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辻潤の本の編集に 三浦義一センセイが参加しているのが 疑問でしたが 単に 飲み友達だった面もあるようですが 委員の顔ぶれをみると パンとペン 社会主義社 堺利彦と売文社の闘い 黒岩比佐子著 講談社の中に かなりでている人が多いんですねどこまで進展するか はかり知られぬ深さと広さを持つ赤色ギャング一味の行動はその後 今泉 石井等の取り調べによってさらに新事実が提供された 即ちこの一派は資金獲得の一策として兜町その他の株式街まで 魔手を伸ばしかねてシンパで株式街に出入りする男に2千余円を交付し東株その他を買わせた事実ありこれはまんまと失敗したが さらに一時は右翼団体内に積極的にフラクションを植え付けようとしたこともわかった その橋渡しとして選ばれたのはさる4月9日突如として赤坂区表町2ー16虎屋菓子店黒川光景氏方の煙突男を操り虎屋を恐喝せんとした黒幕の人物渋谷区大和田町63大亜義盟主元政友会代議士三浦数郎氏長男義一で 同人はすでに石井の関係から準党員に抱き込まれており 元密輸団の手先となった例の伊藤定一も党員として加盟していた そしてこれから糸をたぐって右翼の某有力団体内に支部の設置を図っていたが極左極右の接近を企てていたのが特に注目される なおこれがためには相当巨額の資金をばらまいたものと見られこれまで現れたものの他に有力なシンパが伏在する見込みでさらに追究中である 10月24日付き 東京朝日新聞 戦後の黒幕三浦義一の若き日の姿である 三浦義一は 事業第二部から白羽の矢をたてられて 一時期準党員扱いだった 昭和史最大のスパイM 小林竣一 鈴木隆一著 wac 編注 あくまでも個人的な付き合いのようにみえるんですが 義一先生の周囲を見ると 左右入り交じった人たちがいたようです 戦前においては いわゆる右翼人と左翼人をいったり きたりの人がたくさんいたようで http://webcatplus.nii.ac.jp/webcatplus/details/creator/2515601.html当観無常三浦義一著聖紀書房昭和16當観無常三浦義一著聖紀書房1931編注http://www.bunshun.co.jp/yonda/maestro/maestro.htm本書で驚かされたのは、中川さんのお祖父(じい)さんが日共草創期の有力党員、藤岡淳吉で、彼が戦時期に聖紀書房の経営に関係したという余談風のくだりだ。聖紀書房といえば、東条内閣時代に、反東条の書、石原莞爾の『国防政治論』を世に送った出版社ではないか。中川さんには、是非お祖父さんの伝記も書いてほしい。編注 この時点では 藤岡は共産党員ではないようですが 全体の人脈のなかでみるととても面白いものがあります仏国陪審に於ける発問の方式とその判例アー・シユロー〔編〕 ; 三浦義一〔訳〕司法省調査課昭和2編注 三浦先生は 外国語が得意ではないという証言はありますができないということではないようです 親父が法律顧問だったということかもしれませんが ほんとかなという気がしますが いろんなヤバイ文献も読めたということのようですhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E7%95%A0%E7%B4%A0%E4%B9%8Bこれを受け、高畠は自己の影響下にあった北原龍雄・遠藤友四郎・茂木久平・尾崎士郎らとともに国家社会主義運動の開始を堺利彦に打診する。堺は社会主義の実践活動は時期尚早と判断し、山川・荒畑の復帰後、売文社を分けることを提案し、高畠も了承した。大正8年4月、高畠一派の牛耳るところとなった売文社は、国家社会主義の発行所となった。これ以後、高畠は国家社会主義の旗手として世に出ることになる。略一方で、大正11年12月には、東京帝大教授の上杉慎吉と経綸学盟の締結し、同12年に極右と称された大化会の顧問となった。この大化会の援助を受け、再び高畠門下を動員して『週刊日本』(週刊新聞。11号で廃刊)の発刊を行い、国家社会主義の宣伝に勉めた。この後、『資本論』(大鐙閣版)翻訳の完成前後から、大化会との関係が薄まると、再び高畠門下を動員して第1次『急進』(大正13~14年)、第3次『局外』(同14年~15年)などの小雑誌を発刊し、何度も主義の宣伝に勉めている。この間、『資本論』の翻訳者として、またユニークな社会評論家として高畠の名は世の中に知られるようになってはいたが、自身の主張する国家社会主義そのものは普及することなく、相継いで創刊した雑誌はすべて短命のうちに廃刊のやむなきに至っている。編注 この高畠の同窓が 血盟団の井上和尚で 義一センセイが 和尚の晩年の生計の面倒を見ています編注 北原龍雄売文社と同時期に黒龍会に関係したりとか 共産党に参加するも 党費を使い込んだりとか 中国に渡って 特務機関を開いたりとか福田狂二と組んで 雑誌をだしたりとか 当然 義一センセイとも付き合いがあった方ですhttp://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/ContentViewServlet?METAID=10065429&TYPE=HTML_FILE&POS=1&LANG=JA(一)本年四月下旬以来六月下旬までの間数回に亘り「尊皇討奸の檄」「獄中手記」「公武合体の大陰謀」等と題し二・二六事件等の内容を曲庇し事件関係者を有利ならしめん事を策し或は重臣首脳部等を誹謗攻撃し以て軍秩を紊乱し又は治安を妨害せんとする悪質の不穏文書を秘密裏に出版頒布せるものあり、憲兵隊は警察側と協力、徹底的捜査の結果七月上旬確証を得て容疑者約六十名を東京憲兵隊において検挙、爾来鋭意取調中のところ事実明白となれるを以て八月二十三日別記十九名を不穏文書臨時取締法違反として東京刑事地方裁判所検事局に事件送致をなしたり 事件の概要(二)其概要左の如し 1、牛込区南榎町七四 岩田富美夫(四七) 牛込区市ヶ谷谷町五五 三浦義一(四〇) 牛込区矢来町一〇六 吉田彦太郎(二五) 等は現軍首脳部が二月事件の全責任を北、西田等に転嫁せんとなしあるものと臆断し国民与論の喚起を策せんとし共謀して磯部の獄中手記と称する不穏文書を複製し一月ごろより三月ごろに亘る間に於て各方面に手交配布したり 編注 岩田が大化会の会長 義一センセイが副会長 彦ちゃんが若頭http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9A%81%E6%B0%91%E4%BC%9A早稲田大学学生であった高津正道は、学生団体・民人同盟会を結成した後、同じ早大生の高瀬清とともに、「社会運動の研究と普及・啓蒙、争議の応援、闘士の養成」を目的として1920年5月、暁民会を結成した。翌1921年1月に「アナ・ボル提携」を掲げて『労働運動』(第2次)が創刊されると、高津はこれにも参加し、大杉栄とともに同誌の中心となっていたアメリカ帰りの社会主義運動家である近藤栄蔵に接近した。同年3月頃、近藤らによって日本共産党暫定執行委員会が結成されると、暁民会はこれに組織として参加した。[編集] 活動同年4月、コミンテルンとの連絡のため上海に渡航した近藤はコミンテルンから党結成資金として6500円を受領するも、帰途「下関遊興事件」で検挙されて拘禁、所持金の出所を探知される失態を演じた。その後近藤は共産党暫定執行委員会において正式な共産党結党を準備していた堺利彦に資金の提供を持ちかけたが拒否されたため、高津らに共産党結成を提案した。8月頃に大学当局によって、民人同盟会が解散させられると、会員たちは「日本共産党」を称して活動しはじめた。高津ら暁民会有志に仲宗根源和ら無産社の有志を加えた人々は、コミンテルン資金の一部を使って宣伝ビラを作成し東京・大阪・京都・神戸など各地に配布、11月には東京での陸軍大演習に向けて各地に分宿中の将兵宛に「(日本)共産党本部」名義で「上官に叛け」などの印刷物を送付した。近藤はこれらを「共産党結成」として上海のコミンテルン・ビューローに誇大に報告、さらに資金を要請した。[編集] 暁民共産党事件しかし11月25日に近藤が逮捕、12月1日には関係者40名が一斉検挙された(暁民共産党事件 / 軍隊赤化事件)。近藤・高津・仲宗根らは、8月20日の協議により「暁民共産党」を結成したものと当局によって決めつけられ(実際には結成はされていなかったとの説が有力である)、被検挙者中15名が出版法および治安警察法の違反容疑で起訴され、1922年4月25日、近藤の禁錮10ヵ月の他、高津・仲宗根ら合計8名の禁錮・罰金の判決が下った(それ以外は無罪)。この事件によって暁民会は壊滅したが、そのメンバーの大半は同年7月の日本共産党「創立大会」に参加したため、暁民会(もしくは「暁民共産党」グループ)は第一次日本共産党の源流の一つと見なされている。http://www.kaibido.jp/bunyoku/shinsaku/hirata1.html社会主義秘密結社党員近藤栄蔵、高津正道、小野兼七郎、荒井淳一郎、大島義晴、平田晋作、仲宗根源和、川崎悦行、山上正義、浦田武男、寺田鼎、武良二、藤岡淳吉、堺真柄、仲宗根さだよ、高津たよの十六名に係る出版法並に治安警察法違反の控訴公判が、廿五日午前十時から控訴院刑事三部の大法廷で立石裁判長、清水検事係、布施、山崎、今村、梅原等の弁護士立会で開廷。編注 藤岡の名前に注目http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/ContentViewServlet?METAID=10056974&TYPE=HTML_FILE&POS=1&LANG=JA社会主義者及び無政府主義者の大陰謀事件が発覚し今朝一斉に大検挙の行われる事は朝刊既報の通りだが警視庁の守屋特別高等課長、山田同係長、武藤外事係長、西仲間労働係長、立山内鮮係長、有松智能犯係長其他の幹部及び右各課の刑事は予定の通り今朝五時を期して警視庁三階の大広間に集合しなお之に日比谷警察署の高等係りも参加して同勢二百名先ず夫れ夫れ手配して協議の上午前六時七名宛を一隊として百四十名先ず二十台の自動車に分乗して同庁の表裏両面から各方面に出動し一味の寝込を襲い斯くて七時近くになるや堺利彦氏を始め石川哲二、茂木久平、和田久太郎、高津正道、近藤憲二、中曾根源和、伊藤野枝等の頭株を続々検挙し来り午前七時二隊として数十名の刑事は更に十台の自動車に分乗して出動した、聞く処によれば今回検挙の原因は非常な大陰謀の発覚によるもので東京の一味は勿論、全国の主義者悉く検挙し尽されん形勢で警視庁の緊張は実に近来になり光景である=号外再録 編注 茂木の名前に注目http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?LANG=JA&METAID=00484787&POS=1&TYPE=IMAGE_FILE財界攪乱を企てて中曾根氏検挙さる同時に倒閣も図る 某銀行取締役へ金を要求既報、原宿署で探知した某大銀行恐喝と財界攪乱の陰謀事件については去る十七日から同署特高係刑事の総動員により八方に捜査の手をひろげ主犯の検挙に努めていたが十八日午後四時ごろ一名の紳士風の男を神田方面より引致、加藤同署長自ら取調べに著手した結果、有力なる確証を得たものの如く件の紳士を同署に留置し十九日午前九時より東京地方裁判所検事局より市原検事が同署に出張取調べに著手し事件は重大化した模様で、取調べ中の紳士は神田区連雀町一八印刷業第一社緒方肇こと中曾根源和(三八)で同人は堺利彦氏の有力なる輩下として知られ第二次共産党事件に連座して検挙されたことがあり妻女かま(三四)も共産党の婦人闘士として知られている、事件の内容はまだ極秘とされているが十数日前○○銀行常務取締役○○○氏に対し莫大な金円を要求、万一それに応ぜざる場合は云々の恐喝をしたといわれそれを機会に財界を攪乱して現内閣の倒壊を計らんとした模様である、なお某銀行関係者はこの問題について語る あの事件は三年ばかり前、銀行や会社荒しの前科十犯ももある山下某が策動して私の方に脱税があるといってパンフレットなどを作り各所へ配布しましたが既に事件も解決して山下某は刑務所へ行きました、今度の中曾根某は山下の作ったパンフレットを基礎にして七月初めころ頭取や副頭取に脱税云々の手紙を二、三回寄してすぐ回答しろといって来たがこちらでは問題にしていなかった、ところがかれは回答のないのは脱税を是認したことだろうといって再び同じようなパンフレットを作ろうとしたので警察の手に捕まったのでしょう 編注 貧すればなんとやら
2011年02月28日
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常々疑問に思ってるのですが、児玉センセイを裏方に据えるならまだしも、「内閣参与」というオモテの要職につける事にはどういう意図/メリットがあったんでしょうか意外に簡単です 内閣参与といっても 金で買ったもんじゃないかとか 名目だけといわれていますが ハーバード ビックスの昭和天皇という本が 講談社学術文庫からでていますが 終戦直後というのは 内地も徐々に 無政府状態にはいりつつあり 敗戦後は 当然 さらに進むだろうと思われるためその備えをしなければならないということで 港会 関根組との関係が 深い 児玉センセイが抜擢され 政府とアンダーグランドとを結ぶために 内閣参与という十手を持たされたようだと指摘しています まだ大物がいたとおもうんですが 緒方竹虎との付き合いがあったからとみるべきでしょう同じ参与になった 賀川豊彦が 下層貧民 また田村真作が 東亜連盟と関係が深く これは在日朝鮮人と言うことですが このふたりが参与になったのは 近衛上奏文にもある 共産革命の主体になる人たちの抑えのためということのようです
2011年02月28日
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http://plaza.rakuten.co.jp/junksai/diary/201010210000/八月二十日 上海に飛ぶ新聞社機の便があったので 高源がこれに便乗して上海に向かった 同二十五日 金やダイヤモンドなど 貴重物資三十二億円分を海軍機に満載して上海飛行場を飛び立とうとしたが 機は重さのため浮揚することができず 滑走路の端までいってトンボ返りを打ち破損してしまった 高源は積み荷を別の爆撃機に積み替えて上海を発つが 大阪の飛行場に着陸の際 またもひっくり返って機体は使用不能になった さらに別の軍用機に積み替えて東京まで 運んできたという 当時 軍用機は飛行場に幾台も遊んでおり 使い放題であった児玉資金の上海からの輸送については このような見方もありますが 朝日新聞の社機を借用してというのが定説なんですが 朝日の上海支局が 他社にない特徴を持っていたとすれば それは飛行機を使用することであった 白川威海によると朝日は海軍と仲が良かったので 海軍機と同機種の飛行機を海軍に頼んで購入してもらい その胴体に朝日のマークをつけた 戦局が逼迫してくると微妙なニュアンスをふくんだニュース記事は電報では送りにくい やがては航空機万能の時代に入っていくのだから 定期航空路を確保しておこうという先見の明があった 日本へとぶ航路は上海 福岡間 その実現には河内という航空部長がずいぶん努力したものです朝日新聞社の飛行機利用は他の新聞社の記者たちを口惜しがらせた しかしこの飛び道具がのちに児玉機関のダイヤモンドやプラチナを運ぶ役をつとめ 結果的には 朝日新聞社史に不名誉な汚点をつくったのだから皮肉である河内航空部長は豪傑肌で国士ふうなところがあり 笹川良一 児玉誉士夫といったような右翼人たちとも親交があったお国の為に頼む ひと肌脱いでくれといわれて引き受けたらしい 結果としてはほんとうに国のために役だったといえるかどうか 朝日側の利用されたという表現が正しいだろう 河内航空部長は戦後に病気でなくなっている日本の地下人脈 岩川隆 岩川さんが 調べきっていない面もあるんですが 証言を聞いた 朝日関係者のいいわけを 岩川さんが 破れていない面もありますちなみに 河内航空部長は 河内一彦といいまして 記者というよりも まだ冒険家みたいな時代からの飛行機の操縦士あがりですhttp://www.geocities.co.jp/Playtown-Toys/4086/2goukan/3-jouin.html昭和20年1月、陸軍省内で 阿南惟幾 陸軍航空総監就任祝賀会が開かれた。 時局が逼迫するなか、ささやかに行われたこの宴席で、一つの事件が起こった。 ケンカである。 当事者は、航空本部総務部長・田尻少佐と朝日新聞航空本部長・河内一彦。 河内は福岡に生まれ、航空局第1回航空機操縦術練習生から叩き上げた9700 飛行時間のベテランである。 昭和18年に陸軍と共同で実施された A-26機 ( Aは朝日新聞の頭文字 )の日独連絡飛行で5名の部下を失って以来の鬱憤が 爆発してしまったのだ。 「 悔しかったら戦争に勝ってみろ!」と。 田尻少佐も売り言葉に買い言葉 「 何をっ、よし、貴様のような奴は一兵卒で召集してやる!」と息巻く。河内一彦についてはネット上に資料が少ないので捕捉を少々 ・大正12年、第9回全国中等学校野球大会 開会式で始球式用のボールを投下 ・大正14年、訪欧大飛行にて「 東風(ブレゲー19A)」号の操縦士 ・昭和12年、航空部長として亜欧連絡記録大飛行(「 神風 」号)を企画 ・昭和19年、新京にて周回航続距離16435km達成(A-26 1号機)時 朝日側責任者 昭和18年の日独連絡飛行では、陸軍側に「民間人が操縦する民間機」との要望が あり、長距離飛行には定評のある朝日が選ばれた。 飛行コースの選定において 陸軍は南方ルートを取ることを指示したが、河内は北方ルートを取るべきと主張 し続けたものの入れられず、その結果A-26は消息不明となってしまった。 実施に当って「ソ連領空を侵犯しない事」という条件があったから北方ルートは ダメだったのかもしれないが、河内にしてみれば5名の航空部員を喪ったことで 陸軍に対する不信感はつのったことだろう。 「 まぁ、あん時は 」 と、当時 報道局長であり、河内の飲み友達でもあった 細川隆元は語っている。 「 赤紙よりも先に 憲兵 に引っ張られるんじゃないかってヒヤヒヤしたよ 」 翌日、事情を知らされた朝日新聞社長・村山長挙は早急に手を打つ必要があると 思った。 まさか陸軍が本気で河内を召集するとは思えないが、万一という事も ある。 そこで密かに海軍省の然る高官と打ち合わせ、一時的に海軍嘱託として 預けちまえ、という話になった。 しかも、陸にいると何やかやで揉めるだろう からフネに乗せちまおう、と・・・。朝日新聞の中国侵略 山本武利 文芸春秋によると 当時の朝日新聞航空部から 海軍の嘱託扱いに何人かなっていたようで ここに出ている 村山社長が航空機を使い インドネシアからぜいたく品の密輸をしていたと指摘していますが 単純に頼まれただけだったのか ちなみに河内部長も福岡 吉田彦太郎も福岡 同郷ですhttp://space.geocities.jp/umi9994/page009.html食い終わって朝日本社へ戻ると、四階の主筆室に緒方竹虎を訪ねた。 さくらは今日一日にあったいろいろなことを緒方にしゃべった。 ただし中橋から貰った手帳のことはいわなかった。 「そうか。ご苦労だったね」 そう緒方がねぎらうと、 「いろいろなことがありました、本当に……………」 とさくらが感極まっていった。 それを見て緒方が、 「さくらくん、食事に行こう」 銀座の店はもう再開してるよ、と誘った。 「でも」 さっきカレーを食べた事をいうと、 「私は食事をしなくちゃいけない」 ソーダー水かミルクシェーキ、レモネードならいけるだろう、と緒方がいってくれたので、さくらは 応じた。 ふたりが連れ立って階段のところへくると、ちょうど上がりてのところにある航空部のドアが開 いて、ふたりの男が出ていた。 航空部長の河内一彦と同部員の中野勝義である。 ふたりは主筆の緒方に出くわして、 「主筆、これからお出かけですか」 「さくらちゃんといいですね」 「例の主筆特権ですか」 などと軽口をたたいた。 朝日社内での緒方のさくらフリークはつとに知られていたのである。 「つまらんことをいっとらんと……諸君らは陸軍省へ行くのか?」 緒方が尋ねると、 「戒厳令は続くようですが、飛行禁止措置の方は明日(3月1日)にでも解除される見込みなの で」 情報通のように河内がこたえた。 「さすが空のことは早いな」 緒方が感心すると、 「空のことであれば、陸軍よりも逓信省(当時の航空部門の主管官庁)よりも我々朝日航空部 がいちばんです」 と中野が自信満々といった面持ちでいった。 「私はそういう驕りが嫌いだ」 緒方が笑った。 「驕りはおごりでも奢りがいいよな、さくらちゃん」 さくらが思わず笑った。 「しかしご苦労だな。あれだけの事件の直後だというのに陸軍へご機嫌伺いに行くとは」 やはり、あの件か?と緒方は問うた。 「それもあります」 河内はそのためにも陸軍の心証をよくしておきたいといった。 航空部の二人が去った後、緒方とさくらも社外へ出た。 振り仰ぐと電光掲示板の「マッタク チンテイシタ」の文字が夜空にくっきりと浮かんでいた児玉センセイを 内閣参与に推薦したのが 内閣書記官長だった 緒方竹虎だったわけですが どうも児玉センセイといえば 読売新聞との関連がいわれるわけですが ある時期までは朝日なんですね そして この人脈が ある会社につながり ある事件につながりますhttp://www.aero.or.jp/web-koku-to-bunka/2007.5.15youseijo5.htm この行事は朝日新聞社が企画立案したもので、そもそもはイギリス皇帝の戴冠式の原稿写真を輸送するのが目的だったが、次第に日本の国威発揚と、日英親善飛行のための連絡飛行へと拡大していった。その中心になったのが編集局長だった美土路昌一(戦後、全日空社長)、河内一彦航空部長、新野百三郎航空部次長、中野勝義航空部員(戦後、全日空副社長)の面々だった。
2011年02月27日
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同行には 父の友人の岩永裕吉夫妻がおられ 昔からよく知っている方たちなのでたのしい旅であった 白洲正子自伝 新潮社http://d2c.infogin.com/ja-jp/lnk000/=http://ja.wikipedia.org/wiki/%e5%b2%a9%e6%b0%b8%e8%a3%95%e5%90%89岩永 裕吉(いわなが ゆうきち 、1883年(明治16年)9月13日 - 1939年(昭和14年)9月2日)は、日本の通信事業経営者。経歴 [編集]1883年(明治16)9月13日:東京神田駿河台に内務省 衛生局局長(勅任局長)長與專齋の四男(第六子)として出生。母は長与家が侍医として仕えていた旧大村藩の名族、後藤多仲の長女園子。1890年(明治23):岩永家に養子入籍。養父は岩永省一。(郵便汽船三菱会社を経て日本郵船に入り、1899年に専務取締役。後藤多仲の次男で園子の弟。養母の郷子は京都の絵師山本梅逸の娘。)1906年(明治39):正則中学等を経て、旧制第一高等学校卒業。1909年(明治42):京都帝国大学卒業。1911年(明治44):南満州鉄道株式会社社員;- 1917年)。1917年(大正6):鉄道院に入省(総裁後藤新平)。総裁秘書官となる;- 1918年)。1918年(大正7):鉄道院を退官後、渡米。次いで後藤、新渡戸稲造、鶴見祐輔と渡欧;- 1919年)。1920年(大正9):個人事務所を開き、国際交流を目的とした「岩永通信」を発行。1921年(大正10):「国際通信社」の取締役;- 1923年)。1923年(大正12):「国際」の専務理事;- 1926年)。1924年(大正13):「ロイター」と最初の対外自主頒布権の交渉を行う。1926年(昭和元):新聞組合「日本新聞聯合社」を創設。専務理事。東川嘉一と古野伊之助を西部・東部の管区支配人とする。1928年(昭和3):「聯合」の内信を開始する。1931年(昭和6):関東軍首脳部に満蒙通信社論を送る。1933年(昭和8):「AP通信」支配人ケント・クーパーと通信自主権の確立に成功する。1936年(昭和11):財団法人「同盟通信社」を創設。社長;- 1939年)。1938年(昭和13):貴族院議員に勅撰される。1939年(昭和14)9月2日:狭心症にて死去。人物 [編集]長兄長與稱吉、二兄長與程三、三兄長與又郎、末っ子の第八子の五男長與善郎。同盟通信社の初代社長。社団法人の通信社設立は経済的に全く見返りの無い仕事であり、岩永は己の私財の多くを散じて「日本の主張を世界に発信する」という大義に生きた。柔道4段。新渡戸稲造の門下生で牛場友彦、松本重治、松方三郎の兄貴分。「同盟」の対外的な信頼を守るために常に意を用いている。後年、コンビを組んできた古野伊之助が白鳥敏夫や鈴木貞一と密接な関係にあった点は不満だったらしい。岩永の死後、古野伊之助が同盟の二代目社長となる。http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/A/iwanaga_sho.html岩永省一いわなが しょういち1852(嘉永5)~ 1913.3.12(大正2)明治時代の実業家(海事事業)埋葬場所: 9区 1種 4側 7番 長崎出身。後藤多仲の次男として生まれる。大村藩士の岩永勝馬(M29.10.8没 同墓)の養子。 慶應義塾に学び1870(M3)留学生として英米に遊学、帰朝後三菱会社に入り、1885郵船会社に転じ横濱支店支配人、本店支配人を経て、1899専務取締役となる。 1911病を以て職を退くまで海事事業に従事すること30年、郵船会社故に斯業界に貢献するところ甚だ多かった。享年62。 勲四等に敍せらる。墓所は東京本郷駒込吉祥寺に葬られたが、染井霊園に移り、ついで多磨霊園に改葬された。<日本人名大事典1巻394頁><五輪塔様より情報提供>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%97%A4%E5%BB%89%E5%B9%B3近藤廉平近藤 廉平(こんどう れんぺい、1848年12月20日(嘉永元年11月25日) - 1921年(大正10年)2月9日)は、日本の男爵。徳島藩士、日本郵船会社社長、貴族院男爵議員。目次1 生涯2 家族・親族3 登場作品4 脚注5 関連項目6 外部リンク 生涯阿波国麻植郡(のちの鴨島町西麻植江川、現・徳島県吉野川市)出身。1862年(文久2年)に徳島藩中老である仁尾内膳の書生となる。同年、新居水竹の小心塾にて益田永武と共に学ぶ。その後、柴秋邨の思斉塾に転学。慶應義塾、大学南校に学び、1872年(明治5年)、星合常恕に勧められ岩崎弥太郎が経営する三菱商会に入る。弥太郎の従妹・豊川従子と結婚する。その後、日本郵船会社社長。1918年(大正7年)、日本の船主代表としてベルサイユ講和会議に出席。貴族院男爵議員に互選され、公正会に属す。 1920年(大正9年)、従三位勲一等。家族・親族近藤玄泉・脇子夫妻の次男として生まれる。父・玄泉は医者で、兄弟は兄の貫一がいる。妻・従子は岩崎弥太郎の母・美和及び岡本寧浦の妻・ときの姪で、実業家の豊川良平は従子の兄にあたる。従子の父・小野篤治は岡本とき・岩崎美和姉妹の兄弟にあたる。廉平・従子夫妻の次男・廉治は樺山愛輔の長女・泰子と結婚したため、白洲次郎・正子夫妻とも縁続きとなった。故に近藤家は豊川家を通じて三菱財閥の創業者一族・岩崎家と姻戚関係を持つ一方、樺山家を通じて白洲家とも姻戚関係にあるといえる。廉平・従子夫妻の三女・貴子は旧米沢藩主上杉家14代目当主上杉憲章の後妻となった。編注 いままでのエントリーでは ジローさんと三井とのつながりはフォローできたんですが 今回は 三菱とのつながりをフォローしてみました ジローさんというよりも 樺山一族ということなんですが 三井 三菱と等間隔に関係を持ち 宮中 欧米にもパイプをもっていたということなんでしょうか
2011年02月20日
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http://www007.upp.so-net.ne.jp/rindou/profil.html運動の挫折からモラルの崩壊が始まった?林 ところが、学者になるまでが大変だった。大学院を出ても、共産党に徹底的に意地悪されて、就職できなかった。その前にそもそも大学院に入れない。大学院の試験も、筆記試験には受かるんですが、面接になると、私だけ落とされてしまった。東大の経済学部では面接で落としたことがそれまでなかったのにです。小浜 反代々木系ということでですか。林 いや、そんなに単純ではないんです。当時の東大経済学部の、特に私が受験した理論経済学コースでは、代々木系と反代々木の宇野経済学とが激しく争っていました。我々ブント、全学連、新左翼はこの宇野経済学に依拠していましたが、私はそれを批判していました。私はその頃、相当に生意気な青年で、面接で宇野弘蔵の一番弟子みたいな鈴木鴻一郎と論争してしまいました。あとで恐らく彼は「林はわかっていないから落とせ」という発言をしたんでしょうね。共産党系は内心ニヤニヤしていただけで、もちろん弁護などしてくれない。それで一年浪人ですね。せっぱつまっていたから、ものすごく辛い経験でした。 後でもう少し詳しく触れますが、私は全学連の中でも少数派でした。ブントの中でも少数派だったんです。当時の全学連は革命のためには手段を選ばずという人たちが多数を占めていましたが、私はそれはおかしいと言って批判し、モラルを高くしろという立場でした。マルクス・レーニン主義というのは、革命のためには手段は選ばなくてもいいと言っていましたが、実はレーニンもモラルを高めるということと、手段を選ばずということを、使い分けているわけです。小浜 レーニンは政治家ですからね。林 ブルジョア的道徳はいけないけれども、プロレタリア道徳を確立しなければいけいないと言っているんですね。だからどちらにも解釈できるから、両方の派ができてしまうわけです。 いま言ったようにモラルを重んじるという真面目派と、革命のためには手段を選ばない、何をやってもいいんだという派があったわけですが、運動がうまくいっているときはそんなに対立はないんです。ところが、運動の末期、六月一五日に樺美智子さんが死んだ事件の後から、もうこれはうまくいかないということになってきました。運動は失敗なんだということになった。 結局ああいう政治運動は必ずいつかは挫折して、失敗するんです。共産党のように組織を守るとか組織を維持する、ふやすということを目的にしている限り、絶対挫折はありません。しかし我々の運動は権力を取るということが目的でした。しかし権力は絶対に取れないわけです。大衆運動をいくらやっても、そうした権力にはならない。そういう挫折感がありました。さきほど言ったように、私の挫折感は少し意味が違いますが、大部分の人は実際に成果が出ないということで、敗北感を持ちはじめたわけです。 それで、このままではだめだから何かしなければならない。突破口を開こうということになった。運動はもうしりすぼみになって、大衆動員力もなくなってきている。同じことをやっても大衆はだめですからね。いくらやっても安保改定はなされて、自民党政権は依然として続いているわけですから。そのときに実に奇妙なことが起こったんです。 私は運動そのものの根源を問い直さなければだめだという立場でしたが、そのままの形で運動をもっと先鋭化してやろうという人たちが出てきた。その人たちが何をやったかというと、いままで守ってきたものを崩そうとしたんです。それで一つは右翼と結んだわけです。唐牛健太郎が田中清玄と手を組もうとした。小浜 有名な話ですね。林 そういう連中が出てきたのと同時に、金のつくり方がものすごく汚くなったんです。金はそんなに要らないはずですが、彼らは生活の基盤を全部投げ捨てて運動に参加していたので、自分たちが食っていくのに金が要るわけです。私は、真面目でしたから、依然として家庭教師などのアルバイトをしながら、自分のものは全部自分で稼いでいた。下っ端の運動家はみんなそうでした。私は幹部でしたけれども、そういうふうにやっていた。当時、私は家から仕送りを受けていないんです。大学に入ってからは自分で生活費を稼いでいた。ところが、連中は、うまいこと金をせしめようとしたんです。いろいろなところから騙し取った。 一番ひどくて、後々まで影響を持ったのは、鶴見俊輔をだましたことです。当時、鶴見俊輔は大学を退職して、具体的な金額は知りませんが、退職金が入ったので、彼らはそれに目をつけたんです。鶴見俊輔は当時、心情的に全学連に加担していました。そこにうまいこと取り入って、借りるということで五〇万円くらいらしいんですが、だまし取ったんです。 当時の五〇万円というと、いまの感覚だと五〇〇万円ぐらいの感じですよ。名目は借金ですが、返すつもりは毛頭ないわけです。私はそうした動きからは完全にはずされていた。林に言ったら反対するし、ぶち壊すだろうからということで、彼らが勝手にやったわけなんです。それでずっと後までこのことを知りませんでした。 それで鶴見俊輔が怒って、「全学連の連中はけしからん」というようなことをどこかで言って、別に私のほうから「私は加担していません」と一々弁解することもないので黙っていましたから、私のことも同じ穴のむじなだと、いまでも思っているだろうと思いますが、実は全然違うんです。 じつは私も小さな被害者で、私が逮捕されたときに、高校のある後輩が、わざわざ書記局を訪ねてきて、私にとかなりの金額をカンパとして預けたんですが、それは誰かが着服して私の手には戻らなかったんです。その事実はずっと後になって知りました。 これはちょっと余談でしたが、運動の最終段階に至って、我々は完全に分裂していたということです。分裂と言っても、私のようなものは数から言ったら圧倒的に少数派なんです。しかし、指導部の中では少なかったのですが、一般の活動家は私のような真面目派のほうが多かったんです。そういうことを手段を選ばずやっていいなんていう人は、むしろ運動の中に入ってきません。小浜 ブントが中核派と革マル派に分裂したのはそのころですか。林 そうです。手段を選ばずというか、暴力化した連中が中核と革マルとして残ったんです。小浜 政治には汚いことはつきものだというような、一種の合理化の論理によって……。林 暴力的なことをやっても構わないということになって、そこで一つのたががはずれたというか、チェックポイントがなくなったんですね。 我々が大衆運動をやっていたときには、暴力は振るわないということが絶対的な基準だったんです。そういう歯止めをかけていたのですが、それが崩れてしまった。我々はそこでもうこの運動はだめだということで見切りをつけました。そして、見切りをつけなかった人たちが中核と革マルになったということだと思います。
2011年02月10日
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http://bundpro2.fc2web.com/Sehen/sub6.htm森田実『戦後左翼の秘密』潮文社、1980年、pp.281-284より 六○年安保から一、二年後のことです。唐牛健太郎が当時の右翼の大物といわれていた田中清玄の世話になり、安保闘争で資金援助を受けたことを、TBSがセンセーショナルに放送したのです。この放送の中で、私の談話が有力な資料として使われました。この原因の一つは私の軽率さにありました。迷惑をかけた人たちには申し訳ないことをしました。この経過を話しましょう。 六○年安保から一、二年後のある日、古くからの知人の共同通信社の記者から電話があり「同僚の村岡記者に会ってくれ」というのです。電話してきた記者は東大の一年先輩で大学時代からの知り合いでした。こんな関係でしたから、私はまさかワナが仕掛けられているとは思わなかったのです。 しばらくして村岡記者が訪ねてきました。季節は冬でした。家族がお客をコタツのある居間に招き入れました。この時私は別の部屋にいて、村岡記者が部屋に入った頃を見計らって居間に行きますと、もう一人女性記者がいます。村岡記者は「仲間です。一緒にきました」というだけで、ちゃんと紹介しません。女性記者も軽く会釈するだけで名乗りません。 こんな時、普通なら警戒するのですが、その時、生まれて間もない長男を抱いていましたので、あまり気にもとめなかったのです。あとで、この記者が吉永記者だと知りました。 私は村岡記者の質問に答えて、かなり気楽に答えていました。一時間ほどのインタビューが終わって、二人の記者が帰るとき、コタツの中からテープレコーダーが出されました。うかつなことに、私はこの時まで自分の談話が録音されていることに気付かなかったのです。それでも、私は相手がTBSの放送記者であることを知りません。念のため一言、「記事にする時は、もう一度私の承認を得てほしい」といいました。相手はうなずきました。 しばらくして「ゆがんだ青春」がTBSラジオで放送され、大反響が起きました。新聞や雑誌が、これを次々に記事にし、六○年安保闘争の裏側でひどい腐敗が起きていたというイメージづくりが行われました。共産党は鬼の首でもとったように「森田は腐敗分子だ」と書いていました。いつのまにか、私が田中清玄から金をもらったように書く新聞・雑誌まででてきました。私のところには、あらゆる方面から抗議の電話や手紙が来ました。 その中でとくに印象に残っているのは、執拗な脅迫電話です。関西弁で「オレは関西のヤクザだが、オマエは許しておけない。必ずヤッツケてやるから、身辺を気をつけろ」と繰り返し電話をかけてくるのです。(中略) ある日の昼頃「これからオマエの家に行く。首を洗って待ってな」という電話がありました。いつもの通りの脅迫電話かと思っていると、三、四時間ほど経って「今東京へ着いた。これからオマエをバラしにゆく」という電話です。私は、この電話を受けた時、これはひょっとすると来るかもしれないな、という気がしてきました。 私には脅迫の主が、ほぼわかっていました。いくら関西弁でごまかしても声の質はかくせません。私の村岡記者への談話によって最も傷ついた人間--唐牛健太郎と彼の仲間--であることは、ほぼわかっていました。(中略) その日、脅迫者が来るのを私は待っていました。だが、午前一時になってもきません。二時になってもきません。もう来ないのかと思った時です。門につけたベルがけたたましく鳴り出しました。十分、二十分と鳴りつづけます。(中略) 私は一度は結着をつけなければならないと考え、門をあけようとすると、女房がヤクザはドスをもっていると大変だからといって、警察に電話しようとしています。やっとのことでこれを止め、その代わりに防御用にゴルフクラブをもって出ることにし、門の内側で、何回か振り下ろす練習をしてから門のカギをあけました。その時です。脅迫者が逃げ出す足音がきこえました。私が門の内側でゴルフクラブを振り下ろす練習を見ていたのでしょう。足音は二、三人のものでした。 脅迫者は、近くの道の角から私の方をうかがっていたようでした。私は門の前に立って、二十分ほど、ゴルフクラブでデモンストレーションをしつづけました。 脅迫電話はこれを契機になくなりましたが、ここには、新左翼の頽廃した姿が示されていると思います。つまり暴力主義です。尚、最近、酒の席で島自身からきいたことですが、この中には島成郎もいたということでした。http://hanako61.at.webry.info/201004/article_10.html村岡記者というのが この本に出てくる 村岡博人記者のこと彼が 全学連が かなり荒っぽく動くので 疑問に思っていたところ警察筋が あいつらがどこから金を引いていたか 調べると面白いぜと指摘を受けて 当時 はぶられていた面もある 森田実に聞き込みに言ったというのが この背景にあります前回のエントリーで 西部が 知らない知らないを連発していますが嘘つけということでしょうなブント系のおじいちゃんたちの回想は 嘘ばっかですな
2011年02月10日
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僕は随分遅れて ある新聞社の 産経新聞社ですが 秘密の議事録を見せられたことがあるのです おそらく1980年代だったと思うそれは1958年から60年にかけての話で 財界の大立て者たち 桜田武 水野成夫 永野重雄 小林中といった財界四天王と言われていた人たちが 産経新聞に陣取って 60年に共産主義革命が起こる恐れがあるということで頻繁に会っているのですその議事録の中で 僕の覚えている限りでは 田中清玄さんの名前が 二回か三回 出てきました 百万円ぐらいだったと思いますが百万円渡しておいたという記述が議事録にありました 百万円といえば いまの価値で一千万くらいでしょうか それは全学連対策です 僕が田中清玄さんと会ったのは 随分後の事です 当時は会っていなかったし 知りませんでした 全学連に金が少々ながれたということも知りませんでした 全学連であの時 金を扱っていたのは あとあと僕の親友の一人になる 早稲田二文の東原吉伸でした日米安保50年 西部邁 宮崎正弘 海竜社より編注 西部には言い訳もいろいろあるみたいですが 清玄が 財界のダミー役をやっていた点に注目
2011年02月10日
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http://library.main.jp/index/jst09415.htm書籍名 樺山丑二-職人貴族著者名 樺山事務所 発行著者紹介 発行社 みづほ出版総頁数 226定価・頒価 非売品発行日 平成03年08月 日 1991判サイズ(mm×mm) 209 148貸出料金 480円 序に代えて(樺山典和)1.葬儀・告別式 喪主挨拶(樺山典和) The Message of Condolence(Jack F. Loughran) 弔辞(山田忠義) 弔辞(小池義郎)2.一年祭当日の追憶談 ごあいさつ(樺山典和) 追憶談 (山下三郎・高橋是彰・Jack F. Loughran・飯野匡・大川基子)3.友人方の追憶記 プリンストンの樺山丑二さん(寺島宗従) 樺山丑二さんを偲ぶ(堀江薫雄) 樺山さんのこと(盛田昭夫) 日米金融市場のキイ・マン(川島章司) 丑二小父様を偲ぶ(青木徹雄) 別離(岩崎寛彌) 樺山さんを偲ぶ(石坂信雄) 樺山小父上(相馬和胤) おじさまの思い出(中島世惠子) 丑二様を偲んで(岩田幸子) 樺山先生を偲ぶ(渡辺茂) 尽きぬ思い出(伊藤好美)4.親族・近親者の追憶記 丑二さんを偲ぶ(望月百合子) 樺山の伯父の子と(白洲兼正) 義父の子と(樺山有多子) おやじの持つ三つの力(樺山紀次) アメリカでの父との思い出(若村竹子) 黙って愛してくれた父(松子・ダッフィー)(チャールズ・ダッフィー) 自然のうちに教えて下さった祖父(的場佳代子) My Dinnwe with a Debonaire Dandy(樺山資正) 本当に優しかった義父(樺山澄子) おじいちゃまの思い出(望月実加) おじいちゃまの思い出(樺山園子) おじいちゃまの思い出(樺山陽子) 丑二旦那様のこと(野口寿子) おちゃめな旦那様(田中郁子) 若旦那様(佐島直三郎)5.アメリカの友人の追憶記 (Morris“Kutch"Mayers)(Tony M. O'Connor) (Robert F. Seebeck)(Robert J. Whnn)6.アメリカの友人より弔電 (Morris A. Mayers)(Adolph W Schmidt) (Mr.& Mrs. James F. Pitcairn)(Curtis W. Tarr) (M. B. Willamson)(George F. Schmucki) (John T. Olds)(John F. Loughren) (Courtenay Haight)(Donald R. Marsh) (Robert J. Wynn)(Edward F. Moller) (A. Richard Janiak)(Anthony M. O'Connor) (J. Perry Ruddick)「週刊新潮」より 人物履歴外人さんは 今回はパスで ネットでわかる人物をリストアップしてみました 白洲伝説では見えにくい ジローさんの姿も少しみえてくるような人脈です高橋是彰http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/T/takahashi_krk.html飯野匡三井銀行副社長寺島宗従http://www.uraken.net/rekishi/reki-tokugawa17.html終連時代の吉田茂の秘書官堀江薫雄http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%80%E6%B1%9F%E8%96%AB%E9%9B%84東京銀行の頭取川島章司http://homepage3.nifty.com/hougyokudou/newpage59.htm国際証券の初代社長は野村の専務から野村投信にいった川島章司社長が社長となり地盤は固まったとは言え、盛田昭夫 石坂信雄http://www.asyura2.com/0403/bd35/msg/1239.htmlグルー大使も モルガンに縁のある件に注意岩崎寛彌http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E5%B4%8E%E5%AF%9B%E5%BC%A5三菱の大物相馬和胤http://www.kashiwadai.co.jp/about/岩田幸子http://www.47news.jp/CN/200205/CN2002051501000254.html岩田幸子さん死去 岩田 幸子さん(いわた・ゆきこ=作家・故獅子文六氏の妻)14日死去、90歳。東京都出身。自宅は東京都港区赤坂8の11の4。葬儀・告別式は19日午前10時から渋谷区西原2の42の1、代々幡斎場で。喪主は長男敦夫(あつお)氏。白洲兼正甥というよりは 東宝グループの後輩としてではないか白洲家や 姉の近藤家からの参加がみえないのが面白い望月百合子http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%8B%E6%9C%AC%E5%9C%AD%E4%B8%89%E9%83%8Eこの人のお父さんが この人 橋本圭三郎という 戦前の石油業界のドンです
2011年02月06日
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樺山丑二は 米国プリンストン大学を卒業し 英国オックスフォード大学 ニューヨーク社債学大学院を経て 新聞聯合 日本電気国際外債シンジケート 文化教育映画部長 宝来石油の取締役を歴任して 昭和十七年ごろは 国際文化振興会 同盟通信社参事 外務省情報部属託を勤めた華族総覧 千田稔 講談社現代新書情報通信 石油 金融と わりとジローさんと重なる部門での役職を勤めているのに 注目
2011年02月02日
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