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今回は「大阪天満の造幣局 2」はお休みしてショートネタ。造幣局で見つけた豊臣秀吉の金の話を単独にしました。1935年(昭和10年)、造幣局の前を流れる大川(旧淀川)からとんでもないお宝が発見された。シジミ獲りの漁師が見つけたお宝は、さらに遡る事1615年(慶長20年)の大阪城落城の際に逃げる船から落とした遺物ではないかと考えられている。それは大阪造幣局のお宝となって今に展示されている「竹流金(たけながしきん)」と「菊桐金錠(きくきりきんじょう)」と名の付いた豊臣時代の金塊。秀吉と金の話 (竹流金と法馬金から)竹流金(たけながしきん)と菊桐金錠(きくきりきんじょう)秀吉の金配りと鉱山開発法馬金(ほうまきん)秀吉の黄金趣味竹流金(たけながしきん)と菊桐金錠(きくきりきんじょう)冒頭紹介した川からの拾いものの金塊であるが、竹流金(たけながしきん)は文字通り竹のような鋳型に砂金を流して造られているのでそう呼ばれているが、室町時代末期から安土桃山時代にかけて作られた秤量貨幣(ひょうりょうかへい)の一つだそうだ。※ 重さが一定していないのは、使用に際して必要分を削ったり切ったりして使うタイプだかららしい。一方、菊桐金錠(きくきりきんじょう)の方は重さの一定したナゲットだったらしい。共に言えるのは軍用や恩賞用として主に利用されるタイプの金で、流通用ではなかったと言う事だ。それ故大阪城、落城の時に慌てていて落としたものではないか? と考えられたのだろう。竹流金(たけながしきん)秤量金貨(ひょうりょうきんか)として必要に応じて切ったり削ったりして使われる金。ちょっとした旅行に携帯するのに便利。菊桐金錠(きくきりきんじょう)竹流金(たけながしきん)と違って、こちらは丸ごと与えられた。こちらは平の家臣ではなく、大名クラスの褒賞用サイズですね。どちらにも菊(きく)と桐(きり)紋(もん)が刻印されている。金塊なのに着物の小紋のような素敵な柄入り。考案した人はオシャレな人だったようですね。その桐(きり)の紋ゆえに豊臣秀吉が鋳造した秤量金貨(ひょうりょうきんか)と推定されたようだ。そして、菊紋は完成品に刻印される印だったと造幣局の説明にはあった。しかし、その紋は、正確に言えば五三桐(ごさんのきり)と十六葉菊(じゅうろくようぎく)なのである。これは織田信長の使用した家紋の中の二つにあたる。左1番目が十六葉菊(じゅうろくようぎく。右2番目が五三桐(ごさんのきり)竹流金(たけながしきん)は永禄(1558年~1570年)、元亀(1570年~1573年)、天正(1573年~1593年)時代の頃、豪族や大名らが、備蓄の軍用金として鉄砲や火薬など武器の支払いや、人を雇う時などの賃金として使う目的でストック。時に武功をあげた家臣の恩賞などにも利用されていた金竿らしい。※ 平の家臣には一削りとか? 今日はたくさん削ってもらえて嬉しい・・とか? かな?まさしくそれは織田信長(1534年~1582年)の時代にピッタリあてはまるオシャレな人だったらしいから、ひょっとしたら織田信長が最初に考案したのではないか? と考えが及ぶ。確証は何も無いけどね。秀吉の金配りと鉱山開発秀吉はいろんな物を信長から継承しているので竹流金(たけながしきん)のルーツが信長にあった可能性はあるが、菊桐金錠(きくきりきんじょう)のような重量の固定されたナゲットは秀吉の頃からかもしれない。何しろ、秀吉は何かとこれら金を大名や家臣(配下の武将)や朝廷の貴族らに配りまくっているからだ。※ 有名な話では、1589年(天正17年)に身分のあるセレブおよそ300人に大判5000枚を配ったと言う「金賦り(かねくばり)」という催しがあったとか・・。それらは秀吉の下に彼らをひれ伏させる事は当然、秀吉の行う事業を円滑にする為の文字通り試金石(しきんせき)になったのだろう。それにしてもそれら金はどこから来たのだろう?なぜ、秀吉はそんなに金持になったのか?太田牛一が書かされた秀吉の軍記物「大かうさまくんきのうち(太閤様、軍記の内)」の一説。「太閤秀吉公御出世より此かた、日本国々に、金銀山野にわきいで・・・」太閤秀吉公の世になってから日本各地で金銀が山から湧くように掘り出されるようになった。※ 太田牛一は織田信長の記録「信長公記(しんちょうこうき)」を書いた人である。それ故に秀吉により白羽の矢が立ったのである。秀吉は全国の鉱山開発を進めたのだろう。おそらく鉱脈を見つける技(わざ)を知っていた?「秀吉は山の者を使っていた」と読んだ記憶がある。山の者が鉱脈を見つけて秀吉に報告していたのなら納得。山野を歩く山伏などは植生で鉱脈を探りあてると聞くからね。かくして、鉱山開発が進められると、そこは直轄領とされ、全ての金、銀、銅は秀吉の元に集まるシステムが造られたのだ。秀吉の後に天下を取った徳川家康は、秀吉のシステムのほとんどをそのまま踏襲している。鉱山ばかりでなく、金貨に至ってもほぼ同じ物が造られている。次に紹介する法馬金(ほうまきん)も秀吉が最初に造ったものである。但し、江戸時代の金貨は幕末に向かう程に金の含有量が減らされて行くのである。財源不足で・・。資料は造幣博物館から豊臣秀吉が天下を取って、スケールが違うなと驚いたものがある 次に紹介する超巨大な法馬金(ほうまきん)である。法馬金(ほうまきん)(分銅金)上は徳川時代に造られたもののレプリカだが、形は計測用の分銅に同じである。大事な事を紹介し忘れていたが、前回、両替秤用分銅で紹介した後藤四郎兵衛家であるが、分銅のみならず、金の造作(大判造りなど)も後藤家が行っていたのである。※ 後藤家繭型分銅(ごとうけまゆがたふんどう)について書ています。リンク 大阪天満の造幣局 1 幕末維新の貨幣改革 と旧造幣局後藤四郎兵衛家は室町幕府の時代から御用達彫金師として刀剣の装飾など織田信長にも仕えている。いつの頃から大判の造作に携わったのかははっきり解らなかったが、秀吉と言うよりは、やはり信長の時代あたりからかもしれない。後藤家は豊臣方についた事から当初徳川にじゃけんにされるが、許しをもらい、徳川の時代も大判の製造を続けている。つまり大判小判の製造は幕府直営ではなく、民間企業による委託生産だったと言う事だ。※ 江戸に出たのは後藤四郎兵衛家ではなく分家? の後藤(橋本)庄三郎らしい。因みに、江戸の後藤家屋敷には敷地内に小判の験極印を打つ後藤役所が併設されていた。その屋敷跡が現在の日本銀行本店がある中央区日本橋本石町2-1-1らしい。法馬金(ほうまきん)(分銅金)は大判1000枚で造られた千枚分銅金(約165kg) と大判2000枚で造られた二千枚分銅金(約330kg) と言う巨大な金塊「大法馬金」と重さ375gの「小法馬金」とがある。※ 現存しているのは「小法馬金」のみ。重さではサイズ感がわからないかもしれない。正確に計っていないが、「小法馬金」は最長部6cmくらい。「大法馬金」は最長部38cmくらい。法馬金は何に使ったのか?大法馬金の表には「行軍守城用勿用尋常費」の文字が鋳込まれている。戦争となり、城を守ったり戦に出る時の軍資金であり、通常は使ってはいけない。・・と言う意味で、非常用の備蓄金と言う事のようです。確かにこのビックサイズであれば容易には盗めないですしね。最初に秀吉が造らせた事から太閤分銅金(たいこうふんどうきん)とも呼ぶようだ。大阪城にはこの大法間金が積み上げられていたらしい。でも現存は一個も見つかっていない。一方、小法馬金の方は結構見つかったらしい。ふと、思ったのであるが、徳川埋蔵金、みんなは小判だと思っているが、もし大法馬金であったなら、地中探査レーダーだけでは見つからないのでは? 金属センサーも併用しないとね。もう一つ秀吉が造った大判金貨を紹介。とてもきれいです。天正菱大判上が表 現存は5~6枚と言われるこの大判もまた後藤四郎兵衛家の作品。無名の大判に埋め金して量目を調整してあるそうだ。墨字で十両(量目)と記され、その下に製造責任者の署名と花押(かおう)(サイン)がされている。さらにその下に菱形の中に入った五三桐(ごさんきり)の印が押されている。金の品位が740/1000ですからK18(75.0%)に近いですね。下が裏秀吉の黄金趣味豊臣秀吉は、何かと言えば金を使用する。よほど好きだったのだろうと思われているが、確かにとんでもなく金が産出されて黄金三昧になれば、金でいろいろ造ってみよう・・と言う気にもなるのかもしれない。いろんな物を黄金で作ったと聞くが、珍しい物として外国人に紹介されているのが金の茶室である。秀吉の金の茶室を再現した部屋が大阪城の西の丸庭園の迎賓館にありました。見るからにこれは造りがチープですが、黄金の茶室は運搬可能な組み立て式の移動式茶室だったようです。看板にはGolden Tea Ceremony Room (Chashitsu)と書かれてました。黄金三昧とは、ちょっと成金的ではありますが、法馬金を見てちょっと考えが変わりました。法馬金はいざと言う時に削ったり切り取ったり、あるいは全部溶かして利用する資金です。同じ事が金の茶釜にも言えるのかもしれない。いざとなったら茶釜だって戦費に変われるのです。金は永遠に再生可能な物質なのですから・・。蔵の中でずっと眠っている法馬金よりも金の茶釜はみんなの目を楽しませてくれる。金の茶釜も金の茶室も贅沢と言うより話のネタ? 単純に秀吉の遊び心? だったのかもしれないなーと・・。因みに金は物質的に何の作用も無い金属ですから、金の茶釜で点てたお湯を使った茶は混じりけの無い茶そのものの味がしたはずです。鉄分を補う意味でも使われた鉄の茶釜の湯で入れたお茶とはやはり味が違ったはずです。茶の味を味わうより黄金を愛でて飲んだ茶の方がやはり美味しかったのでしょうけどね総じて思ったのは秀吉が金が大好きだったと言うより、金を利用して宣伝効果をあげていたと言う方が真理なんじゃないのか? と言う事です。まあ、金が嫌いな人はいないと思いますけどね さて、次回は「大阪天満の造幣局 2」で現在のコイン製造を紹介予定です。リンク 大阪天満の造幣局 1 幕末維新の貨幣改革 と旧造幣局リンク 大阪天満の造幣局 2 お雇い外国人とコイン製造工場リンク 大阪天満の造幣局 3 コイン製造とギザの話秀吉関連として豊臣秀吉の正室、北政所(きたのまんどころ)の寧々(ねね)様の隠居した寺リンク 2017年京都 1 (圓徳院と石塀小路)リンク 秀吉の御土居(おどい)と本能寺の移転リンク 大徳寺と茶人千利休と戦国大名リンク 秀吉の墓所(豊国廟)リンク 豊国神社(とよくにじんじゃ) 1リンク 豊国神社(とよくにじんじゃ) 2 (強者の夢の跡を消し去った家康)
2018年04月23日
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お金シリーズのBack numberもラストに追加しました。現在の為替相場は変動相場制で行われている。それは日本円を外国の通貨に両替する時、例えば1ドルを円に交換すると幾らになるか? と言う割合(rate)が一定していないのが変動相場制である。為替は一日の中でも刻々と変化するので朝と夕でも為替のレート(exchange rate)はそこそこ異なるのである。※ 因みに4月14日では、1ドルは107.10~107.70円の間で推移。※ 外国為替証拠金取引 FX(Foreign eXchange)をする人はその差益で利益を上げている。この変動相場制はドルの信頼低下に伴い先進各国が導入を決めたが(日本は1973年4月から。)それ以前はドルを基軸とする固定相場制(あらかじめ決められた交換レート)であった。固定相場制は第二次大戦後、1945年、国際間の通貨安定の為に国際通貨基金 IMF(International Monetary Fund)の始動と共に各国が採用。敗戦国日本では1945年9月から導入され最初の軍用相場は1ドル15円。1947年3月 1ドル=50円1948年7月 1ドル=270円1949年4月25日 1ドル=360円開始今は信じられ無い事だが、1ドル=360円時代は1949年4月~1971年12月まで続いたのである。当然だが、海外旅行なんてお金持ちしか行けなかったのである。この360円の固定相場は、基軸となるドルが強かったから可能だったのである。実際ベトナム戦争で疲弊したアメリカの国力は低下。変動相場制に移行する前に1ドル=308円時代が来る。※ 先に書いたが今日は、1ドル 107.10~107.70円の間で推移だからね 何にしてもこのように固定相場制から変動相場制へと国際間の為替のレート(exchange rate)は決められてきたのである。大阪天満の造幣局 1 幕末維新の貨幣改革 と旧造幣局変動相場制と固定相場制幕末期の貨幣制度(両替)小判の流出事件江戸期の貨幣制度と秤量貨幣(銀)造幣局の開局 旧造幣寮鋳造所建物とガス灯幕末期の貨幣制度(両替)冒頭説明した通り、国際間の取引で為替レート(exchange rate)は重要な項目だ。日本では鎖国時代の貿易では金、銀、銅と交換で品物を得ていた。ある意味物々交換に近い。なぜなら、以前紹介しているが、オランダは日本から純度の高い銀を持ち帰ってVOC用のコインを鋳造していた。そしてそれがアジアでの交易用のコインとなり長く流通。一番求めていたものは銀だった。※ 幕府は金銀の流出を抑えるが為に含有量を減らした品質の落ちる金貨を発行している。それで国内がインフレになるなど幕府の経済政策は駄目駄目。※ 2016年11月「デルフト(Delft) 7 プリンセンホフ博物館と 番外、出島問題(中世日本の交易)」の中で書いています。リンク デルフト(Delft) 7 プリンセンホフ博物館と 番外、出島問題(中世日本の交易)大阪造幣局内 造幣博物館から慶長丁銀 慶長6年7月(1601年)に鋳造開始博物館にはいろんな丁銀がありましたが、その文様が美しいナゲットだったのでこれを紹介。1853年7月黒船が来航し、日本も鎖国を解き、欧米諸国とも貿易を始める事になるとやはり為替レート(exchange rate)を決めなければならなくなった。1858年6月、日米修好通商条約でメキシコ銀ドル貨幣との両替レートが決定する。(当事の国際通貨はメキシコ銀ドル貨幣だった)幕末に日本との交易に利用されたメキシコ銀ドル貨幣1857年(安政4年) 量目 26.8~27g 品位 銀 862~886/1000日米修好通商条約 5条では「外国の諸貨幣は、日本貨幣、同量、同種を以て通用すべし」とあり、この条件を以てメキシコ銀ドル貨幣 1ドル(1枚) = 天保1分銀×3枚 と定められた。天保一分銀 1837年(天保8年) 量目 8.6g 品位 銀988.6/1000小判の流出事件ところが想定外の問題が起きた。金と銀の交換レート(金銀比価の比率)は 日本では 1金対5銀。 外国は 1金対15銀。金と銀の両替比率(価値観)が違い過ぎた。賢い人は気付くだろう。まずメキシコ銀貨を日本の天保一分銀に交換し、さらに金貨に両替すると金が多く手に入るカラクリに。こうして日本の金貨(小判)の海外流出が恐ろしい早さで始まったのである。1860年、万延の改鋳 明治政府が金の純量を3分の1に引き下げるまで流出は続いたそうだ。ところで、江戸時代の貨幣制度は四進法で行われていた。下は造幣博物館の資料から幕末期 1両=4分=16朱=4貫=4000文なぜ四進法なのか?昔は貨幣と言う塊よりも金や銀は重さが取引の基本。市中では両替商により秤(はかり)で計測されて取引がされていた。等分ずつ分けられていくのだから必然的に4進法に行き着いたのでは?江戸期の貨幣制度と秤量貨幣(銀)横道にそれるが・。上の表は江戸の末期に額面の固定された一分銀(表記貨幣)が発行されてからの話。一分銀発行以前は銀は重さにより価値が計測される秤量貨幣であった。つまり銀は毎日、微妙に公定レートが変わったのである。それは藩(都市)によっても違ったらしいので江戸時代の銀は変動相場制だったようだ。因みに江戸時代、大阪では銀が、江戸では金が主流であった。その為に江戸から大阪に取引に来た商人は金から銀への両替の必要があったのだ。後藤家繭型分銅(ごとうけまゆがたふんどう) 1686年製造。50両で1870g。1匁で3.78g。両替秤用分銅は、後藤四郎兵衛家のみが製造を許された。銀行の地図記号はこの分銅の型に由来するそうだ。 意味が解ったね下は大阪歴史博物館の資料から一分銀が出る以前、銀が秤量貨幣だった頃の貨幣制度江戸17~19世紀 金1両=銀60匁(もんめ)=銭4000文ついでに大阪歴史博物館の資料から国内鉱山の地図を紹介。大阪が銀、江戸が金の理由がわかる。さて、だいぶ横道にそれましたが、今回は造幣局の話でした。上は本局(大阪市北区天満)。桜之宮公園内の泉布館前から正面玄関方面を撮影。下は造幣局内の昔の正門昔は川が主な出入り口の為に正面は川に向かって建っていた。造幣局とは、現在日本で流通している貨幣(コイン)の製造と勲章の製造を行っている所。現在日本に造幣局は3軒あり独立行政法人となっています。本局(大阪市北区天満) さいたま支局(さいたま市大宮区) 広島支局(広島市佐伯区)造幣局の開局 旧造幣寮鋳造所建物とガス灯本局である天満の造幣局の歴史は幕末の乱れた貨幣制度を建て直す為、明治維新の政府が総力を挙げた近代化計画の一つとして始まった。コイン鋳造の為の造幣局が1871年(明治4年)4月4日に創業。(それは欧米からの要望でもあった。)1873年2月(明治6年)イタリア人のマンチニ氏の描いた造幣寮前景図の一部です。1873年、ほぼ全ての施設の建築終わった頃の作品。この旧造幣寮鋳造所正面玄関が、桜之宮公園内にある明治天皇記念館の玄関に移築されて残っている。我が国初の本格的西洋建築。旧明治天皇記念館の設計はアイルランドの建築技師トーマス・ウォートルス(Thomas James Waters)(1842年~1898年)。下は桜之宮公園内にある泉布観(せんぷかん)。旧造幣寮応接所。マンチニ氏の絵の右に描かれている。やはりトーマス・ウォートルスにより設計され1871年竣工。1872年(明治5年)6月、明治天皇が行幸の時に「泉布館(せんぷかん)」と銘々された。総レンガ造りの西回りコロニアルスタイルである。※ 泉布館と先の旧正面門は当事の位置にそのまま存在。1871年(明治4年)に金・銀貨幣の操業が開始。1873年に銅貨幣工場が竣工。当事の敷地は18万㎡。(56000坪)。現在の敷地は10万㎡。(30000坪)。※ 金属の鋳造工場が現在は他に移っている。1911年(明治44年)竣工の火力発電所(写真左)操業当事は蒸気機関で動力としていた。見える煙突はその名残。日露戦争1904年(明治37年)~1905年(明治38年)を背景に製造能力の倍増が求められ、1908年(明治41)~1912年(明治45)電化への設備拡張が行われた。(貨幣の製造能力は倍になった。)現在、造幣博物館となっているレンガ館は写真にある1911年(明治44年)竣工の火力発電所である。博物館は通常一般公開されている。(桜の通り抜けの期間を除いて。)欧米式に建設された造幣局のシステムは手探りで海外から導入。しかも技術のみならず、機械、科学、薬品、ガス、コークスなどの材料さえ、自給自足で調達せねばならなかったので結果的にそれらは日本に欧米の近代工場を紹介する事にもなったと言う。(あらゆる事において日本最先端工場だったのである。)我が国最古のガス灯(創業当初から使用されていた)構内にガス製造所が設置され石炭ガスを製造。1871年(明治4年)の創業当時、構内と付近の街路に65基設置。工場内621基。計686基もあった。因みに一般にガスが供給されるのが1905年(明治38年)。初めて灯った造幣局のガス灯に大阪市民は驚愕したらしい。この大阪の造幣局はいろんな意味で先端を行っていた。職員には断髪を指示。イギリス兵のような制服も造られ着用。オシャレな西洋建築とガス灯。ここだけ一気に文明開化 1863年浪速大川地図造幣局の立地は、大阪城の対岸。江戸時代には御破損奉行が管理する木材置き場あった場所。御破損奉行は、大阪城と蔵などの造営修理を専門にする役職。中心赤い円が造幣局に決まった場所。その上のピンクは大阪天満宮。レンガ館前の通り桜の通り抜けの時は建物が見えないほどに桜が満開。造幣局の風物詩、今年の桜の通り抜けは4月11日(水)~17日(火)まで。現在開催中。※ 桜の通り抜けに関しては、昨年紹介済み。 2017年4月「大阪 造幣局 桜の通り抜け」下は以前の写真毎年新しい桜が加わるのも愉しみ。造幣局次回に続く。大阪天満の造幣局と関連 Back number 大阪天満の造幣局 1 幕末維新の貨幣改革 と旧造幣局リンク 大阪天満の造幣局 2 お雇い外国人とコイン製造工場リンク 大阪天満の造幣局 3 コイン製造とギザの話リンク 秀吉と金の話 (竹流金と法馬金から)お金シリーズ Back numberリンク お札シリーズ 1 (アメリカ合衆国ドル・・ドルの札束)リンク お札シリーズ 2 (ユーロ札と見本とコイン)リンク お札シリーズ 3 (ユーロ札束)リンク ドル・トラベラーズ・チェック(T/C) の高額券リンク ロンドン(London) 10 (テンプル教会 2 Banker)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 6 コインの登場と港湾都市エフェソス
2018年04月15日
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文の形体が崩れていたので修正しました。ついでに、2021年、3月24日今、ベランダの月桂樹はまさに花のさかりです。今年も咲いたのですさかのぼる事、昨年(2017年5月)「幸福の木の花 ドラセナ・フレグランス・マッサンゲアナ」の紹介をしましたが、その直後に今度はベランダに置いていた月桂樹(げっけいじゅ)に花芽を発見。これはまたまた植物ネタか? と思ったのですが、花芽はそのまま夏を越え、秋を越え、冬を越えて3月に入るまで休眠状態? 花芽が出てから開花までに10ヶ月を要したのでした。しかもその花はうちでも10年ぶりの開花。私も見るのは2度目そんな訳でちょっと珍しい花の紹介です。月桂樹(げっけいじゅ)の花 雌雄異株月桂樹(げっけいじゅ)雌雄異株(しゆういしゅ)(Dioecy)月桂樹の花雌雄同株(しゆうどうしゅ)と雌雄異株(しゆういしゅ)香辛料 ローリエ(laurier)性別記号(gender symbol)ベランダの月桂樹に花がやっと咲きました月桂樹(げっけいじゅ)学名 Laurus nobilis 「高貴な常緑樹」Angiosperm Phylogeny Group (APG)(被子植物系統群)Angiosperms(被子植物)Magnoliids(モクレン類)Laureales(クスノキ目)・・ 7科に100属2900種余り、大部分がクスノキ科Laureaceae(クスノキ科)・・55属2000種以上を含む被子植物の科・・多くは温帯南部や熱帯、特にアジア南東部やブラジルに分布・・精油を含み、芳香をもつ種が多い。Laurus(ゲッケイジュ属) L.nobilis(ゲッケイジュ)・・常緑高木。地中海沿岸原産。雌雄異株3月15日の花芽(直径5~7mm)上下共3月15日3月24日の花芽(花蕾)(直径1cm弱)上下共3月24日 花芽は割れて6つの花蕾に別れた。3月28日の花芽(花蕾)(直径1cm今思えば、この段階で雄花だと言う事が解る。つまり、うちの月桂樹の木はオスの木だったと言う事に・・。理由は簡単だ。月桂樹は以前紹介したアスパラガスの木と同じように雄(お)しべと雌(め)しべのいずれか一つしか持たない単性花(たんせいか)であり、しかもそれらは同じ木にには付かない。雌雄異株(しゆういしゅ)と言う別の株なのである。雌雄異株(しゆういしゅ)(dioecism)月桂樹(げつけいじゅ)の木は雌雄異株(しゆういしゅ)の形態を持つ木。つまりオスの木とメスの木が存在している種類なのである。被子植物の場合、花は両性花(雄しべと雌しべで一つの花)であるのが一般。自分で自家受粉(じかじゅふん)ができて結実する事ができるタイプが両性花(りょうせいか)である。雄花と雌花で別れるといと言う単性花(たんせいか)はむしろ裸子植物に近い。雌雄同株(しゆうどうしゅ)と雌雄異株(しゆういしゅ)単性花のうち雄花と雌花が同一の株につくタイプを雌雄同株(しゆうどうしゅ)と呼ぶ。一方月桂樹のように単性花でも、雄花(おばな)と雌花(めばな)とが別の株につくタイプを雌雄異株(しゆういしゅ)と呼ぶ。また、両性花と単性花が一つの株に雑居した雌雄混生タイプも存在。雄性両全性同株と呼ぶらしい。雌雄異株(しゆういしゅ)の場合、当然、自家受粉はできないので他家受粉となる。つまり雌雄異株(しゆういしゅ)(Dioecy)は自己受精を排除し、同種異系統(異系交配)を促進する方法の1つで、集団内に存在する劣性の有害な突然変異の発現を減少させるのだそうだ。月桂樹の場合、その繁殖方法は結実でなくても挿し木で増やす事が可能だし、観察していると毎年、月桂樹には側芽(そくが)が増え続け、株は横に広がって自生していくので雌雄異株(しゆういしゅ)の弊害はないように思う。それに必要とするのは香辛料に利用できる葉の部分なので雌雄の別になんら関係無い。その為もあるのか? 日本に流通している株のほとんどはオスの木らしい。開花は春初旬。オスの木は黄色の花が咲く(雄花)。※ オスの花が黄色に見えるのは実は雌しべの花粉の色なのである。メスは白い花が咲き結実して黒い実が付く(雌花)。それぞれの花は、直径1cmほどの中に6つの花蕾を持っている。ところでうちの月桂樹の花は、ほぼ10年ぶりに開花。なぜ?鉢植えだし栄養が悪かったのだろうか? 花芽の肥料は与えていたが・・。花芽の時に剪定していたか? いやいや花芽が10ヶ月もあったのだから間違って切り落とす事はないだろう。次も10年後なのだろうか?一つ言えるのは花芽の状態から毎年咲く事はありえないだろう。3月29日3月30日確かに雌(め)しべは見えない。あるのは雄(お)しべだけ。月桂樹の花解体してみた。(マイクロ撮りのできないカメラなので写りが悪いが・・)一つの花芽は1cm。花蕾に別れて一つの花自体のサイズは5mm程度。その中の雄しべは1mm以下。一つの花蕾に、花は6個。 花びらは4枚。 雄しべは10本。4月1日接写(限界)面白いのは、オスの木だけどとても甘い良い芳香がする事だ。確かに、虫に寄って来てもらわないとその花粉をメスの木に届けられないからね。納得そう考えると、芳香の強いものほど受粉を虫にたよっている種と言う事ですね。参考にメスの花を拾って来ました。さわやかで美しいですね。雄(お)花は可愛く、雌(め)花は凜(りん)として美しい気がします。ところで、雌雄異株(しゆういしゅ)の木は実は珍しくない。案外身近にありました。キジカクシ目カジカクシ科 アスパラガス ※ 2011年6月「アスパラガスの木 「クイズ これは何でしょう? 」 解答編 」で紹介。イチョウ目イチョウ科イチョウ属 イチョウ (銀杏はメスの木に成る)ソテツ目ソテツ科ソテツ属 ソテツバラ目アサ科アサ属 アサ(大麻草)キントラノオ目ヤナギ科ヤマナラシ属 ハコヤナギ(ポプラ) ※ 日本のポプラはほぼオスの木らしい。キントラノオ目ヤナギ科 キヌヤナギクスノキ目クスノキ科ハマビワ属 カゴノキクスノキ目クスノキ科ハマビワ属 ハマビワクスノキ目クスノキ科クロモジ属 ダンコウバイ、シロモジ、アブラチャンクスノキ目クスノキ科シロダモ属 シロダモ、イヌガシ、ダイトウシロダモ ※ 月桂樹もクスノキ目クスノキ科です。クスノキ目多いですね。イチイ科イチイ属 イチイガリア目ガリア科アオキ属 アオキ雌雄同株(しゆうどうしゅ)の木マツ目マツ科マツ属 マツマツ目ヒノキ科スギ亜科スギ属 スギマツ目ヒノキ科ヒノキ属 ヒノキ香辛料 ローリエ(laurier)ローリエ(Laurier)はフランス語で、ベイリーフ(bay leaf)は英語。ローリエ(laurier)は、月桂樹の葉を乾燥させた香辛料。ケルト語の「laur(緑色)」に由来するラテン語。そもそも月桂樹は小アジア原産の常緑低木で、かつては地中海沿岸に群生した林もあったらしい。昨年収穫して乾燥させた月桂樹の葉冷蔵庫に保管するといつまでも青々。4年前のもまだ青いです。青い方が製油も多く、香りも高い。楊枝の隣にある小さいのが市販されている一般のサイズ。その葉は、オリンピックなどの勝者に贈る月桂冠のリースで有名であるが、葉に含まれる精油の効能から薬用や料理に古来から重用されてきた香辛料である。近年、月桂樹の中に、血管を拡張する作用を示す物質が含まれている事が発見されたそうだが、欧州では食欲の増進や消化に効く。あるいは肝臓に良いとされて昔から利用されてきている。葉の成分に含まれるシネオール (cineol)、リナロール(linalool)、オイゲノール(geraniol)などのエッセンシャルオイルに効能があるようだ。特に葉の45%に含まれるシネオール (cineol)別名ユーカリプトール(eucalyptol)はさわやかな芳香と味を持つことから、食品添加物・香料・化粧品、薬用にも利用される成分だ。※ シネオール (cineol)はヨモギ、バジリコ、ニガヨモギ、ローズマリー、セージなどの葉にも含まれる。※ シネオール (cineol)の含有量の多い葉ほど高品質だそうだ。リナロール(linalool)はフレーバー、フレグランス両方の香料原料として使用される。オイゲノール(geraniol)もフレーバー、フレグランスに加え、殺菌剤や麻酔薬などの医薬品に用いられる。料理では肉料理の臭みけしとしてフォンドボーを造るのには欠かせない素材。一般にはシチューやカレーなどの煮込み料理から野菜スープなどにも利用。うちではコショウと同じくローリエ、タイム、オレガノは欠かせないハーブ。追記・・先ほど単性花と両性花で紹介した性別記号について・・。性別記号(gender symbol)元々は♂は火星、♀は金星を表す天文学や占星術で使う記号だった。スウェーデンの博物学者カール・フォン・リンネ(Carl von Linné)(1707年~1778年)が惑星の記号を生物の記号に利用したのが始まり。金星を表す記号は、雌記号 ♀ (Venus)。元はローマ神話の美の女神ウェヌス(ヴィーナス)の持つ手鏡を図案化したもの? らしい。火星を表す記号は、雄記号 ♂(Mars)。元はローマ神話の軍神マルスの持つ盾と槍を図案化したもの。水星を表す記号は、雌雄同体の記号。つまり二つの性を持つ者。人間にはいないが植物にはある。元はローマ神話の商人や旅人の神メルクリウス(マーキュリー)の持つ、二匹の蛇が絡みついた杖を図案化したもの。だから本来、順番も惑星の配列(水金地火木土天海)に準じた並びになるそうだ。面白い。さて、次回はお金の話です。
2018年04月07日
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