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リンダーホフ城とノインシュバンシュタイン城はルートヴィヒ2世の城でまとめる事にしました。しかし、双方、城内の撮影ができない為に外観と庭の写真しかありません。ニンフェンブルク宮殿は撮影できたのに・・。悲劇のフランス王妃マリーアントワネット(Marie-Antoinette)や非業の死を遂げたオーストリア皇妃エリザベート(Elisabeth)の話は私のブログの中でも不思議と読者人気が高いのですが、今回紹介する、ルートヴィヒ2世(Ludwig II)はその男性版。彼は昔ドイツ、バイエルンにあった王国の美貌の王様です。ルートヴィヒ2世もまたマリーアントワネットのように個人の贅沢にお金を使いすぎて国民の支持を失ったと言う点で似ているし、皇妃エリザベートも同様。つまり、今回は美貌の王様に、悲劇をもたらしたお城の紹介となります。因みに ルートヴィヒ2世については、以前墓所も紹介しているし、生まれた宮殿も紹介していますが(最後にバックナンバーを載せます)、ルートヴィヒ2世と皇妃エリザベートとは曽祖父母が共通の先祖で、エリザベート母方の従甥(じゅうせい)にあたる関係です。ルートヴィヒ2世(Ludwig II)の城 1 リンダーホフ城(Schloss Linderhof)バイエルン王ルートヴィヒ2世(Ludwig II)の家系と生い立ちホーエンシュヴァンガウ(Hohenschwangau)城ルードヴィヒ2世とワーグナーワーグナーの為の劇場建設リンダーホフ城(Schloss Linderhof)バイエルン王ルートヴィヒ2世(Ludwig II)の家系と生い立ちバイエルン王、ルートヴィヒ2世(Ludwig II) (Ludwig II)(1845年~1886年)(在位:1864年~1886年)はバイエルン王国4代目の国王です。写真はバイエルン王城協会発行の冊子(王ルートヴィヒ2世)から1864年即位したばかりの頃?そのバイエルン王国は、現在のドイツ・バイエルン州を含むもう少し広い地域に1806年~1918年まであった王国ですが、実はその歴史は12世紀にまで遡る家系です。ルートヴィヒ2世の家系、ヴィッテルスバッハ(Wittelsbach)家は、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世に仕えていたオットー1世(Otto I)(1117年~1183年)に始まり、以来ずっとバイエルン公としてバイエルンを治めてきた君主一族です。※ 17世紀には神聖ローマ皇帝の選挙権を持った7人の選帝侯の一人に入る家系。そんな家系でルートヴィヒ2世は、まだ皇太子であった父マクシミリアン2世(Maximilian II)(1811年~1864年)とプロイセン王女であった母マリー・フォン・プロイセン( Marie von Preußen)(1825年~1889年)との間に跡継ぎとして誕生。街には祝砲が鳴り、ミュンヘン中の市民に知らせられたと言うくらい喜ばしく、祝福された待望の誕生であったそうです。皇太子であった父マクシミリアン2世は、前王ルードヴィヒ1世(ルードヴィヒ2世の祖父)の退位を受けて1848年に3代目バイエルン国王に就任。※ 以前「ニンフェンブルク宮殿(Schloss Nymphenburg) 2 (美人画ギャラリー)」の所で紹介しているが、ルードヴィヒ1世の退位は王の逝去によるものではなく、ローラ・モンテス(Lola Montez)と言う女性とのスキャンダルによる残念なものでした。この2代目の王ルードヴィヒ1世(ルードヴィヒ2世の祖父)は北欧神話のヴァルハラ(Walhalla)に着想した魂の館。ヴァルハラ神殿(霊廟)を建設している。芸術を奨励、ミュンヘンに大学を造り近代化に励み、ドイツ初の鉄道も施設している。非常に女性好きな王だったと言う所は正反対であるが、ルードヴィヒ2世に通じるものを感じる。実は総じてヴィッテルスバッハ(Wittelsbach)家は芸術の造詣(ぞうけい)が深い家系のようだ。一方、3代目の王となったマクシミリアン2世(ルードヴィヒ2世の父)は息子ルードヴィヒ2世が多大な影響を受けた中世の城をイメージしたホーエンシュヴァンガウ城を再建している。それは廃墟に近いシュヴァンシュタイン城を購入しての改築(1853年)であったが、ベルリンで学び、ドイツ、イタリア、ギリシャを旅行して見聞した事に加え、徹底的に中世を研究しての再建らしい。勉強熱心なマクシミリアン2世は、その城に芸術家や学習者。科学者を集め、歴史研究に没頭したらしい。ホーエンシュヴァンガウ(Hohenschwangau)城ノイシュヴァンシュタイン(Neuschwanstein)城からの撮影冬のホーエンシュヴァンガウ(Hohenschwangau)城マクシミリアン2世は、前王の父(ルードヴィヒ1世)とは違い真面目な堅物? 政務については、彼の治世に王国の安定を回復し、ドイツ統一の戦いではバイエルンの独立を維持しつつミュンヘンを文化的で教育的な都市に変えようと努力もあり国民には人気があったらしいが、国王は決定を下す前に長官と学識経験者の助言を繰り返し求めたらしく審議が中断する事ばかりだったらしい。 ある意味マクシミリアン2世は学問オタクだったのかもしれない。その為に2人の息子の教育には非常に厳しかったと言うが、どうも肝心な帝王学が抜けていたようだ。王子達の使命や将来待ち受ける問題や心構え、人生を生き抜くすべを教えていなかった。しかも、早すぎる突然のマクシミリアン2世の死。ルードヴィヒ2世は無防備に、わずか18歳と言う若さで王になってしまった。 1865年頃ミュンヘンの画家、フェルデイナント・フォン・ピロティー(Ferdinand von Piloty) (1828年 ~1895年)作ルードヴィヒ2世とワーグナーマクシミリアン2世は、学術的に中世の城を再現してみせた。時はちょうど中世ブームだったと言うのもあったかもしれない。しかし、ルードヴィヒ2世の造った城は、王、個人の趣味の世界だ。時代は中世であっても、それは現実世界と言うよりは想像を駆使した夢物語の世界。ルードヴィヒ2世が幼少期に過ごしたのは、父の趣味で至る所に中世騎士伝説が描かれた城だ。森や渓谷に出て素朴な村人と触れあう事はあっても、同年代の友を持つ事もなく、城に閉じ込められるようにすごした。自分の感情を外に表現したりぶつける相手もなく、ただひたすら目の前の中世の伝説の世界へ自らを誘い自分中心の世界を造りだし、その中で一人で遊ぶ事が日常? だったのかもしれない。当然だが、王は理想主義、ロマン主義に傾倒していく。詩人フリードリヒ・フォン・シラー(Friedrich von Schiller)がお気に入りだったらしいが、王は神話や伝説の本を好んで読んでいたそうだ。そして、騎士伝説に観る気高く、美しい者が王の好みとなったのだろう。そんな時に新しい型の音楽に出会った。1861年、ルードヴィヒ2世16歳の時にリヒャルト・ワーグナー(Richard Wagner)自作のオペラ「ローエングリーン(Lohengrin)」に出会う。※ どこで観たか場所が特定できないが、もしかしたらウィーン宮廷歌劇場であったかもしれない。※ ワーグナー自身ザクセン宮廷音楽家という地位にありながら先頭に立って革命に関与。結果、国外逃亡を余儀なくされ、その初演は1850年、友人リスト委ねられた。ワーグナー自身が、それを聴くのは、1861年のウィーン宮廷歌劇場だったと言う。このワーグナーが造りだした世界感にルードヴィヒ2世は同じ感覚の理想を観た? のだろう。この日を境に彼はワーグナーの大ファンとなり、全ての作品と、手に入れられるあらゆる出版物を収集。ワーグナーは、ただの音楽家ではなく、ルードビッヒ2世の「神」となったのだ。そんな経緯でワーグナーの世界の虜になった王は、3つの城の建設を計画した。リンダーホフ城(1874年着工~1878年完成)ヘレンキームゼー城(1878年~1886年ルートヴィヒ2世が亡くなり建設中止 未完)ノイシュヴァンシュタイン城(1869年~居住1886年ルートヴィヒ2世が亡くなり建設中止 未完)リンダーホフ(Linderhof)城完成したのは南バイエルンにあるこのリンダーホフ城だけ。父(マクシミリアン2世)が亡くなり、ルートヴィヒ2世(在位:1864年~1886年)、が即位すると、真っ先に彼が行ったのがワーグナーとの謁見である。父の城で中世の騎士にあこがれた少年は、ワーグナー(Wagner)の、オペラ、ローエングリン(Lohengrin)を観て虜となったのは至極(しごく)当然の事。彼は即位後(在位:1864年~1886年)、借金に苦しむワーグナーをミュンヘンに呼び寄せ、借金を肩代わりしてかつ莫大な支援をする事になる。※ その中にはバイロイト祝祭劇場(Bayreuther Festspielhaus)も含まれる。つまりバイエルン王ルートヴィヒ2世(Ludwig II)は、ワーグナーに心酔し、熱狂的なファンとなり、パトロンとなりお金を使った。しかもワーグナーのお金の使い方も尋常ではなかったらしい。王の無駄な城建設もあるが、ワーグナーに莫大なお金を投じた事も国民の反感を買った要因の一つなのである。※ ルードビッヒ2世(Ludwig II)(1845年8月25日~1886年6月13日)※ ヴイルヘルム・リヒャルト・ワーグナー(Wilhelm Richard Wagner)(1813年~1883年)ドイツのロマン派を代表する歌劇作家で、作曲家。もともと父マクシミリアン2世が「王家の小屋」と言う狩猟小屋を持っていた所。1869年頃より土地を手に入れ始め1874年に建築が開始され、1878年に完成。ヴェルサイユにあるトリアノン宮殿を手本にして建てられたと言われる新古典様式? の建造物です。実は彼がパリ旅行でヴェルサイユに行き、トリアノン宮殿(le Trianon)を気に入ったからのようです。本物のトリアノンより装飾は凝って素晴らしい。それこそがルードビッヒ2世(Ludwig II)のこだわりのたまもの。新古典様式ではない部分です。※ サイズ的にはプチ・トリアノンなのですが、グランド・トリアノン説もあます。宮殿のホールには太陽王と呼ばれたブルボン家のルイ14世(Louis XIV)に敬意を表して騎馬像のブロンズが飾られ、天井には「誰よりも偉大なるべき」と刻まれている。ワーグナーの世界感にひたる為に建設されただけかと思いきや、偉大なる王の継承者になるのは自分だと言う信念も込められていたようだ。庭園正面の扉装飾は実にこだわりが・・。お金かけてますねワーグナーの為の劇場建設今風に言えば、ルートヴィヒ2世がした事はオタクの極致。根っからのロマン主義者である彼は、ワーグナー(Wagner)の造り出した世界に、まさに理想を観たのだろう。おそらく何もかもが好きだった。先ほども触れたが、王は年金だけでなく、ワーグナーの夢の実現の為にバイロイトに劇場を建設する。それはオペラ「ニーベルングの指環」を上演する目的での建設だ。つまり現在も毎年開かれているバイロイト音楽祭のルーツは、この祝祭劇場が元なのである。このオペラ「ニーベルングの指環」を上演するにあたり、ワーグナー自身がものすごいこだわりを持って構想。特別の劇場で、祭典としての上演を念願。場所も自分で決めた。それは自分のオペラをわざわざ見に来てくれる人達の為の劇場でもある。※ 1876年初演は不評の上、大赤字。第2回は1882年まで開かれていない。このバイロイト音楽祭は、ワーグナーの為の劇場だったのでワーグナーのオペラしか上演されない。にもかかわらず現在は人気でチケットがなかなかとれないらしい。、※ 今年(2018年)のバイロイト音楽祭は7月25日~8月29日まで全てが王の出資ではないが、建設から上演までは莫大な費用がかかり、結局王に泣きついたようだ。宮殿側から南側庭段丘テラスと円形の堂、城はもともと狩猟小屋の場所と言うだけあって、山はほどよい借景となっている。渓谷に造られた宮殿はなかなか便の悪い場所であり、ツアーバスでないと大変。おそらく元はホーエンシュヴァンガウ(Hohenschwangau)城を拠点にした狩猟場だったと思われる。城内の撮影はできないので、下の写真はウィキペディアから借りてきました。リンダーホフ・ヴィーナス・グロッテ(Linderhof Venus Grotto)人工の鍾乳洞であるヴィーナス・グロッテはタンホイザーのヴィーナス山の場面が再現されている。バックの絵はアウグスト・ヘッケルの作品でヴィーナスの元にタンホイザーが描かれている。それよりも画期的なのは、1867年に実用化されたばかりの新発明、発電機・ダイナモ(dynamo)を使用していた事だ。この発電システムにより、王を幻想世界に誘う為の水中照明や波動装置、回転ガラス板による交番式変更装置が採用された事はかなり驚くべき事だ。この洞穴ははワーグナーの世界感にひたる為に建設された。ここでルードビッヒ2世は楽士にオペラのさわりを演奏させ、自身はローエングリンの扮装をして船遊びを楽しんでいたらしい。城の後方北側の山の斜面海神ポセイドンの噴水ワーグナーの為に、そして自分の為に、王自身もワーグナーの音楽世界を体現する城や乗り物を造り夢の実現を図っている。王は理想の城で夢の世界にひたった。しかしそれは王の職務にどんどん反比例。ドイツも激動の時代ではあったが、政治的陰謀や個人攻撃、またワーグナーに対する国民の不満。王は、王としての職務を半ば放棄してどんどん現実逃避に走る。それらはやがてバイエルンの国庫を揺るがす重大事に発展。結果、莫大な費用が王を追い詰め、地位のみならず、命まで奪われる事になる。彼が王でなかったなら究極の趣味人としていられたが、国庫を湯水のように使ってオタク道を走った彼は精神異常者として扱われたのだ。※ 王の最後については2015年07月「ルードビッヒ2世(Ludwig II)の墓所」で書いています。リンク ルードビッヒ2世(Ludwig II)の墓所 (聖ミヒャエル教会)ルートヴィヒ2世の存在自体が、もはやオペラになりそうなストーリーを持っている。西の庭園像はローマ神話のファーマ(Fama)ラテン語でファーマ(Fama)は噂 (うわさ)や名声を現す。ファーマ(Fama)を人格化した女神だそうだ。彼女はよい噂を好み、悪い噂には憤ると言う。ルードビッヒ2世は、嫌な噂を聞いたらここに来ていたのだろうか?次回リンク ルートヴィヒ2世(Ludwig II)の城 2 ノイシュヴァンシュタイン城 1 冬リンク ルートヴィヒ2世(Ludwig II)の城 3 ノイシュヴァンシュタイン城 2 タンホイザールードビッヒ2世に関するバックナンバーリンク ルードビッヒ2世(Ludwig II)の墓所 (聖ミヒャエル教会)ルードビッヒ2世が生まれた離宮と彼の乗り物リンク ニンフェンブルク宮殿(Schloss Nymphenburg) 1 (宮殿と庭)リンク ニンフェンブルク宮殿(Schloss Nymphenburg) 2 (美人画ギャラリー)リンク ニンフェンブルク宮殿(Schloss Nymphenburg) 4 (馬車博物館 馬車)リンク ニンフェンブルク宮殿(Schloss Nymphenburg) 5 (馬車博物館 馬ソリ)
2018年02月20日
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「お勧めブログの紹介シリーズ」で「ルードヴッヒ2世(Ludwig 2)」に関わるブログの紹介をしようと過去ログをあたっていたら、ノイシュバンシュタイン城やリンダーホフ城を正式な形で紹介していなかった事に気がつきましたノイシュバンシュタイン城については、「ここはどこ?シリーズ」の形体で2009年の暮れから正月にかけて簡単に紹介しただけ。リンダーホフ城については、ヘルベルト・フォン・カラヤンの生家を紹介(2009年12月)したついでにおまけに載せただけ。見返すと中身も薄いけど写真の色も悪くなっていた※ 昔の楽天ブログは容量に制限があり、写真も解像度を落とさないと枚数載せられなかったし、文字数の制約があったのです。これをどうにかしないといけないな・・と言うわけで、2009年12月「ヘルベルト・フォン・カラヤン + リンダーホフ城」をそれぞれカテゴリー別に分離。内容を充実させ、過去のログを消去して新たに掲載し直すことにしました。リンダーホフ城が残れば良かったのですが、カラヤンも大幅に中身変更して残しました。カラヤン、リンダーホフ城、ノイシュバンシュタイン城と順次更新予定。とは言え、カラヤンについて語れる事はありませんので経歴の紹介程度です。2018年2月「ザルツブルグ祝祭劇場とカラヤンの生家」2018年2月「リンダーホフ城(Schloss Linderhof)」ザルツブルグ祝祭劇場とカラヤンの生家ヘルベルト・フォン・カラヤン(Herbert von Karajan)ザルツブルグ祝祭大劇場(Das Große Festspielhaus in Salzburg)フェルゼンライトシューレ(Felsenreitschule)モーツァルトのための劇場(Haus für Mozart)ザルツブルク・イースター音楽祭(Salzburger Osterfestspiele)ザルツブルグ旧市街・・・メンヒスベルグ(Monchsberg)の丘からホーエンザルツブルグ城(Festung Hohensalzburg)とピンクの矢印がザルツブルグ祝祭劇場ザルツブルグ新市街(川の向こう)ザルツァッハ川の新市街側、モーツァルトのタンツ・マイスター・ハウス近所、ホテル・ザッハー・ザルツブルグ隣(川下側)にカラヤンの生まれ育った家が残っています。ピンクの矢印がカラヤンの生家水色の矢印がホテル・ザッハー・ザルツブルグ黄色の矢印がモーツァルトの住んでいた家の一つ。今は記念館。ヘルベルト・フォン・カラヤン(Herbert von Karajan)ザルツブルクの生み出した音楽家はモーツアルトだけではありません。20世紀クラッシック界のマエストロ(巨匠)と呼ばれたヘルベルト・フォン・カラヤン(Herbert von Karajan)もザルツブルクで生まれ学んだ人です。音楽を知らない人でもカラヤンの名前くらいは聞いた事があると思います。1954年の初来日以降、11回も来日しているし・・。ベルリン・フィルやウィーン交響楽団の指揮者を勤めた世界的指揮者でありオペラの芸術監督でもありました。経歴を見れば帝王と呼ばれたのも納得です。※ ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(Berliner Philharmoniker) ・・・(1955年~1989年 終身指揮者・芸術監督)※ ウィーン交響楽団(Wiener Symphoniker) ・・・(1948年~1960年 主席指揮者・ウィーン演奏協会音楽監督)※ ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(Wiener Philharmoniker) ・・・1983年 名誉指揮者※ ウィーン国立歌劇場(Wiener Staatsoper) ・・・(1956年~1964年 芸術監督)※ ウィーン楽友協会(Wiener Musikverein 1929年~? 音楽監督)彼の功績は、田舎町ザルツブルグを今も世界に名を馳せさせる音楽の都としての地位をさらにあけだ事にあると思います。その一つが今もザルツブルグで毎年行われているザルツブルク・イースター音楽祭(Salzburger Osterfestspiele)。これは彼が1967年に創設した音楽祭です。なかなか男前・・・だったのね。 写真はウィキメディアからヘルベルト・フォン・カラヤン(Herbert von Karajan)(1908年4月5日~1989年7月16日)オーストリア・ハンガリー帝国だった時代にザルツブルクで貴族の子として誕生。ザルツブルク・モーツァルテウム大学(Universitat Mozarteum Salzburg) ではピアノを学んでいます。(家の近所だし・・・。)ザルツブルク・モーツァルテウム大学と現在名称が代わっていますが、前回紹介した国際モーツァルテウム財団が1914年に築いたモーツァルト会館「モーツァルテウム」内に入った音楽学校が、それです。1914年に音楽院となり、ベルンハルト・パウムガルトナー(Bernhard Paumgartner)(1887年~1971年)が1917年~1938年と1945年~1959年まで長きに学長を努めている。彼はベルンハルト・パウムガルトナーの最も有名な弟子の一人としてあげられています。新市街と旧市街を結ぶ新しい橋。旧市街側からザルツァハ(Salzach)川、越しの左がカラヤンの生家で右がホテル・ザッハー・ザルツブルグ。家は、ホテル・ザッハー・ザルツブルグ(Hotel Sacher Salzburg)の道路隔てたお隣です。現在はオーストリアの銀行が所有。貴族の称号を持つカラヤンの家には室内楽愛好家が集まっていたらしい。下がホテル・ザッハー・ザルツブルグ(Hotel Sacher Salzburg)正面カラヤンの家は写真右の見切れている所。川は建物の裏。川の向こうが旧市街。ちょっとホテルの説明を入れるとホテル・ザッハー・ザルツブルグ(Hotel Sacher Salzburg)になったのは割と近年の事。ホテル自体は1866年創業しているが、最初はホテル「オーストリア(d’Autriche」)。そしてホテル「エスターライヒッシャー・ホフ(Österreichischer Hof)」 となって1988年、現オーナーのギュルトラー・ファミリー(Gürtler family)がホテルを買い取りホテル・ザッハー・ザルツブルグが誕生している。当事のホテルは貴族のサロン的なホテルとして存在していた。当然、夏の音楽祭には世界中からザルツブルグにセレブが集まる為に今も高級ホテル。しかもザルツブルグ祝祭劇場(Festspielhaus in Salzburg)まで橋を渡ってすぐと近いからね ザルツブルグはとても小さな街ですが、モーツァルトの住んだアパートの一つもこの目と鼻の先。裏はミラベル庭園と、とても立地の良いところです。カラヤンは、ザルツブルク・モーツァルテウム大学の後ウィーン国立音楽院にて指揮法を習得。さらにウィーン大学で音楽学を学び、そして、親の買い上げたオーケストラによりザルツブルクでデビュー。いったんデビューすると、1927年、ウルム市歌劇場の指揮者に就任。1929年には「フィガロの結婚」でオペラ指揮者として、1935年にはアーヘン歌劇場音楽総監督に就任。1938年、ベルリン国立歌劇にて「トリスタンとイゾルデ」の指揮で国際的評価。その後は、ベルリン国立歌劇場、ベルリン国立管弦楽団、ミラノ・スカラ座でのオペラ指揮と、とんとん拍子に・・・。ヒトラーから「君は神の道具だ」と絶賛されたそうで、実力が伴っていたのは間違いない。世界大戦を越えてからは、1948年にウィーン交響楽団(Wiener Symphoniker)の首席指揮者、翌1949年にウィーン楽友協会の音楽監督に就任。1955年~1989年、ベルリン・フィルの終身首席指揮者兼芸術総監督に就任。34年間という長きに君臨。※ ベルリン・フィル前任はヴィルヘルム・フルトヴェングラー(Wilhelm Furtwängler)(1886年~1954年)。20世紀のクラシック界を二分する名指揮者がベルリン・フィルに二人も在籍していた。しかし、疎遠になった音楽際も・・。1951年、戦後再開したバイロイト音楽祭で、主催のリヒャルト・ワーグナーの一人息子と衝突して疎遠になったバイロイトがあり。1956年から1964年まで努めたウィーン国立歌劇場の芸術監督時代の衝突で疎遠になったウィーン国立歌劇場があります。「全てにおいての支配を望むカラヤン」と悪意的に表現する人もいるが、自分の描いた完璧な音楽を何一つ妥協せず人にこびずに実効する事は芸術家なら誰もが望む事だろう・・・と思う。そのカラヤンのこだわりを「カラヤン美学」と称すのだろう。逆に帝王カラヤンにとっての不満を解消し、思い通りに計画立案して実行できたザルツブルク・イースター音楽祭の創設はカラヤンの理想の完璧な音楽になっていたはずだ。像の写真はかなり前のもの。近年のは汚れているのかカメラの解像度がよくなったからなのか? 汚いのです。汚れると銅像はおじいさんに見えますね。ザルツブルグ祝祭大劇場(Das Große Festspielhaus in Salzburg)祝祭大劇場はザルツブルグの旧市内に建設。完成は1960年。土地の少ないザルツブルグで苦肉の策でメンヒスベルク(Monchsberg)の岩盤をくり抜いて(55,000m3 )建築したと言う。ステージの大きさは最大横32m、高さ9m。座席総数は2179席、立ち見席はなし。しかし、実はここには3つの音楽堂がある。ザルツブルグ祝祭大劇場(Das Große Festspielhaus in Salzburg)1960年~フェルゼンライトシューレ(Felsenreitschule)1926年~モーツァルトのための劇場(Haus für Mozart)1925年~メンヒスベルグ(Monchsberg)の近代美術館テラスから岩肌に建物がめり込んでいるのが解る。写真、建物手前がカラヤン広場。ホーエンザルツブルグ城(Festung Hohensalzburg)から実はこの山は崩れやすい。祝祭劇場の向こうの荒れた岩肌は崩れてできたもの。17世紀、突然崩れた岩により教会が2つ、民家13軒、230人の人が亡くなっているそうです。それでも土地の狭いザルツブルグの旧市街は一等地。岩山の中には丘に上がる為のエレベーターや地下道が通っている。下から見ると薄っぺらくて、まさかこれがコンサート会場だと気付かない。手前がモーツァルトのための劇場(Haus für Mozart)で隣接した奧がザルツブルグ祝祭大劇場(Das Große Festspielhaus in Salzburg)春の復活祭に開催されるザルツブルク復活祭(イースター)音楽祭と夏に開催されるザルツブルク音楽祭では共に主会場となる。広報の言葉を借りると、一年の内の5週間(2018年7月20日~8月30)だけ、ザルツブルクは世界の中心となる。らしい。劇場前からのメンヒスベルグ近代美術館方面ひさしのある所がフェルゼンライトシューレ(Felsenreitschule)とモーツァルトのための劇場(Haus für Mozart)入口。エントランスのオブジェはギリシャ由来の3つの戯曲(悲劇、喜劇、サテュロス劇)の仮面がモチーフになっているようです。フェルゼンライトシューレ(Felsenreitschule)の中を見ていないが、ここが歌劇場たと言うことは上のオブジェが示唆している。フェルゼンライトシューレ(Felsenreitschule)一番古くからあったフェルゼンライトシューレの前身は1693年大司教がメンヒスベルグの岩肌を利用して狩猟の為の厩舎(きゅうしゃ)を建てた事に始まる場所。1841年には乗馬学校となり、第一次世界大戦後は最初の連邦軍がここに駐留。ザルツブルグ祭の一環として演劇の野外公演に利用される事になったのは1926年から。当初は自然の岩肌をを利用したもので音響は微妙なものの舞台には向いていたらしい。1948年にはカラヤンが初めてオペラの舞台に変えた。1968年から1970年にかけて、再設計され幅40mのステージは深さ4mのサブステージを受けステージを保護の為、可動式の遮光性の伸縮式雨カバーが設置。2010年と2011年にはさらにモバイル屋根がリニューアル。新しいペントルーフは6分以内に5本の伸縮アームで引っ張って伸ばすことが可能に。これは2012年にザルツブルク州の建築賞を受賞しているそうだ。ウィキメディアコモンズから借りてきたフェルゼンライトシューレ(Felsenreitschule)内部これを見ておきたかった残念ここで「サロメ」を見たらゾクゾクしそう。(2018年のプログラムに入っている。)モーツァルトのための劇場(Haus für Mozart)前からのホーエンザルツブルグ城方面モーツァルトのための劇場(Haus für Mozart)元はザルツブルク宮廷の旧厩舎が1924年改築されたもの。屋外でのオペラ上演が雨天で出来ない時の代替えなど考慮されてさらに改築されている。1960年祝祭大劇場の完成とともに、モーツァルトやリヒャルト・シュトラウスなどの比較的小規模のオペラの舞台となり「祝祭小劇場」と改称。モーツァルト生誕250年を記念して、「モーツァルトのための劇場(Haus für Mozart)」とさらに改称。客席は拡張され、現在の座席数は1,495席、立ち見席85。ザルツブルク・イースター音楽祭(Salzburger Osterfestspiele)1967年には、自らの理想に沿うワーグナーのオペラの上演をめざして、ザルツブルク復活祭音楽祭を始めた。カラヤンにとって思い入れのあるワーグナーを。彼自身の解釈によるワーグナーを。彼の思うように指揮のできるワーグナーの演奏を目指しての創設だった?カラヤン自身、私的な音楽祭としてイースター音楽祭を位置づけしていたらしい。財務的、芸術的に可能な限り自立したなか(約88%が音楽祭の後援者とメンバーシップなど民間による支援で運営)で、自身の夢を可能にしたと広報には書かれている。夏の音楽祭に比べれば小規模だそうですが、かつては4つの公演全てを、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団とベルリン・フィルの首席指揮者が指揮するという点。特にベルリン・フィルがオーケストラ・ピットに入って演奏する機会はこの音楽祭以外にはほとんどない貴重な体験として人気を博したらしい。これはカラヤンがベルリン・フィルの主席指揮者をしていたからこそなしえた事だったのだろう。彼の死後存続が危ぶまれたらしいが45年間の長きにわたりベルリン・フィルとザルツブルグ・イースターの関係は続いた。しかし2013年から一新された。演奏はドイツ、ドレスデンの歌劇場の専属オーケストラザクセン・シュターツカペレ・ドレスデン(Sachsen Staatskapelle Dresden)と指揮はその首席指揮者クリスティアン・ティーレマン(Christian Thielemann)(1959年~ )に変わっている。今年の開催は2018年3月17日~4月2日音楽祭の中心となるのはジャコモ・プッチーニ(Giacomo Puccini)のオペラ「トスカ(Tosca)」だそうだ。内部見学ツアー(古い写真ですが見つけたので・・。)たぶんザルツブルグ祝祭大劇場(Das Große Festspielhaus in Salzburg)の内部ところで、カラヤンの墓所はザルツブルグ郊外のアニフの教会に故人の遺志通りに埋葬されたらしい。(ザルツブルクとしては、豪華な墓所を提供したかったようですが・・・。)おわりザルツブルグについての過去ログは以下です。2015年2月 ザルツブルグ(Salzburg) 1 (塩で繁栄した都)2015年2月 ザルツブルグ(Salzburg) 2 (メンヒスベルクの丘)2015年3月 ザルツブルグ(Salzburg) 3 (ホーエンザルツブルク城)2015年3月 ザルツブルグ(Salzburg) 4 (ザンクト・ペーター修道院)2015年3月 ザルツブルグ(Salzburg) 5 (ザンクト・ペーター墓地・カール大帝の文教政策)2015年3月 ザルツブルグ(Salzburg) 6 (カタコンベ)2015年4月 ザルツブルグ(Salzburg) 7 (ミラベル庭園 1) 2015年5月 ザルツブルグ(Salzburg) 8 (ミラベル庭園 2 北西エリア)2015年5月 カフェ・ザッハー・ザルツブルグ(Cafe Sacher Salzburg)2009年のものは画像も悪いですが・・。2009年12月 ザルツブルク 1 (聖ペーター教会と街)2009年12月 ザルツブルク 2 (ホーエンザルツブルク城) 2009年12月 ザルツブルク 3 (司教座聖堂と大司教) 2009年12月 ザルツブルク 4 (マルクト広場) 2009年12月 ザルツブルク 5 (待降節とクリスマス市)2009年12月 ザルツブルク 6 (聖ニコラウスとクリスマス市)2009年12月 クリスマス市の名物グリューワイン 2009年12月 ザルツブルクのモーツァルトの家 2009年12月 ザルツブルクのモーツァルトクーゲル次回、「リンダーホフ城(Schloss Linderhof)」予定。
2018年02月09日
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一昨日の赤く染まる月。それは3年ぶりの皆既月食。古来の人は、「皆既月食は良く無い事が起こる兆し」としてとらえていたと言う。また、昨日朝方、諏訪湖(すわこ)に出現した御神渡(おみわたり)現象。古来の人は「御神渡りは上社の男神が下社の女神のもとへ出かけた跡」ととらえていたと言う。御神渡(おみわたり)は諏訪湖が「全面氷結」した時に起こりうる現象で、気温が下降すると湖を分断するよに氷は収縮して湖上に亀裂が走る。その裂け目に水が貫入して再び膨張凍結して、いかにも何かが通ったかのような氷のせり上がりが起こると言う珍しい現象である。※ 氷の筋道の方向やせり上がり具合でその年の豊作や吉凶なども占ったらしい。夜空に不釣り合いな赤色は人を不安に駆り立てる。まして自ら光るように輝く月の異常事態である。一方諏訪湖の方は、まだメルヘンを感じられる解釈であるが、古来わからない事を神の仕業ととらえていた事の証拠である。つくづく、古人(いにしえびと)は自然の中に常に神を見い出していたのだろうな・・と思う。倭人と渡来人 7 (醸造祖神 松尾大社)磐座(いわくら)磐座(いわくら)登拝の条件霊亀の滝と(霊泉)亀の井醸造祖神(じょうぞうそしん)松尾大社醸造祈願祭りと醸造感謝祭り酒造司(みきのつかさorさけのつかさ)前回、松尾大社は京都の神社としては最古と書きましたが・・。実は秦忌寸都理(はたのいみきとり)が、松尾山の磐座(いわくら)に座す神霊を勧請しての松尾山の麓への社殿の創建は701年(大宝元)ですが、信仰自体はもっと昔からあったとされているからなのです。2017年8月「倭人と渡来人 5 番外 秦氏と蚕の社の謎」 の中、「木嶋神社(このしまじんじゃ)の本来の氏神(うじがみ)」で、カンナビ(神奈備)について紹介していますが、松尾山の磐座(いわくら)もまた、古代人より祀られてきた そう言う霊験な場所だと言われています。よって、松尾大社の祭神の本来の鎮座場所は巨石をいたたぐ松尾山(標高223m)の頂上に近い大杉谷上部の磐座(いわくら)であり、松尾山自体が神域となっているのです。※ 現在は旧鎮座場所とされている。実はこの旧鎮座場所である松尾山の磐座(いわくら)に参拝に行く事が可能です。しかし、残念ながら今回は登って来ていません。紹介のみ ※ 神域ですから、登拝(とはい)には諸々の条件があり、写真を撮る事も不可能。磐座(いわくら)登拝の条件磐座(いわくら)に登拝する人はここで祓串(はらえぐし)で左右左と祓い清めて行かなければならない。松尾大社地図から。 境内の裏山が松尾山。磐座(いわくら)は地図の右上。社殿の背後の松尾山を含む約12万坪が境内だそうだ。画面中、ピンクの矢印が磐座(いわくら)登拝。霊亀の滝。霊泉「亀の井」。への入口。松尾山は別雷山(わけいかづちのやま)とも称され、七つの谷に分かれている。社務所で登拝(とはい)料を払い、許可証をもらわないと登拝の参道には入れない。門が閉まっている。参道の道はあまりよろしくないらしい。松尾大社では磐座登拝道修復協賛金 一口500円を募っている。上古の庭の裏手に磐座(いわくら)を真下から拝める遙拝所(ようはいしょ)の登坂口がある。下がその遙拝所(ようはいしょ)あくまで、神様のお膝元・・と言う概念であり、正面はただの山の斜面。左手に「心願」の杯(さかずき)投げコーナーがもうけられている。5枚 200円。京都では何カ所か見たが、ここのは坂の上方面に樽があるので難しい。届かないので一枚お持ち帰りしてきました。素焼きの小皿です。登拝(とはい)と遙拝(ようはい)の違いは、登拝(とはい)は拝しながら登って神所に進む事。一方、遙拝(ようはい)は遙か遠くから神所を仰ぎ見て拝む事。日本各地にある富士を遠くから拝む富士山信仰などは遙拝(ようはい)にあたります。諸注意の看板。看板は登坂口にありますが、簡単に紹介。入山はいつでもできるものではなく、登拝できない日や時がある。(天候でも禁止になる事がある。)入山には必ず入山受付けが必要(記帳)で、許可証を必要とする。(受付は9時~3時。下山は4時まで。)※ 登拝の初穂料金は高校生以上1000円。2回目以降は500円。一人での入山はできない。(危険がある為と思われる。猿も出るらしい。)カメラ、ビデオの持ち込み禁止。およその所要時間1時間。※ 松尾大社のサイトからでも確認できます。社殿の裏山。どうも松尾山はこんな岩盤でできているらしい。磐座の写真が撮れないので苦肉の策なのであるが、実は松尾大社の磐座(いわくら)は、かつて古墳時代に玄室の石切場だったのではないか? と言う説がある。以前紹介した蛇塚古墳を調べていた時にこの説にあたったのだ。※ 蛇塚古墳については、2017年8月「倭人と渡来人 3 渡来系氏族 秦氏のルーツ」太秦 蛇塚古墳(へびづかこふん)で紹介リンク 倭人と渡来人 3 渡来系氏族 秦氏のルーツ蛇塚古墳の場合、巨石の材質は堆積岩らしいが、近辺に巨石の採掘できる場所は無い。巨石の運搬は当然 川、あるいは農水道が利用されたのだろうと考えると、松尾山の可能性はかなり高い。(保津峡も考えられるが・・。松尾山にかなり近接する一ノ井川が気になる。)以前も紹介したが、古墳時代の終わりは646年(大化2年)に出された薄葬令による。つまりそれ以降の採掘は無くなり、岩山は祀られたのではないか? とも考えられるのだ。最も 社務所の人にそれとなく聞いたけど、そんな話は聞いた事もなさそうだった 岩の成分を調べれば解るだろうけどね。手水舎(ちょうずしゃ)の亀松尾大社ではあちこちに亀の像を見る。それは松尾大社ではの亀と鯉が神の使いとされているからだ。伝説では、大山咋神(おおやまぐいのかみ)が山城丹波の国を拓くため保津川を遡った時、亀と鯉(急流)に乗ったと言う寓話から亀と鯉が神の使になったらしい。また古事記では、首に三台(三つの星)をいただき、背に七星を負い、前足に離の卦を顕わし、後足に一支あり尾に緑毛・金色毛の雑った長さ八寸の亀』が谷より現れたと言う。それを嘉瑞(かずい)として谷は霊亀に改元。※ 嘉瑞(かずい)はめでたい事。吉兆はめでたい事の前ぶれ。きざし。霊亀の滝と(霊泉)亀の井写真左奧の赤い鳥居の奧が霊亀の滝。霊亀の滝からの水で出来た小川は御手洗川(みたらしがわ)と言うらしい。つまりは浄めの御手洗(みたらい)をする川と言う事だが、川の目の前に霊泉があるからね。亀の井看板には神泉(しんせん)と書かれている。茶道や書道の用水として汲み帰る人がいる霊泉らしいが、延命長寿「蘇りの水」としても有名だそうだ。最も特異なのは、酒造家(蔵人)がこの水を酒の元水として持ち帰り、仕込み水に混ぜて用いる風習があった事だ。醸造の際にこの水を混ぜると酒が腐らないと信じられていた? なんて説も出ているが・・。江戸時代には各地の酒蔵関係者が参拝に訪れ、水を汲んで帰ったと言うが、実際、江戸時代の酒造家のテキスト(壱子相伝 酒蔵口伝)には松尾大明神への信心が説かれていたらしい。それ故、松尾大社は昔から酒神として酒造関係者の信仰を集めている。霊亀の滝松尾大社では、古来、開拓、治水、土木、建築、商業、文化、寿命、交通、安産の守護神として仰がれ、特に醸造祖神として、全国の酒造家、味噌、醤油、酢等の製造及び販売業の方から格別な崇敬があると言う。※ 先に「亀の井」を紹介しましたが、酒蔵家だけの神様ではなく、醸造には醤油・味噌・酢も含まれる。境内には全国の酒蔵の菰樽(こもだる)が奉納され並んでいる。酒樽の破損を防ぎ保護する為に菰(こも)を巻いた菰冠樽(こもかぶりだる)。その起源は海上運搬の始まった江戸時代。上方から江戸に酒荷を輸送する樽廻船(たるかいせん)に合わせ四斗樽(72リットル)が登場。その破損が問題になったらしい。※ 72リットルで一升瓶40本分。醸造祖神(じょうぞうそしん)松尾大社松尾山の神様。大山咋神(おおやまぐいのかみ)が醸造祖神となった理由は松尾大社 所蔵の「酒由来の事」による伝説です。簡単に略すと神代の昔、八百万の神々が松尾山に懇親会に集まった時、水ではしのびないと、山田(嵐山)の米を蒸し、東流の清水を汲み、一夜にして酒を造り、大杉谷の杉の木で器を造り神様方に振るまった。つまり、大山咋神(おおやまぐいのかみ)は神様に出す為にお酒を造った神様だと言う事。松尾大社 お酒の資料館の掛け軸よりまた、松尾大社 所蔵の1834年(天保5年)の「造酒三神と云所謂書」では45代 聖武天皇(701年~756年)の御代、733年(天平5)に社殿背後の御手洗谷(みたらしだに)より醴泉(れいせん)湧き出る。※ 醴(れい)は、通常「甘酒の意」であるが、「旨い味の水」が湧き出た・・と言う事。託宣の結果、諸人はこの醴泉(れいせん)を飲むべし。諸々の病を癒やし、寿命も伸び長くなる。またこの御手洗の泉をもって酒を醸して我を祀らば寿福が増長。家門繁盛して自然と造酒の業に霊功を得て造酒にあやまちあるべからずとの御霊告於今に著しく諸国遠近の造酒家おのおのにも当社に詣で御手洗の泉を酌み持ち帰りて酒を醸し・・。733年に御手洗谷の泉(霊泉 亀の井)が湧き、それはとても旨い水であった。その水は飲めば病にも効き寿命も延びる。またそれで酒を造って我を祀るなら福が来て家は栄え、酒造りの功績を得るであろう。酒造家は当社に詣でて泉を持ち帰りそれで酒を醸すと良い。以上は、亀の井の伝説にほぼ一致する。醸造祈願祭りと醸造感謝祭りところで、酒造りは「卯の日」にはじめ、「酉の日」に完了する慣わしがあるそうだ。松尾大社では、秋に醸造祈願の為の「上卯祭」)(11月 上卯日)が行われる。また春には醸造の成功を感謝する「中酉祭(ちゅうゆうさい)」(4月 中酉日)が行われる。毎年11月上の卯の日の醸造安全祈願祭(上卯祭)では全国の和洋酒、味噌、醤油、酢等の醸造業はもとより、卸小売の人々も参集し、盛大に醸造安全を祈願が行われる。守札としての大木札(だいもくさつ)を受けて持ち帰り、蔵の神棚に奉斎してからお酒造りを始める醸造家かは多いらしい。下が醸造関係者に授与される守護の大木札(だいもくさつ) 見本これらの祭事には、灘の酒造会社各社から役員や杜氏なども一同に介し、参拝し大木札(だいもくさつ)を戴くらしい。酒造司(みきのつかさorさけのつかさ)ところで秦氏(はたうじ)とお酒の関係がなかなか見つからない。21代 雄略天皇(在位456年~479年)の時代に側にいた秦氏は秦酒公(はたのさけのきみ)。名前からするとお酒造りをしていた人なのか? とも思う。それを証明するすべは無いが、酒宴が朝廷の重要な行事にとなった律令下(7世紀末~10世紀)に宮中には酒造司(みきのつかさ)と呼ばれる官職があった。主な職務は酒や醴(あまざけ)、酢などの醸造で、宮中で供される全ての酒造りもなされていた官営工房であり、酒造技術も、この司で進歩発展したと言われる。因みに平安中期の延喜式」神名帳には酒造司(みきのつかさ)について書かれた条文があり、「御酒(ごしゅ)」「御井酒(ごいしゅ)」「醴酒(れいしゅ)」「三種糟(さんしゅそう)」などいろいろな種類のお酒の仕込みや配合等が詳しく記述されているらしい。それによればどうもお酒は行事や季節により使い分けられていたらしく、例えば「三種糟(さんしゅそう)」は正月用で、米、麹、麦芽に酒を加えて造られるみりん系らしい。奈良の平城京跡からも酒造司(みきのつかさ)に関する木簡やお酒を貯蔵した坪が出土していると言うが、どうも平安京の酒造司(みきのつかさ)の実務を担当していたのが秦氏(はたうじ)らしいのだ。秦氏の関係する所には良き水と米がある。さて、今は摂社である松尾月読神社も載せたかったのですが、入り切らずに終わります。
2018年02月02日
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