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10「西郷軍の結成と出発」
フランス
の
新聞雑誌
(
英語版
)『
ル・モンド・イリュストレ
(
フランス語版
)』1877年刊行号に掲載された速報記事の挿絵。
フランスの挿絵画家の手になるもので、西洋式の
軍服
を纏って椅子に腰掛ける中央の人物が、伝え聞きに基いて描かれたのであろう西郷隆盛。取り巻きがことごとく古風な重装備の
武者
姿なのは、フランス人の想像である。
2月4日夜、小根占から帰った西郷は幹部たちを従え、旧厩跡にあった私学校本校に入った。
翌5日、私学校幹部および分校長ら200余名が集合して大評議が行われ、今後の方針が話し合われた。
別府晋介 と辺見は問罪の師を起こす(武装蜂起)べしと主張したが、 永山弥一郎 は西郷・桐野・篠原の三将が上京して政府を詰問すべしと主張した。
この永山策には 山野田一輔 ・河野主一郎が同調した。しかし、池上は暗殺を企む政府が上京途中に危難を加える虞れがあると主張して反対した。
そこで 村田三介 は三将に寡兵が随従する策を、 野村忍介 は野村自身が寡兵を率いて海路で 小浜 に出て、そこから陸路で京都に行き、行幸で京都にいる 天皇 に直接上奏する策を主張した。
こうして諸策百出して紛糾したが、座長格(西郷を除く)の篠原が「議を言うな」と一同を黙らせ、最後に桐野が「断の一字あるのみ、 … 旗鼓堂々総出兵の外に採るべき途なし」と断案し、全軍出兵論が多数の賛成を得た。永山はこの後も出兵に賛成しなかったが、桐野の説得で後日従軍を承知した。
2月6日、私学校本校に「薩摩本営」の門標が出され、従軍者名簿の登録が始まった。
この日、西郷を中心に作戦会議が開かれ、小兵衛の「海路から長崎を奪い、そこから二軍に分かれて神戸・大阪と横浜・東京の本拠を急襲」する策、野村忍介の「三道に別れ、一は海路で長崎に出てそこから東上、一は海路から 豊前 ・ 豊後 を経て四国・大阪に出てそこから東上、一は 熊本 ・ 佐賀 ・ 福岡 を経ての陸路東上」する策即ち三道分進策が出されたが、小兵衛・野村忍介の策は3隻の汽船しかなく軍艦を持たない薩軍にとっては成功を期し難く、池上の「 熊本城 に一部の抑えをおき、主力は陸路で東上」する策が採用された。
2月8日に部隊の編成が開始された。
2月9日、西郷の縁戚 川村純義 海軍中将が軍艦に乗って西郷に面会に来たが、会うことができず、県令大山綱良と 鹿児島湾 内の艦船上で会見した。
このときに大山がすでに私学校党が東上したと伝えたため、川村は西郷と談合することをきらめて帰途につき、長崎に電報を打って警戒させた。
一方、鹿児島では2月9日に鹿児島県庁に自首してきた 野村綱 から、「大久保から鹿児島県内の偵察を依頼されてきた」という内容の自供を得て、西郷暗殺計画には大久保利通も関与していたと考えられるに至った。
西郷軍では篠原が編成の責任者となり、桐野が軍需品の収集調達、 村田新八 が兵器の調達整理、永山弥一郎が新兵教練、池上が募兵をそれぞれ担当し、12日頃に一応の準備が整えられた。
募兵、新兵教練を終えた薩軍では2月13日、大隊編成がなされた(隊長の正式名称は指揮長。一般に大隊長と呼ばれた。副長役は各大隊の一番小隊長が務めた)。
いずれの代替も10日招待、核小体約200名で、計約2,000名からなっていたが、 加治木 外4郷から募兵し、後に六番・七番大隊と呼ばれた連合大隊は2大隊合計約 1,600 名で、他の大隊に比べ人員も少なく装備も劣っていた。
この外、本営附護衛隊長には淵辺がなり、狙撃隊を率いて西郷を護衛することになった。
2月14日、私学校本校横の練兵場で、騎乗した西郷による一番〜五番大隊の 閲兵式 が行われた。
別府晋介 が率いる連合大隊はこれに参加せず、先鋒として加治木より熊本へ向けて進発している。
翌15日、60年ぶりといわれる大雪の中、薩軍は鹿児島から熊本方面へ進発した(西南の役開始)。17日には西郷も桐野と共に発し、加治木・人吉を経て熊本へ向かった。これを見送りに行った桂久武は貧弱な 輜重 への心配と西郷への友義から急遽従軍し、西郷軍の大小荷駄本部長(輜重隊の総責任者)となった。
一方、鹿児島から帰京した川村中将から西郷軍の問罪出兵の報を得た政府は2月19日、鹿児島県逆徒征討の詔を発し、正式に西郷軍への出兵を決定した。
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