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★6歳バースデー~命の尊さ 光太もこの23日で6歳になった。数日前から自分の誕生日を待ちきれないようで「もう待ちきれない!!」と当日を迎えるまでずっと楽しみにしていたほどだ。 これだけ自分の誕生日を待ちわびるのも若い(というか幼い)証拠。私ぐらいになると誕生日は出来ればゆっくり来てほしい。でも実際は、あっという間に1年が過ぎ去りまた年をとることになる・・・光太は私の実年齢は知っているけれど、ある時から私はやっぱり光太の前で「ママは実は26歳なのよ!」宣言をした。すると「ママ若いんだね~」とニコニコ。(いくらなんでも若返りすぎ!) そういえば、私の母も小学校低学年の頃私が母の年齢を聞くと毎年「38歳よ、そこからは年をとらないの。」と言っていた記憶がある。年齢は特に女性にとってはできれば1歳でも若返りたい。不老不死の薬が出来れば女性が買い占めることだろう。まぁ不死でなくてもいいけれど。 光太の6歳の誕生日には毎年恒例の昼間にホームパーティー。メニューは光太のリクエストでグラタン。それにお赤飯を炊いて、デザートには前日からさつまいもがたくさんあるのでさつまいもクリームチーズケーキを作っておいた。毎年バースデーケーキを買おうかなぁと悩むが結局は作っている。これも光太の小さいうちだけの私の楽しみだろう。 私の母もやっぱり私が小さい頃は誕生日やクリスマスといえばケーキを焼いてくれたけれど、そのうち大きくなると焼かなくなった。子供の成長と共に親の役目も嫌でも終わる時が来るものだ。まだママのケーキを食べたいと言ってくれるうちは頑張ろう。 誕生日ケーキの楽しみはろうそくを立てて「ふーーーっ!」と消すことにあるようだ。昼間なので暗くといっても真っ暗にはならないがなんとかして暗くしようとして必死に自分からカーテンを閉めにいき暗くしていた。こういう演出が大好きなのが光太らしい。 普段夕食の時にでも普通の蛍光灯の明るさで食べるよりスポットライトだけをつけて、ほのかに明るいレストラン風の照明にしたがる。あまりに暗くて食事自体が見えないので私たちは大ブーイングなのだが「これがいいの!」と言い張る。名前に光がついているからか妙に光の度合にうるさいぐらいのこだわりがある。 さて、誕生日のプレゼントはパパからは自転車。二人のおばあちゃんからは好きな物を買ってとお祝金をもらい光太が選んだのは、ギラティナのアクションコントロール。なんだか舌をかみそうな名前でおばあちゃんに電話で何を買ったか報告していたけれど、もちろん何のことだかわからないようだった。去年はパルキアの人形だったが今年はギラティナ。まだまだポケモンがらみのものが続く。 よく「ママ、○○は△△が進化したものなんだよ!知ってる?」と言ってくる。何のことだかわからないがポケモンのキャラクターには進化系がたくさんあるようだ。それを逐一覚えているのだからこの年頃の子供達の脳は素晴らしいと思う。私なんて一度聞いた名前も数分たつともう記憶の彼方に飛んでいってしまう。「ママ、もう忘れたの?」と光太にあきれられるぐらい記憶力があやしい。これでも高校生の時は自分で言うのもなんだが記憶力にはかなり自信があったのに、年齢と共に記憶力というのは坂道を転がり落ちる勢いでなくなっていく。 光太のそのプレゼントも遊び始めたころはよかった。けたたましい音と共にリモコンでもって機械音を鳴らし続けていた。(ママはじっと我慢。なぜゆえにこんなにうるさいおもちゃを選んでくれたんだろうと少し恨めしく思いつつ・・)それが昼間は外遊びを近所の子達として、家に帰ってからまた夕方それで遊ぼうとしたらうんともすんとも言わない。 電池がなくなったのかと思い入れ替えたけれど今度は後ろに動く時に「カチカチ」と変な音がする。 光太がまたその変な音を気にして触ったようで余計におかしくなってしまい、パパに直してと懇願していたがパパは前日光太と寒い中遊んで風邪をひいたようで絶不調で寝込み中。「直らないかも」というと、ギャンギャン耳が痛いほどに泣き出した。買ってもらったばかりのおもちゃがちょっとやそっと触ったぐらいでつぶれるなんて、このおもちゃもあかんなぁと私も光太が哀れに思ったので何とか電池を触ったりしていると少しは動いたけれどやっぱり調子が悪い。早速修理に出さなければいけない状態。 うーん、精密機械がからむおもちゃはこの年齢の子には無理なのか、もともと性能の悪いおもちゃにたまたまあたってしまい運が悪いというべきか?? いずれにせよ、プレゼントを手にしたばかりの時のあの笑顔から一転して大粒の涙をポロポロ出すほどにまで泣いて泣いてという騒ぎになるとはまさか想像さえしなかった。まさに泣いたり笑ったりの1日となった。 自転車の方は買ってもらったばかりの時はそれこそ朝が待てないほどの喜びようだった。翌朝早速園に行く前から家の前をグルグルグルグル。ニコニコ顔で乗り続けていてあやうく遅刻しそうになった。自転車にギアがついているのと夜になると点灯するのも嬉しいらしい。最近は点灯させたいがために、夕方遅くなるまで乗り回している。 私が小さい頃、我が家の足といえば自転車だった。父が車を運転しなかったので近くのスーパーへお出かけというのも必ず父の自転車の後ろに乗せてもらっていた。畑に行くのにも自分の自転車に乗ったり、父の後ろに乗せてもらったり。今でも覚えているのは父の後ろに乗せてもらっていて上り坂を運転中、父が「よいしょ!こらしょ!よいしょ!こらしょ!」と一生懸命こいでいる時、私も父が少しでも軽くなるようにと前のめりになり「よいしょ!よいしょ!」となっているといつしか後ろから転がり落ちていた。父は私を落としていることにも気付かずそのままがんばってこぎ続けていってる後ろ姿を思い出す。あとから話をして大笑いになったのだけれど。落とされても気がつかないほどまだ私の体重も軽かったのか!? でも、私の記憶の中では父と過ごしたあの頃が幼少期の中で一番楽しくて幸せだったように思う。毎日近所の人からも「父の子分のようね。」と言われるほど後ろをくっついて歩いていた。父は本当に優しくてあったかい人だった。叱られた記憶はあまりない。その父も今では病院で寝たきりなのだから・・・それでも少しずつ本当に少しずついいこともある。リハビリも少しずつ進んで最初の頃は自分の足にかかっているタオルケットを自力でどけることすらできなかったのに、今では車椅子に乗ってベッドから少し離れている時間ももてているようだ。 先日父が今入院している病院の先生から母が聞いた話によると、父のように心臓の冠動脈が詰まってバイパス手術した人を過去10年間さかのぼってみると、たった2人しか命が助かっていないらしく父は3人目らしい。10年のうちでたった3人という、そんな数少ないうちの一人に入るなんて、よほど運がよかったのだろう。今は心臓の機能の四分の一しか働いていないらしく、それもたくさんの薬に依存しての状態。かろうじて生きているというしかない状態といえるのだろうがそれでも父は生きていてくれてる。パタリと倒れてそのままになる人が多い病気だったにも関わらず父は生き残ってくれたのだ。このことに私は今でも神様に感謝している。そのまま逝かれたら、残されたものはどれほど心残りだったことか。 そうはいっても、ほとんど死んでしまうのが当然といった状態だったのだから生きている今の状態は決して本人にとって楽な状態でないのも事実。毎晩眠れないというのもかなり辛いらしい。光太の誕生日でちょうど入院して2ケ月になる。まだまだ入院生活は続く。しかも普通の病棟ならいいが、集中治療室なのだから制約も多く、自由にならないことも多い。床擦れもひどいらしく痛みに顔をゆがめている姿を見ていると周りの者も辛い。父自身辛抱強くないと生きてはいけない。生き残ったことで辛いことも多く、倒れたままあの世に行った方が楽だったかもしれないけれど、まだやっぱり生きててよかったと思える人生をこの先過ごしてほしいと思う。 そのためには何が何でも今を乗り切ることしかない。光太にとっておじいちゃんは一人しかいないのだし、私にとっての父もこの世に一人しかいない。今どんな状態であれ命がなくなれば終わりなのだから、命のろうそくが続いている限りはそれが吹き消されないように大事に大事にしてほしい。どんなことがあっても生き続けること。それがすごく尊いことなのだ。光太の誕生日を機により一層命の大事さ尊さを感じる。
November 24, 2008
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★ママと離れて暮らした1週間 光太の運動会も無事終わった。園生活最後の運動会。おじいちゃんの件で練習もかなり抜けてしまったものの光太なりにせいいっぱいがんばってくれた。リレーも光太が一番力を出したいところだったようで最初から最後まで力を出し切って走っていた。 運動会後、今度は光太をおいて私だけおじいちゃんのお見舞いをするために実家に帰った。丸1週間。その間光太はパパのお母さんに来てもらい面倒をみてもらっていた。夜はママがいないと寝られないと言ってたので、少し不安だったけれど気にしていても仕方がない。「お利口にお留守番しててね。」と笑顔でバイバイして別れた。 別れたその晩は何事もなかった。ただ、翌朝早くに電話が鳴りこんな早くに何事かと思えば、「ママいつ帰ってくるの?」と言う。この日と決めれば予定がずれた時に困るので柔軟に構えてあえてこの日に帰るとは言わずに出てきた。10月28日に家を出たのだが、11月の連休最後あたりに帰ると言ってたのだが、それがはっきり聞きたくなったのだろう。 いつもは私が何度起こしてもうだうだして起きないのに、6時過ぎぐらいに電話をかけてきて、その後聞いたらご飯もさっさと食べる時は食べ自分で出来る事は自分でやっていたのだとか。どうも私がいない方が自立してしっかりしているところをおばあちゃんにも認めてもらいたいのかもしれない。 父の具合は、あれだけ弱っていたところに大手術をしてなので目に見えるほどの良い変化はなかった。前日に姉から「お父さんがみるみるうちにやつれて見るに耐えない。」ということを聞いていただけに出発前の夜は一睡もできなかった。それでも早く父に会いたくてはやる心を抑えて新幹線に乗りその足で面会に向かった。 父には私が来ることは母からも看護婦さんからも黙ってもらっていた。母からは「お父さん今日はいいことがあるよ。」とだけ言われていたらしく、その後私が「ハローハロー!!お父さん元気?」と行ったものだからお父さんも少しびっくりしていた様子だった。心臓病なので驚かすのもどうかと思ったけれど、ずっとベッドから一歩も動けない人にとっては少しぐらいのサプライズがあってもいいだろうと思った。 父は点滴だけなので腕もやせ細ってきていたが、手をしっかり握りしめたらすごい力で握り返してきてくれた。久し振りの再会に涙が出そうになった。 前回父が倒れて1ケ月弱実家にいた後に一旦横浜に帰る時はあえて父に挨拶せず帰った。というのも一度帰ろうとして挨拶した夜に父の具合が急変した事もあったのでなんだか別れを言うのが嫌だった。 今回の再会はその日から10日ぶりだったのだけれど、父にはその間手紙を母経由で渡していた。手紙を書いたのはちょうど入院して1ケ月たった時だった。その頃母から聞く父の具合は、集中治療室で体を動かせずに相変わらずずっと寝たきり。じっとしている事がなかった父にとってはこの状態はかなりのストレスだったようで、色々と母には愚痴を言ってるようだった。手紙は父を励ます内容だった。 父は手術前から酸素の取り込みが悪くなり人工呼吸器をつけていたが、それがまだ1ケ月以上もはずせないでいた。なのでまだ会話は文字盤を使ってのものだったり、父がなんとかペンを握りメモを書いたものを読むのが主だった。主治医もベッドの方に来てくれたので挨拶すると、父は先生に嬉しそうに私が会いにきてくれたことを報告していた。 それから1週間父の面会はいつも2時からなので毎日足を運んだ。母に私が来ている時ぐらいは休んでもらいたかったので一人で行くことも多かった。そうすると時には私に厳しいことも言ってきて驚くこともあった。私にとっての父は昔から優しくてあったかくていつも厳しい言葉など言ったことのないような人だった。母が私たち子供の教育は一人でやってきたような感じで躾にしても父からああだこうだと言われた記憶はない。それが今はずっとベッドの上にいるのでちょっとしたことも気になるのだろうか。面会の帰り、あの穏やかな父がいなくなったような寂しさと初めて感じた父のそういう面にとまどい気が重たくなったこともあった。 ただ、周りの人や、面会に来ている他の家族の方と話をするにつれ、患者がだんだんいつもと違った言動をするのは仕方がない。こういう場所にずっといること自体がすごいストレスなのだから患者が悪いのではなくてそれは病気のなせるわざなのだと。主治医からのアドバイスもありあまり深刻に受け止めず聞き流すことも大事だと言われた。 この1週間は父の面会とは別に大事な仕事があった。それは巨人ファンの父になんとかして日本シリーズを録音して聴かせてあげること。機械に強いパパが出発前に色々と調べてくれた。手配してくれたものでもって私が向こうで取説を見ながら接続してトライしてみることになった。 これが言うが易く行うは難し。大変だった。実家について丸2日間かかって次々送られてくるものと格闘した。普段の私なら機械音痴で取説は読むのも嫌。なんでも感覚で使っていたのに、父に聞かせたい一心で嫌だとかどうだとか言ってられなかった。中には買いに走るものもあった。取説見ながら電話で聞いたりしてやっとのことで再生機器でラジオ録音に成功した。ただ、パソコンを途中使うことになるので、私が滞在しているうちはいいけれど、その後数日続く録音を母に任すのは無理。それで結局またMDプレーヤーを買って自宅で録音する方法を母にも伝授しておいた。 母は最初からこの話には乗り気ではなかった。野球は聞いていてもハラハラドキドキするので、それでなくても心臓を弱らせている父にはそっとしておいてあげたかったようだ。そもそも集中治療室にもラジオがあるのだが電波が届かなくてうまく聞けないということからこの話が始まった。それでも自宅の携帯ラジオも再生機器の持ち込みも許可が下りればいいが、面会の10分間に限ってのことで結局また面会した人が持って帰らねばならないことになっていてなかなか最初から最後まで野球中継を父に聞かせてあげたいという思いを実現することは難しかった。 父にもこの集中治療室では録音したものを聞くのは限界があるので、又一般病棟にでもなって色々な制約がとれた時のために撮りためておくねと言っておいた。 本当に集中治療室というのは出来れば入りたくない場所だ。人間的な生活が出来る所ではない。そういう状態の人が運ばれてくる場所なのだから仕方がないが・・・例えが悪いが刑務所と集中治療室とどちらがいいかといえば迷うほどのところだと思う。父のような体を自分で動かすことも出来ず1日中寝てばかりいる人にとっては夜も寝られないことが多いようだ。それは痛さのためでもあるらしい。かなり長い寝たきりで床擦れがひどくその痛みがひどいようだ。また、色々な管を夜中勝手にとってしまわないようにベッドに両手をひもでくくられるのだとか。それが嫌だと苦痛に顔をゆがめて訴えていた。 私はこの話を聞いた時に胸がつぶれそうになった。寝たきりで床擦れもひどくて痛みで寝れない人間をベッドの手すりにひもで両手をくくりつけるとか何事かと。それは看護の怠慢ではないかと・・・母に言わせればここだけではなくてそういう話はこういう場所では当たり前なのよと聞いたが、寝ずの番でもいいからそれは看護する側が見張ることではないのかと思った。目が行き届かないこともあるのでと言われているらしいが、両手をベッドに縛られて寝かされていて、それが熟睡ならまだ救われるが痛さや精神的な苦痛で寝られない父を思うと涙が出てとまらない。 人工呼吸器をつけていてそれが生命をつないでいる機器で無意識のうちにとれたら困るそれはよくわかる。でも、いくら医療の場でも意識ある人間をベッドの手すりに両手をくくり付けるのが当たり前に行われているというのは許される事なのかと問いたくなる。人間の尊厳にも関わる問題ではないか。いくら医療の場で手が足りないからといっても道徳上やっていいことと悪いことがあるのでないのか?父が「ひるはてんごく、よるはじごく」と文字盤で書く意味がわかった。そうやって両手を夜から朝まで縛るのは看護する人にもよるらしい。その一貫性のない看護もどんなものか? なんだか父がかわいそうだった。そして、どうすることもしてあげられない私や母、家族のものも医療の現場の前では無力だった。心ない看護師さんもいる。人工呼吸器をつけている父は時々痰を吸い取ってもらわねばいけないが、それを無言でやる人もいれば「ごめんやで~痛いね~、もう少しだけの辛抱よ!はい、もう少し、あーもう終わったよ~」と温かい声かけしてくれる人もいる。父はされるがままだが、苦痛のあまり動かせない足先を動かしている姿を見ると辛いだろう・・・と思う。言葉かけひとつで人間は絶望で死にそうにもなるし、その反対に希望で明るくもなる。看護する側はそのことを今ひとつ胸にとめてもっと心ある看護に努めてほしいと思う。 看護する側は忙しくて大変で一人一人にそんな心を割いていられないのかもしれないが、看護する人を選べない患者や家族の者にとっては心ある看護師さんがいることですごく救われる。 11月1日。父は人工呼吸器を気管につけかえる為、気管切開をした。また手術だった。術後、父の面会に行くと薬で眠らされていた。目元に涙ががたまっていて、なんだかすごく悲しくなった。一人でずっとずっと病気と闘い痛みと恐怖と闘っている。入院して半分ぐらいの大きさになった弱々しい体をぐっと抱きしめて私の力を少しでも分けてあげたかった。励ましてあげたかった。 父の体には9月23日以来、どれだけたくさんの薬を投与されたことだろう。そうしないと生きていけない現実がある。輸血もいっぱいした。これも同様そうしないと生きてはいけなかった。なんとか危機的状態、最悪な状態からは脱することは出来たものの、まだ心不全はきつく血圧も安定しないらしい。 これが手術をしたことの成功なのだとすると何が何でも今後元気になって退院してもらいたい。そして、外のおいしい空気を吸って生きていることの幸せをもう一度味わってもらいたい。そうでないと何のためにいっぱいいっぱい辛い思いをしてきたのだかわからない。ただ命があるだけの状態は、本人も家族も辛い。やっぱりやっぱり生きているということの幸せは美味しくご飯をいただけて、自分の手足を自由に使えて、人間らしく生活できること。それにつきると思う。 まだまだ父には頑張ってもらわないといけない。私も父が元気になるまではずっとずっと励ましていこうと思う。そしてそんな父を見守りながらずっと心を痛めてきた母も元気づけてあげたい。絶対絶対明るい未来は来ると信じて今生きてくれてることに神様に感謝したい。
November 9, 2008
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