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会津磐梯山の檜原湖で、水中考古学等のチームによる湖底探索が始まったそうだ。TBS NEWS DIGが伝えた(10月15日放送)。 134年前の明治21年(1888)、磐梯山が噴火し、約500人が死亡した。このときの火砕流が河水を塞き止め檜原湖を形成、旧米澤街道の宿場町として繁栄していた桧原宿が湖底に沈んだ。 このたびの水中考古学的探索は湖底の遺構を調査することにより、火山災害に対処するためのデータを収集するなどの目的を有するようだ。 TBS「檜原湖水中考古学調査」 このブログ日記で、私は前々日、私自身の会津若松市に住んでいた中学・高校時代の幕末史にかかわるほんの些細な個人的な思い出を書いた。そしてまた、磐梯山の噴火といえば、中学1年のときに自室の勉強机の上のラジオで聴いたNHK第一放送のドラマチック朗読、井上靖原作の『磐梯』を思い出さずにはいない。私をラジオに釘付けにしたみごとな放送劇だった。そのときから65年近くなる現在まで、忘れないでいるのだから、私の感受性をいかに揺さぶったかが分かるであろう。 じつはそのちょうど1年前、昭和32年(1957)8月に、磐梯山の檜原湖に家族で行った。巨大な火山岩に寄りかかった私の写真がある。それが広大な桧原湖のどのあたりであったかは、いまでは分からない。湖底に宿場町が沈んでいることも知らなかった。昭和32年8月 磐梯山檜原湖で 私12歳 そうだ、あれは高校三年のときだ。やはり夏休みにはいったばかりで、私は札幌の両親の家に帰るために会津若松駅から列車に乗った。東京に出て、羽田から飛行機に乗るつもりだった。そして猪苗代駅でおおぜいの観光客が乗り降りし、混雑のため自由席を確保できなかった青年男女が、指定席車輌の私のボックスに移ってきた。女性は足に大きな怪我をしていた。真っ白い包帯が痛々しかった。青年は退屈をもてあまして私に話しかけてきた。・・・・女性は、檜原湖で湖底にあったガラスが足に突き刺さったのだという。そして、青年は驚くべきことを私に話し始めたのだ。彼は、人を殺め、いま刑期を終えて出所したばかりで気晴らしの旅行をしている。その旅行も女が怪我したために、檜原湖で打ち止めになった、というのだった。 彼らは檜原湖のどのあたりに遊んだのだろう・・・ ・・・ああ、この話、過去にこのブログに書いたことがあった。 きょうの一句 煙立つ愛憎のはて薄もみじ 青穹(山田維史) 愛憎の煙ひとすじ薄もみじ 煙立つ秋旻高し山家かな
Oct 31, 2022
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今朝はことのほか空気が澄んでいたのかもしれない。近くの禅寺の6時に撞かれる梵鐘の音が、すでに目覚めてはいたがまだ床のなかにいた私の耳に、いつになくはっきりと聞えてきた。普段はややくぐもった音が、近くとは云えかすかに聞えるばかりだ。 秋澄める宗印禅寺の鐘の声 青穹(山田維史) 秋澄める宗印禅寺の朝の鐘 栗を煮た。茨城産のみごとな栗だ。我家ではこの秋の初物である。私は栗御飯が好きなので、毎年、一等最初の栗は栗御飯にする習い。しかしきょうの栗はあまりにも大きく見事なので、茹でることにした。ほくほくとして、美味い! 栗煮るや土鍋に香る湯のけむり 栗煮るや茨城の友いかにせん
Oct 30, 2022
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朝から忙しく外出等してい、帰宅してめずらしく昼寝をした。 さて、私が懐かしい思いを抱きながらしばしば視聴しているYouTubeの「AIZUチャンネル」が、私も探検したことがない会津若松市の飯盛山の洞窟内の映像をアップしている。「AIZUチャンネル」主宰氏は私の中学の後輩だということだが、もちろん私より20年ほど若い。ただ私の恩師・体育の清水和彦先生に主宰氏も教えを賜ったというので、驚きもし、嬉しさも感じている。 飯盛山の洞窟というのは、戊辰戦争末期、かの少年白虎隊士中二番隊の二十人*が、1868年8月23日(新暦10月8日頃に当たる)戸の口原の戦いから敗走し、若松城(鶴ヶ城)・会津城下をめざしてくぐり飯盛山にたどりついた水路洞窟である。満々と水をたたえ、当時は腰下ほどの水位だった。 【*註】二十人のうち飯沼貞吉が喉を突いたがたまたま通りかかった農婦に救助されて唯ひとり生き残った。 私は、飯盛山の山腹が水路出口となっている現代の洞門の様子を、種々の影像および映像で見ていた。そして、実は、私が小学生の頃、昭和30年頃に実際に訪れて知っている洞窟の様子、またその数年後、高校卒業までの間に見知っていた様子とは、特に出口前面の溜め池のあたりが現代とは随分異なっていると思っていた。 60年も経てば景観の変化は当たり前かもしれないが、私が内心残念に思ったことは、歴史的遺構を後には取り返しがきかないほど表面的に「きれいに」整備してしまうことだ。その「きれい」とはどういうことかというと、時間が降り積もった錆を落としてしまうことだ。錆すなわち侘び寂びの「寂び」の美を理解できずに、すっかり削り取ってしまうこと。歴史的遺構というより、おそらくそれと気付かずに無時間性のテーマパークに加工してしまうのである。 今日、私は「AIZUチャンネル」を見て、昭和50年代にこの洞窟をコンクリート・トンネルに改造したことを知った。私が少年時代に見ていた様子とは異なると思ったのは、私の記憶違いではなかったのだ。 中学生の時、夏休み明けに、級友が洞窟前面の溜め池で水泳をして、水底で見つけたという銃弾の空薬莢を私らに披瀝した。その薬莢が官軍のものか会津軍のものかは、当時の私の知識では判らなかった。当時はまだ会津若松という名称ではなく若松という名称だったが、旧帝国陸軍若松聯隊が在ったので、薬莢は明治から大東亜戦争までの現代のものであったかもしれない。しかし私は、級友がみせびらかす飯盛山洞門池で発見した空薬莢を、どんなにうらやましく思ったことか。私も飯盛山の洞窟に空薬莢探しに行きたいと思ったものだ。 ・・・そんな私の思い出をコンクリート・トンネルは鼻であしらっているかのようだ。尤も、一部分は白虎隊士の哀切な思いを偲んで昔のままに残してあるという。つまりその部分を迂回して新しく掘削してトンネルを造ったのであろう。・・・崩落の危険があったのかもしれない。そしてまた、現代に生きる水利なのであろう。コンクリートで固めるしかなかったのかもしれない。 私の命もまもなく消える。友人が洞窟の水中から拾った薬莢の話も、おそらく私とともに消える。「AIZUチャンネル」主宰氏も知らないであろう事実である。AIZUチャンネル154年前の洞門くぐり 次いでにこんな事実も書いておこう。 戊辰戦争後の明治7年、陸軍省の命により鶴ヶ城は全の建造物は取り壊された。そして私が会津若松市を去って1年後の昭和40年(1965)、外観を復元したコンクリート造の天守閣が竣工した。それは実は正確な復元ではなかった。すなわち本来は天守閣の屋根は赤瓦であったが、再建で黒瓦葺きにしたのである。そこで2010年から本来の天守閣の姿にすべく赤瓦葺きの工事がはじまり、2011年に竣工成った。 私が、いま書いておこうと思ったことは、私が同市に住んでいた頃、すなわち昭和32年頃には、実は丁寧に探せば、壕を廻る石垣堤の土中に「赤瓦」の破片が発見できたのである。その当時は城内の遺構といえば石垣と鐘楼のみ、ほかには七日町駅の斜向いの阿弥陀寺境内に城内本丸の御三階が移築されて存在したが、中学生の私は、城跡でみつけた赤瓦の破片を手に取りながら、当時より85年前に取り壊された鶴ヶ城を想ったのであった。 さらに述べれば、当時、藩校日新館の水練水馬池の一部がE家の池として残っていた。日新館の跡地、まさにその池のほとりに住んでいた私は、その水替えのときに水底の泥のなかに寛永通宝を発見した。それは半分に割れていた。私は丁寧に泥を洗い落とし、セメダインで接着した。白虎隊の誰かが落としたかもしれないと想像をふくらませながら。・・・この古銭は、現在も私の資料箱のどれかにあるはずだ。
Oct 28, 2022
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すでに放映されてしまったようだし、また、私はこの5年間ほどTVを一切見ていないので、これから書こうとしていることは、朝日新聞10月23日(日)のTV番組ページ〈試写室〉に拠ることを断っておく。 そのコラムは、NHK制作の「新・幕末史 グローバル・ヒストリー」について紹介している。記者は野城千穂氏である。私が問題とするところを以下に引用する。 「(略)新政府と旧幕府勢力が争った戊辰戦争は、ヨーロッパの列強からも注目され、プロイセンは蝦夷(北海道)の植民地化を画策していた。欧米の機密文書などから、日本で交錯した各国の思惑を解き明かすNHKスペシャルの後編。(以下略)」 この記事が記者・野城氏の番組試写視聴による総括的判断なのか、それともNHKのプレスシートにでも書いてあることなのか、私は判断できない。したがって、一応、野城氏の書かれた如くに番組が制作されたのだとする。 そこで、私の疑念である。 じつは私は幕末史におけるこの問題を、ちょうど11年前に知り、当時、このブログ日記に書いていた。 その日記を長くなるがここに再掲してみよう。 「2011年2月5日 何?会津・庄内両藩がビスマルクと交渉? 朝日新聞夕刊に、幕末の会津藩および庄内藩に関する、驚きの記事が出ている。 渡辺延志記者によれば、「戊辰戦争での薩摩・長州を中心とした新政府軍との対決を目前に、会津・庄内両藩がプロイセン(ドイツ)との提携を模索していたことが東京大史料編纂所の箱石大・准教授らの研究で明らかになった。ドイツの文書館で確認した資料は、両藩が北海道などの領地の譲渡を提案したが、宰相ビスマルクは戦争への中立などを理由に断ったことを伝えていた。」と。 確認された文書は1868年(明治元年)の文書3点。 1は、7月31日付、駐日代理公使フォン・ブラントがビスマルクに宛てたもの。会津・庄内藩から日本海側の領地売却の相談を受けた、という内容。 2は、10月8日付、ビスマルクからフォン・ローン海相宛。他国の不信や妬みをかうことになるので却下の意向を伝え、海相の意向を尋ねている。 3は、10月18日付、海相からビスマルク宰相宛の返書。 両藩が売却を申し出た北海道の領地とは、幕府が北方警備強化のために1859年に東北有力6藩に与えたもので、会津藩は根室、紋別などを領有し、庄内藩は留萌や天塩を領有していた。両藩は対薩長で同盟関係にあった。 両藩がプロイセンに上記の件を打診した時期、新政府軍と幕府側との戦争はいよいよ東北での戦いに移るところだった。「両藩は武器入手のルートや資金の確保を目指したとみられる」と、渡辺記者は書いているが、そのとおりであろう。この交渉は不調におわったわけだが、会津藩の敗因のひとつに銃の旧式だったことが言われて来たので、もしも(歴史に「もしも」はないのだが)、プロイセンと提携が成立して新式の銃が入手できていたなら、あの戊辰の戦はちがう方向になっていたかもしれない。 ・・・それにしても、今回新発見された事実は、日本側にはまったく知られてなかったことだけに、追い詰められた会津・庄内両藩が国際関係にその打開策をもとめて行動を起していたということと合わせて、驚きである。幕末の気風は、いささか見直す必要がでてきたのではあるまいか。」 私がなぜ、野城氏が紹介したNHKの「新・幕末史 グローバル・ヒストリー」に注目したかお分かりであろう。11年前に東京大史料編纂所の箱石大・准教授らの研究で明らかになった事実と、このたびNHKが制作した番組のいわば「歴史観」とが異なっているのだ。事実に対する視点が異なるというより、事実の掘り起こしが異なる。 東京大史料編纂所の箱石大・准教授らがドイツの文書館で確認したのは、会津・庄内藩からの領地譲渡の打診に対してプロイセンのビスマルク宰相は「戦争への中立などを理由に断った」という事実である。しかるにNHKは、「プロイセンは蝦夷の植民地化を画策していた」としたようだ。 この違いは見過ごしにはできまい。 もしNHKの歴史認識が事実に反するものだとしたら、あるいは、あえて歴史を歪曲する意図があったとしたら。・・・私はその点に危惧を抱く。 世界が危うい現状であり、日本をとりまく状況も決して安閑としてはいられない。それは確かだ。われわれは求めなければならない。おのれ一個の口に糊する欲望と保身にうつつを抜かす愚かな指導者ではなく、冷静に、的確に、優れて汎国際的な政治性を備えた人間を。・・・NHKがあえて歴史を歪曲して、こうすれば大衆は食いついてくるのではないかと、視聴者に歴史と現状をオーバーラップさせる浅ましい期待の番組作りをしてはいまいか、と私は懸念するのだ。NHKには近い所に悪しき例がある。もし、私の懸念が当たっているとしたなら、どうも組織に知的退嬰が芽吹いているとさへ想える。いかがか? 朝日新聞記者・野城氏には、自社の11年前の記事を検索再読し、NHKのプレスシートと照らし合わせてみるくらいのことはしてほしかった。番組制作者の言いなりを書くだけが、新聞としての、そしてすべからくジャーナリストとして、TV番組の良い紹介だとは私は思わないのだが、いかが? It seems that it has already aired, and I haven't watched any TV for about five years, so what I'mgoing to write about is the Asahi Shimbun October23rd (Sunday) TVprogram page <Preview room> Let me say in advance that it depends on. The column introduces NHK's "New BakumatsuHistory Global History". The reporter is ChihoNoshiro. I'm quoting my problem below. "(Omitted) The Boshin War, in which the newgovernment fought against the forces of formerShogunate, attracted the attention of the greatpowers of Europe, and Prussian was plotting tocolomize Ezo (Hokkaido). The second part of theNHK special that unravels the motives of eachcountry that interwined with each other.(Omitted)" I cannot judge whether this article is a generaljudgement based on the reporter, Noshiro's pre-view of the program, or whether it is written on the NHK press sheet. Therefore, it is assumed that the program was produced as written byNoshiro. And now, my suspicions. Infact, I learned about this problem in the history of the Bakumatsu era exactly 11 yearsago, and wrote about it in this blog diary at thetime. The diary will be long, but let's repost it here. <February 5, 2011. What? Negotiations betweenthe Aizu and the Shonai clans with Bismarck? The Asahi Shimbun eveningedition has a surpris-ing article about the Aizu and Shounai clans at theend of the Edo period. According to reporter Nobuyuki Watanabe, "TheAizy and Shonai clans were looking for an alliancewith prussia (Germany) in the face of confrontationwith the new government forces centered on Satsuma and Choshu in the Boshin War. This wasreveals in a study by Hajime Hakoishi, an associateprofessor at the Historiographical Institute of theUnivwesity of Tokyo, etc. Documents confirmed byGerman archives show that the two clans proposedtransferring their territories such as Hokkaido, butChancellor Bismarck told that he had refused forreasons such as neutrality in the war. The documents that have been confirmed arethree documents from 1868 (Meiji 1). 1 was addressed to Bismarck on July 31 by vonBrandt, Acting Minister to Japan. He was consultedby the Aizu and the Shonai clans about sellingtheir territory on the Sea of Japan side. 2, dated October 8, from Bismarck to Minister ofThe Sea von Loon. Since it will cause distrust andenvy of other countries, I conveted my intention todismiss it and asked the naval minister's intentions. 3 is a reply dated October 18 from the Minister ofthe Navy to Chancellor Bismarck. The territories in Hokkaido that the ywo domainsoffered to sell were given by the shogunate to thesix influential domains in Tohoku in 1859 in orderto strengthen the securuty of the northen region.The Aizu clan owned Nemuro and Monbetsu etc.The Shonai clan owned Rumoi and Teshio. The two clans allied against the Satsuma and Choshu. By the time the two clans approached Prussia about the above matter, the war between the newgovernment forces and the shogunate was aboutto move to the Tohoku region. Watanabe writtes,"Both clans seem to have sought to secure routesto obtain weapons and funds," and this is probablytrue. These negotiations ended in failure, but it wassaid that one of the reasons for the defeat of theAizu clan was the outdated guns, so if (althoughthere is no "if" in history), an alliance with Prussianwas established . Had the new guns been available,the Boshin battle might have taken a different turn. ... At any rate, the newly discovered fact was completely unknown to the Japanese side. It's asurprise to me. The ethos of the end of the Tokugawa shogunate needs to be reconsidered.> You can understand why I paid attention to NHK's"New Bakumatsu History Global History" introducedby Noshiro. The facts revealed 11 years ago by Hajime Hakoishi, an associate professor at theHistoriographical Institute of the University of Tokyo,differ from the so-called "historical view" of theprogram produced by NHK. Rather than differingperspectives on the facts, the factual digging isdifferent. Associate Professor Hajime Hakoishi of theHistoriographical institute of the University of Tokyoand others confirmed in the German archives that,in response to a request from the Aizu and theShonai clans to transfer the territory, Chancellor Bismarck of Prussia said, "Because of neutrality in the war,etc. It is a fact that However, NHK seems tohave claimed that "Prussia was planning to colonizeEzo." This difference cannot be overlooked. What if NHK's perception of history is contrry to the facts,or if there was an intention to distort history. ... Ihave my fears on that point. The world is in a precarious situation, and thesituation surrounding Japan cannot be taken lightly. That's for sure. We must seek. Rather than a foolishleader who is overwhelmed by self-serving greedand self-preservation, we want a person who iscalm, accurate, and possesses an excellent pan-international political ability. ... I wondered if NHKwould intentionally distort history and createprograms that would make the viewers overwhelmthe history with the current situation, hoping thatthe public would eat at them. I am concerned. NHKhas a bad example nearby. If my concerns arecorrect, it seems to me that an intellectual declineis sprouting up in the organization. How do youthink? Chiho Noshiro, a reporter for the Asahi Shimbun,... I wanted you to search and re-read your compa-ny's 11-year-old article and compare it with theNHK press sheet. I don't think that writting theshow's TV producer's cues is a good introductionto a newspaper, of course as a journalist. How doyou think?Tadami Yamada
Oct 25, 2022
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午後、訪問を2件。その途中で、長らく相談にのって支援してきた方の家の門が、解体され始めているのを見た。私は事情を知らなくはない。が、言葉も無い。横目でちらと見て、通り過ぎた。こんなことを民生委員として何度経験してきたことか。誰にも言えない悲しみが私の苔むした亀の甲羅のような胸にも降り積もっている。その悲しみはセンチメンタルではない。何だろう? 怒りかなぁ。 帰宅してから、私自身の、おそらく残り短いであろう行末を考えた。考え直した。そして、一つの計画に踏み出すことにした。この際、結果は問題にしないでおこう。さっそく準備にとりかかった。
Oct 22, 2022
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きょうも午後1時30分から3時30分まで民生委員・児童委員地区月例会議。この会議の後、来月の月例会議をもって私は9年間務めた民生委員・児童委員を退任する。任期は3年が一期なので、3期務めたわけだ。 会議終了後に立ち話をしながら、私より長い年月務められ一緒に退任される方が、「やっと肩の荷がおりる」と言って微笑んだ。その顔は、本当に重荷から解放されたらしい、何とも表現できない明るい優しさだった。その方よりずっと短い年月ながら私の気持も同じだと思った。閑話休題 円安が進み1ドルが150円となった。32年前の為替相場だと云う。 それで思い出したのだが、ちょうどその32年前、私はニューヨークに1ヶ月滞在していた。アート・ホライゾン展に作品を発表し、そのレセプションに出席を兼ねてニューヨークのアート状況を見るためだった。そのとき、まさに1ドルが150円だったのだ。 ニューヨークに到着したのは夜中だったので、ホテルは一流の下くらいのところを前もって日本から予約しておいた。翌日、私は自分の足で探してより安いホテルに移った。たしか1泊70ドルか75ドルだった。当時の日本円で11,000 円前後である。しかし、W57st.のこのホテルは快適だった。セントラルパークがほぼ目の前である。結局私はその後のまるまる1ヶ月をそのホテルで過ごした。 私は毎日のように美術館・博物館、そして画廊を巡り歩いた。地下鉄やバスは使ったが、画廊を軒並みに巡るので歩く歩く。もしかしたらそれまでにそんなに歩いたことはなかったかもしれない。西57丁目から5番街の42丁目のニューヨーク市図書館までなど、ごく当たり前のように歩いた。毎日そんなに歩いているとむしろ身体の調子はすこぶる良好。尾籠な話だけど、毎朝、ウンチがたくさん出るのだ。びっくりするよ、そのすばらしい量に! 美術館巡りのほかに、書店巡りもした。ほぼ2,3日おきに立ち寄った西57丁目、すなわち滞在ホテルのすぐそばのリッツオリ書店。大きな書店だ。ニューヨーク市内にあるリッツオリの旗艦店である。何冊もの本を買った。 5番街のB.ダルトン書店もよく行った。三日にあげず訪れて1冊2冊と買うので、店員がブックセイヴァーズクラブの会員になるよう勧めた。日本に住んでいるのだと言うと、そんなことは構わない、あらゆる本が10%割引になるから是非会員になれと言った。なにしろ1ドル150円なのだから、ハードカヴァーの大型美術書や写真集を買うと70ドル80ドル、10,000円から12,000円だ。そんなに金を持っているわけではないし、10%の割引はありがたい。さっそく会員になった。 ・・・と、書いて、その会員証がたしかどこかに保存してあるはずだと思い出した。 ちょっと探してみる。 あった。ファイル・バッグのひとつに意外にすぐにみつかった。スキャンしたカードが下の画像。このカードの裏面に私の自筆サインがあり、ダルトンブッククラブの会員であると書かれている。 書店といえば、ソーホーのスプリング通りとグリーヌ通りの交わる近く・・・現在のドロウイング・センターのあたりだったかなぁ・・・そこに有名な美術書専門の書店があった。何と云ったか、店名をど忘れした。ともかくも、さして広くない店内が大型美術書がぎっしり詰まっていて、いちいち書名を見ていたら日が暮れてしまうほどだった。 私はここで大失敗をした。ファブリッジ・エッグ・全コレクションのすばらしい写真集を見つけたのだが、じつはそのとき私は私自身の作品が掲載されている大型ハードカヴァーの画集をみつけたのだ。その作品はカナダで賞をもらったもので、カナダの出版社からはソフトカヴァーの画集が10冊くらい送られてきていた。しかしその画集がアメリカの出版社からハードカヴァーで出版されていたことは全く知らなかった。たまたま立ち寄ったソーホーの書店でそのアメリカ版に出会うとは思わなかったので、私は嬉しくなって購入した。そして・・・ファブリッジ・エッグの方を買うのを忘れてしまったのだ。 私の作品が掲載されている画集を、アート・ホライゾン展の主催者に見せると、大層驚いていた。「すごい!」と言ったが、それは私に対する賛辞であると同時に、その画集がその書店が扱っていることに対する賛辞のようでもあった。それほど、当時、その美術書専門書店はソーホーでは有名と格式をもって知られていたらしかった。 このときのニューヨーク滞在から32年経ったわけだ。為替相場は昔の日本経済のバブルがはじけた直後の円安に戻ったが、現在のマンハッタンの街の景観は昔の面影をほとんど残していない。あちこちの教会こそ昔のままだし、街区も街路の筋も昔のままだが、しかし32年間の変貌はすさまじい。西57丁目のリッツオリ書店は移転し、現在はブロードウェイにある。ダルトンは5番街にあるようだが、昔のままの店構えではないだろう。
Oct 21, 2022
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午後1時30分から4時まで包括支援センター恒例会議。この会議に私が出席するのは今回が最後。スタッフから9年間の務めに対する慰労の挨拶を受けた。過ぎ去ってしまえば、私には労苦などまったくない。私は忙しい。まことに La Vie S'en Va である。人生は過ぎ行く。とどまっている暇はない。 めずらしい夢を見た。私に何事かを話している人の顳顬から頬にかけて、しとどの汗が流れていた。私は、どうしたことだろうと思いながら、汗の流れるその横顔を見ていた。 このような生理現象を夢に目撃することは、かつての夢に在っただろうか? 確かではないが、どうも無かったような気がする。夢の象徴などというフロイド的分析はあまり信じないが、我ながらめずらしい夢だと思った。
Oct 20, 2022
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書き忘れていたが、昨日、インフルエンザ・ヴァクチンの接種をした。もちろん自分のためであるけれど、高齢者や赤ちゃんに面会する事も多々あるので、早てまわしに9月中に主治医のクリニックに予約しておいた。制作の進行に支障が出ないようにという普段の心構えも、習い性になっている。 頭にうかぶ作品のイメージを、手を動かすこともなく浮かぶがままに放っておき、次々と本を読了している。きょうの午後は、ずいぶんしばらくぶりにバッハの『マタイ受難曲』を、カール・リヒター指揮、ミュンヒェン・バッハ合唱団、ミュンヒェン・バッハ交響楽団で全曲聴いていた。およそ3時間半。礒山雅氏の労作『マタイ受難曲』を再読している最中だ。
Oct 16, 2022
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小庭の柿諸相 柿の実や葉落としていま夕に映ゆ 青穹(山田維史) 酒飲みの家かとにほふ落ち熟柿 鳥も飽く豊作の柿穫らずあり しどけなく裾の乱れて熟柿落つ 掌(たなごろ)に宝珠や童子赤き柿
Oct 15, 2022
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日本の鉄道が開業して今日で150年だそうだ。1872年;明治5年9月12日、品川ー横浜間開通。ついで10月14日に新箸ー横浜間が開通した。ちなみに同年に東京ー大坂間で電信が開通した。 もうそんなになるのかと云えばよいのか、それともまだそんなものだったかと云えばよいのか。と言うのは、齢77の私のたかだか二倍の年月と思えばこその感想である。 元来観光嫌いの私は、諸処に行きもし住みもしたが、観光目的で自らの意思で行ったことは一度もない。たぶん一度もなかった。したがって、日本の鉄道は大層利用したが、それはいわゆる観光旅行ではないのである。 しかし開業150年ということで、あらためて我が77年間の鉄道列車をめぐって思い返すと、直接的間接的の経験として思い出すことは幾つもある。 最も早い時期の思い出といえば、3,4歳の頃(昭和23,4年、1948,9年)、祖母をまじえた私たち家族が北海道の羽幌駅からどこかへ行く時に進駐軍専用列車に乗ってしまったこと。緑色のカーテンが乗降デッキと客室との間にあったと、私は記憶している。じつは進駐軍専用列車に(まちがって)乗ってしまったことが、その数年後にもう一度あった。それは後述する。 同じ頃、羽幌駅にはしばしば進駐軍専用列車が到着していた。理由は分からない。いま推測すれば、羽幌炭鉱が存在したためではなかったか?・・・進駐軍列車が到着すると、私は両親に無断でひとりで駅頭に見物に行った。この列車から降りて来るアメリカ兵に、私は何度も何度も小冊子をもらった。ほんとうに小さな冊子だった。5cmX7cm・・・そのくらいだったと思う。もちろん何が書かれていたか分からないままに、居間の茶箪笥の抽出のひとつを自分のものにして、その中に蔵っていた。そのたくさんの小冊子はいつのまにか全て失われてしまったが、いまだに如何なる内容が書かれていたか、残念ながらまったく不明である。 小学校入学の頃には私はローマ字がよめるようになっていた。家族が列車で出掛けると、私は車窓に額をくっつけるようにしてプラットホームの駅名を記した標識に目をこらして、そのローマ字表記を声に出して読んだ。私がローマ字を読めるようになったのは、誰かに教えてもらったわけでない。駅名標識の仮名とその下のローマ字とを記憶し、互いに対比分類するうちにおのずとローマ字表記の「A,I,U,E,O」を覚えたのだった。 仮名の「いろは」は、3歳頃に覚えた。道端で昼飯をたべていた見知らぬ労務者たちを、両親は家に招き入れ、食事をしてもらうようにした。その人たちが、日頃の礼にと、私に木製の「いろは積木」を贈ってくれた。私はその積木で仮名が読めるようになった。 小学校に入学し、私の人生最高の先生である樋口カエ子先生にめぐりあい、先生によって自然観察の目をひらかれた。以後、私の日常は植物採集や蝶類採集にすっかり染まってしまうのだが、先に述べたような家族の汽車旅行の折り、私が車窓に自分の知らない植物を見つけると、父は急いで列車を降りてその植物を採集してきてくれた。或る時は、父がまだ採集している最中に列車が発車し、私と母は窓から頭を出して父を呼んだ。父は走り始めた列車を追い、まるで冒険映画の一場面のように乗降口の手摺につかまり、飛乗ったのだった。 同じ頃、先に触れたとおり、長野県の信濃川上駅から小海線で旅行にでたとき、・・・父の姿が記憶に無いので母と私と弟だけの旅行だったかもしれない・・・私たち家族はまちがって進駐軍列車に乗ってしまった。それはたぶん軽井沢への往復列車だったにちがいない。車内はアメリカの上級軍人、・・・将校クラスの軍人とその夫人たち。日本人はもちろん私たちだけであった。しかし私たちはゆったりと椅子席に座っていた。誰も何も言わなかった。奇異な目でも見られなかった。彼らはもの静かに会話し、にこやかに笑っていた。・・・そして私は或ることに気がついた。夫人たちのスカートから出た脚が素足だったのである。いやそうではない。私が気がついたのは、その夫人たちの素足の脛の裏側、すなわち下腿に黒っぽい「筋」が見えたのだ。 「おかあちゃん、あのひとの脚は、長靴下を描いているの?」 「素足に描いているのかもしれないわねぇ」 じつは夫人たちはシーム・ナイロン・ストッキングを穿いていたのだ。それは昭和27年頃の日本ではほとんど見かけなかった肌色半透明のナイロン・ストッキングで裏側に縫い目(シーム)があるものだった。若いときは洋装でおしゃれだったらしい母も、そのようなナイロン・ストッキングを知らなかったのである。そのような婦人ストッキングが日本国内でも入手できるようになった後年、私と母は進駐軍列車内のことを思い出して大笑いした。 私が13歳で勉強のため両親家族と遠く離れて暮らすようになると、いわゆる帰省の足は汽車だった。もう少し後に両親家族が福島県南会津から札幌に転居すると、列車・青函連絡船のみならず飛行機も使うことがあったが、それはまれなことだった。 家族がまだ南会津の八総鉱山にいるとき、私は帰省列車の中で弟の絵が車内に展示されているのを見た。国鉄仙台管区のコンテストだかで入選したらしく、作者の住まいがある路線区を走る列車内に展示されたのだった。 私が独り住まいしていたアパートは、会津若松駅と西若松駅との間の西若松寄りにあり、静かな夜などには列車の過ぎ行く音がガタンゴトンと聞えてきた。現在、山の上にある我家から日野市豊田方面が望めるのだが、朝方や、あるいは風の吹きようで中央線行く列車の音が聞えることがある。そんなときに、私は不図、会津若松のアパートでの孤独な暮しを思い出す。遠くから聞えてくる列車の音が、今昔の時空間を記憶の中で重ねるのである。 私の私家版少年詩集『窓なきモナド』の最初の一篇は「哀しい旅路」と題し、「汽車は哀しいおれをのせて 見知らぬ町を走りぬける 冬枯れのかじかむ荒野を走る 誰もいない早朝の停車場の歩廊を たったひとつのボストンバッグ胸にかかえて 敷石の一枚一枚をぶつぶつ数えながら 垢のしみついた絶望に咳き込み おれは見知らぬ町を行く ・・・」と詠んでいる。 17歳の私の詩はセンチメンタルを脱していず、いま赤面するが、さらに七篇目は『憂愁なる獣』と題し、やはり汽車に吾を託している。 「夜汽車は憂愁なる獣 汽笛は一陣の烈風の如く 遠きより来たりて眠れるものを揺すり 闇を凍らし ひとすじの 追憶を残して消えるもの 人は人を恋うるよ 餓えが孤独の一部となり 不良少年を折檻する老人の手は震え あやしき悲しみに心臓は裂れ 大地を疾駆する若き獰猛な足音に 死んだはずの情欲が甦る たぎる涙を両手にすくい 悔恨の暗闇にかかげ見れば 枯れ木のような指間より こぼれる真珠に 赤く小さき尾燈が映る ああ 夜汽車は憂愁なる獣 疾走する愛の悲劇の使者」 会津高等学校入学後、入試成績による仮のクラス分けのいわば試行期間があった。その期間が過ぎて本格的なクラス分けがされた。そして幾ばくも経たないうちに同じクラスの某君が急に退学することになった。担任教師は詳しい説明をしなかったが、かなり後日になって、事情通のSが私に教えたことは、某君一家は北朝鮮に帰ったのだ、と。 当時、両国間で在日朝鮮人家族の本国帰還の取組みがおこなわれていた。某君一家はその国家間プロジェクトに応じたのだった。この問題は、吉永小百合氏と浜田光夫氏が主演した映画『キューポラのある街』(1962年、浦山桐郎監督)に活写されている。 私が鉄道にちなんで某君の北朝鮮帰還を思い出したのは、映画『キューポラのある町』に、朝鮮帰還者の列車での別れの哀切なシーンがあり、私はそれを観て某君もかくはあった列車の旅だったかも知れぬと思うからである。(この映画の続編『未成年・続キューポラのある街』(1965年、野村孝監督)には、当時、朝鮮帰還がどのように言挙げされていたかが、吉永小百合によるプロローグのナレーションに示されている。原作は早船ちよ。) さらに間接的な経験としての列車の思い出がある。 高校3年も卒業間近にせまった或る日、アパートの私のドアを敲く者があった。出ると、中学時代の級友Hだった。しかし私は中学時代に彼と親しく話をしたことはなかった。高校も別々だったので、おのずとこの3年間、まったくの無音だった。街ですれちがったこともなかったはずだ。 Hが言った。「就職することにした。A社に行くことになったのでヤマダくんにお別れに来た」 「そう。元気でね」 私は何と言ってよいかわからず、ほとんど冷淡とも言える挨拶を返した。Hが私を訪ねて来た理由がまったくわからなかったのだ。彼の気持も推測できなかった。部屋に招き入れるそぶりもない私を見て、彼は「じゃあ」と言って帰って行った。 ずいぶん後になって、「何故?」と、そのHの突然の訪問を思い返し、私自身が中学生の頃から孤独な生活に入り他人との交渉がうまくできなくなっていたのではないか、と考えた。あるいは無意識のうちに身を守る鍵をかけてしまうのが習い性になっていたのではないか。中学時代の級友とはいえ、話をしたこともなく、この3年間信を交わしたこともなく、互いの消息を知らずにいた。それが突然訪問されて、まるで追い返すようにしてしまった。「まあ、ちょっと入れよ」と、そんな一言ぐらいを掛けてもよさそうなのに、だ。 私がこの日のHを思い出すのは、当時存在した就職列車とともにである。井沢八郎氏が歌う『ああ上野駅』とともにである。 あの日より数年後、私は会津高等学校の後輩が大学受験のために上京するというので、上野駅に出迎えたことがあった。そのときも、ちらとHを思い出した。彼もまた列車で上野駅に到着したのにちがいない。誰が彼を迎えたのだろう? 井沢氏の歌ではないが、彼のどんな人生が上野駅から始まったのだろう? 私は大学時代から東京に住まいしつづけているが、両親がまだ私と同居したいと東京にやってくる以前、私が札幌に帰省後の帰路、冬、札幌を発った列車は右車窓に日本海の凍れる怒濤を見ながら走り、私はその暗い風景に胸ふたがれる思いをした。そして連絡船に乗り換え、再び列車に乗り換え、やがて常陸に近づくころ左車窓にひろがる太平洋は早春の穏やかな日差しに、まさにのたりのたりとしていた。 我が少年詩集『窓なきモナド』第57篇「旅路」 「(略)・・・ 走り行く列車の内と外。 ぼくは旅をして いつもその不調和を思う。 窓外は、常にぼくの心だ ぼくの心のままに動いて映る。 しかし車内はぼくの 何であろう。 ぼくはシートの隅にへばりついて 車内の一切を 無視することに努める。 ぼくを乗せた列車はその長い胎内に 正にその時ぼくだけを 孕んでいるかのように。 人々は抹殺しよう そう思う時 車内は ぼくの 何であろうか。 ただ不調和なのだ 不調和なのだ。・・・(略) 」
Oct 14, 2022
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家のリノベーションは完了。明日、その報告のため工務店が来訪するという。現在、午後6時を少し過ぎたところで雨が降って来た。間が良いとはこのことだ。 旧K氏邸跡 主逝きて毀たる垣に通草(あけび)かな 青穹(山田維史) 主逝きて更地を濡らす秋の雨
Oct 12, 2022
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今日から取りかかる予定だった家の一部補修工事は、外周なので、雨のため中止。天気が回復すれば明日から取りかかると工務店から連絡有り。私も中止を考えていたので、承知した。 新作の準備をはじめた。この制作期間は長くなるだろう。
Oct 10, 2022
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過日、我家の向いの夫人が小庭の椿を指差して、「これは何ですか?」と訊いてきた。「椿の実です」と私がこたえると、「食べられる果実ではないんですね」と言い、「ヤマダさん宅は、柿やら柑子やら、果実がありますね・・・」 椿の実はたしかに薮林檎のようだ。くすんだ紅色と緑色がつややかにグラデーションで染め上げている。 夫人とのそんな立ち話からひと月ほど経って、今、椿の実は割れて黒い種子が地面にちらばっている。一つの実に三つ四つの種子が入っている。割れた果肉のほうも地に落ちる。それは三つに割れて木質のように固い。 私は種子をみつけると拾う。そのままにしておくと、やがて芽を出して、そこらじゅうに椿の若木の林になってしまうのだ。それでなくとも我家の小庭は、鳥たちが来て柿を啄んでは糞をするので、糞の中にいろいろな木の実の種子がまじっていて、植えた覚えのない木々が生えている。 いや、鳥だけではない。どうやら夜中に山から狸か狐かは分からないがやって来ているらしく、その糞がひとところに小山をつくっていることがある。先日、ベランダにそれをやられて掃除したばかりだ。糞の中に柿の種ばかりではなく、いろいろな種子がまじっていた。その植物の種類はわからなかったが、ああ、こんなものを食べているのかと思った。ベランダには庭の木を這い登ってくるらしい。 姿を見たいものだが、なにしろ深夜だ。狸を見るために狸寝入りもできない。 椿の実われて驟雨に種黒し 青穹(山田維史) 椿の実割れて
Oct 9, 2022
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ノーベル賞委員会は昨7日、2022年の平和賞を、ウクライナの人権団体「市民自由センター(CCL)」とベラルーシの人権活動家アレシ・ビャリャツキ氏、ならびにロシアの人権団体「メモリアル」に授与すると発表した。 授与理由を同委員会は次のように述べた。 「自国の市民社会を代表する存在。権力を批判する権利と、市民の基本的権利を守ることを長年推進し、戦争犯罪や人権侵害、権力の乱用を記録するために並外れた努力を積み重ねてきた。平和と民主主義にとっての市民社会の重要さを示している。」(朝日新聞および他の報道より) 私は、三者のノーベル平和賞受賞を祝福します。ノーベル平和賞ーCNN
Oct 8, 2022
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あいかわらず冷たい雨が降っている。午後3時の気温12.1℃。 雨の中を小荷物が配達された。 ああ・・・と、思い出した。 私がたしか大学3年のときだ。アルバイトにデパートの配達をした。何というデパートだったかは忘れたが、その配送センターは杉並の浜田山にあった。大勢の配達員が受け持ち区域をみな自転車で配達するのである。昭和40年、41年頃のことだ。現在では車で配送するので、自転車で家々を訪ねるなどは考えられないかもしれない。 受け持ち区域の荷物の多寡は日によって違っていたが、とにかくすべて配達してしまわなければならない。配達しおわるまで何度も往復した。効率をあげるために品物を山のように荷台に積んで配送センターを出発する。ベテラン配達員の荷物の量はびっくりするほどだった。当時の私はどちらかというと小柄で体重も軽かった。初めの頃、ベテランをみならって荷を積み上げたら、後ろが重くてひっくりかえりそうになった。あわてて荷を少なく積み直した。 さて、思い出したこととは・・・ その日は台風が近づいていた。雨が降っていた。大事な品物が濡れないように、荷台をシートでしっかり覆い、私自身も雨合羽を着込んだ。私の受け持ち地区は世田谷区の大原から松原にかけてであった。配送センターからかなりの距離がある。 雨は途中から豪雨になった。たしか松原一帯をめぐっていたときだ。一部に窪地になっているところがあり、上り下りの坂道を自転車に乗ったまま走行するのは危険な状態だった。水が脛のあたりまで上がって来ていた。知らない家の知らない所番地を確認しながら、生きた心地もせずに配達をした。 ・・・そして、或るお宅を訪ねた。玄関の扉を開けて現れた年輩の夫人が、私の姿を見て驚いた。 「ちょっとお入りなさい」と言った。「いま温かい紅茶を淹れてあげますから、そこに掛けてお待ちなさい」 夫人は奧にひっこみ、しばらくして紅茶にクキーを添えたトレーを持って来た。 ・・・その一杯の温かい紅茶に、私はずぶ濡れの凍えるような身体と「こころ」が、溶けてゆくような気がした。
Oct 7, 2022
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降りつづく雨に気温が一気に低下した。今日の最高気温は朝6時の14℃。以後、下がりつづけて現在午後3時は11℃台に入った。寒い。昨日までの半袖シャツ・スタイルから長袖シャツに変えた。この雨は10日過ぎまでつづくようだ。 初秋の長雨を、秋霖(しゅうりん)という。漢字解によれば「霖」というのは、三日以上つづく長雨のことらしい。旱魃のときに思いがけず降る恵の雨をさす「甘霖」という言葉がある。ほんとうにそうだろうなーと、天を仰ぎ顔に落ちてくる雨に心が晴れ晴れする思いが伝わってくる言葉だ。 そのような恵みの雨とは大違いなのが、世界各地の大雨による破壊的な大洪水の報道である。雨ばかりではない。スペインでは雹が降った。南アフリカのキンバリー市や西ケープではここ2日間に雪が降った。 この2、3年間の世界各地の大洪水は、まったく異常だ。 2019年、数十万人が避難したインド南西部。日本関東地方に上陸したの過去最強と言われた台風15号および台風19号による被害。 2020年、暴風雨「キアラ」および「デニス」によるイギリス全土の被害。熊本豪雨。ヴェトナムの大規模洪水。 2021年、オーストラリア東部シドニー等の洪水。インドネシアの洪水。中国・河南省の豪雨被害。ニューヨーク市内浸水非常事態宣言。熱帯性低気圧「アイダ」による米北東部の洪水および竜巻。中国・山西省洪水。カナダ豪雨。マレーシア大規模洪水。 2022年、ブラジル南東部の集中豪雨。バングラデシュ洪水。インド洪水。インド・アッサム州の大規模洪水420万人避難。オーストラリア・シドニー洪水5万人避難。米ケンタッキー州洪水。韓国・ソウルで記録的豪雨。ヨーロッパの広範囲で暴風雨。パキスタン洪水で国土の3分の1水没。韓国台風11号により大きな被害。・・・ こうした異常気象は、人為的な温暖化で発生率が上昇している、と国際気象団体は報告している。 北極の海氷がこの30年間で100万㎢相当の面積が融けているという。アイスランドの氷河も融けている。スイス・アルプスの氷河が今年7月に融けて崩落し、死亡者が出た。2002年に南極の大きな「ラーセン棚氷」が崩落し、2021年以後「スウェイツ氷河」が急速に融解している。 これらの影響で海面上昇し、モルディブ諸島、チャゴス諸島、ツバル、キリバス、マーシャル諸島、トケラ等が犠牲となっている。モルディブは国土の80%が海抜わずかに1.5m、まさに沈没の危機に瀕しているのだ。 ・・・このような世界各地の危機的現状にもかかわらず、いまだに二酸化炭素排出の影響はないと主張してやまない「バカの壁」がいる。いったい何を見ているのだか・・・。 秋霖や老いに積みゆく思いかな 青穹(山田維史)【参考文献】 「地球温暖化で沈む国」
Oct 6, 2022
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放っていた家事にようやく目を向け始めている。きょうは午後i時半から4時まで、家の外周の草取り。40リットル入りごみ袋で5袋。我ながら呆れる量。自分の無精を棚に上げて、草取りヤギさんを借りたい気持だった。まあ、とにかく全部終了した。予報によれば明日から連日の雨。今日中に終わらせておかなければ、と思ったわけである。 それにしても今日は暑かった。最高気温30℃。最後の「夏日」なのだそうだ。おいおい夏よ、君はまだうろちょろしていたのかい。秋の夕陽が、小庭の熟柿をいや増して赤く染めている。
Oct 4, 2022
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家の一部の修繕をしようと思い、見積を取った。私はなんでも自分でやる方針(性分?)で、今の家の内部の修繕も根太の腐食防止のための樹脂塗布、床板張り替え、天井を含む壁紙張り替え、浴室のタイル張り替え、その他もろもろを、およそ半年ほどかけて私自身がやった。しかし、今回はさすがに私の手にはおえない修繕なので、専門の工務店に依頼しようと思ったのだ。 見積は、工事費用がどうやら予算内にがさまることを示していた。さっそく工事を依頼し、今月10日からとりかかることになった。私の作品制作が一段落したので、工事に取りかかってもらうことにした。工期間は三日ほど。その間、騒音が出る。工務店が近所に挨拶回りをしてくれると言う。
Oct 2, 2022
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午後19時30分、浅川河川敷から打ち上げ花火の破裂音が響き始めた。どのような主旨か私は知らない。山の上の私の仕事場の河川敷真向かいにあたる窓を開けて見たが、音はすれども姿は見えずである。姿が見えない花火とはこれ如何にだ。その音も15分ほどで止んだ。 〽恨みますまい 此の世のことは 仕掛け花火に 似たいのち 燃えて散る間に 舞台が変わる・・・ (藤田まさと詞「明治一代女」) この歌の3番の歌詞を私は好きだ。ついでだ、引用しよう。 〽意地も人情も 浮世にゃ勝てぬ みんな儚い 水の泡 泣いちゃならぬと 言いつつ泣いて 月に崩れる 影ぼうし 月に崩れる 影ぼうし・・・まさに明治浮世絵だ。こういう言葉の情緒は現在の歌謡作詞家には書けないだろう。七五調なのだが、ここに表出する「絵」は決して通俗とは言えない。動きがあり、心理の綾があり、人を恋うる哀憐がある。うまいものだなー。 閑話休題 さて、昨日の日記で69年前に観た映画『怪談佐賀屋敷』をめぐる思い出を書いた。この映画を観たあとで、同じくYouTubeで片岡千恵蔵主演の大映京都作品『七つの顔』を観た。戦後の大ヒット作、私立探偵・多羅尾伴内シリーズの第1作である。制作は1946年(昭和21年)。すなわちまさに戦後の初っ端に制作公開された映画だ。 じつは私は、片岡千恵蔵主演のこのシリーズ、別名「七つの顔を持つ男」シリーズを、『怪談佐賀屋敷』と同様に八総鉱山で観ていた。しかし、作品の題名を忘れてしまった。それでYouTubeにアップされていた上記『七つの顔』を観たのだ。 ・・・観ながら、「いや、この作品ではないなー」と。全編を通して、私の記憶しているシーンはまったくない。 ウィキペディアの記述を読んでみた。判ったことは、このシリーズ、大映京都作品は1946年(昭和21)から1948年(昭和23)年までに制作された4作のみだということ。作品のストーリーの荒唐無稽に対して永田大映社長がクレームを付け、今後は「芸術作品を創る」と宣言した。これに対して大映の収益をあげるために出演していた片岡千恵蔵は激怒し、以後、大映専属俳優としての契約を結ばず、東映に移籍した。そして多羅尾伴内・七つの顔をもつ男シリーズは、東映京都で1953年(昭和28)に第1作を制作し、第2作からは現代物を専門に撮っていた東映東京で制作し、東映作品は1960年(昭和30)まで全7作品が公開された。 なるほど。・・・ということは、私が観たのは東映作品だ。そして、私は八総鉱山小学校の講堂兼体育館兼映画館で観たので、それは昭和30年以降ということだ。 父が入山したころの八総鉱山は、昨日書いたとおり、まだ探鉱の最中だった。しかし試掘はすぐに銅鉱床にぶつかった。それは福島県随一の銅鉱山となる大きな鉱床だった。山一帯は鉱業所として選鉱所や廃液用巨大沈殿池、坑内集鉱エレベーター、鉱石運搬用バッテリー電車の線路敷設などの大建設、および千五百人の従業員家族を受入れるべく7地区からなる住宅街や浴場やスーパーマーケット、医療クリニック、接待館、独身寮等々の建設が始まった。 そして、社員の子弟のための小学校も建設された。近隣の小学校には無い最新設備の小学校であった。校内は子どもたちの精神安定のための色彩設計にもとづく塗装がされていた(壁は薄いグリーングレー。桟や柱はグリーンがやや濃いグリーングレー)。当時、会社や工場等の内装における精神に対する色彩の影響に関する研究が始まっていた。八総鉱山小学校は逸早くその研究結果にもとづく色彩塗装がなされたのである。 講堂兼体育館は、隔週土曜日の夜に社員家族の更生施設として映画館になった。椅子席こそ無かったが、映写機2台および当時のフィルムは映写中に切れることがあったのでそれを繫ぐ機械等を備えた映写室、ステージ上部の天井にヴィスタヴィジョン・サイズの巻き上げ式の映写幕、そしてすべての窓をふさぐ長尺丈の暗幕が設置されていた。小学校が開校したのは昭和30年だった。私は4年生になっていた。 東映作品の片岡千恵蔵主演・多羅尾伴内シリーズ復活第1作は1953年(昭和28年8月)に『片目の魔王』、つづく第2作は1955年(昭和30年1月)『隼の魔王』、以後、1955年(昭和30年7月)『復讐の七仮面』、1956年(昭和31年1月)『戦慄戦慄の七仮面』、1958年(昭和33年1月)『十三の魔王』・・・ さて、私は昭和33年2月の終りに両親家族と離れ、中学入学のため八総鉱山を出た。したがって私が八総鉱山小学校の講堂兼体育館兼「映画館」で観た多羅尾伴内シリーズは、上記5作品のいずれかだろう。 5作品すべてを観たという確かな記憶はない。「あるときは片目の運転手、またあるときは・・・」というセリフを記憶しているが、片岡千恵蔵多羅尾伴内が「片目の運転手」に変装するのは、第4作を除くすべての作品だそうなので、私が観た作品の題名を詮索する傍証にはならない。記憶している映像はとうにぼやけている。映画多羅尾伴内シリーズはDVDで販売されているようなので、私のぼやけた映像記憶と照らしあわせれば、作品名を知ることができるかもしれない。 ・・・しかし、これ以上の詮索は止めにする。私は子どものころに片岡千恵蔵さんの人気映画・多羅尾伴内をリアル・タイムで観たという思い出だけで充分だ。その思い出は、鉱山閉山にともない存在を消した私の卒業校・八総鉱山小学校の思い出とともにある。【自註】(この日記は、昨日1日に書き、そのままアップしたところ、なぜか知らないが後半の記述が消えていた。書いた文章はほぼ一言半句欠けることなくまだ頭の中にあったので、今朝2日に書き足した。)
Oct 1, 2022
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