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「沢木興道 この古心の人」よりp.318-3248 独坐3年、葦垣宮吉野の山寺では不合格興道は養泉寺を出て、津市の実兄、多田才助の家に身をよせていたとき、清原正道和尚から奈良の吉野に空き寺があって留守番の坊さんをよこしてくれとのことで行ったらどうかという連絡があった。目的の地は奈良県吉野郡高見村だった。村長の家に行くと、村長は外出して不在だった。ではここで待たせてもらうと、座敷にあがると床の間に向って結跏趺坐した。村長が帰宅した「寺に来てくださるというのはあなたさまでございましょうか」「はい、わたくしです」「あなたさまのようなおえらい和尚様を私どもはとてもお迎えできません」「いやいや、私はえらい坊主なんかじゃない。何も気を遣ってもらわんでもよい。ただ、おいてもらいさえすればよろしい」「それでも、へえ、ここは実は貧乏な村でして、とても待遇はできませんので」その晩、総代が何人か集まって「わざわざこんな山奥においでいただきましたが、あなたさまのようなおえらい和尚さまは、このようなお寺ではとても辛抱願えないと存じますので・・・」「ああ、そうか」興道はこの一語を残して去った。考えあぐねて法隆寺へ行き、佐伯大僧正にお目にかかり、吉野の空き寺は不合格で落第した。法隆寺の末寺、成福寺が空き寺になっていて、自分をあそこに入れてくれないかと頼んだ。僧正は「うん、それはよかろう」と承知して、成福寺の名義上の住職の承諾をとって下さった。「私は死んでしまうつもりであった。どっちがよかったかしらぬけれども、あそこで死んだら栄養失調で死ぬわけだった。とにかく梅干しと大根おろしでたいがい暮したんじゃから」
2025.03.31
「報徳の歌ー二宮尊徳道歌から学ぶー」小関栄著 7 推譲の歌 (114頁)行く末は猶も取手の渡しぶね 渡れる世をばあだし暮らすな この歌は下総の取手宿の本陣へ、水戸公が通行の際に一生懸命に棹さした船頭にねぎらいの気持ちとともに、これからの行く末の心得を示された尊徳の歌です。「あだし暮らすな」と諭されているが、この「あだし」というのは「空しくとか実がない」の意味で、無益に暮らすなということです。 この歌には「下総国取手宿渡し船の船頭家業の心得方を詠み侍る 二宮」と詞書をつけている。これは渡し船の客の水戸藩の大名から一船頭に思いやりある行く末の心得を聞いて感動した時の歌です。沢木興道 禅の境涯【信心銘提唱】p.28 二宮尊徳翁の歌にこういうのがある。 父母もその父母も我が身かな 我れを愛せよ我れを敬せよ そうすると、父母から、その父母から、ずっと上の父母も我れ、だとすると、神武天皇、天照皇大神、伊弉諾尊、伊弉冉尊、その前もまた我が身かな。その尊のその前も我が身かな、我れを愛せよ、我れを愛せよ、その友達も、またその友達もまた我が身かな、我れを愛せよ、我れを愛せよ、そうすると、四方八方みな我が身、宇宙いっぱい、広大無辺の自分というものが・・・・・・。 そこが二宮尊徳さんの偉いところだと思う。この歌一つ見ても、この人は、なかなかたいていの人ではない。天地いっぱい、宇宙いっぱいを、自分一人で持っておったほど大きい人である。
2025.03.31
青山俊董老師「今、ここから始めよう」(2013年12月)214-216頁人の尊卑は 行為による男女差別に関する二つの視点 サワッデイカア 日本から参りました青山俊董と申します。日本で数少ない尼僧の修行道場の一つである愛知専門尼僧堂において、約50年近い歳月を修行僧たちと共に過ごさせていただいております。 この度、国際女性仏教徒会議のワークショップで、会議の一つの大きな課題である性差別問題について、お話をするようにと要請をいただきました。そこで特に日本の鎌倉時代に、禅宗の中の曹洞宗を開かれた道元禅師の徹底した男女平等の見方についてご紹介し、ご参考に供したいと思います。 初めに、釈尊はどうであったか。 仏教の2500年の歴史の間、論議となった問題に八敬重法*があります。(略) この八敬重法の内容は、男女の差別が明確に打ち出されており、また、その成立の背景にもいろいろ問題があるようですが、一応、私の八敬重法に対する考えを二つの観点から少しだけ述べさせていただきます。 一つには、今日でも女性の地位はきわめて低いインドにあって、2500年前のインドという時代的、社会的背景を考えたら、この程度の差別はやむをえないことではなかったかということです。人間としての基本的な尊厳においては平等であることをまずもって認めた上で、当時のインドの実社会における女性の地位に応じて定められたものが、この八敬重法の順守ではなかったのかと思います。 もう一つは、人間の本能ともいうべき性欲のはげしさを思う時、女性の出家者が教団内に加わる事で、眠っていた欲望を刺激し、修行の上の妨げになることを、何よりもおそれられたうえの、止むをえない処置であったと受け止めたいです。*八敬法(はっきょうほう、『パーリ律』に見えるaṭṭha garudhammaの訳)とは、釈迦が、最初の女性出家者であるマハーパジャーパティーの出家を許す際に条件とした、受持すべき8つの戒律のこと。転じて、仏教において比丘尼(女性出家者)が比丘(男性出家者)に対して守るべき8つの戒律。八重法(はちじゅうほう)とも訳されるが、その他に『四分律』では八不可過法・八尽形寿不可過法、『五分律』では八不可越法、『根本有部律雑事』では八尊敬法と記されている。マハーパジャーパティーは釈迦に女性の出家を請うたが拒否された。そのあとでアーナンダが代わって、育ててもらった大恩がある事を釈迦に説いて願ったため、釈迦は八敬法を受け入れる事を条件に女性の出家を許した。これにより比丘尼の僧伽(女性出家者集団)が成立したとされる。一方で、仏教の歴史において比丘尼僧伽は、常に比丘僧伽の下位に位置づけられ今日まで至っており、その根拠の一つとして八敬法が挙げられていた経緯から、仏教における性差別の根源とする意見もある。そのため、思想面で八敬法に性差別が含まれているのかどうかという点が議論となっているほか、実際に釈迦が説いた規則ではない(非仏説)のではないかといった史実性の問題も提起されている。『パーリ律』釈迦がカピラ城に住んでいた時に、養母であったマハーパジャーパティーが釈迦の元に訪れて出家の許しを請うた。しかし釈迦は「女性が出家することを願うなかれ」と拒否した。マハーパジャーパティーは3度繰り返して請うたが、3度とも拒否された。マハーパジャーパティーは釈迦が女性の出家を許さないことに悲嘆し、涙を流して退出した。その後、釈迦は弟子と共にヴァイシャーリーに住まいを移した。マハーパジャーパティーは髪を切り袈裟を着て、出家を望む女性たちと共に釈迦の後を追ってきた。彼女らは慣れない旅の為に、釈迦の住まいに着くころには酷い姿になって泣いていた。これを見たアーナンダは彼女らを哀れみ、女性の出家を許すように釈迦に請うた。しかし釈迦は許さなかった。アーナンダは3度繰り返して願ったが、釈迦は3度ともに拒否した。そこでアーナンダは「釈迦よ、もし女性が如来の法と律を守り出家するならば、四果に至ることはできるであろうか」と訊ねた。すると釈迦は、「アーナンダよ、女性が法と律を守り出家するならば、四果に至ることはできる」と答えた。そこでアーナンダは「釈迦よ、女性が法と律を守り出家して四果に至ることはできるならば、大恩ある養母マハーパジャーパティーが法と律を守って出家することを許したまえ」と言った。すると、釈迦は八敬法を受持することを条件に、女性の出家を許した。— 比丘尼犍度『パーリ律』瀬戸内寂聴さんの「巡礼道」発行日が1985年11月15日初版西国巡礼の紀行記で、寺の由来を寂聴さんがうまい語り口で聞かしてくれる。大和路の長谷寺の話より「今は長谷と書くが、昔は初瀬(はつせ)、あるいは泊瀬(はつせ)と書いた。 『こもりくの泊瀬』は古代大和人にとっては葬送の地であった。今は、地名は初瀬(はせ)、寺名は長谷と書く。長谷はまた私は巡礼者としてではなく、もう度々訪れている寺である。はじめて訪れた時、たまたま牡丹のまっさかりで、あふれる人波にもまれて満開の牡丹の色と匂いに頭が痛くなるほど寄ってしまっていた。・・・」「長谷寺は川原寺の道明上人が天武天皇の朱鳥元(686)年初瀬山の西の岡に精舎を建て、三重塔を建立し、千体釈迦板仏を納め、天皇の病気平癒を祈ったことからはじまった。 その後、徳道上人が初瀬で道明上人に教えを受け、東の岡に小堂を建て、十一面観音を祀ったのが、現在の長谷寺の前身となった。」こもりくの 大和初瀬の 観世音 きらぎらしくも 慈悲みちわたる「牡丹は唐の皇帝のお妃 馬頭(めず)夫人が献木したのにちなんで増やしたと伝えられている。 馬頭(めず)夫人は、顔が馬のようで不美人だったのに、心がやさしく聡明だったので、帝の寵愛が深かった。それを妬(ねた)んで他の妃たちが様々な迫害をする。馬頭夫人はそれも自分の顔が醜いからあなどりを受けるのだと悲しみ、神仏に美人にしてくださいと祈りつづけたところ、ある日、殻城山(こくじょうざん)の索仙(さくせん)という仙人が来て、「日本国大和長谷寺に祈ってみなさい。 観音の霊験があらたかだから」と教えた。 夫人は仙人に教えられたとおり、東に向かって香華を供え、一心に祈りつづけた。 すると満願の日、夢の中に一人の僧が雲に乗ってあらわれ、手に持った瓶から香水を夫人の顔にふりそそいだ。 気がつくと夫人は信じられないほど美人に生まれかわっていた。 喜びのあまり、夫人は十種の宝物に牡丹の苗木を添え長谷寺に送った。 それが七千株の牡丹のもとだという伝説がある。「巡礼道」に上醍醐は難所とある。「Mさんが珍しく話しかけてきた。『死について、どう考えられますか』 私は即答できる明確な答えを持っていなかったので、正直にそれを告げた。『私は、死と一緒に歩いているんですよ』 Mさんは静かな表情でいう。」Mさんは人造心臓をつけていると、寂聴さんに告げた。精巧なアメリカ製だけどいつ止るか分らない。『不安ですよ。夜も、深夜に目が覚めて、あ、生きていると思うと、かえって、目が冴えてしまって眠れないことがあります』奥さんが不安がってノイローゼになるより、いっそ行ったらとこの西国巡礼に送り出したのだという。『この強行軍で辛くないですか』『ええ・・・どうしようもなく疲れた時はじっとしています。なんとかここまで来れました。ただ上醍醐は無理でしょうね。』『よかったですね。ここまでお元気で』『ええ、でも今夜はわかりませんよ』『大丈夫ですよ。観音様がついていて下さいますよ』寂聴さんは自分でも驚くほど確信をもって言った。『そうだと有難いんですが』とMさんはわずかに笑った。そしてタクシーに乗り込んでいった。『Mさん、上で会いましょう』西国霊場は日本海側福井県の方にもわたる。松尾寺は馬頭観世音を本尊とする。西国霊場でもこの観音様を祀るのはここだけだ。20数年前、仕事の合間に新幹線で来ては巡った折、ここの近くの駅で、ご夫婦にタクシーに一緒に乗りませんと呼びかけられて行ったものだ。結構駅から遠くて割り勘で行けるのが有難かった。寂聴さんの寂庵には何体かの石仏の観音像があり、馬頭観世音の石仏も厳寒脇にすえてある。ある修験道の老人が、この馬頭観世音は力があり、この寂庵を守ってくれますよ。大切にお供養なさいと言われ、それ以来花や水をあげている。馬頭観音は近しい観音様なのだという。寂聴さんが松尾寺を訪れたとき夕暮れ近かった。帰りがけ、スラックスに半コートの一人の美しい女性の巡礼の方が思いつめたように名を尋ねてきたという。『ここでお逢いできたのは、観音様のお導きのように思います。ぜひ、話を聞いていただけないでしょうか』寂聴さんは、その夜泊る予定の宿へ一緒に入り、その女(ひと)の話を聴いた。『主人が一年前蒸発してしまったのです』おとなしい読書好きの夫とは12年前に恋愛結婚して、女の子が一人いた。その夫が、ある朝、いつもの通り出かけて、そのまま蒸発した。妻は半狂乱になって、女でもできたかと探し回ったが全くなかった。そして3ヵ月後隣村で白骨になっていたのが発見された。寂聴さんは、ただただ黙って聴いていた。彼女の嘆きの深さを吸い取るようにきくほかなかった。ようやく語り終わったところで始めて尋ねた。『巡礼を思い立たれたのは、どうして』『あなたの巡礼記を読んだ時です。・・・私はどこかでお逢いできないかと、夢のように思っていたのです。とうとう願いがかないました。』その晩二人枕を並べて横になった。彼女は夜を徹して話し続けた。『でももうこれでいいわ。 もうあの人のことを責めないようにします。 巡礼していてあの人のことを怨み続けていたんです。 ようやくどうぞ安心して仏様になってくださいと祈れます』寂聴さんは思わず、その人に手を合わせ、観音様の愛はあるという気がしたという。
2025.03.31
異例のドル安、逃避先の役割果たせず-トランプ氏が損なう通貨信認米国株が3月に大幅下落する中、フェデレーテッド・ハーミーズのファンドマネジャー、ジョン・シダウィ氏は妙なことに気づいた。 長らく相場下落時の逃避先となってきたドルが、今回は上昇せずに株式と同様に下げ、下落スピードも速かった。投機的な短期の資金は金や円、欧州株など、米国以外のほぼ至るところに流入した。 同社で債券投資に携わるシダウィ氏は「異例なこと、かつ多くを物語っている」と指摘。「安全な逃避先であるべき環境下で、ドルはその役割を果たしていない」と述べた。 背景にあるのはトランプ米大統領の政策だ。第2次政権発足からわずか2カ月で、トランプ氏は関税措置をエスカレートさせ、数十年続いたグローバル化を後退させようとしている。これがドルの信認を揺るがしている。 ドルはこの3カ月間に、主要な31通貨のほぼ全てに対して下落。ブルームバーグのドル指数はこの間に3%近く下げた。一方、同じく安全な逃避先とみられている金は1オンス=3000ドルを上回り、最高値を更新している。 投機的なトレーダーらは昨年11月の米大統領選後で初めてドルに弱気な姿勢に転じた。トランプ氏が進める政策転換が米国をリセッション(景気後退)に陥らせかねないとの懸念が広がっている。 為替仲介大手ペッパーストーンの上級調査ストラテジスト、マイケル・ブラウン氏は「ドルは今や安定のとりで、外国為替市場の参加者が最初に選ぶ逃避先ではなく、それとは正反対の存在になった」と述べた。 ドルは力強い米経済と高金利を背景に、これまで大きく上昇していた。それを踏まえれば、最近の下げはドルの強さを著しく損なうものではない。世界的な景気減速懸念で、海外投資家が米国債購入を増やせば、ドルは持ち直すことがあり得る。 しかし、ラボバンクのストラテジスト、ジェーン・フォーリー氏は27日のリポートで、トランプ氏の貿易政策や軍事同盟軽視、カナダやグリーンランドを手に入れたいといった不用意な発言は「脱ドル化の傾向を加速させ、ドルの価値を損なう恐れがある」と指摘した。 ドイツ銀行の為替戦略グローバル責任者、ジョージ・サラベロス氏は、市場が新たな地政学的秩序に適応するのに伴い、ドルが逃避先としての地位を失うことを「可能性として認識する必要がある」とリポートに記した。💛「見えざる手」が2.0トランプを追い詰める?アダム・スミスは『国富論』で、自由貿易こそが国の経済を豊かにする と主張した。彼は「見えざる手」の概念を使い、市場は自然に最適化されるため、政府が関税で介入する必要はないと考えた。デヴィッド・リカードは『経済学および課税の原理』で、「比較優位の法則」 を提唱し、それぞれの国が得意な分野で貿易を行うことが経済的に最も効率的だとした。 フリードリヒ・リストは『政治経済学の国民的体系』で、自由貿易は先進国にとっては有利だが、発展途上国にとっては破壊的であると批判した。彼は、「教育的保護貿易」 という概念を提唱し、国が成長するまでは関税で自国産業を守るべきだと述べた。 この考え方は、戦後の日本や韓国が発展するときにも使われ、今日の中国の政策にも強く影響を与えている。 トランプ政権の関税政策は、リスト的な「保護貿易」の考えに基づいている。 スミスやリカードのような古典派経済学者は、「市場に任せれば、最も効率的な状態になる」と考え、政府の介入を最低限に抑えるべきだとした。 ケインズは『雇用・利子および貨幣の一般理論』で、経済には需要不足が起こりうるため、政府が積極的に介入しなければならないと述べた。関税もその一つの手段になり得る。 トランプ政権の関税政策は、政府が積極的に市場をコントロールする「保護貿易+政府介入」の組み合わせ。 歴史的に見ても、関税戦争は経済停滞をもたらすことが多い、・1930年代の「スムート・ホーリー関税法」→ 世界恐慌の際、アメリカが高関税を導入し、各国も報復関税をかけた結果、世界貿易が激減し、経済がさらに悪化した。・1980年代の日米貿易摩擦→ アメリカは日本の自動車産業を抑えるために関税や輸入制限を行ったが、日本は技術革新で対応し、結果的にグローバル市場での競争力を高めた。トランプ関税はいずれドル安要因に、各国が報復対応なら-BofA2025年2月13日バンク・オブ・アメリカ(BofA)のG10為替戦略責任者、アタナシオス・バンバキディス氏・ドルは結局、関税を好まないかもしれない・米国が他国に対して関税を課し、全面的な報復措置が講じられるシナリオでは、ドルは下落する可能性がある・トランプ氏が米国の輸入品全てに10%または20%の関税を課した場合、各国は報復し、米国は「より脆弱(ぜいじゃく)」になると警告。「米国で貿易保護が最も高まるため、世界の他の国々はこれまで通りに互いに貿易を続けるか、あるいは米国の関税に応じて互いの貿易保護を縮小する可能性さえある」とし、これが米国の長期的な生産性に悪影響を及ぼし、米国の例外主義に疑問を投げかけ、ひいては長期的にドルを弱めることになる
2025.03.31
指紋採取にウコン…鑑識一筋の職人技で開発した菊地淳一警部補、あす定年「見ていてください」。千代田区の警視庁本部庁舎。鑑識課で指紋採取の「職人」と呼ばれる菊地淳一警部補(61)が、プラスチック製の白い容器にガーゼで試薬を塗る。ライトを当てると、黄色に輝く指紋がくっきりと浮かび上がった。 証拠品に付いた指紋は通常、指紋に含まれる水分に瞬間接着剤の成分を反応させ、白く浮かび上がらせてから採取する。ただ、証拠品が白色の場合はこの手法が取れないため、警視庁は米国から輸入した試薬を使って、指紋を黄色に着色して採取していた。 ところが、この試薬の製造が2021年夏頃に米国内で打ち切られた。「在庫が切れれば指紋の採取が出来なくなる」。危機感を抱いて試薬の開発に乗り出したのが、菊地警部補だった。インターネットで検索している中で目に留まったのが、食洗機の性能試験で油汚れの残り具合の確認に使われるウコンの成分・クルクミンだった。「応用すれば、指紋も光るのではないか」とひらめいた。 短時間で指紋を検出するため、勤務時間外に、クルクミンの比率を調整するなど半年間で数百回の試行を重ね、22年春、米国製の従来品と同じく数分間で採取が可能になった。 完成した試薬はいま、警視庁が扱う各種事件で、ポリ袋などのプラスチック製品から指紋を採るのに活用されている。 コストも大幅に軽減された。米国製品は1グラムあたりの仕入れ価格が8万円だったが、菊地警部補が開発した試薬は市販の材料でつくれるため、わずか数百円に抑えられたという。 菊地警部補は試薬の開発で科学捜査の技術を向上させた功績で、今年度の文部科学大臣表彰「創意工夫功労者賞」を受賞した。試薬の製造法は全国の警察本部にも伝えられており、警視庁の畑孝博・鑑識課長は「長い鑑識の歴史に新たな技術を確立してくれた」とたたえる。 高校卒業後の1982年に入庁し、警察官人生のほぼ全てを鑑識業務にささげてきた菊地警部補は、今月末に定年を迎える。開発した試薬について「捜査で大きな成果を上げているのがとてもうれしい」と語り、「犯罪は巧妙かつ複雑化している。知恵を出し合い、事件解決につなげてほしい」と後輩たちに期待を寄せている。
2025.03.31
報徳記 巻之四 【2】中村玄順先生に見え教へを受く その3報徳記&二宮翁夜話198報徳記巻之四【3】先生中村玄順に忠義の道を教諭す天保3年(1832)某月、中村玄順は西久保の宇津家の屋敷において先生に面会して、25両の借金を申し出た。先生はこう言われた。「今の時の負債のために心を苦しくするものはどうしてあなただけであろうか。あなたの君主は政治を正しくして国を富ませ、民は豊かであるか」中村玄順は答えて言った。「どうしてそういうことがありましょう。領村は大変衰廃し、土地は荒れ民は困窮しています。このため納税もまた3分の2を減じています。主人の艱難はもちろんのこと、一藩の扶持も行き届かず、天下は広いといっても、このような貧窮は諸侯で一番でしょう。私の扶持もわずかで名のみで、その実はありません。このためこのように困窮しました。願わくは先生、私の窮乏を憐れんでください」先生は顔色を正してこう言われた。「ああ、あなたは過っている。 人臣たるの道は、武士と医師との区別があろうか。皆自分の身を顧みないで君家のために忠義を尽くすだけだ。今、君主が艱難に迫り公務を廃して、国民を撫育する道を失って、進むも退くもともに窮しているのではないか。人臣たるもの、身をなげすて、命も棄てて、君の艱難を除いてその心を安んじ、国民の困苦を免れさせ、仁政に浴させようと心から力を尽くすことが臣たるものの本意ではないか。それであるのに上下の大きな患いを他人事のようにして、ただ自分一身の貧苦を免れて安心するために私に面会して借金を求める、これをどうして忠ということができよう。どうして義ということができよう。私は小田原候の命を受けて20年万苦を尽くして、祖先以来の廃家を再復したのを残らず売り払い、これを種として野州の領村が廃亡したのを再興し、その民を安んじようとして日夜力を尽くしている。それでもなお、行いが足らないとして未だに君の心を安んじ、民を救うことができないことを戦々恐々としている。そうであるのにあなたはしばしば来て面会を求める。てっきり君家上下の艱難を憂慮して、これを救助する道を問うためかと思った。私は私の勤務があって、わずかな暇もない。どうして他の諸侯のことを談話するいとまがあろうか。このために再三あなたの面会の要求を許さなかった。横山氏がしきりに一度面会していただきたいと求めてやまない。今、あなたに会うことはあなたの請求に応じたわけではない。横山の求めに止むをえず面会しただけだ。なんということか、人臣として君家の憂いも顧みず、一個人の安心を求める言葉を聴こうとは。あなたの求めるところは僅かな金銭ではあるけれども、その志は私の心に反している。どうしてその求めに応ずることができようか。すぐにここを去りなさい。二度と来てはいけない」玄順は大変慙愧し、自分で大義をわきまえないで先生の教誨を聞いて、ブゼンとして失うところがあるように、ボウゼンとして酔ったようであった。しばらく沈黙して感謝してこういった。「ああ、私が過っていました。私は不肖ではありますが、かって少しは道を聞いたことがあります。君家の艱難を憂慮しないではありませんけれども、至らぬ私の及ぶところではないとして、わが身の憐れみを願い出たのはまことに浅ましいというか、愚かしいといいましょうか。今、先生の尊い教えを聞くに及んで後悔する気持ちで身の置き所がありません。私は愚かではありますが、今から卑しい心を洗い、すこしでも上下のために力を尽くそうと思います。先生、私の失言を棄てて、これからもご教導ください。」といってふたたび拝した。尊徳先生は笑って言った。「あなたの志が人臣の道ではないと思ったから一言申し上げただけです。どうしてあなたを教える道を知りましょうか」中村玄順はますます恥じて、再会の時をお願いして柳原の屋敷に帰った。報徳記巻之四【3】先生中村玄順に忠義の道を教諭す于時(ときに)天保某(ぼう)年某月中村玄順西久保に於いて先生に見(まみ)え、二十五金の恩借(おんしやく)を請(こ)ふ。先生曰く、當時(たうじ)負債の爲に心苦(しんく)するもの豈(あに)子のみならんや。子(し)の君(きみ)政事(せいじ)正しくして國(くに)富み民豊かなる歟(か)。中村答えて曰く、何ぞ然らんや。領邑(りやういふ)大いに衰廢(すゐはい)し、土地荒蕪し民窮せり。是(これ)を以て貢税も亦三分が二を減ぜり。主人の艱難は勿論一藩の扶助も届き難く、天下廣(ひろ)しと雖も是(こ)の如き貧窮は、実に諸侯に冠(くわん)たるべし。某(それがし)の扶持(ふち)若干(そこばく)名(な)のみにして其の實(じつ)なし。是故に此の如く窮せり。願くは先生某(それがし)の窮乏を憐み玉へと云ふ。先生顔色(がんしよく)を正しくして曰く、嗟呼(あゝ)子(し)過(あやま)てり。夫れ人臣たるの道豈(あに)士と醫(い)との別有らんや。皆以て己の身を顧みずして君家(くんか)の爲に忠義を盡(つく)さん而已(のみ)。今君(きみ)艱難に迫り公務を廢(はい)し、國(こく)民撫育の道を失ひ、進退共に窮し玉ふにあらずや。人臣たるもの身をナゲウち命を棄(すて)て、君の艱苦を除き、其の憂心を安んじ、國民をして困苦を免れしむるの仁政に浴せしめんと心力(しんりよく)を盡(つく)さんこと此れ臣たるものゝ本意(ほんい)にあらずや。然るに上下(しやうか)の大患(たいくわん)を度外に置き、唯一身の貧苦を免れ、安心せんが爲に我に就いて此の事を求む、何ぞ之を義といはんや。我は小田原君(くん)の命を受け二十年間萬苦を盡(つく)し、祖先以來の廢家(はいか)を再復せしを殘(のこ)らず沽却(こきやく)し、之を種として野州の采邑(さいいふ)廢亡を興し、其民を安ぜんとして日夜心力を盡(つく)せり。猶(なほ)行ひ足らずして未だ君の心を安んじ、民を救ふ事のあたはざるを戦兢(せんきやう)せり。然るに子數々(しばしば)來(き)て面會(めんくわい)を求るものは君家(くんか)上下(しやうか)の艱難を憂ひ、其の道を問はんが爲ならんと思へり。我は我が勤務ありて寸隙(すんげき)なし。何ぞ外(ほか)諸侯の事を談ずるの遑(いとま)あらんや。是(こゝ)を以て再三子(し)の請(こひ)を許さず。横山某(ぼう)頻(しき)りに一面會(めんかい)を求めて止まず。今子(し)に逢ふことは子(し)の請(こひ)に應(おう)ずるにあらず、横山の求め黙止(もだし)がたく面會(めんかい)せしなり。豈(あに)圖(はから)んや、人臣として君家(くんか)の憂ひを顧みず、一己(こ)の安心を求むるの言(げん)を聞かんとは。子(し)の求むる處(ところ)僅々(きんきん)たる金員(きんいん)といへども、其の志我が心に反せり。何ぞ其の求めに應(おう)ずることを得ん、子夫れ速やかに去れ、請ふ再び來(きた)ることなかれ と。玄順大いに慚愧(ざんき)し、自ら大義を辨(わきま)へずして先生の教誡を聞き、憮然(ぶぜん)として失ふ處(ところ)あるが如く、茫然として酔へるが如く、沈黙良(やゝ)久しくして謝して曰く、嗟呼(あゝ)過てり、某(それがし)不肖なりと雖も曾(かつ)て少しく道を聞けり。君家(くんか)の艱難を憂ひざるにはあらずと雖も、不肖(ふせう)の及ばざる所となし、一己(こ)の憐みを請ひたるは誠に淺(あさ)ましといはんか愚也(なり)と謂(い)はん歟(か)。今先生の至教を聞くに及びて慚悔(ざんげ)身を容(い)るゝの地なし。某(それがし)愚なりといへども今より卑心(ひしん)を洗ひ、聊(いささ)か上下(しやうか)の爲に心力(しんりよく)を盡(つく)さんとす。先生某(それがし)の失言を棄て爾來(じらい)教導を下し玉へと云つて再拝す。先生笑ふて曰く、子(し)の志人臣の道にあらず。我是(これ)を以て一言する而已(のみ)。何ぞ子(し)を教ふるの道を知らんや と云ふ。中村彌々(いよいよ)耻(は)ぢ、再會(さいくわい)の時を請ひ柳原の邸(てい)に歸(かへ)れり。
2025.03.31

細胞内のミトコンドリアが減少し、やがて死の危険も…運動不足の「本当の怖さ」『健康寿命と身体の科学 老化を防ぐ、50歳からの「運動・食事・習慣」』(樋口 満・著)「体力」とは何を指しているのでしょうか。体力は「行動体力」と「防衛体力」に分けることができ、行動体力には全身持久力、筋力、バランス能力、そして柔軟性などがあります。一般的には、体力といえば行動体力を指します。体力は、何事にも積極的に取り組もうという「気力」と、知性を働かせる「知力」と一体となって、心身の健康を保持していきいきと豊かに暮らしていくのに欠かせないものです。体力のうちで、中年期(ミドル・エイジ:40~64歳)から高齢期(シニア・エイジ:65歳~)における健康づくりで最も注目したいのが、「全身持久力」と「筋力」です。「全身持久力」は、全身のさまざまな筋肉を使って、運動をどれだけ長く続けられるかの能力です。筋肉が長時間活動するには、酸素を体内に取り入れるために心臓や肺の機能(呼吸循環機能)も大きく関係していることから、「心肺体力」ともいわれています(以下、「心肺体力」に統一)。「筋力」は、筋肉(からだを動かす骨格筋)が発揮する力のことです。おおむね、筋肉量に比例しています。私たちが測定した体力調査のデータから、日常的にかなりハードなトレーニングを積んでいる陸上長距離ランナーでも、運動習慣のない人々でも、心肺体力の低下は、10年あたりでおよそ7%程度という数字が出ています。加齢に伴う身体諸機能の低下は、25歳をピークとして、平均しておよそ10年あたり5~10%のペースで進むと見積もられています。大なり小なり、誰にでもみられる加齢に伴う身体機能の低下は、「生理的老化」といわれています。先ほどお話しした持久性パフォーマンスや心肺体力の低下も、生理的老化の標準的なプロセスということができます。一方、心筋梗塞や脳卒中、がんなどの重篤な病気をしたことにより、急激に身体機能が低下することもあります。これは「病的老化」といわれています。病的老化が一時的にみられても、適切な治療が行われ、その後のリハビリ(機能回復)が順調になされれば、低下した身体機能を以前のレベルにまで戻すことができる能力が人体には備わっています。これは「レジリエンス(逆境からの復元力)」といわれています。生理的老化は誰しも避けられないものですが、不活動な生活を続けていれば、高齢期の比較的早い年齢において、身体諸機能が「障害閾値(障害が生じる境目となる値)」より下がって要支援・要介護のレベルになり、健康寿命が尽きてしまう可能性が高くなってしまいます。運動不足がもたらす身体機能の低下は、ミドル・シニア層にとって重大な問題です。日本では、身体活動・運動の不足は、喫煙、高血圧に次いで、非感染性疾患による死亡に対する3番目の危険因子であることが示唆されています運動が足りないと、消費エネルギー量が減少するため、肥満が起こりやすくなります。とりわけ、内臓脂肪型肥満では、高血糖や高血圧、脂質異常に要注意です。内臓脂肪の蓄積を必須項目、高血圧や高血糖、脂質異常を選択項目として判定される複合リスクの病態が「メタボリックシンドローム(メタボ)」です。放っておけば、脳卒中や心筋梗塞、糖尿病、腎不全などを招きます。「運動器症候群」とも称される、運動器の障害のために移動機能が低下した状態が「ロコモティブシンドローム(ロコモ)」です。ロコモが進行すると、介護が必要になるリスクが格段に高くなります。ロコモ度テストを用いた住民調査の結果から、ロコモが疑われる人は日本国内に4590万人いると推定されています。さらに、身体活動と健康とのつながりで近年注目されているのが、「ミトコンドリア」です。ミトコンドリアは細胞の中にある小器官で、酸素を使って糖や脂肪を燃焼させて活動するためのエネルギーをつくり出すという、いわゆる「発電所」の機能を有しています。運動が不足すると、筋肉細胞内のミトコンドリアの数の減少とともに、その性能が低下していきます。そのため、糖や脂肪を燃焼させるときに酸素をうまく利用できなくなり、「活性酸素」の発生増加がみられるようになります。
2025.03.30
優勝の横浜・村田監督「あの1球に思いが伝わった」 センバツ横浜・村田浩明監督 <母校を率いての頂点> 今日、この甲子園球場にたくさんのOBの方々の声が届きました。皆さまの力のおかげで選手たちが躍動してくれて、横浜高校の絆を感じました。ありがとうございます。<勝敗を分けたポイントはどこか> 智弁和歌山さんは全国トップクラスのチーム。そういうチームと、この甲子園の舞台でやれる幸せを感じて、渡辺投手を中心に守りが堅く、攻撃陣も長打のある体の大きな打者もたくさんいましたが、横浜高校らしい攻撃、守備からリズムを作ることを徹底してできたことが、この結果につながりました。 <六回の継投はどんな狙いだったのか> 織田、奥村(頼人)という投手が目立っていますが、うちには片山、前田、山脇、山本、小野、池田と、いつでも(投手として)行ける準備をずっと常日ごろからしていました。試合に出られなくても必死になって練習して、「いつか出た時」にということで準備してきたことが、あの1球に思いが伝わったと思います。本当に選手に感謝しています。 (夏に向けて)春はまだ通過点です。夏に、本当に完成したチームでこの甲子園球場に戻ってきて、一戦一戦戦って、20人以外のスタンドの選手たちも一丸となってOB、保護者、学校関係者の皆さまが一枚岩になってまた夏、目標を定めて頑張りたいと思います。
2025.03.30
世界で最も文化的影響力のある国ランキング◆4位 日本世界で最も識字率が高い国、日本。諸外国から文化的影響を受けながらも、古くからの伝統も重んじ、和洋混合のユニークな生活様式を作り出している。伝統芸術・古典芸能として世界から注目を集めるものは、茶道、華道、歌舞伎、能、日本庭園、俳句など枚挙にいとまがない。また、寿司、会席・懐石料理などを含めた和食がユネスコの無形文化遺産に登録され、食文化も世界に大きな影響を与えている。スポーツの分野では相撲、柔道がよく知られていたが、近年になり野球、サッカー、フィギュアスケートなどでも世界に通用する選手を輩出するようになり、注目を集めている。◆3位 アメリカ世界で最も経済的、軍事的な支配力を持つアメリカは、その文化的影響力も世界で群を抜く。その証拠として、アメリカで起こった市民運動「# MeToo」「ブラック・ライブズ・マター」は世界中に波及した。アメリカは文化的にも人種的にも多様で、ヨーロッパをはじめとする海外からの大規模な移民が文学、芸術、音楽を築き上げてきた。移民が作り上げた文化として代表されるものにジャズ音楽がある。アフリカ系アメリカ人の間から生まれたこの音楽は、のちの音楽界にさまざまな影響を与えた。また、アメリカは映画、音楽、テレビなどのメディ産業でも世界をリードしており、その中心地となるロサンゼルス市のハリウッドは世界的に知られている。◆2位 フランスフランスは世界で最も歴史ある国の一つで、その影響は科学、政治、経済、文化を通じて世界中に及ぶ。芸術、文学、ファッション、音楽、食文化など、あらゆる方面で世界に影響を与えている。国内にも多くの文化遺産を有し、フランス文化に少しでも触れようと観光客が絶えない。そんなフランスだが、一般には余り知られていない文化を一つ紹介したい。それは、フランスは文化として数学が根付いているといわれていることだ。最近になって少し様子は変わってきているようだが、フランスはデカルトやフェルマー、パスカルなどを輩出。数学のノーベル賞といわれるフィールズ賞に輝く研究者はアメリカに次いで多い。◆1位 イタリアイタリアは毎年4000万人以上の観光客が訪れる人気の国。ミラノのハイファッションなどがよく知られるイタリアは、常に世界に多大な文化的影響を与えている。14世紀から始まった古代ギリシャ、ローマの古典文化を復興させようとしたルネサンス運動も、同国から起こった。芸術の分野では、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロなど、非常に著名な芸術家を輩出。また、イタリアの食文化は世界中に受け入れられており、ピザやパスタ以外にも、フォカッチャ、生ハム、ミネストローネなど、普段から口にすることが多い料理もイタリア発祥である。
2025.03.30
検校「そなたは吉原に戻りたいのか?」「なぜ吉原の者たちとおるように声が弾まぬ」「なぜじゃ?わしはそなたが望むことはすべて叶えておるではないか」瀬以「吉原の者と話す声が弾んで居るとすれば親兄弟に似た親しみがあるからかと」「それは旦那様をお慕いする気持ちとは別のものにございます」検校「所詮わしは客という事か…」「どこまで行こうと女郎と客…そういうことだな?」「もうよい、嘘ばかりの女郎声など聞きとうない」瀬以を本部屋に軟禁する。検校「返事次第では斬ることになるかもしれぬからなあ」「不義密通の罪じゃ」「いくら金を積まれようと心は売らぬ。そういうことであろう?」「どこまで行こうと女郎と客」「お前は骨の髄まで女郎だな」瀬以「仰せの通りでござりんす」「重三はわっちにとって光でありんしたあの男がおるならば吉原に売られたことも悪いことばかりではない一つだけはとてもいいことがあったそう思わせてくれた男でござりんした」「重三を斬ろうが、わっちを斬ろうが、その過去を変えることはできんせん」「けんど、分かっているのでござりんす。主さんこそ、わっちをこの世の誰よりも大事にしてくださるお方であることを。人の心を察し過ぎる主さんを、わっちのいちいちが傷つけているということも。人というのは、どうして己の心ばかりはだませぬのでありんしょう。いまや抱いたって詮なし、主さんを傷つけるばかりこの思い、こんなものは消えてしまえと、わっちとて、願っておるのでありんすよ」「けんど、この世にないのは四角の卵と女郎の実(まこと)。信じられぬというならどうぞ、ほんにわっちの心の臓を奪(と)っていきなんし!」
2025.03.30
短期在留に農地取得を認めず 政府、外国人対象に要件厳格化農林水産省は4月1日から、日本に住む外国人が農地を取得する際の要件を厳しくする。農地取得を認めるかどうかを判断する際、在留期間の申告を義務化し、残り期間が短い場合は取得を認めない。コメ不足による価格高騰など食料を巡る環境が変化する中、耕作地の放棄や目的外利用を防ぎ、食料安全保障を強化。限られた農地で効率的に国内生産力の拡大を図る狙いがある。 農地法施行規則を改正し、農業委員会に通知する。外国人の関係する法人などの農地所有の事例は増えており、与党からは目的外利用を懸念する声が出ている。農水省は実態調査を進めるとともに、取得要件の厳格化で問題を防ぎたい考えだ。 農地の取得には原則、年150日以上農業に従事することが求められ、各地の農業委員会が申請を受け判断している。外国人について、農水省は23年9月、取得する個人や法人に国籍の報告を義務付けた。個人には在留資格の記載も求めたが、残り期間は確認してこなかった。 これを短期間で資格がなくなり、更新の見込みもない場合は認めないように制度を変更する。
2025.03.30

通信96号送付文より「安居院庄七と鷲山恭平」を神奈川県内公共図書館と都道府県立図書館にレターパックで寄贈中です。事前に用意したレターパック90枚がほぼ使い終わりました。通知文の末尾に「もし貴館の方針で収蔵できない場合は、返却用のレターパックをお送り致しますので、お手数おかけして誠に恐縮ですが、本を返却下さるようお願いします。出版した本を廃棄することなく循環して活用するためですので、どうぞよろしくお願いします。」と付記しています。するとZ市立図書館から「選定会議で受け入れない決定がされました。返却したい」というので、雨の中、すぐに逗子図書館に向かい、電車に乗ってZ市立図書館で「現代語訳 安居院義道」と「安居院庄七と鷲山恭平」の2冊を受領してきました。Z駅で降りるのは久しぶりで、帰り商店街をぶらつくと豆腐屋さんで、おからのドーナツや豆腐プリン、稀少大豆で作った豆腐など珍しいものが売っていて買って帰りました。帰宅後、本2冊は東京大学総合図書館に寄贈しました。東京大学図書館には既に14件の図書が蔵書となっている。都道府県図書館や市立図書館から「返却したい」と連絡があれば、返却用のレターパックを送って返却してもらい、同じように大学図書館に循環して活用していきます。💛レターパックライトをまた買ってこなくちゃ。
2025.03.30
「安居院庄七と鷲山恭平」「沢木興道 この古心の人」よりp.305-3087 松阪養泉寺単頭時代の行状養父文吉の死大正3年養父沢木文吉が胃がんでなくなった。68歳だった。後年、内山興正和尚が言った。「老師は文吉さんのため、えらい苦労をなさいました。文吉さんは、老師にとって麦踏みみたいな存在だったんですね」興道は養父のために小遣いを工面し養父に差し出した。「あんたの顔見ると、私はいつもまじめにならんわけにいかんわな。私が世間並みに堕落せずにやれていられたのは、あんたが生きておったからやがな。これからも、あんた、体を大事にして長生きしてや。」後年興道は言った。「養父はわしに堕落予防剤のお布施をしてくれた」「世間にはこうしたお布施もあるもんじゃ」○酒井得元著『沢木興道聞き書き』「経済生活を追い求めたら道は求められないと決まっている以上、仏道の行者にとっては、宗門の規則や資格というようなものは別に益するところはあるまい。これらのものは仏道のことでなくて、人間娑婆世界の生活上のことである。仏道の行者が修道を捨てて娑婆と関係をもとうとするとき、規則と資格によらなければならなくなるのである。 娑婆世界のことは、そのときどきのご都合次第だけのことであるから、猫の眼のように変わるのが当たり前である。真実に生きんとするものは、こちらからその都度これに応ずるには及ばない。次から次へと変わってゆくものを追っかけて一生ふらふらしていたのでは、それこそ一生を空しくしてしまうものである。」
2025.03.30
「報徳の歌ー二宮尊徳道歌から学ぶー」小関栄著 7 推譲の歌 (113頁)さして行く棹(さお)の取り手の渡し船 思う方にはとく着きにけりこの歌は水戸中納言徳川斉昭が詠んだ歌です。詞書に「下総国取手宿のご本陣へ通行の節に示し置かれた歌」と附して三才独楽集に載せられたものである。 水戸斉昭公は天保9年4月に何年も待ち望んだ初の国入りで」、その逸る心の身を乗せた渡し船が、案外早く目指す向こう岸に着いたと喜びをあらわした歌です。○茨城県立歴史館学芸第二室長仲田氏が、明治21年74歳の加藤木賞三が、二宮尊徳先生との巡り合わせを追憶した文書について紹介された話がでていた。嘉永6年(1853)の春、水戸藩士加藤木賞三は懇意にしていた剣客の斎藤彌九郎から、「二宮尊徳先生が、幕府から日光東照宮の神領(89ヶ村、4064町歩)の荒蕪地(神領の約4分の1)開墾、その他領内の荒廃した農村復興対策実施を命ぜられている。今年8月には現地に住み着き、事業着手の予定である。ついては自分と共に働く適当な人物を見つけてほしいと、尊徳先生から頼まれて、色々と考えた末、貴殿を推薦したい。3、4年も尊徳先生に従って働けば、開墾その他農村復興事業について会得するところがあろうし、その後故郷に帰れば水戸藩領のため、大いに役立つことになろう」という話があった。加藤木賞三は、このような仕事はかねて自分の希望するところであると、直ぐにも応諾したかった。しかし、藩のため江戸で働いている身分である。国元に居る目上の人々(戸田忠敝・藤田東湖・桑原治兵衛等)にも相談の上、答えることとした。水戸に問合せたところ、何れからも賛成の返事があった。その結果、二宮先生から、ともかく面談をということで、斎藤氏の紹介状を持って、嘉永6年4月17日先生のお宅を訪問した。尊徳先生の色々な話を聞くうちに感動し、ぜひ自分を随行させていただきたいと頼んだ。折りから当日は、東照宮の大祭日にあたり、お神酒を一献やろうと引き留められ、質素な肴(鰹節を削ったのに醤油をかけ、豆腐と蕗の煮付けの三品)で、尊徳先生と酒を酌み交した。その後、再三先生を訪ね、その都度有益な話を伺い、先生に随行しようという決意を、いよいよ固くした。ところが、この年6月3日ペリーの率いるアメリカ艦隊の浦賀入港によって、天下が騒然となった。加藤木賞三は、国元の水戸から要求される情報の蒐集とその報告のため、極めて多忙となった(藤田と戸田が、幕府の防海参与となった斉昭に召されて、江戸に入ったのは7月19日であった)。しかも水戸からは、情勢の急変を理由に、二宮尊徳先生に随行する件を断るよう指示してきたのだ。己むを得ず、賞三は水戸よりの書面を見せ、二宮先生も最後は余儀ないことと了承された。この時二宮尊徳先生は、賞三に対して大要次の通りに説いた。「国家の一大事に際し、余儀ないことではあるが、既に懇意となった貴殿に、この際私の考えを率直に申したい。貴殿が水戸藩にて、どのような身分かは詳しく知らないが、その職務が貴藩の進退を左右するほどのものではあるまい。世の成り行きは、誰がどう思っても、勢の赴くところに落ち着くもので、藩の家老職とても思うようにはならない。私は幕府の小吏に過ぎないが、現在の任務に専念して他事を顧みず、事業を成功させたいの一念である。もっとも国防のため馳せ参じよとの命があれば、開墾の仕事を放棄して、それに従うが、そのようなことはありえない。あの天下分け目の関ケ原の戦いに際しても、検地に従事していた武士は、そのまま仕事を続けていたという。現在のように、誰も彼もが、戦いにかかわったのではない。」賞三はその折の尊徳の心添えを想起して、大要次の通り述べている。「当時自分は、未だ40歳前で思慮も浅く、先生の懇切なお話も肝に銘じることがなかった。『事あらば今にも出陣して外国人をみな殺ししよう等の空言』を唱えていた。しかし年を経るに従って尊徳先生の見識・才能・力量の偉大さを深く感じた。あの時、先生の意見に従って事業に勉励するに年月を経たならば、いかに不肖の自分であっても、その器量に応じただけには得るところもあり、いささか国家へ利益を施す事もあったものをと、昔年を顧みて慙愧後悔することが毎度であった」と言ったという。そして、「なにひとつ 世になすことも ななそじに あまるよはひと 老い朽ちにけり」との一首を書き添えた。加藤木賞三は、明治維新後、静岡藩(後に県)の士族授産(開墾)事業に従事した後、大蔵省勧農寮、茨城県に奉職したが、「職を辞したるも尚ほ宿志を廃せず、栽桑養蚕を精励して以て大にこれを奨励」したという。死の前年の明治25年5月、賞三は藍授褒章を授与された。その善行表彰の理由は、天保飢饉の際の、貯穀の放出による窮民救済のほか「桑苗を頒(わか)ち、飼育法(蚕)を授けて産業を増進する等公衆の利益を起し成績著明なる者」というのであった。おそらくは、後年になるにしたがって、二宮先生の教えが身にしみて、わずかでも民・百姓のために働きたいと願いを実現しようとしたものであろうか。夜話で尊徳先生はこう言われている。「10 (略)人は、生れ出た以上は必ず死ぬものである。長生きしたといっても、百年を越えるのは稀である。限りのしれた事である。若死にというのも長生きといっても、 実は僅かな差に過ぎない。たとえばロウソクに大・中・小があるようなものだ。大きなロウソクといっても、火の付いた以上は4時間か5時間であろう、そうであれば人と生れ出た以上は、必ず死ぬものと覚悟する時は、一日生きれば一日の儲けである。一年生きれば一年の利益である。本来わが身もない物、我が家もない物と覚悟するとき、あとは百事百般皆儲けである。私の歌に「かりの身を 元のあるじに 貸渡し 民安かれと 願ふ此身ぞ」と詠んだ。この世は、 我も人もともに僅かな間の仮の世であるから、この身は、仮の身である事は明らかである、元のあるじとは天をいう。このかりの身を我が身と思わず、生涯一途に世のため人のためのみを思って、 国のため天下のために益のある事のみを勤めて、一人だけでも一家だけでも一村だけでも、困窮を免れて富裕になり、土地が開け、道や橋を整え、安穏に渡世ができるようにと、それのみを日々の勤めとし、朝夕願い祈って、怠らないわが身である、という心にて詠んだものである。これは我が畢生の覚悟である、我が道を行おうと思う者は知らなくてはならない。」沢木興道 禅の境涯【信心銘提唱】p.28 二宮尊徳翁の歌にこういうのがある。 父母もその父母も我が身かな 我れを愛せよ我れを敬せよ そうすると、父母から、その父母から、ずっと上の父母も我れ、だとすると、神武天皇、天照皇大神、伊弉諾尊、伊弉冉尊、その前もまた我が身かな。その尊のその前も我が身かな、我れを愛せよ、我れを愛せよ、その友達も、またその友達もまた我が身かな、我れを愛せよ、我れを愛せよ、そうすると、四方八方みな我が身、宇宙いっぱい、広大無辺の自分というものが・・・・・・。 そこが二宮尊徳さんの偉いところだと思う。この歌一つ見ても、この人は、なかなかたいていの人ではない。天地いっぱい、宇宙いっぱいを、自分一人で持っておったほど大きい人である。
2025.03.30
佐々木朗希 本拠地初登板で初回から大荒れ41球 二回途中2失点KO 目にいっぱいの涙 球速伸びず155キロ 制球も定まらず3/30(日)ドジャースの佐々木朗希投手が先発マウンドに上がり、初回に満塁のピンチを招いて2失点。球数はいきなり41球を要した。二回途中2失点で無念の降板となった。 本拠地デビューとなったマウンド。初球、2球目とコントロールが定まらず、甘い直球を左前にはじき返された。続くグリーンには初球で空振りを奪ったが、3球連続ボール。それでもここから立て直して高めの155キロで空振り三振に仕留めた。 トーケルソンにはフルカウントから粘られ、三遊間を破られてピンチを拡大。4番はポップフライに打ち取ったが、キースは四球で出塁させ満塁と状況は変わった。 ここでプライアー投手コーチがマウンドへ。佐々木は大粒の汗を流し、球数もこの時点で27球となった。マルゴーには初球の内角直球で詰まらせたが、ボテボテの打球は不運にも内野安打に。先制点を失った。 スウィーニーにはカウント2-2となったところで本拠地スタンドから大きな拍手がわき起こった。フルカウントとなり、4球連続ファウルで粘られた。根比べとなる中、ブルペンではリリーフが準備を開始。押し出しで2点目を失うと、スタンドからは落胆の声と小さなブーイングが起こった。 球数も40球を超える中、何とか2点でしのいだ佐々木。二回もストレートの質は戻らず、先頭打者に四球を与えて思わず天を仰いだ。次打者の4球目でワンバウンドしたスプリットが暴投となり、得点圏に走者を進めた。マッキンストリーは見逃し三振に仕留め、グリーンは遊飛に打ち取って2死。トーケルソンにはフルカウントから四球を与え、マウンドに選手が集まるとロハスが胸をたたいてゲキを飛ばしたが、ここでロバーツ監督が出て降板となった。 ベンチでは目にいっぱいの涙をため込んだ佐々木。日本開幕第2戦で先発した際には、5四球を与えながらも3回1失点に抑えていた。2度目の登板は大荒れとなったが、フリーマンのソロ、さらに二回にコンフォルトの適時二塁打で試合を振り出しに戻し、佐々木の黒星は消えた。米スポーツ局『ESPN』ブレイク・ハリス氏「ロウキ・ササキにとってひどい試合運び。1回に3安打を許し、2四球を許す。そこから抜け出すのに41球必要だった」「最も注目すべきは、彼の速球の平均球速が96.2マイル(155キロ)しかなかったことだ」○ドジャース フリーマンが2戦連発の反撃弾 本拠地の重苦しい空気を振り払う 初回2失点の佐々木を援護する一撃3/30(日) 初回に先発の佐々木朗希投手が大荒れの展開となり、本拠地に重苦しいムードが漂う中、3番のフリーマンが一掃した。内角低めのツーシームを完璧に捉えると、打球は右翼席へ弾丸ライナーで飛び込んでいった。 ベンチ前では直前に凡退したT・ヘルナンデスがヒマワリの種をかけて祝福。佐々木を援護する大きな一撃になった。
2025.03.30
青山俊董老師「今、ここから始めよう」(2013年12月)210-212頁インドに立ち、釈尊の声を聞く徹底平等を説く仏教こそ『生まれながらにして尊卑あり』と説くヒンズー教のもとではインドの差別撤廃の見通しもなく、まして不可触民たちの明日への道を開くことはできない。徹底平等を説く仏教によるより他に道はないと、アンベドカルは晩年に仏教徒に改宗し、アンベドカルを船頭として、不可触民たちは大挙して仏教徒となった。 従来の仏教徒と区別して新仏教徒と呼び、このムンバイ郊外には350万人の新仏教徒がいるという。 生まれによってバラモンなのではない 生まれによって非バラモンなのではない 行為によってバラモンなのである 行為によって非バラモンなのである (『経集』) ここでバラモンと呼んでいるのは、いわゆるバラモンのことではなく、「聖人」の意味と受けとめたらよい。人の尊卑はどこまでも行為によると、すでに2500年前に繰り返しお説きに下さった釈尊のお心を思うことである。*ブッダのことば ― スッタニパータ (中村 元)(p31) 生れによって賎しい人となるのではない。生れによってバラモンとなるのではない。行為によって賎しい人ともなり、行為によってバラモンともなる。(p115) 630 敵意ある者どもの間にあって敵意なく、暴力を用いる者どもの間にあって心おだやかに、執著する者どもの間にあって執著しない人、-かれをわたしはバラモンと呼ぶ632 粗野にならず、ことがらを伝える真実のことばを発し、ことばによって人の感情を害することのない人、-かれをわたくしはバラモンと呼ぶ636 この世の禍福いずれにも執著することなく、憂いなく、汚れなく、清らかな人、-かれをわたくしはバラモンと呼ぶ(p118) 655 苦行と清らかな行いと感官の制御と自制と、-これによってバラモンとなる。これが最上のバラモンである。(p143) 762 他の人々が「安楽」であると称するものを、諸々の聖者は「苦悩」であると言う。他の人々が「苦悩」であると称するものを、諸々の聖者は「安楽」であると知る。解し難き真理を見よ。無智なる人々はここに迷っている。(p169) 931 虚言を避けよ。よく気をつけて詐りをしないようにせよ。また生活に関しても、知慧に関しても、戒律や道徳に関しても、自分が他人よりもすぐれていると思ってはならない。
2025.03.30
昨年1月から自宅で毎朝30~40分程度の坐禅を2回ほどしている。大阪大学の少量の血液から生物学的老化を測定する研究で「ストレスが生物学的老化に深刻的な影響を及ぼすことを発見。ストレスホルモン「コルチゾール」の濃度が2倍になると、人の生物学的年齢が約1.5倍になる」という研究結果が発表された。老化防止にはストレスの管理が大切ということか禅的呼吸法によるストレス低減効果 ・ストレスには時間ストレス、対人関係ストレス等の意識的なストレスと、大気汚染や化学物質等からの無意識的なストレス、温暖化や自然災害等によるストレスもある。・労働者のストレスについて厚生労働省の「平成24年労働者健康状況調査」では、仕事や職業生活に関することで強い不安・悩み・ストレスを感じている労働者の割合は60.9%であった。その内容は「職場の人間関係(41.3%)」が最も多く、次いで「仕事の質(33.1%)」、「仕事の量(30.3%)」であった(複数回答)。多くの人が、仕事上のストレスを抱えながら勤労生活を営んでいることがわかる。職場の人間関係の悩みや過重労働により、うつ病等の気分障害に陥る人も年々増加している。 ・教師の場合では、文部科学省の「平成25年度公立学校教職員人事行政状況調査」によると、病気休職処分は8,408人と分限処分全体(8,560人)の98.2%に上り、病気休職者のうち精神疾患によるものは5,078人と60.3%を占めていた。精神疾患による休職者は、平成20年度以降では5,000人超えで推移しており、病気休職者の60%以上を占め、依然として高水準が続いている・最近、簡便なストレス低減法として呼吸法が注目されている。呼吸法は、東洋の行法として2500年ほど前の釈尊の時代にも用いられており、『大安般守意経(だいあんぱんしゅい きょう )』という原始経典にも記されている。呼吸の出入りを数えながら心を落着け精神統一する瞑想法とされ、現在も坐禅時に行われている数息観(すそくかん)がこれに当たる。 ・坐禅時に行われる呼吸瞑想法-数息観-(以下呼吸法と言う)の生理的・心理的ストレス低減効果やその影響を、統計分析等の手法を用いて評価する。・数息観とは呼吸の出入りを数えながら腹式呼吸を行う呼吸瞑想法を指す。 まず息を長くゆっくりと意識的に呼き、次に短く自然に吸う。その後、少しの間、息を止めて保つ(保息)。この呼吸を繰り返す。(略)・高血圧の初期症状の予防に有用であり、心臓血管疾患や脳血管疾患等のリスク要因の低下にも役立つと考えられる。・インスリン抵抗性冠動脈心疾患患者を対象にしたPaul-Labrador らの研究では、TM (超越瞑想)実践により血圧とインスリン抵抗性、血糖値が低下した99。TMを実践した群ではインスリン抵抗性の平均値が0.75下がったが、実践しなかった群(コントロール群)の平均値は0.52上がった。彼らは、TMは心臓神経に肯定的な影響をもたらし、血圧・インスリン抵抗性・心臓神経の調節に有効であり、ストレスへの生理的な反応を調節したと報告している。 この血圧の低下とインスリン抵抗性の低下からは、糖尿病患者への応用の可能性も示唆された。・、TM実践によるIMTの-0.1mmの低下が、頸動脈のアテローム性動脈硬化症に有益であると認められた。冠動脈疾患や脳卒中等の重篤な疾患へつながる血管病変にも、TMのストレス低減効果が示されたと考えられる・TM実践がもたらしたリラクセーション効果が、交感神経活動を抑制し、副腎髄質からのカテコールアミンの放出を調節して、結果的にコレステロールが低下したと考えられる。・TMのまとめ これらの研究結果を基にTMの効果を以下にまとめる。TM実践によるリラクセーション効果は、中枢神経系のストレス反応を和らげ、交感神経活動を抑制し、自律神経系のバランスを調節すると考えられる。つまり、「視床下部-下垂体前葉系」のホルモンである副腎皮質刺激ホルモン・甲状腺刺激ホルモン・コルチゾールの分泌を低下させ、「視床下部-交感神経-副腎髄質系」からはアドレナリン・ノルアドレナリンの分泌を低下させる。この 2 つの内分泌系を制御する中枢神経系のストレス反応が緩和され、これらのホルモンバランスの調節につながったと考えられる。すなわち、TM実践によるストレス低減とそれに伴う生理的変化により、神経内分泌系の調節に影響を及ぼし、結果的に血圧の低下をもたらす効果につながったと考えられる。💛坐禅は沢木興道師によると、「坐禅はなんにもならない」「仏のおんすがたそのものである」「坐禅は龍の蟠(わだかま)るがごとく、颯爽たる姿勢と凛々たる気迫がこもっていなければならない。 借り物の猫のようにふにゃっとした坐禅、気の抜けたビールのような坐禅は何年やっても無駄だ。 」
2025.03.30
血液5滴あれば生物学的年齢がわかる!老化メカニズム解明のヒント獲得へ 大阪大で研究血液が5滴あれば、その人の生物学的な本当の年齢が判明することが分かってきた。AI技術によって、わずかな血液サンプルを採取するだけで、その人の体が老化のプロセスにどの程度対応しているのかを調べることが可能となった。大阪大学で研究を進める王梓さんは、ある人が同年齢の人々より若く見える理由の解明に繋がるとして話した。「これは始まりに過ぎません。データセットを拡大し生物学的マーカーを追加、モデルを更に改良することで、老化のメカニズムについてより深い洞察を得たいと考えています」また、研究チームはストレスが生物学的老化に深刻的な影響を及ぼすことを発見。ストレスホルモン「コルチゾール」の濃度が2倍になると、人の生物学的年齢が約1.5倍になることが分かったという。研究に携わった高尾敏文教授は「ストレスは一般論として語られることが多いですが我々の研究でそれが生物学的老化に測定可能な影響を与えるという具体的な証拠を示しています」と説明している。【大阪大学】数滴の血液でAIが見抜く、あなたの本当の健康年齢 ― 未来を予測する新手法 ―概要 大阪大学蛋白質研究所の汪秋益助教(研究当時、現:大阪大学・島津分析イノベーション協働研究所 招へい研究員)、大阪大学理学研究科生物科学専攻王梓さん(博士後期課程)、水口賢司教授、高尾敏文教授(研究当時、現:特任教授)を中心とする研究チームは、人体の代謝調節経路*³の知見を最先端の人工知能(AI)アルゴリズムに組み込み、健康状態を反映する「生物学的年齢」を定量的に評価するモデルを開発しました。この予測モデルでは、数滴(約5滴)の血液サンプルから得た22種類のステロイドレベルから生物学的年齢を算出することが可能です。 生物学的年齢とは、体の健康状態や老化の進行度を示す指標です。本研究は、高精度なステロイド測定データを基に、AI技術と生物学的知見を融合した生物学的年齢予測モデルを構築することで成果に結実しました。この革新的なアイデアは、蛋白質研究所所属研究者の分野横断的な連携のもと実現しました。 今後、健康管理の新たな指標として活用され、加齢に伴う健康リスクの早期発見や予防策策定に貢献することが期待されます。 本研究成果は、日本時間2025年3月15日(土) に米国科学誌「Science Advances」に公開されました。研究の背景 生物学的年齢とは、体の健康状態や老化の進行度を示す指標です。実際の暦年齢と必ずしも一致せず、生活習慣や遺伝などの影響により大きく異なる場合があります。人の一生を一本の川に例えるならば、その上流にあたる乳児期では、各人の生物学的年齢にほとんど差は見られません。しかし、川が下流へと進むにつれ、遺伝的要因や生活習慣、環境要因などの影響で同じ暦年齢であっても生物学的年齢に個人差が生じるとされています。このような現象を定量的に捉えることは可能なのか――この問いに対し、本研究チームは生物学的年齢の精密な評価手法の開発に取り組みました。◇研究の内容 私たちの体内では、ステロイドは生理的な恒常性*⁴を維持するうえで重要な役割を果たしており、その発現バランスは健康状態と密接に関連しています。そこで研究チームは、血液中の22種類のステロイドに着目し、これらの代謝調節経路が生物学的年齢の評価に有用ではないかと考えました。 本研究では、ステロイドの代謝調節経路をもとに、その動態を深層ニューラルネットワーク(DNN)*⁵によるAIアルゴリズムに導入し、独自の計算手法を開発しました。これにより、代謝調節経路と生物学的年齢との関連をモデル化でき、時間の経過により拡大する生物学的年齢の個人差を捉えることができました。 本予測モデルでは、わずか240マイクロリットル(約5滴)の血液を採取するだけで、独自に開発した高精度質量分析技術(LC-MS/MS)*⁶により、22種類の主要なステロイドを同時に測定できます。さらに、研究チームが構築したAIモデルを活用することで、このステロイドの血中濃度データに基づいた生物学的年齢予測を実現しました。 従来の方法と比較し、本モデルは以下の三つの革新性を有しています。 1. 個体差を補正するための前処理手法 ・各ステロイドの相対濃度比を保持しつつ、個体ごとの総ステロイド量の違いを補正 ・実験バッチ*⁷間の誤差を抑制し、一貫性のある測定を実現 2. 独自に損失関数*⁸を考案、設計 ・集団内の生物学的年齢差が時間とともに拡大する特性をAIモデルの学習プロセス*⁹に導入 3. 生物学的に解釈可能なAIモデルの構築 ・ステロイドの代謝調節経路をDNNに統合 ・「ブラックボックス*¹⁰型」AIとは異なり、得られた生物学的年齢に対する生化学的根拠を提示可能 本研究は、ステロイドの血中濃度という客観的なデータにより生物学的年齢を予測する新たなアプローチを提供するものです。さらに、ストレスホルモンの一種であるコルチゾール*¹¹が「加齢促進因子」として作用することが明らかになりました。具体的には、コルチゾールのレベルが通常の2倍に上昇すると、生物学的年齢上昇の度合いが約1.5倍になるという結果が得られました。この知見は、ストレス管理を通じた老化抑制の可能性を示唆しており、今後の健康管理や加齢制御の研究において重要な示唆を与えるのではないかと考えられます。◇本研究成果が社会に与える影響(本研究成果の意義) 本研究成果は、個人の健康管理における新たな生物学的年齢評価指標として活用されることが期待されます。これにより、加齢に伴う健康リスクの早期発見や予防策の策定に貢献するとともに、医学研究の新たな方向性を示す可能性があります。 今後、関連する代謝調節経路の詳細なメカニズムが明らかになることで、加齢調節の仕組みがより詳細に解明されると考えられます。これにより、健康寿命の延伸や社会全体の健康水準の向上に寄与し、将来的には個別化医療や予防医学の発展にもつながることが期待されます。
2025.03.30
新助っ人・キャベッジが3安打1HRの活躍■巨人 6ー5 ヤクルト(3月28日・東京ドーム)新助っ人が“衝撃デビュー”「2番・右翼」で出場したキャベッジは、初回の第1打席で初球の外角高めの直球を捉え、右翼フェンス直撃の二塁打。5回2死の第3打席でも左中間へ二塁打を放った。さらに5点を追う8回、無死一塁の場面では、左腕・山本が投じた7球目のスライダーを強振。打球は右翼スタンド中段へと豪快なアーチを描いた。2015年MLBドラフト4巡目(全体110位)でツインズに指名され、昨年はエンゼルス傘下3Aソルトレークで打率.306、30本塁打、32盗塁の“トリプルスリー”を達成した。今季から巨人に加入したものの、オープン戦では44打席で打率.214、0本塁打、3打点、14三振と苦しんでいた。しかし、いざシーズンが幕を開けると、不安を払拭する大暴れを見せた。猛打賞&豪快弾の“日本デビュー”に、ファンからは「いやーこれは本物だわ」「マジで大当たり助っ人かも」「巨人はとんでもない選手を獲った」「神助っ人なのか?」「マジでええの獲ったわ」と、称賛の声が相次いでいる。トレイ・アーロン・キャベッジ(Trey Aaron Cabbage、1997年5月3日 - )は、 アメリカ合衆国テネシー州グレンジャー郡ラトリッジ(英語版)出身のプロ野球選手(内野手、外野手)。右投左打地元のグレインジャー高校に進学し、野球部とバスケットボール部に所属。卒業後はテネシー大学に進学。4年生時に第3チームのオールアメリカンに選出された。2015年のMLBドラフト4巡目(全体110位)でミネソタ・ツインズから指名され、プロ入り。契約後は傘下のルーキー級フロリダ・コンプレックス・リーグ・ツインズでプロデビュー。33試合に出場して打率.252、13打点を記録した。2016年はルーキー級エリザベストン・ツインズでプレーし、31試合で打率.204、2本塁打、8打点を記録した。2017年はルーキー級エリザベストン・ツインズ、A級シダーラピッズ・カーネルズの2球団でプレーし、2球団合計で60試合に出場して打率.227、4本塁打、23打点を記録した。2018年はルーキー級シダーラピッズ・カーネルズで99試合に出場し、打率244、8本塁打、45打点を記録した。2019年は99試合に出場し、打率.239、15本塁打、53打点を記録した。2020年はCOVID-19の影響はマイナーリーグのシーズンが中止となり、公式戦の出場は無かった。2021年はルーキー級シダーラピッズ・カーネルズでスタートし、7月にAAのウィチタ・ウィンドサージに昇格。108試合に出場し、打率.264、27本塁打、82打点だった。11月7日、シーズン終了後にマイナーリーグFAとなった。2021年11月28日、ロサンゼルス・エンゼルスとマイナー契約を結んだ。2022年、ロケットシティ・トラッシュパンダズで30試合に出場し、打率.327、10本塁打、32打点、10盗塁を記録した。この活躍でリーグの4月の月間最優秀選手に選出された。5月25日、左前腕の故障に伴い3か月から4か月の欠場が発表された。シーズン終了後にマイナーリーグFAとなった。2023年はシーズンの開幕戦でAAA級ソルトレイク・ビーズに配属され、81試合で、打率.287、23本塁打、64打点、24盗塁を残し、7月14日にメジャー契約を結び、アクティブ・ロースター入りした。最終的にメジャーでは22試合に出場し、打率.208、1本塁打、7打点を記録。2024年1月27日にマット・ムーアの加入によってDFAとなった。2024年1月31日、カルロス・エスピノーサとのトレードでヒューストン・アストロズに移籍した。同年11月4日、DFAとなりウェイバー公示を経てピッツバーグ・パイレーツに移籍した2024年12月18日に読売ジャイアンツと契約合意「神様に感謝したい」「今日は開幕戦ということもあって、球場の雰囲気も非常に上がっていたので、そういった時にチャンスで打席が回ってきて結果を残せたというのはとてもうれしいです」9回に死球をくらい叫んだことについて「ぶつけられたから怒ったっていうよりは、打ちたかったのに打たせてもらえなかったから、ちょっとイライラしてしまったんですけれども…」「それで(雄たけびで)チームが結果的に勢いがついたので、あれば、それはすごい良かったなと思います」「打った瞬間にわかるホームランでした。2日連続でホームランを打てたのはチームにとっても自分にとっても大きなこと。今後につながる2日間だと思う」💛誰よりも早く球場入りし懸命にバットを振り続けていた→真面目、日本人が好きなタイプ?
2025.03.30
自動車関税25%の衝撃「トランプ・スタグフレーション」の瀬戸際2024年に日本からアメリカに輸出された完成車は、130万台余りです。日米貿易摩擦が激しかった1980年代の後半には、輸出自主規制枠自体が230万台もありました。その後、現地生産の進展や、カナダやメキシコを活用した供給網の整備もあって、日本からの直接輸出の台数そのものは、かなり減ったことになります。それでも130万台というのは、アメリカにとって、日本は、メキシコ、韓国に次ぐ第3位の輸入相手国です。日本からの輸出台数が最も多いメーカーは、トヨタの53万台ですが、現地販売台数に占める割合は23%に過ぎません。それだけアメリカ国内や北米での生産が多いのです。ホンダは米国販売の7割、日産は6割がアメリカでの現地生産だということです。その一方、マツダはアメリカで販売される半分にあたる22万台が輸出車で、スバルも4割以上の29万台を輸出しています。三菱自動車は米国内に生産拠点はありません。アメリカへの完成車輸出の依存度が高い、中堅メーカーほど、打撃が大きい構図です。*スタグフレーション 物価上昇と景気後退が同時に起きるJPモルガン3月12日「米国が今年リセッション(景気後退)に陥る確率は40%程度、相互関税が発動されればそのリスクは50%以上に上昇する」ロイター3月5日「経済成長率や株価、人工知能(AI)分野の優位性が評価され、投資家の間で米国例外主義が共有されてきたが、その環境はこのところ急変しており、米国から本格的に資金が逃げ出す一大転換点が到来しつつある」サマーズ元米財務長官3月6日「トランプ氏の移ろいやすい政策が、過去50年間にわたり世界経済の中心的通貨として機能してきたドルの役割に対する最大の脅威となっている」物価高と景気悪化が同時に進む「スタグフレーション」のリスクへの警戒感が高まっており、市場は「トランプトレード」から「リセッショントレード」へと急速にセンチメントが悪化している今回のトランプ政権の発表で注目すべきは、完成車だけでなく、エンジン、トランスミッション、パワートレーンといった基幹部品も25%追加関税の対象にするという点です。アメリカで現地生産している車でも基幹部品を日本から輸入して組み込んでいるケースでは、関税分のコストが上がります。また、北米大陸での自由貿易協定であるUSMCA(旧NAFTA)においても、関税適用があることも、ポイントです。USMCAで現在は関税ゼロが適用されるケースでも、トランプ政権は、今後、アメリカ製の部品の調達度合いを勘案して関税を調整すると明らかにしており、カナダ、メキシコとの完成車や自動車部品のやり取りに大きな影響を与えそうです。日本メーカーにとっても、輸出か現地生産かといった単純な選択ではなく、複雑なサプライチェーンの再構築が迫られることになります。トランプ氏は、この措置を「恒久的だ」として、すぐには取り下げない姿勢をアピールしています。ホワイトハウスのレビット報道官も「大統領は製造基盤の再建の決意を固めている」と、その本気度を強調自動車の経済に占める大きさを考えれば、関税というコストによる値上りがアメリカのインフレを加速させることは間違いありません。その一方、価格の上昇が自動車の需要減退を招き、経済の減速を招くことも、容易に想像できます。「トランプ・スタグフレーション」が視野に入って来ました。
2025.03.30
ニュージーランドでM6.7の地震、南島沖 ニュージーランドの南島沖で25日、マグニチュード(M)6.7の強い地震が発生した。同国の災害対策当局は津波の危険があるかどうかを評価している。当局は強い潮流が危険をもたらす可能性があるとして、サウスランドとフィヨルドランド地方の住民に海岸に近づかないよう呼びかけた。政府の地震観測サービス「ジオネット」によると、揺れを感じた人は4700人以上に上った。現地メディアは物が落ちたり建物が揺れたりしたと伝えた。ジオネットの警報によると、震源地はニュージーランドの亜南極諸島の最北に位置するスネアーズ諸島の北西約160キロの地点で、震源の深さ33キロ。米地質調査所(USGS)は、震源の深さは約10キロとしている。地震の規模は当初のM7から引き下げられた。オーストラリアの国立気象局は、同国に津波の影響はないと発表した。💛能登地震、ニュージーランド地震、ビルマ地震 日本の太平洋側も心配(>
2025.03.30
【べらぼう】市原隼人、三味線を奏でる鳥山検校ショットに「涙します」「凜としたお姿」「溢れ出る色気」ファン歓喜市原さん「NHKにて大河ドラマ“べらぼう”より鳥山検校について合同取材をさせていただきました」「様々な作品において、1人の役を通し自分の中で数えきれないほどの複雑な課題を抱き学ばせていただける事に、いつもこれ以上ない感謝をしています」💛ものすごく難しい(光る君への道長の正妻同様に 愛すれど愛されない孤独と威厳と)役を、凛として演じる鳥山を演じる市原の魅力を演出の小谷高義が語った「このドラマでは、実在の人物が数多く登場していますが、鳥山もしかりで。そもそも『検校』というのは、視覚障害のある方々のトップにいる数人の1人。例えば、勝新太郎さんが演じた座頭などは映画などで多く描かれてきていますが、検校は彼らを取りまとめているポジションです。検校は指示を出す立場なので自分は動かない。そういった人をドラマでどう描くのかとなった時に(脚本の)森下(佳子)さんが凄いと思ったのは、瀬川との関係へ収斂しようとしているところでした」検校を描くにあたってポイントになったのが「音」「この作品では、検校の金貸しとしての側面を説明する部分はあるものの、そこまであくどい仕事の部分は見せていなくて。金持ちだからきらびやかな部屋に居るという描き方もあり得たんですけど、“彼は目が見えないのだから、押し出すべきはそういうことじゃないだろう”と。そして、当時検校や座頭たちができる仕事といえば、あんまか三味線。鳥山はあんまの人のようなんですが、今回は音を敏感に感じとる部分を大切にしましょうと。僕が担当した回ですと三味線を弾いてもらったり。新田(真三)の演出回では、足音や気配を感じとるとか。その根拠となるのは音や空気の揺れだろうとかいうことを初期に市原さんにお話ししたら、丁寧に突き詰めてくださいました」「演出の深川(貴志)と視覚障害のある方々に取材されたり入念なアプローチをされていて、常に真摯な姿勢を崩されません。“目が見えないので基本的には人と目が合わない、だったら視線についてどう考えるのか”“この場面での視線はどこに合わせるのか”“ここは目が合う角度に顔を向けてもいいんじゃないか”といったディテールを細かく考えられている」なぜ鳥山は身請けするほど瀬川に惹かれたのか?「鳥山と瀬川が初めて会ったとき、吉原では初会は花魁は客と口をきいてはいけないしきたりがありますが、鳥山の心遣いに感激した瀬川は本を読み聞かせたんですよね。鳥山からすれば、他の客にはやらないことをしてくれたわけで。おそらく彼が吉原を訪れるのは初めてではなく、遊び慣れている。本来は通う花魁を変えてはいけないんだけれども、おそらく彼は金持ちだから特別に許されていて、当代一の花魁である瀬川のいる松葉屋にやってきたんだろうと。自分が嫌がられることに対しても敏感な彼が、瀬川から商売を超えた感情を感じて惹かれていったのではないかと思います」第11回では、蔦重が富本節のカリスマ・富本豊志太夫/午之助(寛一郎)に俄祭りに出てもらうため、浄瑠璃の元締めでもある鳥山を訪ね瀬川と再会する展開となった。鳥山は声を弾ませる瀬川に「ずいぶん楽しそうだな」と言い、瀬川の手を取った際に「脈が速い」と指摘し、蔦重への嫉妬心をのぞかせた。このシーンでの鳥山の心理を、小谷はこう分析する。「蔦重が鳥山と対面し、名乗ったのがこの回でした。第10回で大門の入り口に瀬川を迎えにいった際にも、蔦重が近くにいたのでおそらく何者かの存在があるということは感じているはずです。鳥山にはピュアだなと思う部分もありますけど、花魁を身請けしていろいろなことが起きうることはもちろん承知の上で、瀬川にとって自分がどんな存在なのかは冷静に捉えてはいると思います。瀬川にとって全面的にウェルカムで始まる話じゃないと思っているからだんだん疑心暗鬼になるところがあるんじゃないかなと……」
2025.03.30
ミャンマー地震、エネルギーは能登地震の2倍か…20世紀以降にM7超級を繰り返す3/29(土)米地質調査所(USGS)などによると、28日にミャンマー中部で発生した地震の規模はマグニチュード(M)7・7で、エネルギーは昨年1月に発生した能登半島地震の2倍程度だったとみられる。この地域はユーラシアプレートとインドプレートの境界になっている場所で、地震は岩盤が約200キロ・メートルにわたって水平方向にずれ動く「横ずれ断層型」だった。震源付近には「サガイン断層」と呼ばれる断層が南北に延びていて、20世紀以降にM7を超える地震を何度も起こしている。 震源から約1000キロ・メートル離れたタイの首都バンコクでは、建設中のビルが倒壊した。東京大の纐纈(こうけつ)一起名誉教授(応用地震学)は「長周期地震動」と呼ばれる周期の長いゆっくりとした揺れがもたらしたと見ている。長周期地震動は規模が大きく震源が浅い地震で発生し、高層ビルを大きくゆっくり揺らす。遠隔地まで伝わりやすく、東日本大震災でも震源から約700キロ・メートル離れた大阪市の高層ビルで被害が出た。 纐纈名誉教授は「建物が一気に崩れたのは、地盤が軟らかく、揺れが増幅された可能性がある。工事中だったことも影響したのではないか」と指摘している。○ミャンマー中部を震源とするマグニチュード(M)7・7の大地震について軍事政権は3月29日同国各地の死者が計1644人に上ったと明らかにしたけが人は3408人で行方不明者が139人としている死傷者はさらに増える見通しで軍事政権は国際社会に異例の支援を呼びかけている
2025.03.30
張本美和・木原美悠 WTTペア初優勝!韓国ペアとのフルゲームの死闘を制す【卓球 WTTチェンナイ】3/30(日) <2025年3月25日(火)~3月30日(日)WTTスターコンテンダーチェンナイ/インド>3月29日、女子ダブルス決勝で張本美和(16)/木原美悠(20=木下グループ)が、 シン・ユビン(20)/リュウ・ハンナ(22=韓国)をゲームカウント3-2で破り、WTTでペア初優勝を果たした。シン・ユビン/リュウ・ハンナ PHOTO:World Table Tennis2022年世界ユース優勝、2024年アジア選手権準優勝の“きはりペア”も、WTTは準優勝が最高成績。パリ五輪シングルス4位のシン・ユビン率いるペアが最後の関門となった。第1ゲームは前陣から圧力をかけてくる韓国ペアに対して日本ペアが迫るも、後半でアンラッキーが続き9-11で先制を許す。次は日本ペアの攻めがつながって8-2とリードし、ここから左腕リュウの強打を軸に追い上げられるが11-9で取り返す。3ゲーム目序盤は左右の韓国ペアに押され3-7となるも、ここから5連続ポイントで逆転し、激戦のラリー戦を制し13-11で奪取する。第4ゲームは張本が次々と得点に絡む活躍でペアをけん引。10-8とマッチポイントをつかむも、日本ペアの体に食い込むようなボールで反撃を受け逆転で奪われる。だが最終第5ゲームはミドルを攻めた日本ペアが前半からリードし、最後は木原のバックハンドレシーブが決まって11-5で取り勝利した。Tリーグ・木下アビエル神奈川でも共闘するペアが、ついにWTTのタイトルを手に入れた。<WTTスターコンテンダーチェンナイ 女子ダブルス決勝>張本美和/木原美悠 3-2 シン・ユビン/リュウ・ハンナ(韓国)9-11/11-9/13-11/12-14/11-5張本美和/木原美悠 👏
2025.03.30
トランプ外交への不信感が露わに 「F-35戦闘機」離れNATO加盟国で次々と 日本は大丈夫?025年3月現在、採用国が20か国にまで増えているアメリカ生まれの第5世代戦闘機、それがF-35「ライトニングII」です。ロッキード・マーティン社を中心に開発された同機は、高度な情報処理能力やネットワーク戦に対応する先進的なシステムを備えているため、現代の航空戦の「ゲームチェンジャー」として不動の地位を築いています。しかし、2025年3月に入り、突然その絶対的な優位性に変化の兆しが見え始めてきました。ポルトガルおよびカナダが、相次いでF-35の導入方針を再検討すると発表したことで、これまでとは異なる潮流が生じつつあるのです。これらの国々はなぜF-35の導入を見直し始めたのでしょうか。突如浮上した「F-35離れ」の背景には、アメリカ外交政策の不確実性が大きく影響しているようです。 ポルトガル空軍は現在、防空用としてF-16を運用しており、将来的な後継機としてF-35が最有力と見られていました。しかし、2025年3月14日、同国のヌーノ・メロ国防大臣は、NATO(北大西洋条約機構)およびヨーロッパに対するトランプ政権の外交方針の不透明さが、戦闘機の選定に影響を及ぼし得ると発言し、F-35の選択を再考する可能性を示唆しました。 なお、その後の声明では、F-35が完全に除外されたわけではなく、ヨーロッパ製の戦闘機を含む複数の選択肢と並行して検討されていると修正したものの、慎重な姿勢は崩していません。 翌3月15日には、カナダのビル・ブレア国防相がF-35の代替案を模索し、他の航空機メーカーとの協議を進める意向を表明しました。カナダはすでにF-35の調達を決定し、機体の製造も進行中であるため、完全な導入中止の可能性は低いものの、調達規模の縮小や一部代替機の導入が検討される可能性が浮上したのです。このカナダの決定の背景には、ポルトガルと同様にトランプ政権の外交政策への不信があります。F-35の運用にはアメリカの支援が不可欠であり、特にソフトウェアの管理はアメリカが一元的に行います。そのため、政治的な理由で同国が支援を停止した場合、F-35の運用が著しく困難になるリスクが存在します。公的な発表こそないものの、ドイツ国内でもF-35に対する批判的な論調が強まっています。ドイツは「ニュークリアシェアリング(核兵器共有)」政策の一環としてF-35Aの導入を決定しましたが、核兵器運用というセンシティブな問題ゆえに、アメリカへの政治不信は実効性を揺るがしかねないとの懸念が広がっています。 F-35に対する懸念がにわかに高まった背景には、トランプ政権によるウクライナへの軍事支援の停止があります。支援停止は一時的な措置であったものの、「アメリカ大統領の一存で軍事協力の方針が急変する可能性がある」という事実が、同盟国に衝撃を与えているのです。この出来事を契機に、F-35の運用に伴う「政治リスク」が新たな問題として浮上しました。 従来、F-35は高性能とコストパフォーマンスの良さから多くの国に採用されてきました。しかし、ここにきて「トランプ政権誕生によるアメリカの政治的安定性」という要素が懸念材料になりつつあります。現時点では、F-35が世界の戦闘機市場において圧倒的なシェアを維持していますが、同盟国の不信感が拡大すれば、他の選択肢が注目を集める可能性も否定できません。 F-35が引き続き世界の主力戦闘機であり続けるのか、それとも新たな戦闘機が台頭するのか。その未来は、トランプ政権のあり方によって大きく左右されることになると考えられます。
2025.03.30
「安居院庄七と鷲山恭平」報徳記 巻之四 【2】中村玄順先生に見え教へを受く その2報徳記&二宮翁夜話198報徳記巻之四【2】中村玄順先生に見え教えを受ける野州(栃木県)芳賀郡中里村の玄順という者は代々農民だったが、大変世渡りがうまくて言葉巧みであった。農業が嫌いで、医術を学んだり、あるいは剣術を学んで世に出ようという志を持っていた。しかし、いずれもそれほどの技量に達せず、人はこれを信じなかった。ある時、妻にこう言った。「およそ辺鄙な場所にいる者は、技能があっても名をなすに至らない。 名をあげ、幸いを得ようとするならば、その居場所を選ぶ必要がある。 だから私は江戸に出て、医術で名前をあげようと思う。 なんじは一緒に行くか。」 妻はこの言葉を信じなかったが、夫の命にやむを得ず行きましょうと言った。 玄順はそこで田畑を村民に託して、妻子とともに江戸に上り、下谷御成街道に住まって、黒川玄順と門札をかけて、医業で世渡りしていた。もとから医業は拙かったから頼む人もなく、歳月がたつに従って貧困極まるようになった。その日の食事もままならぬようになった。玄順は生活の道を百方探したが、生活を維持することもできず、妻子の衣類を質入してその日の食にあてるようになった。妻はため息をついて言った。「あなたの医術が拙く、野州の辺土でもなお業を立てるに足りませんでした。 ましてや江戸で良医博学の者が軒を並べた土地で、成功しようとする。 私はもとよりそれが不可能だと知っていました。しかし夫の命に従わない時は婦道は立ちません。そこでやむなくこの地へ参りました。はたして貧窮はどうすることもできません。このようにして歳月を送るならば、ともに飢えてしまうでしょう。私にお暇をください。女の子の一人は私が連れて故郷に帰り、人の田を耕してなんとか二人分食べることはできましょう」と怨みを含んで離別するよう願った。玄順は驚いて止めたが、妻はうんと言わず、やむなくその離別の要求に応じた。妻は女の子の一人を連れて故郷に帰った。玄順はいよいよ貧苦に陥った。玄順は以前細川候の藩医である中村というものと親しかった。そこで行って救いを求めた。中村が言った。「あなたは負債が多く、貧窮もひどい。私の微力で救うことはできない。すぐに家財を売り払って借金の返済にあてて、私のところへ来なさい。私があなたを扶助しましょう。その外に方法はありますまい。」と言う。玄順はその言葉に従って家を廃して、中村の長屋に来て食客となって、あるいは薬種を刻んだり代脈をとったりして歳月を経た。しかし中村は急病で亡くなってしまった。子はなかったため、中村の家は断絶になるところだった。細川候はこれを憐れんで、数年中村が懇意にしていた玄順であるからと、養子にさせてその家を継がせた。こうして中村の不幸は玄順の幸福となって、細川候の扶持をいただけることとなった。しかし、医業の技量が拙く、利益なく財産を費消することが多く、たちまちに借金が25両となった。これを返そうにも方法がなかった。ある人が玄順にこう告げた。「野州桜町陣屋に二宮先生がいて、廃家を興し、廃村を再復している。常に無利息の金を貸して人の艱難を救うという。今、西久保の宇津家の屋敷にいるときく。あなたはこの人にあって無利息金を借りて、負債を償うならば幸いではないか。」玄順は喜んですぐに西久保におもむいて、横山周平に会って先生に面会を求めた。横山はこれを先生に告げたが、先生は私は自分の事業で忙しく、医者に会って談論するひまなどないと許されなかった。玄順は再三来てやまなかった。横山はその貧乏なのを憐れんで先生に面会するよう一生懸命頼んだ。先生は横山のためにやむなく玄順に面会された。これが細川候の仕法の発端である。報徳記 巻之四【2】中村玄順先生に見え教へを受く野州芳賀郡(はがこほり)中里村玄順なるもの世々農民なりしが、頗る世才ありて辯佞(べんねい)なり。農事を好まず、醫(い)を學び或は撃劒(げきけん)を學び世に出でんとするの志あり。然れども其(その)業に達せずして人之を信ぜず。或時妻に云ふて曰く、凡そ邊鄙(へんぴ)に身を置く時は、藝術(げいじゅつ)ありといへども名を爲すに足らず。凡そ名を揚げ福(さいはひ)を得んとすれば、其の居所を撰(えら)ぶにあり。是(この)故に我(われ)江都(かうと)に出でて、醫術(いじゅつ)を以て名を顯(あらは)さんとす、汝共に往かんか。妻此の言(こと)を信じ難きを知ると雖も、夫命(ふめい)已むことを得ず往(ゆか)んと云ふ。玄順是に於て田圃(でんぼ)を邑民(いふみん)に託し、妻子と共に江都(かうと)に登り、下谷御成街道に卜居(ぼくきよ)して、黒川玄順と門札を掛け、醫(い)業を以て渡世とせり。元より其の術拙きが故に人之を用ゐず。歳月を經(ふ)るに隨(したが)ひ貧困既に極まり、その日の煙りを立難きに至れり。玄順活計の道百計を盡すと雖も、故なくして生財の道あらざれば、妻子の衣類を典し、其の日の食に當(あ)つるに至れり。妻歎息して玄順に謂うて曰く、良人の醫術(いじゅつ)元より拙し、野州の邊土(へんど)といへども猶業を立つるに足らず。況や大都良醫(い)博學のもの軒を並べたるの地に出でて、福(さいはひ)を求めんことを計る。妾(せふ)素(もと)より其の不可なることを知れり。然れども夫命(ふめい)に隨はざる時は婦道立たず。已む事を得ずして共に此の地に至れり。果たして貧窮如何(いかん)ともす可(べか)らず、猶此の如くにして歳月を送らば、共に飢渇に及ばん而已(のみ)。願はくば妾(せふ)に暇(いとま)を給るべし。女子二人の内一人は、妾(せふ)之を携へ故郷に歸り、人の田を耕すも尚(なほ)二人の口は養ふべしと怨みを含みて離別の書を請ふ。玄順愕然之を止(とゞ)むと雖も肯はず、已むことを得ずして其の求めに應(おう)ぜり。妻一女子を携へて故郷に歸り、玄順彌々(いよいよ)貧苦に堪へず。曾て細川候の藩醫(い)中村某(それ)なるものと懇意なり。故に往きて愛憐を請ふ。中村曰く、子負債多くして貧窮甚だし、微力の救ふべきにあらず。速かに家財を借財に當(あ)て、門戸を廢し、我が方に來るべし。我(われ)子(し)を扶助せん而已(のみ)、他の術なしと云ふ。玄順其の言に隨ひ家を廢し、中村の長屋に至り、食客となり、或は藥種を刻み、代脉(だいみやく)をなし歳を經(へ)たり。然るに中村某(ぼう)俄(にわ)かに疾(やまひ)に罹(かゝ)りて死せり。子なし。家(いへ)斷絶(だんぜつ)に及ばんとす。細川候之を憐み、數年(すうねん)中村が懇意の玄順なれば、之を養子として家を繼(つが)しむ。是に於て中村が不幸は玄順の幸(さいはひ)となり、君の扶持を食(は)む事を得たり。然れども元より其の業(げふ)拙きが故に、利を得ること少なく財を費やすこと多きが故に、忽(たちま)ち借債25両となる。之を償はんとすれども其の道を得ず。或人告げて曰く、野州櫻町陣屋に在りて、廢邑(はいいふ)再興の道を行ふ二宮先生なる人あり。常に無利息金を貸して人の艱難を救ふといへり。當時(たうじ)西久保宇津家の邸内にあり。子此の人に就いて無利息金を借り、負債を償(つぐな)はゞ大幸(たいこう)なるべしと。玄順大いに悦び直ちに西久保に至り、横山周平に逢(あ)ふて先生に見えんことを請ふ。横山之を告ぐ。先生曰く、我が業あり、何ぞ醫(い)に逢ふて談ずるの暇(いとま)あらんやと之を許さず。玄順退き再三來(き)て止まず。横山其の貧なるを憐れみ先生に請ふこと甚だ切なり。先生横山の爲に已むことを得ずして玄順に面會(めんくわい)せり。是細川候仕法の發端(ほったん)なり。
2025.03.30
フードバンクの倉庫から消えた米 価格高騰で「緊急事態宣言」も3/29(土)米価格の高騰が続く中、生活困窮者に食料を支援するフードバンクの草分け的存在として知られる東京都内の団体でも倉庫の米が尽き、SOSを発している。25年にわたり活動を続け、リーマン・ショックなどの経済危機に見舞われた時期も生活困窮者を支えてきたが、米の高騰に加え、購入先も見つからないというダブルパンチに援助を求めている。◇米4トン収納の倉庫が…… 「お米がない!緊急事態宣言」。一般社団法人「あじいる」(東京都荒川区・今川篤子代表)は3月上旬、食料を提供してきた生活困窮者の支援団体に窮状を伝えるメッセージを発信した。2000年に全国に先駆けてフードバンク事業を始めて以来の危機だという。27日に事務所を訪ねると、4月上旬には支援団体から約1トンの米が求められているのに、4トン収納できる倉庫には20キロ入りの米袋が三つあるだけだった。 あじいるは、野宿者やシングルマザー、DV(家庭内暴力)被害者、高齢者、外国人などの支援団体に米やレトルト食品、缶詰といった食品や衣料品を配布している。各団体に配る米は毎月約1トンで年間約12トンにもなる。 ◇「異常事態だ」頭抱えるスタッフ 米や食品は市民からの寄付のほか、農家から前年の余った米を譲り受けてきた。また、田んぼを借りて米作りにも取り組み、年に1・2トンの米を自前で確保してきた。ここ数年は農家からの寄付が減少しており、足りない分はカンパを集めて米を買ってきた。だが、昨年以降、市民からの寄付も激減し、年明けには倉庫から米が消えた。例年、不足分は購入してまかなってきたが、今年はどのルートをたどっても入手できないという。あじいるのスタッフ、中村光男さんは「異常事態だ。これまで協力してくれた市民は米の値段が倍になったことで寄付ができず、農家は在庫のない状況なのだろう。生活困窮者をどう救うか頭を抱えている」と話す。 ◇フードバンクにも「備蓄米支援を」 フードバンクは00年前後に急増した野宿者への炊き出しによる食料支援を、都内各所で安定して続けるために設立したのが出発点で、今では多様な生活困窮者を食料面で支えている。あじいるが支援団体に影響を聞いたところ、「米の代わりにうどんやインスタント麺で代用している」(高齢者の支援団体)▽「毎月100軒に4キロずつ配っていた米を3キロに減らした」(生活困窮者の支援団体)▽「米の寄付がなくなれば弁当配布の活動は中止せざるを得ない」(困窮者の支援団体)などと厳しい状況を訴える声が多数寄せられたという。 毎月、米を受け取ってきた30代のシングルマザーは小学生2人を育てている。もらえる米は半分の2キロに減った。「それでもありがたい。お米を使うメニューを減らし、うどんやすいとんなどでしのいでいる。レトルト食品ももらっているが、それをかけるご飯がないのがつらい」とため息をついた。中村さんは「フードバンクの食料が命の綱になっている人は多い。命を支えるため、備蓄米をフードバンクに直接支援することを政府は本気で考えてほしい。市民にも広く応援をお願いしたい」と話している。
2025.03.29
逗子市立図書館に「安居院庄七と鷲山恭平」を寄贈した3月29日の朝逗子市立図書館から「報徳文化研究所ですか」と電話があった。「安居院庄七と鷲山恭平」が選定会議で受け入れない事に決定した、昨年寄贈の「現代語訳 安居院義道」と一緒に返却したい」との連絡。「すぐ取りに参ります大切な本を廃棄せずよかったです✨ご連絡有難うございます」と雨の中、傘をさして、電車で逗子駅まで出かけ、逗子市立図書館に受け取りにでかけた。「先ほど、電話をいただいた 報徳文化研究所の者ですが」というと、すぐに2冊封筒に入ったのを受け取った。返却されるが本を無駄にせず循環して再度活用出来るのが嬉しい(^^)2冊とも東京大学総合図書館あて寄贈する。蔵書としていただけるであろう。東京大学総合図書館には既に14件が蔵書となっている。1. 訳注静岡県報徳社事蹟 2. 二宮先生語録 : 読み下し全ルビ原文・現代語訳 / 齋藤高行著3. 遠州報徳の師父と鈴木藤三郎 4. 二宮尊徳の報徳の教えが世界に広まり真正の文明の実を見ることを : 「報徳記」第六~八巻全ルビ補注付原文、現代語訳 5. 報徳は国を興し民を安んずる大業である : 「報徳記」巻の三、巻の四、巻の五 : 今野華都子先生仙台講演録収録6. 補注鈴木藤三郎の『米欧旅行日記』 : 明治29年(1896)7月24日-同30年(1897)5月8日 / 鈴木藤三郎7. 『報徳記』第二巻 報徳は精神変革である 8. 内村鑑三神と共なる闘い : 不敬事件とカーライルの「クロムウェル伝」9. 内村鑑三神と共なる闘い : 不敬事件とカーライルの「クロムウェル伝」 10. 札幌農学校教授・技師広井勇(いさみ)と技師青山士(あきら) : 紳士(ジェントルマン)の工学の系譜11. 『報徳記』第一巻(『報徳要典』準拠全ルビ原文(朗読・輪読用)、現代語訳、資料集) 12. 新渡戸稲造 (にとべいなぞう) の留学談・帰雁 (きがん) の蘆 (あし) / 新渡戸稲造13. 鈴木藤三郎 : 日本近代製糖業の父・台湾製糖株式会社初代社長14. 報徳産業革命の人 : 報徳社徒鈴木藤三郎の一生
2025.03.29
"女子短大ばなれ"が加速!? 「2022年度から1億円を超える赤字が続いていた」 “存続困難”で26年度以降の募集停止を発表 愛知文教短期大学『愛知文教女子短期大学』をはじめ、愛知県内の“女子短大”が続々と方針を転換。時代の流れと共に、学生たちの進路に変化が起きているようです。“定員割れ”による、1億円を超える赤字が続く愛知県稲沢市にある『愛知文教女子短期大学』が、2026年度以降の学生募集を停止することを発表しました。募集停止に至った主な要因は、定員割れによる赤字財政です。同学担当者によると、2024年度入学生より総定員充足率が50%を下回り、2022年度より経常収支も1億円を超える赤字になったといいます。2023年度から2025年度の経営改善計画を策定して取り組むも、3年連続で未達成という結果に。“今後も財政的な改善が見込めない”という判断から、2026年度以降の入学生の募集停止に踏み切りました。2022年度から、1億円を超える赤字となっていた『愛知文教女子短期大学』。いつ頃から、どれほどの割合で定員割れが起きていたのでしょうか。担当者によると、2021年度に定員充足率が98%となり、初めて“定員割れ”を記録しました。その後、2022年度は85%、2023年度は60%、2024年度は47%と定員充足率は下降し、2025年度は44%の見込みだといいます。担当者曰く、経営上、定員充足率は70%以上が必要。しかし同学では、2023年度以降、70%以下の定員充足率が続いていたのです。愛知文教女子短期大学を運営する、学校法人足立学園では、愛知文教大学、愛知文教女子短期大学付属の3つの幼稚園(ぶんきょう、一宮ひがし、はぎわら)を運営しています。今回の決定に伴う影響については、「幼稚園はこれまでと変わりなく運営できると考えている」とし、「同一の学校法人ということで、影響が全くないとは思いませんが、短期大学とは、修学年数、教育分野、所在地が異なりますので、愛知文教大学への影響は小さいと思います」と、愛知文教大学への影響についても答えました。過去3年、幼児教育学科の就職率100%を誇るなど、多くの保育士・幼稚園教諭を輩出してきた『愛知文教女子短期大学』。「資格取得という観点からは、教員免許二種(短大)と一種(四大)の違いはありますが、本学で取得できる二種免許でも、学生の希望する就職先は確保できていると考えています」と、近年の就職状況について答えます。近年、保育現場では“人手不足”が課題となっていますが、そもそも保育士を目指す学生が減少しているのでしょうか。担当者は、近年の保育士希望者に傾向について、「本学は、幼児教育学科第1部(昼間制)と幼児教育学科第3部(昼間定時制:半日)がございます。両学科ともに入学者は減少傾向ですが、一定の学生確保ができている他大学もありますので、一概に“保育士を希望する学生が減少している”というデータはありません」と回答しました。続けて、「少子化、“女子短大ばなれ”は、定員割れにつながっていると考えています」と見解を述べています。文部科学省が発表している「令和5年度全国短期大学一覧」によると、愛知県内の私立女子短大は全7校。しかし全7校のうち、名古屋女子大学短期大学部は2025年度以降の学生募集を停止、岡崎女子短期大学は2026年度より共学とし、「岡崎短期大学」へ名称変更を行う予定であることを発表、名古屋短期大学は2024年度の新入生以降は共学化となるなど、転換期を迎える女子短大が増加しています。近い将来、全7校のうち4校の女子短大がなくなる愛知県。時代の流れと共に、学生たちの進路にも変化が起きていました。
2025.03.29
SP5位坂本花織がフリーで会心の演技披露も逆転で4連覇には届かず合計217.98点で銀メダル今大会は来年2月ミラノコルティナオリンピックに向け国・地域別の出場枠が懸かり日本勢上位2人の坂本と千葉の順位合計が「5」で「13」以内クリアし出場枠最大「3」獲得花織さん👏坂本花織 涙、涙、涙の世界選手権銀メダル 充実感と悔しさ入り交じり「いろんな感情がこみ上げた」3/29(土) ◆フィギュアスケート 世界選手権第3日(28日、米ボストン) 女子フリーが行われ、ショートプログラム(SP)5位から出た坂本花織(シスメックス)が、146・95点、合計217・98点で2位。会心の演技で追い上げたが、SP1位のアリサ・リュウ(米国)が合計222・97点で優勝し、66年ぶりの4連覇はならなかった。試合後の会見では「今日の演技は自分のできることをやりきれたので、満足しています」と語った。 アメリカ・ボストンの会場で演じたフリー「シカゴ」は、冒頭のダブルアクセル(2回転半ジャンプ)から次々とジャンプを着氷。7本全てを降りて演技後は喜びを爆発させたが、後半の連続ジャンプなどで回転不足がついた。「今日は会場入りする前から、とてつもなく緊張していて」と坂本。自身の演技後、残る4人のスケーターの演技をリンクサイドで見ていた。涙し、海外メディアからその理由を問われ「4人の演技に感動して、泣いて、アリサが優勝して、すごく嬉しくて泣いて。それ同時に、いろんな感情がこみ上げてあんな感じになった」と、振り返った。 4連覇はならず。それでも「今回の結果を経験できたおかげで、次はチャレンジャーの気持ちで挑める」と前を向いた。日本勢は、26年2月のミラノ・コルティナ五輪の国・地域別出場枠を最大「3」確保。五輪シーズンに向け、坂本は「次のミラノ五輪に向けて大事な経験だったと思う。この悔しさは、きっと必要な経験だった」と、収穫を口にした。
2025.03.29
「沢木興道 この古心の人」よりp.305-3087 松阪養泉寺単頭時代の行状体で示す禅の真髄大正3年、駿河安養寺の江湖会(ごうこえ)中、一人の僧が興道のところにやってきて、丘老師に独参したいので取り次いでほしいという。『従容録(しょうようろく)』第65則『首山新婦(しゅざんしんぷ)』*について開悟するところがあり、老師の点検をこうと言う。「挙(こ)す。僧、首山に問う。如何なるか是れ仏。山云く、新婦騎驢阿家牽」やってきた僧は、室外で型のごとく礼拝し、室内に入ると尻をはしょって手綱(たずな)を締める身振りよろしく、馬を叱咤する声で調子をとりつつ部屋中を歩きまわった。老師「なんだそれは。なんの真似をしておるか」僧はさらに大真面目で馬ひきの声勇ましく歩きまわる。「やめい、馬鹿もん、やめんか」老師の大喝をくらい、僧はしばらく呆然として棒立ちになり、やがて一礼してしょんぼりと帯出した。沢木興道が公案を課して坐禅せしめる方式を退け、専ら法益によって学人を只管打座の実践に導入する方式を貫いたのは、ほぼこの時期に不退転の決意になった。○「沢田興道聞き書き」86-88頁笛岡方丈のある時の話に、「宗門の多くの人は、教外別伝や不立文字ということを浅く解して、教相を勉強せぬ人が多い。しかし教相を知らぬようでは、宗門の最上乗禅を発揮することはできない。石川素童和尚がかつて、東京の日ヶ窪の曹洞宗大学林の講師をして『従容録』の提唱をしたときに、天台宗の坊さんが聴講に来て、自分(笛岡)に『あれが、あんたんところの宗乗ですか』と尋ねたから、『ええ、そうです』と答えたら、『では曹洞宗という宗旨は、別教の分際ですな』と言った。ところが、そのころの自分は別教ということが、どんなことだかわからなかった。そこで、それからは広く仏教一般の教相を学ばねばならぬと思って比叡山に行って勉強することにした。天台宗には教相判釈(きょうそうはんじゃく)といって、仏教をその宗旨の浅深によって、蔵教(ぞうきょう)・通教・別教・円教の四つに分けて、円教を最高最深の教えとした。すると別教は、円教より一段低い教えということになるそういう他宗の学問も広く勉強していないと、このように天台宗でいう円教にしら到達せぬ別教の坐禅を、とくとくとして、みずからもやり他人にも説いていることがある。外道も小乗の人も、権大乗の人も、実大乗の人もみな同じように坐禅して、外形は同じだ。ただその坐る内容がまったくちがうのである。それゆえ、広く仏教のいろいろな教相を勉強して知っていないと、自分のやっている坐禅が小乗か、大乗かさえわからず、道元禅師のお教えになる最も深い『只管打座』もわからないであろう。 -只管打座ということは、教相や学問を持ち込んで坐るのではないが、その『只管』という意味内容が納得できて、只管打座するのでなければならぬ。それにはどうしても、深く教相を学んで修行を誤らないようにしなければだめだ。教相は、もの指しであり、秤(はかり)である。興道さんも、だから教相をうんと勉強しなければいけない」- 師はこんなふうに教えられた。後年になって、わしが法隆寺で教相を本腰になって勉強したのも、あのころの笛岡方丈の示唆によるものである。*第六十五則 【首山新婦】 しゅせんしんふ皆の者に示して言う。砂漠は轟々とうなり、剥がしつづけて落ちていく。刀がつらなり天を向き、思いもかけず汗をかくことだらけ。噛みくだくことが出来れば消えてなくなり、そばに近寄ることは難しい、そこで言う。これはなんの話か?あるとき、僧が首山和尚に質問する。僧 「仏とはどんなものでしょう? 」首山 「新婦がロバに跨れば、姑がその手綱を引くようなもの 」頌云、新婦騎驢阿家牽、體段風流得自然。堪笑學顰鄰舍女、向人添醜不成妍。詩文に言う。新婦がロバにまたがり、姑がそれを引く。地形に沿って風が流れるのは自然の持つ性質。(西施という美女の)眉をひそめた顔を真似するとなりの家の女の話のように、思わず笑ってしまい、人に向って醜い表情をすれば、美人には成らない。
2025.03.29

通信95号よりMさんから、「遠州報徳の師父と鈴木藤三郎」を300冊増刷してほしいとの依頼で、印刷所に連絡する。Mんの自己負担(20万円近く)で増刷し、世に普及させようとする熱意に感動する。「克(よ)く譲る」であり、「報徳の精神」が身についていなければ出来ることではない。浜松の中村譲庵の言動を「安居院庄七と鷲山恭平」51ページに載せたが、譲庵の言動を彷彿させる。「中村藤吉翁言行録」(以下「言行録」という。)著者:桑原久治郎、鈴木良、1923年出版、中村藤吉は浜松の棒屋(小間物屋)の屋号で代々襲名であり、四代目が譲庵である。六代目藤吉は地元浜松の名士で、昭和37年浜松民報社発行の「遠州偉人伝」第一巻に「中村藤吉」があるが、六代目は丁寧に書かれているが、譲庵については情報が少ない。「浜松の中村譲庵はいつも「我が事を先に先にとすれば悪、人の事を先に先にとするは善になる。」と、教えられた。新田地を大場治平と共同して経営したとき、時々波浪のために堤防が荒らされ、そのたびに費用と手数がかかってやりきれない。子息の棒屋中村藤吉氏がこれを放棄したほうがよいと、父に迫ったとき、父譲庵は大変怒って「己れはソロバンを以てせぬ。教えによって開発する」と叱った。」とある。 「我が事を先に先にとすれば悪、人の事を先に先にとするは善になる。」は、「中村藤吉言行録」によれば、安居院庄七の教えとある。p.11「厳父(譲庵)は従来二宮尊徳先生の首唱せられたる、報徳の教えを信奉し、安居院義道先生の門に入り、一意その教えを遵守せしを以て、また翁(六代目)に諭してその教えに帰向せしむ。」p.37「安居院大人の説として、譲庵翁に伝えたる所によれば、諸人は常に悪事はなさざることと思うべけれども、その朝夕皆悪事を為しつつあり。ただそれのみにては首是せられまじ。更に説明せん、「人の事を先にすれば善」「我が事を先にすれば悪」、この標準に照らして何れを先に為すか、考一考せば善悪の行為自ら明了せんと。」p.38「厳父(譲庵)かつて翁(六代目)を誡む。曰く、小事に注意し、大事に驚くなかれ、仇に報ゆるに徳を以てすべしと、翁常に服膺し、善く実際に履践してその効益を得しこと大なりと云う。」「安居院庄七と鷲山恭平」の本の作成と普及もまた『安居院先生の教え』によって作成し、そして安居院先生の教えによって、神奈川・静岡そして全国の図書館に寄贈する。・八幡正則さんから『怠れば廃るー二宮尊徳に学ぶ協同の魂と幸せの条件ー』と小冊子『西郷さんの意を体して『相馬仕法』を修行した旧薩摩藩士』を郵送で頂戴した。・お手紙には「安居院庄七のご縁で知り得たことをたいへん嬉しゅうございます。」「さて、私が二宮尊徳翁を『心の師』としていることは、同封の拙著『怠れば廃る』=農協運動心得六カ条=をお目通し下さって御推察下さい。」とあった。(略)報徳のご縁で○○さまと知り得たことを有り難く存じます。時節柄、ご自愛とご精進をお祈り申し上げます」こちらこそ報徳実践の大先輩を知り得たことをとても喜ぶ。・静岡県で浜松市立中央図書館に次いで富士宮市立図書館の蔵書となった。
2025.03.29
通勤手当は「報酬」か 石破総理 感覚は「報酬?そ、そ、そうですかね」3/28(金)立憲)吉川沙織氏「通勤手当が支給されているからといって可処分所得が増えるわけでもなく、それで標準報酬月額が増加するというのは納得感という意味ではそれに乏しい仕組みではないでしょうか」石破総理大臣「私も定期を使って通勤しておった時期って結構ございます 感覚からすれば実費弁償なんだろうね。感覚からすればね。これを、報酬と言われるとそ、そ、そ、そうですかね?というか」通勤手当は、月15万円までは非課税とされている一方、社会保険の対象となる「報酬」には含まれます。石破総理大臣は自身もサラリーマンとして通勤した経験を振り返り「感覚からすれば実費弁償だ」として報酬とされることには違和感も示しました。これまで政府の中でも様々な議論があったとしたうえで、「納得いただけるものを見出す努力をする」と述べました。💛通勤手当で標準報酬月額が増加するのを抑えるのを防ぐためにも、所得税の非課税枠をあげて働く人の手取りを増やす政策を。年収103万円の壁、次は「178万円」に引き上げを…国民民主が経済対策発表国民民主党は26日、夏の参院選の公約の柱となる経済対策を発表した。「もっと!手取りを増やす」と銘打ち、所得税の非課税枠「年収103万円の壁」を178万円に引き上げることなどを盛り込んだ。 基礎控除の年収要件の撤廃を明記したほか、ガソリン税に上乗せされている暫定税率を6月までに廃止することや、電気・ガス代の値下げも掲げた。 現役世代の社会保険料を軽減するため、高齢者医療費について、支払い能力に応じた原則2割の窓口負担などの制度改正を提唱。高騰するコメ価格の安定に向け、「食料安全保障基礎支払い(直接支払い)制度」を創設するとした。
2025.03.29
青山俊董老師「今、ここから始めよう」(2013年12月)207-212頁インドに立ち、釈尊の声を聞く近代の聖人たちが差別撤廃に努力した地で13日間にわたる仏跡巡拝の最後、パトナより空路、西インド・デカン高原の北、ムンバイ(ボンベイ)を訪ねた。この町でガンジーが、人種差別法令の撤廃に努力し、無抵抗、非服従によるインド独立運動に生涯をかけ、凶漢に殺され、人々はマハトマとその徳を慕ったことを。同じくこの町の不可触民出身のアンペドカル博士のことを。*アンペドカル博士インドの不可触民解放運動の指導者。不可触民(ダリト)の分離選挙を主張してガンディーと対立した。ヒンドゥー教を差別の根源にあるとして捨てて、仏教に改宗した。インド独立後、1950年に制定されたインド憲法を起草した。ビームラーオ=アンベードカル(Bhimrao Ramji Ambedkar 1891~1956)はインド中・西部のマハールという不可触民のコミュニティに生まれ、刻苦勉励して、コロンビア大学とロンドン大学の博士号を及び弁護士資格を取得した。幼いときからヒンドゥー教徒からの差別を感じて育った。1920年代後半から不可触民に対する差別に反対する運動が政治問題化したが、アンベードカルはその指導者となり、ガンディーなどのヒンドゥー教徒カースト内の人々の運動である国民会議派に対しても批判的な活動を続けた。インド独立後は法相となり、インド共和国憲法起草委員会委員長としてインド憲法の原案作成に当たった。彼が起草したインド憲法は、1950年に制定された。彼は不可触民差別の根源はヒンドゥー教にあるとして、1956年に数十万の不可触民(マハール)とともに仏教に改宗した。 インドのインドの反英闘争(20世紀)では、日本ではガンディーの名はあまりにも大きく、ある面では偶像化されているが、不可触民の解放という点ではガンディーと鋭く対立しながら、それに劣らない重要な活動をしたのがアンベードカルであった。
2025.03.29
「報徳の歌ー二宮尊徳道歌から学ぶー」小関栄著 7 推譲の歌 (111頁)餌(え)を運ぶ親のなさけの羽音には 目をあかぬ子も口をあくなりこの歌は愛情を詠んだもので「慈悲」という題名がついています。この歌のポイントは「親のなさけ」です。親子の愛は仏の慈悲とも感じられ、これをこの歌の題をしているのです。*餌(え)を運ぶ 親のなさけの 羽音には 目をあかぬ子も 口を開くなりこれは親の慈悲の歌である。尊徳先生は、父利右右衛門35、母よし21のときの長男である。4歳のとき、弟友吉が生まれ、13歳のとき、末弟の富次郎が生まれた。家は小田原栢山地区の中堅の農家だったが、先生5歳のとき8月5日の暴風雨により酒匂(さかわ)川が決壊し、田畑は一面に石や泥だらけになった。7歳のとき父は負傷し、田を質に入れて開墾を続けたが、病気がちで11歳の頃からたびたび床に伏すようになった。金次郎は父にかわって川の堤防工事に出たり、わらじを作ってはそれを売ったわずかな金で病に伏せっていた父に酒を買ってきて喜ばれた。親の喜びは自分の喜びであるということを身をもって体験されたのである。もはや父の病の薬代さえ払えず、父は残った田を売り払い、医者への謝礼とした。しかし医者は受けずようやく半金だけ受け取らせて残り半金を生計のたしにできると喜んで帰ってきた。金次郎は父を気遣って家の門口で父の帰りを待っていた。父が医者の慈愛のある言葉を喜んで、顔に笑みを浮かべて舞うように喜んで帰ってくる。「お父さん、どういうわけでそんなにも喜んでおられるのですか」と問うた。父は、医者の慈愛のこもった言葉はこのようであったと話した。「私はおまえたちをこれで養育することができる。喜びにたえない」後年、尊徳先生は門弟たちに夜話されるとき、親の慈愛を思って涙を流されて語られたのであった。金次郎が10歳、友吉が7歳の頃である。母の実家の曾我別所の川久保家で法事があり、供養に招かれた。父が病気のため伏せっていた。母は貧乏のため、ボロの着物しかなかったが、二人の子どもを連れて出かけた。「今日はほとけ様(亡き父親)の正客なのですよ」お坊さんが来て読経をして、縁者が皆来合わせて焼香をした。法事も終わって、本膳となり懇談することとなる。ところが、他の者は当主太兵衛(よしの兄)の挨拶にしたがって、それぞれ膳についた。しかし、母にはなんの言葉もなく、台所で普段使っている薄汚れた膳で食事をさせたのであった。母は悔しさと恥ずかしさで胸がはりさけんばかりであった。母は食事を終え、墓参りをすますと、挨拶もそこそこにいとまごいして帰路についた。「いくら貧乏でまともな着物でないからいって、実家の仕打ちはあんまりだ」不機嫌になって顔色も悪かった。金次郎はそんな母をきづかって、母に問うた。「母さん、おかげんがわるうございますか。」「お前は何事にも父さんや母さんのことをよく心配してくれるねえ。喜ばしい。 何も悪いところはないよ。心配しなくて大丈夫だよ。」「それでも母さんのお顔の色が悪いですよ。 母さん、今日、わたしにはわからないことがございます。 母さんは曾我へまいるときは、仏さまにとって正客だとおっしゃったのに、ほかのお客様は和尚さま同様に本膳でお座敷でした。 母さんは台所で普段使っているお膳でしたが、どういうわけでしょうか。」 母は胸も張り裂けそうな思いから、顔を横にそむけ、涙を流して、しばらく言葉もなかった。 しばらくしてから「お前は子どもなんだからそんなことは聞かなくてもいいよ」「わたしにはわかりませんからお教えください」「あれは私の身勝手で、父さんは病気だし、友吉は小さい。早く帰りたい。でも皆さんとご一緒だとうちへ帰るのが遅くなるからだよ。」「母さん、そうではありますまい。皆さんとずいぶん違いました。私は曾我が悪いと思います。」 母は返答に困って涙を流すばかり。金次郎はこれを見て謝った。すると母が「病気のお父さんのお耳に入れてはいけないよ」と念押しした上で金次郎と友吉こう言い聞かせたのであった。「二人ともよく聞いておくれ。 父さんの病気がちはもとはといえば、酒匂川の堤が破れて田地が流されてのこと。 不幸が重なり、何の貯えもなく、貧乏して親類の世話になり、何事も心にかなわず、馬鹿にされている。 これは親類が悪いのではない。こちらが悪い。人を恵むものなど世間にはまれだ。 母さんが生まれた里でも肩身がせまくて残念だけれども、これも不運でしかたがない。 何もしらないお前たちにまでこんなことを聞かせ、苦労させるのは親の恥だけれども、こういう困窮の家で親子となるのもなにかの因縁だ。親の未熟とあきらめておくれ。 」 涙ながらの母の言葉に、金次郎も胸いっぱいになり、やや久しくしてきっと唇に決意をこめてこう言った。「母さん、よく分かりました。父さん、母さんきっと長生きしてください。 わたしが成人したらよく精出して働いて父さん母さんをきっと楽にして安心させます。 」 母はこの言葉に機嫌を直し、「まだ、年もいかないのによくそう言ってくれた。」と二人の子どもの手をしっかり握り締めてから、三人手をとって、楽しくうれしく父が待っている家へ帰ったのであった。これが、おそらく二宮金次郎の願の原点である。この父、母の慈愛あればこそである。
2025.03.29
ひろゆき氏、泉房穂氏を擁護「魅力的な政党ない」「頑張ってないのは政治家」発言は間違ってると思えない3/28(金)「元明石市長の泉房穂氏の『魅力的な政党がない』という発言は、前回の衆院選の投票率が戦後3番目に低いのを見るに間違ってるとは思えない」。 「『頑張ってないのは政治家だ』という発言も子供の数が40年間減り続けてる事から間違いではないかと。問題視する程の事かな、、、と思うのは、おいらだけ?」国民民主、参議院選挙に出馬予定の泉房穂氏を支援せず…出馬会見で「公党に対し敬意を欠いた」「「先日の出馬会見を拝見し、あまりにも公党に対する敬意を欠いたものだったため、泉氏への兵庫県連における推薦の検討をとりやめ、国民民主党独自候補擁立の方向で動いています」同選挙区への党の独自候補擁立を検討する。玉木氏「『国民民主は連立に入った方がいい』とむしろアドバイスをいただいた。その際、泉氏から『自分は議員よりも大臣などで経験を生かしたい』旨の発言があったと記憶している」「玉木雄一郎代表、誠に申し訳ありませんでした。私の配慮の欠けた対応により、多大なるご迷惑をおかけしたことにつき、心からお詫び申し上げます。玉木雄一郎代表には明石市に視察にお越しいただいたり、ラジオのゲスト出演など大変お世話になっておきながら、誠に申し訳ありません。謝罪申し上げます」「【反省】この間、多くの方々のおかげで、今に至っており、これからも、多くの方々のお力やお気持ちをいただきながら前に進んでいくことに鑑みても、言動には十分に注意していく必要があるのは当然であり、今回、あらためて大いに反省しているところです。深く反省しております」💛国民民主党の度量の低さにがっかり。独自候補擁立し、政治をよくしたいという同じ志をつぶそうとは・・・ 泉さん、めげることなく、志高く「言動には十分に注意し」つつ発言続けてください。
2025.03.29

通信第95号より抜粋3月26日(水)・「安居院庄七と鷲山恭平」(以下「本書」)の私の手持ちがなくなったので、Mさんから40冊を融通して貰い、まず横浜市立図書館に2冊レターパックで寄贈する。 3月27日(木)都道府県立図書館のうち「現代語訳 安居院義道」を蔵書としていただいている図書館に「安居院庄七と鷲山恭平」の寄贈を開始する。 (九州)沖縄県、佐賀県(四国)愛媛県、香川県に寄贈。 3月28日(金)引き続き(関西)奈良県、京都府、大阪府 (関東)埼玉県(東北)宮城県、岩手県に寄贈する。・国立国会図書館に納本した「安居院庄七と鷲山恭平」が 蔵書となった。ジャンルが「児童図書」対象が「児童」と なっているのが嬉しい。本書は「子どもからお年寄りまで 楽しく読める」本として作成したものである。次の世代を 担う子どもたちに「報徳」の教えを受け継ぎ実行してきた 遠州報徳の師父たちの言葉と行いを知ってもらい、自らも報徳の教えを学び、実践してもらいたいと切に願う(^^) ・Mさんから、「遠州報徳の師父と鈴木藤三郎」を 300 冊増刷したいとのことで、印刷所に連絡する。自己負担で増刷し、世に普及させようとする志に感動する。 浜松の中村譲庵の言動を本書51ページに載せたが、その言動を彷彿させる。 「田地を買うが、波浪の害で費用がかかると、子から田地を放棄するよう迫られた、中村譲庵『私はソロバンではなく、安居院先生の『教え』によって開発する!』」本書の作成と普及もまた『安居院先生の教え』によって作成し、そしてちょうど今、神奈川・静岡そして全国に普及しようとしている。 ・静岡県で浜松市立中央図書館に次いで富士宮市立図書館の蔵書となった。
2025.03.29
「安居院庄七と鷲山恭平」を本年2月出版しました。本書は安居院庄七の生誕地・秦野市及び足柄上郡各町の教育委員会を通して、図書館・公民館図書室・全小学校・中学校に寄贈しました。安居院庄七終焉の地、静岡県では浜松市立中央図書館、富士宮市立図書館で蔵書となっています。また東京都立図書館の蔵書にもなっています。国立国会図書館に納本した「安居院庄七と鷲山恭平」が蔵書となりました。ジャンルが「児童図書」対象が「児童」となっています。「子どもからお年寄りまで読める」のプロジェクトの趣旨にかなっていて嬉しい。現在、神奈川県と静岡県の公共図書館、更に全国の都道府県立図書館等に寄贈しています。3月26日(水)鎌倉市立図書館に3月27日(木)都道府県立図書館のうち「現代語訳 安居院義道」を蔵書とする図書館への「安居院庄七と鷲山恭平」の寄贈を開始する。(九州)沖縄県、佐賀県(四国)愛媛県、香川県(関東)埼玉県(東北)宮城県、岩手県に寄贈。 神奈川県秦野の大山御師(相模国大山の先導師)の出身で、「報徳を広める」志を抱いて、遠州一円に報徳の教義を伝え、報徳社を続々と設立させた安居院庄七、その教えを受けた遠州報徳の指導者達、そして安居院先生の伝記を記した鷲山恭平氏に連なる遠州報徳の指導者たちの功績を次の世代に、そして現在、共に生きる人々に広く知らせるプロジェクトです。報徳記 巻之四【四】細川候中村玄順をして先生に領中復興の事を依頼せしむ その1報徳記&二宮翁夜話198【2】中村玄順先生に見え教えを受ける野州(栃木県)芳賀郡中里村の玄順という者は代々農民だったが、大変世渡りがうまくて言葉巧みであった。農業が嫌いで、医術を学んだり、あるいは剣術を学んで世に出ようという志を持っていた。しかし、いずれもそれほどの技量に達せず、人はこれを信じなかった。ある時、妻にこう言った。「およそ辺鄙な場所にいる者は、技能があっても名をなすに至らない。 名をあげ、幸いを得ようとするならば、その居場所を選ぶ必要がある。 だから私は江戸に出て、医術で名前をあげようと思う。 なんじは一緒に行くか。」 妻はこの言葉を信じなかったが、夫の命にやむを得ず行きましょうと言った。 玄順はそこで田畑を村民に託して、妻子とともに江戸に上り、下谷御成街道に住まって、黒川玄順と門札をかけて、医業で世渡りしていた。もとから医業は拙かったから頼む人もなく、歳月がたつに従って貧困極まるようになった。その日の食事もままならぬようになった。玄順は生活の道を百方探したが、生活を維持することもできず、妻子の衣類を質入してその日の食にあてるようになった。妻はため息をついて言った。「あなたの医術が拙く、野州の辺土でもなお業を立てるに足りませんでした。 ましてや江戸で良医博学の者が軒を並べた土地で、成功しようとする。 私はもとよりそれが不可能だと知っていました。しかし夫の命に従わない時は婦道は立ちません。そこでやむなくこの地へ参りました。はたして貧窮はどうすることもできません。このようにして歳月を送るならば、ともに飢えてしまうでしょう。私にお暇をください。女の子の一人は私が連れて故郷に帰り、人の田を耕してなんとか二人分食べることはできましょう」と怨みを含んで離別するよう願った。玄順は驚いて止めたが、妻はうんと言わず、やむなくその離別の要求に応じた。妻は女の子の一人を連れて故郷に帰った。玄順はいよいよ貧苦に陥った。玄順は以前細川候の藩医である中村というものと親しかった。そこで行って救いを求めた。中村が言った。「あなたは負債が多く、貧窮もひどい。私の微力で救うことはできない。すぐに家財を売り払って借金の返済にあてて、私のところへ来なさい。私があなたを扶助しましょう。その外に方法はありますまい。」と言う。玄順はその言葉に従って家を廃して、中村の長屋に来て食客となって、あるいは薬種を刻んだり代脈をとったりして歳月を経た。しかし中村は急病で亡くなってしまった。子はなかったため、中村の家は断絶になるところだった。細川候はこれを憐れんで、数年中村が懇意にしていた玄順であるからと、養子にさせてその家を継がせた。こうして中村の不幸は玄順の幸福となって、細川候の扶持をいただけることとなった。しかし、医業の技量が拙く、利益なく財産を費消することが多く、たちまちに借金が25両となった。これを返そうにも方法がなかった。ある人が玄順にこう告げた。「野州桜町陣屋に二宮先生がいて、廃家を興し、廃村を再復している。常に無利息の金を貸して人の艱難を救うという。今、西久保の宇津家の屋敷にいるときく。あなたはこの人にあって無利息金を借りて、負債を償うならば幸いではないか。」玄順は喜んですぐに西久保におもむいて、横山周平に会って先生に面会を求めた。横山はこれを先生に告げたが、先生は私は自分の事業で忙しく、医者に会って談論するひまなどないと許されなかった。玄順は再三来てやまなかった。横山はその貧乏なのを憐れんで先生に面会するよう一生懸命頼んだ。先生は横山のためにやむなく玄順に面会された。これが細川候の仕法の発端である。報徳記 巻之四【2】中村玄順先生に見え教へを受く野州芳賀郡(はがこほり)中里村玄順なるもの世々農民なりしが、頗る世才ありて辯佞(べんねい)なり。農事を好まず、醫(い)を學び或は撃劒(げきけん)を學び世に出でんとするの志あり。然れども其(その)業に達せずして人之を信ぜず。或時妻に云ふて曰く、凡そ邊鄙(へんぴ)に身を置く時は、藝術(げいじゅつ)ありといへども名を爲すに足らず。凡そ名を揚げ福(さいはひ)を得んとすれば、其の居所を撰(えら)ぶにあり。是(この)故に我(われ)江都(かうと)に出でて、醫術(いじゅつ)を以て名を顯(あらは)さんとす、汝共に往かんか。妻此の言(こと)を信じ難きを知ると雖も、夫命(ふめい)已むことを得ず往(ゆか)んと云ふ。玄順是に於て田圃(でんぼ)を邑民(いふみん)に託し、妻子と共に江都(かうと)に登り、下谷御成街道に卜居(ぼくきよ)して、黒川玄順と門札を掛け、醫(い)業を以て渡世とせり。元より其の術拙きが故に人之を用ゐず。歳月を經(ふ)るに隨(したが)ひ貧困既に極まり、その日の煙りを立難きに至れり。玄順活計の道百計を盡すと雖も、故なくして生財の道あらざれば、妻子の衣類を典し、其の日の食に當(あ)つるに至れり。妻歎息して玄順に謂うて曰く、良人の醫術(いじゅつ)元より拙し、野州の邊土(へんど)といへども猶業を立つるに足らず。況や大都良醫(い)博學のもの軒を並べたるの地に出でて、福(さいはひ)を求めんことを計る。妾(せふ)素(もと)より其の不可なることを知れり。然れども夫命(ふめい)に隨はざる時は婦道立たず。已む事を得ずして共に此の地に至れり。果たして貧窮如何(いかん)ともす可(べか)らず、猶此の如くにして歳月を送らば、共に飢渇に及ばん而已(のみ)。願はくば妾(せふ)に暇(いとま)を給るべし。女子二人の内一人は、妾(せふ)之を携へ故郷に歸り、人の田を耕すも尚(なほ)二人の口は養ふべしと怨みを含みて離別の書を請ふ。玄順愕然之を止(とゞ)むと雖も肯はず、已むことを得ずして其の求めに應(おう)ぜり。妻一女子を携へて故郷に歸り、玄順彌々(いよいよ)貧苦に堪へず。曾て細川候の藩醫(い)中村某(それ)なるものと懇意なり。故に往きて愛憐を請ふ。中村曰く、子負債多くして貧窮甚だし、微力の救ふべきにあらず。速かに家財を借財に當(あ)て、門戸を廢し、我が方に來るべし。我(われ)子(し)を扶助せん而已(のみ)、他の術なしと云ふ。玄順其の言に隨ひ家を廢し、中村の長屋に至り、食客となり、或は藥種を刻み、代脉(だいみやく)をなし歳を經(へ)たり。然るに中村某(ぼう)俄(にわ)かに疾(やまひ)に罹(かゝ)りて死せり。子なし。家(いへ)斷絶(だんぜつ)に及ばんとす。細川候之を憐み、數年(すうねん)中村が懇意の玄順なれば、之を養子として家を繼(つが)しむ。是に於て中村が不幸は玄順の幸(さいはひ)となり、君の扶持を食(は)む事を得たり。然れども元より其の業(げふ)拙きが故に、利を得ること少なく財を費やすこと多きが故に、忽(たちま)ち借債25両となる。之を償はんとすれども其の道を得ず。或人告げて曰く、野州櫻町陣屋に在りて、廢邑(はいいふ)再興の道を行ふ二宮先生なる人あり。常に無利息金を貸して人の艱難を救ふといへり。當時(たうじ)西久保宇津家の邸内にあり。子此の人に就いて無利息金を借り、負債を償(つぐな)はゞ大幸(たいこう)なるべしと。玄順大いに悦び直ちに西久保に至り、横山周平に逢(あ)ふて先生に見えんことを請ふ。横山之を告ぐ。先生曰く、我が業あり、何ぞ醫(い)に逢ふて談ずるの暇(いとま)あらんやと之を許さず。玄順退き再三來(き)て止まず。横山其の貧なるを憐れみ先生に請ふこと甚だ切なり。先生横山の爲に已むことを得ずして玄順に面會(めんくわい)せり。是細川候仕法の發端(ほったん)なり。
2025.03.29

国立国会図書館に納本した「安居院庄七と鷲山恭平」が蔵書となった。ジャンルが「児童図書」、対象が「児童」となっているのが嬉しい。本書は「子どもからお年寄りまで楽しく読める」本として作成したものである。次の世代を担う子どもたちに「報徳」の教えを受け継ぎ実行してきた遠州報徳の師父たちの言葉と行いを知ってもらい、自らも実践してもらいたいと切に願う(^^)静岡県では、「安居院庄七と鷲山恭平」が浜松市についで富士宮市立図書館で蔵書となった。
2025.03.28

「沢木興道 この古心の人」よりp.294-3056 丘宗潭和尚との出逢い丘老師に経行(きんひん)を問う興道は質問した 坐禅の坐より起って、静かに呼吸をあわせ、歩幅は一呼吸に半歩の割合で進む。これは『宝慶記(ほうきょうき)』に一息半趺(いっそくはんぷ)とあるだけで、どういうふうに足を運んだらいいものか、図解したものがなく、色々な流儀が現れた。 丘老師は実際に経行をやってみせた。「最初の一呼吸に、まず右足を半歩だし、次の一呼吸に左足を半歩進めて右足にそろえる。そしてこの動作を繰り返すのである」と。 丘老師は興道の大器を見抜き、伝戒会が終わってお別れの時に特に興道に一偈を与えた。「興道力生在正法寺伝戒会聴万仭老師著三物秘弁、於送行賦一律贈」 馬降松逕飲 猿坐石頭眼 半月忻同会 一朝惜別緑 好時差過易 修道著方便 大正二年五月二十七日 霞丘初艸丘宗潭老師 西有穆山禅師 日置黙仙老師○丘宗潭(曹洞宗大学 現在は駒沢大学 学長 )老師の禅戒鈔講話を拝読させていただいた。禅戒鈔は、江戸時代の万仭和尚(ばんじんおしょう)が著されたものだ。また、丘宗潭老師は、澤木興道老師の師であった。丘老師が、修行僧の小参(しょうさん、疑問を尋ねること)を受けた。僧 「一大事(仏教の肝心であり、人生で大事なこと)をお示しください」 丘 「一大事、何、貴様のか」 僧 「私の一大事です」 丘 「貴様一人くらい、どうだっていいじゃないか ワハハ」澤木興道老師は、隣の部屋で聞いていた、何と意地が悪いのかと思ったが、人生で大変なことがあると、この「貴様一人くらい、どうだっていいじゃないか」という言葉が救いになったという。 丘老師の、「自利の小を捨て、利他の大を取るが菩薩の慈悲だ。おのれのために社会を犠牲にするは悪い。おのれを犠牲にして、社会を救済するが菩薩だ」 「法華の文に皆是とある以上は、亡者も皆是の一つなれば、仏の救済にもるることなし。、、、皆是という以上は、存者は救済するが、亡者は救済せぬといふことはないことが解る。決して亡者を捨てぬから、亡者得脱うたがひなし。」という言葉が特に印象に残った。自分一人が一所懸命に行ずる坐禅が、自分自身に知覚はできないが、世界中の一切衆生、亡くなられた方、すべての生き物までも救っているところがあるのですね。(大自然生命、生命的生命全てと、つながるから) 『道元禅師の和歌』 守るとも覚えずながら小山田の いたづらならんかがし(田んぼのかかしのこと)なりけり (行住坐臥を詠ず) おろかなるわれは仏にならずとも 衆生を渡す僧の身ならん 徒に(いたづらに)過す月日は多けれど 道をもとむる時ぞ少なき 植えて見よ 花のそだたぬ里もなし 心かよふぞ身はいやしけれ 草庵(くさのいほ)に起きてもねても申すこと われより先に人を渡さん 接心(朝4時から夜9時までの坐禅が3〜7日ほど続く)に通っていたとき、コロンビア大学の学生さんが二人、熱心に同じスケジュールで坐禅していた。その時、「西洋では、禅、正法眼蔵は、宗教ではなくて哲学と受けとめられている」と話していた。日本においては、私自身もそうだが、宗教と聞いただけで嫌な気持ちになる人が多いので、哲学で良いのではないかと感じる。人生にとって大切なことを科学、哲学から批判し疑い修正しつつ、淡々と学び、精神を深め、広く、大きくしていく必要があると思う。しかし坐禅の「行」が大切だということは、忘れてはいけないと思っている。○「わしでも骨にこたえるようにつらいこともあった。そんなとき、まるで呪文のように、貴様一人ぐらい、どうでもええじゃないかという声が耳底に響いて、それが勇気の源泉になった。 実際、大変だ大変だというけれども、なあに、一つとして大したことなどありはせん。どうでもよいことに振り回されているだけだ」
2025.03.28
「報徳の歌ー二宮尊徳道歌から学ぶー」小関栄著 7 推譲の歌 (110頁)受得たる徳をおのおの譲りなば 四海のあいだ父子のしたしみ帝堯の言った「克譲」という題がついている。古代中国の堯の国の帝王は偉大な聖人で、己の欲望を抑えて(克譲)、お互いに譲り合い良い国にしたという故事に因んで詠じられたもの自分の得たものを独占しないで、お互いに他人へ譲るようにすれば、世の中は親子のように親しみで繋がって楽しい社会になる。「受得たる徳」とは自分の受けた得(徳)であって、金銭、功労、利益、地位、名誉、権力などあらゆる徳を指しています。これを他に譲る、真の推譲を勧めている歌です。*「富国捷径首巻」に「克譲社」の由来が書いてある。現代文に訳すと「私はかって意を決し相模国片岡村(神奈川県平塚市)の仕法を「社」(それまで「講」と号していた)とした。そして「克譲(こくじょう)」の二字を選んで、富田氏に相談したことがあった。富田氏は「克譲の文字はよいけれども、帝堯(ぎょう:中国古代の伝説の聖王)の大徳を称えた熟語である。それを一小仕法の呼び名とするのは、大きすぎるのではないか。」と言った。そこで尊徳先生にその旨を質問した。先生はこうおっしゃった。「克譲の名でよろしい。大相馬の仕法のようなものは、威大であり、盛大であるといっても、自分の領地を起こすだけであり、自分の領民を恵むだけである。片岡村においては小は小であるけれども、一家の財産の余剰をもって一村に及ぼし、近隣に及ぼす。克譲といってもさしつかえない。 」そこで克譲社と号し、初めて会社の形としたのである。」
2025.03.28
青山俊董老師「今、ここから始めよう」(2013年12月)207-212頁インドに立ち、釈尊の声を聞く向上へ、利他行へと大欲張りになろう 欲は悪として断ち切るべきものではなく、むしろ天地から授かった生命のエネルギー、その授かりのエネルギーにふさわしい生き方の方向づけをすることこそ、大切なことではなかろうか。『大乗荘厳経論』*に「善友に親近(しんごん)し、正法を聴聞し、如法に思惟(しゆい)す。此の三は能く大欲を起こす」ーよき友に親しみ、正しい教えを聞き、真実にそったものの考え方をする。そうすれば大欲が起きるーとあるという。 釈尊のお言葉に「世間、福を求むるの人、吾にすぎたるはなし」というのがある。 釈尊はこの世で一番の大欲張りであったのではなかろうか。世間的な何物にも満足できず、王位も妃も愛児もすべてを捨てて出家され、命懸けの御修行の末、天地宇宙の真実にめざめられた。大欲張りでなければできることではない。 小欲・知足ではなく、「道窮まりなし」と、どこまでも足るを知らず、更に一歩深く、と大欲張りになって、この道を歩みつづけ、また、少しでも少しでも人々にその光を伝えたいと願わずにいられない。*『大乗荘厳経論』(だいじょうしょうごんきょうろん、梵: Mahāyāna-sūtra-alaṃkāra, マハーヤーナ・スートラ・アランカーラ)は、瑜伽行唯識学派の開祖、弥勒の5部論のなかの1論である。原名は、「マハーヤーナ」(mahāyāna)が「大乗」、「スートラ」(sūtra)が「経」、「アランカーラ」(alaṃkāra)が「荘厳(装飾)」、総じて「大乗経の荘厳」という意味である。漢訳の『大乗荘厳経論』は13巻。無著(asaṅga、5世紀頃)造と伝えられるが、偈頌(韻文)の部分は弥勒(maitreya、4世紀後半頃)の作であり、無著が授かって世に弘め、長行(散文)の部分は、偈頌に対する註釈として、世親(vasubandhu、5世紀ごろ)が兄無着の教えをうけて著わしたものと認められる。サンスクリット原典はシルヴァン・レヴィ(Sylvain Lévi)によってネパールで発見され、1907年その校訂本を出版し、つづいて1911年フランス語訳を発表した。また長尾雅人はレヴィ出版本にもとづいてサンスクリット・チベット語訳・漢訳対照の索引を発表した。本論に対するインド人の註釈としては無性(asvabhāva、6世紀前半ごろ)の註および安慧(sthiramati、6世紀ごろ)の註があり、チベット大蔵経の中に収められている。
2025.03.28
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【イアン・ブルマの衝撃論文】米国支配の終わりは近い!韓国は中国を頼り、独・仏はロシアを頼り、そして日本は……?3/28(金) 3月5日付Project Syndicate誌に掲載されたイアン・ブルマの論説‘Who Will Lead the Democratic World?’(誰が民主主義世界をリードするのか)は、米国が抜けた穴を埋められるのはドイツ・日本だけだが、それには多くの問題がある、と分析している。要旨は以下の通り。 米国支配の終わりは近い。問題は米国に安全を依存してきた欧州と東アジアの主要同盟国がどう反応するかだ。 欧州の指導者は急遽会合を開催し勇敢に語った。カッラス欧州連合(EU)外相は、自由世界は新たな指導者を必要としており、それは我々次第だとXに投稿。英国のスターマー首相はウクライナでの公正な停戦実現のため核兵器国仏と協働すると約した。注目はドイツの次期首相と目されるメルツが、欧州は米国から独立すべきだと発言したことだ。 トランプの同盟国裏切り、ウクライナ侮辱、権威主義者受容が、欧州と東アジアの民主主義国を新たな同盟形成に導けばベストだ。新秩序形成は必須だが障害もある。 EUは軍事勢力ではなく英仏主導の有志連合は米国を代替できない。欧州諸国が北大西洋条約機構(NATO)に代わる軍事同盟を作るとしても長い年月が必要でドイツの指導力無しには成功しないだろう。 2011年にポーランドの外相はベルリンで、ドイツの力よりドイツが行動しないことを恐れる、と語った。ナチ占領で傷ついた欧州諸国国民の多くはこれに同意するが、過去に欧州の大部分と自身を崩壊させた軍事力再来に未だに神経質な多くのドイツ人は同意しないだろう。先の総選挙ではトランプとプーチンに同情的で反ウクライナ支援の極右ドイツのための選択肢(AfD)が第2位だった。 東・東南アジアでは一層問題山積だ。米国のアジア同盟国に核兵器国はない。中国支配から防衛するNATO的枠組みもない。 米国の最も裕福な同盟国日本は米国に頼り切りで、核を持つ北朝鮮専制体制の脅威に晒されている韓国も同様だ。中国の敵対行動に対処している東南アジア諸国にも米国の支援は必須だ。 そして、米国と公式な安全保障関係が無い台湾がある。トランプがプーチンとの取引でウクライナを犠牲にする用意があるなら、習近平との商売のため台湾を差し出す可能性は否定できない。 もし米国支配が終わるなら中国を止める唯一の手はアジア版NATO創設だ。韓国、台湾、インドネシア、マレーシア、フィリピンの民主主義国に加え、半民主主義国であるシンガポール、タイ、権威主義国のベトナムでさえ包含するものだ。 しかし欧州と同じ問題がある。このような多様な同盟を主導できるのは日本だけだが、アジアの多くの人々は第二次世界大戦時の酷い行為を認めない保守政党が長年支配する日本の主導を警戒し、殆どの日本人は自分を信頼していない。 米国支配体制はいずれ終わらざるを得ない。多くの裕福な国が自国の安全を一つの超大国に依存するのは元々健全で持続可能ではない。しかし終焉のタイミングと形は最悪だ。欧州とアジアの民主主義国が露中イラン北朝鮮という権威主義国同盟に対応する正にその時に、守護者が支援引揚げを脅し、防衛再構築の時間はない。 米国の同盟国がパニックし他の大国に保護を求めることもあり得る。韓国と東南アジアは中国を、英国は米国を頼るかもしれないが、独、仏はロシアを頼るだろう。取り残された日本は広島以来の核兵器アレルギーを克服するかもしれない。 欧州は何とか対応し、米国はアジアから撤退しないかもしれないが、希望的観測を持つべきではない。欧州とアジアの民主主義国が権威主義国への唯一の防波堤であり、政治的自由を守る責任は過去それを破壊した独・日が負っている。*イアン・ブルマ(Ian Buruma, 1951年12月28日 -)はオランダの著作家・ジャーナリスト。オランダ人の父とイギリス人の母の間に、オランダの首都ハーグで生まれる。ライデン大学で中国文学を学ぶ。在学中に、アムステルダム公演の寺山修司の「天井桟敷」に出会って衝撃を受け、日本に留学し、1975年~1977年に日本大学芸術学部で日本映画を学ぶ。その後、東京、香港、ロンドンなどでジャーナリストとして活躍する。2003年から2017年までバード大学のポール・W・ウィリアムズ教授(人権・ジャーナリズム)を務めた。ニューヨーク在住。2008年エラスムス賞受賞。💛米国支配が終わるなら中国を止める唯一の手はアジア版NATO創設だ。韓国、台湾、インドネシア、マレーシア、フィリピンの民主主義国に加え、半民主主義国であるシンガポール、タイ、権威主義国のベトナムでさえ包含する→石破さんの出番?
2025.03.28
紅海ツアーで潜水艦沈没、観光客6人死亡 エジプト3/27(木) エジプト東部ハルガダの紅海で27日、ロシア人の観光客を乗せた潜水艦が沈没し、少なくとも6人が死亡、9人が負傷した。地元メディアなどが報じた。負傷者のうち4人は重傷といい、死者数が増える可能性もある。地元メディアなどによると、沈没した潜水艦はロシア人45人が乗っており、約30人は救助されたという。在エジプト日本大使館によると、日本人は乗っていなかった。事故原因や詳しい状況は明らかになっていない。 ハルガダにある運航会社のウェブサイトによると、潜水艦は紅海のサンゴ礁などを観賞するツアーに使用されており、最大25メートルの深さまで潜るという。 ハルガダはエジプト有数の紅海リゾート。水質がきれいなことで知られ、ダイビングスポットとしても知られている
2025.03.28
数学のノーベル賞「アーベル賞」京大・柏原正樹特任教授(78)が会見「創造の重要さ教えていただいた」恩師や共同研究者らへ謝意京都大学数理解析研究所の柏原正樹特任教授(78)が3月27日午後、京都大学で会見柏原氏「このたび2025年アーベル賞受賞することになり大変嬉しく思っております。この受賞は、この50年を超える研究全体が高く評価されたものと感じております」柏原氏は、21歳の時に京都大学の佐藤幹夫教授に出会い、1年先輩の河合隆裕教授とともに代数解析を発展させてきた。「佐藤先生には多くの事を学びました。それがその後の私の数学研究の大きな糧になったと思っています。そのなかでも、数学において、創造、新しく物事を作るということがいかに重要か、あるいはそれがどういうことかということを教えていただいたのが最も大きかったのではないかと思っています」「多くの共同研究者に恵まれたことが私の数学研究を豊かにしてきたのだと思います」「50年の間、京都大学数理解析研究所で数学研究に専念できる環境を得たことも、この受賞につながったと思います」今後の数学の研究について「数学にも色んな段階があると思うが、僕がやっているのは抽象化した段階のもの。抽象化したものは、逆に言うと、色んな具体的なものに応用できる可能性があるということ。だからそういう可能性に目をむけていくような研究も重要なことだと思います」算数や数学が苦手な子どもたちへのメッセージ「今の数学は受験などにこだわりすぎて、聞いた話では“数学は記憶力のいる学問”だと誤解している子供たちも多いと。数学は面白い発想を自分で行っていくもの。そういうのを教育するのは簡単ではないというのはよくわかるが、数学の面白さをなんとか聞かせていくのは重要だと思います」
2025.03.28
報徳記&二宮翁夜話198「安居院庄七と鷲山恭平」を本年2月出版した。本書は安居院庄七の生誕地・秦野市及び足柄上郡各町の教育委員会を通して、図書館・公民館図書室・全小学校・中学校に寄贈した。安居院庄七終焉の地、浜松市の全図書館にも寄贈し、浜松市立中央図書館では、既に蔵書となっています。また東京都立図書館の蔵書にもなっています。現在、神奈川県と静岡県の公共図書館に寄贈を進めています。3月26日(水)鎌倉市立図書館に「現代語訳 安居院義道」1冊と「安居院庄七と鷲山恭平」を2冊寄贈。1冊児童図書室に置いて頂けるようお願いした。3月27日(木)都道府県立図書館のうち「現代語訳 安居院義道」を蔵書としていただいている図書館に「安居院庄七と鷲山恭平」の寄贈を開始する。(九州)沖縄県、佐賀県(四国)愛媛県、香川県に寄贈。 神奈川県秦野の大山御師(相模国大山の先導師)の出身で、50歳過ぎてから「報徳の教え」に目覚め、「報徳を広める」志を抱いて、遠州一円に報徳の教義を伝え、報徳社を続々と設立させた安居院庄七、その教えを受けた遠州報徳の指導者達、そして安居院先生の伝記を記した鷲山恭平氏に連なる遠州報徳の指導者たちの偉大な功績を次の世代に、そして現在、共に生きる人々に広く知らせるプロジェクトです。報徳記 巻之四【1】先生大磯駅川崎屋孫右衛門を教諭し廃家を再復す その15報徳記&二宮翁夜話198(「補注 報徳記」(佐々井典比古訳注)より)高慶曰く(著者はこう考える)およそ商売を業とする者は、常に利益を求めるに汲々(きゅうきゅう)として、善を積んで長久の計をすることなど少しも知らない。災害が重ねて襲来すれば、いたずらに天を恨み人をとがめるばかりで、到底敗亡を免れることができない。孫右衛門のごときはそれであった。先生がその困窮を救われるに当っては、既往を明らかにして将来を察し、滅亡を変じて存続とし、禍を転じて福とせられた。その深謀遠慮は、ただ至仁の人のみ期待できることで、凡人の及ぶところではない。けだし先生が一戸一村の廃頽を復興せられるに際し、このような事例は前後枚挙にいとまがない。いまかりに一、二を記して、その社会を利し事物を救済されるに、細大となく、ことごとく至誠から出たことを示したのである。報徳記巻之四【1】先生大磯駅川崎屋孫右衛門を教諭し廃家を再復す(原文すべて漢文だが読み下しで記す)高慶曰く凡そ賈(こ:商い)を以て業と爲す者は常に利を求むるに汲々として復た善を積み、長久の計を爲すことを知らず。災害並び臻(いた)るに天を怨み人を咎むる而已(のみ)。安(いずく)んぞ敗亡を免るゝことを得ん。孫右衛門の如き是也(なり)。先生の其(その)窮を救ふ、既往を明(あきらか)にして將來を察し、亡を變(へん)じ存と爲す。其(その)深謀遠慮一に至仁に期す。人の企て及ぶ所に非ざるなり。蓋し先生一戸一邑の廢頽を復す。此の如き者又後枚擧に遑(いとま)あらず。姑く一二を記す。亦以て其世を利し、物を濟ふ、細と無く大と無く至誠より出でざるは無きを見るなり。
2025.03.28

「現代語訳 安居院義道」が掛川市立図書館の蔵書となった。1 掛川中央館一般保存書庫(157.2 ワ) 所蔵があります 1103354032 掛川中央館郷土周密33右34(K 157 ア) 館内利用の資料です 1500053533 掛川中央館郷土周密33右34(K 157 ア) 館内利用の資料です 1500320844 掛川中央館郷土周密33右34(K 157 ワ) 館内利用の資料です 1502327345 掛川中央館郷土棚番24(K 157 ワ) 館内利用の資料です 1502373786 大須賀館郷土郷土静岡(K 157 ワ) 館内利用の資料です 5500279243月27日から全国の「現代語訳 安居院義道」を蔵書としていただいている県立図書館に「安居院庄七と鷲山恭平」を寄贈を始める。まずは沖縄県立図書館・佐賀県立図書館あてに寄贈する。 令和7年3月吉日 沖縄県立図書館 様 春暖の候、ご清祥にお過ごしのことと存じます。昨年(令和6年3月)出版の『現代語 安居院義道』につきましては、貴館の蔵書として頂きまして、心から感謝申し上げます。今回『安居院庄七と鷲山恭平』を出版いたしましたので、謹んで寄贈させて頂きます。『現代語 安居院義道』をより読みやすく、身近なものにするために「子どもからお年寄りまで読める」・「絵と地図で楽しめる」をコンセプトに、新たにプロジェクトを立ち上げ、本年(令和7年)2月に『安居院庄七と鷲山恭平』を発行したものです。安居院庄七(あぐい・しょうしち)は、神奈川県秦野市の出身で、大山御師の家に生れ、50歳を過ぎてから報徳の教えを学び、養子先の穀物商で元値売りを実践し、また近隣の横曽根村に報徳仕法を指導し、「報徳の教えを世に広めよう」という志を抱いて、遍歴の旅に出て、遠州において報徳社を数多く創設し、報徳の普及に生涯尽しました。鷲山恭平(わしやま・きょうへい)は、静岡県掛川市の出身の篤農家で、報徳運動や農村復興運動を推進し、嶺向(みねむかい)報徳社の初代社長を経て、大日本報徳社の副社長となった方です。安居院先生の伝記『報徳開拓者 安居院義道』の著者であり、現在でも当該書は安居院先生の生涯を知る上で必須の書となっています。「子どもからお年寄りまで読める」ように本文は全ルビとし、「活字も大き過ぎるほど大きい」ものとし、読みやすくしました。また本文中に注釈をほどこしました。「絵と地図で楽しめる」ように、静岡県森町の画家大須賀義明氏に挿絵を提供いただき、神奈川県足柄上郡松田町の文化財保護委員の草門 隆氏に矢倉沢往還などの地図を提供いただきました。さらに国土地理院に「伊能図」、国立文書館に「天保国絵図」をご提供頂き、「遠州報徳」の歴史を地図で読み解くカラフルで、ユニークな本となりました。神奈川県秦野の大山御師(おし)の生れで、50歳過ぎて二宮尊徳の「報徳の教え」に目覚め、「報徳を広める」志を抱いて、遠州一円に報徳の教義を伝え、遠州に報徳社を続々と設立させた安居院庄七、その教えを受けた遠州報徳の指導者達、そして安居院先生の伝記を記した鷲山恭平氏に連なる「報徳の指導者たち」の偉大な業績と「安居院庄七小伝」を著した井上静男先生の功績を市民の皆様に広く知って頂ければと存じます。安居院庄七から鷲山恭平に連なる「遠州報徳」活動と普及の流れを「絵と地図」で楽しく理解しやすく記した『安居院庄七と鷲山恭平』を貴図書館に寄贈いたしますので、蔵書として頂き、広く県民の皆様に読んで頂ければ有難く存じます。二宮尊徳の会・鈴木藤三郎顕彰会・報徳文化研究会
2025.03.27
「沢木興道 この古心の人」よりp.294-2976 丘宗潭和尚との出逢い丘宗潭師『三物秘弁』の提唱『正法眼蔵』を誰に学ぶかとなったら、西有穆山門下の丘宗潭老師よりほかにない。大正2年奈良県吉田郡下北山村の正法寺で制中伝戒会があり、丘宗潭師が『正法眼蔵弁道話』、『三物秘弁』の提唱があることがわかった。5月16日から8月15日までの夏安居(げあんご)90日間。 興道は雲水の旅装を調え、鳥羽から船で紀州大本で下船、翌朝木本から十里の山道を歩いて正法寺に到着し、丘宗潭師と初めて相見(しょうけん)した。○丘 宗潭(おか そうたん、1860年10月22日(万延元年9月9日) - 1921年(大正10年)8月19日)は、尾張国出身の日本の曹洞宗の僧侶。安泰寺初代住職。西有穆山、白鳥鼎三、長野普照に師事し、洞雲寺、修禅寺住職を歴任。1899年(明治32年)に曹洞宗大学林(現・駒澤大学)学監・教授となり、1905年(明治38年)に永平寺で眼蔵会の初代講師を務める。1917年(大正6年)に永平寺監院になり、翌1918年(大正7年)に曹洞宗大学学長となる。1921年(大正10年)に安泰寺を設立。弟子に丘球学、澤木興道、橋本惠光、原田祖岳がいる。*曹洞宗における「室内三物」とは、江戸元禄期の宗統復古運動以降に定められ、ある学僧の境涯が満ちたことを師匠が認めた際に、その証明として伝授(これを嗣法・伝法と呼称する)されるものであった。具体的には、「嗣書」「大事」「血脈」である。
2025.03.27
「報徳の歌ー二宮尊徳道歌から学ぶー」小関栄著 7 推譲の歌 (108頁)身をつとめ分をおのおの譲りなば 本かたまりて邦(くに)の安さよ「身をつとめ」は勤労、その勤労で仕事をしてその「分度」を自覚して生活して、それを社会のために「譲りなば」で、その余財を譲りあえば「本かたまりて」で、「邦(くに)の安さ」になる。 この歌には書経の五子の歌*の次の一句を題として添えて、民の誠意は国家の基本であると強調しています。「民はこれ邦の本なり 本かたまりて邦寧し」報徳実践の三つの教えすべてを説く教えになっています。*書経 夏書 五子之歌皇祖こうそに訓おしえ有あり、民たみは近ちかづく可べく、下くだす可べからず、民たみは惟これ邦くにの本もとなり、本もと固かたければ邦寧くにやすし。予われ天下てんかを視みるに、愚夫愚婦ぐふぐふ、一いつに能よく予われに勝まさる、一人三失いちにんさんしつある、怨うらみ豈あに明あきらかなるに在あらんや、見みえざるをこれ図はかれ、予われ兆民ちょうみんに臨のぞむに、懍乎りんことして朽索きゅうさくの六馬りくばを馭ぎょするが如ごとし、人ひとの上かみたる者もの、奈何いかんぞ敬けいせざらん。皇祖こうそには教訓きょうくんがある。民とは親しまなければならないが、見下してはいけない。民は国の根本であり、根本がしっかりしていれば、國はやすらかだ。予がわれ天下を観察してみると、愚夫愚婦ぐふぐふでも私より勝るところがある。上に立つ者が何回も過失かしつを犯おかしたら、民の怨うらみは明らかであろう。恨うらみや不満ふまんが形になる前に、手を打たなければならない。予われが兆民(民衆)に臨む時は、朽くちた索なわで六頭の馬を御ぎょす時のように注意を怠らなかった。人の上にいる者は、どうして敬畏けいいの心を持たないでいられようか。
2025.03.27
青山俊董老師「今、ここから始めよう」(2013年12月)205-212頁インドに立ち、釈尊の声を聞く欲は天地から授かった大切な生命のエネルギー水を船の中へ限りなくとりこんでゆけば、船は沈没してしまう。その水を外へ汲みだせば船は軽く走ることができるように、人間も貪瞋癡の三毒、つまり煩悩を断てば早く心安らかな涅槃に至ることができるであろう、とのお示しである。本来の涅槃の意味は、梵語でニルバーナーといい、煩悩の炎が吹き消された状態をさす。かつて江原通子(ゆきこ)先生が、この『法句経』369番のをとりあげ「船を浮かべる水も沈める水も一つ」とおっしゃった言葉が、深く心に刻まれている。一つの水を船の中に限りなくとりこんでいったら、船は沈没してしまう。同じ水を外へ汲みだしたら、船を浮かべ、推し進める水へと変貌する。*釈尊最期の説法に聞く青山 俊董ねがわくは花の下にて春死なん その如月きさらぎの望月もちづきのころ 桜の花の下で釈尊しゃくそんの入滅された2月15日ごろに自分も死にたいものだと、西行が詠じているように、2月15日(新暦は1カ月遅れの3月)は釈尊が80年のご生涯を閉じられた日である。 昨秋、3度目の仏跡巡拝を果たした。釈尊涅槃の地、クシナガラに詣で、翌早朝、ガンジス河に船を浮かべ、朝もやの彼方かなたから上る朝日を拝みつつ、釈尊がガンジス河を渡られた時に示された言葉を思いおこした。 ある時、釈尊は弟子たちとガンジス河を渡っておられた。船が朽損きゅうそんしていたのであろう。浸水しはじめた。釈尊は弟子たちと力を合わせて水を外へ汲くみ出し汲み出ししながら無事に彼の岸に渡ることができた。そこで釈尊は弟子たちに、人間の煩悩を水にたとえてお説きになった。 比丘よその船より水を汲むべし 汲まば汝なんじの船は軽く走らん。 貪むさぼりと嗔いかり(と愚痴)を断たば爾なんじは早く涅槃にいたらん(法句経) 水を船の中へ限りなく取り込んでゆけば船は沈没してしまう。その水を外へ汲み出せば船は軽く走ることができるように、人間も貪嗔痴とんじんちの三毒、つまり煩悩を断たば早く心安らかな涅槃に到いたることができるであろう、とのお示しである。釈尊の入滅を涅槃と呼びならわしているが、本来の涅槃の意味は、梵語ぼんごでニルバーナーといい、煩悩の炎が吹き消された状態を指す。 かつて江原通子ゆきこ先生が「船を浮かべる水も沈める水も一つ」と語られた言葉が、深く心に刻みこまれている。一つの水を船の中へ限りなく取り込んでいったら、船は沈没してしまう。同じ水を外へ汲み出したら、船を浮かべ、推し進める水へと変貌する。 この水のところへ人間の「欲」という文字を置き換えてみよう。欲がイコール悪ではない。欲を、小さな我欲の方向にのみ増長させてゆく。わが心にかなうことは限りなく貪り、思うようにゆかないと腹をたてたり、落ち込んだりする。釈尊はそれを断てとおおせられる。あるいは貪りや嗔や愚痴を炎にたとえて、消せとおっしゃる。 釈尊が最期にお説きになった遺言の教えは八大人覚はちだいじんがく(8つの大人として自覚すべきこと)として今日に伝えられている。その初めに少欲しょうよくと知足ちそくが説かれている。欲が小さな私の満足の方向にのみ、あるいは人類の欲望の追及の方向にのみ向けられた時、煩悩となり、それに対し少欲であれ、知足であれ、一歩進んで断ち切れとおおせられるのである。 しかし、考えてみたい。「浮かべる水も沈める水も一つ」であるように、道を求めようとする心、向上しようとする心も、少しでも人々の役に立ちたいと思う心も欲に違いない。禅門の言葉に「火について焼けず火にそむいてこごえず、よく火を利用するごとく、人、欲を修道の方に向けよ」というのがあるように、欲を求道、向上の方向へ、さらには人類ばかりではなく、地球上のすべてのものの幸せのためにと方向づけをすることができたら、これは菩薩ぼさつの誓願行として、願わしきものといえよう。欲は悪として断ち切るべきものではなく、むしろ天地から授かった生命のエネルギー。その授かりのエネルギーにふさわしい生き方の方向づけをすることこそ、大切なことではなかろうか。 『大乗荘厳だいじょうしょうごん経論』に、「善友に親近し、正法を聴聞し、如法に思惟しゆいす。此の三は能よく大欲を起こす」―よき友に親しみ、正しい教えを聞き、真実にそったものの考え方をする。そうすれば大欲が起きる―とあるという。 少欲・知足ではなく、「道窮みちきわまりなし」と、どこまでも足ることを知らず、更に一歩深く、と大欲張りになって、この道を歩みつづけ、また、少しでも少しでも人々にその光を伝えたいと願わずにはおれない。道に従っての常精進を今を純一に柔軟に歩め [下] 山火事が起きた。鳥も獣も一目散に逃げた。その中でただ一羽の小鳥がその山火事を消そうとして、必死になって自分の羽を谷川の水に浸しては火の上へいってその露を払った。くたびれもうけで何の役にも立たないと、他の鳥たちはその愚を嘲笑あざわらったが、その小鳥は一途いちずにやり続けた。「何の役にも立たないかもしれない。けれど、私にできることはこれしかないから」と言って。天の神はこの小鳥の心に感じ、大雨を降らせて火を消したという。 これは沢木興道こうどう老師の私にとっては最期の御提唱となった『正法眼蔵しょうほうがんぞう』八大人覚はちだいじんがく(大人として自覚すべき八つの教え)の中の「勤精進ごんしょうじん」についてのお話の一節である。 釈尊しゃくそん最期の御遺言である『遺教経ゆいきょうぎょう』の骨子ともいうべき八大人覚を、道元禅師も54年の生涯を閉じられる最期にとりあげられ、その一つ一つに短い言葉を添えられた。 「もろもろの善法ぜんぽうにおいて勤修無間ごんしゅむけん、故に精進という。精せいにして雑まじらず、進んで退かず」 これは八つの中の第四番目、「勤精進」に添えられた言葉であり、沢木老師の小鳥の例話は、「精にして雑らず」のよき例として語られたものである。われわれが事にあたる時、そのことが私にできるかできないかを問い、その結果がどう出るかを問う。更にそのことをすると人はどう思うかを考える。そして結局そういう第二念、第三念の妄想に邪魔されて何もできないで終わってしまう。そうではなく、一筋に今私の出来ること、せねばならないことのみを考え、まっしぐらに勤めよのお示しが、「精にして雑らず」のお心である。今ここにおいてまじり気なく純一に、これが「精」の字の示すところなのである。 次に「進んで退かず」の一句が登場する。「進んで退かず」といっても、ただ前進あるのみ、というのではない。自動車運転と同じで、実際の人生という道路を走ろうとするといつも青信号とは限らない。病気という赤信号で止まらねばならない時もある。失敗という黄信号で回り道をしたり、バックしたりせねばならないこともある。われわれは一度志をおこしても、何かの障害にぶつかって思うようにゆかないと、「もうだめだ」と絶望したり、回り道をすると回りっぱなしで元へ戻ることを忘れたりする。そうではなく、たとえば水を塞せき止めると一層力を増し、大回りするほどに豊かになりつつ、しかも前進することを忘れない、そんな生き方を「進んで退かず」の言葉から学んでおきたい。 渡辺玄宗げんしゅう禅師は最晩年に入門してきた弟子を枕辺に呼び、「九十九つづら曲がりの山坂道を、まっすぐにゆくにはどうしたらよいか」と尋ねられた。「わかりません」と答えるその若い弟子に「曲がりつつまっすぐゆくんじゃ」とさとされたという。まっすぐというと山も坂も川も海も一直線に越えてゆかねばならないかと思う。交通信号が赤であろうと黄であろうと、馬車馬のように突っ走ることが莫妄想まくもうそうの前進のように思ってしまう。そうではない。「曲がりつつまっすぐ」、何と味わい深い言葉であることか。 「精進」という言葉と対照的な言葉として「放逸ほういつ」というのがあり、友松円諦えんたい先生はこれを「おこたり」と読ませておられる。この「放逸」のパーリ語の語源は「煩悩にしたがう」の意味を持っているという。「精進」に添えられた道元禅師のお言葉の初めに「もろもろの善法において」という一言が条件として出されている。凡夫私の欲の満足のためにどんなに一生懸命働いても、それは精進とは呼ばない。金もうけのため、名誉を得んために、夜も眠らずにがんばっても、それは「放逸」でしかないというのである。善法とは天地の道理。わが思いはいかがあろうと、とりあわず、ひたすらに道にしたがって間断なく歩みつづけることを精進というのである。 ここで「間断なく」の一句を添えた。「もろもろの善法において勤修無間」の「無間」がそれで、「一服なし」というのである。われわれは無闇に焦るかと思うとたちまち一服する。心臓が一服したら死ぬ。太陽の昇らぬ日はないように天地は一服なしの常精進である。たった一度の命の今を、天地の道理にしたがって、純一に、柔軟に歩みつづけよの釈尊の、道元禅師の御遺言に心の耳を傾けたい。
2025.03.27
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