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今日は大晦日、昨日30日に正月を迎えるための準備をしました。29日は「二重苦」「苦立て」「苦松(=苦が待つ)」に通じ、31日は葬儀と同じ「一夜飾り」で縁起が悪いことや、年神様をお迎えするのに一夜限りでは失礼なことから、26日~28日または30日に飾るのだと昔父から。まずは寝室にある神棚も清掃し、ごぼう締めも新たなものに交換しました。毎回どちらの向きか悩みますが・・・・・。ゴボウ締めのしめ縄は稲のワラで編んだ縄で、豊作祈願。そして橙、裏白、譲り葉のSETも鏡餅と一緒に。 <橙> 「代々栄える」ように。<裏白> ウラジロ科のシダは裏が白く、「後ろ暗いところがない」清浄な心をあらわす。 <ゆずり葉> 家系が続くことを願う。<御幣(ごへい)> 神の力が宿る紙。こちらはスーパーで購入した小型の鏡餅。 <鏡もち> 神が宿り神事に欠かせない鏡を模した丸いもち。 2段で太陽と月を象徴し、円満に年を重ねる意味もあると。玄関には注連飾りを。 そして門扉には松と輪飾りを。 大きい三株の葉牡丹の寄せ植えを玄関先に。 部屋の片付けも全く不十分ながら、なんとか・・・・・・・・。そして家の周りの掃除も済ませました。後は年越しそば、紅白歌合戦、行く年来る年、除夜の鐘です。41年余のエンジニア人生のエピローグの年も暮れようとしています。 今後も、今まで通り、知的好奇心と自分なりの価値観をもち続け、趣味の養蜂や菜園、国内や海外旅行等々さまざまな活動に意欲的に取組み、そして元気な『アクティブ シニア』として、『選べる自由』を楽しみながら残された人生を家族、知人、友人とともに生きて行きたいと考えています。そして元旦の新たなスタートの朝は、恒例の湘南海岸にて初日の出を迎えに妻と行こうと思っています。皆様、良き新年をお迎え下さい。
2015.12.31
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今月12月は私の退職に当たり多くの同僚が慰労会・送別会を催して下さいました。そして身に余る感謝や慰労の言葉も。更に花と一緒に記念品まで。私の好きな言葉『匠』の文字が箱に。中にはデジタルフォトフレームが。桜の花が描かれた漆塗りの逸品。早速、電源を入れ動かして見ました。そして高級ボールペンもケース入りで。そして金銀ペアセットの焼酎のぐい飲みもいただきました。写真を180度回転させてみると富士山に見える形状。金銀彩が、めでたさを感じさせます。また有田焼きの焼酎グラス。こちらもペアにて。こちらは高床式。皆さん、焼酎が私の主食?(笑)であることをご存じなのです。そして写真が趣味であることも。皆さん、最後の最後までお心遣いいただき本当にありがとうございました。大切に使わせていただきます。
2015.12.30
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今年も長男のパートナーのご両親が岡山から一斗缶に入った生牡蠣を送って下さいました。アルミの一斗缶の蓋を開けると巨大な殻付き生牡蠣がギッシリと。3年物の牡蠣でしょうか。表面が綺麗に洗われていました。殻には歴史が刻まれていました。この時期は牡蠣のうま味が増す時期。 牡蠣は「海のミルク」と言われ、たんぱく質、脂質、糖質、ビタミン、ミネラル、アミノ酸などの栄養素がバランスよく凝縮された食品なのです。妻が匠の技で殻を開けてくれました。もちろん生のまま酢ガキでいただきました。ケチャップも乗せました。身が殻から盛り上がったプリプリの一品。ほおばると口いっぱいに広がる潮の香りと、奥深い旨味。血液型も同じB型の妻と二人であっという間に一皿たいらげました。同僚が平塚沖で釣ってきてくれた高級魚、甘鯛も煮付けで楽しませていただきました。身は白身で、脂肪分が少なく淡白で美味。両Sさん、旬の味を楽しませていただいています。ご馳走様です。
2015.12.29
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私も今月末にて41年余のエンジニア人生を卒業することになりました。多くの同僚から慰労会・送別会をやっていただき、労いの言葉もいただきました。そしてフラワーアレンジメントを頂きました。そして別の慰労会にても。送別会場にはこんなパネルも。同僚の女性が私の趣味をご存じで作って下さいました。多くの同僚に常に支えられて来たからこそ、大過なく卒業できたと感じているのです。しばらくはゆっくりと充電し、次のステップに向けて準備したいと考えています。
2015.12.28
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少し前の話になりますが、我が家の横の農園の片隅にある八重咲き皇帝ダリアが今年は珍しく開花しました。 一重の皇帝ダリアに遅れること2週間ほどで開花の準備をするのですがこの時期に、霜が何回か降りると幹や葉が黒変し、ここ数年は開花までたどり着かなかったのです。しかし今年は暖冬?のせいか、珍しく開花してくれました。 我が家の物は丈が2~3メートル。花はピンク色で直径約10センチメートルほどの花が茎の頂上につけています。晩秋~初頭の頃、空にそびえて立つ姿は圧巻なのです。 花の一部は寒さにやられているものも。 家の近くには一重の皇帝ダリアの花はよく見かけますが、八重の物はあまり見かけません。やはり花芽が付いても開花する前に気温が低下したり、霜が降りてしまうことの方が多いからなのでしょう。 ピンクの花が青空を背景に輝いていました。今年は1ヶ月以上にわたり、一重そして八重の皇帝ダリアのピンクの花を楽しむことが出来たのです。白の皇帝ダリアの花は見たことがありますが、ピンク以外のその他の色の皇帝ダリアの品種改良は進んでいるのでしょうか?来年も八重咲き皇帝ダリアの開花を期待しながら、この株の片付けを行ったのでした。
2015.12.27
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加古川付近か? 右から男鹿島、家島、坊勢島付近。 鹿久居島(かくいじま)。 本土と「うちわだの瀬戸」を挟んで向き合う。日生諸島のみならず岡山県内でも最大の島。吉井川。岡山県東部を流れる吉井川水系の本流で、一級河川である。旭川、高梁川と並び、岡山三大河川の一つとされている。右下には昔訪ねたことがあるキリンビール(株)岡山工場が。児島湾。古くは児島半島は児島という島であった。奈良時代から始まった干拓と自然の堆積によって倉敷市・早島町方面は江戸時代初めには陸続きになり、東側に児島湾ができた。江戸時代以降、干拓が進められ児島湾はさらに小さくなったと。 岡山空港。1988年(昭和63年)に開港。滑走路は当時は2,000 m、現在は3,000 mに延長。 本四架橋。 福山工業地帯。広島空港。 1993年10月に新広島空港として供用開始。広島市内そして川がこの日も光っていた。 厳島。厳島神社を望遠で。宇部工業地帯と宇部港内(厚東川河口)をまたぐ興産大橋。 木屋川と周防灘に注ぐ場所には中州が。 北九州空港が遠くに。 そして手前は関門海峡。白島国家石油備蓄基地。白島国家石油備蓄基地は、福岡県北九州市の響灘沖合8kmに位置し、日本の石油消費量の約10日分にあたる約560万Klの原油を貯蔵する世界に例の少ない洋上石油備蓄基地。現在、基地には、貯蔵船約70万kl×8隻が係留されているのだと。相島。 面積約1.25km²、島の周囲は約8km、全体的に標高は50~70mほどの台地状をしていて、海岸の一部には海食崖も見られる島。そして海の中道上空から福岡空港への着陸態勢に。
2015.12.26
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仕事で今月12月の3回目の福岡行きとなりました。今回も羽田空港から。 眼下に見えた大黒ふ頭。 厚木海軍飛行場が。厚木海軍飛行場は、神奈川県綾瀬市と大和市にまたがる軍用飛行場で、アメリカ海軍と海上自衛隊が共同で使用している軍事基地。県内で唯一、固定翼ジェット機が離着陸できる航空施設。そして雲の切れ間から富士山の白き姿が。 山中湖。 富士山の勇姿。 ギザギザとした白き登山道がこの日も確認できた。 御殿場側の山腹は雪が少なかった。 富士川の川面が光っていた。 この日も雨畑湖がはっきり見えた。畑薙第一ダム貯水池。 茶臼岳と仁田岳。遠く浜名湖面も輝いて。 航空自衛隊小牧基地上空を通過。 遠くに渥美半島と知多半島が。 中部国際空港。 中部国際空港と知多半島。 琵琶湖上空を通過。琵琶湖大橋、守山競技場も雲の切れ間から眼下に。京都の街の中を流れる高野川と鴨川も光を浴びて。緑の多い京都御所も確認できた。
2015.12.25
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熊本・阿蘇の知人が阿蘇小国ジャージー のむヨーグルトを送って下さいました。JA阿蘇-小国郷の24軒の地元酪農家により育てられた、良質で美味しく、そして毎朝搾乳され検査した安全なジャージー牛乳で味・のど越し贅沢なヨーグルトとのこと。ほどよい酸味に仕上げられており、濃厚なコクとまろやかなのどごしでの独特の食感が。甘さが控えめなところも嬉しかったのです。そして阿蘇小国ジャージー4.5牛乳も一緒に。乳脂肪分 4.5%以上とのこと。ジャージー牛乳100%の濃厚な飲むヨーグルトそして牛乳を楽しませていただいたのです。
2015.12.24
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島根からズワイガニが送られて来ました。脚には『JFしまね 恵曇支所 大岩丸』と書かれた青いTAGが。残念ながら動いていませんでした。 よってこの日は塩茹でにして楽しみました。肉もしっかり入っていて、蟹味噌も楽しむことが出来ました。 そして親友から高級焼酎&日本酒SETが送られてきました。 本格芋焼酎『佐藤』黒麹仕込み。白麹仕込みの焼酎に対し、しっかりとした太いボディを構成できる黒麹仕込みの焼酎は、サツマイモ独特の香ばしい香りを持ちながら、サツマイモの甘味を持つという特性をもっているとのおとです。 そして山口県の銘酒『獺祭(だっさい)』。獺(かわうそ)に祭と書き「獺祭(だっさい)」と読む銘酒。一風変わった名前を持この日本酒は、山口県の岩国市周東町という小さな町から日本全国に発送されている、日本酒ファンの間でかなり話題になっている地酒なのです。純米大吟醸 磨き三割九分 の黄金の文字が。 正月に妻と一緒に楽しませていただきます。ありがとうございました。
2015.12.23
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今年も、佐賀県にお住まいの友人Nさんが、天然生牡蠣を送って下さいました。。発泡スチロールの箱を開けてみると、ギッシリと生牡蠣が詰まっていました。そして栄螺も。早速、妻が蠣の殻を剥いてくれ食卓に。この日はケチャップと酢で。栄螺は焼いてくれました。ご飯の上に載せて一枚。妻はこの写真は美しくないと言っていますが・・・・・。養殖牡蠣と異なりやや小粒の天然牡蠣ですが、ミルキーな生牡蠣の味を血液型B型夫婦で楽しませていただいたのです。
2015.12.22
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伊万里からの帰路、博多駅まで同僚の車で送ってもらう。博多駅近くで櫛田神社の近くを通ったが、30分ほど飛行機の時間には余裕があった為、急遽櫛田神社を訪ねる。 櫛田神社は、古くより博多の氏神・総鎮守として信仰を集めている神社。7月の博多祇園山笠や10月の博多おくんちなどの祭事をおこなう人気の神社。 祭神は大幡主命(おおはたぬしのみこと、櫛田大神)、天照大神(あまてらすおおみかみ)、 素戔嗚尊(すさのおのみこと、祇園大神)。天平宝字元年(757)の創建と伝える。7月1日から15日にかけて行われ、奉納される祇園山笠行事(国指定無形民俗文化財)は博多の夏の風物詩。楼門には「稜威」と大書されて扁額。これは『イツ』と読み、天皇の御威光・威勢の鋭いこと ・斎み浄められていることをあらわしているのだと。北神門の内側の銀杏の葉は散り始めていた。 拝殿に向かって進む。拝殿前の第二楼門。左右に「風神」・「雷神」の像が。 手水舎。手水舎の下の表と裏とは同じ物だが山笠の絵が描かれていた。 座牛。第一楼門を通り抜けて左側に。参拝者が触った所がテカテカに光っていた。 楼門の境内側扁額には 「博多 総鎮守」の文字が。そして多くの種類の酒樽が並べられていた。 拝殿。天正15年太閤豊臣秀吉が博多復興にあたり現在の社殿の建立寄進がなされた。 御祭神は天照大御神(大神宮) 大幡主大神(櫛田宮) 素戔嗚大神(祇園宮) 櫛田神社 山笠(表)呑取名槍黒田誉(めいそうのみとるくろだのほまれ)由緒書き。 この飾り山笠は勇将母里(もり、ぼり)太兵衛が、福島正則との飲み比べで天下の名槍「日本号」を呑み取った名場面。馬に乗った状態で盃と槍を持っています。この人物は誰? 兜から黒田長政?するとこちらは福島政則? 櫛田神社(見送り)烟満国聖帝御世(けぶりはくににみつひじりのみかどのみよ)由緒書き。 古事記に描かれている仁徳天皇が国を富ませるために課税を止めたという場面。 櫛田神社の末社、恵比寿宮。力石。 櫛田神社南神門。昔は階段下まで海が迫っていたと同僚が。 銀杏の金色の葉が青空を背景に輝いていた。 駿馬。 櫛田神社境内のイチョウは、大正7年の本樹保存記念碑に樹齢1000年以上と記載されているが、正確なところは不明。現在の直径が190cmほどであるから、1年間の直径生長が平均して2mmとすると950年となるが、普通はこれより生長はいいので1000年以下であろう。しかし600年は超しており、樹齢の古さからいっても、また樹木規模の大きさからいっても極めて群を抜く、風格のある名木。 中央に蒙古碇石。全長が2~3mの角柱状の石で、中央部が最も広く、両端がややせまくなっている。表面に粗い加工痕があり、稜線を面取りしたものもある。中央部に広狭2つの枠帯・溝が掘り込まれ、碇として固定するための工夫がみられる。 二度にわたる蒙古襲来(1274年と1281年)時に、元の軍船に使用されていた可能性は高いが、平安時代以来頻繁に来航した宋の商船に装着されていた可能性も少なくないとのこと。御朱印をいただく。 櫛田表参道にある博多町家ふるさと館。福岡空港から羽田空港へ。 雲が赤く染まっていた。 そして飛行機の機体のブロッケン現象を発見し、慌ててカメラのシャッターを。
2015.12.21
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福岡空港への帰路、名護屋浦に架かる名護屋大橋を渡る。 車窓には白き呼子大橋が姿を現した。 呼子台場みなとプラザでトイレ休憩。観光客の姿は少なかった。『イカの活き造り』 の旗が気になる。直売所の「大漁鮮華(たいりょうせんか)」では、新鮮なイカやウニ、サザエ、アワビ、アジ、タイなどの魚介類を販売。 アオリイカ、呼子では水イカが生け簀に。 牡蠣、栄螺、クロ等が陳列されていたが、時化で種類は少ないと店員が。 誘惑に負けて水イカの活き造りを1匹?注文。目の前でオジサンが活き造りを調理。 小さく切られたイカの足が動いていた。 ご飯も欲しくなりにぎりも購入。 甘味があって肉厚で美味、口の中で吸盤が吸い付いて・・・・・。呼子と言えばもちろん『イカ』。 イカの活き造りを楽しんだ後は、同僚の提案で呼子大橋を渡って見ることに。 加部島にある『風の見える公園』に到着。前方の玄界灘の中に松島が。松島は、波戸岬の3km程沖合にある。 加唐島(かからしま)の隣。 加部島ガイドマップ。 馬渡島。佐賀県の最西端である。面積は約4.24km²で、佐賀県で最も大きい島。 風の見える丘公園レストハウス松尾からの呼子大橋。 遠く白き唐津市立名護屋小学校の建物の上に名護屋城跡も小さく見えた。 レストハウスのシンボルのスペイン風の白い風車は故障で停止中と女性の係員から。世界初の浮体式潮流・風力ハイブリッド発電システムのパネルが展示されていた。三井海洋開発が開発した skwid(スクイッド Savonius keel & wind turbine Darrieus)。潮流発電と風力発電を同時に行うシステム。しかし2014年12月18日未明に水没したと係の女性から。九州電力・玄海原子力発電所が遠くに見えた。 球形の原子炉建屋の3号機、4号機が。更に車を進ませる。2015年6月30日をもって廃止した九州電力・唐津火力発電所。 唐津城が車窓に。 虹の松原を通過。長さ約4.5 km にわたって弧状に約100万本のクロマツの林が続く。 そして再び前方に福岡タワーが現れた。 福岡タワーは、福岡市早良区のシーサイドももち地区にあるランドマークタワー(電波塔)で、高さは234m。日本で1番高い海浜タワー。福岡ドームの屋根は閉鎖中。 荒津大橋を通過。環状線の一部で、天神北出入口と西公園出入口の間に位置する福岡市のランドマーク。 全高100mの塔博多ポートタワー。塔中央にエレベーターを備える。展望室の高さは70m。展望室からは博多湾ならびに福岡市街が一望できると同僚が。
2015.12.20
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佐賀県立名護屋城博物館を訪ねる。本館は、特別史跡「名護屋城跡並びに陣跡」の保存整備事業と、文禄・慶長の役(壬辰・丁酉倭乱)及び日本列島と朝鮮半島との長い交流の歴史を調査・研究・展示紹介し、日韓の学術・文化の交流拠点となることを目的として平成5年10月に開館。 入り口では韓国済州道の伝統的な石人像・トルハルハンが出迎えてくれた。 この博物館は、過去の史実を反省して、日本列島と朝鮮半島との友好・交流を目的ともしていると。チャンスンと言わ、韓国で村の入り口などに置かれる魔よけ。 名護屋城博物館ロビーに展示されていた屏風絵 「絆」 (牛丸和人・山口芳水作)名護屋小学校の校長で画家の牛丸和人氏が描いた屏風絵に、書家の山口芳水氏が「絆」と「情」を表すハングルの文字を書き込んだものとのこと。 特別展示として日韓やきもん交流展が開催中であった。文禄・慶長の役を契機に、朝鮮半島から様々な陶磁器の技術が唐津に伝えられ、その後唐津焼は飛躍的な発展を遂げたのだと。常設展示会場に。名護屋城博物館の常設展示は原始・古代から近現代にいたる日本列島と朝鮮半島との交流の歴史がメインテーマ。名護屋城・城下町復元模型。 肥前名護屋城図屏風。築城は1591(天正19)年に始まり、諸大名による 割普請 によってわずか数ヶ月で完成。面積は約17ヘクタールもあり、当時では、大坂城に次ぐ規模であり、金箔を施した豪華な天守閣は、まさに天下人の城であったことを表していると。文禄元年(1592)4月、15万に達する日本の大軍は、日本海を渡り釜山へ上陸した。これが「文禄の役」の始まり。日本軍の構成は9組の部隊からなり、先鋒の1~3番は1番隊 : 加藤清正 2番隊 : 小西行長3番隊 : 黒田長政 が命じられた。若干24歳の長政が、3番隊長に抜擢されている。やはり戦場での勇敢な戦いぶりが評価この後は古墳時代から年代順に展示されていた。金冠と金製袴帯。古墳時代の装飾品のレプリカ?。11月に行った韓国・国立慶州博物館に展示されていた物に酷似していた。 弥勒菩薩半跏思惟像。蒙古襲来絵詞。右側に描かれているのが絵巻を描かせた肥後の御家人・竹崎季長。 木造菩薩座像。現存する数少ない朝鮮時代初期(15世紀)の木造仏。紺紙金字妙法蓮華経 名護屋城二の丸「合坂」 瓦出土状況。豊臣秀吉木造(複製) 豊臣秀吉画像。慶長5年(1600)に狩野山楽によって描かれたと伝わる肖像の模本。関白・太政大臣として位人臣を極めた貫禄ある風貌で描かれている。「朝鮮軍陣図屏風」(部分)第一隻 蔚山城の攻防戦。加藤清正ら3000人が籠る蔚山城を4万の明・朝鮮連合軍が取り囲む様子。安宅船と亀甲船。安宅船の模型展示の解説では、日本水軍の最強軍船、攻撃力・防御力などの面で他の軍船より優れ、近代の戦艦に相当する。名護屋城図屏風に描かれた安宅船などをもとに復元製作したもので、総矢倉形式の船体に二層の屋形を持つ。全長38.0m、幅11.7m。亀甲船は、当時朝鮮水軍が誇る戦艦で、李舜臣(イスンシン)将軍が創作、日本との海戦で活躍し朝鮮水軍を勝利へと導いた船と。亀甲船は、帆装が再現され、上面すべてを鉄板でカバーし鋲鉄を建てていた。当時の日本軍の戦法である鉄砲や切り込みを防ぐとともに、左右両舷の大砲から敵艦を砲撃できるようになっていた。見るからに戦闘機能と能力が高い事が解った。城の櫓を搭載し、名護屋城図屏風では丹塗りの高欄などを捲いており、船そのものが優美なつくり。日本の歴史上まれに見る海外派兵となった「文禄・慶長の役」であったが、海戦における戦闘能力や制海権をどう確保するかといったことより、武士の美学というか、見栄えを重んじたことを感じたのであった。 「文禄・慶長の役」に参加した武士。 大名家の布陣図 。 西日本の大名が多いとあった。朝鮮通信使往来図 。300人~500人の朝鮮からの親善使節が江戸まで街道を通って向かったと。朝鮮通信使御楼船図屏風。 名護屋城博物館の常設展示で、原始・古代から近現代にいたる日本列島と朝鮮半島との交流の歴史を大いに学ぶことができたのであった。そして『兵どもが夢のあと』 、この言葉を思い出したのは私だけではあるまい。。
2015.12.19
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伊万里での仕事の後は帰路へ。遠く造船所の巨大クレーンが見えて来た。 「NAMURA」 の文字が。佐世保重工業を完全子会社化した名村造船(株)伊万里工場。伊万里湾が再び。 そして名護屋城(なごやじょう)跡に到着。駐車場に車を停め散策開始。入り口で100円を寄付して入場。 名護屋城・城下町の様子を説明するボード。名護屋城は 豊臣秀吉の文禄・慶長の役に際し築かれた陣城。陣城にも関わらず五重天守や御殿が建てられたり 城の周囲に城下町が築かれたり最盛期には人口10万人を超えるほど繁栄したと。 肥前名護屋城図屏風の説明ボード。狩野派の絵師狩野光信の作で、下絵あるいは写しといわれている。六曲一隻の屏風で、第三・第四扇上部にある名護屋城には、五層の天守閣を中心に多くの御殿・数奇屋・櫓・門などが描かれ、当時では大坂城に次ぐ巨大な規模を持っていた名護屋城の様子を詳細に描いている。その周囲の丘陵には各大名の陣屋がひしめき合い、城下町では全国から集まった物資や人々で大変な賑わいを見せている。 山里丸の草庵茶屋跡の説明ボード。名護屋城は豊臣秀吉公が朝鮮出兵のために作られた城で、朝鮮出兵の際には城の周りに日本全国から集めれれた大名たちが陣を構えていた。その数100以上、兵は20万人以上。名護屋城並びに陣跡を説明する陶器板。 名護屋城・大手門跡。 本丸に向かって坂を登る。 三ノ丸。奥に見える石垣は本丸石垣。本丸大手付近を守る2層櫓が建っていた櫓台跡。隅部が完全に破壊されていた。本丸大手虎口。S字に曲がるよう構成されていた。三の丸跡を示す石碑。 正面は、本丸へ続く大手虎口と、虎口を守る櫓台跡。名護屋城本丸跡の中央にそびえ建つこの石碑は、巨大な「名護屋城址」碑。なんと東郷平八郎元帥 書。天守台へ向かう途中、本丸の端に海に面して建っていた歌碑。「太閤が 睨みし海の 霞かな」 呼子大橋が眼下に。 天守台跡。屏風絵には地上6階地下1階の七層大天守が描かれており、想定では石垣から約30mほどの高さがあったとか。天守の礎石、穴蔵(天守地階部分)の石垣、穴蔵への出入口が出土。江戸時代にはここに古城を管理する「古城番」の番所が置かれたらしく、その石列なども見つかっている。 南西隅櫓上から、本丸下を見下ろす。細い帯郭的な場所は「伝馬場」。櫓台跡、そして其の奥には「弾正丸」が見えた。 南側にも本丸拡張部の櫓台跡が見つかっている。例によって玉砂利と礎石位置表示がされていた。見学を終え、大手門に向かって坂を下る。東出丸からみた大手道。まっすぐに延びる大手道は安土城を思わせる堂々さ。直線の大手道ながら右手の三の丸や東出丸から攻撃が可能。大手口東南部の櫓台。大手門を守る単独の櫓があったと。櫓門の裾石垣として復元。 大手門近くの石垣。 歴史探訪の道案内板。名護屋城跡並びに陣跡の散策コースを紹介。金助・吾助の墓・説明ボード。 「江戸時代の中ごろ、唐津領は天候不順による凶作が続きました。名護屋村でも田畑の作物が枯れ果て、村人は木の実や葛の根、海藻などを食べて飢えをしのいでいました。しかし、このような不作の年にも藩は容赦なく年貢の取り立てを通告してきました。村では庄屋を中心に毎晩のように寄り合いを開き、「このままでは飢え死にするばかりだ。村の窮状を藩主に訴えて年貢を減らしてもらおう」ということになりましたが、後の咎めを恐れて誰ひとりこれを引き受けるものがいません。そのような時、金助・吾助の2人の若者が、「自分たちには、身寄りの者もなく後の心配もないので、この役目は私たちに任せてください」と申し出てきました。金助と吾助は、藩主が領内の巡視で佐志村に赴く事を知り直訴を決行しました。幸い原書は藩主の目にとまり、年貢米100石が減免されました。しかし、当時直訴は天下の御法度でした。これを破った2人は捕えられ西の浜で処刑されました。」と。弾正丸方面へ連なる石垣も見事。
2015.12.18
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東京へ戻り、そして翌朝再び福岡空港経由で伊万里へ。横浜大黒ふ頭が眼下に。 遠く真鶴半島が。 富士山頂には笠雲が。 遠く三保の松原も見えた。 富士登山道のジグザグが白き糸の縫い目の如く左手に。 富士川の身延付近が中央に。 雨畑湖。 そしてしばらく雲の上を飛行。響灘に出ると雲は切れたが、海は荒れて白波が。女島。若松区の中北端にある脇田(わいた)海岸から北に約8kmの響灘上にある島。手前が志賀島そしてその先に海の中道。 海の中道海浜公園。 西戸崎南公園付近の住宅街。 マリンワールド海の中道方面。 そして暫く福岡市街上空を旋回し、山側から進入し着陸。地下鉄で営業所に向かいここから社用車で伊万里に向かう。福岡市環状高速線を利用。 右手に福岡タワーが。 手前左に福岡 ヤフオク!ドームが。 正面に再び福岡タワーが。 夜は伊万里のお客様、友人と懇親会。 鴨鍋も美味であった。
2015.12.17
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羽田空港から飛行機で福岡空港へ向かいました。途中、機窓から珍しく同方向に向かう飛行機を発見しズームで。 さらにズームすると中国東方航空の新ロゴマークと判明。 関西電力・姫路第二発電所の煙突から白煙蒸気がモクモクと。そしてその奥には大阪ガス・姫路製造所が。LNG(液化天然ガス)を都市ガスに加工し、安定的に送出している工場。 岡山県備前市日生町付近。前方左に瀬戸大橋が見えて来た。 瀬戸大橋の岡山側の下津井瀬戸大橋が手前に。1,447mの吊り橋。 竹原市沖の大崎上島。 広島市内。右下から太田川放水路・天満川・本川・元安川・京橋川。厳島とその先に大竹の工業地帯。 藍島(あいのしま)。藍島は、福岡県北九州市小倉北区に属する響灘にある島。相島(あいのしま、あいしま)。相島は、玄界灘に浮かぶ福岡県糟屋郡新宮町の島(有人島)。新宮海岸から北西に8kmほど離れた所に位置する島。海の中道上空から着陸態勢に。 この日の夜は中洲川端でもつ鍋を楽しむ。ホテルオークラ福岡前のイルミネーション。鏡天満宮。博多リバレイン店。ドン・キホーテが入っている中洲のゲイツビルの夜景が美しく、しばし色の変化を楽しんだのであった。 博多川に反射したゲイツビルの光も美しかった。 様々な色に変化。 中州名物の屋台も賑わっていた。そして赤煉瓦の福岡市文学館もライトアップ中。そしてこの日のホテルに戻ったのであった。
2015.12.16
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JR信濃町駅から神宮外苑銀杏並木に立ち寄ってきました。外苑東通りに架かる歩道橋からの銀杏並木。こちらは未だ青い葉も。 途中の明治神宮外苑にこにこパークのモミジの紅葉。 いちょう祭り会場MAP。 青山通りから聖徳記念絵画館に向かって並ぶイチョウ並木で有名な明治神宮外苑。その長さ約300m、146本のイチョウが植えられているとのこと。大正12年に出来たという歴史ある並木。早朝のため人影は未だ少なかった。歩道の銀杏も清掃されていた。 緑の下草の上にも銀杏の葉が降り積もっていた。 既にピークは過ぎていたが。 既に葉を落とした銀杏木も。 朝の陽光を浴びて黄金色に輝きを見せていた。 明治神宮外苑案内図。 青山通り口から樹高の高い順に植えられたイチョウは遠近感が強調され、奥に立つ聖徳記念絵画館との景観美が実に見事。 聖徳記念絵画館が中央に。 青空を背景に黄金色が映えます。 先端は尖って青空に突き刺さっていた。 見事に整列。 遠近法を用いて実際の距離より絵画館が遠方にあるように表現されているのも特徴。まさに黄金ロードと呼ぶにふさわしい光景。 外苑銀杏並木の乳根(ちちね)。銀杏の巨木で、しばしば枝から垂れ下がったように下に伸びた棍棒状の突起物を見かけることがあります。これを乳根と呼ぶのだと。 銀杏並木 説明ボード。これらの銀杏並木は、1926年(大正15年)の明治神宮外苑創建に先立って、1923年(大正12年)に植栽されたもので、並木の総本数は雄木44本、雌木102本の合計146本。設計者は、関東大震災後の復興事業で隅田公園や錦糸公園、山下公園などの建設も指揮した建築家、折下吉延。造営の責任者は、当時道路工学の権威であった藤井真透が務めたと。 池に映る銀杏の黄葉も美しかった。 いちょうまつり「全国工芸職人展」は既に終了し立ち入り禁止。 いちょうまつり会場も片付けが行われていた。 モミジ葉は紅葉の真っ盛り。 聖徳記念絵画館。聖徳記念絵画館は、明治天皇・昭憲皇太后の御聖徳を永く後世に伝えるために造営された、神宮外苑のシンボルともいえる存在。 聖徳記念絵画館と軟式球場の間に聳え立つ2匹の一角獣(ユニコーン)。
2015.12.15
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「光の海」ゾーンに行く途中の「光のトンネル」。紫から。黄色そして青に。そして青からオレンジ、ピンクへと。「光の動物園」ゾーン。ウミガメが悠々と。ピンクの珊瑚と熱帯魚が。クラゲも。「光の海ゾーン」を下の方から。遠くのビッグベンをズームで。リフト下の虹の帯とお山のかんらんしゃ。「光のイングリッシュガーデン」噴水も時々刻々姿と色を変えて。緑が美しいイングリッシュガーデン。そして10万球の「光のビッグベン」は入口ゲートのすぐ前に。ユニオンジャックも輝いていた。階段の前から駐車場の赤富士?。「光の大階段」を下る。 そして駐車場からの出口で渋滞したものの、その後は順調に帰路へと車を走らせたのであった。今年は中目黒の「青の洞窟」は安全上の理由か中止になってしまったのでこの大規模な「さがみ湖イルミリオン」を大いに楽しんだのであった・
2015.12.14
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再びロンドンバスとその隣には熊のパディントンが。 からくり砦というアトラクションもイルミネーションで覆われていました。 虹の階段を上る。 巨大なクリスマスツリー。 カラフルな輝きの中に赤の飾りリボンが。 「光の花畑」入り口。順路の表示にそって進む。 人出が多くなってきました。 菜の花畑の如き黄色の輝きがレストランのガラス窓に映り見事な光景。 菜の花畑には蝶々も飛んでいました。 見渡す限りの菜の花畑。 こちらは様々な色の花畑。 先ほどのレストランの再び。園内の中央部を彩る芝桜ように美しいピンク色に輝く花畑のエリア。「光の花畑」の端の方の傾斜地にしつらえられたイルミネーションも美しかった。黄色とピンクの帯が。 巨大なハート。 「光の動物園」ゾーン緑色のLEDは、草原をイメージ。 「光のナイアガラ」入り口からみた「光の花畑」。 ナイアガラの滝に向かって歩く。花畑の先には光のナイアガラが見えて来た。「光のナイアガラ」ゾーン。高さ10数mから吊り下げられたLEDが滝をイメージ。温かい光が滝のように流れる幻想的な空間。「光のナイアガラ」ゾーンの真ん中に巨大なダイヤモンドのイミテーションがおかれていてカップルの記念撮影ポイントに。 真ん中にある巨大なダイアモンドのオブジェも、キラキラと水に映る光に反射されて見事。何カラット??
2015.12.13
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先日の日曜日に、妻そして旅友のSさんと相模湖プレジャーフォレストのイルミネーションを見に行ってきました。自宅から茅ヶ崎のSさん宅まで我が家の軽自動車で向かい、Sさんの車に乗り換え、圏央道を利用し相模湖に向かいました。県央道から20号線を利用し進む。相模湖大橋を渡る。 そして渋滞もなく相模湖プレジャーフォレスト入り口に到着。自宅を出て約2時間の15:15前。 駐車場に車を止め入り口まで徒歩にて向かう。途中の紅葉も見事。 『さがみ湖リゾート プレジャーフォレストの案内図』。山の斜面を利用した遊園地で、山頂に登るリフトがあり、山頂に観覧車が。 正面ゲートを入り、夜には光のトンネルに変身する光の大階段を登って行った。 ことらはビッグベン。 シニア割引の1000円を払い15:30過ぎに入場。ロンドンバスもイルミネーションがないと焼け落ちたバスの如し。 ミツバチ大作戦。 ハニカムの6角形の小部屋が続く最難関の迷路。 混雑を避けリフトに乗り頂上エリアに向かう。このリフトは往復400円。 標高420m、1周13分の『お山のかんらんしゃ』。 関東最大の550万球の光の祭典『相模湖イルミリオン』。幻想的なイルミネーションが、美しい光の世界をつくり出すのです。今年の最大の見どころは、新設された「英国イルミネーションエリア」とのこと。約650平方メートルの広大な庭園が音楽とともに緑色に光り輝く「光のイングリッシュガーデン」をはじめ、「光のビッグベン」などさまざまなイルミネーションが楽しめるのです。相模湖イルミリオンの案内図。 16:30から「大空天国」はライトアップ開始。そして「光の泉」 。水面の上を光に導かれて進む幻想的なエリア。青の輝きが池面にも。 桜の木々は白の光に変身。 17:00になり『相模湖イルミリオン』の点灯開始。「光のネス湖」。イギリスのネス湖をイメージしたエリア。「光のゲート」。星々をモチーフにしたゲートが続いていました。 ロマンチックな光のゲートそして下には巨大な星が鮮やかな輝きで。 頂上エリアを楽しんだ後は、ペアリフトに妻と仲良く乗り下に降りる。リフトの下の斜面にも光の虹の帯が。右手下には「光の海」 が拡がっていました。リフトからの「光のイングリッシュガーデン」 リフトからは様々な色の光が拡がっていた。 リフト乗り場脇から見えた光の世界。「ロンドンバス」。ロンドンの2階建てバスをモチーフにしたフォトスポット。バスの中に入って多くのカップルが写真を撮っていました。「プリンセスイルミネーション」。ドレスの形になっていて、顔を出すところがありました。隣には煌めく白馬の馬車が。! そして全長65mを越える圧倒的な迫力の「光のバッキンガム宮殿」。ピアニストが登城。約5分?のプログラムが繰り返されるのであった。オーケストラの演奏や衛兵の交代劇の演出が行われていました。衛兵が登場し中央へ行進。中央で整列。屋根の上には本物のユニオンジャックがはためく。反対側からフィナーレを。スケールの大きさと音楽の魅力、そして登場する衛兵の可愛らしさ。ずっと見ていたくなるイルミネーションなのであった。
2015.12.12
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弁天堂を後にし、反対側にある清水観音堂へ向かう。清水観音堂(重要文化財)とは寛永八年に天台宗東叡山寛永寺の開山。慈眼大師天海大僧正によって創建された。 江戸三十三観音めぐりの第6番札所。天海大僧正は、上野に比叡山延暦寺に倣って「東叡山寛永寺」を開いたのだ。比叡山が京都御所の鬼門を守護していることから、寛永寺は江戸城の鬼門の守護する役割をもっていた。 江戸時代の浮世絵師、歌川広重の代表作の一つで連作の「名所江戸百景」で描かれた「月の松」が約百五十年ぶりに復活。 月の松中央から弁天堂が見えた。 月の松は、明治時代に台風で失われたのだが、自然にできた枝ぶりではなく、植木職人が松の枝を月に見立てて作った江戸の粋。復活した月の松は、寛永寺が3年かけて復活させたもの。名所江戸百景58 上野清水堂不忍池でも描かれた月の松。京都の清水寺を模し、本尊も千手観音を迎えて建立された寺。 清水寺に似せた舞台も。。 千手観音と書かれた御朱印を頂く。 西郷隆盛像。この西郷像は高村光雲の作(傍らの犬は後藤貞行作)。 身長:370.1cm、胸囲:256.7cm、足:55.1cm。正面から写した写真では頭部が大きく見えるが、これは像の足元から見上げた場合の遠近感で適正に見えるよう計算されているためで、実際の西郷の体つきがこうであった訳ではないのだと。 横から。上野の西郷さんとして親しまれているこの銅像は、愛犬ツンを連れて兎狩りをする西郷さんとのこと。 彰義隊戦死者碑。明治新政府に反抗して討滅された彰義隊の戦死者を供養するために明治15年(1882)に建てられた。上野恩賜公園内の西郷隆盛像の裏手にあった。
2015.12.11
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不忍池の中にある弁天堂に向かう。 寛永二年(1625)―江戸の鬼門を護るため、京の比叡山延暦寺に倣って上野の岡に東叡山寛永寺を創建した慈眼大師・天海は、常陸国下館城主・水谷勝隆という人に不忍池を琵琶湖に見立てて池の中に竹生島を模した小島を築かせ、竹生島宝厳寺の弁財天を勧請して弁天堂を建てたのだと。不忍池 蓮池に架かる天龍橋。上野不忍池の弁天島には多くの石碑が。不忍池由来碑。碑の裏側に廻ると由来が書かれていた。 めがね之碑。日本での歴史に最初に登場する「メガネ」は、1551年に宣教師フランシスコ・ザビエルから大内義隆に献上されたというもの。これが文献上にて確認される最古の「メガネ」。毎年、4月10日の「眼鏡供養の日」付近に、この上野恩賜公園では眼鏡供養祭が行われると。ちなみに碑にかたどられているのは、徳川家康が愛用していたメガネなのだと。手水場。 弁天堂。 銅地蔵。生殖器崇拝(せいしょくきすうはい)は、ヒトの男女の生殖器をかたどった象徴的造形物に、多産、豊穣などをもたらす呪術的な力をみとめ、それに対する信仰、崇拝であり、性器崇拝とも呼ばれています。地蔵の背面は男根形で、前面は陰形をしているのだと。弁財天を本尊とし、安芸の厳島、相模の江ノ島と並び、日本3弁財天のひとつ。 弁天様は、七福神のひとつ。音楽の神様とか。琵琶を持つお姿が印象的ですが、弁天堂の前にその琵琶が立っていました。その形はとてもリアル。 不忍池辯天堂の御朱印。弁天堂の裏側にも多くの石碑が。 弁天堂のすぐ横にある大黒天堂。 不忍池には蓮の葉が。
2015.12.10
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小高い大仏山と言う丘の上にある上野大仏に向かう。像高約6メートルの釈迦如来坐像だった。度重なる罹災により損壊し、現在では顔面部のみがレリーフとして保存されている。薬師仏を祀るパゴダ様式(仏塔のこと)の祈願塔と志納所が併設されている。顔面のみとなった上野大仏。受験シーズンを迎えると、参拝客でにぎわいをみせるのだと。この上野大仏は1631年に建立。しかし1647年の地震、1841年の火災、1855年の地震などの災難に見舞われ、首や顔などの部分が破損、その都度修復が行われた。しかし、1923(大正12)年の関東大震災で4度目の崩壊。その後は、改修されることなく寛永寺で管理されていた。そして、1972(昭和47)年に残存した顔だけが元の場所に戻った。このような災難を乗り越えた大仏は、現在では顔を残す様子が「これ以上落ちない」ということから、「合格大仏」として親しまれているのだと。高さ十五メートル、内部には中央に薬師如来、左側に月光菩薩、右側に日光菩薩を安置。この薬師三尊像は、江戸末期まで東照宮境内にあった薬師堂の本尊で、明治初期の神仏分離令によって寛永寺に移管、さらにパゴダの本尊として迎えられたと。時の鐘 Bells of time。そして大仏山(パゴダの丘)の南側には、「花の雲 鐘は上野か 浅草か」松尾芭蕉の句に詠まれて有名な”時の鐘”が。御朱印を頂く。(清水観音堂にて)
2015.12.09
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国立西洋美術館を後にし動物園方面に向かう。うえの華灯路浮世絵行燈は、上野に新しい賑わいを創り出し、観光客などの誘致をさらに高めようと、区観光課が企画して平成19年から始まりました。歌川広重の「名所江戸百景」を用いた行燈や高さ1mを超える大型行燈などが上野公園内の大噴水広場南側から袴腰広場にかけて設置され、夜には行燈が灯されて江戸風情を楽しむことができるのです。名所江戸百景 第11景「上野清水堂不忍ノ池」を描いた灯籠。こちらは、佃しま住吉の祭。 小松宮彰仁親王像。王政復古とともに征討大将軍となり、のち陸軍大将・近衛師団長・参謀総長を歴任した人物。上野動物園が正面に。 上野東照宮大石鳥居。上野東照宮は、上野動物園の南側で、公園の西側に位置している。この鳥居には、厩橋侍従酒井雅楽頭忠世の名前がある。あの下馬将軍の異名を持つ酒井候で、寛永10年の日付がある。 水舎門。 水舎門をくぐると長い参道の両脇に沢山の石灯篭が並んでいた。この石灯篭は諸大名より奉納されたもの。200基以上あり、灯篭の並んでいる様は、武士が整列して神君をお守りしているようだと称えられていると。尾藤三柳の句碑.『乱世を酌む友あまたあり酌まむ』 五重塔。 寛永16年再建。旧寛永寺の五重塔は、上野動物園内に。 参道右手にある神楽殿。 参道の左の手水舎。 参道の右にある水屋。 水屋には鈴が吊るされていた。唐門。1651年建築。国指定重要文化財。総金箔の門。御祭神は徳川家康公 徳川吉宗公 徳川慶喜公 倉稲魂命。両側上部にある松竹梅と金鶏鳥の透彫りは、精巧で美しく、室町・桃山の技術を集大成したもの。 柱の内外4額面には、日光の眠り猫で有名な、左甚五郎作の登り龍・下り龍があり、夜毎に不忍池の水を飲みに行くという伝説が。頭を垂れているほうが登り龍と呼ばれているのは、偉大な人ほど頭を垂れるという諺に由来すると。 授与所で御朱印をいただく。 銅灯篭。全48基。国指定重要文化財。唐門両側6基は紀州・水戸・尾張の徳川御三家がそれぞれ2基ずつ寄進したもの。再び 五重塔。
2015.12.08
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国立西洋美術館に立ち寄りました。『黄金伝説展 古代地中海世界の秘宝』が開催中。美術館前の庭園には、オーギュスト・ロダン作の『考える人』(拡大作)。同じくオーギュスト・ロダン作の『カレーの市民』。 『1884年、カレー市民はかねて懸案になっていた、同市を救った恩人、ウスターシュ・ド・サン・ピエールの記念碑建設を決定し、ロダンが指名された。ウスターシュは、中世百年戦争の時代、イギリス国王が1347年に英仏海峡を越えて同市を包囲した際、他の5人の地位の高いカレー市民と共に人質としてイギリス国王の陣営に赴き、カレー市と市民の生命を救ったのであった。年代記を読んで感動したロダンはウスターシュ1人の代わりに6人の市民がそれぞれの絶望と苦悩のうちに、市の鍵を手に、首に縄を巻いて裸足で市の門を出て行く群像を作り上げた。英雄の華々しい身振りを期待していた市当局はロダンの感動的な人間像を理解できずにこれを拒否し、カレー市で除幕式が行なわれたのは完成後7年経ってからだった』 http://www.nmwa.go.jp/jp/collection/1959-0008.htmlより西洋の美術作品を専門とする美術館。独立行政法人国立美術館が運営している。 『黄金伝説展 古代地中海世界の秘宝』の巨大ポスター。 展覧会の目玉は何と言っても、今から6000年以上前に作られた世界最古の金製品とのこと。 ギザギザマークは国立西洋美術館(National Museum of Western Art)の英文名の頭文字「N」「M」「W」「A」のすべてに、鋭角が含まれているから、この鋭角をシンボルにしたのだと。東京での展示は2016年1月11日まで。 ブールデルの「弓を引くヘラクレス」 、美術館のHPによれば”へラクレスが怪鳥ステュムファリデスを射るために渾身の力で弓をひき、まさに矢を放とうとする瞬間を捉えている”と。 これもロダン作でタイトルは「地獄の門」、よく見ると上の方に”考える人”がいるのだ。そして門の上には三人の裸像が。「地獄の門」の規模は高さ540cm、幅390cm、奥行100 cmと巨大。両脇には「アダム」と「エヴァ」の像が配置。「地獄の門」に向かって右側の「エヴァ」の像。アダムと一緒に犯した罪から自分を守るように、手を自分の体に巻きつけた女性らしい柔らかな肉体の表現は見事『アダム』の像。「地獄の門」に向かって左に設置。禁断の実を食べた後悔からかでしょうか・・・。 苦悩で身をよじっている姿は悩ましい。
2015.12.07
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寛永寺を後にし、再び国立博物館方面に戻る。都道452号線交差点にはユニークな形状の名所案内板が。旧東京音楽学校奏楽堂。上野公園にある歴史的建造物。日本で最初に建てられた本格的な西洋式音楽ホール。国立博物館の横の巨大なシロナガスクジラの像。現在地球上に生息する最大の動物。全長30mの巨体を海面から深く潜行させようとしている姿を再現。 そして開山堂両大師前へ。江戸時代、現在の上野公園には、寛永寺の堂塔伽藍が、整然と配置されていた。現在の噴水池周辺(竹の台)に、本尊薬師如来を奉納する根本中堂、その後方(現、東京国立博物館敷地内)に本坊があり、「東叡山の山主である」輪王寺宮法親王が居住していたと。印象に残ったのは、ここの山門につけられている表札が金文字で書かれており、山門も木組みの一部に金の細工が施されており、地味な寺院が多い中では派手なところも。門をくぐる。境内は桜の木もあり、シーズンには賑わいそう。本堂は比較的新しい感じで、木の素材や瓦などからは、歴史は感じられなかった。しかし隣接の輪王殿へ通じる門が幸田露伴の旧邸の門で、質素ながらも趣が。阿弥陀堂。山門入ってすぐ右手に。寛永寺の開山・天海(慈眼大師)は寛永20年(1640年)に死去し、翌正保元年(1644年)、現・輪王寺の地に天海を祀る開山堂が建てられた。天海が崇敬する良源(慈恵大師、元三大師)を併せ祀ったことから「両大師」と呼ばれるようになったのだ。金燈篭。燈篭の装飾が見事。本堂前の鐘楼に懸かる梵鐘は慶安4年(1651年)の製作。本堂(開山堂)。野戦争、関東大震災、東京空襲を免れてきたのに、平成元年に火災によって焼失してしまったと。現在のものは、平成5年に再建されたもの。手水場。見事な龍。こちらも歴史を感じされる石灯籠。地蔵堂。表門。正式には、「寛永寺旧本坊表門」といいます。 こちらも、上野戦争で焼失を免れたもの一つ。国指定重要文化財に指定。開山堂に隣接している寛永寺輪王殿の門として使われていた。この日は『お別れの会』が行われていたため、境内には入らなかった。 東叡山輪王寺門跡と刻まれた石碑が。東京で唯一の門跡寺院。門跡寺院とは皇子・貴族などの住する特定寺院。国立科学博物館。国立科学博物館玄関横にはD51が保存されていた。このD51 231号は昭和14年7月に日本国有鉄道長野工場で製作されてから、東海道本線・山陰本線・その他で活躍し、昭和50年12月15日、北海道追分機関区で休車となったもの。
2015.12.06
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先週、植え付けた空豆の苗も1週間後の今日確認しましたが無事苗床に定着したようです。アブラムシ対策として今年も日光の反射が強いシルバーマルチとしました。しかし今日苗をよく観ると多くのアブラムシが葉の先端に。慌てて自宅に戻り消毒の準備をし、再び畑に戻り消毒しました。そして事前にネットで購入しておいた防風ネットを被せました。空豆は寒さに比較的強いので防寒はまり必要ないのですが風にはあまり強くないため倒伏の可能性もありますので防風ネットを。これである程度は霜の予防にもなるのです。
2015.12.05
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特別展「始皇帝と大兵馬俑」を後にし、近くにある上野・」寛永寺へ。徳川将軍家の祈祷所・菩提寺である寛永寺は、13代将軍徳川家定と天璋院篤姫が眠っていることで近年話題になった寺。寛永寺の裏側から入る。寛永寺霊園受付所。 天璋院篤姫墓所。寛永寺の墓地には、徳川将軍15人のうち6人、家綱、綱吉、吉宗、家治、家斉、家定が眠っており、家定の御台所だった天璋院篤姫もここに眠っているのだ。門の奥に篤姫の墓があるそうだが、非公開。 建物が二つ。左が「 徳川宗家 」、右が「 徳川三家 」の法要がここで営われるのだと。 寛永寺案内図。 根本中堂。旧寛永寺の根本中堂は彰義隊の戦いで焼失明治12年に川越市の喜多院本地堂を移したもので、寛永寺本来の建物ではない。寛永15年建造。堂内に秘仏本尊薬師三尊像を安置する。 本堂には「瑠璃殿」という扁額が掲げられていた。 根本中堂の前には立派な銅灯籠が2基並んで。 クリップ追加寛永寺ゆかりの高僧、了翁禅師。 了翁は号、諱名を道覚といい、黄檗宗の僧。尾形乾山墓碑・乾山深省蹟 (おがたけんざんぼひ・けんざんしんせいせき)。尾形乾山は、琳派の創始者である画家・尾形光琳の弟。 慈海僧正墓。江戸時代後期、最盛期の寛永寺は寺域30万5千余坪、寺領11,790石を有し、子院は36か院に及んだ(現存するのは19か院)とのこと。現在の上野公園のほぼ全域が寛永寺の旧境内である。たとえば、現在の東京国立博物館の敷地は寛永寺本坊跡であり、博物館南側の大噴水広場は、根本中堂のあったところであるとのこと。 旧本坊表門 根本中堂鬼瓦。境内にある地蔵様。 銅鐘(台東区有形文化財)。本鐘の大きさは、総高177.2センチ、口径91.8センチ。厳有院殿(4代将軍家綱)の一周忌にあたる、延宝9年(1681)5月8日に厳有院殿廟前の鐘楼に奉献された。 そして葵の御紋。 寛永寺は、東京都台東区上野桜木一丁目にある天台宗関東総本山の寺院。山号は東叡山。東叡山寛永寺円頓院と号する。開基(創立者)は徳川家光、開山(初代住職)は天海、本尊は薬師如来である。徳川将軍家の祈祷所・菩提寺であり、徳川歴代将軍15人のうち6人が寛永寺に眠る。17世紀半ばからは皇族が歴代住職を務め、日光山、比叡山をも管轄する天台宗の本山として近世には強大な権勢を誇ったが、慶応4年(1868年)の上野戦争で主要伽藍を焼失。 御朱印をいただく。
2015.12.04
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先日、東京国立博物館で行われている特別展 「始皇帝と大兵馬俑」に行ってきました。JR上野駅で山手線を降り、国立博物館に徒歩で向かう。東京都台東区の中を、北めぐりん、東西めぐりん、南めぐりんと3路線に分けて巡回する台東コミュニティバス「めぐりん」。 2015年10月27日(火)から2016年2月21日(日)が開催の巨大ポスターが国立博物館正門横に。 今から約2200年前に中国大陸に統一王朝を打ち立て「最初の皇帝」を名乗った秦の始皇帝。その巨大な陵墓の近くに、約8000体もの陶製の軍団「兵馬俑(へいばよう)」を埋めさせました。1974年にその「兵馬俑」は発見され、今なお続く発掘は、始皇帝の知られざる歴史を次々と明らかにし、新しい驚きをもたらしつづけています。 国立博物館を正面から。 切符を購入し中に。表慶館では「アート オブ ブルガリ 130年にわたるイタリアの美の至宝」が行われていた。130年を越える歴史を持つ、イタリアが世界に誇るハイジュエリーブランド、ブルガリ。今回の回顧展では、ローマの地に1884年に創業したブルガリの、創成期から今日に至るまでの貴重な作品の数々を楽しめると。そして平成館は既に入場を待つ人々の列が。 平成館にも巨大ポスターが。 特別展内は撮影禁止の為、ガイドブックを購入したのでそれを以下に掲載。今回の展覧会では、始皇帝の陵墓近くで発掘された兵馬俑から10体が露出展示されていたり、数千もの兵馬俑が出土した発掘現場「兵馬俑坑」が再現されていたり、始皇帝の馬車をかたどった2分の1のスケールの4頭立て銅馬車が2両が展示されていたり見応え満載。将軍俑 秦時代・前3世紀陶製、高さ195.0、幅65.0 秦始皇帝陵博物院蔵 冠をかぶり鎧を身につけた武将の俑で、自信に満ちた表情と逞しい両腕に百戦錬磨風格が漂う。歩兵傭 秦時代・前3世紀陶製、高さ193.0、幅57.0 秦始皇帝陵博物院蔵 推定復元によると、右手に弩弓(どきゅう、大弓)を持ち、矢を入れて背に負う道具の箙(えびら)背負っていたと推定。左手には革製の楯を装着していた可能性も。軍史傭。秦時代・前3世紀陶製、高さ189.0、幅71.0 秦始皇帝陵博物院蔵 上腕部まで覆う鎧と冠を身につけた隊長級の傭。少し開いた左手に剣を握っていたと考えられていると。跪射傭(きしゃよう)秦時代・前3世紀陶製、高さ122.0、幅64.0 秦始皇帝陵博物院蔵 右脇に弩弓を抱えて臨戦態勢を取る武人の姿。恐るべき精緻な造形であり、勇猛・冷酷な武人の表情。騎兵傭(きへいよう)秦時代・前3世紀陶製、高さ185.0、幅54.0 秦始皇帝陵博物院蔵馬とともに置かれた直立の兵士。 雑伎傭秦時代・前3世紀陶製、高さ172.0、幅77.0 秦始皇帝陵博物院蔵でっぷりした体格の男子で上半身は裸、下半身には短い袴のような物を身につけている。左脇で竿を抱え、その下端は腰にあてがった丸瓦で受けていたと想像されると。1号銅車馬(複製) 秦時代 紀元前3世紀4頭立てで、1号は総高150センチ、総長225センチ。御者が直立して操る。実際の車馬の1/2とのこと。人、馬、車すべてが青銅で模造されており、大量の金銀装飾が施され、生き生きとしている。秦代の高度な冶金鋳造、装飾工芸技術などには、目を見張るものがある。2号銅車馬はは屋根付きの輿(こし)を引き、総長320センチ。計6千の部品からなる精巧な青銅製。2号銅車馬は御者はいるが、中に誰も乗っていない。後ろに扉があり、両サイドに窓があって実際に開くのだ。始皇帝の魂を運ぶ、と考えられていると。写真コーナーで撮影。兵馬俑と一緒に写真が撮れます。後ろに立っているのは歩兵、手前のしゃがんでいるのは弩兵。これほど多くの兵馬俑が国内で見られるのは珍しい事間違いなし。記念としてクリアーファイルを購入。世界八番目の不思議とも呼ばれる兵馬俑坑の本物を是非見たいとますます感じたのであった。
2015.12.03
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鶴岡市内で仕事を終えた後、新庄空港へ向かう途中、飛行機の時間に多少余裕があったので山形県鶴岡市・加茂水族館へ立ち寄りました。水族館横の荒崎灯台。 雨でかすんだ加茂水族館。クラゲの展示種類は50種類以上でギネス世界記録に認定されているほか、庄内沖に生息する約140種類の魚などを展示している水族館。同僚が記念撮影。 水族館からの日本海。水族館は加茂港付近の日本海に面した断崖絶壁に建っていた。そして数々の様々なクラゲが。色とりどりの様々なクラゲが漂う様子は魅惑的 館員の説明を聞く。 2000匹のクラゲが泳ぐ直径5メートルの巨大水槽「クラゲドリームシアター」 そして再びクラゲまたクラゲ。
2015.12.02
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先日、山形県新庄市のお客様の事務所を訪ねた折り、事務所の前にある 新庄最上総鎮守 戸澤神社を訪ねました。新庄城址にある戸澤神社の周りには「天満神社」や「護国神社」も祀られ、「最上公園」として多くの人に親しまれている場所。戸澤神社 入り口。新庄城は、新庄藩祖戸沢政盛が築いたもので、寛永2年(1625)の完成と伝えられる。本丸は東西52間、南北127間、正面奥に天守櫓がそびえ、周囲は堀と土居で囲まれ、三隅に櫓を有する平城であったとのこと。寛永10年(1636)の火災以来天守櫓は再建されなかったと。御玄関跡と書かれた碑が大きな石灯籠の横に。戸澤神社境内にある本丸御玄関跡。新庄藩庁の正面玄関。この奥に廊下をへだてて、40畳敷の大書院、32畳敷の御広間などがあったと。 心字池。 戸澤神社 本殿。1894(明治27)年の創建で、戸沢家始祖戸澤衡盛、藩祖の戸澤政盛、11代藩主戸澤正實が祀られている。 また、戊辰戦争に官軍の旗印として与えられた菊花御紋の旗が宝物として保存されているが、この旗は靖国神社とこの神社にしかないと言われていると。 戸澤神社に隣接する護国神社。戊辰戦争の戦死者を弔うために戸沢家の菩提寺である瑞雲院境内(山形県新庄市十日町太田)に1871(明治4)年に設けられた招魂場が前身で、1915(大正4)年に現在の場所に移転。1939(昭和14)年に「新荘護国神社」に改称。 護国神社の由緒が書かれていた。手水場。 新荘護国神社 本殿。 新庄城本丸跡の南西隅に位置する天満神社の鳥居。 歌碑。 こちらは天満神社の白の鳥居。 まだ新しい建物の手水場。 天満神社は戸沢氏の氏神として古くから崇敬されてきた。新庄城築城の3年後の1628(寛永5)年、藩祖政盛によって建立。現在の社は1668(寛文8)年に2代藩主戸沢正誠が再建したもの。戊辰戦争の際に、落城した新庄城で唯一被害を受けずに残された建物。 本殿・拝殿は山形県指定有形文化財であるとのこと。 本殿は1間の社流造で、拝殿は3間の入母屋造でいずれも茅葺。「天神様の撫で牛」。ご神体である菅原道真が丑年生まれから来ている。頭を撫でると頭がよくなり、自分の体の悪いところを撫でるとその個所が治ると言われていると。牛の体全体を丁寧に撫でてきました。戸澤神社社務所の戻る。 各種おみくじやお守りが販売されていました。 御朱印をいただきました。 そして社務所の前には、紐に捕まった園児たちがお散歩中。
2015.12.01
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