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15「摂関家の苦境戦後処理
」
15日、南都の忠実から忠通に書状が届き、朝廷に提出された。摂関家の事実上の総帥だった忠実の管理する所領は膨大なものであり、没収されることになれば摂関家の財政基盤は崩壊の危機に瀕するため、忠通は父の赦免を申し入れたと思われる。
しかし忠実は、当初から頼長と並んで謀反の張本人と名指しされており、 朝廷 は罪人と認識していた。
17日の諸国司宛て 綸旨 では、忠実・頼長の所領を没官すること、公卿以外(武士と悪僧)の 預所 を改易して国司の管理にすることが、18日の忠通宛て綸旨では、宇治の所領と 平等院 を忠実から没官することが命じられている。
なお綸旨には「長者摂る所の庄園においてはこの限りにあらず」(『兵範記』7月17日条)と留保条件がつけられているが、逆に言えば氏長者にならなければ荘園を没収するということであり、忠通に氏長者の受諾を迫る意味合いもあった。
19日、忠通は引き延ばしていた氏長者の宣旨を受諾し、20日には忠実から忠通に宇治殿領(本来は忠通領だったが、義絶の際に忠実が 取り上げた 京極殿領と、泰子の死後に忠実が回収した高陽院領)百余所の荘園目録が送られる。
摂関家領荘園は、忠実から忠通に譲渡する手続きを取ることで辛うじて没収を免れることができた。ただし、頼長領は没官され、後白河天皇の後院領として、後の 長講堂領 の基軸となる。
『保元物語』には忠実の断罪を主張する信西に対して忠通が激しく抵抗したという逸話があり、摂関家の弱体化を目論む信西と、権益を死守しようとする忠通の間でせめぎ合いがあった様子がうかがわれる。
罪名宣下
23日、崇徳上皇は 讃岐 に配流された。天皇もしくは上皇の配流は、 藤原仲麻呂の乱 における 淳仁天皇 の淡路配流以来、およそ400年ぶりの出来事だった。崇徳は二度と京の地を踏むことはなく、8年後の 長寛 2年( 1164 年 )にこの世を去った。 重仁親王は 寛暁 ( 堀河天皇 の 皇子 )の弟子として 出家 することを条件に不問とされた。
27日、「 太上天皇 ならびに前 左大臣 に同意し、国家を危め奉らんと欲す」として、頼長の子息( 兼長 ・ 師長 ・ 隆長 ・ 範長 )や藤原教長らの貴族、源為義・平忠正・平家弘らの武士に罪名の宣旨が下った。
忠実は高齢と忠通の奔走もあって罪名宣下を免れるが、洛北知足院に幽閉の身となった。
武士に対する処罰は厳しく、 薬子の変 を 最後に公的には行われていなかった死刑が復活し 、
v 薬子の変 (くすこのへん)は、 平安時代 初期に起こった事件。 大同 5年( 810 年 )に 平城上皇 と 嵯峨天皇 とが対立するが、嵯峨天皇側が迅速に兵を動かしたことによって、平城上皇が 出家 して決着する。
v 平城上皇の愛妾の 尚侍 ・ 藤原薬子 や、その兄である 参議 ・ 藤原仲成 らが処罰された。
v なお名称について、かつては藤原薬子らが中心となって乱を起こしたものと考えられており、「薬子の変」という名称が一般的であった。しかし、 律令制 下の 太上天皇 制度が 王権 を分掌していることに起因して事件が発生した、という評価がなされるようになり、 2003 年 頃から一部の 高等学校 用 教科書 では「 平城太上天皇の変 」という表現がなされている。
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