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シンガポール旅行記まだ2日目の朝。その日の行動計画に依れば、ボタニックガーデン→ナショナル・オーキッドガーデン→リトルインディア→カリアマン寺院(ヒンズー教)→ペルマル寺院(ヒンズー教)→ランチムスタファセンター→テッカセンター→チョンバルで再びタマミさんと食事→マーライオン公園でヒカリのショー地図で見ると南北に長く、そして広大なボタニックガーデンの中、南の入り口に近い位置に蘭の咲き乱れるナショナルオーキッドガーデンの入り口が有る。我らがボタニックガーデンに入ったボタニックガーデン地下鉄駅は北の外れなので、その広大なボタニックガーデンをほぼ南北に網羅することになるのだ。そもそも、公園の中の道はわざとくねくね行きつ戻りつ、ゆったりとした時間を過ごせるように作ってあるものだ。高低差のあるヘリコニアウォーク。我らが見る生姜なんて可愛らしいものではなく、2mは有ろうかと思われる、色とりどりの花を持つ何十種類ものジンジャーガーデン。生きたオオトカゲも目撃追跡する。蘭の花が咲き乱れ、蘭を追い求め写真を撮るうちに奥深く、また、知らず知らず、元来た道の近くまで戻らされるナショナルオーキッドガーデンヒーリングどころか高い木の中をぐるぐると迷路のように廻りくねり、出口を求めて焦り出すヒーリングガーデン。灼熱の中、芝生の坂を上るパームバレリー。すべてボタニックガーデンの中に有る。出口も入り口もパーキングもレストランもビジターセンターもインフォメーションもボタニックガーデンにはいっぱいあるのであった。立札にも矢印がいっぱい。あっちこっち、そっち。さながら不思議の国のアリスの世界。ここでオリエンテーリングやったら、その日のうちにフィニッシュしない者続出だろうな。ご興味ある方は下の公園地図をご覧あれ。http://www.sbg.org.sg/visitorinfo/mapofground.aspしまった!この地図を先に手に入れておくべきだった。日本と違って、常夏の気候である。途中、地下鉄や乗り物内では絶対に飲み物を飲んではいけないシンガポール。水分補給のために公園内のカフェで熱中症にならないようにジュースを飲むために一休み。そんなこんなで時間はどんどん経って行って、ナショナルオーキッドガーデンを出る頃はすでに12時。そして、今日の予定に有った2つのヒンズー寺院は正午の御休み時間になってしまったのであった。ボタニックガーデンを出る頃、日に1度来るスコールが始まった。そのおかげで、流しのタクシーはすべて「Hired」( もう乗客がいると言う意味)で捕まらない。雨を避け屋根のある近くの病院のタクシー乗り場の列に並んで順番を待った。すんでのところで雨には濡れなかった。ボタニックガーデン、南口には地下鉄が無い。しかしなお遠い北の地下鉄駅に戻れば確実に公園内で雨にぬれていたであろう。建物の近くにいれば、スコールは避けられる。しかし、スコールが来れば流しのタクシーは捕まらない。運がいいのか悪いのか、此の先毎日一度滝のようなスコールはやって来た。
November 29, 2013
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これと言って得意なものが見当たらないウサギである。が、しいて言えば地図を読むのは得意である。「地図の読めない女」なんて本もあったような気がするが、地図が読める女なのだ。シンガポールに行く3日ほど前、その1週間ほど前シンガポールに行って来たばかりのクリスティーンの家で彼女が持ち帰った地図を貰った。彼女の泊まった繁華街の中に有るシャングリラホテルだけ丸が付いているほぼ未使用の地図である。その地図、一目見てかなりの優れものであることに気が付いた。トモちゃんの行きたいところ満載のシンガポール観光計画表を遂行するに当たり、実際の移動距離から移動時間を推測するのにぴったりの地図なのだ。「リトルインディア」は青、「チャイナタウン」は茶色、「アラブ地区」はグレー、「シティホール地区」と「オーチャード地区」はピンク、「マリーナ地区は」黄色。それぞれ、その範囲を最初から色分けしてあるのである。こんな分かりやすい地図有るだろうか。あ、写真の地図はすでに私が行動推測図をマーカーで色塗りし、ランドマークを赤丸し、私が毎日持ち歩いてボロボロになった歴戦の雄姿(勇士)だ。地図が読めると書いたが、白状するとその灰色ウサギにも2つ弱点が有るのである。日が沈み暗くなった時と地下街では道を迷うのである。ウサギなのに鳥目なのである。灰色ウサギは地図は鳥瞰図のように読み取るのである。そして、地図が読めると豪語したが、この先、その鼻っ端をへし折る程の、思わぬ落とし穴に落ちることになるのであった。
November 29, 2013
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さて、タマミさんとマーライオンパーク、チャイナタウン、オーチャードと観光し、翌日の夕食を共にすることを約束して別れいったんホテルに戻り正式にチェックイン。私たちの担当のベルボーイ、タモさんは(このホテル案外ベルボーイが多い)荷物を運んでくれながら日本語で話しかけてきた。日本に来ていたことが有るそうだ。ああ、なるほどホテル予約するとき日本語も通じますって書いて有ったなあ。夕方、シャワーを浴びて着替えてから再び夜の街に繰り出したのだった。ハーバーフロントの駅でトモちゃんの友達、ピーラポンさんと食事をするのである。ピーラポンさんはシンガポールの日本企業で働いている日本語ペラペラのタイ人だ。昼間食事したオーチャードのフードコートとは段違いのレストランで、私とトモちゃんは、ピーラポンさんが、タイにいる遠距離恋愛のアナウンサーの彼女をどうやって結婚するまでに漕ぎ着けるかをとうとうと語るのを聞きながら、真っ赤なシンガポールの名物チリクラブの蟹の足に食らい付いていたのであった。どうやったら彼女がアナウンサーの職を投げ打つか、作戦を話す彼の言葉に耳を傾けながら、「ふーん策士策に溺れるって言葉も有るし」なんて心で思いながら、相槌を打ち、ひたすらその手は蟹を掴んでいたのである。一生懸命彼女の事を日本語で語る彼に、距離の近い親しみを覚えた時間でもあった。一晩で、シンガポールの蟹にも親しみを覚えた。食事の後はセントーサ島に渡り、ゆるい噴水ショーを見た。港に泊まっているシンガポール軍の軍艦を見て、思ったのである。ああ、そうだ。シンガポール軍人のテオさんに連絡を取るのを忘れていたと。テオさんは私の最初のホームステェイ受け入れのゲストである。防衛大学でのずらっと将校が並んだパーティでの歓迎式典に出た時、彼が着ていた制服にはかなりの高いレベルの階級章が付いていた。それから15年以上経つ。facebookで時折連絡を取る彼はまだ制服姿だから、きっと今はもっともっと高い地位についているんだろうな。そんなことをシンガポールの港の風に吹かれながら思っていた。
November 27, 2013
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マーライオンを見て、チャイナタウンに移動する。横浜のそれよりも小さい。横浜のそれはレストランが多いのに対して、シンガポールのチャイナタウンは土産物が多かった。そしてその街の中にはモスクやヒンズー教の寺院等も紛れ込んでいた。上の写真はヒンズー教のスリマリアマン寺院の外観。寺院の入り口で靴を脱ぎ、その辺に皆、靴をほったらかしてはだしで入る。ブータンで一切の荷物を寺の入り口に置いて入場したのに比べれば、靴だけだから楽勝。日本の寺院のように観光が主じゃなく、生活に密着しているのでシンガポールの仏教でも、ヒンズー教でも、イスラム教でも、寺院は皆無料。観光客も作法さえ守れば入れてもらえる。そして、シンガポールで寺院を巡るうちにいろいろな宗教をまた奥深く知ることとなるのだった。差し当たり、ヒンズー教は入場出来るのは朝から昼まで。昼から夕方までは寺は閉じられ、夕方からまた入ることが出来る。見られる時間に都合よくそこに到着するのは、ハードな観光スケジュールの中では、時間との勝負になるのだった。
November 25, 2013
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シンガポールのチャンギ空港には友人のタマミさんが迎えに来てくれた。ホテルには行かずそのままタクシーで彼女のマンションに。朝も早かったので、まだ出勤前のご主人がいらした。彼女が薬を飲むからご飯を食べると言いうので、飛行機の中で朝ご飯食べてきたのにご相伴することにする。上前を撥ねるともいう。それから荷物を置かせてもらって近くのホーカー(フードコートみたいな屋台の集合体)に連れて行ってもらうことにしていると、その日勤め先に休暇願出している彼女に電話がかかってきた。「鍵を部屋に置き忘れて職場に入れない」 と言う同僚からだ。そこで急遽予定変更し、スーツケースを持って、彼女の職場経由でホテルに向うことにした。タクシーで町の中心、ブギスにあるインターコンティネンタルネンタルへ。玄関に着くとドアボーイが荷物をトランクから出してくれた。「あの、いや、このホテルに泊まるんじゃないんです。タクシーがわかりやすいのでここに停めただけで・・。」タマミさんが言い訳する。人の好いインド人ボーイさん。「良いよいいよ。今度泊まってね。駅に行くの?駅は右に曲がるんだよ」駅とは反対方向へ曲がるわたし達、いったん右に曲がり、ボーイさんがあっちを向いているすきに、こそこそとスーツケースを押しながら引き返した。無事、鍵を職場に届けて、3人で地下鉄で本来の宿泊ホテルに向かう。我らのホテルは最高級ではないけれど、地下鉄直結の街中の便利な場所にあり、2つのプールやレストランを兼ね備えてなかなかいいホテルだった。ベルボーイも何人かいて、ちゃんと荷物も運んでくれ、スタッフも優しい。チェックインで出来ない時間なので、いったんフロントに荷物を預け、先ずは3人でマリーナベイサンズの対岸のマーライオンパークへ。マーライオンと写真を撮ってからいよいよシンガポールの観光の始まり。
November 24, 2013
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日本語ボランティアをしていた友人が1年半ほど前シンガポールに住み着いた。その彼女と一緒にボランティアしていたウサギとウサギの娘程も歳の離れた友人の2人で彼女に会いがてらシンガポール観光に行って来た。私が興味あったところはアラブストリートと歴史的高級ホテルラッフルズの伝統的ハイティ。予定に入れてもらうことにした。連れの彼女、トモちゃんはタイやフィリピンバックパック経験者で行動派。事前に一回打ち合わせした時、びっしりの予定表と食べたいもの、行きたいところ、観光名所、お土産の購入場所を作成したこれまたびっしりのノートを持参してきた。寒い日本から暑い暑いチャンギ空港に降り立つと同時に、我らほぼそのノートに沿って行動したのである。彼女が調べたそのノートの元に成るインターネット上のシンガポールナビの制覇の始まりであった。予算の関係で、写真のホテルは一泊だけインターネットで予約。何しろこのプールには宿泊客だけしか入れないので泊まらなきゃ。このホテルあくまでリゾートホテルです。プール棟に行くためにバスガウンでロビーをうろうろしてもOK。
November 20, 2013
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韓国の歌に、お婆さんを背負って山に捨てに行くと言うのが有る。途中背負われたお婆さんが木の枝の花を千切っては道に捨てた。道しるべだ。だけど、それは自分の為ではなくて、お婆さんを捨てた後、息子が道に迷わないようにと言う親心。日本の姨捨伝説をベースにした歌らしい。高齢の男性歌手が歌っている歌だそうだ。長野県に姨捨と言う駅が有る。段々畑と田毎の月でも有名な姨捨伝説の場所だ。姨捨駅は誰でもホームに入れる。そこから眺め降ろす長野盆地は実に美しい。日本の姨捨伝説のお婆さんは、息子の背中に背負われて、木の枝を折って道に捨てたのである。もちろん息子の帰り道のために。この話は、我がまま殿さまのために知恵者のおばあさんが灰で縄を作るという良く知られた話に繋がっていく。仕事を持っている友達が先週、足腰の弱いお母さんを栃木の温泉に連れて行ったそうだ。お母さんはそのまま温泉で湯治。今週、そのお母さんを迎えに行く。「姨捨の汚名を着せられる前に迎えに行かなきゃ」と言って笑った。
November 12, 2013
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夫が会社から帰って来て言った。「フィリピンに義援金送っておいて。かわいそうだねえ」いつもは募金の請求を家族に促すのは私の役目なのに先に言われた。昨日、郵便局に行った折、東日本大震災の義援金送ろうと赤十字の振込用紙貰って来ては有るが、とにかくフィリピンは緊急を要する。テレビでは食べ物も救援物資も届かなくてお腹がすいていると伝えている。略奪も起こっているという。歳をとって涙もろくなっているから、テレビのニュースに、わずかにタオル一枚を羽織った子供たちの震える姿を見ても涙がぽろぽろこぼれる。まだ避難生活をしている東北の人たちを忘れたわけではない。けれど、フィリピンには急がなければならない理由が有る。あの時、我々は学んだ。義援金が一番早く被災者に届く方法を。あの時すぐに郵便局に飛んで行った私は赤十字に義援金を送った。そして分かったことは、赤十字は義援金をまとめて、皆集まってから均等に分けるということ。「いつやるの? 今でしょ!」「おもてなし」に押されて、忘れかけた今年の流行語が頭に浮かんできた。フィリピンに義援金を送るのはどこが一番いいだろうか?考える。インターネットで検索すると赤十字でも募集を開始していた。直接フィリピン赤十字に送金する方法も書かれている。NPOが一番早く被災者に届くというけれど、それを探し出すのは実はむずかしい。以前義援金を送って名前が登録されている国連UNHCR協会(国連難民高等弁務官事務所)からは今夜のうちに緊急援助の要請メールが届いた。素早い。3.11の時も世界はきっとこうしてくれたのだろう。東日本大震災の時受けた恩は返さねば。お金を送ることだけが良いとは思わないが、今はこれしか出来ないのだから。出来ることからするしかない。フィリピンに今年帰ったルーイさんにfacebookで安否を尋ねると、セブ島の彼の家族はみんな大丈夫だという。日本にいるエミルさんに家族は大丈夫かと問うたら、マニラだから大丈夫と言った。とりあえずは明日郵便局に行こう。
November 11, 2013
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出直し日展に行って来た。また先週の話である。今度は六本木に直行、日展で夫の友人の絵を見た。そう、招待券だからはるばる行くんですよ。ターナーにはしっかり入場料払うけど、日展は招待券が無いと行かないかな。昼食はそこからミッドタウンとの中間にある2回ほど行ったことが有るデンマーク料理店と決めていた。なのに、なのにお店が無くなっているいるじゃないか。残念。仕方ないので新しく出来たイタリア料理の店で食べた。それはそれでおいしかった。デザートはミッドタウンのザ・リッツ・カールトンのカフェでケーキを食べる。夫は大きさにつられてシュークリーム風のケーキを注文。「なんだ、クリーム少しで、パンみたいだよ」そうでしょ、そうでしょ。ここはリッツだよ。ケーキがその値段で買えるはずがないでしょ。こそこそこそとつぶやく。次女から電話がかかってきた。「夕ご飯一緒に食べない?」どこで?「中華街」急いで中華街いつもの菜香新館に予約を入れるも、満員であっさり断られる。この頃、なかなか予約が取れないな。リッツを出て、メゾン・カイザーのパンを買って、Sadaharu AOKIで友達へのお土産と娘へのマカロンを買う。中華街、次女との待ち合わせ場所は友人の中国茶屋さん。お茶を買って外で待っていると娘がやって来た。「菜香がとれないのよ」と言うと、次女はさっき私たちが出てきたお茶屋さんにつかつかと入って行き、知り合いの中華料理店を教えてもらって出て来た。何時しか私たちの友達は娘たちもの友達になっていた。どうやら、娘達、中華街に来た時はここに立ち寄って油売るらしい。紹介された小さなレストランで、4人円卓を囲んでオードブルから始まるオーソドックスな料理を食べた。4人?長女に会いにロンドンに行って来たばかりの長女の連れ合いも、イギリス土産と台湾出張のお土産を持って、もれなく参加したのであった。
November 10, 2013
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2年ほど前、家族でサウスイングランドのRayの街からイギリスで最も美しい村の1つだという小さなウェンチェルシーの村まで何時間かかけて歩いたことが有った。羊のいる牧場や、ウサギがわらわらと出てくる丘や、黄色い菜の花畑の中を遥遠くに見える海に近い丘の上の村まで他人様の敷地を通るフットパスを歩いたのである。ガイドブックののRayのページの横にほんの小さく、イギリスを代表する画家、ウイリアム・ターナーが好んで描いた黄色の風景はこの村の近くで書かれたと書いてあったからその風景を見たくなったのだ。菜の花畑がずっと続くその光景は、どこもかしこも黄色で、「ああ、この風景なのだなあ」とそれまで、ターナーの絵など見たことが無い私はうっとりしたのであった。そして、ロンドンに帰ってから、娘のマンションから歩いて5分ほどのテムズの畔にある美術館、テイト・ブリテンの膨大なターナーコレクションを1人で見に行った。驚いた。確かに黄色い風景の絵はたくさんあった。でもそのほとんどが海を描いた絵だったのだ。帆船が揺れ動く荒れた海の風の黄色だったり、沈む太陽の色が黄色だったり。黄色い菜の花の咲く牧場の風景なんて皆無なのである。私たちが息切れしながら登ったウィンチェスターの丘の反対側に広がる海や港の絵だったのだ。東京都美術館で、そのテイトブリテンからやって来たターナー展を見て来た。http://www.turner2013-14.jp/若くしてロイヤル・アカデミーの会員になった彼の初期の絵は緻密で繊細な絵だった。それが、「カラービギニング」と呼ばれる輪郭の無い色だけの手法の模索から発展した絵を描くようになった晩年から、ミルキーイエローの絵の具を好んで紙に塗るように成ったのだと日本の美術館で知った。ロンドンで見てから、好きになった画家の絵であるが、そうやって絵の変換を知って見るのもまた面白いものである。上野の杜を後にして、日展の招待券が有るからと、六本木の新国立美術館にかけ持ちした。おっと、その前に、ちょっと1人お茶でもと、ミッドタウンでToshi Yoroizuka のパフェを食べ、そして美術館に向かった。夕方とはいえ、あまりの静けさに、思わず、受付で「日展会場はどこですか」と聞くと、「あさってからですよ」と帰って来た。いつものドジ!3日前の水曜日の話である。
November 2, 2013
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前回の記事からずいぶん経ってしまったが、前回の記事と同じ日のことである。雨の中、熊にも会わず、然してずぶ濡れにもならず藪原宿に着いた。無情にも出て行ってしまった電車を見送り、食堂かレストランを探すもそんなものはどこにもなく、駅からすぐ畑と山間を縫う自動車道路が有るばかり。おばさんが1人待合室にいる村の公民館で雨宿りしながら、喜多さんと作戦会議を開く。スマホで次の宮ノ越駅から塩尻に戻る特急が出る木曽福島宿までの普通電車の時間と木曽福島発の特急の時間を調べる。そしていつも参考にしている地図と今回奈良井宿でもらった木曽路用の中山道地図で、今いる所から次の駅の宮ノ越駅までの距離を見積もった。地図ナンバー68の藪原から、次の地図の宮ノ越までせいぜい6キロ。1時間半あれば楽勝で行かれる。そんなこんなを話している脇で、集まりが有ると皆を待っていたお婆さん、だれも来ないのでどこかに公衆電話で電話を掛けていた。そして、集合時間を1時間間違えていたらしい。公民館を出て行った。「お婆さんだからねえ、間違えちゃたんだねえ。だいじょうぶかねえ」そういう私に夫が答えた。「あのお婆さん雨の中、なんで帰って行ったと思う?自分で軽トラック運転して帰って行ったよ」交通の便が悪い木曽路、強くなきゃ生きられない。そして、公民館を出て弥次喜多珍道中再開。そこからはほとんど車のびゅんびゅん行き交う国道の脇の歩道を歩く。歩道には柵が有るといっても、ひっきりなしに通るトラックからの風圧はすごい。傘を持つ手がしびれた。そしてついに、車道の水たまりを通過したトラックが、それまで運よく濡れなかった私のパンツにバシャンと水をかけたのである。レインコートから出ている下半分ずぶ濡れ。山間の狭い空間、国道と川と鉄道が橋やトンネルや洞門や鉄橋で何度も交差する。しかし、歩いても、トンネルを抜けても、歩いても、橋を渡っても、なかなか宮ノ越駅には着かないのであった。私より年を取っている喜多さんが遅れ始める。また電車が行ってしまったらどうしようと弥次さんは焦る。後、20分で電車が来る。宮ノ越の村に入る手前で、中山道は木曽義仲の資料館の方向に、川を渡り国道から離れる。そして、そこに表示が有った。中山道、宮ノ越駅まで1.8キロ。「まだ1.8キロも有るじゃない。絶対無理だよ」喜多さん叫ぶ。そうだ絶対無理だ。しかし、ここで諦めたら、普通電車には乗れないのである。そして、木曽福島からの特急にも間に合わないのである。そして、変更の利かない35%割引の塩尻から新宿行のあずさの切符も、パアになるのである。負の連鎖。私はほとんど競歩状態で進む。川向こうの中山道は、観光で来た時、歩いたことが有る。2度歩く必要はない。なんて、無理矢理自分を納得させて線路のすぐ脇の中山道ではない道を歩いた。いや競歩した。後、10分。夫がこの速さに付いて来られるか心配しながらほぼ走り状態に突入。街並みに入った。道路から駅に曲がる道から駅まで50mの登り坂。後5分。心臓が早鐘を打つ。何で駅はいつも高いところにあるのかとぶつぶつ言う。幸い駅員がいない。改札も自動切符売り場も無い。後は上り線に渡る線路橋の階段を登って、階段を降りるだけ。後3分。下りの階段はもう足ががくがく、心臓がバクバク。そしてホームに降り立った時は残り時間2分。自分でドアを開ける普通電車がゆっくりと入って来た。座席に座るのもはばかられる濡れ鼠で、レインコートを脱ぎ、リュックを降ろす。そして、傘と一緒に握りしめ歩きながら見たよれよれになった地図を仕舞おうと確認したら、何と68番の次が70番になっているのであった。私が印刷し忘れたのである。しばらく放心状態。そこに無い抜かしてしまった69番の地図の距離はたぶん4km。地図は無くても歩いた距離は見積もりプラス4km。「そんなことだろうと思ったよ。弥次さんの言う通りなら、僕の計算でちゃんと着くはずだからな」喜多さん、呆れ顔でずぶ濡れの靴下を脱いで、昨夜履き替えた洗濯してないけど、乾いている靴下をリュックから出してまた履いていた。
November 1, 2013
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