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島田氏の話すところをよく聞くと ある若い右翼の男が東京からやってきたのはいいが 思想的な宣伝をするわけではなく 上海駐留の海軍上層部にとりいって さかんに利権漁りをやっているというのである右翼人といっても私が現実につき合い 人物に彫れていた鈴木氏みたいな人ばかりではないらしいのだ 島田氏は憤慨に耐えないような表情で その右翼人がすでに揚子江上流地域の米を一手に扱う利権を手に入れ 着々と莫大な利益を得ていることを私の耳元でささやいたのである妖怪の系譜 小林春男 人間の科学社
2011年06月30日
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http://plaza.rakuten.co.jp/junksai/diary/200912260001/当時 日本軍は戦線拡大によって補給路が伸びきっていた 補給困難の欠陥を補うために 日本軍は占領地での物資の現地調達を方針として 侵略戦争の継続を辛うじて支えていた たとえば上海では 金売買の取締り 食糧の配給 石油 石炭などの統制 綿布の強制買い上げなどといった戦時統制策がとられていた しかし太平洋戦争の勃発によって 日本の資源欠乏にはいっそう拍車がかかり ほとんどパニック状態に陥っていた 当時の日本軍にとって 中国奥地に算する亜鉛 錫 アンチモニー 木材などの豊富な資源が垂涎の的であったことはもちろんである 一方 重慶側では 奥地の綿花生産高が低いため 軍隊内でも 一般の市民生活でも綿布や衣類の不足が大きな悩みで 諸物価中 綿布の値上がりが最もはなはだしいものになっていた 海外からの 場合によっては 日本軍占領地区からでもよかったが ともかく綿布や医薬品 金属製品などの入手が当面の急務であった しかも それにはいくらでも巨利がみこまれた 上海の顔役たちより 徳間書店物価の高い方へ 高い方へと物資は流動して行くものである 物価は日本がもっとも安く 満州 華北 華中という順に高くなって 重慶は最も物価が高いといわれていた 援將ルートは誰が作ったものでもない 強いていえば 日本自身が愚劣極まる 低物価政策を強行して わざわざ適方へ物資をおくりとどけたようなものである大陸に渡った円の興亡 多田井喜生著 東洋経済竹森久朝の見えざる政府では タングステンのほかにダイヤモンドなどの宝石 貴金属 米麦 ミカンまで扱っている 森川哲郎の日本の黒幕は 児玉が 現金でなく綿布糸でくれというと 海軍は膨大な数量の綿布糸をはこんできて 児玉に与えた これを児玉は 公定価格の十数倍の値で売りさばいた その金で 中国大陸の至るところから 膨大な量のダイヤモンド プラチナ 金属資材などを買い集めたと書いている
2011年06月23日
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ロッキード事件以降 いくつかの文書が明らかになった 77年1月26日の毎日新聞はA級戦犯容疑者 児玉誉士夫に関する報告書の内容を伝えている それによると 児玉は米軍フランク オニールの取り調べに対し 次のように答えている児玉機関の資産として終戦当時 六千万円を超える利益があったそのカネは東京の三菱銀行麹町支店に預金していた児玉は敗戦直後 この預金を全部引き出し 現金でもっていた二千万円は自分で取り 残りの四千万は児玉機関副機関長の吉田彦太郎に渡した吉田も取り調べを受けているが かれの話は児玉の供述とは大部違う吉田は現金は半分ずつ分け 自分の分け前は二千万円だった カネは新橋の住友銀行に預金したが 凍結されたと 述べている立石勝規著 児玉誉士夫のダイヤモンド 徳間書店http://blog.livedoor.jp/k_guncontrol/archives/51315840.html これが欠損するばかりで、終戰前までになくなるはずのものが、あまり 早く戰爭が終つたから金が残つた。残つた金を海軍にもつていきましたら、 これはお前らの金で海軍の金ではない、お前たちにはまことに相済まぬと いうことで、海軍からまた金を十万円かお礼としてもらつた。そのときに 大体四千万円くらいの金が(児玉機関に)あつたと思います。(略) ○武藤委員長 それはあなた方が自由処分した金ではないのですか。 ○吉田証人 ある程度処分しましたときに兒玉が戰犯関係になつて、戰犯 関係の特定財産ということで自由にならないようになりました。 ○武藤委員長 どのくらい処分したのですか。 ○吉田証人 結局建物になつて残つたり、鉱山の設備になつて残つたりして おりまして、そういう不動産は今でも大分残つておりますが、金の方は ほとんど残つておらぬのであります。38年前の貸しを返してもらおうということじゃ 終戦直後 私(岩田幸雄)は当時の日本円で五百万円という大金を赤坂の住友銀行に預けておいた ところが私は上海で死亡したというデマが流れて 先に帰っていた児玉や 高源重吉 吉田彦太郎などがその金を使い果たしてしもうた岩川隆 日本の地下人脈
2011年06月23日
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http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/ContentViewServlet?METAID=10015258&TYPE=HTML_FILE&POS=1&LANG=JA支那事変の勃発以来日本政府は死力を尽して、物価の安定に努力し来った、殊に客年十月商工省が「臨時輸出入品措置法」を施行するに及び、日本政府の物価対策の動向が略々判然するに至ったのであるが、我満洲帝国に於いても日満一体の理念より、これに呼応し「暴利取締令」貿易統制法の改正等続々時局立法が制定せられ、最近に至り物価の統制は倍々強度化し、或種の商品に在りては、既に配給管理制度にまで推し進められつつあるは周知の如くである 如斯従来、専ら自由競争の基礎の上に放置されたる物価に対し、遽に統制ある一定の拘束が加えられるのであるから、其の過程に於てフリクションの起ることは、或る程度已むを得ない次第である、殊に日本の如く、満洲もそうであるが、遠く価格形成の源に溯って物価形成過程そのものに干渉するのではなく、既に出来上って仕舞った結果に対して、国家が干渉を加える現状においては、一層の矛盾と摩擦とが惹き起され勝であって、このフリクションを調整し、物価対策をスムーズに措置せんがなるに伴れ莫大なる取引高となり奉天を中心に綿系布のみにてもその取引尻が無慮一千五百万円を超えると見られて居るが、その他安東における人絹、大連及び哈爾浜における麻袋、全国的に亘るセメント、鉄鋼及び金塊に至るまで有りと凡ゆる重要商品が、這種の仕法により暗取引されて居るのとは驚くべき事実である 而して斯くの如き経紀人を媒介として為す清算取引は、去る大正八、九年の交、欧洲大戦の好影響を享け日本の財界好調に達するや大阪を中心として市内の綿系布業者間、直接解合又は間接解合なる取引の名目の下に為されたことがあり、又独り商品に限らず株式にもこれを応用し、兜町においてしかも天下の東株の向うを張って彼の大正天一坊が東京現株取引株式会社を創設株の清算取引を始めたことは今尚世人の記憶に新なることであろう。この種の事実に対し当時大番院は次の如く判決を下している 「仍て按ずるに各人が自由の意思を以て商品の売買を為し転売買戻其の他の方法に依り相互の関係を定むとも其の取引にして個別的に行わるる限りは何等取引所法違反の行為を構成することなきは勿論なりと雖も若し茲に此等私人間の売買取引を媒介する中心人物ありて多数の人に対し商品相場の報告其の他売買取引の締結に必要なる便宜を与え因て以て其の商品の売方と買方とを接合せしめ其の間に於て同種の定期売買取引を成立せしめたる上斯くして成立したる売買取引に付転売又は買戻を為して取引者間に相殺勘定の基礎を作り履行期に至り一面において最初の権利者若は義務者と最終の義務者若は権利者との間において商品の授受を為し又は解合その他の方法に依りその取引を終了すると同時に他面において転売又は買戻を為したる当事者が各売買代金の差額を授受して損益の計算を為すべき場合においては取引結了の方法が初めより一定すると、後日関係者の協議に依ってこれを定むるとに論なく又取引者が転売又は買戻に依りて最初の売買関係より離退すると否とを問わず、苟くもこれ等一切の取引行為が媒介者を中心として慣習又は契約に因り組織的に行わるるにおいてはその取引は取引所の定期取引に類似する取引なりと謂うべく、その媒介者が組織的に商品の売買取引を成立せしめ之を結了せしむる任務を処理すべき場所の存する以上はその場所の一個たると数個たるとに論なく之を包括的に観察して取引所法第二十六条に所謂市場に該当するものと謂うべし」 右の判例は、従来取引所内に行われおりしところの清算決済法の外に、これに類似する取引内容にも前掲の輪環性決済法なるものが包含する点を指摘し、この方法により、決済せらるべき条件の下に置かれたる一団の売買取引は大量の差金取引を迅速且つ簡易になし得る取引所内の取引とに対比し、その経済的実際機能わおいて殆ど何等の径庭なきことを言明し、取引所法の取締がこれを別個なる市場として取締の埒外に置くことの不可なるを説いたものとして見るべきであろう (下)四綿糸布を始めとし主要商品が奸商投機の対象となり、暗取引の方法により盛んに取引せられていることは以上に依り明かにしたが、金塊に就ては政府は産業統制法や産金買上法、集買人規則等種々の八釜しい規程を設け産金及金塊の集中を図って居るにも拘らず、中銀発表の買上数量を見ても余り芳しくない実績を示しているから、ことの真相を紹介して関係方面の注意を喚起したい 東洋に於ける金塊市場は事変前の上海を推さねばならない、満洲日鮮は勿論、印度海峡植民地方面より東洋に出廻る金塊は一度は上海に御目見得するのである、それで本年五月徐州陥落前、金円対法幣相場は一〇二三元であった。当時満洲に於ける中銀の金塊買入相場は、一匁につき十四円であったが、上海では法幣十八円で取引されておったから、満洲より金の密輸出は種々なる手段と方法とに依り盛行されたのであるが、徐州陥落後は国民政府の信用失墜を反映し、法幣相場は大暴落を演じ、対金円相場は一四〇円を上廻るに至るや、法幣で建てられた金塊相場は、金円に換算すると十二円六十銭に相当した、抜け目のない商人は直に上海において金塊を買付けて、満洲国に密輸入し、大連、奉天を中心に売却して巨利を博した当時上海金塊の満洲国流入は巨大なる数量に達したと謂われて居るこの現象は中支における日本金円の氾濫、その他の事情に因る上海における金円の対英、対米為替のアクチャルレートの悪化により、まぼろしの如く消え失せたが、之に代えるに新戦法による利鞘稼ぎが登場するに至った、夫れは日本に在住する外人又は日本人の物持が預金、利息、信託、株式配当に対する所得税が引上らるるや、之を差引くと利廻り極めて芳しからず、之が放資口に喘いだ結果、案出したのが日本よりの金円の現送による一種の鞘稼ぎと謂うことである 之は決してオーソドリックス的な送金の方法ではなく、飽迄アブノーマルな遣り方で、其の現送したる金円を以て、在上海の外国銀行に持参して輸入ビルを買い取り之を以て日本国内に於いて、歓迎さるべき見込のある舶来品を輸入すると、外国銀行の対英米為替の金円レートは相当叩かれても、之に依り日本に輸入した舶来品が五割乃至十割の利を見ても、羽が生えて飛ぶように売れるから、投資としての利廻りは相当なもので、しかも其の手続も以上の如く文章で書くと極めて廻りくどいことになるが、実際は極めて簡単で為替管理法の裏をかく、最も巧緻なる最新式のゲリラ戦術で、之も時局に因る経済上のフリクションを狙ったものである 五私は最近取引所類似市場が、地下的に横行していることを剔抉して、一般の参考に資したいと思って、本稿を草する気になったのであるが、意外の方面まで手を拡げ冗漫に失したことを愧ついものである、以上によって明かなる如く最近の如く国家は戦時重要施設を次ぎ次ぎと実施することに因り、財界に種々なる形に於いて波紋を描き起すその都度、為政者の予期せざる間隙に乗じ不義の利を貧らんとする徒輩の多きことを歎かわしく思う、と同時に、人間より射倖心の発動を全くチェックせんとすることを考えるのも、余りに現実と掛け離れた議論であることを誨えらるるような気もするのである そこで、西洋に於る取引所発達の沿革を尋ねると、取引所は元来市井投機の跋扈の弊に悩みぬき之れを統制せんがため、投機の組織的仕法を考案し、これを取引所なる機関を介し行わしむるに至り、ここに取引所なるものが発達したこと、恰も私娼の取締に業を煮やし、公娼制度を制定したのとその軌を一にすると説いている、私はこの解説が経済上、取引所の必要性を強調する、理論的妥当性については、遽に左袒はしないが、世の一部の識者が言うが如く投機取引は取引所あるがために生ずる現象なりとし、投機取引より派生する弊害の全部を取引に嫁せんとする論者に対しては現下統制経済下に、投機取引が次第に抑制されて行く反面、既述の如く取引所市場類似の地下的私設取引所が最近到るところ横行する事象に対し如何に之を措置すべきや謙譲なる目で批判されんことを切望するものである(終り)
2011年06月21日
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http://teikokugikai-i.ndl.go.jp/cgi-bin/TEIKOKU/swt_list.cgi?SESSION=29299& ;SAVED_RID=2&MODE=1&DTOTAL=1&DMY=29358 ○赤尾(敏)委員 もう一つ御尋ねしますが、此の間新聞に發表になりましたが、 兒玉譽士夫と云ふ者が支那で三十三億の金を儲けたさうです、さうして三十億の 財産があるさうですが、大藏省の許可を得て運んだ金が一億圓とか發表されて居る、 どうして一體そんな若僧に何億萬と云ふ金が出來たのか、僕等は小遣にも困つて 居るのに、呆れ果ててしまつた (略) 海軍がやらしたから海軍の責任であるかも知れないが、大藏省の許可を得て一億以上 持つて來た、是は本人が發表したものだ、「マッカーサー」から召喚状が來てから發表 して居るのだから、嘘を言へば却て不利になると思ふのです、それが本當かどうか ○澁澤(敬三)國務大臣 私は其の新聞を讀みませぬでしたが、最近に於てさう云ふ ことがあつたことは全然ありませぬ、(略)ずつと今全部爲替管理をやつて居りますから、 さう云ふことはないと思ひます ○赤尾委員 それは重大なことです、どう云ふ譯で兒玉君だけに一億圓金を運ばしたか、 どう云ふ經緯で許したか、御調べを願ひたい(略)http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/024/0284/02404100284027c.html 私の大蔵大臣への質問はこの程度にしておきまして、次に鮮銀の連銀に対する預金債務の資料について、ちょっと事務当局にお尋ねいたします。 私は北支における軍費の支払い状況と連銀との関係についての実際のことは何にも存じませんが、しかしここに言いてある事項は、どうも合点のいかぬことが多いので、一応事実関係をお尋ねいたしますが、北支における日本の軍費の支払いというものは、どういう形で行われたのであろうか、日本政府が送金する軍費を出す場合に、それはどういう形で送金され、その金はどういう方法で出されたのか、単に軍票のみでやられたのか、あるいは連銀券等によってやられたのか、その点の事実をお尋ねいたします。○岩動説明員 御説明申し上げます。北支地区におきます軍費の調達は、資料にも概略説明を申し上げているのですが、まず第一に、所要の軍費の額がきまりますと、その金をまず朝鮮銀行が中国連合準偏銀行から借り入れをいたすことになっております。つまり北支地区におきましては、軍票の発行はいたしませんで、中国連合準備銀行券をもってすべての支払いが行われております。従いまして、北支地区におきます軍費は、すべて連銀券をもって調達され、それによって支払いが行われております。そのような状況におきまして、かりに百億の軍費が必要であるという場合には、百億の中国連合準備銀行券を朝鮮銀行が借り入れをいたします。その次に鮮銀は、この借り入れた連銀券を外資金庫にさらに預け入れをする、つまり預金をいたすわけでございます。その結果、外資金庫が取得いたしました連銀の預金を、さらに政府に納入する、外資金庫は政府に対して預け入れをするのではなくて、政府に納入をするということになっております。その結果政府は、百億円の連合準備銀行券を取得いたしまして、政府の所要資金として軍費等の支払いに充てる、こういう方法をとっておったのであります。○石村委員 そうすると、結局は朝鮮銀行の借入金で現われてくるということになるわけですね。○岩動説明員 最初の段階におきましては、朝鮮銀行は中国連合準備銀行から借り入れをする、つまり連合準備銀行券百億円を調達するために、それと見合いの円の債務を負う、こういう格好になっておるわけであります。しかしこの場合に、朝鮮銀行はあくまでも中間の調達機関として、通り抜けの勘定でやっております。最終的には外資金庫から政府に納入され、政府がこれを処理するという格好のものになると思います。○石村委員 通り抜けにしても、その金額は朝鮮銀行の借入金という形で現われてくるということですか。○岩動説明員 さようでございます。○石村委員 そしてその借入金は、結局終戦によって、この資料に書いてあるように金を渡して処理した、朝鮮銀行の借入金は、この金の売却によって教理がついた、こういう意味なのですか。○岩動説明員 最終的な決済は、ここにも概略書いてございますが、まず第一に、政府の所有しておりました金塊を正金銀行に当時の安い価格でこれを払い下げいたしまして、その結果、正金銀行は安い金塊を取得いたしますが、これを北支における時価で連銀に売ったわけであります。従いまして連銀は、その金塊の代金を正金に対して負うわけでありますが、その決済は、中国連合準備銀行が朝鮮銀行に対して持っております、先ほど例にちょっと引きましたが、かりに百億円といたしますと、その百億円の朝鮮銀行に対する、預金債権をもって弁済をする、つまり正金銀行は、連銀から朝鮮銀行に対する預金債権を取得するという格好で金の決済をいたしたわけであります。その段階において、朝鮮銀行は全く連銀に対する預金債権というものが消えてしまうということになっておったわけであります。○石村委員 どうも頭を冷してよくこの資料を読み、御説明を考えてみないとわからないのですが、朝鮮銀行は初め連銀から金を借りるときに、その借りる金というものは軍費に充てる金である、従って朝鮮銀行に対して、日本政府が借りる場合に、朝鮮銀行に対する送金の形をとっておったのではないのであろうか、こう判断するわけなんですが、いかがですか。○岩動説明員 これはそのような手続等は一切とらないで、ただいま申しましたように、現地において所要の資金を調達するということになっておったわけであります。それが朝鮮の地域におきまする、かりに臨時軍事費を必要とするというような場合におきましては、日本銀行券をまず鮮銀に払い込む、その結果鮮銀は、朝鮮においてそれに見合う鮮銀券を発行するという格好で、一種の送金に似たような操作はいたしておりましたが、北支におきましては全然そのような、送金をするというような方法での資金調達はいたしておらなかったわけであります。○石村委員 朝鮮銀行を通じての送金ということは、北支においては行わなかったというお話ですが、そうすると、朝鮮銀行の国内の公債なんかがたくさんできたのは、今まで為替関係、軍費の支払い関係だ、こういうことだったのですが、朝鮮銀行に送金を依頼した、そうして朝鮮銀行は国内に為替じりの莫大な金が出てきたというのは、朝鮮における軍費というものを送金さしたのですか。○岩動説明員 朝鮮銀行に、国会にこれだけの資産ができた原因は、かねて管財局長から御説明申し上げているように、やはり軍費の送金関係がその主要な原因になっております。これは、北支地区におきますものではなくて、朝鮮、関東州、この両地域に対する臨時軍事費等の送金の結果がここに生まれてきておるというふうに御承知いただきたいと思います。正直いくら読んでも さっぱり不明なんですが 当時 儲備銀行の副顧問として 上海にいた日本銀行の大久保太三郎氏によると 終戦時にはこれの清算のために日本から 金塊がもちだされて十日の夕刻でしたが 儲備券債務の処理について東京から大使館に指示があり 十四日でしたが 正金手持ちの金でもって儲備銀行との預け合い借勘定を一旦決済したんですが その当時の時価で評価したもんですから あの膨大な儲備券借り入れが完済されて なおおつりがきました 大陸に渡った円の興亡 多田井喜生 東洋経済さておつりがどこにいったのか
2011年06月18日
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http://blog.livedoor.jp/k_guncontrol/archives/51159700.htmlここの関係から 川越丈雄という人という人をピックアップしてみると川越丈雄という人物がおりまして、この人は皆さん御存じだと思いますが、かつては大蔵政務次官であって、平和相互銀行の会長であった人だ。この人が中央観光株式会社の――これは銀行局長御存じないと思いますけれども、裏話を申し上げます、裏話だけれども事実でありますから。そこで平和相互銀行の会長であった人で、かつて大蔵政務次官であって昨年なくなりました川越さんは、その関係で、中央観光株式会社の役員であった関係上、平和相互銀行との取引が持たれたと、そこで平和相互銀行も、その他の銀行もだんだん手控えるようになったときに東海銀行が乗り出してきたという裏にはこういうお話がございます。これは銀行局長の答弁は答弁として了承いたしますけれども、あなたの答弁の中でも、やっぱり前半のほうはちょっと行き過ぎのような言い方ではありませんけれども、少し金融常識上ちょっと異例のような融資の姿勢、そういうニュアンスは含んでの御答弁のように私は感じましたので申し上げますが、その間の事情は重要です。いま申し上げたように川越丈雄さんがいて、中央観光の役員で、そこである有力閣僚、名前はっきり申し上げます。これは中央観光の社長自身も言明していることだし、それから当時の中央観光の経理部長の滝川さんという人も御存じだし、従業員も知っているし、それから世間に知っている人が非常に多いので申し上げます。これは増田甲子七防衛庁長官が東海銀行に対するあっせんの労をとったということであります。私は、その川越さんという人がかつて上司であって、個人としての義理上政治家として東海銀行にあっせんをするということについては別に悪いこととは思っておりません。そういうことを云々したくはございません。ただ言えることは、政治家というものは一私企業に対してそこまでのあっせんの労をとるべきかどうかということは、政治姿勢としては問題ではあろうと思います。だけれども、川越さんに対する義理として東海のほうにあっせんの労を若干とったということについては、私は大目に見てもいいだろうと思うんです。大目に見ると言ったって、私はどうかわかりませんが、世間の人はどう解釈するかわかりませんが、そう思います。そこで、そういうことでなくて問題は、官房副長官ひとつお聞きいただきたいと思うんですが、こういうことなんですね、この方の経歴を wikiからもってくると 下記の通りhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E8%B6%8A%E4%B8%88%E9%9B%84川越 丈雄(かわごえ たけお、1884年11月1日 - 1966年3月11日[1])は、日本の大蔵官僚、銀行家。大蔵次官、法制局長官。[編集] 経歴鹿児島県出身。川越武助の長男として生まれる。加治木中学、第一高等学校を経て、1910年10月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年11月、文官高等試験に合格し大蔵省に入省。専売局書記兼大蔵属・専売局長官官房兼理財局勤務となる。1918年6月、大蔵省主計官・主計局予算決算課に配属され、以後、大蔵書記官、主計局司計課長、同決算課長、同予算決算課長、預金部長などを歴任。1934年5月、銀行局長に就任。対満事務局次長を経て、1936年3月、大蔵次官となる。1937年2月、林内閣の法制局長官となり同年6月まで在任した。1938年1月、大蔵省から中華民国の財政経済の状況調査を委嘱された。退官後、庶民金庫理事長、東北興業会社(現:三菱マテリアル)総裁を歴任。戦後、1946年9月から1951年8月まで公職追放となった。さらに、日本殖産(株)会長、平和殖産無尽(株)会長、平和相互銀行社長、同会長を歴任した今でいうなら 新橋の金融屋に 大蔵次官が会長でくるような感じですかね 誰が 仲介したのか 興味深いです
2011年06月16日
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http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/ContentViewServlet?METAID=00873432&TYPE=HTML_FILE&POS=1&LANG=JA新聞記事文庫 45(132-10584)大阪時事新報 1934.12.7(昭和9)鋼材輸入の脱税問題長銭短銭十二月や正月の結婚月を当て込んで毎年宝石類がよく売れるが、昨今は例のモンゴリアンとかモントゴメリアンとかの金剛石が新聞紙上でやかましく騒がれたのでトンとダイヤモンドの売れ行きが悪い。医者を見れば偽では無いかと心配せねばならぬ事件のあった直後丈けに金剛石を見ると密輸品では無いかとの懸念が祟っているものらしい。 而しながら茲にミル流に云うとダイヤとは、全く其の交換価値は非常な懸隔はあるが、非常時の時節柄になくてはならぬもの即ち使用価値一〇〇%の鋼材密輸問題が起って来た。勿論一部ではデマだと否定しているが、また否定出来ぬようでもある。 何んでもデマ□と云う人達の意見を綜合して見ると的確な証拠がないとのことからである。勿論税関においても目下いろいろと調査を進めているが、真実であろうと思えぬ節がないでもない。勿論これは推定であるが、至極常識的なものであるから或いは真実かも知れぬ。その理由は沢山あるが大体次のような諸点から推定出来る。 (一)新鋼材と古鉄屑鉄の輸入税とがあまりに懸隔しすぎていること、前者は二十余円にして後者は大体平均四円内外(二)日鉄の輸入統制に対して(高関税で)内心不満の意を懐いている向が多いこと(三)カストム・ブローカーの跳梁(四)某大物産会社が某商店をして輸入させた鋼材を部分的に毀損させて屑鉄並みにしたとの噂(五)昨今の鋼材暴騰が密輸乃至は脱税を睹に促進させる心理的閃きを起させること(六)鋼材関税引上げに全般的な反対気運が濃厚であること等々である。 「税は正直物に課す」と云った先人の言を繰り返す訳では無いが、時節柄どうも怪しい気がしてならぬ。鋼、鉄、銅、錫、鉛等の可溶性鉱物はこれまでいろいろの手で脱税輸入がされた例があるから今次の鋼材脱税事件もドウかと思う点が多い結局こんな問題が起るのも保護しなくてもよい製鋼会社を保護するから保護洩れの商人が其の利益均霑に浴せんとする脱法行為で、経済問題では無くむしろ社会問題の域にまで突入している。(春秋子) http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/ContentViewServlet?METAID=00053271&TYPE=HTML_FILE&POS=1&LANG=JA新聞記事文庫 製鉄業(12-147)大阪毎日新聞 1934.12.4(昭和9)鉄鋼景気の余波某大貿易商密輸説鉄鋼景気の連鎖は内地における未曾有の増産と巨額の輸入増を招来しつつあるがこのほど某大貿易商が大阪に屑鉄を輸入の際その中に型鋼、鋼板約五千トンを忍ばせひそかに密輸入しその投売により市価の暴落を来しているとの説伝えられ鉄鋼界を驚駭せしめている これは屑鉄は現在無税であるが右鋼材にはトン二十五円の輸入税が課せられているのでその鋼材を巧みに屑鉄と見違い易き状態に切断して輸入したものといわれ 日鉄の保倉常務は目下大阪で事情を調査中である屑鉄を回収するだけでは 前回のエントリーの位置まで果たしていけたんだろうか
2011年06月12日
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http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00214637&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1新聞記事文庫 工業(09-025)台湾日日新報 1938.11.20(昭和13)資本金三千万円の台湾重工業計画中南支南洋より原鉱輸入 鉄鋼五十万瓲其他を製造広東攻略を契機として経済南進の拠点である台湾にその豊富なる電源を利して大工業を興し中南支南洋より原料を輸入加工して島内の自給自足は勿論進んで中南支南洋の広大な市場に販路を開かんとの計画は島内企業家中にもあり又内地の企業家も色々と計画を進め、農業台湾は今や工業台湾へ力強く躍進を始めた観があるが、既報の如くその一つとして東京の小宮山商店常務取締役小宮山英蔵氏が中南支仏印等より屑鉄、鉄及び非鉄金属鉱石を輸入、之を原料として製鉄、製鋼及び各種金属の精錬、之に付帯する加工等を包含する総合的重工業『台湾重工業株式会社』の創立を計画中である小宮山氏は同店の取締役で日本鉄屑統制株式会社の顧問弁護士岡野伊三雄氏を伴い過般来台島内各地を調査企業について関係各方面と折衝中であるが、この程定款、事業計画書も出来たので府商工課に提出諒解を求めつつある、仄聞するに同会社は資本金三千万円二分一払込本社を台北に置き工場は島内適宜の場所を選ぶか地理的関係上高雄が有力視されている、事業計画は左の如く四期に別れて居り十四年三月に建設に取掛り十七年五月完成の予定で完成の暁は年□五十万瓲の鉄鋼を初め各種金属を製造圧延鋼、合金、造船、副産物として硫安、タール、ベンゾール、硫酸等をも製造の予定であるこの当時 まだ二十代なので 社長は親父のようで 英蔵が常務のようです どこまで本気だったか たぶん経済封鎖と開戦でおじゃんになった噺だとおもいますが 戦前の小宮山英蔵という方はおもった以上の大物のようです
2011年06月12日
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http://www.yguppr.net/090802otome/090802otome_main.html乙女鉱山の歴史は、明治政府の水晶山開発推奨政策で盛んに採掘されるようになり、当初は水晶鉱山、その後重石(タングステン)、ガラスに加工する珪石(石英)を産出する鉱山として明治・大正・昭和の約110年間にわたり採掘された。十菱駿武教授の研究によると、太平洋戦争に入ってから敗戦後にかけて日本国土・中国・朝鮮のタングステン鉱山に執心した児玉誉士夫氏率いる児玉機関が鉱業権者になっていた時期もある。昭和34年の『鉱山名簿』には、倉沢鉱山、鉱種珪石、鉱業権者児玉誉士夫、鉱山労働者46人とある。その後乙女鉱山株式会社(塩山市千野)が経営にあたったが採掘量が減少し、最終期には鉱山長以下4・5人で操業、倒産により昭和56年に閉山された。
2011年06月09日
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http://blog.livedoor.jp/k_guncontrol/archives/51315840.html○武藤委員長 緑産業というのはどういう会社ですか。 ○吉田証人 それは戰爭中は日南鉱業株式会社と申しまして、タングステン とかモリブデンを採掘する会社です。それを終戰後はタングステン、モリブ デンの必要がないものですから、附帶事業を何かやらなければいかぬ、 あるいは製材とか何か(略)附帶事業の願書を出す時に緑産業という名儀に かえたのであります。(略)いや、これは(利益が出ず)全然だめでした。http://plaza.rakuten.co.jp/junksai/diary/201010250001/大蔵省を通じて中国から移入した一億余円の資金のうち七千五百万円は溝久、鐘打、水鉛、乙女、鮎川各鉱山の開発に投資した。残額二千五百万円は鉱山の跡始末と復員軍人救済育英事業その他に投出し現在手許にあるのは五百九十万円であるが、これを悉く労務者住宅、公衆食堂その他社会事業に投すhttp://ooinarien.web.fc2.com/inarix-site/sooba/speculator/51-106/index98.html 笹川良一が初めて相場を張ったのは、大阪府下、豊川村の村会議員当時だ。堂島の米相場師、「池梅」こと池田梅蔵の店でのことだった。笹川は、父鶴吉が残した3万円という多額の遺産を池梅に管理・運用してもらっていた。ある日、笹川は池梅に相場をやってみたいと申し出る。 だが、池梅は「あかん、あかん、いっぺんに裸にされてしまう。長年やっているわしだって損をしているくらいだから、絶対やったらいかん」とつれない。笹川が「いっぺんだけでええ。やらせてくれんか」と懇願するのには訳がある。池梅が相場でよく損をしていることを知っている笹川は、池梅の反対をやればもうかるはずだ、とひそかに確信していたのだ。山岡荘八が「破天荒 人間笹川良一」の中で書いている。 「池梅は商売人なのに、相場を張ってよく負けている。そこで笹川は『おっさん、あんた、今売っとるのか、買っとるのか、どっちや』と聞いて、『売っとるのや』と答えると、池梅の主人の逆をいって、“買い”に出るのだった。買うといえば売りに出て、池梅の逆、逆といった」 ある時、池梅から「アスオイデマツ」と電報が届く。笹川の建て玉が大もうけになったので手じまいをすすめられる。だが、笹川は応じない。笹川が売れば下がり、買えば上がる。「金なんて、こんなに簡単にもうかるもんかいな」。そう思うとなんだか、急に心の張りがなくなって、手を引いた。笹川は相場のもうけと父の遺産をつぎ込んで国粋大衆党の運動に没頭、相場界から遠のいていく。http://www.earthscience.jp/kaneuchi.html 鐘打鉱山の歴史は1930年(昭和5年)池田梅蔵によってタングステンの鉱業権を設定したことから始まる。4年後の1934年には藤野鉱業(株)が設立され、同社に鉱業権が移った。その後、藤野鉱業(株)は日南鉱業(株)、緑産業(株)と社名を変えた。第二次世界大戦中は採掘が盛んになり、月産30トンを産出する国内屈指のタングステン鉱山に成長した。タングステンは物理的に非常に高い強度をもっており、対戦車砲の砲弾や戦車の装甲板に使用された。それだけにこの鉱山は日本の国策に重要な地位を占めていた。 戦後一時採掘が中止されたが、1948年に再開された。1951年には鐘打鉱業(株)が設立され、一時はタングステンの国内生産の30%を占めるほどに発展した。1958年には日本鉱業(株)の経営になった。発展の影には鉱害問題も発生した。1949年ごろから鐘打鉱山から流れ出る鐘打川の水を使用している水田で稲の発育障害が現れた。鐘打鉱業は対策として沈殿槽を建設したが、1971年には稲や土壌からカドミウムが検出され、1978年から汚染土壌の入れ替えと土地整備が行われた。
2011年06月08日
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http://senmon.fateback.com/syamintou/suematsu_syougen03.htmlこういう例が面白いことには、社会党にもう一人いるんですよ。亡くなった伊藤卯四郎さん、この人は西尾末広氏と一緒に民社党を作った人です。いわゆる社会主義運動の労働組合の発祥地は八幡製鉄所なんでしすよ。製鉄所の労働組合なんですよ。浅原健三が始めてストやったでしょう。溶鉱炉の火は消えたりってね。あの浅原健三がね。3-7.九州政界と八幡製鉄浅原健三というのはもともと職工なんです。あの頃、八幡製鉄(現新日本製鐵)は官営でしょう。ですから全体的にのんびりしていて、昼休みになると卑猥な話ばっかりするんです。ところが面白いことに上の人の悪口をいうことは、軍隊でも同じやけど、話が合うわけだ。その中心が浅原やった。それがだんだんと広がってとうとうストライキをやった。八幡製鉄所はそれまで官営でのんびりしたところがあったわけだが、あのストライキで目がさめた。それで製鉄は守衛にちから入れたんです。コレが限定法なんです。つまり守衛、これに絶対的な権力を与えたんです。そして労働組合をちゃんと抑えたんです。守衛さんに就職を斡旋する権利を与えた。それでそのころからこの守衛さんが毎年の就職に力を持ち守衛が紹介するとだいたい人事課はOKなんです。そうすると、その人たちが選挙のとき「あの人いいよ」と言ったら100%聞くわけです。そういうふうで守衛に偉大な力を与えた。復員軍人、兵役を終えた将校だとか曹長だとか軍曹とか、海軍のいいとこなどが、帰ってくるでしょう。そうすると守衛になる。製鉄の守衛はみんな軍人上がり。だから非常に迫力あるわけ。抑えがきくわけです。これが何万の職工たちをグッと握った。そして製鉄は溶鉱炉に火を止めるなというちゃんとした管理法を作った。職工(労組)に入る人は、守衛さんやらその他の紹介者が入れる。東大出とか専門学校を出た人は中央で人事をきめるわけです。これは日本の企業でいちばん充実した労務管理だった。これを真似したのが大手の各企業です。そんなことで身許のはっきりした人が入りますね。ところがいつのまにか八幡製鉄の浅原健三に選挙の票が入るようになった。そこで浅原勢力に対抗するために亀井さんといって神奈川県から大学の先生をよんだわけだ。この人が民社党のはしりなんです。この人と浅原健三とはものが違うために格差をもって浅原が落ちて、亀井氏が当選した。そのときの一人の弟子が伊藤卯四郎さんだ。この伊藤さんは終戦後一貫して製鉄の、いわゆる左派を除いた票をガチッと握ってトップ当選をいつもやっていた人です。ところがこの伊藤さんの同じ選挙区の戸畑市に、明治鉱業の松本七郎さんという慶應出の大学教授がいた。この人は、世は猫も杓子も社会党の時代だから、戦後の最初のインテリとして社会党を希望したんです。この人が松本治一郎のところに、いちばんに行った。松本治一郎がヒョイと見たら、相手は松本七郎でしょう。「ははあ、こいつうまいこと社会党から出て、当選したら自民党に鞍替えする」と思って松本治一郎が断ったんですよ。だから七郎さんは、行き場がないから同じ選挙区の八幡の伊藤卯四郎さんのところに尋ねて行った。それが12月の暮。そのときにちょうど、たまたま伊藤さんがおられたんです。3-8.当選者を横取りするそして中央で西尾末広、片山哲。地元の伊藤さんの力で松本七郎さんの公認を取った。そしたら松本七郎は伊藤さんの次の得票で当選したんですよ。伊藤さんは製鉄の票と、それから炭鉱に強い票を持っていた。それと、酒屋のおやじとか、一般の商売人がいるでしょう。この人たちに伊藤さんは人気があったわけです。そういう個人的な人気と、それから製鉄、そういう方面と関連企業。そういったキチッとした基盤があるわけなのです。だからどんなものが隣にこようが、同じ選挙区でこようが、微動だもせんという見通しをつけておられた。同じ選挙区に、一方は小学校しか出てないけれども、労働組合で芯からたたき上げた真の労働者、働く者の味方、製鉄の方の指示をも受けているのが、左派の浅原健三。しかし浅原健三はもう落選して、今度はあとがまに青野武一、ところがこの青野武一先生が、初めて当選して・・・ちょうど私が松本治一郎に会った後ですよ。東京でタクシーの運転手を殴ったんですよ。それで青野はパー。「この野郎」ってポーンと殴った。それが新聞にでて次の選挙で落選したんです。その後、製鉄の票は減るけれども、他の票で当選できるということを伊藤さんがちゃんと計算に入れてたから、松本さんの公認を取ってあげたんです。そして当選したでしょう。そしたらこんどは松本治一郎が、同じ松本姓でしょう。これはいいわということで自分の側近に入れたんですよ。だからいつのまにか、松本七郎さんはこんどは伊藤卯四郎さんの敵になったわけです。同じ社会党だけどこっちは左派だから。左派の系統やから。こっちは右派の系統やから。ウマが合わないんだから。将来別れたけれど。そしてその後の票の戦いは、こんどは伊藤さんとの直接対決になったんです。それで伊藤さんの奥さんが言うんですよ。「まあ末安さん聞いてください。私は松本七郎が、先生一つお願いしますといってきましたから、私は寒い中、市場に肉を買いにいって、野菜と肉と豆腐をいっぱい買ってきて、そして鍋を囲んですきやきをしながら、初対面で、これからの社会党はあなたのような毛並みのいい、教養のあるといって、お互いに意気投合して一杯飲んだのは、うちのここですよ」と。その七郎が当選したら松本治一郎の子分になったというんですね。それで奥さんがムクれるんですよ。そして彼は国際局長までなったんです。だが、それから上がらない。弥之助とウマが合わない。年齢が同じぐらいだから。それであの人はとうとう社会党の中におって、継子扱いされて、選挙には8回か10回ぐらい当選したんじゃないですか。二期三期は非常によかったが、だんだん今度は弥之助とライバルになった。そして首脳部から外されましてね。それだからといっていまさら自民党から出馬するわけにもいかんし。私は末路のころ七郎さんと会いましてね。元気がなかったですね。顔色も悪くて。利用されるだけ利用されたんです。あの人は民社党のときに伊藤さんと一緒に出馬すればよかったんですが、松本治一郎が離さないんです。その時点までは側近だった。本来ならば伊藤さんが民社党を作られたときに一緒に民社党にいくべきなんです。そういったところで、七郎さんの人間性が失われたわけ。そしてとうとう末路哀れやったですね。松本治一郎からも捨てられ、弥之助あたりからも捨てられて。本来だったら順調にいったら書記長になる人なんですよ。委員長になる人なんです。それがとうとう中途半端で哀れな末路やったですね。この弥之助にうまーく利用されて追い出された。松本七郎、田英夫、みんな毛並みがいいし、一般のウケがいい。田さんは男爵ですからね。なんであの人が社会党から出なければならんのか、それは社会党のイメージをよくするためです。お坊ちゃんだから利用される。議会の楢崎は、爆弾男でしょう。そういう異名を取っている。だが、彼は心ではなく、頭からものを見ている。だから人は高く評価しているけれども、弥之助がいちばん困るのがこの論文ですよ。
2011年06月05日
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