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ラストに「ハプスブルグ家」関連のBack numberをいれました。さて、記憶に残っている方もいると思うのですが、1994年(平成6年)10月2日~14日まで両陛下がフランス、スペインを御訪問した折りに宮内庁のミスにより、日本国家と皇室の名誉に傷のつく一大事件が起きた事があった。件の内容は、その訪問で陛下がつけるべき勲章を当地に運び忘れたと言うもの。さらに慌ててスペインに勲章を届けるはずが、宮内庁の凡ミスによって、運搬途中に大事な勲章そのものを紛失してしまったと言うお粗末な事件である。実際、勲章は晩餐会には間に合わず、陛下はスペイン王家から別の勲章を借りてその場をしのいだと言う。相手国の勲章を持ち込み忘れた上に失って、当事国に借りると言う非常に恥ずかしい出来事は、勲章の性質から言ったら切腹物の一大事件である。何しろその勲章は、訪問国であるスペインから賜った、世界でも限られた王族にしか授与されない大変貴重な勲章だったからだ。もちろんスペインでは最高の栄誉あるもの。そもそもそれを忘れるのもあり得ない話であるが、いくら3日前に気付いたとは言え、そんな大事な物をなぜ宮内庁の者が直接持って届けなかったのか? と言う疑問を持ったのを憶えている。※ 勲章は機長預かりと言う形で航空会社に依頼したらしいが、機長預かりは中身を確認しないで通関すると言うもので、機長が手に持って運ぶたぐいの物では無いと言う事を知らなかった?今回は宮内庁の失敗の話ではなく、その勲章その物の話なのであるが、それにしてもこの事件、いくらネットで探しても見つからないのである。やっとの事で見つけた記事は、唯一? 当時この件について追求した国会答弁の中にあった。参議委員会議事録 第131回国会 内閣委員会 第7号 平成6年11月24日(木曜日)「天皇・皇后両陛下の外国御訪問等に関する件」リンク 第131回国会 参議院 内閣委員会 第7号 平成6年11月24日情報が無い故に私はその続報を知らない。結局勲章は見つからなかったのかな?出て来る訳が無い。とは思っていたが・・。金羊毛騎士団と金羊毛勲章(Toison d'or)勲章紛失事件金羊毛勲章(Toison d'or)騎士団の結成ブルゴーニュ公フィリップ善良公(Philippe le Bon)騎士の祈りの場 聖血礼拝堂(Heiling BloedBasiliek)・写真勲章(記章)のルーツ記章と紋章オーストリアの金羊毛勲章ブルゴーニュ公領のフランドル100年戦争と自由都市ブルージュフィリップ善良公(Philippe le Bon)とイザベル・ド・ポルテュガル金羊毛勲章がハプスブルグ家に継承された訳.金羊毛勲章(Toison d'or)勲章(くんしょう)は、15世紀に十字軍を想定して造られた金羊毛騎士団(きんようもうきしだん)の証。金羊毛勲章(きんようもうくんしょう)と呼ばれるもの。英語でゴールデン・フリース(the Golden Fleece)フランス語でトワゾン・ドール( la Toison d'or)日本では金羊毛勲章(きんようもうくんしょう)と和訳されている。つまり、この勲章は勲章(くんしょう)と言うよりは、記章(きしょう)にあたる。陛下が金羊毛騎士団の一員として選ばれた団員章と言うものであり、証でもある。最も、現在は爵位としてのみ存在しているにすぎないが・・。1430年、ブルゴーニュ公のフィリップ善良公により創設された騎士団は、後にハプスブルグ家の最大の騎士の称号として引き継がれてきた。現在はオーストリア家とスペイン王家に分かれて二つの金羊毛勲章が存在。天皇陛下が賜ったのはスペイン王家からの爵位。ウイーンの王宮宝物館(KaiserlicheSchatzkammer Wien)で撮影。映り込みの為に画像修正しました。カラー仕立ての首から提げる勲章。下がっているのは金の羊。このデザインは発足当初のもの。国会答弁の時はトワゾン・ドール( la Toison d'or)と呼ばれていたが、金羊毛勲章の方がなじみがある。羊はそもそも発祥の地フランドルの羊毛産業と、ホメロースの叙事詩にあるイアソンが金の羊を探しに行く冒険物語から由来している。騎士団の結成金羊毛騎士団(きんようもうきしだん)の創始は1430年1月10日。ブルージュにおいて、ブルゴーニュ公、ヴァロア・ブルゴーニュ家のフィリップ3世(フィリップ善良公)により、自身の3度目の結婚式での発表であった。フィリップ善良公(Philippe le Bon)は、神への敬意とキリスト教への自身の信仰の元に騎士団を結成。そこには騎士達の立場の確立も込められていたし、その先には十字軍の遠征の夢が込められていたと思われる。(結果的に十字軍遠征はなかったが・・。)骨子は3つ・今までブルゴーニュの為に尽くしてくれた側近たちへの感謝の栄誉。・現役の騎士達の地位の確立と、彼らの騎士としてのあるべき姿を明確化し、より騎士道に励むよう奨励。・将来騎士団の名誉にあやかりたい順予備騎士たちの励みとなる騎士団を造る事。当初のメンバーは公を入れて24人。23人の名前はその時に発表。メンバーの数は後に31人となり、カール5世の時代に51人に増員。※ 現在はスペイン王家版が18人。オーストリア家版が35人。メンバーは公開されている。詳しい経緯は、1431年、リールで行われた第一回金羊毛騎士団の会で公表される事になった。現役の騎士などは騎士としての規約が作られた。例えば騎士間の争いには、各騎士の行為に対して審理され、刑罰、戒告などがきちんと公表される。騎士道と言う物がテキストとして、公式に造られたと言っても良いかもしれない。ここに中世の花形、騎士文化が完成された?騎士道華やかなりし頃の時代背景もあるが、イングランドに伝わるガーター騎士団とガーター勲章 (Order of the Garter)が意識されて結成されたのは明らかである。※ 1348年にエドワード3世(Edward III)(1312年~1377年)によって創始されたイングランドの騎士団と最高峰の記章である。ブルージュのグルーニング美術館(Groeningemuseum)で撮影フィリップ善良公(Philippe le Bon)・・フィリップ3世(Philippe III)(1396年~1467年)首には金羊毛勲章がかかっている。ブルゴーニュ公フィリップ善良公(Philippe le Bon)金羊毛勲章を創設したフィリップ善良公(Philippe le Bon)は、ブルゴーニュ公国の最盛期の君主である。このブルゴーニュ公国の置かれた当時の立場。それは一言では伝えられない複雑さを持っている。最初の出自はフランスであるが、フランドルを手に入れてヴァロア・ブルゴーニュの時代が始まると事情は変わる。当時はイングランドと本家フランスで100年戦争が勃発していた頃だ。ブルゴーニュは立場、縁戚、立地、商売など諸々の事情で両者とかかわっている。小競り合いの戦いなど年中。このフィリップ善良公(Philippe le Bon)は、父の2代目、ジャン無怖公(Jean sans peur)(1371年~1419年)がフランス王位に感心を示したのとは反対に自身の領地拡大と保全に公領地フランドルに重きを置く。※ イングランドとフランスの間でふらふらしていたようにも見えるが、全ては自身の公領の為。それに対しては、確かにブレなかった。ネーデルランドに最大の関心を持ち、外交活動を駆使して領土を拡大。公領内は安定した政治。安定した経済活動で繁栄のピークを迎えたのである。騎士団の創設はそんな背景もあったし、経済的余裕もあったろうし、フィリップ善良公(Philippe le Bon)自身が聖地に赴きたいと言う夢もあったのかもしれない。そして、さらにブルゴーニュは、飛躍する。それは騎士設立の時のポルトガル王女との3度目の結婚によってである。ウィキメディアから借りてきました。フィリップ善良公と騎士達。ブルージュ市長舎ホールの壁画から市長舎ホールは、聖血礼拝堂(Heiling BloedBasiliek)に隣接している。2014年4月、「ブルージュ(Brugge) 7 (ブルグ広場 3 聖血礼拝堂と聖遺物の話)」で聖血礼拝堂について紹介しているが、ここが金羊毛騎士団の本拠であり、祈りの場となった。リンク ブルージュ(Brugge) 7 (ブルグ広場 3 聖血礼拝堂と聖遺物の話)騎士の祈りの場 聖血礼拝堂(Heiling BloedBasiliek)聖血礼拝堂入口。堂は写真左側、入口から階段で上り二階にある。下がブルグ広場。そして黄色の円が聖血礼拝堂。向こう隣が市長舎1376年~1420年に建立されたフランドル地方最古のゴシック様式の市庁舎。右に見切れているのが聖血礼拝堂リンク ブルージュ(Brugge) 6 (ブルグ広場 2 市庁舎)記章と紋章市長舎の壁面にはブルージュの諸侯と思われる石像が並ぶ。下には紋章が。紋章を囲むのは金羊毛勲章である。そしてそれは現在も同じく騎士の紋章に入れられる。下は現在のスペイン国王フェリペ6世の紋章。と現在の日本の天皇陛下が賜った紋章。前回、「ハプスブルグ家の分割埋葬 心臓の容器と心臓の墓」の所でハプスブルグ方式で行われた分割の埋葬は2011年のオットー・フォン・ハプスブルク(Otto von Habsburg)(1912年~2011年)が最後と紹介しているが、今は一般人になってはいたが、彼はまたオーストリア・ハプスブルク家が主催する金羊毛騎士団の主催者でもあった。2011年7月、オットー・フォン・ハプスブルクの葬儀には、スウェーデン国王夫妻、ルクセンブルク大公、リヒテンシュタイン侯爵など王侯の随員と共に、棺のかたわらにはビロードのクッションに載せられたこの金羊毛勲章が随伴すると言う最高の格式による騎士団の葬儀が行なわれたようだ。リンク ハプスブルグ家の分割埋葬 心臓の容器と心臓の墓オーストリアの金羊毛勲章こちらも同じくウイーンの王宮宝物館(KaiserlicheSchatzkammer Wien)で撮影。上が表、下が後ろから撮影。冒頭、現在はオーストリア家とスペイン王家に分かれて二つの金羊毛勲章が存在していると紹介したが、おそらく、こちらは騎士団の主催者の記章ではないかと思う。下はウィキメディア英語版から借りてきました。オーストリアの金羊毛勲章のリボン記章。簡易版なのか? こちらが一般団員用の記章かは不明。1918年、ハプスブルグ家最後のオーストリア=ハンガリー帝国が崩壊。現在オーストリア・ハプスブルク家が主催する金羊毛騎士団は、ハプスブルク一族、旧ドイツ諸侯家などカトリック教徒の団員で構成されている。一方スペイン王国も革命によって王政が倒され共和制、王政復古、第二共和制、内戦と独裁者支配と内乱が続く。1975年、フアン・カルロス1世(Juan Carlos I)(1938年~2014年)が即位してスペイン王政が復活。王政が消えていたので金羊毛勲章も公の場からは姿を消していたのかと思いきや、明治天皇から今上天皇まで、天皇陛下4名全てがスペイン金羊毛勲章を受章しているそうだ。尚、スペインの金羊毛勲章は王家の与える勲章として存在。対象はカトリック教徒に限定されないが、一代限りとして、原則本人が亡くなれば返す事になっているらしい。勲章(記章)のルーツついでなので紹介こちらはブリュッセル王立美術歴史博物館からの宝冠実は誰の宝冠かは知らない。しかし、先ほど紹介した騎士の絵画の中で騎士が頭に載せているものに近い。この宝冠が後に首からかけるネック式の勲章に変わるのである。そしまた、この宝冠のルーツは、実は街を囲む城壁とタレットなのである。2016年01月「ミュンヘン(München) 11 (レジデンツ博物館 4 宝物館)」の中、宝冠と紋章 で少し紹介しています。リンク ミュンヘン(München) 11 (レジデンツ博物館 4 宝物館)せっかくまとめたので、ちょっとおまけ。そして、最後に金羊毛勲章がハプスブルグ家に継承された訳を入れてあります。ブルゴーニュ公領のフランドル今はブルゴーニュと聞くとフランスの田舎のような印象を受けるが、フィリップ善良公(Philippe le Bon)の時代、その所領はアルザス、ロレーヌ地方(ロートリンゲン)に及び、そして北方のフランドル(現ベルギー)とブラバンドを獲得してネーデルランド一帯を押さえていた。つまり一介の公領とは言え、北海からフランスの南部に至る国に匹敵する所領を持っていたのである。ブルゴーニュ公領はヴァロワ家時代に所領を増やした。ヴァロワ・ブルゴーニュの初代フィリップ豪胆公・フィリップ・ル・アルディ(Philippe le Hardi)(1342年~1404年)が1384年にフランドル女伯マルグリッと結婚し、フランドル伯領を手に入れたからだ。とにかくフランドルは盛況であった。ハンザ同盟のおかげもあり取引は増えて繁栄するブルージュは当時の欧州の交易所となり、金融セクターとなりこの上ない繁栄をみせていた。ブルゴーニュ公領の首都はディジョンからブルージュに移される。ブラバントの特産品となる亜麻草を利用したリネンの生産やベルギー・レースの取引。フランドルの特産品、羊毛は安価に対岸のイングランドより仕入れ、高級衣料や宮廷を飾るタペストリー等に加工され毛織物産業でもにぎわった。当然フランスも神聖ローマ帝国も取引先であったし、高級リンネルは欧州中の貴族が欲しがり、タペストリーは城や宮殿、バチカンで飾られたのだ。今の古都ブルージュからは想像のできない繁栄の都市であったのだ。※ フランドルのタペストリーにについてはサンカントネール美術館の所で書いています。リンク サンカントネール美術館 2 (フランドルのタペストリー 他)今もブルージュにはその名残がある。水の都市ブルージュはオランダとはまたちょっと違う風情だ。下は現在は州庁舎である立派な建物だが、織物の屋内市場として1787年まで使用されていた。マルクト広場は市民の市場。広場には各種ギルドハウスも立ち並んでいた。この広場の広さだけでブリュッセルよりいかに規模が大きいかわかる。細切りにしないと撮影できないのだ。毛織物業者のギルドハウスの上に建てられた鐘楼。以前も書いたが、上質な高級品の織物のタペストリーは13~14世紀から需要を増し、フランスのゴブラン工場に持って行かれるまでフランドルの特産品であり、外貨かせぎの物品であった。ここに見える中世は、全て当時の冨の名残なのである。2014年03月「ブルージュ(Brugge) 4 (マルクト広場)」リンク 「ブルージュ(Brugge) 4 (マルクト広場)2014年01月2014年01月「サンカントネール美術館 2 (フランドルのタペストリー 他)」リンク 「サンカントネール美術館 2 (フランドルのタペストリー 他)運河は大分少なくなったが、かつての大動脈の運河沿岸には、豪商らの商館や倉庫が建ち並んでいた。水路をたどって商人らがブルージュまで買い付けに来ていたのだ。100年戦争と自由都市ブルージュフィリップ善良公はフランドルがブルゴーニュに併合され、ヴァロワ家支配になった3代目の君主。先述、フランドルの繁栄の事を紹介したが、それ故、冨を狙われた土地でもあった。立地では、東に神聖ローマ帝国、西にフランスに挟まれ、かつ北海はさんだ対岸にはイングランドが控えていた。必然的に英仏の100年戦争(1337年~1453年)の影響を受けたのである。そもそもフランドルはイングランドからは羊毛を輸入。それでフランドルの特産品の毛織物業で成功していた為にどちらかと言えばイングランド寄り。フランスはそれをよく思っていなかった。自由都市としての意識の高かったブルージュでは度々領主とも意見を違えてもめている。商売にじゃまな領主では納得しなかったのである。幾度かフランスの支配に落ちながらも気に入らなければ市民は戦った。フランスはブルゴーニュ公とフランドル伯の娘の結婚を画策。そこに広大なブルゴーニュ公領が誕生するのであるが、フランスの思惑通りには行かなかったのであるフランドルを得たヴァロワ・ブルゴーニュ公は、フランスからは独立性を維持し、イングランドともうまくやりたかった。何しろイングランドを敵にすれば市民からつるし上げを食うし・・。フィリップ善良公の時代は、100年戦争の終盤にあたる。どちらの国も戦費で疲弊してお金が無かったのである。そんな英仏の思惑にも翻弄されながらも、領地を拡大して、ブルージュに繁栄をもたらしたのである。もちろんブルージュの商人根性があっての話だが・・。ブルージュ(Brugge)の街フィリップ善良公(Philippe le Bon)とイザベル・ド・ポルテュガル1429年、ブルゴーニュ公フィリップ善良公は3度目の結婚をする。相手はポルトガルのイサベル王女。イザベルの母はイングランド王女であった事から一説にはイグランドとの関係強化をねらった結婚であったと・・。しかし、イザベル自身が王女であるにもかかわらず兄達と同じように外国語、数学、科学を学び、政治学まで学んだ教養ある才女。(親の教育方針)※ イザベル・ド・ポルテュガル(Isabelle de Portugal)(1397年~1471年)1430年1月、イザベルがブルージュ(Brugge) に到着すると10日に挙式をあげ、フィリップ3世(フィリップ善良公)はこの時に騎士団の創設を発表したと言われている。このイザベル・ド・ポルテュガルの才女ぶりで、後にフランスと和約。彼女はフランスから褒美に年金までもらう。そしてイングランドとも和平会談を整え、1439年の休戦協定を締結させる事に一役買っている。フィリップ3世がフィリップ善良公(Philippe le Bon)と呼ばれる理由は確かに安定した政治がもとなのだろうが、内助の功も大きかったのではないか?それに彼女の故郷ポルトガルとの交易はプラスに働いた。当時のポルトガルは同母兄のエンリケ航海王子(Infante Dom Henrique)(1394年~1460年)の許で航海事業が発達。ブルゴーニュの主要産業である毛織物の市場が東方(オリエント)まで拡大されたのである。※ エンリケ航海王子については「アジアと欧州を結ぶ交易路 15 or 16」で、書いています。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 15 大航海時代の道を開いたポルトガルリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 16 イザベラ女王とコロンブス金羊毛勲章がハプスブルグ家に継承された訳金羊毛勲章であるが、フィリップ善良公(Philippe le Bon)とイザベル・ド・ポルテュガルの孫の代になって事変が起きる。フィリップ善良公の息子、シャルル突進公(Charles le Téméraire)(1433年~1477年)には一人娘しかいなかったのだ。娘の結婚は近隣諸国の感心の的になる。何しろ彼女と結婚すれば公領を相続できるかもしれないのだから・・。父の野心と相まって、結局ブルゴーニュ公を継承するシャルル突進公の娘マリー・ド・ブルゴーニュ(Marie de Bourgougne)(1457年~1482年)の結婚相手は後に神聖ローマ帝国の君主となるハプスブルグ家のマクシミリアン1世(Maximilian I)(1459年3月~1519年)に決まった。.が、二人の結婚前にシャルル突進公はナンシーの戦いで戦死。それに乗じてブルゴーニュ南部はフランスにとられてしまった。マクシミリアン1世の活躍でフランドルは確保。二人は結婚し幸せな生活をするが、活発な美女マリーは第4子を懐妊中に落馬事故で夭折(ようせつ)。この悲劇がきっかけに、ブルゴーニュ公領もハプスブルグ家の傘下に入るのである。※ 後に、マリーとマクシミリアンの孫、カール5世(Karl V)(1500年~1558年)がマクシミリアン1世に次いで神聖ローマ皇帝になっている。因みに、愛し合っていたマリーとマクシミリアン1世であるが、マリーの棺にはマクシミリアン1世の心臓がいれられているらしい。そして、マリーの墓は父シャルル突進公の棺と並べてブルージュの聖母教会(Onze Lieve Vrouwekerk - in Bruges)(Church of Our Lady Bruges)に置かれている。リンク ブルージュ(Brugge) 11 (聖母教会)金羊毛勲章おわります。以前からやりたかったネタですが、大変でした。デンマーク王室のエレファント勲章 (Elefantordenen)の写真のせました。性質としては金羊毛勲章(Toison d'or)と同じ物。世界の王族も授与されている爵位の記章です。※ 日本の天皇陛下も授与されています。リンク エレファント勲章 とデンマーク王室の王冠「ハプスブルグ家」関連はいろいろ書いています。関連のBack number 金羊毛騎士団と金羊毛勲章(Toison d'or)リンク ウィーン国立歌劇場とハプスブルグ家の落日リンク ハプスブルグ家の分割埋葬 心臓の容器と心臓の墓リンク カプツィーナ・グルフト(Kapuzinergruft) 1 ハプスブルグ家納骨堂リンク カプツィーナ・グルフト(Kapuzinergruft) 2 マリアテレジアの柩リンク カプツィーナ・グルフト(Kapuzinergruft) 3 マリア・テレジア以降リンク ハプスブルグ家の三種の神器リンク 西洋の甲冑 4 ハプスブルグ家の甲冑リンク ウィーンの新王宮美術館(Neue Burg Museum Wien)リンク マリー・アントワネットの居城 1 (ウイーン王宮)リンク マリー・アントワネットの居城 2 シェーンブルン宮殿と旅の宿リンク マリー・アントワネットの居城 3 ヴェルサイユ宮殿の王太子妃リンク マリー・アントワネットの居城 4 ベルサイユに舞った悲劇の王妃ポンパドール夫人らとタッグを組んだオーストリア継承戦争の事を書いています。リンク 新 ベルサイユ宮殿 9 (ポンパドゥール夫人とルイ15世)昔のなのでショートです。リンク ベルヴェデーレ宮殿 1 (プリンツ・オイゲン)リンク ベルヴェデーレ宮殿 2 (美しい眺め)リンク ベルヴェデーレ宮殿 3 (オーストリア・ギャラリーと分離派とクリムト)リンク カールス教会 1 (リンクシュトラーセ)リンク シュテファン寺院(Stephansdom) 1 (大聖堂の教会史)リンク シュテファン寺院(Stephansdom) 2 (内陣祭壇とフリードリッヒ3世の墓所)リンク シュテファン寺院(Stephansdom) 3 (北側塔のテラス)リンク シュテファン寺院(Stephansdom) 4 (南塔)他にもあるけどあまり昔のは見てほしくないのでのせません
2018年06月22日
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ラストに「ハプスブルグ家」関連のBack numberをいれました。溶けた心臓で描いた絵が何かわかりました。それは「マミーブラウン(英Mummy brown)(仏Brun momie)」と言う絵の具として販売もされていたようです。「溶けた心臓で造られた絵の具 Mummy brown」で別に載せました。リンク 溶けた心臓で造られた絵の具 Mummy brown小学生の時にベルサイユのバラを読んでからフランスについていろいろ調べてみた事があった。思い返せば、知らない事、知りたい事を徹底的に調べる行為はこの頃に始まったと言える。その時に読んだ書物の中に、フランス革命の時に貴族の墓が暴かれ、心臓の入った容器は持ち去られ、中のその溶けた内臓を絵の具に混ぜて絵画を描いた人がいる・・と言う記述があった。もちろん興味津々。その絵はどんなものか? と言う疑問が残っていた。が、それ以上調べる事はできなかった。(ネットもない時代だからね)。それから10年。初めてルーブル美術館に行った時、テオドール・ジェリコー(Théodore Géricault)(1791年~1824年)の描いたメデュース号の筏(いかだ)(Le Radeau de la Méduse)を観て、もしかしてこれがそうなんじゃないか? と思ったものだ。※ 話がそれるのでメデュース号の筏については最後に回しますが、今回の話は、そこから派生している。溶けた内臓の話はさておき、心臓の入った容器の事は今まで欧州を旅行中に幾つかみかけた記憶がある。それはハート(heart)型の小さな容器なのだが、通常は表に出るものではないのでなかなか写真にとる事ができないでいた。それが数年前にブリュッセルを訪問した時にサンカントネール美術館(musée du Cinquantenaire)でハートの容器が集められた部屋を見つけた時は少し心が躍ったのである。が、残念ながらこちらは装飾? それに心臓だけ取り出して容器に保存する理由が、ずっと解らなかったので保留になっていた話です。古代エジプトでは、死後再生の為のミイラを造る時に、カノプスと言う容器に内臓を収める風習があった。つまり、分骨ではなく、遺骸を分割して埋葬する風習があったと言う事だ。それは以前から知っていたが、臓器は肝臓、肺、胃、腸の4種である。古代エジプトでは心臓には魂が宿ると考えられていたので、心臓はそのまま残されていたのである。それ故、欧州の心臓を特別に取り出して分割埋葬する行為はエジプトのそれと似てはいるが意味が異なる気がする。実は今回はフランス編とハプスブルグ家編の二つの事情がある事が解ったので紹介する事にしました。簡単に言うと、今回は心臓を入れる容器の話と臓器を分離して埋葬すると言う欧州貴族の中にあった変わった風習についての話になります。ハプスブルグ家の分割埋葬 心臓の容器と心臓の墓フランスの貴族編サンカントネール美術館のハートの部屋ハプスブルグ家の分割埋葬ハート・グルフト(Herzgruft) アウグスティーナー教会(Augustinerkirche)フェルディナンド4世の遺言その他の国の分割埋葬メデュース号の筏(いかだ)(Le Radeau de la Méduse)マミーブラウン(英Mummy brown)(仏Brun momie)フランスの(一般)貴族編National Geographicのネットニュース2017.02.17からこんな記事を見つけた。「17世紀貴族女性の棺から夫の心臓見つかる」リンク National Geographic「17世紀貴族女性の棺から夫の心臓見つかる」2013年、フランス西部の都市レンヌにあるジャコバン派の修道院の跡地から17世紀に埋葬されたフランス貴族の女性の棺(ひつぎ)が発掘された。驚くのは、女性の棺の中にハート型の鉛の容器に入れられた夫の心臓が入っていた事、そして逆に女性の心臓が無かったと言うニュースである。※ ハート型の鉛の容器の中身はもちろんDNA鑑定がされた結果である。先述したようにフランスでは昔、心臓を取り出す風習が一部にあった事は解っていたが、フランス革命の動乱で鉛の棺も容器も武器に転用されていたので資料が無かったらしい。今回の発見はフランス国立予防考古学研究所(INRAP)のチームによるもので、考古学的にも初の大発見になったらしい。今までは王侯の間で宗教的、あるいは儀式によって行われたと思われていた心臓の抜き取りが、実は死後も共にいたいと言う夫婦の愛の行為の場合もあったと言う事実である。つまり、今回の場合、亡くなってからも「私の心(臓)はあなたの所にある」と言う愛の証明だった事になる。そう言う意味で言うと、ハート(heart)は確かにLoveハートなのであった。が、もちろん一部王侯貴族の場合は別の理由もある。亡くなった後に遺骸を長らく一般公開しなければならない国王などの場合、腐りやすい臓器は問題である。特に心臓は魂が宿る場所と考えられていたので特別に扱われた。特に高貴な人の心臓には「聖なる力が宿る」と考えられたようだし・・。。14世紀以降も宗教的、政治的儀式として位の高い人物には行われていたらしい。冒頭紹介した話は、それら臓器がフランス革命の時に流出。容器は武器(ピストルの弾丸など)に転用されたが中身は捨てられたり、画家に売られて絵の具に混ぜられた・・と言う事のようだ。しかし、これとは別に遺骸を分割して埋葬する行為が代々継承された一族があった。それが神聖ローマ帝国の君主を多く輩出したハプスブルグ家(Haus Habsburg)である。サンカントネール美術館のハートの部屋ブリュッセルのサンカントネール美術館(musée du Cinquantenaire)については以前紹介した事がありますが、そこにハートの容器が集められた部屋がありました。大きなものから小さいものまで、よくよく見ていたらこちらは聖母信仰に寄る所が大きいのかもしれないが・・。これらはオブジェではないかと推察しますが・・。Doux Coeur de Marie, soyez mon salutマリアの慈悲の心が私の救いになる?こちらのハート(heart)のオブジェは聖母マリアの信仰から来ているもののようです。では下のハートは? 心が痛んでいると言う意味か?ポシェットにも見えるが・・。聖母教会で使用されていた香炉かな?聖母マリアへの崇敬は12世紀から13世紀にかけて高まりをみせる。実用サイズのハートの容器。装飾性が高いので実用かどうかは不明ですが・・。下は想像するに左のバラが聖母マリアであり、右の荊(いばら)の輪がイエス・キリストを示しているようだ。アダムとエヴァに例えてペアの容器とも思えるが・・。反射が入っていたのと暗くてボケ気味だったので画像処理しています。下はもしかしたら涙を入れるボトルかもしれない。サンカントネール美術館については以前紹介しています。2014年01月リンク サンカントネール美術館 1 (ローマン・グラス 他)リンク サンカントネール美術館 2 (フランドルのタペストリー 他)ハプスブルグ家の分割埋葬以前、ハプスブルグ家(Haus Habsburg)の墓地であるカプツィーナ・グルフト(Kapuzinergruft)を紹介した事がありますが、そこは普通に歴代の王族達の棺が置かれた教会地下の墓地でした。2014年11月リンク カプツィーナ・グルフト(Kapuzinergruft) 1 ハプスブルグ家納骨堂リンク カプツィーナ・グルフト(Kapuzinergruft) 2 マリアテレジアの柩リンク カプツィーナ・グルフト(Kapuzinergruft) 3 マリア・テレジア以降実はハプスブルク家の人々の埋葬には奇妙なしきたりがあり継承されていた事が解りました。遺体は ハプスブルグ家納骨堂カプツィーナ・グルフト(Kapuzinergruft)へ、内臓は 銅製容器に入れ シュテファン大聖堂(Stephansdom)の地下へ、心臓は 銀器に入れ アウグスティーナー教会(Augustinerkirche)へ埋葬(保管?)実に奇妙な分割埋葬です。前回ウイーンに行った時にカプツィーナ・グルフト(Kapuzinergruft)とシュテファン大(Stephansdom)には行っていたのですが、残念ながら心臓の収められたアウグスティーナー教会(Augustinerkirche)には行っていませんでした従って今回心臓の墓(Herzgruft)の写真はありません。残念。この3分割方式はフェルディナンド4世(Ferdinand IV)(1633年~1654年)から始まり、最後に行われたのは1878年。オーストリア大公 フランツ・カール・ヨーゼフ (Franz Karl Joseph)(1802年~1878年)の時だそうです。しかし、心臓と体と言う2分割方式では2011年が最後。オーストリア=ハンガリー帝国の最後の皇太子であった、オットー・フォン・ハプスブルク(Otto von Habsburg)(1912年~2011年)の時である。(つい最近ですね)オットーはハプスブルグ王家の最後の一人として伝統に従い、遺体はウイーンのカプツィーナーグルフトに安置。心臓はハンガリー、パンノンハルマのベネディクト会大修道院にに納められたそうです。ハプスプルグ方式であればアウグスティーナー教会ですが、もはやアウグスティーナー教会は宮廷教会では無くなっているので仕方なかったのかも・・。ハート・グルフト(Herzgruft) アウグスティーナー教会(Augustinerkirche)アウグスティーナー教会は1634年宮廷教会となり、ハブスブルグ家の最後の砦、オーストリア=ハンガリー帝国が崩壊する1918年まで宮廷教会であった。それ故、宮廷教会時代にはハプスブルグ家の人々の結婚式も執り行われた教会なのである。女帝マリア・テレジアの結婚式、マリーアントワネットのオーストリアでの結婚式、シシイことエリザベートの結婚式もこの教会で行われている。しかし、一般にはあまり知られていなかったが、アウグスティーナー教会(Augustinerkirche)はハプスブルグ家の心臓の墓、ハート・グルフト(Herzgruft)でもあったのだ。教会のロレート礼拝堂(Loreto Chapel)後ろに、フェルディナンド4世(Ferdinand IV)(1633年~1654年)以降1878年までに54の心臓の入った壺が保管されている。写真が無いので他のサイトを見てください ハート・グルフト(Herzgruft)内部の貴重な写真です。The World of Habsburg The Herzgruft in the Augustinerkircheリンク The Herzgruft in the Augustinerkircheハートの容器ではなくて大きなゴブレット型でしたね。フェルディナンド4世の遺言下の写真はウィキメディアよりパブリックドメインになっていた写真です。奇妙な風習は、フェルディナンド4世(Ferdinand IV)(1633年~1654年)の遺言から始まったそうだ。スペインのフィリップ3世の娘、マリア・アンナと神聖ローマ皇帝フェルディナント3世の長男として生まれ将来の皇帝になるはずであったが、彼はわずか20歳で早世してしまった。※ 1646年にボヘミア王、1647年にハンガリーとクロアチアの王、1653年にローマ王となっている。死因は天然痘による病死だそうだ。1654年7月9日、フェルディナンド4世が亡くなると遺体は解剖され臓器が取り出された。心臓は銀のゴブレットに入れられ、体と共に公開される。心臓の方は翌日、アウグスティーナー教会(Augustinerkirche)のロレート礼拝堂(Loreto Chapel)に祀られているロレートの聖母」(La Madonna di Loreto)の足下に埋められた。埋葬まで時間がかかる事もあり腐りやすい臓器は先に埋葬してしまうと言う理由が考えられる。生前、聖母を崇敬していたフェルディナンド4世のたっての希望の行為であり、全てが彼の遺言の通り行われたらしい。彼が望んだわけではないのだろうが、彼の聖母の元にありたいと言う敬虔なる行為に感銘した? 後の王族達は彼にならって心臓を宮廷教会であるアウグスティーナー教会(Augustinerkirche)のロレート礼拝堂(Loreto Chapel)の後ろの部屋に埋葬するに至ったのであろう。合理性もあるが・・。尚、体の入った棺は ハプスブルグ家納骨堂カプツィーナ・グルフト(Kapuzinergruft)にて一般公開されている。内臓はシュテファン大聖堂(Stephansdom)の地下墓地と言う事だが、あちらの公開はされていなかったと記憶している。遺骸を分離しての埋葬理由は解ったが、何故同じ場所ではなかったのか? に疑問は残りますね。シュテファン大聖堂については過去に紹介していますが、建物のみの紹介に終わっています。リンク シュテファン寺院(Stephansdom) 1 (大聖堂の教会史)リンク シュテファン寺院(Stephansdom) 2 (内陣祭壇とフリードリッヒ3世の墓所)リンク シュテファン寺院(Stephansdom) 3 (北側塔のテラス)リンク シュテファン寺院(Stephansdom) 4 (南塔)その他の国の分割埋葬ハプスブルグ家、傍系のヴィッテルスバッハ家でも、かのバイエルン王ルードヴィッヒ2世(Ludwig II)の心臓が分離埋葬されている。ルードビッヒ2世(Ludwig II)(1845年8月25日~1886年6月13日)1886年6月19日ミュンヘンで葬列後に聖ミヒャエル教会の地下墓所に埋葬。心臓は1886年8月16日アルトエッティング(Altötting)のホーリーチャペル(Heilige Kapelle)(Gnadenkapelle)に埋葬。ルードヴィッヒ2世についてはたくさん書いていますが、今回墓所だけリンク先を入れました。リンク ルードビッヒ2世(Ludwig II)の墓所 (聖ミヒャエル教会)獅子心王と呼ばれたイングランドのリチャード1世(Richard I) の場合、遺体は父ヘンリー2世の眠るフォントヴロー修道院に、心臓はルーアン大聖堂に埋葬。さらに脳と臓器が分割されポワトゥーのシャルー修道院に収められたそうだ。リチャード1世(Richard I) (1189年~1199年)かなり分割して埋葬しているようですが、イングランドには何も無いそうです。確か彼が王位についてイングランドにはほとんどいなかったから王位にさえ思い入れもなかったのでしょうね。墓の事まで書いてませんでしたが、リチャード1世について2015年1月に紹介しています。リンク ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 8 (リチャード1世)さて、今回写真も少ないので、エジプトのファラオの臓器を入れたカノプス壺(canopic jar)の写真も公開。ウイーンの美術史美術館(Kunsthistorisches Museum)のエジプト、コーナーからそもそもカノプスとは、古代エジプトで、ミイラを作る際、魂が宿るとされていた心臓を除き、特に重要と考えられていた臓器を取り出し、保存する容器です。人頭のカノプス・・・・・肝臓ヒヒ頭のカノプス・・・・肺ジャッカルのカノポス・・胃ハヤブサのカノポス・・・腸もしかしたら欧州の王族達の臓器の抜き取りは、ここから派生しているかもしれませんね。2009年5月 「死者の書」とカノプスてでカノプスについて書いています。リンク 「死者の書」とカノプス上下の写真はパリのルーブル美術館のエジプト、コーナーからアラバスター(Alabaster)のカノプス容器です。メデュース号の筏(いかだ)(Le Radeau de la Méduse)冒頭紹介したルーブル美術館に所蔵されているテオドール・ジェリコー(Théodore Géricault)(1791年~1824年)の描いたメデュース号の筏(いかだ)(Le Radeau de la Méduse)です。ルーブル美術館の中でも大きな絵の一つになっていて、距離の関係から正面から撮影かできなかった。1816年7月5日、今日のモーリタニア沖で座礁して遭難したフランス海軍のフリゲート艦。メデューズ号の漂流の悲劇を描いた作品です。船員は147名で、実際の生き残ったのは15人だけだったとか・・。リアリティーの極致? 生々しさと、おどろおどろしさ? 禍々しさ満載のとてつもなく印象に残る絵です。画家が上手すぎるからなのでしょうか? なんか普通の絵画とは違う異様さを感じる絵なのです。実際、ジェリコーはリアリズムを追求して描く為に狂気の生活を始めている。病院のモルグ(死体置き場)で死体をスケッチ。瀕死の入院患者の顔を観察。切断された手足をアトリエに持ち込んで腐敗していく様子を観察して描いたり、あげくに精神病院から生首を借り受けてデッサンするなど常人ではない感性で描いた作品のようです。そんな迫力のせいもあるからでしょうか?私が臓器を溶かした絵の具で描いた絵ではないか? と言う疑問を持ったのは。とは言え、前述の死体を家に置いての創作活動を考えると、やっているかもしれない・・と言う感はぬぐえませんね。実際のハートの容器の写真が見つかったら載せようか? と思っていたネタでした。写真は足り無いけど、何となく整理が付いた感じです。マミーブラウン(英Mummy brown)についてリンク 溶けた心臓で造られた絵の具 Mummy brown「ハプスブルグ家」関連はいろいろ書いています。関連のBack number ハプスブルグ家の分割埋葬 心臓の容器と心臓の墓リンク 西洋の甲冑 4 ハプスブルグ家の甲冑リンク ウィーン国立歌劇場とハプスブルグ家の落日リンク カプツィーナ・グルフト(Kapuzinergruft) 1 ハプスブルグ家納骨堂リンク カプツィーナ・グルフト(Kapuzinergruft) 2 マリアテレジアの柩リンク カプツィーナ・グルフト(Kapuzinergruft) 3 マリア・テレジア以降リンク ハプスブルグ家の三種の神器リンク 金羊毛騎士団と金羊毛勲章(Toison d'or)リンク ウィーンの新王宮美術館(Neue Burg Museum Wien)リンク マリー・アントワネットの居城 1 (ウイーン王宮)リンク マリー・アントワネットの居城 2 シェーンブルン宮殿と旅の宿リンク マリー・アントワネットの居城 3 ヴェルサイユ宮殿の王太子妃リンク マリー・アントワネットの居城 4 ベルサイユに舞った悲劇の王妃ポンパドール夫人らとタッグを組んだオーストリア継承戦争の事を書いています。リンク 新 ベルサイユ宮殿 9 (ポンパドゥール夫人とルイ15世)昔のなのでショートです。リンク ベルヴェデーレ宮殿 1 (プリンツ・オイゲン)リンク ベルヴェデーレ宮殿 2 (美しい眺め)リンク ベルヴェデーレ宮殿 3 (オーストリア・ギャラリーと分離派とクリムト)リンク カールス教会 1 (リンクシュトラーセ)リンク シュテファン寺院(Stephansdom) 1 (大聖堂の教会史)リンク シュテファン寺院(Stephansdom) 2 (内陣祭壇とフリードリッヒ3世の墓所)リンク シュテファン寺院(Stephansdom) 3 (北側塔のテラス)リンク シュテファン寺院(Stephansdom) 4 (南塔)他にもあるけどあまり昔のは見てほしくないのでのせません
2018年06月11日
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