わたしのこだわりブログ(仮)

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2016年09月28日
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フェルメールを再発見したと言われるフランスの美術評論家 Théophile Thoré-Bürger(1807年~1869年)は、フェルメールが「謎の多い画家」と言う意味で「デルフトのスフィンクス( Le Sphinx de )」と呼んだそうだ。

確かに画家としての経歴には謎が多いが、フェルメールの生まれから結婚、親方組合への登録など公文書から彼の事がいろいろ解ってきている。
何かにつけて文書を作成し、同意書や契約書として残すオランダは当時からしっかりした国だったのだな・・と別の意味で感心した びっくり


デルフト(Delft) 3 (市長舎と新教会)

デルフトの市長舎(Stadhuis van Delft)
フェルメールの結婚
新教会(Nieuwe Kerk)
フーゴー・グローティウス(Hugo de Groot)

今回フェルメールが洗礼を受けたプロテスタントの教 会と結婚告示した市長舎を紹介 。墓のあるカトリックの教会は別の回に紹介予定
なぜ2つの異なる教会が出て来るのか? なぜ彼は改宗したのか? そこにはフェルメールの事情があったのです。

市長舎 デルフト(Stadhuis Delft)
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最初に建物ができたのは1200年頃。その時建物は牢獄だったそうだ。

建物は1400年頃に復元かあるいは再建されれているがいつ市役所に転じたのかは不明。

1618年に火災で塔を残して全て焼失。
当時オランダで有名な建築家ヘンドリック・カイザー(Hendrick de Keyser )により 焼け残った中心の塔の周りにオランダ・ルネサンス様式でデザインされた建物として再建される。
※ オランダ・ルネサンス?  北方ルネサンスと同じ事かも・・。


後で紹介するが、新教会にあるオラニエ公ウィレム1世(Willem I)の霊廟をデザインしたのも彼だそうだ
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焼け残った真ん中の塔はかつて拷問室だったそうだ。
欧州の歴史の深さには本当に恐れ入る。歴史が複数重なっている所が多いのだ。
それだけに面白い スマイル

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市役所にするにあたり正面に戸口を造るなどいろいろリフォームされたようだ。
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市長舎1階エントランス・フロア
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これもオランダ・ルネサンス 様式の内装か?

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フェルメールの結婚
ヨハネス・フェルメールは1653年4月20日にカタリナ・ボルネスと結婚。

※ ヨハネス・フェルメール(Johannes Vermeer)(1632年~1675年)
※ カタリナ・ボルネス(Catharina Bolenes)(1631年~1688年)

結婚に関する同意書に署名をしたのは画家のレオナルド・ブラーメル(Leonard Braemer)(1596年~1674年)
結婚告示をしたのはこの市長舎である。

彼はこの結婚を機にプロテスタントからカトリックに改宗している
理由は結婚の条件にカトリック教徒になる事が入っていたからである。

実は彼の結婚は障害だらけだったのだ。
前年1652年10月に父レイニールが突然亡くなり、彼は居酒屋兼宿坊のメッヘレン(Mechelen)を20歳で引き継ぐが実状は借金だらけだった。

彼自身が親方登録をするのは結婚した年(1652年)の10月であり、画家としても収入があったのか不明。莫大な借金をかかえ、かつプロテスタントとあっては富裕な家の娘である妻の母が大反対するのは最もな話だ

義母マリア・ティンス(Maria Thins)と交わした結婚の同意書の中の条件に「私は彼らの結婚の告知に同意はしないが我慢する。」と言った内容が含まれていたそうだ。
さらに中には妻と共に彼の父が残した借金250ギルダーの保証人を肩がわりする事の同意など・・。


フェルメールは可能な限り義母の意に添うよう努力した結果やっと認められ、前回紹介したように義母との同居にこぎ着け義母に300ギルダーの借金をしている。


市議会室
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部屋は中心の塔を囲む形で張り付いているようです。

「貧乏子沢山(びんぼうこだくさん)」と言う言葉があるが、フェルメールは15人の子供をもうけた。うち4人は出生時に亡くなっている。
またフェルメールが多額の借金を残して亡くなった時(1675年)子供11人のうち10人は未成年だったそうだ。
経済的困窮で借りたお金は1000ギルダー。借りた5ヶ月後に亡くなり結局妻は破産を申し立てして彼の描いた絵を競売にかけざるおえなくなったと言う。

金持ちだった母の方も事情が悪くなり、それでも孫達の為には多少お金を渡したようだ。

建物裏
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新教会(Nieuwe Kerk )
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塔が建てられたのが1396年~1496年
当初はまだ新教がなかったので 14世紀にはここは聖ウルスラ(St. Ursula)教会だったようだ
高さ108.75m。上は18鐘のカリヨンが釣り下げられていたようです。

新教会になる年代がはっきりしていませんが、ルターの一連の宗教改革の後とすれば1520年以降と考えられる。
もっともここはプロテスタントと言えどカルヴァン派の教会でルターの考え方とは多少違っていた ようです。
ルターの宗教改革は信仰の改革
カルヴァンの改革は礼拝様式と教会制度の改革

ジャン・カルヴァン(Jean Calvin)(1509年~1564年)
フランス出身の神学者
カルヴァンの思想は「職業は神から与えられたもの。よって得られた富の蓄財を認めたと言う。これは当時の商人の支持を集め結果それは資本主義の正当性を認めた形になったのだろう。

ヨハネス・フェルメール(Johannes Vermeer)は1632年10月31日にここで洗礼を受けている
何しろ彼の生まれた生家「空飛ぶキツネ亭(De Vliegende Vos)」は教会のほぼ隣なのだから。


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入り口はものすごくシンプル
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たぶん元の聖ウルスラ教会時代この戸口の上には聖人を形どったティンパヌム (tympanum)が付いていたはず。
なんとなく取り払われた感が見える。


マルクト広場新教会前のフーゴー・グローティウス(Hugo de Groot)の像
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フーゴー・グローティウス(Hugo de Groot)(1583年~1645年)
オランダの法学者で国際法の基礎を造った人。
「自由海論」では海は国際的な領域と定義したが以降海事法の整備が進む。
何しろオランダは当時海運国で攻勢した国である。オランダ東インド会社は東回りルートでアジアから日本にまで及んでいる。
スペインやポルトガル、イギリスなど同じく海運で世界に進出していた国と衝突が起き始めていたのだ。
彼はオランダ東インド会社に雇われて解決策に頭をひねったようだ。


教会内部には彼の墓碑
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新教会、次回につづく
リンク ​ デルフト(Delft) 4 (新教会とオラニエ公家の墓所と聖遺物の話)

フェルメールに関してはいかにも書いています。
リンク ​ ヨハネス・フェルメール(Johannes Vermeer)とメーヘレン






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Last updated  2020年11月09日 01時49分56秒
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