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★初ねんざ&インフルエンザ この月曜日初めて光太はインフルエンザにかかった。日曜の夜発熱したので、この時期光太のクラスでもインフルエンザがはやっているようだったので病院に連れていった。 私も体調が悪かったので一緒に検査。最初に検査のために部屋に入った光太が涙目で私を待っていた。何をされるのやら・・・と思っていると「さぁさぁ、お母さんも。ちょっと我慢してくださいね。」「●×▲○×●!!!!」いきなり長い綿棒を鼻の穴の奥の方にさしこまれたものだから、たまらない。反射的に手で綿棒をどけようとすると、看護師さんに注意されて、「おかあさん、両手はひざに!」光太もじっとこちらを見ていた。同じ痛い目にあった者同士しかわからない。『痛いね・・・』と目で訴える。 一瞬の我慢が恐ろしいほど長く痛く感じた。光太もこの検査は「注射をする方がまだまし」と言うほど嫌がっていたけれど、やってみてよくわかる。 光太の方はすぐ陽性だと出たのだけれど、嫌がって体が逃げてしまっていた私はあまり鼻水が綿棒についてなかったようで、検査に時間がかかった。結果陰性。あんな痛い思いをしたのに~~~ 光太は二回のインフルエンザの注射をしていたにも関わらずかかったのだから、注射の意味もわからないものだ。でも、陽性の結果が出てリレンザという薬を出してもらったら1日飲んだだけですぐ熱も下がって元気になった。新聞でタミフルに耐性のあるインフルエンザ菌が多いと書いてあったのでタミフルはやめておいた。 光太は月曜に熱が出て火曜日の朝にはもう平熱にさがっていたからかかったといっても軽症ですんだ。これが注射の意味なのか? 悲惨なのは私だった。もともと冬休みに実家に帰って風邪ひいて以来咳が少し出ていた。こちらに戻ってきてからはもう治ったと思っていたのだが、今回光太のインフルエンザをきっかけに別の風邪でももらったのか月、火と微熱が続いていたが、水曜にカーンと発熱。喉が痛くてつばも飲み込むのも辛い。もちろんしゃべるのもきつい。咳もゲホゲホ。 光太はすっかり元気になっているので、私が寝込んでいても「おなかが空いた!」と言って寝床に飛び込んでくる。よろよろと立ち上がって光太には簡単な朝食を用意し私は喉が痛いので食べられなくて、みかんを一口食べてみた。それが大失敗!しばらくしゃべれないぐらいの喉の奥の痛みでうずくまってしまった。あぁ、喉が痛い時は酸味がダメだというのはこの時つくづく感じた。 よく光太が喉を腫らすので、りんごのすりおろしを作ってやっていたことを思い出し自分にすりすりして食べてみるとこれが美味しい。「りんごは医者いらず」とはよく言ったものだ。喉の痛みもこれなら耐えうる。 その後、薬を飲んでは寝込む。月曜からずっとこの状態で寝込んでいるのに喉の痛みは全くとれない。それどころかどんどん痛くなる。水曜は痛みに耐えきれずもう一度病院に行きたかったけれど、雨も降っていたし寒かったので我慢する。翌朝光太が治ったのか確認してもらうついでに私も診てもらうと、「じゃ、喉のお薬を追加で出しておきましょう。」と言われた。飲む薬の数は最初出たのとあわせて10個。いくらなんでも多すぎる! 処方箋を見てだぶっている効果のもの「熱や炎症を抑える」をカットして4コに減らす。 光太は金曜からやっと登園。一時は担任の先生までインフルエンザにかかり休んだ子は11人、クラスの大半がかかっているのだから後は時間の問題と判断されたのか、二日間の学級閉鎖になった。金曜はお休みが1人だけと聞いたからようやく終息したのか。 そういえば、インフルエンザにかかったのも初めてならば光太は始業式早々初めてねんざを経験していた。特に激しい動きをした記憶はないようだが、右足首が痛いというので最初は近所のママに「成長痛じゃない?」と言われてそんなものかなと思い病院に行くのをためらったけれど、その日サッカーもして帰りの車の中で「ママ、やっぱりまだ痛いー!」と言うので整形外科に連れていった。 結果、ねんざしていた。光太が思い出すところによると一人でくじいたようだ。そうとは知らず、サッカーまでしてしまっていた。お医者さんにはしばらくサッカーはやめておくように言われ、足をぐるぐる巻きにテーピングしてもらう。光太はしばらく目が点になって、自分の足がぐるぐる巻きになるのをされるがままにじっと見ていた。 その日から風呂は禁止。炎症を起こしている時に風呂に入ると炎症が広がるらしい。なのでシャワー。この寒いのに風呂であったまれないのだからかわいそうだった。浴室暖房で部屋をあっためておいてささっと洗う。 当初は1週間ぐらいで治るだろうと言われていたけれど結局2週間かかった。その間サッカーも休みおとなしく園での生活となった。ねんざが治りかけてすぐにインフルエンザになったのでこの1月はケガと病気の月だった。私も去年光太がプール熱にかかってそれをもらった時数日間寝込んだが、その時以来の寝込みとなった。元気なことが何よりだ。 入院中の父も看護師さんからインフルエンザをうつされて、せっかく集団部屋に移ったと聞いたのにすぐまた隔離部屋に移されたと母から聞き心配していたが、すぐ処置されたため熱はさがったようだ。この時期予防に勝る薬はないけれど、父のように入院している人にとっては、看護師さんや面会する人からもらってしまうというありがたくない結果になるのも怖い。 早く寒い冬が去ってほしい。新聞の今年の2~4月の予報によると割と温かい日が多いとあったのでそれに期待したい。
January 25, 2009
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★おじいちゃんとの再会 ついに光太がこの冬休みおじいちゃんに会えた。私と光太だけ冬休み始まって早々に新幹線で帰省していた。目的は一般病棟に移ったおじいちゃんに会うこと。 本当は、光太の年齢では一般病棟とはいえまだ感染の危険があるので入室は禁止だった。そのことを光太は聞いて今まで一般病棟に移れば会えると説得していただけにとても不服そうだった。帰省して早々は私だけが会いにいったのだが、数日たって一目ぐらい会わせて待合室で待っているのなら・・・と会わせることになった。おじいちゃんは久しぶりに光太に会えて目を丸くして喜んでいた。 光太も自分の家に6月に遊びに来てくれて以来の再会になるので、嬉しかったようだ。ただ、まだおじいちゃんはおしゃべりできない状態なので、文字盤を使ったり、筆談になったり。それでも一生懸命おじいちゃんの言わんとしていることを読みとり、コミュニケーションをはかっていた。 一般病棟に移れたのは12月13日だった。予想外に早く移れたので家族みんな喜んだ。でも、まだまだ痰が多くて数分おきに吸引し ないと痰がからんで呼吸が苦しそうになる。太い青い管がおじいちゃんの喉に通っている。でも、集中治療室にいた時ほど無数の管ではつながれていないし、しかも一般病棟は広い部屋で隣が空いていたので実質個室だった。 何より、集中治療室だと何もすることができず、持ち込みも禁止だったけれど、ここではテレビもあるし、本なども持って入れた。私はこのために、父の好きそうな囲碁の本や歴史ものの本など買い込んで持っていった。 もう少し一般病棟に早く移れたら見たがっていた日本シリーズも見れたのだけど。面会時間も集中治療室だと10分だったけれど(とはいえ、割と長くいたけど)この部屋だと制限はない。父も面会時間が一番待ち遠しいらしい。 父との筆談で感じたことは、病院の看護師さんの対応は人によって様々なんだなということ。父が一番気に入っている人は、後で知ったことらしいが、一般病棟でのリーダーとなる人。偶然、私と同じ姓で出身もパパの父母の故郷となるので、何かの縁だなぁと感じた。父も昔商社マンとしてあっちこっちへ飛び回っていた頃はその土地にもよく訪れていたので話が盛り上がった。 その看護師さんとしゃべっていて感じたのはすごく相手の身になった対応をしてくれるということ。他の看護師さんと比べるのも悪いけれど、やっぱり通り一遍の事務的に処理する人とは格段の違いがある。父も「この方は、本当に私の気持ちをわかってくれてます。」といつも感激していた。 以前、集中治療室にいたときはそれこそもっと看護師さんたちはバタバタしていて父に対してすごく失礼な対応をしていた人もいて特に私と姉は心を痛めていた。人間に対してあんな言い方はないだろう・・と。でも、毎日毎日しかも、徹夜もあるだろうし、無数の大変な患者さんたちと接していると、相手の抱えている苦しさや辛さにも慣れっこになってしまうのかもしれない。 それは医者に対しても感じたときがあった。何もそんなことを父の眼前で言わなくてもいいのに・・・というような残酷な事実を平然と言ったり、その時はさすがに心が痛み悲しかった。それを体を動かせずただ聞くしかない父はどれほど辛かったであろうか。 どれだけ医療が進んでも、患者に接するのは人間。そして患者も人間なのだ。そこを偉いお医者さんも忘れないでほしい。新聞で読んだり、あるドラマを見て思ったことは『寄り添う医療、支える医療』が今、本当に必要とされているのだと思う。 患者の心に寄り添い、支え、励まし続けることが何より病に伏し絶望の中で生きている患者にとって光になることだろう。 高齢化社会になり、ますます病院に運ばれる人も多くなる。医者の数や看護師の数は逆に減っていると聞く。こういう一番人手が必要な救急や、産科、小児科といった日夜を問わず働かなければいけないところほど大変さもありなり手が少ないのだとか。今、どこでもお産をする病院が少ないことが問題になってきている。よく救急車でたらい回しにされ命を失ったということも聞く。 たまたま、父は運良く救急車で早く運ばれたために一命をとりとめた。その後、何度も命の危険を乗り越えて今がある。よく言われることだけれど、自分で生きているようであって自分の命というのは生かされているのだろう。若い時や、元気な時は命の有難さなんて考えたりもしない。 でも、こうやって家族に何かあったりすると、命の大事さ、一日一日の尊さを感じるとともに、一人が倒れることの影響力の大きさを感じる。人は一人では生きていない。誰かと誰かが支えあってつながりあって生きている。だからこそ、父が倒れた今、母は毎日お見舞いに通い今までのようにランチやお茶やと自由きままに生きてきた生活も一変した。 私も結婚して独立しているとはいえ、実家の大変さをほっておくわけにはいかない。あれこれと母を支えるために実家にも通うことも多かった。人は親に育てられ、その親も年をとるとその育てた子供に面倒をみてもらわねばならない時が来るのだなと思う。 父や母は子供達(私たち姉妹)にはなるべく迷惑をかけないように生きていこうと、こうなる前から二人で言い合っていたらしい。特に女の子をもつ親の宿命とでも言うべきか嫁いだら娘とはいえ頼るべきではない、という気持ちがあるようだ。 でも、私は嫁にいったとはいえ、家族として大事に育てられた恩や絆は切れるものではないと思う。こういうことがきっかけで父の親族と久しぶに再会したり、元家族(父や母姉と私)で病室水入らずしゃべることもあった。こういう再会は普段何もなければありえないことだろう。 嫁いだら会う時といえば、家族総出でお盆やお正月。賑やかにワイワイ会うのが常なのだから。だからよく言えば、父の病気のおかげでなかなか会えなかった姉ともしゃべる機会がもててよかったのだ。家族のありがたさを感じるのはこういう何かがあった時、特に痛感する。 今願うことはただ一つ、当初の予定通り、この春無事退院できて、その後何事もなく平和な日々が来ること。とっておきの春が来ますように!
January 11, 2009
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