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鎖国時代の日本でも長崎の出島でオランダとの交易が行われていた
実は長崎の出島は最初ポルトガルの為に造られた場所だった
。
それがいつ? なぜ? オランダに取って代わったのか?
簡単に言えばボルトガルはカトリック国で、オランダはプロテスタント国だったと言う理由だ。
カトリックの浸透により国勢に影響が出始めた事を幕府が嫌いオランダの甘言にのって交易相手を乗り替えたと言う事だ。
まとめてもけっこう長くなったので詳細は次回にまわします。
リンク デルフト(Delft) 7 プリンセンホフ博物館と 番外、出島問題(中世日本の交易)
デルフト(Delft) 6 旧教会(Oude Kerk) フェルメールの墓
旧教会(Oude Kerk)
宗教改革(Protestant Reformation)における因習破壊主義者(iconoclast)
ヨハネス・フェルメールの墓碑(Johannes Vermeer gravestone)
創設は1246年頃、デルフト(Delft)最古の教会である。
教会のアドレスがHeilige Geestkerkhof 25(精霊の墓地25)
前回触れたゴシックの塔は高さは75m。それは1325年~1350年の間に建造されたようだ。
実はこの塔は斜塔と呼ばれている
。実際 運河沿いの地盤の悪い所に建てられた塔
は当初から傾きがあったようだ。それ故1843年には屋根を外して修復された経緯もあるようだが、この斜塔現在登る事が可能なのである。
確かに写真見てわかるよう斜めっていますね
新教会の所で紹介したが、階段は煙突の中を上るように非常に狭く、圧迫感すら感じる狭さ。すれ違いも気持ち広めの所までどちらかが後退しないとすれちがえない。とにかく厳しい狭さです
斜めっていたとは気付かなかったです。
眺望はたいした事なかったような・・。(写真撮ってませんでした)
前に紹介した写真であるが、新教会からのみ旧教会の全景が見える
隣接してネーデルランド連邦共和国の初代君主となったオラニエ公ウィレム1世(Willem I)の宮殿がある。(写真では塔の後ろ)
※ 宮殿は現在プリンセンホフ博物館(Municipal Museum Het Prinsenhof)として公開されている。
教会は何度か増改築されている。薄いブルーのラインは教会が最大に大きかった時のライン。
下方 グリーンの円
・・・塔
下方 オレンジ
・・・・・・・メイン・パイプオルガン
下方 ブルー
の四角・・・トイレ
左中 ピンクの星
・・・・フェルメールの墓碑
右中 六角紫
・・・説教壇
1949年~1961年と1997年~2000年、20世紀に入り2度復元。 ステンドグラスの窓もその時に復元されているようだ。
図面で見れば元は三廊式教会であり写真は身廊。
ところがここには祭壇が無い。
宗教改革(Protestant Reformation)における因習破壊主義者(iconoclast)
1566年と1572年のプロテスタント改革派の因習破壊主義者ら(iconoclasts)によってステンドグラス含む美しい教会内部の装飾は破壊された
。
ブロテスタントの教義の中(十戒)に偶像崇拝禁止の項があり、宗教改革(Protestant Reformation)の時、
強い因習破壊主義者(iconoclast)は欧州のいくつかの都市で過激な破壊運動を行っている
。
以前ゲントの時も修道院の貴重な蔵書が何万冊も川に投げ込まれたと書いたが、特にオランダ、ベルギー、北フランスは1566年夏に広範囲に渡り教会や修道院が襲撃され文化遺産ともなる貴重な名画や彫刻、聖書などが焼かれたりうち捨てられている。
以前紹介した新教会の入り口のティンパヌム (tympanum)が削られたのもこの理由だろう。
かろうじて生き残ったのは1548年製の説教壇だけ。
身廊の先にあるのは(図A)Piet Hein tomb
Pieter Pietersen Hein(1577年~1629年) オランダの
海軍
提督で
西
インド会社
の
司令官
。
写真がボケていたので拡大は無しです
左の聖堂(図B)にはElisabeth Morgan tomb
→ D
方面 奧がかつての右の側廊
↓ P 方面
パイプオルガンの裏側が塔であり入り口方面
↑
右の側廊・・先が減築されている。
下はもちろん墓石の床である。
←C
方面
左の翼側 ピンクの ↓
がJohannes Vermeer gravestone(ヨハネス・フェルメールの墓石)位置
ヨハネス・フェルメールの墓碑(Johannes Vermeer gravestone)
※ ヨハネス・フェルメール(Johannes Vermeer)(1632年~1675年)
実は現在 ヨハネス・フェルメールの墓碑は2箇所にある。
1975年300回目の命日で作られた簡素な墓碑(墓石1)と2007年1月26日に置かれた西の通用口の近くの新しい墓碑(墓石2)である
。
ヨハネス・フェルメールの墓石1 ・・・1975年製
ヨハネス・フェルメールの墓石2 ・・・2007年製
フェルメールは旧教会(Oude Kerk)内の床の下に埋葬されたのは間違いない。
そこはフェルメールの義母が1661年に権利を購入
していた場所だ。
しかし 彼が亡くなった時にフェルメール家はお金がなくて墓石は造られなかった
のである。
だから実は正確な墓の場所は特定できていない。
墓石1も2も「およそそこら辺」と言う場所に据え置かれているにすぎない。
※ フェルメールの生家にいては、「デルフト(Delft) 2 (マルクト広場とフェルメール)」の中、
「空飛ぶキツネ亭(De Vliegende Vos)とメッヘレン(Mechelen)」「義母と同居した家」で書いています。
リンク デルフト(Delft) 2 (マルクト広場とフェルメール)
※ デルフト全般にフェルメールとなっています。
プリンセンホフ博物館の絵画より
旧教会内部を描いたもので、製作した画家はフェルメールと同じ年に亡くなっている。
墓は石のプレートをはずして埋めるだけのシンプルそのもの。
入場口の付近にトイレが増設されている。
教会内にプレハブの小屋を置いてあるような感じだ。
教会内、しかも聖堂内にトイレが設置された教会は知る限りここくらいだろう。
墓石をはがして設置された トイレにものすごく恐縮したものだ
旧教会(Oude Kerk)おわり
リンク デルフト(Delft) 7 プリンセンホフ博物館と 番外、出島問題(中世日本の交易)
デルフト(Delft) 6 旧教会(Oude Kerk) フェルメールの墓
リンク デルフト(Delft) 5 (新教会からのデルフト眺望)
リンク デルフト(Delft) 4 (新教会とオラニエ公家の墓所と聖遺物の話)
リンク デルフト(Delft) 3 (市長舎と新教会)
リンク デルフト(Delft) 2 (マルクト広場とフェルメール)
リンク デルフト(Delft) 1 (デルフトの眺望)
リンク ヨハネス・フェルメール(Johannes Vermeer)とメーヘレン
リンク デルフト焼き(Delfts blauwx)
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