PR
Keyword Search
Category
Freepage List
1648年、欧州では80年戦争と30年戦争が終結する。
80年戦争
(1568年~(休戦1609年~1621年)~1648年)は、
スペイン・ハプスブルグ家支配となったオランダが結果的にスペインから独立する戦争
である。
オラニエ公ウィレム1世(Willem I)(1533年~1584年)はネーデルラント連邦共和国を作り途中休戦をはさみつつスペイン軍と闘争しネーデルラント連邦共和国として自立した。
一方 30年戦争
(1618年~1648年)は、
カトリック教会の弾圧に対するプロテスタントの反乱が発端の宗教戦
争
であった。
当時欧州中に力を持っていたローマカトリック教会。また神聖ローマ帝国及びハプスブルグ家所領の内部でおきた宗教戦争は結果的に欧州中を巻き込んだ民族闘争や反体勢運動に発展。
いろんな思惑が絡んだ所領争いも加わり、 結果、神聖ローマ帝国およびハプスブルグ家支配体制の縮小と言う打撃を与え欧州の国際情勢を一変
させる事になる。
また本来の宗教戦争の方 はヴェストファーレン(Westphalian)条約により
カトリックとプロテスタントの同権が定められ万事教皇により左右される事もなくなった
。
※ ヴェストファーレン(Westphalian)条約は関係国以外の欧州の国も参加して行われ、その取り決めは参加国で遵守されると言う初の国際条約となったのだ。
共 に
これら戦いでネーデルラント連邦共和国は国家として認められたばかりでなく、神聖ローマ帝国からの離脱も認められた大勝利であった
。
ヨハネス・フェルメール(Johannes Vermeer)10代の時の 事、デルフト(Delft)の街も当事国である。
デルフト(Delft) 2 (マルクト広場とフェルメール)
マルクト広場 デルフト(Markt Delft)
聖ルカス・ギルド(St.Lucas Gilde)
空飛ぶキツネ亭(De Vliegende Vos)とメッヘレン(Mechelen)
義母と同居した家
市長舎 デルフト(Stadhuis Delft
)
新教会(Nieuwe Kerk
)
1736年のデルフト(Delft)の街


ピンク
・・・マルクト広場と新教会(プロテスタント系)
ブルー・
・・デルフト市長舎
イエロー・
・・旧教会(カトリック系)
★A
・・・フェルメール生家の場所
★B
・・・フェルメール住居の場所
戦争が終結して自由を得、街は活気づく。
さらに オランダでは1602年に連合の株式商社、オランダ東インド会社を設立。香辛料など貿易により巨万の富を築き始めた
所だ。(前回もふれたが、デルフトにもオランダ東インド会社の支社があった。)
画家、ヨハネス・フェルメール(Johannes Vermeer)(1632年~1675年)の生涯はとても短いが、自由で平和な時代に
デルフトで過ごしていた事は知っておいた方が良い。
彼はデルフトで生まれてほとんどこの街を出る事はなかったと言われている。
確かにこの広場周辺にフェルメールの足跡が多く残っている。しかも彼はこの広場の周りで生まれ育ち仕事をし、かつ結婚してもこの周辺に住み続けたのである。
今回はデルフトのマルクト広場(Markt Delft)とフェルメール関連を紹介。

マルクト(Markt)広場はその街の台所である。
もちろんイベント広場にもなったが、個人商店が少ない時代、あちこちから持ち寄られた商品が並び広場は賑わった事だろう。
新教会(Nieuwe Kerk)
広場の反対にはデルフトの市長舎が相対して建っている。
新教会と市長舎の紹介は次回にした。
新教会の上からマルクト広場を撮影(写真右がほぼ北)
広場北側店舗
現在は飲食や土産物屋が並ぶ広場前であるが、かつてはギルドハウスが並んでいたはずだ。
この建物すぐ裏手に小運河があり、その通りにフェルメールが親方登録していた「聖ルカス」画家組合の建物がある。
聖ルカス・ギルド(St.Lucas Gilde)
現在はフェルメール・センター・デルフトとなっている建物はかつてのギルドハウスのレプリカである。
フェルメールが1653年に親方登録し、1662年と1670年に理事も務めていた「聖ルカス・ギルド(St.Lucas Gilde)」と言う画家の親方組合(ギルド)が 17~18世紀に存在していた。
建物には他に3軒の表章があるので4軒は入居していたのか?
モールのデザインから画家の組合、表装の組合、彫刻家の組合、タペストリーの組合のようだ。
下は画家の組合の表章(看板?)。建物名にもなっている聖ルカス・ギルド(St.Lucas Gilde)の印
イーゼルやパレットなど見て解る看板である。
※ 聖ルカス・ギルド(St.Lucas Gilde)と建物に入っているが、スペルがSt.Lukasではないか?
St.Lukas(聖ルカ)は福音所記者の聖ルカであり、画家の守護聖人になっているので納得できる。
再び新教会からの写真(北側 教会の足下)
ブルーの矢印
が聖ルカス・ギルドの位置。
イエローの円内
あたりににフェルメールの生家である「空飛ぶキツネ亭(De Vliegende Vos)」の場所。
※ 英語で「空飛ぶキツネ」はフライング・フォックス( Flying
fox
)となっているが元はデ・フリーヘンデ・フォス(De Vliegende Vos)である。
フォルダース運河25,26番地なので聖ルカス・ギルド(フォルダース運河21番)の並びは間違いない。
曖昧なのは確認していない事と、現在私邸になっていて印が無い?
空飛ぶキツネ亭(De Vliegende Vos)とメッヘレン(Mechelen)
フェルメールの生家
である。フェルメールの父は居酒屋兼宿泊所を経営、また画商もしていたし、サテンの織物職人でもあったらしい。
1630年代に父が経営していた居酒屋兼宿泊所が空飛ぶキツネ亭(De Vliegende Vos)である。
この店は賃貸であり、後に父は広場に面した場所に新しく店を購入していている。
それがメッヘレン(Mechelen)である。(たぶん当初店舗は2軒同時経営。)
フェルメールは1632年誕生なのでメッヘレン(Mechelen)は誕生後? に購入されていると思われるが、実際 フェルメール一家がハウス・メッヘレン(Mechelen)に住居を移すのは彼が9歳の時らしい
。(デルフトのインフォメーションのパンフより)
※ その頃彼の父はレイニール・ヤンスゾーン・フォス(Reijnier Janszoon Vos)
からファン・デル・メールに名前を変えている。
ひょっとするとこの時に 空飛ぶキツネ亭(De Vliegende Vos)を手放したのかもしれない。
因みに フェルメールの父は1652年10月(彼が20歳の時)負傷して突然亡くなり、フェルメールが宿を引き継ぐと共にメッヘレン(Mechelen)購入の借金も負う事になる。( これがそもそもの借金の元凶である
)
右下見切れているが、ブルーの矢印の先が聖ルカス・ギルドの位置。
同じく右下の赤い矢印が看板のある建物で、隣のピンクでしるした所が今は取り壊されたフェルメールの父が購入してフェルメールにも引き継がれた居酒屋兼宿屋のメッヘレン(Mechelen)の場所である。
フェルメールが生まれた1632年10月にメッヘレン(Mechelen)が建っていた場所・・と書かれているが、本当は違う。
メッヘレン(Mechelen)は広場に通じる道路拡張工事の為に1889年に取り壊されているのだ。
※ デルフトのインフォメーションでもらったフェルメールの足跡と言うパンフに書かれている。
広場南側店舗
写真の尖塔がマリア・ファン・イエッセ教会(新教会は左側)
新教会の上から見たマリア・ファン・イエッセ教会(Maria van Jesse Kerk)
赤い矢印がフェルメールが創作活動していた家だった所
義母と同居した家
なぜマリア・ファン・イエッセ教会(Maria van Jesse Kerk)が出で来るか?
実はフェルメールが結婚してから割と長く住んだのが義理の母の家。それが後に教会の一角になってしまったからだ。
教会の建設は1875年~1882年。割と近年である。
ネオ・ゴシックの教会はローマ・カトリックの教会でデルフトの全てのカトリック教会を統べる聖ウルスラ教区の一つだそうだ。
フェルメールは1653年4月に結婚。
この家には1654年から1675年の亡くなるまで住んでいる
。
つまり彼の生涯で最も長く暮らしたのがこの家で、 彼はこの2階のまさにこの北側にアトリエを置いて創作活動をしていたのだそうだ
。
それは彼の作品の中に義母が所有する絵画が出て来る事からも解るそうで、彼の室内の作品のほとんどはこの部屋の中がモデルになっていたのかも知れない。
表には何やら表記あり4ヶ国語が書かれていましたが、英語表記がなくよく解らないで帰ってきました。
そもそもデルフトで出されている地図は解りにくく、場所を特定できない事がほとんどです。
この時も近くをうろうろ。まさか教会になっていたなんて知らなかったので・・。
街に何カ所がキュービックのフェルメール案内がありますが、それも非常に解りにくく、かえって迷子になる感じでした。今あらゆる地図や資料を駆使して今回いろいろ特定した所です![]()
尚、教会の案内にフェルメールの話は一切出てきていませんでした。
今もこの街には当時の建物がリフォームされて使い続けられて居ますが、今を大事にしているようで建物が残っていても所有者との問題があり中は伺い知れない所がけっこうあるようです。
商売っ気がないのかも・・。
フェルメールの墓について は、「デルフト(Delft) 6 旧教会(Oude Kerk) フェルメールの墓」で書いています。
リンク デルフト(Delft) 1 (デルフトの眺望)
デルフト(Delft) 2 (マルクト広場とフェルメール)
リンク デルフト(Delft) 3 (市長舎と新教会)
リンク デルフト(Delft) 4 (新教会とオラニエ公家の墓所と聖遺物の話)
リンク デルフト(Delft) 5 (新教会からのデルフト眺望)
リンク デルフト(Delft) 6 旧教会(Oude Kerk) フェルメールの墓
リンク デルフト(Delft) 7 プリンセンホフ博物館と 番外、出島問題(中世日本の交易)
リンク ヨハネス・フェルメール(Johannes Vermeer)とメーヘレン
リンク デルフト焼き(Delfts blauwx)
イスファハンの夢 ハーフィズの詩を添えて 2026年05月04日
大航海時代の静物画 2024年09月02日
ジャン・コクトー(Jean Cocteau)とマント… 2023年12月17日