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このブログ、なんと1年8ヶ月も空いてしまいました。予想されている方もいらっしゃるかもしれませんが、父は、意識が回復することなく、2023年6月、旅立ちました。そこからしばらく…昨年の2024年中もずっと、私の心は立ち止まったままだった…というのは、いまになっての自己分析。書こうにも、話そうにも、どうにも気持ちが向かず、いわゆる「空の巣症候群」みたいになっていたのではないか?と思います。以下は、2023年の年末に、ずっとご無沙汰だったSNSへの投稿です。この文をもって、当ブログでもご報告といたします。これは1年前にやればよかったことなのに、できておらず…2024年の1年間が、ぽっかり空いてしまいました。写真は、今秋、色づいたメタセコイア。すべての方の人生の秋も、鮮やかであることを祈って。**********************♪(2023年12月31日)年末押し迫るなか、このようなご報告で失礼します。(少し長くて、重たい内容です)今年6月18日、父が永眠いたしました。遡って2022年3月、パーキンソンによる嚥下障害により一時心肺停止となり、しかし蘇生して、意識不明のいわゆる植物状態のまま、1年3ヶ月、生きながらえてくれました。仕事に生きた、努力の人生だったと思います。父25歳のときに肺結核で左肺を切除し、命はとりとめましたが、薬の副作用で両耳の聴覚を失いました。耳が不自由ななか、英語専門の出版社に勤めながら、またその後大学勤務時や引退後も、自身の翻訳や研究を続けていました。私は子どもの頃から、土日も書斎で机に向かう父の背中を見て育ちました。86歳で大腸がんがわかったときは、「自分はまだ成し遂げたい仕事が三つあるから、先生、あと10年生きさせてほしい」と(いま思うと無謀な希望を述べて)、手術を受け、ほぼ根治していました。8年前からはパーキンソン病を発症し、手足の動き、嚥下がどんどんおぼつかなくなる身体で、それでも「2022年に絶対に出版したい本がある」と、日々、自分の原稿に朱を入れ、参考となる書籍や新聞を読み、目標に向かっていました。生涯現役を貫いた95年の人生でした。2022年に心肺停止の蘇生後は、きょうにも明日にも…と言われた命の危機を越え、奇跡的に身体状態は安定し、意識は戻ることはないと言われながらも、1年3ヶ月。父本人も頑張り、それは奇跡と呼べる命の時間でした。やはり生きたかったのだと思います。途中から月1回可能になった10分間の面会時や、オンライン面会で、私たちの声に反応して涙を流し、舌や下瞼を震わし、私が子どもの頃から指圧すると喜んだ足裏のツボを押すと足指が反応し、あぁ生きているのだ、わかっているのだと、生きていてくれること自体が、私の希望の光でした。6月18日は、「父の日」の日曜日。いつもの週末のように、「お父さんー、きょうは父の日だよー」等の近況の声や、父が好んだ母校の寮歌等を吹き込んだCDと、不足した物品を病院に届けた約30分後、原因不明に心臓が止まったとの連絡を受けました。私はすぐに病院に戻り、看護師さんと一緒に私も心臓マッサージをして、それでも戻ることなく…、夕方、見送りました。95歳。年齢だけなら、いわゆる大往生と言えるし、延命措置にも賛否両論あると思います。ただ私は、年齢ではなく、人それぞれの人生があり、思いがあり、それは尊重したいと思っていて、それはいま、ますます強く思っています。いわゆる植物状態になってから、家族のうち私がメインで諸々動かねばならず、考えること決めることが山積みで、頭の中も気持ちもいっぱいいっぱい。SNSからは遠ざかり、諸々ご心配をおかけしました。そんな私を忘れずに、気にかけ、見守ってくれた友だちには感謝しかありません。ご報告等、このように遅れた非礼をお詫び申し上げます。食いしんぼうで、私が作るクリスマスチキンが好物だと言い、お節やお屠蘇、お雑煮等、お正月料理が好きだった父。そんな父のいないクリスマスやお正月が寂しくて、またメソメソしている私です。(仕事は行っているし、ふだんは元気にしていますので、ご心配なく!)FBでも報告を…と、何度も書いては保留し、書いては保留し。私の誕生日にメッセージくださった方へのお返事も、書くと言っておきながら、滞っていてごめんなさい。2024年を迎えるにあたり、いつになく弱気な自分がいますが、生きる希望が湧く出来事も待っていて、何とか、何とか、一つずつ乗り越えて、一つずつ迎えて、また乗り越えて、頑張って進んでいきたいと思います。来年もどうぞよろしくお願いいたします。
2025.01.11

真夜中、部屋でまどろんでしまっていると、「おぉーい、〇〇(私の名)! おぉーい、〇〇!」と、襖の向こうから父の声。絞り出すような、大きな声。(父はもともと耳が聞こえないので、音量がわからないこともあり)また何を頼むんだ…(やれやれ)と思って動き出そうとすると、「おぉーい。まだ起きてるのか。無理するなー!」と父。…あ、私の身体を案じてくれていたのか。そんな、一年前まで繰り広げられていた真夜中の出来事が、ふと夜中に蘇る。お父さん、ダミ声の大きな声で私を呼ぶ声が、また何を頼まれるのか…と嫌悪感となってしまっていた私を許してください。いや、許されないな。ごめんね、お父さん。あんなに聞くのが嫌だったお父さんの声が、いまこんなに聞きたいよ。写真は、先日行った庭園で、カタクリ。一眼を担いで撮りに行っていたここ数年のなかで、こんなに群生して咲いているのを見たのは初めて。カタクリ撮っている時間があったら、お父さんの大切な話を聞いてあげていればよかった。
2023.04.07

心肺停止後の蘇生から、1年。いわゆる植物状態になって、1年。約1ヶ月に一回の対面面会では、耳元での声かけに、涙が溜まり、ときに、流れるほど。お父さんに、声、届いているよね。脳波ゼロで、それは反射だと言われるけれど。もう意思疎通できるほどの回復はないと、最初から言われていて、セカンドオピニオンでも、同様の告知だったけれど。どうなんだろう?父はとにかくあと少しで仕上げられる仕事(著作)のために、その仕上げまでは生きたい!と希望していた。そのことを救急隊やICUの先生に伝えて、とくとくと訴えて、延命していただいた。涙を流す父の姿を目の当たりにするたび、この状態が本当によかったのか、父の望みなのか、心は揺れ動くけれど。まだ私にできることはないかと、探している。対面面会のあとはいつも気持ちが沈むし、仕事は半休を取得しているし…ということで、帰りに足を延ばしてちょっと寄り道した。桜が開花していて、びっくり。(3/15現在)そして、載せるのもどうかと迷いつつ、お父さんの涙。いつも忘れないために。
2023.03.26

3月15日、対面面会4回目。今回は、はじめに肩をトントンと叩き、目を覚ましてもらった(?)ので、私の話しかけなどに反応が見られた。前回、ほとんど何の反応もなくエネルギーの低下を感じて悲しかったので、少しほっとする。もともと聴覚障害者の父、補聴器をつけてもらったその耳元に、お父さん!きたよ!○だよ(私の名前)!そして、いくつか近況を叫ぶ。すると、また父の左目に涙が溜まり…目が赤くなっている。お父さん、わかる? わかってるんだよね⁉︎叫ぶと、左目の下瞼が、ピクピクッ、ピクピクッと動き、眼球が動いた…気がした。(眼球は動いた瞬間を見たのではなく、あれ、さっきと位置が変わった⁉︎くらいで、正確でない…希望的事実認識かも…)低酸素脳症、蘇生後脳症からの、いわゆる植物状態、遷延性意識障害になって、なんと一年。窒息さえしなければ、もっと防御策を早くとっていれば、きっと父はいまも、私たちと自分の諸々について話しながら、生きていたのだろう。パーキンソン病だから各機能は低下していたけれど、ギリギリまで、食べたいものを心ゆくまで食べられただろう。(急に嚥下が悪くなり、本人も食べられなくなるのを感じていたようで、急に、あれ食べたい、などと言うようになっていた)それにしても、いまの病院に転院時(2022年6月)の検査でも、「脳波ゼロ」と言われたが、脳波ゼロの父の目の、涙。話しかけると、とたんに涙が溜まり、足が動き、舌が、口元が、動く。話しかけると、なのだ。これはいったい、いや、やはり、父の脳は生きている。聞こえている。わかっている。そう思わざるを得ない。単に希望的観測かもしれない。看護師さんは「反射ですね…」と肯定しない。主治医は、「医学の立場の自分たちが言うことは、できないけれど、ご家族からそういう話は聞きます」と、否定しないでいてくださる。本人がわかっているとして、それが何なのか? 意識回復しないのであれば、それはいったい何なのか?突き詰めると苦しくなるけれど。いまはただ、父の反応があることが嬉しい。写真は、久しぶりに訪れた、庭園にて。一眼カメラでの撮影は、まだ自分で解禁していない。(父の介護中、自分の元気を保つと称して、一眼持ってあちこち行っていて、もっと父のための時間を持てばよかったという後悔)
2023.03.26

ここ数ヶ月、ずっと心に蓋をして、日々をやり過ごしている気がする。ずいぶん長い間、このブログも書かなかった。先に書いておくと、父は、生きています。窒息による心肺停止から蘇生して、しかし低酸素脳症で植物状態になって、来週で、1年になる。もうダメだと思ったあの日、1年間も生きてくれるとは思っていなかった。あのままなくなっていたら、私はきっと激しい後悔と自責の念と悲しみで、きっといま頃もまだ、気が狂わんばかりに苦しんでいただろう。それを避けるように、父は頑張って生きてくれているのではないだろうか?私に、まだ父に対してできることを残して、私の気持ちが少しでも落ち着くように頑張ってくれているのではないか?そんなふうに思うことがある。父がこの状態で生きてくれていること、喜ばしく感謝なのだけれど、やはり私の心の底には、深い悲しみがある。父が好きだった食べ物をスーパーで見たとき。お天気がいい日。ベランダに鳥が留まっているとき。父に無性に話しかけたくなる。最近、父の、ちょっと口をとんがらかせて、目は三日月目にして喋る姿と、声が、聞こえる気がする。そんな想像ができるようになったのは、もしかしたら、私の中で、父が遠くなってしまっているのではないか。回復を願っているけれど、心のどこかで、諦めかけている自分がいると感じることがある。それだけに、時折、無性に会いたく、声が聞きたく、そして、悲しくてたまらない。2月1日には、父は、95歳になった。きっと、生きること自体にしがみつくことが(適切な言葉が見つからず…)、歯を食いしばってでも生きることが、父のいまできること、なのかもしれない。まだしにたくない。まだしにたくない。父がこの事態になる数ヶ月前の夜、叫んでいた父の声が、まだ私の耳から離れない。事情をご存知ない方がこの話を聞いたら、「そんな老人になっても、そんなこと叫んだら、子どもを苦しめるだけだなぁ」と思われるかもしれない。でも、私は、苦しくないと思う。だって、父にはまだ生きる意味があった。仕上げたい、ライフワークの翻訳本。具体的に原稿は仕上げつつあった、と思う。2022年に脱稿、出版することが、父の目標だった。「生きた証として!」仕上げたいと、私へのメールに残っている。それを、「お父さんが途中でどうにかなったら、どうすればいいか、私にわかるようにしておいて」と父に言っておきながら、返答を得ていなかった後悔。後悔先に立たず、いつどうなるかわかっていたといいながら、私はまったくわかっておらず、覚悟もできていなかったのだ。そして、目の前で毎日繰り広げられる、介護の音と臭いと、どよんと停滞した空気とに、ほとほと嫌気がさして、逃げ回ってばかりだった。このブログを始めたのは、介護って、こんなに精神的にも負担なのよー、と愚痴りたく、誰彼かまわず訴えたく、同士を得たかったのだと思う。いまこれを書いているのは、そんなふうに、介護介護と言いながら、逃げ回って、大したことをしておらず、大切な人を本当に大切にできていなかった自分への後悔。無念。さらけ出すことで、私みたいな思いをする人が、少しでも減るように。介護の渦中ではなかなか思えない、「私ってこんなにお父さんが大切だったんだ!」ということ。…いやいや、わかっていても、なかなか思えなかったよ…。そして新たにま知ったのは、私ってファザコンだったんだ⁉︎ってことかな。長文、お付き合いくださり、ありがとうございました。対面面会も月に一度ほど続き、オンライン面会もまた別途、月に一回。そんななかで感じること、いろいろ書きたいことあるのに、どうにも筆が向かなかった。けれど、書き出したら、とまらない。きょうは残業帰りの電車内で、父の声を思い浮かべて、涙が流れてしまった。マスクに隠してもらえるので有り難い。
2023.03.09

昨日11月25日、2回目の対面面会。誰か1人だけ、10分間。母に、行きますか?と聞くと、またもやメモで「No!」とだけ書いてきたので、もうそれ以上何も言わずに、今回も私が行く。在宅勤務から時間休を取って、病院へと向かう電車内で、職場から連絡。同じフロアの方がたったいま、陽性と判明したとのこと。誰も濃厚接触者には当たらないものの、私は前日、その方と話したし、一緒のフロアで勤務していたな…うーん。病院に行ってよいものか。(もちろん職場ではお互いマスクを外すことはなく、会話と言っても20秒にも満たない)病院の受付で念のため伝えて、大丈夫ですよと言っていただき、それでも、面会後にお願いしていた医師との対面面談と、看護師さんとのお話を聞く機会は、またの機会とさせてもらった。私は二重にマスクをして、さらに病院からいただくフェイスガードを。ビニル手袋の上からさらに消毒。だけど口が開けっぱなしの父が気になり、悲しいけれど、私はいつものようには話しかけないことにした。頭を撫でて、足裏のツボを押して、手をさすって。耳元で、先日娘とお婿さんのメッセージを録音してきたICレコーダーを流して。たまたま職場での感染者の情報が入ったから、念には念を入れて…だけれど、切ない。切ない。このタイミングで…いやいや、とにかく、コロナめ…ところで今回、娘の声を聞かせたら、舌がぐぐぐーっと動いた!!!舌が動いたのはじめて見た! やはり孫の声に反応したとしか思えない!足裏のツボを押したら、足がぐーーーっと大きく動いた。上に反るのは明らかに原始的反射(新生児など)と医師は言うけれど、意思をもって動かしたと思えるくらいの、大きな動き。でもこれも、家族の期待からくる妄想でしかないのか…?お父さん、私だよ。来たよ!と心では叫んでいたけれど、心で伝わるかと思ったけれど。お父さんは今回は涙を流さず、私とわかっていなかったかな??声もかけられなかったもんね…。年内はもう予約が取れず、次回は1月になってしまった。今年はもう会えないのに、お父さん、今回は話しかけられずにごめん。ちゃんと、お父さん!来たよ!と私とわかってもらって、お父さんの刺激になれればよかったんだけど。私の頭の撫で方であると、私の足裏ツボの押し方であると、お父さん、わかってくれなかったかなぁ…。また音声と音楽、お父さんの大好きな出身高校の校歌等を吹き込んだCDは持っていったので、いま頃は聞いているかな。あとで行くよ、足のツボ押すからね、と吹き込んであるから、あぁあれが私だったのだと、いま頃はわかってくれたかな。開けっぱなしの口から見える舌の下部に、ちょっと苔のようなものがついていた気がする。足の爪が、どす黒く変色して、歩いていないからか、外反拇趾が酷くなって、親指と人差し指が、チョキみたいに交差してしまっていた。足の爪も伸びたままで緑色っぽくなっていて。「爪切ってください」と言いたかったけど、何か理由あって切っていないのかなと思い(肌を傷つけると危険とか?)、看護師さんに言わなかった。でも来週の持ち物に、爪オイルを加えて、足の爪に塗ってください、と渡そうかな。オンライン面会。会える喜びよりも、いつも、その姿を目の当たりにすること、現実を目の前に持ってこられることが、いつもいつも切ない。毎回、面会を終えたあとは、俯いて、とぼとぼ歩いて帰る。でも、こちらは辛くても、誰にも会えないお父さんはもっと辛いだろうから、会いに行くよ。会える機会がある限り。昨日はそのまま職場に戻り、普通のように仕事をした。周囲からは、私がこんなことをしてきて、胸の詰まる思いを抱えて、仕事に戻ってきたとは、まったくわからないだろう。きっと私の周りの誰かも、同じように、悲しみ辛さを抱えながら、誰にもわからないように普通通りに振る舞っていることがあるのだろう。傍目には、わからない。そんなことを、いつも思う。写真は、名古屋の大須観音様。実は今週、娘の結婚式前の行事があり、ひとり名古屋へ行ってきた。父がこの状態とはいえ、身体的には安定していて病院でみていてくれるいましか、遠方へは行かれないと思ったから、思い切って行ってきた。思えばちょうど1年前の11月、娘が転居した名古屋を訪ねる予定が、父の緊急入院で、迷ったあげくキャンセルした。翌々日には入院先の医師から「安定しました」との連絡で、「なんでまたこのタイミング…あーあ…」と恨めしく思ったものだった。今回は行かせてくれたんだね、ありがとう、お父さん。お父さんの用事に振り回されて、お父さんに悪態つけた日々が、有り難かったよ。このブログ、「鬼ムスメの後悔日記」と改題しようかな…。
2022.11.26

父が現在の意識障害(いわゆる植物状態)になった原因は、窒息。なんてことない、しかも(こんなこと言っては何だが)、安い安い、約100円で数個入っているプチパン…しかし、パーキンソンで嚥下障害があり、ここ数日で嚥下状態が悪化していた父には、あげてはならない物だった。 母には「本人が大丈夫といっても、あげちゃダメだよ」と言い、 父には「自分で、危なさそうなものは食べないよう気をつけてよ。お母さんは適当だからね、自分の身は自分で守ってよ」と言っていた。しかし、老老介護で疲れ切り、とにかくお役御免になりたい一心の母は、聞く耳をもたず。そのため父に「自分の身は自分で守って」と言ってあったつもりだが、何と言っても父は94歳、母は89歳。言われたからできるものでも、理解できるものでもなく、とにかく父も母も、思っていた以上に「弱者」だったのだ。 私が守らねばならなかったのだ。これは私が、一生、背負っていかねばならい、罪。 こうならないために地方から引き揚げて同居してきたというのに。以前も書いたけれど、老老介護は、周りが思う以上に、介護する側だけでなく、介護される側にとっても、危険だ。これは、声を大にして言いたい。父がこんな状態にありながら、私はなぜブログなぞ書いているのだろう、とたまに嫌悪感に襲われるけれど、どなたかの参考になれればよいという気持ち、特に、私のような思いをしてほしくない気持ち。この事態になったのが、3月14日。毎日、すがるようにお詣りしてきた近くの延命地蔵尊様のあるお寺は、桜の季節を越え、新緑の季節を越え、いま秋。月日は進むけれど、私の気持ちは、追いつかない。追いつかないけれど、少しずつ少しずつ、変わってきている。そんな話は、また改めて。
2022.11.13

明日で、父の、心肺停止後の蘇生から、8ヶ月。いったん心肺停止して、皮膚も黄緑になってしまっていた姿は、いまも脳裏にこびりついている。窒息の低酸素脳症から多臓器不全を起こしていた父、当日にも、もうダメかもしれないと言われていたのが、「ここ3日間が山場」となり、その後「だいぶ改善してきました」、そして「全体的な身体の状態は落ち着いてきたと言えます」と。コロナのせいで病院には行かれず、病院からの電話をひたすら待った、あの日々。病院からの着信に、心が凍るような思いで、電話に出て。先生からの朗報に、湧き起こるように感謝と感動をして。一日一日、祈るしかできなかった日々。いまも病院からの電話は、心臓に悪いけれど。先生から、安定しているとの言葉をいただき、本当にありがたい。インフルエンザの予防接種もお願いして、生きている実感がこちらにも、ある。まだ何か父のためにできることがあるのでは、と日々考えつつも、私は通常通り仕事をして、たまに息抜きにも出かけられるようになった。お父さん、よく頑張っている。やはり父は生きたがっているのではないか、と思う。あのままで終わってしまったら、私たち、いや特に私が、一生の傷を負うからと、頑張ってくれているのかもしれないけれど。お父さんは、そういう人。私の頭にはやはり、今年の1月、父に延命などについて尋ねた際、「仕事ができるくらいに回復の見込みがあるなら、延命希望」と書いた父の思いが忘れられない。そして、その数ヶ月前、夜中に苦しい体制になったらしく私にヘルプを求めながら、「まだしにたくない!まだしにたくない!」と叫んでいた父の声。そのことが、94歳でありながら延命をお願いし、いまの状態へと導いた、私の行動の理由となっている。正しかったのか。父はいまの状態が、本意なのか。ずっとずっと迷い、悩んでいる。でも、この道を選ばなかったら猛烈に後悔していたと思えるので、いまは、この道が正解だったと思う。思うしか、ない。そんなこんなで、父のものを片付けるわけにもいかず(片付けたくない)、もう8ヶ月。迷いはあるけれど、いまはただただ、父の頑張りに感謝している。もちろん最善のケアをして生かしてくれている先生方、看護師さん方にも感謝。先日買ってきたヒアシンスの球根に、芽が出現。いま、未来ある、育つものを見るのが、とにかく心強い。
2022.11.13

10月末。6月にいまの病院に転院してから、初めての対面面会。家族のうち誰か一人だけ、10分間。マスクにフェイスカバー、もちろん手指消毒は何度も。そして、初めて、父の病室で面会。足をさすり、足の裏の、父が押されるのが好きだったツボを押し、手をさすり、10分間。お父さん! 来たよ! お父さん、ごめんね。辛くない? 辛かったらごめんね。一生懸命考えたけど、この道を選んだよ。お父さん、ごめんね。辛くない? 大丈夫?3月から、いわゆる植物状態になってしまった父、目はうっすら開いて(しまって)いるが、眼球に動きはない。だけれど、そんな父の目に、みるみる涙が溜まってきた。転院時に、救急車で付き添っていたときも、そう。オンライン面会のときも、そう。お父さん!と声をかけたり、父が慕っていた姉(私の叔母さん)の声を携帯で聞かせたりすると、みるみる目に涙が溜まった。3枚撮ってきた写真から、いま、目だけトリミングしてみたのだけれど、溜まっている涙…悲しそうな目…改めて見ても、こちらも涙…。見るのが辛い。お父さん、本当は意識はあって、でも体も何も動かせなくて、この状態が辛いのでは。この状態、不本意なのでは。表情は、「おぉーい…わしはなぜこんなことになっとるんじゃぁ…」「助けてくれぃ…」 そう言って、嘆いているように見えるのだ…。オンライン面会も、対面面会も。有り難いし、いつも最短で予約できる限り、予約して、続けるけれど。毎回、見る影もない父の姿を見るのが切なくて、辛くて、毎回、終わったあとに、そしてあとから思い起こしても、泣く。でもあえて、生きている証拠のように、ここに写真を上げます。この姿を見るのは辛いけれど、この涙を見るのは辛いけれど、父は生きている。父は、生きている。その証として。そして、正面から、自分が父をいまの状態にしてしまったことに向き合うために。お父さん、辛かったらごめんね。ごめんね、と謝り続けながら、私は生きていく。
2022.11.11

昨日から、しばらく職場の夏休み。午前中は、先日相談に行った司法書士(友だち)とのやり取りと、それに関連する話で、関係各所への問い合わせ電話。父と自分の、通帳記帳やら、銀行の用事。午後は、ここ数週間、少々体調を崩していて(CTと心電図は問題なかったものの、症状がおさまらず) 、さらにいくつか検査をしていたので、結果を聞きに脳神経外科へ。結果は問題なく、やはり原因は先日言われたように「疲労とストレス」…なのかな…。リラックスなさい、お酒を飲んでもいいし、体を動かす、マッサージに行く、とにかくリラックスしなさい、と。それもあり、夏休みのスタートで気分よかったこともあり、久しぶりに映画館へ。(もともと最寄駅に大きな映画館があり、会員でもあったんだけど、さすがに父のこの事態になってからは行っていなかった)話題の『トップガン』は、めまいと頭痛症状にはキツいか?と、ちょうど昨日が公開期限だったフランス映画を観ることにした。「超没入できるおバカ映画」みたいな作品紹介に惹かれ、頭を空っぽにしてリラックスできるかな、と思ったのだ。しかし…映画が思いのほか(私には)合わなかったことも理由として大きいんだけれど、観ているうち、またムクムクと焦燥感が湧き起こる。(私…こんなことしている場合じゃないんじゃ…)脳裏に浮かぶのは、オンライン面会時の、父の、目を剥いた、見る影もない姿。お父さんの、大事な人生が終わってしまっているかもしれないのに、私、「おバカ映画」観ている場合なの⁉︎あぁ、私こそバカバカバカ…‼︎そんなこんなで、まったく没入などできず、気が散って、最後には罪悪感を抱きながらの映画鑑賞となった。ほぼ毎日飲んでいたお酒も、あの日から、一滴も飲んでいない。最初は、いつ病院から呼び出しがかかるかわからない状態だったので、との理由だったけれど、もう一つは、やはり(飲んで酔っ払ってる場合じゃない)という気持ち。いまは、どこまで体からお酒が抜けるか、トライしている面も大きいけれど。楽しみは、我慢。というより、楽しもうとしたって、お父さんのことが頭に浮かんで、私だけ楽しんでいる場合じゃない…と、楽しめない。私自身が「良い気(エネルギー)」をまとって、それをお父さんに届けるんだ!と思えることもあるので、いつも花の写真を撮りに行っていた国営公園に行ったり、もともと整形的に持病があるので、先日から、スーパー銭湯にも行くようにはなった。だけど。自分が心地よく、楽しい思いをすると、ほぼ必ずお父さんを思い起こして、涙が出る。もしかしたら、身体が緩んでリラックスすると、ふだん自分を守ろうと意識の外に追いやっている「心」が戻ってきて、お父さん、ごめんね…と「正しい」感情が蘇るのではないか?などと思っている。(自分でも少々、どう書いていいかわからない感情)とにかく、いま、父は生きている。だから、周囲からしても、私自身も、どっぷり悲しみや喪失感に浸ったり、ましてや喪に服すことではない。けれど、父の脳が回復しなかったのなら、もう本人としては生を終えてしまったと同様ではないか…?回復の希望は持っているけれど。持っているけれど…。いわば中途半端な悲哀、喪失の状態。たとえば何らかの事件などで行方不明者のご家族は「中途半端な喪の状態」という言葉を聞いたことがある。このような状態で、同じような思いをしている方が、世の中には、おそらくたくさんいらっしゃるのだろう…。いままでも、これからも、常に。そんなことにも、気がつかされる。これも、父が私に身をもって教えてくれている「教え」だとしたら、切ない。写真は、週末に小一時間、訪れるカフェにて。このカフェへも、しばらく行くのは自粛していたけれど(みんなにどうしていたの?と聞かれて泣くのも嫌なので、という理由もあり)、いまはここへの訪問は自分に許している。同じく介護の立場で頑張っている方もいるし、私も頑張ろう!と思えるのだ。そして、緑色だったブドウがいつのまにか色づきを通り越して干しブドウになっていることに驚いた、先日。こんなさまに気がつき、美しいと思える気持ちは、残っているようだ。
2022.08.11
父が窒息事故を起こして低酸素脳症からの意識不明になり、いまに至るが、事故が起きた直後に、長らく担当だったケアマネさんが、急に辞められた。苦しい胸のうちを話したかったけれど、話せない。けれど最後に、これだけは…と伝えたことがある。再就職されるとのことだったので、悪い例として、今後活かしていただければと。私のような後悔を、私のような誤ちを、少しでもなくせるように。老老介護は、危険。それは介護する側だけでなく、される側にとっても。周囲が思っている以上に、高齢者の父と母は、無力で弱者であったのだと思う。特に、どんどん物事ができるようになる赤ちゃんと逆に、高齢者は、どんどん「できなくなる」。しっかりしていた時代を知っているだけに、周囲は「できている」「理解している」と思ってしまいがち。それは大きな間違いで、本人も周囲も、現実をきちんと捉えられていなかった。後悔しても、気がついても、あの日は戻ってこないけれど。ケアマネさんへの手紙*******今回のことは、起こるべきして起きてしまった事故です。老老介護はとっくに限界で、母が倒れるより私は父の危険を感じていました。「お母さんは投げやりで適当やるから、お父さん、自分で気をつけるしかないよ」と父に言っていたのですが、それも無理な話だったのだと思います。そして母は母で、もう体力気力的にできないがゆえの投げやりと放置だったのだとは思います。そこを補うために私がいたのに、もっと手を貸せる場面はあったのに、私は怠っていたのだと思います。今年のうちには父を説得して施設を考えてもらおうとうっすら思っていましたが、4月以降自分の仕事が落ち着いたら…と悠長にしていたら、事態は待ってくれませんでした。気づいていながら対処が遅れた自分のせいです。父は犠牲者で、父には本当に申し訳ないことをしました。本当に、奇跡を起こして回復してくれることを信じるしかありません。すみません、苦しい胸の内を、◯◯さんには伝えてしまいました。悪い実例としていただければと思います。ご返信はお気遣いなく…。いつもありがとうございます。
2022.08.11

先週金曜は、オンライン面会の3回目。毎回、7分間。当日は、グループLINE画面の「参加」をクリックしても、なぜかまったく反応せず、切断されてしまったり、何度目かのトライでようやく繋がった。そんなこんなで、繋がった途端、「すみません、次の時間の関係で、あと2分ですー」と看護師さん。それは当然なんだけれど、今回は2分間の面会。かなり切ない。それより切ないのは、オンライン面会で会う父の「見る影もない姿」。目がうっすら開き、でも眼球は動かず、口はあんぐり開いたまま(そんなに開けていて大丈夫なの?辛くないの?と思うほど)、そして、頬は痩せ、顔のシミがやたら目立つようになった。意識回復を祈ってはいるけれど、この姿を目の当たりにすると、信じる気持ちがつい揺らぐ…。実は遠方に住む私の従兄たちが(父にとって甥っ子と姪っ子)、会いに来たいと言ってくれていて、ただ対面面会がないので、ではいずれオンライン面会で、という話をしていた。しかし、オンライン面会の初回、父の姿を見たとき、(これは父は、性格からして、人に見せたくないだろうなぁ…)と思ってしまった。母に聞くと、同じ意見。従兄たちには、理由を伝えて丁重に断った。オンライン面会は、いまのところ3週間に1回くらいで次回の予約が取れる。一番早く予約が取れる日に、また次回を予約する。だって、一日だって、事態は待ってはくれないことを、このたびの事態で、よくよく知ったから…。焦るように、また次回の予約を取る。その予約に合わせて、私は仕事の在宅希望を出す。(私がいないと、母一人では操作できず面会できない)その日は、面会時間の前後含めて30分間、仕事を離席する。PCをリビングに持って行き、母と私とで、一つの画面を覗き込んで、スタンバイ。在宅勤務にさせてもらえるから、できることだ。面会2回目と3回目は、兄と、地方に住む私の娘も参加してくれた。兄が「親父!」と呼びかけると、父の口が、ガーッと大きく動き、目頭に涙がみるみる溜まった。(父と兄は、いろいろあって、けっして仲良しとは言えないのだけれど、いつも父は、兄を気にかけていた。やはり父にとって息子は気になるのだろうな。声を聞かせられてよかったな。と、このときはほっとした)「奥さんと娘さんですよ」と看護師さんが声をかけてくださったり、「○○(父の大好きな別荘地)にまた行きたいね。行こうね」と私が言ったりするたび、顔がぐーっと大きく動く。父に、絶対、伝わっている…!面会の回を追うごとに、ずいぶん顔も口も、大きく動くようになったね、と兄と娘とも話している。しかし。父に伝わっている、聞こえていると確信すればするほど、嬉しい気持ちを超えて、切なさが湧きおこる。父は、身体的には表せないけれど意識が実ははっきりしているのだとしたら。動けない体に、まばたきさえできず、開いた口すら閉められない自分の体に、どんな思いでいるのか…。目と口は開いているのに動かない父のその表情は、「わしは、なんでこんなことになっているんだ!?」「身体が動かない、助けてくれぃ!!」そう言っているように思えて、切なくて切なくて、毎回、胸が締めつけられるのだ。面会の開始前も、(きょうは7分間で、これを伝えよう、あれも言おう)と考えていると、緊張してきてドキドキしてくる。だって、父と触れ合える僅かすぎる時間。もしかしたら、それがラストになってしまうかもしれない、時間。一秒も無駄にすることなく、しっかり大事にしなければ。その重みと、毎回感じる、溢れんばかりの切なさ。7分間、ときには2分間の、父との時間。私には楽しみにする余裕はなく、厳かで大事で、胸の詰まるような時間だ。写真は、最近は手を合わせに行くのは毎日ではなく週末や在宅勤務日のみになってしまったけれど、あの日からずっとお詣りさせてもらっている延命地蔵様のいるお寺にて。蓮のカメが泥水だけだった時期から、いまはこんなに蓮の花盛り。季節は、粛々と進んでいく。 ※意識のない父に、タブレット画面を見せて、サポートしてくださる病院と、看護師さん、相談員さんには、毎回感謝です。
2022.08.11

心肺停止後の蘇生から、3ヶ月。生きていてくれる奇跡が有り難く、しかし、果てしなく長い3ヶ月だった気がする。医療療養病院に転院してからも、1ヶ月。変わらず意識はなく、しかし悪いほうにも変わりがないのは良いことである。転院後は、ますます父の様子が見えなくなった。いままで急性期病院ではおむつなど物品を持っていくたびに、お渡しする看護師さんに「様子はどうですか?」と聞き、また、医師や看護師から電話がかかってくることもしばしば。そのときに、様子はどうですか?といろいろ聞くことができた。転院後は、物品を渡すのは土日で、事務の方へ。何かしら用事を見つけて?電話をかけ、看護師さんに「様子はどうですか?」と聞くくらい。しかし、療養病院で、変わりないはずなのに、そして看護師さんからも「不足品があればこちらから連絡しますから」と言われているのに、忙しい看護師さんに何やかんやと電話するのは、気が引ける。というわけで、あまり様子を聞く電話もできない。一度、市から肺炎予防接種の用紙が届き、入院中に接種できるのか?等問い合わせたところ、医師が電話をくださり、そのときに様子やリハビリの内容を聞けた。でも、それもこの1ヶ月で1回。おむつや衣類は、コロナ下もあり持込不可なので、毎週何かを持っていくのは必須ではなく、ある意味、何もしないでいようと思えばいられてしまう状況だ。父のことが自分から遠のいてしまうようで怖くて、嫌で、毎週末には、物品にかこつけて病院を訪れている。父が愛読していた、土曜日朝刊の読書欄。きょうもそこから何稿か音読し、CDにおとす。きょうは、父がこの事態になる直前に、新聞に赤ペンを引いていた詩集を買ったので、そこからも何編か読み、吹き込む。途中には、父の好きだった(と思われる)出身校の寮歌や、ヒーリング音楽など、脳の刺激になりそうな思いつくものも盛り込む。こんなことしか、こんなことしか、できない。急性期病院に入院中は、うんちのついたパジャマを消毒して洗い、アロマの香りをつけて持っていき、割と見た目を気にする父のため、パジャマにアイロンをかけて持っていき。「下痢しているのでオムツがもうない」「お尻拭きをきょう明日には持ってきてください」などなど、時間の制約もあるなか大変なときもあったけれど、「父のためにできることがある」ことが私の幸せだった。何より、父の体臭がついたパジャマや、うんちのついたパジャマズボン。以前は文句たらたらで、顔を背けながら洗っていたこれらの汚れ物が、「父が生きている」何よりの証拠として、有り難いものであった。いまは、生きている「気配」が感じられる物が、ない。せめて心の中で、お父さん、おはよう!お父さん、行ってくるよ!と毎日話しかけ、毎日思っているよ、と伝えるけれど、たまに、どうにも虚しく切なくなる。渡したCDだって、一度は聞かせてもらうだろうけれど、それきりかもしれない…そもそも難聴で補聴器でも聞こえなくなっていた父に、どこまで聞こえるか…。そんなこと言っていないで、私がエネルギー上げて、エネルギー伝えなきゃ。「こんなことしか」であっても、できることがあるだけ、有り難い。思い直して、喜びをもって、きょうも病院に向かいます。写真は、先日買った、富良野の、ドライではない生のラベンダー。香りと色に、癒される。きょうのCDには、この香りをつけて。父の五感に、届け、届け。*****…似た環境の方々にもお役に立てる情報共有を、と始めたこのブログ、父の急な事態により、一気に、日々の思いの吐露のみとなってしまっている。療養型病院への転院や、老老介護の危険性や、いろいろ、悪い例としても伝えたいことがたくさん。また改めて書きたいと思っています。
2022.07.03

きょうは在宅勤務。仕事が終わって、すぐ。お父さんがいなくて、寂しくて、泣く。こんな時間には、襖の向こうから、ゼロゼロ咳したり、「おぉーい、〇〇(私)はいないのかぁー」と大きな声を出したり。ガサゴソ動く音が聞こえていた。そんなことが鬱陶しくて、顔をしかめて、無視していた自分。襖を開けて出ていくと、なんやかんや頼みごとされたり…が面倒で、仕事が終わっても、なかなかリビングに行こうとしなかった。なんてバカなんだろう。私。大事な時間だったのに。あのとき嫌だったことが、こんなに懐かしくて、それがないことが、こんなに寂しくて。なんてバカなんだろう。私。もっといっぱい、美味しいものを食べたかっただろうな。もっといろんなこと、知りたかっただろうな。もっともっと、世の中のこと、知って、考えたかっただろうな。それはずっと続く営み。人間が、一生、続けられる営み。毎日、新聞をまめに読み、赤ペンを引き、切り取ってスクラップを常としていた父。(インプットばかりして、何に役立つの)なんて心で悪態ついていたけれど、父は、もちろん仕事に向けての情報収集と、何より、知識欲が旺盛だったのだ。いまならわかる…。そして、私に足りないところ。私には知識欲と勤勉さが足りないから、理解できなかったのだ…。もっとたくさん、いろんなものを見たかったろう。もっと、気持ちのいい風に吹かれたかったろう。もっと私たちと、言葉を交わしたかっただろう…。最近は、ぼーっと空(くう)を見ていることも多かった。ボケッとしていると、人生終わっちゃうよ!なんて、このバカ娘は偉そうに言っていたけれど、父はもっと、果てしないことを考えていたのかもしれない、と思う。だって、あとから父の切り抜きを見たら、「死は生に内存している」といった箇所に赤ペンで線を引き、生死に関わる評論を取ってあったりした。本人は、周りが思うよりずっと、自分の人生に向き合って、考察していたのかもしれない。お父さんがいなくて、寂しい。いま一人、病衣を着て、目も耳も聞こえず、口も聞けず、ベッドに横になるしかないお父さんを思い、泣く。仕事中は普通にしているけれど、ふとした瞬間に、こうやってこみ上げてくる。父、生きているけど。それは本当に有り難く、父にも感謝だけれど。自由のきかない、目も耳も口もきけないこの日々は、父にとって、はたしてどうだろう。そんなことを思って、鬼ムスメが、泣く。写真は、父の転院日、病院から一人帰る途中、病院の最寄駅のスーパーで売っていた芍薬。きれいに開きました。
2022.06.07

6月2日。父、無事に転院できました。いやぁ…一言でいうと、当日も大変だった。何より、当日私がどうかなったら、話がイチからやり直し⁉︎と思うと、喉すら痛くなれない、その緊張感。(母も兄も、誰も同行してくれないから)前日は、その緊張感と、準備で、寝るのが4時半すぎ。睡眠時間1時間半で、でも何とかなって、本当にほっとしている。準備というのは、父に、久しぶりに会えて、そして、またいつ会えるかわからないから、父に伝えたいこと、してあげたいことを、思いつくままに準備したのだ。思いつく限りは…できたかなぁ。2ヶ月以上ぶりの父は、意外と変わらない感じで、ガリガリではあったけれど、肌ツヤもあるほうだった。身体中、黒ずんで、ガリガリで、生者の面持ちでないかも…と恐れていた予想は、ありがたいことに、外れた。保湿剤をつけて足をさすったり、補聴器をつけてあげて声をかけたり、叔母2人に電話して、父の耳に当てて聞かせたり。行きがけに、民間救急車の方にお願いして、マンションの前も通っていただいた。人工呼吸器なのでストレッチャーで降りるのは危険とのこと、それは諦めたけれど、マンション前で、しばし停まってくださった。車窓のカーテンを開けて「お父さん! マンションだよ!マンションの前に停まってもらったよ!」と耳元で言うと、父の顔がくっと、窓のほうに動いた!(期待のあまり気のせいかと思われそうだけど、あとで同乗の救命士さんもそうおっしゃっていたから、本当に動いたのだ!)「きょうは部屋へは入れないんだけど、ベッドもそのままにしてあるからね。元気になって戻ってきてよ」「いつも歩いた道だよ。あの黄色い花がいま咲いてるよ。また一緒に歩こう」話しかけると、父の目に涙がたまった。(そのあと、事あるごとに涙もたまったのだけれど、これも、父はわかっているのでは⁉︎伝わってるよね⁉︎とほぼ確信した理由の一つ)(↑ 保湿剤をつけて足をマッサージすると、皮膚がボロボロ落ちた。(シーツにいっぱい)爪も伸び放題だけど、急性期病院だからしかたない。でも、入院前にじくじくしていた足の傷はきれいになっていた!)民間救急車で、病院の救命科の医師と、救命士さんと、私。高速も使い、渋滞もしたので、1時間半。意外と車が揺れて心配したけれど、無事に転院できて、本当に感謝だ。転院後は容態が急変しやすいと聞いていたので(実際、知り合いの体験談からも)、ドキドキしていたけれど、3日たったが、いまのところ大丈夫そう。父本人の体力と、民間救急車の方々と医師と。転院に向けて動いてくださったすべての方と。受け入れてくださった病院と。父を救けてここまで診てくださった病院と。そして、神様。仏様。当日、雷雨予報がズレて、晴れてくれたお天気。すべてに、すべてに、感謝。転院の道中は、あれもこれもやり、さまざまなことを感じ、とても密な時間を過ごした。大切な大切な、1時間半。その1時間半のことは、また改めて書き留めたいと思う。
2022.06.06

ようやく転院先が決まりました。なかなか希望に合う病院が見つからず、入院先のソーシャルワーカーさんのみならず、担当のケアマネさん、知り合いのケアマネさん、口コミ求めて知り合い、はては東京都保健局の相談窓口にも電話して、示していただいた病院に直接電話などして、とにかく病院を探した。受け入れ可能との返事をいただいた病院は、結局5つ。そのうち4病院に面談に行った。母に逐一、病院の話を整理して説明し、兄貴夫婦にもメモにまとめて送り、家族の合意をとるのにもひと苦労。ようやく、ようやく決まりました…いや、決めました。何を優先して、どう決めるかは、家族と自分の問題だった。優先させたのは、お父さんはどうしてほしいかな。ということ。しかしこれはあくまでも想像であり、本当はどうかな?という思いが常に(いまでも)つきまとう。本人の希望がわからないのに、その命を、人生を、家族が決めてしまうことの怖さ。これは今回の事態になってから、最初から常にある問題だけれど、今回も、おそらく父の終の住処を決め、父の命をも左右するこの選択に、迷いに迷った。1ヶ月半くらいかな、調べて、考えて、悩んで。人に相談して、また考えて。そうしてようやく決めたのだった。(もちろん、希望通りの病院が運良く見つかればそこで終了する話だけれど、なかなかうまくはいかなかった…)決めたからには、この選択がよかったのだと信じて、進むしかない。そう思ったら、少し、気持ちがおさまった。そして、転院はいよいよ明日。緊張している。私がどうかなったら(喉が痛いくらいでも、いまは)、誰も付き添えないので、話が延期になってしまうと思ったら、仕事と必要最小限以外、外出を控え、体力も温存。きょうまでこぎつけたけれど、いまだ緊張している。明日当日を無事に迎えられるか?父自身の体力と、自分の状態と。そして、遠い病院を選んだので、道中、無事に行かれるか。転院日に急変する人の話を聞くので、環境が変わって、大丈夫だろうか。あとは…2ヶ月以上ぶりに父に会うことが、怖いというか緊張するというか。気管切開してから会えていない。さぞや痩せ細って、そしてお風呂も入れないで、ちゃんと生者としての風貌だろうか…。緊張はするけれど、明日は貴重な、触れられる機会。足をさすり、声をかけて、あと何ができるだろう。何を父に伝えられるだろう。お父さん、ごめんね。あの日居られなくてごめんね。目がかけられていなくてこんなことになって、ごめんね。ずっとずっとありがとう。一生懸命考えたけど、これでよかったかな。謝って、感謝して。大事な大事な約1時間。どうか無事に進みますように。写真は、今朝の空。龍が勢いよく上っているような雲でした。(父は辰年)がんばれ、お父さん!がんばれ、お父さん!
2022.06.01

医療療養病棟への転院に向けて、GW前から3箇所に面談に行った。手厚い介護をしてくださるところ、救命措置を希望により施してくれるところ(もちろん程度問題と、状況により病院の判断に任せることは了承)、内科的に何か病状あったときにどこまで対応してくれるか…(療養型は治療までは基本しないと言うが、それでも対処してくれる範囲、持っている薬、設備は、病院によって違う)その三点と、あとは距離。面会再開になったとき、また、急変時に間に合うか?の問題。三点を満たす、病院としては理想的な病院がせっかく見つかったが、距離(電車とバスで約1時間)の問題で、母はハナから眼中にない。(そのせいで、面談も当日朝に行かないつもりだったとか言い出し、母は面談欠席…なおのこと、距離が遠くてもいい病院だわと思ってもらうためにも来てほしかったのに)比較的近い病院(電車とバスで25分)は、「ほかの療養病棟と比べても、うちは使える薬や設備も低レベル。基本、治療はしない」「救命措置は、希望があれば聞くことはできるが、実際には施さないことが多く、実例もない」「生存を希望するなら、他の病院のほうがよいのでは」とまで。もちろん、相談員さんなので、はっきりしたことは言えないのだろうけれど。(理想的と言った病院ら、院長先生が面談してくださり、いろいろ、基本的救命措置もやりましょう、と言ってくださった)母に意見確認するも、はっきりした理由なく言ってるようにしか思えず。私自身が自分のおとしどころを見つける話なのか…?再度、いまの病院の相談員さんに、相談してみようとは思っているが、他にも候補となる病院はないか?と東京都の保険相談窓口に問い合わせ、昨日の土曜日午前中は、ご提示いただいた病院に片っ端から?電話で問い合わせ。なかなか希望に見合うところは見つからず、これって、就職とか家探しとか、何にも通じることだろうけれど、自分ではない人(家族)の人生を左右すると思うと、ますます決められない。おとしどころが難しい。自分の住まいも探さねばならないし、もう、もう、もう、もう、連日、頭がいっぱいだ。写真は、きょう、「大変だからお花、飾って」と、知り合いのカフェの店長さんがくださったお花。常連さんがいつも店内に飾りつけているお花を、可愛い、と見ていたら、くださった。父がこの事態になってから、人に状況を話すのも辛いので、それまで毎週のように休日は行っていたこのカフェも自ら出禁にしていたのだけれど、きょうは、聞く耳持たずの上に、わざとらしくよろめいたり泣いたりする母にまたイライラして、久しぶりにこのカフェに、小一時間、逃げ出した…。(わざとらしく、なんて母にも鬼ムスメ発言だけれど、いやいやそうとしてか思えず)自分の気持ちと、父の気持ちと(想像でしかないけれど)、母の気持ちと。(あと、兄にも聞いているけれど、返事なし…)折り合い、おとしどころを探る日々は続く。転院先は早く決めなくては、なので、いつまでもは続かないけれど。でもね、お父さんのおそらく「終のすみか」を探すこと。お父さんに、ほぼ唯一、いま私ができること。だから、一生懸命、考えて迷って、頑張るよ。(こんなに頑張れるなら、元気なお父さんがいるときに、もっと他のことでお父さんのために頑張れたじゃないか、自分…と、その後悔を胸に)
2022.05.15

昨日は3院目の転院先候補A病院の面談。仕事のあと午後休をいただき、向かったが、面談に2時間かかったのと、帰りのバスも道が混み、帰宅は19時近く。22時まで在宅にて仕事。(ちょうど立て込んでいる時期につき)前日の火曜日は午前中、B病院の面談、午後から出社。繁忙期なので20時過ぎまで超過勤務。両日とも、ふだん外出しない89歳の母が同行し、シルバーカー押しながらフラフラしているのが気になり、それも気を使う。さすがに疲れもあったのか、昨夜、ヒーリング音楽でも聴きながら寝ようかとYouTubeかけたら、急に、父に対して申し訳ない気持ちが再び湧き起こり、お父さんごめんね、ごめんね、ごめんね…声を出して泣き始めてしまった。この事態になるまで、父は数日、具合が悪かったのだと思う。忙しさにかまけて、いや、忙しいのだと言い訳をして、しっかり父を見てあげられていなかった。いまこんなことに時間と労力をかけて頑張っているけれど、こんなに時間をかけられるなら、なぜこの事態になる前に、頑張らなかったのか。いくらでも、もっと父のために時間をかけられた。なぜ自分を優先させてしまったのか。私は本物の、鬼娘だった。お父さん、ごめんね。ごめんね。ごめんね。もう遅い。
2022.05.12
蘇生から約2ヶ月が経とうとしている。父、生きています。先週は5/6 セカンドオピニオン意識回復について、「可能性は限りなくゼロに近い」というご見解をいただく。半分わかっていた答え…そのことを突きつけられる気がして、この日が近づくにつれて緊張が高まっていた。父の人生が終わってしまったのではないか。それを事実として突きつけられるのが、怖くて怖くて、緊張していた。当日、セカンドオピニオンの先生に、私や家族の思いに寄り添った言葉をかけていただきながらも、医学的には回復は可能性は限りなくゼロに近いと、その言葉は、考えを切り替えるきっかけになるかと思ったら、もちろん、頭の中では「これはもう家族の考え方、受け止めかたを変えるしかない局面なのだな」。ところが、心の中では落ち込んだ。ひどくひどく落ち込んだ。希望を持っているけれど、諦めなくてはならない、自分でもどこか諦めかけてしまうことに。それではやはり少しでも父にとって良い影響やケアをしてくれふ療養病院で、奇跡を待つしかないかと、今週、バタバタと転院先の面談。(GWで相談員さんとのやりとりがストップしていたため、少し間が空いていた)月曜に電話して、火曜の午前中、A病院。大変手厚い看護をしてくださることがわかったが、目的とする急性期の対応はほぼない。(希望は言えるが、実例なし)使える薬、設備も、療養病院の中でもうちは少ないほう、という説明。火曜に電話して、昨日水曜の午後、B病院。急性期対応は希望は言える、やれるところはやりますとの返答。しかしあまり手厚い感じではなく、また、急性期対応をすることで希望者は多く、早くて1ヶ月待ち。そして、最寄駅からバスで約30分、山の上に上り、着いてしまえば環境はいいが、非常に心理的に遠い。同行した母も、最初は山が好きな父のことだから環境がいいと言っていたのに、「ここは遠いわね…」。GW前に私ひとりで面談したD病院は、病院としては理想なのだが、こちらは家から45キロ離れ、母など最初から眼中になし、と面談同行も拒否。あと1件問い合わせ中のE病院は、これもそもそも遠いことがわかっている…。ほか、友だちや知り合いのケアマネさんの口コミから、数件、候補を相談員さんに伝えたけれど、人工呼吸器などの理由で不可。それでもまだ探しつつ、いまの3つのうちから、選ぶしかないのかなぁとも思っている。何を大事にするか。お父さんだったら、どこがいい?まるで神様から試されるように、考えを整理して、選択する日々は続く。
2022.05.12

父、頑張って生きています。しかし姿を見ることはできない。一般病棟に移ってから、着替えは、週一回とのこと。ズボンはだいたいお通じがべったりついて戻ってくる。この状態でも、うんちをするんだなぁー。そう思うと、いままでは嫌でしかなかった、うんち洗いも、有り難く感じる。(ちょっとは嫌だけど)げんきんなものだ。朝。私が出勤時は、父は声を振り絞るように「行っといでー」と言ってくれた。振り返って、「おー」みたいに頷いて出かけるのが常だった。あの声が聞きたい。父のいない、出勤の朝。通勤電車の中で、涙がつーつー流れる。目元までマスクで覆ってるいまは、電車の中で泣くのにはありがたい。写真は、お地蔵様にお詣りに行くお寺にて。桜はすっかり絨毯に。季節は刻一刻と移り変わっていく。私の気持ちも、少しずつ変化してきている。でも、信じるよ。
2022.04.25

3月14日、父が救急搬送されてから、きょうでひと月たった。生きていてくれるだけで有り難い。なぜなら、希望を持たせてもらえるから。それが万人に「奇跡」と言われようとも。私だけは信じるよ。だって、(お父さん、生きている)って私は思って喜んでいるけれど、意識回復しなければ、お父さんの人生としては終わってしまったのではないか…それを思うと、私は怖くて怖くてしかたがない。父の、大事な大事な94年間の人生が、こんなことでバッサリ終わってしまう…?事の重さに、重大さに、私は怖くて怖くてしかたがない。生きていてくれることへの感謝と、子どもみたいに奇跡を信じる気持ちだけに集中したいのに。いや、集中しよう。きょうも仕事前に、お地蔵様にお詣り。このひと月のうちに、桜が咲いて、咲き終わって、葉の緑が印象的になった。この木々と同じく、世の中の生き物と同じく、お父さんも生きている。有り難い。祈りと感謝の日々は続く。できることはないか⁉︎と人に相談し、検索し…の日々も続く。仕事をしていても、かたや、大事な人生を終えてしまったかもしれない父を思うと、(仕事してる場合じゃないんじゃないの⁉︎私…)と焦り、ドキーッとする。父に申し訳ない気持ちでいっぱいになる…。
2022.04.14

父、94歳。パーキンソンでもともと嚥下障害があったところ、食べ物による窒息で心肺停止。本人希望があったため蘇生してもらい、しかし低酸素脳症、蘇生後脳症のためICU入院中。本日28日目。そう書くと、94歳で延命?とほとんどの人に思われると思う。いろいろな考えがあることを承知で敢えて言わせてもらうならば、人生は年齢ではなく、その人その人の生き方。と思ってもらいたい…。父は86歳のとき大腸癌がみつかり、そのときも「わしはやりたい仕事があと3つ(3冊)ある。だからあと10年生きたいんだ」ときっぱり言い、手術を選んだ。担当の医師が、非常に耳を傾けてくださり、その気持ちに私が応えましょう、と執刀してくださったのは本当に感謝しかない。そして再発もなく、ほぼ根治したのは、これも感謝しかない。それから約7年。3つだった仕事は「せめて2つ」になり、それも最近、「これだけは…」という1つ(1冊)になった。父はパーキンソンが進むなか、毎日新聞を読んでは資料となる箇所を切り抜き、自分のノートや過去の資料を読んでは、コピーして貼り合わせ、コツコツとやっていた。(「いままでのやり方では、とても終えられないよ!やり方を変えたら」としょっちゅう私も言っていた方法だったけれど、本人はそのやり方でやり遂げるつもりだったのだろう)だからこそ、私たち家族も、とっくに母の老老介護の限界を越えていたかもしれないなか、ギリギリまで在宅介護をして、仕事をとにかく遂行してもらおうとしていた。父は、仕事ができなくなるから、常に入院を嫌がり、恐れた。そういいながら、何度も緊急入院はしたが、そのたび、仕事が遅れた、と父は嘆いた。時間がないんだ、と焦っていた。今年の1月。父に、延命希望とか、ちゃんと書いておいてよ、私たちが困るから、と書いてもらった用紙。「延命を希望する」にチェックが入っていた。そして、たしか1〜2ヶ月前の夜中。父はベッドの上で辛い体勢になり、苦しかったらしく、襖の向こうから聞こえてきた父のか細い叫び声。「助けてくれ。まだしにたくない!まだしにたくない!」94歳で、まだしにたくないと叫ぶんだ…と、私はちょっと驚き、この話を、(同じような環境の)友だちにまで半ば失笑しながら喋ったりしていた。けれど、いま、この言葉が、私の心の真ん中にある。父は、生きたい。この仕事をやり遂げたく必死だった。だから、生きる道を、家族が途中で断つことはできない…。生きていれば奇跡が起こるかもしれない。生きていれば、生きてさえいれば…。もう一つ、私がこう思う大きな理由は、11年前の、弟のこと。急な病気の発症から3日でなくなってしまった。そのとき、遠方に住んでいた私は、長い闘病生活になるだろうという見込みのもと、すぐに駆けつけず、仕事もあるからと、その3日後に東京に行くことにしていた。その東京に行く予定の日の早朝、突然、弟はいってしまった。間に合わなかった。東京に着き、知ったのは、本人の意思を確認することなく、延命治療は希望しないと家族がサインしていたこと。しかもそのサインをした家族は、サインしたことも同意したことも記憶にない、と言う。説明は受け、同意したことは間違いないので、これはこの家族(高齢者)の問題。本人を責めていまこれを言っているのではなく、当時すでにその家族は、物事を理解し、判断する能力がなくなっていたのだ(緊急事態に際してだけだとしても)と思い知らされた。あのとき延命していたら、弟は、何年も生き延びることはできなかったとしても、あのようななくなり方はしなかったのではないか…その思いは、11年たったいまも消えない。だからこそ、父の介護にあたり、その二の舞いにさせまいと東京に戻り、同居してきた。私が守るつもりだった。なのに、恐れていた事態が起こってしまった。私はその責任感から、必死になっているのか? 自分のためなのか?と反問することがある。その可能性も思いつつ、私は、生きたがっている父の姿を知る家族として、その姿を医師に伝え、生きることが父の希望と信じて、いまは進むしかないと思っている。父の望む姿に回復することは「奇跡」と言われようと、生きてさえいれば希望がある、と信じて。医療逼迫のなか、これは家族の我儘かもしれない。読んでいて共感は得られないかもしれない。そして、この思いに耳を傾けてくださりICUで治療してくださっている先生方には感謝しかない。このように思い信じる人間と家族もいるという事実として、敢えてここに書こうと思いました。お詣りに来ているお寺の庭で、これを書いています。
2022.04.10

父、低酸素脳症になり28日目。父、生きています。多臓器不全でいつどうなるか…な状態から、少しずつ少しずつ改善して、いまは薬は使わず、鼻からの栄養チューブだけで頑張って生きている。気管切開したのち、なんと一時期、人工呼吸器も外れた。人工呼吸器が外れる日が来るとは思っていなかったので、驚き、感謝し、喜んだ。そうしたらその翌々日か、医師から電話があり、「昨夜、自発呼吸が何度も弱まり、無呼吸も何度か出現したので、再び人工呼吸器をつけた」と。「今後転院の際も、人工呼吸器をつけたままの可能性が高いので、その予定でいてください」人工呼吸器が外れたのなら、よもや自宅介護…?とまで頭をよぎっていたが。このコロナ下でまったく面会できないより、自宅なら、手足をさすったり、声をかけたり、働きかけができれば、不可能と言われ続けている意識回復も、より希望が持てるのではないか?と思って。喜んだ分、やはりそうか…と、がっくりくる。ここまで生きていてくれている、たすけていただいているだけで、本当に奇跡だと思っているし、有り難く、よかったよかったと喜んでいる。だけど…このまま、言われているように意識がもう戻らないのだとしたら?父が延命を望んでいた理由である「いまの仕事をやり遂げたい」願いが叶う状態にまで回復しないのだとしたら?私たちは父を「生きている」と思っているけれど、父本人の人生としては、終わってしまったということではないか…?喜んでいる場合じゃない…これは既に悲しむべき事態ではないか…?そのことに気づくと、私の胸は重く重く、詰まる。深く深く、沈んでいく。怖い。ひたすら、怖い。私は、子どものように、相変わらず「奇跡」を信じている。でも、そんな気持ちがふーっと緩んでしまい、諦めてしまいそうになる自分が、時折いる。私が諦めたらおしまい。だから、みんなが不可能と言っても、私だけは信じるよ、お父さん!頑張ろうね!そう自分にもハッパをかける日々。写真は、毎日のように訪れているお地蔵様のあるお寺にて。今年の桜はきれいだな。でもお花見の場所に行かれるほど気持ちが強くない。このお寺にお詣りすることで、きっと私が癒されている。
2022.04.10

父のいない土曜日。ある新聞の土曜日朝刊「読書欄」をこよなく愛する父、毎週、丁寧に読んで、自分の仕事に必要そうな箇所には赤ペンでラインを引き、切り取って保存していた。ずっとずっと何十年間も続けていた、父の土曜日のルーティンだったのかもしれない。(読書欄自体がいつから存在するのかわからないけれど、少なくとも私が同居するようになってからの、土曜の日課)父のいない土曜日。何度となくあったいままでの入院のときのような錯覚に陥るけれど、いやいや、父がここに、以前のようにニコニコと戻ってくることはないのかもしれない、と思うと、その恐怖と悲しさに押しつぶされそうになる。父の座っていた椅子に座り、いつものように(頼まれて)その部分だけ切り取った「読書欄」を、いくつか読んでみた。2キロ弱離れたICU病室で、意識なく寝ている父に届くように、声に出して。パーキンソンで震える手で、切り抜きがうまくいかず、時間がかかるから…と私に頼んでくるようになったのは、数年前。当初は「時間がかかっても、いいリハビリだから、自分でやったら!」と、あえて自分でやってもらっていた。それもいよいよ難しくなり、切り抜きを手伝うようになっていた。そのうち、朝刊そのものを手に持ち広げることも、重くて難しくなった父、「読書欄のページだけ、新聞から切り離してくれないか」。母か私が、毎週、やっていた。たびたびの入院中も、土曜の読書欄は楽しみだからと、土曜は時間早くに病院に新聞を持っていった。先週の土曜日は、ICU病棟に、他の荷物と一緒に「読書欄」の切り抜きを持っていき、「父がこよなく愛していたものなので…すみません、脇に置いておいてもらえますか」と看護師さんに託した。(意識不明の父に新聞を渡すなど…変な家族ととっくに思われていると思うけれど) 一瞬、ん?という顔をされたけれど、はい、と看護師さんは受け取ってくださった。今週は、何となく、持参はやめた。父の座っていた椅子に座り、父が眺めていた光景を見る。父がここに座っている時は、ご飯を食べる以外は、TVを見るか、新聞や本を広げるか。それがここ半年くらい前からか、ふと見ると、下に視線を落として、ぼーっとしていることも多かった。そのたび、父の顔の前で私が自分の手をパン!と合わせて、「ここでうたた寝しちゃダメだよ!」と覚醒?させたり、「ぼーっとしてるならベッドに寝れば?」「仕事しないと、できないまま終わっちゃうよ!」…そんな言葉ばかり投げかけたりしていた私。父はここで、何を考えて(感じて)いたのだろう。ここで、どんな気持ちだったのだろう。人生について、これからのことについて、私は現実的な話ばかりを突きつけてきたけれど、これから終わりに向かう人生に思いを馳せて、感情的、感傷的になることだってあるだろう…というか、考えたくないことでもあり、そちらの感情のほうが大きいかもしれない。ただぼーっとしていただけかもしれないし、ゆっくりじっくり、自分の人生と時間を噛みしめていたのかもしれない。いずれにせよ、私は、父の気持ちに寄り添えてはいなかったのだ、と思う。
2022.04.03
もうダメと思ってから18日目…。父、生きてます。変わらずICUで、意識なく、意識回復はないと…。それでも多臓器不全は少しずつ少しずつ改善して、昨日は、人工呼吸器→気管切開手術。手術後、医師より「このまま自発呼吸ができるようになったら、人工呼吸器を外すことも考えましょう」「来週あたりから転院に向けてご相談を始めると思います」と…驚いた。人工呼吸器、一生つけるのかと思ってた…外すなんて日が来るの!転院?もう?え、それって安定してきたってこと⁉︎ヤマだ、ヤマだと言われて、こちらが生きた心地がしなかった日々。毎日メソメソ泣いていた。お父さんごめん、お父さんごめん、と心で何度も叫んだ。それが、少しずつ少しずつ、あちこち「改善」という言葉が(医師から)聞かれるようになり、ついには「先の」話が出るようになったとは。奇跡だ。有り難い。有り難い。昨日は久しぶりに気分も明るくなり、いままでのいつものように普通に観たいTVをつけ、久しぶりにご飯をお腹いっぱい食べた。(最初1週間で3キロちょっと痩せたのに、少しずつ改善してきた段階で、結構普通には食べるようになっていたが…)つい、歌まで口をついて出そうになった。だって、嬉しいから。しかし、だ。何だか気持ちが喜んでいるけれど、ふと冷静になると…お父さん、帰ってくる? ここに、以前のように座って、おい、〇〇」と私を呼ぶお父さんは、帰ってくる…?家の中の父のものは、逆にあまり片づけず、ほぼそのままにしている。レンタルの介護用ベッドも、レンタル備品もそのまま。ただ主がいないだけの、いままでの入院中であるかのような錯覚に陥っているのかもしれない。ましてやいま面会は不可。目の前で見ていないと、人の記憶なんてものは、都合のいいように、感じたくないものには蓋をしてしまうのではないか…子どもみたいな、(よく言えば)無邪気なきもちで、回復を信じている。だけど、その見込みについては、聞く人聞く人、「見込みなし」なのだ…。私たちは「生きてる」と思っているけれど、このまま意識が回復しないのであれば…父本人の人生としては終わってしまったということではないか…?そのことに引き戻されるたび、私の胸はドクンと鳴る。父の人生が終わってしまった?94年間の、大事な大事な人生が…事の重大さに、重さに、私は怖くて怖くてしかたない。改善してきたと喜ぶ一方で、ふとした瞬間にこみ上げて、やはり毎日泣いている。
2022.03.31
戒めのためにとってあった、父に書いて見せたメモ。置いてあったものを見ると、イライラのままに書き殴った文字も自分は犠牲者面した文句もひどいひどい読んで、父は怒ってぺいっ!と床に捨てることもあったけれど大体は、読んでそっと胸ポケットにしまったりサイドテーブルに置いて、とっておいたりしていた。こんなことを言われたから気をつけよう、父はそう思える人だった気持ちのままに投げつけた言葉耳が聞こえないからメモに書くけど、あとに(証拠のように)残るのは私の反省のために、いいと常々思っていた。反省するどころか反省するどころかお父さん、ごめんお父さん、ごめんと泣いてしまう夜。
2022.03.29

窒息でこの事態になる前の週末、お昼にホットケーキを作った。父はホットケーキが好きなので、たまに作るのだが(母も作ることがあるので、割と頻繁)、この日は、ちょっとだけお高いホットケーキミックスを買って、「ふわふわに焼くコツ」YouTubeを見ながら、作ってみた。思ったよりふわふわにはできなかったけれど、生クリームをつけて、父は一枚分をパクパク食べていた。その翌日だったか、父がわざわざ私に、「あのホットケーキは、うまかった! また作ってくれぃ」と言ってきた。私は、「了解」みたいなポーズをした…が、いま思うとちゃんと父に伝わっていたかは定かでないくらいのポーズ。だけど心の中では、(そうかそうか、美味しかったか。もっとうまく焼けるように、そうだ、「ホットケーキWEEKEND」と称して、毎週末、ホットケーキを焼こう)とひそかに計画。その翌週の3/12土曜日は、朝から私は自分の鍼治療で出かけ、帰りを急ごうと思いつつ、知り合いに呼ばれて少しあるお店に顔を出した。(ただ何となく、やはりきょうは早く帰宅しようと、テイクアウトにして、でも引き取りに行きがてら結局、小一時間、店にいてしまった) なので帰宅したのは夕方、ホットケーキの時間でもないので、翌日に持ち越し。翌3/13日曜日は、翌日提出予定の青色申告書を朝から作成。午後は久しぶりの友だち家に呼ばれていて、うーん、ホットケーキ…と思ったけれど、(バタバタしながら焼くより、また今度)なんて思って、作るのをやめて出かけてしまったのだ。その翌日の月曜日、窒息…。お父さん、またあのホットケーキ作るから。作るから。救命センターからICU病棟へ移ったときだけ許された面会時、父の耳元で私は叫んでいた。もう遅い。もう遅いのに。そんなことですら、後悔の一つとなる。高齢者と暮らすこと、それは、「また今度」はないかもしれないと、本当に本当に肝に銘じて行動することだった…。写真は、そのとき焼いたホットケーキ。これは自分用。これから始まるホットケーキWEEKENDのために、焼くのが上達する様子を記録するつもりだった。私は大バカ者だ。大バカ者だ。
2022.03.27
3月27日。父、生きています。有り難い。有り難い。それにしても意外にも何が辛いって、買い物。買い物に行くと、(あ、これ柔らかそうだから、じーさん(父)が食べられそうだな)(あ、これじーさん(父)の好物だから買っていこう)…いつもそんな目で見ていたことに気がつく。意識回復はまずないと言われているいま、元通り美味しい美味しいと言って食べることは、もうないのでは…(まだ奇跡を信じているけれど)そう思うと、見るもの見るもの、辛い。買い物が、辛い。
2022.03.27

この写真は、今年の1月。朝陽に照らされて、何だか神々しいなぁ…と感じて、ここのところ、よく撮っていた。94歳の老木(ごめん)、生きてきたその姿は神々しく、リスペクトだ。
2022.03.26

父は、ある新聞の土曜日「書評」欄が大好きだった。翻訳をしていて、いまも「やりたい仕事がある、あと1冊書きたい本がある」と言って、そのための資料となる言葉に赤ペンで線を引き、必要部分は切り取って。(8年前は「書きたい本があと3冊」だったんだけど、徐々に減って、1冊)土曜日。襖の向こうから、ガサガサ新聞をめくる音が聞こえない。襖を開けると、いつもそこには、じーさん(父)がいた。いまもいるような気がするけれど。いない。じーさんがガサガサ広げている新聞を邪魔そうに、横を通り過ぎていた私。それがきょうは、できない。私はダイニングテーブルに座り、楽しみにしている朝ドラの再放送を見ながら、少し離れた場所で、父が新聞を読み、ご飯のあとの珈琲とチーズをたしなんでいる。せめて一緒にいられる時間を、とこの時間を私も一応、大切にしていた(つもり)。その時間が、きょうは、ない。いや、意識が戻ることはないと言われているので、もう、もう、やって来ない…かも…しれない…。でも。生きていてくれるだけで、有り難い。生きていてくれて、ありがとう。ありがとう。後悔を感謝に換えたい…。…なかなかできないけれど。後悔は、深い。
2022.03.26

3つか24日。窒息、心肺停止して、ICUに入院して11日目。父、生きています。生きています。救急搬送されてICUで初日、「奇跡というのは起こりませんから」と言われた。その日のうちにもうダメかと思った。「この1、2日がヤマ」と言われ、長い一日がたち…長い二日がたち…なんと11日目。強心剤で動かしていた心臓は、薬を使わずに動きはじめ、昇圧剤でコントロールしていた血圧は、薬がなくてもよくなり。多臓器不全と、心配な血液検査の異常値はある。落ち着くまでは程遠い。それでも、それでも、これは奇跡ではないか?あんなに文句言っていた、入院時の荷物運び。(こんなにどっさり自転車のカゴに載せて、私のほうが危険だわ!等々…)いまは、パジャマ や頼まれた口腔ケアブラシ、病院に持って行かれることが、有り難くてしかたない。父、生きています。河津桜が咲いている。何を見ても、お父さんに見せたいな〜と思ってしまう。
2022.03.26

父がICUに入ってから、6日目。父、生きています!窒息22分間で心肺停止、その日のうちに、残念ですが…と言われたけれど、事前に聞いてあった本人希望と家族(主に私)の希望により、延命措置をしてもらい、いまは人工呼吸器で生きている。生かされている。ここ一、二日がヤマですよ、と言われてから、6日生き延びている。有り難い。有り難い。ガランとした介護ベッドに、いつも座っていた椅子。目の前にいないけれど、生きていてくれる。生きていてくれるだけで本当に有り難い。思うだけで、感謝が湧いてくる。お父さん、生きていてくれてありがとう。ありがとう。きょう電話で看護師さんに状態を聞いたら、強心剤の投与をやめて、心臓が動いている。昇圧剤は昨日、4ml/1時間で血圧160→3ml/1時間で血圧90。意識はないけれど、刺激すると、口をもごもごしたり、足が少し動きます、と。「それって、少しはいい方向ということですか⁉︎」奇跡だ。思わぬことに、少しだけ、一時的かもしれないけれど、ストンといったん心が落ち着く。じーさんとか呼んで冷たくしていた鬼ムスメだけど、改心します。元気になって戻ってきて。もう鬼ムスメにはならない。生きていてくれてありがとう。頑張っていてくれてありがとう。感謝と、祈る時間が続く。父がこうなる前日に友だちにもらったラナンキュラス。綺麗に咲いています。父がこうなる前々日に切り詰めたブルースターに、若芽がついている。どうか。どうか。生きるエネルギーを父にも注いでください。
2022.03.19
いつでも襖を開けると、そこに介護ベッドがあって、父がいた。父のいないベッド。ふと、いつもの入院中のような錯覚に陥る。いままでの入院は、命に別状はなく、なので母も私も、介護の手が離れて、かえって伸び伸びしていた。今回は…いま生死のさかいをさまよっている。父のいない場所たちが、その事の重さを教えるかのように、じっと、ずっしり、押し黙って、そこにいる。
2022.03.17
意識不明でICUに入院して4日目。父、生きています。一度は心肺停止となり、心臓マッサージで蘇生した。窒息時間は22分とわかり、脳の低酸素状態で、回復は奇跡が起こらない限りないだろうと最初から言われている。一昨日はそれでも実感に乏しかったのか、一昨日より昨日、昨日よりきょう…と、どんどん怖くなっている。奇跡と言われようと回復を信じているけれど信じているけれどもしかしていなくなっちゃうの?怖い。怖い。後悔ばかり。窒息なんて、そんなことにならないために、私は札幌から東京にやって来て、同居していたのに。私は何のためにここにいたのだ。介護者の母は89歳。土台、いろいろ無理だったのだ。その2日前もバナナを喉につまらせ、かかりつけ病院で内視鏡で取ってもらったという。そこで医師に、「これからは食べ物、ペースト状にして」と言われたそうだ。それなのに、「時間経つと硬くなるからダメだよ」とあれほど言っていた食パンのトーストと、ダメだよと言っていたパンの耳を大きなまま紅茶に浸してあった。詰まっていたのは、ふやけて巨大化したパンの耳…私は当日、在宅勤務で家にいたのに、ちょうど昼休憩時に青色申告相談の予約をしていたものだから、父の顔もロクに見ず、外に飛び出した。税務署は激混みで、提出のために長蛇の列、約45分並んだところで、母からの電話。そこから慌てて自転車で帰り、途中、母に電話して訪看さんに救急車到着までの間、応急処置に来てもらったら!と言ったけれど(代わりに私が訪看さんに電話したけれど)、救急車呼んだのなら、こちらは訪問できないと。それでも…と粘ろうとしたら、自転車の横を救急車が通り、家に同時に到着。そこまでの間、父は22分間窒息していた…。どうして母の電話に、頭を下にして後ろからみぞおちをぐっと押さえて!とか、掃除機!とか応急処置を伝えられなかったのだろう…もしくは普段から、訪看さんに、こうすればよい、という応急処置を、母に伝授しておいてもらわなかったのだろう…母は背中は叩いたらしいが、救急車にもう一度電話したらしいが、あとはなすすべもなく、そこにいた。もっといろいろ後悔はある。後悔しか浮かばない。でも、父はいま、生きている。それだけが私のほんの少しのほんの少しの光。
2022.03.17
父が窒息で心肺停止から、ICUに入って2日目。心臓は薬で動いており、意識不明。きょう聞いたら、「劇的によくなっているということはないですが…」とのこと、悪くなっていないなら、それは本当に有り難い。父本人もよくがんばっている、94歳の心臓、がんばれ…!辛いかもしれず、頑張らせるのもどうなんだろうと思うが、父の若い頃からの座右の銘は"断じて行えば鬼神も之を避く"本人がまだ仕事をやりかけで、延命希望していた限り、本人も頑張ることを希望していると思う。現状では聞くことができず、わからないけれど。それでも。頑張れる道を、こちらから断つことはできない。明日、医師から病状の説明を受ける。家族に、何らかの判断を迫られるのだろうと思っている。入院先は地元の救急病院で、搬入後の一番の医師の説明で言われたこと。「ここには60代のコロナでしにそうな人が現在いる。あなた方とほぼ同時に搬入された80代の男性は、食べ物やはり喉につまらせて、先ほどなくなった。いまコロナ患者も50人みている。いろいろ、ご理解ください」私は、「おたくは94歳なんだから、もうそれなりに」と言われている印象を受けてしまった。もちろん、本人の体力と状態にあわせて「それなりに」というのはわかる。ただ、年齢と体つきだけで判断してほしくない。(もちろんICUの先生だから、経験から先がお見通しなのかもしれないけれど)「私は救急で30年やっているけれど、まず奇跡は起きないですよ」それは、そうだろうと頭ではわかっている。それでも期待してしまうのが、家族であり、おそらく本人。「ここでは、できない」「適用外」という言い方は、他ではできるということ?本人は、まだやりたい仕事があり、延命を望んでいた。そのことは、家族が覆すわけにはいかない。コロナで超多忙のICUであることはわかっているけれど。望みがある限り、私は命をつなげてほしいと思っている。私がやることは、父と寄り添ってきた日々から、父の意図を汲んで、医師にちゃんと伝えること。(父の自筆の、延命希望と記入した紙もある)医療的な判断はお任せするしかないので、こちらとしては、ギリギリまでやってください、としか言えない。ほかにも危ない命があり、それぞれに同じ思いをしている家族がいるのはわかっている。それでもこう思うのはわがままなのだろうか…命をつなげてほしい。生きていてほしい。
2022.03.16

最近、父が可愛くて、結構、写真を撮っていた。いまだによく怒るけどね。入院するとら看護師さんからも、笑顔がいいですね、とよく言われる。かかりつけ医も、受診時に父がニカッと笑うと、「〇〇さんの笑顔を見ると、ほっとしますよ〜」とにこにこ。そんな愛敬あるところ、大好き。(50代にしての告白⁉︎)まだ生きています。生きています。それでもいまだに実感が湧かない。ただ、確実にわかっていること。いなくなったら、本当に寂しい。いてくれるだけで、いい。戻ってきて。お父さん。
2022.03.16

この一、二日がヤマと言われて、その一日がたとうとしている。病院から電話がかかって、明日、病状について医師から話があるという。聞きたいご家族がいたら、同席してください、と。なんらかの判断、決断を迫られるのだろう。ただ、いま現在、容体は劇的によくはなっていないけど…とのこと、悪くもなっていないなら奇跡的に有り難い。それにしても思うこと。私はどうして、鬼ムスメなどと名乗り、たまには鬼ムスメでいないとね!なんて胸を張ってきてしまったのだろう…お父さん、ごめん。いつも優しいムスメでいればよかった。お父さんのことを正そう、変えようなんて。親の生き様を全うさせてあげるのが親孝行、とある方に聞いた。私は、自分が、自分が…ばかり。おまえは押しつけがましい、と父に言われたことがある。正しいかもしれんが、と。何もかもが遅かった。昨日、私がちょうど昼間に家に居られなかったこと。税務署の行列に、時間かかってもいいやと並んでしまったこと。吸入器を自宅にレンタルしようとしていたけれど、父本人が要らん!と言うし、そのうちもう一度父と話してみよう、と悠長に構えすぎていたこと。ある日突然、こうなる。覚悟していたはずなのに。でも何も、かんきょも、気持ちも、整ってはいなかった。信じているけれどね。命は。お父さん、いなくなったら、私、寂しいよ。本当に寂しい。まだもう少し、生きながらえてください。お願い。
2022.03.15
この日は突然やってきた。いつかくるのではと恐れていた。けれど先だと思っていた。目を背けていた。まだまだだと思い込もうとしていた。たまたま私の不在時。母ひとり、父はお昼にパンを食べていて、詰まらせた。窒息。救急車を母が呼ぶも、到着は20分以上後。父本人が、回復の可能性あるなら延命を希望していたことを告げ、延命してもらう。細かく書くのも筆が重く。とにかく心臓が一度とまったけれど、また動き始めた。しかし人工呼吸器つけての呼吸で、意識はなし。ただただこの文章を書けているのは、いま、生きているから。そうでなかったら、とても書けない…。思った以上の動揺。お父さん、ごめん。お父さん、ごめん。きょう忙しくて顔すらよく見てなかったよ…昨夜遅くは、具合悪いのか、介護ベッドの枕元をジィージィーと操作して上げ下げしているので、あーうるさいなぁーと、おもむろに私は席を立ち、自分の部屋へ。昨日、父の大好きなホットケーキを作ろうとしていて(毎週土曜に作ろうと予定していたのに)、私は友だちとの約束に遅れそうだと、ホットケーキ作りをやめた。夜ご飯も、柔らかい野菜もたっぷりな煮物か鍋物を作ろうと思っていて、やめた。なぜ作ってあげなかったのだろう。何もしてない。昨日、どんな会話をしたかも思い出せない。きょうのお父さんの顔は?きょうのお父さんの言葉は???ICUの医師は、まず奇跡は起こらない、と。わかってはいるが、本人が延命を希望していることを伝え、ギリギリまでやってくださいとお願いした。まず難しいでしょう、との言葉。それでも「通常の94歳より体力とエネルギーはあります、何より本人が延命と、つい先日も「まだ死にたくない!」と言っていました」と食い下がる私。面会に行かれず、ただ変化を待つ。いい変化は奇跡という…。こう書きながら、まだどこか実感なく、きっと奇跡が起こるのだとしか思わないようにしている自分。唯一ゆるされたICUでの面会で、父の耳元に口をあて、何度も何度も言葉を伝えた。耳の聞こえない父、骨伝導で伝わるかな…と耳元に口をつけて。お父さん、ありがとう。お疲れさま、耳聞こえないでよく長年頑張ってきたね。お父さんの娘でよかった。私のお父さんなんだから、がんばれ!がんばれ!がんばれ!また大泉行くんでしょ、絶対連れて行くから。本の整理しなきゃでしょ!大阪のおばちゃんにも会いにいこう!(大阪のおばちゃん97歳に電話して耳元に携帯電話を押し当てた)ホットケーキまた作るよ!美味しいもんまた作るよ!蟹食べに金沢行こう!お父さん、がんばれ!がんばれ!また早いよ!まだやりたいこといっぱいあるでしょ!がんばれ!がんばれ!がんばれ!…いま思う。私はなぜ、こんな「鬼ムスメ」などと名乗って、鬼ムスメでいることを自分に許容して、ヘラヘラやってきてしまったのだろう…。自分が元気にいられることを優先させて時には鬼ムスメでいいよね、と自分にも周りにも許可を得ていたかのように。なぜ鬼ムスメなんかでいたのだろう。お父さん、ごめん。お父さん、ごめん。本当に、元気になってここに帰ってきてくれることを信じて待ってるよ。お父さん、ごめん。お父さん、ごめん。がんばれ。がんばれ。がんばれ。
2022.03.15

日曜日。うっすら目覚めつつある頭に、隣室リビングからの音が響く。エホエホエホーーエーッ エーッ エーッ苦しそうにムセる、父の咳。そして、ゼロゼロゼロ…とタン絡みの音。あ…みてあげないといけないなぁ。みてあげないと…頭に浮かぶけれど、身体が動かない。しばらく様子見で、そっとスルー。本当に苦しそうになったら、駆けつけよう…何度か繰り返して、父の咳はおさまった。私も起き上がり、ようやく襖をあけて様子をみる。こんな音と、気がかりで始まる日曜日。起き上がらなかった理由の一つは、私自身が数日前から体調を崩していることも一因。実は木曜日、朝は何ともなく出勤したのに、仕事中、視野の一部が欠け、そのうち目の端にギザギザ光が。あれ?と思っているうちに、気分悪さに、締めつけられるような頭痛に、めまい…すわ脳梗塞か⁉︎な症状に、職場の保健センターのお世話になり、連絡をつけてくれた総合病院を受診、脳のCTとMRI検査を受けてきたのだ。はっきりした脳出血や梗塞は認められないから、緊急性はないとの診断で、まぁ安心はしたのだが、気分悪さとフラつき、頭痛が続いている。また、母が数年前、視野狭窄から始まった脳梗塞を起こしたこともあり、私もこれは脳梗塞⁉︎と過剰に反応してしまったのだけれど、今回は大丈夫でも、本気でいつ本物の脳出血や脳梗塞を起こすか、わからない。だって私だって、言いたくないけれど、ついに50代も半ば‼︎‼︎ まったくもって若くはないのだ。在宅介護は、介護者が健康であってこそ成り立つ。介護者が健康でなくなったら? 突然、倒れたら?そんな事件も耳にする。悲劇という言葉で片づけられない。または、介護によって、介護者の健康を損なうことだってある。今回の私の症状、医師によると、結局脳内の血流異常だったのでは?という話だが、その原因は「ストレスでは? 何かありました?」と医師。思い当たることといえば…火曜と水曜、いつもは母と2人で介護している父を、母の入院のため1人でみたこと。(母は白内障の手術)思ったより大変ではなかった気がしていたけれど、何より仕事と両立させるため精神的にキツかったり、緊張が大きかったり。母が不在中、父をどうするか、決めるまでもケアマネさんと相談を重ね、頭を悩ませた。結局、ふだんメインで介護している母が今回は目の手術のための入院だったが、今後、同じように母が入院したり、ましてや倒れたりしたら? とっくに考え、整えておくべき話。プラス、私も健康でなくなったら?考え、決めておかねばならないことは多い。…この「考えねばならないことの多さ、それを逐一父本人にも説明し、納得してもらおうとする手間」がまた多大なるストレスなのだ。写真は、先日訪れた公園にて、福寿草。小さな花たちが寄り添う感じが、たまらない。気持ちは寄り添いたくても、身体がついていかない、そんな自分のこともストレスだったりする…のよねぇ…。
2022.02.20

きょうはじーさん(父)の話ではなく、母の話。母に何か話をしようとすると、ほんのちょっとの日常会話でも、10分、20分かかる。理解力がない、ということより、「聞く耳を持たない」から。何か言われた(注意された)ことをきっかけに、常日頃心にたまっている不満と人への批判が刺激されるのか、自分の方向に話をもっていき、肝心のこちらの質問やお願いに、返事もしない、というか考えもしない。これがもう、本当に疲れるのだ。毎週、母は、父と母の分の食料の足しに生協で注文しているのだが、まだ9個在庫がある冷凍品を、また注文したりする。私「いまこんなにあるからね、今回は注文してないよね?」母「…。それ、美味しいのよ」私「わかってるけど、こんなにあるから、今回は頼まなくて大丈夫だよね?」母「それ、お父さんだけじゃなくて私(わたくし)も食べますの」私「だとしても2人で4回分あるよね? 毎日食べるわけじゃないよね? もう冷凍庫いっぱいだから今回は頼まないで」母「私のものは冷凍庫のこっち側だけ。あとはあなたの分よね」私「そうだけど、だから、私、新しく冷凍するもの増やしてないよね?」母「(あなたの冷凍庫の肉や魚を)さっさと食べちゃおうよー」私「いまその話でなくて、9個もあるものをさらに頼まないで、と言ってるの。今回、頼んだ?」母「……さぁ? でも、もうキャンセルできないんじゃないかしらー(適当)」今回注文したか?の答えに行き着くまでに5分、10分。(しかも覚えていないので、行き着いていない…)、そこから、注文キャンセルできるか確認する、と言ってくれるまでに5分、10分。その間も、話の途中で母が席をたって自室に行ったり。そのうち私もイライラして「とにかく確認してくださいね!」と言うと、母「おお〜怖い言い方ぁ〜」(大袈裟に怖がる様子)。…きっとその最後の部分だけ、「娘がこんな口調で私に怒るのよ」と、また周囲の人に話すのだろうなぁ…。はたまた一時期、父のベッド横の掃き出し窓が、ほぼ毎晩、カーテンは閉まってるのに窓が5センチほど開いていることが続いた。時期は冬の始まり。私がそのたび閉めていたけれど、「カーテンが閉まっている=窓は閉まっている」と思い込んで、私も見逃すかもしれない、そうすると父は風邪ひいてしまうなぁ、と懸念して、母に私「ここのところ毎晩、カーテン閉まってるのに窓が開いてるけれど、何か、理由あってやってる?」母「え、開いてたぁ?」私「開いてた。しかも何日も」母「少し換気したほうがいいかと思ってぇ」私「それはいいけど、夜、カーテン閉めちゃうと窓も閉まってると思っちゃうから、じゃあ、窓を全部閉めないうちは、カーテン閉めないで」母「……」(無言。というか明らかに無視)私「(繰り返す)母「……」私「え、なんか違う意見あるの?」母「私も老い先短いんで!!私の思うとおりーーーに、さ、せ、て、もらいます!!!」(急に叫ぶ)え、こんなことで? お父さん、風邪ひいちゃうよ?私も見逃しちゃうかもしれないからさぁ。老人なんだから風邪ひいたら命にかかわるよ?と言うと、母「お父さんがそれでしんだら、私が殺したということになるのね!!!」うーん…。もともとの性格がさらに顕著になったというのが、一つ。もう一つは、母は老人性なのか介護のせいなのか、これ、鬱なんじゃないかなとずっと疑っている。人は常に自分を責めている、批判している、なんでも反対すると思っている。だから、言ってもいないことを、勝手に言われた、された、と思い込む。事実よりももっと酷いことを「されている」と思い込んでいるから、傷つく。悪循環。さらに、自分が「された」と思っていることを、病院の医師や看護師、ケアマネさん、自分の友だちにまことしやかに語る。以前、そのことで、私の知らないところで大きな問題?に発展しそうだったのは、私、ここに書いたかな…。そんなこんなで、母とは必要最低限のことでも、やり取りに疲れる。これも結局「口を開けば注意ばかり」みたいに、悪循環を生んでいると思うけれど、自分の主張で頭がいっぱいで聞く耳を持たない人とのやり取りは、本当に疲れるのだ…。しかし、これは鏡。私も同じく。まずは言われた、聞かれたことに応答すること。自分の意見はそのあとで。そして何より、聞く耳をもつこと。介護だけでなく、人としての姿勢に、学びの日々は続きます…。生協の話は結局、らちがあかないので、私がネット登録して、ネットから確認することにした。最初からそうしていればよかった!と反省。こちらでまかなえるものは、さっさとこちらで確認する、やってしまう。これ、やり取りするより、平和的解決への近道かも。写真は、先週の休日、公園にて。蝋梅をはじめ、早春の花たちがきれいでした。
2022.02.13

ようやく、きょうという日を迎えることができました!!!2022年2月1日。父、94歳の誕生日。✨🎂✨ぱちぱちぱち👏✨金沢出身の父の大好物、香箱蟹🦀と本ズワイ蟹🦀と昆布締めのお刺身を半身ずつ三点タラの真子タラの切り身を、能登の市場からお取り寄せ。(親切に対応くださった鹿渡島定置さん、ありがとうございました!)嚥下に問題ありなので、訪問看護師さんからも「蟹…先生、良いって言いました…?」せめておかゆを用意して、一緒に食べてもらう作戦で、家族の責任で食べてもらいます!蟹の甲羅に、ミソと一緒に、ほぐした身を。いつのまにか、手掴みだ!「シャンペンはないのか」と、また言う。(クリスマスのときもそんなおねだり)スパークリングなら私の常備があるけれど、私は少々体調よくなく飲まないつもりだし、開けるのはやめておく。すると、自ら「お正月の日本酒を飲む」。せっかくなので、私が自分の誕生日に友だちにもらった「獺祭」、さしあげました😄実はつい先日、この蟹を取り寄せる話で、父の言うことが上から目線に感じて、鬼ムスメ(私)と父は、ケンカした。怒りおさまらず、「もう取り寄せるのやめた!」とボードに書いた私。「おお、やめろ、やめろ」と父。さらにムカっとした私、「94年間、そんな態度で生きてこられたことがめでたいね!←イヤミ(笑)褒美はやらないのに殿様気分!」と書いてみせた。(ひどい嫌味な鬼ムスメ〜🤣)父は、書かれたボードを、腹立たしげに、サーッと消した。そのあと、父には何も言わず、能登の鹿渡島定置さんに、取り寄せのための相談電話をして、昨日、仕事の昼休みに、再び電話して、注文。きょう午前中に届いた箱を見て、父「蟹か」。ケンカしてお互い言ったことを、忘れたのか、覚えていたのか。とりあえず、無事に、無事に、94歳の誕生日が迎えられました。ほっっ☺️いま煮ている、タラの真子。味見したけど、おいしーい♪ しかし、プチプチが、これは嚥下能力の衰えている父には無理だ…と味見してみて、気づく。煮汁にとろみをつけて、あんかけみたいにして、明日あげてみよう。食べられたら、タラコ大好物の父は、喜んで食べるだろう。父94歳、母89歳。はぁぁぁぁ〜〜(ため息)とりあえず…めでたい。めでたい🤣↓写真は、寝る前の儀式?お相撲のような、ダンスのような? 一見微笑ましく見えるけれど。立ったまま、オムツにおしっこしている図です!これからもずっとずーっと長生きしてね。なんて現実的でないことは言わない。あと少し、あと少し、長生きして、満たされて天寿をまっとうできますように。それがムスメである私の、願いです。
2022.02.01

2022年新年が、明けました。その前日の大晦日。年越し蕎麦など整えた食卓で、父が、年末の挨拶とばかりに改まって言った。「今年も大変お世話になりました。来年もお互い助け合って、どうかよろしくお願いします」父は耳が聞こえないので、それに対して(聞こえないように、冗談半分、いや本気9割8分で)「嫌です」と言った鬼ムスメは、私です👹そして元旦のおみくじが、こちら。和やかな気持ちで親類とつきあう…他人のために尽くす、人の世話をすることで、あなたの願いは叶い幸福になる…とのこと😅 極めつけに、天のみこえには「親」の言葉がはっきりと。「嫌です」と言った私の言葉が神様に聞こえちゃったのか?😅この一年も親のお世話様係は続行するのだろうと覚悟を決めました。しかしこれは親が今年も健在でいてくれるということか、これ有り難きことなり。(と考えることにする)********拙い我がブログを読んでくださっている皆さま、いつもありがとうございます。どのようなお立場の方が読んでくださっているのだろう…と思いながら、どなたかの目に留まり、何らかの思いを持っていただけるであろうことは、私はひとりじゃない、と思えて心強い存在です。今年もよろしくお願いいたします。
2022.01.10

今夜も、明日の薬のセッティングが終わった。今回の退院後、私が1日の薬を管理することに。ここまで前日に私が分けて置き、あとは実際に薬を出して、飲ませるのは母なのだが、母がしっちゃかめっちゃかにすること数回…。「朝」のボックスに入っている袋を出して、父の目の前でそれを溶かして、飲んでもらって、薬の空袋を同じ「朝」のボックスに戻して。…それだけのことが、できない。なぜか空袋が二つ入っていたり(別日の空袋をゴミ箱から拾って入れたとしか思えないのに、母は違うと言い張る)、すでに空袋になって自分でボックスに戻してある薬を「ない、ない」と探し回っていたり。いまは冬休みだからいいけれど、通常出勤に戻ったら大丈夫なのか⁉︎そんな心配が常に頭にあり、思わずいまもまた、ため息。父は、寝ながらよく唸るようになっている。あぁぁぁぁ…まるで息絶えてしまうような音が喉元から。はたまた、寝ながら急にむせて、苦しそうな咳。私はドキッとする。おちおち寝ていられない。「見守り」は介護といえないと思う人もいるかもしれない。いやいや、手を貸さなくとも「見守り」は、何より自分の睡眠にも響き、常に気にして緊張していて、メンタルに来るんですよ…。心休まることがない。仕事が冬休みになってから、親の用事に変わらず関わりっぱなし。きょう午後、訪問診療費を払いに歯医者さんに行き、よーし、あとは年内はお正月準備はしても、自分のことに使おう!それを親にも宣言するんだ!と思いつつ、やはり家のあれこれーー切れてしまった蛍光灯2箇所の、蛍光灯買ってきての付け替えやら…やっぱり窓ガラス磨きやら…刻み食と医師より指示されながらも、お正月料理食べたいという父に、やはりあれこれ買い揃えたりやら…そして、父が思いついたように「頼みたいんだがー」。「もう私は何もできない」と逃げ回る母と、本当に何もできない父(実際の手は出せない、の意)。2人分が、重い…。重い…。たまに、たまに、こんな夜。すごくすごーく泣きたくなる。
2021.12.30

Xmas。今年も無事に、チキンを3本、焼くことができました。父に、3本のうち「どれ食べる?」と聞くと、一番大きなチキンレッグを指差す。😆このままでは食べられないので、チキンはあっという間に無残な姿に。それでも、好物の Xmasチキン、今年も食べられてよかったね。そうボードに書いて見せると、「うん」と頷いた。ナイフで切って小分けにする間、(あぁ私のチキンがさめる〜)とつい思っていたら、「すまんな」と父。はいはい、いいですよ。父93歳。母88歳。今年も人数分、チキンを焼けたのは、なんと幸せなことか。ーー何があっても、最後はいつも、この気持ち。こうしていられることは、幸せなのだ。幸せなのだ。自分に言い含めていることもあるけれど。ホントのことだとしみじみ思う。きょうの鬼ムスメは、ちょっぴり素直だったりする🤣さっきは、チキンを切る横から手を出して、父、大きな一切れを口に入れて、喉に詰まりかけ、慌てた…。「少しずつ口に入れて、よくかんで、少しずつ飲みこんで!」そう書いて見せて、目の前で「見守る」。はぁぁ。今年はこんな Xmas。…はい、幸せです。↓ 私は明日は友だち家でささやかな Xmasパーティなので、きょうは飲まないでおこうと思ったら、父が「シャンパンないのか」と…😅 シャンパンないけど、買い置きのスパークリングを開けました。介護ケアラーの皆さまも、介護されているおじいちゃん、おばあちゃんも。皆さま、Merry Xmas✨
2021.12.24

昨夜。今週も一週間、終わったぁ〜✨と、(在宅勤務ながらいろいろ片付けて)夜10時から、遅い夜ご飯を食べながら、ドラマの最終回を観る。あぁ、至福のとき✨…と思いきや。ちょうど父が寝る前の準備を始め、介護ベッドの頭を上げる。TVが、み、見えない…😭(赤いのがTV画面)(介護状態になる前から、父のベッドはリビングのこの一等地?に置いてあり、そもそもそれが問題だったのだが…。父母2人で住んでいたので、私も、2人がいいなら…と口出しせず。この件はまた改めて。)しかたないので、ダイニングチェアから立ち上がり、背をぐーっと伸ばして、お行儀悪いけれど、ご飯もぐもぐしながら、立ちながらTVを観る。ドラマ最終回だから、早く観たいの…。そのあと、ほろ酔いで、自分の部屋でまったり、うとうと座椅子で眠りかけ。(よろしくないことだけど、この座椅子でちょっとうたた寝、も至福のとき✨)しばらくすると…おぉ〜〜いおぉ〜〜い〇〇(私の名前)に頼みたい〜〜〇〇(私の名前)に頼みたい〜〜…うとうと気持ちよくうたた寝中、意識が(あ、じーさんが呼んでる)と気づいても、軽く無視…そんなに切羽詰まった声でもないので、しばし様子見(というか、うたた寝から起きたくない)。おぉ〜〜いおぉ〜〜い〇〇(私の名前)〜〜〇〇(私の名前)〜〜…10分くらい放ったらかしたでしょうか😅起き上がって様子を見に行くと。一人で頑張ってトイレに行ったものの、オムツが上げられず、この状態でベッドまで戻ってきて、私を呼んでいた。(いま考えると、この状態ですりすり歩いて来るって、転倒の危険大…危なかった…)トイレでトントントントンといつも父は母を呼ぶのだけれど、母も寝ていたか(私のように放っていたか?)、反応がなかったのだろう。いま考えると、じーさんがかわいそうになるけれど、昨夜、この現場を見た私がしたことというと…(もちろんオムツもパジャマも引き上げて、整えたあとにね)「そんなこともできないなら、オムツにおしっこして!」とボードに書いたのだ👹👹👹先週までの入院中、やはりおしっこも大までも、全部オムツにして(させて)いたというのも頭にあった。退院後は、新たに「訪問看護」を週2回お願いして、排便コントロールをして、特に大のオムツ交換の手間をなくす、という話し合いがなされた。だけど…これは1年ほどまえの入院中、本人はトイレに行って大小したいのに、病院側から無理ですと言われ、揉めたことがあった。病院側は、父くらいの状態でトイレまで連れて行くのは危険が伴い、かつ人手もない、とのことで、父に諦めてもらった。そのときは、オムツにおしっこするって、嫌なんだろうな。プライドも傷つくんだろうな。申し訳ないな。家だったら、何とかやってあげられるのに。そんなふうに心を痛めた私。きょうは、小さなイライラがたまって、目の前のお尻丸出し姿に、かわいそうと思うどころか、ムカッときた👹👹👹93歳父、年相応にボケてはきたが、まだ頭はちゃんとしている。その父に投げつけた言葉。頭はっきりしていながら、オムツにおしっこする気持ち。なってみないとわからないのだろうな。ごめん、じーさん…。
2021.12.18

11月初旬から入院していた父が、昨日、退院した。今朝。何やらワサワサした雰囲気で目が覚める。戸を開けてリビング(いまや父の介護場)に入ると、お尻丸出しの父がベッドから足を垂らしてずり落ち、母が脇で「うんちがついてるー」「もう支えられないー」と騒いでいる。母が朝みたら、父がオムツもパジャマ のズボンも全部脱いで、布団も剥いで、お尻丸出しでいたらしい。オムツと布団のシートに、うんち&おしっこがついているので、とにかく父をベッドから立たそうとして、うまくいかず、父が床に滑り落ち中のところだった。(大変なことになる前に私を呼んで、といつも言ってるのに、母は適当に手を出して、こうやってかえって困った事態にするのだが、その愚痴?はまた改めて…)父の背後がベッドのため後ろ側に入り込めず、すったもんだの末、何とか父の向きを変えて、後ろ側に私が入り込み、とにかく履かせたオムツの後ろを引っ張って、父のお尻の下に、私の膝を潜り込ませる。父に、手すりなどに掴まってもらい、私が膝で父のお尻をグーーーッと持ち上げて…はぁ、今回も何とか椅子に座らせることができた。これを行う前には、私自身が腰ベルト装着。それでも本日、私は腰と、肩(背中?)を痛めた模様…。(私はもともと整形的に身体に故障あり、整形リハビリや鍼治療に通っているのだ)そのあと、うなだれて「もうダメだ」ポーズの母が鬱陶しいので(出た、鬼ムスメ発言)、代わりに私が、父の朝ごはんの支度と、汚れたシーツやシートの下洗い。あぁ、なんと素敵な目覚め、何と素敵な日曜日の朝…✨ (自虐です)まだ飲まず食わずの私たちを横目に、父は呑気にご飯を食べ始める。退院祝いにと昨日作った好物の白子のお味噌汁をすする父。父「うまい」かくして、また在宅介護の日々が始まった…。朝ごはん。これと白子のお味噌汁、あとでコーヒーとヨーグルト。「一口大」ももうダメで、「刻み食」「ご飯はお粥」と言われている。柔らかく煮てあるものは刻みまでしていないけれど、様子見ながら。
2021.12.12

(あんまり美しい写真じゃないけれど) 父の「見守り」がてら、午前中に、夜ご飯の仕込み。 両親には、おでん(もどき)。 自分には、豚肉とブロッコリーのアンチョビにんにく炒め(という調味料をいただいたので!)。 豚肉とブロッコリーも、思いのほか柔らかくなったので、これも親にもあげられるかな。 老老介護の母はもう手作りは、ほぼできない。 生協の冷凍惣菜か、私が見かねて買ってくるスーパーの惣菜や、私が自分用に作ったもののお裾分け。(同居だけれど、食費、日用品などはまったくの別生計、ご飯も私は、親に作ることはあっても、親に作ってもらうことはない) そういうわけで手作り料理を父はことのほか喜ぶので、早く楽しみにしてもらおうと、 「きょうの夜ご飯に、おでん(もどき)作った」とボードに書いて、見せた。 すると、 父「忙しいところ、ありがとう」 …あぁ、こういうところが、父には何かをしたくなる、根拠の一つでもあるんだな。 比べるようで何だけれど、一方、母は、私が何かしようとしていると 「あー、そんなことしないでいい、しないでいい!私がやるから!」(鬼ムスメの心の声→母がやれていないから、私がやってるんだけど) 「しなくていいから!あんたのほうが腰も悪いんだから」(鬼ムスメの心の声→もうやり始めている、またはやり終わったあとに言われても、やったことを否定される気持ちになるだけなんだよ…がっくり) そう、母は「ありがとう」と「お願いします」が、言えない人…。 2人の様子をみていて、私は、自分が老人になったときの心得?を学んでいる、と思う。 老人になって、人にお世話をしてもらうようになったら必要なこと。 「ありがとう」 「お願いします」 この二つが素直に言えること。 そして、「愛嬌」かなぁ。 素直で可愛い老人になろう。…あ、老人にならなくても、いまでも目指せばいいのか(笑)!
2021.10.16

フルタイム勤務の私が土日になると、 手ぐすね引いたように、親が2人とも、何かを頼みたくて様子を伺っているのを感じる。 今朝。 「お願いしていいか」と父。 銀行を二つ回り、振り込み手続き等々。 まぁ、大した手間でもない。 「もう一つ、お願いしたいことがあるんだ」 …また何⁉︎ とちょっとイラつく。 いま、いろいろ調整が必要な課題が持ち上がっていて、そのことか?と思うと、面倒な気持ちがむくむくと湧き上がり… 「お願いばっかりしてるよね」←(心の声) そんな心ない言葉を投げかけたくなった。 (父は耳が聞こえないので)ボードに書いてまでは…と思いとどまって、言わなかったけれど。 結局、「お願い」というのは、新聞の、読みたいページだけ破ってくれないか、ということだった。 (父は、新聞の、土曜に特集する読書欄をこよなく愛している) なんだ、それだけのこと… そっか、それだけのことも、人に頼まなくてはならないんだな… お願いしなくてはできないということ、 お願いする立場のほうが、きっと歯痒く、辛い。 私はまた、心ない言葉を投げつけるところだったよ…。 ↑ 大昔から大好きな書評と読書欄を読む父の顔は、緩んでいる。本当に、本が好きなのだ。 93歳、いまだに活字をたくさん読めて理解できる(たぶん)のはすごいなぁ。 私自身に、心と時間に余裕がないと、 心ない言葉をなげかけてしまいそうになる。 一人で外に出て楽しいことをしていると、いつも心のどこかで、私だけ悪いなぁ、とチクリと引っかかっている。 けれどきょうも、少しでも息抜きに外に出よう。(ごめんね、じーさん! いまは母が息抜き、自分の体操教室に行ってるので、私は父を「見守り」中) 写真は、先週訪れたコスモス「レモンブライト」の丘。たっぷりの息抜き、しょっちゅうしてます(笑)。
2021.10.16

美味しい串団子2種類を買ったので、 「どっちがいい?」と、父(93歳)に聞いた。 みたらし団子と、ずんだあん団子。 最初は、みたらし団子を指さした父。 思い直したように、 「半分ずつ貰えんか?」 たしかに!その手があったか! かくして1串に4つのお団子は、2つずつにして、2種類をあげました。 こんなことで感心するのも何だけど。 まだまだ親の脳みそには敵いそうもないわ。 この写真は、親のももひきから透けて見える、オムツの文字(後ろM)。 食事中のこぼした食べ物のシミと、薬の黒いシミがとれない下着(上)に、オムツが透けてゴムもよれよれの、ももひきで一日を過ごす。 おしゃれだった父を思うと切ないけれど、本人は意外と、どうでもよくなっているのかなぁ? かと思いきや、先日の入院中は、パジャマの上下がバラバラなのが気に入らず、「揃ったものを着させてくれ!」と看護師さんにごねたらしい。 ちょうど洗濯物が乾いておらず、上下セットで届けられなかったのだけれど、「困りました…」と看護師さんから直々に訴えが。 たしかに上下バラバラのパジャマ、気分よくないだろうけれど、無いなら無いで、ごねるような父ではないはずなんだけど。 本人なりの、受け入れる・受け入れないポイントがあるのかな。
2021.09.20

93歳の父ですが、ワクチン2回接種も無事に終え、食欲げっそりなくして急に弱った盛夏も超え、なんとかやっています。 ↑寝る前の手の運動 ↑ いつも座っている椅子から立ち上がるときは、 ベッドの手すりを「孫の手」で引き寄せ、 ↑掴まって、満身の力をこめて立ち上がる。 腕の力がないと、これ無理だなぁ〜と、私は自分の来るべき日の参考にする。 ↑最近、がんばって、本の整理をする父。 父の作業のために、書斎やら廊下の本棚から段ボールに本を入れて、父の前まで運んでくる私たち(母と私)も、それはそれで大変だけど(腰の悪い私は、腰ベルト着用にて、運ぶ)。 仕事で活字にかかわってきた父にとって、本はいのち。 ときにそのことに反発心を覚えたこともあるけれど(特に男兄弟たち)、本には父の人生が詰まっていて、やはりいのちなんだなぁと、思う。 「自分で整理しないと、価値のわからない母と私は処分しちゃうよ!それ不本意なんじゃないの⁉︎」 と鬼ムスメも母も叱咤すること、早何年。 ようやく最近、父本人が重い腰をあげて、本の整理をがんばって進めている。 「このまま置いていかれたら私が大変なんだよぉ!!!」と騒いでいたものの、 いざ父が整理を始めたら始めたで、 きゅんと胸が… 終活する親の姿を見るのは、やはり切ない。 ***** ずいぶん久しぶりの投稿になってしまった! ワクチン接種にあたってのひと騒動を記録しておくはずが、しっかり書き残そうと思うとかなりな長文になり、整理する前に自分が疲れるという…。 その話はまたの投稿として、きょうは日々の姿を投稿しました。
2021.09.04
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