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最後に人種差別の用語を考えてみましょう。映画なんかでは、ことさら人種差別を強調するから、面白いのがありますね。映画の「ブレードランナー」は、酸性雨が降りしきる日本人が経営する立ち食い蕎麦屋から、始まります。お金持ちの人類が他の星に移民していって、残された人々、つまりアジア人などが生きる世界ですが、映画の中に「あいつは黒人(ブラック)をニガー(クロンボの意味で最悪の差別用語)なんていう奴なんだ」という名セリフ?が出てきます。地球に取り残された階層の人の中でも差別意識が残っているということなのでしょう。そこに、外惑星での過酷な仕事のために作り出された、レプリカントという人造人間が脱走して、地球に逃げてくるというお話でした。 そう、これも差別についての作品でしたね。外惑星に植民したお金持ち、地球に残された怪しげな人々、そして人間を目の敵にしているレプリカント人造人間という三層構造になっている世界なのです。そう考えると、エンディングでハリソン フォード演じる、レプリカント抹殺役の刑事が、組み打ちの捕物の末にビルの下に墜落しそうになった時に、見下ろす最強レプリカントが引き上げて助けてやり、体内に組み込まれていた時限装置で生命が終わり、この刑事が呆然とするシーンの意味がわかった気がします。レプリカントは、人間の中での最下層であったのですが、これで死ぬのかと悟ったハリソン フォードを見て、自分より更に「下」の境遇になったのを悟り、救ってやる気になったのでしょうか。自分がもう死ぬことも理解していて、自分の必死な姿に気がついたのでしょうか。慈悲をかけるのも差別の心からだとこの作品は言うのでしょうか?結構深い作品でした。 うーん。フィクション作品を語るのに差別意識という切り口で、っていう左翼並のやり方を真似て見ると面白いかも知れませんね。すぐに思い浮かぶのは、アイザック アシモフのロボットシリーズです。彼の小説のなかの設定では、ロボットは一般人に敵対視されていて、ロボットを見ると人は、驚いて逃げ出すという設定になっていて、アシモフの父親がロシアからの移民で、アシモフが9歳の時にアメリカ合衆国に来たことと関係があるのでしょう。この未来世界で、ロボットは、サブヒューマンとして一段下に見られて、危険物であり忌むべきものとしての扱いです。差別の無くなった未来世界での、差別の対象がロボットというのも面白い設定です。最終的には、ロボットは地球上では完全に製造も所有も禁じられてしまい、USロボティクス社は、ほかの星で、植物の受粉を助ける虫形ロボットの製造で生き延びることにした時点で、シリーズは終了しています。一つの社会階層の消滅ということなのでしょうか。これで均一な「差別のない社会」となるのでしょうか?アシモフは何も政治的なコメントをしない作家でしたので、言わぬが花ということですね。
2020年08月31日
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奇妙なことに、アメリカ人が非白人の日本人なんかと結婚すると、微妙な差別をされます。別のアメリカ人の奥様は日本人なのですが、同じ基地だった仲間とパーティーするからと招待されていくと、車座が2つ ?@@? ハテナ?日本人妻の輪と米軍兵士それも白人だけの輪の2つでした。そして微妙な位置に座り、友人が結婚前から付き合っていた、一組の白人夫婦(特に奥様は日本人の会話の輪に入れないようでした)は輪に入るような入らぬような...微妙な雰囲気(私の家内は英語ができないので奥様たちの輪に)。白人男子だけの中で会話は進行して行きますが、この疑問を口にすると、やはり!日本人と結婚した白人は、異人種とミックスした奴!とされて、白人同士のカップルのパーティーには、呼んでもらえないんだとのことでした。 でもまあ、会話の輪が2つできていることからも分かるように、白人同士のカップルをパーティーに招待しても、特に奥様の方は会話が成立しないんでしょうね。もっと驚いたのは、この異人種カップル(ゴメン。他の呼び方がわかりません)は、互いに夫婦の意思疎通ができなくて、通訳をしてくれと頼まれたのは、軍人の旦那が転勤で、横須賀基地から、別の場所に行くので、その前に遅ればせながら結婚式をしてあげたいのだが、妻の言う金額が法外(200万円)なので、揉めているから、どうしたものかとの悩みでした。奥さんも来て、「だって一生に一度のことだから」と涙を流して言うし、ご亭主は「いや、愛しているけれど、そんなに出せないんだ」と深刻な顔になっています。通訳しようにも「だって一生に一度のことだから」は直訳してもウソみたいだし、意訳して伝えました。「だって一生に一度のことだから」が伝わらないなんて、あの奥様には想像もつかないのでしょうね。結局その場の結論は、金額で折り合うしか無いんじゃないかとのことになりました。でも「麦茶って英語で何ていうのか通訳してください」とか言うくらいの方々では、英語の会話に入っていけないでしょうね。日常生活も、英語と日本語のちゃんぽんで奥様方はこなして?いました。 「ねぇねぇ、yesterdayね。PX行ったら、こんなBlack guyがね、こうよ、こうなの!」と亭主の袖を引っ張って、揉めたことを話そうとする奥様に、ちょっと苛つきながら「Oh, yeah? タイヘン!」なんて言わされている旦那。両方から「ねぇ通訳して」って頼まれる可愛そうな私。ああ、白人やっていくのも大変なんだなと思いました。これは人種差別?...では無くて結婚差別?言語差別? 結局言葉の問題なのかしらね?いま問題になっている黒人差別問題は、それ固有の麺があって、言語、結婚差別?とは違うような気がします。前にも書きましたが、ことさら「黒人」を全面に押し出してのデモをやってもアピールしているのは、人々の表層だけでしょう。インタビューして黒人差別をどう思うか訊ねても、一部の狂信的な人種差別肯定論者を除いては、差別はいかん!と言うに決まっていますし、差別反対のデモに対してケチつける真似はできないことでしょう。しつこいようですが、「黒人」への差別反対ではなく、「差別」反対、であるべきだと思います。人様は知りませんが、前作で書いたように、私は動いているものを平気で食べる人が嫌いです。一緒にそのようなものを食事として我慢できません(白魚やタコのオドリ食いが好きな人ゴメンナサイ)。私はオドリ食い差別論者です。 差別はどこにでもありますから、人間が変わらなければ、相手を何らかの瑕瑾のせいで見下すという行為は無くならないのかも知れませんね。
2020年08月31日
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前作で書きましたが、「黒人」差別と私達黄色人種、アジア人種に対する差別は、微妙に異なります。私が最も下策だと思うのは、「黒人」を全面に出しての差別撤廃運動は、「黒人 Black」という言葉を使い続ける限り、実を結ばないことです。百歩譲って、白人全員が「悪かった。黒人差別はやめる」となって、黒人は嬉しい?問題は「黒人」差別ではなくて、差別の「意識」なのに、自分たちだけ?それで今度は誰を標的に?と心配になります。常に自分より「下」の相手を探す習性を私達は持っているからです。 Black Lives Matter 運動は、そういう観点からすると、すぐに忘れ去られる危険を孕んでいます。"Black" ばかり強調して、黒人差別の「差別」部分が忘れられてしまいますもの。問題はお互いの表情が読みにくく、白人と黒人のコミュニケーションが取れないことなのでは無いでしょうか?日本にいる黒人の友人(とっても明治のチョコレートの包装の色に近いので、「黒」人には思えませんが)を、周囲は「黒人」としてではなく、ああ、あの面白いアメ公?みたいにしか思っていないところが、いつも面白かったのです。国に帰る前に一度、おでこをぺろりと舐めてみたいなと思っていたけれど、勿論言い出せませんでした。国に帰ったら苦労しているのかしらね。でももっと色が黒くて、笑ったかどうか分からなかったら、あんなに日本人の友人ができたかしらとも思います。 一番の問題は、差別意識だと書きました。黒人差別はアメリカ合衆国だけといっていいくらいの問題なのです。差別意識は世界中に蔓延しています。アジアの一部の国では、白人が差別されたり、黒人が差別されたり、~国の人は嫌いだ、~教徒は許せんなども差別でしょう。この様に考えると、私達は差別意識を心に抱えながら生きているのではないでしょうか。 私も例外ではなく、子どもたちが未婚のときには、「結婚相手はどこの国のひとでも、肌が紫色でもまだら模様でも構わないけれど、食卓に動いている生き物を出して、そのまま口に運ぶ人、それから泳げない人はダメ」と言ってありました。勿論プールに行っていると、さり気なく付き合う相手を「偶然に」連れて、私の目の前で25メートルプールを往復させてから、「じゃあね」と言って帰っていったのには大笑い。まあ関東地方で学校に行って、泳げない人は、ヨタって体育の授業をサボりまくったか、大病をしている人だからという、私の身勝手理論でしたけれど。 (前者は生理的に動くものを口にしない私の癖です。寿司屋でちょっと蠢く貝類などは、包丁の背で叩いてもらって、完全に動かない状態でしか食べられないし、アワビの地獄焼きで、金網の上でアワビが苦しそうに悶えるさまを見るのは金輪際ごめんです。勤務先の慰安旅行で、大広間の夕食会場に行くと、数百のアワビが火の着いた台の上で悶ていたので、仲居さんに頼んで紙ナプキンを私の分のアワビにかけてもらいましたぁ)。 でも広い私なりの流儀で言うとこれも「差別」なのでしょう。 もう帰国して音信不通になっていますが、チリチリヘアーのアメリカ人(中東の或る国からの移民2世つまりお父さんが初代移民)から相談を受けました。実はベンチャー投資を当てて、数億のお金が入ったので国に帰ろうと思う。でも帰国する時に、日本人の女房は置いていかなければならないのだがどう思う?ですって!理由を訊ねたら、お父さんは移民1世だから、誰よりもアメリカ人としてありたいと思っているらしく、日本人と結婚していて日本語の影響で、 "because" と言うよりも「ダカラァ」などという、英語じゃない言葉を英語での会話の中に挟む息子に激昂して電話を切ってしまう(嘘だろと思いました)そうなので、アジア人の女なんか連れて実家には連れて帰れないけれど、母親も心臓を悪くしているので、帰りたいんだ、だと!その夫婦とは私の家内も含めて一緒に食事に行ったりしていたから、余計に驚きました。 そんなチリチリヘアーで、アングロサクソン人じゃない顔の人間から、そんなこと言われて本当にビックリしました。仕方がないから、もし奥さんを置いていくなら、十分すぎるくらいのお金を渡すように、それから非常勤講師をしている大学には、ちゃんと「母親が危篤」で会いたがっていて、なくなるまでそばに付き添いたいから、ゴメンナサイして逃げるように伝えました。でも夏休み前に逃げるかよと思いましたが、アメリカでは夏休み前は転職の季節なのかしらね? これは差別?移民の家計「だからこそ」白人社会に溶け込みたいお父さんの気持ちはわかります。だからって結婚しているのにね。
2020年08月31日
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人種を理由に差別なんて、海外に出れば当たり前みたいにあります。1)ある日のロンドンの劇場でのインターミッション(テネシー ウィリアムズの作品上演中)。老婦人が話しかけてきて、スイスに住んでいる英国人で芝居のために英国に来るのだそうで、多分お金持ち(以下「老婦人」)。........老婦人: この芝居おわかりになるの?(周囲の白人の観客ドン引き。喧嘩になるのではと心配そう)私: はい。テネシー ウィリアムズは大学生の時に読んでいますから大丈夫ですよ。老婦人: いえ、そうではなくて、この作品に出てくる悲しみとか怒りという感情は理解できるのですか? (周囲の白人の観客仰天)私: はい。私も悲しみや怒りは感じますよ。老婦人: ええ~! 知りませんでした。ありがとうございました。このように大変に平和的に終わったのですが、非白人には悲しみや怒りが無いのでは?と素直に思っていらっしゃったお婆さまでした。でも良く考えると人種差別よりひどいのかもね。悪気が無かったし、このやり取りを緊張していた周囲の観客もホッとしたみたいでした。やっぱり人種差別の萌芽は、相手のことを知らないので怖いという気持ちから起きるのかなと思いましたが、どうすれば良いのでしょうね。2)ロンドンのハロッズ百貨店地下のプレイガイドの係員。係員: お客様、このお芝居は20世紀初頭の英国の王室の物語ですし(そんなこと知ってるわいと思う)、お客様にはちょっとご理解いただけないのでは...私: 言葉は障害になりませんから。係員: 失礼しました。ではチケットをどうぞ。 これが人種差別だと言い張るなら、人種差別だとなるのでしょうが、言葉の問題かしらね。実際には劇場で、アジア人の顔をしたお客が私一人(それもハロッズなんかで買うと一番良い席。センターで前から5列目くらい)。それも少し遅れて他の方が着席した後で席につくと、周囲の視線が痛い。両側の席の方々が、シェークスピアの劇が始まって、最初の笑いどころで私が笑うかどうか確かめてから、安心して芝居に集中したりなんてことがありました。これは人種差別?歌舞伎座に外国人が座っていたら同じことが起きるかしらね? 現在アメリカ合衆国で起きていることは、人種差別ではなく、黒人差別なのでしょうね。どうも私達黄色人種に対する差別とは違って、経済、政治などと深く関係しているのではないでしょうか?貧しい黒人が集まるハーレムで暮らした教え子がいましたが、まったく怖くなかったと言いますので、理由やコツはあるのですかと訊ねたら、部屋にカギをかけない(大事なものがあるのかと押し入ってくる)、食べ物を口にしている時に目があったら、必ず呼び止めて食べ物を分ける、の2つの努力をすれば、仲間として扱われるので、自分が困ったときには食べ物が集まったりする。仲間からはカツアゲなんてできないからとのことでした。 黒人差別には、黒人社会に対する偏見も確かにあるけれど、私達黄色人種ともっと仲良く交わって、白人社会を孤立させようとか、黒人の人数がスゴイことになっているのだから、アジア人と黒人の交流の方が手っ取り早いんではないでしょうかね。偏見って、デモしてプラカード見せて消えるものではないのにね。アピールなんて役に立たないのに。マーチン ルーサー キング牧師さまの演説でも治らないものを、プラカードで「白人も交えて」行進してもどうにかなるものでもあるまいに、と同情しています。 次の 2 で、言葉のプロだった私の考えを述べてみたいと思います。
2020年08月31日
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何と1654年から、当時の江戸の町に通水を開始したという玉川上水は、当時の技術レベルの高さを示しています。43キロの長さを高低差100メートル以下で、開通したその日に江戸に到達したというのはスゴイ!人口爆発に悩んでいた当時の人々は大喜びだったでしょう。 どうして今頃になって玉川上水のハナシなんか持ち出したかと言うと、近ごろ一番遠い都内での食事処は、小金井の俵飯という中華屋 https://tabelog.com/tokyo/A1325/A132501/13089749/ なのです。上記の走行地図の左上の四角形の左上の角が目的地のお店です。最近になってもっと簡単に行ける近道を発見したので、この地図は初期の頃のものです。チェッカーフラッグの地点の自宅から西に進むと、武蔵野崖線沿いのルートになり、武蔵野台地に上がるのがちょっと面倒になります。ということで、武蔵野崖線の下に降りずに小金井まで行きたいもので、あれこれとルートを探しておりました。 そこで思い当たったのは、高低差がないので苦しんだ玉川上水のことです。ロードレーサーで羽村まで多摩川を遡行して玉川上水沿いに降りてきて、国分寺から武蔵野崖線に降りて野川沿いに帰宅することが多かったのですが、そうかそのまま東に行けばどこかで中央線を横切る形になるのでは?と考えて、地図を良~~く見ると、三鷹駅で中央線の下を通過しているではありませんか。確か高低差が無いところを工夫して通したはずだから、玉川上水からちょっと「上がれば」この中華屋に行けるだろうと思い、三鷹から玉川上水沿いに楽なコースでご満悦。でしたが、いざそこから南側に「上がろう」として驚愕!!考えてみれば当然なのですが、各地点での最高高度の地点を結んでいるので、学芸大学前のこの俵飯まで「ずっと下り」!!だったのです。あんなに楽なコースなのに、こんなに高度が稼げるなんてと、一番最初はビックリ。乗用車で走ったら、高度差はまったく意識の端にも登らないでしょうから、勉強になったと同時にこれを作った玉川兄弟の苦労が忍ばれました。途中で幕府からの下賜金6000両がつきてしまい、私財をなげうって完成させた偉業です。 とても不思議なことに、このイージールートを発見してから、俵飯に1度しか行ってません。今度はこのルートから北に行って花小金井駅から東に走って、三鷹の手前で玉川上水ルートに合流なんてのを始めています。それから更に西に遡行して、羽村まで?というのもアリでしょうかね。追記 俵飯飯店はYouTubeでも話題の店です。ネット上では、大盛りの店として量が多い点が注目されていますが、実は味付けが上手なのです。もう大食いは止めている私なので、最初に行ったときは私と体型が似ている?ご主人に、老人になっているので、学芸大の学生のような量はもう食べられないからと素直にお願いしたら、注文した美味しいチャーハンはちょっぴり大盛り(普通の大盛りプラス15%程度)で、塩気が少なめになっていたので、食後に年齢を考慮して塩分濃度まで調節してくださったのですかと尋ねたらニッコリと。いやぁ良い店を見つけました。もしこのブログの読者が俵飯飯店を訪問しても、「大盛り」などと叫んでは身を滅ぼしますので、最初は普通に頼んで...も危ないかもね。
2020年08月18日
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机の引出しを整理していたら、本当に忘れていた思い出の品を見つけました。面白いもので、見つけた時に、パーっと当時の記憶が甦りました。ああ、懐かしいなぁ。これこれ、これですよ。1964年!汚れが落とせなくて、メダルの文字が読みづらくて申し訳ないけれど、持っている人はもう余りいらっしゃらないかも。当時はオリンピック協力者に渡された記念メダルです。他のオリンピック協力者もお持ちかな。 東京オリンピックの記憶はもう薄れて来ているのでしょうね。以前に体育の教員の同僚から、東京オリンピックの話題を講義中に出したら、物知りの学生が「知っています。戦争で中止になったオリンピックのことですよね」と発言して、教員のほうがビックリして、いやぁ、東京でオリンピックが「開催されたことを知らないんだなぁ」と述懐していたのを思い出します。もうすぐ歴史の闇に消える記憶.... でも1964年の東京オリンピックは、日本にものすごい影響がありましたね。日本人全員が期待に沸き立つような雰囲気でした。日本のオリンピック委員会からボーイスカウトの東京連盟に依頼があったようで、私の所属する団にも話が来たようで推薦されていたのです。それは知っていましたが、あの日生まれて始めて高校の校長室に呼び出されて、あれ?なんかマズいことやったのかな?と首をかしげながら出頭?して入室すると、校長先生が机を回り込んで出てきて、手を握られて、日本国のために頑張れというお話でした。いや、先生国旗を掲揚に行くだけですからと答えると、いやいやオリンピックに関わるというのは名誉なことなのだよと諭されたのを覚えています。校長先生が、とても晴れやかに嬉しそうだったのは覚えています。 私が配属されたのは絵画館前の国旗掲揚柱のうちの一本でした。高校生の私でも感心したのは、掲揚ロープの両端に金色と銀色の金具がついており、各国の国旗総てに同じ色の金具があって、同じ色を組み合わせると正しい姿で掲揚できること。それと掲揚柱に別の金具が付いていて、掲揚ロープは金色金具が付いている方向にしか送れない、つまり逆さに国旗掲揚するには、金色と金色ではなく、金色の金具に銀色の国旗金具をつけるしか方法が無いように安全策が施してあったことです。準備にどれ程時間をかけたのか、そして7~8箇所に及ぶ国旗掲揚柱を建設して準備するなんてスゴイなと感じました。早朝に制服姿で集合して、掲揚指揮者に「いいかぁ、お前たち今日こそ金と銀の組み合わせで国旗を揚げようと思ってるだろうが、やめとけ。やったら私が個人的にぶっ殺すからな」と言われて、素直な私達は「はい。わかっています金と銀、銀と金で良いんですよね」「コノヤロ」という掛け合いをしながら掲揚作業を楽しみ?ました。終わると高校に公然と遅刻して行って授業を受け、午後は早退してまた絵画館前にて国旗掲揚作業という日程を開会前から閉会後まで毎日続けました。100カ国以上の参加国の国旗を、地面にたらさないように掲揚作業者が掲揚柱ごとに2名つくので、東京全域では数千名が従事したはずです。 おかげで?他の行事のお声掛りは一切なく、開会式、閉会式の警備・整理などの「オイシイ」ところは他の仲間に行ってしまいました。学校での話題にもついてゆけず、オリンピック競技そのものには全く関わらずに過ごしてしまいました。警備・整理に携わった仲間は、頂いた記念品らしきものを自慢気に見せてきて、ちょっと悔しかったなぁ。 でも後日このメダルと簡単な感謝状が手元に来て、大喜びで仲間に自慢しに行きました。20日近く拘束されて?いた状態でしたから余計に嬉しかった。メダルよりも、ありがとうの感謝状が嬉しかったのですが、引っ越しを重ねる内に、感謝状はどこかに消えていって、メダルだけ残りました。 オリンピックの終了後に制作された市川崑監督の東京オリンピックの記録映画は体育の時間にテレビで見せてもらって、オリンピックってこうやって行われたんだぁと納得しました。これだけは最後まで保存しておこうと思うのですが、紙と違って金属の品は、いよいよイケナイとなったらどうやって始末しましょうかね?持っている本人だけに価値があるので、残された家族は始末に困るかも。どこかで埋める?いっそ売り飛ばす?
2020年08月08日
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本来なら今年も5回位ステージがあったはずなのに、全部亡くなってしまいました。最後は3月の五反田文化センターでした。それからは、歌のレッスンもフルートのレッスンも中止になってしまいました。手伝ってくれと依頼があったモーツァルトのK626『レクイエム』の練習も「密」になるから中止。なぁんにも無くなりました。音楽で生計を立てている人たちは、エライ目にあっているようですね。最後の手段?の合唱団の指導による収入も、周囲の音楽家からはやはり総て消えてしまったのです。どうするんだと吠えてもだれの耳にも届かない状況です。 本来なら5月にあるはずだった、歌の師匠の音大時代の教え子の会に呼んでいただき、ベートーヴェンの『アデライデ』と大中恩(おおなかめぐみ)の『秋の女(おみな)よ』を歌わせていただくという、なかなかハードルが高いことに挑戦する予定でした。音大声楽科卒の年下のお姉さまの前で歌うなんて、緊張の余り心臓発作を起こしそうですけどね。3月の本番が終わったらすぐにこの2曲の練習を始めたのですが、ウィルス騒ぎで、総てが消えてしまいました。時間が無限にあるから、無限に練習できるかと思ったのですが、当てもなく練習することが苦痛なのがよくわかりました。本番がある「から」集中できたことにやっと気づいた次第です。 まだ日程やホールは確定していませんでしたが、生涯に一度位はと自分だけのリサイタル(歌とフルート)を企画しておりました。第1部は、器楽 出演者のソロ 私のフルートと他の楽器のデュオ、そして第2部はストーリー性をもたせたナレーションとバッハのヨハネ受難曲からペテロの否認と嘆きの部分を数曲選んで器楽と一緒に歌う予定でした。けれどそれも前に進められない状態です。ナレーションの担当もお願い済みですし、器楽もだいたい目星が着いていますが、開催の見込みが立たない状態です。リサイタルの演目は、フルートとヴァイオリン、フルート2,3重奏、出演者のソロで第1部 ヨハネ受難曲からの歌曲をナレーションをはさみながら、歌う予定です。4曲目は受難曲の合唱のメイン旋律を独唱して、フルートに単旋律の伴奏をしてもらうつもりで、一度試しに歌ったら、歌詞の内容とぴったりの雰囲気になったので、これはイケる!となったものです。 なぜヨハネ受難曲のペテロ(歌詞はドイツ語なのでペトルス)かというと、初めて聖書を読んだときに、一番同情したのが、キリスト様から一番弟子と言われたペテロでした。お前の上に教会を建てるようにと、ペテロ(岩)という名前をもらったはずなのに、最後の晩餐で、裏切り者イスカリオテのユダの次にヒドイことを言われて、その予言が実現して嘆き悲しむことになるペテロ。その後ローマでのキリスト教徒弾圧を避けて、ローマから避難するペテロが前方を見ると、磔刑になって亡くなった師キリストが歩いてくるではありませんか、ペテロは驚いて「主よどちらにいかれるのですか?Quo vadis, Domine?クオ・ヴァディス・ドミネ」と問うと、キリストは「お前がローマのキリスト教徒を見捨てるから、私が行って磔にかかるんだよ」と驚きの言葉。いやいやキリスト様を二度も磔にさせるわけにはいかないと、ペテロは踵を返し、ローマに戻って逆さ磔にされ刑死。なんて辛いことばかりペテロに降りかかるんだろうと、当時の私は深く同情しました。今回は本当に初代教皇とされるペテロはに対する悼みをテーマに歌います。 とは言っても。いつ実現するのか分からない状態では、練習に力が入りませんし、本番の期日が不明では暗譜もできません。暗譜した状態を長く続けるのは一苦労です。本番でパーっと発散して、忘れてしまうのがスッキリするんですけれどね。
2020年08月04日
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