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やや遅くなりましたが、今年も我が趣味の西洋ミツバチの養蜂場の巣箱にスズメバチ捕獲機を取り付けました。 これが以前購入したスズメバチ捕獲機の全体の写真です。 そしてズームで。 捕獲機の取り付け断面図を描いてみました。蜜蜂を襲撃するスズメバチは昆虫界のギャングとも言われ、大胡蜂(オオスズメバチ)と小胡蜂(キイロスズメバチ)がいます。キイロスズメバチは、蜜蜂を1匹ずつくわえて自分の巣に飛び立つので被害は比較的軽微なのです。ところがオオスズメバチは、巣を守るために巣箱の中から、飛び出してくる蜜蜂を片っぱしから噛殺し、次第に数を増し数十匹で攻撃してくるので、致命的な大被害を受けてしまうのです。西洋蜜蜂のふるさとは、オオスズメバチのいない地域のため、オオスズメバチに対抗する手段を持たず、防御の習性が未熟な為、あっけなく全滅させられてしまうのです。西洋ミツバチにとっては、日本で生活させられるのはえらい迷惑?なのですね。夏の終わりから秋口は、スズメバチの繁殖期にあたるため、自分の幼虫たちに与える餌が大量に必要になります。そのため、餌を求めて蜜蜂の巣箱を襲うのです。しかし、同じ蜂でもスズメバチの幼虫の餌は蜂蜜(ハチミツ)ではありません。オオスズメバチは肉食で蜜蜂の幼虫やさなぎを狙ってやってきます。オオスズメバチが5~6匹もいれば、巣箱を2~3段に重ねてある我が蜜蜂の巣箱でも1~2時間ぐらいで全滅させてしまうそうです。邪魔になる成虫の蜜蜂を殺し1匹もいなくなった後、彼らは徐に幼虫やさなぎをさらっていき、自分たちの幼虫の餌とするのです。このスズメバチたちの攻撃を防ぐために、巣箱の前に『スズメバチ捕獲器』を設置するのです。前面下部の金格子部分(格子幅≒6mm)を蜜蜂は体が小さいため自由に通り抜けることができますが、スズメバチは通れません。金格子の下の部分は開放されていて、この下からはスズメバチも入れるのです。もと来た道を戻れば外に出られるはずなのに、蜂は明るい方向に行くという習性があるため暗い下の方を通るということはしないのだそうです。更に斜め上方向に飛立つ習性もあるようです。そうして金格子の内側の部分をうろうろしているうちに、漏斗状のトンネルトラップをくぐって上部に出てしまい、完全に閉じ込められてしまうのです。漏斗状のトンネルトラップ を下から見た写真です。オオスズメバチはこの漏斗状のトンネルを明るい方向の上部に向けて進み上部の小さい穴を通過し捕獲室に入ってしまい、出られなくなってしまうのです。スズメバチ捕獲機を巣箱に設置した写真です。固定方法はいろいろな方法がありますが、簡単に外せるように今年もツッカイボウ式にしました。 多くの西洋ミツバチ嬢が金網の上に留まり門番をやっています。 こちらには養蜂開始時に購入した別のタイプの捕獲機。しかし原理は全く同様で、金網か狭いバー式になっているかの違いです。捕獲室をズームで上部から写した写真です。下部から漏斗状のトンネルトラップが上部に向かっているのが判ります。スズメバチはこの漏斗状のトンネルを下から上に上がってきて捕獲されてしまうのです。既に一匹のキイロスズメバチが閉じ込められていました。捕獲室内に閉じ込められたスズメバチです。 こちらは巣箱前でホバーリングしながらミツバチを狙っているスズメバチを私が捕まえ踏みつぶしたもの。 面布、手袋等完全防備して、この虫取り網で捕獲したのです。 全8群に捕獲機を設置しました。 ニュースによると今年は雨が多かったため、山等の地面下に作ったオオスズメバチの巣が大きくならずに、逆に民家の軒下や屋根裏等の巣が大きく成長しオオスズメバチの群勢が高まっているとのこと。我が養蜂場で我がミツバイ嬢達がオオスズメバチと『ハチ合わせ』しないことを祈っているのですが・・・・・。
2016.09.30
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我が庭のシオンの花が満開になっています。そしてその横を通ると、蜂の羽音がブンブンと聞こえてくるのです。 シオンの花の蜜それとも花粉を集めに来ているのでしょうか?我が養蜂ミツバチが巣箱から直線距離で300m程ある自宅まで来ているのです。 花から花へ忙しく動き回り一カ所に留まっていることはありません。 カメラの焦点を合わせるのも難しいのです。 何とか横からのミツバチ嬢の姿も撮れました。 クロスズメバチ?でしょうか。我が西洋ミツバチより体が2倍ほど長い黒い蜂です。 オオタバコガ ?ツマグロヒョウモンも盛んに花の間を移動していました。 ツマグロとは、翅の両端が黒いことを、ヒョウモンとは、豹柄の紋があるから。ヒョウモンチョウの種類は多いようですが、その一種です。このチョウも昔は関西以西の暖かい地域に棲息していましたが、温暖化で北上中。最近では関東地方の北部まで棲息範囲を広げているとのことです羽を閉じたり開いたりしてカメラにポーズを。 酔芙蓉のメタボな蛾? ホウジャクというスズメガなのでは。容姿が蜂に似ることからホウジャク(蜂雀)と呼ばれる種類。棍棒状の触角を持ち全身は褐色ですが、後翅に黄色い模様が入るっているので。ネットで調べてみると「オキナワクロホウジャク」に似ています。しかし沖縄からここまで棲息範囲を広げて来ているのでしょうか? シオンの隣にある、夕方の赤みを帯びた酔芙蓉にも我がミツバチが。 シオンとホトトギス。ホトトギスと言っても鳥ではありません。鳥のホトトギスの方は「不如帰」と書きますが、この花のホトトギスは「杜鵑草」または「杜鵑」といずれも難しい書き方。しかし若葉や花にある斑点模様が、鳥のホトトギスの胸にある模様と似ていることからこの名になったとのことで、無関係ではないのです。 しかし何故かコルチカムを訪れる虫の姿は全くないのです。
2016.09.29
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日曜日の25日に、地元の友人に誘われ相模湾のイカ釣りに行ってきました。8時に友人の家に集合し、友人の弟さんと3名で平塚に向けて出発。相模川の船の停留場所に到着し、船を川に出し9時前に出航。東海道線の相模川陸橋の下を潜って相模湾に向かう。この陸橋の下は浅瀬も多く注意が必要と。 友人の操縦する船で相模湾に出る。遠く雲の上に富士山の勇姿が確認できた。思えば富士山の姿を見るのは久しぶり。 船の前方左手には江の島そして茅ヶ崎沖の烏帽子岩も見えた。 船は二宮沖の目的地に向かって速度を上げる。 そして目的場所に着くと既に何艘かの釣り船が停留しイカ釣りが始まっていた。 この日は比較的波も静か。久しぶりに太陽が姿を現す時間も。小田原の町並みの先には富士山の姿が。そして頂上はうっすらと白くなっていたのであった。帰宅して夜のニュースによると、やはりこの日の朝は頂上が雪化粧したと。しかし甲府地方気象台からは雲に隠れて富士山の頂上の初冠雪の姿が確認できなかった為、この日の初冠雪の発表は見送ったのだと。 この日のイカ釣りの仕掛け。写真の如き出来上がった仕掛けを事前購入していたのであった。上に道糸をつないで、順々に仕掛けをはずしていき、下にオモリを接続すればすぐに使えるのであった。 初心者の私にはこれを購入するのが無難と友人から。 そして糸を垂らして5分も経たぬ内に当たりが。引き上げてみると何と30cm程の鯖が釣れたのであった。 そしてこの日の最初のヤリイカをGET。 友人は大きなスルメイカをGET。 私もビギナーズラックか順調にヤリイカ、スルメイカをGET。しかし何回か仕掛けを絡ませ悪戦苦闘。友人から厳しい指導を受けながら何とか。 そして5時間ほどの沖釣りを楽しんだのであった。波も静かで私の撒き餌状態も回避できたのであった。海面には西日の陽光が。 そして相模川のマリーナに戻る。停留場所は草ぼうぼうになっていたので3人で急遽草刈りを1時間ほどヤブ蚊と格闘しながら。 この日の釣果の一部。 大きめの鯖も乗せて。早速、自分の手でイカ刺しにTRY。新鮮なため、イカの皮も簡単に剥けたのであった。 ビール片手に山葵醤油で。 鯖は塩焼きで楽しんだのであった。
2016.09.28
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今年も藤沢市・茅ヶ崎市・寒川町を流れる小出川沿いに咲く「彼岸花」を見に行ってきました。23日の早朝は雨が降っていましたが、8:30過ぎには止んだので急遽車を走らせました。そして15分強で大黒橋に到着。毎年、数万株の彼岸花が、大黒橋から追出橋までの川沿い約3kmにわたって咲き誇り、美しい風景を楽しむことが出来るのです。前日は『第9回 小出川彼岸花まつり』が行われる予定でしたが雨の影響はなかったのでしょうか。大黒橋上には『祭』の看板が。ここからこの日の見学をスタート。 『小出川彼岸花』の垂れ幕。大黒橋から追出橋までの3kmの彼岸花コース案内板。 赤と白のBEST MIX。花は、今が一番の見頃の様で、蕾が少し残り、活き活きとして綺麗に咲いていたのであった。雨降りの後であり、時間も早かったためか、見物客はマバラでゆっくりと観賞出来たのでした。 雨に濡れながらもすっくりと立つ彼岸花いや曼珠沙華(まんじゅしゃか)。シビトバナ、キツネバナ、キツネノタイマツ、キツネノシリヌグイ、ステゴグサ、シタマガリ、シタコジケ、テクサリバナ、ユウレイバナ、ハヌケグサ、ヤクビョウバナなどいやな名もあるが、ハミズハナミズ、ノダイマツ、カエンソウなど雅な名もあり、全国各地の地方名をあわせれば1000種類ほどあるのだと。様々な地方名を集め知るだけでも、面白いかも。それぞれの呼び名から、人々の思い入れや関わりあいが伝わってくる事間違いなし。『第9回 小出川彼岸花まつり』の遠藤・せりざわ会場のテントの下には写真展が。 ゆっくり見たかったが、足元は水溜りでグチョグチョ。 再度車に乗り走り、新道橋を渡り道端に車を停め、小出川沿いを上流に向かって歩く。この付近は今が盛りの曼珠沙華の世界。 小出川沿いを赤き帯が。畦道の両側に。 所々に白が我こそはと存在感を。 アゲハ蝶が彼岸花と戯れていた。 花のあとで葉が伸びてくるが、冬と春を越して夏近くなると葉は全く消えてしまう不思議な花。花と葉を同時に見ることはできないのです。葉のあるときには花はなく、花のときには葉がないのです。このことから韓国ではサンチョ(相思華(そうしばな))と呼ぶのだと。「花は葉を思い、葉は花を思う」という意味からと。すっくりと真っ直ぐに立って赤き曲線の帯を描いていた。 小出川の水量も例年になく多く流れも速く。彼岸のこの季節、この様に田んぼの畦道や土手で見かけることが多い彼岸花であるが、これはノネズミがあぜ道や土手に穴を開けるのを、彼岸花の毒性のある球根を植えることで防ぐため、また、彼岸花の根茎は強いため、田んぼのあぜ部分に植えてあぜの作りを強くするため、とも言われているとのこと。これぞ先人の知恵なのである。 面にまさに燃えるような色が一面に咲きほこる彼岸花。赤いヒガンバナは、稲穂の黄金、空の青(この日はダメでしたが)、雲の白、草の緑によくマッチする真に日本の秋の姿。 『彼岸花植生保護のため、自転車通行、犬の散歩はご遠慮下さい』 と。管理をされている里の方々に感謝。 ここ新道橋にも彼岸花の垂れ幕が。 『第9回 小出川彼岸花まつり』のパンフレットの裏にはこの付近のおすすめスポット案内が。 そして帰宅して我が家の門の内側の白の彼岸花。白い彼岸花の花言葉は、「想うはあなた」「また会う日を楽しみに」と。以下は・・・・詠み人知らず。 すっくりと 畦独り占め 曼珠沙華草川の 畦燃えたちぬ 曼珠沙華開悟して 白となりぬか 彼岸花 黄金田を 区切りて走る 赤の帯露結び 光放ちぬ 曼珠沙華そして学生時代の懐かしき山口百恵の歌がよぎる。
2016.09.27
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江戸ゾーンから東京ゾーンへ移る。『江戸無血開城』 慶応4(1868)年4月11日 戊辰戦争の最中旧幕府軍は新政府軍に対して無抵抗で江戸城を明け渡した。幕末動乱におけるこの大英断が、結果的に西洋列強から日本を守ったのです。立役者は旧幕府軍の勝海舟、そしてそれに応えたのが新政府軍の西郷隆盛。別の部屋で『山岡鉄舟生誕180年記念 山岡鉄舟と江戸無血開城』の特別展も行われていた。山岡鉄舟は戊辰戦争の際、勝海舟の使者として西郷隆盛を説き、西郷・勝の会談を実現させ江戸城無血開城を導いたもう一人の人物。鹿鳴館(ろくめいかん) 。鹿鳴館は、国賓や外国の外交官を接待するため、外国との社交場として明治政府によって建てられた社交場である。鹿鳴館を中心にした外交政策を「鹿鳴館外交」、欧化主義が広まった明治10年代後半を「鹿鳴館時代」と呼ぶ。鹿鳴館の舞踏会の様子。明治の初めの銀座もジオラマで再現。現在の銀座4丁目あたりとのこと。ガラスケースの中の25分の1サイズの大型模型ニコライ堂。 明治24年、神田駿河台の高台に突然に異国の教会が出現したと。リンタク(複製)/昭和20年代。戦後のガソリン不足の頃、リンタクは都会の乗り物として流行。このリンタクは、昭和63年まで皇居の周辺を走っていたと。日本初の公衆電話。受話器をとると、詳しい解説が聞けたそうですが・・・・。人力車。階段が設けられており乗って記念撮影も可能。 凌雲閣(りょううんかく)は、明治期から大正末期まで東京・浅草にあった12階建ての塔。大阪にも前年に建設された同名の9層の塔があった。名称は「雲を凌ぐほど高い」ことを意味する。浅草凌雲閣は12階建てだったことから「浅草十二階」とも呼ばれた。関東大震災で半壊し、解体されたと。浅草観世音之図。 同じく浅草にあった日本初の常設映画館。今や浅草には映画館は無くなったと。 東京のタクシーは1912年(大正元年)に営業をはじめ、昭和に入って、市内は均一1円の料金で、"円タク"と呼ばれ、市民も利用するようになったと。これはその"円タク"と同じ、フォードA型4ドアセダン(1931年製)。 化粧品・カテイフードのポスター。ウェーブのくっきりついた耳かくしを結った女性のイラスト。関東大震災(かんとうだいしんさい)は、1923年(大正12年)9月1日11時58分32秒に関東地方又は近隣で発生。東京都内にあった新聞社の社屋は殆ど被災し新聞発行ができなかったと。先ほどの浅草の凌雲閣も上部が倒壊したと。 東京大空襲/B29の機関銃と爆弾1941年(昭和16)12月、日本はアメリカやイギリスなどとの間で戦争状態に突入。しかし、戦争が長引くにつれ、日本は劣勢となり、やがて空襲の危機が迫ってくる。そのため、多くの学童が地方へと疎開。その後、東京の大部分が空襲を受け、焼け野原となる。 このコーナーでは、戦時中の人々の暮らしの様子を伝える資料のほか、東京大空襲の凄惨(せいさん)さを物語る被災した品々などが展示されていた。防空壕が各所に作られて、空襲時には人々は避難。しかしおびただしい量の焼夷弾が落とされて東京は丸焼けになり昭和20年(1945)3月10日の空襲だけで死者が10万人を超えた。また罹災者は100万人といわれていると。 写真は不発弾。爆弾で飴のように曲がった実際の鉄骨。 『銃持つ心で銃後に盡せ』と戦意発揚のポスター。 戦時中の家屋の窓には、爆風や衝撃波ガラスが飛び散らないように紙テープが貼られていた。また夜間の空襲の標的にならないように、電灯には覆いが取り付けられました。空襲警報が鳴ると明かりが消されたのだ。 アメリカ本土を狙った風船爆弾。これには15kgの爆弾と5kgの焼夷弾が2つ付けられた。昭和19年から20年春まで行われたと。 新宿ヤミ市のジオラマ。 終戦を伝えるアメリカの新聞。一面の上半分に『日本降伏』の大見出し。 同じく日本の朝日新聞。 降伏文書(こうふくぶんしょ)。 降伏文書とは、1945年(昭和20年)9月2日、大日本帝国と連合国との間で交わされた休戦協定(停戦協定)の名称。日本側は、天皇および大日本帝国政府の命により、重光葵外務大臣が、また大本営の命により、梅津美治郎参謀総長が署名。『電化製品の三種の神器』。昭和30年頃から高度経済成長期に入り、「三種の神器」と呼ばれる家庭電話製品も急速に普及され始めたのだ。これが私の幼き頃の姿。昭和30年代の団地の一室を再現。まさに『三丁目の夕日』の世界。懐かしき富士重工業製軽自動車スバル360スバル。マイカー需要創出のトップバッターとなった丸みが特徴の車体。日産製ダットサントラックG222型。日産自動車が製造した小型トラックのブランド。ダットサントラックの2代目にあたる220シリーズの一つ。2007年まで実際に稼動していた1台とのこと。昭和39(1964)年開催された東京オリンピックに関する展示。入場チケット。当時、私も中学2年生でこのチケットを持ち国立競技場へ。 表彰台。 この後、現代の東京を見学したのであった。そしてミュージアムショップも見学。そして帰路もエスカレータで下る。当時の東京都知事の鈴木俊一銘の江戸東京博物館の建設祈念碑。 江戸の武家及び町民の生活や、東京の過去から現在に至る人々の暮らしを展示した資料館を大いに楽しんだのです。とにかく広くて、常設展示だけでも内容が豊富で全部見るのは大変。間引きしながら見学しても2時間以上。全てを把握するには、何度も通わないといけない、これは佐倉の国立歴史民俗博物館と同じと想いながら江戸東京博物館を後にしJR両国駅へ向かったのであった。
2016.09.26
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5Fから再び 芝居小屋 中村座正面。江戸堺町(現・中央区日本橋人形町三丁目)にあった19世紀初期の歌舞伎の芝居小屋・中村座の正面部分を、原寸大の復元(間口11間(約20m)・奥行3間(約5.5m))中村座は幕府に興行を許可された江戸三座のひとつで、他には市村座および森田座が存在した芝居見物は人々にとって最大の娯楽であり、庶民はもちろんのこと、武家たちも日常を忘れて歌舞伎の世界に心を遊ばせたと。屋根の上には、防災の備えとして雨水を貯めておく天水桶が設置され、中央には芝居興行の公許の印である櫓がかかげられていた。櫓には、正面に中村座の座紋の「角切銀杏」、両脇に「きやうげんづくし 中むらかん三良」と染め抜かれた櫓幕が張られていた。櫓の下にある櫓下看板には、中村座を代表する役者「さるわかかん三良」(猿若勘三郎=中村勘三郎)「瀬川路考」「岩井半四郎」の3名が記され、その右にはこの絵看板が。 七代目市川團十郎の「歌舞伎十八番」の1つの、歌舞伎の演目、通称『助六』シーンの再現。 曽我五郎時致(そがのごろうときむね)は、花川戸の助六(はなかわどのすけろく)という侠客となって、源氏の宝刀友切丸(ともきりまる)を探し出すため吉原に出入り。三浦屋の傾城揚巻(あげまき)と恋仲になった助六は、吉原で豪遊する意休(いきゅう)という老人が、この刀を持っていることを聞きだし、奪い返すというストーリー。粋な黒紋付の着流し姿・非縮緬の下帯に紫鉢巻を締め、唐傘をさして登場する場面。 中央に三浦屋の傾城揚巻、右に恋敵でもある、髭の意休。歌舞伎の衣裳の中でも豪華さでは屈指の衣裳で、太夫とよばれる最高位の傾城を表現 。髱(たぼ)とよばれる髷(まげ)の下部が大きいのが特徴。簪(かんざし)や笄(こうがい)、櫛(くし)など合計20本近くの髪飾りが使用され、豪華さが際立つ。絵草紙屋。「東海道名所図会」に描かれている和泉屋市兵衛の店(甘泉堂)を元に実物大で復元したもの。神田明神の山車の原寸模型。神田祭は江戸期は山車が中心だったが、近代に山車は消えた。館内には江戸期の神田祭の行列の縮小模型も。江戸の四季のコーナーには富士三十六景 甲州大月の原が。本作品は、御坂山地の上に顔を出す富士とその前に広がる大月原とを対比させ、野菊、桔梗、女郎花など咲くすすき野原を写し取ったものと。両国橋西詰江戸時代の文化、商業などについて展示しているコーナーには、「両国橋西詰」の賑わいを表す模型の展示が。ここでは、花火見物で盛り上がる街の様子を表現。左は屋形船「高尾丸」。 軒に連なる見世物小屋や茶店などは、花火見物に合わせて臨時で設けられたものと。江戸時代の生活や文化のコーナーのからくりコーナーには回す人は汗だくになりそうな手動扇風機が。 江戸の商業のコーナー。江戸と大阪の間を荷物を運んで行き来した船・菱垣廻船 (10分の1)。特に「天下の台所」とよばれた大阪から木材や油、紙などの日用品を運んだと。船の外側の木が菱形をしていたことからこの名前がついた。 江戸前の寿司屋の屋台も再現。町人たちが風呂帰りなどに立ち寄ったりした。風呂上がりで手がきれいなので、箸など使わず手でつまんだというのが、今日の寿司を手で食う慣習の始まりと。この寿司、現在のものと比べると1貫が大きい。また赤酢を使用しているので、シャリが赤っぽくなっているのが特徴とのこと。こちらは二八蕎麦屋の屋台。 天秤の如く担いで移動。江戸時代の貨幣も多数展示。千両箱を持つことも出来た。 千両箱。三井越後屋。 代表的な呉服店「三井越後屋」の店先(駿河町)の再現。中央には薬種所に掲げられた看板も。
2016.09.25
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6Fまでエスカレーターで上がると、このフロアーは『E 江戸ゾーン』。正面に江戸時代の長さは1/2であるものの原寸大の日本橋の姿が。 存在感たっぷりのこの木造の模型は橋長:25m, 幅員:8m。この場所は撮影スポットとしても大人気。 5階と6階が吹き抜けになっているため、その日本橋から、館内を見渡すことができた。眼下に広がる江戸。5階と6階にまたがった江戸ゾーンでは、様々な歴史資料や展示物を見ることができたのであったが、小さな子どもたちには、多くの体験できる展示物が。眼下には『芝居小屋 中村座』。江戸時代の代表的な歌舞伎の芝居小屋である中村座の正面部分を、原寸大(間口11間、奥行き3間)で復元。こちらは『朝野新聞社(ちょうやしんぶんしゃ)』。成島柳北が社長として始めたこの新聞社は、1874(明治7)年に「朝野新聞」を創刊。明治政府を批判し、自由民権運動が高まったころには“民権派”の新聞として人気が高かったと。この建物は銀座煉瓦街の中心、現在の銀座4丁目交差点辺りにあったと。 日本橋を渡り終えると目の前に現れるのが、壮大なジオラマ模型。「江戸ゾーン」エリアのはじまり。多くの観光客が日本橋を渡って「江戸ゾーン」に。 目の前に拡がる美しいジオラマは、もはや芸術作品そのもの。わずかに残る資料や情報をもとに、江戸の町割りに基づいた街並みや人々が事細かに作られていたのであった。江戸のにぎわいそして町の音ががそのまま伝わって来るようで。双眼鏡も用意され、一人一人の人物の顔、衣装そして家の中まで楽しむことが出来る、いつまでも見つめていたい空間ジオラマ。『E1 江戸城と町割り』 江戸城「本丸・二の丸」のジオラマを北の方向から見たもの。手前の天守閣は「明暦の大火(1657)」で焼け落ちついに再建されることはなかったと。江戸城本丸大広間、松の廊下、白書院のジオラマ。江戸城 忠臣蔵でおなじみ松の廊下。江戸城大広間。江戸城内最大の書院である大広間は、将軍宣下の儀式、武家諸法度発布、年頭の拝賀などの公的行事を行う最も格式の高い御殿である。上段之間には将軍が坐する。将軍の呼び名は「公方様」「御公儀様」「大樹様」と呼ばれていた。権威を演出する大広間では大名の座る場所は格式によって厳格に定められていた。以下、中段之間、下段之間、二之間、三之間、四之間、後之間、納戸が中庭を囲み合わせて500畳で構成されていると。寛永期の武家地 案内板。 徳川家康公がでんと構えていた。 徳川将軍家・御三家・御三卿系図 徳川御三家は、江戸時代において徳川氏のうち徳川将軍家に次ぐ地位を持っていた3家のこと。御三卿は、江戸時代中期に徳川氏の一族から分立した大名家である。以下の三家を指す。1.田安徳川家(田安家) - 始祖は徳川宗武(第8代将軍徳川吉宗の次男)2.一橋徳川家(一橋家) - 始祖は徳川宗尹(第8代将軍徳川吉宗の四男)3.清水徳川家(清水家) - 始祖は徳川重好(第9代将軍徳川家重の次男)徳川将軍家に後嗣がない際に将軍の後継者を提供する役割を担った事そして徳川御三家へ後継者を供給することにもなった事がこの図一つで理解することができるのであった。ご存知、忠臣蔵で有名な赤穂浪士の討ち入りの発端となった松の廊下。襖を飾る狩野派の障壁画に松が描かれていたので、松の廊下 と呼ばれている。吉良上野介と浅野内匠頭の刃傷沙汰があった松の廊下そして襖絵が続く。 大名・旗本・御家人 の説明図。大名と旗本・御家人の関係が説明されていた。旗本・御家人は徳川将軍家直属の将軍の家臣。大名とは全く無関係。そして大名もまた徳川将軍家に服属する家臣。つまり立場は同列であり、大名は旗本・御家人より格が上。大名は石高10000石以上、江戸中期には約260人いたと。中宮が牛車で移動の絵巻図。 江戸時代の衣装。陣羽織( 七つ槌車紋 )。陣羽織とは、武家が陣中で具足の上から着用した羽織の事を言い、多くは袖がない。 当初は 防寒 ・ 防雨の為に着用していたが、江戸時代になると 主として野外での「 儀礼服 」として用いられたと。主に絹や羅紗、ビロード等の布が用いられた。背面に 定紋 が添えられ、刺繍が施された 装飾豊かなもの。 甲冑。『本小札紅糸威胴丸』出羽国久保田(現秋田県)の佐竹家に伝来した具足。(江戸時代後期)大名のお姫様が乗っていた駕籠。大名が乗る駕籠とは違い、女性らしいデザインが印象的。 東海道五十三次図屏風。狩野宗信作。6Fから5Fにエスカレータで下るとそこは『E2 町の暮らし』展示コーナー。ここでは、実物大の「長屋」などがあります。長屋とは細長い建物を数戸に区切り借家としたもので、主に江戸町人が住んでいた。ここにあるのは最も一般的だった、「九尺二間の裏長屋」という間口約2.7m(9尺)、奥行約3.9m(2間)の大きさの家。家の中は、人形を使って当時の人々の様子を再現。 棟割長屋の一室に復元された江戸庶民のお産の様子。江戸時代の出産は、一般には座産で、産婦は天井から吊り下げた綱や添え人を支えにして子供を産んだ。生まれた子には産湯をつかわせるが、このとき産婆はたらいの前に腰かけ、赤児をうつ伏せにして両脚をのせ沐浴させた。これはへその緒の切り口に湯がかかるのを防ぐためと、背中は五臓を宿す大切なところであるため眼を離してはいけないという中国の説によるものだという。一方、産婦の方も、頭に血がのぼらないようになどとの俗説から、産後も産椅や積み上げた布団によりかかり、座ったまま7日7夜を過ごさなければならなかった。そのために健康をそこねることも少なくなかった。」(展示の説明より)長屋の奥で指物(さしもの)をやっている指物職人の家。指物とは、板材を組み合わせて作る木工のことで、日本でも古くから技術が発達しているが、これがとくに発達したのは江戸時代とのこと。町火消しの配置(江戸中期)大岡越前守忠相は、享保3(1718)年には町火消をつくり、享保5(1720)年にはいろは四十八組を編成し、本格的な町火消制度を発足。いろは組は、隅田川を境とした西側の区域に組織されたもので、「へ」「ら」「ひ」「ん」の四文字組は「百」「千」「万」「本」に変えられたと。「へ」は屁に、「ひ」は火に通じ、「ら」は隠語、「ん」は語呂が悪いというのが、その理由であったと。火消しの纏(まとい)。体験展示もあり、纏を持つこともできるようになっていた。 町火消し絵図。『火消千組の図絵馬』(天保4年・1833、歌川国芳/画)町の住宅の家族と年齢構成図。 幕末(1861年、文久元年)の四谷塩町一丁目では、核家族を中心とする3~4人前後の家族が最も多く見られた。年齢で見ると、20~40歳ほどの人がもっとも多かったと。庶民の食事。イワシの目刺し、ご飯、漬物、汁物。 常設展示5階の浮世絵の製作過程を展示したコーナー。名所江戸百景 『亀戸梅屋敷』ゴッホが油絵で模写した事でも知られる歌川広重の作。下段が版木(色版)の実物:版木には硬い山桜を使用すると。中段がその版木単色で摺ったもの。上段は色版を重ねた製作過程。
2016.09.24
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国技館から5分ほどで江戸東京博物館前に到着。階段上には高床式のユニークな構造の建物が。 3Fへの階段を上る。 3Fは巨大な広場のようになっていた。 『浅草寺旧本堂大棟部分復元』 展示が壁の前に。鬼瓦。建物の大棟や降り棟の端を飾る瓦が鬼瓦。8世紀以降、建物の安穏を祈り、鬼面を飾ったことから、鬼瓦と呼ばれるようになったと。この鬼瓦は、浅草寺(台東区浅草)の本堂である観音堂を飾る鬼瓦として、享保6年(1721)から昭和4年(1929)まで大棟に使われていたもの。観音堂は明治40年(1907)、国宝の指定を受けていたが、関東大震災による修復の際、この鬼瓦は様式が合わないと言う理由で屋根から取り外されたと。瓦の銘には、享保6年(1721)に浅草寺領である浅草諏訪町、浅草瓦町で制作されたことや、「作者 平井助左衛門」と鬼瓦師らしき人物の名が刻まれていると説明板に。前方に展示室まで更に上がる赤いエスカレーターが。前方には国技館の屋根が見えた。 チケット売り場でチケットを購入しようとすると、65歳以上は老人週間(9/15-21)で無料入場出来るとのこと。更に高価な特別展も無料入場出来ると。免許証を見せて無料チケットを想定外でGET。江戸東京博物館は、失われていく江戸、東京の歴史と文化に関わる資料を収集、保存、展示することを目的に、「江戸と東京の歴史や文化を伝える博物館」として平成5年(1993年)3月28日に開館。6階 常設展示室へエスカレーターに乗り向かう。 どこかに同様な美術館があったことを想い出したのであった。それは熱海のMOA美術館。 エスカレータの壁には、江戸から東京へと移り変わる様子が服装で分かるような絵が貼ってあった。 錦絵から人物を切りぬいて拡大したものだと。こちらには、浮世絵風の絵が並んでいた。常設展示室に向かい長いエスカレータを乗り換えしつつ、登って行った。乗り換えフロアーの正面の絵画。名所江戸百景 『隅田川水神の森真崎』。再び浮世絵が。 大きな絵が見えると、いよいよ入口。 楊洲 周延(ようしゅう ちかのぶ)作 『千代田之大奥 御花見』。江戸城内での花見の様子とのこと。 常設展示室案内図。
2016.09.23
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東京に行った折りに、両国へ足を延ばしました。JR両国駅ホームから両国国技館が見えました。両国駅西口下車徒歩2分ほどで両国国技館横に到着。その奥には江戸東京博物館が。実はこの日の目的地は江戸東京博物館。両国国技館手前の広場には各種出店が。古い『大相撲』の雑誌が販売されていました。懐かしい横綱、大鵬、柏戸、北の富士、玉の海、そして先日亡くなった千代の富士等々。折しも、大相撲秋場所が開催されていました。この場所の地名はなんと東京都墨田区横網一丁目とのこと。いや横綱ではなく横網、間違えやすいので要注意!館内の道路脇には高い櫓が。相撲興行を知らせるために、櫓の上でいろいろな種類の太鼓が打たれるのです。寄せ太鼓、一番太鼓、はね太鼓、触れ太鼓・・・・・。そしてその手前には大相撲の雰囲気を盛り上げてくれる「のぼり旗」が。横綱の日馬富士、白鵬、鶴竜、大関の稀勢の里、豪栄道の「のぼり旗」通称「相撲のぼり」と言われ、力士の名前と、贈呈者の名前が書かれているもの。カラフルなのぼり旗が風になびいていた。正面入り口手前に相撲関係者入り口が、そして何人かの警備員が。力士はこの門から場所入りするのです。この門の手前には多くのおばさん、おじさんがカメラを手に。国技館案内板。そして切符売り場。『本日の入場券は全て完売』の表示が出ていました。ここで写真を撮っていると一人の男性が静かに『お一人ですか?』と。scalper ??正面入り口。そして正門を後にし、江戸東京博物館に向かったのです。 未だ生の大相撲観戦は未体験の私。一度は見てみたいと思っていますが・・・。「マス席」チケットは4人で38000円~46800円とのこと。せめて当日自由席2階イス席2200円でもと・・・・。
2016.09.22
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昨日20日は、非常に強い台風16号が午前0時過ぎに鹿児島県大隅半島に上陸、午後1時半頃に和歌山県田辺市付近に再上陸したあと、夜には我が地域にも近づくとのことで、慌てて先日定植した冬野菜の風対策を行いました。こちらはブロッコリーの定植場所。ネットを被せ、マルチ押さえでネットを固定。こちらはカリフラワーは白のネットで。作業開始時には雨が止んでいましたが、作業中に急激に強い雨が。慌てて固定作業を。。そして苗箱も空いた苗箱を被せてこちらは網で抑えつけました。幸い台風は夜には勢力が衰え、熱帯低気圧に変わったとのことで、風もそれほど強くなかったのです。今朝には防風ネットを外しました。おかげで殆ど被害はなく、数枚の葉が落とされただけ。苗箱の蓋も外しました。そして念のため、潮風対策として苗の葉に水をかけて塩分を落としてやったのです。来週は太陽も顔を出すとのことですので、順調に成育して欲しいのです。
2016.09.21
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先日のテレビで熊本地震で大きな被害を受けた熊本城の石垣について構築の年代、石垣の積み方によって被害に差が出ていることを紹介していました。以下の写真は、先日、日本百名城スタンプラリーの一環で熊本城を訪れた我が旅友のSさんの写真とテレビ画像を転載させていただきました。 飛行機の窓からの熊本城。よく見ると至る所で石垣の崩壊していることを確認できたのです。2016年(平成28年)4月14日21時26分以降、一連の地震後に中止されていた熊本城のライトアップが6月1日、再開された。午後8時に点灯されると、暗闇の中、地震によって傷つきながらも勇壮な天守閣の姿が浮かび上がったと。記者会見した大西一史熊本市長は、「市民のシンボル、誇りである光が、市民のあすへ向かう希望のともしびになることを願う」と話したと。飯田丸五階櫓の石垣崩落直後の姿。そして飯田丸五階櫓の現在の姿。飯田丸五階櫓は天守閣の南西にあり、4月16日の本震で石垣が大きく崩落して建物の床面が露出し、一筋の石垣が支えている状態になった。6月から石垣の崩落部分を鉄骨で支える補強工事を進めてきた。倒壊防止工事は、櫓を支えるアーム状の鉄骨「仮受構台(全長約33m 高さ約14m 幅約6m)」で櫓を取り囲み、石垣のわずかな空洞部分に支えとなる鉄骨を差し込むことで、櫓の倒壊を防止している。7月末に完了したとのこと。 残った石組みは、東日本大震災で津波に耐えた「奇跡の一本松」にちなんで「奇跡の一本石垣」と呼ばれていたと。 隅石だけで3ヵ月以上、地震にも大雨にも負けず、よく耐えたのです。本当に『お疲れ様でした』と言いたいのです。戌亥櫓(いぬいやぐら)の現在の姿。もう一つの『一本足』。 櫓の崩壊を一本足で支えているように見える戌亥櫓。一本足といえば前述の飯田丸五階櫓が有名だが、城内の樹木が遮って見えにくいとのこと。一方、戌亥櫓なら現在立ち入り可能な「二の丸広場」北側から天守閣などとともに一望できるとのこと。損害のなかった「宇土櫓(うとやぐら)」が話題になっている。宇土櫓は築400年経っているのに建物、石垣ともに築城当時の宇土櫓はほぼ「無傷」だった。当時の建築技術はスゴいの一言。築城の名手として知られる加藤清正により、安土桃山時代から江戸時代初期にかけて築城された熊本城だが、西南戦争で天守を含む御殿など主要な建物を焼失。現在の天守は昭和時代に再建された鉄筋コンクリート製。消失を免れ当時の姿をそのまま残している上記『宇土櫓』だが今回の地震でも倒壊しておらず、加藤清正や400年以上の築城技術 賞賛する声が日本中から数多く上がっているのです。時代の異なる特徴ある石垣が同時に観れる熊本城の「二様の石垣」は結構有名な所。加藤清正が築いた武者返しの綺麗な石垣と細川忠利が本丸御殿建築の際に積み増した石垣が並んだ二様の石垣。隅石の形状(算木積)や傾きに違いがよく現れている姿。加藤清正時代の勾配の緩やかな石垣(手前右側)と、後の細川時代の勾配の急な石垣(奥左側)。戦国末期以降は,算木積み(さんきづみ)という技法が用いられ,強度が格段に向上したといわれていると。算木積みとは,隅石(すみいし)の長方形の短辺・長辺を交互に組んで積み上げていく方法。しかし、今回の地震で、角石が算木積みでない、立方体に近い石を隅石として積み上げた加藤清正時代の勾配の緩やかな石垣は被害が少なく、算木積み(さんきづみ)の隅石の石垣には多くの崩壊が発生していると。加藤清正は強度が格段に向上する算木積みを敢えて使わなかったのではと。石垣は何度も修復を重ね、ある時期に直した箇所がごっそり崩れ落ちた可能性が高いのではと。加藤清正が使った穴太衆が関与していない工事箇所に崩落が多いのではと指摘。言外には「穴太衆の技なら、一部の石が落ちても石垣は崩壊しない」と語るコメンテーター。更に、算木積みの石垣は上部からの力が、隅石から斜めに石垣に伝わるため、石垣の膨らみが発生し崩壊に繋がったのではと。それに反し、立方体に近い石を隅石として積み上げた加藤清正時代の勾配の緩やかな石垣は力を全て隅石を通して下部に伝えるため、石垣の被害が比較的少なかったのだと。テレビのコメンテーターの大学教授?は語っていたのであった。 【http://www.city.sendai.jp/d01/1220887_1433.html】より転載 更に天守閣の瓦は、落ちなければいけなかったのだと。 実は倒壊しないようにわざと簡単に落ちるようにしてあるのだと。所謂先人の知恵であると。地震が起きた時は速攻で瓦を落とすことで屋根を軽くする意図があるのだと。瓦屋根全体が倒壊し易くなったのは建築法が改正されて、「瓦は落ちないように」となってからと。 テレビの画像は、天守の屋根には殆ど瓦が残っていない姿を写していた。勿論、城内には入場できないようですが、北部に位置する加藤神社からその様子をみることができるとのこと。小天守と大天守。瓦と鯱が崩落していることがこちらからも解るのでした。石垣と小天守の母屋の間に隙間が出来ていることも確認できます。大天守、小天守そして手前に宇土櫓。しかし手前の石垣そして木塀は大きく崩壊。 国指定重要文化財の東十八間櫓と北十八間櫓も石垣ごと完全崩壊。かろうじて残っているのは五間櫓だけ。西南戦争では落城しなかった熊本城も、今回の二度にわたる震度7の地震には持ち堪えられなかったのであった。修復には数十年を要する見通しで、課題も多いと。一方で「復興のシンボルに」「復旧に期待」など市民からの声も多く、日本財団は総額30億円に上る緊急支援を決定するなど、再建に向けての動きが出てきているのだ。熊本市は熊本城を復興のシンボルとして天守閣を3年で、石垣を含めた城全体を20年かけて復旧させる考えとのこと。1日も早い熊本城の完全修復が今回の熊本地震の復興の日となるのであろう。いずれにしても日本では被災地以外は「未被災地」。どこでも震災は起こるのです。正しい危機感を持って備えることが大切だと解ってはいるのですが・・・・・。
2016.09.20
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この数日、冬野菜の畑への定植を行いました。ネットで種を購入し、それぞれを箱蒔きし、その後に1本1本をポットに定植し育てて来ました。 養蜂場のある農園を再度耕し、堆肥、鶏糞、化成肥料で施肥し、2列の穴あき黒マルチを敷きました。 そしてブロッコリーとカリフラワーをそれぞれのマルチの穴に植え付けました。 こちらはブロッコリー。 F1種の『あまプロ』 「F1」とは、聞きなれない言葉ですが、品種に関する用語で「雑種一代」を意味します。雑種一代とは、交配によって作られた新品種の一代目ということ。糖度12度を超えたこともある極甘ブロッコリー。収穫後さっと茹でてそのまま何もつけずに頬張ると、その甘味に感動すると。「マヨネーズやドレッシングをかけて食べるなんてもったいない!」と思わせる逸品とのこと。写真は種のネット購入先の国華園さんから転載させていただきました。10cm程に育った苗を植え付けました。 こちらはカリフラワー。 『F1 デクスター』 花蕾が1.5kgにもなる超ビッグサイズ。花蕾を葉が自然に包み込むので、わざわざ結束しなくても美しい純白のカリフラワーが収穫できると。草勢も強いと。そして別の場所にも2列の穴あきマルチを敷きました。チョット右にカーブしていますが、これぞ血液型B型の為せる技なのです。 一番手前には白菜を植え付けました。 『F1 寒みどり』播種後約90日で球重3.5~4kg以上になる大型黄芯晩生白菜。 やや虫にやられましたが。 そしてキャベツ。『F1 やわらかキャベツ』。柔らかく、みずみずしい葉質で甘味たっぷり。サラダはもちろん、炒め物から煮物まで、オールマイティーな美味しさとのこと。 こちらも10cm程に育った苗。 ロマネスコ。『F1サンゴ礁花耶菜』不思議な形の野菜。甘味強くてクセがなく、茎まで柔らかいカリフラワーの仲間なのです。苗はやや小さいですが大丈夫でしょう。 そして妻の好きな芽キャベツ。 『F1 クラスター』柔らかくゆでて、シチュー、和え物、煮物、バター炒め、サラダなどに。正月用に縮れ葉牡丹も植え付けました。 既に茎は赤くなっています。 こちらは白。 最近はいろいろな葉牡丹が店頭に出てきました。正確には、花ではなく葉が白・桃・赤と美しく色づいて、冬の厳しい季節の中、輝くような葉色と迫力ある姿を見せてくれるのです。 そして西洋ミツバチの巣箱が並ぶ前には、点検スペースを確保して5列の穴あきマルチを敷きました。 そして大根の種蒔きを行いました。『F1 蔵だいこん』 首色は淡い緑色で、皮色、肉色とも純白。尻つまりよく、円筒形で揃いも抜群!越冬させることで甘味と滑らかさがぐんとアップすると。ジャンボにんにくも植え付けました。こちらは今春収穫したものを植え付けました。ホームセンタで1袋追加購入し植え付け。 普通のにんにくも購入。 鱗片1粒ずつにばらし、大きめのものを選びました。そのばらした鱗片を植え付けるのですが、この時注意するのは、植え付ける鱗片の方向。鱗片をよく見ると、根がついていたあとのように平らになっている方と、つんと尖っている方とあるのが分かるのです。植え付ける時には、尖っている方を必ず上に向けるようにしなければなりません。 そして自宅横の菜園にも同様に。そしてこちらは、今年のイチゴ栽培の場所。こちらは養蜂場のある畑ではなく、自宅横の畑の一角。孫がイチゴの収穫を楽しむために、蜂の来ない場所にしてとの娘そして妻の強い要求なのです。日当たり、風通し、水はけのよい腐植に富んだ場所が適しています。ある程度は連作が可能ですが、年を追うごとに花つきが悪く実が小さくなって、葉ばかりが茂るようになってきます。よってイチゴの作付け場所は1~2年間休んだ場所にしなければならないのです。そしてそのイチゴの苗も順調に大きくなってきました。 10月下旬には苗床を作り2条植えで定植する予定なのです。
2016.09.19
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今年の9月15日は旧暦8月15日の十五夜。この日の月は「中秋の名月」として知られており、お月見をするのが昔は習わしとなっている事は一昨日9月16日のブログにアップしました。しかしこの日は満月ではなく、9月17日が満月なのです。 そして前日9月16日の19:30前の月です。この時は雲も少なくはっきりと月の姿が。よく見ると左側の丸みが僅かに小さいとも見えるが・・・・。 いずれにせよ、満月前日の月の姿。更にズームアップ。写真中央下で見事な光条を放っているのが、有名なクレーター「ティコ」。そして9月17日、満月の月。上空には雲があり、月が見えたり隠れたり。 雲が切れて満月の月が姿を現しました。時間は22:35過ぎ。 満月は月面上に影が出来ないので、月面の地形観測には向かないのだと。しかし、明るさが違う 海や山脈が見事なコントラストを作り、不思議な模様を見せてくれたのです。 再び月面の南部に位置するクレーター。ティコ (Tycho) をズームで。私のデジカメの画像設定を下げて更なるズームにTRYしました。、ティコは非常に大きく直径85キロのクレーターとのこと。太陽が当たり明るく輝いて、1500kmにも及ぶ光条(放射状の光の筋)を放っている事が解るのでした。月のクレーターの名前は全く詳しくありませんので、名前の解るページをネットで探して見ました。この日の月の姿とほぼ同じ説明図を見つけました。【http://www12.plala.or.jp/m-light/Crater.htm】より転載させていただきました。 東の縁近くに位置する巨大なグリマルディ・クレータは,直径は222km。この日は底が黒く見え,海のように見えたのです。一番右に『危険の海』、そして左上から『晴れの海』、『静かの海』、『豊かの海』。約40億年前、多量の小天体が地球の外側起動から太陽に向かって降り注いだのです。その時月に衝突した証拠がクレータ。地球のクレータは水の浸食や風のために風化して殆どが無くなってしまったのです。その後、地球の引力にひかれて月の内部からマグマのようなものが表面に出て来たのです。これが海に当たる平らな部分なのです。 『危険の海』を更にズームで。月の表面の凹凸が見えているように感じるのですが、私のカメラではこれが限界。『プラトー・クレーター』。真ん中の『雨の海』とその北側の『氷の海』を隔てているアルプス山脈の北縁にある直径101kmのクレーター。昔から日本では、月面の模様をうさぎが餅つきをしている姿に見えるということになっていますが、他の国ではどの様に言っているのでしょうか? 調べてみると中国:カニノルウェー:男の子と女の子がバケツを運んでる様子アメリカ:女性の横顔ネイティブアメリカ:ワニ、トカゲ東ヨーロッパ:横向きの女性の顔ドイツ :薪をかつぐ男北ヨーロッパ : 本を読むおばあさん南ヨーロッパ :大きなはさみのカニインドネシア:女性が編み物をしているベトナム:大きな木の下で休む男モンゴル:犬アラビア:ほえているライオン動物の鳴き声(擬音語)と同様に月の模様の見え方も国によって様々のようです。うさぎのいない国々では、その地域に棲んでいる動物に見られる場合が多いのでしょう。(例:ライオン)。また、その土地に語り継がれた伝説や、神話の人物に見られる場合もあるようです。月を見る向きや、その土地の自然・習慣・伝統などが関係して、いろいろなものに見られていることがおもしろいのです。地球の自転によって、月は少しずつカメラの液晶モニターからずれていきます。カメラを僅かに動かし、そしてズームしながらピントを合わせシャッターを押す。こうしていろいろとカメラの設定を試行錯誤しながら、月を追いかけている時間が本当に楽しかった自分がいたのです。人間の老化は、「知力」「体力」より、まず「感情」から始まると。何事にも好奇心とチャレンジ精神を持ち続けることが重要だと思っているのですが・・・。そして百人一首?に出てくる歌『月々に月見る月は多けれど月見る月はこの月の月』を想い出したのです。
2016.09.18
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この初秋の時期に我が家の庭に咲き楽ししませてくれている花々を紹介します。まずはオシロイバナ(白粉花)。昨年の種が落ちて自然と生えて来る繁殖力旺盛のオシロイバナ。全体にみずみずしい緑。花は赤、黄色、白や絞り模様など各種あるようですが我が家のものは赤い花。花は夕方開き、わずかな芳香が。このため和名としてはユウゲショウ(夕化粧)とも呼ばれています。これも繁殖力旺盛なシオン。 うすピンク色の花をたくさん咲かせています。そして酔芙蓉の花も夕方のこの時期に酔っぱらっていました。 コルチカムも咲き出して来ました。秋になると根も葉っぱもない状態の球根からにょっきりとつぼみを出して花を咲かせます。 コムラサキの実も鈴なり。 ほうき草も大きくなって私のお腹のように。 カラーリーフとしてガーデニングで親しまれているコキア。昔、コキアの枝をホウキに利用していたことから、「ほうき草」「帚木」という和名で知られているのです。鮮やかな緑色をした葉っぱが秋になると紅葉する様子が美しく、庭を彩ってくれます。そして既に細い幹の上部は赤への変身が始まっています。 里芋の大きな葉っぱに寄りかかる朝顔の花。 美しい青。 そしてミズヒキ(水引)も赤を増しています。祝儀などで使われる水引きそっくりなことからミズヒキ(水引)の名が。木陰などの暗い場所に育つので、目立たない花ですが、わび、さびの世界に通じるのか、茶室の脇などに植えられることも。妻が好きな花。更にズームで。そして我が家の前の畑の片隅には白花ヒガンバナが。我が家の物もあと数日で開花しそうです。白花と言っても、完全な白ではなく、僅かに黄色が混ざっているようです。 今年はまだ残暑が続いていますが、秋の気配は十分に感じられるようになりました。「秋」は、いい季節です。秋がいちばん好き、という人も多いのではないでしょうか。私もその一人。「秋」と言えば、食欲の秋、芸術の秋、行楽の秋、紅葉の秋、スポーツの秋、読書の秋、実りの秋、スズメバチの秋・・・と楽しみもそして注意の秋といろいろとあるのです。健康に留意し、その時々の日本の四季を大いに楽しみながらアクティブシニアとして頑張っていきたいのです。
2016.09.17
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昨日9月15日は2016年の中秋の名月(十五夜)でした。 しかし、夜になっても空には一面の雲が。今年はダメかなと諦めていましたが 20時過ぎに私の部屋から外の空を見上げると、雲の切れ間から白き月の姿が。 旧暦では、月の満ち欠けにより日付を決めていましたので、十五夜(中秋の名月)とは、 旧暦8月15日の満月を意味します。また、旧暦で秋は、7月~9月となっており、 その真中の日が旧暦の8月15日になるため「中秋」と呼ばれます。 月の満ち欠けを基準にしていた旧暦と、太陽の動きを基準にしている現在の暦には ズレが生じます。 そのため、実際には毎年9月中旬~10月上旬の間に旧暦の8月15日がやってきます。 これだけ幅があると何かと大変なため、十五夜関連の行事を毎年9月15日に固定化している場合もありますが、正確には違うのです。十五夜は、今年は昨日の9月15日。そして満月は明日9月17日。それ以降は、以下のとおりとのこと。・2017年:10月4日 満月は、10月6日 ・2018年:9月24日 満月は、9月25日最近では十五夜が満月だったのは2013年。次回はなんと・・・2021年とのことです。 雲が邪魔して、ズームでもウサギの姿は残念ながら。 しかし、昨日の月が満月と言われても、違うとは言えないくらいの丸い姿。 いろいろと書きましたが 細かいことを気にしません。 「とりあえず丸い」「なんとなく丸い」「まぁまぁ丸い」が基本理念のB型人間ですので。 私が子供の頃には中秋の名月(十五夜)には、月見団子が。この日には、祖母、母が団子を準備し、ススキを供えて、実家の縁側に飾り月にお供えをし、翌日その団子をみたらし団子風に美味しく食べたのですが。十五夜の時に供える月見団子は、穀物の収穫に感謝を表すため、月のように真ん丸団子を作ってお供えするのだと祖母?から。そしてその団子を掌で丸めて作った記憶も。 ススキを飾るのは、ただ単に稲穂(米)に似ているからで、本物の稲穂を供えても良いのだとも。月見団子をいくつ供えていたか? 月の数の12個いや十五夜だから15個?我が実家はいくつだったのでしょうか?そして私はいくつ丸めたのでしょうか?記憶が全くありません。しかし最近ではこの習慣も絶滅の危機に? そして5分も経たないうちに、再び雲の中に隠れてしまったのでした。
2016.09.16
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我が農園の落花生の収穫を行いました。落花生はマメ科の野菜で、花が落ちた部分から弦が伸びて地中に実がなることから「落花生」と呼ばれるのです。葉が全体的に黄ばんで下葉が少し枯れ落ちてきた頃が収穫適期とのこよですがチョット早めの収穫です。。各株には既に大きな落花生が付いていました。 多くが既に莢に網目が入っていますので収穫の適期であったようです。収穫後は莢の部分を上に向けて風通しの良い場所で数日~1週間ほど風乾させると良いのです。 ホースで水をかけて見ました。収穫にはまだ早い鞘は、網目がなくスベスベしていました。 少量だけもぎ取り水洗いし、早速茹でピーにしました。 茹でて膨れあがったホックホクのピーナツが顔を出しました。それにしても大きい。 食感はまさに栗。水分を含んでしっとりとしたおかげで、ピーナツは通常のカリカリとした食感から、なんと栗のような食感へと変貌を遂げたのでした。
2016.09.15
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仕事の応援で4日間ほど三重県津市に行ってきました。初日の私のホテルの部屋からの朝焼けです。 上空の雲も赤く輝き出しました。雲の間から何筋かの輝きがみるみる内に。 そして我が部屋からの日の出の姿。 朝の陽光にて部屋の壁に映る男の姿が・・・・。 そして電柱の隙間から朝の光が。そして翌日朝の姿。手前はホテル駐車場のナトリューム灯。この日は上空には雲の姿は殆ど無し。 そしてこの日の我が部屋からの日の出。 わずかな雲が赤く輝いていた。初秋の日の出、そして電柱の間から陽光が。 そして最終日の朝。この日は一面の雲の中から束の間の太陽が姿を現しました。 そして十数秒の赤の輝き。毎日朝を迎えていても、二度と同じ朝焼けの景色は見られないのです。今日この時だけの景色と思うと、見ずにはいられなかったのです。季節の変わり目を感じるころに、いつも思うことは、「地球と、太陽と、月の関係って面白い!」ということ。簡単なようで難しく、難しいが興味深く、きちんと説明はできなくても、この惑星にすむ人間は身体でそして五感で理解して来たのではと。この大自然の中で、次々に変化していく朝の姿、壮大な自然のドラマを、感動しながらカメラのシャッターを押し、更に初秋のすがすがしさを感じながら、生かされているとも感じる神秘的な束の間の『燃える朝焼け』の時間だったのです。
2016.09.14
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9月に入り、少しずつではあるが、秋めいて来たのを朝夕に実感しています。我が家の庭の酔芙蓉の花も、今年も開花を初め、終盤に。 酔芙蓉は、朝のうちは純白。 芙蓉は中国ではもともと「蓮の花」のこと。水の中に咲くものを水芙蓉、木に咲くものを木芙蓉と呼んでいました。そして昼過ぎになるとじわじわとピンク色に変わってきました。 午後から夕方そして夜にかけてはピンク色が増し紅色になるのです。酒を飲むと顔色がだんだんと赤みを帯びるのに似ていることからこの名「酔芙蓉」がついたといわれているのです。そして前日開花した花の翌朝の姿です。この芙蓉の花が短命で、一日花のはかなさに諸行無常の教えを悟り、蓮の花に仏教の縁を重ねるのかもしれません。 そしてこれも我が庭の秋を代表する「コムラサキ」の実が目立つ様になって来ました。そしてこちらはミズヒキ(水引)。長さ20〜40cmになる花穂を出し、それに小花がまばらに咲いています。小花の色は上半分は赤色、下半分は白色です。今、外では雷雨の真っ最中。雷で夏が始まって、雷で夏が終わる と聞いた事ありますが真実ですね。そしてテレビのニュースでは岐阜県飛騨市で11日に開かれたマラソン大会で、参加した115人のランナーがスズメバチに刺されたと。日本全国に確実に秋が訪れているのです。そして我が西洋ミツバチの巣箱にもスズメバチが訪れていますので要注意なのです。
2016.09.13
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク更に歩を進めると朱と白木のままの二種類の鳥居のある社殿が。 上村神社(かむらじんじゃ)と上野森稲荷神社(かみのもりいなりじんじゃ)のニ社が隣同士に鎮座しているのだ。そしてこの二つの神社は、社殿が2重になっていて、外側を格子で囲んであった。両社ともその創建時期は不明となるが、上村神社は、通称、おしゃもじさまと呼ばれ、病を抑えてくれる神様として、崇められたと。上野森稲荷神社の方は、農耕、商売の神様として篤く崇敬されたと。朱の鳥居は上野森稲荷神社。 創建の時期は不明であるが、寛政年間(1789年)幕府が調査を命じた図面にこの上野森稲荷神社の記録があるとのこと。白木の鳥居が上村神社。上村神社は、通称、おしゃもじさまと呼ばれ、病を抑えてくれる神様。 境内の入り口近くの、双体道祖神。昭和58年奉納とあるから、新しい道祖神。左右の石碑は、磨耗した昔の双体道祖神。 神社を後にし、最後の散策地の寺に向かう。寺の場所は小田急線・藤沢本町駅を過ぎ善行方面に線路沿いに歩き藤沢バイパス手前の坂道をバイパス沿いに上っていった。左手の伊勢山の斜面にも小さな社が。そして右手の光妙寺(こうみょうじ)入口に到着。 光妙寺は藤沢四丁目にある日蓮宗の寺院。山号は、立正山。旧本山は、身延山久遠寺。 坂道の途中に「専征会碑」と刻まれた石碑。「一億の人に 一億の友あれど わが友に まさる友なし 山本 巌」。坂道を上り境内へ。妙法玉丸稲荷大明神。 鳥居の扁額には「最上位經王大菩薩 妙法玉丸稲荷大明神」と。社殿の扁額「玉丸社」玉丸稲荷大明神の幟が並んでいた。 そして妙光寺の本堂。宝暦6年(1756年)光妙院日暁により創立。静岡県富士郡芝富村円恵寺の仏堂であったが、 1934年(昭和9年)に光妙寺と号し独立して、現在地に移転したと。 本堂に掲げられた扁額は「光妙寺」。本堂前に日蓮聖人像が鎮座。 懐かしき、つるべ井戸。 境内のベンチでしばし休憩。 光妙寺の永代供養墓 パゴダ。 パゴダ (pagoda) とは仏塔(ストゥーパ)を意味する英語。頂部は黄金に輝く塔が。パゴダを下から。 近づいて。水子地蔵尊。 そして帰路の藤沢本町駅へ向かう。帰りは坂下の突き当たりにある踏切を渡り進む。赤い布には「北向地蔵尊」の文字が。藤沢三丁目の厚木街道のかたわらに、北向きに祀られている地蔵菩薩像。地蔵菩薩は常に民衆とともにあることから、あえて人の下座、つまり、北向きに配されているのが、北向き地蔵とのこと。そしてここは『諏訪町』に鎮座する『諏訪神社』の例祭が行われる場所。諏訪神社の例祭は、白旗まつり(7月15日から21日)の翌週の土日と決まっていると。そして小田急線に乗りこの日の散策を完了し15時前には帰宅したのであった。
2016.09.12
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク普門寺門前の道を南方に向かい、クランク状になったところを過ぎた左側に歴史がありそうな建築物が現れた。斉藤家長屋門。斉藤家は鎌倉時代に三河から鵠沼に移り住み、代々名主を努めた。江戸時代の砲術家江川太郎左衛門が鵠沼海岸に鉄砲場を設けるにるに当たって、鵠沼から二人が見回り役とされ、その際、名字帯刀を許されたという。うっそうとした屋敷林に囲まれた邸宅で、地元では「大齋藤」と呼び慣わしている齋藤本家であるとのこと。 門の両袖が納屋などの長屋になっている様子。現在もお住まいのようで、残念ながら中には入れなかった。藤沢バプテスト教会。 長屋門を過ぎて道なりに行くと、風化した道祖神右側に道祖神三体が。ここが苅田の辻という所らしい。 中央は浮彫りの相対道祖神で、左右にあるのは五輪塔であろう。建立時期は不明だが、江戸時代のものと。 すぐ目の前の民家の塀に、新しく設置された小さな祠の中に庚申供養塔がが組み込まれていた。 苅田稲荷社入り口。 小さな社殿。祭神の稲荷神は五穀豊穣の神。道路沿いの民家の塀には朝顔と瓢箪が。 湘南新道を横断し更に南下すると原町の道祖神が。そして原の辻石像が3体並んでいた。 原の辻 史蹟案内。光明真言供養塔?。石碑には四国三十三所・・・と刻まれていたが。 出羽三山供養塔。文化6(1809)年、159cm。一番左のものは小さな祠内に。 青面金剛像浮彫。宝暦3(1753)年、60cm。そして近くのバス停から江ノ電バスに乗り、日本精工前で下車。小田急線のガード前で左折し湘南高校方面へ歩く。湘南高校の前を通り、一中方面の曲がり角にはあったのが車田白旗稲荷。これは飯尾常吉翁頌徳碑(大正10年銘)。飯尾常吉は明治26年に車田町に住み、町内のために力を尽した人で、この稲荷の敷地も飯尾翁が寄付したのだと。元々この車田といわれる町内は白旗神社の直轄田(神田・しんでん)で例祭の時に行われる神輿渡御は、この車田から出発、収穫された稲穂が神輿に供えられていたのだと。鳥居建設のための氏子の寄付金リストも。この庚申供養塔は元禄2年(1689)の銘が。藤沢第一中学正門。 藤沢第一中学の敷地に接した小さな一画に、小さな庚申供養塔が祀られていた。 ここは、その昔、内田の辻と呼ばれた場所で、古い道が通っていたと。 祠内の青面金剛像。 第一中学の裏を歩く。 第一中学西南隅の小さな林の中の石碑は昔の姿を留めていなかった。その横には鵠沼内田土地区画整理組合落成記念碑が。
2016.09.11
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク皇大神宮の前の道を南に進み、大きな花栽培の温室沿いの路地を右折し東海道線の線路に向かって歩く。右側にこぢんまりとした寺とその入り口に小さな神社が。朱の鳥居と小さな社殿。 江の島弁財天道標の解説板が鳥居の横に。この杉山検校(けんぎょう)の道標は、以前は近くにある日本精工(株)の工場敷地内にあったが昭和22~23年頃この場所に移動されたとのこと。本来はこの道標の一面には「一切衆生」と刻まれているのであるが、いたずらで「一」の上に一本足されて「二切衆生」となっていると。見てみるとなるほど「二」と刻まれていたが、どの時代にも悪戯する人間がいたのであろう。境内には墓石や庚申塔がたくさん集められていた。江の島弁財天道標と同様に、道路や鉄道の整備、宅地や工場の開発で行き場がなくなったものなのであろうか。 善光山天龍院法照寺(ぜんこうざんてんりゅういんほうしょうじ)は浄土宗総本山知恩院の直末として直為上人を開山に、享保年間(1716〜1736)頃に創建されたとのこと。一説には寛文元年(1661)龍保上人の創建とも。法照寺は地域の人々からは「おかんのんさま」と呼ばれ親しまれていると。秘仏十一面観音は霊験あらたかで安産・学業にご利益があると。その手には錫杖を持しており、悪を戒めるとのこと。 法照寺本堂。右には「宿庭(しゅくにわ)町内会館」が。「善光山法照寺」と書かれた扁額。境内の小さな半跏思惟像の石仏。 本堂側からの庚申塔群が10基(宝永8年銘も)。その中央に小さな祠が。 祠の内部の石仏。 右手に金剛杵(こんごうしょ)を持っていた。杵 (きね) に似て中央がくびれ,両端に刃 (鈷) をつける。本来はバジラというインドの武器。仏教では修法に用いこれにより煩悩を破ると。そして東海道線の線路に出る。子供に配慮したのか、「ここは、とうかいどう線 37番 くげぬまみち踏切 です」と記された案内板が設置されていた。この歩行者専用踏切を渡る。ひたすら真っ直ぐな線路は小田原方面へ。 踏切を渡り暫くすると本鵠沼にある普門寺(ふもんじ)山門前に到着。高野山真言宗の寺。相模国準四国八十八箇所のうち第四十七番札所と第八十八番結願の札所。1872年(明治5年)から1913年(大正2年)まで、藤沢市立鵠沼小学校の前身である鵠沼学舎、尋常高等鵠沼小学校が置かれていたとのこと。 手水舎。 本堂。密巌山遍照院普門寺と号し、高野山真言宗(古義真言宗)に属しているが、もと藤沢・大鋸の感應院三十二か寺の一つであったとのこと。過去帳によると、享禄元年(1528年)5月、感應院三五代権大僧都良元(良元僧都)が、唐土ヶ原(平塚市)に一寺を創建、十一面観音像を本尊としたという。その後、元和3年(1617年)3月、元朝阿遮梨が、砥上ヶ原の現地に再興開基し、本尊を不動明王像としたとウィキペディアより。 見事に手入れされた境内の中で毘沙門天がひと際目立っていた。 大師堂。石造弘法大師坐像を安置。聖観音像。 南無大師遍照金剛(なむだいしへんじょうこんごう)と刻まれた石仏。これは御宝号(ごほうごう)といい、真言宗で唱える一番短い『お経』。十三層石塔。 三界萬霊(さんがいばんれい)塔。「三界」とは、私たちが生まれかわり死にかわりするこの世界のことで、「欲界(よくかい)」、「色界(しきかい)」、「無色界(むしきかい)」の三つの世界。「欲界」は、もっとも下にあり、性欲・食欲・睡眠欲の三つの欲を有する生きものの住む世界。ここには地獄(じごく)・餓鬼(がき)・畜生(ちくしょう)・修羅(しゅら)・人・天の6種の生存領域である「六趣(ろくしゅ)」、「六道(ろくどう)」があり、欲界の神々(天)を六欲天と言うのだと。「色界」は、前記の三欲を離れた生きものの住む清らかな世界。絶妙な物質(色)よりなる世界なので色界の名があり、四禅天に大別される。「無色界」は、最上の領域であり、物質をすべて離脱した高度に精神的な世界。ここの最高処を「有頂天(うちょうてん)」というのだと。「萬霊」とは、欲界、色界、無色界などのそれらすべてをさすとのこと。鐘楼。梵鐘は寛政3年(1791年)11月、東都鋳工、西村和泉守藤原時政、発願主 阿遮梨智英の梵鐘があったが、太平洋戦争のとき供出し、現在のものは1974年(昭和49年)鋳造のものであると。 水子地蔵尊。 手水舎の龍神様と本堂。龍神様は、雲や雨を司る水の神様。生きていく上で、水は命の源。その龍神様から出るお水=ご神水。
2016.09.10
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク更に歩を進める。太陽も顔を出し気温も一気に上昇していることを実感。藤沢市立羽鳥小学校前を通る。 そして「耕余塾跡(こうよじゅくあと)」に到着。「耕余塾跡」と刻まれた石碑。 奥には2基の石碑と説明板が。 明治5年3月に 小笠原東陽 が羽鳥村の廃寺 徳昌院の本堂を利用して開いた郷学校の跡。羽鳥村の 三觜八郎右衛門の招きで、まず読書院という名前の学校を始め、村内の幼童の教育指導を始めた。明治5年8月に学制が布告されると、読書院は羽鳥学校(明治小学校の前身)と改称されて、生徒の多くはこちらに移動。東陽はこれとは別に読書院を私塾として存続させ、独自の教育を行いはじめた。漢学の他に、英語、数学、理科、西欧史、法制などを寄宿制、小中学一貫教育の私学として特徴を持っていた。やがて、近隣諸村からの 入塾者が増え手狭になったため、明治11年には学舎を立てて耕余塾と改称。この塾は、「相州第一の高等学府」として高い評価を受け、全寮制で最盛期には遠く静岡や東北地方からも入学希望があったと。明治12年頃は県下の豪農の師弟が百人以上もここで学んだと。明治9年12月に出された「小笠原東陽教則」によると、耕余塾の教授が、第8級~第1級と級外のランクに分けられた教えられたことが書かれてある。もっとも低い第8級では、読書(孝経・略史)、算術(四則)、聴写(書取・倭文)、習字、第1級だと、読書(万国公法、仏教政典、新律網領)、算術(測量)、作文(著述)。東陽は明治20年(西暦1887年)8月に58歳で没し、女婿 松岡利紀 が、耕余義塾と改称して継続。しかし明治30年9月8日の大風で全学舎が倒壊し、 再建のための資金難で、この年に閉塾。耕余塾からは、後の首相である吉田茂をはじめとして、村野常右衛門(自由民権運動家)、平野友輔 、 武藤(金子)角之助 、中島久万吉(商工大臣)、山梨半蔵(陸軍大将)、鈴木三郎助(味の素社長)など政財界を中心に多くの有用な人材が出ているのだと。吉田茂は横浜市の太田小学校を出てからここで5年間学び学習院に入学したが、彼の人格形成にこの時代が大きな意味を持っていたと。現在は、明治幼稚園の隣の地に、藤沢市指定史跡として石碑を残すだけ。 この石碑は大正5年に明治小学校から移されたもので、勝安房(勝海舟)による筆だと。 小笠原東陽の頌徳碑。現在はここ耕余塾跡にあるが、以前は現在の城神明社の側にあったと。 10分以上歩くと引地川に再び出た。上村橋の欄干に皇大神宮例大祭を描いたオブジェが。橋の両側の欄干には、幅が3メートルもある大きな金属製のレリーフが埋め込まれていた。太鼓を打ち笛を吹くお囃子の舞台の前に、大勢の観衆が集まっています。この近くの鵠沼神明にある皇大神宮の人形山車。欄干の両側に先日8月17日に楽しんだ皇大神宮の例祭の山車の姿が。上村橋を渡り、その先の元日本電気硝子(株)藤沢工場の脇の道に右折して進む。この工場は若き頃いろいろとプラント納入でお世話になった工場。しかしながら数年前に閉鎖され、現在は工場の撤去工事が行われていた。進んでいくと万福寺(まんぷくじ)裏の左側に二基の庚申塔が。中央のものが、文字庚申塔。上部には月と日が陰刻されていた。元禄4年の建立で、三猿の大きさが一律でなく、左から順に大きくなっていた。そして左側の物は享保4年建立の青面金剛庚申塔。右には「大乗妙典六十六部供養塔」と刻まれた石碑。六十六部とは、全国六十六カ国の霊場に大乗妙典(法華経)を奉納するという名目で行われた巡礼とのこと。万福寺裏門は木造瓦葺き。裏門の横から万福寺境内へ。手水舎。本堂。万福寺は藤沢市鵠沼にある真宗大谷派(東本願寺系)の寺。僧荒木源海が寛元3年(1245年)に開山・創建したと伝えられる鵠沼最古の寺院。正式名は鵠沼山 清光院 萬福寺。本尊 は木造阿弥陀如来立像、像高64.3cm、総高181.5cm、寄木造、江戸時代の作。太子堂。木造瓦葺き八角堂。開基源海が師親鸞の形見として譲られた聖徳太子自作と伝えられる太子像(木像)を祀るため、法隆寺夢殿を模して建てられた八角形の太子堂。2003年(平成15年)10月17日、落慶法要が営まれた。境内参道の奥に鐘楼が。最初の梵鐘がいつ作られたかは不明だが、寛文3年(1663年)十六世良意、梵鐘を鋳替えと寺伝にあり、さらに文政4年(1821年)10月廿世良締、梵鐘を再鋳造とある。1943年(昭和18年)、太平洋戦争のため供出されたが、1983年(昭和58年)10月に復興。親鸞聖人尊像。蕉窓句碑「雛持て飛なの噂や市もとり」万福寺二十三世良空は幕末~明治期の住職で、俳号を蕉窓と称し、鵠沼村の俳諧グループ「鵠沼連」の代表メンバー。1994年(平成6年)10月17日、蕉窓句碑が良正現住職の手で萬福寺境内に造立されたと。こちらが、万福寺山門。万福寺入口。右に進むと宮ノ前公民館前に新しそうな首塚が。古い石碑は風化が激しく、石碑の文字は読むことが出来なくなったと。新しい石碑は、しっかりと首塚の由来が読み取れた。しかし、碑文は王朝文学スタイルなので、ひらがなでもかなり難解な文章。鎌倉時代にこの辺りで戦があり、その時の死者と思われる二体の遺骨が明治12年に発見されたので、ここに首塚の碑を建てたと。 首塚碑の横には小さな祠に入った庚申塔像・青面金剛像浮彫。嘉永元(1848)年、85cm。そして皇大神宮一の鳥居横には道陸神が。平成12(2000)年3月に再建?皇大神宮鳥居群。 遠く皇大神宮社殿が。鳥居が微妙に曲がっているのであった。
2016.09.09
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク来た道を引き返すと、右手に廃墟の如きビルが。そしてその壁には蔦が屋上まで伸び一面がほぼ全面に緑のカーテンに。 羽鳥3丁目に小さな祠が。その中には庚申塔の唐様笠付角柱塔の六手青面金剛。更に歩くと『旧三觜八郎右衛門家住宅』 の案内板が。旧三觜八郎右衛門家住宅門。主屋の前方に西面して建つ。薬医門、切妻造桟瓦葺。見学は水曜日と土曜日の10時から可能と。この日は偶々土曜日の10時過ぎで幸運なのであった。両脇に潜戸付きの袖塀を設け、取付部に絵様付きの柄振板を入れる。部材木口を白塗とし、扉の金具類も古式そのもの。冠木や男梁等の材も太く、風格ある外観。屋敷の正門に相応しい格式を備えていた。 門を入ったところからの主屋と前庭。広すぎてカメラに納めきれなかった。正面に桜そして右手にはクロマツの巨木が2本。門を屋敷内から。 羽鳥3丁目にある歴史的建造物。国の登録有形文化財に登録されている。東海道の南方の敷地に西面し、二階建、切妻造桟瓦葺。南寄りの土間や板の間では、ケヤキなどの良質な柱や差物を堅牢に組む。また床上部は六間取で、座敷廻りでは襖に山水画を描くほか、透彫欄間や釘隠金具等の造作も入念で、格調高い室内意匠をもつ。中に入るとボランティアの男の方が案内してくれた。三觜家は江戸時代は名主を務めた名家で、明治時代に東京から儒学者の小笠原東陽を招いて「耕余塾」という学校を開設。故吉田茂元首相もこの塾生のひとりであったと。内部は撮影禁止であった。多くの風格のある座敷が縁側に沿って並んでいた。そして各部屋には見事な書が描かれた襖や山水画が。部屋には床の間も設けられ、使っている柱や天井材、透彫欄間、釘隠金具等の造作や仕上げも見事で格調高い室内意匠い圧倒されたのであった。畳1畳の大きさのある天井板や、49cm角の大黒柱など、現在では手に入れるのが相当難しい材木がふんだんに使われていたのであった。2本のクロマツも手入れが行き届き見事な庭園。なまこ壁の倉も見事。 旧三觜八郎右衛門家住宅を後にすると、道路脇には羽鳥御霊神社例大祭のお知らせが貼られていた。 旧三觜八郎右衛門家住宅の2階からも見えた御霊神社の入口へ。例大祭に繰り出す山車も組み立て、飾りの準備中。 石の鳥居が続いていた。一の鳥居、二の鳥居、三の鳥居の並んだ向こうに神社が見えた。御祭礼と書かれたゲートとその奥に幟がはためいていた。ここ御霊「神社」には、なぜか鐘楼と梵鐘が左手に。 梵鐘には1386年の銘があり、元千葉県香取神社のもので、明治5年に羽鳥の村人が買入れたもの。藤沢市指定の重要文化財になっている鐘。 社殿にも例大祭の飾りが。 羽鳥村の鎮守。創建は不明であるが「高皇産霊神・ 神皇産霊神・玉積産霊神・生産霊神・足産霊神」の五神を合祀して「五(御)霊神社」として祀られている。 御輿も出番を待っていた。 境内では祭りの準備のために参集している氏子達がアイスクリームで休憩中。 御霊神社の「のぼり幡」。各界に多くの人材を輩出した「耕余塾」を主催・運営した小笠原東陽の自筆のもので,揮毫された1885年(明治18年)以来,地元で神社祭礼に供されてきたもの。もちろんこの祭礼では現在レプリカが用いられているとのこと。御霊神社の「のぼり旗」は隷書体で「神州寶祚之隆」、「當與天壌無窮」と書かれていると。 『日本書紀』天孫降臨の段で,天照大神が下した神勅にある文言であると。「神州寶祚之隆」………神州(日本)の宝祚(ほうそ 皇位)の 隆 (さかえ 栄) 「當與天壌無窮」………当に 天壌 (てんじょう 天地)と与(とも)に 窮まり無かるべき(永遠であること) そしてこの、のぼり旗の柱には見事な彫刻が施されていた。右側。 左側。 そして次に汲田墓地に到着。ここ羽鳥にあった耕余塾/耕余義塾は明治期の中等教育機関で、漢学、英語、数学、理科、西欧史、法制などを教え、寄宿制、小中学一貫教育の私学だったと。この塾を主宰したのが小笠原東陽と松岡利紀。この汲田墓地にはその小笠原東陽と松岡利紀の墓があるのだ。道路沿いの赤い屋根の祠には二体の地蔵様が。 「南無大師遍昭金剛」と書かれた木札が後ろの壁に。 これは御宝号(ごほうごう)といい、真言宗で唱える一番短い『お経』であると。「仏さまの慈悲の光は、すべてのものに及びます。そして、すべてのものに幸せを及ぼそうという智慧(ちえ)の働きは、ダイヤモンド(金剛石)のように堅固で輝きを失いません。」の意味とのこと。先ほど訪ねた三觜家の墓もここにあるようだ。小笠原東陽の墓。 1872年(明治5年)3月に、羽鳥村名主の三觜八朗右衛門に招かれ読書院(5年後に耕余塾に改称)を開き、教育指導を行い58歳で没した人物。 小笠原東陽、松岡利紀の墓の説明書き。松岡利紀の墓。小笠原東陽が没し、松岡利紀(東陽の娘婿)が塾長となり、耕余義塾に改称した人物。 この墓地には、老梅庵跡の石碑や地蔵様の姿も。この老梅庵というのは、大庭にある宗賢院の末寺だったとのこと。
2016.09.08
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク更に来た道を戻り再び引地川を渡り左手に折れ川沿いを進む。藤沢バイパスの下を潜り暫く進むと浄土宗本願寺の参道入口に到着。坂道の参道の左手に古い庚申供養塔が。『青面金剛塔』と刻まれた石碑が一番左手に。その横には六手青面合掌金剛+三猿が。 その隣に笠付角柱塔、三面猿、蓮台座が。 境内には比較的新しい六地蔵が祠の中に。 本堂。山号は往生山。創建は明暦2年(1656年)に阿道による開山であるという説と、西村の観音坂への再建中興が明暦2年であるとする説もあると。天明6年(1786年)には大雨により土砂崩れが起こり寺が崩壊したが、寛政3年(1791年)、恵光が現在地に移転再興。天保5年(1834年)火災にあったと。本尊は阿弥陀如来。いずれにしても歴史ある寺がここにも。墓地へ上る階段の脇に、古い墓石等の石造物がまとめて。無縁仏か? しかしその石仏は風雨に耐え歴史を重ねていたのであった。大きな石塔。南無阿弥陀仏の文字だけは識別できた。中央の石碑には『南無阿弥陀仏』と。左側の石碑の文字は???。これも南無阿弥陀仏?? 『戦死者 迢?墓 南無阿弥陀仏』 と刻まれた石碑。その後ろには多くの地蔵様が並んでいた。地蔵様は、子どもを守ってくれる仏様として、昔から人びとに信仰されて来た。地蔵様に赤いよだれかけをかけるのも、冬には毛糸の帽子や頭巾を被せるのも、赤ちゃんが丈夫に育つようにという母親たちの願いと祈りがこめられているから。参道を下り、右手に折れ川沿いを進むと柏山橋に着きこの橋を渡る。川床の雑草の倒れから、台風9号時にこの引地川の水位がかなり上昇したことが理解できたのであった。橋を渡ると正面の銀杏の木の下に『柏山稲荷神社』と刻まれた社号標の石碑が。銀杏の木には大きな銀杏(ぎんなん)の実が撓わに。正面の鳥居に「厳島千人力弁天社」の額が。縁起によると、女の人だけで、社殿を建てよ」という竜神大神のお告げあり、柏山神社の信者が相談して、女人千人で社殿建築に努力したと。よってご祭神は市杵嶋姫大神と女神(スサノオの御子神、水・芸能の神、学業の神 )。800年以上前から女は強かった事を再認識。木立に囲まれて池があり、朱塗りの橋・辨天橋が架かっていた。伝説によると、この弁天社は大庭景親が厳島神社の分霊を勧進したものと伝わっているのだと。よって名前が「厳島千人力弁天社」。公園の中には別の参道そして鳥居が。 更に進むと柏山稲荷神社の一の鳥居が。 参道の階段を上る。 左手に百度石と社号標石碑が。お百度参りはもともと100日掛けて行なうものであることは明らか。しかしそれが簡略化され、1度に続けて100回お参りするようになったのだと。そしてこの百度石が出来、百度石からお参りして百度石へ戻って1回、後はこれの繰り返しで100回。最近でも四国88ヶ所巡りで、88ヶ所の寺の名前が書かれた石碑が置かれておりその前を一つ一つお参りすれば、四国88ヶ所巡りを1日で結願になるとの寺もあるのですが・・・???。社殿近景。大庭城を守る引地川の水門の護り神とされるとのこと。また堰守であった吉田将監の屋敷跡とされると。祭神は宇迦之魂命(うかのみたまのみこと)。名前の「うか」は穀物・食物の意味で、穀物の神であると。性別が明確にわかるような記述はないが、古くから女神とされてきたと。よってこの場所は女神二人が仕切っているのであった。そしてこの神社には多くの銀杏の木が植わっていることも理解できたのであった。何故ならば「ウィキペディア」によると【銀杏は英語ではmaidenhair tree。これは「娘 (maiden) の毛の木」の意味で、葉の形が女性のIN毛が生えた部分を前から見た形(葉柄は太ももの合わせ目)に似ているための名であるが、「木の全体が女性の髪形に似ているため」と美化した説明もなされる。】と。そして思い出したのが、イチョウ(銀杏)の巨木の乳根(ちちね)。枝から垂れ下がったように下に伸びた棍棒状の突起物を見かけることがあるがこれを「乳根(ちちね)」または「おっぱい」と呼ぶことを。今日も勉強になりました。柏山稲荷神社 建立記念之碑文。境内の稲荷社正面。 奥にある本殿を右側から。 将監稲荷社。厳島千人力弁天社の辨天橋を見る。更に歩を進め明治小学校近くの神社に到着。明治小学校正門前の小高い丘の上にある城神明社。創立は永久5年(1117)鎌倉権五郎景政の勧進と伝わっています。この地域は城(タテ)と呼ばれているが、このあたりに大庭氏の館があったもの推定されていると。城(タテ)神名社の正面鳥居。鐘楼。社殿正面とその右には、この地区の戦没者317柱を合祀する慰霊碑が。御祭神は天照皇大神。土地の人は「お伊勢の宮」と呼んでいると。道祖神、疱瘡神、庚辰塔他。疱瘡神とは祈ると疱瘡を免れたり、軽減してくれたりするとされた神とのこと。拝殿建設祈念碑。昭和3年建設。御神楽殿建設祈念碑。昭和18年建設。鳥居建設祈念碑。昭和27年建設。 歩道橋から明治小学校を見る。運動場の広さにビックリ。 旧東海道に面している場所にある秋葉堂に到着。秋葉堂の名前のとおり、秋葉大権現(火伏せの神様)を祭ってあると。写真のように、小さいながらも石造りの太鼓橋風の橋が架かっていた。以前はこの太鼓橋の下に池があったと。この日は門が閉まっていたので中に入ることはできず、外から眺めるだけ。更に藤沢バイパス沿いを下り、国道1号線方面に向かうと前方の松林の下に神社が。ここは辻堂の旧東海道と国道1号線に挟まれた場所。ここからは国道1号線は藤沢市街地を通過する藤沢バイパスとなり、旧東海道は県道となって市街地方面へ向うのだ。鳥居が二つ、朱の鳥居は境内稲荷社、隣の比較的新しい鳥居・神社が八坂神社。バイバス開通時に整備されたのでしょう。境内稲荷社の朱の鳥居。四ッ谷八坂神社の石の鳥居。四ッ谷八坂神社社殿。祭神は須佐之男尊。
2016.09.07
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンクこの日は藤沢周辺の散策に出かけました。小田急線藤沢本町駅で下車。駅の横の踏切を渡り伊勢山方面へ歩を進める。右に折れ伊勢山の登山口?へ進む。ここは昔からの階段、最近は線路側に綺麗な階段が整備されていましたがあえて私が子供の頃上った階段を利用。この階段を上るのは50年以上ぶりか。狭い階段を上っていくと男坂、女坂の表示板が。もちろん私は・・・・坂を。途中階段の横の草むらに白き花が。カラスウリの花か?カラスウリの花は夜間だけ開く花で知られているので、既にこの朝には花を閉じていた。そして下から5分ほどで頂上の伊勢山公園に到着。正面には4個の大きな石碑が昔と変わらずに建っていた。伊勢山緑地(いせやまりょくち)(通称 伊勢山公園)は、藤沢宿の西、旧東海道の北側に位置する小高い山。昔、伊勢神宮がここに祀られていたので伊勢山と呼ばれるようになったと。1923年(大正12年)の関東大震災の後、白旗神社などにあった戦没者慰霊碑がここに移され500本の桜を記念植樹、1927年(昭和2年)2月21日竣工式が行なわれたのが伊勢山公園のはじめとのこと。藤沢市第1号の公園。正面向かって右側から『明治十年西征陣亡軍人之碑』西南戦争における高座郡下各村の戦没者11柱を合祀した慰霊碑。有志によって明治13年(1880年)8月に建立された、ここではもっとも古い石碑のようだ。『忠魂碑』。日清戦争から日露戦争、第1次世界大戦までの陸海軍の戦病歿者7柱を合祀した忠魂碑。大正2年(1913年)11月3日に建立。碑正面には「忠魂碑 陸軍大将子爵川村景明書」と刻まれていた。『殉國勇士招魂碑』。西南戦争、日清戦争、日露戦争の戦病歿者の招魂碑。 なお、建立年は明治36年(1903年)。碑正面には「殉國勇士招魂碑 正三位野邨素?書」と刻まれていた。『明治丗七八年戰役陣亡軍人之碑』日露戦争の戦病歿者7柱を合祀した慰霊碑。碑正面には「明治丗七八年戰役陣亡軍人之碑神奈川縣知事従三位勲二等周布公平書」と刻まれていた。『江の島が見える見晴台』遠く江の島の全景がはっきりと。島の真ん中のV字谷『山ふたつ』もはっきりと。江の島の花火の絶景ポイントは昔と変わっていなかった。伊勢山公園頂上の庚申塔。石仏(如意輪観音?)。庚申塔。庚申塔。承応二年(1653)右から見ざる、着かざる、言わざる。『北辰妙見大霊府神』の石碑。農作業の目安や航行時の方角の目印としていた北斗七星を神格化し祀ったものとのこと。伊勢山公園の鐘楼。昔からここには鐘がぶら下がっていなかった記憶が・・・・。調べてみると「かつてここ に下がっていた梵鐘は、山王山(さんのうやま)(現県立藤沢高校がある丘陵で、頂上に山王社があった)のものが、昭和の初めごろに女学校の建設に伴ってここへ移設され地域の「時の鐘」として朝夕に時を告げていました。しかし1943(昭和18)年、戦時の銅鉄回収により供出し、そのままとなっています。関東大震災後の30(同5)年に発行された『大藤沢復興市街図』には「藤沢の新十名勝」が掲載されていますが、その一つに「伊勢山の晩鐘(ばんしょう)」が挙げられていて、当時いかに親しまれた存在であったかが伺えます。」との説明が。私の記憶が合っていることに一安心。公園トイレは地元市立一中美術部員の作品とのこと。伊勢山の裏の坂道を下る。右手には藤沢石名坂環境事業所の焼却炉の煙突が聳えていた。 坂の途中に竹林が。いつもは車で通りすぎるだけの道。 旧東海道に出て右折ししばらく進み、引地川に架かる「引地橋」を渡る。 「引地橋西交差点」から100m程で右斜め上にある寺・養命寺(ようめいじ)前に到着。路地の先に養命寺の石段が。藤沢市にある曹洞宗の寺院。引地山と号す。 創建は天正年間(1573年 - 1592年)頃に暁堂が開山。延文年間(1356年 - 1361年)頃の創建であるとする説もあると。延享年間(1744年 - 1748年)に大拙が中興したと。こじんまりとした本堂。本尊は国指定重要文化財の木造薬師如来坐像。建久8年(1197年)の銘があると。 源頼朝に仕えた大庭景義の子景兼の守護仏であったと伝えられていると。藤沢七福神 の布袋様の寺院でもある。本堂の扁額。号の引地山ではないが、何と書かれているのであろうか?「皆王堂」?五輪塔?球形の水輪には卍が刻まれていた。 永代供養塔。大庭氏は、1213年(建暦3年)に起こった和田合戦で、景兼が和田義盛に味方して滅びている。 頭のない石仏や倒れている石仏が境内隅に。養命寺の脇を抜け、旧国道に出ると前方にメルシャン(株)藤沢工場が。七面地蔵尊。(身代地蔵尊)メルシャン(株)藤沢工場の門の脇に。道路を渡り引き返すと、養命寺の前に赤い小さな祠が。『おしゃれ地蔵』祠の中には顔が白い双体の石仏(道祖神)が祀られていた。「おしゃれ地蔵」案内板によると「女性の願い事なら何でもかなえて下さり満願のあかつきには、白粉を塗ってお礼をする。」と伝えられており、今でも、お顔から白粉が絶えることがないという。そのような所から、誰からともなく「おしゃれ地蔵」と名付けられたとされている と。 白粉を塗る女性の姿を見たかったが残念ながら・・・・・。
2016.09.06
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先日、我が家の近くにあるJAさがみ わいわい市 藤沢店を訪ねました。国道467沿いのJAさがみが経営する農産物の直売所。道の駅っぽくて、花や、団子、赤飯、パン、ケーキなど、地域の店からも出品されていて、いろいろなものが揃っています。もちろん朝採り野菜など色々な野菜が売られています。さすが農協が提供する店。平日のこの日でも、ちょっとした道の駅以上の賑わい混雑。取扱品は、野菜・食料品を中心に、草花や野菜の苗も並んでいます。近くにお住まいの方にはおすすめの店、そして鎌倉、茅ヶ崎等からも車で来る人も多いという常に駐車場に入る車が渋滞するほどの人気の店舗。店の内部には多くのお客様が。 入り口からの壁沿いには各種洋蘭の花が迎えてくれました。 カトレアそして小さく黄色や茶色の花を沢山咲かす、魅力的なラン・オンシジューム。500円はお手頃? 真っ赤なケイトウ(鶏頭)の花。熱帯アジアなどの原産。日本には万葉時代 にはすでに渡来していた”古株”だとか・・・。 花が鶏の鶏冠(とさか)状に見えるのでこの名前になった。 英語でも「cocks-comb」(鶏のとさか)なのでこの花に対するイメージは世界共通なのかも。写真の如く花が丸くなって咲くものや、槍のようにとがるものなど、最近ではいろいろの種類が。 胡蝶蘭。なかなか自宅での栽培は難しい花。だからこそ高価。旅友のSさんの奥様は栽培の達人!!常に玄関で開花株が私を迎えてくれます。 バラの花もカラフルそのもの。 そして野菜売り場で、私にとっては珍しい野菜を見つけてカメラ撮影。まずは冬瓜(トウガン)。水が主成分でほとんど味がないこの野菜は煮物やスープなどに最適。「冷やして」「あんかけ」「スープ」などの様々なバリエーションあり。ヘビウリ。名前がやや不気味。もっと蛇に似た細い、とぐろを巻いたヘビウリも見たことがありますが。ベーコンとの油炒め等で。ゴーヤと同じ調理法とのこと。 先日の私のブログで店頭にはない珍野菜と書きましたがついに発見しました。我が農園で栽培中の『花オクラ』 。そしてカラーピーマンの詰め合わせ。カラフルで美しい。 これも我が農園で栽培中の『おかわかめ』。わかめと同じ食感野菜。おひたし、味噌汁、酢の物等夏のぬるぬる野菜。 南京前。先日、我が家でも収穫し茹でピーで楽しみました。 栗も既に販売されていました。 秋の味覚を代表する栗。早生種の代表がこの「丹沢」栗。鈴虫。茄子とキュウリの上でリーンリーンと美しく鳴いていました。 これは販売品ではない模様。 「あれスズムシも鳴きだした リンリン リンリン リーンリン」と。かんぴょう(干瓢、乾瓢)が顔に変身。屋外にも様々な花が。 黄色と茶色のひまわりに似た花。ルドベキア ? コリウス。 ここを訪ねると、まずは自分が育てている野菜の価格を見て自己満足するのです。私が栽培している野菜の値段はこの位あるのかと・・・・。そして珍しい野菜や、野菜に書いてある、知っている生産者の方の名前を見つけるのです。ホームセンターと同様に時間つぶしが出来る貴重な?場所なのです。
2016.09.05
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養蜂場のある畑は、スイカ畑が片付かずに残っていましたが、この日に片づけ、耕耘作業を行いました。 ミツバチ箱の前は、耕耘作業が終わっていましたが、その横のスイカ畑は島のごとく残っていました。 この日も隣の農園をやられているSさんから耕耘機をお借りし早朝に耕耘作業を行いました。早朝から蜜蜂嬢達も門番&空調作業のため、巣門の外に出て羽を震わせ喚起作業を行っていました。しかし耕耘機の音、振動に興奮することなく私の耕耘作業は順調に進んだのです。 我が養蜂場には既に黄色スズメバチが来ているのです。巣門の近くでホバーリングし、蜜蜂嬢を襲い捕まえて、近くの木の高みで肉団子にして巣に持ち帰るのです。子供用虫取り網で生け捕りし、踏みつぶして退治しました。この日は5匹ほど捕まえました。そしてスイカ畑は綺麗に片付き、関東ローム層の黒い土が姿を現しました。片付けたスイカ達です。小さなお子さんが近くにいれば、スカイ割用にプレゼントするのですが・・・・。 採蜜用に栽培していた蕎麦畑もきれいに片づけ、こちらも耕耘しました。 食べられそうなスイカを2個ほど自宅に持ち帰りました。 割ってみると内部は空洞部もなく真っ赤に色づいて食べごろ。 種も比較的少ないように感じました。 しばしラップに包み冷蔵庫へ。 そして1/4を切り楽しみました。 赤い実の部分だけを切り取り、我が部屋でスプーンでテレビを見ながらのながら属で甘みも十分なスイカを楽しんだのでした。
2016.09.04
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前段演習と後段演習の間には15分ほどの休憩時間が設けられていた。 そして後段演習は11時20分~12時05分の45分間。後段演習は具体的なシナリオが用意され、その流れに沿って演習が展開していく。シナリオのテーマは「島嶼(しょ)部に対する攻撃への対応」となっており、海上および航空自衛隊との連携により「部隊配置」「機動展開」「奪回」と3段階のフェーズで作戦が進行。まず、洋上や島嶼部に展開した部隊への攻撃などからなる部隊配置からはじまり、機動展開では先遣部隊による機動展開および兵站支援など、そして最終段階となる奪回では島嶼部を舞台に偵察からはじまり、支援射撃、地雷などの障害処理、対空援護、戦車部隊での攻撃と、それぞれの部隊が連携して作戦を遂行。この後段演習には45分の時間が設けられているものの、密度の高い内容に息つく暇もなくあっと言う間に時間が過ぎてしまったのであった。 上空にP-3C哨戒機、F-2戦闘機が飛来しているはずであったが、雲の上を飛行していたため確認できなかった。その後、多連装 ロケットシステム(MLRS:Multiple Launch Rocket System)が入場。 複数のロケット弾を一斉発射する事を目的とした兵器(ロケット砲)。多連装ロケットランチャー、多連装ロケット弾発射機などとも表現される。車体後部にボックス型の旋回式発射機を搭載しており、M26ロケット弾を6発を収容するコンテナを二基搭載。地上レーダ装置1号(P-23)。プラットフォームを高機動車に変更した敵人員、海上目標などに対する地上監視用レーダー。中距離多目的誘導弾。地対艦ミサイル(対艦誘導弾)システムの12式地対艦誘導弾(12SSM)も標的に向けて。多連装 ロケットシステム(MLRS)が標的に向けて動き出した。 03式中距離地対空誘導弾(中SAM)も射撃姿勢に。純国産の中距離防空用地対空ミサイル・システム。ミサイル本体は発射筒を兼ねた角型コンテナに収められた状態で、発射装置及び運搬装填装置に各6発ずつ搭載されており、垂直発射方式である。96式多目的誘導弾システム(MPMS)。型式名ATM-4は、対戦車・対上陸用舟艇ミサイルシステム(対戦車ミサイル)。略称はMPMS(Multi-Purpose Missile System エムピーエムエス)、愛称は96マルチ。中距離多目的誘導弾が実弾を発射し赤の標的に弾着。 上空から観測用ヘリコプター(OH-6)が飛来。機体形状から「フライングエッグ(空飛ぶ卵)」の別名でも呼ばれている。多用途ヘリコプター(UH-1)は飛来。多用途ヘリコプター(UH-1)よりオートバイ偵察部隊が発進。 偵察オートバイが猛スピードで前進。アパッチの援護のもと、UH-60JA多用途ヘリからラペリング降下により展開する先遣部隊。機首前方の突起物は航法気象レーダー、機首下方は前方監視赤外線装置(FLIR)。輸送ヘリコプター(CH-47)後部からも隊員が降下開始。輸送ヘリコプター(CH-47)から高機動車が発進。直ちに攻撃開始。そして10式戦車も奪回に参加。 障害処理を妨害する敵戦車を74式戦車が射撃。 着弾地点。左上空より大量の戦闘用ヘリコプターが。 陸地からは各種戦車が。 上空ヘリ、地上部隊、戦車部隊から、目隠しの煙幕発射。 花火の如く。「富士総合火力演習」の教育演習のフィナーレ。辺り一面白煙がもうもうと。 白煙が視界を妨げた。 そして一面は視界不良に。 実は後段演習終了近くになり豪雨が襲来。慌てて雨合羽を着用するも、100均の雨合羽は直ぐに内部に雨水が浸透してきたのであった。終了後も雨宿りする場所は皆無。やむなく濡れついでに、13時から行われた装備品展示を豪雨の中見学。展示場周辺はいたる場所に泥沼が出来てきていた。 そして泥沼の面積が刻々と拡大していったのであった。 そしてバス乗り場への帰路の階段は濁流の滝の如し。 御殿場駅までのバス乗り場まで約1時間余り長蛇の列の中、豪雨に晒されたのであった。 そして何とか御殿場駅に到着し、往路と同じルートで帰宅したのであった。
2016.09.03
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続いて中距離火力の登場。陸上自衛隊 CH-47J 大型輸送ヘリコプター チヌークによる120mm迫撃砲RTの空輸。 多用途ヘリ UH-60から隊員4名が降下開始。そして風と戦いながら空輸された120mm迫撃砲RTへ向かい 発射準備へ。射程13kmと。81mm迫撃砲組み立ても並行して準備する隊員。120mm迫撃砲RT 発射。中距離多目的誘導弾が登場。87式対戦車誘導弾。国産初のレーザー誘導方式を採用していると。 中距離多目的誘導弾 発射準備。爆風が強く危険であるので、別の装備が前方左の丘から発射。赤外線誘導方式IIRでの発射シーン。96式多目的誘導弾システムも発射準備。弾着。 軽装甲機動車。 機動性に優れた小型の装甲車で、その高い機動性は、砂漠地帯においても充分に発揮されると。この車両には、5.56mm機関銃または01式軽対戦車誘導弾を搭載可能。01式軽対戦車誘導弾を発射。96式装輪装甲車。普通科連隊の人員輸送装甲車として始めて採用された装輪式の装甲車。 対人狙撃銃が右手丘より、標的である前方ジープの運転員を狙撃。06式小銃てき弾にて青い風船が標的。84mm無反動砲が黒の標的に向けて発射。 110mm個人携帯対戦車弾が+標的に命中し灰色の噴煙が舞い上がる。 84mm無反動砲が煙幕弾を発射。 89式武装甲戦闘車。 ヘリ火力の登場。マクドネル・ダグラス社(現ボーイング)が開発した攻撃ヘリコプター AH-64D。アパッチ・ロングボウ(Apache Longbow)の愛称。対戦車ヘリコプター AH-1S。AH-1 コブラ(AH-1 Cobra)は、ベル・ヘリコプター・テキストロン(ベル・エアクラフト)社が開発した、世界初の攻撃ヘリコプター 。アパッチ・ロングボウからの発射。ピンクの噴煙が上がる。 87式自走高射機関砲。略称を「87AW」、愛称を「スカイシューター」。砲塔の左右に35mm対空機関砲KDAを1門ずつ、2門装備し、砲塔上部の後方にパルス・ドップラー方式の索敵レーダーと、追尾レーダーが配置されている。35mm対空機関砲を前方左の丘の上から発射。そしていよいよ戦車火力の登場。まずは74式戦車がヘッドライトを点けて丘の上に姿を現す。 74式戦車は、陸上自衛隊が61式戦車の後継として開発、配備された国産二代目の主力戦車。乗員は車長・操縦士・砲手・装填手の4名が乗車。配置は、車体前方左側に操縦士、砲塔右側に前から砲手、車長、砲塔左側に装填手となっているとのこと。74式戦車が発射。90式戦車。90式戦車は、第二次世界大戦後に日本国内で開発生産された主力戦車としては61式戦車、74式戦車に続く三代目にあたり、第3世代主力戦車に分類。標準主砲として44口径120mm滑腔砲を備え、弾種はAPFSDS(120mm TKG JM33装弾筒付翼安定徹甲弾)とHEAT-MP(120mm TKG JM12A1対戦車りゅう弾)を使用とのこと。発射を行った後、急停車、急旋回を披露。そして10式戦車。現在の日本の最新国産主力戦車。陸上自衛隊が運用する国産戦車としては4代目。主砲には国産44口径120mm滑腔砲を備え、新型の国産徹甲弾の使用により貫徹力を向上させていると。また、90式と同様に自動装填装置を採用し、乗員は車長・砲手・操縦士の3名。発射。耳をつんざく音が。そして前段演習最後の空挺降下。上空後方から飛行機の騒音が聞こえて来たので見上げたが見えるのは雲のみ。そして暫くすると数名のパラシュート部隊の姿が。 旋回しながらゆっくりと降下。 そして目標地点に見事に着地。 この後、約15分の休憩。併せて陸上自衛隊の音楽演奏が行われたのであった。
2016.09.02
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今年も富士山麓で開催される陸上自衛隊・富士総合火力演習2016に行って来ました。この日は本番前日の教育演習の日。しかし演習内容はほぼ本番と同じなのです。今年も現役中にお世話になった会社の役員の方が、チケットを送って下さいました。今年のチケットは車の駐車場券付きではなかったので、電車にて御殿場駅まで向かいました。早朝5:30過ぎに自宅を出て最寄りの小田急線の駅へ。駅からの朝焼けです。 藤沢駅で元同僚と合流、茅ヶ崎駅で更に1名、よって3人で国府津駅で御殿場線に乗り換え御殿場駅に到着。 御殿場駅はJR東海の駅の為、SUICAにて改札を通過できず。エリア内とエリア外をまたがる乗車の際は、改札を通過出来ないと。駅員の精算手続き場所には長蛇の列。15分ほど並び何とか精算を終え改札を通過。現金の必要はなく、駅員の手動にてSUICAカードで精算は出来たのですが。早く自動改札にして欲しいのです。JR御殿場駅を出た時間は7:45前。 往復バスチケットを購入し再びバス乗車のため列に並ぶ。そしてシャトルバスににて演習会場に出発。 30分弱で演習会場に到着し下車し、案内に従い林の中に作ってある指定の道を会場に向かって進む。 10分弱で会場に到着。会場座席案合図。 翌日の本番のポスターも貼られていた。『日本の本気』と書かれた文字が気になったのであった。今年も多くの仮設トイレが設置されていた。 『平成28年度富士総合火力演習』 の看板。今年の我々の席はスタンド席ではなくその前のシート席。しかしスタンド席にも既に多くの人が席を確保していた。我々のシート席は既に半分以上が埋まっていた。時間は10時から開催の1.5時間以上前の8:20過ぎ。最前方で陣取っている人々は何時に到着したのであろうか。おそらく6時には到着済み? 前方は雨雲に覆われ富士山の姿は最後まで全く見ることが出来なかった。案内に従いCスタンド前のシート席を確保しやれやれ。しばらくすると前方には整地作業車が出動。 この日は教育演習日の為、スタンド席には多くの自衛隊高等工科学校の学生?の姿が。多くの車両による整地作業も始まった。 そして都内からの元同僚も遅れて到着し、一人が迎えに行き4人全員集合。そして9時を過ぎると陸上自衛隊・富士学校音楽隊・第12音楽隊合同による演奏が観客席の前で行われた。遠く女性自衛官が独唱する姿も。 そして多くの散水車も登場。 今年のプログラムも前段演習と後段演習の2本立て。前段演習(10時20分~11時まで)は陸上自衛隊の遠距離(特科火力)、中距離(迫撃砲、誘導弾)、近距離(対人障害、普通科火力)とレンジが異なる3タイプの火力を紹介するところからはじまり、続いてヘリ火力、対空火力、戦車火力と実弾射撃を交えながら主要装備が次々に登場していく。中でも注目したいのは74式、90式、10式の各戦車による迫力ある射撃シーンや、履帯ならではの機動力が大きな見どころ。また、前段演習の最後には空挺部隊による自由降下や自動索降下も紹介された主要装備品を順次紹介する演習なのであった。後段演習は(11時20分~12時05分)。前段演習と後段演習の間には15分ほどの休憩時間が設けられている。後段演習は具体的なシナリオが用意され、その流れに沿って演習が展開していく。シナリオのテーマは「島嶼(しょ)部に対する攻撃への対応」となっており、海上および航空自衛隊との連携により「部隊配置」「機動展開」「奪回」と3段階のフェーズで作戦が進行。まず、洋上や島嶼部に展開した部隊への攻撃などからなる部隊配置からはじまり、機動展開では先遣部隊による機動展開および兵站支援など、そして最終段階となる奪回では島嶼部を舞台に偵察からはじまり、支援射撃、地雷などの障害処理、対空援護、戦車部隊での攻撃と、それぞれの部隊が連携して作戦を遂行していく様子を見ることができた。この後段演習には45分の時間が設けられているものの、密度の高い内容に息つく暇もなくあっと言う間に時間が過ぎてしまったのであった。いよいよ平成28年度の富士総合火力演習のスタート。両側に設置された巨大なウルトラビジョンに表示された。 まずは富士山麓の標的の場所の紹介を着色した煙幕で。 こちらは白煙で標的まで3000mの2段山で特科火砲などの目標地域。黄色の煙幕の場所が3段山。2段山、3段山の手前にある数字の「2」~「6」などで表示している台を「2」の台、「6」の台などと呼ぶ。距離1000~1800mで、戦車砲などの目標地域。黄色の噴煙の手前に「5」の数字が、そして更に手前には紫の台が。これは距離800m程の戦車砲、及び機関砲の目標地域。そしていよいよ演習の開始。まずは遠距離火力演習。155mmりゅう弾砲(FH70)。通常弾で24km、ロケット補助推進弾で30kmの射程とのこと。陸上自衛隊 最大口径口径203mm(8インチ)自走りゅう弾砲の発射。99式自走155mmりゅう弾砲。標的まで40kmが可能と。 遠距離火力の正確さを示す為に、一斉砲撃で水平に砲弾を空中炸裂させた。更にりゅう弾砲で富士山の形に・・・高い技術が必要と。 何とかズーム&連続撮影設定で富士山の形を撮影できた。
2016.09.01
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