わたしのこだわりブログ(仮)
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大人の社会科見学(国会議事堂)衆参の参観時間と見学について自由民権運動の父 板垣退助(いたがきたいすけ)国会議事堂の建設の歴史建設後に事情の変わった議会室参議院議会室の貴族席ハーグの議事堂見学歯のメンテナンスで都会に出たついでに、水産庁の食堂でランチして、国会議事堂の当日見学に申し込み、衆議院と参議院の両方の見学コースに乗って来ました。振り返れば、小学生の時に社会科見学で来て以来の国会議事堂。同じく国会見学に来ている子供らを見ながらの参加でした。※ 今回の撮影はスマホのみです。衆議院側からの国会議事堂今回参観に当たり、最初のアクセスは丸ノ内線の国会議事堂前駅から降車。見学者の為の参観口は議事堂の裏手にあたる。参議院の参観口は永田町駅の方が近い。衆議院コース月~金曜(祝日を除く) 8:00~17:00の原則として毎時30分((6:00まで受付)土・日曜、祝日 9:30、10:30、11:30、13:00、14:00、15:00の6回参議院コース月~金曜(土・日曜、祝日、年末年始を除く) 9:00~16:00の毎正時※ どちらも本会議の会期時間は見学できない。見学の所要時間は衆参ともに約60分弱。どちらも国会の警備にあたる衛視さんの案内で、定められたコースを回る。東京の観光にすすめているのでちょっと驚きました。ほぼ誰でもウェルカムで、外国人の通訳もいました。代表者が記名。入る時に荷物検査あり。解散は議事堂正面門。左側が衆議院なので、まわりには衆議院の議員貝会館が建ち並ぶ。逆に右側は参議院なので、参議院側には参議院の議員会館が立ち並ぶ。それら議事堂と地下で繋がっているらしい。参議院側からの国会議事堂参議院側(右翼)参議院玄関と噴水下は衆議院側の玄関と噴水衆議院側の方は噴水が可動していた。衆参同時に参観したので、比較すると解った事は、参議院参観の方は、待合ロビーに展示品が並んでいて、そこは撮影可能。国会の歴史なども紹介されていた。下、参議院の待合ロビー参観は30分単位で行われているので、この部屋に長くいても30分以下である。国会内のトイレの使用ができないので、こちらですませる。衆議院の方は、待合はなく、地下は巨大なホール状態。そこで、荷物検査も売ける事になるが、参議院の方は建物に入るゲートで荷物検査があった。※ 残念ながら、今回衆議院のコースと参議院のコース共にギリギリの滑り込みで入った為に、参観ロビーでゆっくりする事かできなかった。先にも触れたが、国会の警備にあたる衛視さんの案内で、定められたコースを回るので、指示通りにまわる事になる。(基本、館内の写真撮影は禁止。許可のある所のみ。)館内の説明などは、衆参共に随分違った。おそらく、衛視さん個人の趣味や知識などにも裏付けされているからなのだろう。見所も微妙に違った。衆参共に左右対称なので両院の違いはそんなに無い。唯一違うのは、参議院の議会室の方に貴族院時代の名残がある事だ。回る人数はそれぞれのようだが、人数が少ない時はエレベーターを利用。多い時は階段を上まで登る事になる。自由民権運動の父 板垣退助(いたがきたいすけ)ウィキメディアコモンズから借りて来ました民衆の意見が容れられる議会制政治を目指した板垣退助(1837年~1919年)。彼は国民による議会の開設をもとめて1874年(明治7年)自由民権運動をお越こす。彼の活動により1881年(明治14年)10年後に国会開設を約束する詔が発布されるにいたる。つまり、今の二院生の議会設立に大きく貢献した人なのである。※ 現在の国会議事堂の中央ホールには4つの台座があり、その一つに板垣退助の銅像が建っている。因みに後の2つの台座には、伊藤博文(1841年~1909年)、大隈重信(1838年~1922年)が建っている。しかし、一つの台座は何も乗っていない。諸説ある中で、これからの政治家の励みと言う説と、議会政治はまだ未完。と言う説が有力。上と下の写真は参議院のホームページから借りてきたものです。自分で撮影したかったです。本来中央広間が一番の見所だと思うのですが、残念ながら毎日の参観では下に降りれません。見えるバルコニーから下を眺めるだけなのです。残念国会議事堂の建設の歴史参議院のホームページ 「キッズのコーナー」から借りてきました。国会議事堂の建設は1881年(明治14年)詔が発せられてから機運が高まり1886年(明治19年)内閣に臨時建設局が設置される。最初の議事堂案は、ドイツ政府に委嘱して技師を日本に招いたり、逆にドイツに職人を留学させるなど始まったが、これは財政難で見送られてしまった。代わりに建設された第1次仮議事堂は1890年(明治23年)に行われた第1回衆議院議員選挙。そして開かれた「第1回帝国議会」に間に合わせて建設された。次に本格的議事堂建設が決まるのは、日露戦争後の1906年(明治39年)らしいが、これもまた政変で延期に。1918年(大正7年)になり、9月、新議事堂の意匠設計が一般公募される形でスタートする。※ 本議事堂ができるまでの仮り議事堂は第3次まである。参議院の見学ガイドのパンフレットより内幸町の現在の経済産業省敷地に第1次仮議事堂が建設。しかし火災で焼失し、同じ場所に第2次仮議事堂を建設。これも火災で焼失。第3次仮議事堂が、現在の国会議事堂が竣工する1936年(昭和11年)11月7日まで繋いだようだ。現在の国会議事堂は1920年(大正9年)1月30日に地鎮祭が行われ工事が開始。中央棟の鉄骨組み立てが完成した1927年4月に上棟式。通算17年の歳月をかけて1936年(昭和11年)11月7日に竣工された。※ 第70回帝国議会から使用。構造 地上3階(中央部4階・中央棟9階)、地下1階。鉄骨鉄筋コンクリート造り敷地面積 10万3001㎡建物面積 1万3356㎡(延面積5万3464㎡)所要経費 約2573万5977円。延べ254万人の工事従事者。デザインは一般からの懸賞応募作品118点の中から選考。アメリカやイギリスに習って、コンペ形式にしたようだ。そして選ばれたのが、宮内省技手であった渡辺福三氏の作品。(一等懸賞1万円)が、それを参考に設計のし直しがされている。結果、技術的問題もあるのだろうが、全く別ものとも思えるデザイン変更である。それが不思議。耐震耐火の鉄筋コンクリート造りで、外部を花崗岩で化粧されている。(内部は大理石の化粧。)室内装飾、設備材料については、できうる限り国産品が利用されているそうだ。終戦後は食糧難から議事堂前のこのあたりは農地になっていたと言うから驚く。建設後に事情の変わった議会室ところで、建築中の1923年(大正12年)に関東大震災が起きている。1936年(昭和11年)2月26日には二・二六事件が勃発し、永田町が荒れた。さらに1936年(昭和11年)11月7日に竣工を向かえた後も第二次世界大戦(1939年~1945年)が勃発し、日本自体が戦争で被災する。特に東京は焦土と化した。1945年戦争は終結するも、敗戦国日本の事情は大きく変わる事になる。戦後はGHQの管理下に入り大日本帝国は解体されたからだ。1946年(昭和21年)4月10日、帝国議会最後の衆議院総選挙が実施され、その年の12月27日、最後の帝国議会(第92議会)が召集。翌年1947年3月31日に解散閉会して、1889年(明治22年)2月11日以来続いた大日本帝国は消滅した。※ 帝国議会時代は民選議員により組織される衆議院と華族・勅任議員などにより組織された貴族院の両院で構成されていた。代わって、1946年(昭和21年)11月3日 、日本国憲法が公布され、立法機関として民選議員により組織される衆議院・参議院の両院で構成する国会が規定されたのである。大きく変わったのは、同じ2院制でありながらも、貴族枠が排除され、両院共に民主主義の元、一般の選挙で国民に選ばれると言うシステムで議員が選ばれるようになった事。今の国会の形態が造られたのがまさにこの時なのである。参議院議会室の貴族席国会議事堂は、大日本帝国時代に構想され完成された建物です。その名残が今も議会室に残っているのが見てとれるのです。衆議院議会室の構造(参議院のホームページから借りてきました。)参議院議会室の構造(参議院のホームページから借りてきました。)参議院の議会室が、旧、貴族院の議会室だったようです。衆参共に議長席の後方に天皇陛下の御座所があります。参議院の議会室の方には、議長席の正面上方に御傍聴席が配置。さらに貴族席も存在する。御傍聴席は、天皇陛下が議会を傍聴する時の御座所であるが、実は今まで一度も使用された事が無い部屋なのだそうだ。(それでも毎日掃除しているらしい。)貴族院が廃止され、もはや天皇陛下は国会には開会式の挨拶にしか来訪されなくなったからだ。同じく衆参共にある皇族席にも、今まで皇族の方は一度も来た事が無いそうです。参議院見学の待合ロビーには天皇陛下の御椅子が展示されていた。御休所と中央階段と御休所前の廊下(写真は参議院のホームページから)御休所は、開会式前に天皇陛下が待機するお部屋。総檜造りに漆塗り、壁は織物が貼られたりと、日本の伝統の技が結集されてできているそうだ。下は衆議院の議会室の写真です。そちらの方は撮影許可がありました。天井のステンドグラス。灯りは自然光と時にライトも付けるらしい。衆議院議会室の皇族席の方向です。上の座席は傍聴席ですが、その縁は記者席になっています。下は貴賓席の方です。貴賓席は、国賓などの方が利用される場所。扉の上の枠ですが、空調だそうです。議会が無い時は、空調を入れていないそうで、議会室はとても蒸し蒸しと暑く、空気も悪かったので質問してみました。国会議事堂にクーラーはあるのか?今はもちろんクーラーですが、国会議事堂建設当初から空調タグトは存在したそうです。昔は、クーラーなど無いので、氷で冷やした空気を送っていたと言う事です。とても原始的な方法ですが、よく考えて造られていたと言う事がわかります。議長席の前に速記者のブース。今も伝統的に速記が行われているそうです。左右大臣席ですが、総理大臣は向かって左の所に座席があります。議員さんの椅子の見本が参議院の待合ロビーにありました。ところで、議員さん達は、議会室に私物を持ち込めないらしい。議会室に入る前にロッカーに入れる事になっている。投げたり・・とか、厄介な事が起きない為かな?ハーグの議事堂見学以前、オランダのハーグで国会議事堂見学をしたことがあります。2016年8月「デン・ハーグ(Den Haag) 2 ビネンホフ(Binnenhof)」リンク デン・ハーグ(Den Haag) 2 ビネンホフ(Binnenhof)ビネンホフ(Binnenhof)はオランダ議会の国会議事堂だけでなく総理府や外務省など中央官庁の入った政治の中枢にあたります。昔の議会室と現在の国会議会室を見学してきたものを紹介しています。日本と異なるのは、オランダでは、今でも国会開催の日に、オランダ国王が黄金の馬車でリッデルザール(Ridderzaal)(騎士の館)の中庭には乗り付け、開会宣言をパレード付きで華やかに行うのが慣例になっている事です。見物客も多く集まり、国会開催は華やかにスタートするようです。所変われば、議会も変わる・・ですね。最後に写真は中央広間の天井です。写真はやはり参議院のホームページから借りてきました。中央広間の真下からの天井のようです。国会議事堂では、議会室の天井や。廊下の窓にもステンドグラスがはめられていたりします。衆議院の方の説明では、イギリス製との話しがありましたが、参議院の方の説明ではイギリス、アメリカ、ドイツの名がありました。場所で違ったのかも・・。当初は材料と、技術の方も外国に頼ったのは間違いありませんが、ステンドグラスはメンテナンスが必要です。特に天井の場合、重力でたわむので・・。現在の中央広間のステンドグラスは、日本の建設会社が修復したようです。おそらく、デザインそのままで、ガラスなどは竣工当時の物はほとんど使用されていないと思われます。なぜなら、年数たてば、ガラスも油分が抜けてポロボロに砕けるからです。特に外気に接していたガラスはもろいです。当時も、今もガラスはおそらく海外からの輸入品。議会室の天井のはめ込みなど大変だったろうなと想像できます。個人的にステンドグラスを製作していたのでなんとなく、気に留まったのです。国会議事堂おわります。
2018年09月24日
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