だっこちてチュッ
2026
2025
2024
2023
2022
2021
2020
2019
2018
2017
2016
2015
2014
2013
2012
2011
2010
2009
2008
2007
2006
2005
2004
2003
2002
2001
1月
2月
3月
4月
5月
6月
7月
8月
9月
10月
11月
12月
全1件 (1件中 1-1件目)
1
★おじいちゃんが倒れて丸1ケ月 先月23日に光太の大好きなおじいちゃん、私の父が倒れて救急車で運ばれた。原因は急性心筋梗塞。その時の医者が言うには発作は二度目らしく重症なので家族の者には知らせるようにとのこと。母もその医者の言葉に「先生、冗談でしょう?」と言ったという程突然で誰もが信じられないことだった。 父は倒れる直前まで毎朝早くからバイクで畑に行き土を耕しては汗を流し、午後は囲碁をしてと好きな事を好きなようにして老後の生活を楽しんでいた。気になるクセといえばタバコ。以前10年以上前に一度肺炎になりいったんはやめたものの、それからまたしばらくして吸い始めていた。いくら周りが言っても「この年になってあれダメこれダメと言うな。好きに生きたい。」と言っていた父だったが、今回倒れた原因の心筋梗塞にはタバコが一番いけないのだとか・・・やっぱりタバコは百害あって一利なしだ。 私が母からの電話を受けて家族3人新幹線に乗りかけつけたところ、検査を受けた後でとりあえず大きな山は越えたところだった。到着も夜中になったので、父に会えたのは翌日の午後面会時間を待ってのことだった。 父は集中治療室にいっぱいの管につながれて横たわっていた。数日前まで私が電話した時、元気そうに話していたのがウソのようだった。 集中治療室には10歳未満の子供は入れないということでじいちゃんのことが大好きな光太は残念ながら入室できなかった。 私たち二人が入ると遠方から来ていることに遠慮したのか「ありがとう、ありがとうね・・・」と涙を浮かべて声を詰まらせていた。自分自身倒れて気がつけばこんなところに運ばれてこんな状態に寝かせられているのにはかなりショックだったのだろう。私もあんなに元気だった父がこんな風に突然いっぱいいっぱい管をつながれてベッドにいるのが信じられず心が痛んだ。 倒れてから色々と検査の運びになる時に医者が母に「家族の者をよんでください」と言っていたのが父の耳には聞こえたらしく、その時自分はもうダメなのかと思ったようで何度もその時のことを思っては後々も「もう死に対する抵抗はない・・・」と言っては嗚咽していた。そんな泣いている父を見るのは辛かった。 倒れてから数日間は色々なことを医者からおどされながらも(いつガタガタと悪くなって命の危険がやってきてもおかしくない状況である等)なんとかやってきた。 倒れた時母が父の眼の前にいたこと、最初は気持ちが悪いなどと言っていたので食当たりかななどとのんきなことを言っていたのに、かなりの冷や汗をかいたりしておかしいので救急車を呼んだことなども後から思えば幸いした。この発作の時が一分一秒を争う時期でこの時もし誰も周りにいなければたぶん父は命を落としていたことだろう。 病院に運びこまれた時も普通なら病院に運び込まれるまでに亡くなっていたパターンだと言われたほど。まさに九死に一生を得たといった状態だった。一番重要な箇所の心臓の血管が詰まっていて三分の二はダメージを受けて残り三分の一だけが機能している状態だった。 その後、何度もドキドキするようなことを医者からも言われ続けてきたが、ある日経過も良いので集中治療室の中でも日の見える明るい場所に移った時があった。私も母も姉もみんなが気持ちが明るくなっていた。このまま何事もないように祈っていた。あの時までは・・・ 倒れて10日目の朝、翌日には私も父の状態が安定しているので家に戻ろうと思っていた。せっかくここまで来たのだから光太に奈良の鹿でも見せて、大仏さんでも拝んでこようかと思い母と3人で朝から出かけた。その日は天気も良くてとても気持ちの良い半日を過ごした。 その帰り父の病院へ寄り、鹿に追いかけられて私が鹿と正面衝突した話に大笑いしたり、光太の鹿にびびる姿を見せては笑ったり和やかな時間だった。「お父さんも調子よくなってきてよかったね。ぼちぼちリハビリがんばってね。」というようなことを言って別れた。別れ際にはやっぱり涙が出てしまったけれどあれだけ重症で運び込まれた父にしてはその後何事もなくここまでこれてよかったと本当に神様に感謝していた。 それがその日の夜中に病院から電話がなった。今でも忘れられないけれど、寝て2時間ぐらいたっていたので深い眠りから少し経った頃遠くで電話のコールが聞こえた。「あれ?こんな夜に・・・」と胸騒ぎがしてすぐかけつけたけれどそのままならなかったので間違いかなと思いながらもそのままなんだか悪い予感がしてそこにいたらしばらくして私の携帯に電話がなり父が危篤なのですぐ病院に来るように言われた。そこからはもう震えがとまらなくなり母を起こして動転しながら病院にかけつけ、また眠れぬ朝を病院で迎えることになった。 本当に予想もしない急変だった。医者も何が起こったのか最初わからなかったようで検査の結果、前と同じ箇所の血管がまた詰まり、心臓の中の筋肉がちぎれたことで弁がダメになり血液が逆流を起こし、肺の方へ流れてしまっているのだと説明を受けた。かくなる上は冠動脈バイパス手術を受けるしかないのだけれど、それもこういう発作を起こした直後は無理でしばらく様子を見てからということになった。 そこから手術の日が決まるまでがかなり父の状態も厳しい日が続いた。ずっと麻酔で眠らされた状態で人工呼吸器もつけて最後には人工透析もつけていた。一番恐れていた合併症の肺炎にもなってしまっていて手術をする日が一度は決まったものの、状況があまりにも悪すぎるということで延期になり、そうは言って待っていたところで状態はよくならないので10月9日手術という運びになった。成功率は五分五分。まさに命がけの手術となった。 私たちは祈るしかなかった。10月5日に千羽鶴を折ることを思いついて色紙を買いに行き、家族以外にも近所の人の助けも借りて手術前日の夜10時に折りあがった。私も母も毎日明けても暮れてもヒマさえあれば祈りながらせっせせっせと涙しながら手を動かして折った。 手術日、父は眠ったままの状態で手術室に運び込まれていったけれどその直前に声をかけて千羽鶴ももちあげながらひたすら控え室で祈るばかりだった。14時からスタートして21時半。7時間半かかった。心臓の手術としては最短の時間らしい。父は冠動脈バイパスに加えて人工弁をいれるのもしていた。祈りは通じた。父の命は助かった。 父が入院している病院は心臓病の名医として名が通っている教授がいらっしゃる病院だったのも幸いした。本当に父はラッキーだ。ただ、手術しても重症な状態であることには変わりはなく今日手術から2週間たったけれどまだ人工呼吸器がはずせない。ちょうど術後2週間目に人工呼吸器をはずしてみたのだが、やっぱり痰もとれないのでまたつけられたらしい。はずしてもらった後は父も喜んでかすれ声だが、母と姉と私の名前を母にむかって思いっきり言って喜んでいたのだという。 喜びもつかの間またつけられたというのだからその時の落胆を思うと胸が痛い。ただ、今はずすとまだ心不全もあるのでやっと治りかけている肺炎にまたなってしまう恐れがあるのだとか。 まだまだ予断ならない状況ではあり、人工呼吸器をつけているので会話も出来ず母や姉とは文字盤を通してのコミュニケーションになるのでかなりストレスがたまっているようだ。「死にたい」とか「家に帰りたい」「管をはずしてくれ」など母に訴えているようだ。私も光太の運動会がこの週末にあり父のことが気になりつつも一度戻ってきていたが又運動会が終われば父に会いに行くつもりでいる。ちょうどパパのお母さんがこちらに来てくれる予定があったので光太のことを頼んでいける。ありがたいことだ。パパがいても日中は私がいないと一人にしておくわけにはいかない。園までの送迎やお弁当作りまだまだ一人では生活できない。 光太も父が倒れて3週間ほど私の実家にいて園も休んでいたのだが、彼なりに空気を読んで我慢するところはしっかり我慢できていた。園の友達にも会いたかっただろうし、習っているサッカーにも行きたかったことだろう。それでもぐずることなく毎晩父のことを思っては泣いてばかりいる私を枕元で励まし続けてくれた。面会に入れないので、おじいちゃんには何度も何度も励ましのお手紙を書いてくれていた。 面会の間は色々な人にお世話になりながら必死で光太なりにがんばってくれたなぁと思う。唯一、光太の友達が実家の近くにいてくれて時々一緒に遊んでくれたのが幸いだった。やっぱり同世代と遊んでいる時が一番生き生きしていて楽しそうだった。 そんな光太も今は風邪をひいてダウン。久々の園での運動会の予行演習、サッカーその後の遊びと、遊び出したら園の先生もとめられないというほど思いっきり遊びまくる彼はかなりの疲れが出たようだ。 今週末の運動会までには元気になってほしい。そしてその元気な姿をビデオに収めて、おじいちゃんに見せてあげたいと思っている。生きていく気力を少し失いかけている父に、もう一度いきいきとからだを動かしてとびはねている子供のパワーから元気を得て欲しい。大人たちがただひたすらうなだれるしかないような重たい空気の中、光太の無邪気な笑顔と元気な姿には必ずおじいちゃんにとってプラスの効果があると思う。園生活最後の運動会がんばれ、光太!そして、がんばれ!おじいちゃん!!
October 23, 2008
コメント(0)