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ラストにBack numberを入れました。平安が続いた江戸時代には、いろんな文化が花開いている。お洒落、なんて物が庶民にまで降りて来たのもこの頃だろう。今まで、文化芸能は貴族のもの、それが戦国武将が活躍する時代になると武士の装いにもフォーマルが誕生。刀装具(とうそうぐ)や提げ物(さげもの)もこだわりが現れる。特に、刀剣の鍔(つば)や目貫(めぬき)、笄(こうがい)など装剣金具に至っては繊細で凝った物が造られ始め、印籠や根付けなども江戸初期は武士や富裕な商人のお洒落アイテムであった。そんな高級な持ち物でのお洒落はマネできないが江戸初期に若者らから始まった一風変わったお洒落スタイルがある。それが傾き(かぶき)ファッションである。ルーツは出雲の阿国(いずものおくに)が始めた「かぶき踊り」にあるらしい。歌舞伎のルーツとも言われる出雲の阿国(いずものおくに)(1572年(元亀3年?) ~没年不詳)は実は女性。その女性が男装して歌や舞を舞ったのがそもそもなのである。江戸初期、出雲の阿国以来女性の歌舞伎が流行する。しかし、これは特に遊女の品定めに利用されたらしく、風紀が乱れるからと禁止された。そして、代わりに現れたのが少年による「かぶき踊り」だったそうだ。ところが、これまた今度は美少年(若衆)目当てに男色が増えて風紀が乱れると禁止された。が、そのファッション事態は江戸の街の、今で言うイケイケの若者の間に広まったようだ。傾く(かぶく)と形容されるファッションがそれである。傾く(かぶく)は、後々、歌舞伎に転じるようだが、そもそもは出雲の阿国(いずものおくに)の「しなり」ポーズを真似た所から発しているらしい。必須アイテムは刀。そして髪は長髪。決して月代(さかやき)はせず、前髪も残して曲げを結う。※ 月代(さかやき)とは、武士のたしなみ。頭頂部を剃る事。実は兜(かぶと)の蒸れ防止だったとも・・。ちょっと女性のカッコ。いや、もともとは出雲の阿国(いずものおくに)のイケテル姿を真似したカッコだったのだろう。着衣も小袖の上に黒の袖無しを重ね着するなど本当に当世の若者ファッションに発想は近い気がする。アイテムは刀。これは戦う為ではなく、小道具である。刀に寄りかかったり、担いでポーズを取って見せたり、この姿がカッコ良いんじゃないか? と研究している様が見える。当然、大人達はそんな若者らを嘆いたそうだが・・。つくづく、今も昔も、案外変わらないのが若者の真理なんだなーと感心した次第である。さて、今回で「東京クルーズ・隅田川ラインと水門」は終わりです。普通のクルーズ船案内のつもりが、内容が濃くなり、クルーズからかけ離れて「隅田川の紹介」になってしまった気がしますが・・何より隅田川は歴史が深い。一朝一夕に語れない所だと改めて実感しました。またポイントを絞って紹介するチャンスがあるかもしれませんが・・。ところで、昨今は少し無理して忙しかったので、休憩兼ねて少しお休みし、今後はネタが思い浮かんだ時、内容を短くして、ちょこっとずつ、月1回(無理して2回)くらい掲載できればと考えています。年内には昨年中断したクリスマス関係も書かねばならないので、何回かは載せられると思いますが・・。とりあえずいつもごひいきしていただき感謝しております。過去ログも近年5年内のものは、内容も充実しているので読んでいただければ幸いです。m(_ _)m東京クルーズ・隅田川ラインと水門 6 (吾妻橋から言問橋&水神の森まで)江戸時代のファッション金のビルとオブジェ吾妻橋(あずまばし)源森川水門(げんもりかわすいもん)隅田川橋梁 (東武伊勢崎線)言問橋(ことといばし)隅田公園と桜橋(さくらばし)白鬚橋(しらひげばし)歌川広重「隅田川水神の森真崎」隅田川の総鎮守 水神の森今回でクルーズは終章。やっと浅草の吾妻橋(あずまばし)まで来ました。吾妻橋の上流に向かって左岸(西)に隅田川ライン・クルーズの浅草乗船場があり、登りの終着駅になっています。しかし、上流に向かう時は、サービス? スカイツリーを他の角度から眺めるようにとの配慮かな?東武伊勢崎線の鉄橋を越え、次の言問橋(ことといばし)手前まで航行してからUターンして浅草の乗船場まで戻るのです。そんな訳で取りあえず吾妻橋を越えます。アサヒビールタワー(左)とスーパードライホール(右)金のビルと金の巨大オブジェこの角度のアサヒビールタワーが一番泡っぽく見える。もともと隅田川の吾妻橋のたもとにあった工場跡地の再開発で1989年に建造完成されたのが、壁面はビールのジョッキを、最上部は白い泡をイメージしたアサヒビール株式会社の吾妻橋本部ビル(アサヒビールタワー)である。そして隣の金の巨大オブジエは?隣接するスーパードライホール(1989年竣工)である。屋上にのった奇妙なモニュメントは、燃え盛る炎を形象した「フラムドール(flamme d'or)( 黄金の炎)」と呼ばれるものらしい。チューブを絞ったかのような物に見えますが、炎の揺らぎの形らしい。アサヒビーの燃える心を象徴したと言うオブジエだそうだ。フランスのデザイナー、フィリップ・スタルク(Philippe Starck)(1949年~ )による設計で一応、聖火台をイメージしたものらしい。aでも、なんで横倒しなのでしょうね。建築許可の問題ですかね?吾妻橋(あずまばし)向こうに見えるのが東武伊勢崎線。右岸、次の駅が「とうきょうスカイツリー駅」地上、浅草側からの吾妻橋。左に見切れているのが、隅田川ライン・クルーズのチケット売り場。スカイツリーまで近いように見えて、ここから歩いて15分くらいかかります。上流側からの吾妻橋下はスカイツリー、フロア450からの吾妻橋から東武伊勢崎鉄橋までの写真です。東武伊勢崎線のラインに沿って運河のような北十間川(きたじっけんがわ)が隅田川に合流。水門は源森川水門。水門の左隣に見えるビルが墨田区役所である。区役所の対岸が隅田公園と、東京隅田クルーズの浅草乗船場。下はさらに地域を拡大。上の方に浅草寺。その右方向に花屋敷がある。左、吾妻橋のすぐ北に浅草寺山門の雷門(かみなりもん)を→しました。下は拡大写真。浅草寺(せんそうじ)と花屋敷(はなやしき)花屋敷(はなやしき)は都会の遊園地です。東京隅田クルーズの浅草乗船場。すぐ上が隅田公園で、桜の時期は桜越のスカイツリーの写真が撮れます。右は墨田区役所。(公園から浅草乗船場からの写真東武伊勢崎線の鉄橋 左が浅草。右がスカイツリー駅方面鉄橋手前に北十間川(きたじっけんがわ)の隅田川、合流点。.源森川水門(げんもりかわすいもん)形式 公鋼製ローラーゲート水門寸法 幅11m 高さ7.5m開閉速度 常時0.5m/min 急降下地2.0/min扉体自重 43.75t竣工 1994年(平成4年)北十間川(きたじっけんがわ)の隅田川、合流点の水門が源森川水門(げんもりかわすいもん)?その理由は、今でこそ北十間川(きたじっけんがわ)となっているが、かつて、合流のこのあたりは源森川or源兵衛堀と言ったそうだ。因みに北十間川(きたじっけんがわ)の由来は、川幅 十間から来ているらしい。隅田川橋梁 (東武伊勢崎線)別名 東武花川戸鉄道橋(とうぶはなかわとてつどうきょう)構造形式 複線中路カンチレバーワーレントラス(3径間)鋼材重量910(重量トン)橋長 166m幅員 不明着工 昭和2年竣工 昭和6年言問橋(ことといばし)「言問(こととい)」という橋の名は平安の歌人、在原業平(ありわらのなりひら)(825年~880年)の詠んだ、歌に因んでいると言うが、優雅な歌とは真逆に 1945年(昭和20年)の東京大空襲の時は橋の上で多くの人が焼夷弾で亡くなったと言う惨劇の歴史もある橋だそうだ。構造形式 三径間ゲルバー鈑桁橋橋長 238.7m幅員 22.0m着工 1925年(大正14年)竣工 1928年(昭和3年)クルーズではここでUターンして浅草の乗船場に戻るのですが、スカイツリーからの写真があるので少し延長して橋を紹介。スカイツリーからの左、言問橋(ことといばし)と右のクロスが桜橋(さくらばし)。隅田公園と桜橋(さくらばし)右側が上流。上が浅草側なのであるが、不思議にもと、隅田公園が言問橋両岸に分かれている。つまり台東区浅草側の隅田公園と、下の右岸、墨田区向島の隅田公園に分かれているのである。そもそも隅田公園は、関東大震災(1923年)の復興事業の一環により、計画された日本さくら名所100選に選定される桜の名所だそうだ。約700本の桜の樹があるらしい。※ 隅田川両岸の桜並木は、古くは八代将軍 徳川吉宗(1684年~1751年)の計らいで花見の為に植えられたと言う歴史を持つ。その両岸の隅田公園を結ぶ隅田川唯一の歩行者専用橋が、桜橋(さくらばし)なのである。両岸の隅田公園を結ぶ園路の役割を持つ橋は、X字形の特異な形をした橋で、1985年に完成。花見シーズンには、多くの人で賑わうと言う。総工費、28億3000万円。台東区、墨田区の折半だそうだ。下はパブリックドメインになっていたので参考にウィキメディアから借りてきた桜橋の写真です。墨田区側の隅田公園さらに上流の左、桜橋(さくらばし)と右、白鬚橋(しらひげばし)写真上方に横切る荒川が見えている。そこで合流するのかと思いきや、隅田川は荒川手前で左にカーブ。荒川に併走するようにくねりながら常磐線の鉄橋をくぐり、千住汐入大橋をくぐりさらに登る。前回紹介したが、千住大橋は徳川家康の時代(1594年)に架けられた隅田川最初の橋。1657年(明暦3年)の明暦の大火以前は隅田川を渡り江戸市中に入る橋はこれしかなかったのである。ブルーのラインが荒川(あらかわ) ピンクノラインが隅田川(すみだがわ)桜橋の次が白鬚橋(しらひげばし)。そして次が水神橋で、その次が千住汐入大橋と続く。※ 水神大橋の手前の森が、かつての「水神の森」。現、東白鬚公園(ひがししらひげこうえん)。白鬚橋(しらひげばし)千住大橋が完成して主だった街道筋が移されるまではここから渡し船に乗って、隅田川を渡っていたらしい。創架は1914年(大正3年)、基金を募って資本金を作って住人により架けられた橋が最初らしい。先ほど言問橋で触れた、在原業平が詠んだ歌(伊勢物語「東下り・すみだ河」)は、実はここの渡しだったとされている。※ 白鬚橋下流のところに渡舟場があった。下はやはりハブリックドメインになっていたのでウィキメディアから借りてきた白鬚橋です。橋の名は橋の手前、東岸にある「白鬚神社」(現在は東向島白鬚神社)に因むらしい。構造形式 下路式ブレースドリブドタイドアーチ橋橋長 168.8m幅員 22.1m着工 1928年(昭和3年)竣工 1931年(昭和6年)歌川広重「隅田川水神の森 真崎」白鬚橋の西岸に石浜神社があり、東岸には東白鬚公園が隅田川の堤にそって次の水神橋まで連なっている。(現住所で言えば墨田区堤通。)それはかつて、歌川広重が名所江戸百景の一つ「隅田川水神の森真崎(すみだがわすいじんのもりまさき)」を描いた場所である歌川広重 1856年(安政3年)絵に見えるのは筑波山だそうだ。実はこの絵が東岸から描いたものか? 西岸から描いた物か? 今一つハッキリしなかった。何しろタイトルが「「隅田川水神の森真崎」となっているので東岸の水神様から描いたものだと考えられているふしがある。しかし、いくら隅田川が蛇行しようとも、筑波山が正面にあるのだから、やはり方位的にこの絵は西岸から東岸の水神の森の方角を描いたと解釈した方が良い。つまり、この絵は普通に武蔵野国から下総国を見た図と言う解釈で良いと思う。絵を描く立場で言うと、デザイン的に筑波山の位置を多少ずらしている可能性はある。バランスの関係で・・。必ずしも真実を紹介する必要が無いのもまた浮世絵の世界観であるし・・。では、そうなると手前の鳥居は何か?これこそ、真崎(真先)にあった「真先稲荷神社」であり、絵は、その手前のかつての石浜城跡の丘あたりから描いたのではないかと想像できる。※ 真先稲荷神社(豊受姫神)は1926年(大正15年)に石浜神社に併合。現在、境内社になっている。※ 隅田川西岸一帯がかつての真先(まさき)。今は南千住3丁目あたり。かつて隅田川の眺望を楽しむ場所としても知られたそうだ。隅田川の総鎮守 水神の森絵の対岸の向島方面が、現在の東白鬚公園(ひがししらひげこうえん)になっている。住所では墨田区堤通(つつみどおり)。かつては隅田村。東京都神社庁に所属する、現、隅田川神社が「水神様」である。※ 明治5年(1872年?)、「水神」から「隅田川神社」に名称変更されている。※ 明治政府による宗教政策については、以前八坂庚申堂のところで書いています。2017年9月「八坂庚申堂 (明治政府に排斥された庚申信仰)」維新政府の宗教改革(振り回された神社)リンク 八坂庚申堂 (明治政府に排斥された庚申信仰)古くは「水神宮」または「浮島の宮」と呼ばれた隅田川神社の歴史は源頼朝(みなもとのよりとも)(1147年~1199年)の関東下向、挙兵の際、1180年(治承4年)この地に到り、水神の霊験に感じて水神社の社殿を造営したと伝わるそうだ。小高い丘の上の宮は増水でも沈む事がなかった事で「浮島」とも呼ばれた事、またこのあたりが交通の要所(往古の街道筋)で、渡舟場があった事などから隅田川流域の船主の信仰を集め、後々船頭や荷船仲間に広く深く信仰されて隅田川の総鎮守となったようだ。震災・戦災にも焼失を免れた森も戦後の開発で消えてしまった。現在の社殿は幕末(1858年、1864年)の二度の建設によるもの。場所も100mほど移動。昔の面影は全くないらしい。荒川の下流、鐘ヶ淵を越え大きく曲がったこの地は、かつては隅田川の落ち口(終点)だったそうです。つまり、昔はここから海(江戸湾)。今はかなり上流だけど、ここらが入江だったらしいのです。「江戸」の語源は、ここの「江の口」から由来しているとの説もあるそうですよ。隅田川の総鎮守の水神様にたどりつくとは、当初思ってもいませんでした。また、最初の東京湾入り江にたどり着き・・。落ちもよろしいかと・・。「東京クルーズ・隅田川ラインと水門」終わりにしたいと思います。ちょっとお待たせしてすみませんでした。m(_ _)m Back numberリンク 東京クルーズ・隅田川ラインと水門 1 東京港リンク 東京クルーズ・隅田川ラインと水門 2 水門と排水機場リンク 東京クルーズ・隅田川ラインと水門 3 佃島界隈と佃島の歴史リンク 東京クルーズ・隅田川ラインと水門 4 永代橋から新大橋までリンク 東京クルーズ・隅田川ラインと水門 5 (両国橋から駒形橋まで) 東京クルーズ・隅田川ラインと水門 6 (吾妻橋から言問橋&水神の森まで)
2018年08月25日
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ラストにBack numberを入れました。前回紹介した新大橋。その橋から今回冒頭紹介している隅田川を横断する首都高の橋桁手前の西岸がちょうど浜町公園になる。※ 残念ながら写真が無い。上を高速が走り防潮堤の壁が連なり船からは公園は見えなかった。その浜町公園界隈は江戸期には各大名屋敷が連なっていた所。※ 明暦の大火(1657年3月)後には吉原は浅草に移転。新吉原となる。江戸幕府に長らく陳情に出ていた遊郭の主人達。やっと遊郭の許可が降りたのは1617年(元和3年)だったとされる。※ 豊臣家との結着がついた大阪夏の陣が1615年。大阪が直轄地になるのも1619年と世がまだごたごたしていた頃だ。幕府としては、風紀上の問題もあり管理も楽。一方市場の独占を狙う遊女屋の主達との利害が一致しての取り決めだったのだろう。以降、江戸では公式の遊郭は吉原だけとなり、遊女は吉原の外には出られず(出張も無し)など厳しい吉原の規則ができる事になる。 最初の吉原は、葺町屋(ふきやちょう)にできたらしい。そこは葭(よし)の生えた原っぱ「葭原(よしはら)」で、そこから「吉原(よしわら)」の名に転じたらしい。「吉」の字で商売繁盛を願ったのかな?吉原は公認された遊女屋が一ヶ所に集まった場所。(遊女の質は特Aランクから普通まで様々。)人の行き来を制限して内部の治安を維持、安全性をうたって男性の集客をした男性の為のテーマパークのような所だったと言える。とは言え、吉原以外に実際のところ遊女がいなかったわけでは無い。違法は常の世にある。ついでに最初の吉原の場所を特定しようとしたのだが、「現在の日本橋人形町あたりにあった」とされているだけ。意外にネットでは書いている人がいない。(浅草の方はあるが・・。)もう少し調べてみようと古地図とニラメッコしながら現在の日本橋富沢町と人形町2丁目あたりと絞ってみた。明暦の大火後に吉原の跡地は新和泉・住吉・高砂・浪花の4ヶ町に分かれたらしい。新和泉町、住吉町は(現 日本橋人形町)高砂町は(現 日本橋富沢町)浪花町は(現 日本橋人形町と日本橋富沢町)※ 現 富沢町は、町名の無い単独の町名。その南側が、現 人形町2丁目である。江戸初期にできて、39年程で消えた吉原の場所の特定は難しい。(資料が不十分なのかもしれないが・・。)吉原の南の端に水天宮があったとされるのだが、水天宮の場所も移動しているかもしれないし、規模も小さくなっているだろう。また明暦の大火、関東大震災。第二次大戦と、都会の土地はずいぶんと変わってしまったし・・。古地図には各藩主の屋敷がある中、不思議な一角が見つかった。「松島町」なる誰の屋敷でもない何も表記の無い謎の四角い土地が・・。ここに何か関連が?※ 旧名の松島町は現日本橋人形町になっている。吉原に隣接していたか? もしくはここも吉原の名残かもしれない。この謎は宿題ですね。東京クルーズ・隅田川ラインと水門 5 (両国橋から駒形橋まで)旧 吉原の場所竪川(たてかわ)水門両国橋(りょうごくばし)江戸の大火で掛けられた両国橋(りょうごくばし)神田川(かんだがわ)と柳橋(やなぎばし)柳橋と花柳界JR総武線の鉄道橋蔵前橋(くらまえばし)蔵前のルーツは幕府のお米蔵厩橋(うまやばし)駒形橋(こまがたばし)船がまさに浜町公園の横を航行。首都高の右の橋桁の向こう、調度、竪川(たてかわ)からの合流点になる。もちろんそこには水門があります。隅田川との合流地点は、ちょうど首都高速7号線と6号線が合流する両国ジャンクションである。大阪もそうであったが、東京も、土地買収の関係から高速道路は川の上などに設置されたのだ。ところで、首都高及び首都高速の名称は、首都高速道路株式会社の登録商標だそうだ。首都高の本来の名称は、都市高速道路(としこうそくどうろ)とされる。それは都市内の道路交通を円滑にする目的で建設された自動車専用道路であり、昭和43年の都市計画法に基づいた施設として「通行が自動車に限定された道路」として誕生した。※ 都市高速道路は6つの都市内に誕生。「首都高速道路」、「阪神高速道路」、「名古屋高速道路」、「福岡高速道路」、「北九州高速道路」、「広島高速道路」。竪川(たてかわ)水門竪川(たてかわ)は、旧中川と隅田川を東西に結ぶ運河。その全区間の上を首都高速7号小松川線が走っている。※ 竪川は1659年(万治2年)に起工された運河で、かつては、物資輸送のみならず、成田山、香取、鹿島神宮への参詣路としても利用された重要路。竪川(たてかわ)水門形式 鋼製:単葉ローラーゲート径間 11m×2連扉高さ 7.5m竣工 1959年(昭和34年)度両国橋(りょうごくばし)江戸の大火で掛けられた両国橋前にも触れましたが、防衛の面から、幕府は隅田川への架橋を制限していたそうです。(橋は千住大橋しかなかったらしい。)※ 千住大橋は徳川家康の時代(1594年)に架けられた隅田川最初の橋。しかし、1657年(明暦3年)の明暦の大火では、逃げ場を失った江戸市民が多数焼死。その被害は死傷者含み10万人とも・・。さすがに幕府の方も今後の対策を検討。防火と防災と江戸の街の復興の為に新たな架橋をする事になった。両国橋(りょうごくばし)は、千住大橋に次いで、隅田川に2番目に掛けられた橋なのだそうだ。歌川広重 名所江戸百景から 両国橋大川ばた 1856年両国橋の東岸がかつての本所(ほんじょ)。江戸市中の川向こうであった本所は、元禄年間に宅地化が進む。深川と並んで、拡大する大都市江戸の新興居住区域となった場所。歌川広重 名所江戸百景から 両国花火前回、「東京クルーズ・隅田川ラインと水門 4 永代橋から新大橋まで」の冒頭隅田川の花火大会の事に触れましたが・・。リンク 東京クルーズ・隅田川ラインと水門 4 永代橋から新大橋までその発祥は隅田川での水神祭。そして季節は秋祭りだったようです。上の浮世絵は、歌川広重 名所江戸百景の中、秋の部に含まれていました。下の写真は「両国花火」現代の刷りの物の一部です。橋の周辺に活気があった事がわかります。当時の人達が、今の隅田川の現状を見たら絶対腰を抜かすでしょうね。と、同時に逆に設備もない時代によくこんな立派な橋が架けられたものだと感心します。素材は全て木製ですしね。神田川(かんだがわ)と柳橋(やなぎばし)柳橋(やなぎばし)手前は隅田川(すみだがわ)。柳橋から向こうが神田川(かんだがわ)。そして中央区と台東区の区境に位置する。最初の橋は幕府の命により、町年寄御三家の1つ樽屋(たるや)の当主 樽屋藤左衛門により掛けられたと言う。※ 1~10代まで、当主は 樽屋藤左衛門を名乗っているので何代目の時かは不明。現在の橋は1929年(昭和4年)に架橋。震災復興計画で耐震構造に配慮した鋼鉄橋で、永代橋のデザインをモデルに建設された、区内に残る数少ない復興橋梁で、中央区、区民有形文化財 建造物に指定されているらしい。歌にも歌われる神田川はこれでも一級河川。この源は三鷹の「井の頭公園」だと言うのだからちょっと驚き。しかも都心を流れる川であるにもかかわらず、地下を潜る事もなく、全線、開渠(かいきょ)だそうだ。※ 開渠(かいきょ)・・地上の水路で、特にオープンでふたが無い水路。柳橋と花柳界この界隈は江戸時代以降、花柳界(かりゅうかい)として発展した所。両岸には料理茶屋が多く洗練された江戸市中の商人や文化人の奥座敷となったと言う。1698年(元禄11)神田川の河口に橋が架けられ、火除けの柳が川辺に植えられると河口の橋は柳橋(やなぎばし)と呼ばれるようになったらしい。柳がある花街だから花柳界か? と思われがちだが、花柳界があるからこそ柳の木が植えられたのではないかとも思う。唐代の詩人、李白(りはく)(701年~762年)の詩に花柳の語がすでにあるからだ。出典は「夜郎(やろう)に流されて辛判官(しんはんがん)に贈る」758年、李白が反乱に手を貸したかどで夜郎(貴州省西北部)に島流しされた時に、友であった判官の職にある辛さんに当てた手紙(漢詩)の一文。「昔在長安醉花柳 (昔 長安に在りて花柳(かりゅう)に酔(よ)ふ)」「昔、長安にいた頃は、二人で歓楽街で酔ったものだね」はるか昔、「花柳(かりゅう)」のワードが歓楽街の意味として使われていた事は明白だ、最も李白の時代、「花街に柳の木があった」からなのかもしれないが・・。両国橋を川上から見た所。神田川合流は写真右の方総武線と遊覧船・卑弥呼(ひみこ)「銀河鉄道999」の作者 松本零士 氏のデザインだそうだ。卑弥呼(ひみこ)の写真はお台場にて撮影していますが、いずれどこかで紹介。JR総武線の鉄道橋鉄道橋なので橋に名前は無い?先には蔵前橋(くらまえばし)が見えている。このJRの鉄道橋を越えると右側に両国国技館の屋根が見えてくる。建物で見えにくいけど、ピンクの矢印の当たりに国技館の屋根が見える。スカイツリーからの写真です。両国橋を過ぎ、神田川合流を左に見ながら、総武線の鉄道橋をくぐると右に国技館なのですが、ごらんの通り、手前の高速道路とビルによって船からでは垣間見られる程度なのです。蔵前橋(くらまえばし)鋼・コンクリート道路橋形式 - 3径間連続上路式ソリッドリブ2ヒンジアーチ、および上路式コンクリート固定アーチ橋長 173.2m 幅員 22.0m支間 50.902m(鋼アーチ最大支間)/ 12.192m(コンクリートアーチ支間) 活荷重 一等橋着工 1924年(大正13年)9月竣工 1927年(昭和2年)11月蔵前のルーツは幕府のお米蔵蔵前とは、両岸共にもともとお米倉の倉庫が並んでいた所。現在の国技館とその後ろの江戸東京博物館も引き込み式の造りのお米蔵があった所。当初、和田倉や北の丸、鉄砲洲、竹橋などにあった幕府のお米蔵は、幕府の命により浅草蔵前に移され、先に紹介した江戸の町年寄 2代樽屋藤左衛門元次により、1620年(元和6年)に蔵前に移転設計されたそうだ。隅田川西岸、蔵前の御米蔵の面積は3万6650坪(約99ヘクタール)。一番堀から八番堀まで埠頭のように8つの堀が並んだ造りになっていた。蔵前橋(くらまえばし)を越したところから川下方面橋を越えてすぐ西岸にあるのが蔵前ポンプ場厩橋(うまやばし)構造形式 3径間下路式タイドアーチ橋橋長 151.4m 幅員 22.0m着工 1926年(大正15年)竣工 1929年(昭和4年)元禄年間からもともと「御厩の渡し」のあった場所であるが、先に紹介した蔵前の米倉の荷を運ぶ為の厩(うまや)のあった場所「御厩河岸」から由来している。実はここの渡しはよく転覆事故を起こしていたそうだ。「三途の渡し」と皮肉られる事も・・。それで1874年(明治7年)、橋の架橋は最初民間の手により、長さ150m(511尺)、幅約6m(20尺)の木橋が架けられたと言う。蔵前橋の袂は一部、屋形船の乗船場江戸風数奇屋造りの和風座敷の屋形船は最近では通信カラオケ装置・冷暖房装置・水洗トイレも完備されているらしい。川上からの厩橋(うまやばし)。橋の向こうには蔵前橋が見える。厩橋(うまやばし)の橋下からの駒形橋(こまがたばし)白いアーチは改装中だからです。スカイツリーからの修復中、駒形橋の写真駒形橋に向かう頃、スカイツリーが右手(東側)にハッキリ見え始めて来る。吾妻橋のたもとにあるアサヒビールの金の巨大看板も視界に・・。両国橋あたりから隅田川は右に30度ほどカーブ。駒形橋(こまがたばし)改装中だった事と、吾妻橋と近接している為にちゃんとした写真がありませんでした。そんな訳でウィキメディアでパブリックドメインになっていた改装前の駒形橋の写真を借りてきました。構造形式中央径間 (中路式ソリッドリブタイドアーチ橋) 側径間(上路式ソリッドリブアーチ橋)橋長 149.6m 幅員 22.0m着工 1924年(大正13年)竣工 1927年(昭和2年)駒形橋(こまがたばし)の由来は橋の西詰にある駒形堂(こまがたどう)に因んでいる。駒形堂(こまがたどう)は、浅草寺の飛び地となっている堂である。因みに本尊は馬頭観音立像(秘仏)だそうだ。先に紹介した蔵前(くらまえ)と厩(うまや)にやはり関係しているのか? 馬の供養を目的として堂が建てられたのは、ほぼ間違いない。かつては隅田川に向いて建ち、ここで船を降りて、浅草寺の観音堂に向かう前に参詣して行く場所であったらしいが、今は水上タクシー乗り場の裏手になり見えなかった。次にやっと吾妻橋です。今回も終わりませんでした f^^*) ポリポリ次回吾妻橋とその界隈。言問橋とその先をスカイツリーからの写真を交えて紹介して終わらせる予定です。全2回予定のはずが、細かくやり過ぎて長ーくなってしまいましたが、今回もちょっと収穫がありました。江戸時代、案外面白いです。Back numberリンク 東京クルーズ・隅田川ラインと水門 1 東京港リンク 東京クルーズ・隅田川ラインと水門 2 水門と排水機場リンク 東京クルーズ・隅田川ラインと水門 3 佃島界隈と佃島の歴史リンク 東京クルーズ・隅田川ラインと水門 4 永代橋から新大橋まで 東京クルーズ・隅田川ラインと水門 5 (両国橋から駒形橋まで)リンク 東京クルーズ・隅田川ラインと水門 6 (吾妻橋から言問橋&水神の森まで)
2018年08月14日
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ラストにBack numberを入れました。隅田川での花火大会は、もともとは江戸時代、1732年(享保17年)の大飢餓と疫病で多くの死者を出した事から当時の8代将軍徳川吉宗が翌1733年(享保18年)5月に犠牲となった人々の慰霊と悪病退散を祈って隅田川で水神祭を行ったのが発端だったと言います。この時に、両国橋周辺の料理屋が公許により花火を上げたことが「両国の川開き」の由来だとか。※ この両国の花火が歴史的記録の残る最古の花火大会だそうです。1961年まで打上場所は両国橋上流。1978年に「隅田川花火大会」と名称変更。隅田川で復活し、打上場所もさらに上流へ移動。今年の打上場所は第一会場 桜橋下流~言問橋上流 。第二会場 駒形橋下流~厩橋上流 となっている。第一会場では 約 9370発(コンクール玉200発含む)。第二会場 約10650発の計 約20020発が打ち上げられる盛大なものです。隅田川リバーサイドのマンションからの眺めは格別でしょうね。東京クルーズ・隅田川ラインと水門 4 永代橋から新大橋まで隅田川の花火大会のルーツ永代橋(えいたいばし)夢の憂橋(ゆめのうきはし)&永代橋の悲劇豊海橋(とよみばし)隅田川大橋(すみだがわおおはし)清澄排水機場江東区清澄の水門管理センター平賀源内(ひらが げんない)電気実験の地清洲橋(きよすばし)萬年橋(まんねんばし)と小名木川(おなぎがわ)と新小名木川水門新大橋(しんおおはし)永代橋(えいたいばし)永代橋(えいたいばし)中央径間: 下路式スチールアーチ橋ニューマチックケーソン工法橋長 184.7 m 幅員 25.0 m着工 1923年(大正13年)12月 竣工 1926年ゅ大正15年)12月1698年(元禄11年)8月、江戸時代に隅田川に架橋された5つの橋のうち、4番目と、案外古い。徳川5代将軍綱吉の生誕50年を祝う記念イベントの一つとして架橋されたと言う歴史を持つ。当時としては最大規模の大橋。橋脚は満潮時でも水面から3 m以上。長さ110間(約200 m)、幅3間余(約6 m)。橋上からは「西に富士、北に筑波、南に箱根、東に安房上総」と称されるほど見晴らしの良い場所だったと言う。永代橋の向こうに横切る高速とその下が隅田川大橋。「永代橋」という名称は、架橋された江戸対岸に元あった中洲「永代島」に因むと言われるが、江戸幕府が末永く代々続くようにという意味もあったとか?しかし、不幸な事故も起きている。夢の憂橋(ゆめのうきはし)&永代橋の悲劇架橋から20年。財政難から維持管理が出来なくなり、橋の管理は町民の手にゆだねられる。町民管理になってから、おそよ90年の1807年(文化4年)、深川富岡八幡宮の12年ぶりの深川祭が行われた時に悲劇が起きた。江戸市中から多くの民衆が祭礼に来た為に詰め掛けた群衆の重みで橋が崩落。死傷者・行方不明者を合わせ1400人を超える大惨事となったそうだ。川上から月島方面を見た永代橋。バックのビル群は月島、佃エリアの高層マンション。大正期までに隅田川に5つの鉄橋が架橋。しかし、そのほとんどは橋底に木材が使用されていたのでの関東大震災1923年(大正12年)では、再び悲劇が起きている。避難する市民が橋とともに焼け落ち、焼死者や溺死者が多数出たそうだ。1926年(大正15年)に震災復興事業により隅田川の9橋の再架橋が決まり現在の橋梁が再架橋。震災復興事業の華」と謳われた清洲橋に対して、「帝都東京の門」と言われたこの橋はドイツの ライン川に架かっていたルーデンドルフ鉄道橋をモデルにした、現存最古のタイドアーチ橋らしい。永代橋を過ぎると、川上に向かって左サイドに日本橋川が合流する。日本橋川は、文字通「日本橋」まで続く川。豊海橋(とよみばし)日本橋川の河口にかかる橋が豊海橋(とよみばし)である。(日本橋川の第一橋梁)つまりこここから川を遡れば茅場町を通り日本橋や神田のほうまでたどり着けるのである。橋の北側(写真右)は箱崎である。こちらも関東大震災の復興橋として1927年(昭和2年)架設されたそうだ。永代橋との景観とバランスを考慮して設計。橋長 46.13m幅員 8 m着工 1926年(大正15年) 竣工 1927年(昭和2年)フィーレンディールトラス( Vierendeel truss)工法を仕様したフィーレンディール橋(Vierendeel bridge)である。※ フィーレンディールトラス( Vierendeel truss)工法とは、はしごのような形と言う事らしい。重量感のある鉄骨橋梁はとても目立つ。中央区民有形文化財だそうだ。豊海橋(とよみばし)を過ぎるとじきに隅田川大橋。ちょうど写真バックが、元の永代橋西詰があった場所。写真の都合上川上側から川下に見た隅田川大橋(すみだがわおおはし)になってしまいました。写真右が箱崎。隅田川大橋(すみだがわおおはし)隅田川唯一の二層式の橋。東京都道475号永代葛西橋線支線と首都高速9号深川線の高架橋と一体化された単純合成桁橋。橋長 385.3m幅員 30.0m(4車線)竣工 1979年(昭和54年)10月首都高速9号深川線建設にあわせて架橋されたもので、先に下段の隅田川大橋が完成。翌年に上段の高速道路高架橋部分が開通。二層式の橋と言ったが、実はこの川底の地下には東京メトロ半蔵門線が通っているのである意味三層ですね。隅田川大橋左岸。上段の高速、この先が箱崎ジャンクション。上流に向かって左岸、橋の向こうのビルがDaiwa リバーゲート。建物が凱旋門のよう。Daiwa リバーゲートそのすく真向かいにあるのが清澄排水機場。(上流に向かって右岸)清澄排水機場ポンプ口径:2600mm×3台 48b/s昭和61年度竣工エンジンはディーゼル江東区清澄の水門管理センターこの清澄排水機場の道路隔てたすぐ後ろに東京都江東治水事務所の水門管理センターがある。住所は江東区清澄一丁目。そこでは東京都の、東部低地帯における水害対策として整備した、防潮堤や水門等などの監視・制御を24時間体制で行っている事務所である。※ 10水門及び1樋門の遠隔監視制御、3水門、1樋門及び5排水機場の遠隔監視と共に水門操作時には、複数のカメラ映像による安全の確認を行っている。平賀源内(ひらが げんない)電気実験の地余談であるが・・。同じく清澄排水機場の左裏に「平賀源内電気実験の地」と言うのが地図に載っている。平賀源内(ひらが げんない)(1728年~1780年)と言えばエレキテル。そのエレキテルを長崎より持ち帰り、この地で修復して公開実験したのがここなのだそうだ。かつてここには武田長春院という幕医の下屋敷があり、源内は武田長春院の塾生にまじり居候させてもらっていたのだろう。つまりそこが源内の江戸の住まいだった所だ。※ 幕医・武田長春院とは、江戸時代中期の医師で武田杏仙の家をつぎ,幕府の医師となった武田叔安 (たけだ しゅくあん)(1700年~1774年)こと武田長春院、が開いていた塾。つまり医師の卵達が全国から教えを請いにきていた所。平賀源内(ひらが げんない)は1770年(明和3年)長崎より持ち帰ったエレキテルを修復して実験。1776年(安永5年)エレキテルをオリジナルで復元。「エレキテル」とは単なる静電気発生装置だっらしいが、高額な見物料をとって公開したにもかからわず大盛況。大名屋敷などへも持ち込んで見世物にしたらしい。清洲橋(きよすばし)構造形式 自碇式鋼鉄製吊り橋橋長 186.3m幅員 22m着工 1925年(大正14年) 竣工 1928年(昭和3年)関東大震災の震災復興事業として、。「帝都東京の門」となる永代橋と共に計画された為にデザインに気がくばられた。モデルとなったのは、ケルンにあった「The Deutz Suspension Bridge (ドゥーツ・サスペンション橋)」の方。「The Deutz Suspension Bridge」 は、アイバーチェーンを使った自立型の吊り橋でしたが、1945年2月28日に修理工事中に倒壊。※ 1948年世界初の鋼製ボックス桁橋に置き換えられた。1935年、ドイツの第2代大統領が死去した後、ヒンデンブルク橋と呼称されるようになった事から、同じく当時ドイツにあったライン川にかかる鉄道橋、ヒンデンブルグ橋(Hindenburg Bridge)と混同されたのではないか?※ 当のヒンデンブルグ橋(Hindenburg Bridge)は第二次大戦の空爆対象となり 1945年1月13日橋梁の全域が破壊。 ヒンデンブルク橋の最終的な破壊は1945年3月。こちらは再建されなかった。2007年(平成19年)、都道府県の道路橋として初めて勝鬨橋・永代橋と共に国の重要文化財(建造物)に指定。川下に向かっての清洲橋(きよすばし)清洲橋を過ぎてすぐに右岸より小名木川が合流。萬年橋(まんねんばし)と小名木川(おなぎがわ)と新小名木川水門萬年橋(まんねんばし)は小名木川にかかる橋で第一橋梁ここで隅田川に合流。小名木川は江戸市内へ行徳の塩や、近郊農村で採れた野菜、米などを船で運び込むための運河。それ故、船の運航に支障が無いよう橋はいずれも橋脚を高くしていたが、萬年橋は特に大きく高く虹型に架けられた太鼓橋。その優美な姿から北斎や広重が浮世絵に描いている。萬年橋(まんねんばし)構造形式 1径間下路ブレースドリブタイドアーチ橋、鉄筋コンクリート床鈑橋長 56.25m幅員 17.2m竣工 1930年(昭和5年)萬年橋の後方に見えるのが新小名木川水門この先は深川新小名木川水門(しんおなぎがわすいもん)形式 鋼製単葉ローラーゲート径間 11m×3連門扉高さ 7.8m竣工 1961年(昭和36年度)葛飾北斎 富嶽三十六景「深川萬年橋下」 初刷1830年頃ここからも富士山が見えたようですね。歌川広重 名所江戸百景「深川萬年橋」 初刷1857年放し亀を描いた作品。食べる為の亀ではありませんよ。万年生きる亀と萬年橋がかかっているらしい新大橋(しんおおはし)に向かって隅田川は左カーブ新大橋(しんおおはし)左岸手前の中洲公園前には日本橋消防署の水難消防艇「きよす」と「はまかぜ」が停泊。水難消防艇「きよす」と「はまかぜ」は共に型式は 軽合金船、V型全長は13.0mと13.34mと微妙に違うが、総トン数 9.7t 定員 10人 最高速度 30ノット以上 (約54km/h以上) 放水銃 流量可変型×2基 は一緒。遊覧船ホタルナ新大橋(しんおおはし)構造形式 2径間連続斜張橋橋長 170.0m幅員 24.0m着工1976年( 昭和51年)竣工 1977年(昭和52年)川の地下には都営地下鉄新宿線が横断。新大橋を過ぎると次の橋は両国橋なのであるが、実は隅田川道路橋(すみだがわどうろきょう)をくぐるのである。隅田川道路橋(すみだがわどうろきょう)とは、首都高速が上空を交差している場所なのである。首都高速6号線向島線と首都高速7号線小松川線が通っている。次回両国から つづくBack numberリンク 東京クルーズ・隅田川ラインと水門 1 東京港リンク 東京クルーズ・隅田川ラインと水門 2 水門と排水機場リンク 東京クルーズ・隅田川ラインと水門 3 佃島界隈と佃島の歴史 東京クルーズ・隅田川ラインと水門 4 永代橋から新大橋までリンク 東京クルーズ・隅田川ラインと水門 5 (両国橋から駒形橋まで)リンク 東京クルーズ・隅田川ラインと水門 6 (吾妻橋から言問橋&水神の森まで)
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