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l 倒幕・王政復古
l 文久2年(1862年)に久光を擁立して京都の政局に関わり、公家の 岩倉具視 らとともに 公武合体 路線を指向して、 一橋慶喜 の 将軍後見職 、福井藩主・ 松平慶永 の 政事総裁職 就任などを進めた。
l 同年 5 月 20 日 、御小納戸頭取に昇進となる。この昇進により、 小松清廉 、 中山中左衛門 と並んで久光側近となる。文久3年( 1863 年 ) 2 月 10 日 には、御側役(御小納戸頭取兼務)に昇進する。 慶応 元年( 1865 年 )1月下旬から5月の間に 利通 と改諱する。
l 慶応2年( 1866 年 )、第二次 長州征討 に反対し、薩摩藩の出兵拒否を行っている。
l 慶応3年( 1867 年 )、雄藩会議の開催を小松や西郷と計画し、 四侯会議 を開催させる。
l しかし四侯会議は慶喜によって頓挫させられたため、今までの公武合体路線を改めて武力倒幕路線を指向することとなる。
l 小松、西郷とともに 公議政体派 である 土佐藩 の 後藤象二郎 、 寺村道成 、 真辺正心 (栄三郎) 福 岡孝弟 、浪人の 坂本龍馬 、 中岡慎太郎 との間で 将軍 職の廃止、新政府の樹立等に関する 薩土盟約 を三本木の料亭にて結ぶも、思惑の違いから短期間で破棄。
l 武力による新政府樹立を目指す大久保・西郷・小松は8月14日に長州藩の 柏村数馬 に武力政変計画を打ち明け、それを機に9月8日に京都において薩摩藩の大久保・西郷と長州藩の 広沢真臣 ・ 品川弥二郎 、 広島藩 の 辻維岳 が会し出兵協定である 三藩盟約 を結んだ。なお、この三藩盟約書草案は大久保の自筆によって書かれたもので、現在も残っている。
l 10月14日、 正親町三条実愛 から 倒幕の密勅 の詔書を引き出した(ただしこの密勅には偽造説もある)大久保は、小松・西郷らと詔書の請書に署名し、倒幕実行の直前まで持ち込むことに成功した。
l しかし、翌日に土佐藩の建白を受けていた将軍・徳川慶喜が 大政奉還 を果たしたため、岩倉ら倒幕派公家とともに、 王政復古 の大号令を計画して実行する。王政復古の後、 参与 に任命され、 小御所会議 にて慶喜の辞官納地を主張した。
l 明治維新後
l 慶応4年( 1868 年 ) 1 月 23 日 、 太政官 にて 大阪 への 遷都 を主張する。
l 明治 2 年 7 月 22 日 ( 1869 年 8 月 29 日 )に 参議 に就任し、 版籍奉還 、 廃藩置県 などの明治政府の 中央集権 体制確立を行う。
l 明治 4 年 ( 1871 年 )には 大蔵卿 に就任し、 岩倉使節団 の副使として外遊する。外遊中に 留守政府 で問題になっていた朝鮮出兵を巡る 征韓論 論争では、西郷隆盛や 板垣退助 ら征韓派と対立し、 明治六年政変 にて西郷らを失脚させた。
l 明治6年( 1873 年 )に 内務省 を設置し、自ら初代 内務卿 (参議兼任)として実権を握ると、 学制 や 地租改正 、 徴兵令 などを実施した。そして「 富国強兵 」をスローガンとして、 殖産興業 政策を推進した。
l 明治7年( 1874 年 )2月、 佐賀の乱 が勃発すると、ただちに自ら 鎮台 兵を率いて遠征、瓦解させている。また 台湾出兵 が行われると、戦後処理のために全権弁理大臣として 9 月 14 日 に 清 に渡った。交渉の末に、 10 月 31 日 、清が台湾出兵を義挙と認め、50万両の償金を支払うことを定めた日清両国間互換条款・互換憑単に調印する。
l また出兵の経験から、明治8年( 1875 年 )5月、 太政大臣 の 三条実美 に海運政策樹立に関する意見書を提出した。
l 大久保が目標としていた国家は プロイセン ( ドイツ )であるとも、 イギリス であるともいわれる。当時、大久保への権力の集中は「 有司専制 」として批判された。また、現在に至るまでの日本の官僚機構の基礎は、内務省を設置した大久保によって築かれたともいわれている。
l 明治10年( 1877 年 )には、 西南戦争 で京都にて政府軍を指揮した。また自ら総裁となり、 上野公園 で8 月 21 日 から 11 月 30 日 まで、第1回 内国勧業博覧会 を開催している。
l その後、 侍補 からの要請に乗る形で自らが 宮内卿 に就任することで明治政府と天皇の一体化を行う構想を抱いていた。
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