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彦根城の裏側に廻る。 西の丸三重櫓に向かう途中の樹木にミツバチのブンブンという聞きなれた羽ばたきの音が。ミズキの白い花か?西の丸三重櫓。三重櫓からは出曲輪への落とし橋や山崎山道への石垣群を見下ろし、北には琵琶湖を一望する事が出来るのビュースポット。そして再び正面に。天守上層。入母屋破風(いりもやはふ)、唐破風(からはふ)、切妻破風(きりづまはふ)が配置され、複雑で美しく曲線、直線が組み合わされている。懸魚(けぎょ)、兎毛通(うのけどおし)は金色に輝き華やかである。彦根城の唐破風は、小型の入母屋(千鳥)破風の真上にかぶさる「軒唐破風」と言うタイプ。 天守閣の鯱(しゃちほこ)。金色に輝いていたことが解る。 6:30前になると色々な所から天守閣前庭に市民の方が集まり始めた。そしてラジオ体操を開始。 佐和山を望む。佐和山城は、石田三成の居城としてあまりに有名な城。慶長5年(1600年)9月15日の関ヶ原の戦いで三成を破った徳川家康は、小早川秀秋軍を先鋒として佐和山城を猛攻撃。石田氏滅亡の後、徳川四天王の一人である井伊直政がこの地に封ぜられ、入城。完成した彦根城天守に直継が移ったことにともない、廃城となったと。手前右側にあるのが天守付櫓。奥の右手にあるのが多聞櫓(続櫓)。天守への入口はこの2つの櫓に設けれらている。今現在、彦根城天守内へは多聞櫓(続櫓)から入る。 窓は華頭窓。上枠を花形(花頭曲線)に造った特殊な窓。一層目は、大壁の下に下見板が取り付けられ、窓は突き上げ戸になっていた。「彦根城を世界遺産に」のポスター。花菖蒲が美しかった。 軒瓦には巴紋が。反時計回りの三つ巴。天守閣を後にし、再び天秤櫓とその先に廊下橋が。 白壁に朝の陽光が緑の樹木の陰を。緑のシャワーを身体全体に。廊下橋を大手門側から。 大手門への長い階段を下る。 彦根城の現在の正門は「表門」になっているが、当時は大手門だったと。築城当時は敵方の大坂城の向き(西)に大手門を作り、豊臣氏滅亡後は東山道(中山道)に近かった表門が実質の正門になったともいわれていると。 彦根城の南側正面にある大手門口近くにある地蔵堂。 ここは彦根城が築城される際に、山のあちこちにあったお地蔵さんを一箇所に集めて祀ってあるのです。内堀に架けられた橋が大手橋。 内堀の城壁近くの水面に小屋が作られていた。その中に黒い物体が僅かに動いていた。コクチョウとのこと。 「ひこね市民活動センター」近くの中堀にかかる橋から見た滋賀大経済学部講堂。旧彦根高等商業学校講堂で1924(大正13)年の建築物と。登録有形文化財。滋賀大学正門。 スミス記念堂。スミス記念堂は、昭和6年に日本聖公会彦根聖愛教会のアメリカ人牧師で、彦根高等商業学校(現・滋賀大学経済学部)の英語教師でもあったパーシー・アルメリン・スミス氏が両親を記念し、感謝する思いと日米両国の人々の基督教を通じた交流を願って多額の自己資金を投じ、日米双方からの醵金により、彦根城の旧・中濠端(現・外濠)に建設された和風礼拝堂。 京橋から 江戸の城下町を再現した「夢京橋キャッスルロード」を見る。京橋から再び彦根城内に入る。京橋口には門脇には櫓が築かれ、堀に面して高麗門があったと。 京橋口内にある旧西郷家長屋門。 今度は白鳥が内堀の水面に。 再び表門前の木橋が見えて来た。 佐和口多聞櫓。 ポストの上にも彦根城が。 そして約2時間の早朝散歩を終え、ホテルに戻り慌しく朝食を。 そして再びレンタカーに同乗し、「夢京橋キャッスルロード」を通過し仕事場に向かったのであった。
2015.05.31
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この日は5時過ぎに起床し、仕事への出発の準備を完了し、6時前に彦根城への早朝散歩に出発。ホテル2Fの展望デッキからの彦根城。 天守閣の姿も。 天守は3階3重。 ホテルを出発。 ホテルの隣にある、妻に頼まれた「酒々まんじゅう」販売の和菓子処 さわ泉(わがしどころ さわせん)はもちろん閉まっていた。 中濠沿いの松並木を歩く。この場所は藩主の参勤、着城で必ず通る場所で、当時47本植えられていたことからいろは47文字にちなみ「いろは松」と呼ばれるようになったのだと。当初、人馬や車などの通行の邪魔にならないよう、根が地上に張り出さない土佐松が植えられたとのこと。 徳川四天王の一人・井伊直政の遺臣である家老の木俣守勝が徳川家康と相談して彼の遺志を継ぎ、1603年(慶長8年)琵琶湖に浮かぶ彦根山(金亀山、現在の彦根城の場所)に彦根城の築城を開始。幕末における幕府の大老を務めた井伊直弼は、藩主となるまでをこの城下で過ごしている。井伊大老の歌碑。この歌碑は直弼の死から100年後にあたる1960年(昭和35年)に行われた「大老開国100年祭」に先がけて市内の有志29人によって建立されたのだと。 「あふみの海 磯うつ波の いく度か 御世にこころを くだきぬるかな」「琵琶湖の磯うつ波が、打ちくだけてはひき、また打ちくだけてはひくことを何回も繰り返しているように、大老就任以来難問が何回となく押し寄せてくる。しかし、わたしは国の平和と安心を願って、全身全霊を尽くして心を砕いてきたので悔いは残らない」というような意味と。 佐和口多聞櫓。佐和口は南の京橋口、西の船町口、北の長橋口とともに彦根城の4つの門のひとつ。表門に通じる入口として、大手門がある京橋口とともに彦根城の重要な城門のひとつ。現在の彦根城のメインの入口。朝日を浴びる佐和口桝形。左側の多聞櫓は明治六~八年に再建されたもの。佐和口を入ってすぐの場所にある家老 木俣屋敷跡。 彦根城 案内図。 国指定重要文化財 彦根城 馬屋は工事中。内堀に架かる表門橋。この橋を渡ると復元の御殿があり、本丸へと続いていく。 しかし橋の手前には午前8:30開門の文字が。 諦めて内堀沿いを歩こうと思っていた時に、早足で歩く早朝散歩のおじさんがこの表門橋を渡って行くのを発見。慌てて私もその後を追う。 城内への入り口。 復元された表御殿。ここは彦根城博物館になっている。 彦根城管理事務所ももちろん閉鎖中。 彦根城管理事務所の横のゲートが1ヶ所開いており、オジサンの後を追う。階段道を登り天守閣を目指す。1段1段の幅が広く、また登るに連れて傾斜が急になってきて実に登りにくかった。これは意図的に造られたものであること間違いなし。天秤櫓・廊下橋(表門側)。 空濠(通路)を跨ぐようにして鐘の丸から天秤櫓の門へ架けられている木製の橋で、もともとは橋に覆い屋根と壁がつけられていた事から、廊下橋の名で呼ばれていると。この橋にかつて屋根や壁が設けられていたのは、城の防備のために城兵の移動を敵方に知られないようにするためだったと。また、この橋には「落とし橋」としての機能もあり、非常時にはこの橋を落下させ、敵の侵入を防ぐ事ができたのだと。廊下橋を渡る直前に、鐘の丸側から廊下橋と、その先にある「天秤櫓」という櫓を。天秤櫓は、上から見ると「コ」の字形をしていて、両端に2階建ての櫓を設けて中央に門が開く構造があたかも両端に荷物を下げた天秤のように見えるため、天秤櫓と。詳細に見ると両隅の2階櫓は棟の方向が異なっており、格子窓の数も左右で違うなど決して左右対称ではないのであった。この鐘楼は、かつて鐘の丸にあったが、井伊直滋の時代にここ、本丸南腰曲輪「お鐘の台」に移設されたと。今でも1日5回 鐘を鳴らしているとのこと。鐘楼の隣にあるのは聴鐘庵と言う茶屋。有料でお抹茶がいただけるようだ。本丸にそびえる天守を目の前にした最後の門が重要文化財の太鼓門櫓。 太鼓門櫓を城内側から。この門櫓は、建物の背面の東壁面が開放され、柱間に高欄(手すり)を設置して1間通りを廊下にしている。櫓にはたいへん稀な例で、一説には名称となっている「太鼓」が櫓の中に置かれ、その太鼓の音が広く響くための工夫とも。そして天守閣に到着。こじんまりした彦根城天守がお目見え。 天守は3階3重、つまり3階建て3重の屋根で構成。規模は比較的小ぶりですが、屋根は「切妻破風(きりづまはふ)」「入母屋破風(いりおもやはふ)」「唐破風(からはふ)」を多様に配しており、2階と3階には「花頭窓(かとうまど) 」、3階には高こう欄らん付きの「廻縁(まわりえん)」を巡らせるなど外観に重きを置き、変化に富んだ美しい姿を見せていた。 本丸からの眺め。琵琶湖が見えた。中央の白の建物は彦根ビューホテル(旧彦根プリンスホテル)。彦根から6km、琵琶湖の真ん中に浮かぶ多景島が見えた。元は島内に竹が多く自生していることから「竹島」といっていたが江戸時代に荒神山から土を運び植林。木が成育すると島を眺める方向によって多様な景色に見えることから多景島と呼ばれるとのこと。1655年(明暦元年)に長浜・妙法寺僧慈雲院 日請上人が島内に日蓮宗見塔寺を開寺。島内全域が見塔寺の敷地になっているとのこと。
2015.05.30
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この日は明石にある我が事業所へ。そして明石から翌日の仕事場の彦根まで同僚運転のレンタカーで向かう。第二神明道路を利用。前方に明石海峡大橋が見えて来た。伊川谷JCT手前。兵庫県神戸市の神戸長田トンネル手前。阪神高速31号神戸山手線のトンネル。すぐ横に新湊川が流れる。そのため、新湊川の川底すれすれの所を通る為、水底トンネルとみなされ、危険物積載車両の通行が禁止となっているとのこと。右手奥に神戸ポートタワーが見えて来た。和楽器の鼓を長くしたような外観(双曲面構造)が美しい。阪神高速3号線を進む。 名神高速道路へ。 大津SAのハイウェイレストランでトイレ休憩。桂由美プロデュースの恋人の聖地 びわ湖水面から約80mの高台に位置していると。日本一の大きさを誇るびわ湖と近代的な街並みの大津市街地が眺められた。 そしてそろそろ日没。 彦根に向けて車を進める。 西の空の夕焼け、そして田んぼの水面に映りこむ。 前方に近江富士が。標高432mの滋賀県野洲市三上にある三上山(みかみやま)。和歌にも詠まれた由緒ある山。紫式部が「打ち出でて 三上の山を 詠れば 雪こそなけれ 富士のあけぼの」と詠んだように近江富士という愛称があるのです。彦根で名神高速道路を降りる。今宵のホテルからはライトアップされた彦根城天守閣が。彦根城は国宝。他には姫路城、犬山城、松本城、そして今回認定された松江城。同僚と夕食に出かける。旧彦根町の説明板。彦根城下 親町のひとつ 城下町建設以前に彦根村があったことから [彦根] は彦根山に祀られていた活津日子根命(イクツヒコネの命)に由来。郷土料理屋に入る。滋賀県の郷土料理、鮒寿司(ふなずし)を楽しむ。独特の香りがあったが、卵の部分はチーズのような香りと食感が。こちらは禁止されている生レバー。いや実は滋賀県名産の郷土料理「赤こんにゃく」。巷では生食NGになり消えてしまった”レバ刺し”をイメージして作られた「レバ刺しこんにゃく」?表面が通常のこんにゃくよりも多少ツルッとしていましたが、普通のこんにゃくでした。郷土料理を楽しみ、ホテルに戻る。ライトアップされた石垣と桜の新緑が内堀の水面に映って美しい光景。ホテル前庭もライトアップ。土産物売り場には人気の「ひこにゃん」が。孫に一つを購入。 フロント近くの壁の彦根城のポスター。6月に入ると「天の川ほたるまつり」が開催されると。そして我が部屋に。
2015.05.29
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我が家の近くの「わいわい市 藤沢店」に行ってきました。店内には各種の色とりどりの紫陽花(アジサイ)が販売されていました。 花(萼)の色はアントシアニンという色素によるもので、アジサイにはその一種のデルフィニジンが含まれているのだと。これに補助色素(助色素)とアルミニウムのイオンが加わると、青色の花となるとのこと。アジサイは土壌のpH(酸性度)によって花の色が変わり、一般に「酸性ならば青、アルカリ性ならば赤」になると言われているのですが下記の如き花に品種改良されたものも。成長に従い土壌のpHを変えていくとこの様な洒落た花模様になるのでしょうか。 赤にも様々な濃さのものがあります。 白はあくまでも白。 緑から赤への変化。
2015.05.28
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我が趣味の養蜂場のある農園のニセアカシアの開花の状況です。和名はハリエンジュ(針槐)。日本には1873年に渡来したとのこと。 花から上質な蜂蜜が採れ、有用な蜜源植物であることを知り、苗を購入し植えつけたもの。 畑の境界で白い房状の花がいくつもぶら下がっているのを見上げました。菜の花、サクラ、レンゲと春の花が一段落し、群れの数が増えてきたこの5月に花を咲かせるニセアカシアは、素人養蜂家には重要な初夏の蜜源樹なのです。 アカシア蜜は味が上品でクセがないため、レンゲ蜜に並ぶ人気ハチミツ。 最近ではその丈夫さと繁殖力が裏目に出て、日本固有種の存在を脅かす外来植物に指定され駆除の対象にもなっているとのことですが。我がミツバチの訪花を発見しシャッターを押しましたがピンボケでした。。
2015.05.27
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1ヶ月に渡るモロッコ旅行ブログを書き続けて来ましたが、その間の身の回りの変化について書き込んで行きたいと思います。昨日に続き、一面の赤です。今年も、我が家の近くの農家の畑のクリムソンクローバが真っ赤に開花していました。夏に向かって茎を伸ばし先端に細長い真っ赤な花を咲かせていました。その花の姿からストロベリーキャンドル、ストロベリー トーチの名前も。更に別名のベニバナツメグサは「赤い花が咲くクローバー」という意味。 真っ赤なイチゴの果実に似た花穂を数多く枝先につけていました。クリムソンクローバは空中窒素の固定作用により土壌を肥沃にする緑肥作物。緑肥作物を輪作として積極的に導入することで健全な土壌が回復するのです。ミツバチが蜂蜜を作るために花から蜜を集める代表的な蜜源植物なのです。我が家の西洋ミツバチ嬢も、このクリムソンクローバの畑を見つけて訪花していること間違いなしです。そして我がミツバチ?を発見。そしてこの畑は既にこのクリムソンクローバを漉き込み、新たな農園の準備が行われているのです。
2015.05.26
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1ヶ月に渡るモロッコ旅行記を完了し、再び「徒然なるままに」毎日の我が身の回りの出来事を「パソコンにむかひて、心に移りゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくって」行きたいと思っています。週末に早朝に目覚め、我が部屋の雨戸を開けると、東の空が真っ赤に染まっていました。早速、カメラを片手に玄関の外に出て、刻々と変わっていく東の空の姿を追いかけてみました。モロッコのシャウエンの「青」も印象的でしたが、我が家の「赤」の姿も負けてはいなかったのです。ややカメラの絞りを調整して撮影。 場所を移動して。 鉄塔の黒き幾何学的な直線美。 鉄塔のトラス構造も理解できたのです。 この写真を見た妻からはノルウェー出身の画家ムンクを代表する有名な絵画「ムンクの叫び」を想いだしたのか「叫び」が聞こえてきそう と。 旧ドリームランドの高層建築物ホテルエンパイア。ややピンボケ。今は横浜薬科大学の図書館棟。 赤く染まった雲のアンジュレーションの美に感動。 遠く日本大学の校舎も赤く染まりだしました。 いつまでもこの「時の流れに身を任せて」いたかったのです。これぞ「早起きは三文の徳」いや「早起きは値千金」 。
2015.05.25
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まずはカタール・ドーハまでの飛行機QR1398便:20:15発のチェックインを各自済ます。このツアーをずっと案内してくれたモロッコ添乗員のマッスルール(マスオ)さんにお礼の挨拶をして別れる。これぞ一期一会。そして出国審査に。出発時間まで、免税店を散策し、レストランで旅友Sさんとビールを一杯。 そしてカタール・ドーハまではA300・通路側席で定刻出発。最初の機内食後はモロッコ国内を2200km移動した疲れも重なりうとうとと。3人席を利用して横になることが出来たのであった。そして再び爆睡。気がつくと既に飛行機はエジプト上空を通過し、紅海 からサウジアラビア上空に。そして着陸前に2回目の機内軽食。 飛行機は早朝5:45にカタール・新ドーハ国際空港着。ここからは飛行機を乗り換え羽田空港へ。新ドーハ国際空港での基本的な乗り継ぎ手順は以下の4ステップ!STEP1 空港でチェックインした際に黄色(乗換えは黄色)の切符入れを渡される。 (目的地がドーハなら青色)STEP2 ドーハ空港へ到着したら「Transfer」の看板を探す。STEP3 電光掲示板で乗り継ぎ便の出発ゲートを確認する。STEP4 出発ゲートまで移動する。以上極めてシンプル。 往路と同じく、黄色の巨大な熊のぬいぐるみの前で添乗員の説明を聞く。 帰国便は7:20発QR812便。帰路も最新のBoeing 787便。 後部座席はかなり空いていたため、座席を移動し、窓際3人席を独り占め。定刻の07:20に羽田空港に向けて飛び立つ。 最初の機内食。スーパードライをお代わりし再び爆睡。帰国後の時差ぼけを防ぐため、日本時間に合わせて極力睡眠をとるのが私のやり方。時にはドリエルの服用も。 そして気がつくとバングラデシュの首都・ダッカ上空。 2回目の機内食は和食料理が。 中華人民共和国江西省の省都・南昌市近くを通過。 眼下には格子状の道路の照明が。 上海上空へ。仕事で何回か訪問した無錫、上海上空を通過し東シナ海へ。 そして1時間後には日本上空へ。長崎空港上空を通過し有明海を通過し熊本県へ。 後はいつものコースで大島上空へ。 房総半島を横断し東京湾上空へ。 そして羽田空港へ着陸。時間は22:50。 出国手続きも簡単に終了し、モロッコ・カサブランカ空港で預けたトランクも無事回収。旅友、添乗員に挨拶し税関を通過し帰路へ。旅友のSさんは駐車場に迎車依頼のTEL。私はレンタルWIFIの返却場所へ。そしてSさんの車で45分で自宅に到着し、今回のモロッコ旅行は無事終了したのでした。 モロッコ国内を下図の赤いライン2200kmを8日間でバスで突っ走るツアーであった。 モロッコの自然の大きさ、厳しさ、美しさ、人々の素朴さ、ひたむきさ、建物、子供、ほこり、匂い、溢れる色…街も田舎も砂漠も、男も女も子供も老人もそれぞれの魅力一杯の旅であった。モロッコの8箇所の世界遺産のうち1.エッサウィラ旧市街、2.マラケシュ旧市街、3.アイト・ベン・ハドゥの集落、4.フェス旧市街、5.ヴォルビリスの古代遺跡の5箇所を訪ねる旅であった。各世界遺産を訪ねその歴史に思いをはせ我々と同時代を生きるモロッコの人々と交流し、体感した旅であった。世界遺産はモロッコという国をより味わい深いものにしていたのであった。1.エッサウィラは旧市街は、15世紀にポルトガル人によって建設され、当時はモガドールと呼ばれていた。街は西アフリカ沿岸におけるポルトガルの貿易と軍事の拠点として発展したのだ。そのため、この街はポルトガル、フランス、ベルベル人の建築様式が混在していた。2.マラケシュ旧市街は11世紀後半にムラービト朝の都として建設された街。旧市街の中心に位置するジャマ・エル・フナ広場では、連日たくさんの屋台がひしめき合い、広場の各所の曲芸師達が大道芸を繰り広げ、昼夜を問わず大勢の人で賑わっていたのであった。3.アイト・ベン・ハドゥの集落は、要塞として建設され集落全体が赤褐色の土で建設されていた。大地の色と一体化した建物と点在する草木の緑が独特の景観を生み出していた。そして危機的な遺産であることも実感したのであった。4.フェス旧市街の9世紀後半に建設されたカラウィーン・モスクはイスラミック・カラーである緑色の屋根をいただき、北アフリカにおける最高学府としてイスラム世界に広くその名を轟かせたのであった。そしてタンネリのなめし皮染色職人街の作業場には染色用の桶が並び、多くの男たちが3Kの中、懸命に働いていた。5.ヴォルビリスの古代遺跡は、モロッコ最大のローマ遺跡。広大な敷地に修復された公共広場、カラカラ帝の凱旋門、ユピテル神殿跡などが点在し崩壊したままのものも多いが、床面のところどころに鮮明なモザイクが見事に残っており感動の連続であった。そしてモロッコ観光で最も人気の高いサハラ砂漠エリアを訪れ、早朝のらくだツアーにも参加し場所や時間によって千差万別の表情を見せるサハラ砂漠の光景を堪能したのであった。モロッコには子供の多いことも実感出来る旅であった。15歳以下の人口の割合はモロッコ28%、そして日本13%と若い国であることを街の光景からも実感したのであった。しかし、平日の昼間に、特に農村部に多くの子供たちの姿を見かけたのであった。就学率の低さ、国民の識字率の低さがこの国の大きな課題であることも実感できたのであった。出発前には、過激派組織「イスラム国」(IS)の事件も頻発し、安全に対する心配もあったが現地では危険を感じる時間はまったく無く、親日的なモロッコの人々に出会う事が出来たのであった。女性添乗員を含めて25人のツアーであったが、女性人15人が皆賑やかであり、男性人はそれに着いて行くのに精一杯、しかし全員がpunctualであり、集合時間に待たされることが全くない楽しい和気藹々の旅になったのであった。それにしても歌にもある『♪♪ここは地の果てアルジェリア♪♪』の先にあるモロッコへの遠い旅であったのだ。帰国後1ヶ月に渡りこの旅のブログを毎日書き続けて来た。旅行記でもあるが、ある意味では自分のこの旅に対する備忘録として、多くの写真から旅の思い出、モロッコの人そして風景を懐かしく思い浮かべながら、なるべく詳しく書き続けたいと思っていたのであった。そして次回の旅行は、『ブータン』と旅友のSさんの口から。 ---------------------------完------------------------------------
2015.05.24
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美しき街ラバトの大西洋岸にあるAxis Shouhada墓地。遠くassounaモスクのミナレットも見えた。この墓地の前にあるレストランで昼食。 レストラン Borjeddar。エントランスの装飾は見事。 スープはハリラ。メインディシュは白身魚のフライ・野菜添えとクスクス。レモンを絞っていただきました。アイスクリーム。 トイレ、赤いマークで示されていますが「homme」はフランス語で「男性」。間違えそうになったのは私だけ?。私の頭の中は青が「男性」、赤が「女性」。ラバトビーチの白き灯台。その後ろにモロッコ国旗が旗めいていた。 この日の大西洋は風で荒れていた。 ラバトの対岸のサレのメディナ。高い塔がグランモスクのミナレット。海岸にはカフェも。人出はほとんどなし。 ロッテンバーグ砲台 (Fort Rottembourg)。1860年代にドイツ人技師Rottembourgによって建てられたと。大西洋に向かって2砲が備え付けられていたとのこと。しかし使われた事はなかったようだ。波乗りには最高の波。 大西洋の白き波をバスから楽しむ。この先にはアメリカ大陸が。 N1号線のランドアバウトの交差点には噴水が涼しげ。 ラバト市街のミナレット。 道路脇のポールには5個の大小の星が。 A3号線料金所を通貨。 飛行機が低空に。飛行場が近づいて来た事を実感。 ムハンマド5世空港が更に近くなってきた。 そして空港に到着。 「AIRPORT MOHAMMED V」の文字が。バスからトランクを降ろし、このツアーでずっとお世話になった優秀なドライバー、そして毎朝一番に水のボトルを配ってくれた補助員にお礼の挨拶を。
2015.05.23
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バスの車窓から三角のムハンマド5世廟と長方形のハッサンの塔が見えて来た。モロッコの首都ラバトは1912年保護領になり、フランス総督リョーティ将軍によりフェスからラバトへ遷都された。日本の大正2年。ムハンマド5世は1957年から1961年までの国王でフランスからモロッコの独立を勝ち取った国民的英雄であり2代前の国王。このムハンマド5世霊廟には、ムハンマド5世の2人の息子であるハッサン2世とその弟アブドゥラー王子の棺も収められていた。ハサン2世は1999年に埋葬されたとのこと。ムハンマド5世廟正面。ムハンマド5世の霊廟は、王宮とは別のラバトのもう一つの魅力であり、ラバトを訪れた者は是非とも訪れたい場所であると。 それは、アラウィー王朝の建築様式をほぼ完璧に今に伝えるものというだけでなく、王家の特筆すべき三人が最後に安らかに過ごした場所でもあるから。ここでは、観光客も地元住民も王室に対してだけでなく、緻密に、かつ非常に美しくデザインされた廟への尊敬の念を表すことができるのだと。ここムハンマド5世霊廟は、墓として、またモスクとして、一般に公開されているモロッコ国内に存在する、ごくわずかな場所の一つであると。 外観も豪華。門の上には黄金輝く金属装飾品が。 騎馬に乗った2人の衛兵が守る入口から中に入る。 遠足のモロッコの子供達も。 警察官にカメラを向けてはいけないが、衛兵には大丈夫と。 何とか廟に15時前に到着できた為に入場が出来たのであったが、高速のN1号線で追い抜いたバスに乗っていた別の日本ツアー仲間の姿は廟内で見なかったのであった。我々の旅程も入廟せず外からの見学になっていたが、15時前に到着できたので幸い中に入れたのであった。ドライバーと添乗員に感謝。廟では入口から入ったところが2階の回廊と繋がっており、入廟者は眼下に棺などを見たり、写真を撮影することができるのであった。確かに、ここまで公開し、誰でもが入館でき、写真を自由に撮れる霊廟は、今回のツアー全体を通じてここだけ。しかも、今回のモロッコ観光では、あらゆる王宮、霊廟、モスク、ミナレット、神学校などが異教徒の我々も見学可、しかも拝観料ゼロのようであった。これも大きな驚き。廟の中にはムハンマド5世の棺が置かれているが遺体は地下に葬られていると。両角の石棺は左が弟のアブドゥラー王子、右が前国王ハッサン2世の棺とのこと。周囲の壁や天井には精巧な装飾が施されていた。天井の装飾。モロッコの伝統的な建築技術と彫刻が美しく調和。棺の部屋の壁4面にはモロッコ国旗が掲げられていた。 中央のムハンマド5世の棺。シャンデリアに照らされ白い大理石が映えて美しかった。 壁上部の装飾 壁のモザイク そして15時になり我々も廟の外に出され入口の扉は閉じられたのであった。約10分の煌びやかで厳かな霊廟内部の見学であったが大満足。 広場からのムハンマド5世廟。 同じ敷地内にある未完のミナレット(尖塔)『ハッサンの塔』1195年にヤークブ・マンスールがモスク建設に着手したが、その4年後死亡により工事は中断、高さ88mになるはずあったが、未完でも44mと。 この地に4万人収容可能の礼拝堂が存在したが、1755年のリスボン大地震(ポルトガル)で崩落。現在は名残の柱が残っているのであった。イスラム建築のムハンマド5世廟の建物の壁。 建物への入り口も見事な彫刻が施されていた。ハッサンの塔は改修工事中で塔の周囲には工事用足場が。 西側の壊れた塁壁と残された柱がデコボコと。 工事中で無ければ、下の絵の如き外観が見ることが出来るのであった。このミナレットは、カサブランカにあるハッサン2世のモスクの塔、マラケシュで見たクトゥビアの塔(67m)、そして以前訪ねたスペインのセビリアのヒラルダの塔(93m)とともに、世界で最大級の高さ44mを誇っているのであった。ハッサンの塔側からムハンマド5世廟を見る。大理石の柱の本数は360本程と。ムハンマド5世廟と対称の位置にある白き建物。 こちらは霊廟の建物ではないので、緑の角錐の屋根はない。壊れた塁壁の場所が西側の門。 敷地の周りにある塁壁。城壁に穿かれた足場用の穴はハトの巣にもなっていた。 先ほどの白き建物を斜めから。 見学を追えバスに乗り込みカサブランカに向かう。大西洋に面してメディナ(旧市街)の城壁が見えた。ウダイヤのカスバ。アル・ムワッヒド朝に築かれた城壁を利用して、17世紀に建造された城塞だと。 この向こうは大西洋なので港を守る城だったのであろうか。この城壁の中にあるウダイヤ庭園は、スペインのグラナダにあるアルハンブラ宮殿に似た造りで、アンダルシア庭園の傑作の一つと言われていると。
2015.05.22
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この日も早朝起床。部屋の窓からは未だ街の灯りが。 そして時間がたつと、明るくなり、前日迷い込んだ「青の迷宮」が視界に。 ラバとに向けてバスはR412からN13号線へ。ケブバッシェ(khebbache )手前の小川。 N13号線の高原の田園地帯をバスは進む。 Moulay Bouchtaダム湖。 ダム湖の周りは緑一色。山の斜面にはポツポツと民家が。 どこかで見た山に似ている山が。 車窓から山並みの景色を楽しみながら進む。 山裾には白き街並みが。 この村は白で統一されていた。 街の入り口に立てられた門柱。 車窓左手に湖が。 タンジェをはじめとした北部一帯は、昨今工業地帯になっている。山の尾根一帯に風力発電のための風車が回っていた。 丘の斜面には青い花が一面に。 バスは地中海に面したタンジェ方面に向かう。タンジェは人口は、約67万人。ジブラルタル海峡に面した港町で、スペインやジブラルタルなどから多くフェリーが行き来し、国際都市として栄えている都市。 地中海が見られるのではと思ったが、バスはタンジェには行かずに、手前でN2号線から左折し高速A4号線に車は進む。高速A4号線とN2号線が交差。 建設途中のマンションか?それにしても柱が細いのであった。 海岸沿いに火力発電所?らしきものが。 バスは高速A1号線でラバトに向け大西洋岸を南下する。 途中、ドライブインでトイレ休憩。 モロッコの「STOP」の道路標識。このモロッコ旅行でのバス。 安全運転のGOOD DRIVER 。大西洋に注ぐ大きな川、セブー川。川岸では馬の放牧が。 ジャガイモ、イチゴがビニトンで栽培されていた。強風に煽られたのか?、それとも人力で剥がしたのか?同じ行程で羽田空港から出発した、他者のツアーバスを追い抜く。これが後での勝負を決めたのであった。 ラバト市内に入り、モロッコ国旗がはためく。ラバトは、モロッコ王国の首都。カサブランカ空港から北に100km、ハイウェーをおりれば豊かな緑とハイビスカスの色彩が美しい行政都市、首都ラバト。街はあちらこちらに歴史を感じさせるカスバにとり囲まれ、その内側はメディナと呼ばれる居住地区になっているのであった。ブー・レグレグ川 。ラバトはこの川の河口に開けた都市。しかし都市の規模としては、カサブランカに遠く及ばないし、知名度も低いのでは。
2015.05.21
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青の階段も見事な陳列棚に変身。壁の薄い青と階段の濃い青のコントラストが美しい。色の溢れる物入れ。 建物も上半分が青ではなかったりする。ビルの2Fには連絡通路も。その下を進む旅友。 狭い路地の上には向かいの建物とをワイヤーで結び洗濯物が。そして壁には織物が垂れ下がっていた。やはりここにも、洗濯物さえもアートに見えてきてしまうほどの世界が。シャウエンの様々な色の塗料が袋に入っていた。 ピンクは室内用か?青の街はこの塗料で。 新芽の出た葡萄の蔓が狭い路地の上に。そして赤のモロッコ国旗が。グリーン、そして赤との相性も抜群。ベルベル人によって開拓されたのが街の始まりでレコンキスタ(国土回復運動)が盛んだった時代に、スペインを追われたユダヤ教徒やイスラム教徒がこの地に住み着き、街を再建。その時にユダヤの装飾である青に染められたと。大半のユダヤ教徒はイスラエル建国時にイスラエルへ移住。ちなみにイスラエルの国旗のデザインは白地に青。なるほど!!リヤド(個人の邸宅を改造したプチホテル)に立ち寄る。路地の中の小さなドアを開けると奥はびっくりするくらい広い。中庭にパティオ、3階建てのリヤド。 リヤドというのは、もともとは「中庭のある家」という意味のアラビア語。壁のステンドグラスもシンプルではあるが美しい。 天井にも。 床には五芒星ではなく八芒星のモザイクタイルが。 青の星も八芒星。クリスマスツリーの飾りでも見たことがある星の姿。静かな空間の先にはイスラムの窓が。 青の街の片隅の老人。街を歩くと道ゆく男性のほとんどがフード付きの長いコートを着ている事に気づく。下の写真に写っている男性もそうだが、これはDjellaba(ジェラバ)と呼ばれるベルベル人男性向けの伝統的な民族衣装。様々なデザインのものが土産物屋さんでも売られていた。フードの尖っている部分がまるで魔法使いのような雰囲気を醸し出し、シャウエンのおとぎ話のような紺碧の世界をよりいっそう非現実的なものにさせてくれるのであった。そしてウタ・エル・ハマム広場に出る。ここにはカフェ、土産物店が軒を並べていた。 南側にはカスバが 。そしてグラン・モスクが。中心には噴水と水のみ場が。レストラン 『CASA ARADIN』。我が家にいた猫にそっくり。 カフェのテーブルも青、青、青。店の店員の青年二人と雑談。見事な日本語で会話する青年にびっくり。旅友の女性と記念撮影。 Riad Assilah(中庭のあるホテル)の入り口。 再びカスバ。 壁には青き街の絵が描かれていた。 そして青の迷宮を後にしバスに向かう。メディナから静かな空間に戻る。長い観光の1日、青の迷宮の散策も終わり、ホテルに到着。旅友は皆、「青」に染まったか「青息吐息」でバスを降りる。ホテルからのシャウエンの夜景は旅の疲れもありピンボケ。そしてアルコールを部屋で楽しみ「ツイン ベッド」でそれぞれに爆睡。
2015.05.20
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更に『青と白の迷路』を進む。扉に箒刷毛の如きものがぶら下がっていた。何かのお呪いそれとも販売品?『厄を払い落とす』?。 ここにも多種の土産物が陳列されていた。 山の斜面に建つ街はいたるところに階段があり、その造りが青の美しさを際立てていた。足元から天井にかけて青~ブルーとカラーが切り替わっていたり、カラフルなプランターが置かれたりと住民たちのこだわりも感じられたのです。カーテン?の青のアンジュレーションも青の街を演出。 賑やかな表通りから離れた細い路地にこそ、青の街の神髄が。 街の決まりで、先が行き止まりになっている路地は地面も青に塗ることになっていると現地ガイドから。人気を避けて袋小路に身を置けば、そこには紛れもなく我々だけの青の世界。青の壁には絨毯が。もはや土産物や洗濯物さえもアートに見えてきてしまうほど綺麗な街並み。しかし、ここには確かに現地の人たちの日常がある。それもシャウエンの魅力。 まるで町全体の建物が『氷の世界』の如し。世界中の旅行者から「一度は訪れたい。」と言われるほど、注目されている街。マカロンの如き菓子を楽しむ。ここにも フランスの香りが。青のランプに照らせれた雪洞『かまくら』 の如き光景。青の拘り。 壁にも拘りの刺繍が。 地面も青に塗られており、先が行き止まりになっている路地。その先には青空が。子供の屈託のない顔は世界共通。 オリーブの古木。 青い壁に映った影も芸術品。 青のメルヘンの世界。歴史を感じるミナレット。 緑と青の穏やかな空間と時間がこの場所には。機織りの実演が。そして青の縞模様が完成。煙突も青。これもイスラム芸術か?再び真っ青なシャウエン・ブルーの狭い路地に迷い込む。
2015.05.19
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遅い昼食後はバスに乗り込み、青い街シャウエンのメディナ散策に向かう。車窓からユニークな形の青の民家が。 ラウンドアバウトの中心には見事な芝生が美しく管理されていた。 『シャウエンホームセンター(centre d'accueil chefchaouen)』のフランス語とアラビア語の文字が。 新市街のムハンマド5世広場でバスを降りる。青く塗られた新市街も遥遥シャウエンに来たのだと言う気分にさせてくれたのであった。何枚もの広場の壁画も青一色でシャウエンの街並みを描いていた。 薄いブルーの瀟洒な建物。角にはモロッコ国旗が旗めいていた。 ハッサン2世通りのシャウエン最大のシディ・アリ・ベン・ラシッド・モスク。 シディ・アリ・ベン・ラシッドはこの町の創始者であり守護聖人とのこと。タクシーももちろん青色。モロッコには、市内外とも走る大型タクシーのグランタクシーGrand Taxiと、市内だけを走る小型タクシープチタクシーPetit Taxiの2種類が。そしてプチタクシーは、街によって、車体の色が違ったのです。フェズとカサブランカは赤。メクネスは水色、マラケシュはクリーム色、・・・・。同じく新市街にある高校とのこと。メディナへの入り口アイン門より散策開始。メディナに入ると多くの土産物屋が並んでいた。巧みな日本語で声を掛けてくる若者があちこちに。 シャウエンの街を一望できる場所にあったモニュメントがマグネットになり売られていた。 そしてひたすら『青の街』に迷い込む。ブルーに染められた入り組んだ街 モロッコのシャウエン。ブルーにも濃淡があり、それに陽光が注ぎ込む。 入り口の扉の模様もユニーク。 眩しいくらいの青!この路地の建物の扉ひとつひとつが不思議な世界へと繋がっている気がして来るのでした。 青の濃淡も意識的に。 階段も美しい。 水色、深い青、アイスブルーなど、いろいろな青で彩られた街。 この扉の模様もイスラム世界。 路地裏で野菜を売る老婆の姿も。 美しい青と濃紺のモザイク模様。 日差しの影も青の世界の大切な助演者。モロッコはイスラム教徒が大多数を占める街、よって街中にはいたるところにモスクが。シャウエンではモスクにあるミナレットももちろん青色。 思わず吸い込まれそうな青の路地、そして階段。 濃茶の瓦が青のアクセントに。 自分の家の前を見知らぬ外人が年中ウロウロしていて写真撮りまくっていたらあまり良い気がしない事間違いなしではあったが・・・・ひたすらシャッターを押し捲る。すいません。人に懐いた猫がいたる所に。青をベースに商品の色で眩しい色彩のカオス。多くの旅行会社のパンフレットに掲載されている光景そのもの。 幻想的。 青と白のイスラム模様の水飲み場。扉の上の拘りのあるブルーの芸術。 リーフ地方の山中にある街だというのに、まるで水の底にいるかのような錯覚さえ起こしてしまいそうな青の世界。 地元の少年が私のカメラに向かってポーズ。
2015.05.18
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ヴォルビリス考古遺跡の観光を終え、次の訪問地、青の街シャウエンに向かう。道路脇にはウチワサボテンがいたる所に。モロッコの砂漠に生息するウチワサボテンの種子からとれるオイルはアルガンオイルを超える幻のオイルとして、現在注目されていると。なんとこのオイルを1リットル摂取する為に、100万個の種(約8トン)を必要する大変希少価値の高い最高級のオイルと。 道路標識にはシャウエン(CHEFCHAOUEN )の文字が。CHEFCHAOUEN=シャウエンとは読めない私。正式な発音は?。調べてみると正式名は『シェフシャウエン』。モロッコ人も省略して「シャウエン」と呼ぶことが多いと。これで納得。車窓には再び田園地帯、オリーブ畑が続く。 そして真っ赤なポピーが群生している田園風景。 N13をひたすら北へバスは進む。道路の両側には麦畑が拡がる。 そして車窓は一転緑から紫に。 この近くまで来ると、さすがに大小の河川が緑を作っていることが解る。 頂上に奇岩が並ぶ山。そしてその奇岩の上に逞しく育つ巨大樹木。 途中、近代的な白き街でトイレ休憩。 バナナの花が開花中。 生まれて初めて見た?バナナの花。茹でこぼしてから炒めて食べる事が出来るとガイドから。大きな濃紫の花弁に見えるのは苞葉で、根元の黄色い果指の部分が本当のバナナの花。この果指一つ一つが一本のバナナに成長し果房がバナナの房となるのだと。苞が1枚めくれあがるたびに1段の花が咲き、1房のバナナへと成長して行くのだと。またまた勉強!!旅友のSさんも、旅の疲れが出たか、バスの中で珍しく爆睡中。 モロッコ北部、リーフ山脈の懐深く、標高約600mの山麓にティスーカ山(2050m)とメッグ山(1616m)に挟まれるように佇む人口約4万人の小さな町がシャウエン。 道路脇で、お土産のシャウエンの青い街の青い扉を表現したマグネットの巨大版が我々を迎えてくれた。 ここからシャウエンの街に入るという目印。シャウエンの街を遠望できる高台でバスは写真停車。 白と青の壁が美しい街並み。期待が膨らむのであった。 バスは坂を下り、シャウエンの街中に入る。“青い宝石箱”とも呼ばれる通り、家の壁や路地が美しい青色で彩られたシャウエンの旧市街。シャウエンの街は、どうして青に染められているのか?その理由はいくつか説が。最も有力なのがその昔スペインから追われこのシャウエンに住みついたユダヤ人によるもの。ユダヤ教にとって青は神聖な色。よって家や道をつくる際に青色で染めたと。イスラエルが建国されると、シャウエンにいたユダヤ人はイスラエルへと移住して行ったが、家を建てる時に屋根や壁、扉などを青色に染める習慣だけは残った、と。その他にも、夏の暑さを視覚的に紛らわせるため、とか虫除けのため、と言う説等も。確かに涼しげではあるが…、やはり宗教的な理由が説得力あり。窓枠の幾何学的模様も青一色。 流石にコーラの場所は赤く残されていた。COCA・COLAイメージカラーはやっぱり赤でなくては。 バスは高台にあるホテルに向かってカーブの多い坂道を登る。後ろにはリーフ山脈の山々が。 途中の展望台には何故か人の姿なし。この急坂を徒歩で移動する人は少ない為か?。 モスクのミナレット。 壁は青そして青。 この日のホテルに到着。Hotel Atlas Chaouenは中心街からわずかに離れているが、シャウエンの丘の上に立つホテル。 シャウエンの街を見下ろす場所にあるが、旧市街からやや遠い丘の中腹。玄関は四角い輪郭の中にドーム型のラインが美しく青と白の BEST MIX。屋外プールもあるとのこと。 そしてホテルにチェックインし、我々のトランクを運んでくれるポーターに促され我々の部屋に入る。その瞬間ポーターから『OH!! DOUBLE BED!! ARE YOU OK?』の言葉が。部屋の中を確認すると、部屋の中央に狭いダブルベッドがたった一つ中央に。空かさず事態を理解した我々2人は同時に『NO!! CHANGE PLEASE』と。ポーターは慌てて室外そして恐らくフロントに。暫く待つと笑顔で部屋の交換をしてくれたのであった。この旅の最後のホテルでのトラブルも大過なく解決しやれやれ。一時は青くなった我々2人であったが、室内の壁も青の『ツイン』の部屋を確保し満足。部屋からのシャウエンの街並み。そして慌しく遅い昼食。サラダ、パンそしてチキンタジン料理。オレンジのシナモン掛けも美味であった。シナモンをこんなふうに使うという発想はすばらしい。しかしこの旅で感じた事の一つに、モロッコ人の甘い物好きは私達の想像を超えていること。モロッコの国教イスラム教では飲酒が禁じられているためか、老若男女を問わず、みな甘い物が大好きなのであった。そして青い街のシャウエンのメディナ散策に再びバスに乗り向かったのであった。
2015.05.17
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更に遺跡巡りは続く。デザルターの家。デザルターとは、ギリシャ語で馬から馬へ飛び移りながら2頭以上の馬を一緒に走らせる運動技術を持った男のこと。当時のサーカスで人気だった馬術。カラカラ帝の凱旋門。この凱旋門は紀元277年に建造されたと。 門の右上にはカラカラ帝のレリーフも。ガイドに連れられ遺跡の中を更に歩く。 城壁の如き壁。 巨石を積み上げ、見事に強度を保つ仕掛け。 カラカラ帝の南側の建物群の近くで、他の外人ツアー客がカメラを向けていたので私も。先ほど初めてその形に気がついたのです。何と男性の象徴が。なるほどこの場所は娼婦の館の近く。輝いていました。観光客の皆さんが触って帰ること間違いなしでした。列柱の館。表面の溝がネジれた柱の後ろにある円い窪みは、水の貯留設備のようだが庭園の池のようなものか?柱の構造はレンガを重ねて作った円柱をローマン・コンクリートで固めてあるのだと。コンクリートはこの時代から始まったと。2000年以上、このコンクリートが剥がれていないと言うことなのであろうか?それとも修復?日本の新幹線の柱と大違い、興味は尽きない。「ヘラクレス功業の家」。ヘラクレスはギリシア神話上、12の功業を果たすことに。その苦行の様子をメダイヨン(楕円の枠)でそれぞれ描写したモザイク。ヘラクレス自身の大きなポートレイト。見事に残っているモザイク。冥府の番犬ケルベロスの生け取りの場面。怪鳥ステュンパデス退治。ケリュネイアの鹿の生け捕りの場面。モザイクのある家が続く。瓦礫をどけて最近発見されたという「漁師の家」や、ギリシャ神話のバッカスを描いた「騎士の家」と残されているモザイクを見て歩く。騎士の家。お酒の神様バッカスとその恋人アリアドネを描いたモザイク。バッカスがナクソス島でアリアドネを見つけた神話の一部を描いたモザイク。北の浴場跡。浴場のサウナ跡で実演する他のツアーの現地ガイド。ディオニュソスと四季の家。丸い枠の中に四季の擬人像が描かれていた。ワインのグレープとその葉っぱを頭につけた「秋」の擬人像。ヴィーナスの家。メリティの息子とされるヒラスがニンフたちに訓練を受けている場面とのこと。月の女神ダイアナが入浴中を狩人アクテオンに見られて驚き、怒っているところ。デクマヌス・マクシムス通り。古代ローマの都市の中心部を東西に貫く基幹道路のことを指すと。カラカラ帝の凱旋門が正面に。この道の下には下水道も完備していたと。デクマヌス・マクシムス通り沿いに並ぶ柱。デクマヌス・マクシムス通りの反対側。中央はタンジェ門。振り返るとカラカラ帝の凱旋門と列柱の館。 ローマ時代が鮮やかに蘇っていたヴォルビリス遺跡の見学を終え、出口に向かって歩く。屑篭も自然派で工夫が。人工物を許さない決意が。麻紐や竹籤で固定されていればBEST。ユネスコの世界遺産、ヴォルビリス遺跡の説明がアラビア、フランス、英語で。そして階段を上る。そして再び出口=入口に戻る。ここがチケット売り場。
2015.05.16
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この日は旅行8日目、この旅もいよいよ終盤戦に突入。早朝起床し、今回も日本から持ち込んだソーメンを茹で、早朝の部屋で二人で楽しみ至福の時間を(笑)。 バスは、N4号線をこの日の最初の観光場所、ヴォルビリス考古遺跡を目指す。 車窓の両側は広大な田園地帯が拡がっていた。大西洋岸に近い場所のためか、まるでヨーロッパのような景色。途中、大きなダム湖 Barrage Sidi Chahed が車窓から。緑豊かな丘が続き、ダム湖などの風景を見ながら進む。丘には黄色の花が一面に咲いている場所も。緑が微妙に変化した巨大なモザイク模様が美しかった。これから向かう、2000年以上前の緻密なモザイク模様で有名なヴォルビリス遺跡へのプロローグ。しかしここがアフリカ・モロッコ??と。途中、濃霧によりホワイトアウト直前に。 ヴォルビリス考古遺跡に到着。フェズの西、古都メクネスから北に30kmに聳えるローマ遺跡ヴォルビリス。モロッコに現存する唯一とも言えるローマ遺跡。周囲はオリーブや小麦の畑が広がる肥沃な大地、その昔はローマの穀倉として多くの農作物がローマへと運ばれていたと。階段を下りていくと、目の前に遺跡群が広がっていた。川を渡って坂を上ると遺跡の中に。 入り口を入ると、遠く丘の上に遺跡の列柱などが見えた。1755年の大地震で大きな被害を受けたが、1874年からフランスの考古学チームにより発掘作業が行われ、現在にいたっているのだと。途中の通路にはラベンダーなど、今までに見たこと無いような花も咲いており、遺跡を見るのも楽しめたが、花も楽しめたのであった。入り口の近くにはゲストハウス、カフェテリアなどが。出土品がゲストハウスのポーチに展示されていた。そして遺跡の航空写真とMAPも。 ガイドブックより。撮影このヴォルビリス遺跡は、紀元前1世紀にマウレタニアの王ユバ2世が首都を置いたのが始まりで、ローマ時代は2~3世紀にかけ繁栄し、2万人もの人が住んでいたと。3世紀にローマ帝国がモロッコから撤退、その後6世紀には再びキリスト教徒の共同体が造られたと。7世紀にはイスラムのアッパース朝の支配下に入り、イドリス1世がここを拠点にイスラム王朝イドリス朝を起こす。しかし、息子イドリス2世がフェズを首都にするとこの都は崩壊。40ヘクタール以上の広大な場所に、ローマ時代の遺跡が保存状態も良く残されていた。 糸杉の間の前方にジュピター神殿の列柱が見えて来た。オルフェウスの邸。浴場跡か?床のモザイクの動物が綺麗に残っていた。ヴォルビリス遺跡が他と違うのは、その立地や大きさもさることながらこれらのモザイク。当時(2000年前)の状態がほぼそのままに保存されているのだと。オルフェウスが巧みに竪琴を弾くと動物たちが聞き惚れていたのだと。 多くの遺跡ではモザイク画は博物館などに移され、保管されるのですが、ここでは今でも多くのモザイクをこの遺跡の中で見ることができたのであった。 魚のモザイク。ローマ時代、魚は豊穣を表すとされていました。 床のモザイクの数々の動物。多くの列柱が空に向かって。 この街は紀元前1世紀ごろにベルベル人の部族がカルタゴの都市の上に築いたといい、現在にも続くオリーブの産地。街の名前の由来は、このあたりに多い「夾竹桃」。ローマ時代には4万人ぐらいが住んでいて、オリーブオイルやワイン、小麦などを生産していたと。 そして、そのオリーブ圧搾工房、製油所の石積みの建物。 石積みの建物の中には、石臼が置かれていた。 当時は家畜や奴隷を使って、オリーブオイルを抽出する作業が行われていたと。 街の中心部に入っていく。列柱が立ち並んでいた。「キャピトル」「「ジュピター神殿」と呼ばれる。立っている柱は地震で崩壊していたものを修復。ジュピター(ユーピテル)はローマ神話で天候をつかさどる神。オリーブやブドウの産地とかかわりがあるのだろうか。隣接して、太い柱とレンガでできた壁が。こちらは「バジリカ礼拝堂」といい、道を挟んで「フォーラム」という建物が。このあたりには、裁判所、集会所、市場が集まっていたと。いまはコウノトリの格好の営巣場所にもなっていた。コウノトリが我々を高みの見物。遠くまで良く来たねと。コウノトリガ子育て中。バシリカ礼拝堂に辿り着く。 バシリカ礼拝堂のメインポイント。ローマ建築において、バシリカは裁判所や取引所に用いられた集会施設。凱旋門の後につくられたバシリカ。3本の側廊と、前後方に張り出し部分を持つ造り。
2015.05.15
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なめし革職人の街タンネリへ。店の入り口が、下の写真。入り口で、店の方が、ミントの葉っぱをくれたのです。 階段を上に上がってみると、そこはカラフルなモロッコ独特の革のスリッパ『バブーシュ』 の陳列台が目の前に。そしてその横のベランダからは、皮を染める染色の桶が沢山並び、ここからの眺めは圧巻、いや自分がいつの時代に居るのかわからなくなる、まさに異世界の光景。 事前に読んだガイドブックには、生皮を昔ながらの製法でなめしているため、すごい異臭がするとの事であったが、それほどは感じなかった。そして革のキツイ臭いを、もらったミントの葉っぱの匂いを鼻に近づけ嗅いで、臭いをごまかすために使うのだと。左下に見えた灰色のゾーンは、皮についている毛をはがすために白い石灰の中に浸けているのだと。 皮をなめして柔らかくするのに、鳩の糞を使っているからだと。すなわち鳩の糞の臭いと。それにしても、いわゆる3K(きつい、汚い、危険 )の過酷な労働。色は自然の色。赤はポピー、黄色はサフラン、青色はインディゴ、茶色はザクロの葉、黄色はターメリック、白は先ほどの異臭の根源は鳩の糞らしい。自然由来の染料を使った昔ながらの手作業が今でも行われているのだと。 流石に女性の姿はなかったが、老若男々が懸命に働いていた。 ここは公共の施設とのことであるが、彼らはこんな重労働をしても、日本人からすれば雀の涙ほどの賃金しかもらえないのではなかろうかと感じたのであったが。 なめし用の桶の中には、何色と表現したらいいのかわからないような、ものすごい色をした液体が大量に。染料が入った坪の上で重そうな生皮を液の中から掬いだしていた。中の液体は何年間も汲み替えられていないのではないかと思うほどに、時の流れを感じる不気味な色。胴長を履き、足でかき回している男も。 どのような動物の革なのであろうか、日干しの乾燥工程も見ることが出来た。 全てが日本では味わえない時間であったが・・・・・。そして背中の店では様々な革製品が販売されていた。店の真ん中には大きな籠の如き形をした革製品がいくつも展示されていた。革のジャンバーも色が溢れていたが旅友で買おうとする人はなし。 革カバン売り場では旅友の女性が物色していたが。 凄まじい光景のタンネリを後にし、フェズの郊外にある陶器の製作所に立ち寄る。工場に店を併設。フェズの陶器は有名とのこと。工場との塀には陶器製作の各種工程がそれぞれ陶器(タイル)で描かれていたが、これもまた見事。 ろくろを回し、土産用の小さなタジン鍋を作っているオジサン。 工場のガス焼成釜。 絵付けをする職人の姿。 若い女性も黙々と筆を動かしていた。 タイルを小さくし加工している職人たち。 細かい形に割って、削って、モザイク家具も作っていた。造った陶器をキレイに加工してピースを組み立てる。細かい緻密な作業!!そして出来上がった手洗い場。 フェズの城壁沿いをバスはホテルに向かう。 途中、旅友の女性群がお待ち兼ねのショッピングモールに立ち寄る。新しいショッピングモール”Borj Fez”ここがモロッコとは思えないほど、きれいで洒落た雰囲気。巨大なスーパーマーケット。前日もワインも購入するべく、ここをうろうろと酒コーナーを旅友のSさんと探し回ったのですが、どこを探しても無く、諦めたのでしたが・・・・。実は酒売り場は別棟にあることを、添乗員から教えてもらったのです。品数は日本より豊か。野菜売り場も色が溢れていた。 日本にはほとんど置いていないアンティチョークも。我が農園にも植えてあり、毎年紫のきれいな花が咲き楽しんでいますが食したことはないのです。今回の旅行で初めてTRYしてみましたが、味は???。 この時は、時間切れでアルコール購入出来ずにバスにてホテルに戻る。添乗員にここから歩いてホテルに帰らしてくれと頼んだが、ツアー内の行程であり『NO』の返事。素直に諦めてツアーバスにてホテルに戻る。しかし、我々の意思は固く、再び夕飯前に徒歩にてこのショッピングモール”Borj Fez”の奥にある酒屋に向かったのです。小ぢんまりとした入り口、「la cave」…洞窟??。営業時間は22時までと。店の中にほとんど客はいなかった。さすが飲酒禁止のイスラム国!!各種アルコールを見事に陳列してあった。モロッコのワインはほとんどがメクネス産。紅白のワインを1本ずつ購入。ワイン抜きは隣のショッピングモールで買えと店員が。
2015.05.14
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迷路の中で遊ぶ子供達。 人の写らないタイミングを選んでシャッターを押す。 モスクの周囲は、モスクの建物とその周囲の別の建物とが2階以上の部分でつながっていて、トンネルのようになっていた。 細い路地、まさに迷路。イスラム風の門は絵になるのであった。 可愛い猫。狭く入り組んだ道々に人と人がぶつかりそうになりながらすれ違うのであったが脇道にはこんな瞬間も。 そして再びトンネルの中へ。バスでのトンネル通過は希であったが、スークの中はあちこちで。 古都フェズにある宮殿御用達として造られたレストラン このレストランは、19世紀末に政府高官や大臣のレセプション用にデザイン、建築されたもので、完成には15年を要したと。見事な内装のレストラン。店の名前は、フランス語で、『Palais Mnebhi』 。緑が美しく、繊細な彫刻が施された柱。 白いテーブル、美しい食器 。クスクス料理を楽しみました。 パスティラ。 仕上げはミントティー。 食事の後はネジャーリン広場に移動。ネジャーリンとはアラビア語で「大工たち」の意味で、この広場には大工の仕事場があり、機械を使わず手で製作しているのだと。メディナで一番の繁華街であるネジャーリン広場にあるフンドゥーク(アラビア語で「宿」を意味)かつては1階が厩舎、2階が宿泊部屋になっていたが、現在は商店や工房が入っていると。 今は木工芸博物館(左)になっている入り口。ネジャーリン広場にある美しいモザイクで装飾された泉。 金色、銀色に輝く彫金作品も売られていた。 ザウィア・ムーレイ・イドリス廟。9世紀初めにフェズのメディナを造ったムーレイ・イドリス2世の墓がある場所。入口付近に多くの観光客が。 ここはメディナの中でも最も聖域とされているところ。かつては駆け込み寺として、ここに逃げ込んできたムスリム(イスラム教徒)は犯罪者でも保護されたのだと。ムスリムでない者は中に入れないと言うことで、正面の門から中を覗く。入口の扉の彫刻が素晴らしかったのです。その正面から脇に回ると、中に入らなくても外から祈りをすることができると言う場所に出た。そこは以前、NHKの「世界ふれあい街歩き」と言う番組で写っていた場所。NHKの番組では、毎日そこにやって来て、そこに手を当てて祈りを捧げる人の姿が映されていたがそれほどこの廟は、フェズの人達に愛されていると言う場所。この日も手を当てて祈る人が、そして撮影。 赤の絨毯も見事。 内部の天井にも素晴らしい彫刻が施されていた。「ザウィア」というのは修道院のこと。 そして壁も。これだけの細かい装飾を彫る職人の技。まさにプロフェッショナル。モロッコの民族衣装の土産物売り場。スカーフ売り場。様々な店が所狭しとひしめく。 そしてどの店も色が溢れていた。巨大な木製の円形扉。モスク?の名は?アッタリーン・マドラサ。14世紀に建てられた神学校。建物に入ると、床にタイルが敷き詰められた、小さな噴水のある中庭に。その中庭を囲むように建物が立てられているのですが、その壁に施された装飾がとにかく見事。下の部分はカラフルな色を使った幾何学模様のタイル張りになっていて、中間部分は真っ白な壁に本当に細やかな彫刻の細工がなされ、なかには透かし彫りのようになっている部分も。一番上は木で造られ、そこにもイスラム様式の素晴らしい模様が。 再び馬、驢馬?と。街中にはこんなモスクがところどころに点在。入り口の装飾がどれも素晴らしい。中もちょっと見で素晴らしかったのですがここもイスラム教の方しか入れないとのこと。ティジャニ・モスク(?)。 路地の上にはつっかい棒が。
2015.05.13
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メディナの入口となっている、フェズで一番大きな門が、1913年に建てられた、ブー・ジュルート門。外面は幾何学文様の見事な彫刻が。ブルーのタイルが彩やかな外面は、とても美しく、素晴らしいもの。 門を通してモスクのミナレットを2本見ることができ、イスラム情緒満点の写真の撮影スポット。シディ・ルッザース・モスクと、ブー・イナニア・マドラサの、二つのミナレット。 メディナの外側から見ると鮮やかなブルーのタイルで彩られた門ですが、門をくぐって内側から見てみるとタイルの色が緑に変化。一つの門で2パターン楽しめたのです。1913年に建造されたと。 ゆっくりとこの場所から、人の行きかう姿を眺めていたかったのであったが・・・・・。迷路のようなメディナで迷子にならぬようにと、我々グループの先頭は現地ガイドのアミンさん、そしてマスルールさん、最後尾は添乗員さんで前後を挟み、がっちりガードされてメディナ散策をスタート。 果物売り場で巨大イチゴを発見。赤が妙にキツイ、赤と言うより紅。肉屋。別の場所では、ラクダの肉も売っていたのであった。流暢な日本語を操るフェズ専門の観光ガイド、アミンさんに連れられ、迷路のような街を歩きまわった。 フェズ刺繍製品店へ寄り道。フェズ刺繍といえば、モロッコの伝統的な刺繍技法。表から見ても裏から見ても同じデザイン。モロッコのフェズに伝わる伝統的アラベスク文様のフェズ刺繍。表裏を同じに刺していくのでとても美しい作品が出来上がると。女性達が一針一針づづ丁寧に刺していった素晴らしい作品に。 ホテルまで今日中に届けてくれるとの事で、荷物にならないので妻と娘たちに土産として衝動買い。 この後もスークで刺繍のされたクロスを売る多くの店を見かけたのです。 狭い路地を馬や、驢馬も行きかう街。 「ブー・イナニア・マドラサ」(神学校)を見学。ブー・イナニア・マドラサは、マリーン朝で一番大きな神学校で、ブー・イナニア王が、14世紀に建造したもの。 到底人間業とは思えない、緻密で繊細な幾何学文様やタイルのモザイク彫刻が掘られた壁が素晴らしヵった。大理石が敷き詰められた中庭が、大きな木の扉の中に入ったところに。授業や祈り「サラート」の前に、学生が身を清めたと言われる水盤が、中庭の中心に置かれていた。 巨大な木の扉そして入り口の一つ一つが正に緻密&繊細な芸術品。ブー・イナニア・マドラサ神学校内部からカラウインモスクのミナレットを。ステンドグラスも美しかった。 見事な木彫。一つ一つのピースを填め込んでいったのであろう。 アラビア文字が芸術的に表現されているのであろうか。そしてこの意味は? 白の彫刻にも感動。 狭い迷路を更に進む。途中、門の如き構造物の下を通過。 ハミドさんという方のメディナの高級民家を訪問して、ミントティーをご馳走になった。 ハミドさんは流暢な日本語でユーモアたっぷりのおじさん。 今やはげてしまった自分の頭を自虐的に語るかのように、帽子を取って「サハラ砂漠!」とジョークを言って旅友にうけまくっていた。 (サハラ砂漠のように木がいや毛が生えていないことなのでろう?) 高くヤカンを持ち上げ湯をティーポットに注ぐ。 そして、ミントティーをいれながら何度も「ハイ、写真OKです」と言って写真撮影を催促。そして若い?奥様もハミドさんに促されて登場。 ミントティーを楽しんだ後は、近くのブロンズ製品の店へ。ハミドさんがこの店のオーナーではないのかなあと感じたのであったが真相は? タガネやヤスリなどを用いて彫り、表面に模様や文字を入れる見事な彫金技法を実演。カラーランプや壁掛けの美しさにカメラを向ける。 そして迷路のいたる所に精密繊細な芸術品が。 更に迷路を進む。
2015.05.12
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この日は旅行の7日目。元気で食欲も十分。この日の朝食。 朝食後、ホテルの庭園を散策。 プールの青が美しかった。 まだ時間が早いためか人影はなし。 ホテルをこの日はゆっくりの9時に出発。ガイドのマスルールさん(右、マスオさん)とこの日のフェズのガイドのMr.アミン (左)。この日の観光の最初は、フェズ・エル・バリの南側に接しているのがフェズ・エル・ジュディド(新市街フェズ)、13世紀に造られた地区。フェズの町は大きく2つに分かれ、旧市街が「フェズ・エル・バリ」、ここ新市街が「フェズ・エル・ジェディド」と呼ばれていると。王宮は新市街にある。近くにある旧ユダヤ人居住区メッラも同じ時期に造られたとのこと。先ず王宮を観光後、ユダヤ人街メッラハを通り抜ける行程。王宮の正門前の広場に立つ。国王がフェズ滞在の時に使用されるのだとのこと。王宮に着く前に現地ガイドから注意がありました。曰く、写真を撮って良いのは王宮の正門だけ、軍隊や軍施設・政府関係の写真はダメetc...。金細工と幾何学模様の美しい正門。門は大小7つあり「1週間を表す」(ガイド)という。装飾が美しい。扉はブロンズにイスラムらしい幾何学模様の細かな彫金がほどこされている。扉周りから門の壁一面にモザイクでこちらも芸が細かい。脇門。 こちらも見とれてしまう美しさ。上の緑色はベルベルカラー、その下はベルベルスタイル、一番下はムーアスタイル。タイルの繊細な模様。 門の上部の緻密な模様。イスラーム建築では偶像崇拝が禁止されているため、幾何学模様の装飾が美しいのです。ブロンズ扉の彫金の模様とタイル模様、手が込んでいます。 この彫金は下書きなしで施工したと。ブロンズは月一回レモンで磨くのだと。正門と反対側にはムーレイ・ユーセフ通りのラウンドアバウト内の噴水が見えた。 黄金の王宮の門の隙間から王宮内を覗き込む旅友Sさん。 正門わきの、何故か撮影禁止の門に向かって歩く。正門から徒歩で「ユダヤ人街」を通ってメディナ(旧市街)に向かう。ユダヤ人街メッラハのスマリン門とフェズ・エル・ジェディド通り。 建物の感じはがイスラムとはやや異なる。フェズに限らず、モロッコの多くの街は、メッラハから始まるのだと。ユダヤ人街は15世紀ごろにスペインから逃れてきたユダヤ人が居住したところ。 家屋の1階が必ず商店になっているのが特徴だという。 中世にスペインをレコンキスタで迫害されたユダヤ人が住んでいたのだと。その後、イスラエル建国後、ほとんどの人がカサブランカ等へ移住し、現在はユダヤ人ではなくモロッコ人が住んでいると。イスラームの住居は道路に向かって解放した窓は付けないので、出窓が多いこの通りは異色なのだと。花屋には多くの種類の白い花束が飾られていた。結婚式用の花束との事。店頭には不気味な原色の塊が。 餡子の様な、味噌の様な?? ネットで調べてみると、サボン・ベルディと呼ばれるものとのこと。オリーブオイルとユーカリのエッセンシャルオイルでできたねっとりとした石鹸で、ハマム(モロッコ式サウナ)での垢すりの必需品。サボン・ベルティを肌に馴染ませ、数分後に洗い流すだけでも、肌はすっきりもっちりとと。そしてバスに乗り、フェズの街並みを一望できる丘の上のボルジュシュッド要塞( Borj Sud Fortress )に向かう。 日本でいうと江戸時代にできた要塞。ここからの眺めが最高。世界一複雑な迷路の街、旧市街を一望。 ここの屋上もパラボラアンテナだらけ。 フェズ北の丘を望遠で。フェズを首都としたマリーン朝(1196-1465年)のスルタン達が埋葬されている墓地。丘に建ち,メディナが一望できるロケーション。また外敵の侵入を早期に発見し,防御も目的としたのだと。新市街方面。 南は緑の草原が広がっていた。 丘を降り、旧市街に向かう。 斜面のマリーン朝の墓地の横を通る。城壁が両側にあるフランセ通りをブー・ジュールド門に向かう。
2015.05.11
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Ait ToughachやZaidaの町を通り過ぎ、モワイヤンアトラスの山中に入る。ここではアトラススギ(Atlas Cedar)の林が続く。アトラススギはアトラス山中に自生するマツ科の高木で樹高30-35mぐらいまで生長するとのこと。既に訪れたモスクの天井、扉、柱などにも利用されていた優れた建築資材。 N13号線から分かれ、N8号線に入る。やがてアトラススギやカシ、プラタナスなどの林が続くようになり、これまでとは違った雰囲気の風景の道になる。 モロッコの軽井沢的リゾート地、イフランの街の玄関口に到着。標高1650mと。フランス植民地時代に造られた夏は避暑地、冬はスキー場の別荘地。 モロッコのスイスとも呼ばれていると。イフランの玄関口にあたる公園にあったライオンの石像、昔この辺りにライオンが生息していたという証のため造られたと。高さ2m以上ありそうな、大きな像。 現国王の大きな写真と国旗が掲げられていた。国王に関する施設なのであろうか。モロッコの現国王 ムハンマド6世の大きな写真が。ハサン2世の長男として生まれる。祖父のムハンマド5世にちなんで命名された。1999年、父王の崩御により即位。モロッコとは思えないヨーロッパ的街並み。。 イフランの街の住居の屋根には至る所でコウノトリの巣が。 子育ての真っ最中? この辺りは店もシャッターを下ろし閑散としていたがこの時期はシーズンオフなのであろうか。 ポプラ並木の実。英語でコットンウッドとも。どこの国であったか、以前旅したとき時、ポプラの白い綿毛が風に乗って空を舞い飛んでいた事を思い出したのです。。リンゴの花も満開中。 アーモンドの花かと思ったが添乗員からリンゴの花と。道路の斜面には国旗の星の、文字どうり緑の五芒星「スレイマン(ソロモン)の印章」が。 フェズの街に入る。多くの若者が歩いていたが現地ガイドから大学であると。そして暫く走りこの日のフェズのホテルへ到着。 HOTEL MENZEH ZALAGH FES。ホテルの前には白き騎馬像が。 ハッサン2世(ASSAN 2)の文字が。このホテルはハッサン2世通り近くにあるのであった。バルコニーからの眺め。下には鉄道の線路が見えた。この日はトリプルベッドの部屋を二人で利用。今夜は二人とも安眠出来そうなので一安心。(笑)水、湯の出ることを確認。ホテルの庭には青きプールが大小二つ。 モロッコはイスラム圏のため、 今回のホテルやレストランでは、アルコールを飲むことができない事が多かったのです。更に高級ホテルであれば可能だったのでしょうが何せ安い・・・・・。よって部屋で飲もうと早速スーパーマーケットでのアルコール探しに旅友と。しかしスーパーの中を探しましたが、確認できたのはノンアルコールビールのみ。残念と、マクドナルドの横を通りホテルに戻ってきたのであった。 この日の夕食。 部屋の廊下にはモナリザ??の絵画が。しかし顔が微妙に・・・・・・。 ホテルからのフェズの街並みの灯りが。
2015.05.10
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ホテルに戻り、急ぎの朝食そして部屋に戻り砂まみれになった体をシャワーで。ホテルの中庭にはプールも。 ホテル入り口部のタイルの模様も美しかった。 チェックアウトしホテルから出ると既に帰路の4WD車が待機してくれていた。 4WD車に乗りメルズーカ村を出て再びバスの待つエルフードに向かう。 2頭のヒトコブラクダの像の下を通過。ラクダには『MERCI DE VOTRE VISITE』の文字が。 勿論 Thank you for visiting の意味。 砂漠の中の砂利道を砂埃をたてながら疾走する旅友の4WD車。 途中、放牧中?のヒトコブラクダが我々の走る道路をのんびりと横断。もちろん4WD車はラクダ君の横断完了まで一時停止。 砂丘の中で暮らすベルベル人家族のテントが前方に。 ここがホテルになっているテント? エルフードに戻り、待っていたバスに乗り込みミデルトに向けて走り出す。途中、トイレ休憩を兼ね、現在、地域産業の一翼を担っているという化石工房に立ち寄る。 エルフード郊外には化石を発掘する山があり、ここで採れた岩盤はエルフードの街にある工場で、切断され、磨き上げられて製品化されるのです。町には加工工場をはじめ化石を売る店屋が何軒かあると。 こちらは約4億年前のオルドビス紀に出現した直角貝の化石(巻きが入っていないオウム貝?)。サハラ砂漠は3億5000年前までは海。そんな古い地層の中の堆積岩(大理石)の中から発見されるのが化石。ペルム紀、シルル紀、デボン紀、オルドビス紀、白亜紀、カンブリア紀なんていう遥か昔に生きていた生物のアンモナイト、三葉虫、オウムガイなどが化石化しているのです。今はもう既に絶滅した節足動物たちが灰皿や文鎮、お皿、テーブルやオブジェ、噴水などに加工され、サハラ土産となって陳列されていたのでした。それにしても貴重なはずの化石や化石がはまり込んだ大理石の石版が無造作にゴロゴロ置かれていて、その数の多さにもびっくり。こちらのテーブルの真ん中にはアンモナイトが。再びバスにのり荒涼とした大地を走る。途中、ダム湖(Barrage Al-Hassan Addakhil)が見えてくる。名前のとおり、ハッサン2世によって造られたモロッコで二番目に大きいダム湖。久しぶりの湖の青が美しかった。 バスはアトラス山中へと入っていく。ズィズ渓谷の両岸には浸食でできた独特の風貌の山々が連なり、ときどき日干しレンガの集落がオアシスの中に現れる。 羊の放牧の光景が車窓に次々と。ズィズ川に架かる橋を通過。これまでは右岸を走ってきたがここからは左岸になる。ズィズ川が大きく蛇行する場所をバスは通過。その先にモロッコで最初で最後のトンネルの通過を体験。フォウム・ザベル・トンネル(Tunnel Foum Zabel)。このトンネルはズィズ川にせり出した花崗岩の岩を穿ってフランス植民地軍が1928年に開通させたもので、それにちなんでレジオネラ・トンネル(tunnel du légionnaire)とも呼ばれていると。légionnaireとは兵隊さんの事。トンネルというよりは隧道か。 そして風景が一変。それまで岩肌むきだしだった山に植樹したのであろうか、濃い緑の若木が無数に植えられていた。その山々を縫ってバスは急な坂道を大小のカーブを繰り返しながらミデルトの街をめざして駆けおりて行ったのであった。ミデルトの市街地に入る手前であるホテル・カスバ・アスマ(Hotel Kasbah Asmaa)に到着。ここで昼食。 「ミデルト」とはベルベル語で「中心」と言う意味だそうで、フェズやメクネスの都市部とエルフードなどの砂漠地帯の中間点に位置している町。このホテルは名前が示すようにカスバスタイルの建物が美しかった。ホテルの横からは、遠く左手に雪を頂いたオートアトラスの山々が聳えているのが見えた。右端奥の雪を頂いたエアシ山(Jbel Ayachi)は標高3,757mで、東部オートアトラスの最高峰。鱒のホイル焼きがメインディッシュ。サフランライスも楽しめた。ここに来るまでには、荒野のような景色が続いていたので鱒料理を見て、こんなところに川などあるのかと思ったが、意外や意外、午後からの行程で、川や堰き止めて造ったダムを見ることに。 淡白な味付けで美味しかった。久しぶりの魚がうれしかった。サラダも旨かった。 アップルパイも完食。
2015.05.09
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この日はサハラ砂漠の朝日鑑賞のため5時に起床。旅友のSさんは、旅の疲れか隣の私の物音にも爆睡中。 私たちの部屋のドアを室内から。 洗面所。洋服掛けもユニーク。 6:30にフロントに集合。旅友はこの朝もpunctual。 まだまだ暗い中、ベルベル人のガイドに連れられラクダの乗る場所まで移動。ツアー仲間24人のうち21名がラクダに乗る事を希望。3名は徒歩にて大砂丘を目指す。ラクダは縄につながれていて待機中。 ベルベル人のお兄さんが誘導して、サラサラの砂丘まで移動。約30分ちょいの道のり。私もベルベル人の青年に介助してもらいラクダに乗った。ひとこぶラクダの「こぶの真上」に鞍をつけて乗るのであった。ラクダ、座って我々の乗るのを待っている時は背が低いが、立つと背が驚くほど高い。乗り降りのタイミングはまるで何かのアトラクション。前足を立てるのと、後ろ足を立てる瞬間の2回、恐怖が。何とか必死に摑まりながら、必死に振り落とされないように。 よってラクダの上からのカメラ撮影の余裕は全くなし。約30分間のキャメルライドで大砂丘に到着。ここから大砂丘の山の頂上までは徒歩にて砂漠に足が埋まる中、懸命に登る。必死に登るのだが、上というか前に出した足が、サラサラの砂に敢え無く完敗してズルズルと後退する。何度やってもなかなか登れない。そのうちバランスを崩して砂の上に 転んでしまうが何とか頂上に辿り着く。旅友も皆同様に、下に滑る体を鞭打ちキャーキャーと言いながら。日の出にはまだまだ時間はあるが、空はかなり白くなり明るさも増 して来ていた。 頂上からは、山の下で待つ我々のラクダの姿が。皆、おとなしく座って、朝日の昇る方向を向いていた。 だんだん明るくなる中で、大砂丘の稜線が美しかった。ここサハラ砂漠は、東西5,600km、南北1,700kmに渡り面積は約1,000万km2であり、アフリカ大陸の3分の1近くを占め、アメリカ合衆国とほぼ同じ面積。サハラとは、元来アラビア語で「砂漠」「荒野」を意味するのだと。サハラ砂漠はエジプト、チュニジア、リビア、アルジェリア、ここモロッコ、西サハラ、モーリタニア、マリ、ニジェール、チャド、スーダンに及ぶのだと。砂漠の砂は極めて細かい。手に取ってもさらさらと指の間からすべて滑り落ちる。先程難渋した砂丘登りで靴の中はその細かい砂だらけ。砂の上には靴底の模様がそのままくっきりと残る程砂が細かいのであった。 稜線に座り朝日を待つベルベル人のラクダガイドの男たち。なかなかのイケメンの青年も。 旅友も座ったり立ったりしながら朝日を待ったが、この日は残念ながら朝日との対面は適わなかったのであった。 日の出の時間を過ぎたとの事で、帰路へ。旅友の若い女性2人は、ラクダガイドに引っ張られながら大砂丘の斜面を滑降。私も砂丘の斜面を、殆ど真っ直ぐに下る豪快な砂走りで。走ってしまうと勢いが付き過ぎて止まる事が出来ず頭から転倒しそう。 下に降り待っていてくれたラクダと再びご対面。 全員、元気にラクダに乗り込みホテルに向かう。帰路の途中で振り返ると僅かに朝日の陽光が。皆このチャンスを逃すまいと、カメラをラクダになりながら。 このグループは6頭のラクダが連なっていた。 ラクダの上下動にも慣れて、私にも余裕が出て来たのであった。 旅友が私のカメラで記念撮影してくれたのです。 「♪~朝の砂漠を遥遥と旅のラクダが行きました~♪」。 この近くで、『数頭の駱駝と乗客のシルエットがすっかり明るくなった砂漠に長い影となって、その絵のような美しさに溜息』の筈であったが残念!!!。漸く我々のホテルが見えて来た。 私の乗ったラクダもお疲れ吟味。「今日の客は重かった、追加料金が欲しいよ!!」 の表情が。この日は風が無く、『楽であった』が風紋は美しかった。そしてラクダに別れを告げ、ホテルに戻ったのであった。
2015.05.08
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バスから降り、4WDに乗り換えるのを待っている間に、足元の道路の隅にはこれから行くサハラ砂漠を想定される様なミニ砂漠の風紋が。 5台の4WDに分乗してサハラ砂漠のオアシス・メルズーカ村にある今宵のホテルに向かう。 遠く、目的のメルズーカの大砂丘が遠くに見えてきた。 砂漠に向かって未舗装の道を疾走する旅友の4WD。メルズーカの村のホテル群を望遠で。後ろにはサハラ砂漠・大砂丘。4WDの車はほとんどが日本製の車。しかし我々の車のクーラーは何故か故障していたのであった。同乗していた旅友の女性は後部座席で暑さで悲鳴を。私のリュックから扇子を出し手渡したが・・・・。結局、砂塵が入ってくることを我慢しながら、窓を開けて突っ走ったのであった。小高い丘が展望台になっており撮影ポイント。砂漠の中を4WDに乗って1時間くらい走るとこの日のホテルに到着。砂漠と言ってもホテルまでの道は荒れ地に近い感じで砂の中を走ったわけではなかった。宿泊ホテルは砂漠のオーベルジュ(Auberge)「ダル・エル・シャノブ」。砂漠のなかにあるとは思えないほど居心地のよい洒落たプチホテル。イタリア人オーナーのセンスが生きているのか、インテリアもどことなくお洒落で色使い等洗練されているのであった。我々二人の部屋。ある程度覚悟していたが、お湯の出は全く問題なし。夕食はいつものスープ・ハリラ。 モロカンサラダ。 パンと思ったが、「パスティラ」と呼ぶ。鶏肉をタマネギ、アーモンド、スパイス等を炒めそれをパイ皮で包んで焼いた伝統料理。そしてデザートは、ナツメヤシの実(デーツ)干し柿のように甘く食べやすくて、けっこう旨かった。クレオパトラが食べたものと思えば感動しきり。 残念ながら夕焼けを楽しむことが出来なかった。天気だけは意のままにならず。深夜に漸く星空が。そして門はライトアップされていた。
2015.05.07
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バスは更にカスバ街道を通り、砂漠のオアシス、エルフードに向かう。再びR703を戻り、オアシスの村ティネリールに戻る。カスバの生活は、現在では全く不便なつくりで、最近ではそのまま廃墟になっているのを止めることが出来ない状況であると現地添乗員から。ティンジル・ Ait ijjou村を通過。家畜の飼料を積むトラック。モロッコではこれでも過積載ではないのであろうか?いやモロッコでは日常茶飯事なのであります!!川では女性たちが洗濯。大量の洗濯を終え、ロバの背中に乗せ自宅?まで運ぶ家族。この光景はいつまで見られることでしょうか?こちらの河原でも、土地の母子が川の水で洗濯中。アジアと同じように、モロッコでも川は人々の暮らしの拠り所になっているのがよく分かる風景。日本の昔話「・・・・おばあさんは川へ洗濯に行きました。・・・」のくだりを思い出す光景。 バスが渋滞に嵌る。モロッコでの初めての体験。 前方の橋を白い巨大な荷物を載せたトレーラーが先導車の後からゆっくりゆっくり進む。 荷物の白いカバーには「SIEMENS」 の文字が。シーメンス (Siemens) は、ドイツのバイエルン州ミュンヘンに本社を置く多国籍巨大企業。添乗員の話だとメガソーラー設備をシーメンス社がモロッコ政府から受注し、そのプラント機器を現場に移送中。しかしメガソーラー? 大きさからして風力発電の機器ではなかったのか!?再びカスバ街道を進む。この門にも落書きが。 カスバ街道に有った道路標識。上は「ラクダ注意」そして下は手作りに近い「シートベルト締めろ」。この標識に出ているラクダは、コブが一つのヒトコブラクダ。ヒトコブラクダとフタコブラクダには見かけの違いだけではなく相違点がいくつかあって、西アジアからこの北アフリカに分布しているのはヒトコブラクダ。フタコブラクダは中央アジアに分布していると添乗員が別の場所で説明あり。再びアラビア語の文字が山肌に。ここは赤に★のモロッコ国旗は下側に。 またまた小さな富士山が。 ここカスバ街道の両脇は岩砂漠に一面の草が。ひたすら真っ直ぐなカスバ街道。 砂漠の中に、土盛りが点々とバスから見えた。 カナートと呼ばれる地下用水路の見学に立ち寄る。カナートは地下水を汲み上げる複数の井戸を意味し、それは最終的に農地の灌漑に活用されている。カナートは山麓の扇状地などにおける地下水を水源とし、蒸発を防ぐために地下に水路を設けたもの。山麓に掘られた最初の井戸で水を掘り当ててその地点から横穴を伸ばし、長いものは数10kmに達すると。 素堀の竪井戸を覗く。階段を下りて、地下にある有料の観光用のカナートを見学。 地下水路は、20km先まで 続いているのだと。今は使われいなので、水は流れは全くなし。下流側の竪穴から光が差し込んでいた。観光案内用の赤いラクダのオブジェがかわいい。お腹にはモロッコの国旗が描かれていた。 ベルベル人のお兄さん二人がサービスに手製の楽器で音楽を演奏してくれた。 エルフードの街に入ると道路脇に再びモロッコの国旗が翻っていた。海外に旅行に行くたびに、日本ほど自国の国旗を掲げない国はないのではと感じるのは私だけ?モロッコの国旗の地色の赤は預言者モハメッドを表わし、中央の緑色の五芒星は≪スレイマンの印章≫と言って、国家の安泰や国民への加護を願う印なのだと。乾いた風景の中、黒い装束の女性達が語り合いながら歩いて行くシュールな?風景。 そしてバスから砂漠縦断の為に4WDに乗り換える場所のエルフードのホテル前に到着。 サハラ砂漠への入口の街であるエルフードは、1917年にフランス軍の駐屯地として造られた街のため、モロッコの他の街と違って、道路は広く、碁盤の目のようにまっすぐに通っていた。
2015.05.06
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トドラ渓谷は、オアシスの村ティネリールから15キロ北にある渓谷で、ロッククライマーの聖地とも言われているらしく欧米人には人気の有名なスポット。バスは狭い山道を登っていくとトドラ川が視界に入ってきた。椰子の樹の奥には赤い絶壁が。 地球の歴史を感じさせる地層があらわになった絶壁が覆いかぶさってくるような迫力。トドラ渓谷入り口の村にあるモスク、ミナレット。この山の斜面にもアラビア語の白い文字が。 断崖が次から次に、そして大きく迫ってきた。 渓谷の川は澄んだ水で気持ちよさそう。ここはラッキーウォーターと言われているらしく、この水を飲むと幸せになれるらしいとの事でしたが、まだまだ旅は続くのでじっと我慢!!乾ききった渓谷にキラキラ流れる川はオアシスという言葉がぴったり。谷間にはきれいな川が流れていて、そこでは水遊びをするモロッコ人の姿も。川をせき止めて絶壁の根元に水路を作り川の水を誘導していた。切り立った岩壁と川との景色が圧巻。トドラ渓谷に到着。入り口付近でバスを降り散策開始。高さ200メートル以上の切り立った断崖を見上げると迫力の景観。峡谷のいちばん狭いところは、左右の岸壁の間が20~30メートルほどしかない。別名「モロッコのグランドキャニオン」と呼ばれるていると。 振り返ると。 川沿いにはホテルそしてレストラン群が。地震国の日本人の私から見ると、命知らずな立地そのもの。そして、以前のツアーの旅程ではここで昼食であったとのことだが・・・。 ホテル・レストランには、5tの大岩が落ちて来て、被害を受けたため、政府の営業許可が下りずに現在は閉店になっているのだと。 また最近鉄砲水の影響で、2015年2月まで立ち入り出来なかったと。よってこの場所での昼食は無理であったのだ。もし昼食が可能であったも、命がけの昼食になったこと間違いなし。モロッコの母子がのんびりと。いずこも同じ心温まる光景。 一眼レフのカメラを持ち仮設橋を渡る旅友のSさん。増水時にこの橋は? 私は靴、靴下を脱ぎ川の中へ。オートアトラスからの雪解け水とのことであったが思ったより冷たくなく爽快そのもの。川岸には、下から水が湧き出ているところもあり楽しめたのです。私も帰国後、周囲の柵(しがらみ)から足を洗うつもりの行動だったのですが・・・・・。トドラ渓谷の最奥部。この先は車は通れず、歩いても1時間くらいで行き止まりになるとか。帰路もバスの窓から渓谷の奇岩、絶壁の姿を楽しむ。国内外の峡谷を今までいくつも見てきたが、何度見ても自然の力には驚かされるのであった。 こんな巨大な峡谷を創りだしたのはただの水の流れであるのだから。水が途方も無い時間をかけて削りだした峡谷は、どこにいってもその偉大さを感じさせてくれるのでした。 「雨垂れ石を穿つ」、「硬き岩は柔らかき水にて穿たる」。これからもこの言葉を忘れないでいたいと感じたのです。
2015.05.05
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宿泊したホテルには大きなプールが。夏場には朝から多くの観光客がプールで楽しむのであろうか? このホテルはコテージ形式であった。 朝食。 我々のツインの部屋はダブルの部屋の如し。ベッドを動かせない構造。目を覚ますと目の前に旅友Sさんの大きな顔が・・・・・。 バスは予定通り8:30にワルザザート(Ouarzazate)のホテルを出発。ワルザザートは、モロッコ中部にある人口 5.7万人(2004年現在)の都市。1920年代にフランス軍がサハラ砂漠の最前線基地として町を築いたのがワルザザートの始まり。マラケシュからアトラス山脈を越えた南側に位置する街で、サハラ砂漠への入口。ワルザザートからダデス川沿いにティネリールを経由してエルフードへと抜ける道沿いには大小のカスバが点在し、下の地図の黄色に塗った街道は「カスバ街道」と呼ばれ多くの観光客を集めているとのこと。1時間弱でワルザザート東部にあるタウリルト・カスバ(Kasbah de Taourirt)に立ち寄る。 17世紀に建造。同地方を治めた豪族グラウィ家が所有していたカスバの一つ。綺麗に補修もされ、一般公開されていると。道路を挟んだ向かい側のシネマ・ミュージアム(映画博物館) / Cinema Museum。 遠くに大きな湖の水面も見えた。ワルザザードなどを潤すマンスール・エダービ・ダム(Barrage El Mansour Eddahbi)のダム湖。カスバ街道を旅する手段は車に限られると。電車や飛行機はない。公共交通機関は専らバス、もしくはグランタクシーのみが選択肢と。カスバ街道のところどころに道の両側に門が。 この門が村が近いという目印であるとのこと。すなわち町の境界線となる看板であろう。しかし看板はあるが、360度見回しても荒野のみ。 カスバ街道N10号線のAgoumateの村のミナレットが前方に。 カスバ(要塞)の基本形を残す、アイットベンモロのカスバの近くて写真撮影の一時停止。ヤシの木に囲まれたカスバ。 一直線に続くカスバ街道。荒野が街道両側に広がる。これぞアフリカ大陸。土産物屋でトイレ休憩。 砂漠のバラも売られていた。別名デザートローズ、ローズ・ド・サハラ、サンドローズ、砂漠の薔薇・・・・・。ある種の化合物が自然現象でバラのような形状の結晶に成長した石。モロッコ・サハラ砂漠で採取された物が多く出回っていると。原産地には、人より大きい巨大な岩石のような物もあると。砂漠のバラは、水に溶けたミネラルが結晶に成長するものなので、砂漠といえども水がない(またはなかった)地域からは出てこない。そのため、「採取された場所に、かつて水が存在した証拠」としても扱われると。 この場所はケラーア・メグナというモロッコ最大のバラの産地そしてローズウォーターが有名とのこと。。この町のメインストリートは“Roses Valley”という名前が付いていると。道路脇でバラの花のブーケを売る少年があちこちに。 この地域はは5月~6月ごろがバラのピークの季節で、女性たちが花びらを摘み取り、ヨーロッパに輸出しているとのこと。一方、このオアシスでもローズオイルやバラ水として加工し、化粧品や美容製品としてモロッコの重要な産業となっているのだ。 メインストリートは“Roses Valley”には大きなバラのモニュメントがラウンドアバウト中央に。 カスバ街道の村人達。自宅に牧草を持ち帰り家畜の餌とするのであろう。ロバに乗せ運ぶ老父や大きな牧草の包みを担ぐ老婆の姿も。 ブーマルンダデスの村が前方に。 バスの前方の山裾ににアラビア語の文字が。モロッコには国花は存在しないが、国のナショナルツリーはモロッコ人的にはアルガンの木と思っていると。モロッコには国花の替わりにナショナルワードというのがあるのだと。町の周辺にある小高い丘などに、その言葉がアラビア語で描かれているのだと。三角形で上が「神」、左が「国(民)」、右が「国王」を意味していると現地ガイドより。ブーマルン・ダレスと言う村を通過。「ダレス渓谷」と言う独特な景観美の渓谷が拡がっていた。 そして再び村の境界線となる門が現れる。遠くに富士山に似た山も。 このレストランで昼食。以前のツアーとは何故か?違うレストランと。 ケバブ料理は旨かった。お代わり自由とのことで追加注文。トドラ川沿いのオアシス・ティネリール(Tinghir)。ここは、カスバ街道きっての美しいオアシスの街として知られる。モロッコ南部の人々にとって砂漠の中に出現するオアシスが命を育むために如何に大切なものであるかが良く分かる。 この高台からの景色はまさに絶景。
2015.05.04
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クサル内には写真の如く崩れかけた場所があちこちに。崩れ落ちたらしい屋根や壁の材料が土砂の状態となって積み重なっていた。この下を足早に潜る。日本では考えられない不安全な観光であったのだが・・・・。 こちらも雨でも降ればゴロゴロと赤土の塊が転がり落ちて来そう。 城砦の上に建つ塔は銃眼だらけ。換気も兼ねているのであろうか。 一方では、下の写真の如き風景を見ていると、モロッコで一番美しい村と言われている世界遺産であることにうなずくのであったが。 村の内部より見たティグレムト。クサルへの入口は大きなダミーの入口などが在り、村への出入り口は限られているのだと。村の家々は中庭のある、見張塔を持った穀物倉庫と住居が一体になった建物(ティグレムト)になっていると。 この近くまで行きたかったが、現在は観光ルートになっておらずに保存している模様。 頑張ってクサルの山の頂上の倉庫まで旅友のSさんと息急切りながら登る。長期の篭城に備えた穀物倉庫であるとガイドから。倉庫上部は最近補修が行われたようであった。頂上からのマレ川の眺望に満足、登ってきた甲斐あり。 川の両岸は緑に覆われており、以前訪れたナイル川と同様に、この川筋の両岸だけが砂漠の中の農耕地帯になっていることが理解できたのであった。旅友のSさんとツーショットで記念撮影。「怪しい二人」と旅友の女性群からの声が再び。 対岸の新しい村も見えた。かつてこのクサルに住んだ人々も、いまではこの新しい村へ移り住んでいるのだと。 城砦の崩れた穴からティグレムトを。 反対側から頂上倉庫を。城壁と塔、変わった模様の壁。そして屋根は葦葺の状態。早めの修復が急務の塔。 ベルベル人の少年か。父親とともに店番中であるが、金銭を強請っている姿も。 再びティグレムトとマレ川の対岸の新たな村が見えた。この新旧の村がマレ川の深い恩恵で成り立って来たことを実感。 現在住んでいるベルベル人(この日の現地案内人)の住居を訪問。竈の周囲は黒々と。 世界遺産のクサルの見学を終え、バスに戻る為に歩く。しかし、この世界遺産は、JUST DO ITで保存・補修作業を加速しないと子孫に残していけないことを実感したのであった。バスはワルザザードへ向かう。ワルザザード市内のMohammed VIモスクが車窓に。そしてこの日のホテルは『HOTEL PALMERAIE(パルムライエ)』 。到着時間は20時JUST。漸くハードなこの日の観光を終え、夕食そして部屋でのアルコールであっという間に爆睡状態に。
2015.05.03
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道路N9を利用してワルザザードに向かう。世界遺産アイト・ベン・ハッドゥ観光は翌日の予定であったが、この日の朝急遽変更になり、この日の最後の観光になったのであった。この為、ウナ広場での昼食を変更し、アトラス山脈越えの途中のレストランとなったのでした。バスはN9そしてN10からP1506に左折し世界遺産アイト・ベン・ハッドゥを目指す。前方に待望のアイト・ベン・ハッドゥが姿を現す。ここが絶好のビューポイントとのことで、バスは一時停車。更にバスは進みアイト・ベン・ハッドゥに到着。バスを降り、案内所でトイレを済ます。そしてこのツアーの現地ガイドのマッスルールさん(愛称;マスオさん)から世界遺産アイト・ベン・ハッドゥの説明を受ける。アイト・ベン・ハッドゥは、日干しレンガ造りの古い「クサル(要塞化された村)」のひとつで、小川のほとりにある丘の斜面を利用して立体的に造られ、大きな門構えに高い城壁で囲まれ銃眼が配置された塔を持ち、難攻不落の要塞。かつての居住者の殆どが対岸の新しい街へ移り住んでおり、現在ではベルベル人の5~6家族が住んでいるにすぎない村。また、「アラビアのロレンス」や「ナイルの宝石」などの映画ロケ地としても有名であり、1987年世界遺産に登録されたのです。 クサルに向かって歩くと、川の手前の村の中に人工の導水路が設置されていた。 昔はコンクリートの橋はなく、川を歩いて渡っていたとのこと。この日はレナ川の水量がかなり少なかった。 これから川を渡ります。川の向こうにはクサルが見えた。四隅に四角い塔はベルベル人のクサルで、穀物倉と砦を兼ねていると。カスバは要塞、砦、城郭のことで、クサルは要塞化された村のことと。 川の下流、これまでは浅瀬の踏み石を渡っていたと。水量の少ないこの日はここを渡っている観光客の姿も。土は赤いモロッコ特有の色。 橋を渡った先の河川敷のこの建物は、以前の豪雨で水位が上昇し水に浸かり破壊され、今は使用できないまま放置されているとのこと。 正面にはピンクの岩が。しかしいつ落ちてきても不思議でない岩の状況。少しの揺れでも崩れること間違いなし。だが青い空に流れる白い雲は印象的。 斜面を利用して造られた要塞。塔の上部には小さな銃口用の窓が。見張り塔も兼ねていたとか。村内の道路はまるで迷路のように難攻不落の要塞の間をぬっていた。 通路の脇の建物や壁なども守備力を固めるため、高く築かれていた。集落の最上階には、籠城に備えて食料庫が設けられているのだと。トンネルの如き迷路も。 それともある意味での関所か?通路に面した家の壁には窓がない。要塞の中の土産物にはカラフルな布も売られていた。スカーフや民族衣装なども手織りなのであろうか。窓の頑丈な鉄の格子の模様も芸術的。 倉庫の天井は木材で組んでおり、そこに細い枝や葦の様なものを並べて、その上に土を敷き詰め固めていた。天井、屋根の構造は日干し煉瓦構造の建物に共通か。
2015.05.02
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マラケシュでの観光予定を全て制覇し、バスはアトラス山脈にあるティシュカ峠を目指す。この日の宿泊地はアトラス山脈の南側に位置するワルザザード。道路脇にあるこの門は、この門の先の近い場所に村があるとの表示とのこと。大きな川であるが水量は少ない。しかし川の横の畑は川水で浸食され崩れていた。民家の一部は川に崩落。 市街地を抜けると、思った通りの一本道N9号線をひた走る。これが『オートアトラス越え』のドライブ。モロッコの道路を走っていると、同じ道路なのに制限速度が何度も何度も変わるのです。このN9号線は、デフォルト100キロ制限。ただし、集落や学校のあるエリアに差しかかると一気に60キロ制限にダウン。他にも、狭い橋に差しかかると40キロになったり、工事中のエリアに行くと20キロになったり。幸い乱暴な運転をする車はほとんど無し。日本人の感覚だと、制限速度60キロ見当のところがモロッコだと100キロ。制限速度40キロ見当ぐらいのところがモロッコは60キロか。アトラス山脈の麓の草原地帯を走る。山裾にへばりつく様な村がところどころに。 緑の草原の先に残雪のあるアトラス山脈の山々が見えてきた。 こちらも日干し煉瓦の民家が集まった村。道路の法面が崩れ、ガードレールも滑落している場所も散見された。しかしガードレールがある方が珍しいモロッコの山間部の道路。 アトラス山脈が大きくなってきた。モロッコを分断するアトラス山脈。西側には大西洋を望む緑豊かな平地、東側にはアフリカ大陸の1/3を占めるサハラ砂漠が。アトラス山脈とはアフリカ北西部、モロッコからチュニジアにかけて東西に伸びる褶曲山脈である。名称はギリシア神話の巨神アトラスにちなんでいる。西側が最も高く、東に行くにつれ低くなる。長さは2,400km。 モロッコでは標高3,000mを超え、モロッコの最高峰ツブカル山(4,167m)などがある。 14:30にこの日のレストランにて遅い昼食。この昼食代は自己負担と言う事で、タジン鍋コースを注文。まずはオリーブの実の漬物?。緑のものは生に近い食感も残っており、香りもよく味もコクがあって旨かった。そしてRICHなサラダ。竹細工の籠には大きなパンが。これも美味。 そいて牛肉&野菜のタジン鍋。頑張って完食。 そしてデザート。これはさすがに・・・・・。TAKE OUTさせていただきました。 レストランの隣はアルガンオイルショップ。数日前のエッサウィラの女性より相当若い殻剥きの女性。 この地でも人力で石臼でオイル絞り。旅友の女性の数人はここでアルガンオイルを購入。しっかり下調べをしている様子。 更に峠を目指し山を登る。小さく先ほどのレストランが見えたが周辺には何も無いことに気がつく。 先ほど上ったヘアピンカーブ。 こんな道を登ってきたのかと驚きと冷や汗と・・・・。そして漸く標高2260mのティシュカ峠に到着。 そして峠を越えてひたすら下り坂に。山の斜面に段々畑が。 イトルム・ヌーダル村の道路沿いの建物とその間にミナレットが。この地の先住民、ベルベル人が多く住む町のようである。ベルベル人は、東はエジプト西部の砂漠地帯から西はモロッコ全域、南はニジェール川方面までサハラ砂漠以北の広い地域に住んでいると。その総人口は1000~1500万人ほどと。山の斜面に王冠のごとき白き絵が描かれていた。
2015.05.01
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