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江戸時代の浮世絵で、女性が行水をする絵 けっこう見かけます。その時代は、頻繁に火事が起こり 防火のため風呂を持つことが禁止されていたそうです。だから 人々は銭湯に通っていました。幕末に来日した欧米人が、日本のその女性の行水を見てまあ、びっくりしたそうですが・・・・後に女性か゛行水するのは生活の一部であって、それを目に入らないように振る舞うのが日本の作法なのだと 解釈したそうです。公の場では 肌を晒してはいけないが、行水は日常の必要性ということです。昭和40年頃まで、日本の家庭はたらいを庭に置いて行水をする光景を見かけることありました。たらいも昭和のヒット建材 トタン 製の物が出回り始めたころです。体を清潔にする、涼を取る、子供の水遊び、 けっこう多目的でした。上の図、カラスがいるのは カラスは行水が得意で、猛スピードで済ますことが出来るカラす。だから監督しているのです。
2014.07.25
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昭和24年~39年迄、日本はユニセフからの援助で学校給食には 脱脂粉乳 が出ていました。(アメリカから大量に送られてきたのです。)それは それは 不味くて、思わずダッシュしてしまうくらいだったので ダッシュ粉乳 なのでした。一応児童は カップに口を付けるのですが全部飲み切る子は、クラスに40人いれば5人くらいだった気がします。だから、給食室へ戻すミルクのバケツは まつたく軽くなりませんでした。昭和40年~ほとんどの小学校が牛乳に移り変わり児童たちは大喜びでした。その後、スキムミルクとして 乳業メーカーが製販し始め、今ではスキムミルクダイエットなど、その他料理の具材としても注目浴びているのですよね。スキムミルク大さじ3杯入れたコップ一杯と 牛乳コップ一杯の栄養内容はほとんど 格差ありませんね。勿論脱脂ですから 脂肪は0です。私はシチュウなどより濃厚なミルク感を出すのに使っています。それと お菓子作りなど 牛乳は液体だけど、スキムミルクは粉なので、使い分けできますよね。
2014.07.18
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上図は丹頂型公衆電話ボックスです。昭和29年に設置され 街を彩りました。昭和30年以前の お生まれの方には、ご記憶にあると思いますが。石原裕次郎さんと、浅丘ルリ子さんがトレンチコートの襟を立て出てきそうですよね。ボックスの窓は上部だけでしたので、「開けるとしゃがんで 女性が泣いていた。」という話は聞きましたよね。電話ボックスの中で悲しい結末になったのでしようね。ちょうど、この時代に丸太の電柱がコンクリートに変わっていったようです。戦後の復帰に馬力をかけだした日本だったのですね。このボックスも頭部が赤いので、丹頂型の名残りなのでしょうか、電話通信が勢いをさらに増した 昭和40年代から10年くらい存在していたボックスです。街かどでは列が出来る様子も観測されました。電話は用件だけで手短に!でしたね。 ダイヤル式のピンク電話です。こちらも長く使われていましたね、昭和45年ころから10年位は活躍していました。長距離かけるときは、10円を沢山用意し、リズムを保って投入しながら話したのです。ダイヤルの戻り音が、最愛の人にかける時など「ときめきのピンク電話」でした。公衆電話の数は、NTTのHPで拝見したのですが昭和60年末には90万9500台設置されていましたが携帯電話の普及で、減り続け現在は25万台ほどのようです。東日本大震災が発生した直後、電話回線が混雑し都市部では繋がりやすい公衆電話の前に行列ができその 重要性 が再認識されました。自分の居住地、行動範囲内で公衆電話の「在り処」把握しておきたいものです。
2014.07.11
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昭和30年代は、歯磨き粉(缶に入った粉タイプも沢山ありました。)を作るメーカーは主にライオンとサンスターが市場を占めていました。昭和50年頃からラミネートチューブのハミガキに変わっていきまた、作るメーカーも増えていきました。初代の林家三平師匠は当時大変活躍されていて憶えているのがこの 落ち でした。少し 間 を置いてウケルというのはほんとに面白い話なのですね。まだ、洗面化粧台など一般化されてない頃、目立たないですけど こんな雑貨ありましたよね。正式な名称ってあったのかしら?朝は流し台で顔を洗っていました。だから アルミの洗面器を使って。そして 歯ブラシは今思うとかなり大きくて、歯のすみずみまでゆき届かなかったのです。毛先が開いても使い続けていました。歯ブラシは毛先が開いたら買い換えましよう。
2014.07.04
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