JINさんの陽蜂農遠日記
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江戸から東京への暮らしや物流、食文化を立体的に紹介する体験型展示の一部で、写真には大根や魚、船などが配置されていた。東京湾や流通のつながりを表現しているようであった。「江戸の食と物流」をテーマにしたインタラクティブ展示。テーブル全体が地図になっていて、・江戸(現在の東京)へ集まる食材・海路・街道による物流・リサイクル文化(紙・糞尿など)・江戸前の魚や近郊野菜などを、実物模型と映像投影で表現していた。特に、・大根や青菜などの近郊野菜・マグロなど江戸前の魚・「紙・漉き返し紙(リサイクル)」の表示・江戸湾へ入る船の航路・各地から江戸へ集まる物資 が。「E5-2 村と島の生活」前の展示状況。「玉川上水流域図」前の展示状況。 江戸の町屋模型も見えていて、展示空間全体で「巨大都市・江戸を支えた流通システム」を体感できる構成。「E5-3 玉川上水とその流域。」👈️リンク 手前に見えた巨大な木造構造物は、「玉川上水」の木樋(もくひ)や上水施設の実物・復元展示。「玉川上水」とは江戸時代、江戸の人口急増に対応するために造られた大規模な上水道。・1653年(承応2年)完成・多摩川の水を江戸市中へ導水・全長約43km・玉川兄弟(玉川庄右衛門・清右衛門)が工事を担当当時の江戸は世界有数の大都市でしたが、清潔な飲料水を大量供給できたことが、都市発展を支えた。中央奥の豪華な山車(だし)は江戸祭礼で使われた山車・屋台の再現。「上水井戸」と「木樋」。 「上水井戸」「上水井戸(じょうすいいど)木樋を通って供給された上水を汲み上げるための井戸。桶を2段か3段積み重ねたものが多く、上部数十センチメートルが地上に出ていた。つるべや井戸滑車も出土している。文献では木樋から井戸までを竹製の樋でつなぐ方式が知られているが、汐留遺跡から出土した本資料の場合は直接木樋が井戸に連結されていた。」 「木樋(もくひ)」 樋管(ひかん) の一種、上水施設で用いられた 木製の水道管・分水設備。「木樋(もくひ)上水を通すための木製の排水管。道路等の地下に傾斜をつけながら埋設された。木材は多くの場合、水に強い松か杉が使用された。本資料は木材をくり抜いてつくられている。蓋は釘で打ちつけられ、水漏れを防ぐために木の皮を繊維状にした槇肌(まいはだ)と呼ばれるものが隙間に詰め込まれている。木樋は屋敷の建て替えや補修のためか、しばしば付け替えられている。」 「槇肌(まきはだ / まいはだ)」は、主にコウヤマキ(高野槙)などの樹皮を剥いで繊維状にしたものです。古くから、その高い繊維質と弾力性を活かし、桶や和船、井戸などの板の隙間に詰め込む「防水パッキング(水漏れ防止の止水材)」として重宝されてきた と。「上水枡(じょうすいます)」「上水枡(じょうすいます)上水を一旦溜めて汚れを沈殿させ、きれいな上澄み水のみを流すため、あるいは木樋と木樋を接合し、その方向を変えるためなどに設けられた。また、水質検査のための施設ともいわれている。これはとくに大型の枡で、非常に厚い木材を使用している。隙間には水漏れ防止のための槇肌が詰め込まれている。」 廻り込んで。「継手(つぎて)」 「継手(つぎて)両側から木樋の端と端を差し込んで二本の木樋をつなぐもの。木の接続には他にもいくつかの方法があるが、継手を使うと太さの異なる木樋をつないだり、方向を変えたりすることができた。」「水が家庭に届くまで上水水門から引いた水は、地下に埋め込んだ石樋(せきひ)や木樋(もくひ)の水道を使って江戸の町に分配された。中央線の駅名である「水道橋」は、神田上水の水門から、神田川対岸に水を渡すための懸樋(かけひ)の名残である。大名(※)や商人など、大口の消費者には専用の呼び井戸へ水が送られたが、長屋へは、木樋からさらに細い竹樋(たけひ)を通して、共同の上水井戸に貯水された。」 「E6 江戸の四季と盛り場」。「E6-1 江戸の四季」。 「江戸の四季さまざまな人が集まり、さまざまな営みをみせた江戸の町では、各地に伝えられた行事をもとに独特の年中行事が行われた。江戸の人々の祭り好きは格別で、縁日や開帳、花見や月見などあらゆる機会をとらえ、趣向をこらした。人々が生き生きと行事や祭りに興じる様子は、文芸や絵画の作品で数多く描き出されている。江戸の地形は、山の手側に台地が広がり、台地と台地の間には川が流れ、湧池があった。一方、下町側には隅田川の流れがあり、海にも面していた。町のいたるところに坂と谷、窪地に池があった。このような起伏に富んだ地形が、四季の移ろいをより一層豊かなものとし、大都市でありながらも少し歩けば見事な自然風景を望むことができた。春は上野の花や隅田の鳥、夏は水茶屋の水の音、秋は和歌の月見、品川の紅葉、冬は雪見の酒など、人々は四季折々の名所にさかんに出向いた。また、身近な河川や海辺での舟遊び、神仏との出会い、市での人々の交流などが、一年を通じて江戸のいたるところで展開していた。」 「見立十二ヶ月ノ内 三月 雛祭 四月 鰹売」。 「見立十二ヶ月ノ内三月 雛祭 四月 鰹売A Parody of Twelve Months: March, the Doll Festival, and April, a Bonito seller1859(安政6)歌川国貞(3代豊国)・国久/画伊勢屋兼吉/版4月が初鰹(はつがつお)となる鰹売りは、三代豊国により歌舞伎役者中村福助の似顔で描かれている。背景の雛人形を弟子の国久が描く共作。」 「江戸の年中行事Annual Events of Edo季節や暦に合わせて繰り返されるさまざまな行事は、江戸の人々にとって日常を活性化させる大きな楽しみであった。Various annual events observed in accordance with the seasons and the calendar were a great pleasure for the people of Edo to revitalize their daily lives.」中央円形図「東都歳事記」でみる四季の行事春・夏・秋・冬に分けて、江戸の代表的年中行事を配置。円周部で読める主な行事春①初卯詣で②汐干狩り③御開帳夏④川開き⑤山王権現社祭礼(山王祭)秋⑥神田明神祭礼(神田祭)冬⑦酉の市⑧年の市「上野寛永寺花見図(うえの かんえいじ はなみず)」。 「上野寛永寺花見図(うえの かんえいじ はなみず)Cherry Blossom Viewing around Ueno Kan’eiji Temple天明後期〜寛政初期(1785〜90)勝川春山/画 西村屋与八/版満開の桜を楽しむ人々が行き交う寛永寺(徳川将軍家の菩提寺)の風景。ここが花見の名所となったのは、3代将軍家光が桜の名所・吉野(奈良)を模して桜を植樹させたことに始まる。」 「江戸の花暦Flower Calendar of Edo人々は四季折々に変化する景色を楽しむために、江戸市中や近郊の名所へおもむいた。People traveled to famous places in Edo and its suburbs to enjoy the changing scenery of the four seasons.」 掲載されている主な名所・上野・浅草・隅田川・飛鳥山・品川・深川・王子・亀戸・芝・向島・吉原・高輪 など。右側の浮世絵図版上「上野寛永寺花見図」中「東都名所 亀戸藤花」下「江都名所 隅田川雪見之図」「上野寛永寺花見図」勝川春山/画「東都名所 亀戸藤花」 歌川広重/画亀戸天神の藤は、江戸の藤として知られ「名所江戸百景」など多くの浮世絵、錦絵に描かれている。江戸時代、亀戸は湿地で初代宮司が水を好む藤を社前に植え、江戸の名所として五代将軍綱吉公や八代将軍吉宗公が訪れた記録もある。亀戸天神は、菅原家の子孫である菅原大鳥居信祐が、1661年(寛文元年)江戸本所亀戸にあった天神の小さな祠に道真ゆかりの飛梅で彫った天神像を奉祀したのが始まりといわれている。現在の社地は天神信仰に篤かった4代将軍・家綱によって寄進されたもので、1662年(寛文2年)地形をはじめ、社殿、楼門、回廊、心字池、太鼓橋など境内のすべてを九州の大宰府天満宮にならって造営され、東国天満宮の宗社として崇敬されている。「江都名所 隅田川雪見之図」歌川広重/画。「向ふ島乃夜桜(むこうじま の よざくら)」歌川国貞(3代豊国)/画。 「向ふ島乃夜桜(むこうじま の よざくら)Cherry Blossom in the Evening at Mukōjima1859(安政6)1860年(万延1)2月歌川国貞(3代豊国)/画向島で夜桜見物をする3人の女性を描いた美人画。向島には料亭などが立ち並び、日が暮れた後の散策も楽しみのひとつだった。背景には隅田川を舟で行きかう様子が描かれる。」 「江戸めぐり江戸の神社や寺院は、江戸の町の発展拡大にともない、移転を繰り返しながら江戸周縁部に数多く建てられた。祭礼や縁日・開帳ごとに人々は寺社に詣で、厄除や病気の治癒・商売繁盛を祈願して、神仏の御利益にあずかろうとした。とりわけ各地の霊場・神仏を勧請して六地蔵・六阿弥陀・七福神・三十三カ所・八十八カ所巡りなどの巡拝コースが江戸の各地に設けられ、人々は参拝しながら順に江戸市中をめぐった。これらの寺社は、人々の行楽や物見遊山の場所とも重なることも多く、江戸名所として名所案内記に紹介されるところとなった。」 「二十六夜待(にじゅうろくやまち)七月二十六日夜半高きに登り、又は海川の辺、酒楼等に於て月の出を待つ。分て群集する事務じ。月光の中に阿弥陀如来、観音菩薩、勢至菩薩の三尊が姿をあらわし、拝むと幸運を得られるとされた。高輪・品川・洲崎・湯島天神など。『東都歳事記』湯島二十六夜待の図」 「上野花見図屏風」。 「上野花見図屏風Folding Screen Depicting Cherry Blossom Viewing at Ueno元禄頃上野花見・両国川遊図屏風(六曲一双)のうち左隻。上野の寛永寺境内は、江戸時代初期から桜の名所として知られてきた。三味線、笛、太鼓に合わせて陽気に円舞している様子を見物人たちが取り囲んでいる。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.06.01
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