、葛城川だ。平原の眞中に、旅笠を伏せたやうに見える遠い小山は、耳無(みヽなし)の山であつた。其右に高くつつ立つてゐる深緑は、畝傍山。更に遠く日を受けてきらつく水面は、埴安(はにやす)の池ではなからうか。其東に平たくて低い背を見せるのは、聞えた香具(かぐ)山なのだらう。旅の女子(をみなご)の目は、山々の姿を、一つ/\に辿つてゐる。天(あめの)香具山をあれだと考へた時、あの下が、若い父母(ちヽはヽ)の育つた、其から、叔父叔母、又一族の人々の、行き來した、藤原の里なのだ。もう此上は見えぬ、と知れて居ても、ひとりで、爪先立てゝ伸び上る氣持ちになつて來るのが抑へきれなかつた。香具山の南の裾に輝く瓦舍(かはらや)は、大官大寺(だいくわんだいじ)に違ひない。其から更に眞南の、山と山との間に、薄く霞んでゐるのが、飛鳥(あすか)の村なのであらう。父の父も、母の母も、其又父母も、皆あのあたりで生ひ立たれたのであらう。この國の女子(をみなご)に生れて、一足も女部屋(をんなべや)を出ぬのを、美徳とする時代に居る身は、親の里も、祖先の土も、まだ踏みも知らぬ。あの陽炎(かげろう)の立つてゐる平原を、此足で、隅から隅まで歩いて見たい。かう、その女性(によしやう)は思うてゐる。だが、何よりも大事なことは、此郎女(いらつめ)――貴女は、昨日の暮れ方、奈良の家を出て、こゝまで歩いて來てゐるのである。其も、唯のひとりでゞあつた。家を出る時、ほんの暫し、心を掠めた――父君がお聞きになつたら、と言ふ考へも、もう氣にはかゝらなくなつて居る。乳母があわてゝ探すだらう、と言ふ心が起つて來ても、却つてほのかな、こみあげ笑ひを誘ふ位の事になつてゐる。山はづつしりとおちつき、野はおだやかに畝つて居る。かうして居て、何の物思ひがあらう。この貴(あて)な娘御(ご)は、やがて後をふり向いて、山のなぞへについて、次第に首をあげて行つた。二上山。あゝこの山を仰ぐ、言ひ知らぬ胸騷ぎ。――藤原・飛鳥の里々山々を眺めて覺えた、今の先の心とは、すつかり違つた胸の悸(ときめ)き。旅の郎女は、脇目も觸らず、山に見入つてゐる。さうして、靜かな思ひの充ちて來る滿悦を、深く覺えた。昔びとは、確實な表現を知らぬ。だが謂はゞ、――平野の里に感じた喜びは、過去生(くわこしやう)に向けてのものであり、今此山を仰ぎ見ての驚きは未來世(みらいせ)を思ふ心躍りだ、とも謂へよう。塔はまだ、嚴重にやらひを組んだまゝ、人の立ち入りを禁(いまし)めてあつた。でも、ものに拘泥することを教へられて居ぬ姫は、何時の間にか、塔の初(しよ)重の欄干に、自分のよりかゝつて居るのに、氣がついた。さうして、しみ/″\と山に見入つて居る。まるで瞳が、吸ひこまれるやうに。山と自分とに繋(つなが)る深い交渉を、又くり返し思ひ初めてゐた。郎女の家は、奈良東城、右京三條第七坊にある。祖父(おほぢ)武智麻呂(むちまろ)のこゝで亡くなつて後、父が移り住んでからも、大分の年月になる。父は、男壯(をとこざかり)には、横佩(よこはき)の大將(だいしよう)と謂はれる程、一ふりの大刀のさげ方にも、工夫を凝らさずには居られぬだて者(もの)であつた。なみの人の竪にさげて佩く大刀を、横(よこた)へて弔る佩き方を案出した人である。新しい奈良の都の住人は、まださうした官吏としての、華奢な服裝を趣向(この)むまでに到つて居なかつた頃、姫の若い父は、近代の時世裝に思ひを凝して居た。その家に覲(たづ)ねて來る古い留學生や、新來(いまき)の歸化僧などに尋ねることも、張文成などの新作の物語りの類を、問題にするやうなのとも、亦違うてゐた。さうした闊達な、やまとごゝろの、赴くまゝにふるまうて居る間に、才(ざえ)優れた族人(うからびと)が、彼を乘り越して行くのに氣がつかなかつた。姫には叔父彼――豐成には、さしつぎの弟、仲麻呂である。その父君も、今は筑紫に居る。尠くとも、姫などはさう信じて居た。家族の半以上は、太宰帥(だざいのそつ)のはな/″\しい生活の裝ひとして、連れられて行つてゐた。宮廷から賜る資人(とねり)・「にんべん+慊のつくり」仗(たち)も、大貴族の家の門地の高さを示すものとて、美々しく着飾らされて、皆任地へついて行つた。さうして、奈良の家には、その年は亦とりわけ、寂しい若葉の夏が來た。寂かな屋敷には、響く物音もない時が、多かつた。この家も世間どほりに、女部屋は、日あたりに疎い北の屋にあつた。その西側に、小な蔀戸(しとみど)があつて、其をつきあげると、方三尺位な「片+總のつくり」になるやうに出來てゐる。さうして、其内側には、夏冬なしに簾が垂れてあつて、戸のあげてある時は、外からの隙見を禦いだ。それから外「廴+囘」(そとまは)りは、家の廣い外郭になつて居て、大炊屋(おほひや)もあれば、湯殿火燒(ひた)き屋なども、下人の住ひに近く、立つてゐる。苑(その)と言はれる菜畠や、ちよつとした果樹園らしいものが、女部屋の窓から見える、唯一の景色であつた。武智麻呂存生(そんじやう)の頃から、此屋敷のことを、世間では、南家と呼び慣はして來てゐる。此頃になつて、仲麻呂の威勢が高まつて來たので、何となく其古い通稱は、人の口から薄れて、其に替る稱へが、行はれ出した樣だつた。三條三坊第二保をすつかり占めた大屋敷を、一垣内(ひとかきつ)――一字(ひとあざな)と見做して、横佩墻内(よこはきかきつ)と言ふ者が著しく、殖えて來たのである。その太宰府からの音づれが、久しく絶えたと思つてゐたら、都とは目と鼻の難波(なには)に、いつか還り住んで、遙かに筑紫の政を聽いてゐた帥(そつ)の殿であつた。---cont.(^死^)
2006年02月15日
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cont----- 五おれは活(い)きた。闇い空間は、明りのやうなものを漂してゐた。併し其は、蒼黒い靄の如く、たなびくものであつた。巖ばかりであつた。壁も、牀(とこ)も、梁(はり)も、巖であつた。自身のからだすらが、既に、巖になつて居たのだ。屋根が壁であつた。壁が牀であつた。巖ばかり――。觸(さは)つても觸つても、巖ばかりである。手を伸すと、更に堅い巖が、掌に觸れた。脚をひろげると、もつと廣い磐石(ばんじやく)の面(おもて)が、感じられた。纔かにさす薄光りも、黒い巖石が皆吸ひとつたやうに、岩窟(いはむろ)の中に見えるものはなかつた。唯けはひ――彼の人の探り歩くらしい空氣の微動があつた。思ひ出しだぞ。おれが誰だつたか、――訣つたぞ。おれだ。此おれだ。大津の宮に仕へ、飛鳥の宮に呼び戻されたおれ。滋賀津彦(しがつひこ)。其が、おれだつたのだ。歡びの激情を迎へるやうに、岩窟(いはむろ)の中のすべての突角が哮(たけ)びの反響をあげた。彼の人は、立つて居た。一本の木だつた。だが、其姿が見えるほどの、はつきりした光線はなかつた。明りに照し出されるほど、まとまつた現(うつ)し身(み)をも、持たぬ彼(か)の人であつた。唯、岩屋の中に矗立(しゆくりつ)した、立ち枯れの木に過ぎなかつた。おれの名は、誰も傳へるものがない。おれすら忘れて居た。長く久しく、おれ自身にすら忘れられて居たのだ。可愛(いと)しいおれの名は、さうだ。語り傳へる子があつた筈だ。語り傳へさせる筈の語部(かたりべ)も、出來て居たゞらうに。――なぜか、おれの心は寂しい。空虚な感じが、しく/\と胸を刺すやうだ。――子代(こしろ)も、名代(なしろ)もない、おれにせられてしまつたのだ。さうだ。其に違ひない。この物足らぬ、大きな穴のあいた氣持ちは、其で、するのだ。おれは、此世に居なかつたと同前の人間になつて、現(うつ)し身の人間どもには、忘れ了(ほ)されて居るのだ。憐みのないおつかさま。おまへさまは、おれの妻の、おれに殉死(ともじ)にするのを、見殺しになされた。おれの妻の生んだ粟津子(あはつこ)は、罪びとの子として、何處かへ連れて行かれた。野山のけだものゝ餌食(えじき)に、くれたのだらう。可愛さうな妻よ。哀なむすこよ。だが、おれには、そんな事などは、何でもない。おれの名が傳らない。劫初(ごふしよ)から末代まで、此世に出ては消える、天(あめ)の下(した)の青人草(あをひとぐさ)と一列に、おれは、此世に、影も形も殘さない草の葉になるのは、いやだ。どうあつても、不承知だ。惠みのないおつかさま。お前さまにお縋りするにも、其おまへさますら、もうおいでゞない此世かも知れぬ。くそ――外(そと)の世界が知りたい。世の中の樣子が見たい。だが、おれの耳は聞える。其なのに、目が見えぬ。この耳すら、世間の語を聞き別けなくなつて居る。闇の中にばかり瞑(つぶ)つて居たおれの目よ。も一度くわつと「目+爭」(みひら)いて、現し世のありのまゝをうつしてくれ、……土龍の目なと、おれに貸しをれ。聲は再、寂かになつて行つた。獨り言する其聲は、彼の人の耳にばかり聞えて居るのであらう。丑刻(うし)に、靜謐の頂上に達した現(うつ)し世(よ)は、其が過ぎると共に、俄かに物音が起る。月の、空を行く音すら聞えさうだつた四方の山々の上に、まづ木の葉が音もなくうごき出した。次いではるかな谿のながれの色が、白々と見え出す。更に遠く、大和國中(くになか)の何處からか起る一番鷄のつくるとき曉が來たのである。里々の男は、今、女の家の閨戸(ねやど)から、ひそ/\と歸つて行くだらう。月は早く傾いたけれど、光りは深夜の色を保つてゐる。午前二時に朝の來る生活に、村びとも、宮びとも、忙しいとは思はずに、起きあがる。短い曉の目覺めの後、又、物に倚りかゝつて、新しい眠りを繼ぐのである。山風は頻りに、吹きおろす。枝・木の葉の相軋(ひし)めく音が、やむ間なく聞える。だが其も暫らくで、山は元のひつそとしたけしきに還る。唯、すべてが薄暗く、すべてが隈を持つたやうに、朧ろになつて來た。岩窟(いはむろ)は、沈々と黝(くら)くなつて冷えて行く。した した。水は、岩肌を絞つて垂れてゐる。耳面刀自(みヽもとのじ)。おれには、子がない。子がなくなつた。おれは、その榮えてゐる世の中には、跡を貽(のこ)して來なかつた。子を生んでくれ。おれの子を。おれの名を語り傳へる子どもを――。岩牀(どこ)の上に、再白々と横つて見えるのは、身じろぎもせぬからだである。唯その眞裸な骨の上に、鋭い感覺ばかりが活きてゐるのであつた。まだ反省のとり戻されぬむくろには、心になるものがあつて、心はなかつた。耳面刀自の名は、唯の記憶よりも、更に深い印象であつたに違ひはない。自分すら忘れきつた、彼の人の出來あがらぬ心に、骨に沁み、干からびた髓の心(しん)までも、唯彫(え)りつけられたやうになつて、殘つてゐるのである。萬法藏院の晨朝(じんてう)の鐘だ。夜の曙色(あけいろ)に、一度 騷立(さわだ)つた物々の胸をおちつかせる樣に、鳴りわたる鐘の音(ね)だ。一(いつ)ぱし白みかゝつて來た東は、更にほの暗い明(あ)け昏(ぐ)れの寂けさに返つた。南家の郎女は、一莖の草のそよぎでも聽き取れる曉凪(あかつきなぎ)を、自身擾すことをすまいと言ふ風に、身じろきすらもせずに居る。夜(よる)の間(ま)よりも暗くなつた盧(いほり)の中では、明王像の立ち處(ど)さへ見定められぬばかりになつて居る。何處からか吹きこんだ朝 山颪(おろし)に、御燈(あかし)が消えたのである。當麻語部(たぎまかたり)の姥も、薄闇に蹲つて居るのであらう。姫は再、この老女の事を忘れてゐた。たゞ一刻ばかり前、這入りの戸を搖つた物音があつた。一度 二度 三度。更に數度。音は次第に激しくなつて行つた。樞がまるで、おしちぎられでもするかと思ふほど、音に力のこもつて來た時、ちようど、鷄が鳴いた。其きりぴつたり、戸にあたる者もなくなつた。新しい物語が、一切、語部の口にのぼらぬ世が來てゐた。けれども、頑(かたくな)な當麻氏(たぎまうぢ)の語部の古姥(ふるうば)の爲に 我々は今一度、去年以來の物語りをしておいても、よいであらう。まことに其は、昨(きぞ)の日からはじまるのである。----cont.(^死^)
2006年02月15日
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cont.----- 四ひさかたの 天二上(あめふたかみ)に、我(あ)が登り 見れば、とぶとりの 明日香(あすか)ふる里の 神南備山(かむなび)隱(ごも)り、家どころ 多(さは)に見え、豐(ゆた)にし 屋庭(やには)は見ゆ。彌彼方(いやをち)に 見ゆる家群(いへむら)藤原の 朝臣(あそ)が宿。遠々に 我(あ)が見るものを、たか/″\に 我あ(ア)が待つものを、處女子(をとめご)は 出で通(こ)ぬものか。よき耳(みヽ)を 聞かさぬものか。青馬の 耳面刀自(みヽもとのじ)。刀自もがも。 女弟(おと)もがも。その子の はらからの子の處女子の 一人一人だに、 わが配偶(つま)に來(こ)よ。ひさかたの 天二上(あめふたかみ)二上の陽面(かげとも)に、生ひをゝり 繁(し)み咲く馬醉木(あしび)の にほへる子を我(あ)が 捉(と)り兼ねて、馬醉木の あしずりしつゝ吾(あ)はもよ偲(しぬ)ぶ。藤原處女歌ひ了へた姥は、大息をついて、ぐつたりした。其から暫らく、山のそよぎ、川瀬の響きばかりが、耳についた。姥は居ずまひを直して、嚴かな聲音(こわね)で、誦(かた)り出した。とぶとりの 飛鳥の都に、日のみ子樣のおそば近く侍る尊いおん方。さゝなみの大津の宮に人となり、唐土(もろこし)の學藝(ざえ)に詣(いた)》り深く、詩(からうた)も、此國ではじめて作られたは、大友の皇子か、其とも此お方か、と申し傳へられる御方(おんかた)。近江の都は離れ、飛鳥の都の再榮えたその頃、あやまちもあやまち。日のみ子に弓引くたくみ、恐しや、企てをなされると言ふ噂が、立ちました。高天原廣野姫尊(たかまのはらひろぬひめのみこ)、おん怒りをお發しになりまして、とう/\池上の堤に引き出してお討たせになりました。其お方がお死にの際(きは)に、深く/\思ひこまれた一人のお人がおざりまする。耳面刀自(みヽもとのじ)と申す、大織冠のお娘御でおざります。前から深くお思ひになつて居た、と云ふでもありません。唯、此郎女も、大津の宮離れの時に、都へ呼び返されて、寂しい暮しを續けて居られました。等しく大津の宮に愛着をお持ち遊した右の御方が、愈々、磐余(いはれ)の池の草の上で、お命召されると言ふことを聞いて、一目見てなごり惜しみがしたくてこらへられなくなりました。藤原から池上まで、おひろひでお出でになりました。小高い柴の一むらある中から、御樣子を窺うて歸らうとなされました。其時ちらりと、かのお人の、最期に近いお目に止りました。其ひと目が、此世に殘る執心となつたのでおざりまする。もゝつたふ 磐余(いはれ)の池に鳴く鴨を 今日のみ見てや、雲隱りなむこの思ひがけない心殘りを、お詠みになつた歌よ、と私ども當麻(たぎま)の語部(かたりべ)の物語りには、傳へて居ります。その耳面刀自と申すは、淡海公の妹君、郎女の祖父(おほぢ)君南家(なんけ)太政(だいじやう)大臣には、叔母君にお當りになつてゞおざりまする。人間の執心(しふしん)と言ふものは、怖(こは)いものとはお思ひなされぬかえ。其亡き骸は、大和の國を守らせよ、と言ふ御諚で、此山の上、河内から來る當麻路(たぎまぢ)の脇にお埋(い)けになりました。其が何(なん)と、此世の惡心も何もかも、忘れ果てゝ清々(すがヽヽ)しい心になりながら、唯そればかりの一念が、殘つて居ると、申します。藤原四流の中で、一番美しい郎女が、今におき、耳面刀自と、其幽界(かくりよ)の目には、見えるらしいのでおざりまする。女盛りをまだ婿どりなさらぬげの郎女さまが、其力におびかれて、この當麻(たぎま)までお出でになつたのでなうて、何でおざりませう。當麻路に墓を造りました當時(そのかみ)、石を搬ぶ若い衆にのり移つた靈(たま)が、あの長歌を謳うた、と申すのが傳へ。當麻語部媼(たぎまのかたりのおむな)は、南家の郎女の脅える樣を想像しながら、物語つて居たのかも知れぬ。唯さへ、この深夜、場所も場所である。如何に止めどなくなるのが、「ひとり語(がた)り」の癖とは言へ、語部の古婆(ふるばヾ)の心は、自身も思はぬ意地くね惡さを藏してゐるものである。此が、神さびた職を寂しく守つて居る者の優越感を、充すことにも、なるのであつた。大貴族の郎女は、人の語を疑ふことは教へられて居なかつた。それに、信じなければならぬもの、とせられて居た語部の物語りである。詞の端々までも、眞實を感じて、聽いて居る。言ふとほり、昔びとの宿執(しゆくしふ)が、かうして自分を導いて來たことは、まことに違ひないであらう。其にしても、ついしか見ぬお姿――尊い御佛と申すやうな相好が、其お方とは思はれぬ。春秋の彼岸中日、入り方の光り輝く雲の上に、まざ/\と見たお姿。此|日本(やまと)の國の人とは思はれぬ。だが、自分のまだ知らぬこの國の男子(おのこヾ)たちには、あゝ言ふ方もあるのか知らぬ。金色(こんじき)の鬣、金色の髮の豐かに垂れかゝる片肌は、白々と袒(ぬ)いで美しい肩。ふくよかなお顏は、鼻隆く、眉秀で、夢見るやうにまみを伏せて、右手は乳の邊に擧げ、脇の下に垂れた左手は、ふくよかな掌を見せて、……あゝ雲の上に朱の唇、匂ひやかにほゝ笑まれると見た……その俤。日のみ子さまの御側仕へのお人の中には、あの樣な人もおいでになるものだらうか。我が家(や)の父や、兄人(せうと)たちも、世間の男たちとは、とりわけてお美しい、と女たちは噂するが、其すら似もつかぬ……。尊い女性(にしよう)は、下賤な人と、口をきかぬのが當時の世の掟である。何よりも、其語は、下ざまには通じぬもの、と考へられてゐた。それでも、此古物語りをする姥には、貴族の語もわかるであらう。郎女は、恥ぢながら問ひかけた。そこの人。ものを聞かう。此身の語が、聞きとれたら、答へしておくれ。その飛鳥の宮の 日のみ子さまに仕へた、と言ふお方は、昔の罪びとらしいに、其が又何とした訣で、姫の前に立ち現れては、神々(かうヾヽ)しく見えるであらうぞ。此だけの語が言ひ淀み、淀みして言はれてゐる間に、姥は、郎女の内に動く心もちの、凡は、氣(け)どつたであらう。暗いみ燈(あかし)の光りの代りに、其頃は、もう東白みの明りが、部屋の内の物の形を、朧ろげに顯しはじめて居た。我が説明(ことわけ)を、お聞きわけられませ。神代の昔びと、天若日子(あめわかひこ)。天若日子こそは、天(てん)の神々に弓引いた罪ある神。其すら、其後(ご)、人の世になつても、氏貴い家々の娘御(ご)の閨(ねや)の戸までも、忍びよると申しまする。世に言ふ「天若(あめわか)みこ」と言ふのが、其でおざります。天若みこ。物語りにも、うき世語(よがた)りにも申します。お聞き及びかえ。姥は暫らく口を閉ぢた。さうして言ひ出した聲は、顏にも、年にも似ず、一段、はなやいで聞えた。「もゝつたふ」の歌、殘された飛鳥の宮の執心(しふしん)びと、世々の藤原の一(いち)の媛に祟る天若みこも、顏清く、聲心惹く天若みこのやはり、一人でおざりまする。お心つけられませ。物語りも早、これまで。其まゝ石のやうに、老女はぢつとして居る。冷えた夜も、朝影(あさかげ)を感じる頃になると、幾らか温みがさして來る。萬法藏院は、村からは遠く、山によつて立つて居た。曉早い鷄の聲も、聞えぬ。もう梢を離れるらしい塒鳥が、近い端山(はやま)の木群(こむら)で、羽振(はぶ)きの音を立て初めてゐる。----cont.(^死^)
2006年02月15日
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Last-day,It's just blowing the spring-heralding gale.----"春一番"(はるいちばん)立春(2/4)を過ぎて最初に吹く、昇温を伴った強い南風。日本海で低気圧が発達すると起き、太平洋側の異常高温、日本海側のフェーン現象などを起こす。[季]春。------"微笑(ほほえみ)がえし"(作詞:阿木曜子 作曲:穂口雄右)♪~♪"春一番"が掃除したてのサッシの窓にほこりの渦を躍らせてます机・本箱 運び出された荷物のあとは畳の色がそこだけ若いわお引越しのお祝い返しも済まないうちにまたですね罠にかかったうさぎみたいイヤだわあなたすすだらけおかしくって涙が出そう1・2・3(ワン・ツウ・スリー)あの三叉路で1・2・3軽く手を振り私達、お別れなんですよ♪タンスの陰で心細げに迷子になったハートのエースが出てきましたよおかしなものね 忘れた頃に見つかるなんてまるで青春の思いでそのものお引越しのお祝い返しも今度は二人別々ね何年たっても年下の人イヤだわシャツで顔拭いておかしくって涙が出そう1・2・3(イチ・ニ・サン)3ツ数えて1・2・3見つめ合ったら私達お別れなんですね♪お引越しのお祝い返しは微笑みにして届けますやさしい悪魔と住みなれた部屋それでは鍵がサカサマよおかしくって 涙が出そう1・2・3(アン・ドゥ・トロワ)3ツ数えて1・2・3見つめ合ったら私達、歩いて行くんですね歩いて行くんですね~----ANDcont. -----三萬法藏院の北の山陰に、昔から小な庵室があつた。昔からと言ふのは、村人がすべてさう信じて居たのである。荒廢すれば繕ひ/\して、人は住まぬ廬(いほり)に、孔雀明王像が据ゑてあつた。當麻(たぎま)の村人の中には、稀に、此が山田寺である、と言ふものもあつた。さう言ふ人の傳へでは、萬法藏院は、山田寺の荒れて後、飛鳥の宮の仰せを受けてとも言ひ、又御自身の御發起(ごほつき)からだとも言ふが、一人の尊いみ子が、昔の地を占めにお出でなされて、大伽藍を建てさせられた。其際、山田寺の舊構を殘すため、寺の四至の中、北の隅へ、當時立ち朽りになつて居た堂を移し、規模を小くして造られたもの、と傳へ言ふのであつた。さう言へば、山田寺は、役君小角(えのきみをづか)が、山林佛教を創める最初の足代(あししろ)になつた處だと言ふ傳へが、吉野や、葛城の山伏行人(やまぶしぎやうにん)の間に行はれてゐた。何しろ、萬法藏院の大伽藍が燒けて百年、荒野の道場となつて居た、目と鼻との間に、こんな古い建て物が、殘つて居たと言ふのも、不思議なことである。夜は、もう更けて居た。谷川の激(たぎ)ちの音が、段々高まつて來る。二上山の二つの峰の間から、流れくだる水なのだ。廬の中は、暗かつた。爐を焚くことの少い此邊(へん)では、地下(ぢげ)百姓は、夜は眞暗な中で、寢たり、坐つたりしてゐるのだ。でもこゝには、本尊が祀つてあつた。夜を守つて、佛の前で起き明す爲には、御燈(みあかし)を照した。孔雀明王の姿が、あるかないかに、ちろめく光りである。姫は寢ることを忘れたやうに、坐つて居た。萬法藏院の上座の僧綱たちの考へでは、まづ奈良へ使ひを出さねばならぬ。横佩家(よこはきけ)の人々の心を、思うたのである。次には、女人結界(けっかい)を犯して、境内深く這入つた罪は、郎女自身に贖(あがな)はさねばならなかつた。落慶のあつたばかりの淨域だけに、一時は、塔頭々々(たっちゅう)の人たちの、青くなつたのも、道理である。此は、財物を施入する、と謂つたぐらゐではすまされぬ。長期の物忌みを、寺近くに居て果させねばならぬと思つた。其で、今日晝の程、奈良へ向つて、早使(はやづか)ひを出して、郎女(いらつめ)の姿が、寺中に現れたゆくたてを、仔細に告げてやつたのである。其と共に姫の身は、此庵室に暫らく留め置かれることになつた。たとひ、都からの迎へが來ても、結界を越えた贖ひを果す日數だけは、こゝに居させよう、と言ふのである。牀(ゆか)は低いけれども、かいてあるにはあつた。其替り、天井は無上に高くて、而も萱のそゝけた屋根は、破風の脇から、むき出しに、空の星が見えた。風が唸つて過ぎたと思ふと、其高い隙から、どつと吹き込んで來た。ばら/″\落ちかゝるのは、煤がこぼれるのだらう。明王の前の灯が、一時(いっとき)かつと、明るくなつた。その光りで照し出されたのは、あさましく荒(すさ)んだ座敷だけでなかつた。荒板の牀の上に、薦筵(こもむしろ)二枚重ねた姫の座席。其に向つて、ずつと離れた壁ぎはに、板敷に直(ぢか)に坐つて居る老婆の姿があつた。壁と言ふよりは、壁代(かべしろ)であつた。天井から弔りさげた竪薦(たつごも)が、幾枚も幾枚も、ちぐはぐに重つて居て、どうやら、風は防ぐやうになつて居る。その壁代に張りついたやうに坐つて居る女、先から嗽(しはぶき)一つせぬ靜けさである。貴族の家の郎女は、一日もの言はずとも、寂しいとも思はぬ習慣がついて居た。其で、この山陰の一つ家に居ても、溜め息一つ洩すのではなかつた。晝(ひ)の内此處へ送りこまれた時、一人の姥のついて來たことは、知つて居た。だが、あまり長く音も立たなかつたので、人の居ることは忘れて居た。今ふつと明るくなつた御燈(みあかし)の色で、その姥の姿から、顏まで一目で見た。どこやら、覺えのある人の氣がする。さすがに、姫にも人懷しかつた。ようべ家を出てから、女性(にょしょう)には、一人も逢つて居ない。今そこに居る姥(うば)が、何だか昔の知り人のやうに感じられたのも、無理はないのである。見覺えのあるやうに感じたのは、だが、其親しみ故だけではなかつた。郎女(いらつめ)さま。緘默(しじま)を破つて、却てもの寂しい、乾聲(からごえ)が響いた。郎女は、御存じおざるまい。でも、聽いて見る氣はおありかえ。お生れなさらぬ前の世からのことを。それを知つた姥でおざるがや。一旦、口がほぐれると、老女は止めどなく、喋り出した。姫は、この姥の顏に見知りのある氣のした訣を、悟りはじめて居た。藤原南家(なんけ)にも、常々、此年よりとおなじやうな媼(おむな)が出入りして居た。郎女たちの居る女部屋(をんなべや)までも、何時もづか/″\這入つて來て、憚りなく古物語りを語つた、あの中臣志斐媼(なかとみのしひのおむな)――。あれと、おなじ表情をして居る。其も、尤であつた。志斐老女が、藤氏(とうし)の語部(かたりべ)の一人であるやうに、此も亦、この當麻の村の舊族、當麻眞人(たぎのまひと)の「氏(うぢ)の語部」、亡び殘りの一人であつたのである。藤原のお家が、今は四筋に分れて居りまする。ぢやが、大織冠さまの代どころでは、ありは致しませぬ。淡海公の時も、まだ一流れのお家でおざりました。併し其頃やはり、藤原は、中臣と二つの筋に岐れました。中臣の氏人で、藤原の里に榮えられたのが、藤原と、家名の申され初めでおざりました。藤原のお流れ。今ゆく先も、公家攝録(くげせふろく)の家柄。中臣の筋や、おん神仕へ。差別々々(けぢめ)明らかに、御代々々(みよヽヽ)の宮守(まも)り。ぢやが、今は今昔は昔でおざります。藤原の遠つ祖(おや)、中臣の氏の神、天押雲根(あめのおしくもね)と申されるお方の事は、お聞き及びかえ。今、奈良の宮におざります 日の御子さま。其前は、藤原の宮の 日のみ子さま。又其前は、飛鳥(あすか)の宮の 日のみ子さま。大和の國中(くになか)に、宮遷し、宮奠(さだ)め遊した代々(よヽ)の 日のみ子さま。長く久しい御代々々(みよヽヽ)に仕へた、中臣の家の神業(わざ)。郎女(いらつめ)さま。お聞き及びかえ。遠い代の昔語り。耳明らめてお聽きなされ。中臣・藤原の遠つ祖(おや)あめの押雲根命(おしくもね)。遠い昔の 日のみ子さまのお喰(め)しの、飯(いひ)と、み酒(き)を作る御料の水を、大和國中(くになか)殘る隈なく搜し覓(もと)めました。その頃、國原の水は、水澁(そぶ)臭く、土(つち)濁りして、日のみ子さまのお喰(め)しの料(しろ)に叶ひません。天(てん)の神 高天(たかま)の大御祖(おほみをや)教へ給へと祈らうにも、國中(なか)は國低し。山々もまんだ天(てん)遠し。大和の國とり圍む青垣山では、この二上山。空行く雲の通(かよ)ひ路(ぢ)と、昇り立つて祈りました。その時、高天(たかま)の大御祖(おほみをや)のお示しで、中臣の祖(おや)押雲根命(をしくもね)、天の水の湧(わ)き口(ぐち)を、此二上山に八(や)ところまで見とゞけて、其後久しく 日のみ子さまのおめしの湯水は、代々の中臣自身、此山へ汲みに參ります。お聞き及びかえ。當麻眞人(たぎまのまひと)の、氏の物語りである。さうして其が、中臣の神わざと繋りのある點を、座談のやうに語り進んだ姥は、ふと口をつぐんだ。外には、瀬音が荒れて聞えてゐる。中臣・藤原の遠祖が、天二上(あめのふたかみ)に求めた天八井(あめのめのやい)の水を集めて、峰を流れ降り、岩にあたつて漲り激(たぎ)つ川なのであらう。瀬音のする方に向いて、姫は、掌(たなそこ)を合せた。併しやがて、ふり向いて、仄暗くさし寄つて來てゐる姥の姿を見た時、言はうやうない畏しさと、せつかれるやうな忙しさを、一つに感じたのである。其に、志斐の姥の、本式に物語りをする時の表情が、此老女の顏にも現れてゐた。今、當麻(たぎま)の語部(かたりべ)の姥(うば)は、神憑りに入るらしく、わな/\震ひはじめて居るのである。*****cont.-----(^死^)
2006年02月15日
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二月は、依然として照つて居た。山が高いので、光りにあたるものが少かつた。山を照し、谷を輝かして、剩る光りは、又空に跳ね返つて、殘る隈々までも、鮮やかにうつし出した。足もとには、澤山の峰があつた。黒ずんで見える峰々が、入りくみ、絡みあつて、深々と畝つてゐる。其が見えたり隱れたりするのは、この夜更けになつて、俄かに出て來た霞の所爲(せい)だ。其が又、此冴えざえとした月夜を、ほつとりと、暖かく感じさせて居る。廣い端山の群つた先は、白い砂の光る河原だ。目の下遠く續いた、輝く大佩帶(おほおび)は、石川である。その南北に渉つてゐる長い光りの筋が、北の端で急に廣がつて見えるのは、凡河内(おほしかふち)の邑のあたりであらう。其へ、山間を出たばかりの堅鹽(かたしほ)川―大和川―が落ちあつて居るのだ。そこから、乾(いぬい)の方へ、光りを照り返す平面が、幾つも列つて見えるのは、日下江(くさかえ)・永瀬江(ながせえ)・難波江(なにはえ)などの水面であらう。寂かな夜である。やがて鷄鳴近い山の姿は、一樣に露に濡れたやうに、しつとりとして靜まつて居る。谷にちら/\する雪のやうな輝きは、目の下の山田谷に多い、小櫻の遲れ咲きである。一本の路が、眞直に通つてゐる。二上山の男嶽(をのかみ)女嶽(めのかみ)の間から、急に降つて來るのである。難波から飛鳥の都への古い間道なので、日によつては、晝は相應な人通りがある。道は白々と廣く、夜目には、芝草の蔓(は)つて居るのすら見える。當麻路(たぎまぢ)である。一降りして又、大降りにかゝらうとする處が、中だるみに、やゝ坦(ひらた)くなつてゐた。梢の尖つた栢(かへ)の木の森。半世紀を經た位の木ぶりが、一樣に揃つて見える。月の光りも薄い木陰全體が、勾配を背負つて造られた圓塚であつた。月は、瞬きもせずに照し、山々は深く「目+匡」を閉ぢてゐる。こう こう こう。先刻から、聞えて居たのかも知れぬ。あまり寂けさに馴れた耳は、新な聲を聞きつけよう、としなかつたのであらう。だから、今珍しく響いて來た感じもないのだ。こう こう こう――こう こう こう。確かに人聲である。鳥の夜聲とは、はつきりかはつた韻(いびき)を曳いて來る。聲は、暫らく止んだ。靜寂は以前に増し、冴え返つて張りきつてゐる。この山の峰つゞきに見えるのは、南に幾重ともなく重つた、葛城の峰々である。伏越(ふしごえ)櫛羅(をしら)小巨勢(こごせ)と段々高まつて、果ては空の中につき入りさうに、二上山と、この塚にのしかゝるほど、眞黒に立ちつゞいてゐる。當麻路をこちらへ降つて來るらしい影が、見え出した。二つ三つ五つ……八つ九つ。九人の姿である。急な降りを一氣に、この河内路へ馳けおりて來る。九人と言ふよりは、九柱の神であつた。白い著物・白い鬘《カツラ》、手は、足は、すべて旅の裝束である。頭より上に出た杖をついて――。この坦(たひら)に來て、森の前に立つた。こう こう こう。誰の口からともなく、一時に出た叫びである。山々のこだまは、驚いて一樣に、忙しく聲を合せた。だが山は、忽一時の騷擾から、元の緘默(しじま)に戻つてしまつた。こう こう。お出でなされ。藤原南家 郎女(いらつめ)の御魂(みたま)。こんな奧山に、迷うて居るものではない。早く、もとの身に戻れ。こう こう。お身さまの魂を、今、山たづね尋ねて、尋ねあてたおれたちぞよ。こう こう こう。九つの杖びとは、心から神になつて居る。彼らは、杖を地に置き、鬘を解いた。鬘は此時、唯眞白な布に過ぎなかつた。其を、長さの限り振り捌いて、一樣に塚に向けて振つた。こう こう こう。かう言ふ動作をくり返して居る間に、自然な感情の欝屈と、休息を欲するからだの疲れとが、九體の神の心を、人間に返した。彼らは見る間に、白い布を頭に捲きこんで鬘とし、杖を手にとつた旅人として、立つてゐた。をい。無言(しじま)の勤めも此までぢや。をゝ。八つの聲が答へて、彼等は訓練せられた所作のやうに、忽一度に、草の上に寛(くつろ)ぎ、再杖を横へた。これで大和も、河内との境ぢやで、もう魂ごひの行(ぎやう)もすんだ。今時分は、郎女さまのからだは、廬の中で魂をとり返して、ぴち/\しく居られようぞ。こゝは、何處だいの。知らぬかいよ。大和にとつては大和の國、河内にとつては河内の國の大關(おほぜき)。二上の當麻路(たぎまぢ)の關(せき)――。別の長老(とね)めいた者が、説明を續(つ)いだ。四五十年あとまでは、唯 關と言ふばかりで、何の標(しるし)もなかつた。其があの、近江の滋賀の宮に馴染み深かつた、其よ。大和では、磯城(しき)の譯語田(をさだ)の御館に居られたお方。池上の堤で命召されたあのお方の骸(むくろ)を、罪人に殯(もがり)するは、災の元と、天若日子(あめわかひこ)の昔語りに任せて、其まゝ此處にお搬びなされて、お埋(い)けになつたのが、此塚よ。以前の聲が、まう一層皺がれた響きで、話をひきとつた。其時の仰せには、罪人よ。吾子(わこ)よ。吾子の爲了せなんだ荒び心で、吾子よりももつと、わるい猛び心を持つた者の、大和に來向ふのを、待ち押へ、塞(さ)へ防いで居ろ、と仰せられた。ほんに、あの頃は、まだおれたちも、壯盛(わかざか)りぢやつたに。今ではもう、五十年昔になるげな。今一人が、相談でもしかける樣な、口ぶりをんだ。さいや。あの時も墓作りに雇はれた。その後も、當麻路の修覆に召し出された。此お墓の事は、よく知つて居る。ほんの苗木ぢやつた栢が、此ほどの森になつたものな。畏(こは)かつたぞよ。此墓のみ魂が、河内安宿部(あすかべ)から石擔(も)ちに來て居た男に、憑いた時はなう。九人は、完全に現し世の庶民の心に、なり還つて居た。山の上は、昔語りするには、あまり寂しいことを忘れて居たのである。時の更け過ぎた事が、彼等の心には、現實にひし/\と、感じられ出したのだらう。もう此でよい。戻らうや。よかろ よかろ。皆は、鬘をほどき、杖を棄てた白衣の修道者、と言ふだけの姿(なり)になつた。だがの。皆も知つてようが、このお塚は、由緒(ゆいしょ) 深(ふか)い、氣のおける處ゆゑ、まう一度、魂ごひをしておくまいか。長老(とね)の語と共に、修道者たちは、再 魂呼(たまよば)ひの行を初めたのである。こう こう こう。をゝ……。異樣な聲を出すものだ、と初めは誰も、自分らの中の一人を疑ひ、其でも變に、おぢけづいた心を持ちかけてゐた。も一度、こう こう こう。其時、塚穴の深い奧から、冰りきつた、而も今息を吹き返したばかりの聲が、明らかに和したのである。をゝう……。九人の心は、ばら/″\の九人の心々であつた。からだも亦ちり/″\に、山田谷へ、竹内谷へ、大阪越えへ、又當麻路へ、峰にちぎれた白い雲のやうに、消えてしまつた。唯疊まつた山と、谷とに響いて、一つの聲ばかりがする。をゝう……。----continue(^死^)
2006年02月14日
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AND----今日(2/14)朝日新聞・朝刊にアニメ映画の紹介が掲載されています。----「死者の書」(CINE・アニメ)※2006/02/11公開 "outline"8世紀の平城京。才色兼備で知られる藤原南家の郎女は、当時の最新の文化である仏教に傾倒し、写経に精を出す日々を送っていた。そんな郎女の前に、謀反の罪で50年前に処刑された大津皇子が亡霊となって甦る。死に際に一目見ただけの女性、耳面刀自(みみものとじ)の姿が忘れられず、この世をさまよっているのだった。亡霊に導かれるように屋敷を抜け出した郎女は、皇子が葬られている二上山の麓にある當麻寺に辿り着く。 ------(キャスト・スタッフ) 監督 : 川本喜八郎(81)声の出演 : 宮沢りえ江守徹黒柳徹子岸田今日子********"死者の書" by 釋迢空一彼(か)の人の眠りは、徐かに覺めて行つた。まつ黒い夜の中に、更に冷え壓するものゝ澱んでゐるなかに、目のあいて來るのを、覺えたのである。 した した した。耳に傳ふやうに來るのは、水の垂れる音か。ただ凍りつくやうな暗闇の中で、おのづと睫と睫とが離れて來る。膝が、肱が、徐ろに埋れてゐた感覺をとり戻して來るらしく、彼の人の頭に響いて居るもの――。全身にこはゞつた筋が、僅かな響きを立てゝ、掌・足の裏に到るまで、ひきつれを起しかけてゐるのだ。さうして、なほ深い闇。ぽつちりと目をあいて見す瞳に、まづ壓(あつ)しかゝる黒い巖の天井を意識した。次いで、氷になつた岩牀(どこ)。兩脇に垂れさがる荒岩の壁。した/\と、岩傳(つた)ふ雫の音。時がたつた――。眠りの深さが、はじめて頭に浮んで來る。長い眠りであつた。けれども亦、淺い夢ばかりを見續けて居た氣がする。うつら/\思つてゐた考へが、現實に繋つて、あり/\と、目に沁みついてゐるやうである。あゝ耳面刀自(みみものとじ)。甦つた語が、彼の人の記憶を、更に彈力あるものに、響き返した。耳面刀自。おれはまだお前を……思うてゐる。おれはきのふ、こゝに來たのではない。それも、をとゝひや、其さきの日に、こゝに眠りこけたのでは、決してないのだ。おれは、もつと/\長く寢て居た。でも、おれはまだ、お前を思ひ續けて居たぞ。耳面刀自。こゝに來る前から……こゝに寢ても、……其から、覺めた今まで、一續きに、一つ事を考へつめて居るのだ。古い――祖先以來さうしたやうに、此世に在る間さう暮して居た――習しからである。彼の人は、のくつと起き直らうとした。だが、筋々が斷(き)れるほどの痛みを感じた。骨の節々の挫けるやうな、疼きを覺えた。……さうして尚、ぢつと、――ぢつとして居る。射干玉(ぬまたば)の闇。黒玉の大きな石壁に、刻み込まれた白々としたからだの樣に、嚴かに、だが、すんなりと、手を伸べたまゝで居た。耳面刀自の記憶。たゞ其だけの深い凝結した記憶。其が次第に蔓(ひろが)つて、過ぎた日の樣々な姿を、短い聯想の紐に貫いて行く。さうして明るい意思が、彼の人の死枯れたからだに、再立ち直つて來た。耳面刀自。おれが見たのは、唯一目――唯一度だ。だが、おまへのことを聞きわたつた年月は、久しかつた。おれによつて來い。耳面刀自。記憶の裏から、反省に似たものが浮び出て來た。おれは、このおれは、何處に居るのだ。……それから、こゝは何處なのだ。其よりも第一、此おれは誰なのだ。其をすつかり、おれは忘れた。だが、待てよ。おれは覺えて居る。あの時だ。鴨が聲(ね)を聞いたのだつけ。さうだ。譯語田(おさだ)の家を引き出されて、磐余(いはれ)の池に行つた。堤の上には、遠捲きに人が一ぱい。あしこの萱原、そこの矮叢(ぼさ)から、首がつき出て居た。皆が、大きな喚(おら)び聲を、擧げて居たつけな。あの聲は殘らず、おれをいとしがつて居る、半泣きの喚(わめ)き聲だつたのだ。其でもおれの心は、澄みきつて居た。まるで、池の水だつた。あれは、秋だつたものな。はつきり聞いたのが、水の上に浮いてゐる鴨鳥の聲だつた。今思ふと――待てよ。其は何だか一目惚れの女の哭き聲だつた氣がする。――をゝ、あれが耳面刀自だ。其瞬間、肉體と一つに、おれの心は、急に締めあげられるやうな刹那を、通つた氣がした。俄かに、樂な廣々とした世間に、出たやうな感じが來た。さうして、ほんの暫らく、ふつとさう考へたきりで……、空も見ぬ、土も見ぬ、花や、木の色も消え去つた――おれ自分すら、おれが何だか、ちつとも訣らぬ世界のものになつてしまつたのだ。あゝ、其時きり、おれ自身、このおれを、忘れてしまつたのだ。足の踝(くるぶし)が、膝の膕(ひつかがみ)が、腰のつがひが、頸のつけ根が、顳(こめかみ)が、ぼんの窪が――と、段々上つて來るひよめきの爲に蠢いた。自然に、ほんの偶然強ばつたまゝの膝が、折り屈められた。だが、依然として――常闇(とこやみ)。をゝさうだ。伊勢の國に居られる貴い巫女――おれの姉御。あのお人が、おれを呼び活けに來てゐる。姉御。こゝだ。でもおまへさまは、尊い御神に仕へてゐる人だ。おれのからだに、觸つてはならない。そこに居るのだ。ぢつとそこに、蹈み止つて居るのだ。――あゝおれは、死んでゐる。死んだ。殺されたのだ……忘れて居た。さうだ。此は、おれの墓だ。いけない。そこを開けては。塚の通ひ路の、扉をこじるのはおよし。……よせ。よさないか。姉の馬鹿。なあんだ。誰も、來ては居なかつたのだな。あゝよかつた。おれのからだが、天日(てんぴ)に暴(さら)されて、見る/\ところだつた。だが、をかしいぞ。かうつと――あれは昔だ。あのこじあける音がするのも、昔だ。姉御の聲で、塚道の扉を叩きながら、言つて居たのも今の事――だつたと思ふのだが。昔だ。おれのこゝへ來て、間もないことだつた。おれは知つてゐた。十月だつたから、鴨が鳴いて居たのだ。其鴨みたいに、首を捻ぢちぎられて、何も訣らぬものになつたことも。かうつと――姉御が、墓の戸で哭き喚(わめ)いて、歌をうたひあげられたつけ。「巖石(いそ)の上に生ふる馬醉木(あしび)を」と聞えたので、ふと、冬が過ぎて、春も闌(た)け初めた頃だと知つた。おれの骸(むくろ)が、もう半分融け出した時分だつた。そのあと、「たをらめど……見すべき君がありと言はなくに」。さう言はれたので、はつきりもう、死んだ人間になつた、と感じたのだ。……其時、手で、今してる樣にさはつて見たら、驚いたことに、おれのからだは、著こんだ著物の下で、「月+昔」(ほしじ)のやうに、ぺしやんこになつて居た――。臂(かひな)が動き出した。片手は、まつくらな空(くう)をさした。さうして、今一方は、そのまゝ、岩牀(どこ)の上を掻き搜つて居る。うつそみの人なる我や。明日よりは、二上山を愛兄弟(いろせ)と思はむ誄歌(なきうた)が聞えて來たのだ。姉御があきらめないで、も一つつぎ足して、歌つてくれたのだ。其で知つたのは、おれの墓と言ふものが、二上山の上にある、と言ふことだ。よい姉御だつた。併し、其歌の後で、又おれは、何もわからぬものになつてしまつた。其から、どれほどたつたのかなあ。どうもよつぽど、長い間だつた氣がする。伊勢の巫女樣、尊い姉御が來てくれたのは、居睡りの夢を醒された感じだつた。其に比べると、今度は深い睡りの後見たいな氣がする。あの音がしてる。昔の音が――。手にとるやうだ。目に見るやうだ。心を鎭めて――。鎭めて。でないと、この考へが、復散らかつて行つてしまふ。おれの昔が、あり/\と訣つて來た。だが待てよ。……其にしても一體、こゝに居るおれは、だれなのだ。だれの子なのだ。だれの夫(つま)なのだ。其をおれは、忘れてしまつてゐるのだ。兩の臂は、頸の「廴+囘」り、胸の上、腰から膝をまさぐつて居る。さうしてまるで、生き物のするやうな、深い溜め息が洩れて出た。大變だ。おれの著物は、もうすつかり朽つて居る。おれの褌(はかま)は、ほこりになつて飛んで行つた。どうしろ、と言ふのだ。此おれは、著物もなしに、寢て居るのだ。筋ばしるやうに、彼の人のからだに、血の馳けるに似たものが、過ぎた。肱を支へて、上半身が、闇の中に起き上つた。をゝ寒い。おれを、どうしろと仰るのだ。尊いおつかさま。おれが惡かつたと言ふのなら、あやまります。著物を下さい。著物を――。おれのからだは、地べたに凍りついてしまひます。彼の人には、聲であつた。だが、聲でないものとして、消えてしまつた。聲でない語(ことば)が、何時までも續いてゐる。くれろ。おつかさま。著物がなくなつた。すつぱだかで出て來た赤ん坊になりたいぞ。赤ん坊だ。おれは。こんなに、寢床の上を這ひずりつてゐるのが、だれにも訣らぬのか。こんなに、手足をばた/″\やつてゐるおれの、見える奴が居ぬのか。その唸き聲のとほり、彼の人の骸(むくろ)は、まるでだゞをこねる赤子のやうに、足もあがゞに、身あがきをば、くり返して居る。明りのさゝなかつた墓穴の中が、時を經て、薄い氷の膜ほど透けてきて、物のたゝずまひを、幾分朧ろに、見わけることが出來るやうになつて來た。どこからか、月光とも思へる薄あかりが、さし入つて來たのである。どうしよう。どうしよう。おれは。――大刀までこんなに、錆びついてしまつた……。********"釋迢空"(1887-1953) 釋迢空(しやくちようくう)=折口信夫(おりくち-しのぶ)国文学者・民俗学者・歌人。大阪生まれ。国学院大・慶大教授。国文学の民俗学的研究や神道・芸能などの研究に優れた業績を残す一方、歌人としても独自の境地を開いた。著「古代研究」、歌集「海山のあひだ」、詩集「古代感愛集」、小説「死者の書」など。--------reproduce from "aozora-bunko"-----------continue(^死^)
2006年02月14日
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"冬の夜" by 中原中也 1 みなさん今夜は静かです 薬鑵(やかん)の音がしてゐます 僕は女を想つてる 僕には女がないのです それで苦労もないのです えもいはれない弾力の 空気のやうな空想に 女を描いてみてゐるのです えもいはれない弾力の 澄み亙つたる夜の沈黙 薬鑵の音を聞きながら 女を夢みてゐるのです かくて夜は更け夜は深まつて 犬のみ覚めたる冬の夜は 影と煙草と僕と犬 えもいはれないカクテ-ルです 2 空気よりよいものはないのです それも寒い夜の室内の空気よりもよいものはないのです 煙よりよいものはないのです 煙より 愉快なものもないのです やがてはそれがお分りなのです 同感なさる時が 来るのです 空気よりよいものはないのです 寒い夜の痩せた年増女の手のやうな その手の弾力のやうな やはらかい またかたい かたいやうな その手の弾力のやうな 煙のやうな その女の情熱のやうな 炎えるやうな 消えるやうな 冬の夜の室内の 空気よりよいものはないのです -----中原中也は、明治四十年(一九〇七)四月二十九日、山口県吉敷郡山口町に生まれました。結婚後七年目の子で、中原家としては、四十五年ぶり男子出生ということもあり「奇跡の子」と言われました。-----Is your room's air clear,isn't it??ANDYou looks like "年増(としま)女" ??----- "楓橋夜泊"(ふうきょう-やはく)by 張繼(ちょうけい)from『唐詩選』月落烏啼霜滿天江楓漁火對愁眠姑蘇城外寒山寺夜半鐘聲到客船 ******江蘇省蘇州の運河にかかる太鼓形の石橋の下に舟宿りをしたときの漢詩。------ 月落ち烏(からす)啼(な)いて霜(しも)天に満(み)つ江楓(こうふう)漁火(ぎょか)愁眠(しゅうみん)に対す姑蘇(こそ)城外 寒山寺(かんざんじ)夜半(やはん)の鐘声(しょうせい)客船(かくせん)に到る-----"寒山寺"(かんざんじ)中国、江蘇省蘇州市にある寺。唐の詩僧"寒山"が草庵を結んだのが起源という。六朝時代(220~589)に創建されたといわれるが、太平天国の乱で焼失、現存の堂宇は清朝末期に建てられたもの。 -----"江楓"川辺の楓(かえで)の樹-----"楓"(かえで)〔「かえるで(蛙手)」の転〕(1)カエデ科カエデ属の植物の総称。世界に約二〇〇種、日本に十数種あり、日本産ではイロハモミジ類がその紅葉の美しさで代表的。材は緻密で細工物や器具材とする。サトウカエデ・イタヤカエデの樹液からは糖分を採る。そのほかハウチワカエデ・メグスリノキなどがある。モミジ。古名カエルデ。[季]秋。(2)襲(かさね)の色目の名。表裏とも萌葱(もえぎ)。(3)家紋の一。(1)の葉を図案化したもの。--------------------"張繼"(字・懿孫)襄州の人。天宝十二載(753)の進士。はじめは節度使の幕僚などをつとめていたが、後に中央に呼ばれ、検校祠郎中に至った。----------"もしもピアノが弾けたなら"作曲 坂田 晃一/作詞 阿久 悠 ♪~♪(1) もしもピアノが 弾けたなら思いのすべてを 歌にして君に伝えることだろう雨の降る日は 雨のよに風吹く夜には 風のように晴れた朝には 晴れやかにだけど~僕には ピアノがない君に~聞かせる 腕もない心はいつでも 半開き伝える言葉が 残されるアーアアア アーアアア アーアアー残される(2) もしもピアノが 弾けたなら小さな明かりを 一つ点(ツ)け君に聞かせることだろう人を愛した 喜びや心が通わぬ 悲しみや抑えきれない 情熱やだけど~僕には ピアノがない君と~夢見る こともない心はいつでも 空回り聞かせる夢さえ 遠ざかるアーアアア アーアアア アーアアー遠ざかる-----1981年(S.56)、西田敏行がTVドラマ"池中玄太80キロ(2)"のテーマソングとして歌ってヒットした曲desu.-----Could you play piano???-----(^IF^)
2006年02月14日
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春の野(ぬ)に 菫(すみれ)採みにと 来し吾ぞ 野をなつかしみ 一夜(ひとよ)宿(ね)にける(万葉集巻八)by 山部赤人-----"山部赤人"(やまべ-のあかひと)奈良前期の官人・歌人。三十六歌仙の一人。万葉集所収の長歌・短歌五〇首から、聖武天皇に従駕し、諸国を旅したことが知られる。短歌にすぐれ、清澄優美な叙景歌が多い。後世、柿本人麻呂とともに歌聖として仰がれました。-----"Snowstorm pounds Northeast, closing airports"from CNN-COM(2/12)Max Windham, 9 , launches off a snow jump today in Laurel, Maryland.A snowstorm intensified along the East Coast today, canceling more than 2,000 flights in and out of the Northeast and affecting airports across the country. The storm is expected to dump up to a foot of snow in parts of New York, Washington, Boston and Philadelphia. More than 21 inches were recorded in Columbia, Maryland.-----"春望"(しゅんぼう)by 杜甫国破山河在城春草木深感時花濺涙恨別鳥驚心烽火連三月家書抵万金白頭掻更短渾欲不勝簪---国破れて山河在(あ)り城(しろ)春(はる)にして草木(そうもく)深(ふか)し時に感じては花にも涙を濺(そそ)ぎ別れを恨(うら)んでは鳥にも心を驚(おどろ)かす烽火(ほうか)三月(さんげつ)に連なり家書(かしょ)万金(ばんきん)に抵(あた)る白頭(はくとう)掻(か)けば更に短かく渾(すべ)て簪(しん)に勝(た)えざらんと欲す---杜甫(とほ)盛唐の詩人、詩聖と称され、李白と並び唐代随一の詩人。"春望"は安緑山の反乱により、捕らえられて長安に幽閉され、妻子と別れ別れになった四十六才(757)の時の詩desu.------to-ho-ho------"早春賦"(そうしゅんふ)吉丸一昌作詞・中田章作曲♪~♪春は名のみの風の寒さや谷の鶯(うぐいす) 歌は思えど時にあらずと 声も立てず時にあらずと 声も立てず氷解(と)け去り葦(あし)は角(つの)ぐむさては時ぞと 思うあやにく今日もきのうも 雪の空今日もきのうも 雪の空春と聞かねば知らでありしを聞けば急かるる 胸の思(おもい)をいかにせよとの この頃かいかにせよとの この頃か----------"どこかで春が"百田宗治作詞・草川信作曲♪~♪どこかで"春"が 生まれてるどこかで水が 流れ出すどこかで雲雀(ひばり)が 啼(な)いているどこかで芽(め)の出る 音がする山の三月(さんがつ) 東風(こち)吹いてどこかで"春"が うまれてる---この歌は、1922年(T12)に発表されました。作詞の百田宗治 (ももたそうじ) は、大阪出身の詩人、作曲の草川信(くさかわしん)は長野県長野市松代出身desu.草川は、この曲のほか「夕焼けこやけ」「汽車ポッポ」「揺藍(ゆりかご)の歌」などの童謡も作曲しています。-----Could you hear that spring's drawing near around here ??-----(^春^)
2006年02月13日
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"山路来て 何やらゆかし すみれ草"貞享2年(1685年) 芭蕉42歳の作desu.----"菫"(すみれ)〔花が「墨入れ(墨壺)」に似ているのでいう〕(1)スミレ科スミレ属の植物の総称。山野や道端に自生。葉は柄が長く披針形・三角状披針形または卵状心臓形。花は五弁花で唇弁に距があり、紫・白・黄など。ツボスミレ・キスミレ・アカネスミレなど、日本には約五〇種ある。相撲取花(すもうとりばな)。相撲取草。(2)スミレ科の多年草。葉は三角状披針形で先端は丸い。春、葉間から高さ10センチメートル内外の花柄を出し、濃紫色の花をつける。[季]春。(3)襲(かさね)の色目の名。表は紫、裏は薄色。二・三月着用。-----"すみれ色の涙"作詞・万里村ゆき子/作曲・小田啓義/ 唄・岩崎宏美♪~♪すみれって すみれってブルーな恋人どうしがキスして キスして生まれた花だと思うの淋しかったから あなたを愛して淋しかったから あなたを憎んだ淋しかったから あなたにさよならをそしてひとつぶ すみれ色の涙♪~♪すみれって すみれってあなたとわたしの青ざめた心が 心が咲かせた花だと思うの淋しかったから あなたを愛して淋しかったから あなたを憎んだ淋しかったから あなたにさよならをそしてひとつぶ すみれ色の涙そしてひとつぶ すみれ色の涙------昭和56年の日本レコード大賞・最優秀歌唱賞受賞曲.なお、この曲はジャッキー吉川とブルーコメッツ(1967年)のカバー曲desu.-----"すみれの花咲く頃"♪すみれの 花咲く頃初めて 君を知りぬ君を思い 日ごと夜ごと悩みし あの日の頃すみれの 花咲く頃1929年にウィーンのフランツ・デーレにより作曲されフリッツ・ロッターによって作詞されましたが、翌年フランスのLeoLeievre、Henri Varna、Fernand Rouvrayによってフランス語の詩がつけられました。その時フランスに留学していた宝塚の白井鉄造が日本に持ち帰り、現在は宝塚歌劇のテーマ・ソングになっています。題名の花は元は"ニワトコ"でした。フランスでは"リラ"になり日本では"スミレ"に変わっています。-----"リラの花咲く頃"QUAND REFLEURIRONT LES LILAS BLANC♪~♪Printemps printemps c'est toi春よ、春、それは貴女(あなた)Qu'on guette dans les bois森に(山に)、皆が待ちわびていたOu les amants heureux幸せ溢れる恋人たちの元へとVont s'en aller par deux二人の元へとやってくるC'est toi qui feras se pamer tendrement優しく恍惚の境地に浸ってる、それは貴女celle que j'aime eperdument私が物狂おしいまでに愛するものPrintemps j'attends pour la tenir dans mes bras春、それは私の両手の中に包み込もうと待ち焦がれていたLa complicite des lilasリラの花との邂逅(かいこう)Quand refleuriront les lilas blancs白いリラの花咲く頃On se redira des mots troublants繰り返し心惑(まど)わせるものLes femmes conquises乙女たちの心を惑わせてFeront sous l'emprise支配下に置かれてしまうDu printemps qui grise春に幻惑されてしまうとはDes betisesなんと愚かなことかQuand refleuriront les lilas blancs白いリラの花咲く頃On ecoutera tous les serments耳を澄ませば、恋の呟きが聞こえてくるCar l'amour en fete恋人たちの祭典が始まると、Tournera les tetesすっかり魅せられてしまうQuand refleuriront les lilas blancs白いリラの花咲く頃Le doux parfum des fleurs花の甘美な香りがEmbaumera nos cours心の底まで染(し)みとおるEt nous serons ravisそして、私たちは心奪われるpar la chanson des nidsこのシャンソンの調べにJ'aurai sa jeunesse et mes plus beaux baisers私は乙女と出会い、そっとキスを交(か)わすSur sa bouche iront se poser唇を奪われてしまうとUn brin de lilas rappelant ce beau jourリラの小枝をみると美しい日々を想い出させるSera notre gage d'amour私たちの恋の証(あかし)をQuand refleuriront les lilas blancs白いリラの花咲く頃On se redira des mots troublants繰り返し心惑わせるものLes femmes conquises乙女たちの心を惑わせてFeront sous l'emprise支配下に置かれてしまうDu printemps qui grise春に幻惑されてしまうとはDes betisesなんと愚かなことかQuand refleuriront les lilas blancs白いリラの花咲く頃On ecoutera de faux serments耳を澄ませば、偽りの誓いが聞こえてくるSans qu'on se souvienne思い出は消え去りDes amours anciennesかっての恋人たちは佇(たたず)むQuand refleuriront les lilas blancs白いリラの花咲く頃----Would you mind singing chanson avec moi??Be stay in your mind!!----(^春^)
2006年02月12日
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梅一輪 一輪ほどの 暖かさby "服部嵐雪"-----服部嵐雪[1654~1707]芭蕉十哲(芭蕉の特に優れた高弟十人)の一人で、宝井其角と並ぶ蕉門の双璧。芭蕉は「草庵に桃桜あり。門人に其角嵐雪あり」と称えています。----Have you had ever seriously love any-one,in your life ?? ----愛する人に by"井上靖"(1907~1991)洪水のように、大きく、烈しく、生きなくてもいい。清水のように、あの岩蔭の、人目につかぬ滴(したた)りのように、清らかに、ひそやかに、自ら耀(かがや)いて、生きて貰いたい。 さくらの花のように、万朶(ばんだ)を飾らなくてもいい。梅のように、あの白い五枚の花弁のように、香ぐわしく、きびしく、まなこ見張り、寒夜、なおひらくがいい。 壮大な天の曲、神の声は、よし聞けなくとも、風の音に、あの木々をゆるがせ、野をわたり、村を二つに割るものの音に、耳を傾けよ。 愛する人よ、夢みなくてもいい。去年のように、また来年そうであるように、この新しき春の陽の中に、醒(さ)めてあれ。白き石のおもてのように醒めてあれ。------今日(2/11)の読売新聞の「編集手帳」に、詩の一部が引用されています。※(さくらの花のように ---- 寒夜、なおひらくがいい)------(^愛^)
2006年02月11日
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少し早いですが---Spling has Splung!!----船岡の若菜つみつつ君がため 子の日の松の千代をおくらむ by "清原元輔"(もとすけ)----By the wayもうすぐ"バレンタイン・デイ"(2/14)desune!!----Let's begin with singing a funny-song!!----"My Funny Valentine"My funny Valentine私の少し変わった"バレンタイン"(恋人)Sweet comic Valentine心優しくお茶目な"バレンタイン"You make me smile with my heart君が側にいてくれるだけで僕は気持ちよく微笑(ほほえ)むYour looks are laughable君は一見したところだけでは滑稽(こっけい)でUnphotographableあまり写真写りなんかも良くないけれどYet you're my favourite work of artそれでも君は僕にとっては芸術品のように素敵だIs your figure less than Greek君の容姿はギリシア彫刻のようにはいかないがIs your mouth a little weak君のお喋りは少しばかりいただけないWhen you open it to speak君が話し始めてもAre you smart?気のきいた台詞(せりふ)のひとつも言えないからねBut don't change a hair for meでもね、僕を意識して髪の毛一本たりとも変えちゃ駄目Not if you care for meもしかして僕のことを気にしていなくたってStay little Valentine stay今の君のままでいてくれるね、僕の"バレンタイン"Each day is Valentine's dayだって、毎日が"バレンタイン・デイ"なんだからIs your figure less than GreekIs your mouth a little weakWhen you open it to speakAre you smart?But don't you change one hair for meNot if you care for meStay little Valentine stayEach day is Valentine's day-------Would you mind to like you???-------(^choco^)
2006年02月11日
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