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〇季瓊 真蘂
(きけい しんずい、
応永
8年(
1401
年
) -
文明
元年
8月11
日
(
1469
年
9月16
日
))は、
室町時代
の
臨済宗
の
僧
、
相国寺
塔頭
鹿苑院
内の
蔭涼軒
主(蔭涼職)。
♧ 蔭涼軒真蘂 とも。 播磨 の 赤松氏 の支族にあたる 上月氏 の生まれだが、父母は不明。
♧ 雲頂院の 叔英宗播 に師事、 永享 7年( 1435 年 )に 将軍 と鹿苑院主( 僧録 )の連絡役である蔭涼軒主となり、将軍に近侍する側近となる。
♧ 嘉吉 元年( 1441 年 )に 赤松満祐 らが6代将軍 足利義教 を 暗殺 した 嘉吉の乱 では、満祐の居城である播磨 坂本城 に赴き義教の 首級 を受け取っている。
♧ 直後に引退するが、 長禄 2年( 1458 年 )に8代将軍 足利義政 の引き立てで復帰、 伊勢貞親 らと共に義政の政治顧問となり、 京都五山 の人事権を握り幕政に影響力を持つ。
♧ 同年、赤松氏遺臣が 長禄の変 で功績を挙げると赤松氏復帰を義政に取り立て、 赤松政則 を当主として再興させた。 寛正 6年( 1465 年 )に義政夫人の 日野富子 に子( 足利義尚 )が誕生した後は義政が次期将軍と約束していた弟の 足利義視 を排斥しようとして策謀し、 三 管領 の1つの 斯波氏 の家督問題( 武衛騒動 )にも介入し(一時的に当事者の1人、 松王丸 を 稚児 として預かっていた)、 文正 元年( 1466 年 )に対立する 細川勝元 ・ 山名宗全 らによる 文正の政変 で貞親・ 斯波義敏 ・赤松政則らと共に失脚した。
♧ 応仁 元年( 1467 年 )からの 応仁の乱 で 近江 へ逃れ、 応仁 2年( 1468 年 )に義政の命令で京都へ戻ったが、政治に復帰出来ないまま翌文明元年(1469年)に死去。 享年 69。
♧ 『 応仁記 』などでは否定的評価で書かれている一方、政則の家臣 浦上則宗 や 宗湛 らと交流があり、失脚前の文正元年2月から閏2月に休暇で彼らと 侍所 所司代 多賀高忠 を交えて 有馬温泉 に滞在したことを書き残した。
♧ また、蔭涼職の公式日記である『蔭涼軒日録』の一部を執筆。
✿ 足利 義勝 (あしかが よしかつ)は、 室町時代 中期の 室町幕府 第7代 将軍 (在任: 1442 年 – 1443年)。幼名は 千也茶丸 (せんやちゃまる)。6代将軍 足利義教 の 嫡男 で 庶子 。
✿ 生まれてすぐに 政所 執事 伊勢貞国 の屋敷で養育されたが、 嘉吉 元年( 1441 年 )に 嘉吉の乱 が起こり、父・義教が 赤松満祐 に 暗殺 されたため 室町殿 へ移された。
✿ 翌嘉吉2年( 1442 年 )11月、 管領 細川持之 らに擁されて9歳で元服、将軍職を継ぎ、第7代将軍となった。
✿ 義勝は幼年で政治能力が無いため持之が実権を掌握、彼の死後は 畠山持国 ・ 山名持豊 や生母の 日野重子 らが実権を握り、嘉吉の乱を起こした満祐の討伐、 嘉吉の徳政一揆 などを平定した。
✿ 嘉吉3年( 1443 年 )6月19日には、義教への弔意を伝えるために来日した 朝鮮通信使 と会見している(『 康富記 』)。
✿ しかし、同年7月21日に死去。 享年 10(満9歳没)。在任わずか8ヶ月であった。
✿ 死因は 落馬 、 暗殺 など諸説があるが、 赤痢 による病死が有力であるとされている。
✿ 後任の将軍には同母弟で8歳の 三寅 (のち義成、義政)が選出された(将軍就任はその6年後の 1449 年 )。
✿ 義勝、義政と幼少の将軍が2代続いたことから、 朝廷 や有力 守護大名 の幕政への関与が続き、将軍の権威が大きく揺らぎ始めることになった。
✿ 墓所は 安国寺 慶雲院にあったとされるが、焼失したため現存せず、遺骨等も所在不明となった。
✿ 木像は 等持院 に現存している。 建仁寺 の 塔頭 ・霊源院には義勝が描いたという「 達磨 図」が現存している。
✿ 図上にある 江西龍派 の賛によると、義勝10歳の時、家臣の千秋持季に描き与えたものだが、程なく義勝は夭折、持季はこの絵を見るたびに追慕の情に堪えきれず、江西に着賛を求めたという。
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