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前回の「ナチスと退廃芸術とビュールレ・コレクション(Bührle collection)」で紹介したようにノイシュヴァンシュタイン城は、ドイツ、オーバーバイエルンの美術品や図書などの集積所としてナチス支配下で使われていた時代があった。確かに城塞型で近辺が一望できるこの城の存在はナチスにとっても好都合な場所だったのだろう。リンク ナチスと退廃芸術とビュールレ・コレクション(Bührle collection)ルードビッヒ2世の理想の城はニンフェンブルク宮殿(Schloss Nymphenburg)のような平城(ひらじろ)の居城ではなくどちらかと言えば中世の防衛型城塞が意識された山岳の城なので・・。そこに父の影響もあったのかもしれない。ルードビッヒ2世が青年時代に過ごした彼の父(マクシミリアン2世)が建てたホーエンシュヴァンガウ(Hohenschwangau)城も城塞型であった※ どちらも古い城跡の上に再建されている。しかし、城の内部は城塞とは遠く、どちらも当事流行のロマン主義が色濃く出た装飾がされている。マクシミリアン2世のホーエンシュヴァンガウ城は中世の騎士や英雄伝説の絵画や壁画で飾られている。共に中世を意識する所は同じであるが、ルードビッヒ2世のノイシュヴァンシュタイン城は同じ中世でも、ほぼワーグナーのオペラの内容に特化している。つまり創作性が高いのだ。当然その装飾の仕様も今までの一般的な城のインテリアとは全く違う。どこにも無いタイプなのだ。各部屋にテーマもあるが、それら装飾は例えるなら舞台装置の様相である。実際、ノイシュヴァンシュタイン城内のデザインをしたのは城郭の専門家ではなく、舞台装置画家(クリスティアーン・ヤンク)だったというのだから納得だ。※ ホーエンシュヴァンガウ城とワーグナーについては、2018年2月「ルートヴィヒ2世(Ludwig II)の城 1 リンダーホフ城(Schloss Linderhof)」で少し紹介。リンク ルートヴィヒ2世(Ludwig II)の城 1 リンダーホフ城(Schloss Linderhof)ルートヴィヒ2世(Ludwig II)の城 3 ノイシュヴァンシュタイン城 2 タンホイザー城の建築で受けた地元の恩恵未完の城歌人の広間とタンホイザーとパルジファルルードビッヒ2世の寝室、トリスタンとイゾルデルードビッヒ2世の執務室 タンホイザールードビッヒ2世の個人礼拝堂 聖王ルイ9世城の建築費城部門でも、観光全般でも上位に入るのがノイシュヴァンシュタイン城である。毎年約140万人が訪れると言う。(夏期は、1日平均6000人以上の訪問者があるらしい。)それ故、見学も一応予約制になっている。だいたい40~50人くらいのグループでまとめられて移動。城内をかってに見学する事はできない。初夏のノイシュバンシュタイン城城には常時30人が勤務して管理。王が城に滞在している時はその倍の職員が居て王に対応したらしい。写真中心部分のテラスがルードビッヒ2世の寝室のテラス1869年9月5日城の礎石が置かれる。※ 岩山を8m程 爆破して低くし、給水と道路を確保した上で礎石は置かれた。※ 設計は王室建築局の監督、エドゥアルド・リーデル(Eduard Riedel)(1812年~1885年)。1869年~1873年に城門館が建築。1873年~本丸の王館に着手1883年には1,2,4,5階が仕上る。1884年春には4階の王の住居部は完成。1884年5月27日~6月8日 ルートヴィヒ2世(Ludwig II))(1845年~1886年)城に初滞在。1886年6月13日に亡くなるまでのおよそ2年間に城に滞在したのは172日間であった。※ ルードビッヒ2世(Ludwig II)(1845年8月25日~1886年6月13日)城の正面、見えるのは城門館城の建築で受けた地元の恩恵ノイシュバンシュタイン城の建設には19世紀と言う時代の割にしっかりした建設計画や労働組合が存在していたと言うのだから驚く。前回、膨大な資材が投入された事に触れたが、例えば資材を運び上げる滑車は蒸気機関のクレーンを使用。資材はさらにトロッコで各所に運ばれていた。そんな建築機器の安全性と機能の検査を行う検査協会が当事すでにあり安全の確保が計られていたと言うのだ。前に紹介した琵琶湖疏水工事の環境を考えると日本とは比べものにならない文化レベルの高さである。※ 琵琶湖疎水は1885年(明治18年)~1890年(明治23年)(第1期)ほぼ同時期に建設されている。※ 2017年6月「琵琶湖疏水 2 (蹴上インクライン)」で書いています。リンク 琵琶湖疏水 2 (蹴上インクライン)また、この時代としては革新的だったのが1870年4月「ノイシュバンシュタイン城建設に従事する職人協会」と言う社会制度ができていた事だ。1ヶ月0.70マルクの会費に国王が多額の補助金を援助し、建設従事者が病気や傷害で休んでも最長15週間の資金支払いを保証すると言うもの。工事には何百人と言う職人を必要とし、多数の商人との取引が行われている。1880年には209人の石工、左官、大工、臨時工が直接建築に従事し、運送人、農民、商人、納入業者、さらに飲食業も建築に間接的に関わって来る。この地方全体の人が城建設に関わったと言って過言ではない。つまりこの地方全体が王が亡くなって工事が中断される1886年6月まで城から受けた恩恵は非常に大きかったと言う事だ。城門門に入ってすぐに見えるのは、後方の王の居室がある本丸。本当ならこの手前に礼拝室と巨大な塔ができるはずであった。入り口正面の突出したテラス部分は、塔ができる予定だった基礎の部分。本来は下のような90mの天守閣と下には宮殿礼拝堂が建築されるはずであった。建築はルードビッヒ2世の死と共に中断され未完となってしまったが、もしこれが完成されていたなら、もう少し城はカッコ良かったかもしれない。ちょっと中途半端なのはその為なのだ。城門館の内側城の見取り図上の二つがメインの王館となる部分ルードビッヒ2世の居室は中、ブルー系の所。メインの王館となる建物が正面テラスより上が「歌人の広間」と呼ばれるホール部分。その下の階がルードビッヒ2世の居室のある階。たぶん見える窓は左がクローゼット。壁画はニーベリングの指輪四部作の3つ目、ジークフリート(Siegfried)からジークフリートの大蛇退治。部屋の装飾はワーグナーのオペラからテーマが選ばれている。城内の撮影は禁止されているので直接の写真は無いが、参考までに城で買ったテキストから写真を拝借。そもそも印刷が悪いので写りも悪いですが・・。歌人の広間普通の城であるなら、ここは舞踏会場となる広間であるが、ノイシュバンシュタイン城では歌人の広間と呼ばれている。歌人の広間とは、文字通りここが歌合戦の会場を意味している。歌人の広間とタンホイザーとパルジファル欧州では10世紀頃より吟遊詩人らによる散文詩の歌が歌われ流行している。ドイツではヴァルトブルク城の歌合戦が有名で、ワーグナーはそれに着想してオペラ、タンホイザー(Tannhäuser)を書き上げている。※ タンホイザーの正式名称はタンホイザーとヴァルトブルクの歌合戦(Tannhäuser und der Sängerkrieg auf Wartburg)である王はどうしても歌人の間が欲しくて、この広間を中心にノイシュバンシュタイン城を建てたと言われているほどこだわった場所だ。広間はヴァルトブルグ(Wartburg)城の祝祭会場と歌人の広間を参考にしていると言うが・・。とは言え、このアラブの意匠の入った不思議な装飾はワーグナーがルードビッヒ2世に捧げたとされるオペラ「パルジファル(Parsifal)」に由来している?※ 舞台装置画家クリスティアーン・ヤンクはエドゥアルド・リーデルの設計を書き換えて王の好むスタイルに変えていた。絵画はアンフォルタス王とパルジファル白いドレスの女性が持って要るのが聖杯。女性はもしかしたら妖女クンドリーか?パルジファル(Parsifal)聖杯と聖槍とそれらを守護する騎士団が登場。アラビアの異教徒クリングゾルは魔法と妖女クンドリーを使ってアルフォンタス王を誘惑。王は聖槍を奪われたばかりか重傷を負う。王を救えるのは清らかな愚者。そこに現れた青年パルジファル(Parsifal)。でも彼は事情が飲み込めていない。二幕ではクリングゾルはパルジファルを誘惑するが失敗して聖槍をパルジファルにとられてしまう。三幕ではパルジファルが聖槍を持ってアルフォンタス王の前に進み傷を治すと聖杯の騎士に列するる事を誓う。パルジファル(Parsifal)はルードビッヒ2世に求められて書かれたらしい。第一草稿は1865年に完成して国王に贈呈するが全草稿が完成するのは1877年。それから作曲が始まり初演は1882年、バイロイト祝祭歌劇場である。聖杯伝説も乗っかったいかにもルードビッヒ2世が好みそうなストーリーである。苦悩する新王はルードビッヒ2世の事なのか?あるいは聖杯の騎士こそが王なのか?残念ながら王の存命中にこの広間が使用される事はなかったと言う。1933年~1939年までワーグナー没後50年で祝祭コンサートが開かれたのが最初らしい。ルードビッヒ2世の寝室、トリスタンとイゾルデ(Tristan und Isolde)後期ゴシック、樫の木がふんだんに使われた木彫のゴージャスベッドの天蓋、洗面台、読書椅子など、製作はミュンヘンのペッセンバッハー・エーレングート社製。既製品ではないだろうが、家具会社に発注したもののようですね王の身長は191cm。思ったより大きいベッドである。眠りと死は同一? キリストの復活が描かれていると言うが、このベット、祭壇とか廟(びょう)にしか見えませんね トリスタンとイゾルデ(Tristan und Isolde)を読む婦人寝室のテーマはトリスタンとイゾルデ(Tristan und Isolde)。それはケルト伝承の散文が後に欧州に広まった物語。簡単に言えば悲恋の物語である。いかにも女性が食いつきそうなお話である。それを寝室のテーマに使った王は乙女か? ※ トリスタンはアーサー王伝説の円卓の騎士に連なる騎士。でも「トリスタンとイゾルデ」は別の話。ルードビッヒ2世の執務室 タンホイザーテーマは先ほど広間で触れたタンホイザーとヴァルトブルクの歌合戦(Tannhäuser und der Sängerkrieg auf Wartburg)である。壁絵はJ・アイグナー(J Aigner)ヴェーヌス山のタンホイザータンホイザー(Tannhäuser)舞台は13世紀吟遊詩人タンホイザーは恋人がいるにもかかわらず、ヴェーヌス山で愛欲に溺れる。やがてその生活に飽きると、その世界は消え現実に帰還。地上ではヴァルトブルク城で歌合戦が行われる。お題は「愛の本質」。そこで恋人エリザーベトとも再開。しかしここでタンホイザーは過ちをおかす。非現実の世界で愛欲に溺れていたタンホイザーの「愛の本質」は(精神的な)純潔な愛ではなく、(肉欲的な)快楽の向こうにある愛。皆の非難を受け、法王に許しを請う為にローマに巡礼する事になった。が、結局許してもらえず自暴自棄になったタンホイザーは再びヴェーヌス山に逃げようとしていた。一方、タンホイザーを想う恋人エリザーベトは自分の命を差し出して彼の贖罪を願っていた。エリザーベトの葬列を見て全てを理解したタンホイザーは狂気から覚めるが彼が真に贖罪されたと同時に彼も息絶える。あらすじはこんな所であるが、これをどう演出するかでオペラの内容も面白さも大きく変わる。ダンス音楽を奏でるタンホイザールードビッヒ2世の個人礼拝堂 聖王ルイ9世ルイ9世で飾ったこの祭壇はミュンヘンのJ・ホフマン設計。ルイ(Louis)は、ドイツ語でルードビッヒ(Ludwig)。ルードビッヒ2世の名は聖人となったフランス王、ルイ9世からもらっている。※ ルイ9世(Louis IX)(1214年~1270年)※ 聖王ルイ9世については2017年2月に以下書いています。「フランス王の宮殿 1 (palais de la Cité)」「フランス王の宮殿 2 (Palais du Justice)(サント・シャペルのステンドグラス)」リンク フランス王の宮殿 1 (palais de la Cité)リンク フランス王の宮殿 2 (Palais du Justice)(サント・シャペルのステンドグラス)公開されている部屋はまだあるが、実際写真は撮影できないので紹介はこんなところで・・。春のノイシュバンシュタイン城ワーグナー(Wagner)に捧げげたとも思える城ではあるが、この城が寝泊まりできるようになる1年前(1883年)にワーグナーは亡くなっている。※ ヴイルヘルム・リヒャルト・ワーグナー(Wilhelm Richard Wagner)(1813年~1883年)城の建築費ところで城の建築費であるが、王は国税を直接使ったわけではない。王の私財と王室費(国家君主の給料)から城の建設費を支出している。とは言え、その資金だけでは十分ではなく、ルードビッヒ2世は多額の借金をしてまかなっていた。※ 官僚が度々王に支出削減を進言していたのはこの借金の事らしい。ヴィッテルスバッハ家の古文書による王室会計の帳簿によれば、1886年の建築終了までに建築に要した費用は6,180,047金マルクだとか。(現在のお金で200億くらいらしい。)しかし、王の借金は、王の死後に家族から返済されているそうだ。だから王の贅沢で国を破綻させたと言うのは誤りらしい。若き王は政治に絶望し、人に裏切られ、個人攻撃され、すっかり人間嫌悪に陥って行ったようだ。なぜ城を造ったのか? と言う答えは明確になされていないが、王侯なら、城の一つや二つ造るのは自然な事だったらしい。そもそもドイツやオーストリア圏では冬の住まい(宮殿)と夏の住まい(宮殿)は別である。それぞれに立派な宮殿を持っているのが常識。ただ、ルードビッヒ2世が王位について、1866年、内戦が起き、バイエルンはボロ負け。バイエルンの被害はとても大きいものだった。その上、プロイセンに主権放棄と3000万グルデン(5400万金マルク)と言う賠償金を払わなければならなかった事なども国庫を苦しいものにしていたのだろう。王の造った城の中でもこのノイシュバンシュタイン城はまさしく彼が夢の中に逃避するのにピッタリの城であったのは間違いない。が、せっかく造った城なのに172日間しかいられなかったなんて気の毒過ぎもっと居て、城を完成したかったろうに・・。そう考えると、何だか今も王の魂はこの城にありそうな気がしてきたゾ さて、これでノイシュバンシュタイン城おわりますが、ルードビッヒ2世に関するバックナンバーがこれで一応完成しました。2018年02月「ルートヴィヒ2世(Ludwig II)の城 1 リンダーホフ城(Schloss Linderhof)」2018年03月「ルートヴィヒ2世(Ludwig II)の城 2 ノイシュヴァンシュタイン城 1 冬」2018年03月「ルートヴィヒ2世(Ludwig II)の城 3 ノイシュヴァンシュタイン城 2 タンホイザー」2015年07月「ルードビッヒ2世(Ludwig II)の墓所 (聖ミヒャエル教会)」リンク ルートヴィヒ2世(Ludwig II)の城 1 リンダーホフ城(Schloss Linderhof)リンク ルートヴィヒ2世(Ludwig II)の城 2 ノイシュヴァンシュタイン城 1 冬リンク ルートヴィヒ2世(Ludwig II)の城 3 ノイシュヴァンシュタイン城 2 タンホイザーリンク ルードビッヒ2世(Ludwig II)の墓所 (聖ミヒャエル教会)ルードビッヒ2世が生まれた離宮と彼の乗り物2015年08月「ニンフェンブルク宮殿(Schloss Nymphenburg) 1 (宮殿と庭)」2015年08月「ニンフェンブルク宮殿(Schloss Nymphenburg) 2 (美人画ギャラリー)」2015年09月「ニンフェンブルク宮殿(Schloss Nymphenburg) 4 (馬車博物館 馬車)」2015年09月「ニンフェンブルク宮殿(Schloss Nymphenburg) 5 (馬車博物館 馬ソリ)」リンク ニンフェンブルク宮殿(Schloss Nymphenburg) 1 (宮殿と庭)リンク ニンフェンブルク宮殿(Schloss Nymphenburg) 2 (美人画ギャラリー)リンク ニンフェンブルク宮殿(Schloss Nymphenburg) 4 (馬車博物館 馬車)リンク ニンフェンブルク宮殿(Schloss Nymphenburg) 5 (馬車博物館 馬ソリ)
2018年03月29日
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ナチス侵攻時、シャガールがパリから逃げた先は南仏でしてた。書き換えました。詳しくは以下で扱っています。リンク マルク・シャガール(Marc Chagall) 2 ユダヤ人シャガールノイシュヴァンシュタイン城 2」の予定でしたが冒頭の書き込みで横道にそれましたビュールレ・コレクションについて国立新美術館の学芸員が書かなかった事を書いてみました。ナチスと退廃芸術とビュールレ・コレクション(Bührle collection)オーバーバイエルンの集積所(ノイシュヴァンシュタイン城)略奪美術品退廃芸術展と後に売りとばされた絵画退廃美術オークションビュールレ(Bührle)の兵器会社ビュールレ・コレクション(Bührle collection)国立新美術館ビュールレ・コレクション(Bührle collection)展ベルジェ・レポート(Bergier Report)オーバーバイエルンの集積所(ノイシュヴァンシュタイン城)ふと思った。ノイシュヴァンシュタイン城は大戦の戦火に巻きこまれる事は無かったのだろうか? ノイシュバンシュタイン城はドイツ南部の国境に近い。どうやら中央から外れた田舎だった為に、第一次、第二次の大戦共に戦火から免れていた。が、しかし、城は1944年まで、アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)(1889年~1945年)率いるナチス(国家社会主義ドイツ労働者党)に占領されていた時代があった。全国指導者(Reichsleiter)アルフレート・ローゼンベルクの指導下で行われていた略奪美術品や図書等のオーバーバイエルン主要集積所として城は使われていた過去があったのだ。※ アルフレート・ローゼンベルク(Alfred Ernst Rosenberg)(1893年~1946年)はナチスの最高幹部の一人。※ ナチスの支所や集積所として、他にも城や修道院が利用されている。この全国指導者アルフレート・ローゼンベルクこそが、最初に退廃芸術の一掃(いっそう)を叫んだ男である。略奪美術品ナチス時代の美術品については以前、2016年2月「ナチスのアートディーラー、ヒルデブラント・グルリットのコレクション」でもちょっと紹介しているが、近年になって、武器商人エミール・ゲオルク・ビュールレ(Emil Georg Bührle)(1890年~1956年)のコレクションも略奪美術品が多数含まれているのではないか? と問題になった。※ ビュールレ・コレクション財団によれば、一部それは返還して買い戻しを行ったと言う事だが・・。※ ビュールレ・コレクション展が現在六本木で開催中。後で紹介。※ 2016年2月「ナチスのアートディーラー、ヒルデブラント・グルリットのコレクション」リンク 2016年2月ナチスのアートディーラー、ヒルデブラント・グルリットのコレクション.そもそも略奪品とは何か? それはナチスが占領下で美術館や個人から強制的に奪い取った膨大な美術品の数々である。当初、それは確かに思想上の理由での退廃芸術の一掃が目的であったと思われるが、後にナチス占領下のユダヤ人達からの強制略奪も始まる。※ 「略奪品」の範囲を「ナチスのせいで仕方無く手放した品まで含めるべきだ」と論争が起きている。近年になり、当時美術品を奪われたユダヤ人被害者らから返還要求訴訟が次々起きているし、美術品ではないが、アメリカのユダヤ人協会がホロコースト犠牲者のスイスの休眠口座にある預金の返還を求める集団訴訟をスイスに起こしている。※ スイスではこれによりベルジェ・レポート(Bergier Report)なるものが発表され社会に影響を与えた。退廃芸術展と後に売りとばされた絵画ナチスがプロパガンダの為に行った歴史上悪名高い「退廃芸術展と大ドイツ展」がある。ナチスの嫌う、排斥すべき芸術作品展が「退廃芸術展」(ミュンヘン大学考古学研究所2階)ナチスの好む、理想とする芸術作品展が「大ドイツ展」(ドイツ芸術の家)ナチスが嫌ったのは印象派以降の近代芸術全般。モダンアート(modern art)である。それらは精神の不調と堕落の象徴と考えられた。美術を勉強していたヒトラー自身が理解できなかったのが大きな要因であろう。相対するこの展覧会を企画したのは宣伝全国指導者パウル・ヨーゼフ・ゲッベルス(Paul Joseph Goebbels)(1897年~1945年)である。※ これに大いに協力したのが画家でナチスの造形美術部門の責任者に任命されていたアドルフ・ ツィーグラー(Adolf Ziegler)(1892年~1959年)。この退廃芸術展の為に、ドイツ国、州、市町村が所有する1910年以降の退廃芸術作品を展覧会の目的で搬出(押収)できると言う権利がアドルフ・ ツィーグラーらのメンバーに与えられた。ベルリン。ハンブルク、マンハイム、デュッセルドルフ、フランクフルト、ドレスデン、など20ヶ所以上の美術館を訪問し、ポスト印象派、表現主義、新即物主義、幾何学的抽象などの作品を押収。押収された美術品は絵画5000点。版画12000点。ナチスの嫌った画家から マルク・シャガール(Marc Chagall)南仏ニースのシャガール美術館で撮影シャガールとピカソは第二次大戦のドイツ軍のパリ占領の時に対象的な行動をしている。ユダヤ人だったシャガールはパリに荷物を残しドイツ兵が来る前にパリから脱出。特に彼はナチスに嫌われていた。※ 詳しく調べたら、故郷でなく、南仏でした。さらに南仏からアメリカへ亡命していた。※ パリで描きかけの絵画の一部は後に描かれているので、没収された者もあるかもしれないが、預けられて無事だった絵もあった模様。帰国した後にシャガールは全く同じ絵を描いたとされる。が、絵の継続も見られるのでどこかに密かに預けられていた絵もあったのだろう。※ その辺の事は以下に詳しく書いています。リンク マルク・シャガール(Marc Chagall) 2 ユダヤ人シャガールピカソは、逃げずにパリに居座り、ドイツ兵の嫌がらせにも耐え、黙々と作画活動をしていた。下の「花とレモンのある風景」は占領下のパリで虚しさを描いた作品だそうだ。ナチスの嫌った画家から パブロ・ピカソ(Pablo Picasso) 花とレモンのある風景ナチスの嫌った画家から パブロ・ピカソ(Pablo Picasso) イタリアの女ビュールレ・コレクション(Bührle collection)の公式図録から1937年7月19日、ヒトラー臨席のもとミュンヘンで「退廃芸術展と大ドイツ展」が開幕。入場者はナチス奨励の「大ドイツ展」が3ヶ月で70万人なのに対して「退廃芸術展」では1日2万~3万人。多い日で4万人の来場があった。最終的に排除される方の絵画のほうが4ヶ月で200万人超えると言う人気。とは言え、近代美術は否定され、国民の税金で病んだ精神の絵を購入したと、美術館は非難にさらされた。一方ナチスはこの展覧会の成功に「退廃芸術展」の全国巡回を決める。ベルリン、ライプツィヒ、デュッセルドルフ、ザルツブルク、ハンブルク、ヴァイマル、ウィーン、フランクフルト、ハレなど13都市へ1941年までかけて巡回。計100万人を動員。この巡回公演の為に、ドイツ全土から退廃芸術を一掃すべくさらに100以上の美術館から美術作品が押収された。しかもこの巡回の途中の1938年、「押収美術品を自由に処分できる」とする法律が公布された。これにより展覧会用に各地の美術館から「預かる」形で押収されていた美術品17000点は正式に国家に没収される事になる。それら作品は、最初にナチスの高官らが没収。ヘルマン・ゲーリングはゴッホ、セザンヌ、ムンクなど13点を取り置きして持ち帰ったと言う。次に売れる作品は売って外貨を獲得し軍備の費用にあてることになった。そこに退廃美術オークションなるものが始まる。因みに高額では売れない美術品はベルリンの倉庫に押し込まれ、後に宣伝省のホフマンから「売れない作品は、国民の前で見せしめとして盛大に焼き払いたい」との圧力があり1939年3月20日、ベルリンの消防署の庭で焼き払われたと言う。※ 実際は、美術品のほとんどが先に宣伝省の職員や画商らによりベルリン郊外のニーダーシェーンハウゼン城に避難させて、売買や交換、オークションへと流れたらしい。退廃美術オークションナチスは退廃芸術と認定したが、すでに印象派の絵画は欧州ばかりかアメリカでも人気急上昇となっていた。特にベルリンのナショナルギャラリーの館長ルードヴィヒ・ユスティ(Ludwig Justi) (1876年~1957年)(館長職1909年~1933年)はナチスに解雇されてしまうが、彼には先見の目があったようだ。どこよりも先駆けて近代絵画の購入を始めていた。それが余計にナチスの気にさわったのだろう。退廃芸術展では購入金額を記載され、いかにつまらない作品に税金がつかわれたかのアピールに使われる。だが、市場では印象派やポスト印象派の絵画が高く売れることが期待された。ナチスによってけなされた作品をナチスが高く売るわけにはいかない。売買はメンバーの中にいた画商たちにゆだねられ、国外で売られたようだ。※ 中には交換など軍との取引もあったと思われる。1939年6月の大々的なオークションで、各国マスコミの関心の集まる中、ヨーロッパの美術館やアメリカの個人コレクターなどに売却された。(一部)先述の、武器商人エミール・ゲオルク・ビュールレも1939年ルッツェルンフィッシャー画廊で行われた退廃美術オークションに参加して作品を手に入れている。因みに、コレクション展の行われた3ヶ月後、1939年9月1日、ドイツ軍がポーランド侵攻し、その2日後にフランスとイギリスがドイツに宣戦布告して、第二次世界大戦(1939年~1945年)が始まったのである。ナチスが外貨を獲得したかった理由がわかる、ビュールレ(Bührle)の兵器会社エミール・ゲオルク・ビュールレ(Emil Georg Bührle)(1890年~1956年)は印象派の初期個人コレクターとして有名なようだが、スイスに渡り武器商人として成功した金持ちである。もともとドイツで生まれた彼は第一次世界大戦(1914年~1918年)で招集され敗戦前(1916年)のドイツではマシンガン部隊の指揮官(中尉)として前線で活躍。戦後も部隊に残留。彼の成功のきっかけは戦後駐留し、寄寓(きぐう)ていた銀行家の娘と婚約(1919年)、そして結婚(1920年)した事に始まる。銀行家の妻の父は当事マクデブル工作機械社(Magdeburg Werkzeugmaschinenfabrik)の株主であった事からビュールレはその子会社に出向。そして1924年にはマクデブル工作機械社が買収していたスイスの工作機械会社「エルリコーン(Werkzeugmaschinenfabrik Oerlikon)」のCEOに就任する。ビュールレがCEOになるとすぐにエルリコーン社はドイツの会社から20ミリ機関砲砲の特許を獲得。第一次大戦の敗戦国であるドイツでは再軍備が厳しく規制されていた関係もありドイツの軍事関係の技術の多くは近隣の中立国に移されはじめていた。※ 実はスイスは永世中立国として宣言しながら現在に至りかなりの武器輸出国なのである。エルリコーンが買った20ミリ機関砲の技術はさらにここでバージョンアップされる。その資金援助をしたのも実はドイツなのである。※ 考えようによってはドイツはスイスに兵器工場を移したと言うことかも・・。その完成度を増した20ミリ機関砲(20-mm-Oerlikon-Kanone)は世界から注文が来る。スイス軍ももちろん重要な得意顧客であるが、中国の蒋介石(しょう かいせき)(1887年~1975年)は120門発注。エルリコーン大砲(Die Oerlikon-Kanone)は、当初は対戦車銃としても提供されたが、航空機搭載機兵器や軽戦闘機としては特に輸出のヒットとなったそうだ。1929年に義理の父エルンスト・シャルク(Ernst Schalk)がマクデブル工作機械社の筆頭株主なると販売権はドイツ、イタリア、日本にも及ぶ。そして欧州(フランス、イギリス、ベルギー)から大口発注が入り南アフリカとも対空砲の契約を結ぶ。時代はナチス・ドイツが台頭してきた頃。ドイツはナチスの元で再軍備を開始していた。つまりビュールレの会社エルリコーン(Oerlikon)はドイツがあってこそ、そしてナチスの時代(1933年~1945年)に拡大成長したスイス大手の兵器会社なのである。この会社は第二次大戦で敵対する双方の国々に開戦前に兵器を納入している。第二次大戦(1939年~1945年)が勃発して1940年にドイツによるフランス占領が開始されると、さすがにフランスとイギリスへの武器の納品ができなくなる。するとスイス政府はドイツへの武器、弾薬の供給を奨励したと言う スイス政府がドイツへの兵器の輸出を完全禁止を決定したのは1944年。終戦(1945年)の1年前である。よってエルリコーン(Oerlikon)社は連合国軍のブラックリストに乗る事になる。※ 1946年には解除されている。※ 上記、ビュールレ(Bührle)の経歴に関する細かい資料は国立新美術館で今回出したビュールレ・コレクションの為の公式図録による。クロード・モネ(Claude Monet)睡蓮の池、緑の反映国立新美術館ビュールレ・コレクション(Bührle collection)展で唯一撮影が許可されている目玉の壁画200cm×425cmスマホで撮影しているのでちょっと斜めっています下の2点は部分を撮影。モネの睡蓮はトリーミングのしなおしにより別作品になる。とは言え、よくよく観察すると、どの睡蓮もほぼ同じパターンで描かれている事がわかる。下のトリーミングした作品は西洋美術館のモネと構図が一緒だと思う。なぜなら、この構図で私はステンドグラスを製作したので・・。ビュールレは1951年、モネ亡き後のジヴェルニーのアトリエに行き、画家の息子ミシェル・モネからチューリッヒ美術館の為に2点の壁画を購入。その翌年1951年にモネの展覧会で購入したのがこの作品である。ビュールレ・コレクション(Bührle collection)上に紹介した「ビュールレ(Bührle)の兵器会社」、その拡大と共にビュールレの絵画コレクションは増えて行く。学芸員は書けなかったのかもしれないが、ビュールレ・コレクションは、ナチスと第二次大戦を抜きに語る事はできないのだ。ビュールレの資料に寄れば、初コレクションは1936年、ルノワールの静物とドガの踊り子の素描4点の購入から始まったらしい。1937年スイス国籍を取得しチューリッヒに移住すると、その年に25点を購入。※ コローなどのバルビゾン派とクールベ、モネ。ルノワールにどの印象派をチューリッヒの画商から。※ マネ、セザンヌ、ゴッホ、ゴーギャン、フラゴナールをルッツェルンの画商から元々絵画に興味があり、美術史講座を受講していたビュールレに金銭的余裕とチャンスが巡って来たのかもしれない。1937年は先に紹介したがミュンヘンで「退廃芸術展と大ドイツ展」が開幕された年である。そして退廃芸術展に出品された絵画はナチスの資金源となるべく画商達により国外で売り払われて行く。※ 1935年にもプレ退廃芸術展がドレスデンであったらしい。もともとドイツの将校でドイツに機関砲を売っていたビュールレにはナチスにツテもコネもあったろう。資料に書かれてはいないが、時に武器と交換に絵画を手に入れた事もあったかもしれない。そして先にも書いたが、1939年にはルッツェルンのフィッシャー画廊で開かれた退廃美術のオークションに参加。この時に知り合ったミュンヘンから亡命? した画商フリッツ・ナタン(Fritz Nathan)(1895年~1972年)は今後のビュールレ・コレクションの助言者になったと言う。不思議なのは亡命してすぐの画商が即、スイス美術貿易協会の副会長になれるのだろうか? と、考えると彼はナチスから承認された画商だった可能性がある。もしそうであったなら、ビュールレは非常にラッキーに作品を格安に購入できたと思われる。公式には大戦中にピュールレは76点の作品を入手している。が、もしかしたら表に出さず秘蔵している作品もあるかもしれない。なぜなら入手方法に問題があったり、返還命令が出されては困るから・・。実際、終戦後の1945年、連合国軍の調査でナチスがフランスで行った略奪品がフィッシャー画廊経由でビュールレに買い取られていた事が解っているし、1948年スイス国内にある77点の美術品(13点がビュールレの所蔵)が略奪品と認定され元所有者への返還命令が出されている。※ 13点のうち9点は持ち主から買い戻している。そしてフィッシャー画廊に訴訟を起こしている。※ コレクションの中にはまれに贋作もあったらしい。※ ビュールレ・コレクションは1937年から1956年にかけて収集されている。ビュールレ・コレクション(Bührle collection)宣伝チラシピエール・オーギュスト・ルノワール(Pierre-Auguste Renoir)「イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢国立新美術館ビュールレ・コレクション(Bührle collection)展そんなビュールレ・コレクション(Bührle collection)がタイムリーにも現在日本に一部来ていた六本木にある国立新美術館で2018年2月24日~5月7日までビュールレ・コレクション(Bührle collection)展がおこなわれているのだ。※ 作品は64点。彼の死後、財団が美術館として一般公開していたが2008年の絵画盗難事件で美術館を閉館させてチューリヒ美術館に全コレクションを移管することにしたらしい。(2020年移管。)どうしても略奪絵画が知りたくて見に行ったものの、彼の略歴は紹介されていたものの略奪絵画どころか、ナチスの一言も書かれていなかった。通り一遍の印象派など、絵画のジャンルなどについて書かれていたくらい。物足り無かったです因みに、最大の見物はルノワールの美少女。「イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢」とモネの壁画「睡蓮の池、緑の反映」である。プライベートコレクションとしては、正直バーンズ・コレクションの方が見応えがあった。※ バーンズは全体に趣味が良かった。来日している作品にもよるのだろうが・・。何しろたった64点しかないのだ。作品に入手の年代は書かれていないが、略奪絵画はこの中にあるかもしれない・・と言う色眼鏡でコレクションを見て回ると、ちょっと面白いかも知れない。国立新美術館ベルジェ・レポート(Bergier Report)先に少しふれたが、永世中立国が揺らぐ大戦中のスイス政府とスイスの企業の実態がクローズアップされる事件が起きた。1990年代にアメリカのユダヤ人協会がホロコースト犠牲者のスイスの休眠口座にある預金の返還を求める集団訴訟が起きた事が発端だ。第二次大戦中にスイスがナチス・ドイツやユダヤ人にした事を検証する、いわゆる第三者委員会ができた。ジャン・フランソワ・ベルジエ(Jean François Bergier)(1931年~2009年)率いる委員会である。1996年から2002年3月まで、5年間かけて検証した報告書がベルジェ・レポート(Bergier Report)である。亡命を希望した2万人以上のユダヤ人をドイツに追い返した事やユダヤ人口座を閉鎖した事。またナチスの放出した金塊の77%をスイスが購入し、ナチスの資金源にされていた事など暴露された。たぶん先に紹介したスイス政府がドイツへの武器輸出を奨励していた事なども含まれているのだろう。永世中立国と謳いながら、それを良い事にあっにもこっちにも武器を売っていたりと、結構あくどかったスイスが露呈され、国内でも論争になったレポートだ。ビュールレの兵器会社で思い出したので加えてみた。次回こそノイシュヴァンシュタイン城です m(_ _)m
2018年03月19日
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国庫の無駄使いだと国民にもとがめられたルートヴィヒ2世(Ludwig II)であるが、中世の世界感あふれるおとぎ話のような王の造った夢の城は、世界一美しい城と形容され、今やドイツ観光の目玉となっている。確かに女の子が夢見る典型的な城の形をしているのがノイシュヴァンシュタイン城(Schloss Neuschwanstein)なのである。そんな誰もが認めるメルヘンな城は、カリフォルニア・ディズニー(Disney)の「眠れる森の美女」の城のモデルにもなっている。※ シンデレラ城の方は、フランスの城(フォンテーヌブロー宮殿、ヴェルサイユ宮殿、シュノンソー城、シャンボールなど)の建築様式がモデルとされているらしい。なんだかんだ王が城などの建設にかけた金額はとっくに回収して余りあるのではないか?何しろノイシュバンシュタイン城が一般に公開されたのはルードビッヒ2世(1845年~1886年)(在位:1864年~1886年)の死後わすが数週間後からだと言うのだから・・。※ 当事の入場料は平日2マルク。当事はかなりの高額だったらしい。※ 現在の入場料は12ユーロ 現在のレートで約1576円)。ルートヴィヒ2世(Ludwig II)の城 2 ノイシュヴァンシュタイン城 1 冬冬のノイシュヴァンシュタイン城(Schloss Neuschwanstein)城と言えばタレット(Turret)マリーエン橋(Marienbrücke)城と言えばタレット(Turret)ふと思ったのであるが、子供の頃読んだおとぎ話の中の城はどれもこれも三角錐の屋根の付いたタレット(Turret)がついていた。「城の絵を書きなさい」と言われれば、これを書けば必ず城と認められたと言っても過言ではない。それだけこの三角錐の屋根の付いたタレット(Turret)は特徴的な意味を持つのである。ではタレット(Turret)は何か? と言えばこれは防衛の為の櫓(やぐら)の付いた塔の事なのである。普通の塔との違いは、より見渡せ、攻撃しやすいように、外に張り出している事だ。雪のノイシュバンシュタイン城こちら城の裏側は西面。見えるパルコニーは玉座の間。そこからシュバンガウ城が良く見える。一際目立つ大きなタレット(Turret)たぶんこちらが北面以前(2016年01月)、「ミュンヘン(München) 11 (レジデンツ博物館 4 宝物館)」の中、「宝冠と紋章」のところでタレット(Turret)について触れているのだが、城壁にタレットがたくさん付いている城ほど規模は大きくなる。そしてそのタレットの形が勲章(くんしょう)の元となる宝冠(ほうかん)の形のルーツなのである。リンク ミュンヘン(München) 11 (レジデンツ博物館 4 宝物館)タレットは中世から現れた防衛施設であるが、屋根が付くのはさらに後だ。※ ルートヴィヒ2世(Ludwig II)の城は、あくまでイメージで城を造ったので、実際の防衛施設としての城が建てられた訳ではないし、タレットも実用ではない。タレットは確かに中世の防衛の最前線である要塞に見られる特徴。ライン川や、ドナウ川沿いに残る古城には必ず付いている。つまり、日本の物語に出て来る西洋の城はフランスやイギリス系よりはむしろ、ドイツ系の城のイメージだったのか・・と言う事だ。まさか全てノイシュヴァンシュタイン城がモデルだったりして? 南面? 城の裏口かな?ノイシュバンシュタイン城と言えば、冬の方がイメージがある。なぜなら、ルートヴィヒ2世(Ludwig II)が雪ぞりで夜な夜なソリ遊びをしていたからだ。夜中に活動を始める王はもはや奇人と思われていた。下は2015年09月「ニンフェンブルク宮殿(Schloss Nymphenburg) 5 (馬車博物館 馬ソリ)」で1度紹介した事がありますが・・。リンク ニンフェンブルク宮殿(Schloss Nymphenburg) 5 (馬車博物館 馬ソリ)まさしくこのノイシュバンシュタイン城の山道を下っている絵である。しかもソリは下の天使のソリ。夜用にライトが搭載されている。ルードビッヒ2世のこだわりは、乗り物にも及んでいる。ニンフェンブルク宮殿(ミュンヘン)には彼の豪奢な馬車やこんな豪華なソリがコレクションとして残されている。あれは一見の価値ありです城と麓(ふもと)のシュバンガウの街の往復に冬は馬車か徒歩しか無い。かつてルートヴィヒ2世が雪ぞりで滑っていた道である。秋ではこんな感じ玉座の間のバルコニーからの眺め(秋)左にアルプ湖。右にシュヴァーン湖(白鳥湖)。その間にホーエンシュバンガウ城。湖の後方の山はオーストリアとドイツの国境となっている。ホーエンシュバンガウ城は前回紹介したが、ルードビッヒ2世の父(マクシミリアン2世)が建てた中世風の城であり、王は青春時代のほとんどをここですごしている。ここが玉座の間のバルコニーと言う事もあるかもしれないが、王がここから城を眺める姿が絵画に残されている。同じバルコニーからの白銀の景色。こちらのバルコニーは立ち入り禁止。中から窓越しの撮影である。チビの雪だるまは職員のご愛嬌?ちょっと邪魔ザックリしたデフォルメ地図ではあるが街から城へのルート図である。下の黄色いのが前回紹介したホーエンシュヴァンガウ(Hohenschwangau)城上の地図がデフォルメしすぎて方位が入れられなかったが、実際はノイシュバンシュタイン城の西方に存在。薄いパープルが通年城に向かう道。冬場はバスは登れないので歩きか馬車のみ。ルードビッヒ2世がソリですべったルートである。ピンクがペラート峡谷(Parat-Schlucht) マリーエン橋(Marienbrücke)に至るルートです。(冬場は閉鎖)※ マリーエン橋から城へは徒歩で15分~20分。マリーエン橋(Marienbrücke)12月初旬、年によってち違うのだろうが、この時は橋は閉鎖されていたので城の全景は撮影できていない。つまりマリーエン橋(Marienbrücke)からの城の全景は春から秋でないと撮影できないのである。12月下旬にはこんな感じ9月最初にペラート峡谷(Parat-Schlucht)橋をかけたのは1845年、ルードビッヒ2世の父(マクシミリアン2世)である。それは木の橋であり1866年ルードビッヒ2世により鉄橋に掛け替えられた。橋の名、マリーエン橋(Marienbrücke)は、ルードビッヒ2世の母、プロイセン王女であったマリー・フォン・プロイセン(Marie von Preußen)(1825年~1889年)に因んでいる。マリーエン橋からの城の全景10月ある意味秋はスッキリしているので城をしっかり見たい人には良いかも。東面は城の正面玄関にあたる城門館。12月、テラスからは撮影ができないので落葉した後の方が撮影しやすい。しかし、これで城の事情が解っちゃう事がある。実はこの城は大半がコンクリートでできているのだ。つまり成りは中世でも中身は近代的な城なのである。詳しい建築事情は次回にまわすが、1879年~1880年に使用された資材の統計が残っている。セメント600トン。砂3600㎣。石灰50トン。木炭40トン。ザルツブルグの大理石465トン。ニュルティンゲンの砂岩1550トン。レンガ(帝国サイズ)40万枚。足場用木材2050㎣。これはあくまでその時期に使用された資材である。何しろ城の礎石は1869年におかれているし、それ以前に山を削って基板も整えている。1869年~1873年までに上の写真の城門館が建てられているのだが、1872年の一年間でセメント450トンが納品されている。かなたに見えるのは巨大なフォルクゲン湖 (Forggensee)フュッセン(Fussen)北東部に位置するフォルクゲン湖 (Forggensee)は、アルプスの雪解け水で起こる洪水を防ぐ為にできた人造湖だそうだ。ノイシュヴァンシュタイン城(Schloss Neuschwanstein)次回につづくリンク ルートヴィヒ2世(Ludwig II)の城 3 ノイシュヴァンシュタイン城 2 タンホイザーバックナンバーリンク ルートヴィヒ2世(Ludwig II)の城 1 リンダーホフ城(Schloss Linderhof)
2018年03月12日
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Break Time(一休み)まだ大阪に滞在中です。昨日は京都の上賀茂神社まで出かけてきました。今回は先週の日曜日(2月25日)に出かけた北野天満宮の骨董市を紹介するべく、写真をチョイスしていたのですが、毎日動き回っているので夜は疲れて知らず知らずにパソコン前にうつぶして寝る事多々。全然作業が進みませんでした以前はその日にアップできたのに、体力の衰えが・・。北野天満宮の骨董市(梅花祭り)古物(こぶつ)と古物商許可証と骨董品(こっとうひん)付喪神(つくもがみ)2015年02月25日、「北野天満宮の梅花祭り」についてはすでに紹介済み。今回、自分は3回目の梅花祭りだったのですが、年々人は増えてものすごい事になってました。特に外国の方が目立った気がします。今年は特に骨董市を目当てに出かけましたから、梅園も入っていないし、お茶会にも参加していません。単に骨董市を観て歩き、写真を撮ってきただけです 何しろ拝むのも行列。梅園に入るのも行列。野点大茶湯も行列。特に最近流行している御朱印の行列はハンパ無かったです北野天満宮 一の鳥居前から北野天満宮では毎月25日が天神市(天神さん)の日として市が立つのですが、2月25日は特に菅原道真公の命日であり、ちょうど見頃になる梅園の公開と梅花祭野点大茶湯(ばいかさいのだておおちゃのゆ)もあり大きな祭りの一つです。※ 初天神の1月25日と終い(しまい)天神の12月25日も凄い賑わいだそうです。北野天満宮の参道には飲食含めて縁日が出ていて大混雑ですが、お目当ては、境内の東に北上する御前通りに集まるフリーマーケット? です。飲食など縁日が参道にギッシリ建つのはもとより、その日は境内の駐車場の方まで所狭しと300軒くらいの市が林立。店の出し方も素人のフリマスタイルから、屋台の形態までいろいろありです。境内の中と外は別かもしれませんが、出店は年間契約らしいです。その会費が結構高いらしいので、一般の参加者は少ないのかもしれません。骨董が趣味のマニアックなコレクションをしている方々にはとっておきの場所です。天神市なら思わぬ掘り出し物を見つける事ができるかもしれません。とにかく、ここは品物の幅が広く、そこらへんのフリーマーケットとは置いている品物が違います。もしかしたら京都と言う土地がらもあるのかな?家のいらない物の中には先祖からの素敵な不要品が出てくるのかも知れません とは言え、実は骨董品と呼べるものは少なく、どちらかと言えば骨董と言うより全般に中古品マーケットとなります。そう言う意味では値段は手頃な物からあります。和菓子の型など京都ならではかも・・。さて、この中古品を業界用語で、古物(こぶつ)と言います。※ 古物(こぶつ)には年代物の骨董品も含まれます。古物(こぶつ)と古物商許可証と骨董品(こっとうひん)西洋骨董の世界では、骨董品と呼べるのは、100年を経過した物が対象になります。日本では、単に中古品は全て古物(こぶつ)と分類されます。それは国の便宜上の方針があるからです。日本では、1度販売された物は(新品でも)全て中古品として考えられ、それらを売買する時には「古物商」の許可証が無ければ販売する事は不可能と言う法律があります。※ 許可証の発行は、都道府県公安委員会が行い、その窓口は最寄りの警察署となっています。ですから、本来はバザーや青空マーケットなど、今回のような骨董市は、届け出の無い一般人の参加はできないのが原則。しかし、家庭の品のリサイクルがメインの一般人のバザーに関しては「商売外の行為」として多めに見ている・・と言うのが実情だと思います。※ 数年前まで「古物商許可証」を持っていたので警察で質問した時に言われた気が・・。加えて言えば、許可制度の理由の一つは、盗難品売買を防ぐ事にあります。ですから、本来どこから仕入れて、誰に販売したかをリストに残す義務があるのです。※ 売買の品のジャンルも申請して、ジャンルにあった分野の許可証をそれぞれ取らなければならない。そんなわけで日本の古物に関しての定義は案外広いのですが、ただの中古品と高価な骨董品は全て同じ扱いになっています。昭和30年代くらいの型押しガラス食器でも今の若者には新鮮?付喪神(つくもがみ)ところで、法律はさておいて、100年と言う単位で観ると、日本でも、「100年を経過した物には魂が宿る。」と考えられ普通の中古とは一線を画した物になると言う考えがあります。それがいわゆる付喪神(つくもがみ)が付いた物です。付喪神(つくもがみ)とは、100年を経過した物に付いた物の精霊と言う所が近いかもしれません。※ 百に一足り無い事から九十九(つくも)神とも・・。つまり、それなりに「一目置かれた物に昇格した証」、と言う境が同じく100年と言う事になるので、日本でも100年を境に骨董と定義しても良いと思います。最も、日本の場合、魂が宿って、付喪神(つくもがみ)になると、人を惑わす・・と言う考えもあり、古道具は毎年新年に捨てられた時代もあったようです。本当にガレージを利用したフリマもありました。茶道具類が中心でした。鉄瓶は外国人にも人気のアイテム。専門の所もありました。御前通りから上七軒に向かう辻(御辻通り)にもマーケットが・・。上七軒側からの北野天満宮 東門境内側の方外国の方に人気の店ってあるようですね。亜麻布(あまぬの)・・リネン(linen)外国の男性が見ていました。着物だからなのか? リネンだからなのか? 色が素敵だったから?確かに中古着物の出店は多いけど、男性用はあまり無いかもしれない。香炉素人は欲しい物と値段が折り合えば買えば良いけど、「良いな」・・と思う物は結構お高かったです。アンティックだけでなく、手作り品の出品もあります。笄(こうがい)をバラしてピアス仕立てにしたものなど・・。北野天満宮の骨董市 おわります。
2018年03月02日
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