わたしのこだわりブログ(仮)

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2021年01月25日
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カテゴリ: 歴史の旅
星 関連 Back numberをラストに追加しました。


​​​​​​​​マクシミリアン1世(Maximilian I)(1459年~1519年)以来長らく、オーストリアのハプスブルク家とフランスのブルボン王家との間で抗争が続いていた。​
そもそもはマクシミリアン1世の婚約者であったブルゴーニュ公女の為にブルゴーニュ公領を守った戦いが発端である。
※ この戦いは「金羊毛騎士団と金羊毛勲章​(Toison d'or)​」の中「金羊毛勲章が​ハプスブルグ家に継承された訳​​」で触れています。
リンク ​ 金羊毛騎士団と金羊毛勲章​(Toison d'or)​

しかし、マリア・テレジアによるオーストリア継承の時に起きたプロイセンのフリードリヒ2世(Friedrich II)(1712年~1786年)によるオーストリア領シュレーゼン(Schlesische)の強奪。そして勃発したオーストリア継承戦争。

オーストリアにとって、女帝マリア・テレジアにとって、もはやフランスよりも許せない目前の敵はプロイセンのフリードリヒ2世 となった。​
マリア・テレジアはフランスとの和解を計る事になる。

※ オーストリア継承戦争、プロイセンの進行、フランスとの和睦については、
「新 ベルサイユ宮殿 9 (ポンパドゥール夫人とルイ15世)」の中、「エセ啓蒙専制君主フリードリヒ2世の討伐」で詳しく書いています。
リンク ​ 新 ベルサイユ宮殿 9 (ポンパドゥール夫人とルイ15世)

が、この和睦の申し入れはどちらの国が先にしたのかは定かになっていない。この仕掛け人がポンパドゥール夫人だったのではないか? と私はみているが・・。ぽっ

1750年10月、女帝から全権を委任されたカウニッツ (Kaunitz)(1711年~1794年) はフランスへ向かう。
フランスではポンパドゥール夫人 (Madame de Pompadour)(1721年~1764年) を通じ国王ルイ15世との交渉が続く。

また、同じくフリードリヒ2世を嫌悪するロシア帝国のエリザヴェータ女帝とも交渉はすんなりまとまった。
しかし、ウィーンとサンクトペテルブルクの中立地としてザクセンのドレスデンで交渉したことから、プロイセン側もオーストリアとロシアの接近を察知し、先手を打たれてしまう。
プロイセンはイギリスと手を組んだのだ。

​​​ 1756年5月1日、ヴェルサイユ条約をもってオーストリアとフランスが遂に和睦の為に同盟を結ぶ事となった。フランスはオーストリアのシュレーゼン奪還を全面的に応援する事になる。

そこにエリザヴェータ率いるロシアも参戦してプロイセン包囲網ができあがった。
これはマリア・テレジア、エリザヴェータ、ポンパドゥール夫人にちなみ3枚のペチコート作戦」等と俗に呼称される。
※ それについても「新 ベルサイユ宮殿 9 (ポンパドゥール夫人とルイ15世)」の中で書いてます。

マリア・テレジアはポンパドゥール夫人に深く感謝し、高価な贈り物をした 。と言う後日談からも、この和睦はオーストリア側からと言うよりは、やはりポンパドゥール夫人の発案? であったのでは? と思った所以だ。オーストリアからでは提案できる立場では、なかっただろうし・・。

とにかく、 3人の女性は卑怯者のフリードリヒ2世を嫌っていた。と言うところで確実に一致していた。
※ 返す返すも、この包囲網が失敗した事は非常に残念でした。しょんぼり

​​星この フランスとオーストリアとの和睦に伴い、両国間の友好の印として、縁戚を結ぶ案が出る。
フランスの将来の王太子とオーストリアの姫の結婚である。
(後のルイ16世とマリー・アントワネットの結婚)


しかし、これはすんなり決まった話しではなかった。
何しろ長年の宿敵である。特にフランス側のオーストリアへの嫌悪は簡単に消す事はできなかった。
何にもまして、ルイ16世の父ルイ・フェルディナンの反対は大きかったので、長らく話しは保留状態。話が進んだのはルイ・フェルディナンが早世したからだ。
※ ルイ・フェルディナン・ド・フランス(Louis Ferdinand de France)(1729年~1765年)

もし、ルイ15世が先に亡くなり、ルイ・フェルディナン自身がルイ16世として王位継承をしていたなら、この結婚のみならず、和睦自体もどうなっていたか・・。
つまり、 婚約まではすんなり決まったが、結婚の契約まではには時間を要したのだ。

ところでマリア・テレジアは何よりも早い結婚を望んでいたが不安はあった。
​​​オーストリアでは、しきたりや作法は特別の時の儀礼でしかない。通常は宮廷内でもノンビリ。市中では庶民が王族の馬車でも平気で抜いて行く事もあったそうだ。だが、それでお咎めはない。

そんなアットホームなオーストリアに対してフランスは訳が違う。
ルイ14世以来の細かい宮廷儀礼にしばられる事になる。
国境を越えたらプライベートは無いにひとしい。マリア・テレジアは勝手が違いすぎるフランスで娘が途方に暮れるのではないかと心配したのも最もな話しなのだ。

だが、窮屈(たいくつ)を嫌って、好きほうだい羽目を外しはじめた娘の行動は女帝の危惧以上の問題に発展する事になる。
マリーアントワネットの行動は、貴族の中からの「謀反(むほん)」と言うブルボン王家自体の屋台骨をゆるがす結果につながったからだ。
フランス革命は市民の反乱だけではない。本来王政側に居るべき貴族の反発。彼らの信頼をも失い王族は裸同然に市民の中に放り出されて弾劾(だんがい)された。



ヴェルサイユ宮殿の王太子妃

​フランスとオーストリアの和睦
マリーアントワネットの美貌
​​​フランス領内の馬車旅
王太子との出合い

結婚と寝所
マリー・アントワネットの気晴らしと暴走
デュ・バリー夫人問題
1773年6月8日パリ入市の反響
​​​ ​​ルイ15世崩御から新国王ルイ16世誕生​

後半ラインナップ
マリー・アントワネットの居城 4 プチトリアノンからパレ・ド・ジュスティス​

マリーアントワネット​のプチトリアノン​(le Petit Trianon)
マリー・アントワネットの子供達
フォンテーヌブロー宮殿(Palais de Fontainebleau)王妃の寝室と私室
​マリー・アントワネットのファッション​
マリーアントワネットの浪費
パレ・ド・ジュスティス (Palais du Justice)コンシェルジュリー(Conciergerie)
サン・ドニの教会(Basilique de Saint-Denis)

​​
マリーアントワネットの美貌
フランス側、ストラスブールでマリーアントワネットは上々の歓待を受けた。​
それはマリーアントワネットの美貌に寄るところが大きかった。

彼女も常に微笑みを保ち、社交に勤めてはいたが、まさに百合(ゆり)と薔薇(ばら)がまざりあったような肌色した彼女を一目見るなり、皆、感嘆したのである。
少女のあどけなさの中にも優美な身のこなしと優雅な物言い。彼女が微笑んだだけで一瞬にして全ての人が魅了される。
春の花のよう可愛いらしく春の風のようにさわやかな姫の至来 。​​

​英国の作家にして政治家エドモンド・バーグ(Edmund Burke)(1729年~1797年)は彼女は「春の香」と称しているが、ある意味それも彼女の才能だろう。実際、ルイ15世さえも初めて彼女会った時に魅了されてしまったらしい。

フランス語版のウィキメディアから パブリックドメインの写真です。
説明によれば前回紹介したフランスの画家ジョゼフ・デュクルー(Joseph Ducreux),(1735年~1802年)がアントワネットの肖像を王太子に届ける為にウィーンに行った1769年。最初に描いた肖像画が元になっているらしい。
前回紹介した正式なアントワネットの肖像は老け気味。こちらの方が年相応のかわいらしさが見られる。

​​が、1773年フランソワ=ユベール・ドルーエ(François-Hubert Drouais)(1727年~1775年)の作品となっています。(・_・?)はて? 

星何にしてもこの肖像画から解るマリーアントワネットの愛らしさと気品。
オーストリアとの長年の確執から当初嫌悪していた者達まで、 彼女の容貌はさることながら礼儀正しさに驚き。
また、彼女の微笑みと立ち居振る舞い、その物腰しの優雅さに魅了されてしまう
のである。
宮中の者は皆彼女の回りにひしめき合い、お上手を言う。 ベルサイユはマリーアントワネットによって征服された。 と評されるほど・・。​​


​​​フランス領内の馬車旅
前回、ルイ15世から送られた馬車の事に触れたが、 長旅の為に マリーアントワネットには巨大な寝台馬車が2台用意されていた
内部は完全なる寝室? 横になって休む事ができる広さ。 緋色の繻子の布団、肘掛けイスと衝立、折りたたみイスがセットされたものだったと言う。​


​​​​​​​​​ ​​ 50名の近衛兵を先頭に盛大な行列が進む。オーストリア側でもそうであったが、 フランス側でも中継地毎に馬を交換するので宿駅毎に386頭の馬をかき集め無ければならなかった。 変え馬集めは遠い宿駅からも調達せざる終えなかったらしい。

馬車の走る道も整備されたが、従僕の数だってハンパな数ではない。それも容姿優先で選抜雇用されたらしい。「顔つきが悪い。小男過ぎる。」など当時の従僕募集における落選者の問題点が記録され今に残っているらしいのだ。自分が就職に失敗した理由が何百年も残っていて、後世の人に知られる・・ってとんでもない話しですねぽっ

下はフランス領内の馬車がたどったベサイユまでの行程です。
1770年5月8日 ストラスブール(Strasbourg)→
サヴェルヌ(Saverne)→
リュネヴィル(Lunéville)→
ナンシー (Nancy)→
コメルシ(Commercy)ー→
バル・ル・デュック(Bar-le-Duc)→
サン・ディジェ(Saint-Dizier)→
シャロン・アン・シャンパーニュ(Chalons・en・Champagne)→
ランス(Reims)→
ソワソン(Soissons)→

1770年5月14日 ​​コンピエーニュ(Compiegne)​​​
​​​ ルイ15世と王太子が出迎えに来ていて合流。
マリーアントワネットはこの時、始めて夫になる王太子と対面する。
ラ・ミュエット(La Muette)→
ヴェルサイユ(Versailles)​​​​​​​

王太子との出合い
ところで、60歳を迎える ​ルイ15世がマリーアントワネットを一目で気に入ったのとは対象に、15歳と9ヶ月の少年(王太子)は、彼女に興味を示していない​ 。無関心にさえ見えたようだ。
近眼で見えていないにしても思春期の少年である。まして自分の妻になる女の子に全く興味を示さないなんて事があるだろうか?

​​
「一風変わった男ですよ。」と評価された彼(王太子ルイ・オーギュスト)は、11歳で父を失い、12歳で母と死別。祖父であるルイ15世は自分の事で忙しく、結局、他人に委ねられたのだが 虚栄心が強く優柔不断なド・ラ・ヴォーギユイヨン公爵に恐ろしく適当に育てられた らしい。

年齢の割には幼稚な少年? 後に影響する身体的問題もこの時に気づいて解決できていれば、彼はもう少しりっぱな青年になっていたかもしれない。

因みに彼が興味を示したのは職人らの仕事。錠前や左官などの技術職にただならぬ興味を示し、それは結婚後もしばらく続き汚れた服で戻ってくるのでマリー・アントワネットをあきれさせている。
当然であるが、 ​マリーアントワネットは自分に興味さえ示さない夫(王太子)にかなり失望したに違いない。​

​​​
ベルサイユ宮殿(Palais de Versailles)
1668年の再建時のヴェルサイユ宮殿(ピエール・パテルの絵画))ウィキメディアから




内側の門
この扉の向こうは国王の前庭




現在の宮殿見取り図から


ベルサイユ庭園側
上の写真のみウィキメディアから借りています。

​ベルサイユ宮殿の建設工事が始まったのは1662年。ルイ13世の狩猟用城館があったとは言え やせて貧弱な土地。
​​ そんな場所に広大な宮殿の建設をルイ14世は強行。湯水のようにお金を使って建設 している。

宮殿建設にはお金と労力と技術が必要。とりわけ 水のない庭園に水を引くための造園工事は難工事 だったらしい。
※  ベルサイユの宮殿建設には25000人の労力が、庭園の造園には36000人の労力 がかかったと言われている。​​


セーヌ川に直径12mの大水車を14個据え、200余りのポンプ群からなる装置で、水を汲み上げ、高さ154mのマルリーの丘まで運び庭園の噴水に水を供給していた。
​​※ 頓挫した水道橋の計画もある。

1674年ベルサイユ宮殿庭園ファサード  ウィキメディアから
「鏡の間」ができる前のテラスがある当初のファサード。

しかし、 ルイ15世の時代にはすでに財政逼迫が始まっている のでルイ14世当時ほどの数の噴水は無かったと思われる。今現在はもっと少ないだろうし、庭園の様相もかなり異なっていると思われる。
ベルサイユ宮殿の黄金期は最初のルイ14世の時代がピークだったのかも しれない。​​
造園家アンドレ・ル・ノートル(André Le Nôtre)は、フランスの平坦な地勢にも適した新たな、独創的なデザインの造園法を生み出した。






​​​ ベルサイユ宮殿の広大な庭の造園は、造園家アンドレ・ル・ノートル(André Le Nôtre)​(1613年~1700年)​が中心に構想 しているが、実は 首席建築家マンサールから建築学的要素を取り入れながらベルサイユとトリアノンの造園を指揮 したと言う。​
建築と庭園は一体となってデザインされている のである。​​

​また ​庭園装飾の為の彫像や鉢などのオブジェや噴水は画家のシャルル・ル・ブランがデザインし​ 図案と設計図 を書き上げている

星つまりベ ​ルサイユ宮殿はヴォー・ル・ヴィコント城(Château de Vaux-le-Vicomte)同様に3人の共作と言える。​​

建築家​​ルイ・ル・ヴォー(Louis Le Vau)(1612年~1670年)​​
画家シャルル・ル・ブラン(Charles Le Brun)(​1619年~1690年)​
造園家アンドレ・ル・ノートル(André Le Nôtre)​(1613年~1700年)​
刺繍花壇


今は庭園内を回る乗り物が・・。ツアーの人に時間はないでしょうが・・。

結婚と寝所

ベルサイユ宮殿内、王室礼拝堂(The royal chapel)
​​
チャペル2階
チャペル1階 下の写真はウィキメディアから

1770年5月16日
二人の結婚式はベルサイユ宮殿内にある王室礼拝堂(The royal chapel)で行われた。
王太子ルイ・オーギュスト、後のルイ16世 (Louis XVI)(1754年8月23日~1793年1月21日)15歳​​
マリー・アントワネット (Marie-Antoinette)( 1755年11月2日~1793年10月16日)14歳。
エッチング? こちらの写真はウィキメディアから

※ この礼拝堂では、1745年2月23日ルイ15世の息子でルイ16世の父(ルイ・フェルディナン)とスペイン、フェリペ5世の娘のマリーテレーズ・ラファエルとの結婚式も行われている。

この日、王太子 ルイ・オーギュスト(後のルイ16世)はいつものようにお腹一杯食して新婚初夜の晩なのに大いびきをかいて寝たらしい。
ルイ15世はお腹一杯食べるとまずいのではないか? と忠告したらしいが、沢山食べた方が良く眠れると返されたとか・・。

以前、「ベルサイユ宮殿 10 ルイ16世とアメリカ独立戦争とマリー・アントワネットの村里」のところでルイ16世について書いたが、 二人が夫婦となるのは1777年末から1778年初頭と推察。それまで二人りは寝室を共にしても何もなかった 。​

リンク ​ 新 ベルサイユ宮殿 10 ルイ16世とアメリカ独立戦争とマリーアントワネットの村里

下はベルサイユ宮殿内の王妃の寝所  夜なので写真が暗いです。

​二人の初夜は皇妃の寝所。 そこは 王太子自身が生まれた部屋。

ランスの大司教が寝所を聖別。宮廷中の人々が押し合いへし合いで見学にきている中、 国王が寝間着のシャツを手渡すと言う儀式が行われ、着替え姿まで見学の中で行われる。
カーテンの影で
二人が寝所に入ると、寝所のカーテンは突然開かれ二人床に付いた姿が公開される。
まさにベルサイユ劇場である。 見学の貴族らは彼らに会釈して部屋を出る。
※ 一連の儀式はルイ14世の造った宮廷​​​
儀礼と思われる。

王族にプライバシーなど全く無い。これがベルサイユのようだ。
これはマリーアントワネットでなくても、面食らう面妖な儀式。
マリーアントワネットが受けた カルチャーショックはかなり大きかったろうと思う。ぽっ

前述したよう王太子は儀礼の時から大あくびしていたので爆睡。翌日の日記には「無し」とだけ記されたそうだ。 因みに、出産も公開である。一連の儀式を貴族らが見学する。

毎日爆睡する王太子、3日目には自身は早朝から狩りに出かけ、戻ると子犬と遊ぶマリー・アントワネットに「良く眠りましたか?」と声をかけている。
この事はウィーンのマリア・テレジアにすぐさま報告が行く。

王妃の間、 リュエル(ruelle)の域にある隠し扉の向こうが王妃のプライベート・アパルトマンとなっている。

7月8日、王太子はマリー・アントワネットに結婚について自分はちゃんと解っていると弁明している。
「敢えて規則だった振る舞いを自分は課して来た。心づもりの期日がくれば・・。」
しかし、その心づもりと言う日(8月23日、16歳の誕生日)が来ても何も起こらなかった。
そのうち宮廷中がその問題を知ってしまう。

9月20日には、10月10日には・・と約束しながら自室に引きこもる王太子。マリー・アントワネットは叔母達に相談。励ましは逆効果となり、ついにルイ15世も介入。

王太子は王の質問に対して「妻が可愛いらしいとは思うのですよ。私はあの人を愛しています。でも自分の気後れに打ち勝つにはまだしばらく時間が必要なのです。」と返している。

ルイ15世は「待つ」と答えたようだが、同盟を強固にする為に孫がほしいマリア・テレジア。
マリー・アントワネットほどの顔立ちの少女が王太子をその気にさせられないのだから、どんな薬だってダメなのではないか? と絶望している。

医者の見解では解剖学上の異常がみられ、本来、成長を阻害しないよう若い時に外科手術が必要であったのに見過ごされて来た事。加えて、異論の余地無い発育不全?
※ 以前「新 ベルサイユ宮殿 10 ルイ16世とアメリカ独立戦争とマリーアントワネットの村里」で書いたルイ16世のコンプレックスに関する疑問は解決した。

問題は王太子にあるのだから仕方が無い。​だが決断できない王太子の為に
マリア・テレジアのやきもきは7年も続くのである。

マリー・アントワネットの気晴らしと暴走
赤い狩猟服を着たマリー・アントワネット 1771年(パステル画)  ウィキメディアから
​何か企みをたたえた利発そうな16歳のマリー・アントワネットが描かれている。
画家はオーストリアの画家兼彫刻家であり帝国宮廷画家であるヨセフ・クランツィンガー(Joseph Kreutzinger )(1757年~1829年) 母国のマリア・テレジアの為に描かれ送られた。
シェーンブルン宮所蔵。

星 王太子との問題は彼女の自尊心を大きく傷付けていた。それに気付かなかったのは王太子だけだ。
マリー・アントワネットは必死に気を紛らす暇つぶしを求めていた。
そんな中で現れた彼女の本性?  問題点? 次々と露見してきていた。

上の写真は狩猟着姿のマリー・アントワネット。実は乗馬をしたいと申し出たが、危険があるので妥協策としてルイ15世からokが出たのは馬ではなくロバ。
​が、すぐに約束をやぶり小馬になり、すぐに馬に変わった。
せめて並足で乗るようメルシー伯爵は言ったが聞かず疾走させる。

メルシー伯爵は困りマリア・テレジアにまた手紙を送る。
女帝は当然怒る。乗馬は肌の色を損ねるから止めるよう諭したが聞かなかった。
女帝は娘が狩りに行かなければ良いが・・と心配していたが、狩りには出かけるし、フェートンにも乗っていた。
マリー・アントワネットの狩りの問題は危険だけではない、それに同好する者や食糧にまで及ぶ。
とにかくマリー・アントワネットは自分はもう大人だから・・と人の意見を聞かなくなって暴走しだしていたのだ。

星パリ駐在のハプスブルグ家の大使であるメルシー伯爵とブルボンの宮廷関係者、さらにはウイーンのマリア・テレジアとの間で、いかにマリー・アントワネットを制御するかで悩む事になった。
※ フロリモン=クロード・ド・メルシー=アルジャント(Florimont-Claude de Mercy-Argenteau)(1727年~1794年)。オーストリア外交官。
​​​
また、別の問題があった。
彼女は回りの者の観察をするのが好き。その中で見つけたその者の個性を面白可笑しく回りの女官らに話し笑いものにする。
人の滑稽(こっけい)な所を見つけてはその者を材料にして、より機知にとんだ語彙(ごい)を見つけるのが上手(じょうず) なのだ。

メルシー伯爵はさすがにマリア・テレジアに警鐘の手紙を送る。
マリア・テレジアはすぐさま叱責(しっせき)の手紙をマリー・アントワネットに送っているし、この事はルイ15世の耳にも入り王も不快を示す。
王は公の場ではしないよう警告するが、いずれもマリー・アントワネットはろくに耳を貸すことがなかったと言う。
※ こうした人をからかう行為は、マリー・アントワネットが王妃になるともはや歯止め無く酷くなる。

デュ・バリー夫人 問題
​​​ こんな性格が表に出て来たのは、 宮中にいる内親王の悪影響もあった。
夫に相手にされない代わりに訪ねた内親王は、メルシー伯爵によればゴシップと陰謀の温床で、友人にするにはふさわしくない老嬢。マリー・アントワネットに良からぬ事を吹き込んでいた争いの元凶だった。

当時ルイ15世の公妾(こうしょう)であったデュ・バリー夫人(Madame du Barry)(1743年~1793年)と宮中の貴婦人らとの抗争にも巻き込まれて行く事になる。

デュ・バリー夫人のポートレイト 1770年、プラド美術館蔵

そもそも​
デュ・バリー夫人は国王の公妾になるには出自が悪すぎた。 ​ブルジョア出身であったポンパドゥール夫人(Madame du Barry)(1743年~1793年)とは比べるのも失礼なくらいレベルが低い。

教養こそ少しはあったが少女の頃から素行も悪く、男性遍歴を繰り返していた。 デュ・バリー子爵に囲われると、子爵は彼女を高級娼婦として友人らをもてなしさせていたらしい
ルイ15世はそんな中で1769年に紹介され知り合っている。

宮中の女性等が彼女を嫌悪するのは最もだ。しかも、いじめられたら​
デュ・バリー夫人はルイ15世に言いつけて必ず反撃の仕返しをする。宰相までクビにさせた。
マリー・アントワネットは自分の取り巻きの1人が追放された事がとりわけ許せなかった。

メルシー伯爵もマリア・テレジアもマリー・アントワネットが何かしでかすのではないかと心配する。
それで出た行動が「
デュ・バリー夫人無視」 である。
マリーアントワネットはベルサイユに来てまだ一度もデュ・バリー夫人と会話していない。
王妃に声をかけてもらう事は認めてもらった事に値する。彼女は王妃に認めてもらっていない事になる。
※ フランス貴族の独特の風習で、身分の高い者からしか声をかける事が許されない。

マリーアントワネットは デュ・バリー夫人の存在そのものを消して無視をし続けた。
この事は内親王である叔母や夫である王太子も望んでマリー・アントワネットにそうさせていたらしい。

星マリー・アントワネットは誇り高く強情な気性。マリア・テレジアでも今回は苦戦したが、オーストリアの国益の為(ポーランド問題でフランスの合意が欲しかった。)彼女を説得。

マリー・アントワネットが​
デュ・バリー夫人にただ一声掛けるだけで事が収まるからと促し承諾させた。 彼女は約束どおり一度だけ声をかけた が・・。
「これだけにしておきます。彼女は2度と私の声の音色を効く事はないでしょう。」と言い実行した。​​​​

​​ 因みに、ルイ15世の病状が悪化した1774年5月、 デュ・バリー夫人はベルサイユから、プチトリアノン宮からすぐさま追放された。

1773年6月8日パリ入市の反響
​​​
​​王太子夫妻の結婚の時、1770年5月 パリ市からの結婚祝いに催された祭りがあった。花火が盛大に上がる大きな祝典でマリー・アントワネットもベルサイユから見学に訪れたのだが、あまりに多くの人間がパリに集まり群衆事故が起きた。それは大量の死者を出す悲劇でマリー・アントワネットは恐怖の帰還をしている。
以来、マリー・アントワネットはパリ市を訪問していなかったようだ。

パリ市の要請もあり、正式な王太子夫妻のバリ入市が1773年6月8日に決まった。
パリ市は祝砲も鳴らし、騎馬や馬車もたて盛大な行列行進で出迎えのパレード を催している。​​

​マリー・アントワネットらが正餐の為にテュイルリー宮に向かう道々、 マリー・アントワネットのみならず、王太子、ルイ・オーギュストにも歓呼の嵐 があり、 テュイルリー宮に至っては熱狂的な歓声の歓迎を受け、2人は10回もアンコールに答える ように繰り替えし顔を見せると言う人気。

​​​​​​ブリサックが「ここには妃殿下の恋人が20万人はおりますな。」と言う盛況ぶり。
二人は信じられないほどの市民の歓迎の熱狂ぶりに「一生忘れられない祝祭」と評している。

因みに、これに気を良くしたマリー・アントワネットは早くも王太子を伴い16日にバリのオペラ座に観覧に出かけている。
この時も熱狂を持って歓迎されているが、 気をよくしたのはマリー・アントワネットだけではない。
王太子ルイ・オーギュストは1773年以降、無邪気で美しく、市民に人気の妻の側を離れなくなった と言う。
ニコニコやってきては会話をし、妻の助言に感激して新たな魅力と慈善心を知る。気後れしていた少年はどこへやら?  マリー・アントワネットに誘われて友人のとの集いにも出るようになり王太子の心を溶かしたと言える。
当時の マリー・アントワネットも夫(王太子)のやさしさや気づかいに少なからぬ尊敬の念もあり、夜の問題以外は順風であった ようだ。

また、 オーストリアのフランス駐在大使メルシー伯爵はマリア・テレジアに喜びの手紙を送っている。
が、マリア・テレジアはさすがマリー・アントワネットの母である。娘の性格を熟知している。
彼女が素直になるのは関心が無い事に関してのみ。自分の意志を通す為には何度もトライする性格である事。国王の公妾に対する態度など、思慮に欠ける振る舞い。また危険な行動の上に執念深くもある性格。
彼女の軽はずみさから生まれる結果をいつも危惧しているとメルシー伯爵に釘を刺している。

星いずれにせよ、 ​この時点ではパリ市民は若い二人に期待していた​ のだ。
そんな期待と歓迎を持って迎えられた二人であったのにわずか ​16年後には期待を裏切った国王への市民の逆襲が始まる。​

以前(1358年)、シテ島(Île de la Cité)にあったパリの古い王宮、パレ・ド・ジュスティス(Palais du Justice)がパリ市民の暴徒に襲われ恐怖でシャルル5世が宮殿を棄てた事件を紹介した事があるが、パリ市民は伝統的に?  かなり凶暴なのだ。
リンク ​ フランス王の宮殿 1 (palais de la Cité)

​​​ ​​ルイ15世崩御から新国王ルイ16世誕生​ ​​​​
​​​ ルイ15世(Louis XV)(1710年~1774年) (在位:1715年9月~1774年5月10日)
1774年4月27日国王が発熱と頭痛でトリアノンから戻ってきた。その時点では重篤ではなかったが、翌日の夕には2度の瀉血(しゃけつ)が行われていた。
※ 瀉血(しゃけつ)は体の毒素を抜く為の血抜きらしい。今では医学的根拠は無いらしいが当時は主流。

3度目の瀉血は秘蹟(ひせき)の儀式が必要になる。それもかなり危ない時なのでルイ15世は時を稼いでいたが、顔に赤い発疹。天然痘であった。
5月7日、王は最後を覚悟して聖体拝受を受ける。そして 1774年5月10日15時15分。
国王の寝室の窓辺に点されていたロウソクが消えた。ルイ15世崩御


別室に待機する王太子とマリー・アントワネットの元に 地響きが近づいて来る。 鏡の間を我先に新国王の下に走り寄る廷臣達。​
​二人は直感で王の崩御を知り、同時におびえ、ひざまずき泣きながら神に祈りを捧げたと言う。​
「神よ、私どもを守りたまえ。いと若く君臨する身となりました故。」​

でも神はそのお願いを聞いてはくれなかった。

​​ ​ルイ16世在位:1774年5月10日~1792年8月10日​
1789年に起きたフランス革命による裁判で1792年8月10日王権は停止。翌年裁判で有罪となり「ギロチン (guillotine)」と言う手法 で首を落とされ 処刑される事になる。

※ ルイ16世(1754年8月23日~1793年1月21日)
※ マリー・アントワネット(Marie-Antoinette) (1755年11月2日~1793年10月16日)​​

ルイ16世とマリー・アントワネットの肖像 ウイーンの美術史美術館で撮影

マリア・テレジアに送られた二人の肖像画




ところで、先王が無くなると心臓を取り出しパリの教会に付託する習わしがある。
以前、分割埋葬の事を紹介した事がある。国王やフランス貴族、またハプスブルグ家では、遺骸と心臓を別に保存すると言う不思議な儀式の事だ。
リンク ​ ハプスブルグ家の​分割埋葬 心臓の容器と心臓の墓

ところがルイ15世の場合、病気が病気だけに腐敗も早く取り出す事が不可能となった。それ故、ルイ15世だけが心臓を付けたままその 遺骸は王家の墓所であるサン・ドニの教会(Basilique de Saint-Denis)へ運ばれたのだ。
だから彼の心臓だけは絵の具になるなどと言う悲劇からは免れた。
リンク ​ 溶けた心臓で造られた絵の具 Mummy brown
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毎日少しずつ書いていたら着地点が定まらず、一度に載せるには長くなりすぎました。
後半の「 マリー・アントワネットの居城 4 プチトリアノンからパレ・ド・ジュスティス​ ​」
は一両日中に載せます。m(_ _)m

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Back number
リンク ​ マリー・アントワネットの居城 1 (ウイーン王宮)
マリー・アントワネットの居城 2 シェーンブルン宮殿と旅の宿 ​​
    マリー・アントワネットの居城 3   ヴェルサイユ宮殿の王太子妃
​リンク​ ​​ マリー・アントワネットの居城 4 ベルサイユに舞った悲劇の王妃​

関連 Back number
リンク ​ 新 ベルサイユ宮殿 10 ルイ16世とアメリカ独立戦争とマリーアントワネットの村里
リンク ​ 新 ベルサイユ宮殿 9 (ポンパドゥール夫人とルイ15世)
リンク ​ ベルサイユ宮殿番外 サロン文化の功罪(サロンと啓蒙思想)
リンク ​ 新新 マリーアントワネットのトイレとベルサイユ宮殿の事情
リンク ​ 新 ベルサイユ宮殿 8 (王のアパルトマン)
リンク ​ 新 ベルサイユ宮殿 7 (王妃のアパルトマン)
リンク ​ 新 ベルサイユ宮殿 6 (鏡のギャラリー)
リンク ​ 新 ベルサイユ宮殿 5 (戦争の間と平和の間)
リンク ​ 新 ベルサイユ宮殿 4 (ルイ14世と王室礼拝堂)
リンク ​ 新 ベルサイユ宮殿 3 (バロック芸術とは?)
リンク ​ 新 ベルサイユ宮殿 2 (入城)
リンク ​ 新 ベルサイユ宮殿 1







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Last updated  2024年10月22日 18時05分21秒
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