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今年のNHK紅白歌合戦、第68回を迎えるそうです。テレビ放送は、第4回から始まったので、第3回までは、ラジオ放送だったのですね。昭和の人々は、大みそかには、紅白歌合戦は視聴すべきもの と義務感を背負って新年に成り代わる寸前まで、没頭したのでした。昭和44年 GS(グループサウンズ)が大ヒットを連発し、音楽業界のレコード売り上げは、GSが独占したのですが、律儀な放送局NHKは、遮断機を降ろしました。長髪だからです。外見そのものを判断したのです。すばらしい楽曲で、歌唱力もあったのですけれど。短髪のブルーコメッツだけが出場しました。上の歌手、中村晃子さんです。いい曲歌いましたよね。この方は、1968年この曲で出場しました。紅白に出場する前は、ファッションが奇抜で(ヘソ出しファッション)あったのでこの局には、出演できなかったようです。ミリタリールックで歌いました。ジャガーズや他のGSとも 親睦が深かったようです。GSが出場できない 一種の反撥として、このファッションで、歌ったのでしょうね。ハスキーボイスだった青江三奈さん伊勢佐木町ブルースには、悩ましい溜め息のフレーズがあったのです。その部分は、本人には歌わせず、コーラスで仕上げたのです。そういった演出は、NHKだからその頃、罷り通ったのです。伊勢佐木町ブルースは、出来て 来年で50年だそうですね。50年たった今、そんな演出あったら どうなりますかしら。
2017.12.23
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反則の噛み付き技で、観衆を恐怖に陥れたフレッド ブラッシー 誰が見ても、銀髪の悪魔にしか見えませんでしたね。力道山 は昭和26年にデビューし、28年に 日本プロレス を旗揚げしました。それからプロレスに火が点いたのです。剣の如くの空手チョップで、一気にヒーローになり、正義の味方として、日本プロレスに君臨したのです。テレビが生まれたのが、昭和28年 それは丁度プロレスの試合を放送する、グッドタイミングだったのですね。電気屋さんの、14インチ画面のテレビに人集りができました。「いけーっ」「やれーっ」「そこだーっ」「のろまーっ」罵声の騒音だったのです。その後、序々に各家庭も テレビを買い求め始め街の電気屋さんは、儲かりすぎてしまいましたね。プロレス中継は NTVの金曜夜8時から、ウォルトディズニーの番組と交代で放送されました。お父さんたちは、「なんだ、ディズニーか つまんねえな。」と言い女の子は、「どうして こんなことするの?」と プロレスを見て嘆きました。1960年に、テレビのカラー放送が始まり、赤い血を見た高齢者6名が、ショックで亡くなってしまうという事態も起こりました。出血するというのは、反則ではあるのでそこから日本プロレスも試合を自粛するようになったのですね。
2017.12.15
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昭和の雪降る夜、外灯の下で外套姿で、じっと佇む紳士。こんなシチュエーション、実際目撃したことあるようなまた、ドラマや夢で見たことあるような 気がしますね。紳士が着ているのは 外套 という着衣、昭和40年頃までの、男性のオーバーコートでした。重量もあり 8kgはあったようですね。だけれど仕立ては最高でした。もちろん 女性用のオーバーコートもかなり重く5キログラムはありました。その頃の人々の感覚は 重さ=暖かさ だったのです。選択肢がありませんでした。先日、ファッションセンターしまむら へ行ったらキルティングのアウターが、売り場面積を占め、陳列されていました。やはり 軽い、暖かい、コスパ良し、で ここ数年人気が高まっていますね。こたつキルト などとも呼ばれています。外套の時代は、綿を洋服に入れるという発想はなく和風の普段着には、綿入れ という動名詞の代物はあったのですけれど。余所行き活用はできませんでした。この、こたつキルトが一世を風靡し始めたのが昭和37年頃、ほとんどの親は、子供にジャンパーを買いました。軽いし雨や雪を弾くし、こたつキルトは、大ヒットしました。縫い目の形は、菱形が一番多かったように思えます。こたつキルトは、途絶えそうになりながら、アウトドアアウター、スポーツウエアとしてフル活用されてきました。昭和40年後期、羽毛ジャンパーが沢山輸入され始めました。人々が着る用途は、アウトドアとスポーツのときだけです。しかし、1980年に入り 若者がダウンジャケットやスノウシューズを身につけ、街を闊歩しはじめました。その 現象は、既成概念を見事に打ち破った事例のひとつになったのです。
2017.12.01
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