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プロテスタントについて書いたリンク先を追加しました。
聖遺物崇敬(せいいぶつすうけい)のルーツは古代 ギリシャ時代からあった英雄や偉人に対する崇敬に発したようです。
まだキリスト教が公認される前の
2世紀頃でも、その聖人の徳を墓前で後世語り継ぎ賛美すると言うシンプルな
殉教者崇敬だったようで す。
それ故、初期の対象はあくまで聖人の遺骸であり、ローマ時代は遺骸をバラス事は禁じられていたので分骨されたり、一部と言うのもあり得なかったそうです。
聖遺物の重要性が唱えられるのは6~7世紀頃
。
東と西、双方の教会会議で教会や祭壇に絶対聖遺物を置かなければならないと言うおふれが出された
事。
しかし教会の数は増えて行くのに聖人の遺骸(聖遺物)には限りがある。
そこで聖遺物売買や盗掘、他の教会からの窃盗なども多発したと言う。
面白いのは窃盗されても、聖人がそこに行きたかったからだ・・と言う理由で罪が許されていた? 感がある事。また、偽物? かなり怪しい物も出回ったようだ。
聖遺物たる遺骸が分割され始めたのは10世紀あたり?
遺骸の解体と言う禁忌の意識が薄れたのか?
専用の容器に入れられ、移動できるサイズになり分割が一般化され始めたようです。
例えそれが 指先一かけらでも威力は聖人の一人分としての効力を放ったらしい。
そんな聖遺物崇敬は11世紀にはかなり盛り上がり、同時に聖遺物の恩恵を受けたい巡礼者ブームも到来。
十字軍への一般人の参加はそんな聖遺物をあわよくば持って帰ろう・・と言う動機も多分にあったと思われる。
中世半ばになると1度に多数の聖遺物が集められ、出展のリーフレットもできたた大がかりな展覧会のようなイベントも開催された
と言う。
聖遺物崇敬も時代の変遷?
当時 教皇庁より贖宥(しょくゆう)の軽減と言うサービスが聖遺物に加えられた
事によりこうしたイベントへの巡礼者が増加して人気は加速。
※ 贖宥(しょくゆう)とは罪の償いであり、煉獄での罪を償う日数を大幅に軽減させると言うもの。その日数をお金で買ったのが贖宥状(しょくゆうじょう)であり、免罪符(めんざいふ)と言われる御札。
つまり 聖遺物を1度に多数見られるイベントに行けば、わざわざ遠くに旅して回らなくても安易に贖罪の日数を減らせるのだから好都合。免罪符同様に楽に天国の門に近づける裏技となった のは
言うまでもない。
ルターが怒った問題の一つがこの教皇庁の造り出した贖宥の軽減。
聖遺物を多く見たりお金で買って得た贖宥。罪深い市民が、本当の意味で神に償う・・と言う意識さえも失った事を嘆いたのだろう。
当時ヨーロッパ最大の聖遺物を有していたヴィッテンベルク(Wittenberg)の教会。
ヴィッテンベルク大学神学教授であったマルティン・ルター(Martin Luther)(1483年~1546年)はヴィッテンベルク市の教会に95ヶ条の論題を打ちつけ、宗教改革の口火を切ったのである。
※ ルターに関しては、「ポルディ・ペッツォーリ美術館(Museo Poldi Pezzoli)」と「クラナッハ(Cranach)の裸婦 1」で紹介しています。特にクラナッハとの関係性とルターの聖書発行の履歴ものせています。
リンク クラナッハ(Cranach)の裸婦 1 (事業家クラナッハ)
リンク ポルディ・ペッツォーリ美術館(Museo Poldi Pezzoli)
※ 免罪符についてはあちこちで書いていますが、その誕生の真実について書いてます。
リンク アウグスブルク 6 フッゲライ 2 免罪符とフッガー家
今回紹介するプロテスタントの教会はルター派でなくカルヴァン派の教会であるが、 ルターの宗教改革運動が浸透した各所では聖遺物崇敬は停止され聖遺物は破壊されたり捨てられたり悲惨な運命をたどる事になった。
そんなわけでプロテスタントの教会に美しい調度品は一切ないのである
プロテスタントの教義などについては後年書いています。
リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 23 新教(プロテスタント)の国の台頭
デルフト(Delft) 4 (新教会とオラニエ公家の墓所と聖遺物の話)
聖遺物崇敬のルーツと贖宥問題
新教会(Nieuwe Kerk)
オラニエ公ウィレム1世の離婚問題
オラニエ公ナッサウ家の地下墓所
回紹介したように元はカトリックの聖ウルスラ(St. Ursula)教会として建設された教会です。
聖堂の構造からそこが元カトリックの聖堂であった事は一目で解ります。
ルターの宗教改革の嵐がおきた頃、この教会が信者と共にプロテスタント化した為に聖ウルスラ(St. Ursula)教会は失われたのだと思います。
しかし、そもそも聖ウルスラ伝説がどうも本当に伝説だけの話? 実在の記録がとれなかったようで1969年以降 カトリックの典礼暦(てんれいれき)から除外されたらしい。
それにしても調度品が全くありません。まさにシンプル。

マンガチックなステンドグラスです
近年入れたものかも・・。゜
教会の聖堂部の天井はシンプルに木造です。

ハーグのビネンホフ(Binnenhof)のリッデルザール(Ridderzaal)(騎士の館)の舟形の天井を思いだしました。
カトリックで言う内陣の聖堂の下は
ネーデルランド連邦共和国の初代君主となったオラニエ公ウィレム1世(Willem I)の霊廟が安置。
当時教会内の工事をしていたので定かに解らないが、礼拝所らしきものは無かった気がする。
オラニエ公ウィレム1世(Willem I)(1544年~1584年)
の中心人物。
スペインとの戦いの渦中デルフトの住まいである宮殿プリンセンホフで1584年7月に暗殺されている。
1584年遺骸は
この教会に安置されたが霊廟ができるのはもう少し後だろう。
霊廟の製作者は前に市長舎でも紹介した当時有名な建築家であるヘンドリック・デ・カイザー(Hendrick de Keyser)
と
ピーテル・デ・
カイザー(Pieter de Keyser)

オラニエ公ウィレム1世の離婚問題
ウィレム1世の経歴を見ていたら彼は4回結婚してたくさんの子供をもうけている。
死別と言うより妻とはほぼ離婚である。
カトリックでは離婚は認められていないが、プロテスタントでは離婚ができる。だからなのか? と思ったが・・。![]()
これは複数愛人を抱えて後から適当に籍を入れていったのか? と思わざるおえない。
これはカトリック教徒であれば大罪である。
「離婚」と言えば、ルターだって聖職者なのに「結婚」している。いいのか?
教義が緩(ゆる)くて細かい事を気にしない? 面倒くさくない? お金もかからない? そんな所が支持されてプロテスタントは増えたのだろうか?
カトリックのように美麗な調度品を造る為のお金はかからないだろうがやはり運営費や修繕費は必要。
墓以外に目に留まったこんな箱が・・。
For Restoration of the church( 教会
の
修復
のために)

由緒ありそうな浄罪箱である。
教会の床には墓標がちらほら・・。摩滅して消えたものもあるのだろう。
床そのものがお墓になっている所がほとんど。
しかし、こちらの教会はさらに地下に王家の墓(Koninklijke Grafkelders)がある。
写真奧で下をのぞいている人達の場所
Koninklijke Grafkelders
オラニエ公 ナッサウ家の地下墓所

聖堂内陣部の床にはガラス床になっている部分が一箇所。
ここにはウィレム1世以降のオラニエ公 ナッサウ家の棺が納められる墓所である。
つまり現王室の墓所でもあると言う事。
近年では2004年に 前オランテダ女王(ベアトリクス)の母であるユリアナ女王(Queen Juliana)と夫君Prince Bernhardが葬られたと言う。
基本王家のプライベート墓地なので公開されていないが、このように床にガラスがはめられていて、地下の様子が少し見えるようなサービスがされている。
確認してこなかったが、見えている部分が近年の新しい棺ではないか?
だとすればオランダ国民が弔問に来た時用の窓なのかもしれない。
一部墓所の図

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リンク デルフト(Delft) 1 (デルフトの眺望)
リンク デルフト(Delft) 2 (マルクト広場とフェルメール)
リンク デルフト(Delft) 3 (市長舎と新教会)
リンク デルフト(Delft) 5 (新教会からのデルフト眺望)
リンク デルフト(Delft) 6 旧教会(Oude Kerk) フェルメールの墓
リンク デルフト(Delft) 7 プリンセンホフ博物館と 番外、出島問題(中世日本の交易)
リンク ヨハネス・フェルメール(Johannes Vermeer)とメーヘレン
リンク デルフト焼き(Delfts blauwx)
リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 23 新教(プロテスタント)の国の台頭
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