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2023年07月29日
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カテゴリ: 嘉吉の乱





〇京 高数 (きょうごく たかかず)は、 室町時代 中期の 武将 守護大名 室町幕府 侍所 頭人兼 山城国 守護 出雲国 隠岐国 飛騨国 守護。



略歴


京極高詮 の次男として誕生。


応永 18年( 1411 )、飛騨の 国司 姉小路尹綱 (あねがこうじ ただつな)が幕府に背いた 飛騨の乱 が起きると、幕府軍の総大将に任命され、 越前国 朝倉氏 甲斐氏 信濃国 小笠原持長 らと共に5千余りの兵を率いて鎮圧している。


応永28年( 1421 )から 正長 元年( 1428 )まで侍所頭人と山城守護も務めた。


応永20年( 1413 )に兄・ 高光 が亡くなり甥の 持高 が後を継ぐが、持高も 永享 11年( 1439 )に子を残さないまま亡くなる。


薩戎記 はこの後に高数が家督を継いだとしているが、高数を当主には含めない史料も多い。


嘉吉 元年( 1441 )6月24日、 赤松満祐 が開いた酒宴に6代 将軍 足利義教 、諸大名、 公家 らと共に招かれ、宴の最中に義教が 赤松氏 の家臣により暗殺される( 嘉吉の乱 )。 管領 である 細川持之 を始め多くの諸大名が逃げ出す中で、高数はその場に残って戦い、討たれた。


京極氏宗家の家督は持高の弟・ 持清 が継いだ。高数には子がおり、足利義教から偏諱(「教」の字)の授与を受けた長男の 教久 (のりひさ)は別家し(= 京極加州家 )、次男の 高忠 多賀氏 の家督を継いだ。



山名 熙貴 (やまな ひろたか、生年不詳 嘉吉 元年 6月24 1441 7月12 ))は、 室町時代 武将 守護大名 石見 守護。 山名氏家 の子。子に娘( 大内教弘 室)、娘( 細川勝元 室)。官位は 中務大輔


室町幕府 番衆 を務め、 永享 9年( 1437 )に石見守護に補任されたが、嘉吉元年(1441年)、6代 将軍 足利義教 と共に 赤松満祐 の屋敷に訪れた際に義教と共に殺害された( 嘉吉の乱 )。


同族の 山名宗全 山名教之 山名教清 らが満祐討伐で功績を挙げ、石見は教清が獲得した。


熙貴の2人の娘は宗全に養女として引き取られ、それぞれ大内教弘、細川勝元に嫁いだ。


また、宗全の息子 勝豊 が熙貴の養子となり 因幡 守護を継いだとされているが、熙貴は因幡守護に就いていないため、同族の因幡守護 山名熙高 と混同されている可能性がある。



細川 持春 (ほそかわ もちはる)は、 室町時代 前期から中期にかけての 武将 歌人 備中国 浅口郡 伊予国 宇摩郡 分郡 守護 細川満国 の子。 細川野州家 2代当主。


父の跡を受け、伊予宇摩郡守護となる。


しかし同郡の 国人 は持春に心服していなかったらしく、 永享 3年( 1431 )9月、6代 将軍 足利義教 に対し、宇摩郡に逃げた国人 2 名の討伐を申し出、許可を得て出陣の準備をしている(『 満済准后日記 』による)。


嘉吉の乱 に遭遇した際には、その場に踏みとどまり奮戦したものの片腕を切り落とされる重傷を負う。


よく和歌を詠み、その作品は『 新続古今和歌集 』にも収められている。


寛正 7年( 1466 )2月10日没。享年67。


子・ 政国 は、 典厩家 初代 細川持賢 の養子となり、典厩家(摂津分郡守護)を継いでいる。また 教春 の子孫には、 高国 稙国 晴国 通薫 等がいる。






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最終更新日  2023年07月29日 06時22分05秒
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