全30件 (30件中 1-30件目)
1
岐阜城の後は『モネの池』を目指す。国道256号線を進み『道の駅ラステンほらど』で昼食とする。ドイツ語で、自然に囲まれた安らぎ空間を意味するラステンを駅名に。 注文したラステン定食は天ぷら、蕎麦、サラダ、デザートなどが付く豪華な内容。特に天ぷらは海老や野菜など種類が多く、揚げたてでサクサク。蕎麦は地元洞戸産の蕎麦粉を使用してるらしく、食感はそれほど良くはないが喉越しは良かった。 そして『モネの池』駐車場に到着。 岐阜県関市板取の根道神社にある、名もなき池が通称モネの池として話題になっている。神社の鳥居の横にあるそんなに大きくない池なのだけど、それがフランスの印象派画家クロード・モネの代表作といわれる「睡蓮」にとてもよく似ているとネットやテレビ、雑誌などで話題になり、訪れる人が多くなっているのだ。 モネの池も天気のわりには透明度が良かったが、クロード・モネの睡蓮のような印象には今一つと感じたのであったが。 これも青空ではなかった為なのであろうか。 紅葉が水面に映って美しかったが。池を泳いでいる鯉もその池のきれいさを引き立て、優雅に泳いでいた。水面がエメラルドグリーンに見えるれば最高であったが。しかし水面が鏡面のように木々や橋、人などを映していたのであった。真っ赤なモミジと水面には睡蓮の葉が。空も明るくなり水面も光り始めてきた。睡蓮の花はほとんど確認できなかったが鯉がのんびりと泳いでいた。いろいろな模様の鯉。一輪の睡蓮の花を発見。真っ赤なモミジが水面を覗いていた。根道神社(ねみちじんじゃ)の石鳥居。拝殿。拝殿横から本殿を見る。境内から杉林越しにモネの池を見る。ハートマークのある鯉を探すがなかなか見つからなかった。コウホネ(河骨)の花も終わっていた。モネの池の人気の理由が、『岐阜県 モネの池』を泳ぐ一匹の鯉にあるのだと。その鯉の模様が『ハート型』で、『岐阜県 モネの池』に来る観光客のお目当てになっているのだと。Twitter等のSNSには数多くの投稿で『ハート型の鯉を撮ると幸せになれる』と。私も『必死』にカメラ撮影。青空を映してエメラルドグリーンに映る水面が光の加減でオーシャンブルーに染まるのであれば『モネの池』で良いが、下の写真の名前が良いのではとも。
2016.11.30
コメント(1)
ロープウエィを降り公園内で開かれていた菊人形・菊花展を楽しみました。岐阜公園の菊人形は10体。見張り台の上にはこれも菊人形の門兵が。JR岐阜駅で合流した旅友のクマチャンも見事な紅葉の金華山の上に建つ岐阜城の雄姿をカメラに収めお孫さんへのお土産にと。白と黄色の大菊の千輪仕立て。 一本の菊木から、数え切れない程の立派な菊の花が咲き誇っておりビックリ。 大菊の小作り。 様々な色の菊が見事に仕上げられ並んでいた。 『菊人形菊庭園』は今が見ごろと。 板垣退助の銅像。『板垣退助遭難の地 明治15年4月6日午後1時時の自由党総理 板垣退助 が中教院にて演説を行う参会者百余名夕刻 板垣退助 総理すべてを終え玄関から数歩出るや「国賊」と叫んで相原尚褧 が総理の胸を刺す。総理「板垣死すとも自由は死せず」と有名な言葉を残したのである。即ち板垣総理遭難の地である。』今年のテーマは「信長公 稲葉山城攻略」。菊人形は信長と、美濃三人衆といわれた斎藤方の氏家卜全・安藤守就・稲葉一鉄。 戦国時代の馬は小さかったと。 大菊の三本仕立て。 自由花の部の懸崖。 見事な小菊盆栽仕立て。 その裏には見事な赤と黄の紅葉そして黄葉。 花壇に囲まれた女神の噴水が。 岐阜公園から見上げた岐阜城。 小菊盆栽仕立ての傑作が並んでいた。 岐阜市歴史博物館。 そして岐阜公園を出て、岐阜大仏(正法寺)へ。 日本三大仏の一つに数えられるこの大仏は乾漆仏としては日本一の大きさとのこと。奈良と鎌倉とここ?天保3年4月(1832年)に、実に38年の歳月を費やして完成したと。堂の高さ25.15m、廻り19.39m。 仏像は坐像で、高さ13.7m、耳の長さ2.1m、鼻の高さ0.4mであると大イチョウを直柱として、骨格は木材で組み外部は良質の竹材と粘土で造られ、その上を一切経糊張りし漆を塗り金箔を置いたものです。胎内には薬師如来がまつられていると。大仏のポスターを撮影。正法寺の地蔵菩薩。境内の石像群。 駐車場に戻る途中の岐阜市歴史博物館入口に菊人形・菊花展の正門が。 萬松館(ばんしょうかん)入口の紅葉も見事。 最古の伝統料亭の萬松館。由緒正しい料亭というのも納得の門構え。岐阜公園内にあり、自然豊かな美しい庭園に囲まれ繊細で上品な割烹料理を楽しめると。しかしじっと我慢し風景だけを体一杯に詰め込んだのであった。
2016.11.29
コメント(0)
JR岐阜駅に10時に予定通りに到着。東海道本線と、当駅を起点とする高山本線が乗り入れ、分岐駅となっているのだ。 北口駅前広場に、金箔製の織田信長像。丁度私は携帯電話で話をしており、この写真は以前のものですが。 そしてクマちゃんと合流し、岐阜城に向かう。駐車場探しに苦労したが、なんとか岐阜公園前の有料駐車場に滑り込む。 公園内の木々は紅葉の真っ盛り。見事なモミジが迎えてくれた。 折しも岐阜公園では菊人形・菊花展が開催されていた。岐阜公園内にある「信長の庭」と呼ばれる庭の中の池の上には舞台が仮設されその舞台に菊人形が。菊人形は例年と同じ”茶を愛した信長の思い”がテーマであるとのこと。信長と濃姫の菊人形。 池の中の大きな島石には亀が。本物? 現在の岐阜公園一帯は当時治めていた大名の居住地。この井戸は1999年の発掘調査で見つかったもの。 井戸底にはサワラとヒノキで作られた桶があり、そこに水が溜められていたと。 そしてぎふ金華山ロープウェィの山麓駅に。 ロープウェィのチケットを購入し出発時間を待つ。 乗り場付近で、ゆるキャラのリロちゃんに会う。ネーミングは金華山にあるリス園の「リ」とロープウェイの「ロ」からとったとか。 そしてぎふ金華山ロープウェーは山頂駅に向けてスタート。 1954年に戦後としては初、空中ロープウェイとしては国内で2番目のロープウェイとして誕生。そもそも「ロープウェイ」という名称が付けられたのも金華山ロープウェイが国内で初めてなのだと。ちなみに、最急勾配は約33度と国内一を誇ると。ロープウェイ右下は現在発掘調査中。 金華山の山頂駅まで約4分で到着。 眼下に広がる岐阜の街並みそして長良川。 金華山の標高は329m、岐阜市のシンボルとも言える山。鎌倉時代には「十三人の合議制」の一人である二階堂氏がこの山に砦を築き、その後二階堂から稲葉に改名したため「稲葉山」と呼ばれていたのだそう。ちなみに、「金華山」という山名はツブラジイという常緑高木の花が咲くと山全体が黄色く彩られ、黄金に輝いて見えることから付けられたのだと。 岐阜城に向けて階段を上る。岐阜城はもと「稲葉山城」とよばれていた。室町時代に守護大名の斉藤利永が修復。戦国時代に入り、斉藤道三が再興。その後、織田信長によって「岐阜城」と名前がかわり、関ヶ原の戦いで落城。現在の建物は1956年に市民の寄付で再建したもの。天守台にそびえたつ天守閣の南西一段下に二の丸が築かれさらに一段下に、二の丸門が建っていた。周囲を石垣で高く積み上げ、守りを固めている岐阜城攻略戦では二の丸門で、激戦が繰り広げられた。この時門内にあった煙硝蔵に火がついて、大爆発し夜空を焦がした火炎が、美濃の尾張国内に岐阜城落城を知らしめることになったと説明板に書かれていた。 岐阜城の歴代城主。難攻不落と呼ばれる岐阜城だが、1601年(慶長6年)に徳川家康の命により廃城になるまでに都合7度の落城を経験。その間、22人の城主がいたと。なかには織田信長や斎藤道三といった有名武将も、のちに姫路城を築くことになる若き日の池田輝政も城主をつとめているのだ。 更に天守に向かい階段を上る。 城跡は岐阜城跡(ぎふじょうあと)として金華山と、その山塊の2,091,602.74平方メートルが国の史跡に指定されているのだ。二の丸跡の正面に岐阜城天守が見えて来た。 日本100名城(39番)に選定されている岐阜城。天守は池田輝政時代に改変され、岐阜城廃城及び、加納城築城によって他の建物と共に加納城二の丸北東隅櫓「御三階櫓」として移築されていたが、1728年(享保13年)の落雷によって焼失。なお古図によれば、元々4層だったものを3層に改変された後があると。この事から、元々4層4階、又は4層5階だった可能性があるとのこと。 現在の天守は1956年(昭和31年)7月25日落成。鉄筋コンクリート建築3層4階建て。延べ面積461.77m²、棟高17.7m。3階までは史料展示室、4階は展望台となっており、長良川や岐阜市街を一望する事が出来る(1階:武具の間、2階:城主の間、3階:信長公の間、4階:望楼の間)。 天守下からの街並み。 天守周囲の紅葉も見事。 岐阜城「天守閣入口前」にこの大時計。大名時計・和時計ともいう。西洋の機械時計が日本に入ったのは、フランシスコ・ザビエルが周防国(現在の山口県)の大内氏に献上したのが最初。当時の時計は壁掛け式であり、操作も複雑であった。このため日本の時計師は工夫と改良を重ね日本独自の十二支を目盛りとする櫓時計を造りあげ、その精密さは世界一であったと。明治5年(1872年)11月、太陰暦が太陽暦に改められ、和時計は製作されなくなった。岐阜城では、お城時計と称された江戸時代前期の大型櫓時計を天守閣内に所蔵・展示している写真は模擬時計であるとのこと。本丸北の金華山御嶽神社。 天守前には巨岩が。 岐阜城資料館にある日本百名城スタンプをゲットしようと旅友のSさんは足早に向かっていた。 そして岐阜城のスタンプをGETし百名城をすべて制覇。おめでとうございます。 百名城達成を記念して記帳したSさん。 岐阜城資料館横の黄葉も見事。 そして帰路も天守閣が青空に映えていた。 電線が邪魔。 岐阜城題目塚。二の丸門跡近くに建つ題目塚。斉藤道三から織田秀信まで、いくたびかの戦いで死んでいった人々の霊をなぐさめるために建てられたといわれている。 地蔵尊。 そして再びロープウェィで金華山を降りる。 眼下の岐阜公園の黄葉を楽しむ。 全長599m、高低差255mで、約4分で金華山麓駅に到着。
2016.11.28
コメント(1)
圓興寺を後にし、次の訪問場所の大垣城へ向かう。大垣城の外堀沿いの駐車場に車を停め散策開始。外堀沿いに芭蕉の句碑が。元禄二年(1689)江戸深川から出発した松尾芭蕉は、武蔵、下野、岩代、陸前、陸中、陸奥、出羽、越後、越中、加賀、越前を巡り、それぞれの場所で俳句を読む旅を続けており、その最後の場所が、現在のこの岐阜県大垣市。『有難や 雪をかほらす 南谷』 堀の底には緑豊かな梅花藻がゆらゆらと。冷涼で流れのある清流中に生育し、初夏から初秋にかけてウメの花のような白い花を水中につけるとのこと。 堀に沿った街路樹も紅葉の真っ盛り。 戦前は本丸とともに国宝に指定されていた艮隅櫓(うしとらすみやぐら)。本丸を取り囲んだ腰曲輪の櫓。大垣城は美濃守護・土岐一族の宮川吉左衛門尉安定により、天文4年(1535)に創建されたと伝えられている。関ケ原の戦いでは、西軍・石田三成の本拠地となった。その後、戸田氏が十万石の城主となり明治まで太平の世が続いたと。昭和11年(1936)に国宝に指定されたが、昭和20年(1945)7月戦災で焼失。昭和34年(1959)4月、4層4階の天守を再建し、名実ともに城下町大垣のシンボルとなったのだと。大垣城 東門。天守が復興された際に、七口之門の 1つである柳口門がここに移築されたと。 東門前からの艮隅櫓。 昭和20年(1945年)、戦災で惜しくも焼失しなければ歴史的価値の非常に高い観光名所になっていたと言われる大垣城。かつての大垣城は、水堀を幾重にもめぐらせた堅城で、敷地にして現在の3倍以上、櫓の数は10を数える大変規模の大きな要塞だったと。 麋城(びじょう)または巨鹿城(きょろくじょう)とも呼ばれる大垣城。大垣城は1500年(明応9年)に竹腰尚綱によって揖斐川(牛屋川)東河岸にあった牛屋に築かれたともいわれ、1535年(天文4年) に宮川安定が大尻に築いたともいわれる。この当時は、牛屋城と呼ばれていたとされていると。その後氏家氏、伊藤氏によって改築が加えられたとされ、1613年(慶長18年)には石川忠親によって総堀が加えられ、松平忠良が天守を改修した。その後1649年(慶安2年)に 戸田氏鉄によって明治に至る姿とされた。戸田氏改修後は並郭式に本丸と二ノ丸を並べ、その周囲を三ノ丸で囲い、更に外周は惣構としていた。本丸には北西隅に4重4階(3重4階とも)の複合式層塔型天守を上げ、3重櫓1基に2重櫓を3基、二ノ丸に月見櫓など3重櫓を4基、三ノ丸には2重櫓4基、平櫓1基などが建て並べられ、本丸に2つ、二ノ丸に1つ、三ノ丸に大手門など大小5つ、外郭に南大手門など大小7つの門が開かれていたとのこと。大垣城本丸、二ノ丸址は大垣公園として整備されていて市民の憩いの場。復興天守の2階では、関ヶ原の合戦を石田三成・徳川家康両者のモノローグでリアルタイムに追ったムービーなど様々な動画コンテンツを閲覧できる。さらに戦国時代についての学習も可能。火縄銃や槍、弓を実際に触ることができる展示コーナーも。2000年(平成12年)に開催された決戦関ヶ原大垣博では、テーマ館の一つとして使用されたと。 城内より西門を望む。 金森吉次郎像。木曽三川改修の実現を生涯の目標として治水と山林事業を手掛けた、歴史に埋もれていた治水の先人達(薩摩義士)の偉業も後世に伝えた人物。 南に鉄門跡。二の丸(現濃飛護国神社、大垣城ホール)から廊下橋を渡った所の門。鉄門は各務原市の鵜沼宿に移築され、各務原市指定 重要文化財となっているとのこと。城郭図。茶色の部分が再建された建物。西門。当時本丸は堀に囲まれていたが現在は埋められて道路に。よってこの門はなかったとのこと。 西門近くからの天守。 戸田氏鉄の銅像と天守閣。大垣城は関が原の戦いでは西軍石田三成の本居地になったのだが、銅像は石田三成ではなくて戸田氏鉄。その後で戸田氏が十万石の城主になり明治まで続いたと。大垣公園のモミジも真っ赤っ赤。そしてその下に・・・。大垣消防組員頌徳碑(昭和7年)。大垣城に隣接する公園にかなり奇抜なデザインの石碑を発見。様式建築に見られるオーダー(石柱)を狭い空間に、これでもかといわんばかりに並べた姿はまさに壮観、設計者の心意気が。 公園からの天守と艮隅櫓。 大垣城の本丸、二ノ丸址は大垣公園として整備されているが、その公園内にある天照大御神を祀った「大垣大神宮」。城の近くにあり、古くから城の守り神とされてきた神社。 大垣城探索のあとは墨俣城へ。永禄9年(1566年)、木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)が一夜にして築いたと伝えられる墨俣一夜城。その城跡に、当時の砦のような城ではなく、城郭天守の体裁を整えた墨俣一夜城(歴史資料館)が、平成3年4月に開館したと。史実については、太閤記や断片的資料で概要を知る程度であったが、昭和52年に愛知県江南市の旧家に伝わる前野家古文書の中から、墨俣一夜城に関する貴重な資料が紹介され、その全貌が明らかになって来ていると。墨俣一夜城(歴史資料館)では、この資料に基づいて墨俣築城と秀吉の歩んだ道を中心とした展示構成とし、太閤・秀吉についての学習の場として広く活用されていると。 墨俣城の前を流れる犀川にかかっている橋は「太閤出世橋」。欄干には秀吉の馬印として使われたひょうたんをモチーフにしたかざりが。 出世橋は年金生活の私には既に無縁の橋。現役のNさんに渡ってくる事を勧めたがあくまでも控えめの男なのであった。築城時期は不明であると。長良川西岸の洲股(墨俣)の地は交通上・戦略上の要地で、戦国時代以前からしばしば合戦の舞台となっていた(墨俣川の戦い)。斎藤氏側で築いた城は斎藤利為らが城主を務めた。また、1561年(永禄4年)ないし1566年(永禄9年)の織田信長による美濃侵攻にあたって、木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)がわずかな期間でこの地に城を築いたと伝えられている。これがいわゆる墨俣一夜城であるが、不明な点が多く、様々な議論があるとのこと。現在、墨俣城跡の北西側は一夜城跡として公園に整備されている。橋の反対側(資料館側)には木下藤吉郎秀吉の像が。大垣城の天守を模した墨俣一夜城歴史資料館が建てられているが、史実上の外観とは異なるのだと。 揖斐川寄りの用水路に架かる赤い欄干の橋と墨俣城天守閣。 そしてこの日は、以前にスぺインそして中欧の旅にご一緒した岡崎にお住いのクマチャンと10時に合流するためにJR岐阜駅に向かう。途中車窓前方に山の上に聳える岐阜城の姿が確認できた。 旅友のSさんが日本百名城のスタンプラリーの百名城達成の為に選定したのがこの岐阜城なのであった。
2016.11.27
コメント(1)
今年も、旅友のSさん、そして元同僚のNさんと3人で岐阜、愛知の紅葉狩りに行ってきました。高速料金を減らすために高速道路に早朝4時前に入ることを決断し茅ヶ崎に住むSさん宅に3:30に集合。練馬に住むNさんは2時近くに愛車でご自宅を出て茅ヶ崎に向かったのでした。Nさんのワゴン車で無事4時前に圏央道・寒川南から高速に。これにより高速料金の3割引を確保。そして新東名高速を選択し進む。明るくなった豊田JCTを順調に通過。 そして名古屋高速16号線一宮線に入り、名神高速道路と東海北陸自動車道のジャンクションである一宮JCTから名神高速道路で東海北陸道岐阜を目指す。 木曽川を渡っていると前方に伊吹山の姿が。伊吹山は滋賀県米原市、岐阜県揖斐郡揖斐川町、不破郡関ケ原町にまたがる伊吹山地の主峰(最高峰)標高1,377 mの山養老JCTから東海環状線の大垣西インターを目指す。 そして最初の目的地の圓興寺に7:30過ぎに到着。茅ヶ崎から4時間のロングドライブ。円興寺は、岐阜県大垣市にある天台宗の寺院。山号は篠尾山。本尊は木造聖観音菩薩立像(国の重要文化財)。西美濃三十三霊場第三十二札場。 境内は紅葉の名所であり、飛騨・美濃紅葉三十三選に選定されているとのことでこの寺を訪ねたのであった。寺伝によれば、790年(延暦9年)、美濃国不破郡青墓(現大垣市青墓町)の大炊氏に懇願され、最澄が開山したという。1574年(天正2年)、織田信長により焼き討ちにあい、全てを焼失。この際本尊が勝手に動き、石の上へ難を逃れたと。このことから、本尊を石上観音と呼ぶ。1658年(万治元年)に再興され、現在地へ移転する。旧圓興寺かつては金生山山頂に存在していたと。山の中にある旧円興寺跡地には礎石が残り、源朝長(みなもと の ともなが)の墓、源義朝、源義平の供養塔などが残るとのこと。この墓までは時間の関係上行く事を諦める。現在の円興寺には源朝長の位牌や関わる各種遺品があると。 源 朝長は、平安時代末期の武将。源義朝の次男。母は波多野義通の妹。源頼朝・義経の異母兄なのである。相模国松田郷を領して松田冠者(まつだのかじゃ)と号した。また、松田殿とも呼ばれたと。父や兄弟とともに平治の乱で平清盛と戦うが敗れ、父や兄弟とともに東国へ落ちる途中でここ美濃青墓宿で落ち武者狩りに遭い負傷、傷が悪化したため父義朝の手にかかり十六歳を一期に相果てたとのこと。 境内下の紅葉は朝の陽光を浴びて見事なまでに赤くなっていた。 参道脇には自然石に手彫りで刻まれた歌碑が建っていた。人馬の往来の激しい街道筋にはつきものの、遊女や傀儡にまつわる伝承も多く残され、とりわけ平安時代中期から鎌倉時代にかけて流行した「今様」はこの地が発祥と言われているのだと。『遊びをせんとや生まれけむ 戯れせんとや生まれけむ 遊ぶ子どもの声聞けば わが身さえこそ揺るがるれ』(遊びをしようとしてこの世に生まれてきたのであろうか、それとも戯れをしようとして生まれてきたのであろうか。無心に遊ぶ子供たちの声を聞いていると自分の体までが自然と動きだすように思われる)境内を覆う大きな「楠」。 赤と黄色そして白塀が朝の陽光に輝きのBEST MIX。そして鐘楼の姿も。 境内下には一筋の水の流れが。 境内に向かって階段を上る。両脇には南無観世音菩薩と西美濃三十三霊場の幟が。 青空を背景に、緑、黄、赤の輝き。 本堂の向かって右前にある鐘楼。 義朝・義平・朝長の父子と大炊一族の位牌を祀る本堂。円興寺は美濃五山の天台宗寺院。かつては山の上に七堂伽藍を構えた大寺院だったが織田信長の焼き討ちにあいながらも、本尊だけは不思議と難を逃れたと。源氏との関わりが深い寺のようで、源朝長の位牌もあると。その他、本堂には本尊の聖観音の他、如意輪観音、薬師如来、阿弥陀如来、四天王など様々な仏も安置されていると。境内の祠。 「飛騨・美濃紅葉三十三選」にも選ばれている名所だけあって、紅葉が色鮮やかに染まり、季節に彩りを添えてくれていた。侘び寂び豊かな風情のある境内に真っ赤に色づいたモミジを多いに楽しんだのであった。かり
2016.11.26
コメント(0)
昨日11月25日は、前線を伴った低気圧が東に進み、北日本から関東の上空に真冬並みの寒気が入った影響で24日朝、関東を中心に雪が降ったのです。朝6時前に起床し我が部屋の雨戸を開けると予想に反して雨。しかししばらくして7時過ぎに白いものが落ちて来ました。そして我が部屋からの光景は白に変化。 門の横の柘植も白い帽子を被り始める。 そして水分に富んだ雪が降り続き11:30の光景。 五葉松も白に覆われ始めていた。 そして小降りになった12時前に長靴を履き、我が家の横の菜園に。 積雪は5cm以上か。ソラマメの防寒ネットも重い雪に撓んでいた。 そしてスナップエンドウの防寒トンネルも雪を載せて。 イチゴ畑の苗の姿は既に雪の下。食用菊の黄色の花の上にも白の華が。皇帝ダリアは雪の重みに耐えられずに先端の枝が花をつけたまま折れてしまっていた。 必死に頑張るピンクの花。 雪に覆われた花弁も。 そして我が菜園の前の畑の姿。 東京都心では午前11時、11月としては観測史上初めて、積雪を確認したとのこと。そして藤沢市の隣の横浜市では11月としては1962年以来、54年ぶりの降雪となったとテレビニュースで。我が藤沢市も同様なのであろう。漸く15時過ぎに雪は止んだが、そしてこの時間の16時過ぎには僅かな陽光が西の空から。我が愛するミツバチもこの急激な寒さにびっくりしているのであろう。しかし寒さに負けずに巣温を皆で上げ頑張っていると思いたいのであるが。
2016.11.25
コメント(0)
我がブログは2008年04月06日に開始し、現在に至っています。今までに3143回のブログアップ。そして2016年11月16日には99万回を達成し100万回が近づいていました。 そして2016年11月23日、5:09:14にアクセスしてみると既に100万回を突破し 1,001,040回を示していました。おそらく2016年11月22日に100万回を達成した模様ですが、残念ながらこの日は仕事で終日富山に行っており、100万回達成の瞬間は目撃できませんでした。2008年04月06日から、日数で3,153日、週数で450週+3日、月数で103ヶ月+17日、 年数で8年+231日、年月数で8ヶ年7ヶ月17日になります。最近のアクセス回数は平均して1,000~1,500回程度になっているようです。 3,153日でブログアップ数3,143回で約99.7%のブログアップ率になっています。これからも毎日の出来事を「つれづれなるままに、日くらしパソコンにむかひて、心にうつりゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ」 の精神であくまでも「忘備録」として、このブログを書き続けて行きたいと思っています。
2016.11.24
コメント(0)
今年もソラマメ、スナップエンドウの定植を行いました。10月末に種をポットに播き、約25日間でここまで大きく成長してくれました。 ソラマメは本葉が5枚までに成長。 こちらはスナップエンドウ。 エンドウには用途によって、若サヤを利用するサヤエンドウ、子実とサヤを利用するこのスナップエンドウ、子実だけを利用するグリーンピースがあります。スナップエンドウは穴あき黒マルチを敷き植え付けました。2条植えとし畝幅を広げて条間約60cm。スナップエンドウは幼苗の頃が最も耐寒性が強いので(大きくなると弱くなる)、越冬するときに苗が大きくなりすぎないように種まき時期に注意が必要です。チョット大きくなり過ぎた気もしますが・・・・・。 そしてソラマメも。 今年も「打越一寸」を植え付けました。 そしてスナップエンドウ、ソラマメ共に防風、防寒を兼ねてネットで覆いました。 趣味の養蜂場のある農園にもソラマメを定植。こちらは幅広のシルバーポリマルチを敷き植え付けました。アブラムシは光っているものが苦手なので、黒いマルチでは無く、シルバーポリマルチや要らなくなったCDなど光るものをぶら下げたりする方法が有効なのです。 越冬させる場合は本葉5枚~6枚で、霜にあたると苗が黒くなりその後の生育に影響が出るので笹や藁そしてネットなどで幼苗を守るようにするのです。 そしてこちらも、防風、防寒用にネットで覆いました。
2016.11.23
コメント(0)
我が家の横の菜園の片隅の皇帝ダリアが甲斐かを始めました。今年の台風の強風で多くの幹が倒れてしまいましたが、逞しく幹を立ち上げて開花を始めました。 成長すると3~4mにもなる事から皇帝と名付けられたとのことです。 花はピンク色で直径約20センチメートルの 大輪の花が茎の頂上につけます。 晩秋のこの時期、空にそびえて立つ姿は圧巻。 日が短くならないと花芽ができないので、開花期が遅く11月下旬から咲き出します。 巨大なピンクの花です。 我が家の皇帝ダリアの先にはお隣の皇帝ダリアが覗いています。
2016.11.22
コメント(0)
【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク次に用田寒川神社へ用田寒川神社は、藤沢市用田字御手洗水にある神社。1574(天正2)年、伊豆河津庄の領主伊東氏の子孫といわれる用田の豪族、伊東家の伊東孫右衛門の勧請により作られた。1873(明治6)年に村社となり、現在も用田の鎮守として地域の人々人親しまれていると。境内には速素盛雄命(ではやすさのおみこと)を御祭神とする八雲神社もあり、八雲神社例大祭では濱降祭に出御したこともある神輿も担がれるのだと。 入り口にある鳥居と狛犬。右にはご神木そして「元村社寒川神社」と平成九年に建てられた「用田寒川社」の二つの社号標が建っていた。本堂がある境内まで参道が伸びていた。 手水舎。 神楽殿。 本堂。 ご祭神は品陀和氣命/誉田別命(ほんだわけ)[別名]応神天皇(おうじんてんのう)。ご祭神の品陀和氣命は通称「八幡さま」と呼ばれ、第15代天皇。八幡さまは農耕神、海の神 。ご利益は出世開運、武運長久 他 とのこと。境内の八雲神社。 階段の先には鐘楼が。 鐘楼。 鐘。 社寺譲受記念碑。 境内には用田公民館が。 鳥居の柱は途中で何段か繋がれていた。この鳥居は大正十一年建立。社号標裏面によると平成九年に参道の拡幅に併せて境内の整備を行ったとある。鳥居の横に立つ巨大な松の御神木 門前に『用田市民の家』 があった。 『用田(ようだ)』の 地名の由来が書かれていた。昔、寒川町の寒川神社の所領の御用田があったので用田と呼んだと言われている。一説に昔角田氏の勢力があったころに、伊豆より伊東氏がきてその勢力に敗れて「ク(苦?)」を取り用田となった説もあるが、今に残る文書から角田氏が領主のころ、用田郷の地名が既に見られたといわれていると。藤沢市用田の用田の辻交差点付近にある史跡である大山街道の道標を訪ねる。丹沢山地の南東部に位置する大山と大山阿夫利神社は「雨降山、阿夫利山(あふりやま)」と呼ばれ、五穀豊穣の守護神として崇められ、江戸時代中期には江戸や関東周辺の人々の間で大山詣が流行した。この大山詣の人々が通ったいくつかの道を大山街道と呼びます。御所見地区を横断する大山街道は「柏尾通り大山道」と呼ばれ、横浜市戸塚区柏尾町付近で東海道からわかれ、横浜市中田、藤沢市長後、そして用田、門沢橋を通り相模川を渡り、厚木市・伊勢原市を通って大山に至るのです。この道と中原街道が交差する交通の要衝がここ用田の辻。当時は十数件の旅籠や茶屋が並び宿場町として栄えたと。用田の辻にあるのがこの不動明王で、1775(安政4)年、「右大山道」という銘が刻まれていた。 不動明王座像をズームで。像とその下の道標の材質は異なるようですので、いつの時か道標の上に載せられたのでしょうか。 不動明王座像の後ろ姿はなぜか寂しそうに感じられたのです。右下の小さな道標には「西座間村」と書かれているようです。この日の最後に藤沢市用田地区に入って、県道22号線旧道と43号線が合流する御所見中学校のそばの歩道橋の下の道標を兼ねた庚申塔を訪ねました。 県道に面して笠塔婆型角柱塔 六手合掌青面金剛が。 元禄15年(1702)建立。元禄15年と言えば赤穂浪士が討入りした年。「従是かしをとつかへの道」、裏面には「従是ふぢさわゑのしま」と刻んであるようですが・・・・。青面金剛の裏面が摩耗がかなり進んでいました。
2016.11.21
コメント(2)
【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク用田の女坂一般廃棄処分場の近くに、特徴のある屋根の本堂が。中央が突き出ている本堂の屋根。「女坂の花桃のお寺」で知られる用田の日蓮宗妙龍山薬王寺。寺標の向うに日蓮上人の立像。 3代続く尼寺とのこと。ご本尊は薬王菩薩。 『薬王寺』 と書かれた扁額。本堂内部。 薬王菩薩石造か? 境内右手には3本の石柱が。 薬王寺を後にし、中将姫祠に向かう途中の中原街道手前の藤沢市用田33、女坂の石塔列。一番右から馬頭観世音塔、単体道祖神、安曇野型双代道祖神、不明石、そして一番左に文字庚申供養塔。馬頭観世音。安曇野型双代道祖神。比較的新しそう。 その先の小さな祠には地蔵様が。 東海道新幹線の下を潜り、狭い農道を進むと『中将姫入口』の案内板を発見。 畑道を通り林の中を下ると竹林が拡がりその中に中将姫の祠が鎮座。『中将姫は奈良時代の右大臣藤原豊成公の娘で、幼くして母を失い継母に育てられた。しかし、その美貌と秀でた才能から継母に嫉まれ、命を狙われ面で顔を隠す逃亡生活。その面は寿昌寺に預けられた後、用田の寒川神社へと納められたが盗難に遭い現存していない。その後、姫は父と再会し一度は都に戻ったが願いにより当麻寺へ入り、17歳で中将法如として仏門に入り称賛浄土経一千巻の写経を達成した後、阿弥陀如来と観世音菩薩の力の元に、百駄の蓮の茎より一夜にして一丈五尺(約4m四方)もの蓮糸曼荼羅を織り上げた。その後29歳を迎えられた中将法如は、光仁天皇の宝亀6年(775)3月14日、諸仏の来迎を受けて大往生を遂げた。』と案内板に書かれてあった。鎌倉材木座の光明寺には、中将姫の伝説を描いた『当麻曼荼羅縁起絵巻』が伝えられ、鎌倉国宝館に寄託されているとのこと。この祠は、逃避行中に姫がこの地に隠れ住んだという伝承があり、お参りすると子宝に恵まれるといわれていると。中将法如の命日である毎年3月14日には地元の中条の人々が集まってお祭りを行うとのこと。中将姫祠内部。中央に中将姫の姿が描かれた額に入った絵画。『当麻曼荼羅縁起絵巻』(二巻)は、奈良当麻寺の浄土変相図の由来を描いたもので国宝。奈良時代、聖武天皇の頃、横佩の大臣(藤原豊成)の姫が極楽往生を祈念し、蓮糸で曼荼羅を織りあげ、やがて阿弥陀如来のお迎えを受け、極楽へ旅立つという物語。この後は更に歩を進め、相模丘陵の間を流れる目久尻川沿いに建つ寺 寿昌寺を訪ねる。 護法山と号する用田の字中条にある曹洞宗の寺院。1613(慶長18)年に創建され、開基は用田区の豪農にして大庄屋として知られる伊東家の伊東孫右衛門、開祖は僧・通山。元遠藤宝泉寺の末寺で、6世悦道が中興の祖とされている。山門付近には大銀杏が2本あり寺のシンボル、続く参道も石燈籠が並び豊かな緑に囲まれていた。また、創建以来ほとんど火災に会っていないほか、関東大震災でも倒壊しなかった数少ない寺院のひとつで、本堂には地獄絵図2幅、十六羅漢像、まわり地蔵などが残されていると。 『曹洞宗 寿昌禅寺』と刻まれた寺標とその横に『寿昌寺略縁起』の石碑が。『無縁之塔』には多くの無縁仏の墓碑がピラミット状に積まれていた。 山門横に六地蔵とその左に3体の仏像が。歴史を感じさせる重厚な姿の石灯籠。 境内にあった小さな社。 山門は質素ではあったが、歴史が感じられる造り。山門から本堂までの参道は良く手入れた植栽が左右に。参道を進み、本堂手前まで進む。 十三石塔。 参道脇のお堂。 屋根が拡がる本堂。 『護法山』と書かれた扁額。 本堂内部。本堂手前の観音像。 優しいお顔の掃除小僧にお会いしました。 菩薩石造。 歴代大和尚の名が刻まれた大きな石板碑。開山の僧 通算ぎん(門篇に言)達大和尚 慶長4年(1599)から現和尚まで34代の名が。境内から再び山門を見る。 道に迷いながらも伊東家墓地へ。この伊東家の墓は、かつてこの地にあった豪族伊東家の墓が集まる史跡。伊東氏は、戦国時代に伊豆からこの用田の地に移り、用田村を草創した一族。江戸時代には相模でも屈指の豪農・大庄屋として栄え、菩提寺である寿昌寺や示現寺、用田村の鎮守である用田寒川社を創建するなど、現在でも残る寺社を残しているのだ。この史跡は、深い森のなかに寛永年間から近年までの一族代々の墓碑や庚申塔など、300基近くがが並んでいるのだと。
2016.11.20
コメント(0)
【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク瀧出現不動尊の横にある皇子大神(おおじおおかみ)を訪ねる。創建年代は不詳とされているが、桓武天皇の第三皇子葛原親王を奉祀していることから、垂木御所、乗福寺とともに垂木主膳長田武蔵守平忠望によってつくられたとの説もあると。かつては皇子権現と称しており、1869(明治2)年に現在の名称に改称。また、1879(明治12)年の神仏分離まで長盛寺(現在の滝不動)に所轄されていた。現在でも、葛原地区の鎮守さまとして地域の人々に親しまれ、木々に囲まれた社までの長い参道は、葛原親王を奉祀するのにふさわしいたたずまいを見せているのだと。境内入り口左の石塔群。 再建の記念碑。記念碑によると神社の鳥居はFRP製と。長い参道。人の姿もない鬱蒼とした杉木立の木々の中、ゆっくりと歩を進めると自然と厳粛な気持ちに。手水舎。手水舎はかつて寒川神社にあったものが、寒川神社の新改築によってここにに払い下げられたものであると。何故かこの日は水がない・・・・??参道を抜けると正面に本殿。御祭神は葛原親王(かずらわらしんのう)、葛原親王は、第50第天皇である桓武天皇の第三皇子。8~9世紀頃の皇族で、平家の祖と言われています。そして素盞嗚尊(すさのおのみこと)。素盞嗚尊は嵐/暴風雨の神、厄除けの神、縁結びの神、安産の守護神。本殿の屋根の美しい曲線。 黄金の枠に縁取られた神額。 本殿内部。皇子大神 恒例祭事案内板。神輿社。境内には八坂神社が合祀されており、壮麗な神輿があると。神楽殿。社務所。参道を引き返すと、以前の石鳥居が保存?されていた。1907(明治40)年に建立され、関東大震災にも耐えたものだが、老朽化により建て替えられたもの。苔むした石灯籠とその前にはFRP製鳥居が。次に訪ねたのは乗福寺。寺の前にある駐車場に車を停める。ピラカンサスのオレンジ色の実が美しかった。乗福寺は葛原の字女坂にある、万年山昌寿院と号する曹洞宗の寺院。乗福寺山門と付近の様子。 乗福寺の寺標。 萬年山と書かれた扁額が山門に。参道の両脇には南無観世音菩薩の旗が。 境内の地蔵尊。こちらにも石仏が。三皇神社と刻まれた小さな石の祠も。境内にあった観音様。こちらにも小さな祠が。境内には十月桜が満開。毎年、年に二度開花する。エドヒガンの系列でコヒガンの雑種とされている桜。花弁の縁が薄く紅色。十月桜と冬桜は似ているが、花弁と花びらの数は、十月桜は”八重”で、花びらは5~18枚。冬桜は”一重”で、花びらは5枚。1027(万寿4)年ごろ、葛原親王の子孫で葛原を領有していた垂木主膳長田武蔵守忠望の勧進によって開基、僧、朝岩尊夙(ちょうがんそんしょく)によって開山された。以来、長田家の菩提寺として歴史を刻んできた寺。元は真言宗の寺であったが、遠藤にある曹洞宗宝泉寺の6世朝岩によって再興された時から曹洞宗となったという。手水舎。しかしその下には水道の蛇口とアルミの流し台が。本堂。本尊は釈迦如来。乗福寺と書かれた扁額。子育て地蔵。三界萬霊等(さんがいばんれいとう)と刻まれた石碑。三界とは、私たちが生まれかわり死にかわりするこの世界のことで、「欲界(よくかい)」、「色界(しきかい)」、「無色界(むしきかい)」の三つの世界。「欲界」は、もっとも下にあり、性欲・食欲・睡眠欲の三つの欲を有する生きものの住む世界。ここには地獄(じごく)・餓鬼(がき)・畜生(ちくしょう)・修羅(しゅら)・人・天の6種の生存領域である「六趣(ろくしゅ)」、「六道(ろくどう)」があり、欲界の神々(天)を六欲天と。「色界」は、前記の三欲を離れた生きものの住む清らかな世界。絶妙な物質(色)よりなる世界なので色界の名があり、四禅天に大別されると。「無色界」は、最上の領域であり、物質をすべて離脱した高度に精神的な世界。ここの最高処を「有頂天(うちょうてん)」というのだと。「萬霊」とは、欲界、色界、無色界などのそれらすべてを指すと。『不許葷酒入山門』と刻まれた石碑。再び山門。
2016.11.19
コメント(0)
【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンクこの日は藤沢市葛原の田園の中にある神社にまず立ち寄る。畑道の横の1段上にある小さな神社。垂木御所跡に建つ葛原神社 社殿。 その昔、桓武天皇第三皇子葛原(かつらはら)親王より出た板東平氏の一族である長田氏が平安時代、葛原の地を私領、垂木主膳(長田忠望)がこの地に館を構えたので里人が垂木(たるき)御所と呼んだ。その御所が菖蒲沢の塚より展望できたのでこの塚を御所見塚と呼んだとのこと。社額には『葛原親王(かつらはらしんのう)』と書かれていた。 葛原親王は平安時代初期の皇族。桓武天皇の第三皇子。官位は一品・大宰帥。桓武平氏の祖。昔からの言い伝えによれば、『葛原』の地名は、ひとつには桓武天皇第三皇子葛原(カツラハラ)親王がこの地におられたので高倉郡(タカクラゴオリ)「葛原村」となったと言われ、また、その一族(長田武蔵守平忠望)がこの地に住んで領主となり、祖先の葛原親王を鎮守として崇めていたので「葛原」という村名になったとも言われている。あるいは、葛がおい茂る原だったからだとの説もあるが、やはり葛原親王にちなんで付けたと思われるとのこと。笠木(かさぎ)は額束(がくづか)の上で2本を切り欠き段差で繋いでいた。 南葛野交差点横の石塔群。塩井淵の辻と呼ばれる交差点が現在のこの南葛野交差点付近にあり、現在でも1781(安永10)年銘の出羽三山供養塔と1850(嘉永3)年銘の道祖神が残っているのだと。葛原中村の道祖神。1850(嘉永3)年銘。 そしてその横には 角柱塔「月山/湯殿山/羽黒山 大権現」 安永十年(1781) 。『相模國高座邑?葛原郷講中 導輩? 長盛寺』と刻まれていた。瀧出現不動尊に到着。 『厩戸皇子』塔が建っていましたが・・・どの様な縁起? 『瀧出現不動尊』と刻まれた石碑。参道。瀧出現不動堂は、1655年に明滝山長盛寺として創建された模様で、別の地図には高盛寺不動堂とある。単なる不動堂が建っているのではなく、境内には歴史を感じさせる石鳥居、石燈篭が並び、しめ縄を張った木造堂が建っていた。また鐘楼、地蔵堂、十三石塔も。 鐘楼。 鐘。 拝殿。拝殿の鬼瓦も見事。 平たい鈴・「鰐口」。 「鰐口」は概ね寺院にあるが、この神社も鐘楼等も含めて神仏混淆の面影が残されていた。この鰐口(享保11年銘)は戦時中の供出を免れたもので、市内には3~4個しかない貴重品とのこと。十三石塔。 瀧不動尊縁起碑。葛原不動尊由来記によると、昔、葛原の領主小泉佐渡守(小泉姓の祖)の寝中、不動明王が夢枕に立った。驚いて目覚めた佐渡守は、直ちに家中を集めた。 「明王は水中におわしますぞ」…村中総出で探した所、夢のお告げのとおり滝壺の中から一体の御仏を発見した。これが長盛寺滝出現不動明王とのこと。 それから5年後の1654年、地頭の長田喜左衛門重昌が病気になり、名主はこの不動明王に三十三日間の子の刻参りを行ったところ、霊験により病が回復した。長田氏は翌年堂を建立し、奉拝したという。現在、不動明王像が発見された滝は埋め立てられ、人工池に姿を変えている。なお、平成3年に「滝不動尊夢次第書」という古文書が発見されているとのこと。 地蔵堂。 馬頭観世音の石碑が並んでいた。 滝出現不動尊 人工池。 旧暦3月28日の滝不動の縁日(瀧出現不動尊の例祭)では草競馬が行われ、400mの廻り馬場で近隣の農耕馬達がその速さを競いあったと。はじめは直線200mの直線馬場で、行ったきりで鉄砲馬場と呼ばれていたと。この日は露天商も並び、10キロ以上離れたところからも徒歩で人々が集まり、多い時で数千の人と50頭もの馬で身動きのできないほどの賑わいだった。またこの祭りをきっかけに若い男女が結ばれたので「見合競馬」とも呼ばれていたと。しかし機械化が進み、馬の姿が村から姿を消し始めた昭和20年代初めにこの草競馬は中止されたと。 池近くの石塔も素朴な形。
2016.11.18
コメント(0)
今年もタマネギの苗の植え付けを行いました。昨年度は種から苗を育てましたが、今年は種蒔きの時期を失したため通販で苗を購入しました。種類は2種類、それぞれ100本ずつ。 ひとつは一代雑種(F1)である『もみじ3号』 。病害虫に強く貯蔵性が抜群に良く、苦味が少なくおいしい玉ねぎとのこと。収穫したのち自然乾燥させると、外皮の色がもみじ色になることから「もみじ」と名付けられたと。日持ちが良く10ヶ月保存できる!!と。そしてもう1種類は『知多早生3号』。辛味・刺激が少なく糖度12度以上にもなり、メロン級の甘さの黄玉ねぎ!!と。肥大良く玉太りが良いので甘味が増し、収穫したては最高に甘くサラダ・生食では抜群の食味と。削り節と一緒にオニオンサラダやふわふわたまごにのせて醤油をかけたり食べ方いろいろ!!一度食べると忘れられない美味しさですと。そして我が家の近くの『湘南わいわい市』にて赤タマネギ『湘南レッド』。普通の黄たまねぎに比べ、辛味や刺激臭が少なく、甘味が強いのが特徴であり、シャキシャキした食感が歯切れよく、水分に富んでいるため、生で食べるのに適している赤タマネギ。今年も堆肥、化成肥料、発酵鶏糞を剥き込み5穴黒マルチを敷き植え付けました。 黒マルチを敷きここに植え付けることで、・草取りの手間が省ける・肥料の持ちが良くなる・地温が上がり、タマネギのサイズが大きくなるなどのメリットがあるのです。 赤タマネギは20本ほど植え付けました。指の第二関節まで穴をあけて深植えに注意しながら1本ずつ苗を植え付けて、苗が倒れないように軽く土寄せしてしてやりました。 植え付けた後は苗の先端が茶色くなって萎れたようになりますが、新根が出ると元気になるのであまり心配はいらないのです。タマネギは春になって植えた株の6~7割の茎葉が倒れた頃(5月初~中)が収穫適期なのです。
2016.11.17
コメント(0)
スーパームーン(Supermoon) 。直訳すると、極上の月、特大の月という意味、その通り、通常よりも大きく光り輝く月が見られる日が今年もやって来たのです。地球から月までの距離は、楕円軌道であるために、約36万0,000(±4,000)kmから40万5,000(±2,000)kmまで変化するのだと。ここ数年ですと、2011年3月19日が356,577kmが一番近かったと。当時、1993年・356,529 km以来の近い距離として、一部で話題になったと。今年2016年のスーパームーンは、11月14日の月曜日。この日の月と地球との最短距離は何と356,511 km!そしてこの日のスーパームーンは月と地球の距離が68年ぶりに最も接近しているのだと。 よって我一生(現在66歳)で最初で最後の最大の月の姿を見ることが出来るのです。この日の満月は、普段の満月よりも最大14%大きく、30%明るいとのこと。 しかし天気予報によるとスーパームーンの11月14日の月曜日の我が家の近くの夜の天気は小雨と・・・。う~~ん 残念。よって前日11月13日の日曜日の月を楽しみ、写真撮影したのです。満月前日の月は「小望月(こもちづき)」 。満月(望月)の前夜をこう呼ぶのです。「待宵の月(まつよいのつき)」とも。翌日の満月を楽しみに待つ、という意味。また幾望(きぼう)とも。幾は「近い」の意味だそうです。満月と言われても判らないほど。左側がまだ少し欠けているはずなのですが・・・。右斜め上のクレーターは「危険の海」。そしてその下の左側から「晴れの海」、「静かの海」、「豊穣の海」。下部斜め右下には「ティコ (Tycho)」クレータ。非常に大きく直径85キロもあると。その左に「雲の海」、「湿りの海」。そして当日の11月14日は天気予報が当たり子雨で月は全く姿を現さなかった。 そしてスーパームーン翌日の昨夜の月。十六夜(いざよい)の月と呼ぶのだと。いや、十六夜には、2つの読み方があるのです。一つはそのまま「じゅうろくや」と読むもの。(十五夜の翌日だから)そしてもう一つは「いざよい」と読むもの。月の出が十五夜よりやや遅くなっているのを、月がためらっていると見立てたと。「十六夜」とは“ためらい”の意味を持つとのこと。すなわち、躊躇う(ためらう)という意味の動詞「猶予う(いざよう)」の連用形から名詞となったものと。また、夜が明けてもまだ沈まず、西の空に残っている様子から、「有明の月」とも呼ばれるのだと。既に右側が少し欠け始めてているはずなのですが・・・。もう一度前々日と較べてみましょう。 昨夜は雲も少なく、ズームで月面がはっきりと写りました。「晴れの海」、「静かの海」、「豊穣の海」のそれぞれのクレータの姿も前々日よりはっきりと。 ティコクレーターも。ちなみに、さらに来年2017年は、スーパームーンが見られないのだと。これを、シャイムーンイヤー(SHY MOON YEAR)と呼ぶらしいです。そして2018年は、なんと1月1日! これまた盛り上がること間違いなし。356,570kmまで近づくと。今年356,511 kmより59km遠いのですが。更に今世紀最も近づくのは、2052年12月6日で、356,421 km と予想されているとのこと。後36年、それまで皆さん長生きしよう!!月までの距離が 更に356,400 km以下になるのは極めて稀で、前回は1930年1月14日(356,397 km)、次回は2257年1月1日(356,371 km)なのだと。五十歩百歩と言われればそれまでですが。「アポロ計画」により月面に反射鏡がすえつけられたことにより、地球と月の距離が正確に計れるようになり、月は1年に約3.8cmずつ遠ざかっているということも解ったのです。現在の月と地球の『平均』距離は約38万4400kmですが、月の誕生直後は5000km程度だったと考えられているのだと。 今回の月の姿は正しく百人一首で詠われている「月」『月々に月見る月は多けれど月見る月はこの月の月』(よみ人知らず)そしてこんな秋の月の歌も。『月見れば千々にものこそ悲しけれわが身ひとつの秋にはあらねど』(大江千里) 最後に『前夜』の反対は『後夜』なのでしょうか?それとも『翌夜』?
2016.11.16
コメント(0)
今年も地元のお寺の雲昌寺で開かれていた菊花展に先日行ってきました。 雲昌寺は建保年間(1213年~1219年頃)に道済(北条義時)により開基。もとは瑞龍寺と称して現在の今田地区にあった。慶長元年(1596年)に水害で堂宇が流失したことから第4代の宗順によりこの地に移り、現山号の「光輝山 雲昌寺」に改めている。菊花展の開催期間は10月30日(日)~11月8日(火)までの10日間。 境内の仮設展示場の下に苦心の豪華な菊がズラッと展示されていました。 今年も自慢の厚物、管物の黄、白、紫の大菊が。 1年間気の抜けない栽培育成に脱帽。 3本仕立ての厚物、管物。厚物コーナー。黄色の花にも濃淡が。 管物コーナー。 養蜂場のある私の農園の隣で農園をやられている農友の作品です。造園土木賞を受賞されていました花弁の黄色の濃厚さとボリュームが見事。文字通り花弁が細長い管状になっています。見事な7本仕立て。 厚物の7本仕立て。 数百枚の花弁が中心の一点に向けて、重なり合い鱗状に整然と組み上がり半球状に咲いているのです。 これぞ純白。特に一番外側の花弁が長く突き出るものを厚物と区別して「厚走り」と呼んでいるとのこと。高貴な紫。 先端のクルクルが可愛らしいのです。 そして本堂前には小菊の花が。 3mにも及ぶ幅の懸崖作り。 綺麗な秋の風情がある色。そして鐘楼には朝の陽光が。 菊花展を楽しんだ後は境内の六地蔵に挨拶。庚申塔、二十三夜塔そして手前にお顔のない仏像が並んでいた。そしてこちらも庚申塔の青面金剛像塔が三体。庚申は、十干の庚(かのえ)と十二支の申(さる)の組み合わせで暦の上では60日に一度回ってくる庚申の日に、その夜を眠らずに過ごして健康長寿を願う信仰。この信仰は平安時代には宮中などにおいて宮廷貴族の間で庚申の御遊びがあり、鎌倉時代には武家たちも守庚申を行って来たと。青面金剛像塔は、主尊の青面金剛以外に、背面には日月や、台座には猿、鶏、邪鬼、腕の数は、二臂から八臂まであり、腕が持つ 持物は、三叉戟、棒、法輪、羂索、弓矢、剣、杖、蛇など様々の姿を。駒形板碑 六手合掌青面金剛+三猿 年不詳。三猿は三匹の猿が、それぞれ目、耳、口を両手でふさいでいる彫刻。いわゆる「見ざる聞かざる言わざる」。孔子は論語の中で孔子は「礼節にそむくことに注目してはいけない。礼節にそむくことに耳を傾けてはいけない。礼節にそむくことを言ってはいけない。」と、三つの戒めを言っているのです。駒形板碑 六手剣人青面金剛+三猿 年不詳。笠付角柱塔 六手合掌青面金剛+三猿 年不詳。そして我が家の玄関にも農友が貸してくれた二鉢が。
2016.11.15
コメント(0)
大内宿を後にし、バスで20分ほど走ると『塔のへつり』に到着。 「へつり」とは会津方言で、川に迫った険しい断崖のこと。なお、「へつり」は「岪」(山冠に弗)という漢字表記であるがひらがな使用と。土木用語の「剥る(はつる)」から来たのであろう。バスを降りると目の前に真っ赤なモミジの紅葉が。全長200mにわたって、大規模な奇岩が整列。地図をズームで。主なものには屏風岩、烏帽子岩、護摩塔岩、九輪塔岩、櫓塔岩、獅子塔岩、鷲塔岩などがあり、これらの岩を巡るように通路が彫られているが、経年による崩落等のため、吊橋を渡している舞台岩周辺以外は立ち入り禁止となっていた。展望台に案内される。土産物屋の女将が『塔のへつり』 の観光ガイドとなり一生懸命に説明してくれた。紅葉のピークには少し早かったようであるが。100万年という長い年月の浸食と風化によって大川の断崖が剥られてできた奇岩、怪石の景観。大川の断崖に架かる吊り橋。吊り橋の右手の奇岩と紅葉。 この後、土産物屋の女将から、喜多方ラーメンの試食とキノコ入り味噌汁の無料提供があるとのことで列を作りご馳走になる。そして吊り橋を渡り対岸に向かうこととする。再び真っ赤なモミジの下を通過。 坂を下り吊り橋を目指す。 人数制限は一度に30人未満と。そして吊り橋を渡るがゆらゆらと。歩いているとそれ程揺れを感じなかったが、撮影の為歩を停めると揺れの大きさを感じたのであった。 吊り橋の中央から大川の上流側を望む。 対岸に渡り、展望台、渡ってきた吊り橋を望む。 そして虚空菩薩堂のある舞台岩への、岩を剥った狭い階段を上る。 虚空蔵菩薩堂は張り出した磐の下の木の柵の奧に。堂の入り口。 唐門の如し。梁の上の見事な彫刻。 子育て観音像。 虚空蔵尊像?? 舞台岩より下流側を。夕日が水面に。 水の浸食により剥られた段状の岩の上には積まれた小石が一面に。 賽の河原の如し。私も小さな石を一つ載せて来ました。昔はこの先も見学できたようですが、今は床板もなく通行不可。 そして再び吊り橋を渡りモミジの下へ。 土産物屋の鬼と蛙の木彫作品。見事な木目が浮き出ていた。 そしてバスは会津鉄道線の線路を渡る。左手には『塔のへつり駅』が車窓から。 帰路には那須にあるチーズガーデンに立ち寄りトイレ休憩? 内部には多くの観光客が。 レアーチーズの販売コーナー。 お土産に『御用邸チーズケーキ』を購入。 そして東北自動車道・羽生パーキングアリア上り線で2回目のトイレ休憩。東北自動車道は、江戸時代の日光街道~奥州街道の現代版。羽生PA近くにある栗橋には、江戸時代、栗橋関所があり、江戸の入り口として『入り鉄砲、出女』を厳しく取り締まった。そこで羽生PA(上り線)を東京すなわち江戸への入口と見立て、古き良き時代へのタイムトリップを企図したのだと。人気小説「鬼平犯科帳」の世界を表現したPA『鬼平江戸処』。鬼平こと長谷川平蔵信以(のぶため)が生まれた1745年から、江戸の町人文化が開花したという文化文政時代(1804年~1829年)ごろをイメージした施設を配置。 店舗配置図。 松も太くライトに照らされて。 そして帰路は渋滞も少なく19:30過ぎに新宿に到着し、小田急線急行にて帰宅したのであった。 日帰り強行ツアーであったが、江戸時代にタイムスリップした如く茅葺屋根の民家が立ち並ぶ大内宿を大いに楽しんだのであった。 そして車窓からの紅葉、塔のへつりの紅葉と今年初めての紅葉狩りであったが・・・。 老木の葉ごときが「燃え盛り」 我にはこの言 もはや無し・・・詠み人知らず燃える秋 愛でる背中に 老いる秋・・・詠み人知らず燃える秋 楽しむ我に 赤秋あらむ・・・詠み人知らず
2016.11.14
コメント(0)
大内宿のほぼ中央に位置する町並み展示館を訪ねる。 大内宿本陣跡に復元された宿駅時代の本陣。大内宿のこの本陣は、会津若松と日光今市を結ぶ下野街道(南山通り・会津西街道)の拠点のひとつとして江戸時代初期に建てられ、会津藩の初代藩主・保科正之、二代藩主・正経が江戸参勤のためにこの街道を利用し、ここで昼食をとったという記録が残っていると。この時の行列の総人数は約600人で、宿場内はたいへんな賑わいであったと。当時の風習を伝える写真や生活用具が展示されていた。殿様専用の玄関(乗りこみ)。入場料金250円を払って入館。 入ると右側の大きな部屋には囲炉裏が。 土間には農耕具のトウミや足踏み脱穀機が。私が子供の頃、我が生家にもトウミや足踏み脱穀機があり、私もこれらの農機具を実際に動かし農作業を手伝った記憶があるのです。 大きな土製の竈(かまど)その上に蒸篭(せいろ)。この土竈も土と藁を混ぜ発酵させたもので造ったのであろうか? 縦格子からは、土間に射し込む陽光の帯が。靴を脱いで部屋に上がり見学。囲炉裏の火は本物。 次の間と一段上がった上段の間。 狭い急な階段を上ると屋根裏は蚕場。屋根裏に桑籠や大きな竹笊など蚕を飼育する道具や古い織機が展示?されていた。 小さな窓から大内宿の瓦葺き屋根の民家を見下ろす。 藁葺き屋根は多くの太い孟宗竹で支えられていた。 そして囲炉裏の煙でいぶされ黒くなっていたのであった。町並み展示館を出て再び旧街道に向かう。 瓦葺の小屋根は、囲炉裏の煙抜きになっている。そこには"水"と"寿"の飾り文字が。"寿"は来福、繁栄そして"水"は防火の意味であろう。気にして見上げて見ると"龍、寿、雲"も。龍は雲を呼びそして水を呼び、瓦葺の屋根の防火を図って、来福、繁栄を(寿)願っていたのであろう。しかし左右の文字は?、これも"寿"のくずし字? それとも龍の姿、模様?こちらは"寿"、左右の字?は"水"のものと同じであるが。何となく、中央の"寿"の字をさらに崩した字のようにも。でも左は?女性ならだれもが心躍るかわいい小物やちりめん細工の店。 ほのぼのとした郵便ポスト。明治4年郵便創業時に東京都内にせっちされていたものとのこと。 茶房のベンチで一休みしお茶を飲む観光客の姿。この宿場には「珈琲」は似合わない? 多くの店でねぎそばが扱われていた。 干し柿。 様々なお面。 起上がり小法師。会津地方に古くから伝わる縁起物・郷土玩具の一つ、起姫(おきひめ)ともいう。会津の人にとっては「赤べこ」の次に馴染みのある郷土玩具とのこと。稚児をかたどった可愛らしさが。招き猫とその後ろにリアルなお多福人形? 多くの福を招くお多福さん。いつも愛想良くお客様を迎え入れます。おでこは広くおおらかで、包容力を表わす高い頬、口は小さく口紅つけて、鼻は低く何事も天狗にならず、いつも笑顔で千客万来。青空と紅葉そして藁葺き屋根。 様々な種類、大きさの蜂蜜も売られていた。 スズメバチを漬けた焼酎は高価。スズメバチを生け捕りするリスク代が高い? 会津天神。今より四百年余りの昔、時の会津藩主、蒲生氏郷公が京都より人形師を招き、数々の郷土玩具を造らせ庶民の殖産振興を計りしことにより発祥したと。中でも学問・書道の神として振興させる菅原道真公を祀った人形「会津天神」はその顔つきの温和と上品さ、そして愛らしく素朴な感じは、各地の天神人形の中でも屈指のものとして広く知られていると。 手作りの飾りぞうりも色彩豊か。 三澤屋は人気の店。集合時間まで時間があったので記念に『ねぎそば』を。会津初代藩主保科正之(徳川二代将軍「秀忠」の隠し子)は、信州高遠の城主「保科正光」の養子となり、その後21歳の時に高遠藩主となった。その高遠の辛み大根の蕎麦を会津へもたらしたのが由来だとか。まるまる一本のネギを箸代わりに食べることで有名だが、これは、昔は祝いの席や徳川将軍への献上品だったため「切る」というのは縁起が悪いとされ、そのまま使ったのが始まりなのだと。 割り箸を頼む客もいたのであった。 『しんごろう』も美味しかった。五平餅みたいなものだが、五平餅よりも丸っこい。うるち米を半つきにして竹串に刺し、味噌にすりつぶしたエゴマなどを混ぜ合わせた「じゅうねん味噌」を塗って炭火で焼いたものであると。しんごろうという名前は、この料理を生み出した「新五郎」という人名から付けられていると。貧乏でもち米が買えない新五郎が、うるち米を丸めたものにじゅうねん味噌を塗って焼いた。それが非常に美味しかった事から村中で評判となり、この地方の郷土料理となったと。 帰路の入口付近の広場。 紅葉した欅の木の根元には石の蛙の置き物が。お出迎え蛙?私にとってはお見送り蛙?そしてそこにはお賽銭が。大内宿を振り返る。 ススキの姿が秋が深まっていることを感じさせてくれたのであった。
2016.11.13
コメント(0)
再び旧街道を戻っていくと香ばしい良い香りが。焼き団子を購入し楽しみながらここで一休み。更に大内宿旧街道を折れ高倉神社の素朴な木製の一の鳥居をくぐる。鳥居の最上部に横たわる笠木は、樹木を伐採し皮を剥いただけで自然木をそのまま利用しているので、根に近い部分が左側であること、そして笠木の反り増しが左側にしかない素朴な形の鳥居なのであった。鳥居の右の柱の後ろには「高倉神社」の石の社号標が建っていた。御祭神の高倉宮以仁王は皇族であったことで、社号標には菊の御紋が刻まれていた。多少色褪せていたが、菊の御紋は金色に染められていたようだ。そして正面左の御神燈には古峯神社と。古峯神社は神の使いである天狗の信仰と結びつき、天狗の社とも呼ばれている神社。高倉宮以仁王がこの地に流れてくる前は、古峯神社と呼ばれていたのであろうか? 一の鳥居をくぐると、大内宿の集落から西に向かって真っ直ぐ伸びる参道が。眼前に紅葉の山、そして参道脇の木々、収穫を終えた田畑そして青い空。ふと東山魁夷の作品、「道」を想い出したのであった。あまりにも山に向かって参道がひたすら伸びた一本道なので、高倉神社はこの参道の行き着く先の山の中にあるのかと不安になり躊躇したのであったが。しばし歩を進めると、すぐに右手の森の手前に二の鳥居が見えて来たのであった。高倉神社、二の鳥居前に到着。 こちらにも高倉神社と刻まれた社号標。社格は村社と。 二の鳥居をくぐり参道を更に進む。 手水場は神社前を流れる清流。 中央に不動明王の石造、そして奉納された剣の数々が手前に。三の鳥居は両部鳥居。 拝殿。御祭神は高倉宮以仁王(たかくらのみやもちひとおう)。高倉宮以仁王は後白河天皇の第三皇子。有名な「平家にあらずんば、人にあらず」の言葉通りの平家隆盛の時代に生きた人物。この神社のあるここ下郷町の大内宿はその高倉宮以仁王が潜行されたという伝説がある場所。京を逃れた高倉宮はこの地まで逃げてしばし留まり、その後は越後へと移動したのだと。また、この地には高倉宮の愛妾である桜木姫の墓も残されているのだが、残念ながらこの日は見つからなかったのであった。桜木姫は高倉宮以仁王を慕うあまり、遠路はるばるここ大内宿まで追ってきたものの、長い苦労の旅によって病にかかり、この地で亡くなったのだと。奥の本殿を横から。 境内社か。 『高倉の大スギ』と書かれた木柱。 樹高56mの大杉。以仁王が越後に去った直後にこの高倉神社が創建され、この杉を植樹したと伝えられている事から樹齢が800年を越えるとされていると。大杉の根元には石祠が安置されていた。 根元から多くの若杉が200~300年?成長し合体木になったように見えたのであったが。 近くには小さな石の祠や墓石?も安置されていた。奇しくも本殿の屋根の千木(ちぎ)の間から陽光が射して来た。 本殿の裏には王三段がそして手前に石碑と案内板が。高倉神社の奥には三段の高さになった「王三段」と呼ばれる場所があったと。これは一番高い場所に以仁王が、そして二段目、三段目にはそれぞれ家臣が寝起きしていたのだと。 『王三段入口』と刻まれた石碑。 入口には細い注連縄が、そして紙垂(しで)も。紙垂とは一般的に注連縄や神社の鳥居、手水舎等の上などで見ることができる、あの、雷マーク型?の和紙のこと。 帰路の山道横には大きなホオノキの葉(朴葉)が。そして下ってきた神社横の脇道の二の鳥居近くのには何と・・・・。もっと参道入口手前に表示してよ!! 静かな森の中に射し込む陽光、そして鳥のさえずりと清流の水音。正に時間が止まったような空間。江戸時代の宿場町を残しているこの大内にあって、この神社の森は江戸より昔からここに鎮座し、宿場の移り変りを見て来たのであった。 一の鳥居に向かって戻ると宿場の民家の裏の十字路には清き水が竹筒から溢れていた。 大内宿の年中行事 「眠った流し」の表示板が。8月7日早朝、この場所で健康で一生懸命働けるようにと、「眠ったは、流いよ豆の葉はつっかかれ」と三回唱えて、水で豆の葉をぬらし目をこすって豆の葉を流してやるのだと。一の鳥居、火の見櫓を参道側から。あくまでも青い空。そしてこの鳥居も、この神社と森の空気と佇まいを背にしながら連綿と変わることなく昔のままの姿で、村の姿をそして変わり行く人の姿を見つめて来たのである。御朱印を戴きたかったが、境内には社務所もなく諦めたのであったが帰宅して調べてみると、御朱印は大内宿に入ってすぐ右側、南仙院分家が社務所になっており、こちらでいただけたとの事で予習不足であった。
2016.11.12
コメント(0)
大内宿の大型バス有料駐車場には多くの観光バスが列をなし満車状態。バスを降り観光開始。大内宿周辺散策路案内と駐車場の乗務員休憩所。 大内宿を守る住民憲章2.保存優先の原則 保存をすべてに優先させるために、大内宿と旧街道沿いの観光資源 (建物・屋敷・農耕地・山林等)について、「売らない」「貸さない」「壊さない」の 三原則を貫く と。建物の現状変更はすべて申し出ること と。大内宿MAP。人気観光スポットのこの「大内宿」は、福島県南部の人里離れた山間部に30軒以上の茅葺き屋根の民家が立ち並ぶ江戸時代から残り続ける宿場町。約400年以上前、江戸時代には運搬路として重要な道であった会津西街道(日光~会津)沿いの宿場町として参勤交代で江戸へ向かう大名や旅人の宿場町として栄えた。中には、あの伊達政宗が小田原参陣、豊臣秀吉が奥羽仕置きで、この大内宿を通行した記録があるのだと。2時間の自由行動と言うことで、時間に十分余裕があるため、のんびりと宿場町の散策開始。正面の山も紅葉の真っ最中。大内宿は重要伝統的建築物群保存地区。保存地区は旧街道に沿った宿場を中心とする南北約500m、東西約200mの範囲。大内宿は、会津城下と下野の国(しもつけのくに)(栃木県日光市今市)を結ぶ全長130キロメートル(32里の区間)の中で会津城下から3番目の宿駅として1640年ごろに整備された宿場町。会津西街道は関東側からの呼称で、会津側からは下野街道(しもつけかいどう)あるいは南山通り(みなみやまどおり)とも称されていた。会津藩主の18回に及ぶ江戸参勤と江戸廻米の輸送と、当時会津藩と友好関係にあった米沢藩・新発田藩なども頻繁に利用した重要路線であったと。 この日も昼前であったが多くの観光客が。 旧街道の両側には約50cm幅の小川があり清流が勢いよく流れていた。そして真っ赤に紅葉したモミジが迎えてくれた。清流で売り物の飲料を冷やす姿も。 大内宿「本家扇屋」 。大内宿で唯一「蔵」に泊まれる民宿。囲炉裏でおしゃべりしながら美味しい地元の料理をたっぷり楽しめると。黄色のモミジも赤に負けじと。 どの家屋も土産物屋や食堂を営んでいた。多くの本格的手打ち十割蕎麦屋が散在。高倉神社入口の鳥居。木を切り出し皮を剥いただけのような鳥居がそびえ立っていた。この鳥居は、後白河天皇の第2皇子(高倉以仁王)の霊を祀ったとされる高倉神社へと続く鳥居で、一の鳥居から三の鳥居まで続いていた。この大内宿に立っているのは一の鳥居。そして旧街道の反対側には鉄骨製の火の見櫓そしてその上には放送用のスピーカーが。 標高650mの山間の街道の両側に整然と建ち並ぶ宿場情緒を色濃く残す家並みは、タイムスリップの世界であり、思わず溜息がでるほどの景色。 布で作った野菜や果実を土産物として売る店。 大内宿の最奥に向かう。 浅沼食堂。一番見晴らしが良い店。大内宿の最奥の高台に位置し、唯一集落全体を見渡せる食事処。手前に湯殿山と刻まれた石碑が。この高台が湯殿山と呼ばれているのだと。良阿養仙居士?の墓か?。 赤の衣装を纏った地蔵様。 モミジの色のアンジュレーションが見事。 階段を上り大内宿の北端に位置する浄土宗の寺院・正法寺を訪ねる。周囲は黄色く紅葉した銀杏の木々が。大名家などの庇護がなく村内で管理運営し、寺の周囲には子安観音を始め、湯殿山碑などの石碑や石仏が参道附近に安置されていたのであった。大内宿周辺は戊辰戦争(1868年(慶応4)~)の激戦地(大内峠では40名が戦死)となり正法寺は官軍の詰め所になったと。本堂。会津藩の砲兵隊頭取、笹沼金吾は大内峠の戦いで敗退した後も1人で官軍に切り込んだと伝わる人物で壮絶な戦死の後、この大内宿の住民が密かに正法寺境内に埋葬したと伝えられていると。 寄棟茅葺きの子安観音堂。子安観音は、女性や子供の守り神で、子宝や安産、子供たちの健やかな成長を祈る観音様。 林の中にある大内宿見晴場所に向かう。 今もなお当時の状態で30軒以上の茅葺き屋根の民家が立ち並んでおり、江戸時代にタイムスリップしたような光景を楽しむ。林の中も陽光が差し込み空気も赤く染まった感じ。 道のない林の法面を苦労して上り、BEST SPOTを発見。更に進むと小さな社・弁天堂も。弁天堂の手前の急な石段を下りきったところで振り返ると、斜面には庚申塚石塔群が立てられ、その先には三仏堂が建っているのが見えた。六臂青面金剛刻像。紅葉の下に吉村善七之墓と刻まれた墓石。文字庚申塔と阿弥陀仏と刻まれた石碑。大内宿上の山裾にある三仏堂。修験信仰の本尊仏である不動明王、役小角、孔雀明王の三仏が祀られていると。そして道を戻り「桜木姫の墓」を探したが見つからず再び宿場町に引き返したのであった。
2016.11.11
コメント(0)
先日、福島・大内宿、塔のへつりへの日帰りバスツアーに参加してきました。小田急線の始発に乗車し新宿へ。そしてこのツアーの集合場所である 新宿駅西口 都庁大型バス駐車場に集合時間の07:00前に到着。既に多くの参加者が到着済み。ツアー会社は『四季の旅』。 受付を済ませ、バスに乗車するまで整列して待つ。そして観光バスは満席で07:15に予定通り出発。都庁前を通過。 首都高速中央環状線を進むと隅田川にかかる豊島橋が。 首都高速川口線に入ると30分程の渋滞に巻き込まれる。結局、事故渋滞であることが解ったが。 そして漸く東北自動車道 浦和ICを通過。羽生SAでトイレ休憩。今回のバス。参加者席は45人で満席。私は最後部の5人掛けの窓側席を指定される。 利根川を通過。渡良瀬川を通過。南会津の山々が車窓から。 栃木県那須塩原市横林付近の枯れ川。 那須高原SAで2回目のトイレタイム。 銀杏の木は黄色く紅葉を始めていた。 出発時は曇天であったがこの頃になると、天気は回復し雲が姿を消し快晴。 SAの廻りの植栽も紅葉が始まっていた。 東北自動車道白河ICから一般道へ。 国道289号を走る。日光国立公園『白河甲子高原』の標識。那須甲子連山の東斜面に位置する白河甲子高原地帯は、全体が阿武隈川の源流域。 ブナの原生林が広がる山麓に流れる清涼な水は、阿武隈川やその支流となり、流域の随所で美しい渓谷美を形作っていた。那須の山々と紅葉。山頂近くの白き姿は雪ではなく石灰岩?山を登って行くに従い車窓には見事な紅葉が次から次へと。 南会津郡下郷町から国道121号線に入り更に北に進み329号線に入り更に進むと漸く大内宿に到着。時間は11:45過ぎ。新宿から4時間半で到着。
2016.11.10
コメント(0)
【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク下土棚にある白山神社に向かう途中、善然寺の墓地裏にあった小さな稲荷神社。 そして22号線を横断し白山神社に。 石の鳥居の手前左にあった狛犬 阿像。 参道を進み境内へ。善然寺の解説碑にあるように白山権現は下土棚の氏神。社殿左前に寛永四年(1664)の再建の記念として植樹されたという樹齢三百五十年の大銀杏が。社殿。天正十八年(1590)、徳川家康に従って三河国より東上した竹尾三九郎は下土棚の地頭を命じられ、下土棚の支配は七代目・竹尾善左衛門元貞まで続いたとのこと。善然寺には「相模国土棚郷」と刻まれた善左衛門元貞の墓碑が今に残る。此の墓碑は「土棚」という地名が残されている最古のものと。 文化六年(1809)頃には松平築前守及び遠山清右衛門の支配下にあり、幕末には江川太郎左衛門の支配下に属し、明治維新を迎えたのだと。奧の本殿を斜めから。御祭神は伊邪那岐命、須佐之男命。庚申供養塔群。一番右の庚申供養塔には寛政?年の文字が。その他の庚申塔の年代は確認できなかった。境内社。 右手に「堅牢地神塔」 嘉永六年癸丑二月(1853)。 春分、秋分に最も近い「戌(いぬ)の日」を社日(しゃにち)といい、我が地域付近の各地では、前夜に講の人々が当番の家に集まり、神禮寺(藤沢市酉俣野町)の「堅牢地神(けんろうじじん)の掛軸をかけて、地神(じじん)の日待(ひまち)を行い、翌日の社日は農耕作業を休んだと。社日は、田の神と山の神が交代する日と考えられたため、その年の稲の豊作を願い、農業に関係の深い土地神様(とちかみさま)を祀るこのような行事が行われるようになったのだと。よって堅牢地神塔は地神(じじん)信仰の石塔。私が子供の頃、我が生家でも近所の人が当番の家に集まり『おひまち(御日待)』と呼ぶ今で言う食事会を行っていたことを想い出したのであった。その食事会用に、米を一合ずつ集めるために私が近所の参加者の家を訪ねた事も懐かし想い出。境内西側には招魂塔が2塔。左の招魂碑には『日中戦争から太平洋戦争終結迄に、当地の白山神社、社殿にて祖国の為にと念じ出征して大陸、孤島洋上に於いて、参戦し戦死をされた勇士の御霊を祭るもので有ります。犠牲となられた尊い御霊の安らかなる眠りと併せて世界平和を祈念し遺族有志、並びに賛助者によって建立されたものです。』 と。この白山神社社殿から出征していった大東亜戦争の戦没者28柱の名前、没地、没年月日、年齢が詳しく刻まれていた。平成11年9月建立。 碑高198cm、幅190cm、厚さ35cm、台石60cm、基壇65cmの石碑に合掌。境内社(右)と神輿舎?。 石碑が2塔。右手は石祠、年不詳。 自然石板碑。「水神宮」と刻まれていた。明治十九年十二月吉日。
2016.11.09
コメント(0)
【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク長後市民センターに到着。 長後地区 ふるさとまつり のポスターが貼られていた。 長後市民センターの桜の老木。昭和31年に殖産学校を改造して長後支所が完成したことを記念して植樹されたと。長後地区のシンボルとして親しまれている。 樹種:ソメイヨシノ 樹高:10m 幹回り:2.5m 。長後市民センターの境界の壁沿いには数多くの石碑が集められていた。 双体道祖神。「天明」「十一月」と刻まれていた。 帰宅して調べてみると下土棚1767に安置されていた光背舟形碑 双体像(男女雛) 天明二壬寅十一月(1782)を道路拡張工事に伴い移設した模様。道標を兼ねた庚申塔には「左かしを道」「右ふし沢道」と書かれたもの。渡邉信雄先生頌徳(しょうとく)之碑 左に角柱塔 文字「曙通」 と右に角柱塔道標 文字「右大山道/左婦じ沢ミち」」 道路に向かって進むと更に石塔、石碑が並んでいた。 丸彫り 不動明王像。大山詣での目的地である大山寺のご本尊は不動明王。 湯殿山・月山・羽黒山 三山供養塔 自然板碑。食行身禄(じきぎょう みろく)と刻まれた石碑。食行身禄は日本の宗教家で富士講の指導者。芭蕉の句碑。「蝶の舞 はかりのなかの 日影哉」。 貞享2年(1685)の作と推定されているとのこと。左に光背碑のある不動明王像右に角柱塔 文字「庚申塔」 右大山みち。右に「西大山みち、東かしをみち」「南ふち澤道」の庚申塔などもあり、滝山道と柏尾道の分岐点に建っていたと思われると。大山道標。 県道の北側の旧大山道を進んで行くと、Y字路に大山道標が建っていた。長後を通る大山街道は霊山大山への参拝道、その街道筋に建つ道標。建立年は不明だが、正面に「左大山道」、右面には「右星の谷道」と。下土棚の道路脇に小さな木製の祠の中に庚申塔が。 八臂青面金剛像庚申供養塔(はっぴしょうめんこんごうぞうこうしんくようとう) 。下土棚 1662の路傍にある市指定文化財で3猿像邪鬼が下部に。文化三寅年(1806)四月吉日と刻まれていた。総高120センチメートルの 笠塔婆型の庚申塔。 説明板には『江戸時代の万治・寛文年間(1658~1672)頃には仏教を背景に広く庶民に庚申信仰が伝わって、各地 に庚申講がつくられ、庚申の夜に当番の家などに集まって宗教的儀式などを行い、飲食歓談する庚申待や講中による庚申供養塔の造立などが盛んになった。 仏教系の庚申信仰では青面金剛(しょうめんこんごう)が本尊になることが多く、その像は一面六臂像が普通 であるが、この庚申供養塔三面八臂青面金剛像を陽刻している珍しい例である。 主像は足下に邪鬼を踏まえて塔身全面いっぱいに彫られ、基礎前面には庚申供養塔にしばしばみられる三猿像が 彫りこまれている。塔身右側面には文化三年(1806)の建立年銘があり、また、塔身左側面に「右ふじさハ 道」、基壇前面に「左りほしのや道」と刻まれているところから、この庚申供養塔が道しるべもかねていたこと がわかる。』。 善然寺を訪ねる。『浄土宗 善然寺』と刻まれた寺標柱。 『竜玉山西光院善然寺』の由緒碑。 参道の横には可愛い石仏が。『南無』と。 落ち着いた山門。 山門脇の仁王像(左) 仁王像(右) 『龍玉山』と縁取りの赤い文字で書かれた扁額が山門に。 巨大な善然寺観音像。 優しい御顔としなやかな指先。参道脇には木製灯籠が両側に並んでいた。 地蔵堂の向かって左から江戸時代に造立された年号不明の半肉彫り・安山岩の地蔵、ニ番目は女性信者で延宝九年(1681)に造立された丸彫り・安山岩の地蔵、三番目は明和八年(1771)に造立された火成岩の地蔵菩薩。一番右にある尊像は火成岩で造立され 、台座右側面に「享保五年(1720)十月十四日・当邑土棚」と刻まれていると。 浄土宗竜玉山西光院善然寺本堂。 十三重塔。石灯籠の火袋の部分には小さな鐘が納められていた。 鐘には浄土宗竜玉山西光院善然寺の縁起が刻まれていた。
2016.11.08
コメント(0)
【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク国道467号線から小田急線線路に向かう道の右側にあった 稲荷大明神。更に近くにある泉龍寺へ。浄土宗の鉄筋コンクリート造りの寺。さらにその少し先にある本妙寺を探す。以前は手入れされていた?と思える植え込みの中に、四角いトタン屋根のお堂がポツンと建っていたが。堂の周囲には雑草が一面に生え、無住寺のようであり、何の看板も説明もないが廃寺となったか。 長後駅方面に歩くと長後豊川稲荷。『豊川稲荷』 と書かれた神額。中には白狐が二体。 そして近くには懐かしき長後公園が。私が中学2~3年生の時に通った塾がこの近くにあり、毎週1回この公園の中を歩き塾に向かっていたのであった。50年以上前の出来事であるが、公園の樹木は大きくなったが記憶に残っていた光景であった。 小田急長後駅西口広場から右に行った所に交差点がある。その角が少し小高くなっていて、『仙元塚』(富士塚とも)があった。 この塚は、宝永五年(1708)、富士山の噴火で降った火山灰を集めてつくった塚で、高さは当初、9mもあったと言われると。天保の大飢饉(1833~36)の際、村人は野の草を食べなければならぬほどの飢饉に遭い、村人の動揺を鎮め結束をはかるための信仰として「富士講」をつくり、三十三回の富士参りを始め、慶応二年(1866)大願成就の折、この塚を建てたと。つまり富士塚の跡で、「千元=せんげん=浅間」ということだろうとも。富士山の形に似た?「仙元大菩薩」と刻まれた碑が置かれていた。仙元五十年記念碑。仙元百年記念碑。 今年2016年は仙元塚建立150年に当たるのであるが・・・・今回は?綾瀬方面に向かい、『仙元塚』のある長後駅入の口交差点を右折し、藤沢市北消防署長後出張所の先を、左斜め手前に折れ100m程進むと突き当たりにあった下分の道祖神塔。(藤沢市長後394)。高台にある住宅地へ上る坂の麓に。双体神祇道祖神。年代は年代不明。周りに五輪塔の多くの残欠が。右の四角い石は?更に200mほど進むと左手に永明寺(えいみょうじ)。参道の左には梅園があり、木造山門も堂々たる構え。永明寺は山号を長福山、臨済宗円覚寺派の寺院。『永明禪寺』と刻まれた寺標。 本堂。本堂・山門共に、最近再建されたらしく、新しい造り。お地蔵様が八体 。六地蔵+子育て、延命地蔵の八地蔵。洒落た手水場。 山号の長福山と書かれた扁額。 境内は手入れされた樹木の間に、横長の木造本堂、客殿が繋がり、禅宗の寺らしく火灯窓・花頭窓(かとうまど)もあり全体的に落ち着いた雰囲気。更に歩を進め坂を上っていくと右手高い場所にあった長田(オサダ)稲荷社。 社殿。 社殿内部。
2016.11.07
コメント(0)
妙義神社から10分もかからず富岡市立妙義ふるさと美術館に到着。相変わらず白雲山・相馬岳の頂上付近は雲に隠れていた。 妙義山は、白雲山・金洞山・金鶏山・相馬岳・御岳・丁須ノ頭などを合わせた総称で、南側の表妙義と北側の裏妙義に分かれていて、特に下仁田側から眺望できる金洞山は別名中之嶽と呼ばれ、親しまれて来たと。奇岩がいたるところに見られる妙義山の中でも中之嶽の景色は圧巻で、中腹を巡る第1石門から第4石門を始め、ロウソク岩・大砲岩・筆頭岩・ユルギ岩虚無僧岩といったユニークな名前の岩石群は日本屈指の山岳美と讃えられているのだ。妙義山の白雲山・相馬岳(1104m)は奇岩が林立する迫力のある山容で、一般登山道の中では最高難度のルート。岩の性質上、足がかりが浅く乏しい為、懸垂しながら鎖を全力で握り、腕力で身体を引き上げることを強いられるのだと。滑落防止のためには、片腕だけで全体重を支えることのできる腕力が必要で、雨天時や雨が続いた後などは登山を控えることが賢明と。そして奥の院のある場所の下の断崖の上の白い『大』の字をズームで。大の字は江戸時代に建立され、妙義神社にお参り出来ない人のため安中、松井 田宿からこの字にお参りしたといわれています。今は鉄製だが、当時はワラを巻いたものを使っていたとのこと。縦横5m。 こちらは金洞山。鷹返し・東岳・仲之岳・大砲岩・石門・カニの横バイなどのポイントがあると。既に紅葉が始まっていた。 富岡市立妙義ふるさと美術館。この美術館では、昭和58年から開催されている「妙義山を描く絵画展」の入賞作品を展示。モデルになった妙義山を直に眺めながらの絵画鑑賞という試みは、全国的にも珍しく、自然と芸術を同時に楽しめる施設として好評を得ていると。 となりには、温泉施設「ふれあいプラザ・もみじの湯」が。露天風呂からでも山の風景を堪能できるのだと。玄関の彫刻は『烈風の家族』 。インド砂岩から掘り出した吉田光正の作品と。烈風に耐える母と娘2人の姿か?実は目的地は妙義ふるさと美術館ではなくこの妙義山パノラマパークの『コスモス』 。しかしこの日いや今年のコスモスは成長不足で花の数が極めて少なかったのであった。まだ見頃には早いのかも?・・・・。まだまだ2~3部咲き。 アップで。 金洞山の頂きに繫がる尾根は奇岩だらけ。 そして最後に国指定名勝『楽山園』に立ち寄る。そして帰路へ。再び来た道を引き返し上信越自動車道・富岡ICへ向かう。 車窓に拡がる蒟蒻畑。遠い山並みに雲が掛かり、薄日がコンニャク畑を照らしていて葉の表面が薄白く霜が降りた如し。
2016.11.06
コメント(0)
唐門をくぐった正面には拝殿、幣殿、本殿からなる御本社(宝暦六年・重文)が鎮座。 本殿、幣殿、拝殿は代表的な権現造り。本殿は、拝殿と共に黒漆塗銅茸入母屋造りであり、拝殿は正面に千鳥破風をおき、その前に唐破風の向拝屋根を張り出している。宝暦六年(1756)の建造。 黄金に輝く『妙義神社』の社額。拝殿内部。 拝殿を斜め右から見上げる。 拝殿の欄間、暮股内、脇障子、小天井、柱頭等には多くのすばらしい彫刻が各所にみられるのであった。昨年訪ねた日光東照宮の如し。 拝殿では向拝部とのつなぎの海老虹梁に手のこんだ龍が。拝殿の龍には上り龍と下り龍が対をなしているのだと。 脇障子の竹林七賢人。竹林七賢人とは中国の晋の時代、世の中のわずらわしさを避けて、隠者七人が竹林に集まり、清談にふけった故事。こちらは3人。 こちらに4人。 本殿裏に天狗社があると。 天狗社。お参りすると心願成就すると。本殿裏。 拝殿、幣殿、本殿は附透塀で囲まれていた。 附透塀の隙間から本殿を。 帰路は階段を下りずに北門から坂を下る。苔むした石灯籠群。 水神社 愛宕社。 妙義山登山道入口。『雲に嶮し 妙義ひぐらし 青の陣』『多希女』と刻まれた句碑。自然石の上にも小さな石の祠が。 この樹木の生命力に感動。 。境内中段・旧本殿前に奉納された青銅製の燈籠は都内崇敬者から。 社務所(旧宮様御殿)。妙義神社は江戸時代、上野東叡山寛永寺の座主輪王寺宮御代々の兼任の神社となり、歴代将軍や諸大名より篤い崇敬を受けていた。妙義町の指定重要文化財の妙義神社御殿。俗に宮様御殿といわれ、嘉永5年(1852)に再建。寛永13年(1636)以来、輪王寺宮の隠居所となり、御登山の折には、この御殿に泊ったとのこと。妙義山歩道案内図。 右側が妙義神社で、左側には中之岳神社が鎮座。 黄色の線は一般向けの散歩道だが、岩場やくさり場などがあると。『妙義山』という歌の歌詞と譜面が刻まれた石碑。御朱印を戴い次の場所へと移動したのです。
2016.11.05
コメント(0)
貫前神社からさらに妙義神社へ向けて車を走らせる。 前方の上信越自動車道の高架橋の下を通過。 表妙義の南東に張り出す白雲山は名前の如く白き雨雲に隠れていた。 参道を車で上っていくと正面に階段と社号表。この手前の右にある狭い駐車場に車を停める。 『妙義神社』と刻まれた社号表。妙義神社の創建は諸説あり宣化天皇2年(537)又は欽明天皇の御代(539~571年)に波己曽大神の分霊が勧請されたのが始まりと伝えられている。鎮座する妙義山は上毛三山(赤城山:赤城神社・榛名山:榛名神社・妙義山:妙義神社)の1つで、後に日本三大奇勝、日本百景に数えられる程、特異な景観で古くから山岳信仰や自然崇拝的な信仰の対象として広く知られる存在。 妙義神社の配置図。階段を登って行くと総門が現れた。扁額(へんがく)は「高顕院」と。古くから神仏習合し別当寺院として白雲山高顕院石塔寺が祭祀を司り、寛永14年(1637)に長清法印が中興すると上野東叡山寛永寺(天台宗)の本末寺、御兼帯、座主輪王寺宮の隠居所となり歴代将軍や皇室から崇敬、庇護された。最盛期には末寺2カ寺、専中3カ寺、門徒7ケ寺を擁し江戸時代中期以降は境内の整備が進み妙義千軒と称されるほど繁栄したと。「高顕院」と書かれた扁額。総門の仁王像・阿像 総門の仁王像・吽像 青銅製燈籠と青銅の大鳥居 。鳥居には「白雲山」の文字。妙義山というのはいくつかの山の集合体に付けられた名前だそうで、白雲山というのは妙義山を構成するうちの一つだと。総門裏の境内社(和歌三社と稲荷社) 総門裏の天然記念物の妙義神社の大杉跡 『天然記念物 妙義神社の大杉の子孫』と書かれた石碑。内容は『昭和八年四月十三日国指定天然記念物の大杉は昭和四十年頃より老衰腐朽のため衰弱し昭和四十六年一月十七日突風により倒壊した たまたま茨城県の国立関東林木育種場にこの杉の健全な穂がつぎ木で保存されていたので群馬県林業試験場がつぎ穂の分譲を受け昭和四十八年四月同場でつぎ木しさらに四十九年春これよりとり木を行い自根を出させ完全に大杉の子孫に仕立てここに植栽したものである。』と。元の大杉は樹齢1,000年以上だったとのこと。 総門の周囲の石垣。 妙義神社には、城のような凄い石垣があるのですが、これは江戸中期に妙義山で産する安山岩を使って、江戸や信州高遠の石工たちが築いたもので、極めて精巧な石積み。青銅の大鳥居 白雲山と書かれた扁額が。青銅の大鳥居をくぐると右手に波己曽社があります。 本殿、幣殿、拝殿からなり、明暦二年(1656)の建造と考えられると。最近まで本殿は波己曽社に、拝殿は神楽殿になっていて、幣殿は失われていたが、先年新材を補足して移築大修理、建立当初の姿に復原された。同社殿も、現在の本社殿ほどではありませんが、綺麗な装飾が施されていた。狛犬が手前に。旧御本社だと。群馬県の重要文化財に指定されている。波己曽社横の弁天社。妙義神社の手水舎。 石造の太鼓橋を渡る。 上部神域へと一直線に延びる165段の石段。 石段の途中に杉の根が張って多くの石を押し上げている箇所がいくつかあった。実は、樹齢400年を超える大杉があったが、2015年に20本近くを安全上の理由から伐採したのだと。165段の急な階段の先に赤い随神門があるが、その先が旧神域。手前までが旧石塔寺の領域とのこと。上って来た階段を振り返る。石段の上の随神門明暦年間建立の、群馬県の重要文化財 左大臣(正面に向かって右)、竹内宿祢。 右大臣(正面に向かって左)、藤原鎌足。随神門にある青鬼 。青鬼の尻の後ろに・・・・・。随神門にある赤鬼。こちらにも。 随神門を潜り左手に折れると、唐門とその奧に拝殿が。 唐門。唐門は妻を唐破風にした銅茸平入りの門で、これらの建物の周囲は彫刻でもって埋められ、そのすばらしさに感動。宝暦六年(1756年)の建造。国の重要文化財。それにしても唐門の見事な彫刻。それぞれズームで。 社殿側から見た唐門。ズームで。唐門の正面左屋根下の彫刻。 その下の唐門側面の彫刻。唐門の正面右屋根下の彫刻。鷹?唐門の龍の天井画は中澤燕州の筆と。唐門越しの下界の風景です。
2016.11.04
コメント(0)
こんにゃくで昼食代わりに腹を満たした後は、同じく群馬県富岡市にある、上野國一宮「一之宮貫前神社」(ぬきさきじんじゃ)に向かいました。国道47号線を鋭く左折すると前方に大きな朱の鳥居が。神社総門前の駐車場に車を停め参拝開始。総門の反対側には階段上の大鳥居が見えた。こちらが正式な参拝用の参道。綾女谷(あやめだに)と呼ばれる渓間に建造された地理条件から「くだり参道」と呼ばれる正面から1度上ってから再び下る珍しい参道が特徴。総門。門の高さと先ほどの大鳥居は同じ高さであると。案内板には御祭神は経津主神(ふつぬしのかみ)―建国の功神、武神、物部氏の祖神。そして経津主神は千葉県の一宮、香取神宮の御祭神として有名な神様。姫大神(ひめのおおかみ)―御名不詳、当地方の守護神、養蚕機織の神、地主神富岡市は、午前中に訪ねた世界遺産「富岡製糸工場」があり、養蚕機織の地主神が御祭神になっているのも面白いのであった。唐銅製燈籠(市の重要文化財指定)。高さ395cm、慶応元年(1865年)製地元の養蚕農家・絹商人のみならず、横浜や江戸の製糸商人から計1500人以上による献納があったと。総門をくぐると珍しく階段を「降りた」先に社殿が。この様な造りの神社を「下り宮」というのだと。羽ばたく翼の様な屋根。1635年建立で、国指定重要文化財。一之宮貫前神社 配置図。階段右手にあった末社 月讀神社。現在の社殿は、寛永12年以前の本社の旧拝殿で、牛王堂として使用されていましたが、明治時代に月夜見命他17神を祀って月読神社とし、明治41年に近在の氏神である、社久司神社(秋畑琵琶澤)、雷電神社(秋畑二ツ石)、湯前神社(秋畑裏根)、近戸神社(富岡市野上)の4社を合祀したとのこと。斎館。立派な手水舎。桜門(国指定重要文化財) 入母屋造。この桜門、拝殿、本殿ともに、徳川家光による寛永12年(1635年)の造営。桜門横から拝殿前へ。見事な彩色装飾。拝殿を横から。拝殿奧の本殿。御祭神は次の二柱。・経津主神 (フツヌシノカミ)・姫大神 (ヒメオオカミ) 創建は古墳時代の531年。 物部系の豪族が氏神である経津主神をお祀りした事に始まります。神楽殿。毎年12月31日23時~、新年1月1日12時~ までこの神楽殿にて太々神楽が奉納されるとのこと。『太々御神楽』と書かれた社額。神楽殿前より拝殿、本殿を望む。 別の階段を上っていくと宝物館が。しかし今回はパス。御遷宮祭のポスター。一之宮貫前神社の式年遷宮祭の歴史は古く、天武天皇10年(西暦684年)には行われていて、万寿2年(西暦1025年)の頃は伊勢神宮のように社殿を造り直した。いずれにしても上野国(こうずけのくに)最大最重要の神事。江戸時代の少し前の天正年間には現行の13年毎に改まられ、明治時代には申年の12月12日に「仮殿遷座祭」と言って、御仮殿という仮の御殿に神様を移して、酉年の3月13日に「本殿遷座祭」として御本殿にお戻りいただくお祭りをおこなうことになったのです。今回もこの日程で行われるとのこと。社務所。御朱印をいただきました。300円ではなく500円を奉納しました。境内には八重咲き秋明菊?が濃いピンクの花を。12年に一度の式年遷宮を迎える一之宮貫前神社の隣にある日枝神社の境内では10/1に地鎮祭が行われ、仮拝殿、仮本殿の建立が始まっているようだ。後ろの青のブルーシートで覆われた部分が仮本殿か。仮本殿も工事中から見えないようにしている?上棟式そして仮本殿の中心に立てる「立柱祭」も行われた模様。上棟式を司る工匠(施工者)の守護神 彦狭知命(ひこさしりのみこと) そして家屋の守護神の屋船豊受姫命(やふねとようけひめのみこと)の文字も確認できた。 富岡銘木十選の銀杏の大木。こちらは富岡市指定天然記念物の樹齢1000年と推定される『スダジイ』。樹高は約15mとのこと。工事も式年遷宮に向けて急ピッチで進んでいる模様。日枝神社の山門。
2016.11.03
コメント(0)
世界遺産の富岡製糸場から車で15分の、群馬県甘楽郡甘楽町に位置する『こんにゃくパーク』に立ち寄る。こんにゃく製造の「(株)ヨコオデイリーフーズ」のこんにゃく工場を一般開放した日本最大のこんにゃくパーク。以前この場所を訪ねた元部下からの情報により、立ち寄ることを決めていたのです。ここでは、工場見学や製造体験などを通して蒟蒻のことを学ぶことができるのです。駐車場に車を停め、こんにゃくパークに向かう。カラフルな外装のこんにゃくパークの建物。こんにゃくパーク敷地に入ると左側には、地元の朝採り野菜や群馬県産の旬な野菜や果物を販売する『旅の産直パーク』がありここを暫く覗く。入口には「たてヨコオいしい!」の文字が十字に。「たてヨコオいしい!」というコンセプトは、"こんにゃく"という食材は、タテ、ヨコ、丸、三角など、様々な形、多様な料理をしても美味しいことをヨコオデイリーフーズが繋ぐという思いを込めたとのこと。また、ロゴマークは色とりどりで、親しみやすさ、楽しさ、美味しさ、健康&美容を提供することを表現したのだと。そしてこんにゃくパークに入場。ゆるキャラの『月野(つきの)マナン』ちゃんが迎えてくれた。 施設内では「こんにゃく・白滝工場ZONE」「ゼリー工場ZONE」「バイキング・おみやげZONE」の3つのゾーンに分かれおり、特に体にやさしいこんにゃく料理が無料で食べ放題できるのが魅力。工場見学ルートから入り工場見学開始。こんにゃく芋が立派に成長し出荷するまでには3年かかると。毎年秋になると彫り上げ、5℃以下にならないように室内で貯蔵し春に再び植え付け育てることを繰り返すのだと。 3年物のこんにゃく芋がコンベアーで運ばれていました。 こんにゃく造りには2種類の方法があると。 以前はよく行われた、生芋を茹で磨り潰したあと練り成型する方法であったが今ではこんにゃく芋を薄く切って乾燥させ(荒粉・あらこ)、さらに細かい粉(精粉・せいこ)にしてからこれを練り上げ成型して作る方法が主流になっているとのこと。成型してパッケージングされたこんにゃくがコンベアー上を移動していました。 しらたきはシャワー状に放出されたこんにゃく糊を5分間、70℃のお湯で茹で成型、殺菌されるのだと。 練り上げ、成型前のこんにゃくがポンプで送られていました。こんにゃくは奈良時代に仏教と一緒に中国から伝わったという説と縄文時代に東南アジアから島づたいにサトイモと一緒に伝わったという2説があるとのこと。 工場見学を終えおみやげコーナーに向かう。 スーパーマーケット並みのフロアの広さのあるお土産コーナー。、おみやげは、ほぼ「こんにゃく」という驚き! コーナーには、こんにゃくパン、こんにゃくのレバ刺し、こんにゃくカステラ、こんにゃくラーメンしょうゆ、富岡製糸工場おみやげや月野うさぎプリンなどがあり、その数も豊富で買い物も大いに楽しめるのでした。ちなみに、人気のこんにゃく製品No.1は「こんにゃくラーメンしょうゆ」で、おみやげ人気No.1は「こんにゃくカステラ」とのこと。 お土産コーナーの横には長蛇の列が。我々もこの列に並ぶ。 ここは「食べ放題のバイキングで無料」のコーナー。味噌田楽をはじめ、刺身こんにゃく、玉こんにゃく、凍みこんにゃくのから揚げ、そうめん、焼きそば、ラーメンや、スイーツコーナーには杏仁豆腐、ゼリー等々が食べ放題そしてなんと無料なのでした。無料と言われれば並んで待つより仕方がないのでした。育ちが良い私はプレートに載る目一杯のこんにゃく製品を。田楽、玉こんにゃく、フライ、刺身、レバー、ラーメン、焼きそば・・・・。バイキングご利用のお客様へと。時間は20分、食べ残し0、持ち帰り禁止 と。もちろん二人とも完食、でも二人ともかなり頑張りました。よってこんにゃくデザートは諦めました。そして結論は、こんにゃくは、やはりこんにゃくとして食べるべきと。 周囲には多くの観光客や家族連れが同じ様に頑張っていたのです。 お土産いや自分用にこんにゃく田楽他を5品購入し土産コーナーを出てこんにゃくパークをあとにしたのでした。
2016.11.02
コメント(0)
東繭倉庫を抜けて右手に曲がると、検査人館、女工館、診療所の建物が続く。 検査人館(けんさにんかん・重要文化財)。1873(明治6)年築。元々は生糸や機械の検査を担当したフランス人男性技術者の住居。後に事務所に転用され、2階には皇族や政府の役人が訪れた際に使用する貴賓室があるが非公開。建物の正面は事務所として使用するため改装されているが、側面は竣工当時の、洋風建築の面影を残している。この建物は現在管理事務所として使用されていて、一般の見学者は立ち入り不可。女工館(じょこうかん・重要文化財)。 この建物は、日本人工女に器械による糸取りの技術を教えるために雇われたフランス人女性教師の住居だった建物。主屋は方形屋根の桟瓦葺。外付けの階段を上った2階にはベランダがあり、その天井には板が格子状に。後に多くの明治の洋館で見ることができるようになったが、この当時の日本建築では珍しい。国の重要文化財の木骨煉瓦造り、2階建て。1873(明治6)年竣工。 繰糸所(国宝)。繭から糸を取る作業が行われていた建物。長さ約140mの巨大な工場で、創設時にフランスから導入した金属製の繰糸器300釜が設置され、世界最大規模の器械製糸工場。 明治政府は製糸場設立のための外国人指導者としてフランス人のポール・ブリュナを雇用。ブリュナはフランスから技術者を連れてくるとともに、洋式の機械を日本人の体格に合うように改良したものを注文して取り寄せたと。建物の設計は 横須賀製鉄所建設に携わった同じくフランス人のオーギュスト・バスティアンが担当したのだ。電気を使わなくても明かりが採れるような天井作り。屋根の上に蒸気抜きの越屋根が取り付けられていた。こちらも小屋組みにトラス構造を用いることで建物の中央に柱のない大空間となっていて、見ごたえ十分。 面白いのが、ボルト。今では六角ボルトが標準ですが、なんと四角!明治初期の当時はまだ六角ボルトはなかったのでしょう。これで時代が分かるのでした。「ニッサン HR 型自動繰糸機」が昭和 39 年に開発され、この富岡製糸場で昭和41年ごろから順次設置、改修されながら昭和62年3月の操業停止まで動いていたものであると。ズラーっと並んだ、歴史ある繰糸機はビニールシートで保護されていた。製糸場の屋根のトラス構造の説明サンプル。 女工さんが熱湯の鍋から繭の糸口を素手で探して生糸を引き出す様子。蒸気がもうもうと立ち上る繰り糸場で、結核に罹る女工さんもいたのだと。自動繰糸機概要図。一番下に給繭機、そして回転接緒器、その上に集諸器。更にその上に、糸を巻き取る緑の小枠。技術伝習工女として15歳〜25歳の若い女性が募集され、彼女たちは技術習得後、それぞれの地元で指導者として活躍した。当時の工女の日常を記した「富岡日記」その元となった回想録の著者である横田(和田)英の写真。診療所(3代目)。 ブリュナ館(重要文化財)。横浜で生糸の輸入の為、生糸の検査人だったポール・ブリュナの企画指導のもと横須賀造船所の技師バスティアンの設計で日本の大工が施工したのが富岡製糸場。指導者として雇われたフランス人ポール・ブリュナが妻と子供たちと暮らした住居。建物は木骨煉瓦造で建てられ、高床で回廊風のベランダを持つ風通しの良い解放感あるつくりになっていると。床下には、当時造られた煉瓦造りの地下室が現在も残っているのだと。明治6年築 建坪320坪。この日は雨樋の更新工事が行われていた。病室。 片倉製糸紡績会社(片倉工業)の時代に建てられたもの。渡り廊下で診療所や病室をつないでいた。いずれも木造平屋建て。蚕種(さんしゅ)製造所跡。 南東隣接地に、併設の蚕種製造所があったとのこと。レンガ積み排水溝。 敷地内からは下水施設の跡も出てきている。繭を煮た水は汚れているため、地下を通る排水溝を通って鏑川に排出されていたと。地下を通すことで衛生面に気を使い、独特の臭いが広がるのも防いだと。もちろん明治初期の当時は川の水質・環境汚染よりは従業員の健康優先なのであった。そして雨水用排水溝として現在も使用されているとのこと。製糸場下には鏑川(かぶらがわ)が。日本の工業化を支えた製糸場の建設場所として富岡市が選ばれたのも、この豊富な鏑川の水が理由の一つだったと。工場内には6基のボイラーが設置され、5基は繭を煮る湯を作るために、そしてもう1基はフランスから輸入された蒸気エンジン「ブリューナ・エンジン」を回すために使われていた。1920年(大正9年)に動力源は電気モーターに切り替わったが、大量の湯が必要なことは変わらず、製糸場には水が不可欠。鏑川の豊富な水と、安定して供給する努力が製糸場の操業を可能にしたのだと。 ブリュナ館を鏑川側から。桟瓦葺きの寄棟屋根をもつ巨大な住宅で、一家族用としては望外の規模。ブリュナが明治9年に帰仏した後は、寄宿舎や工女に読み書きや和裁などを教える夜学校、後には片倉富岡高等学園の校舎として利用されたとか。建物は長大な高床式で周囲に回廊風のベランダをもつ風通しが良く、開放感のある設計。なお、説明書によると、床下には、建設当時に造られた煉瓦造りの地下室が現在も残っているのだと。ただし、校舎や講堂として使うために内部は大幅な改造が加えられ、当初の面影は少ないと。国の重要文化財の木骨煉瓦造平屋建、高床式。 榛名寮。 大正7年築。ブリュナ館の南西に3棟の寄宿舎が。ブリュナ館の西に隣接するのが榛名寮。明治期に建てられた洋風建築。当初の工女寄宿舎老朽化に伴い新しく建てられた二代目の寄宿舎。各部屋が20畳以上の大部屋になっているとのこと。元々新築されたものではなく、2階建の古民家(養蚕農家)であった前身建物を転用したものと想定されると。木造2階建て。寄宿舎(浅間寮、妙義寮) その西側には、1940年(昭和15年)に、太平洋戦争終戦前に建てられた写真左側の浅間寮(あさまりょう)と、写真右側の妙義寮(みょうぎりょう)が。 これらは片倉製糸紡績会社の時代に建てられた女子寄宿舎で、ともに梁間7.3m、桁行55.0mの木造2階建。北に廊下が付く片廊下式で、部屋は一室15畳で、部屋数は1棟16部屋計32部屋。各棟2階東端に娯楽室が設けられていると。布基礎(ぬのぎそ)はセメント分が少ないコンクリートが使用されていて老朽化が激しいのだと。 布基礎とはTの字を逆にした断面形状の鉄筋コンクリートが、連続して設けられ建物を支えている基礎のこと。富岡製糸場が世界遺産に登録された理由は、日本の近代化だけでなく、世界の絹産業の技術革新にも貢献したこと。そして世界最大規模、抜群の生産能力を誇った工場がほぼ完全な形で残っていることが認められ、絹産業を構成するほかの3カ所とあわせて登録されたのだ。保存状態がよかったのは、富岡製糸場が操業停止後も「売らない、貸さない、壊さない」の3原則で守られたからとのこと。年間の維持費は約1億円、富岡市に移管するまで持ち主の片倉工業は18億円をつぎ込んだ計算になるのだと。 群馬県は、この富岡製糸場の歴史的価値を伝え広めるとともに、様々な世代に世界遺産登録に対する理解を求める働きを続けているとのこと。自分たちの眼の前にある世界遺産のことをよく学びその由緒や価値をよく知ることそしてその遺産の価値を世界の人々に、そしてずっと後の幾世代までも伝える責任は今を生きる我々にあるのだと今更ながら実感したのです。 現在日本国内の世界遺産は16件の文化遺産と、4件の自然遺産の合計20件が登録されています。今回で、私が未だ全く行った、そして見たことのない日本の世界遺産は残り3箇所のみ。1)屋久島 2)小笠原諸島 3)明治日本の産業革命遺産さてさて、この距離的にも遠い3件を訪ねる日が来るのでしょうか??
2016.11.01
コメント(0)
全30件 (30件中 1-30件目)
1